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記事 60件
  • 10月31日(木)まで限定冊子つき・先行予約を受付開始!猪子寿之×宇野常寛『人類を前に進めたい チームラボと境界のない世界』

    2019-10-10 19:30  

    チームラボ代表・猪子寿之氏と、評論家・宇野常寛との4年間に及ぶ対談が、ついに書籍化! 10月31日(木)まで限定で、冊子つき・先行予約を受付中です。

    ▼書籍紹介 チームラボはなぜ「境界のない世界」を目指し続けるのかーー?
    2015年からの4年間、チームラボ代表の猪子寿之氏は、評論家・宇野常寛を聞き手に、展覧会や作品のコンセプト、その制作背景を語り続けてきました。
    ニューヨーク、シリコンバレー、パリ、シンガポール、上海、九州、お台場……。共に多くの地を訪れた二人の対話を通じて、アートコレクティブ・チームラボの軌跡を追う1冊。 さらに、猪子氏による解説「チームラボのアートはこうして生まれた」も収録!
    【目次】 CHAPTER1 「作品の境界」をなくしたい CHAPTER2 デジタルの力で「自然」と呼応したい CHAPTER3 〈アート〉の価値を更新したい CHAPTER4 「身体」の境界を
  • 宇野常寛 汎イメージ論――中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ 最終回 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」(3)

    2019-09-25 07:00  
    550pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。ジャン・ジュネの論考から明らかなように、吉本隆明の「関係の絶対性」の根底にあるのは、自身の無性化、他者の風景化であり、その〈非日常〉と〈日常〉の境界を溶解する想像力は、チームラボのアートと共鳴します。父権的な〈テキスト〉の零落により、〈イメージ〉が氾濫する「母性のディストピア」に堕したインターネット。そこに投じるオルタナティブとは……?(初出:『小説トリッパー』 2019 春号 )
    6  無性と風景
     ここで私たちは、吉本隆明が『書物の解体学』で展開したジャン・ジュネについての論考を思い出すことができる。たとえば宇野邦一は「〈無性〉化に適するとは、自己の生理を、あるいは他者の肉体を〈風景〉とみなすことができるという、あの視線と距離とを意味している」と述べる吉本が、当時悪と同性愛の体験をナイーブに描いた〈外道の〉作家として読まれていたジュネについて人間の肉体を無性的に捉え、風景として描いた作家だと位置づけ直したと解釈する。 「意志した革命者はいつか革命者でなくなるにきまっている。なぜなら〈意志〉もまた主観的な覚悟性にすぎないからである。ただ〈強いられた〉革命者だけが、ほんとうに革命者である。なぜならば、それよりほかに生きようがない存在だからである」――これは吉本が「関係の絶対性」を主張した「マチウ書試論」の一節だ。  宇野はこの一節を引用しながら、こうした吉本のジュネ解釈背景には、道徳や性愛の境界を侵犯することは決して自由意志の選択ではなく、「関係の絶対性」の産物であるとする吉本の人間観の存在があると指摘する。 (当時のマジョリティの社会通念上の)性的な逸脱を非日常的な越境と捉える感性を、吉本は頓馬なものとして批判する。そうではなく、それは自身を無性化し、他者の肉体を風景とみなすことであり、性的なものを非日常ではなく日常の中に組み込むことなのだ。  宇野の吉本解釈は、すなわち「日常性のなかに非日常性を、非日常性のなかに日常性を〈視る〉ことができないとすれば、この世界は〈視る〉ことはできない」とまで述べる解釈は、本連載で展開した情報社会論として吉本隆明を読む視座から得られた解釈と一致する。世界視線と普遍視線の交差とは、すなわち臨死体験の比喩で吉本が予見し、ハンケらがGoogleMapで実装した新しい社会像とは、「日常性のなかに非日常性を、非日常性のなかに日常性を〈視る〉」視線と言い換えても過言ではない。そしてこの日常性の中に非日常性を組み込むために、ジュネ的な無性化が必要とされるのだ。  当時その同性愛的モチーフから〈外道の〉〈非日常の〉行為と位置づけられていたジュネの文学を、むしろ人間の肉体を無性化し、自己と世界との境界線を無化し、風景の一部にすること。非日常性を日常の中に組みこむこと。世界視線を普遍視線に組み込むこと。この無性性こそ、肉体を風景の一部にする想像力こそが、今日における有り得べき対幻想の姿を提示してくれるのではないか。後期の吉本は、「母」的な情報社会に対し楽観的にすぎた。しかし、この時期の吉本には来るべき「日常性のなかに非日常性を、非日常性のなかに日常性を〈視る〉」世界(後の情報社会)に対し、母性的なものではなく無性的なものを発見していたのだ。ここに、後期の吉本が陥った隘路を回避する可能性があったのではないか。  今日におけるフェイクニュース(イデオロギー回帰)とインターネット・ポピュリズム(下からの全体主義)の温床となる夫婦/親子的な対幻想ではない、もうひとつの対幻想――今日においてはローカルな国民国家(共同幻想)よりもグローバルな市場(非共同幻想)と親和性の高い、兄弟姉妹的な対幻想――を根拠に、いまこそ私たちは大衆の原像「から」自立すべきなのだ。そしてこのとき有効に働くのが、従来の多文化主義リベラリズム的な他者論ではなく、「語り口の問題」でつまずく(グローバルな情報産業のプレイヤー=世界市民だけを「仲間」として語りかける)カリフォルニアン・イデオロギー的(なものを誤って用いた)他者論でもなく、そのアップデートであるチームラボ的他者論ではないだろうか。自己を(比喩的に)無性化し、他者を一度「風景」と化すこと。そうすることでその存在自体を前提として肯定すること。そうすることではじめて、私たちはこの新しい「境界のない世界」に古い「境界のある世界」を取り込むことができるはずだ。「自己の生理を、あるいは他者の肉体を〈風景〉とみなすことができるという、あの視線と距離」を、チームラボのデジタルアートは私たちにもたらしてくれるのだ。
    7  「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」
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  • 宇野常寛 汎イメージ論――中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ 最終回 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」(2)

    2019-08-05 07:00  
    550pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。共同幻想に抗うための方策――モノによる自己幻想の強化、あるいは夫婦・兄弟の対幻想の構築は、いずれも頓挫する宿命にあります。それに対して、チームラボのアートは「他者」を読み替えることで、自己幻想の解体を試みます。(初出:『小説トリッパー』 2019 春号 )
    4  あたらしい対幻想
     では、チームラボの作品群は「超主観空間」をコンセプトにした初期から、「三つの境界線の消失」にいたる今日にいたるまで、いかに発展し、そして吉本の述べる「母系的な」情報社会のもたらすボトムアップの全体主義を克服してきたのだろうか。  吉本は『共同幻想論』において、対幻想のうち親子/夫婦的な対幻想に立脚することで共同幻想からの独立を説いた。しかし前述したようにこの親子/夫婦的な閉じた対幻想こそが、今日におけるボトムアップの共同幻想による「下からの全体主義」の温床となっている。  これはどういうことか。今日の情報社会において共同幻想は自己幻想、対幻想を強化するための材料として機能する。国民国家の代表する大きな共同幻想が小さな個人をトップダウンで飲み込むのではなく、自己幻想を成立させるために、もしくは対幻想を成立させるために――たとえ世界のすべてがあなたを否定しても、私は無条件であなたを肯定する、という物語が成立するために――共同幻想が素材として導入される。自己を確認するために、あるいは閉じた二者関係を強化するために、私たちは誰から強制されたわけでもなく二〇世紀的なイデオロギーに回帰するのだ。  かつて戦後の消費社会下で対幻想は――戦後的な標準家庭の核家族を支えた対幻想は――天皇主義や戦後民主主義という共同幻想に依存しない、強くしたたかな「大衆の原像」を育んだ。しかしその一方で、それは標準化された「普通」という価値観を周囲に強制し、同調圧力で出る杭を打つことで、マイノリティを抑圧し、排除するテレビバラエティ、テレビワイドショー的な「下からの全体主義」を育んだ。ここではトップダウンではなく、ボトムアップの共同幻想がイデオロギーではなく同調圧力として、日本社会を支配しているのだ。この状況に風穴を開けることを期待されたインターネットは、Twitterの登場によってテレビ的な「下からの全体主義」を補完する装置に成り下がった。こうして情報技術に支援されることで、戦後日本的「母性のディストピア」は強化温存されたのだ。  ではどうするのか。この「下からの全体主義」を生む「ボトムアップの共同幻想(大衆の原像)」から、いかに私たちは「自立」すべきなのか。たとえば糸井のアプローチは消費社会に撤退することで自己幻想を操作し、それによって情報社会――「下からの全体主義」を生む「ボトムアップの共同幻想(大衆の原像)」に流されない主体の形成を目指したものだと言える(その限界は既に指摘済みだ)。  自己幻想の操作による「大衆の原像」からの「自立」が難しいのならば、やはり私たちは対幻想の水準で考えるしかない。しかし親子/夫婦的な閉じた対幻想こそが「大衆の原像」の温床となったこともまた既に指摘済みだ。よって、私はここで吉本がかつて排除したもうひとつの、開かれた対幻想に立脚する可能性を考えたい。  それは兄弟姉妹的なもうひとつの対幻想だ。『共同幻想論』にはふたつの対幻想が登場する。一つは夫婦親子的、核家族的な「閉じた」対幻想だ。もうひとつが兄弟姉妹的な「開かれた」対幻想だ。前者は時間的な永続を、後者は空間的な永続を司る。前者は閉じているがゆえに二〇世紀的なトップダウンの共同幻想に対する防波堤になり、後者は開かれているがゆえにむしろそれと結託する(よって、前者を足場に私たちは共同幻想から自立すべき)というのが吉本の主張だった。しかし、今日において両者の関係は逆転している。今日においては、前者の閉じた対幻想こそが信じたいものを信じ(フェイクニュース)、それを守るために同調圧力(下からの全体主義)を生むボトムアップの共同幻想の温床となっている。信じたいものを信じるという態度にインスタントに承認を与えるという点において、「二者関係に閉じた」対幻想は情報技術のもたらしたポスト・トゥルースの時代との親和性が高いのだ。  対して兄弟姉妹的な「開かれた」対幻想はどうか。かつて、まだ「市場とテクノロジー」ではなく「政治と文学」で世界と個人との関係性が記述されていたころ、この対幻想はトップダウンの共同幻想=イデオロギーによって家族が捏造される(「我らが同志、すなわち兄弟!」)時代には、かんたんに共同幻想と結託し得るものだった。いや、この事実自体は今日も変わらない。しかし、現代では空間の広がりは国家のみと結託するわけではない。むしろ逆だ。今日において国家という共同幻想と結託することは、むしろローカルな既存の「家族」に引きこもることを意味する。空間的な永続を追求することは、グローバルな市場という非共同幻想的なシステム上に、そのネットワークを、「家族」を拡大することを意味するのだ。  現にグローバル化とは何かを考えてみれば良い。それは国民国家の国境の消失などではない。グローバルな情報産業が栄えるメガシティのネットワークが発達することだ。グローバルな都市のネットワーク(非共同幻想的なシステム)に、ローカルな国民国家(ポピュリズムの結果として民主的に、ボトムアップで生まれる共同幻想)がそのアレルギー反応の場として再召喚される。それが今日の世界なのだ。  連載の冒頭で紹介した、六本木の「意識の高い」IT事業者たちの語り口を思い出してもらいたい。彼らの自意識は国民国家の住人のものではなく、グローバルな市場のプレイヤーのそれだ。彼らは共同幻想を必要とせず、世界中の「兄弟」に対等な立場で語りかける。問題は彼らの語り口そのものが境界を再生産していることだ。新世界と旧世界を、境界のない世界とある世界との「境界」を再生産していることだ。  では、シリコンバレーの起業家とラストベルトの自動車工は、いかにして「兄弟」足り得るのか。それもトランプ的な国民国家という共同幻想への回帰なくしてあり得るのか。
    5  更新される他者像
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  • 宇野常寛 汎イメージ論――中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ 最終回 「汎イメージ」の時代と「遅いインターネット」(1)

    2019-07-22 07:00  
    550pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。インターネットが生み出す母系的な共同幻想からの自立。かつて吉本隆明が〈文学〉で目指し、ジョン・ハンケは〈テクノロジー〉、糸井重里は〈モノ〉によって目論んだそれを、チームラボはいかにして成し遂げたか。デジタルアートによって試みられる〈境界〉と〈視線〉へのアプローチから考えます。(初出:『小説トリッパー』 2019 春号 2019年 3/18 号 )
    1  吉本隆明からジョン・ハンケへ、あるいは糸井重里へ
     これまでの議論を整理しよう。今日のグローバルな情報社会の進行はいま、乗り越えるべき大きな壁に直面している。  まずグローバルには多文化主義とカリフォルニアン・イデオロギーが、排外的ナショナリズムの前に躓いている。グローバル化、情報化といった「境界のない世界」の反動として、そこから取り残された人々が民主主義という装置を用いて「境界のある世界」への反動を支持している(トランプ/ブレグジット)。  そして国内ローカルには、Twitterに代表されるインターネットの言論空間が一方では「下からの全体主義」を発揮し、テレビ的なポピュリズムを補完し下支えすることで、社会から自由と多様性を奪っている。そしてフィルターバブルに支援され、二〇世紀的なイデオロギーに回帰した心の弱い人々が他方ではフェイクニュース、陰謀論を拡散している(この現象はかたちをかえて世界各国で観察できる傾向である)。  かつて吉本隆明が唱導した「大衆の原像」に立脚した「自立」の思想は、インターネット・ポピュリズムとフェイクニュース、下からの全体主義と排外主義として、いま世界を覆いつつあるのだ。吉本がアジア的段階、アフリカ的段階へのポジティブな回帰として、肯定的に予見した高度資本主義と情報化の帰結(今思えばこれはカリフォルニアン・イデオロギーのことだ)としての「母系的な」社会とは、情報技術によってもたらされた「母性のディストピア」に他ならなかったのだ。  本連載はその突破口を模索することを目的としてきた。たとえば「政治と文学」という問題設定から出発し、文学の「自立」を唱導し、政治と文学の本来的な「断絶」を受容せよと主張したのが吉本隆明だとするのなら、ジョン・ハンケはこの世界と個人との接続を「政治と文学」ではなく、「市場とテクノロジー」の次元で接続することで解決しようとしていると言える。
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  • 猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第34回「密度を活かしてアートを〈自然〉に高めたい」

    2019-04-25 07:00  
    550pt

    2018年最後の配信は、チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は上海の燃油タンク跡地をリノベーションした美術館・TANK Shanghaiでオープニングを飾るチームラボの展覧会がテーマです。工業地帯からIT都市へと生まれ変わりつつある地区に、なぜ今、現代アートが集結しているのか。議論は都市とアートの関係から、密度や混ざり具合の違いが人間の認識や行動に与える影響にまで広がっていきます。(構成:菊池俊輔)
    ▲チームラボは、中国・上海のTANK Shanghai(上海油罐芸術中心)にて、オープニング展「teamLab: Universe of Water Particles in the Tank」を開催中。会期は8月24日まで。
    上海で燃油タンクが美術館になる意味

    宇野 今回は上海で3月23日から始まった「teamLab: Universe of Water Particles in the Tank」に来ているわけだけど、まずは、この展覧会のコンセプトの話から聞きたいな。
    猪子 この美術館、TANK Shanghaiは、燃油タンクの跡地の建物をそのまま使ってつくられたもので、そのオープニングのエキシビジョンのオファーがチームラボに来たんだよね。この美術館は私設なんだけど、オーナーの喬志兵(チャオ・ジービン)氏が世界でトップ200に入るような、中国を代表する現代アートのコレクターなんだ。そんな彼が燃油タンクをリノベーションして現代美術館にしたんだよね。
    この西岸(ウェストバンド)エリアは、もともと川崎みたいな工業地帯だったんだけど、都市が拡大したことで工業地帯が移転して、今はアート地区みたいになってる。有名どころだと、火力発電所の跡地を国立の美術館にした上海当代美術博物館とか、現代アートの美術館の龍門雅集とか。六本木ヒルズに蜘蛛みたいな大きな彫刻があるでしょ。あれを作ったルイーズ・ブルジョワの大規模な回顧展をこの前まで開いていた龍美術館とかがある。あと余徳耀美術館(Yuz Museum)には『レイン・ルーム』が常設されてる。Random Internationalというアート集団の、雨の中を歩いても濡れないという作品ね。あれが常設されているのは以前はここだけだったんだよね。今はドバイにもあるらしいけど。
    とにかく、ルイーズ・ブルジョワにしても『レイン・ルーム』にしても、世界的に見てもすごい作品で、それらを展示するパワフルな美術館が集まってる。この一帯は今後さらにパワーを持つエリアになっていくと思う。
    TANK Shanghaiはその地区の一番端になるんだけど、敷地内にあるタンクのうちの一つでチームラボは個展をしています。あとの二つは、中国を代表する現代アーティストたちのグループ展と、アルゼンチンを代表するアドリアン・ビジャール・ロハスの展覧会になってますね。
    会場は2フロアあります。まずは2階に上ってもらうと、燃油タンクの形状をそのまま使った、『Universe of Water Particles in the Tank, Transcending Boundaries』(以下『滝』)と『花と人、コントロールできないけれども、共に生きる、Transcending Boundaries - A Whole Year per Hour』(以下『花と人』)という作品を展示しています。燃油タンクって本当に巨大で円形だから、その中に一つの小宇宙を作りたいと思って、水の流れと生と死を繰り返す花の作品が共存している空間を作った。
    ▲『Universe of Water Particles in the Tank, Transcending Boundaries』

    ▲『花と人、コントロールできないけれども、共に生きる、Transcending Boundaries - A Whole Year per Hour』
    そして、燃油タンク沿いに階段をおりていくと、1階では『Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる』という波の作品を公開していて、来場者がさまよって方向感覚がわからなくなるような空間の中で、さらに三つのディスプレイ作品を展示している。大枠で言うとそういう展覧会です。
    ▲『Black Waves: 埋もれ失いそして生まれる』

    宇野 まず作品の外側の話から始めたいんだよね。猪子さんが意識しているかはわからないけど、場所に意味が出ちゃうっていうこと。つまり、なぜあのタンクが美術館になったかというと、中国の沿岸部が経済発展してるってことだよね。燃油タンクって20世紀的な工業社会の重工業の象徴で、それがITを中心とした新しい産業の都市の中心にあるってことだから。
    猪子 まさにその通りで、燃油タンクの目の前に超巨大IT企業の上海オフィスが建設されている最中なんだよ。
    宇野 ITって実体を持たないじゃない? 工業社会では燃油タンクや工場といった目に見えるアイデンティンティがあったけど、IT社会ではそれを持てないから、代わりにアートで確立しようとしてると思うんだよね。ただ、自分たちのアイデンティティを、建物というモノによって記述するのは、その発想自体が工業社会のセンスだと思う。
    チームラボがシリコンバレーやシンガポールに招かれたのも、それらの都市がアイデンティティを求めていたからで、都市が新しいステージに上がって自信をつけようとしたときに、それにふさわしいアートを備えようとするのだと思う。この地域に新しい美術館がつくられているのは、情報社会に生まれ変わった上海の新しいアイコンになろうとしているからだと思う。かつて燃油タングが並んでいた場所だからこそ、たとえばアリババやテンセントみたいな巨大IT企業の支社ができなきゃいけないし、新しい美術館ができないといけない。これは猪子さんが意図していなかったとしても、結果的にそういう意味が後から追いかけてくると思う。
    猪子 なるほどね。もちろん建物を壊さずにそのまま使うのがカッコいいという、世界的なリノベーションの流れもあると思うけどね。彼らには日本のような20世紀へのノスタルジーは全くないし、世界の中心は自分たちだと本気で思っている気がする。ただ事実として、宇野さんの言うように、かつての工業地帯が今は美術館エリアになっているし、IT企業のオフィスがつくられている。
    宇野 今後、IT企業のオフィスができたとき、この地区は新しい意味を持った場所になると思う。それこそ工業社会から情報社会に移り変わったことの象徴としてのね。そのときに、巨大IT企業の支社だけでなく美術館があるというのが現代的だよね。
    以前、映像圏のカルチャーからもう一度、アートに揺り戻しが来るんじゃないかという話をしたけど(参照)、そういうことだと思うんだよね。アートというのは、鑑賞者にとっては固有の体験になるから。20世紀は、モニターの中で皆が同じ夢を見るということばかりを追求していた100年間だったんだけど、その揺り戻しが明らかにきている。そういう意味で、あそこに美術館がいくつもあることには意味があると思うよ。
    作品に「360度」包まれる

    宇野 しかしここの展示、つまり2階の、まさに燃油タンクの中にあたる部分の展示は圧巻だね。球形の空間の内壁がそのまま作品になっていて、鑑賞者が360度包まれるというのは、実は今まではあまりやってこなかったよね。いまだに僕も消化しきれていないんだけど、これはいろいろ応用できる気がする。
    猪子 ちょっと近いのが豊洲(「チームラボプラネッツ TOKYO」)のドーム(『Floating in the Falling Universe of Flowers』)だよね。でもそちらは、ドームであることすら感じさせない作品だけど、今回はタンクの形状をより意図した作品だから。
    宇野 豊洲ではどこに壁があるのかわからないような空間に没入させられるけど、今回は明確に球体の内側に閉じ込められていることを自覚せざるを得ない。視覚的にも新しいし、あの閉じ込められている感覚は面白い。床と壁が全部作品で、ぐるっと包まれている。この表現が正しいかはわからないけど、妙な安心感があるよね。
    猪子 一つの小宇宙というか、箱庭みたいだよね。
    宇野 僕はジオラマが好きなんだけど、あの感覚に近いなと思っていて。世界をまるごと手に入れたかのような錯覚。チームラボの一連の作品は自然のようなエコシステムを作り上げているわけなのだけど、それに360度囲まれるというのは、自分が一つの小宇宙を手に入れたような感覚がある。今回の作品はタンクの建物に合わせた、素材の面白さを引き出すためのアプローチを取ったのだと思うんだけど、すごく応用可能性があると思う。これは大事なことで、パリ展とかボーダレスのような大規模展示を見ちゃうと、全部あれの部分輸出に見えちゃうわけ。そうじゃない戦い方をするには街の文脈と対決する、つまり、この場所でこういう展示をするのはどういう意味があるかを追求するか、あるいは建物という素材に徹底的に向き合うかしかない。それは今後、チームラボが世界中のいろいろな都市で作品を展開していく上で重要なことだと思うんだよね。そこからはまた別の意味が出てくると思うし。
    今回の作品でいうと、この地域でやっていることの意味と、360度という作品のコンセプトがうまく組み合わさると、より重層的になるのかなと思った。場所と建物に、今回の展示は結果的にかもしれないけれどしっかり向き合ったものになっていると思う。
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  • 猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第33回「近代以降失われた色の階調を蘇らせたい」

    2018-12-31 12:00  
    550pt

    2018年最後の配信は、チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は大盛況というヘルシンキの美術館・Amos Rexの展示の話題から、人間の認知や感覚の限界へと挑戦する、計算機テクノロジーを活かしたアート作品。そして、近代以降失われた自然の色調をデジタルで蘇らせる「かさねのいろめ」の着想について語ります。(構成:菊池俊輔)
    地下と地上をつなぐブラックホールに吸い込まれる滝
    猪子 フィンランドのヘルシンキにある美術館AmosがAmos Rexという新館を2018年8月30日にオープンして、そのオープニングエキシビジョン「teamLab: Massless」を担当したという話は前にしたと思うんだけど……。
    宇野 そうだね、工事中の美術館で記者会見していたよね。
    参考:第29回 新しいパブリックを実現した都市をつくりたい!
    猪子 連日、全員が入れないほど長蛇の大行列になってるらしいんだ。ヘルシンキは80万人都市なんだけど、そのうち半分くらい来てるんじゃないかっていうくらいの大混雑。もちろん海外からの人も合わせてだけど数十万人は来場しているみたい。前にも説明したと思うけど、ヘルシンキの都市の中心にある広場の地下にできた美術館で、天窓だけが地上にボコッと突き出している非常に素晴らしい建築なんだ。天窓の地上部分によって広場はアスレチックのように立体的な広場になっている。だから、『Vortex of Light Particles』はこの天窓のかたちを使って、空間自体を活かした、地下から地上へと関係性があるような作品にしようと思ったんだよね。
    ▲『Vortex of Light Particles』



    ▲建設中のAmos Rex


    ▲Amos Rexの外観・内観
    宇野 これはどういう仕掛けがあるんだっけ?
    猪子 天窓に向かって逆さまにに水が流れる巨大な滝と渦の作品なんだよね。天井の天窓から地上方向に大きな力が空間全体にかかっていて、ドーム状の天井のかたちに沿って水が渦巻きながら天窓へ吸い込まれていく。この美術館の建物自体、かなり気合が入った設計で、ドーム状の地下空間になってる。これは柱を使わずに構造を支えるためだと思うんだけど、その特徴を活かして、内壁の形状によって水の流れのかたちが決定される作品なんだよね。地上方向に向かう力によって、地上と地下をつなぐ天窓に、滝の水流が吸い込まれていく。
    天窓は地上へのトンネルになってるんだけど、内部を真っ暗にしてるから、黒の平面に吸い込まれていく感じ。そこが穴なのか平面なのかの区別すらつかない。実際に見ると、ブラックホールみたいに見える。
    宇野 こういう展示は、その空間が箱の中であると思わせない効果があるよね。チームラボのアートって、特に最近のものは、密室に閉じ込めることで、無限性や悠久の時間、彼岸の存在を体感させ、そこが有限の空間であることを一時的に忘れさせてしまう。これはただの穴なのか、あるいは吸い込まれているのか、本当に分からなくなるような感覚をもたらすことによってそれを実現しているわけだよね。
    偶然性の情報量を計算機が超越する
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  • 猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第32回「色と密度で人間の五感をハックしたい!」

    2018-10-24 07:00  
    550pt

    チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は、豊洲で開催中の展覧会「チームラボ プラネッツ TOKYO」の展示について猪子さんと語り合いました。この展示では、個々の作品へと深く没入させるためのクオリティにこだわったという猪子さん。作品の強度を生み出すために導入された、人間の五感に訴えかける新基軸のアイディアとは?(構成:飯田樹)
    遊び心と体感的な没入がもたらす「チームラボらしさ」
    ▲東京・豊洲にて開催中の「チームラボ プラネッツ TOKYO」
    宇野 「チームラボ プラネッツ TOKYO」(以下「プラネッツ」)、すごくよかったよ。個人的にはお台場の「森ビル デジタルアート ミュージアム:エプソン チームラボ ボーダレス」(以下「ボーダレス」)よりも、こっちの方が好きかもしれない。
    猪子 へえ!
    宇野 もちろんこの二つは規模も違えば目的もそもそも違う。「ボーダレス」はチームラボがここ数年やってきた屋内でのインスタレーションや空間演出のアートの集大成で、「プラネッツ」は2年前の「DMM.プラネッツ Art by teamLab」(以下「DMM.プラネッツ」)のアップデートで、「ボーダレス」に比べれば小さい。「ボーダレス」は半日かけても回りきれないから2〜3回は行かなきゃって感じだけど、「プラネッツ」は2、3時間あれば全部観れる。でも、後者の方が遊び心があるよね。普通に考えたら「ボーダレス」の方がド本命なんだろうけど、僕は「プラネッツ」の実験性も捨てがたい。
    猪子 「プラネッツ」では世界と自分との関係を考え直させるような作品を一個一個作って、とにかく圧倒的なクオリティで没入させるようにしているんだよ。
    宇野 いや、本当にそうで。これは「小説トリッパー」(朝日新聞出版)の連載(『汎イメージ論』)でも書いたことだけど、ここ数年のチームラボは「作品と作品」「人間と人間」「人間と作品」という3つの境界を撹乱しようとしている。今回の「プラネッツ」はそのうち、「人間と作品」のところに集中していて、そこに特化しているところが面白い。
    俺なんか、そんなに他人と融解したいなんて思ってないし(笑)、批評家だから作品同士を繋げて考えるのは、作品にやってもらわなくても自分でできるからさ。でも、自分でできないのは、自己と世界、この場合は鑑賞者と作品との境界線がなくなって、作品に没入することなんだよ。
    猪子 なるほど、おもしろい。
    宇野 「ボーダレス」は「作品と作品」「人間と人間」「人間と作品」という3つの境界を全部撹乱しようとしている。なので、一番総合性があるし、完成度は高いんだけど、「人間と作品」の境界線の消滅に特化した「プラネッツ」の方が針が振り切れている。一個一個の作品で、どうなるかわからないけど遠くにボールを投げてみようとしているのは「プラネッツ」の方なんだよね。だから、僕にとっては「プラネッツ」の方が刺激的だった。
    たとえば「ボーダレス」は、入り口に猪子さんのメッセージが言葉で掲げてあって、ここから先はチームラボの演出する「境界のない世界」だってことを宣言するんだけど、「プラネッツ」はそんなお行儀のいいことはしないで、いきなり鑑賞者を水の中に入らせるとか(『坂の上にある光の滝』)、クッションの中を弾ませるとか(『やわらかいブラックホール - あなたの身体は空間であり、空間は他者の身体である』)、前回の「DMM.プラネッツ」でやっていたことのパワーアップバージョンなんだけど、「ここから先は完全に別世界ですよ」「警戒心を解いていいんだよ」ってことを問答無用で体感させる。こっちのアプローチの方がチームラボらしいと思う。
    ▲『坂の上にある光の滝』
    ▲『やわらかいブラックホール - あなたの身体は空間であり、空間は他者の身体である』
    猪子 あのメッセージはね……。「ボーダレス」はあまりにも新しい概念すぎて、関係者内覧会でクレームの嵐だったの。「地図はないのか!」って。だからメッセージを置いて、ここは今までとは概念が違うんだってことを強く示しておかないと、もう苦情だらけだから。
    宇野 それ自体がコンセプトだと分かってもらえなかったわけか。普通に迷うし、どこに何があるかも分からないから、特定の作品を観ようとしてもできないしね。「ボーダレス」も、あれはあれですごく良いんだけど、「プラネッツ」では問答無用で、しかも視覚だけじゃなくて触覚に訴えかけて入っていくところに感心した。
    だから逆にね、もう問答無用で水の中に放り込む、くらいのほうが逆にいいと思うんんだよ。というか、アートとしてはむしろそれが正しいと思う。この「プラネッツ」は触覚に訴える作品が多いけれど、こうやっても視覚や聴覚以外の触覚や嗅覚といった人間の五感をハックすることで没入感を上げる表現には、まだまだ伸びしろがあると思ったね。
    あと、『The Infinite Crystal Universe』(以下、『ユニバース』)は、今までの中でもダントツに完成度が高いと思う。
    ▲『The Infinite Crystal Universe』
    猪子 そりゃそうだよ(笑)。
    宇野 作っている本人は「そりゃそうだ」って感想かもしれないけどさ、過去にいろんなバージョンの『ユニバース』を観てきた僕からすると、やっぱり隔世の感があるよね。
    以前からずっと言っていることだけど、『ユニバース』って部屋の広さが肝なんだよね。人間の想像力が勝って「この先に壁がある」と思われたら、ああいう空間の中に人間が飲み込まれてしまうような錯覚を起こさなきゃいけないタイプの作品は機能しない。やはり作品への没入感を出すためには、人間に空間を正確に把握「させない」工夫がいる。そのためにはどうしても『ユニバース』には「広さ」がいると思う。あれはまさに規模が質を担保している作品で、あの鏡張りの天井の高さと敷地の広さによって、本当に完成度が高くなっている。猪子さんが表現したかった没入感は、あれぐらいの規模があって初めて成立するんだなと思った。
    あと、インタラクションが強化されていたのが地味に大きいんじゃないかな。目の前のインスタレーションの変化のどこからどこまでが自分に反応しているのか分かりづらいという『ユニバース』の弱点が明確に改良されていて、相当完成に近づいていると思うよ。
    『人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング』(以下、『鯉』)はいつも通りなんだけど、ビジュアルはもうちょっと派手な方がいいと思った。前回の『鯉』の方が分かりやすい。今回の『鯉』は、なんとなく色が薄くなって、ちょっと上品になった気がした。
    ▲『人と共に踊る鯉によって描かれる水面のドローイング』
    猪子 うーん、前回と特に変わっていないはずなんだけどね。解像度や輝度が上がってるから、そのせいかもしれない。あと、水を温かくしているから、気付かない程度に湯気が出ちゃうんだよね。それでぼやけているのかも。すぐ調整しよう。
    宇野 唯一そこが気になったかな。
    猪子 『冷たい生命』は?
    ▲『冷たい生命』
    宇野 原型の『生命は生命の力で生きている』の方がいいと思った。まあ、裏側のワイヤーフレームが見えていないと『冷たい生命』とは言えないんだけどさ。これは単純な話で、「3DCGであること」自体が何か特別な意味を、はっきり言えば新しい視覚体験の象徴だった時代って、とっくに終わっているように感じちゃうわけね。本当はつい最近のことなんだけどさ。だから、ああいうものを見せられたときに新時代を感じるよりも、単に「普段僕らが見ているものはこう作ってるんだろうな」っていう舞台裏を見せられた気になっちゃうんだよね。「プラネッツ」は没入感を大事にしているわけだから、舞台裏を見せられた感じになるものは置かずに、もっと別のものを置いたほうがよかったかもしれない。贅沢を言うと、あそこに「書」があった方がいいと思った。たとえば『円相』とか。
    猪子 なるほどね……面白い。
    色のハックと密度のコントロールで没入感をつくる
    宇野 今回一番良かったのは『意思を持ち変容する空間、広がる立体的存在 - 自由浮遊、平面化する3色と曖昧な9色』だね。一見、カラフルな球体が鑑賞者に反応していって、空間全体の色と音が変化するというタイプの作品なんだけど、意外といろいろな実験が試みられていて、ものすごく刺激的だった。
    特に、色の変化の中で一瞬、目の前の視界が原色に覆われて空間がまるで平面のように見えるという仕掛けが良かった。
    ▲『意思を持ち変容する空間、広がる立体的存在 - 自由浮遊、平面化する3色と曖昧な9色』
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  • 宇野常寛 NewsX vol.1 ゲスト:猪子寿之「デジタルアートの使命」

    2018-10-05 07:00  
    550pt

    宇野常寛が火曜日のキャスターを担当する番組「NewsX」(dTVチャンネル・ひかりTVチャンネル+にて放送中)の書き起こしをお届けします。9月4日に放送された第1回のテーマは「デジタルアートの使命」。ゲストにチームラボ代表の猪子寿之さんを迎えて、チームラボが国内外で開催している展覧会や、今後のビジョンなどについてお話を伺いました。(構成:籔和馬)本記事内の情報に誤りがありました。心からお詫び申し上げますとともに、訂正して再配信いたします。今後、同様の事態が起こらないよう編集部一同、再発防止に努めてまいります。このたびは誠に申し訳ございませんでした。(2018年10月5日13時25分)
    NewsX vol.1「デジタルアートの使命」2018年9月4日放送ゲスト:猪子寿之(チームラボ代表) アシスタント:加藤るみ(タレント) アーカイブ動画はこちら
    宇野常寛の担当する「NewsX」火曜日は毎週22:00より、dTVチャンネル、ひかりTVチャンネル+で生放送中です。アーカイブ動画は、「PLANETSチャンネル」「PLANETS CLUB」でも視聴できます。ご入会方法についての詳細は、以下のページをご覧ください。 ・PLANETSチャンネル ・PLANETS CLUB
    境界のないアート群、「森ビル デジタルアート ミュージアム:エプソン チームラボ ボーダレス」
    加藤 NewsX火曜日、初めてのゲスト、チームラボ代表の猪子寿之さんです。よろしくお願いします。今日のテーマは「デジタルアートの使命」。猪子さん率いるチームラボ、現在も各地で様々な展示があります。その映像を観ながらお話を伺いたいと思います。まず猪子さんと宇野さん、お二人のご関係からお聞きしてもよろしいでしょうか。……なんかニヤニヤしてますね(笑)。
    宇野 どう思っているの?
    猪子 いやいや愛してますよ(笑)。
    宇野 俺も愛してるよ。
    加藤 相思相愛ということで。実はお二人はお仕事も一緒にされているんですよね?
    宇野 月一でうちのメールマガジンで対談している感じで。
    『猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉』過去の配信記事はこちら。
    猪子 なにか作品をつくったり展覧会を開いたときに、観ていただいたりしていて。あまり言葉になっていないものを、宇野さんに言葉にしてもらって。してもらった言葉を僕自身も使っているという。
    宇野 二人で一つなわけ(笑)。
    加藤 二人で一つ(笑)。合体していますね。
    宇野 合体しているわけ。『バロム・1』的にね。
    加藤 ということで、まずはこちらの映像を観ていただきたいと思います。
    (映像が流れる)

    加藤 東京お台場にある常設展、「森ビル デジタルアート ミュージアム:エプソン チームラボ ボーダレス」(以下、「ボーダレス」)でした。猪子さん、こちらはどういった展覧会でしょうか?
    猪子 僕は「境界のないアート群」と呼んでいるんだけど、それによってつながっている一つの世界。その中を自分の身体で彷徨いながら、探索して、いろんな発見をしていくという場所。それぞれまったく違うコンセプトのアートが、境界なく連続的につながっていたり、影響を受け合ったり、アートそのものが移動していったりっていう。ちょっと何を言っているのかわからないよね?
    加藤 それがボーダレスという意味にもなっている……?
    宇野 この説明でわかった?
    加藤 あ、でも、わかります。いろんなものがつながっているんだなっていう。
    猪子 宇野さんにちょっと説明してもらおうか。
    宇野 ある作品で蝶が飛んでいたら、その蝶が別の作品に侵入していっちゃうの。ある作品で楽器隊が笛を吹いていたりしたら、それが行列になって廊下を歩いて行って、中央のでっかい部屋に行って、また別の行進や演奏をしたりする。作品同士がどんどんどんどんないまぜになっていく。どこからどこまでが、ひとつの作品なのかちょっとわからないような形になっているんだよね。
    猪子 ある空間の作品があったら、その作品が空間から出て、通路を通って、ほかの空間に入っていったり。あとは、作品が他の作品とコミュニケーションをとっていて。たとえば、ある空間に入ろうとしたら、他の作品があると「今は入らないで」みたいことになって、諦めてまた違うところに行ったり。とにかく影響を受け合い続けるという。一個一個はもちろん違うコンセプトなんだけど、その作品ごとの境界が曖昧で、連続的につながっている一つの世界。その中を彷徨ってもらいたいなと思ってつくったんですね。
    宇野 真っ暗な空間にいろんなインスタレーションがあって、しかもその作品がどんどん入れ替わっていくから、マジで迷うわけ。たぶんチームラボで泣きながら設営していたスタッフ以外、全員迷う。
    猪子 とにかく広いんですよ。1万平米くらいあって、その中を本当に彷徨うことになる。 全作品を完全に観られる人はいないぐらいの複雑さ。作品も移動していくので。
    加藤 それじゃあ、何回行っても楽しめるといった作品なんですね。宇野さんも当然行かれたんですよね?
    宇野 僕は工事中の頃から見せてもらって、都合3〜4回行っているかな。ヘルメットを二人で被ってね(笑)。
    加藤 工事中のところが見れるのはレアですね。
    宇野 これは猪子さんがここ2〜3年やってきたことの集大成だと思うんだよね。2〜3年前から猪子さんは作品同士の境界を超えていくものを手がけているんだけど。それを最初にやったのは2017年のロンドンなんだよね。あれはブレグジットの翌年だったんだけど、それが僕はすごく大事だと思っていて。せっかく情報化やグローバル化で境界がなし崩し的になくなっていこうとしている世界に、今、もう一回線を引いてやれという人たちの声が大きくなっている。それがイギリスでいうとブレグジットだし、アメリカでいうとトランプの当選だし、日本でいうとヘイトスピーカーの台頭だよね。ああいったものに対して、猪子さんはすっごい真面目だから、もう一回「境界のない世界」の気持ちよさとか優しさというものを味わってみないか、ということをやっているんだよね。
    猪子 そうですね。本来は世界には境界がなくて。たとえば、森に行くと多様な生物がいるんだけど、見た目上、どこが境界かわからないように入り組んでいて。すべての生命は連続性の上に成り立っているんだけれども、都市で生活しているとその連続性みたいなものが感じられないし、何か境界だらけで、まるで世界の境界がもともとあったかのような重い気持ちになってしまう。連続性の上に自分が成り立っていることを忘れてしまう。世界本来の境界がないような体験を都市の中でつくりたかったんですね。
    宇野 現実の世界が境界だらけだからこそ、チームラボ・ワールドの中は境界のない世界を実現したいという。
    加藤 それがボーダレスという言葉に込められた意味ですね。
    猪子 そうですね。はい。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(4)【金曜日配信】

    2018-09-14 07:00  
    550pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。戦後中流的な核家族による〈対幻想〉は共同幻想に飲み込まれ、糸井重里的な「モノへの回帰」による〈自己幻想〉の更新も無効化される、「自立」の思想はいかにして可能か。吉本隆明が重視しなかった〈兄弟/姉妹的な対幻想〉にその端緒を探ります。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
    3  共同幻想からハイ・イメージへ
     戦後社会を支えた「大衆の原像」――戦後中流的な核家族――というかたちでの対幻想への立脚も、そしてそんな戦後社会の黄昏に出現した消費社会下における「モノ」の消費を用いた自己幻想強化も、今日において情報技術に支援されて拡大するボトムアップの共同幻想の前には無力だ。  では、どうするのか。ここでは予告したようにその手がかりを吉本隆明自身が遺した思考に求めていきたい。  糸井重里による「モノ」への回帰は、吉本隆明が、いや戦後日本が思想的に乗り上げた暗礁からの、吉本隆明的なものの批判的継承によって試みられた脱出法の模索だったといえる。  このときの糸井のアプローチは(かつての吉本がコムデギャルソンに身を包んで雑誌に登場したときのように)自己幻想の水準で行われている。  では、同様の批判的継承を対幻想の次元で行うことは可能だろうか。 『共同幻想論』にはふたつの対幻想が登場する。ひとつは夫婦や親子といった核家族的な対幻想であり、時間的な永続と結びついている。もうひとつは兄弟姉妹的な対幻想で、これらは空間的な永続と結びついている。つまり前者は閉ざされた関係性をつくり、子を再生産することで時間的な永続をその幻想の中核にもつ。対して近親姦の禁忌によって開かれた関係性を構築する後者は、子を再生産しないために時間的永続の幻想を持ち得ないが、代わりに空間的な永続を保持する。  そして吉本は同書で、本来「逆立」するはずの後者の対幻想が共同幻想と結びつくメカニズムを――私たちが国家を擬似家族的な共同体として捉えたがってしまうメカニズムを――解き明かしている。吉本によれば古代社会における国家とは、後者の兄弟姉妹的な対幻想が、共同幻想に転化することで氏族社会が拡大したものだ。この時期の吉本の思想的、政治的な実践において、夫婦/親子的な核家族的な対幻想が二〇世紀最大の共同幻想である国家への抵抗の拠点として選択されるのはそのためだ。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(3)【金曜日配信】

    2018-09-07 07:00  
    550pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。情報社会化の進行にともなう人々の共同幻想への依存、その処方箋のひとつに糸井重里の「ほぼ日」があります。「モノからコトへ」の時代に、あえてモノに回帰することで自立を促す。糸井が提案する洗練されたスタイルの意味と射程について考えます。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
    2  モノからコトへ、そしてもう一度モノへ?
     ではどうするのか。  ここではこの問題を少し違った角度から検討してみよう。  今日における吉本隆明の紹介者として糸井重里の仕事を、とりわけ「ほぼ日刊イトイ新聞」を補助線的に参照したい。  糸井重里にとっての「ほぼ日刊イトイ新聞」(一九九八年開設、以下「ほぼ日」)は言ってみればまだ人々がモノの消費で自己を表現していた時代の黄昏に、インターネットという新しいメディアというかたちで出現したコトの消費の先駆けだった。そのメッセージは一言で言えば「現代の消費社会に対してはこれくらいの距離感と進入角度で接すると自分も気持ちよく、他人にも優しくできる」というものだ。インターネット上の文章という、無料の、それもインターネットに接続されたパソコンさえあればいつでも、どこでもアクセスできる文章を日常の中に置く。当時糸井が提示したインターネットとは、個人が自分でちょうどよい進入角度と距離感を調節できるメディアだった。天才コピーライターの糸井がこの自らのメディアに与えた「ゴキゲンを創造する、中くらいのメディア」とは、要するに消費社会に対する気持ちのいい進入角度とほどよい距離感とを提案するメディア、という意味だと思えばよいだろう。それは言い換えればモノ(消費社会)とうまく距離を取るためのコト(情報社会=インターネット)ということでもある。初期の「ほぼ日」は、この時期のインターネットのウェブサイトの大半がそうであったように「読みもの」主体の「テキストサイト」だった。まさに「ほぼ毎日」更新されるコラムや対談記事は、そのテキストの指示する内容よりも、「語り口」をもってして世界との距離感を表明していた。それは吉本的に述べれば、明らかに「指示表出」よりも「自己表出」に力点が置かれたメディアだった。  しかし今日の、上場後の「ほぼ日」は違う。
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