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記事 16件
  • 稲葉ほたて×宇野常寛 実況者のファンは誰なのか? 闘会議から見えるオタクの現在(PLANETSアーカイブス)

    2019-11-01 07:00  
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    今朝のPlANETSアーカイブスは、2015年に幕張メッセで開催されたイベント「闘会議2015~ゲーム大会とゲーム実況の祭典~」をめぐる、稲葉ほたてさんと宇野常寛の対談をお届けします。〈実況〉に〈ゲーム〉が従属しているという状況が明らかになった2015年の「闘会議」。かつて総合芸術の最新型だった〈ゲーム〉は、プラットフォーム優位の時代にどこへ向かうのかを考えます。(初出:「サイゾー」2015年4月号)※本記事は2015年4月21日に配信された記事の再配信です
    ■ 闘会議で明らかになった「実況生主好きの女子中高生」と「昔ながらの男性オタク」の分断
     
    宇野 「闘会議2015」(以下、「闘会議」)には、公式放送のコメンテーターとして最終日の午後から参加したんだけど、正直カルチャーショックだった。まず目についたのは、若い女子が実況生主【1】系のブースに大量に押しかけていたこと。彼女たちが「アイドル」として生主や実況者を消費していて、その動員力もすごい。いや、もちろん「歌ってみた」「踊ってみた」の頃からある現象なんだろうけど、それ以上のショックだった。
     それに合わせて、客層の断絶も感じた。例えば中村光一【2】さんの来場に盛り上がる往年のサブカル/ゲーム好きと、実況生主好きの女子中高生という2つの世界観に分かれていて、それらが基本的には没交渉という(笑)。
     ただ、こうした断絶も含めて、ここにはいま「ゲーム」をめぐる状況が全部詰まっていると思った。要するに、スマホがプラットフォームのひとつとして定着した現代のゲーム業界地図がきれいに出ていたと思うのね。大手ソフトメーカーとガンホーのような新興勢力が並んで、中央にはかたくなにスマホを拒否している任天堂が独立して静かに鎮座している、みたいな(笑)。そしてそれとは別にニコニコ動画を中心に、実況というゲームプレイを見るだけ、つまりコミュニケーションツールとしてのゲームという文化が定着した。
     ゲームバブルの崩壊からさらに二重三重の破壊があって初めてゲーム業界の硬直化が結果的にほぐれて、全体性を記述しうるイベントができるようになったんだな、というのが僕の大雑把な感想だね。
     

    【1】実況生主
    ここでは、ゲームのプレイ動画を「実況」放送する配信者のことを指す。以後の「ゲーム実況者」「実況者」も同様。ひたすらゲームの内容をしゃべりながらプレイする動画を流しており、ニコニコ動画の初期からあったジャンルだったが、ここ数年で一気に存在感を増している。ゲームの腕だけではなく、しゃべりの面白さやキャラの強さなども人気のポイントになる。若年層に絶大な支持を受け、人気実況者4人のユニット「M.S.S Project」は昨年3月に渋谷公会堂でライブイベントを開催した。
    【2】中村光一
    ゲームクリエイター。スパイク・チュンソフト代表取締役、ドワンゴ取締役。『ドラゴンクエスト』をつくった人物のひとりとして知られる。その他代表作に『弟切草』『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』『かまいたちの夜』ほか。

     
    稲葉 ニコニコ動画の初期は、同人文化が盛り上がっていったシーンを経験したオタクたちの作ったカルチャーで、目立つ担い手は明らかに男が多かったんです。ところが、その後ボカロや歌い手の勢力が強くなるにつれ、10代女子のユーザーが増えていった。宇野さんは「断絶」と言いましたが、それも奇妙な断絶の仕方になっていて、いわゆるかつての同人的なサブカルチャーを相当変質した形で引き継いでいるのが実は10代女子のカルチャーなんです。『艦隊これくしょん』に続いてDMMが出した『刀剣乱舞』【3】が女子に爆発的に受けているのがわかりやすい例ですが、これは近年のオタクカルチャー全体における隠れた論点です。深夜アニメのタイムラインで興奮してるアニメアイコンって、実はいま女子が相当に多いじゃないですか。
     

    【3】『刀剣乱舞』
    DMMゲームズとアダルトゲームメーカー・ニトロプラスによる「刀剣育成」シミュレーションゲーム。ブラウザゲームで、ユーザーは「物に宿る心を目覚めさせて引き出す能力者"審神者"となり、武具から目覚める戦士「刀剣男士」を司る。彼らを束ねた「白刃隊」を率いて、過去に干渉して歴史を改変しようとする「歴史修正主義者」を討伐してゆく。今年1月のサービス開始から即ヒットしており、pixivランキング上位を同作の二次創作が占めるようになっている。

     
    宇野 オタクの人数の割合として、起業したり制作側に回るのは男性が多いから目立っていなかっただけで、アニメやマンガはもともと女性ユーザーが多いという説はずっとあるんだよね。それがニコ動経由で、歌い手文化などをきっかけにゲームに流れ込んできたというのは有力な仮説かもしれない。
    稲葉 それに加えて、この10年くらい、二次創作の現場を含めて女性のオタク業界に関しては「ステージの下で盛り上がる」という文化がずっとありました。ジャニーズやV系、2・5次元舞台などの流れの中で、ネタが投下されたときの盛り上がり方が共有されている。そういうステージカルチャーへのリテラシーがあった上で、いろんなジャンルにいたファンたちが「ゲーム実況が面白いらしい」という情報を得て参入してきているようです。
    宇野 これは僕がよく言うことだけど、そもそも今の男性向けのアイドルブームも、AKBの「宝塚文化の密輸入」から始まっているからね。そして間接的にV系の文化なども入ってきていると思う。つまりステージカルチャーやファンコミュニティの文化においては、女性のほうが先進的なんだよね。そしていまや、より複雑化した素人の神格化に突入していて、それがおそらく今のゲーム実況者ブームなんだと思う。「ゲーム実況ブーム」じゃなくて「ゲーム実況者ブーム」だということがポイント。
    稲葉 これはすごく重要ですね。というのも、実はブームといってもニコニコでのゲーム実況者の数自体は増えていないんですよ。近年のステージカルチャーの特徴に、ステージと客席間の疑似恋愛的関係が挙げられますが、これは実況者も同じ。つまりファンが増えても「ステージ下でキャーキャー言っているのが楽しいから、ステージに上がろうとしない」ということが起こる。
     ただ、そもそも「実況」の文化って、ニコニコに限らずネットの中に古くからあるカルチャーなんです。みんなで「バルス」と書き込むこと【4】かもしれないし、あるいは2ちゃんねるでスレを立てて、ということかもしれないけど、テキストなり音声なりでリアルタイムの事象を追いかけながら、わいわい盛り上がるという。それを擬似同期的に実装した場所で生まれたのがニコニコの実況で、その中でいまはゲームがいちばん人気がある、という視点が重要です。最近は、ゲーム実況者が別のジャンルの実況もやっているのがいい例で、「旅動画」【5】なんかも広義の実況でしょう。これはつまり、ゼロ年代のカルチャー論でよくいわれていたような「ゲームや音楽にネットワークが入ってくることによってネタ消費になった」というところから7〜8年が経って、「ネタ消費の仕方そのものに形式やジャンルがあって、楽しみ方にパターンがある」ということが構造化されて見えてきたんだと思うんです。そして、もはやゲーム実況を考える上では、実況こそが本質にあって、ゲーム論は二義的なものでしかないというくらいに事態は反転した。そうなると、もうこういう「遊び」の分析に焦点を合わせないと、カルチャーを語るのは難しい。
     

    【4】みんなで「バルス」と~
    アニメ『天空の城ラピュタ』がテレビで放映される際、リアルタイムで視聴している人たちが劇中の展開と同時にツイッターに「バルス!」と書きこむのがここ数年お約束となっている。13年8月の放映時には秒間14万3199ツイートという過去最高の数字に到達し、ツイッター運営側を驚かせた。
    【5】「旅動画」
    人気実況者が各地に旅行にいく様子を撮影した動画。『水曜どうでしょう』風の企画などもある。

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  • 稲葉ほたて×宇野常寛 『パズドラ』をプレイしていたのは誰なのか?――ソーシャルゲームの歴史と運営思想(PLANETSアーカイブス)

    2019-10-18 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、大ヒットアプリゲーム『パズル&ドラゴンズ』を巡る、稲葉ほたてさんと宇野常寛の対談です。GREE・DeNAというソーシャルゲーム2強の牙城を崩すべく、ガンホー・オンライン・エンターテイメントが繰り出したこのゲームから、ゼロ年代以降のゲーム史の流れを議論します。(構成:稲葉ほたて 初出:「月刊サイゾー」2014年2月号) ※本記事は2014年2月24日に配信された記事の再配信です。
    宇野 僕が『パズル&ドラゴンズ』をやったのは実質1カ月くらいなんだけど、やっている時期は結構ハマったんだよね。自分の周囲でもやっている同年代が多かった。
     パズドラで一番意外だったのは、ゲーム自体がソーシャルではなかったことなんだよね。使っている人間もソーシャル性を求めてというより、むしろリアルの人間関係まで含めた「ソーシャル疲れ」みたいな状態の人が、黙々と遊んでいた印象がある。
    稲葉 僕も基本的には、サラリーマン時代に、会社帰りの電車で何も考えずに楽しめる娯楽としてやってましたね。ネットでゲリラダンジョンの時間割【1】が公開されてたので、間に合うように退社を早めたりして(笑)。
     パズドラに限ったことではないですが、ソーシャルゲームはガラケービジネスの隙間時間を奪い合う文化の中で、発展してきたものです。基本は暇つぶしなので、ソーシャル性なんて本質的には要らないんですよね。「ひとりでできる暇つぶしこそ最強」ですよ。
    宇野 少し大きい話をすると、いまはコンテンツが2極化していて、1年に一度のAKB48総選挙とか4年に一度のワールドカップ、数年に一回の宮崎駿の大作みたいな祝祭的な大花火か、リアルタイムで小刻みに更新されていくものという2つになってる。人間が生理的なところで求めている娯楽はこの二通りでしかないということが、社会の情報化によって明らかになってきた。そのうちのひとつの究極の流れがソーシャルゲームなんじゃないかと思う。
     ソーシャルゲームについて語るときって結局、お金の問題の文脈でしか見られていない。でも僕はソーシャルゲームのようなものが流行ってるっていうのは、「ゲームとは何か」「遊びとは何か」という問いを突きつけてる気がする。
     2010年頃に「PLANETS」VOL.7【2】で話したことなんだけど、「結局、ゲームはネットに負けた」と。人間にとって一番面白いゲームとは、LINEみたいに知り合いとダラダラ話したり、ツイッターみたいに不特定多数と戯れることなのではないか。予定調和の安心感としても乱数供給源としても、そちらのほうが優れている。そうして、せいぜいバグと戯れるのが限界だったゲームから訴求力が決定的に落ちた。その後にそこで勝ったのも、『ポケットモンスター』や『モンスターハンター』のような、社会のネットワーク性を逆手に取って、自分たちの作りたいゲームに活かしたアクロバティックな作品だけだった。その流れがケータイ機に移っていったというのが、近年のゲームの歴史だと思う。
     この流れにソーシャルゲームもあるんだけど、もともとこの手のゲームって、プラットフォームに人を置いておくために始まった経緯があるじゃない?【3】 ゲームのためにネットワーク環境を利用する、つまりコンテンツのためにコミュニケーションを利用するのではなくて、むしろコミュニティを維持するため、コミュニケーションのためにゲームを利用するというふうに逆転していた。
     そういう時期が何年かあった後で、『パズドラ』みたいなソーシャル性の弱いものが出てきた。その背景には、以前ほどSNSが単純な暇つぶしの娯楽じゃなくなってきてることがあると思う。不特定多数のネットワーク上のコミュニケーションは面白いけど、実はこれって結構アクティブな行為なんだよ。人間はスイッチがオフに近い状態だと「見知らぬ相手との出会い」なんでウザくて、頭を使わずにひとりでできるシンプルなゲームのほうがいいと思う。
    稲葉 少し歴史を整理しつつ話すと、確かに、09年の夏頃には『サンシャイン牧場』【4】のような、コミュニケーション要素の強い、農園系ゲームの存在感は大きかったんですよ。一方で、宇野さんが指摘されたようなSNSの活性化という当初の狙いはすぐに置き去りにされたんじゃないでしょうか。『ドリランド』のおかげで、毎日GREEで日記を更新するようになった人って、そんなにいない気がする(笑)。そもそも、SNSを活性化してもせいぜいmixi程度の収益ですが、ゲームのアイテム課金のそれは桁違いです。
     実際、『サンシャイン牧場』が流行っていたその年の秋には、米国のZyngaの『マフィアウォーズ』【5】にインスパイアされて、DeNAが『怪盗ロワイヤル』【6】を出してます。これで「ロワイヤル系」の波が来る。一応、互いにバトルを仕掛け合うもののコミュニケーション要素は希薄で、ソーシャル性は後退していました。さらに、翌年の秋口からは、GREEが「カード系」のゲームを本格展開してDeNAの業績を一気に追い上げていく。その象徴が、単に穴を掘って宝を集めるゲームだった『探検ドリランド』【7】の大リニューアルです。気がついたら、ビックリマンカードでバトルするような内容になっていた(笑)。こうした遊び方には、もちろん自分のカードを見せびらかして「俺TUEEEE」【8】をしたくなるような類いのソーシャル性はありますが、人間の収集欲に根差したデータベース消費の側面が大きい。
     このカード系のソーシャルゲームは、巷間言われる海外のSNSゲームの文脈とは全くの別物です。これはどちらかというと、ハンゲーム【9】が牽引することで、日本で独自に高度な発展を遂げた、バーチャル世界のアバターに課金させるビジネスから流れてきたもの。一時期激しく問題視されたコンプガチャも、アバターサービス周りで発達してきた手法だと聞きます。
    宇野 なるほど。ソーシャルゲームがゲーム批評の文脈で語られにくい理由のひとつとして、アバターサービスのようなところから発展していった歴史がある、と。つまり、いわゆるコンシューマーゲームの中心ユーザーだった20~30代男性カルチャーから切れた、もっと言えば文化というよりは風俗に近いところのサービスから始まっている。そこに後から、コンシューマーをやっていたソフトハウスが合流した。
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  • 稲葉ほたて「彼女たち」のボーカロイド――"初音ミクの物語"からは見えない世界(PLANETSアーカイブス)

    2019-10-11 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、ライター・編集者の稲葉ほたてさんによるボーカロイド文化論です。ネットのアングラ文化の一つとして登場したはずが、いつの間にかガールズカルチャーの最先端になってしまったボーカロイド。その市場とそれを巡る言説のねじれについて論じます。(初出:文化時評アーカイブス2013-2014) ※本記事は2014年5月29日に配信された記事の再配信です。
    ■日本文化の象徴になった初音ミク
     
     ボーカロイド、中でもとりわけ初音ミクは現在、単にネット上の創作文化にとどまらない、現代日本の文化におけるイコンになっている。特に10年代に入ってから、初音ミク関連のビジネスやグッズ展開は著しい。かつてはテレビにミクが登場するだけで事件になっていた時代があったことが、懐かしくさえ思えるほどだ。
     たとえば、ボーカロイド関連のニュースを毎日紹介している「初音ミクニュース」【注1】を見てみよう。毎日のようにボカロ関連の新製品やイベントが登場していることがわかるはずだ。その内容も、もはやフィギュアやCDなどのオタク関連商品にとどまらない。昨年で言えば、少女マンガ誌「りぼん」(集英社)にボカロとコラボした付録が挟まれ、前年のearth  music & ecologyにつづいてMILKのようなガールズブランドもボカロとコラボしている。一方で、ボカロPや歌い手出身の歌手がアニメのテーマに抜擢されるのも、もはや珍しくない。近年は“ぐるたみん”や“りぶ”、伊東歌詞太郎などのような多くの人気の歌い手が商業進出を果たし、オリコンでも好調な成績を上げた。音楽業界における歌い手への注目は、ある意味でボカロP以上に高まる一方である。
     こんなふうにボカロ関連が商業とのコラボを華々しく展開していく状況は2007年、初音ミクの登場したあの夏【注2】から人々が見てきた夢が、まさに実現した状況といえる。
     何らのフィクショナルな物語に裏付けられていないバーチャルなキャラクターが、あたかも身体を持つ我々のごとき実在感を獲得して、市場やマスメディアで氾濫する。それはさまざまな人々の無数の創作やつぶやきの膨大な記憶を背負った「集合知」そのもののキャラクターであった。しかも、その過程でメディアに評価されずに来た数々の才能が表に出ていって活躍を始めていったーーそんな物語の全てがたかだか数年で実現したのだから、これは現代における痛快事と言ってよいだろう。ゼロ年代の参加型キャラクター文化は、ここにおいて一つの達成を見たとさえ言えるのではないだろうか。
     しかし一方で、2012年頃からだろうか。「ボカロの熱気が終わった」という声が、現場の空気をよく知る人々の間でささやかれ続けている。【注3】
     こうした問題に、決定的な形で定量的な回答を出すのは極めて難しい。新規投稿数はともかく、動画の総再生数や市場規模で言えばボカロは拡大の一途だからである。だが、10年代に入っての商業化が、2007年に始まった初音ミクを象徴としたボカロの物語に「上がり」の空気をつくりあげたのは、このシーンを追いかけてきた多くの人の体感ではないだろうか。
     そうした状況の中で、ついに2013年はハイカルチャー側からの接近も始まった。渋谷慶一郎のような現代音楽の作り手が初音ミクでオペラ(『THE END』)を上演したり、六本木ヒルズの森美術館での「LOVE展」に、初音ミクが展示されるということもあった(そこで皇后陛下が「これが、ミクちゃんですか」と口にするという「珍事」もあった)。
     ボカロ文化の商業的隆盛とハイソな人々からの接近が進行する一方で、足下でボカロ離れは着実に進行している――そんなふうに祝祭的な時間の「終焉」「衰退」を物語る声は、いまさまざまな場所でぽつぽつと上がり始めている。
     だが、その「物語」というのは、果たして「誰の」物語なのだろうか。
     
    ■「彼女たち」のボーカロイド
     
     一昨年の冬、筆者はボカロ小説について、mothy_悪ノP氏に取材したことがある。ボカロ小説というのは、人気のボーカロイド楽曲の歌詞を小説化【注4】したもので、近年驚異的な売上をあげているジャンルである。mothy_悪ノP氏は、自身の楽曲『悪ノ娘』の小説化によって、このブームの端緒を切り拓いた人物であった。この取材中、とても印象的だったのが、彼とその編集者が「いざ出版してみたら、読者は中高生の女子だった」という話をしていたことだ。当時(2010年)はまだ、ニコニコ動画は主に大学生以上の男性オタクのサイトというイメージが強く、ボカロもまたそのイメージで捉えられていた。そもそも数々の歌い手がステージに上がったドワンゴの「ニコニコ大会議」ツアーで、会場に多くの女子中高生が詰めかけていることが話題になったのが、やっとこの時期のことである。
     この頃に顕在化したリスナーの低年齢化(と、女子)へのシフトが、実際にいつ頃から起きていたのかを特定するのは極めて難しい。だが、こうしたユーザーたちに話を聞いてみると、ryoの『メルト』などの比較的初期に投稿されていた楽曲の思い出が語られるのが興味深い。彼女たちの話を鑑みるに、実は極めて早い段階からボーカロイドには低年齢層のリスナーがついていたのではないかと筆者は考えている。
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  • なぜゲーム産業はIT産業ではないのか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第6回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.372 ☆

    2015-07-23 07:00  
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    なぜゲーム産業はIT産業ではないのか稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第6回
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.7.23 vol.372
    http://wakusei2nd.com



    本日は稲葉ほたての好評連載『ウェブカルチャーの系譜』最新回をお届けします。
    どうしても分けて考えられがちなゲーム産業とIT産業ですが、もともとこの2つはパーソナル・コンピュータ革命がもたらした双子のようなもの。今回の連載では、なぜその2つが分けて考えられるようになったのかを、日米の文化的差異をヒントに分析していきます。

    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらのリンクから。
     ウェブにおける「共有」の問題を考えるときに、常に参照されるのがハッカー倫理である。それをスティーブン・レヴィは、ハッカーの歴史を描いた古典『ハッカーズ』の冒頭においてこう要約している。

    「コンピュータへのアクセス、加えて、何であれ、世界の機能の仕方について教えてくれるものへのアクセスは無制限かつ、全面的でなければならない。実地体験の要求を拒んではならない!」
    p33,『ハッカーズ』スティーブン・レビー(工学社・1987)

     レヴィは黎明期にコンピュータに触れた人々にとって、これは「声高に議論されるよりも、暗黙に了解されるものであった」と述べて、このハッカー倫理が(パーソナル)コンピュータ文化の発展史における通奏低音であったことを証明しようとする。
     彼がこの『ハッカーズ』を米国で上梓した1984年は、ハッカーにまつわる映画や、サイバーパンクなどのSF小説が次々に登場しており、その存在に対して人々の関心が高まっていた時期だった。日本でパソコン通信が始まったのも、この数年後のことである。そうした中で、このレヴィによる歴史観そのものがハッカー文化の聖典の一つとしての地位を獲得したのである。
     ところで、この『ハッカーズ』という本を今読み返してみると、不思議に「ゲーム」にまつわる描写が多いのが目につく。例えば、ハッカー倫理を記した第二章につづく第三章の表題は、いきなり「宇宙戦争」である。これは最初期のコンピュータゲームの名作(英題は『Spacewar!』)で、ノーラン・ブッシュネルがアタリ社を創業するキッカケになったゲームとしても知られる。その後もこの本では、あらゆる場所でハッカーたちがゲームを楽しんでいる描写が差し挟まれる。そしてついに、最後の部では「ゲーム・ハッカーたち」と題して、米国ゲーム産業の黎明期の姿が描かれるのである。
     しかし、それは特段、不思議な話ではない。ファミリーコンピュータの登場以降、ゲーム機のハードウェアが専用機に席巻されたために、現代の我々はIT産業とゲーム産業を切り離して考えてしまいがちだ。しかし、それらはともにパーソナル・コンピュータ革命がもたらした双子のようなものである。年配の読者であれば、専用機の普及後にさえパソコン機能がついたゲーム機があったのを覚えている人も多いだろう。
     また、このことは先日逝去した、まさに任天堂の代表取締役社長だった岩田氏の以下のような言葉からもわかる。
    岩田聡・任天堂社長の訃報に接して(編集長) | インサイド 
     この基調講演で彼は、自らをコンピュータの普及機に最初に魅せられた人々の一人として語る。ジョブズやザッカーバーグと、岩田聡を並べて語る人はあまりいないだろう。しかし、両者の根は同じパーソナル・コンピュータ革命にある。その革命がもたらした帰結の昼の顔がiPhoneやFacebookであるとすれば、その夜の顔がファミコンやWiiであった。
     だが、専用機の普及という事情を踏まえた上でも、やはりこの『ハッカーズ』という本が「ゲーム」という娯楽への言及を強く押し出して、ハッカー文化を描いているのは、現代においては隔世の感がある。というのも、その後ハッカー文化は90年代に入り、米国政府との衝突を経て、むしろしたたかな政治性を帯びていくからだ。そのことは前回にも紹介した、同じレヴィの手による『暗号化』などの著作に詳しい。
     事実、この本の出版から長い時間を経て、ハッカー文化そのものが、今や当時に比べてかなり政治性を付与されたイメージに変貌している。
     その印象は、例えば2004年に上梓されたジョン・マルコフの『パソコン創世 第三の神話』という本に顕著である。当時のシリコンバレーがいかにカウンターカルチャーの気風と強く手を結んでいたかを闊達に描き出したこの本は、最後にフレッド・ムーアという反戦運動家の政治青年が伝説のパソコンクラブ「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ」【※】を立ち上げたところで終わる。
    【※】アップル創業者のスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが在籍していた、黎明期のパソコン文化に強い影響を与えたパソコンクラブ。
     『ハッカーズ』におけるムーアの扱いは、あまり大きなものではない。せいぜい従来の社会運動とハッカーイズムの違いを理解せぬまま、コンピュータを政治という「目的」に利用しようとして挫折し、会を立ち去った創立者というくらいの扱いである(ハッカーイズムは、ハックそのものを自己目的化する)。
     それに対して、本書ではむしろコンピュータをあまり理解しないまま、自らのコミュニズム的な政治思想をぶつけたムーアの夢こそが、現代の様々なコンピュータ文化の礎になっていると論じている。実際、ムーアが口癖のように述べていたという「共有」とは、金銭への嫌悪を伴う、ほとんど私有財産の否定に近いニュアンスを帯びている。彼が夢見たというオルタナティブなコミュニティ同士のネットワークも、彼の社会運動と強く結びついていた。それらは、レヴィが要約したようなハッカーイズムと共鳴するところはあるにせよ、あまりに政治的にすぎる。
     しかし、ジャスミン革命や雨傘革命、あるいはWinnyやYouTube、UberやAirbnbを目にしてきた現代の我々は、むしろ60年代後半のある種の極左青年の類型であったムーアの夢にも、いやその夢にこそリアリティを覚えるのではないだろうか。
     少なくともコンピュータという存在が、法的な拘束や業界慣習などによる規制を加えない限り、「富まざる者にpowerを与え、富める者からpowerを奪う」革命の装置たりえることを私たちはよく知っている。「コモディティ化」のような言葉は、その本質を情報弱者に向けて口当たりよく言い換えた言葉にすぎない。そもそも、前回まで論じてきたようにウェブカルチャーにおける行動は、市場の外側で行われる「贈与」による交換を相対的に強化していくものである。

    ■ 日本におけるコンピュータ文化の受容
     では、このような北米由来のコンピュータ文化は、日本においていかに受容されてきたのだろうか。以下の漫画家・すがやみつる氏の文章は、その当時の雰囲気を伝えるものだ。特に注目したいのが、米国の実名前提のコンピュサーブに慣れた氏が、日本のパソコン通信に本名で書き込んだところ、ユーザーから非難を浴びてしまったというエピソードである。
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  • 10年代のユースカルチャーを語るために(稲葉ほたて) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.353 ☆

    2015-06-26 07:00  
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    10年代のユースカルチャーを語るために(稲葉ほたて)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.26 vol.353
    http://wakusei2nd.com

    ▲10秒動画コミュニティ MixChannel(ミックスチャンネル)より

    本日は、ネットライター・稲葉ほたてによる論考「10年代のユースカルチャーを語るために」を配信します。ゲーム実況など最新のユースカルチャーを考えるために、既存の文化批評の言葉に足りない要素とはなにか?を考えた論考です。
    初出:「文化時評アーカイブス2014-2015」(朝日新聞出版)
     
     
     この10年で起きたことを端的に言えば、支配メディアの覇権が、雑誌やテレビからインターネットへとシフトしたことである。それに伴い、コンテンツ産業では「売り切り型」のビジネスモデルが急速に崩壊し、新たなビジネスモデルの模索が課題となった。継続的にユーザーにサービスを提供していく「運営型」のビジネスモデルは、その状況における最適解の一つである。
     
     
    10年代はCGMの時代
     
     その中で台頭したのが、基本無料でありながら、払える人間からはガッツリ貰うという、AKB48などのグループアイドルや『パズドラ』などのソーシャルゲームで駆使された「フリーミアム型」、それもCDや魔法石を買えば買うだけサービスが受けられる「アイテム課金方式」のビジネスモデルであった。
     しかし、こうした文化で若者が中心になれることはない。単純な話だ。子供はカネを持っていない。実際、ネットの「嫌儲(けんもう)」と言われる文化圏には、実は子供の書き込みが多いとしばしば言われる。代わりに、彼らはむしろニコニコ動画やpixiv、あるいは掲示板などの、無料ユーザーでも有料ユーザーとほぼ変わらずに楽しめるネットのCGM文化へと流れこんだ。
     かくして、カネに余裕のある大人ほど有利な「運営型」の有料文化に対して、カネはないが時間だけは有り余っている子供ほど有利な「CGM(コンシューマー・ジェネレイテッド・メディア)」の無料文化という、ある意味では大変に殺伐とした図式が成立した。パッケージモデルという、良い物を作って定価で売るサイクルを繰り返せばよかったビジネスモデルの時代には、ここまで露骨にはならなかった「格差」とも言える。
     
     では、そこで若者が殺到したCGM文化とはどんなものか? ここでカゲプロやヒカキン、マイクラやミクチャなどの固有名を挙げるのは簡単だ。しかし、CGMの本質はそこにはない。重要なのは参加型メディアとしてのネットにおける、人間の「使い方」であり、人々が込める「欲望」である。それを「ミーム」と呼んでもよい。
     例えば、かつて「ゼロ年代批評」とでも言うべきものが存在した。当時の若手批評家が担ってきたそのムーブメントは、特に後半においては、ほぼ情報技術がもたらすソーシャル性優位の文化の登場に、旧来のカルチャーや政治がいかに向き合うかが主題となっていた。
     
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  • 実況者のファンは誰なのか? 闘会議から見えるオタクの現在 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.308 ☆

    2015-04-21 07:00  
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     実況者のファンは誰なのか?闘会議から見えるオタクの現在(宇野常寛×稲葉ほたて)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.21 vol.308
    http://wakusei2nd.com

    本日は、今年初めに行われ大盛況となったniconico主催の新たなイベント「闘会議2015」をめぐる、宇野常寛と稲葉ほたての対談をお届けします。〈実況〉に〈ゲーム〉が従属しているという状況が明らかになった今回の「闘会議」。かつて総合芸術の最新型だった〈ゲーム〉は、プラットフォーム優位の時代にどこへ向かうのかを考えます。
    初出:「サイゾー」2015年4月号(サイゾー)
     
    ▼作品紹介
    「闘会議2015~ゲーム大会とゲーム実況の祭典~」
    開催/15年1月31日、2月1日 幕張メッセにて 主催/niconico
     テレビCMなども打って大々的に開催された、ニコニコ動画にとって初となるゲーム特化のイベント。任天堂をはじめ、バンダイナムコやスクウェア・エニックス、セガ、ソニーといったコンシューマー時代からのメーカーに加え、LINEやサイバーエージェント、ガンホーほかソーシャルゲーム企業もブースを出展。ニコニコ動画で高い再生数を誇る「ゲーム実況」の実況主たちが登壇するイベントも人気を集めた。最終的に、リアルでの来場者数は3万5786人(ネットでは574万6338人)。
     
    ▼対談者プロフィール
    稲葉ほたて(いなば・ほたて)
    インターネットで生まれるカルチャーへの考察・取材等を行う。
     
    ▼関連記事
    新しいゲーム文化はユーザーから生まれる――「ニコニコ闘会議2015」会場レポート
     
     
    ■ 闘会議で明らかになった「実況生主好きの女子中高生」と「昔ながらの男性オタク」の分断
     
    宇野 「闘会議2015」(以下、「闘会議」)には、公式放送のコメンテーターとして最終日の午後から参加したんだけど、正直カルチャーショックだった。まず目についたのは、若い女子が実況生主【1】系のブースに大量に押しかけていたこと。彼女たちが「アイドル」として生主や実況者を消費していて、その動員力もすごい。いや、もちろん「歌ってみた」「踊ってみた」の頃からある現象なんだろうけど、それ以上のショックだった。
     それに合わせて、客層の断絶も感じた。例えば中村光一【2】さんの来場に盛り上がる往年のサブカル/ゲーム好きと、実況生主好きの女子中高生という2つの世界観に分かれていて、それらが基本的には没交渉という(笑)。
     ただ、こうした断絶も含めて、ここにはいま「ゲーム」をめぐる状況が全部詰まっていると思った。要するに、スマホがプラットフォームのひとつとして定着した現代のゲーム業界地図がきれいに出ていたと思うのね。大手ソフトメーカーとガンホーのような新興勢力が並んで、中央にはかたくなにスマホを拒否している任天堂が独立して静かに鎮座している、みたいな(笑)。そしてそれとは別にニコニコ動画を中心に、実況というゲームプレイを見るだけ、つまりコミュニケーションツールとしてのゲームという文化が定着した。
     ゲームバブルの崩壊からさらに二重三重の破壊があって初めてゲーム業界の硬直化が結果的にほぐれて、全体性を記述しうるイベントができるようになったんだな、というのが僕の大雑把な感想だね。
     
    【1】実況生主
    ここでは、ゲームのプレイ動画を「実況」放送する配信者のことを指す。以後の「ゲーム実況者」「実況者」も同様。ひたすらゲームの内容をしゃべりながらプレイする動画を流しており、ニコニコ動画の初期からあったジャンルだったが、ここ数年で一気に存在感を増している。ゲームの腕だけではなく、しゃべりの面白さやキャラの強さなども人気のポイントになる。若年層に絶大な支持を受け、人気実況者4人のユニット「M.S.S Project」は昨年3月に渋谷公会堂でライブイベントを開催した。
    【2】中村光一
    ゲームクリエイター。スパイク・チュンソフト代表取締役、ドワンゴ取締役。『ドラゴンクエスト』をつくった人物のひとりとして知られる。その他代表作に『弟切草』『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』『かまいたちの夜』ほか。
     
    稲葉 ニコニコ動画の初期は、同人文化が盛り上がっていったシーンを経験したオタクたちの作ったカルチャーで、目立つ担い手は明らかに男が多かったんです。ところが、その後ボカロや歌い手の勢力が強くなるにつれ、10代女子のユーザーが増えていった。宇野さんは「断絶」と言いましたが、それも奇妙な断絶の仕方になっていて、いわゆるかつての同人的なサブカルチャーを相当変質した形で引き継いでいるのが実は10代女子のカルチャーなんです。『艦隊これくしょん』に続いてDMMが出した『刀剣乱舞』【3】が女子に爆発的に受けているのがわかりやすい例ですが、これは近年のオタクカルチャー全体における隠れた論点です。深夜アニメのタイムラインで興奮してるアニメアイコンって、実はいま女子が相当に多いじゃないですか。
     
    【3】『刀剣乱舞』
    DMMゲームズとアダルトゲームメーカー・ニトロプラスによる「刀剣育成」シミュレーションゲーム。ブラウザゲームで、ユーザーは「物に宿る心を目覚めさせて引き出す能力者"審神者"となり、武具から目覚める戦士「刀剣男士」を司る。彼らを束ねた「白刃隊」を率いて、過去に干渉して歴史を改変しようとする「歴史修正主義者」を討伐してゆく。今年1月のサービス開始から即ヒットしており、pixivランキング上位を同作の二次創作が占めるようになっている。
     
    宇野 オタクの人数の割合として、起業したり制作側に回るのは男性が多いから目立っていなかっただけで、アニメやマンガはもともと女性ユーザーが多いという説はずっとあるんだよね。それがニコ動経由で、歌い手文化などをきっかけにゲームに流れ込んできたというのは有力な仮説かもしれない。
    稲葉 それに加えて、この10年くらい、二次創作の現場を含めて女性のオタク業界に関しては「ステージの下で盛り上がる」という文化がずっとありました。ジャニーズやV系、2・5次元舞台などの流れの中で、ネタが投下されたときの盛り上がり方が共有されている。そういうステージカルチャーへのリテラシーがあった上で、いろんなジャンルにいたファンたちが「ゲーム実況が面白いらしい」という情報を得て参入してきているようです。
    宇野 これは僕がよく言うことだけど、そもそも今の男性向けのアイドルブームも、AKBの「宝塚文化の密輸入」から始まっているからね。そして間接的にV系の文化なども入ってきていると思う。つまりステージカルチャーやファンコミュニティの文化においては、女性のほうが先進的なんだよね。そしていまや、より複雑化した素人の神格化に突入していて、それがおそらく今のゲーム実況者ブームなんだと思う。「ゲーム実況ブーム」じゃなくて「ゲーム実況者ブーム」だということがポイント。
    稲葉 これはすごく重要ですね。というのも、実はブームといってもニコニコでのゲーム実況者の数自体は増えていないんですよ。近年のステージカルチャーの特徴に、ステージと客席間の疑似恋愛的関係が挙げられますが、これは実況者も同じ。つまりファンが増えても「ステージ下でキャーキャー言っているのが楽しいから、ステージに上がろうとしない」ということが起こる。
     ただ、そもそも「実況」の文化って、ニコニコに限らずネットの中に古くからあるカルチャーなんです。みんなで「バルス」と書き込むこと【4】かもしれないし、あるいは2ちゃんねるでスレを立てて、ということかもしれないけど、テキストなり音声なりでリアルタイムの事象を追いかけながら、わいわい盛り上がるという。それを擬似同期的に実装した場所で生まれたのがニコニコの実況で、その中でいまはゲームがいちばん人気がある、という視点が重要です。最近は、ゲーム実況者が別のジャンルの実況もやっているのがいい例で、「旅動画」【5】なんかも広義の実況でしょう。これはつまり、ゼロ年代のカルチャー論でよくいわれていたような「ゲームや音楽にネットワークが入ってくることによってネタ消費になった」というところから7〜8年が経って、「ネタ消費の仕方そのものに形式やジャンルがあって、楽しみ方にパターンがある」ということが構造化されて見えてきたんだと思うんです。そして、もはやゲーム実況を考える上では、実況こそが本質にあって、ゲーム論は二義的なものでしかないというくらいに事態は反転した。そうなると、もうこういう「遊び」の分析に焦点を合わせないと、カルチャーを語るのは難しい。
     
    【4】みんなで「バルス」と~
    アニメ『天空の城ラピュタ』がテレビで放映される際、リアルタイムで視聴している人たちが劇中の展開と同時にツイッターに「バルス!」と書きこむのがここ数年お約束となっている。13年8月の放映時には秒間14万3199ツイートという過去最高の数字に到達し、ツイッター運営側を驚かせた。
    【5】「旅動画」
    人気実況者が各地に旅行にいく様子を撮影した動画。『水曜どうでしょう』風の企画などもある。
     
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  • つながるものを扱うために(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第5回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.283 ☆

    2015-03-17 07:00  
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    つながるものを扱うために(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第5回) 
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.3.17 vol.283
    http://wakusei2nd.com



    本日のメルマガは、好評連載『ウェブカルチャーの系譜』第5回です。
    ふだんネットを使っていて、「なぜネット上で人々は(一見)利他的に振る舞うんだろう?」という疑問を抱く人は多いのではないでしょうか。今回はこの問題について、モースの『贈与論』のような学問的蓄積と、インターネット以降の様々な知見を接続しながら考えていきます。

    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらのリンクから。
     
     
     なぜ人間はインターネット上で、一見して"利己的"とは思えない行動を取るのだろうか。
     この問題について、一つの回答を与えているのが、エリック・レイモンドのオープンソースにおける古典的文書『伽藍とバザール』に続く一連の文書である。とりわけ、二つ目の文書『ノウアスフィアの開墾』では、レイモンドは「なぜ人間がオープンソースのプロジェクトに参加するのか」という動機の問題を解説している。『伽藍とバザール』が、オープンソースについて開発スタイルの具体的なあり方という、言わば「How?」の側面から大きく取り上げた文書だとすれば、この『ノウアスフィアの開墾』では、なぜ人間がそんな行動を取るのかという「Why?」を深掘っている。
     
    Homesteading the Noosphere: Japanese
     
     その内容はウェブ上で全文が読めるが、その箇所の内容を端的に言えば、「仲間内の評判」を求めて、ハッカーたちはオープンソースに参加するというものだ。
     その説明を、彼は「贈与文化」に求めている。レイモンドによれば、私たちの社会に広く普及している、中央集権型の再分配や貨幣による交換経済のような分業の体制は、希少な財をいかに配分するかの適応行動から生じたものである。だが、温和な気候で食料の豊富な地域や、あるいはショービズやセレブのような財があり余った世界では、現在も贈与文化が見受けられる。そこでは、文化人類学者マルセル・モースらが分析してきたように、気前よく他者に贈与を行うことで「仲間内の評判(名誉)」を得るためのゲームが発展する。
     レイモンドの慧眼は、ハッカー文化にもこの特質が当てはまると指摘したことだ。
     

    オープンソース・ハッカーたちの社会がまさに贈与文化であるのは明らかだからだ。そのなかでは「生存に関わる必需品」――つまりディスク領域、ネットワーク帯域、計算能力など――が深刻に不足するようなことはない。ソフトは自由に共有される。この豊富さが産み出すのは、競争的な成功の尺度として唯一ありえるのが仲間内の評判だという状況だ

     
     そして、ここからレイモンドはオープンソースにまつわる様々な慣習について、贈与経済の特質と英米慣習法における土地所有権の理論から説明を加えていく。この文書を編著『角川インターネット講座 (10) 第三の産業革命経済と労働の変化』(角川学芸出版・2015)で紹介した山形浩生は、序文において本書をこう説明している。
     

    「フリーソフト/オープンソースのもたらす動機の分析として、いまだに本論を超えるものはないとぼくは思う。(中略)急に有名になったあらゆる現象の常として、フリーソフト/オープンソース運動にもそれなりの誤解がついてまわった。何やらソースコードさえ公開すれば、どんなソフトでも誰かが勝手に開発や改良を引き受けてくれるとか、オープンソースの旗を掲げればどんなソフトでも誰かが無料で開発してくれるとか。もちろん、そんな虫のイイ話はない」

     
     オープンソースという運動は、もちろんネットワーク技術の特性が可能にしたものだ。だが、可能であることと実際に機能することの間には大きな開きがある。オープンソースの参加者に働く独自の法則性のようなものを知らねば、掛け声だけが虚しく響く結果に終わる。当たり前の話といえば、当たり前の話である。
     しかし、この文書の認識の凄みは、まさにそんな単純な事実を鋭く指摘した点である。インターネットは、いつも「自由」と結びつけて語られがちだ。だが、私たちはそこにおいて、「いかなる行動でも取れる」というわけではない。これは、パソコン通信やインターネットが登場したことで見えた、人間についての一つの知見である。この文書の面白さは、プログラマのような合理性を尊ぶ人々が、いわば「未開の」社会の現象として観察されてきた行動原理にぴたりと当てはまる振る舞いを、まさに合理的であるがゆえに選択していることなのである。
     
     
    3つの関係意識の不変性
     
     さて、前2回において、私は1985年の電気通信事業法の施行以降に登場した、ダイヤルQ2をめぐって登場した言説から、3つの関係意識を抽出してきた。
     
    ・なぜチャットは「部屋」なのか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第3回)
    ・"つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)
     
     この1対ゼロ・1対1・1対Nの関係意識というのは、1対1の通信を行うアーキテクチャである電話の分析において取り出してきたものだ。今回は、これをインターネットの議論に繋げるための準備作業を行いたいと思う。そのためにまず確認しておきたいのは、この3つの関係意識がインターネットのようなN対Nの相互に絡み合ったネットワーク構造においても強く残存しているという事実である。
     
     例えば、インターネットの黎明期から、「ネット上の発言は常にオープンの場に曝されると意識せよ」や「双方向性の時代なのだから、オープン性を拒否するのはインターネット的ではない」などの言説が繰り返し登場する。事実、このオープン性を称揚する思想は一見して、インターネットという技術から自然に導かれるものに見える。
     だが、そのような発言はインターネットの可能性をむしろ過小評価している。一方で、インターネットにおいては黎明期から「暗号化」されたプライベートな通信への希求もまた、強烈に存在してきたからだ。スティーブン・レビーが著作『暗号化』に書き残したように、必ずしも衆人環視のもとで行いたくない欲望もまた、人々はインターネットに込めてきたのだ。その欲望と黎明期の技術者たちの情熱こそが、「暗号化」の技術にまつわる米政府の妨害を退け、電子メールや電子商取引を可能にしたのである。
      
     実際、前回に浅羽通明氏にまつわる議論で提示した、ECサイトやクラウドソーシングを用いて市場の中で孤独に閉じていく「1対ゼロ」の生き方とは、暗号化技術にもとづくオンライン決済なしにはありえない。また、携帯メールやLINEのように、新しい「1対1」関係の結び方もインターネットは可能にした。そして、オープンな場においては、ニコ動の歌い手やキャス主、ユーチューバー、あるいは地下アイドルブームの隆盛など、プチカリスマを大量に生成する装置としての機能(「1対N」)もウェブ以降のインターネットが果たしてきたのは言うまでもない。
     
     だから、私たちは事実を注意深く見なければいけない。ダイヤルQ2をめぐる電話論が提示してくれた関係意識の系譜は、後世にも残り続けている。だが一方で、1対1のアーキテクチャで物理的に閉じていた電話と、N対Nのネットワーク構造を扱うインターネットでは、やはり状況が異なってくる面もある。そこで、ここからは論の構成を、よりネットワーク上での情報のやりとりに向いた形に置き換えたいと思う。
     

    ▲スティーブン・レビー『暗号化 プライバシーを救った反乱者たち』紀伊國屋書店、2002年 
     
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  • "つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.235 ☆

    2015-01-07 07:00  
    220pt

    "つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.7 vol.235
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、好評連載『ウェブカルチャーの系譜』第4回をお届けします。今回は「ウェブカルチャーの系譜」を辿っていくための補助線として、思想家・浅羽通明のメディア/コミュニケーション論を読み解きます。90年代前半の「ゴーマニズム宣言」にも強く影響を与えた浅羽通明という気鋭の論客は、なぜゼロ年代に迷走に陥ったのか――。「オナニスト」「職能の協働」をキーワードに、その限界と現代的意義を問い直します。
    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらから。
     博報堂ケトルの嶋浩一郎氏が以前、(正確な言い方は忘れたが)BRUTUSで「ソーシャルメディアの登場以降、一般的なニュース記事が受けるようになってきた」ということを話していた。これは筆者にも実感がある。実際、現在でもポータルサイトのトピックス流入などでは、硬派な政治や経済のニュースにPVが集まることは少なく、そんな記事よりも「きのこたけのこ戦争」や「ノーバン始球式」の方が遥かに高いアクセスを叩き出す現状がある。しかし、そのくせFacebookのような場所では、妙に政治や経済のニュースが流れてくる。
     その記事で面白かったのは、確か嶋氏がその理由として「ソーシャルメディアでつぶやくから」と言っていたことである。そう、TwitterやFacebookで自分が見ているニュースをつぶやくことは、自分がどんな記事を読んでいるかの態度表明なのだ。そのとき、普段は「はちま起稿」だの「netgeek」だの「ロケットニュース」だのばかり読んでいる人間であっても、Facebookでは知的な仲間たちに向けて朝日新聞のピケティの書評記事でもつぶやいておくかと考える。まあ、ありそうな心理ではないだろうか。
     実際、筆者自身もタイトルをつける仕事をする際には、多少の釣り要素を考慮すると同時に、それをTwitterでつぶやいた人が周囲に良い顔が出来る文言になるように気をつけている。これは実感ベースではあるのだが、極端に不快であったり、内容からかけ離れた釣りタイトルの記事は、アクセス率は高くなるものの、やはりつぶやかれる確率は下がっているように思う。
     いずれにせよ、こういう話から見えてくるのは、単純にニュース記事を消費すると言っても、そこに他者の目があるか否かで、そのあり方や拡散の度合いは大きく違ってくるということだ。一方でそれを意識するかは、アーキテクチャの問題であると同時に、当人の自意識の問題でもある。それは、かつてリアルの満員電車において、おしゃれな表紙の雑誌を見せびらかす自意識過剰な若者がいた一方で、堂々とスポーツ新聞のエロ記事を他の乗客に向けて読んでいたオッサンもまた、いくらでも存在していたのと同じことである。
     前回から私が、電話という原始的な形態のコミュニケーション媒体に的を絞って、一種の他者論を展開している理由の一つは、まさにここにある。電話のアーキテクチャそれ自体に注目すれば、それは一対一で人間がコミュニケーションしあうメディアである。しかし、そこにおいてすらも電話の向こう側にいる他者をどのようにイメージするかは、究極的にはユーザーに委ねられていた。
     では今回、私たちが考えるのは、一体どうイメージされた他者なのか。私は前回、富田英典は他者と1対1の関係を取り結ぶ場合を考え、吉見俊哉は1対Nの関係を取り結ぶ場合を想定しているとした。その比喩で言えば、ここで考えるのは、言わば「1対ゼロ」の関係とでも言うべきものだ。そこでは、人間は自分とのみ関係を持つ。あるいは、この言い方が持って回って響くなら、単純に「孤独」なユーザーたちと言ってもよい。これが最後の電話ユーザーの類型である。
     この「孤独」にインターネットで活動するユーザー像というのは、かつてのネット論においてはむしろクリシェだった。例えば、パソコン通信、ホームページ、2ちゃんねるなどの匿名掲示板……そうした場所は事実、社会からも家族からも切り離された「個室」で孤独に展開されてきた趣味や自己イメージが、膨れ上がった自我そのままに表出したような空間だった。だが、そうしたパソ通やHPの思い出も、もはや「黒歴史」という言い方で回顧されることが増えた。この言葉の台頭がソーシャルメディアの流行に伴い、リアルグラフとネット上のバーチャルグラフが一致していく時期に当たっていたのは象徴的だ。
     その一方で、この「個室」における孤独な消費は、現在も静かに拡大を続けている。例えば時折、有名サービスのレコメンデーションやランキング機能に思わぬ商品が登場して話題になることがある。数年前には、Amazonで硫化水素入りのトイレ洗剤のページに、ポリ袋などの商品がレコメンドされることが話題になった。あるいは先日、筆者が体調を崩してAmazonで健康グッズを調べていたところ、ジャンル内の人気商品として巨大なバイブレーターが登場してきて、思わずのけぞった。もちろん、多くの日本人にとって肩こりは悩みの種であるが、さすがにこれを多くの人間が必要とするほど病が進行しているとは思えない。

    ▲Googleで「夫 こ」と打ち込むとこのように表示されます……。
     こんなふうに誰の目も気にせず孤独に使う類のサービスで集積されたデータが、ふいにランキングやレコメンデーションという形で「表象」の場に引きずり出されたとき、私たちはギョッとする。それは、「孤独」に利用するインターネットというあり方を、いかに私たちが意識の奥に追いやっているかを静かに告発する。だが、他者の視線に晒されてFacebookやLINEを使う時間と、一人Amazonやpixivで気の向くまま消費活動を行う時間―― 一体、本当のあなたはどっちにネットの時間を割いているのだろうか?
    「忘れられた思想家」浅羽通明
     さて、そろそろ本題に入ろう。私は今回、この「1対ゼロ」、すなわち「孤独」な電話ユーザーのことを考えた一人の思想家について考える。彼は、そんな電話ユーザーたちを「オナニスト」と呼び、激しく批判した。そして彼は、ほとんどその後の作家人生を賭けて、この問題を考え続けた。その人物の名を、浅羽通明という。 
     もしかしたら、PLANETSの読者には、この名前に懐かしい感情を抱く人は多いかもしれない。だが、多くの読者は聞いたこともないだろうし、もはやWikipediaに書かれていること以上に、手短に浅羽を説明するのも相当に難しい。
    浅羽通明 - Wikipedia
     例えば、彼がかつて小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』にブレーン的に関わっていたと言っても、いまやその後に『戦争論』を書いた小林が一周回ってネトウヨの敵になっているという、タイムマシンに乗って当時の読者に話したらキョトンとされそうな時代である(いや、意外とそうでもない……?)。同様に、当時の浅羽の「おたく」批判も、現代ではもはや文脈を違えてしまった。その矛先は大塚英志のような彼と同世代のインテリ趣味人としての「おたく」、後の言葉を使うならば「第一世代オタク」に向けられたものであって、そこにこそ彼の「おたく批判」と「知識人批判」が同一の地平で行われる理由もあった。しかし、既にオタクの世代も何度も入れ替わり、今や「ヲタ」は単なる趣味のカジュアルなカテゴライズ以上のものではなくなっている。
     しかも、浅羽はインターネットを嫌っていた。そのことは、後述するライブドア事件に寄せた識者コメントや、その認識の延長線上に書かれた『昭和三十年代主義』(幻冬舎・2008)を読めば分かるように、近年の彼の言論からアクチュアリティを奪っている。
     だが、それでもなお浅羽が問い続けたテーマを、私たちは考え直さねばならない。それは、こうして彼の問題意識が失効されていった過程に、現代を覆う消費社会の中でのインターネットの立ち位置もまた見えてくるからである。したがって今回は、この浅羽を通じてネットと「孤独」を考える。実のところこの話題、本連載における主題(※)からは些か脱線気味なので、サラッと片付けるべきだとも思ったのだが、重要な割にほとんど議論されていない問題でもあるので、むしろ一回分を割くことにした。おそらく、本メルマガが事業者に取材して回っているECサイト等の生活系サービスや検索エンジンの問題系、あるいは尾原和啓氏による連載「プラットフォーム運営の思想」を読者が考える補助線になるはずだと思う。
     
    (※)前回にも記したように、本連載はむしろ吉見俊哉の「1対N」のモデルに大きく寄せて、ユーザー文化論を展開していく予定である。
    浅羽とオナニスト――1.なぜそれは"おぞましい"のか
     まずは、浅羽の考えるオナニストとは何かを確認しよう。

    「他者は、それが一個の人格である以上、「私」と同じように、「私」を眺め、「私」を観察する。他者には視線があるのだ」(『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』p86)

     これは著作『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』(青弓社・1993)で浅羽が引用した、澁澤龍彦のエロティシズム論の一節である。浅羽は視覚とエロティシズムを結びつける視覚的な快楽の追求(「眼の欲望」)が、強引に対象を切り取り、対象をモノと化す行為であることを指摘する。そして、それが同時に「私」を観察する異性という他者への怯えと裏腹であることを指摘して、こう語る。

    「かくして「眼の欲望」の時代は、その裏面としての女性の視線におびえる童貞青年が増大する時代となる。彼らは「視線を意識しないで済む」「物(妄想のなかの死んだ相手)」が相手でなければ、性行為ができないオナニストたちなのである」(同書p86)

     ここで浅羽は「視線」を媒介にして、オナニストを説明している。せっかくなので、前回までの議論とこの浅羽の論を接続してしまおう。吉見にとっての「電話(伝言ダイヤル)の相手=他者」とは、演劇場の観客のような複数形の「他者」の眼差しとしてあった。しかも、それは未来から投射される故に、原理的に制御できない受動的なものだ。一方で、富田にとっての「電話(ツーショット)の相手=他者」とは一対一で向き合う、現在進行形で調整可能なものとしてあった。そこでは都市で登場するような見知らぬ他者を排除した、親密でほとんど自分と一体化した存在として他者をイメージできる。それは最終的に、互いに鏡写しに自らの視線の反射を確認しあうような姿になる。
     それに対して、オナニストにはそもそも自らを眼差す他者がいない。その代わりに、ただ徹底的に能動的に対象を眼差すのである。浅羽は、この眼差しの特徴について、「見るという関係性が優先してしまうと、もはや相手と溶け合うことができない」と表現する。その眼差しが人間に向けられたとき、それは極端に視覚に偏った、相手の内面に宿る個別性を徹底的に無視する、類型的で表層的な人間把握へと至る。そして浅羽は、その志向が一線を越えたときに、博物館の陳列ケースに過去の剥製を蒐集し続けるが如き、自立したデータベースを築く意思が生じるという。まさに"おたく"である。
     実は、このオナニストが浅羽の著作に現れたのは、このときが初めてではない。例えば、遡ること四年前のブックレット『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする』(JICC出版局・1989)所収の「伝言ダイヤル症候群 どこかの誰かが上手くやっている」において、それは主題として論じられた。これはまさに伝言ダイヤルについて、若き日の浅羽が論じた文章でもある。
     この中で浅羽は強い調子で、ほぼ全編にわたって伝言ダイヤルを批判した。それは激しく感情的なもので、例えば後に評論集『天使の王国―「おたく」の倫理のために』(JICC出版局・1991)で同時に収められたセブン-イレブンを巡る、ほとんど現在のコンビニ論としても通用する理知的かつ網羅的な論述とは、対照的でさえある。ここで興味深いのは、浅羽が吉見とは全く別の認識で「伝言ダイヤル」を捉えていることだ。例えば、冒頭で浅羽は、吉見が「間接話法」と呼んだ伝言ダイヤルの話法を、にべもなくこう切って捨てる。

    「彼らの話法が、とんねるずに代表されるTVのバラエティ番組の若い司会者もしくはラジオのパーソナリティの語り口のコピーであることはまず明らかだ。それは多少の訓練で即、口をついて流れ出してくるくらい、彼らの耳に親しい話法なのだろう」(『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする』p32)

     
     日本のカルチュラル・スタディーズの第一人者・吉見俊哉が、後に「他者のまなざし」を観客とした即興劇として描いた伝言ダイヤルも、気鋭の若手おたくライター・浅羽の手にかかれば、単なる芸人口調の安易な劣化コピーでしかない。では、浅羽にとっての伝言ダイヤルとはどんなものか。浅羽は、見知らぬ他者のコミュニケーションが、本来は相互警戒のプレッシャーを解く場面から始まることを指摘する。しかし、伝言ダイヤルではそれを失わせるどころか、声と断片的情報しかないことから、むしろ手前勝手な妄想を相手に抱けるのである。

    「相手方の他者性は希薄となり、半ば己の妄想を相手とする相互オナニー的交流が始まることになる。部外者にはなんとも異様に聴こえる演技過剰な伝言メッセージの語りの定形は、自分の他者性を希薄化するためのルールに他ならない。それは相手も当方も、他者ではなく己の妄想を相手にすれば済むように、各自を声のオナペット化する技術であった」(同書p33)

     ここでも、吉見と浅羽の論はすれ違う。吉見においては、むしろ自己の声さえも他者性を帯びるのが、伝言ダイヤルにおける発話だったからだ。一方でこの認識は、吉見よりもむしろツーショットにおいて富田が指摘した「ナルシシズム」に近いようにも見える。だが、ここでは自らの欲望を動物的に満たす対象=オナペットとして、相手が利用されている。比喩的に言えば、富田において電話相手は自分自身だが、浅羽にとってはただの妄想にすぎない。そして、富田は実はこうした電話コミュニケーションを現代人が自己愛を調達する手段として必ずしも否定的に捉えてはいないが、浅羽の認識においてはもはや自己愛すらも存在しないのだろう。あるのは一方的な眼差しであり、ただコンビニでオニギリを買うように、即物的な欲望のはけ口として相手を消費する行為だ。若き浅羽はその醜悪さに唾棄する。

    「どことなく長電話に伴う後ろめたさ、いたずら電話やテレフォン・セックスの醜悪さも、おそらく他者である相手を、オナペットと化して、相互にオナニーを楽しんでいるというおぞましさに由来するのだろう。費やされる膨大な性的想像力によって電話の彼方の異性を、こちらの思うがままのオナペットと化す点において、ヌードや下着から性的欲望を喚起する視覚によるオナニズムの場合とはまた異なって、電話のオナニズムはおぞましい」(同書p33)

     浅羽の論はその後『メンズ・ノンノ』が創刊された1985年頃に、社会に"普遍的な"「オナニズム」が誕生したとして、消費社会論の視点からその成立の分析を展開させていく。その内容そのものも興味深いが、むしろ重要なのは、オナニズムに対する浅羽の興味が、消費社会論と強く結びついていたことそれ自体だろう。浅羽は消費社会そのものの達成には極めて肯定的な思想家だった。だが、そんな彼がここでは激しく動揺し、終始書きなぐるようにして憤り続ける。それはなぜなのか。
     先に挙げた著作『澁澤龍彦の時代』も、実はこの電話論で表明された「憤怒」の延長線上に位置づけられる。糸井重里の西武百貨店のコピー「ほしいものが、ほしいわ」に象徴される消費社会とは、まさに他者の目を気にしないまま「孤独」に欲望を満たす生き方が(都市の若者には)可能になった社会でもあった。その「オナニスト」の生き方こそが、浅羽もその一人であったおたくやニューアカに純粋な形で象徴される、消費社会に登場してくる新しい「生」のありようであった。
     だが、それは当時の浅羽の目には危機に瀕していた。本の冒頭で浅羽は、同世代のニューアカ周辺にいた物書きたちが、チェルノブイリ原発、湾岸戦争の光景、そして何よりも埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)に激しく動揺し、浮き足立ったことを苦渋とともに語る。その動揺の所以は、浅羽が語るところでは、自らの自閉的な生き方のもたらす末路を、そうした事件の陰惨に見出したからであった。とすれば、伝言ダイヤルにおける浅羽の動揺もまた、まさにその点にこそあったのではないか。例えば、浅羽は伝言ダイヤルにおけるオナニズムの、情報の交換と己の妄想によるイメージ補填に、一種のワナビー構造を見出している。互いに芸人口調を真似し合い、「上手くやってる」ナンパ師になった気分を味わい合う。その怠惰な遊戯に、当時の浅羽はほとんど国の危機すら憂う調子で筆を進める。だが、そこには後に、彼がニューアカ批判の文脈で反省的に語った、自身の似姿を見出してはいなかったか。
     そして、そんな最中に浅羽は「オナニスト」であることに堂々と居直るばかりか、それをモラルの糧とした澁澤の文章に出くわし、瞠目したという。浅羽にとって、人形やゴチックを愛好した異端の文学者・澁澤龍彦とは、まずはそんな「オナニスト」の青年たちの早すぎた先駆者としてあった。そして、1993年の浅羽がこの『澁澤龍彦の時代』で問うたのは、早すぎた「オナニスト」であるはずの澁澤が、何故に健康で、意外にもモラリストの相貌さえある精神性を保ち得たのかという問いだった。つまりは――なぜ澁澤龍彦は宮崎勤にはならなかったのか。その謎をひたすらに追求したこのとき、浅羽の「オナニスト」は克服さるべき消費社会の時代精神となった。そして、その最終的な解答は、小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』と並走した90年代の充実した成果を経て、「世間」「分際」「職能の協働」などの一連のキーワードからなる処方箋へと結実していくことになる。
    浅羽とオナニスト――2.処方箋としての「職能の協働」
     では、その最終的な解答とは何だったのか。それはある時期以降の浅羽が何度となく取り上げた劇作家・福田恆存の、この言葉に行き着くのではないか。

    「人間は生産を通じてでなければ附合へない。消費は人を孤獨に陥れる」(『消費ブームを論ず』福田恆存)

     
  • なぜチャットは「部屋」なのか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第3回)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.209 ☆

    2014-11-26 07:00  
    220pt

    なぜチャットは「部屋」なのか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第3回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.11.26 vol.209
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、好評連載『ウェブカルチャーの系譜』をお届けします。前回連載では「現代のネットカルチャーの成り立ちを考えるために、その前史として『電話ユーザーたちのコミュニケーション』を考えるべき」という問題提起がなされました。今回は、80-90年代に一世を風靡した「ダイヤルQ2」「伝言ダイヤル」を振り返りつつ、富田英典・吉見俊哉らによる「電話コミュニケーション」批評の可能性と限界を考えます。
    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらから。
     

    『ネット起業! あのバカにやらせてみよう』岡本呻也(文藝春秋・2000)という本の中に、iモード開始直前の時期に交わされたという、こんな会話が登場する。



     「浦島太郎みたいに浮世離れした人ですねえ。でも僕らは今、携帯電話に情報配信する商売をやってるんですよ。今からやるんなら携帯ですよ」
     真田はすばやく計算して言った。Q2の経験で、スポーツで売れる情報は競輪競馬、プロレスと、サーファー用の波情報のみ、と相場が決まっていたからだ。サーフィン人口はごく少数に過ぎないのだが、海岸にどのような波が立っていて、人出がどのくらいあるかという情報を求めている人は確実にいる。
     「携帯電話? なんじゃそりゃ。おおっ、これはいいかも」
     「サーフポイントの波の情報はどうやって取るんですか」
     「それは簡単だよ。藤沢にあるサーフレジェンド社が"波伝説"というのをファクシミリで流しているから、それをそのまま流せばよい。
     ところで何で堀君が真田君と一緒にいるの?」
     実は彼は、大学時代の堀の兄貴分でもあった。この浦島太郎は金の卵を持ってきてくれた。
     ドコモに持っていくと、「やってみよう」ということで、企画が通った。サーフレジェンドの、ダイヤルQ2時代以来の長年の実績がモノを言った。
    (出典:http://www.nin-r.com/uneisha/netbaka/511.html )

    この本が書かれたのは、20世紀末に巻き起こったITバブルの末期。いわゆるビットバレーの担い手の姿を活写したこの本は、現在インターネット上で全文公開されている。ここに出てくる真田とは、実は現在ソーシャルゲーム『ラブライブ!』などが大人気のKLabの創業者・真田哲弥である。そして、この真田が堀主知ロバートらと共同で設立した会社が、iモードなどへの携帯コンテンツ提供で大きく名を上げたサイバード社である。
     

    出典:http://lovelive.bushimo.jp/
     
    1985年の電気通信事業法の改正以降、民営化されたNTTは新規事業の展開を迫られる中で、矢継ぎ早に電話事業に関する新しい施策を繰り出してゆく。その中で起きたのが、電話の「多機能化」であった。
    電話を使ったテレホンサービスには、それ以前にもキャッチホン(1970年)や転送でんわ(1982年)などの利用者の利便性にフォーカスしたサービスが既に存在していた。しかし、この時期から矢継ぎ早にNTTが繰り出したのは、伝言ダイヤル(1986年)などの人間のコミュニケーションのあり方そのものに介入していくサービスであった。
    そんな「多機能化」が臨界点を迎えたのが、1989年に登場したダイヤルQ2(以下、Q2)である。それは、現代風に言えばテレホンサービスの「オープンプラットフォーム化」であった。Q2はそれまでの事業とは違い、利益をNTTが独占するのではなくて、電話回線を登録者に開放してサービスを開かせ、その決済代行の手数料徴収で回していくビジネスだった。そこでは教育や育児相談、あるいはコールカウントと呼ばれる世論調査システムなど、多彩なテレホンサービスが提供されており、株式やスポーツの速報を、新聞やテレビより早く伝えるチャンネルなども、高い人気を博していた。
    このビジネスモデルを聞けば、多くの人がお気づきだろう。音声による提供になっているものの、これは後にNTTドコモが携帯電話において、データ通信で行った「iモード」における情報提供サービスの原始的な形になっている。実は、真田はかつてこのQ2事業における風雲児だった。そして、そんな真田が社会的バッシングの中で会社を潰すものの、当時の知識を活かしながらiモードで再起してゆくというのが、先の本のクライマックスを成している。実はQ2で人気があったコンテンツは、波情報のサービスがiモードでも成功したように、後にガラケーで人気を博すようなコンテンツに似通っていたところがある。女性向けの占いサービスなどはその良い例だし、そもそもQ2上がりの人間が係るサービスも少なくなかったと聞く。
    とはいえ、多くの人はダイヤルQ2に対して――iモードとは違って――おそらく「出会い系」のイメージがあるのではないか。それもあながち間違っていない。実際、最終的にQ2で大きく収益を得たのは、そうした健全なインフォメーションサービスではなかったと言われている。そもそも、そうした単方向サービスはシステムの構築も運営もコスト体質で、ビジネス的な旨味には乏しかった。
    代わりに大きく発展したのは、「場所代」を取るサービスである。複数人の同時通話を可能にするパーティーラインや、相手に番号を知らせず電話をかけられるツーショットなどの、「多機能化」した電話サービスを利用した、コミュニケーションの場を提供する事業こそが人気を得た。それこそが、まさにここから取り上げていく、NTTの意図を大きく裏切って発展した、「出会い厨」のユーザーたちに向けられた「電話コミュニケーション」の場であった。
     
     
    ■「電話論」の限界とその可能性
     
    前回に予告したように、これから私は80年代の後半から可視化されていった電話ユーザーの生態を紹介していく。私が注目するのは、彼らが受話器の向こう側にイメージした匿名の「他者」と取り結ぶ関係のありようである。
    電話とは、本来は電話番号を知っている知人と一対一で通話するためのツールに過ぎなかった。しかし1985年以降、NTTは電話を多機能化させる中で、結果的に後のインターネットに通じる二つの機能を導入した。一つは、電話番号を互いに知らせず、匿名性を保ったままで互いに電話する機能。これを一対一で行えたのが、後に社会問題となり「公営のテレクラ」とまで非難されたダイヤルQ2のツーショットである。また、NTTは一対一で通話を行うだけでなく、複数人で回線を共有して、リアルタイム(=同期型)にコミュニケーションを行えるパーティーライン(1989年開始)や、バラバラの時間(=非同期型)に録音メッセージを吹き込んでコミュニケーションできる伝言ダイヤルの機能も提供した。
    つまりは、コミュニケーションにおいて匿名/実名、一対一/多人数、同期/非同期などを選択できるようになった結果、受話器の向こうにイメージする他者との関係が多様化したのである。そして、驚くべきことに、そうした各々のシチュエーションにおける電話のコミュニケーションは、現代のネットユーザーの姿によく似ているのである。これがインターネットとは関係のない場所で成立したがゆえに、それは示唆的であるし、まさにそれ故にこそ私はここから議論を始めるのだ。
    ここからは、以下の3つの本の著者の議論を紹介しながら、どのように電話ユーザーたちが「他者」との関係を取り結んだと、彼らが考えたかを紹介していく。まず、一人目はダイヤルQ2研究を行った『声のオデッセイ―ダイヤルQ2の世界 電話文化の社会学』(恒星社厚生閣・1994)の富田英典、二人目は電話論の古典となった『メディアとしての電話』(弘文堂・1992)共著者の一人で都市論や万博の研究でも有名な吉見俊哉。そして、三人目は伝言ダイヤルのナンパについて論じ、後年『「携帯電話(モバイル)的人間」とは何か―"大デフレ時代"の向こうに待つ"ニッポン近未来図"?』(宝島社・2001)を著した浅羽通明である。彼らは三者三様のやり方で、80年代後半から登場した電話ユーザーたちに光を当てた。
     

    ▲『制服少女たちの選択』宮台真司(朝日文庫・1994=2006)
     
    ただし、彼らの論を見て行く前に、そこに孕まれたある種の限界を指摘しなければならない。社会学者の宮台真司は『制服少女たちの選択』(講談社・1994)で、電話にまつわる既存の社会学的言説を数十ページにわたって徹底的に批判している。宮台の苛立ちは、おそらく多くの「電話論」がそのコミュニケーションを、現実と切り離された仮想的な共同体として描くことで、背景にあるリアルの社会的文脈に目を向けないばかりか、その問題を温存してさえいる点である。強烈な調子の批判が延々と続いた最後に、宮台はこう言い放つ。

    わたしは、電話や「電話風俗」にかかわるコトバは、一種の踏み絵かリトマス試験紙のようなものだと感じている。そこには、メディア周辺に生じる一見新奇な現象を、「メディアが開く新たな身体性」(という神話!)に帰責したり、「理解不能な若者」(という他者性!)に帰責したりするような、陳腐で怠惰な物言いがあふれかえっている。そこでは「ニューアカ的共同体」と「赤提灯的共同体」がともに臆病に温存されるばかりで、問題の本質はいつまでたってもおおい隠されたままだ。「電話風俗」や「ブルセラショップ」や「アダルトビデオ」の取材で出会った何十人もの「普通の」――メディアが煽り立てる「フツーの」では断じてない!――女の子たちは、そのことをわたしに教えてくれるのである。
    (『制服少女たちの選択』宮台真司,講談社・1994,p116-p117)

    宮台のこの指摘は、まさに3人の論に見事に当てはまる。実際、匿名の電話コミュニケーションが基本的にリアルでの出会いを目的とした「電話風俗」であったことに対して、特に富田と吉見に顕著であるが、彼らはそこに言及しながら、しかし理論に組み込むのを奇妙に拒絶する。そのことが、いま読むと彼らの論に一種の"ニュータイプ論"的な若者論にありがちな寒々しさを与えているのもまた否めない。
    現実問題、今となってはネットのヘビーユーザーやサービス事業者であれば、匿名の、それも一対一を基調としたコミュニケーションが「出会い系」の温床であるのはほとんど常識に近い。その意味では、この宮台の指摘こそが、現代のネットユーザーの本質に迫っているという言い方もできるだろう。だが、これは奇妙な逆説なのだが――実はこの「出会い系」の側面を否認することで彼らの論に生じた歪みこそが、かえって当時の電話よりも、後世のインターネットユーザーを上手く映しだしてしまった面もあるのである。
    もちろん、そこには今なおネットの多くの場所が匿名的な、リアルと切り離された「仮想空間」としてイメージされている事情もある。「イメージされている」というのは、いかに「仮想空間」で匿名のコミュニケーションに興じているように見えようと、必ず全てのコミュニケーションは「現実空間」に通じているからだ【註】。なにせ会話の中で待ち合わせ場所や連絡先を教えてしまえば、その瞬間にすぐさま「出会い」という「現実空間」へと繋がる穴が穿たれる。故に人気のSNSやメッセンジャーの運営はカスタマーサポートコストが悩みのタネになる。そもそも優れたコミュニケーションサービスとは、人間と人間を効率的にマッチングする仕組みのことであり、それは常に優れた出会いを提供する仕組みたらざるを得ないのである。
    この全ての"バーチャルな"コミュニケーションにぽっかりと開く「出会い系」という穴に対して、そしてナンパ師を自称して「何十人もの」フィールドワークを重ねたと豪語する宮台のリアリティに対して、以下の3人はあまりに無防備である。だが、そこから目を背けた故に記述された、彼らの議論に秘められたポテンシャルもまた存在する。なぜなら彼らの知性は結果的に、一種の不可知論としての他者が、いかにコミュニケーション過程で把握されるかという、対面でのそれにすら孕まれる高度に普遍的な課題に挑んでいたからである。その確認から、まずは私たちは始めよう。
     
    【註】逆に言えば、コミュニケーションが自然に生じさせるリアルへの穴を無理矢理に塞いだときに、そのプラットフォームは「仮想空間」へと近づいていく。アバターサービスやオンラインゲームの企業で、カスタマーサポート部署が果たす大きな役割は、ある意味でそこにある。彼らは、いわば現代のアトラスである。後に私たちはアバターサービスの発展史を記述する際に、この「仮想空間」と「出会い系」の関係を再び見ることになるだろう。
     
     
    ■富田英典:インティメイト・ストレンジャー ――1.自己を反射する鏡としての「声」
     
    私たちは前回、電話の戦後史を文芸批評家・江藤淳の「閉された言語空間」を出発点として記述した。その江藤淳が田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』を絶賛したのは1980年。それから5年後の85年のプラザ合意の頃から始まった円高基調は、そこで田中康夫が描いた享楽の消費社会の風景を日本に本格的に展開してゆく。同時にこのプラザ合意の年は、電電公社がNTTに民営化された年でもあった。
    社会学者の富田英典がQ2の研究を行った著作『声のオデッセイ ダイヤルQ2の世界――電話文化の社会学』(以下、『声のオデッセイ』)の冒頭は、そんな電話の「多機能化」と消費社会の進展が歩みを揃えた時代背景を、こう表現する。
     

    ▲『声のオデッセイ』富田英典(恒星社厚生閣・1994)

    ダイヤルQ2のリカちゃんダイヤルは、ダイヤルQ2の本質を突いている。ダイヤルQ2で人気をよんだ「アダルト番組」「パーティーライン」「ツーショット」などは、大人向け、あるいは青少年向け「リカちゃん電話」なのである。ポルノ雑誌のグラビアで微笑む若い女性の声が聴けたり、AV女優が、直接、電話でしゃべってくれる。それは、着せ替え人形の「リカちゃん」の声が電話で聞ける「リカちゃん電話」と同じ構図である。
    (『声のオデッセイ』p4)

    「リカちゃん電話」とは、1967年に始まった老舗テレホンサービスで、普段は聞くことのできないリカちゃんの声が聴けるサービスだった。この文章は、消費社会の中で流通するシミュラークルとしての商品に対して、人々が求める現実的な手触り――例えば、好きなグラビア女優の声を実際に聴きたい、というような――への欲求に擬似的に応えるものとして、当時のQ2があったことを示唆している(ちなみに21世紀の日本人は、そんな欲望を「握手会」という大変にアナログな形で満足させている)。
    しかし一方で、2014年にこの文章を目にする私は、この富田の言葉たちを単純に奇妙に思う。例えば、パーティーラインという機能は、本当にリカちゃん電話に喩えられるべきものなのか。少なくとも、こちら側からも話しかけていくのを基本とする「能動的」な双方向メディアであるパーティラインを、録音された声を流す「受動的」な単方向メディアにすぎない「リカちゃん電話」と同列に語るのは、やはり座りが悪くはないか。匿名での一対一の通話であるツーショットにも、やはり同様の指摘は可能である。そもそもを言えば、先にも記したような実際に出会う「電話風俗」の側面を考えても、虚構の音声にすぎないリカちゃん電話と比較するのはおかしい。
    この冒頭に象徴される奇妙な「受動性」は、実は富田がこの本で展開する、多岐にわたるQ2文化の紹介と分析のあらゆる場面を覆う基本的な態度である【註】。とにかく、この本は「声の消費者」としての聞き手の立場からのQ2分析が多い。もちろん、電話における会話の分析が、どうしても聞き手のインプレッションを問うものになるのは仕方ない面はある。だが、実はこれは富田の、匿名的なコミュニケーションを行う電話ユーザーに対する理論的立場が要請するものでもある。
    富田の電話ユーザーに対する理論的立場――それを一言でいうならば、「互いの声を自分に都合よく消費し合う関係」である。だが、問題はそこにおける消費の内実である。
    その彼の理解が最も鋭く現れているのは、この本の最後に登場する、途中でリサーチを辞退したという、とある調査対象者の女性の告白ではないだろうか。そのQ2ユーザーの女性は、あるとき「相手の男性が、全部同じ人の声に聞こえてきて怖い」というメッセージを残して、富田の調査を突如辞退したという。それを富田は、耳を澄まして消費しなければいけないような微妙な声の差異がどうでもよくなったからこそ、彼女には全てが同じ声として聞こえるようになったのではないかとする。そして、こう言い放つのである。

    彼女が恐怖を感じた「電話の声」とは、現代の高度化した消費社会と情報社会に魂を売り渡してしまった私たち自身の声だったのである。
    (同書p149)

    Q2の匿名的なコミュニケーションにおいて、人々は発話に微妙な差異を見出そうとするが、本質的にはそこで人々が耳を澄ましているのは自分たち自身の声にすぎないという、結論だけ聞くと奇怪でさえある認識がここにはある。つまり富田にとって匿名での「電話の声」とは、究極的には自分を映し出す鏡のようなものとしてある。そのことを論証してゆくのがこの本なのだ。いわば富田にとって聴き取られた声とは、そのまま私の話す声でもあり、故にこそ聞き手としての立場に固執することが要請されるとも言える――しかし、なぜそうなるのか。
     
    【註】富田は本書で複数の電話ユーザーが通話するパーテイーラインにも紙幅を割いているが、その際に注目しているのも、やはり後のネット用語でいうところのROM専にあたる、会話に参加せずにただ受動的に聴くことだけを目的としたユーザーたちなのである。彼らは「モニター君」「無言クン」と呼ばれていた。余談だが、富田によれば聴くだけでありながらも同意や不満だけは電話のピッピ音で表明する「ピッピ君」と呼ばれたユーザーたちもいたという。これなどは、Twitterのふぁぼやいいね!ボタン程度の中間的な会話への参加を、当時のユーザーたちも欲望の水準で求めていたという事例になっているであろう。なお、パーティーラインについて、本稿では扱わない。しかし、それがどういう場であったかは、以下の2chスレを読めば、おそらく"(察した)"となるのではなかろうか……と思う。
    http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/mukashi/1335389029/
     
  • 稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 第2回「『電話』から始まる日本的インターネット史」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.179 ☆

    2014-10-15 07:00  
    220pt

    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第2回「『電話』から始まる日本的インターネット史」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.15 vol.179
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、稲葉ほたて「ウェブカルチャーの系譜」第2回をお届けします。2ちゃんやはてなブックマーク、Twitterのようなテキストコミュニケーションではなく、「音声」によるコミュニケーションの歴史を解き明かすことによって描き出される「もうひとつのインターネット史」の可能性とはーー?

    前回記事「神の降臨で2ちゃんねるは変えられるか」はこちらから。

     
    ■「テキスト」国の「議論」村
    ■「文字」で「音声」を"ハック"する装置
    ■「電話」の戦後史――1.「閉された言語空間」における通信
    ■「電話」の戦後史――2.会社から家庭へ、家庭から個室へ
    ■ 情報民主主義の「個」と個室の「個」
     
    前回に続いて、まずは総論的な話から始めたい。
    ウェブビジネスの動向を語る中で、しばしば「言語」のウェブに対して「非言語」の流れが巨大になっていくだろうという議論がなされる。そこでの「言語」が「テキスト」という意味で使われているなら、それは確かに正しい。実際、米国におけるSnapchatやInstagramのような画像投稿プラットフォームの隆盛はその事実を示しているようにみえる。
    だが、例えば先日、AmazonがGoogleと争って買収したTwitchなどは「ゲーム実況」に強みを持つプラットフォームである。このジャンルで最も有名なスウェーデン人のゲーム実況者・ピューディパイはYouTubeチャンネルに3000万人の会員を持ち、2013年に運営から配分された年収は約4億円と言われている。
     

    ▲ピューディパイのYouTubeチャンネル
     
    実は、この「実況」というジャンルでは、「音声」による「言語」表現の面白さが問われるのである。日本に目を移しても、おそらくは最も多くの人間を食わせている娯楽のプラットフォームはニコニコ動画とYouTubeであるが、そこの人気のプレイヤーたちは、歌に実況に生放送にスナック菓子の開封中継に、という具合にとかく言葉を用いた「音声」の芸で勝負を賭けている。つまり、今のネットでカネになると注目されているのは、むしろ(「音声」という意味での)「言語」のウェブなのである。
    もちろん、この「言語/非言語」という区別は、かつては容量の小さいテキストがメインだったインターネットが、画像や動画などを扱えるまでに回線が向上したことを示すためのキャッチーな表現にすぎないのだから、それは当然である。だが、いずれにせよネットの「文化」を探っていく予定の我々には、もう少し細かな区別が必要になる。具体的には、テキスト・音声・画像・アバターなどの様々なメディアの「国家」において、各々のユーザーがいる。彼らはしばしば他国へと旅行するが、やはり軸足は必ずどこかの国に置いている……というくらいの粒度の視点の方が、特に娯楽に近い分野になるほどに多くのネットユーザーの実感に則したものになるはずだ。
    実際、ブログのページビューと動画の再生数を一概に比較できないことなどからもわかるように、ユーザーは各々のメディアの生態系に生息して、独自の振る舞いを見せるものである。その傾向は、ヘビーユーザーになるほど著しい。各々の国家の中には、その国に独特の国民性と統計データがあるのだ。そして、その国家の中には、例えば「音声」国であれば、ヤフチャからニコ生、ツイキャスへと続く問題児揃いの「チャット」村もあれば、ネットラジオの界隈から出てきた今やゲームから旅の風景まで中継してみせる芸達者な「実況」村もあるし、こえ部などでなりきり勢に近い層の集まる「ボイスドラマ」村もあれば、2chのカラオケ板のような場所からニコニコ動画へと流れ込んで今や一大商業圏となった「歌い手」村もある……というふうに、さらに細分化されたクラスタが形作られているわけである。
    前回、特定のプラットフォームやメディアに拠らない「文化」という切り口を提示したが、それに対して今回はむしろメディアごとのユーザーの差異を問題にすることから始めたい。というのも、これは既存のウェブ論がどのようなものであるかを示す上で欠かせない視点なのである。
     
     
    ■「テキスト」国の「議論」村
     
    そもそも、先に挙げたピューディパイやこえ部(正式には、現在はkoebu)などの名前をあなたは知っていただろうか。あるいは知っていたとして、実際にそれらを見に(聴きに)行ったことはあるだろうか。まあ、20代前半くらいまでの読者なら、そもそも実際に楽しんでいるかもしれないが、多くの読者は行ったことすらないのではないか。
    実はこうしたユーザーたちは、ネット論における暗黒大陸のようになっている。「音声」国だけではない。「画像」国や「アバター」国などの実態も、当該クラスタのユーザーたちにしかほぼ知られていない。実際、はてなブックマークやTwitterでウェブについて語っている人たちを見てみよう。彼らがこうした自分の知らないクラスタについて語るときは、大抵は「ガラパゴス論」と結びつけて批判的に語るか、とりあえずオリエンタリズム的に褒めておくか、というあたりになっている。つまり、興味がないのである。
    ここで問題なのは、こうしたネット論を語る人々そのものが「テキスト」国の「議論」村あたりに生息している、大変に狭い界隈の人々でしかないことだ(「狭い」というのは彼らにウケた際に記事に来るPV数も含めての話である)。しかも、その実像をつぶさに見ると、大変に偏りのある集団でもある。
    彼らの多くは団塊ジュニアからロスジェネ付近の、黎明期のテキストサイトや2ちゃんねるの隆盛期に居合わせて、その後にはてなやmixiが流行り、今度はTwitterに移行して、最近はFacebookにいるがNewsPicksも少し気になっている……みたいな感じの、まあすごく乱暴な言い方をしてしまうと、その多くがテキスト中心のネット全盛の時代を過ごしてきた、30代半ば以上の中年男性で、おそらくはパソコンをメインに使っているであろうユーザーである。
    一方で、例えば先に挙げた「音声」クラスタなどは、先駆的にヤフチャやねとらじなどがあったにせよ、基本的には近年ニコニコ動画やこえ部などの登場で大きく盛り上がったクラスタである。女性ユーザーも多いし、10代から20代の人間も多い。といっても、中高生の流行でしょ、といって済ます話でもない。例えば、ニコニコ動画が話題を呼んだ2007年に中二病真っ盛りの14歳だったネットユーザーなど、今年まさに新卒で就活中の年齢である。そういう視点で見たときに、彼らの「音声」や「画像」や「アバター」(ちなみに、筆者はアプリ以前のソーシャルゲームはアバターサービスの一種だったと考えている)への嘲笑的な態度は、単に自分の知らない界隈に対して相応の年齢の大人が抱く冷淡な反応でしかないことがわかるだろう。
    この問題がややこしいのは、最近になって、この「議論」村の住人がなんとなく”ネット論壇”のようなものを形成して、権力を持ち始めたことである。実際、彼らの間で話題になると、数日後に朝日新聞の文化面で取り上げられたりして、「ネットの話題が新聞に出る時代が来たのだねえ」などと牧歌的なコメントがTwitterで流れてくる。
    だが、実際には上に見た通りの無関心がもたらす排除の実態がある。ギャル文化やサブカルであれば出版メディアで専門ライターが確立しており、たとえ大抵の大人は興味がなくとも公的な場への発信者は必ずいる。もちろん、ネトウヨやジョブズについて書けるネットライターもいる。しかし、こうした非「議論」村のネット文化を書くネットライターは、ほぼいないに等しい。そして、こうしたネット論の占有は、例えばカゲロウプロジェクトのアニメ化で起きた大事故などを鑑みるに、やはり放置してよい問題ではないように思えるのだ。
    もちろん、慌てて付け加えておくと、そのことで「議論」村の住人を腐すのはお門違いである。むしろ、そんなことよりも本当に問題なのは、いまだ暗黒大陸となっている文化圏を記述する理論的基盤がどこにもないことではないだろうか。先のカゲロウプロジェクトの問題にしても、ボカロの議論がせいぜい黎明期のN次創作が騒がれていた時代で止まっており、歌い手文化やボカロ小説へと連なっていくようなその後の動きを肯定的に評価する言説が空白地帯となっていたことが、根底にあるように見える。
    そこで筆者が提案したいのは、まず現代のウェブカルチャーの成り立ちを解き明かすような、新しいインターネット史の作り直しである。それは「議論」村の歴史までも含む包括的な歴史観でなければならないだろう。そこまで行ってこそ、理論的な対抗軸になりうるからである。そして、それはパソコン通信があり、それに対してインターネットが登場して、テキストサイト、2ch、ブログ、Twitterと次々にプラットフォームが生まれては、アーリー・アダプタ層がそこに移動していく……というようなありきたりの発展史ではないはずだ。そもそも、それは「テキスト」国の「議論」村の住民たちの正史としては精確だろうが、決して他のクラスタへとそのまま敷衍しうるものではないだろう。
    代わりに、この連載ではパソコン通信よりさらに前の時代に遡り、そこから全く別の包括的な歴史の線を引いていきたいと思う。そもそも私の考えでは、プレ・インターネットに、寝ても覚めても議論ばかりしていたようなパソコン通信を置いてしまうことが、様々なものを見えにくくしているように思う。
    では、代わりに注目するのは何なのか? 私が注目するのは――「電話」である。