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記事 6件
  • 原子爆弾とジョーカーなき世界――『ダークナイト ライジング』宇野常寛コレクション vol.6 【毎週月曜配信】

    2020-01-20 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、2012年のクリストファー・ノーラン監督の映画『ダークナイト ライジング』です。前作において、行為それ自体の自己目的化により、超越的「悪」の体現に成功していたジョーカー。しかしその続編で描かれたのは、左翼的な物語に回帰し原子爆弾を炸裂させようとする「小さな父たち」の姿でした。 ※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
     勘弁してほしいと、心の底から思った。別に彼女に悪意があったわけじゃないだろう。それはむしろ、善意からの行為のはずだった。映画に与えられたモヤモヤとした気持ちを、僕に共有して欲しいという感情の表れのはずだった。それだけに、怒ることもできなかった。それでも、僕はあのとき「○○さんからあなたのウォールに書き込みがありました」と携帯電話に通知を受けて、何事だろうと確認した瞬間に目の前が真っ暗になった。あわててブラウザを閉じたけれど「原子爆弾」という文字と「前作ほど感銘は受けなかった」というフレーズだけはしっかりとこの目に焼きついていた。  それはアメリカ在住の友人がFacebookの僕のウォールに書き込んだ、『ダークナイト ライジング』の長文感想だった。しかも、結末までが詳細に記されたいわゆる「ネタバレ」全開の文章だった。そして、同作は日本公開までまだ一週間以上の時間を必要としていた。
     僕は事務所のデスクに前作『ダークナイト』に登場したヴィランであるジョーカーのフィギュアを飾っている。四年前に出会ったあの衝撃を、僕はまだ忘れられてはいない。あれは出口のない物語だった。この十年のアメコミ・ヒーロー映画が隆盛する中で、9・11という存在は大きくその物語たちに影を落としていたはずだ。あの日国際貿易センターと一緒に、古き良きアメリカの正義は何度目かの、そして決定的な崩壊に直面した。たとえばあの精神的外傷(トラウマ)がなければ『スーパーマン リターンズ』は間接的な家族回復の物語として「帰って」くることはなかっただろうし、『Mr.インクレディブル』がパロディであるがゆえにむしろ批評的に古き良きアメリカの正義=父性の回復を中心的な主題として据えざるを得なかったのもそのせいのはずだ。それはクリストファー・ノーランの手によって何度目かの復活を遂げた映画『バットマン』シリーズも例外ではない。『バットマン ビギンズ』は原作群の複数のエピソードを巧みに下敷きにしながらも、その中核には幼き日に父親を亡くしたブルース・ウェインが、自らコウモリの仮面をかぶることで父を仮構する(ことで疑似的に回復する)エピソードが据えられた。もはや誰も失われた父=古き良きアメリカの正義を回復することはできない。ではいかにして、回復したふりをするのか、という問いがこれらのヒーロー映画ではただひたすら反復されている。そもそも近代社会とは、宗教の代わりに超越的なものが存在するかのように振る舞うこと=物語(たとえばナショナリズムやマルクス主義)を語ることではじめて社会が保たれるものだ……なんて講釈が聞こえて来そうだが、ここで大事なのはそんな常識の確認ではない。ヒーロー映画という、商業的な要請として「正義」や「暴力」を描かされてしまう物語群は、作者たちの意図や原作のモチーフを超えてこの社会へのメタ的な視線が半ばメタ的に入り込んで「しまう」ということだ。原理的には存在できない無謬の正義のヒーローを描くことは、社会というフィクションを描くことと同義なのだ。
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  • 東京タワーとビッグサイトのあいだで――『巨神兵東京に現わる』/「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」宇野常寛コレクション vol.5 【毎週月曜配信】

    2020-01-06 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。庵野秀明が日本の特撮技術を継承すべく取り組んだ映像作品『巨神兵東京に現わる』。その見事な出来栄えの一方で著者の胸に去来したのは、円谷英二以来の表現が博物館に収蔵される「静的な文化」となったことへの哀愁でした。 ※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
      円谷英二が始めた日本の特撮は、精巧なミニチュアで作られた町や山や海を舞台に、怪獣やヒーローやスーパーマシンたちが活躍し、見る者をワクワクさせてきました。しかし現在、特撮は、デジタル技術の発展と共に形を変え、その価値を見直す岐路に立たされていると言えます。それとともに、特撮の語り部であり、貴重な財産であるミニチュアや小道具などは、破棄され、あるいは散逸し、失われつつあります。  本展覧会は、特撮のこうした状況を何とかしたいとかねてから考えてきた庵野秀明が、「館長」となって「博物館」を立ち上げた、というコンセプトのもとで開催します。会場では、数々の映画・TVで活躍したミニチュアやデザイン画などさまざまな資料約500点を一堂に集めて展示し、それらを担ってきた作り手たちの技と魂を伝えます。そして、日本が世界に誇る映像の「粋」、特撮の魅力に迫ります。》(東京都現代美術館公式ホームページより)
     展示の初日に行こう、と決めていた。1か月以上前からスケジュールを空けていた。特典つきの限定3000枚チケットをコンビニエンス・ストアで予約して、指折り数えてこの日を待っていた。7月のこの週は息抜きしよう、遊ぼうと心に決めて、この日を待っていた。
     実を言うと、その日まで僕はひどく落ち込んでいた。理由は他愛もないことだ。その前々日の日曜日、僕は国際展示場で催されたAKB48の握手会でちょっとした失敗をしてしまっていたからだ。握手のスケジュールを甘く見積もっていて、時間内に複数のメンバーのブースを回ることができずに握手券を2枚も無駄にしてしまったのだ。まったく同情の余地のない、完全に自己責任の失敗だった。他の誰かのせいでもなければ、格差社会やグローバル資本主義のせいでもない。強いて言うなら僕の見積もりが甘くなったのは、僕も運営側も予測できなかったレベルでの混雑だ。予想外の数のファンが殺到した結果、会場で小さな混乱が起こっていたのだ。僕は正直、落ち込んだけれどその一方であの空間に満ちていた混沌とした圧倒的な力にはやはり何かを期待させるものを感じていた。
     そして訪れた7月10日、まだ梅雨明け前のはずの東京の空は、世界の底が抜けてしまったように晴れていた。僕は朝の9時過ぎには家を出て、タクシーを捕まえた。神保町の交差点で、徹夜で仕事をしていたらしい知人を拾って清澄白河に飛ばした。既に会場は混雑していた。平日の昼間、それも午前中にどこから湧いて出たんだろうというくらい、そこには大人たちが、いや「おおきなおともだち」がいっぱい集まっていた。平均年齢も、高い。33歳の僕はあの中ではたぶんかなり若い方だったと思う。僕らはそんな状況がもたらす奇妙な居心地に少し戸惑いながら、この博物館の奥へ、奥へと入っていった。
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  • 僕たちは「夜の世界」を生きている――『七夜物語』宇野常寛コレクション vol.4 【毎週月曜配信】

    2019-12-23 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、川上弘美の『七夜物語』です。日常の位相を微妙にズラした幻想を描いてきた川上弘美は、本作で初めて「子供のためのファンタジー」に取り組みます。それは世界と個人を繋ぐ「夜の世界」への遡行であり、2011年9月11日以降、私たちの日常をゆるやかに蝕み続けている力に、物語としてのかたちを与えようとする試みでもありました。 ※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
     僕はたぶん日本人の平均よりもだいぶ意地汚い人間なのだと思う。朝起きるとだいたい日に二回の食事に(もう10年以上朝食を食べる習慣はない)何を食べようかをまず考える。出不精な人間で、ふだんはほとんど事務所のある高田馬場から動かないけれど用事があって他の街に出かけると必ずその行き帰りに○○のお店で××が食べられるな、と考えはじめる。お酒を飲まないので余計に食べ物のほうに関心が向かう。なんでそうなったのだろう、とときどき考える。原因のひとつは高校時代を過ごした寮の食事が信じられないくらいまずかったことだろう。あの三年間のせいで、すっかり出かけるたびに外食のチャンスを逃さないように考える習慣がついてしまった。もう少しさかのぼると、僕は子どものころから物語の中の食事のシーンが好きでそこだけを何度も読みかえしていた。『ちびくろさんぼ』の物語の最後に虎を溶かしてつくったバターを食べる場面、『大長編ドラえもん』ののび太たちの冒険の前半に必ず挿入される屋外で「みんな」で食べる食事の場面……。こうして考えると子どものための物語に登場する食べものたちはみんな、たぶん大人たちに向けた物語のそれとは異なった特別な役割を担わされているように思える。  もし子どものための物語と大人のための物語とのあいだに、ぼんやりとでも線を引くことができるのならそれはたぶんここに引かれているのだろう。物語の中で主人公たちが何を食べるかではなく、どんな女の子が出てくるのかを楽しみにするようになったのは、いつごろからだろうか。世界のすべてはメタファーだと述べた小説家がいたけれど、それはたいてい性的なメタファーとして僕たちの前に登場する。そう、僕たちは気がつくと、性的なものをチャンネルにして世界を捉えようとしている。それはたぶん、性的なものは人間の動物としての側面に訴える回路だからだ。それは社会化された人間の営みであると同時に、人間の動物としての本能に訴えるものだ。だから人間は自分と世界との距離感を測り直そうとするときに性的なものを通じて世界を捉えなおす。社会化されない動物としての自分と、社会化された人間としての自分を往復することで、世界の構造を捉えなおそうとする。たとえば例の世界のすべてはメタファーだと述べた小説家=村上春樹の描く男性主人公たちが、いつもセックスをしているのはたぶん、彼がまだ「あのころ」に壊れてしまった個人と世界をつなぐ回路の再構築を繰り返し試みているからだ。
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  • 堀江さんとのこと――『刑務所なう。』宇野常寛コレクション vol.3 【毎週月曜配信】

    2019-12-16 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、堀江貴文著『刑務所なう。』です。「僕と堀江さんは、いつもくだらない話をしていた」という宇野が、長野刑務所に収監中の堀江氏を訪問した際に交わした会話とは? 天才的行動家・堀江貴文の本質を、獄中で書かれた膨大な手記を参照しながら考えます。 ※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
     堀江貴文にとって、この世界は貧しくもなければ停滞もしていない。可能性と突破口への手がかりは、世界に溢れかえっているのだけれども、僕たち人間がその活かし方に気づいていないだけだ──
     面会に来てください、と電話口で秘書のTさんに言われて反射的に行きます、と答えていた。この一年弱、僕はずっと彼について書こうと思っていて、でも書けないでいた。獄中の彼も、自分についての僕の文章を楽しみにしているという。だからその手掛かりをつかむために、長野まで会いに行くのもいいんじゃないか、とTさんは言った。そして2月の寒い日の朝、僕らは東京駅で待ち合わせた。生まれて初めて乗る、長野新幹線だった。行き先は、長野県須坂市にある長野刑務所──同所に収監されている堀江貴文氏に面会してくることが、旅の目的だった。  僕と堀江さんが知り合ったのは、2年ほど前のトークライブの席上だった。堀江さんが月に一度開催していたトークライブのゲストとして、僕を呼んでくれたのだ。たぶん週刊誌のインタビュー記事か何かで、堀江さんを再評価すべきだと発言したことを覚えてくれていたのだと思う。イベントの席上での僕は一緒に呼ばれていた先輩評論家のおまけのようなものだったけど、このとき何故か楽屋で話が盛り上がり、それから度々渋谷の書店でトークライブを開くようになった。僕と堀江さんは、いつもくだらない話をしていた。マンガやアニメ、ゲームなどオタクな話、食べ物の話、そして女の子の話……。お客さんはもっと日本の未来とか、メディアが作る新しい社会とか、グローバル資本主義を強く生き抜くための知恵とか、そんな話題のほうが聴きたかったのかもしれないけれど、僕は堀江さんとこんなくだらない話を延々としていることが、楽しくて楽しくて仕方がなかった。そしてこのトークライブを本にしよう、と話していたところで実刑判決が下り、堀江さんは収監された。  僕は出版社から対談本に書き下ろしの堀江貴文論を追加するように要求された。書いてみたい、と思ったのでふたつ返事で引き受けたけれど、なかなか進まなかった。そして、僕は途方に暮れた。堀江さんは饒舌な人だ。それでいて無駄なことは一切喋らない人だ。その膨大な生産量に誤魔化されがちだけれど、彼の著述には無駄なところが一切ない。だから堀江貴文という人間の書いたものをまとめ、整理する仕事には意味がない。そう、僕には何も書くべきことがないのだ。それが、僕が堀江さんの著作をまとめて読み返して得たひとつの結論だ。だからこそ、僕は堀江さんとのくだらない話こそが刺激的だったのだ。明晰な論理で自らを説明する力を持った人物に批評的にアプローチするなら、そんな無駄で過剰な部分こそを読み解くしかない。だとすると、僕が今、必要としているのは、堀江貴文という天才がその優れた頭脳を持って整理し、適切に著述した意識下の文章ではあり得ない。もっと彼の無意識が漏れ出したもの、生活の記録のようなものこそが僕には必要だった。
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  • 糸子のために――『カーネーション』宇野常寛コレクション vol.2 【毎週月曜配信】

    2019-12-09 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、2011年に放送されたNHK朝の連続テレビ小説『カーネーション』です。主人公・糸子は、父との闘争や想い人との離別を乗り越え、いかに自己実現を成し遂げたのか。名作『おしん』と対比しながら、旧来の「母」でも「家長」でもない、新しい時代の母性像について考えます。 ※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
     ここ一カ月、生活が不規則になってめっきり朝に起きられなくなった。今日も明け方に、事務所のソファで仮眠を取っていたら気がつくと出勤してきたスタッフに起こされていた。時計の針は午前11時を指している。勤め人たちがランチに出ると混んでしまうので、急いで寝ぐせ頭を適当に直し近所のパン屋に出かける。イートインで朝食のような、昼食のような気持ちでサンドウィッチを胃に流し込む。この気だるさは、悪くはない。しかしどうにもしっくり来ない。最近、ずっとこの調子だ。全身に力が、どこかで入りきっていない。この状態は何だろう、と僕は考える。事務所に戻って仕事をしていると午後の12時45分、僕は不意に気づく。本来あるべきものがそこにはないことに。そうか、毎朝観ていたあの番組が終わってしまったからだ、とやっと合点がいく。毎朝会っていた「彼女」にもう会えなくなってしまったからだ、と改めて気づくのだ。そう、あれから一カ月、僕は糸子のことばかり考え続けている。小原糸子─NHKの朝の連続テレビ小説『カーネーション』のヒロインだ。  小原糸子は大正2年(1913年)大阪・岸和田の呉服店の長女として生まれた。物語は少女時代の彼女が、岸和田のだんじり祭りに胸を躍らせる朝からはじまる。しかし、糸子は大好きなだんじりを引くことはできないのだとその父・善作に諭される。理由はひとつ、それは糸子が「女」だからだ。そう、この物語は家父長制的な男性性との闘争の物語として幕を開ける。  糸子は成長する中で洋服に出会う。洋服は糸子に装うことの快楽を自由に謳歌することの素晴らしさを体現する存在だ。そして洋装店を開くという夢を抱き始めた糸子は、情熱の限りをぶつけて盲目的に突き進む。そしてそんな糸子の前には常に父・善作が立ちはだかる。善作は家父長制的な男性性の象徴として、糸子の自己実現の最大の障害として描かれる。  この物語の前半における男性性とは、善作が象徴する抑圧的な家父長制のことと言い換えてもいいだろう。そのため善作以外の登場人物の男性はすべて─幼馴染も、憧れの近所のお兄ちゃんも、そして夫となる人物でさえも─おそらくは意図的にその存在感を抑えられている。物語の焦点はあくまで糸子の「女だてらの」自己実現を、彼女がいかにしてその実力をもってして善作に認めさせるかという「戦い」に絞られているからだ。  そして、物語は戦争終結と同時にこれらの男がすべて退場(死亡)することでターニング・ポイントを迎える。もちろん、この退場劇の中で重要なのは父・善作の死だ。商売人として男性顔負けの実績を築いた糸子を善作はついに認め(屈服し)店を彼女に譲る。そしてふたりの長い「戦い」は終わりを告げ、娘と父が和解を果たしたその直後に善作は客死する。そんな善作の死に付随するように、戦地に招集されていた糸子の周囲の男たち(夫や幼友達)がことごとく戦死していく。しかし彼らの死は父の死の衝撃に揺さぶられる糸子にとっては、付随物でしかない。そして「男たち」を皆殺しにして、戦争は終わる。
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  • ファンタジーの作動する場所――『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』宇野常寛コレクション vol.1 【毎週月曜配信】

    2019-12-02 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは『宇野常寛コレクション』をお届けします。vol.1で取り上げるのは、AKB48の活動を追った2012年のドキュメント映画『DOCU MENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』です。東日本大震災の爪痕の残る被災地で、自衛隊に見守られながら、ヒット曲を熱唱する少女たち――。震災とアイドルという2つの巨大なシステムが、虚構を介在せずに共存する光景から、2010年代の想像力のあり方を思考します。 ※本記事は「原子爆弾とジョーカーなき世界」(メディアファクトリー)に収録された内容の再録です。
     あの日からもう、一年が経った。2011年3月11日午後14時46分、後に東日本大震災と呼ばれる地震が列島を襲ったそのとき、僕はある仕事のために『大声ダイヤモンド』について考えていた。少女(アイドル)たちが、「僕」という(ファンたちの)一人称を用いて少年の片思いを歌う。主客の消滅した視点から、気になる娘がいるという気持ちそれ自体を、過剰なくらいにめいいっぱい肯定する。「好きって言葉は最高さ」と最後には三回繰り返す。この奇妙なねじれと、気持ちよさ(圧倒的な肯定性)についてぼんやりと考えていたとき、世界が揺れた。  あれから一年、僕が考えていることは大きく分けてふたつある。それはあの日に日本を襲った巨大な力が露呈させたもののことと、あのとき偶然考えていた世界を肯定する力、のことだ。一見、このふたつはまったく関係がない。しかし僕の中ではこのふたつは強く結びついている。いや、結びつけようとしている。僕はいつもつながらないはずのふたつ以上の対象をつなげて考えることで、まったく新しい別の考えが生まれてくる可能性に賭けている。それが「批評家的な」想像力の使い方だと僕は思う。  だから、今回取り上げるのは、この本来つながらないはずのふたつのものを強引に接続してしまった映画にしようと思う。『DOCU MENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』──この春に公開された、AKB48の活動を追ったドキュメント映画だ。
     はっきり言ってしまえば、この映画はそれほどよくできたドキュメント映画とは言えない。構成は乱暴で、映像については凝った演出や表現はほとんどない。たとえば前半に挿入される横山由依の談話には何の必然性もなく、構成のバランスを欠く原因になっている(彼女が「2推し」の僕はとても嬉しかったが)。終盤は明らかに駆け足で、レコード大賞から紅白の流れは完全に描写不足であり、申し訳程度に尺を割くならいっそのこと割愛してしまったほうが良かったかもしれない。メンバー唯一の被災者である研究生・岩田華怜のモノローグはやや演出過剰で興ざめに感じる観客も多かったはずだ。しかし、そんなことはもはや何の問題にもならない。なぜならば、この映画が結果的に映している「現実」それ自体が、あまりにも強い力を放っているからだ。  そう、この映画は間違いなく震災後に僕が接した表現でもっとも衝撃的なもののひとつだった。少なくとも、もっとも考えさせられたものではある。「Show must go on」という副題が添えられたこの映画のコンセプトは、単純かつ明快だ。それは震災(及びそれに伴って発生した原子力発電所事故)をAKB48それ自体と重ね合わせること、だ。共にもはや人間の手には制御できないもの、もはやコントロール不可能な圧倒的かつ自律的な存在として両者を重ね合わせること、それだけだ。考えようによっては、それはとんでもなく不謹慎なことなのかもしれない。しかし、この映画は躊躇いなくそれをやってのける。それも、極めて単純な手法で。この映画では冒頭から終幕に至るまで、ただひたすらAKB48のメンバーが被災地を慰問する場面と、(規模的、システム的に)もはや運営側の制御が行き届かなくなった結果次々と公演上でのトラブルやメンバーのスキャンダルが発生していく場面とが交互に映し出される。(そしてその間にメンバーの短いインタビューが挿入される。)たったそれだけで、観客は震災とAKB48という、本来は結びつきようのないふたつの存在を強引に、イメージのレベルで重ね合わせてしまう。もはや誰も制御できない圧倒的な運動、暴走するエネルギー、として。
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