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  • 7/30から新番組「上妻世海 作ること、生きること」が始まります!【号外】

    2020-07-22 07:30  
    気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんが、現代美術や建築から人類学・哲学、脳科学・進化生態学まで、さまざまな分野の叡智をたぐり合わせながら、人として「作ること」「生きること」の深淵を思索する新番組がスタートします! 巨大データ×AIによって人の手を離れつつあるテクノロジーと、ウイルスや気候変動など人外のものたちの作用が世界の分断を加速していく中で、それでも人間が創造的な存在であるためには、どこに知の足場を築いていくべきなのか。 いきなり激動を始めた2020年代の奔流に呑まれず、しっかりと考えていくための連続講義です。
    第1回目は7/30(木)20時から!
    放送はこちらから
    https://live.nicovideo.jp/watch/lv327108990ハッシュタグは「#上妻世海 #作ること生きること」
    ▼プロフィール 上妻 世海(こうづま・せかい) 1989 年生まれ。おもなキュ
  • 上妻世海 作ること、生きること — 分断していく世界の中で 第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象思考(増補改訂版)【後編】

    2020-02-05 07:00  

    デビュー著作『制作へ』が話題を呼んだ気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる、制作という営みの根源に迫る書き下ろし連載の待望の更新。今回は昨年夏に公開された第1回に大幅な加筆・修正を施した増補改訂版の後編です。イメージ思考と抽象思考の協働がいかに創造的な行為に結びつくのか、さらなる探求が続きます。
    現在の厚みと過去と未来について
     僕は意識を思考の流れに合わせたいと思うことがある。例えば、ある特定の主題について思考を深めたい時など、特に僕はそう感じる。文章を書いたり、読んだりする時には、注意を一点に合わせる集中力がなによりも必要である。しかし、願いとは裏腹に、僕の意識は散漫で、ちょっとした音や動き、あるいは別のイメージに執われる。今、僕は原稿を書くためにパソコンと向き合っているのだが、朝のカラスの鳴き声が僕の無意識を駆り立て、僕は窓の外を眺める/眺めさせられる。YouTubeや各種SNSも僕を誘惑する。その隙に、イメージはまた別のイメージと混じり合い、そのたびごとに異なる未来と過去を作り上げる。これまで述べてきたように、僕たちの記憶は、百科事典のように外的に記述された静的な体系ではなく、その度ごとに物語る不安定で一貫性のない作家なのだ。
     心理学者マイケル・コーバリスは興味深い実験をしている(*18)。彼は被験者に知識や過去の出来事を思い出してもらい、人物、モノ、場所を新たに組み合わせて、未来の出来事を想像してもらうよう指示した。被験者は、例えば友人のタケシが電信柱に衝突したり、アユミがコーヒーをパソコンにこぼしたり、マサアキが女にこっぴどく振られる場面を想像した。もちろん、それらは実際に生じなかった出来事である。しかし、僕たちは比較的容易にそれらを想像することができる。  興味深いのは、コーバリスがこの実験で、過去の出来事を思い出すときに活性化する脳領域と、未来の出来事を想像するときに活性化する脳領域を記録していたことである。彼はその結果、過去を思い出す時と未来を想像する時に活性化する領域がほぼ重なっていることを発見した。過去も未来も、知識と出来事の組み合わせとして、そのたびごとに現在において生成されているのである。  さらに彼は、この事実をより明らかにするために、海馬を損傷し健忘症を長く患っている被験者を対象に同様の課題を行った(*19)。海馬は新たに記憶を作る場所であり、仮に摘出したとしても、論理的な思考にも、IQにもさほど変化はもたらさない。そして、驚くべきことに、摘出以前の物事であれば、彼らは思い出話に花を咲かせることもできる(*20)。本実験でも、被験者は自分とは関係のない質問であれば過去と未来、どちらの質問にも応えることができた。そして、この時も被験者はMRIに横たわっていて、活性化した脳領域はほぼデフォルト・モード・ネットワークに対応していることが分かった。前者の実験との違いは、本実験では被験者が健忘症を患っており、海馬を損傷していることである。被験者は新たな記憶を作り出すことができない。しかし、彼らは過去も未来も想像できる。そして、彼らのイメージする過去と未来、どちらを想像していても活性化する領域はかなり重複していた。彼らは損傷以後の知識と出来事を私に紐づけることができないのにも関わらず、未来と過去を生成できるのである。  もちろん、ここでいう過去と未来は損傷以前の時間軸に限定される。しかし、もし損傷後の過去や未来について質問したら、彼らはどのように応えるのだろうか。すでにこれに関する実験は行われている。例えば、先ほどの被験者に「昨日何をしていましたか」と質問する。理性が現実を冷静に分析することを主としているとすれば、「昨日のことは何も覚えていません」と応えるのが筋であろう。しかし、彼らは、マイケル・ガザニガの実験と同じく、損傷以前の想起可能な過去を組み合わせて一貫した物語を語り始める。神経学者デイビッド・J・リンデンは、彼らは「『昨日のこと』と称して、『古い友人を訪ね、一緒にレストランに行って昼食をとった。私はコンビーフサンドとピクルスを食べた。その後、公園まで散歩したら、スケートをしている人がいた』くらいの話をすることはあり得る」(*21)と言う。このことから分かる事は、過去と未来はあくまで現在において作り出されているということ。そして、彼らは過去と未来を奪われたわけではなく、現在の厚みを増すことができないということである。それは新たな経験を自分に帰属できないことを意味している。経験は現在という倉庫に新たな素材を付け加えたり、倉庫にある素材を変化させる事である。新たな経験を現在に蓄積できないことは、結果として、過去を書き換え、新しい未来を紡ぎだすことの喪失を意味している。彼らにとって過去と未来は損傷以前の現在から紡ぎ出される組み合わせの物語なのである。

    【新刊】宇野常寛の新著『遅いインターネット』2月20日発売!

    インターネットは世の中の「速度」を決定的に上げた一方、その弊害がさまざまな場面で現出しています。世界の分断、排外主義の台頭、そしてポピュリズムによる民主主義の暴走は、「速すぎるインターネット」がもたらすそれの典型例といえます。インターネットによって本来辿り着くべきだった未来を取り戻すには今何が必要なのか、提言します。
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  • 上妻世海 作ること、生きること — 分断していく世界の中で 第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象思考(増補改訂版)【前編】

    2020-02-04 07:00  

    デビュー著作『制作へ』が話題を呼んだ気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる、制作という営みの根源を探求する書き下ろし連載の待望の更新。今回は昨年夏に公開された第1回に大幅な加筆・修正を施した増補改訂版の前編です。「作ること」や「書くこと」を可能にする思考の正体について、脳神経科学の知見を武器に迫ります。
     書く道具は進化してきた。便利になったことは言うまでもない。僕自身、特殊な事例でない限り、紙とペンで原稿を書くことはない。しかし、書くことそれ自体は以前のままのように思える。本文で示しているように、書くことは読解、修正、加筆の循環運動であり、編集者はその循環運動の手助けをし、読者は循環運動を作品化したものを読む。紙の本はその形を物質化したものだ。ウェブ上に文字があり、それを印刷することで紙の本になる。これは、逆に言えば、ウェブにある限り、ある意味では試作段階にあると言えるのではないか。紙になった本は修正できない。加筆もできない。しかし、ウェブ上の記事は未だ循環運動を行いうる潜在的可能性を湛えている。 この修正版は2019年7月2日に書かれたものを再度循環運動に載せてみた、また別の作品化である。

    われわれにとって唯一なわれわれの世界とは、そこに万物が存在しかつ万物の変化し流転しつつあるこの空間即時間的な世界である。生物は死んだ瞬間からその身体が解体をはじめるであろう。生物がもし生きたものとしてこの世界に存在しようとするならば、この解体に抗してその身体を維持し、その身体を維持するためにはその身体を絶えず建設して行かねばならぬ。そこに生物とはみずから作るものであり、生長するものであるといわれるとともに、それがまた生きているということにもなるのである。
    -- 今西錦司『生物の世界』
    制作の始原としての書くことをめぐって
     これから本連載にて、僕は様々なテーマについて書いていくことになる。  僕はその時々に惹きつけられたことについて書く。身体の内側から書きたいと思うだけでなく、外側から誘惑されることによって書かされる。僕は思考を、内部にではなく、外部に記す。持って生まれた脳神経系という内部記憶装置にだけでなく、紀元前3000年頃に発明された「書き言葉」を用いて、外部記憶装置(紙やハードディスク)に安定させる。
     なぜだろう。そもそも、なぜ、僕は書きたいのか。  それは、一方で思考が流れであり、他方で僕の集中力と記憶力が脆弱だからだ。もちろん、その脆弱性は柔軟性と言い換えることもできて、そのおかげで、例えば、後ろからイノシシが突進してきても、無意識が音を通じて反応し、僕は差し迫る危険にいち早く意識を向ける/向かわされることができるし、記憶はテキストファイルとしてフォルダに保存されるのではなく、常に脳内で様々な可能性へと組み替えられる。記憶のあり方は固定的なものではなく、常にぐにゃくにゃと形を変えながら、可能性を模索する実験室である。
     例えば僕が友人と同じ経験をしたとしても、二人が全く異なる記憶を持っていることがある。両者の記憶の差異は、その体験を共有する時、つまりお喋りを通じて明らかになる。僕が「あの時、すごく面白かったよな」と言っても、「え、そんなことあったっけ」なんて返答があることはザラである。  これは記録と記憶の差異であり、文化としての記録と脳神経系としての記憶の違いとも言える。前者が相対的に安定しているとすれば、後者は相対的に不安定である。文字は紀元前388-389年に書かれたプラトンの著作を読むことを可能にしている一方で、僕の記憶は昨日の朝ごはんを思い出すこともできない。ご飯程度なら良いが、寝起きに閃いた物凄い?アイデアも布団の中でうとうとしている内に消え去ってしまう。しかし、思考はこの不安定な記憶を基盤としていて、ある意味それによって創造の余白があると言える。思考は、意識が設定した枠組みを超え出て連想されるからである。
     まさに今、僕が書いていることは、当初打ち合わせしたこととは完全に異なることである。人類における「制作」の始原性について書き始めていると、「なぜ書くのか」という問いが僕を捕らえ始めた。そうすると、次に僕はイメージ思考と抽象思考について考えさせられていて、昔読んだ本の内容が次々に連想されていき、会うたびにエピソードを少しずつ変える知り合いのことが思い返された。  僕の注意はテーマを超え、書くことすらも通り過ぎる。その少し虚言癖のある知り合いのイメージが、昨日食べた焼き魚を、焼き魚が学生時代の友人との楽しかった記憶を想起させ、それがなぜか先月見た映画のワンシーンを顕にする。僕は、意識のどこかではこのエッセイについて考えなければならないと思っているのに、映画のワンシーンが次に連鎖したオムライスのイメージによって、僕は身体的に食欲を刺激される。
    イメージ、この傍若無人なるもの
     僕がイメージという言葉を用いるとき、それは深層心理学で用いられている定義、つまり、情動を伴った「私」への現れのことを指している(*1)。イメージは「私」への現れであり、だからこそ表現を通じて共有されなければ、その齟齬も確認しえない。  もちろん、ここで言う表現には、先ほどのようにエピソードを話し合うという方法もあれば、小説や絵画、映画のような手段も存在する。芸術作品の多くは「私」への現れの複雑さを、多様さを、芳醇さを僕たちに教えてくれる。それを単に齟齬などと呼ぶのはおこがましい。  もちろん、このイメージの定義は常識的な定義と異なる。日常会話ではイメージを画像や網膜像として考えることが多いからだ。心理学者・河合俊雄も、僕たちがイメージについて考える際には、まずイメージがどの定義で用いられているか配慮するよう促している。常識と同じく、実験心理学でもイメージを「『外界の模像』または『知覚対象のない場合に生じる視覚像』のようなものとして考え、あくまで外的現実との関連において考えようとする」(*2)。両者に共通するのは、イメージは単なる視覚的像あるいは画像として捉える傾向であり、外側に物質的正しさ、基準があり、あくまでイメージは外的現実との関連で正しい/間違っていると判断されるということだ。もちろん、その定義は私と対象を分ける客観性を軸に添えており、イメージが主観的な場合、間違いであり、イメージが客観的対象と一致する場合、正しいとされる。その定義は前提からして問題を抱えているが、日常会話は主客の分離を前提とした方が円滑に会話が進むようであるし、再現性のある科学、少なくとも知覚心理学のいくつかの発見に寄与したに違いない。

    【新刊】宇野常寛の新著『遅いインターネット』2月20日発売!

    インターネットは世の中の「速度」を決定的に上げた一方、その弊害がさまざまな場面で現出しています。世界の分断、排外主義の台頭、そしてポピュリズムによる民主主義の暴走は、「速すぎるインターネット」がもたらすそれの典型例といえます。インターネットによって本来辿り着くべきだった未来を取り戻すには今何が必要なのか、提言します。
    宇野常寛 遅いインターネット(NewsPicks Book) 幻冬舎 1760円

     
  • 【新連載】上妻世海 作ること、生きること — 分断していく世界の中で 第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象的思考

    2019-07-02 07:00  
    ※7/2配信の下記記事に誤りがありましたため、修正して再配信いたします。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。


    昨年秋、初の論考集『制作へ』で読書界に鮮烈なインパクトを与えた気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる、待望の新連載がはじまります。現代美術や人類学・哲学における最先端の思索と実践を下敷きに、制作という営みの根源に迫った前著の刊行から9ヵ月。「書くこと」への徹底的な自己内省と、現代における最も外部化されたメタ認知たる脳神経科学との烈しい交錯が、さらなる探求の扉をこじ開けます。

    上妻さんの過去記事はこちら 【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ( 前編| 中編 | 後編)
    われわれにとって唯一なわれわれの世界とは、そこに万物が存在しかつ万物の変化し流転しつつあるこの空間即時間的な世界である。生物は死んだ瞬間からその身体が解体をはじめるであろう。生物がもし生きたものとしてこの世界に存在しようとするならば、この解体に抗してその身体を維持し、その身体を維持するためにはその身体を絶えず建設して行かねばならぬ。そこに生物とはみずから作るものであり、生長するものであるといわれるとともに、それがまた生きているということにもなるのである。
    -- 今西錦司『生物の世界』
    「制作」の始原としての「書くこと」をめぐって
     これから本連載にて、僕は様々なテーマについて書いていくことになる。 僕はその時々に惹きつけられたことについて書く。身体の内側から書きたいと思うだけでなく、外側から誘惑されることよって書かされる。僕は思考を、内部にではなく、外部に記す。 持って生まれた脳神経系という内部記憶装置にだけでなく、紀元前3000年頃に発明された「書き言葉」を用いて、外部記憶装置(紙やハードディスク)に安定させる。
     なぜだろう。そもそも、なぜ、僕は書きたいのか。 それは、一方で、思考が流れであり、他方で、僕の集中力と記憶力が脆弱だからだ。もちろん、その脆弱性は柔軟性と言い換えることもできて、そのおかげで、例えば、後ろからからイノシシが突進してきても、無意識が音を通じて反応し、僕は差し迫る危険にいち早く意識を向ける/向かわされることができるし、記憶はテキストファイルとしてフォルダに保存されるのではなく、常に脳内で様々な可能性へと組み替えられる。記憶のあり方は固定的なものではなく、常にぐにゃくにゃと形を変えながら、可能性を模索する実験室である。
     例えば僕が友人と同じ経験をしたとしても、二人が全く異なる記憶を持っていることがある。両者の記憶の差異はその体験を共有する時、つまりお喋りを通じて明らかになる。僕が「あの時、すごく面白かったよな」と言っても、「え、そんなことあったっけ」なんて返答があることはザラである。 これは記録と記憶の差異であり、文化としての記録と脳神経系としての記憶の違いとも言える。前者が相対的に安定しているとすれば(例えば、文字は紀元前388-389年に書かれたプラトンの著作を読むことを可能にしている)、後者は相対的に不安定である。そして、思考はこの不安定な記憶を基盤としていて、ある意味、それによって創造の余白があるとも言えるのだ。思考は、意識が設定したテーマを超え出て連想される。
     まさに今、僕が書いていることは、当初打ち合わせしたこととは完全に異なることである。人類における「制作」の始原性について書き始めていると、「なぜ書くのか」という問いが僕を捕らえ始めた。そうすると、次に僕はイメージと抽象的思考について考えさせられていて、昔読んだ本の内容が思い出され、会うたびにエピソードを少しずつ変える知り合いのことが思い返された。 僕の注意はテーマを超え、書くことすらも通り過ぎる。その虚言癖のある知り合いのイメージが、昨日食べた焼き魚を、焼き魚が学生時代の友人との楽しかった記憶を想起させ、それがなぜか先月見た映画のワンシーンを顕にする。僕は、意識のどこかではこのエッセイについて考えなければならないと思っているのに、映画のワンシーンが次に連鎖したオムライスのイメージによって、僕は身体的に食欲を刺激される。
    イメージ、この傍若無人なるもの
     僕がイメージという言葉を用いるとき、それは深層心理学で用いられている定義、つまり、情動を伴った「私」への現れのことを指している(*1)。イメージは「私」への現れであり、だからこそ表現を通じて共有されなければ、その齟齬も確認しえない。 もちろん、ここで言う表現には、先ほどのようにエピソードを話し合うという方法もあれば、小説や絵画、映画のような手段も存在する。芸術作品の多くは「私」への現れの複雑さを、多様さを、芳醇さを僕たちに教えてくれる。それを単に齟齬などと呼ぶのはおこがましいほどである。 しかし、もしかしたら、このイメージの定義はイメージを画像や網膜像として考える一般的な定義とは異なるかもしれない。心理学者の河合俊雄も、僕たちがイメージについて考える際には、どの定義で用いられているか考えるよう促している。彼が言うには、実験心理学はイメージを「『外界の模像』または『知覚対象のない場合に生じる視覚像』のようなものとして考え、あくまで外的現実との関連において考えようとする」(*2)。 要するに、そこでは、イメージは単なる視覚的像として考えられており、外側に正しさ、基準があり、あくまで内側のイメージはそれとの関連で正しい/間違っていると判断されるということだ。もちろん、その定義は私と対象を分ける客観性を軸に添えており、そういう意味で再現性のある科学、少なくとも知覚心理学のいくつかの発見に寄与したに違いない。
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