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記事 5件
  • e-sportsはどう社会を変えるのかーー〈ゲーム〉と〈スポーツ〉の相克をこえて(後編)

    2019-11-13 07:00  

    今朝のメルマガは、2018年に明治大学で行われたe-sportsをテーマにしたシンポジウムのレポートをお届けします。後編では、メディアテクノロジーの研究者・福地健太郎さんが、スコアを争う競争に留まらない、多様な評価軸を取り込んだ文化的なゲームのあり方について提案します。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    デジタル技術と身体
    中川 最後にご登壇をお願いするのは、同じく明治大学の福地健太郎先生です。福地先生は主にメディアテクノロジーの工学的なご研究をされていて、デジタルゲームにも非常に造詣が深く、学内の教員ではもっともゲーム研究に通じていらっしゃる方の一人です。いまの高峰先生のご発表のなかにもあった「デジタル技術と身体」の問題に対して、クリティカルな立場からのご発表をいただけると思います。
    身体運動とテクノロジーの関係をめぐって
    本学総合数理学部で教員を務めております、福地と申します。ふだんは、さまざまな映像メディアを多様な場面に実装していく研究をしております。最近は能と映像技術の融合ということをやっておりまして、2019年1月には実際に能舞台で披露いたします。この系統のルーツにあたる研究として、もう15年くらい前のものになりますが、2003年には音楽フェスティバルでお客さんがリアルタイムに楽しめる映像作品の展示を行っています。こうした実践を通じて、映像技術が人間の身体や行動にどのような影響を与えられるのかということが、自分の研究の中心テーマになっております。 この技術を応用したもので、スポーツとエンターテインメントのテーマに関連するものとして、「自撮りトランポリン」というものをつくりました。この研究の背景として、健康増進やリハビリテーションの現場では、ただ「運動しなさい」と言っても誰もやりたがらない、ということがあります。特にリハビリテーションの場合は、継続が辛くて、ついついサボってしまう。そのような人たちに対して、モチベーションを提供するために映像技術を応用できないかというところから取り組みました。具体的には、トランポリンでピョンピョン跳んでいると、Instagramよろしく、パシャッと良いタイミングで写真を撮ってくれるという、単純な機構のシステムです。 これを明治大学中野キャンパス前の中野セントラルパークで行われた夏祭りで展示したところ、4時間の展示で約660枚の写真を撮影することができました。1枚の写真を撮るためにだいたい10回くらい跳ぶので、延べ6,600回くらい人を跳ばしています。図の右側に一番枚数が多い順番に結果を並べた順位表がありますが、一位の子は84枚、つまりこの日、840回くらいトランポリンを跳んでいることになると思います。さぞかしこの日の夜は、ぐっすり眠れたのではないでしょうか。
    ゲームの力でスポーツの評価軸を多様化する
    ここでポイントになるのは、ゲームの面白さをリハビリテーションや運動に取り入れようという際には、より高く跳びましょうとか、たくさん跳びましょうとか、ある種のスコア競争のかたちで採り入れがちになることです。いわゆるゲーミフィケーションの方法論の多くは、そのような定量化された指標によってユーザーを動機づけしようという仕組みが中心になっているように思います。 ただ、トランポリン運動の場合に「高く跳ぼう」ということを目的に取り入れてしまうと、危険な姿勢で跳んでしまったり、反対にすぐに諦めてしまう子がどうしても出てしまう。そうした時に、競争の原理として「より高く」「より速く」といったスポーツ的な競技性ではなく、「より面白い写真を撮りましょう」という呼びかけをしているところが、この研究のポイントです。
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  • e-sportsはどう社会を変えるのかーー〈ゲーム〉と〈スポーツ〉の相克をこえて(中編)

    2019-11-12 07:00  

    今朝のメルマガは、2018年に明治大学で行われたe-sportsをテーマにしたシンポジウムのレポートをお届けします。中編では、スポーツ社会学が専門の高峰修さんが、デジタルゲームを含んだ包括的なスポーツの定義のあり方について発表します。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    e-sportsとスポーツ
    中川 さて、ここまではe-sports業界の「中の人」側からのプレゼンテーションでした。ここからは明治大学の二人の教員に、それをアカデミックサイドがどのように受け止めるのかという方向で議論の提起をお願いしたいと思います。e-sportsという新しいジャンルの勃興に対して、われわれの社会にはスポーツが築いてきた既存の文化があります。いわば先達である一般スポーツの経験から捉え直した時に、e-sportsが果たす社会的な意義や役割は、どのように考えることができるのか。スポーツについての研究を専門とされている高峰修先生のお話をいただきたいと思います。
    「スポーツ」の定義からe-sportsを考え直す
    皆さん、こんにちは。私は大学で体育の実技の指導をするかたわら、「スポーツ社会学」という分野でスポーツのことを考えています。 そもそも、スポーツとはどういうものかということを、皆さんは深く考えたことがあるでしょうか? これを考えるにあたって、スポーツをめぐる著名な専門家や国際会議、あるいはいろいろな国の法律などで取り上げられているスポーツの定義について、共通する要素を抜き出してみました。 一つ目は、スポーツのいちばんの基本にあるのは、何かのために行う仕事や労働ではなく、広い意味での「遊び」だということ。英語では「play」という言葉が使われますが、これは人間にとっての遊びについて深く考察した研究家であるヨハン・ホイジンガやロジェ・カイヨワといった人たちが指摘している、非常に有名な考え方です。 二つ目は、遊びのなかでも、特に「競争」や「対戦」、あるいは「挑戦」といった要素を本質とするもの。レスリングやサッカーのように対戦相手がいる場合もありますし、陸上競技で記録の更新をめざすように自分との戦いという場合もあります。または登山や波乗りなど、自然環境への挑戦という場合も含まれます。 三つ目は、そういったもののなかでも、さらに「身体活動」を伴うもの。私が大学に入った頃は、「大筋運動」ということが、スポーツの定義のなかで言われていました。要は、身体を構成する筋肉を大きく動かす、または大量の筋肉を使って行う活動だという定義です。 ただしこれは、よく考えると「本当にそうなのかな?」と思えてきます。スポーツを語る時の難しさは、あまり典型的な定義には収まらないさまざまなスポーツがあるということですが、今日のこの話に関しては、利点になるかもしれません。
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  • e-sportsはどう社会を変えるのかーー〈ゲーム〉と〈スポーツ〉の相克をこえて(前編)

    2019-11-11 07:00  

    世界的なe-sportsの隆盛に対して、ようやくキャッチアップをはじめた日本のゲーム業界。日本のe-sportsはどのような課題に直面しているのか。PLANETS副編集長・中川大地がコーディネーターを務めた明治大学でのシンポジウムの記録をお届けします。前編では、SEGA・eスポーツ推進プロデューサーの西山泰弘さんとウェルプレイド株式会社代表取締役CEO谷田優也さんが、日本のe-sportsの状況について報告します。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    イントロダクション
    明治大学野生の科学研究所研究員の中川と申します。 土屋恵一郎学長からのアカデミックフェスの主旨説明でもあったように、これからの知のあり方の「楽しさ」を考えていくことが、この「e-sportsはどう社会を変えるのか」と題したセッションの役割になります。ニュースなどで耳にしたことがある方も多いかと思いますが、e-sportsというのは、いわゆるデジタルゲームを使った対戦競技です。これが2018年に入って、非常に大きく盛り上がってきています。 もともと日本には、1970年代からゲームセンターや家庭用ゲーム機で根強くゲーム文化を培ってきた土壌があります。対して、世界では主にPCでプレイするゲームタイトルを競技種目に、個人あるいはチームを組んだゲーマーたちが高額な賞金をかけて対戦するのを一種のプロスポーツとして観戦するといったシーンが、ここ15年ほどで急成長してきました。そのような海外主導の競技文化を輸入するかたちで、いまようやく国内でもe-sportsブームが起きているという状況です。 こうしたゲームをめぐる異文化接触が、どのように社会を変えていくのかということを、今日は楽しみながら考えていきたいと思っています。実はこのセッションの後、「明治大学学長杯 三種混合e-sports大会」として、実際に大学でe-sports大会を行ってみようという取り組みを準備しています。その主旨紹介も兼ねたかたちで、今回のセッションを進めていきたいと思います。 最初にご登壇いただくのは、午後のe-sports大会の競技種目の一つである『ぷよぷよeスポーツ』のベンダーであるSEGA eスポーツ推進室プロデューサーの西山泰弘さんです。
    e-sportsとは。そして何が生まれるんだろう。
    日本におけるe-sportsの現状
    皆さん、SEGAの西山と申します。私からは、「e-sportsとは。そして何が生まれるんだろう。」と題して、日本におけるe-sportsの現状や、SEGAのようなゲーム会社の立場からはどう見えるかというスタンスについて、私の個人的な考え方も交えながらご説明させていただきます。 まず、e-sportsとは何かについてですが、ゲームを通してプレイヤー同士がスキルを駆使して対戦することに加えて、ゲーム大会とその環境下でのプレイヤーとファンの共感の場、といった捉え方をさせていただいています。つまり、プレイヤー同士が競う大会が、観客を集める興行として行われるという構造があるわけです。 たとえばスポーツというカテゴリーには、個人的にキャッチボールをしたり、学校の運動会でリレーをしたり、さまざまな内容が含まれていますが、そのようなアマチュアの活動が裾野になって、プロ野球を観たり、オリンピックで応援したりする人たちがいます。あるいは関連グッズを売ったり、それを買ったりする人たちもいて、プロスポーツという興業が成り立っています。そのような活動を全部含めて、私たちはスポーツと呼んでいます。 ゲームについても同じことが言えるわけです。家庭でゲームを買って、ちょっと友達と対戦することもあれば、ゲームセンターやオンラインで見知らぬ誰かと対戦することもある。そこからいまではプロゲームプレイヤーと呼ばれる人たちが登場して、自分でプレイする以外にも試合を視聴したり、ファンとして同じ場を共感するという、スポーツビジネスと同じようなシーンが成立してきています。このような状況を指してe-sportsという表現があるのだと思っていただくと、わかりやすいかと思います。 国内でe-sportsが話題になっている背景には、2018年の2月に「JeSU(日本eスポーツ連合)」という統一団体が発足したことがあります。それまではe-sportsの業界団体は四つほどあったのですが、オリンピックやアジア大会、あるいは国体などの国内外のスポーツ競技大会に日本の選手が出場する場合の派遣主体になったり、競技種目となるタイトルの版権をもつゲーム会社とのあいだでの権利処理をしたり、あとは大会で選手に賞金を出す際の法律的な問題をクリアにするための窓口として、一つに統合したわけです。 そのような動きを受けて、国内のゲームメーカー各社も本腰を入れ始めて、2018年は「e-sports元年」と言われるようになりました。たとえば、私がいるSEGAグループ内でのe-sportsの事業部も4月に立ち上がりましたし、5月にはコナミの『ウィニングイレブン[註1]』が2019年に開催される国体文化プログラムに協力する告知があり、さらには、8月にジャカルタで開かれたアジアカップに採択されています。9月の東京ゲームショウでも、2017年のVRに続いてe-sportsがゲーム業界のいちばんのメイントピックとして扱われるような状況が生まれています。
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  • 土屋恵一郎×門脇耕三×宇野常寛 「知」のリブランディングーー人工知能時代の「人知」と「身体」、そして大学の意味を考える(後編)

    2019-11-07 07:00  

    今朝のメルマガは、土屋恵一郎氏、門脇耕三氏と宇野常寛の対談の後編です。インターネットとマーケットによって変貌しつつある「知」を、大学はいかに取り込むべきか。新たな公共圏として都市に開かれた空間、アジールとしての大学のあり方を考えます。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。※前編はこちら
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    自分で自分を見る視線
    門脇 誰しもが漂流していくようなイメージになったとしても、ただ流されていればいいというわけではないはずです。われわれはどのように知的な漂流をすればいいのでしょうか。
    宇野 これは僕の一方的な大学に対する思いですが、大学には正しく漂流ができる場であってほしいと思っています。 たとえば、「“人文知”対“工学知”」という話題が人の口にのぼることもあります。まず現代は工学的な知が台頭してきている時代だという認識がある。要は、コンピュータの性能の向上によって、いろいろなことができるようになり、世界中の情報産業が次々と新しいサービスを発表してきています。それによって、人間はいままで体験しなかったさまざまなことを体験できるようになっていて、彼らはその膨大なデータをもっている。 しかし、彼らはそれをマーケットに最適化するだけなんです。彼らは確かに新しい人間性を結果的に発見し、切り開いているのかもしれませんが、それが人類にとってどういう意味をもつのか、人間という存在にとってどういう意味をもつのかについて考察することは基本的にありません。マーケットに最適化するだけです。それに対して、かつての人文知を中心とした大学アカデミズムや出版ジャーナリズムは軽蔑の態度を表明するだけで、何らアプローチしてこなかった。ろくに知りもしないで、情報技術と資本主義は人間を幸せにしない、的な「物語」を語るだけで済ませてきた。そういう不毛な二項対立があったわけです。逆に、工学知の人々の側では、あいつらは何をいまだに古き良きカビの生えた教養を守っているんだと考えているでしょう。そんなふうにお互いに軽蔑しあっている状況が、いまあるのだと思います。 しかし、大学は、本来そういうものが越境する場であるはずです。いまのある種の情報工学知の時代に、大学はそこに対して背を向けるのではなく、工学優位の時代であるからこそ批判的向学心の場であるべきでしょう。工学主導の人類のイノベーションを基本的には肯定的に受け入れつつ、それを批判的に検証することが新しい場の構築につながっていくのだと思います。
    土屋 企業が最近、大学スポーツのなかに情報機器を導入したらどうですか、と提案してくることがあります。たとえば、ドローンを飛ばしてラグビーの試合全体を情報化して、フォーメーションを分析してはどうかといったことですね。それは面白いなと私は思っています。体育会にも提案して、スポーツを情報化していくことはできるでしょう。 ただ、あえて歴史を振り返ってみると、実はそのようなことは昔から言われているのではないかとも思うのです。 たとえば、4~5年前にMITのメディアラボに行った時のことです。そこには日本人の研究者がいて、ドローン技術を説明する際に、世阿弥の「離見の見」という言葉が出てきました。おそらく彼は、私が能の専門家であるということは知らずに、「自分は知っているぞ」と思って言ったのでしょうね(笑)。しかしいずれにせよ、日本人が考えた「離見の見」という概念がアメリカで言及されたことには大きな意味があると思います。 「離見の見」とは、能の演者が自分の身体を離れて、観客の視点から自身の姿を見ることを言うのですが、それが意味するのは、自分を省みる時に、外側の目から見ることの大切さです。舞台で舞う時に、自分が舞うという意識だけでなく、自分が回されている、あるいは違う力によって抑えられて自分が回っているという意識が大事なのです。世阿弥はこれを常に説いていました。 ドローンを飛ばしてラグビーの試合を上から見て分析するということと「離見の見」とがどう違うのかと言うと、私はそれほど違わないと思うのです。そこにはやはり自分の身体を離れたところから見るという視点があり、このような視点は「自分がよそからの力に動かされている」という見方を生むはずです。 現在の学問は専門化が進み、その分野に精通した人間にしかわからないようなものになっている。つまりブラックボックス化しているわけですが、それを過去の知識に照らしあわせて捉え直していくと、もう少し話の広がりが出てくると思うのです。
    宇野 昔、吉本隆明が『ハイ・イメージ論』を80年代の終わりに出しましたね。あれはふつうに考えたら思いつきのエッセイで、ほぼ中身のないものと思われているようですが、いま読み返すと面白いんです。 あそこで吉本は「普遍視線」と「世界視線」と言っています。「普遍視線」というのは、われわれが水平のアイボールで見ている現実世界で、「世界視線」というのは、衛星写真のようなものであると。吉本は、これから情報技術が発展していくと、われわれはこの普遍視線と世界視線の両方をもつようになっていくだろうと80年代のうちに書いています。これ、完全にいまのGPSやライフログの話ですよね。 人間は、自分の身体を見ることが基本的にはできない生き物でした。コンピュータの発展によって何がいちばん変わったかというと、自分の身体を常に見ながら行動できるという点です。SNSだって、そうかもしれない。SNSはヴァーチャルな世界での一つの身体ですが、自分が常に見ているわけですね。つまり、いちばん変わったのは身体観のはずなんです。 いま世阿弥の話が出たように、どちらかというと、これは東洋的・日本的な世界観で、実際に吉本隆明がそこで引用しているのも、臨死体験の話です。臨死を体験する時、なぜかみな同じようなことを言う。死にそうになっている自分の身体を自分が外側から客観視しているという夢を見るんです。この自分が自分の身体を見るという経験は、宗教的な想像力や、われわれの死生観のようなものとも結びついています。 しかし、この状況はいまや日常化しています。それまでは宗教的な訓練を積んだ者だけが行けた高みが、カジュアルにGPSを実装している現代では、われわれの日常になっているわけです。そんな時代にわれわれの世界認識はどう変わっていくのか。この枠組みが、情報技術時代の身体の核にあると思います。
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  • 土屋恵一郎×門脇耕三×宇野常寛 「知」のリブランディングーー人工知能時代の「人知」と「身体」、そして大学の意味を考える(前編)

    2019-11-06 07:00  

    あらゆる知識がネット上にアップされ、AIが急速に発展しつつある現在、私たちは何を、どのように学ぶのか──。明治大学長の土屋恵一郎氏、明治大学理工学部建築学科准教授の門脇耕三氏と宇野常寛が、現代における「知」のあり方について激論を交わします。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    イントロダクション
    門脇 理工学部の建築学科で教えております門脇です。今日はどうぞ宜しくお願いいたします。 今日は二人の方をお招きしております。一人は学長の土屋恵一郎先生です。土屋先生は法学部の教授を務められておりましたが、法学者であるとともに、能の評論を中心とした演劇評論家でもあります。もうお一方は宇野常寛さんで、批評家であり、批評誌『PLANETS』を主宰されています。現代社会に対してさまざまな観点から鋭い批評をされていますが、広範な分野の知の動向にも通じていらっしゃいます。 今日は「『知』のリブランディング」という、昨年からの継続しているイベントですが、副題を「人工知能時代の『人知』と『身体』、そして大学の意味を考える」としました。「人知」「身体」「大学」という三つのキーワードを用意したわけですが、まずはこの背景についてご説明します。 現代に生きるわれわれは、日頃から情報技術が飛躍的に進化していることを実感しています。Windows95が出たのが1995年ですが、そこからすでに20年以上が経って、コンピュータや情報技術はわれわれの生活に自然に溶け込んでいます。さらに最近顕著に感じるのは、情報の世界が実世界に干渉し始めているということです。象徴的なのが『ポケモンGO[註1]』のブームだと思いますが、情報空間での出来事が、われわれの行動にじかに影響するようになってきました。それが新しい状況と言えそうです。 そういったなかで、現代人はますます「動物化」が進んでいる、と言われています。要するに、さまざまな情報に反射神経的に反応する人間が増えている。これは世界的な現象でもありそうです。一方で、昨今は「第三次人工知能ブーム」とも言われ、機械の知が人間の知を超える「シンギュラリティ」と呼ばれる事態を迎える日も近いと囁かれています。 こうした状況に現在のわれわれは置かれているわけですが、ここであらためて、人間がもっている「知」の意味を考えようというのが、このシンポジウムの第一のテーマです。 この人間の「知」は、物理的には脳をその源泉としているわけですが、脳はそれ単体で機能する計算機ではなく、身体と接続されて初めて機能することが特徴です。すなわち、身体は行為するデバイスであって、それが環境と何らかのインタラクションを起こすことによって、脳に情報が伝わり、そこで初めて「考える」という働きが起こる。そのように考えると、人工的な計算機と人間の知能とが圧倒的に違うところは、やはりこの身体を備えているということに尽きるのでしょう。人間は、身体を備えた知的なユニットである。このような人間をどのように再評価できるか、議論していきたいと思っています。 今日の進め方ですが、僕のほうでいくつかトピックを用意してきましたので、宇野さんと土屋先生のお考えを伺いながら、議論を深めていければと思います。 まず伺いたいのは、情報機器・情報技術の発展をお二人がどのように捉えているのか、ということです。これは現在進行形の現象ではありますが、そこにどのような批判的な視座を与えることができるのか、お二人のお考えを伺いたいと思います。 第二に、情報技術の発展は単なる技術的進歩にとどまらず、社会の基盤を揺さぶり、パラダイム変化さえ起こしつつあることをわれわれは感じているわけですが、この来たるべきパラダイムはどのように総括できるのか、議論をしてみたいと思っています。 第三に、現在では知的な機器が環境のなかに自然に溶け込んでいる状況になっているわけですが、そうした環境下における「人間」の意味について、再考してみたいと思っています。知的な機器とは、たとえばスマートフォンもその一つでしょうし、あるいは、最新の自動車や家電のようなコンピュータに接続されたプロダクトもそうでしょう。そして、それらはインターネットを介して相互に接続され、環境そのものになっています。つまり現在のわれわれが生きている環境には、人間以外の知的な存在がそこかしこに潜んでいるわけですが、そうした状況下で人間はどのような意味をもちうるのか、考えてみたいと思っています。 最後のトピックは、これからの「学び」についてです。いままで「学び」と言うと、情報を取得する知識習得型の学習が真っ先にイメージされることが多かったわけですが、いまはその「学び」のあり方が変容しつつある。では、われわれはどのように学んでいけばいいのか。また、学びが変容する時代に、大学にはどのような役割が求められるのか、話し合っていきたいと思っています。それでは、よろしくお願いいたします。
    人知・身体・大学
    土屋 実は私は、学長になる前から電子書籍をどう大学のなかに取り入れるのかを考えていました。いまから5年前に明治大学に総合数理学部ができた時には、大学のテキストを全部電子書籍にできないかと提案したことがあります。実際には、それはなかなか難しく、いまだにそうなってはいませんが。 私がテキストを電子書籍にしたかったのはなぜかと言うと、現在の大学の教科書がもつ完結したスタイルを、情報技術や電子書籍を通して、変化するテキストとしてつくり直してほしかったからです。 いまは、教科書を学生に渡して、教員が授業のなかで解説をしながら伝えていき、時には議論をし、最終的にテストでどう理解したかを見るというスタイルになっています。それを私は、電子書籍が常に書き換えられていくというスタイルにできないかと提案したわけです。電子書籍として渡したものが、授業のプロセスのなかで書き換えられていく。教員も書き換えていくし、同時に学生自身もそのテキストに介入して書き換えていく。それが層として残っていって、最終的には、最初に与えられたテキストがまったく違ったテキストに変容していく、同時にそのプロセスは残っていくというような、いわば多層のテキストがつくれないだろうかと考えたわけです。 これはふつうの印刷媒体では不可能なんですね。ふつうの印刷媒体とは、つまり紙ですから、そうした書き換えのプロセスはなかなか実現できません。しかし、いまの電子書籍ならばできるのではないか、あるいは電子書籍を通じて教員と学生のネットワークがつくられていけば、これがテキストのかたちで反映されていくことが可能なのではないか、と提案してみたのです。いままでのカノン化されたテキストではなく、ネットワークのなかで拡散し、同時に変容していくテキストができあがっていくと、大学教育のなかでの学生と教員の関わり方、あるいは学生どうしの関わり方が変わっていくのではないかと思ったわけです。 さらにその電子書籍が完全にオープンにされていれば、もともとの制作時に参加していない人や、海外の研究者なども参加していって、教室の中のテキストから最終的には世界という教室の中のテキストにまで変容していくかもしれません。それをまずは教員と学生のあいだで、権威的ではないフラットな関係のなかでやっていけたら非常に面白いものになるのではないかと思ったのです。 教科書がオープンテキストとしてできあがり、教室もそれに近いかたちになっていくのが、おそらくこれからのインターネットの社会のあり方でしょうし、電子媒体を通して協力がなされていくことが、非常に面白い展開を生み出していくことになるはずです。 そのなかで、「教える-教えられる」という関係も当然変わっていきますから、そこでは過去の権威的関係は消えているし、また消えていくことでしょう。その象徴として、電子書籍におけるオープンテキストという発想がこれから定着していくといいのではないかと思っています。
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