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【特別寄稿】松永伸司 本質論としてのゲーム・スタディーズ(後編)
2019-12-12 07:00
今朝のメルマガは、12/19放送の「ゲーム・オブ・ザ・ラウンド」登場予定の美学・ゲーム研究者の松永伸司さんによる論考の後編です。20世紀終盤のデジタル技術とビデオゲーム産業の発達を背景に、そこで人々が接した新たなメディア体験を美学的・哲学的に捉え直そうとする学として生じたゲーム・スタディーズ。その探求は、人間にとって「遊び」とは何かを問う本質論の更新へと向かっていきます。 ※本記事は、中沢新一・中川大地編『ゲーム学の新時代』(NTT出版)所収の同名論考を採録したものです。
4 ゲーム・スタディーズの誕生
コンピュータを中心としたデジタル技術は、一九七〇年代末から八〇・九〇年代を通して、身近な道具として社会に広く浸透していった。それと同期するかたちで、「ニューメディア・スタディーズ」とでも呼ぶべき領域が伸長してくる。これは、コンピュータ・デジタル技術を新しい表現媒体としてとらえ、その美学的特性その媒体によってどんな表現が可能になるのか、その固有の美的な質はどんな点にあるのかを論じるものである。デジタル技術を特徴づける性質の一つはインタラクティブ性であり、当然ながらビデオゲームはその典型例の一つとして扱われた。 ニューメディア・スタディーズの早い例は、ビデオゲーム開発者でもあったブレンダ・ローレルの『劇場としてのコンピュータ』(Laurel1991)である。そのほかゲーム・スタディーズにとって重要なニューメディア論者としては、ジャネット・マレー(Murray1997)、エスペン・オーセット(Aarseth1997)、マリー=ロール・ライアン(Ryan2001)らがいる。ニューメディア論者は、いずれも文学理論や映画研究といった既存の領域を基盤としつつ、新しい表現媒体としてのデジタル技術を論じるための独自の切り口や理論を作り出した。 ゲーム・スタディーズの成立への流れを作ったのは、こうしたニューメディア・スタディーズに連なるフィンランドやデンマークの研究者たちだった(8)。彼らは、既存のニューメディア論者がビデオゲームを含めたデジタル技術を新しい物語表現の媒体としてのみ取り扱っていることを批判した。やや長くなるが、代表的な論者であるゴンサロ・フラスカ、イェスパー・ユール、マルック・エスケリネンのテキストをそれぞれ引用しておこう。
サイバーテキストとビデオゲームを伝統的な物語や劇の新しい形式として(あるいはその拡張として)考える論者がいる。たしかに、そうしたコンピュータプログラムは、多くの要素を物語と共有している。たとえば、キャラクター、一連の行為、結末、舞台設定といった要素だ。しかし、それらとは別に、この種のコンピュータソフトウェアを研究する際にこれまでふつうほとんど無視されてきた次元がある。つまり、それをゲームとして分析するという次元である。(Frasca1999)
この章の目的は、コンピュータゲームを理論的研究の主題として、とくに物語との関係に焦点をあわせながら記述することにある。そのように美的な領域とコンピュータを結びつける論者は、これまでにもいた。〔......〕そうした先行の論者はすべて、この新しい領域が自身の理論に当てはまることを最初から決めてかかっている。エスペン・オーセットは、それを「理論の帝国主義」と呼んだ (Aarseth1997,16)。控えめに言って、わたしの立脚点はその手の研究とは異なる。というのも、わたしが文学理論を始点にするのは、コンピュータゲームが、どの点で、そしてなぜ、文学の領域と異なるのかを探るためだからである。〔......〕この理論的な章で出される事例のほとんどはアクションゲームである。これは、〔先行論者が取り上げてきた〕インタラクティブ・フィクションがアクションゲームとは真逆のものとして考えられているからである。〔そうした議論において〕無視されてきたものがいったい何なのかを探るのは興味深いことだろう。〔......〕アクションゲームは、もっとも人気のあるコンピュータゲームの種類であり、そしてわたしの考えでは、そのもっとも純粋なあり方である。(Juul1999/2001,ch.4)
アカデミックな理論の外側では、人々は物語や劇とゲームの区別を難なく行える。誰かがボールを投げてきたとして、そのボールを地面に置いてそれが物語を語り出すのを待つ、などということはふつうないのだ。 一方で、ゲームとくにコンピュータゲームが研究・理論化される場合には、それらはほとんど例外なく文学理論、演劇理論、物語論、映画研究といった分野によって植民地化される。そこでは、ゲームは、インタラクティブな物語、プロシージャルな物語、あるいは媒体を移しただけの映画として考えられている。〔......〕ともかく、以下では、わたしが「ゲーム的状況」と呼ぶものをいくらか説明したい。そのために、ゲーム的状況を劇的状況や物語的状況から区別するもっとも決定的で基本的な特質を、正確に指摘するあるいは少なくとも見つけることを試みる。〔......〕コンピュータゲームを研究するには、デジタル媒体について考えるだけでなく、ゲームについて考えることも必要である。(Eskelinen2001)
先行論者に対する態度に温度差はあるものの、ビデオゲームをどのような媒体として(あるいは何を実現するための媒体として)理解すべきかという点で、彼らの見解は一致している。従来のニューメディア論者は、物語の媒体という観点からビデオゲームを研究してきた。しかし、それは「理論の帝国主義」「植民地化」であり、不当な越境である。むしろ、ビデオゲームはゲームの媒体である。ビデオゲームはゲームとして研究されなければならない──これが彼らの主張である。そしてそれゆえ、彼らにとっては、ビデオゲームを正当な仕方で研究するための新しい分野、つまりゲーム一般を対象とする分野が必要だった。フラスカは次のように述べている。
ナラトロジーさまざまな分野の研究者が物語について行う研究を一つにまとめるために、「物語論(ナラトロジー)」という用語が考案されなければならなかった。ゲームと遊びについての研究もこれと似た状況にある。〔......〕ここで、いまだ存在しない「ゲームと遊びの活動を研究する分野」を指す用語として「ルドロジー」(「ルドゥス」はラテン語で「ゲーム」を意味する)を提案したい。〔......〕ゲームを理解するためにまずすべきことは、その研究対象の明確な定義を探ることである。(Frasca1999)
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【特別寄稿】松永伸司 本質論としてのゲーム・スタディーズ(前編)
2019-12-11 07:00
今朝のメルマガは、12/19放送の「ゲーム・オブ・ザ・ラウンド」登場予定の美学・ゲーム研究者の松永伸司さんによる論考をお届けします。近年、急速な発展を遂げているゲーム研究の最もコアな領域「ゲーム・スタディーズ」は、どのような背景から成立してきたのか。その意義と最前線への道筋を、アナログ−デジタルを通じたゲーム史の展開を踏まえながら、鮮やかに浮き彫りにしていきます。 ※本記事は、中沢新一・中川大地編『ゲーム学の新時代』(NTT出版)所収の同名論考を採録したものです。
1 ゲーム・スタディーズ元年
二〇〇一年に、エスペン・オーセットは、自身が編集主幹を務めるオンライン学術誌『ゲーム・スタディーズ』の発刊にあたって、次のように述べている。
二〇〇一年は、今後の発展を見込める新興の国際的な学問分野としてのコンピュータゲーム研究の元年だと言える。今年は、三月にコンピュータゲームについての最初のアカデミックな国際会議がコペンハーゲンで開催された。その他のカンファレンスもいくつか開催される予定である。また二〇〇一年から二〇〇二年にかけては、コンピュータゲーム研究の大学院正規課程が複数の大学で提供される初めての学期になるだろう。そして今年は、学問の世界がコンピュータゲームをきわめて高い価値を持つ一個の文化領域としてまじめに取り上げる最初の年になるかもしれない。(Aarseth2001)
事実、二〇〇二年にはフィンランドのタンペレで「コンピュータゲームとデジタル文化」カンファレンスが開かれ、その流れで二〇〇三年に国際学会組織であるデジタルゲーム学会(DiGRA)が設立された。コペンハーゲンIT大学をはじめとした研究機関でビデオゲーム(1)関連のコースができ始めるのもこの時期である。そのようにして、二〇〇〇年代前半に、ゲームとビデオゲームを専門に研究する分野としてのゲーム・スタディーズは、ヨーロッパ、とりわけ北欧諸国の研究者と大学を中心にしたかたちで制度的に成立した。二〇〇一年が「ゲーム・スタディーズ元年」になるというオーセットの予想は、まったく的確だったわけである。 とはいえ、実のところ、ビデオゲームについての研究自体は、二〇〇一年以前から少なからずあった。そうした研究がすでにあるにもかかわらず、なぜゲーム研究者たちは新しい分野の設立を求め、それを宣言しなければならなかったのか。本稿の前半では、ゲーム一般の研究の歴史とビデオゲーム研究の歴史を概観したうえで、ゲーム・スタディーズという独立した分野が要請されたわけを明らかにしたい。一言でいえば、それはビデオゲームをゲームとして研究する分野が必要とされたからである。そしてそれゆえ、ゲーム・スタディーズは、「ゲームとは何か」という哲学的な問題にまず取り組むことになった。本稿の後半では、そうしたゲームの本質論がゲーム・スタディーズのなかでどのように論じられてきたか、またこれからどのように論じられる可能性があるかについて、大まかな見通しを示したい。
2 ゲームの研究の歴史
最初期のゲーム研究として有名なのは、スチュアート・キューリンによる一連の民族誌的研究である。一九世紀末から二〇世紀の初頭にかけて、キューリンは世界各地(東アジア、アフリカ、北米など)の伝統的なゲーム・遊びを調査・記述した。キューリンは、たんに個々のゲームのルールと遊び方を事典的に記述するだけでなく、一定の理論的な観点からそれらを分類したり、それらの歴史的な起源を考察したりしている。たとえば『北米インディアンのゲーム』(Culin1907)では、「運のゲーム」や「器用さのゲーム」といったカテゴリー分けが提示されている。同じ時期には、最初期の本格的なゲーム史研究であるハロルド・マレーの『チェスの歴史』(Murray1913)も出版されている。 名称に「ゲーム」が含まれる研究分野としておそらくもっともよく知られているのは、数理経済学としてのゲーム理論だろう。ゲーム理論は、ジョン・フォン・ノイマンとオスカー・モルゲンシュテルンの『ゲームの理論と経済行動』(vonNeumannandMorgenstern1944)とともに生まれ、一九五〇年代のジョン・ナッシュの一連の研究によってその基礎が確立された。ゲーム理論は、ゲームのプレイヤーを完全に合理的な意思決定主体として考え、そのように理想化されたプレイヤーたちが特定の状況とルールのもとで行うであろう対立や協力のあり方を数学的にモデル化するものである。それは、実際のプレイヤーについての研究ではないし、たいていは実際に存在するゲームについての研究でもない。その意味でゲーム理論は、ゲームについての研究というよりは、ゲームという観点からゲームでないものを扱う研究である。 ゲーム理論は、理想化された主体による合理的な意思決定を問題にするものだが、実際の人間が特定の状況下でいかに意思決定するかを、ゲームを使って実験する──シミュレートする──分野も古くからある。この領域は「ゲーミング・シミュレーション」や「シミュレーション&ゲーミング」と呼ばれる。もともと一九五〇年代に北米で設立されたウォーゲームを研究する組織が、教育者を巻き込むかたちで六〇・七〇年代を通じて拡大・国際化し、国際シミュレーション&ゲーミング学会(ISAGA)の設立にいたって、一個の分野として明確に確立した(Mäyrä2008,7)。ゲーミング・シミュレーションの方法には教育効果も期待できることから、この分野は実践的な教育学との結びつきも強い。
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