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山本寛監督インタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」第6回 アニメ監督はアイドル化するなかれ【不定期連載】
2017-03-01 07:00【配信日程変更のお知らせ】
毎月第1水曜日更新の猪子寿之さんの〈人類を前に進めたい〉は、諸般の事情により今月は配信日程を変更してお送りいたします。楽しみにしていた読者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、次回の更新まで今しばらくお待ち下さい。
『らき☆すた』や『かんなぎ』で知られるアニメ監督・山本寛さんの、これまでの活動を総括するロングインタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」。最終回となる第6回では、『Wake Up, Girls!』制作を振り返りつつ、アニメ業界が向かうべき未来像についてお話を伺いました。(取材・構成:高瀬司)
『Wake Up, Girls!』の二層構造
――次がいよいよ最新作の『Wake Up, Girls!』になります。いまはお立場上あまり語ることができないとのことでしたが、コンセプトや演出面についてだけでも簡単に触れさせてください。『blossom』の前にはすでに『Wake Up, Girls!』のもとになる企画があったというお話がありましたが、そのときはアイドルものとして思いつかれていたのでしょうか。それともまず震災の衝撃があったうえで、それに対して復興にはアイドルの力が必要だ、という順番だったのでしょうか。
山本 セットになって降りてきたというのが実情ですね。きっかけの一つになったのは、A-1 picturesでアニメ版を制作していた『THE IDOLM@STER』(2011年)です。オリジナルアニメの企画について、『らき☆すた』の待田(堂子)さんを誘って相談するところから動き出した作品なのですが、そのころ待田さんがやられていたのが『THE IDOLM@STER』のシリーズ構成で。それもあってか、打ち合わせの最中に突然、「復興×アイドル」というコンセプトが降りてきたんですよ。『blossom』では、アニメが復興の力になれる手立てとして聖地巡礼を組みこみましたが、アイドルものであればさらにライブもできるじゃないですか。それならもっと被災地に人を呼べるだろうと。
――つねにこの世界の現実との関わりが念頭にあるわけですね。
山本 それは僕の永遠のテーマです。フィクションがただの現実逃避であっては意味がない。一旦はフィクションの世界に逃げこんでもいいけれども、最後には現実に戻らなければいけない。そうでなければ、アニメは麻薬と同じになってしまう。だから現実世界に戻す橋、現実を意識する瞬間というのは必ず組みこむようにしています。
――メインキャラクターの7人に、担当キャストと同じ名前をつけ、外見も似せてデザインするなど、現実と地つづきな世界観にすることも山本監督の発案なわけですよね。
山本 そうですね。ただ、TVシリーズを劇場版のつづきからスタートするというアイディアは当時のタツノコプロの社長が考えたものです。またタツノコプロははじめから第1期のみ制作するという契約だったので、第2期からはミルパンセと組むことになりました。
――演出面でのコンセプトは?
山本 FIXメインで余計なPANはしないという、僕の基本的なスタイルで演出しています。ドキュメンタリーチックにしたかったので、トリッキーな画やテンポで見せるのではなく、セットのなかで3カメで撮影しているかのようなカット割りにしていて。だから同ポもこれまでの作品より増やしています。
またそうした演出プランはコンテ打ちの際にあらかじめしっかり伝えるようにしていて、特に重要なカットについては、はじめからこういうカット割りでこういう切り返しにしてくださいと具体的にお願いしていました。コンテ直しの作業を軽減する目的もありますし、一般的にコンテマンも直されるのは嫌なものなので、それならはじめから細かく伝えておこうと。
――また物語をめぐっては、社長が逃亡したり、アイドルたちが健康ランドで水着営業させられたりと、生々しい展開が注目を集めましたが、どのような狙いがあったのでしょうか。
山本 一つには、ヒロインたちが不快なキャラクターでは視聴者の反感を買ってしまいますが、明るいだけの作品にはしたくなかったので、周りの大人たちをゲスな連中にすることで補おうとしたんです。ただ、実はそれ以上に、『Wake Up, Girls!』にはアニメ業界をカリカチュアライズした側面も強くあって(笑)。人気ドラマで言えば、『踊る大捜査線』シリーズ(1997-2012年)がそうですよね。刑事ドラマであると同時に警察業界そのものの話にもなっていて、それによってサラリーマンにも広く共感されていた。表面上は純粋なエンターテインメントとして楽しんでもらえるように作ってはいますが、同時にアニメ業界の物語にもなるような二層構造を意識していました。
もっと言ってしまえば、自分たちの「ドキュメンタリー」のつもりだったんですよ。つまり『Wake Up, Girls!』は7人の少女たちの物語であると同時に、僕らの物語でもあるんです。傾きかけの芸能事務所「グリーンリーヴス・エンタテインメント」は「Ordet」のカリカチュアですし、酒ばかり飲んでいる乱暴な社長なんて僕自身のことですから(笑)。
これからのアニメスタジオ
――フィルモグラフィを現在まで辿らせていただいたところで、最後のパートとして、いくつか山本監督が見るアニメ業界のあり方についてもうかがわせてください。
まずはじめに、山本監督は京都アニメーション、A-1 pictures、そしてご自身のOrdetと、さまざまな制作会社を経験されてきましたが、その体験も踏まえて、これからのアニメスタジオはどうあるべきだと思われますか?
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山本寛監督インタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」第5回 アニメのなかに真実がある【不定期連載】
2017-02-21 07:00
『らき☆すた』や『かんなぎ』で知られるアニメ監督・山本寛さんの、これまでの活動を総括するロングインタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」。第5回では、『らき☆すた』以降の諸作品、『かんなぎ』、『私の優しくない先輩』、そして震災をテーマにした『blossom』についてお話を伺いました。(取材・構成:高瀬司)
――また『ハルヒ』はYouTube、『らき☆すた』はニコニコ動画と、新しいWebサービスの登場と同期するかたちで人気が拡大したと思います。ああいった同時代的なシンクロニシティは、当時どのように感じられました?
山本 以前から2ちゃんねるの反響や、YouTubeでのハルヒダンスの盛り上がりは見ていましたから、『らき☆すた』のときは伊藤プロデューサーと「ネットで突っこまれるような作品にしたいですね」とよく話していたんですよ。そうしたら、2ちゃんのひろゆきが関わり、YouTubeを利用した、コメント付き動画サービスがはじまった(笑)。あのころは、時代が僕の背中にある感覚がありましたね。
――あわせて京都アニメーションのフィルモグラフィ自体が、セカイ系の『AIR』にはじまり、セカイ系から日常系への移行を象徴する作品として『ハルヒ』があり、日常系の『らき☆すた』、そして『けいおん!』シリーズ(2009-2011年)と、時代の変遷を体現していたと思います。
山本 ただ、美学的観点から見れば、アニメが劇的に変化してしまったのは、そのパンドラの箱を開けてしまったのは『けいおん!』だと思います。『らき☆すた』は日常系ではありますが、きちんと人間ドラマを組みこんでいた。オリジナルエピソードとして、柊一家の人間模様を描いた第17話「お天道様のもと」や、修学旅行に行く第21話「パンドラの箱」、こなたの亡くなった母親・かなたをめぐる第22話「ここにある彼方」を加えるなど、必ず家族や異性、社会を意識させるようにしていたんです。女子校ではなく共学であることを強調するために、白石みのる(CV:白石稔)を目立たせたりもしました。
ところが『けいおん!』では男性は徹底的に排除されているし、両親も出てこないか、映画でやっと出てきても顔が見切れている。ついにここまで来たかと思いましたね。アニメのポストモダン化は『けいおん!』で極まったと思います。
――京都アニメーション時代に関する最後の質問になりますが、『ハルヒ』『らき☆すた』と、実際に責任あるポジションを務められてみていかがでしたか? 各話演出時代に武本監督から言われたように、何か意識の変化などはあったのでしょうか。
山本 やはり見え方が大きく変わりましたね。僕は本当に生意気だったんだなと痛感しました(笑)。よく自分が2人いればいいのにと言う人がいますけど、もし僕が2人いたら確実にもう1人を殺しますね(笑)。なのでいろいろありましたが、京都アニメーションには強い恩義を感じています。これだけ生意気で半狂乱の男をよくここまで育ててくれたなと。
Ordetと悲劇
――メインテーマに関して一通りうかがったところで、後半では京都アニメーションを辞められたのちのご活躍も簡単に振り返らせてください。山本監督はその後、新たにOrdetを立ち上げられますが、どのような意図があったのでしょうか。
山本 僕が京都アニメーションを辞めたときというのは、社内もかなり揉めたんですね。実際、僕と同じタイミングで、守りに入った会社の方針に嫌気がさして辞めていったスタッフが何人かいて。Ordetはその受け皿というつもりで立ち上げました。なので必ずしも会社である必要はなかったんですが、そのときの落ちこんでいた気持ちを切り替えるいいきっかけにもなるかなと、軽い気持ちで大阪で起業を。でもこの選択が最悪でしたね。その後の10年にわたる悲劇のはじまりです。
――悲劇というのは?
山本 経営者になってしまうことで、監督としてうまく暴れることができなくなってしまったんですよ。それまでは会社に文句を言う側だったのが、経営者として文句を言われる側へと立場が変わってしまったわけですから。結局、社長であるということを、自分のなかでうまく咀嚼できなくて……それでスタッフもみんな離れていってしまいました。自分で自分の首をどんどん締めていったのがこの10年でしたね。
――Ordetでの監督第1作は『かんなぎ』(2008年)ですが、このころというのは?
山本 『かんなぎ』のころはまだぜんぜんよかったんです。会社を立ち上げた直後ということで、ていねいに作ろうという一心で臨んだ作品でした。それに武梨えり先生の原作は、自分探しのドラマの要素もあるし、ギャグも萌え要素もある、パロディもいける。つまり多方面で自分にとってやりやすい題材で、自分の持ち味を活かせばいいだけだったので、本当に楽しく取り組めて、リスタートにはもってこいの一作でした。
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山本寛監督インタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」第4回 『ハルヒ』『らき☆すた』演出ノート【不定期連載】
2017-02-17 07:00
『らき☆すた』や『かんなぎ』で知られるアニメ監督・山本寛さんの、これまでの活動を総括するロングインタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」。第4回では、『ハルヒ』のライブシーンやダンスEDの誕生秘話、そして『らき☆すた』降板の舞台裏について、深掘りしてお話を伺いました。(取材・構成:高瀬司)
――なるほど……。いまのお話で、これまでなんとなく曖昧だった『ハルヒ』の経緯に関して、いろいろと腑に落ちました。では事実上の初監督作品として、『ハルヒ』の具体的な内容・演出に踏みこんでうかがわせてください。まずそもそも、第1話に「朝比奈ミクルの冒険 Episode00」を持ってくるという構成が衝撃的でした。
山本 『涼宮ハルヒの憂鬱』をアニメ化するときのコンセプトは「超監督・涼宮ハルヒ」だったんですね。つまりあのハルヒが『涼宮ハルヒの憂鬱』というTVアニメを作るとなれば、時系列シャッフルだろうとなんだろうと、ありとあらゆる訳のわからないことをするだろうし、当然一番頭に持ってくるのは自分が監督した自主映画に決まってるだろうと(笑)。
ただ、それを視聴者に受け入れてもらえるかどうかは、僕らにとっても冒険でした。だから、最速となる東京の初放映時には、2ちゃんねるの実況スレに張りついて反響を見ていたんですよ。そうしたら案の定、最初は大騒ぎなわけです。ネットが動揺している瞬間をはじめて見ました。みなが混乱している。それでいよいよ「これは炎上してしまうかもな……」と思いはじめたころ、原作ファンから「これが『ハルヒ』だよ!」という声があがったんですよ。第1話はOPも「恋のミクル伝説」ですから、通常のOPには出る「超監督・涼宮ハルヒ」というクレジットもなく、メディアにも事前には非公開にしていた情報だったんですが、にもかかわらず僕らが意図したコンセプトを見抜いたんです。やはり『ハルヒ』のファンは頭がいいなと思いましたね。この第1話を受け入れてもらえたことが、その後の僕らの勢いにもつながっていきました。
――第1話の次に山本監督が担当されたのが第9話「サムデイ イン ザ レイン」です。これも極めて異色なアニメオリジナルのエピソードでした。
山本 「サムデイ イン ザ レイン」のコンセプトは第三者視点、「定点観測」です。『ハルヒ』の原作というのはつねにキョンによるモノローグ、一人称視点で統一されているのですね。そのせいで、原作ファンのあいだでは、ハルヒではなくキョンこそがこの世界を司る真の神であって、キョンが見ていない世界というのは存在しないのではないか、といった推論も出ていて。だから原作者の谷川(流)先生との打ち合わせのとき、「キョン以外の、第三者視点のエピソードを作りましょうか」と提案してみたところ乗っていただけて、それで最終的に定点観測というコンセプトを立てました。キョンのいないSOS団の部室を、三点からの監視カメラのような映像で延々ととらえる。設定へのエクスキューズとして、コンピ研が仕返しに盗撮していたとか、部室にある太陽のオブジェが実はキョンでもハルヒでもない第三の神だったとか、そういう深読みできる理屈も用意していましたね。
――EDでも目立つオブジェですが、本編でも2度ほど意味深にアップでとらえられていましたね。またこのエピソードは、ショット数がものすごく少なく、150ほどしかない点も特徴的です。長回しがすごく多い。
山本 定点観測ものというのは、同ポ(同ポジション)が多いのでレイアウトこそ楽ですが、引きの画ばかりになるので、登場人物の全身を描かなくてはいけなくなって作画がすごくハードなんですね。一般視聴者からすると楽そうに見えるかもしれませんが、作画カロリーはむしろすごく高い回になっていて、だからどこかで思いっきり手を抜いておこうと。それで長門が本を読んでいるだけの画をずっとリピートするカットを入れたんです。最終的に一番長いカットで2分17秒、さらに一度別のカットを挟んで、もう一度同じ画を1分間という長回しになりました。
――作画という点では、その後の第12話「ライブアライブ」のライブシーンも大きな話題を呼びました。
山本 あの演奏シーンはロトスコープですね。「God knows...」は、当時人気だったアイドルバンド「ZONE」の曲をモデルに神前に作・編曲を発注していて。あがってきた曲をプロのミュージシャンの方に演奏してもらい、その様子をビデオ撮影したうえで、映像をキャプチャした画像をプリントアウトし、それを上からなぞるという手順で作りました。ハルヒのアップの表情は、平野綾さんの歌う映像をもとにリップシンクさせるようにしています。ハルヒのカットの原画は全部西屋(太志)くん、彼は本当にうまかった。それと高雄(統子)さん(※編注:のちに京都アニメーションを退社し『アイドルマスター シンデレラガールズ』『聖☆おにいさん』を監督)のパートもいいんですよ。ハルヒが「God knows...」を歌い終わったあと、大受けの会場を見て安心したようにため息をついて、ドラムのほうを振り向くというカット。あそこの原画は、あがってきたのを見た瞬間に大泣きしてしまいました。僕は基本的に、タイムシートは全カット自分で直していたんですが、あそこだけはもう涙でシートが読めず、そのままスッと戻すよりほかなかったですね。
また演奏シーン以外にも、文化祭の日のエピソードということで、参加している全員が主役というコンセプトを立て、背景のモブも全部動かすようにしています。キョン視点の物語の背後で、モブの一人ひとりが文化祭を楽しんで、またさり気なくハルヒとバンドメンバーたちの物語も進んでいく。だから結果的に、作画枚数はほかの話数の2倍使うことになりました。
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山本寛監督インタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」第3回 作家性の確立と『ハルヒ』の秘密【不定期連載】
2017-02-10 07:00
『らき☆すた』や『かんなぎ』で知られるアニメ監督・山本寛さんの、これまでの活動を総括するロングインタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」。第3回では、山本監督の作家性確立の契機となった『AIR』や、これまで公にされることのなかった『涼宮ハルヒの憂鬱』の制作秘話を伺いました。(取材・構成:高瀬司)
演出・撮影における作家性
――公には初披露となるだろう貴重なお話ありがとうございます。ここであらためてもう一度山本監督のお話に戻りたいのですが、『POWER STONE』ではじめて演出をやられてみて手応えはいかがでしたか?
山本 第10話の次が第18話だったんですが、ちょうど『天使になるもんっ!』(1999年)の演出助手の仕事と時期が重なってしまい、うまく回すことができなかったんですよ。それが原因で、そこから半年ほど演出を干されてしまって……。その間、制作進行のようなことをやらされたり、アニメーションDoという大阪にある関連会社に所属替え、というか実質左遷させられたりして、それが悔しくて「絶対認めさせてやる!」と、そこからは猛勉強ですよ。毎日必ず映画を観ることを自分に課して。家に帰るのは毎日だいたい23時くらいだったんですが、コンビニで買った飯をかきこんで、どれだけ眠くても必ず観る。4時までは必ず起きていて勉強する。そういう生活をつづけていましたね。
――ちょうどご自身の日記サイト『妄想ノオト』を書かれてた時期ですね。
山本 そうです、あのころは本当に荒れていましたね。いまと比べてもはるかに過激に、恨みつらみを書き散らしていましたから。でも口が減らないのはもうしょうがないんですよ。それが師匠の教えだし、自分の原動力にもなっているので。ただ、『妄想ノオト』は観た映画の備忘録としても活用していたので、あそこで一度文章にすることで考えをまとめたり、さらにあとから読み直すことであらためて思い返すことができたりと、プラスになった面も大きかったですね。
――あらためて当時ご覧になっていた映画を教えていただけますか。
山本 まずは黒澤明監督作品です。以前から好きでしたが、未見のものもあったので全作品を観ました。『どですかでん』(1970年)はその時期にはじめて観て、ものすごく影響を受けましたね。またちょうどそのころ、蓮實重彦さんの『映画狂人』シリーズ(2000-2004年)という映画批評書が刊行されはじめて、それを読み漁ったんですよ。そうしてこれまで敬遠していた小津安二郎も観るようになり、溝口健二やジャン=リュック・ゴダールといった監督の作品にもハマりました。
――カール・ドライヤーはいかがですか? 山本監督が立ち上げられた制作会社「Ordet」は、ドライヤー監督の『奇跡/Ordet』(1954年)から取られていますが。
山本 ドライヤーはもう少しあとですね。演出の仕事で東京に出張するようになってからです。ポストプロダクションは声優や音響監督のいる東京で行う必要があるので、必ず月に一度出張があったんですが、そのとき渋谷のユーロスペースという映画館で観ました。
――そのころ観られたもので、ご自身の作風に直接影響を与えた作家や作品というと?
山本 小津安二郎と北野武は大きいですね。僕のFIX主義はこのお二人からの影響です。それまでは木上さんの絵コンテを教科書に、背景しかないカットでPANしたり、キャラが会話しているだけなのにPANダウンしたり、そうしたいわゆるアニメ的なカメラワークで撮っていたんですが、途中で「これ意味あるのかな……」と思うようになって。黒澤明も「カメラが芝居するな。人物が動くからカメラが動くんであって、人物が止まったらカメラも止まれ」というようなことを言っていますよね。そんなとき、小津安二郎の作品を観て、本格的にFIXのよさに気づいたんですよ。それで、『AIR』(2005年)の絵コンテ・演出を担当したときにFIX中心に組み立ててみたら個人的にもすごく手応えがあって、そこで僕のFIX主義が固まりましたね。
――個人的にも『AIR』で担当された第2話・第5話・第8話は、山本監督のお仕事のなかでも一つの極北に位置づけられるように思います。
山本 演出家として一番脂が乗っていた時期ですね。FIX主義が固まり、またカメラワーク以外にも、それまでの僕の演出は、魚眼レンズっぽくパースを強調したり、エキセントリックなカッティングをしたり、変な間やテンポを作ったりして受けを狙っていたんですが、そういった装飾を全部剥ぎ取って、真摯に、誠意をこめて被写体と向き合うようにしたんです。だから『AIR』以前/以後では演出スタイルが大きく切り替わっているんですよ。自分では「ドキュメンタリー的」という言い方をしているのですが、その後の『Wake Up, Girls!』シリーズ(2014・2015年)まで受け継がれていくスタイルです。
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山本寛監督インタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」第2回 正しいと思ったことは全部やれ【不定期連載】
2017-02-03 07:00『らき☆すた』や『かんなぎ』で知られるアニメ監督・山本寛さんの、これまでの活動を総括するロングインタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」。第2回は、京都大学を卒業後、京都アニメーションに入社し、天才アニメーターとして知られる木上益治氏に師事しながら演出助手を務めていた時期のお話を伺いました。(◎取材・構成:高瀬司)
アマチュアからプロの世界へ
――大学卒業後は京都アニメーションに入られますが、その経緯というのは?
山本 ある意味、タイミングが悪かったんですよ。『ルサンチマン』は大学4年時の秋の学園祭で発表したので、その前に内定は出てしまっていて。もう1年留年などしていれば、それこそ「DAICON FILM」が「ガイナックス」につながったように、自分たちで会社を立ち上げていたかもしれない。
春に行った就職活動では、第一志望は当然スタジオジブリで、そのほかサンライズや東映動画(現・東映アニメーション)、TV局などを受けたのですが、就活をしていくなかで京都にもアニメ制作会社があることを知って。当時の京都アニメーションは『クレヨンしんちゃん』(1992年-)の動画・仕上げで名前を見かけるくらいで、ほとんど存在感のない知る人ぞ知る小さな会社でしたが、せっかく同じ京都なのだからと軽い気持ちで受けてみたんですよ。実際行ってみたら、宇治の木幡(こはた)という何もない田舎に、いまある社屋へと建て替える以前の、掘っ立て小屋のような本社があって。それで面接にもTシャツ・ジーパン姿で行き、「ジブリの滑り止めに受けていいですか?」なんて聞くような生意気な態度で臨んだんですが、にもかかわらず八田(はった)社長は「いいよ」というんですね(笑)。
――山本監督に何か感じるところがあったということでしょうか。
山本 「こいつおもしろそうだな」と思ってもらえたんだと思います。それで本当に内定が出てしまい、そうなると今度は僕も義理を感じるので、他社も三次試験くらいまでは進んでいたのを全部断って。ジブリだけは約束どおり受けましたが、その年は動画と仕上げのみの募集だったので、演出志望だった自分は案の定不合格に。そうして大学卒業後は京都アニメーションに入社することになりました。1998年のことです。
――京都アニメーションへはどのような職種で?
山本 内定時で言うと、「制作・演出」ですね。面接では、自主制作で監督もやっているので、アニメーターとしてではなくゆくゆくは演出を、という話をしていたので。ただ、入った当初はやることがなくて、最初は撮影部に回されたんですよ。撮影台ではない、デジタル撮影部の第一号です。 「CoreRETAS」での作業だったのですが、これがまったくわからなくて(笑)。セルやレイヤー、タイムシートの扱いなど、自主制作を通じてある程度わかっているつもりではいましたが、かなり戸惑いましたね。
――ではプロとしてのスキルというのは、現場での実践のなかで身につけられた?
山本 そうなりますね。それはのちの演出に関してもそうです。僕の師匠である木上益治(きがみ・よしじ)さんに徹底的に鍛え上げられました。
――撮影から演出へはどのように移られたのでしょうか。
山本 京都アニメーションに入って半年くらい経ったとき、まだ撮影の修行中だったのですが、当時制作部長だった八田(陽子)さんから急に「山本くん、演出試験受けないの?」と言われ受けることになって。
――どういった試験内容だったのでしょう?
山本 ワンシーンの絵コンテを描くというものでした。それで結果としては合格点ではなかったんですが「演出助手」ならいいと。そうして木上さんの下に演出助手としてつくことになったんです。木上さんというのは、言わずと知れた、京都アニメーション全スタッフの師匠であり、京アニクオリティーの土台を築き上げた天才アニメーターですね。
ただ、最初に演助として参加したのは『ジェネレイターガウル』(1998年)の第7話だったんですが、当時はまだ作画中心のスタジオだったということもあって、木上さんからは開口一番「どうやったら演出になれるかわかんないから、勝手に学んでよ」と言われて(笑)。しかしそれでは困るので、どうしたかというと、質問攻めにしたんですよ。一日中、木上さんの後ろに張りついて「これ何やってるんですか?」「これ何に使うんですか?」と。当然途中で「仕事になんないから!」と怒られるわけですけど、そうしたら一旦は離れて、でも1時間くらいしたらまた戻ってきて「これ何ですか?」と(笑)。そういうふうにして木上さんの下で徐々に演出のノウハウを身につけていきましたね。
知られざる木上益治伝説
――ちなみに、少しお話がずれますが、京都アニメーションのスタッフ全員が木上さんのお弟子さんだというのは、具体的にはどういった状態なのでしょうか。
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【新連載】山本寛監督インタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」第1回 アニメには人生を賭ける価値がある【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.774 ☆
2017-01-20 07:00
【新連載】山本寛監督インタビュー「いまだからこそ語るべきアニメのこと」第1回 アニメには人生を賭ける価値がある【不定期連載】
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2017.1.20 vol.774
http://wakusei2nd.com
今朝のメルマガは新連載です。『らき☆すた』や『かんなぎ』で知られるアニメ監督・山本寛さんの、これまでの活動を総括するロングインタビューをお届けします。
第1回では、宮﨑駿監督の影響のもとアニメ監督を志し、京都大学のアニメ同好会で自主制作映画を作っていた頃のエピソードについてお話を伺いました。
▼プロフィール
山本寛(やまもと・ゆたか)
アニメーション監督、演出家。1974年生。大阪府出身。京都大学文学部を卒業後、1998年に京都アニメーションに入社。『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年)ではシリーズ演出とEDの絵コンテ・演出を担当。なかでも第12話「ライブアライブ」での臨場感あるライブシーンやEDの斬新なダンス演出で注目を集める。京都アニメーション退社後は、自身が代表となりOrdetを設立。主な監督作に、『らき☆すた』(2007年)『かんなぎ』(2008年)『フラクタル』(2011年)『Wake Up, Girls!』シリーズ(2014年・2015年)など。ほか、実写映画『私の優しくない先輩』(2010年)監督、小説『アインザッツ』(2010年)執筆や、評論・講演などその活動は多岐にわたる。
オフィシャルブログ
高瀬司(たかせ・つかさ)
『Merca』編集長。ほか『ユリイカ』(青土社)でサブカルチャー批評、『アニメ!アニメ!』(イード)でアニメ時評、「SUGOI JAPAN Award」(読売新聞社)でアニメ部門セレクターなど。
Merca公式ブログ
◎取材・構成:高瀬司
■命を賭するに値するもの
――本日は山本寛監督のこれまでのご活躍を総括する、かなりの長時間インタビューをお願いしておりますが、取材に先立ち、山本監督が現在、お立場上語ることのむずかしいトピックについて確認させてください。ブログやTwitterなどでは『Wake Up, Girls!』の現状や今後については何も発言できないともおっしゃられていましたが(※編注:2016年12月11日に『Wake Up, Girls! 新章』が発表された)、同様に以前所属されていた京都アニメーションさんについても、公に語るのはむずかしいのではないかと思うのですが……。
山本 基本的に話せることであればなんでも話すつもりですよ。『Wake Up, Girls!』についても、トピックが限定されてはしまいますが、なるべく話したいとは思っています。また古巣の京都アニメーションについては、確かに以前は語りづらかったんですが、いまとなっては一周回って逆に一番話しやすくなってるんですよ(笑)。『涼宮ハルヒの憂鬱』から10年が経ち、もう時効になったような話も多くなりましたし、むしろ積極的に語っていきたいという気持ちがありますね。
――それは個人的にも非常に楽しみです。では本日は、山本監督のこれまでの歩みのなかで、Ordet設立までを中心にうかがわせてください。特に情報の少ない京都アニメーションさんの舞台裏やことの顛末については、知りたがっているファンがたくさんいると思います。
それでまずはじめに、定番の質問となりますが、山本監督にとってのアニメの原体験をうかがえるでしょうか。
山本 決定的だったのは、中学1年生のときに偶然テレビで観た『天空の城ラピュタ』(1986年)ですね。空からシータが降ってきた翌朝、彼女が屋根の上に登るとハトが一斉に飛んでくるシーンから観はじめたんですが、その時点でもう夢中になってしまって。それが僕にとってのアニメの原体験です。もちろんそれ以前もアニメを観てはいましたが、『ラピュタ』のそのシーンを観た瞬間、一気にアニメの魅力に引きこまれたんですよ。
――ちなみにそれ以前の、子どものころご覧になっていた作品というのは?
山本 当時はゴールデンタイムにアニメを放映していた時代だったので、夕飯どきに流れていた『Dr.スランプ アラレちゃん』(1981-1986年)や『パタリロ!』(1982-1983年)、『小公女セーラ』(1985年)や『愛少女ポリアンナ物語』(1986年)といった「世界名作劇場」シリーズなどを、お茶の間で家族と一緒によく観ていました。
――しかしその当時はまだ、アニメを特別なものとは感じてはいなかったと。
山本 テレビっ子だったので自然と、なんとはなしに観ていただけでしたね。そのころはマンガ家になりたいと思ってたんですよ。小学生のころに藤子不二雄先生の『まんが道』(1977-1982年)に出会い、ものすごく影響を受けたんです。だから藤子先生のアシスタントになりたいと、ファンレターを出したりもしましたね。ただ、当時から自分の画力では不十分だという自覚があって。練習はしていたのですがこのクオリティではダメだと、マンガ家の道は中学に入ったころに諦めたんです。そんなとき『天空の城ラピュタ』と出会い、俄然アニメに心惹かれるようになりました。さらに調べてみると、高畑(勲)さんや押井(守)さんなど、アニメは自分で絵を描かなくても監督ができるということがわかってきて……それで「アニメだ!」と(笑)。
――(笑)。そのころ印象的だったりよく観ていたりした作品というと?
山本 ひたすら宮﨑駿さんの研究をしていましたね。『ラピュタ』は70回以上は観ましたし、『風の谷のナウシカ』(1984年)も50回は観ています。ほかにも『月刊アニメージュ』を買って、宮﨑さんについてのインタビューや紹介記事、当時連載中だった『風の谷のナウシカ』の原作マンガを読んだりしていました。その後『トップをねらえ!』(1988-1989年)と『ふしぎの海のナディア』(1990-1991年)を通じて庵野(秀明)さんの存在を知ってからはガイナックスにもハマるわけですが、それまではひたすら宮﨑さんでしたね。それで徹底的に研究して、アニメというものが自分の人生を賭けるに値するかどうかを見極めようしたんですよ。それで、中学3年生の夏休みにはもう、自分は将来アニメ監督になると心に決めていました。
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