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  • 【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(後編)

    2018-05-24 07:00  

    写真提供:映画『リビング ザ ゲーム』横浜シネマリン(〜5/25)ほか、山口情報芸術センター[YCAM](5/18〜20)、シネモンド(金沢市・5/26〜6/1)にて順次公開 ⓒWOWOW/Tokyo Video Center/CNEX Studio
    『ゲームセンター文化論』の著者でゲームセンター研究の第一人者である社会学者の加藤裕康さんと、『現代ゲーム全史』の著者である評論家の中川大地さんの対談の集中連載。最終回である今回は、コミュニティの大切さやビジネスモデルについて、〈eスポーツ〉の今後のあり方について提言をしていきます。(構成:藪和馬+PLANETS編集部) ※本連載の一覧はこちら。
    どこにカネを落とすべきか
    中川 ここまでの話では、とにかく高額賞金ありきの制度化は、概念としてのeスポーツにとってマストな要素では決してない。それはあくまでもやはり二の次三の次の問題であって、文化としてやはりデジタルゲームを使った競技としてのeスポーツを盛り上げていく上ではやはり多様な参加チャンネルによるコミュニティとかシーンづくりのほうが大事ということですよね。
    だからこそ、もし本当に賞金額を上げるためにスポンサードするお金があるんだったら、勝ち上がった一部のプレイヤーにだけにあげるんじゃなくて、サスティナブルなコミュニティができるようなイベントの運営や大会などに投資するチャンネルをつくってくださいよということですね。これは、ももち選手が自分の主張としておっしゃっていたことでもあります。
    その主張には本当に同意で、サスティナブルなシーンをつくりたいのならば、ライセンスなんかやっている場合じゃないんです。そんなことで賞金獲得のスキームを作ることじゃなくて、もっと違う金の使い方があります。だから、もっと具体的なかたちでいろんな人たちが提案していくといいかなという感じはしますよね。
    加藤 まさに、おっしゃる通りだと思います。ライセンス制の向いている方向は、けっこう内向きです。eスポーツを広げようというふうには言うんですけど、そこは懐疑的です。
    中川 広がるわけがない。
    加藤 先ほども触れましたが、ゲームシーンの外には大きな壁があります。そこはやっぱりコミュニティとかにお金を落として、楽しそうな場をいっぱい作って、参加者の輪やゲーム文化を広げていかないと先細りしていってしまう気がします。だから本当に今のやりかたでうまくいくのかどうかは、ちょっと見守っていきたいなと思うんです。
    中川 例えばももちさんのようなプレイヤーが、もっとスポンサーやIPホルダーと別の形で組んで、JeSUのライセンス制度とは違うスキームでの盛り上げ方をしてくれたらおもしろいなと思うんですね。
    実際、彼のパートナーのチョコブランカさんなんかは、大会をイベントとして盛り上げるプロモーター的な役割を実践することで、競技に勝つだけではないプロゲーマー像のロールモデルを示してるわけで。
    加藤 すごくわかりやすいのが、闘会議でライセンス制の大会をいくつかやっていたじゃないですか。中川さんと二人で観に行った大会は、どこも観客が少なかったですよね。もちろん、そこではプレイヤーたちの熱い戦いが繰り広げられていましたけれども、観客が盛り上がっているようにはとても見えませんでした。それは配信だけ観ていたらわからないけど、現地にいったら如実に伝わってきてしまう。
    闘会議と同じ日に、秋葉原のe-Sports SQUAREでコミュニティ主導の大会が開かれていました。その大会運営には、海外のプレイヤーからも伝説のゲームセンターと謳われる「ゲームニュートン」のオーナーで、株式会社ユニバーサルグラビティーの代表取締役社長、松田泰明さんが協力しているのですけれども、非常に盛り上がっています。闘会議みたいな大きな会場ではありませんけれども、かなりの熱量を持って多くの人が集まっているんですね。ゲームニュートンでは定期的に大会が開かれていて、日頃からプレイヤーの集まる場を提供しています。つまり、コミュニティが大事というのは、そういうことなんです。 プロライセンス制度などを整えても、コミュニティが根付いていない大会は、結局その場が盛り上がらない。そうなったら、やっぱり続けていくのは厳しいですよね。
    ストリートファイター系はプロゲーマーも多いし、今の日本では認知度が一番あるので、別格だとは思うんです。それでも、あるときを境に東京ゲームショウなどの大会の観客が少なくなったと感じたときがありました。その頃、格闘ゲーム人気の低迷も言われていましたが、大会を開けば成功するわけじゃなくて、いろんな要因が絡んでいる。コミュニティを無視して単に大きな企業が先導して大会を開いたとしても、それが盛り上がるかどうかっていうのはまた別物だと思うんですよ。

    ▲2018年4月1日に行われたバーチャファイター系の大会「第16回ビートライブカップ」の模様。コミュニティの根強い支持により、4年ぶりに開催された。
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  • 【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(中編)

    2018-05-16 07:00  

    写真提供:映画『リビング ザ ゲーム』横浜シネマリン(〜5/25)ほか、山口情報芸術センター[YCAM](5/18〜20)、シネモンド(金沢市・5/26〜6/1)にて順次公開 ⓒWOWOW/Tokyo Video Center/CNEX Studio
    『ゲームセンター文化論』の著者でゲームセンター研究の第一人者である社会学者の加藤裕康さんと、『現代ゲーム全史』の著者である評論家の中川大地さんの対談の集中連載。全3回のうち中編では、話題となっているプロライセンス制度を含めた〈eスポーツ〉を取り巻く現状について分析します。(構成:藪和馬+PLANETS編集部) ※本連載の一覧はこちら。
    eスポーツが保つべき「遊び」の本質とは
    中川 前回の議論で、いわゆる「eスポーツ」をプロゲーム産業の振興に限定せず、デジタルゲームの競技大会と一般スポーツの文化的な土壌がどう違うのかから考えていく話題に行き着きました。そこでもうすこし掘り下げておきたいと思うのは、ゲームセンター的な第四空間で得られる、みんなが感じている価値は、武道を近代スポーツ化した嘉納治五郎的な求道心とどのように違うものとして言語化すべきなのか、ということです。eスポーツとしてのゲームでも第四空間としてのゲームのどちらも勝つことだけが目的じゃないし、ゲームによって稼ぐことが目的でもなくて、基本的にはそれぞれ自己のための価値じゃないですか。同じく自己にとっての価値でありながら、どう違うんでしょうか。
    加藤 遊び論に戻るんですけど、現在、ゲーム研究の分野で最も多い研究領域は効果研究です。つまりゲームをやることによって、その人がどういう影響を受けるのかという研究が多い。たとえば、人は暴力的になるとか、社会的に不適応になるとかが研究のテーマとなり、量的調査や実験をするわけです。
    中川 一昔前に物議を醸した、『ゲーム脳の恐怖』的な方向性ですね。
    加藤 でも、カイヨワが言っていることは、ゲームは遊びであるから、暴力的なゲームをプレイしたとしても、遊びなのでいつでもやめることができます。それが現実の戦争だと、一端の歩兵がやめたいと言ってもやめられない。敵前逃亡したら、場合によっては処刑されちゃうわけですよ。そういう強制的な環境の中で、正当な人殺しが行われるわけです。  でも、ゲームは、たとえ戦争のシミュレーションゲームが作られていたとしても、そこで遊んでいるという意識は常にあるはずなんですよ。  同じようにスポーツがなぜ遊びに分類されるのかというと、スポーツはやめようと思ったらやめられるし、実際の命のやり取りではありません。それは特に近代スポーツの特徴であると思います。ルールによって、そこは明確に守られるわけですよ。  そういう意味ではゲームもスポーツと非常に似ていて、そこに本当の命のやりとりがあるのではなく、想像の中で遊ばれるものであると思うんですね。ホイジンガは、イメージを心の中で操ることから遊びが始まると論じていますけれども、子どもでさえも、ごっこ遊びの中で本当に自分が演じている対象になってしまったとは考えません。そこが抜け落ちてしまうと、ゲームをやると何か悪い影響を受けるんじゃないかと思われがちになるんです。
    中川 つまり、嘉納治五郎がスポーツとしての柔道を実際の殺傷とは切り離したような意味で、遊びの持つ現実からの独立性に立脚することで「悪い影響」を切り離しつつ、さらに「道としての完成を目指す」とか「自己修養に役立つ」みたいな価値を打ち立て、近代スポーツ的な規範性を人々に納得させるイデオロギー再編による社会化をはかる方向性が、部活的なモデルとしてのeスポーツになるわけですね。
    加藤 はい。しかし、ホイジンガの言葉を借りると、遊びはそれ自体でおもしろい、価値のあるものとして認められるものなんですよね。にもかかわらず、近代スポーツの流れや、今のゲームの流れのような部活動的なものをやることによって、自己修養や成長につながるものとか、価値のあるものだと切り分けちゃうわけですよね。そうなると、何かのためにやるものはもう遊びじゃないわけですよ。
    中川 自己修養になるとか道を追求できるとか、それを認識した時点ですでに遊びが遊びたる所以を離れてしまっているということですね。遊びの持つ無目的な自由さの面を担保し続けるのが、第四空間的なゲーム文化であると。
    加藤 だけど、おもしろいことに、実は遊びは適当にやっていたらつまらない。どんなゲームでも、技の掛け合いや駆け引きなどを一生懸命取り組むから面白くなるんですよ。ストイックに突き詰めていくのは真面目なことだから、遊びではないかというと必ずしもそうではありません。真面目に取り組んだものがふとむちゃくちゃ楽しくなっていることがあり得ます。むしろ一生懸命取り組まなければ、面白さがわからなくなるものもあったりすると思うんです。そうやって考えると、部活動的なものがダメなのではなくて、それだけが最高の価値であると言うような人が出てきたり、そういう言説が流布することこそ、危険で注意したいなと思うんですね。部活的なものやスポーツも遊びの要素を含むわけですから。逆に遊びの分野だけが最高のものとみなしたときにも、僕はちょっと危険を感じるんですよ。  つまり、流動的なものであることを踏まえた上で、どちらかにバランスがブレることを僕は注意したいなと思っています。
    中川 本当に拮抗的なバランスを維持していくことこそが大事だと思いますよね。そのバランスを能動的に維持することを僕は中沢新一さんの言葉を使って、〈非対称性の論理〉と〈対称性の論理〉の複論理(バイロジック)として捉えています。つまり、真面目な修練によってルールや技術に習熟し、自らを研ぎ澄ますことで他者と差別化をしていく〈競技〉化のモーメントが〈非対称性の論理〉。対して、遊びだからいつでもやめてカオスに戻ることができる自由さがあるからこそ、勝ち負けを超越した楽しさを見出せる〈遊戯〉のモーメントが〈対称性の論理〉。  この二つの論理が協働してバイロジカルに作動しているからこそ、ももちさんや梅原さんのような境地が成り立つんだと思います。
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  • 【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(前編)

    2018-05-10 07:00  

     写真提供:映画『リビング ザ ゲーム』  シアター・イメージフォーラム(5/11まで)、横浜シネマリン(5/12〜25)ほか全国にて公開中  ⓒWOWOW/Tokyo Video Center/CNEX Studio
    今回から、『ゲームセンター文化論』の著者でゲームセンター研究の第一人者である社会学者の加藤裕康さんと、『現代ゲーム全史』の著者である評論家の中川大地さんの対談の集中連載が始まります。全3回のうち前編ではゲームとスポーツの文化的本質に立ち返りながら、〈eスポーツ〉発展の可能性について検討します。(構成:藪和馬+PLANETS編集部)
    ゲームとスポーツはどう同じで、どう違うのか

    中川 今回、加藤さんとお話ししたいと思ったのは、現在ゲーム業界のホットトピックになっているeスポーツを、ゲーセン文化の文脈で捉えていらっしゃる視点に共感したからです。今年2月に開催された「闘会議2018」は、もともと「ニコニコ超会議」のゲーム版のスピンアウトで、ゲーセン文化とも相通ずる、ボトムアップなゲーム実況カルチャーの集積体に近いイベントでした。しかし、おそらくニコニコカルチャーの凋落なんかも背景に、今年はそれがカドカワ傘下のGzブレインの主導で大きく様変わりしました。具体的には、発足したての日本eスポーツ連合(JeSU)が認定するプロライセンス制度による初の賞金制ゲーム大会を前面に打ち出した、eスポーツ振興のデモンストレーションの場になったわけですね。
     これを機に、様々な団体がeスポーツ事業への参入を表明し、一般メディアでの報道も増えて社会的な関心が高まっていますが、そこでの議論は、海外並みにプロゲーマーが稼いでスター化するショービジネスを築きたいという業界的な期待か、あるいは「ゲームがスポーツになるなどとんでもない」という一般世間の無理解かの、両極端な方向に向かいがちです。
     ただ、これまで実際に国内のゲームコミュニティで実際にデジタルゲーム競技のシーンに接してきた人々からは、そのどちらの態度にも違和感の声が寄せられることが多い。両者の溝を埋めて、日本のゲーム文化の脈絡に即したeスポーツのシーンを地に足ついたかたちで築いていくには、もうすこしゲームとスポーツの文化的本質に立ち返りながら、展望していく必要があると思うんですよ。そこでまずは、一般の人々が直感的に感じるだろうゲームとスポーツの相同と相違から、改めて掘り下げてみたいのですが。
    加藤 一般の人にとって、ゲームはそのまま「遊び」として理解されています。対してスポーツは、遊びとは違うものだと思われています。春夏の甲子園などを見てもわかるように、高校球児は努力して技術を磨き、スポーツマンシップに則って競技をする。私たち視聴者は、その努力がわかるからこそ、高校球児の汗と涙に感動するのだと思います。スポーツにおける努力が自己成長にもつながっていくわけですから、教育的効果も見込むことができます。それに対してビデオゲーム(以下、ゲームと略記)は、単なる遊びであるばかりでなく、社会的害悪をもたらすもの、つまり教育から遠く離れたものと考えられてきました。
     しかし、スポーツの語源が気晴らしや遊びを意味する「デポルターレ(deportare)」であることを考えてみても、スポーツと遊びは密接に結びついています。ヨハン・ホイジンガ(高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』中公文庫)やロジェ・カイヨワ(多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社学術文庫)は、競技スポーツや登山などのスポーツを遊びと捉えました。
     では、ゲームとスポーツの一般認識の違いは、どこから生まれたのか。それは教育化と制度化と、それらを勧めるためのイデオロギーの浸透によって生じました。たとえば、柔術や剣術など「術」であったものが精神修養に役立つ「道」に作り変えられ、警察や学校などに取り入れられていく中で、柔道や剣道といった近代スポーツへと変貌していきます。その最大の立役者は、講道館の創設者で大日本体育協会の設立者である嘉納治五郎ですが、彼は柔道をオリンピックの種目にまで押し上げていきます。その流れは、まさに今のゲームシーンの流れと、まったく同じ流れであることを昨年7月に行なった中央大学でのシンポジウム(拙著「ゲームがスポーツになるとき── eスポーツにおける情報と身体」『社会学・社会情報学』28号に講演内容を収録)で指摘しました。このシンポジウムには、プロゲーマーの百地祐輔(ももち)さんと百地裕子(チョコブランカ)さん、ライターの金子紀幸(ハメコ。)さんも登壇して有意義な議論をしています。
    中川 そうですね。カイヨワは遊びをアゴン(競争)とアレア(運)、インリンクス(眩暈)、ミミクリ(模擬)という四つの枠組みによる分類していますが、 原初の遊びは四つの枠組みが渾然一体になっていました。
     でも、遊びが社会によって制度化されていくと、勝敗を分けるタイプの遊びであるアゴンとアレアの結びつきが〈競技(ルドゥス)〉としての様相を強めていき、古代オリンピックのような形で発展していきます。それは現実と切り離された遊びの一領域としてのスポーツのみならず、現実自体を制度化するモーメントにつながっています。つまり遊びから競技を作っていく流れの中に、すでに人間が法律や社会制度といった抽象的なルールを作っていくための原理原則があった。勝ち負けをはっきりさせる文明が発展することで、イリンクスとミミクリが呪術のようなかたちで結びつく〈遊戯(パイディア)〉優勢のゆるい原始的な社会よりも、高度に制度化された近代という文明が起きていったというのが、僕流に解釈したカイヨワの文明観です。
     ただ、コンピューターの登場で、現実の在り方をより高精度に模倣(ミミクリ)しつつ、インタラクティブな身体的快楽(イリンクス)が生成できる情報環境が生まれたことで、この文明史的な流れが逆転します。古典的なアナログゲームやスポーツは、人間の処理能力の限界に沿って現実を単純化・抽象化し、人間が決めたルールの取り決めを、人間自身が手動で遂行することによって成立していました。しかし、コンピューターは数学の力で自然法則に近いものを自動再現したり、多彩な感性情報をデジタル処理したりできるので、近代が切り捨てていったインリンクスとミミクリの結びつきを新たなかたちで復権できるようになった。例えば、コンピューターゲームでは現実とは半歩ずれた仮想世界を疑似体験したり、何かの物語に見立てたロールプレイングを行ったりすることが可能です。
     この力によって、近代スポーツが〈競技〉を成立させるために現実の複雑性を縮減・抽象化する方向で進化してきたとは逆に、デジタルゲームは〈遊戯〉としての様々な具象的な見立てを取り戻していく方向の進化を遂げていきました。それによって、競技に純化されない余計な要素がたくさん入る営みとして、コンピューターゲームがあるからこそ、アスリートとは呼ばれえない人たちも巻き込んで、この数十年間のデジタルゲーム文化が育まれていった流れがある。そういう描像が、拙著『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』の歴史解釈の基本的な軸になっています。
     そのように、いったん複合的な遊びが復権した状況の中で、再び〈遊戯〉を切り捨て〈競技〉としての制度化や純粋化を目指そうという方向が強くなってきていることは、文明史的には近代的な原理の揺り戻しという側面があるのかなという見方を、今のeスポーツシーンに対して僕はしています。
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