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記事 14件
  • 【特別再配信】秋草俊一郎「〈文学〉は情報化を欲望する――デジタル・ヒューマニティーズの可能性」

    2017-08-17 07:00  
    540pt

    フランコ・モレッティ『遠読〈世界文学システム〉への挑戦』を翻訳した、秋草俊一郎さん。過去の膨大な文学作品をビックデータとして解析するという、新しい比較文学の手法「デジタル・ヒューマニティーズ」の代表的な論者であるフランコ・モレッティと、彼が提示した「遠読(Distant Reading)」という方法論は、文芸批評に何をもたらすのか。比較文学の研究者であり翻訳家でもある秋草さんにお話を伺いました。(構成:菊池俊輔/本記事は2016年9月20日に配信した記事の再配信です )


    『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』
    ▼内容紹介(Amazonより)
    テクノロジーや流通の革命・発達により世界がネットワーク化する今日、ごく少数(世界で刊行される小説の1%にも満たない)の「正典(カノン)」を「精読」するだけで「世界文学」は説明できるのか?
    西洋を中心とする文学研究/比較文学のディシプリンが通用しえない時代に、比較文学者モレッティが「文学史すべてに対する目の向けかたの変更を目指」して着手したのが、コンピューターを駆使して膨大なデータの解析を行い、文学史を自然科学や社会学の理論モデル(ダーウィンの進化論、ウォーラーステインの世界システム理論)から俯瞰的に分析する「遠読」の手法だ。
    本書には、「遠読」の視座を提示し物議を醸した論文「世界文学への試論」はじめ「遠読」が世界文学にとりうるさまざまな分析法が展開する10の論文が収められている。グラフや地図、系統樹によって、世界文学の形式・プロット・文体の変容、タイトルの傾向や登場人物のネットワークが描出されてゆくのだ。
    21世紀に入り、人文学においても、デジタル技術を用いて対象や事象をデータ化し、調査・分析・綜合を行う〈デジタル・ヒューマニティーズ〉の方法論が拓かれつつある。「遠読」もまた世界文学に新たな視界を開こうとする比較文学からの挑戦なのだ――「野心的になればなるほど距離は遠くなくてはならない」。

    文学を“離れて読む“「遠読」というアプローチ
    ――まずは、この本のタイトルにもなっている「遠読」が、どういう意味で使われている言葉なのか、改めてお伺いします。
    秋草 そもそも「遠読」って聞き慣れない言葉ですよね。この本の原書のタイトルである“Distant Reading”は、著者のフランコ・モレッティによる造語で、「遠読」はそれを邦訳したものです。この本の元となった論文は、海外の動向に通じた文学研究者の間ではよく知られていて、この「遠読」という言葉も本になる以前から関係者の間では膾炙していました。
    もともと文学研究には、アメリカで50〜60年代に出てきた「精読」(Close Reading)という概念があって、それが理想的な批評のあり方とされてきました。たとえば海外の夏目漱石の研究者であれば、『こころ』などの日本語で書かれた原文を何回も読んで論文を書くのが本道である、という考え方です。その後、いろいろな方法論が出てきましたが、それでも「精読」は一貫して文学研究の中で強い権威を持っていたわけです。
    そこに、イタリア人の文学研究者であるモレッティが、それだけでは見えないものがあるということで、“Distant Reading”という言葉を使い始めました。当初は挑発的だったり冗談のような使い方をしていたりもするんですが、具体的なやり方としては、とにかく大量にデータを集めて、そこから何が得られるかを、距離を置いて見ようとする。“Close Rading”=「近い読み」に対して、「距離を取る読み」=“Distant Reading”(遠読)と呼ばれました。
    そのコンセプトで書かれた10本の論文を集めたのが、この本です。各章はそれぞれ独立した論文なので内容はバラバラですが、“Distant Reading”という方法論は共通しています。
    もっとも、「遠読」という言葉は、この本の第2章の論文「世界文学への試論」(2000年)で初めて登場しますが、その時点では、明確な方法論があったわけではないと思います。
    その後、自分の言葉に引っ張られるかたちでデータを重視するアプローチへとシフトし、モレッティ自身も2000年にコロンビア大学からスタンフォード大学に移籍して、Literary Labという研究所を設立し本格的に研究を始めます。
    その後、2005年に『グラフ、地図、樹――文学史の抽象モデル』という本を出していますが、そこではグラフや地図を使った分析をかなりやっています。たとえば、日本の江戸時代の出版物の点数をグラフ化して、同時代のアメリカやイギリスといった欧米諸国と比較するといった試みをしています。
    ――『遠読』のアイディアは、ビックデータを駆使した経済学の研究でベストセラーとなったトマス・ピケティの『21世紀の資本』の文学史版という印象を抱きました。
    秋草 ピケティの場合は、いろんな国の数百年分のデータを苦労して集めた、という部分が注目されたわけですよね。今、人文系の分野でこういった試みは、モレッティ以外にもあちこちで行われています。今後はそういったデジタル・ヒューマニティーズと文学研究を融合した分野がどんどん出てくると思います。

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  • 大見崇晴「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」特別編 『騎士団長殺し』 その白々しい語りについて【不定期連載】

    2017-03-17 07:00  
    540pt


    サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家としても活動している、大見崇晴さんの「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」。今回は特別編として、2017年2月24日に発売された『騎士団長殺し』の書評を寄せていただきました。村上春樹は何故「白々しい語り 」を必要としているのか。春樹への批評や、春樹自身の他作品からの引用を踏まえながら、話題の最新刊に鋭く切り込みます。

     2017年2月17日に、村上春樹の新刊タイトルが『騎士団長殺し』と知ったとき、旧来からの読者はため息をついた。そのタイトルからモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』であることが察せられたからだ。
     『ドン・ジョヴァンニ』では主役ドン・ジョヴァンニが女たらしで様々な女性と関係を持ち、剣捌きにも優れ、騎士団長を殺したほどでもある。そして彼は、石像となった騎士団長に地獄に引きずり込まれる。
     こういった筋立ては、しばしば揶揄される村上春樹作品の特徴そのものである。幾人かの女性と関係を持ち、地獄を巡り、眠りにつくことで小説が閉じられる。だから、『騎士団長殺し』というタイトルから、自己の作品に対して作者自身が言及している、いかにも村上春樹らしい、白々しい小説だと予想されたのだ。
     実際に、『騎士団長殺し』という小説は白々しい小説なのだ。屋根裏に隠された「騎士団長殺し」と名付けられた日本画を眺め、「それから私ははっと思い出した。モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』だ」と語り手が呟いている小説なのだ。
     この白々しい語りを村上春樹は何故必要としているのか。その解答は簡単なものだ。連載では以前説明したが、村上春樹の小説とは、「自己療養」のために「心理学」を土台にした比喩が用いられ、それらのみでは単調で短編小説にしかならない作品を引き伸ばすために「商品カタログを盛り込んで水増しさせた小説」なのである。その手口を自ら「騎士団長殺し」というタイトルで以って明かしたのである。
     では何故、村上春樹は手品師が廃業手前でするように、手口を明かしてしまったのだろうか。この理由は「自己療養」のために「心理学」で小説を執筆してきたため、既存の作品についての記憶も振り返る必要が出てきたためだ。本作では明らかに過去の作品を意識させる表現が多く盛り込まれている。
     作品冒頭で主人公夫婦が離婚危機にあるのは『ねじまき鳥クロニクル』を模したものだ。作中のキーパーソンとなる免色渉(メンシキ・ワタル)は、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のことを意味している。「あれではとてもイルカにはなれない」という章タイトルは『羊をめぐる冒険』(いるかホテルが登場する)を意識したものだろう。主人公の年齢が36歳に設定されているのは、作中で地下を潜るという表現を最初に活用した長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を発表した年齢であり、この小説でも地下めぐりは行われる。ジョージ・オーウェルの『1984』についても言及がある。それどころか「風の音に耳を澄ませて」というデビュー作『風の歌を聴け』を想像させるフレーズが会話に散りばめられる。『ねじまき鳥クロニクル』で取り扱われたノモンハン事件は、南京虐殺に置き換えられ、以前は「井戸」(=イド、無意識といった個人的なもの)として語られていたものが、「(忘却の)穴」(集団による暴力的なもの)といった思想家ハンナ・アーレントを想起させるように改善がなされている。
     そのような常連さん向けの接待にしか思えない部分が多いとはいえ、『騎士団長殺し』は、村上春樹にとっては久々のヒットといえる小説だ。この小説は過去のテーマを総ざらいしたところがある。また、いままで深掘りしてこなかったテーマをようやく取り扱ったという新味がある。死と老いである。
     「死と老い」というテーマについては、のちほど語ることとして、ひとまず従来から幾つかある村上春樹のテーマにおいて、本作に重く取り扱われるているものを取り扱うこととしよう。
     第一部「顯れるイデア編」、第二部「遷ろうメタファー編」といった部のタイトルにもなっているように、創作について問題意識がある。画家という作者とクリエーターという共通点を持っている主人公が、クリエイトすることについての問題意識とテクニックが比喩を用いて物語として紡がれる。
     小説中登場する「騎士団長」なるキャラクターは、自分のことを「イデア」と名乗る。騎士団長は作中の登場人物・雨田具彦の日本画「騎士団長殺し」に描かれた飛び出したキャラクターである。このキャラクターとの対話で主人公である「私」は次のように語る。

    「ぼくが思うに」と私は言った。「イデアは他者の認識そのものをエネルギー源として存在している」
    「そのとおり」と騎士団長は言った。そして何度か肯いた。「なかなかわかりがよろしい。イデアは他者の認識なしに存在し得ないものであり、同時に他者の認識をエネルギーとして存在するものであるのだ」
    (第二部p.119)

     ここから読み取れるのは、村上春樹の芸術観である。イデアとは芸術作品の言い換えであって、作品は他者に認識されることで作品として存在し得るというのが村上春樹の芸術観なのである。

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  • 大見崇晴「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」第9回 『風の歌を聴け』について 複製とその起源【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.771 ☆

    2017-01-17 07:00  
    540pt

    大見崇晴「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」第9回 『風の歌を聴け』について 複製とその起源【不定期連載】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2017.1.17 vol.771
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガでは大見崇晴さんの連載「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」第9回をお届けします。ヴォネガットやブローティガンといったアメリカ文学の〈借用〉からなる村上春樹の作品。デビュー作『風の歌を聴け』を参照しながら、そのメタフィクショナルな手法が構築した「自己複製の起源」について論じます。
    ▼プロフィール
    大見崇晴(おおみ・たかはる)
    1978年生まれ。國學院大学文学部卒(日本文学専攻)。サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動、カルチャー総合誌「PLANETS」の創刊にも参加。戦後文学史の再検討とテレビメディアの変容を追っている。著書に『「テレビリアリティ」の時代』(大和書房、2013年)がある。
    本メルマガで連載中の『イメージの世界へ』配信記事一覧はこちらのリンクから。

    前回:大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第8回 あなたが純文学作家になりたいならば――ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』と『2666』を中心として

     本論では可能な限り、村上春樹の処女作『風の歌を聴け』(一九七九)に関わる内容に留める。このような断りが村上春樹の作品を論じる際には求められがちになる。かつて批評家、中村光夫が断じたように戦後日本文学においては需要に応えるべく作品を生産するために、自己模倣を繰り返す傾向が見られた。
     だが、そのことを差し引いても村上春樹の自己模倣は甚だしい。いや、むしろ自己模倣というよりも、村上春樹作品は、自己複製の反復の結果、巨大に増殖したひとつの連続体のようにも読める。多くの読み手(批評家、研究者たち)は、そのような読みの誘惑に抗えずに来た。たとえば、村上春樹研究書としては最もポピュラーなものといえる加藤典洋『村上春樹イエローページ』(荒地出版社、のちに幻冬舎文庫)においては、登場人物のひとり「鼠」からそう呼ばれることもある「鼠三部作」(処女作の他には、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』)との関連性を読み解こうとしている。おそらく加藤典洋の読み方がオーソドックスなものと思われるが、本論では敢えてこのような観点による読みを断念したい。そのことによって、毎年ノーベル賞候補に取り上げられることで、今日では作家として自明な存在になった村上春樹と処女作に対して忘れかけていた疑問を浮かび上がらせることになる。
     すなわち、「自己複製する作家である村上春樹は、処女作において何を複製したのか」、という疑問である。
     二十一世紀においては、村上春樹が登場した時の鮮烈さ――それが二〇〇〇年ごろにおいても、国語教科書が掲載している小説と断絶が感じられるほど――だったことは、最早伝わりづらいかもしれない。ひとまず、主要な芥川賞作家たちを取り上げることで鮮烈さを感じる所以となる停滞を説明しておこう。
     一九五五年、石原慎太郎の『太陽の季節』が発表され、一躍流行する。これに追うように一九五八年に開高健、大江健三郎が芥川賞を受賞し、二十代の作家たちが活躍する。彼らはスターとして扱われた。このことは新人賞として設けられながら、創設間もないころに尾崎一雄が四〇代で受賞するなどして、その意義が曖昧だった芥川賞が、文字通りの「新人賞」として機能していた時期にあたる。文芸時評を多く担当し、戦後日本文学のペースメーカーとして機能した批評家・平野謙はこの時期を次のように振り返る。

     戦後、第一次戦後派とか「第三の新人」の名のもとに、おおくの新人が輩出して、なかでも石原慎太郎の登場は、戦後文学史の上でも注目すべき「事件」のひとつだった。いわば純粋戦後派ともよぶべき文学世代がここに登場したことになる。開高健・大江健三郎は石原慎太郎につづく純粋戦後派の新鋭にほかならなかった。
    (平野謙『平野謙全集 第九巻』所収「開高健・大江健三郎」)

     こうした傾向は、一九六〇年代までは継続されたが、一九七〇年代になると歩留まりする。一九七〇年代は明らかに前進よりも停滞である。具体的な作家名を取り上げると、森敦のような戦前から文壇居住者といえる人物から、戦後派に近い古山高麗雄、戦中に小学生であった所謂「焼跡派」である日野啓三、林京子といった第二次世界大戦を体験した世代が多く受賞している。
     戦後生まれの受賞は知られているように、一九七五年の中上健次「岬」に始まる。とはいえ、その文体は大江健三郎や自然主義小説に影響を受けたものであり、小説に親しみを持たない読者にはひと目で分かる新しさではなかった。清新さを持って受け止められたのは翌一九七六年の村上龍『限りなく透明に近いブルー』である。アメリカ文化(ドラッグ・カルチャーなど)を素材に盛り込んだことも清新さの一因であった。さらに翌一九七七年に、村上春樹の同級生にあたる三田誠広が、一九六〇年代末の早稲田大学の学生闘争を題材にした『僕って何』で受賞している。
     一九七九年に村上春樹が『風の歌を聴け』で登場したのは、こうした閉塞感からの脱出が伺えた時機であり、その素材として一九六〇年代以降のカウンター・カルチャー(およびポップ・カルチャー)が見出されつつあったと言える。突破口を開いたとも言える村上春樹について、坪内祐三は以下のように回想する。

     同時代の中でうすうすとそう感じていながら、あとから振り返ってそれを断定的に語ることのできる事象がある。
     たとえば一九七九年に文章表現の世界で一つのパラダイム・チェンジが起きたこと。
     当時、私は、大学二年の若者だった。
     (中略)
     村上春樹の小説言語、沢木耕太郎のノンフィクション言語、椎名誠のエッセイ言語、それらに共通しているのは、それぞれに、そのジャンルの言語表現を強く意識化していたことだ。つまり村上春樹の小説はメタ・フィクションであり、沢木耕太郎のノンフィクションはメタ・ノンフィクションであり、椎名誠のエッセイはメタ・エッセイだった。
    (坪内祐三「一九七九年のバニシング・ポイント」)


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  • 大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第8回 あなたが純文学作家になりたいならば——ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』と『2666』を中心として【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.755 ☆

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    大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第8回 あなたが純文学作家になりたいならば――ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』と『2666』を中心として【不定期連載】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.12.16 vol.755
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    今朝のメルマガでは大見崇晴さんの連載『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第8回をお届けします。近年注目を集めているラテンアメリカ文学の代表的作家ロベルト・ボラーニョ。その代表作『野生の探偵たち』『2666』における、ひたすら間延びしていく記述と有名作品のパロディから、村上春樹との共通項を見出していきます。
    ▼プロフィール
    大見崇晴(おおみ・たかはる)
    1978年生まれ。國學院大学文学部卒(日本文学専攻)。サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動、カルチャー総合誌「PLANETS」の創刊にも参加。戦後文学史の再検討とテレビメディアの変容を追っている。著書に『「テレビリアリティ」の時代』(大和書房、2013年)がある。
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    前回:大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回 三島の終焉 その美的追求によるパフォーマンス原理(後編)

     二〇〇九年ごろ、ラテンアメリカ文学の歴史を変えた小説家として、ロベルト・ボラーニョの名前が日本でも喧伝されはじめた。その噂はボラーニョ最後の著作となる『2666』の英訳が全米批評家協会賞を受賞したことがきっかけだった。まず、短編集の『通話』が翻訳され、次いで大作として前評判が高かった『野生の探偵たち』が二〇一〇年に翻訳された。
     『野生の探偵たち』の翻訳は、それまで土着的な、それでいて幻想的な世界を表現していると――それは近代的な表現である小説に、前近代的な世界観を織り込むという矛盾を含む表現方法であるのだが――思われてきたラテンアメリカ文学の印象を一新させた。小説に登場するのはラテンアメリカの文壇だ。小説中の前衛詩人をめぐって五十三人のインタビューが収録されている。インタビューされた人物にはノーベル文学賞を受賞した詩人オクタビオ・パスの秘書もいる。描かれるのはラテンアメリカの土着的な風景ではなく、都市生活者である詩人や作家たちの楽屋裏である。
     近年、紹介者として八面六臂の活躍をしている寺尾隆吉が『ラテンアメリカ文学入門』で説明するところによれば、ボラーニョ登場の直前は回想録(そこには「大御所作家の友人という特権を頼みに私生活を切り売りしたような」ものが混ざっていたという)が氾濫する状態であり、閉塞感があったようである。寺尾によれば『野生の探偵たち』は「批評界から高い評価を受けたほか、販売面でも好成績を収め、作家の道を模索する新世代の純文学作家たちにとって道標」になったという。
     ところで筆者は、翻訳されて間もない『野生の探偵たち』を読んで鼻白んだ。この小説は数十頁で収まる内容を邦訳にして八百頁程度に引き伸ばしたものだったからである。だが、翻訳当初は訳者である柳原孝敦が「めっぽう面白くて紛れもない傑作なのだけれど、何しろ長くて難解なこの小説」と「訳者あとがき」に記しているように、ボラーニョは前衛的な、それも難解な小説家と思われていた。しかし、これは途方もない誤解であると筆者は断じる。ボラーニョの小説は難解なのではなく、ただひたすら頁数を消費しており、読者が読み解こうとする苦労が報われない――読み解こうとした所で謎がないためだ――小説であり、その報われ無さを難解さとして納得しようとする読者に向けた小説なのである。
     つまるところ、それは難解さを装った書物であり、頁を捲るという肉体労働を続けるだけで、難解さと対峙したと誤解できる書物なのである。そのような小説を求める読者とは難解を受容している自分に酔いしれるために書物を消費しようとしている読者である。
     この悪質な作者と読者の結託による構造的な欠陥を持った小説がボラーニョ文学の特徴と言える。日本の海外文学におけるボラーニョの紹介は、そのような構造欠陥を知って知らぬかのようになされたと言えよう。
     たとえば、三島賞作家小野正嗣と英米文学者である越川芳明との対談は、ある意味では欺瞞に満ちたものと言える。

    小野 ストーリーが明確な構造を持っていて、透明に意味が伝わってくるものを好むようです。スピードと透明さに価値を置く読者が明らかに増えていて、小説を「享受」というより「消費」している。でも小説は「言葉でできた芸術作品」ですから、「そういう読み方ってまずいんじゃないか」って思っている読者も実はけっこういると思うんです。だから、そうした人たちは、あっという間に消費される作品とは対極にある『2666』のような作品を待ち望んでいて、いまこの本を読みながら、わからないものに時間をかけて取り組む喜びを感じているのではないでしょうか。もちろん、わからないって言っても、決して難解なわけではないですから。読み手にある程度の負荷をかけてくる作品を、読者もどこかで希求しているんじゃないでしょうか。
     そうは思うのですが、おそらくこの小説を本屋で見て手に取る人は、やっぱり一般的な読者の方ではないですよね。
    越川 村上春樹が好きな人は手に取らないよね。
    (「この小説は「砂漠」だ」)


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  • 大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回 三島の終焉 その美的追求によるパフォーマンス原理(後編)【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.738 ☆

    2016-11-22 07:00  
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    大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回 三島の終焉 その美的追求によるパフォーマンス原理(後編)【不定期連載】
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    2016.11.22 vol.738
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    今朝のメルマガでは大見崇晴さんの連載『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回の後編をお届けします。
    あまりに有名な三島由紀夫の最期、市ヶ谷駐屯地での割腹自殺に目論まれたパフォーマンス的な意図とは。遺作『豊穣の海』の虚無的な結末や、晩年の異常ともいえる切腹への執着から、三島の「死とエロティシズム」の思想を明らかにします。

    ▼プロフィール
    大見崇晴(おおみ・たかはる)
    1978年生まれ。國學院大学文学部卒(日本文学専攻)。サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動、カルチャー総合誌「PLANETS」の創刊にも参加。戦後文学史の再検討とテレビメディアの変容を追っている。著書に『「テレビリアリティ」の時代』(大和書房、2013年)がある。
    本メルマガで連載中の『イメージの世界へ』配信記事一覧はこちらのリンクから。

    前回:大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回 三島の終焉 その美的追求によるパフォーマンス原理(前編)

     ここで一旦、これまでの議論を振り返ることとしよう。
     三島由紀夫はノーベル賞を逃して以降、強烈に(俗流的な解釈ではあるが)バタイユに惹かれていた。その結果として禁止の設定とその違犯を骨格に据えた作品を多く生むことになる(本人がインタビューで明言したものとしては、日本演劇史屈指の名作とされる「サド侯爵夫人」がある)。
     『豊饒の海』四部作もまた、同様に禁止と違犯を確認し続ける物語である。主人公がおり、禁止を犯しては死に至るが転生し、それを本多繁邦なる人物が観察し続けることで成立する奇妙なクロニクルであるのだ。違犯するものは時代ごとによって異なる。明治末を描いた第一部『春の雪』は、宮家(天皇家)への違犯である。昭和初期を描いた第二部『奔馬』は体制への違犯(血盟団事件や二・二六事件を連想させる)である。戦中から戦後まもなくの日本を描かず、なぜかタイに舞台を移すのだが、第三部『暁の寺』は同性愛という当時における禁止(この場合は女性同士)が描かれる。この第三部は明確に歪な作品であり、小説の半分が継続されてきた転生物語なのだが、もう半分は作者・三島にとっての仏教観として読めるものなのだ。
     のちに「小説とは何か」の中で第三部に触れて「私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつた」と述べ、「最終巻が残つてゐる。『この小説がすんだら』といふ言葉は、今の私にとつて最大のタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することがイヤでもあり怖ろしい」と三島自ら禁止を自己演出してみせる。この場合実行される違犯は明らかに自殺である。その口吻とは裏腹に三島由紀夫は第三部の完了とともに、自刃に向けて猛スピードで準備を整えていく。
     そして第四部である。描かれるのは作品と同時代の昭和四十五(一九七〇)年である。ここでは禁止は描かれない。ただ、これまで延々と観察されてきた転生物語が、観察者・本多の単なる妄想に過ぎないという荒廃した結末だけが待っている。転生者を名乗る「透」なる青年も本多の資産目当ての狡っ辛い人物として描かれ、物語には救いはない。あたかも、これまで執拗にも反復されてきた禁止と違犯の物語が徒労であったかのように、スカスカな終焉を向かえる。
     かのように、見える。しかし、『天人五衰』という小説の末尾には下記年月日が記されている。

    「豊饒の海」完。
    昭和四十五年十一月二十五日

     この一点において三島は虚構である『豊饒の海』と現実の行動とを切り結ぶ。この日付が記されたその日に、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地に森田必勝ら楯の会を引き連れ、人生最後の日を迎えるのだ。現実を虚構が侵食しだす。違犯が実現するとすれば、現実においてないというわけだ。
     ところで、三島由紀夫は中村光夫との対談で行動について次のようにやり取りをしている。

    三島 しかし文学者は、生きていて自分の作品行動自体を行動化しようというのは無理だね。ぼくはそういうことをずいぶんいろいろ試みてみたけれど、ただ漫画になるばかりで、何をやってもだめですよ。
    中村 そういうことはないでしょう。
    三島 というのは、生きている文学者が自分の作品行動と自分の何かほかの行動とが同じ根から出ているのだということを証明することがとてもむずかしい。(中略)それを証明しようと思って躍起になればなるほど漫画になるのはわかっているけれど、死ねばそれがピタッと合う。自分で証明する必要はない。世間がちゃんと辻褄を合わせてくれる。
    (『人間と文学』所収「行動と作品の『根』」)

     三島自身が語る悪戦苦闘ぶりからもわかるとおり、『天人五衰』の末尾に記された日付とは「行動と作品」を世間が辻褄を合わせる最後の一手なのである。この日付があるだけで、のちに鳥肌実や後藤輝樹によってパロディされてきたパフォーマンスを記憶に残せたのである。

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  • 大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回 三島の終焉 その美的追求によるパフォーマンス原理(前編)【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.703 ☆

    2016-10-04 07:00  
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    大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第7回 三島の終焉 その美的追求によるパフォーマンス原理(前編)【不定期連載】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.10.4 vol.703
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    今朝のメルマガでは大見崇晴さんの連載『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第6回をお届けします。
    多彩な分野で才能を発揮しながら、実は長編作家としての評価は必ずしも高くない三島由紀夫。そこには〈人物〉よりも〈風景〉に他者性を認める特殊な資質があり、その限界を乗り越えようと晩年の彼が挑んだのは、自らの生の神話化と、日本的な官能美の追求でした。

    ▼プロフィール
    大見崇晴(おおみ・たかはる)
    1978年生まれ。國學院大学文学部卒(日本文学専攻)。サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動、カルチャー総合誌「PLANETS」の創刊にも参加。戦後文学史の再検討とテレビメディアの変容を追っている。著書に『「テレビリアリティ」の時代』(大和書房、2013年)がある。
    本メルマガで連載中の『イメージの世界へ』配信記事一覧はこちらのリンクから。

    前回:大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』補論 記号と階級意識(後編)【不定期連載】

     「劇作家としては一流、批評家としては二流、作家としては三流」。
     これが純文学プロパーの間で紋切り型の符牒がごとく伝わっている三島由紀夫に対する評言である。後輩世代の作家、特に「若い日本の会」のメンバーたちに共有された三島評価であった。ある意味で後発世代なりに三島を追い落としに掛かった表現と言えるのだろう。
     たとえば、「三島由紀夫と天皇」について語らないできたと『物語から遠く離れて』の小冊子に収録されたインタビューで答える批評家(にして三島賞作家!)・蓮實重彦は、ほぼ同年代ではあるが四歳ほど年長の批評家・江藤淳に「まァ三島由紀夫の小説は、江藤さんの初期批評以来あまり買っていらっしゃらないということはわかるんですけれども、(笑)でも彼の出現なんていうのは、戦前的なものの残照的でしょうかね」と話に水を向ける。

    ……結局、三島さんは、戯曲家としてもっとも優れ、短編作家としてとしてこれに次、長篇作家としては非常に辛い道を歩んだでのはないか。ところが人間というのはむずかしいもので、あの人はやはり、本格的な小説家として自分を登録してもらいたかったから、最期に無理をして四部作を……。あれはちょっと悲惨だったなァと思いますよ。(中略)要するに、短編を無限にに引きのばすというかたちでしか長編小説を書けないという感受性はどうしようもないですね。
    (江藤淳・蓮實重彦『オールドファッション』)

     江藤淳の述懐は、自身が三島由紀夫の欠点を真正面から指摘した評論「三島由紀夫の家」に対して、その誠実さを讃えた三島からの返礼があったことを思い出しながらのものだ。
     かように好意的な記憶とともに引き出されながらも、なお否定的に評価される三島の(長篇)小説は、如何なる欠点を持っていたのか。結論を先取すると、三島由紀夫という作家は小説というジャンルに対して、決定的な見当違いをしているのだ。特に小説中のリアリズムについて大きな見当違いをしている。
     さらに先取して述べるなら、三島由紀夫という作家はリアリズムについて決定的な見当違いをしたために、「本格的な小説家」に登録することは叶わなかったし、鬼面人を驚かす右翼的作家への変貌を見せるのである。しかし、三島由紀夫の素顔は――仮面は愛国的な作家というところだろうが――それどころか三島由紀夫の死には、国体の護持との関連は殆ど無い。天皇にすら実際のところ関心はない。垣間見えるのは同性愛への関心とそれに密接に関連している美に関する傾向だ。
     さて、ひとまずはリアリズムにおける三島の見当違いを明らかにすべきであろう。この見当違いについては、またしても彼自身が手の内を明かしている(!)。われわれは三島由紀夫のアリバイとも言える随筆「わが創作作法」にあたるべきだろう。この随筆の中で三島は四つの方法が重要だと述べている。「主題の発見」、「環境を研究すること」、「構成を立てること」、そして、最期に必要なこととして、評論よりも堅苦しくない随筆にふさわしく「書きはじめること」の重要さを読者に説く。いかにも随筆らしい落ちと言えるだろう。ところで、三島は随筆中で「本格的な小説家」にはふさわしくない記述を幾つか犯している。特に、第二の方法である「環境を研究すること」には三島という作家の才能を制限する習慣が存在していたことを無意識的に明かしている。おそらくは、そこに多くの読者も何かしらの言いようのない、誤りが認められることだろう。三島という作家の限界が露呈するのは例えば下記のような文章である。

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  • 【インタビュー】秋草俊一郎「〈文学〉は情報化を欲望する――デジタル・ヒューマニティーズの可能性」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.693 ☆

    2016-09-20 07:00  
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    【インタビュー】秋草俊一郎「〈文学〉は情報化を欲望する――デジタル・ヒューマニティーズの可能性」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.9.20 vol.693
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    今朝のメルマガは、フランコ・モレッティ『遠読 〈世界文学システム〉への挑戦』を翻訳した、秋草俊一郎さんのインタビューです。過去の膨大な文学作品をビックデータとして解析するという、新しい比較文学の手法「デジタル・ヒューマニティーズ」の代表的な論者であるフランコ・モレッティと、彼が提示した「遠読(Distant Reading)」という方法論は、文芸批評に何をもたらすのか。比較文学の研究者であり翻訳家でもある秋草さんにお話を伺いました。

    『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』
    ▼内容紹介(Amazonより)
    テクノロジーや流通の革命・発達により世界がネットワーク化する今日、
    ごく少数(世界で刊行される小説の1%にも満たない)の「正典(カノン)」を「精読」するだけで「世界文学」は説明できるのか?
    西洋を中心とする文学研究/比較文学のディシプリンが通用しえない時代に、
    比較文学者モレッティが「文学史すべてに対する目の向けかたの変更を目指」して着手したのが、コンピューターを駆使して膨大なデータの解析を行い、文学史を自然科学や社会学の理論モデル(ダーウィンの進化論、ウォーラーステインの世界システム理論)から俯瞰的に分析する「遠読」の手法だ。
    本書には、「遠読」の視座を提示し物議を醸した論文「世界文学への試論」はじめ「遠読」が世界文学にとりうるさまざまな分析法が展開する10の論文が収められている。グラフや地図、系統樹によって、世界文学の形式・プロット・文体の変容、タイトルの傾向や登場人物のネットワークが描出されてゆくのだ。
    21世紀に入り、人文学においても、デジタル技術を用いて対象や事象をデータ化し、調査・分析・綜合を行う〈デジタル・ヒューマニティーズ〉の方法論が拓かれつつある。「遠読」もまた世界文学に新たな視界を開こうとする比較文学からの挑戦なのだ――「野心的になればなるほど距離は遠くなくてはならない」。 
    ▼プロフィール
    秋草 俊一郎(あきくさ・しゅんいちろう)
    1979年生まれ。日本大学大学院総合社会情報研究科准教授。2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。ウィスコンシン大学客員研究員、ハーヴァード大学客員研究員、東京大学専任講師などをへて2016年より現職。亡命作家ウラジーミル・ナボコフを主な研究対象としながら、近年は翻訳研究・比較文学・世界文学などの研究もおこなう。著書に『ナボコフ 訳すのは「私」――自己翻訳がひらくテクスト』(東京大学出版会)、訳書にドミトリイ・バーキン『出身国』(群像社)、ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフの塊』(作品社)、シギズムンド・クルジジャノフスキイ『未来の回想』などがある。
    ◎聞き手・構成:菊池俊輔
    ■ 文学を“離れて読む“「遠読」というアプローチ
    ――まずは、この本のタイトルにもなっている「遠読」が、どういう意味で使われている言葉なのか、改めてお伺いします。
    秋草 そもそも「遠読」って聞き慣れない言葉ですよね。この本の原書のタイトルである“Distant Reading”は、著者のフランコ・モレッティによる造語で、「遠読」はそれを邦訳したものです。この本の元となった論文は、海外の動向に通じた文学研究者の間ではよく知られていて、この「遠読」という言葉も本になる以前から関係者の間では膾炙していました。
    もともと文学研究には、アメリカで50〜60年代に出てきた「精読」(Close Reading)という概念があって、それが理想的な批評のあり方とされてきました。たとえば海外の夏目漱石の研究者であれば、『こころ』などの日本語で書かれた原文を何回も読んで論文を書くのが本道である、という考え方です。その後、いろいろな方法論が出てきましたが、それでも「精読」は一貫して文学研究の中で強い権威を持っていたわけです。
    そこに、イタリア人の文学研究者であるモレッティが、それだけでは見えないものがあるということで、“Distant Reading”という言葉を使い始めました。当初は挑発的だったり冗談のような使い方をしていたりもするんですが、具体的なやり方としては、とにかく大量にデータを集めて、そこから何が得られるかを、距離を置いて見ようとする。“Close Rading”=「近い読み」に対して、「距離を取る読み」=“Distant Reading”(遠読)と呼ばれました。
    そのコンセプトで書かれた10本の論文を集めたのが、この本です。各章はそれぞれ独立した論文なので内容はバラバラですが、“Distant Reading”という方法論は共通しています。
    もっとも、「遠読」という言葉は、この本の第2章の論文「世界文学への試論」(2000年)で初めて登場しますが、その時点では、明確な方法論があったわけではないと思います。
    その後、自分の言葉に引っ張られるかたちでデータを重視するアプローチへとシフトし、モレッティ自身も2000年にコロンビア大学からスタンフォード大学に移籍して、Literary Labという研究所を設立し本格的に研究を始めます。
    その後、2005年に『グラフ、地図、樹――文学史の抽象モデル』という本を出していますが、そこではグラフや地図を使った分析をかなりやっています。たとえば、日本の江戸時代の出版物の点数をグラフ化して、同時代のアメリカやイギリスといった欧米諸国と比較するといった試みをしています。
    ――『遠読』のアイディアは、ビックデータを駆使した経済学の研究でベストセラーとなったトマス・ピケティの『21世紀の資本』の文学史版という印象を抱きました。
    秋草 ピケティの場合は、いろんな国の数百年分のデータを苦労して集めた、という部分が注目されたわけですよね。今、人文系の分野でこういった試みは、モレッティ以外にもあちこちで行われています。今後はそういったデジタル・ヒューマニティーズと文学研究を融合した分野がどんどん出てくると思います。

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  • 大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』補論 記号と階級意識(後編)【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.688 ☆

    2016-09-13 07:00  
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    大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』補論 記号と階級意識(後編)【不定期連載】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.9.13 vol.688
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    今朝のメルマガでは大見崇晴さんの『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』の補論、「記号と階級意識」の後編をお届けします。
    永山則夫から加藤智大に至るまで、現代の無差別殺人の特徴は、そのあまりの「凡庸さ」にあります。昭和から平成まで断続的に発生している「メッセージなき犯罪」。その根底にある、コミュニケーションの不全性について論じます。
    ▼プロフィール
    大見崇晴(おおみ・たかはる)
    1978年生まれ。國學院大学文学部卒(日本文学専攻)。サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動、カルチャー総合誌「PLANETS」の創刊にも参加。戦後文学史の再検討とテレビメディアの変容を追っている。著書に『「テレビリアリティ」の時代』(大和書房、2013年)がある。
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    前回:大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』補論 記号と階級意識 〜消費・要請・演技・自意識・幸福・アルゴリズム〜【不定期連載】

    3.演技と消費
     消費社会が訪れたことを、若者批判を介して明らかにしようとしていた人物がいる。その人物もまた、寺山修司だった。
     当時すでに『書を捨てよ、町へ出よう』や『ドキュメンタリー家出』などで知られていた寺山修司は、若者たちの「自立」や「反抗」を代弁する人物に思われがちだ。しかし、よく読めば彼は一貫して新左翼によるテロリズムに対して疑いを持ち続けていた。社会主義・共産主義の激戦地域だったベトナムに向かわず、アラブや北朝鮮に亡命していった日本赤軍派の宣伝主義的な疚しさを寺山修司は視界に収めている。若者たちは自己実現のために反抗的な若者を演じ、それにふさわしい舞台を探しているのではあるまいか? 寺山修司の評論は当時の若者たちが抱えていた疚しさを見逃さない。引用魔として知られた寺山は経済学者ヴェブレンの言を引いて論じる。

     (略)爆弾を投げて戦死した奥平剛士の死は、政治的にだけ解明しようとしても解明できるものではない。彼には、表現したい願望があり、それが彼の参加の理由でもあった。「もはや消費が自己顕示の手段として有効ではありえない時代では、あとはじぶんの命を浪費することによって自己顕示する手段がのこされる」(ベブレン「有閑階級の理論」)。

     日本赤軍は自己顕示のために自らの命を浪費した部分が存在すると、寺山は分析する。つまり、日本赤軍に属した奥平の死に、政治によって社会を変革する以外のことが強く存在すると看る。寺山は自死も厭わぬテロに消費主義を見出す。「持つこと」、所有のための対価を支払うことを超えた消費である。言うなれば、何者かを演技するために必要な衣裳の所有することをも超越した消費主義である。消費の対象は自らの生命に達する。そこにあるのは、演技の果てに、依頼もなく死地に向かう人間である。永山と同時代に、階級や階層を無くそうとした(共産主義に熱中した)若者の末路には、こうした消費主義の極限が待ち受けていた。
     顧みれば、これほどまでに消費に飽き足らなかった若者たちが、消費のない世界を思い描いて行動することでしか、消費というエクスタシーの享受が不可能だったのが、昭和元禄(一九六四)と呼ばれた高度成長期を迎えた日本だったのである。

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  • 大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』補論 記号と階級意識 〜消費・要請・演技・自意識・幸福・アルゴリズム〜【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.641 ☆

    2016-07-12 11:00  
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    2016.7.12 vol.641
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    今朝のメルマガでは大見崇晴さんの『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』の補論として、「記号と階級意識 〜消費・要請・演技・自意識・幸福・アルゴリズム〜」をお届けします。1980年、村上春樹が『1973年のピンボール』を発表した年に、田中康夫は『なんとなく、クリスタル』で鮮烈なデビューを果たします。都市生活における洗練を描いたその作品の背後には、連続ピストル射殺事件の永山則夫という陰画が貼り付いていました。大量消費社会の黎明期に何が起きていたのかを「文学」と「事件」の両面から問い直します。
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    前回:『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第5回 記憶・神話・イメージ
    ■ 0.記号と消費社会
     村上春樹の小説は記号に溢れている。
     同世代のクリエーターにとって、それは清新なものだった。
     たとえば、1980年に発表された『1973年のピンボール』には、極めてスノビッシュな一節が数多と現れる。その一つを引用しよう。

     十二の歳に直子はこの土地にやってきた。一九六一年、西暦でいうとそういうことになる。リッキー・ネルソンが「ハロー・メリー・ルウ」を歌った年だ。その当時この平和な緑の谷間に人の目を引くものなど何ひとつ存在しなかった。
    (村上春樹『1973年のピンボール』)

     引用した文章において、登場人物たる直子に関する情報はほとんどなく、極めて冗長なものである。直子が「平和な緑の谷間」に移り住んできたこと以外(リッキー・ネルソンや「ハロー・メリー・ルウ」)は、蛇足とも言える。もしかしたら、年頃のおしゃまな女の子がボーイフレンドを探しているという歌詞が、直子のイメージに重ね合わせられるかもしれない。しかしそれは、村上春樹と同年代(1940年代、戦後間もない生まれ)でなければ共感しづらいところだろう。今日では「ハロー・メリー・ルウ」のような穏やかな歌詞の歌も、平和な緑の谷間も探し出しにくい。
     仮に村上が意図した(と思われる)方向で読み解いていた読者がいたとしても、それは少数だろう。とはいえミニコミ的に、カルト的な解釈を望む作家として村上春樹は登場し、そして実際に読者が期待どおりに没入し、数えきれない程の謎本が登場したのが村上春樹という作家なのである。日本人の大多数はリッキー・ネルソンも「ハロー・メリー・ルウ」も知らなかったのだから。
     このようなスノビッシュな文体を採用した村上春樹について、春樹のデビュー作『風の歌を聴け』(1979)を掲載した雑誌『群像』の新人賞候補として肩を並べた野崎六郎は、当時を以下のように振り返る。

     純粋に技法上の処理に限定されるにしても、「あのような文体」によって作品が可能だったという事実に、わたしは羨望に近いものを感じたのだった。七〇年代のわたしらのつたない二十代の経験が、贋金つくりのようなキッチュなスタイルで語りうるという事実にたいして、である。
    (野崎六郎『世界の果てのカレイドスコープ』)


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  • 大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第5回 記憶・神話・イメージ【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.619 ☆

    2016-06-16 07:00  
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    2016.6.16 vol.619
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    今朝のメルマガでは大見崇晴さんの連載『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第5回をお届けします。T・S・エリオット、ハート・クレインらに代表される〈日常の神話化〉から、高度資本主義社会における〈固有名の記号化〉へ。村上春樹の〈イメージの文学〉はいかにして出現したのか。その文学史的な必然を論じます。
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    前回:『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第4回 記憶・小説・人間
     村上春樹が自己を投影した語り手を小説に用いることが多い作家であると例証できたとしよう。それでは村上春樹作品中の記憶――そして記憶には付き物である名詞――に議論を戻す。
     ここで取り上げるのは「カティーサーク」である。「カティーサーク」は世界的に有名なイギリスのスコッチ・ウィスキーである。一九二三年に開発されてから世界中で呑まれている。村上作品にも何度も登場するこのウィスキーのために村上春樹は詩を捧げている。

    カティーサーク
    カティーサークと
    何度も口の中でくりかえしていると
    それはある瞬間から
    カティーサークでなくなってしまうような
    気がすることがある
    それはもう緑のびんに入った
    英国のウィスキーではなく
    実体を失った
    ちょうど夢のしっぽみたいな形の
    もとカティーサークという
    ただのことばの響きでしかない
    そんなただのことばの響きの中に氷を入れて飲むと
    おいしいよ
    (村上春樹・安西水丸『象工場のハッピーエンド』所収「カティーサーク自身のための広告)

     世界文学史的には「カティーサーク」の名前が登場した、もしくは重要なものとして取り扱われたのは、「カティーサーク」がブランドとして広まって間もなく詠まれたハート・クレインの詩『橋』(一九三〇)によってだろう。二十世紀前半のアメリカを代表する詩における橋とは、クレインが居住したニューヨークにあるブルックリン橋(当時にして橋としては最長であり、二十世紀アメリカの繁栄を象徴した)であり、「カティーサーク」はクレインが愛飲していたウィスキーだった。

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