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記事 24件
  • 日本アニメが3D化して完全に滅ぶ日 -『アーヤと魔女』|山本寛

    2021-09-15 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載、いよいよ最終回となります。2年にわたって続いた連載で取り上げる最後の作品は、現在公開中の宮崎吾朗監督の劇場最新作『アーヤと魔女』です。スタジオジブリ初の3DCGへの挑戦を、どう足掻いても色眼鏡を外しては見てもらえない宿命を背負った「二世監督」が担わされたことの意味とは? そして日本アニメのゆく末は? 吾朗監督との意外な接点のあった山本さんが、真に「アニメを愛するための方法」を切に問いかけます。
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第24回 (最終回)日本アニメが3D化して完全に滅ぶ日 -『アーヤと魔女』
    丸2年を迎えたこの連載だが、急な話で恐縮だが、今回をもって一旦休止しようと思う。 楽しんで読んでいただいていた方には申し訳ないが、最近になって編集部に泣きを入れたり、本文中で愚痴を言ったりして情けない姿を見せていたので、これでご勘弁いただくことにした。
    アニメを観て、語るのが辛くなったのだ。 もはや悪態すら浮かばない。 アニメに知性を、批評性を、「モダニズム」を求めるのは、もう無理かも知れない。そう思い始めたのだ。
    そんな絶望感を胸に、最後取り上げる作品には『アーヤと魔女』(2021)を選んだ。
    また「会った自慢」になるが、宮崎吾朗監督(以下親愛を込めて「吾朗さん」と呼ぶ)とも1回だけお会いして、じっくり話をさせていただいた。 実は僕の実写作品『私の優しくない先輩』(2010)に父親役として吾朗さんをキャスティングできないか、とダメ元でオファーしてみたのだ。 結果NGは出たが、「そんなオファーを出す監督は面白いから会ってみたい」と、スタジオジブリにまで呼ばれた、というのが経緯だ。 まだ東小金井駅の高架化工事が終わっていなかった頃の話だ。
    その時は「初ジブリ」の過度の緊張で何を話したかはほとんど覚えてないのだが、かの有名なプロデューサー室に通されて固まったように座り、少しして吾朗さんがやってきて開口一番「いやぁ……代わってほしいっすよ……」と泣き言を漏らしたのだけは覚えている。 それからランチをご馳走してくれることになり、近くのイタリア料理屋に吾朗さんの運転で連れていってもらった。 そこで何を話したかもまた覚えていない。 しかし帰りの車中、助手席に座っていた僕は、少しでも爪痕を残そうと思い切って訊いてみた。 「あの、一番好きな映画監督って、誰ですか?」 吾朗さんは少し考えて、 「そうだなぁ……(ヴィム・)ヴェンダースかな?」
    僕はすぐ『ゲド戦記』(2006)を思い出していた。 ああ、この人はやっぱり、こういう作風だったんだ。
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  • 「ジャリ番」の天才が目指した「作家性」-『竜とそばかすの姫』|山本寛

    2021-08-26 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第23回。今回は、今夏公開の細田守監督の劇場最新作『竜とそばかすの姫』について取り上げます。業界が求める「ポストジブリ」の国民的アニメ監督としての期待は、『サマーウォーズ』までは発揮されていた細田監督の作家性を、どのように剪定してしまったのか?
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第23回 「ジャリ番」の天才が目指した「作家性」-『竜とそばかすの姫』
    今まで一度だけ、細田守監督に会ったことがある。 吉祥寺の居酒屋だっただろうか、かなり長時間話をさせてもらった。
    当時僕は『らき☆すた』(2007)を降板させられ、細田監督は『時をかける少女』(2006)のヒットでやっと上昇気流に乗った時期、対照的だった。 僕は京都アニメーションを辞めようと決意していた。その僕の話を黙って聞いていた細田監督は、こう返してきた。 「ヤマカンさ、今は我慢して、粛々と目の前の仕事こなした方がいいんじゃない? チャンスはいずれ来るからさ」 それは以前の細田監督の自分自身を投影していた。彼もそう言っていた記憶がある。 『ハウルの動く城』でジブリに意気揚々と出向してからの降板劇、東映アニメーションに出戻ってからの燻り、そして退路を断って東映を出てからの『時かけ』の成功。 経緯は似ていた。
    しかし、僕はそのアドバイスを聞くことなく、京アニを去った。
    さて、今回は彼の最新作『竜とそばかすの姫』(2021)を取り上げる訳だが、僕はあの時の細田監督の言葉が、いろんな意味で頭から離れない。 その理由を少しずつ詳らかにしてみよう。
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  • 「ポストモダン」が生んだ想像力 -『千と千尋の神隠し』|山本寛

    2021-07-14 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第22回。前回の『もののけ姫』に続き、宮崎駿監督の新境地を見せた国民的ヒット作『千と千尋の神隠し』を振り返ります。長らく日本での映画興行収入記録のトップを誇り続けた本作が開花させた「ポストモダン」ならではの解放とは?
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第22回 「ポストモダン」が生んだ想像力 -『千と千尋の神隠し』
    今回は前回に引き続き、宮崎御大の作品を取り上げようと思う。彼個人の中での「モダニズム」から「ポストモダン」への移行にさらに注目し、細かく読み解けば、アニメの現状を打開する策があるかも、と思ったからだ。 かつ、前回はかなりネガティブな締め方をしてしまい、このままでは僕自身がアニメそのものに希望を見失ってしまう、そんな危機感を抱き、そういう意味でも、アニメ界において大きな分水嶺となった『もののけ姫』(1997)の次に生み出されたこの『千と千尋の神隠し』(2001)はどういう意味があるのか、改めてじっくり考えてみようと思う。 実はこの作品、僕は計3回ほどしか観ていない。『もののけ姫』は卒論を書くためもあるが、封切直後劇場に通っただけでも13回を数えるのに、だ。それくらい、ある意味本作を軽視し続けていたことは確かだ。
    さて、議論を前回と接続するため、アニメの「モダニズム」崩壊の契機と僕が推測した、制作現場のガバナンス・マネジメントの問題から切り込んでいこう。
    『もののけ姫』を作り終えたスタジオジブリは、続いてすぐさま『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999)の制作を開始した。しかし、これがとんでもなかった。 高畑勲の要求に現場が耐え切れず、悲鳴を上げたのだ。

    「お金もかかりますし、締め切りを守らないということもありますが、問題は作り方。まわりの人間を尊重するということがない人なんで、スタッフがみんなボロボロになる」「おまけに、ジブリはこうやって作るんだという、これまで培ってきたスタイルにまで手をつける。自分で作った方法論を否定して、新たに作り直す。創造と破壊と再生。スタッフは次々に倒れ、消えていきました」 それを知った宮崎駿氏は「鈴木さん、どうなってるんだ!」と激怒していたという。(文春オンライン「『なぜ高畑勲さんともう映画を作りたくなかったか』──鈴木敏夫が語る高畑勲#1」)

    思えば高畑も、宮崎同様に時代の節目を感じていたように思える。二人は共に東映動画の労働運動を戦った仲であり、共産主義者であった。故にソ連崩壊は高畑にとっても相当堪えたに違いない。 そんな彼はこの頃から、セルアニメの否定を盛んに口にし出している。 詳しくは叶精二氏の「『かぐや姫の物語』作品論 「弁証法の人」高畑勲監督の到達点」(参照)などを参照にしてもらいたいのだが、ここに来て、高畑に一種の踏ん切りができたのではないかと思えるのだ。 「もう共産主義は泡と消えた。ならば、宮さん(宮崎)と自分主導でずっと共産主義的コミュニティとしてやってきたスタジオジブリがなくなるのも時間の問題だろう、じゃあもういい、好き勝手やらせてもらおうじゃないか!」 そんな思いが高畑の胸を過ぎったかどうかは確かめようがないが、僕はさもありなんだと思う。 つまりもう、ヤケだったのだ。
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  • 「モダニズム」はこうして崩壊した -『もののけ姫』|山本寛

    2021-06-22 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第21回。今回は、宮崎駿監督の転回作となった『もののけ姫』を再考します。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』と同じ1997年に公開された本作は、どんなかたちで日本アニメの「モダニズム」の限界を垣間見せたのでしょうか?
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第21回 「モダニズム」はこうして崩壊した -『もののけ姫』
    前回「モダニズム」とは何か、について語ったが、では「モダニズム」が「ポストモダン」へと変化した、そんな境目のようなものは探せば見つかるのだろうか。 もちろん時代の流れは一瞬で切り替わる訳がなく、漸次的な移行があって当然だと思うのだが、僕は長年、どう考えてもこの「一瞬」をある年に見定めてしまう。 1997年だ。
    この年、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』と並んで、もう一本の劇場アニメが公開された。 『もののけ姫』である。
    たびたび僕の学生時代、特に大学時代の話をして恐縮だが、僕のアニメに対する思考の原点でかつ「終着点」がここにある、と今も思っているので、どうかご理解いただきたい。 大学4年生だった僕は、この2作を観て、「アニメは終わった」と直感した。 今思えばそれはアニメの「モダニズム」の終焉だった、と換言できるだろう。
    『エヴァ』については過去(連載第8回)に言及したのでそれを参照してもらいたいが、僕はまずアニメの「ポストモダン」化を『エヴァ』に見て取った。 しかし、当時の僕は既に薄々感づいていた。 『エヴァ』シリーズ監督・庵野秀明の、事実上の師匠とも言える宮崎駿はどうするのだろう? 結論は、まさに同じ年、1997年に『もののけ姫』という形で出た。
    これは至る所で述べているが、僕は卒業論文にて、『エヴァ』と『もののけ姫』、この2作を軸として、日本アニメ史を美学的に読み解くということを試行した。 教授陣の反応は案の定「???」なものだったが、この論文は今も意義あるものだと思っている。 内容は要約するとズバリ、「『エヴァ』と『もののけ姫』でアニメのモダニズムは終局を迎え、ポストモダンへと移行するだろう」というものだ。 『エヴァ』『もののけ姫』2作によって、アニメはほぼ一瞬にしてポストモダンへの扉を蹴破ったのだ。
    さて、恐らく読者の方々も『エヴァ』は何となくイメージできるだろう。しかし『もののけ姫』とは? 多くの方がピンと来ないかも知れない。 今回は公開当時から議論百出し、難解だと話題になった本作を、「モダニズムの終焉」の観点から改めて考えてみたい。
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  • 「モダニズム」とは何か -『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』|山本寛

    2021-05-20 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第20回。今回は、現在公開延期中の『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』で再び注目が集まる『逆襲のシャア』をめぐって。膨大な「ガンダム」シリーズの中でも、特に富野由悠季監督の作家性が鮮明に顕れた映画である本作について、「モダニズム」という観点から山本さんが切り込みます。
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第20回 「モダニズム」とは何か -『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』
    この連載を通じて僕が論じてきたアニメの「モダニズム」と「ポストモダン」であるが、まだいまいちピンと来ていない方もいるかもしれない。 そんな中、やはり毎度毎度お世話になっている岡田斗司夫氏が、非常に解りやすい解説をしてくれた。
    「『えんとつ町のプペル』を見ない理由、話します / OTAKING talks about "POUPELLE OF CHIMNEY TOWN"」
    この配信において彼は「思想性」について語っている。 「思想性」とは即ち「葛藤」である、と。 自分の考えに反するものに対しいかに真摯に向き合い、悩むかであると。
    これを哲学的には「弁証法」と言う。 「テーゼ(正)=アンチテーゼ(反)=ジンテーゼ(合)」という仕組みの「葛藤(から止揚に至る)」こそが哲学なのだ、と提唱者のヘーゲルは説いた。
    僕の言う「モダニズム」とは、まさにこのような「思想性」を有するものであると定義する。 それは必ずしも難しい概念やメッセージを必要としない。 いろいろな価値観や思想がぶつかり合い、その中で「真実とは?」と思惟する、その運動そのものこそが「モダニズム」なのだ。
    さて、今回はその「モダニズム」を考えるに相応しい作品について考えてみよう。 ちょうどこの文章の執筆時、『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の公開を控え「ガンダム」界隈が盛り上がっているので、せっかくなので『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)を取り上げることにする。
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  • アニメを愛するための「いくつもの」方法-『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』|山本寛

    2021-04-13 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第19回。今回は、旧作のブーム当時、大学のゼミ発表で取り上げるほど『エヴァ』に傾倒していたという山本さんが、満を持して『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を語ります。自身がアニメ業界に入ってからの一連の新劇場版シリーズには、冷ややかに距離を取ってきたなか、四半世紀を経て誰も彼もが「自分が考えたエヴァンゲリオン」を語る風景を再来させた完結編を、山本さんはどう総括するのでしょうか?
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第19回 アニメを愛するための「いくつもの」方法-『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』
    『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)のTVシリーズから『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)までの一連の『エヴァ』(以下『旧エヴァ』)ブームが巻き起こった時、僕は大学生だった。 大学では美学美術史学のゼミに入っていたのだが、この作品はゼミ仲間の中でも大きな話題となっていた。僕は夢中になって布教に励み、ゼミ発表でもテーマとして取り上げた。 そのゼミ仲間のひとり、アニメにはまるっきり疎かった女の子が、興味を持って僕に「観てみたいけど、ない?」と言ってきたので、録画していたビデオを全話分貸してあげると、しばらく経って律儀に当時の僕の下宿まで返しに来てくれた。 「面白かった」と、本当かどうか解らない感想をくれた。
    その彼女がある日、ふとこう漏らした。 「『エヴァ』って、語る人は必ず作品を語っているようで、途中から自分のことを語ってるのよね」
    その子は後に、確か別の大学の医学部に入り直したと記憶している。
    僕はこの時の彼女の言葉を、爾来『エヴァ』を考え、語る上での大きな指標としてきた。
    だから、10年の時を経て「復活」した一連の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(以下『新エヴァ』)に関しては、一定の距離を置くようになった。 まず大学を卒業してアニメ業界に入ったのが大きかった。制作のバックステージを見てしまったので、かつてのように素直に楽しめなくなっていたような気分だった。 それと、やはり「これ、ただの焼き直しなんじゃないの?」という疑念がどうしても強かった。 僕は『旧エヴァ』が最高の形で終わったと確信していたので、『新エヴァ』に対しては、ちょっと怪訝な目で見るしかなかったのだ。 一応『序』(2007)『破』(2009)『Q』(2012)、全部観た。しかし、満足の得られるようなものではなかった。
    そして遂に今年、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2021)が「完結編」として登場した。
    【公式オンラインストアにて特別電子書籍つき限定販売中!】ドラマ評論家・成馬零一 最新刊『テレビドラマクロニクル 1990→2020』バブルの夢に浮かれた1990年からコロナ禍に揺れる2020年まで、480ページの大ボリュームで贈る、現代テレビドラマ批評の決定版。[カバーモデル:のん]詳細はこちらから。
     
  • 「東北三部作」を振り返る~東日本大震災10年|山本寛

    2021-03-11 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第18回。この国の現実を揺るがした東日本大震災から、いよいよ10年。岩手・宮城・福島という被災三県の実情と向き合いながら『blossom』『Wake Up, Girls!』『薄暮』からなる「東北三部作」を作り続けた山本監督が、多くの人々の命と日常を奪った圧倒的な災厄を前に、アニメという虚構に何ができたのかを振り返ります。
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第18回 「東北三部作」を振り返る~東日本大震災10年
    今年、東日本大震災勃発からちょうど10年となる。 僕にとっては、長かったような、短かったような10年だった。しかし確実に言えるのは、しんどかった、ということだ。 僕はこの間、東北に向けた三つの作品を完成させた。 それを振り返ることで、もう一度この震災の記憶を読者諸氏に生々しく呼び起こしてもらおうと思う。
    2011年3月11日、僕は家にいた。 『フラクタル』(2011)という作品の最終話の演出作業に追われ、昼夜逆転する生活が続いていた。だから寝ていたのだ。 眠りながら揺れを感じた。最初はああ、地震かぁ、とまどろみつつ思うだけであったが、しかし長さを感じた。長い。そして、大きい。 僕は何かを察知して跳び起きた。 1995年の阪神・淡路大震災の記憶が蘇ったのだ。あの時も僕は寝ていて、同じような揺れを感じたのだ。その感覚にそっくりだった。 TVは既に点いていて、情報番組の「ミヤネ屋」が生放送で映っていた。 その放送中のスタジオが今揺れている。
    僕はことの大きさに気付いた。 「ミヤネ屋」は大阪のスタジオでの収録だ。だから東京と大阪が、同時に揺れている訳だ。 東京と大阪が同時に揺れる? どれだけ大きいんだ? 僕はたちまち蒼ざめた。
    TVはすぐに報道特別番組に切り替わり、地震の規模や被害状況を伝えるべく矢継ぎ早に情報を発信しだした。 僕はと言えば、まず風呂に水を張り、ドアが開閉できるか確認し、そしてノートPCでTwitterを開いた。 当時はまだ始めたばかりのTwitterで、正直使いこなせてなかったのだが、その即時性だけは理解するようになっていた。
    大混乱状態のTV中継は状況の把握に追いついてなかった。僕は事態の重大さを確信していたので、Twitterのタイムラインを必死で追いかけた。
    まずすべての電車が止まった。タクシー乗り場は長蛇の列となった。 帰宅難民が生まれようとしていた。 スタッフのひとりがスタジオへ帰ろうとして三鷹駅で立ち往生していたのを発見して、「タクシーは無理だ、歩いて戻った方がいい」、とリプライした。 彼は結局2時間歩いてスタジオへ戻った。
    次々と被害状況が明るみになる中で、僕はあることに気付いた。 東北の情報が異常に少ない。
    東北か。
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  • 「堕落したね。金儲け本位になった」-近年のいくつかのアニメ映画作品より|山本寛

    2021-02-12 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第17回。前回に引きつづき、2020年代スタート時点のアニメをめぐる状況を概観します。かつて名調子で親しまれた映画評論家・淀川長治が、スティーヴン・スピルバーグ以降のハリウッド映画を「金儲け本位」と嘆いたように、「売れること」以外の価値基軸が失われているように見える日本アニメの現状。そんな荒廃のなか、日本アニメの外側からやってきた『羅小黒戦記』と『えんとつ町のプペル』の二作が、作品として何を描いたのかを検証します。
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第17回 「堕落したね。金儲け本位になった」-近年のいくつかのアニメ映画作品より
    前回引用した映画評論家・淀川長治の言葉を今回は改めてタイトルにまでしてみたのだが、これはNHK-BSで1996年に放送された「淀川長治の映画塾」で出た発言だ。もちろんかの「淀長節」なので正確には再現できないのだが、名指ししたのはスティーヴン・スピルバーグだけでこそあれ、文脈を読むと明らかにスピルバーグ以降のハリウッド映画を批判している。 この「堕落した」という言葉を現代風に「翻訳」したのが評論家・岡田斗司夫だろう。 彼は自身のYoutubeチャンネルで(「【UG】関ジャニ∞村上信五君に評価経済を教えてきた〜愚かなスネ夫になるな!賢いスネ夫戦略とは?/ OTAKING explains "Media Theory in 2028"」)、「巨大メディア、例えばディスニーやNetflixは『恐竜化』している、すなわち巨額のバジェットで作品を作るものだから一本外せば即大ピンチになる。だから誰でも観てもらえるような無難な作品作り以外できなくなっているのだが、それは機動性や多様性を失うことであり、やがて恐竜のように滅ぶだろう」と予言している。 それは確かに当たりつつあるようで、例えば去年、今年のアニメ映画の動向を見るだけでも、今年の「第44回日本アカデミー賞」でアニメーション作品賞にノミネートされた作品が『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』『劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編』『映画 えんとつ町のプペル』『ジョゼと虎と魚たち』『STAND BY ME ドラえもん2』という、荒廃ここに極まれりと思えるようなラインナップである。
    淀川氏や岡田氏の提言をヒントにして、タイトル同様内容が前回と重複するかも知れないが、今回はそんな荒廃の中から『羅小黒戦記』(2019)と『えんとつ町のプペル』(2020)を紹介する。
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  • 「アニメ・イズ・デッド」その後~2021年を占う|山本寛

    2021-01-19 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第16回。かつて山本さんが「アニメ・イズ・デッド」と題した講義で、作品のテーマや思想を追求する姿勢を失い、ひたすら動物的に「萌え」を消費するようになった日本アニメの状況を批判してから4年超。毎クールの「覇権」争いなど、さらに不毛さの加速した現状を受けながら、2021年からのアニメの行く先を展望します。
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第16回 「アニメ・イズ・デッド」その後~2021年を占う
    この連載でも何度か参照している、僕が2016年夏に大阪で行った講義「アニメ・イズ・デッド」であるが、あれから4年超経った2021年、アニメはどうなったか、どうなっていくかを今回述べてみたい。
    この講義の概要を改めて説明すると、アニメ視聴者たちの発信が2007年を境に、SNSを中心にアニメ業界に対する脅迫・恐喝に近い発言力を得て猛威を振るい始め、2009年からは「モダニズム」の崩壊と「ポストモダン」の隆盛、つまりテーマや思想の議論は急激に衰退し、ただひたすら「萌え」を享受し「動物的」な現実逃避に走るという消費スタイルが一般化する。それがさらに2011年の東日本大震災を経て、もはや現実世界の解釈や読み直し、批評としてアニメを捉えることを皆極度に忌避するようになった、つまり現実逃避が加速した、というものだった。
    しかし、この講義でも述べたが、これはアニメ作品が世間から一本もなくなるということではない。 アニメが文化として滅ぶ、ということの証左だと言いたいのだ。
    ではここで、「アニメ・イズ・デッド」にもう一つの要素を加えよう。「覇権主義」「勝ち負け主義」である。 これはかつて某作品の宣伝番組で某氏が宣言した「覇権」という語をきっかけに瞬く間に浸透したものだが、SNSの猛威が高まるにつれ人々は「自分が何を好むか」ではなく、「皆が誰を好むか」を気にし始め、付和雷同で多数に合わせるという動きを見せた。つまりそれが、「数が多いもの(作品)が勝ち」という、作品の内容の評価そっちのけの強固な価値観として定着してしまったのだ。 これは、それまでなんとなくあった、少なくとも議論の対象にはなっていた「傑作=駄作」の判断基準がポストモダン化によって無力化し、さらにはSNSの同調圧力によって個々人の「好き嫌い」の価値観にまで干渉するようになった結果であると言える。
    僕はその「勝ち負け」の駆け引きの瞬間を目の当たりにしている。『宮河家の空腹』(2013)という作品はTVではなくUstreamで連続配信されたのだが、第1話の際のコメント欄がオンタイムで「是か? 非か?」と皆しばらく様子見をしていたのだ。やがて僕のアンチがどっと押し寄せ、どこまで傑作だったかはともかく特に瑕疵のない本作に「史上最悪の駄作」とまでの悪罵が押し寄せるに至った。 コメント欄が「是非」「勝ち負け」を即決する場となったのだ。
    その「覇権主義」「勝ち負け主義」が去年、また猛威を振るった。『鬼滅の刃』(2019)である。 まさにここ数年の「覇権」を獲ったと言って過言ではない本作だが、遂に『劇場版 無限列車編』(2020)が長年「覇権」を握っていた『千と千尋の神隠し』(2001)を超え、歴代興行収入1位を更新したことで話題となった。 しかし、やはり誰もがこう思うのではないだろうか?
    え、これが……??
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  • わが心の師・宮崎駿 今更ながらの「宮崎アニメ」論|山本寛

    2020-12-10 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第15回。今回は、山本さんが「心の師」と仰ぐ国民的アニメ作家・宮崎駿について、私的な出会いのインパクトから作品史を通じた思想家としての変遷、そして現代のオタク文化への責任などをめぐって、いま改めて語ります。
    ■ 本記事のタイトル・文中に一部文字化けがありましたので訂正して再配信いたします。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。【12月10日13時30分追記】
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第15回 わが心の師・宮崎駿 今更ながらの「宮崎アニメ」論
    そう言えばずっと「心の師」と仰いでいた宮崎駿御大(僕は普段こう呼ぶ)について、第9回で『ナウシカ』の漫画を取り上げたきり、アニメの方の話を全然していないことに気づいた(最近「そもそも○○語ってなかった!」が多い)。
    今回は改めて宮崎駿とその仕事を語ってみたいと思う。 ……のだが、もはや「宮崎駿論」など市井に出尽くしている感がある。僕よりも精細な分析などいくらでもあるだろう。 だからあくまで、今回は師匠を回想する弟子のような気分で論じたいと思う。 なお、今回も敬称略で書かせていただく。
    僕が宮崎駿と「出会った」のは、中学一年から二年にかけての春休みだった。 それまでも存在は知っていたし、『風の谷のナウシカ』(1984)が小学校のクラスで流行ってたのも解っていた。 僕はその時主題歌だけは知っていて(お恥ずかしい限りだが……)、それだけはクラス仲間と歌えたのだが、「あの時トルメキアがさぁ……」とか言われても、「は? お、おぅ」の状態で、とても話を合わせられる状態ではなかった。
    それを劇的に一変させたのが、TV初放映された『天空の城ラピュタ』(1986)である。 僕は最初、これを観ようとも思っていなかった。偶然TVを点けたらやってたのである。 だから自分にとってのファーストシーンは本編途中からで、忘れもしない、パズーの家での朝の屋根上シーンだった。
    僕は魂を鷲掴みにされた。 夢中になって観た。 エンディングに入り、パズーとシータを乗せた凧が夕暮れの雲海の中に消えるカットで、「行かないでくれ!」と心の中で叫んだくらいだ。
    夜は興奮して寝られなかった。 確かに体温が上昇しているのを感じた。まだ春先なのに暑い。 頭の中でさっき観た数々のシーンが無限にリフレインされていた。 カルチャーショックとはこのことか。 「えらいものを観た!」と、確信した。

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