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記事 2件
  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第6回 国際政治に振り回されたポーランドの論理学

    2020-02-27 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第6回。周囲の大国によって領土割譲を繰り返されてきたポーランドの不運な歴史が、アメリカに落ち延びた数学者アルフレッド・タルスキら、オーストリア的な知の継承者たちの運命をいかに変えたのか。戦間期に花咲いた「ルヴフ・ワルシャワ学派」の足跡を中心に辿ります。
    ▲逆ポーランド記法を採用したヒューレット・パッカード社の関数電卓HP-35。通常の電卓とは違って「=」ボタンがない。 By Mister rf - Own work, CC BY-SA 4.0,
    「逆ポーランド記法」の由来
     今回は、「オーストリア的」な要素を持つ国のひとつ、ポーランドに焦点を当てるのだが、まずは「逆ポーランド記法(Reverse Polish Notation)」の話から始めたい。逆ポーランド記法とは、計算式の表記法の一種である。我々に馴染みの深い通常の数学では、「1+2」のように、数字(1や2)が演算子(+や-)の前および後に位置する表記法が採用されている。だが、逆ポーランド記法では「12+」というように演算子の前に数字が並ぶ。いかにも奇妙な表記法に見えるかもしれないが、この数式「12+」が「1と2を足す」というように、日本語と同じ語順で読めるということに気づかれただろうか。このことに気づけば、むしろ通常の表記法を特に不都合を感じずに使えていることの方が不思議に思えてくるかもしれない。  逆ポーランド記法はいくつかの点で通常の表記法よりコンピューター上の処理に適している。たとえば、カッコがあってもなくても計算する順序が変わらないため、カッコは無視して計算できる。そのため、ヒューレット・パッカード社が1970-80年代に発売した関数電卓で採用され、広く知られるようになった。  ちなみに、「逆」がつかない、ただの「ポーランド記法」もある。この表記法では、「+12」というように演算子の後に数字が並ぶのだが、こちらがオリジナルである(だからこそ「逆」ポーランド記法なのである)。ともあれ、どちらも「ポーランド」式だとされていることには変わりない。その理由は、最初の開発者がヤン・ウカシェヴィチ(Jan Łukasiewicz)というポーランド人だったからだ。  ウカシェヴィチは、別にポーランドで関数電卓の開発に携わっていたのではない。また、フォン・ノイマンのようにアメリカに移住して開発に携わったのでもない。逆ポーランド記法が最初に提案された論文では、その元になった表記法として、ウカシェヴィチの著作が参照されているのだが、その著作のタイトルは『現代形式論理学の観点から見たアリストテレスの三段論法(Aristotle&#39s Syllogistic from the Standpoint of Modern Formal Logic)』という。ウカシェヴィチは、記号論理学を用いてアリストテレスを研究する論理学者だったのだ。  本連載の第3回でも触れたが、記号論理学は19世紀終わりから20世紀にかけて、フレーゲやラッセルらの手によって生まれる。これを用いて古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスを研究するとはいったいどういうことなのだろうか。どうしてどのようなことが行われることになったのだろうか。これらの問いに答えるためには、まずはポーランドという国家が辿った数奇な運命を眺めてみよう。
    国家間の争いに振り回されたポーランドの都市ルヴフ
     第二次世界大戦の前まではポーランドが現在の位置になかったことはご存知だろうか。現在のポーランドは、第二次世界大戦以前のポーランドと比べると西寄りに位置する。第二次世界大戦でドイツとソ連に占領されたポーランドは、ポツダム会談の結果、東部をソ連に割譲し、代わりとなる領土を西側に位置する敗戦国のドイツから獲得することになったからだ。この結果、ある都市がポーランド領からソ連領に移ることになった。その都市は、ウカシェヴィチが生まれ育った都市であり、現在ではウクライナに位置するリヴィウ(Lviv)、ポーランド語ではルヴフ(Lwów)という。もっとも、ルヴフは第二次大戦後にソ連領になるまでずっとポーランド領内にあったというわけでもなかった。本連載の第2回でも触れたが、1772年のポーランド分割により、ポーランドのガリツィア地方がオーストリア帝国に割譲される。ルヴフはこのガリツィア地方の首都なのである。こうしてオーストリア帝国の都市となったルヴフは、レンベルク(Lemberg)と呼ばれるようになる。ポーランド時代のルヴフは、ガリツィア地方最大の都市であり、ポーランド全体でも主要都市の一つだったのだが、オーストリア領のレンベルクとなることにより、広大な帝国の片隅にある一地方都市になってしまったのである。
    ▲第二次世界大戦前後でのポーランドの位置の変化。東側のグレーの領域がソ連に割譲され、西側のピンクの領域をドイツから獲得する。 By radek.s - Own work, CC BY-SA 3.0,
     1819年、時のオーストリア皇帝フランツ1世により、レンベルクに大学が再建される(それ以前のポーランド時代から大学はあったが、ナポレオン戦争によるオーストリア財政の悪化により閉鎖されていた)。とはいえ、一地方都市に過ぎないレンベルクの大学には特に目立ったところは何もなかった。だが、20世紀に入ってから大きな変化が訪れる。最初の一歩は、1895年にカジミェシュ・トファルドフスキ(Kazimierz Twardowski)という哲学者が赴任してくることだった。
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  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第5回 「フォン・ノイマン」と呼ばれた男の名前の変遷

    2020-01-15 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第5回。2度の世界大戦の狭間で、哲学・数学・物理学の垣根を超えて人類知の中核が地殻変動を起こしていた1920〜30年代、いよいよ歴史の表舞台に登場するジョン・フォン・ノイマンの生涯に迫ります。ハンガリー、ドイツ、そしてアメリカへの流転を通じて、かの天才はいかにして「フォン・ノイマン」となったのか──?
    ▲フォン・ノイマンが1926年5月に奨学金の申請書と共に提出した個人記録。氏名欄には「ジョン・ルイス・ノイマン・フォン・マルギッタ(John Lewis Neumann v.margitta)」と記されている(ロックフェラー財団所有)(引用)
    若き天才的数学者フォン・ノイマンの半生
     ジョン・フォン・ノイマンは元々ハンガリー人であり、ハンガリーの首都ブダペストで生まれた。誕生時の名前は、ナイマン・ヤーノシュ・ラーヨシュという(ハンガリー語では日本語と同じように姓を先に表記する)。裕福なユダヤ人家庭に生まれたフォン・ノイマンは幼少期から神童として知られており、特に数学でその才能を発揮していた。  当時のハンガリーは、オーストリアとの二重帝国であり、フォン・ノイマンも「オーストリア的」教育制度のもとで学ぶ。だが、ゲーデルや、前回登場したその師ハンス・ハーンのように、フォン・ノイマンが帝国首都ウィーンのウィーン大学に進学することはなかった。決定的な違いは、ゲーデルやハーンがドイツ語を母語とするドイツ系オーストリア人であったのに対し、フォン・ノイマンはハンガリー人だったことだ。同じ国家で生まれたにもかかわらず、このことがフォン・ノイマンの人生を大きく左右することになる。  当時は民族自決主義が高まっていた時代であり、ハンガリーもオーストリアからの独立の機運が高まっていた。本連載の第2回で触れたように、フォン・ノイマンが学んだ首都ブダペストにあるブダペスト大学も、ハンガリー語を母語とするハンガリー人のためにハンガリー語で授業を行う大学だった。もちろん、神童であったフォン・ノイマンにとって語学は問題でなかった。彼は幼少時から複数の言語に加え、ラテン語にも精通していたことが知られており、のちに彼が提出した個人記録にも、母語のハンガリー語、ドイツ語、英語、イタリア語の四カ国語を話すことができると記されている。だからフォン・ノイマンは、本来ならどの言語が用いられる大学に行っても問題なかったのだが、紆余曲折の結果、ブダペスト大学に進学する。  フォン・ノイマンがブダペスト大学に進むことになったのには、第一次世界大戦が関わっている。彼がまだ十代だった1914年に第一次世界大戦が勃発する。終戦後、オーストリア帝国は崩壊し、ハンガリーはオーストリアから独立するのだ。フォン・ノイマンが大学進学を決める頃には、ハンガリー人の若者が旧宗主国であるオーストリアの大学にわざわざ進学する理由はまったく無くなっていたのである。  もっとも、ブダペスト大学に進学するのも簡単には決まらなかった。まず、第一次世界大戦後のハンガリーでは、短期間の間だが共産主義政権が成立する。その指導者のクン・ベーラがユダヤ人であったために、共産主義政権崩壊後のハンガリーはユダヤ人にとって住みやすい国ではなくなっていた。そのためブダペスト大学にも、入学するユダヤ人学生の数にも上限が決められていた。加えて、有能なビジネスマンだったフォン・ノイマンの父が数学を専攻することに難色を示していた。フォン・ノイマンの友人の一人に、より実学に近い分野に専門を変更するよう息子を説得してくれと依頼したほどだ。最終的に、数学と同時に工業化学も学ぶという条件で、フォン・ノイマンの父は進学資金を出すことを了承する。こうしてフォン・ノイマンは、ブダペスト大学で数学を学ぶのと並行して、当時ヨーロッパで最高峰の工科大学だったスイスの名門チューリッヒ工科大学で工業化学を学ぶことになる。そして数学と工業化学の二つの博士号を同時期に取得するという離れ業をやってのけるのだ。  フォン・ノイマンはブダペスト大学の授業にはほとんど出席せず、チューリッヒに住み、試験に出席するために帰国するだけで学位を取得したという。とはいえ、フォン・ノイマンの関心は数学にあり、チューリッヒでも数学の授業に熱心に出席していた。  チューリッヒでフォン・ノイマンにひとつの小さな転機があった。ドイツ語圏であるチューリッヒに住むにあたり、名前をドイツ式で名乗るようになったのだ。それ以前に、フォン・ノイマンの名前は、生まれた時の「ナイマン・ヤーノシュ」ではなくなっていた。第一次世界大戦直前の1913年、最後のオーストリア・ハンガリー皇帝となるフランツ・ヨーゼフ一世がフォン・ノイマンの父の経済的貢献を称え、貴族に列することを許可する(ただし、貴族になるためには一定の費用を支払う必要があったのだが)。貴族の姓は領土と結びついていなければならない。フォン・ノイマンの父は、ハンガリーの歴史的都市であるマルギッタ(現在はルーマニア)を「領土」とすることを選び(もちろん本当に領土にできるわけではなく、どういう姓にするかだけの問題である)、フォン・ノイマン一家の姓は「マルギッタイ・ナイマン」となっていた。チューリッヒに移り住んだフォン・ノイマンはこれをドイツ式に改めるのだ。こうして、彼は「ヨハン・ノイマン・フォン・マルギッタ」と名乗るようになる。  移住先の言語に合わせて名乗り方を変えるのは、珍しいことではない。我々日本人も、英語で名乗る時は姓を後に名乗ることが多い。ただ、フォン・ノイマンの場合、ドイツ式で名乗るようになったことは、それまでのオーストリア・ハンガリーの知的風土から、ドイツの知的風土へと移動することを意味していた。
     当時のフォン・ノイマンが憧れていた数学者は、本連載の第3回で登場したヒルベルトである。ヒルベルトの夢は数学の基礎づけであり、数理論理学を用いてそれを実現しようとしたのがヒルベルト・プログラムだった。数学の天才少年だったフォン・ノイマンは、大学入学前から数学の基礎づけに関心を持っていたと言われている。フォン・ノイマンはチューリッヒ工科大学で、ヒルベルトの教え子である数学者のヘルマン・ワイルからヒルベルトの手法である「公理化」を学び、学生時代に集合論の公理化に関する論文を発表している。博士号を取得したフォン・ノイマンが次にヒルベルトのもとで学ぼうとしたのは当然のことだったろう。しかし、当然ながら父からの資金援助は望めない。幸運なことに、ちょうどその頃、ロックフェラー財団の出資で国際教育委員会(International Education Board)という組織がニューヨークに設立されたばかりだった。フォン・ノイマンは、このロックフェラー奨学金により、ヒルベルトのいるゲッティンゲン大学で半年間学ぶことになるのである。  こうしてフォン・ノイマンは1926年の秋にゲッティンゲンに到着するのだが、思いがけないきっかけで新たな分野の研究に手を染めることになる。量子力学だ。フォン・ノイマンがゲッティンゲンに着いてまだまもない時期に、不確定性原理を導いた理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクの講演があった。のちにノーベル賞を受賞するが当時はまだ23歳だった若き新鋭のハイゼンベルクは、「シュレディンガーの猫」で知られるオーストリア・ウィーン生まれの物理学者エルヴィン・シュレディンガーと対立していた。両者は量子力学にまったく異なる表現形式を与えていたのだ。その後、両者は数学的に等価だと考えられるようになり、シュレディンガー自身も部分的な証明を与えるのだが、完全な証明はまだ得られていなかった。ヒルベルトも聴講した彼の講演も量子力学の表現形式に関するものだったのだが、ヒルベルトからその話を聞いたフォン・ノイマンは、量子力学の公理化に取り組む。そして、ハイゼンベルクの表現形式とシュレディンガーの表現形式が等価であることを証明するのである。
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