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記事 91件
  • 中川大地 「ゲーム」からみた「伊藤計劃以後」〜コンピュータゲームのあゆみはフィクションの想像力をいかに変えたか〜(PLANETSアーカイブス)

    2019-02-08 07:00  
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                 画像出典:Project Itoh 公式サイト スクリーンショット

    今朝のPLANETSアーカイブスは中川大地さんによる伊藤計劃論です。『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』といった伊藤計劃の作品の現代性とは何だったのか――『現代ゲーム全史』の中川大地さんが、「純文学」「SF」「ゲーム」の3つのジャンルをキーワードに考察します。(初出:S-Fマガジン 2011年 07月号(早川書房)※一部改稿)
     
    ■ フィクション表現の変化の震源だった「ゲーム」
     
     周知のように、1974年生まれの伊藤計劃は、幼少期にファミコンブームによるコンピュータゲーム産業の立ち上がりを経験し、その発展を血肉化してきた世代の精神性を最も濃密に体現する作家の一人である。デビュー作『虐殺器官』が、小島秀夫監督の『ポリスノーツ』や《メタルギア》シリーズから決定的な影響を受けているように、その想像力は日本ゲームの進化とともに歩んできたものと言える。
     したがって「伊藤計劃以後」を展望するための補助線として、本稿ではゲームの発展史がフィクション表現の想像力に与えてきた影響を改めて把捉し直しておきたい。
     
     伊藤個人の作家性に限らず、ゲームというカルチャージャンルの勃興と定着は、ここ20年あまりの日本の社会文化全般にとって、きわめて本質的かつ甚大な影響をもたらした変化の震源地であった。なぜならそれは、高度経済成長を終えて「実用」の領域では劇的な進歩が望めなくなった1970年代後半以降の日本にあって、唯一日進月歩の技術進歩を実感させてくれるコンピュータなる道具が不要不急の「遊び」の多様化を通じて人々の生活の中に入りこんでくるという、かつてない生活体験の変容そのものだったからである。
     言い換えればコンピュータゲームは、人々が初めて接した最も純粋なかたちの消費社会の体現物であり、インターネット普及以前にあっては最も実感的に情報化社会なるものの手触りを味わえるマスプロダクトに他ならなかった。
     
     かくして、高度成長期的な進歩への「夢」の名残を背負いながら、まずは「玩具」とカテゴライズされる生活の異物として登場したゲームは、1980年代のファミコンブーム期に《ドラクエ》シリーズのヒットなどストーリイ表現を伴うゲームが一般化したことを機に、しだいに独自のコンテンツ価値を持つ「作品」としての性格を認知されてゆく。特に1990年代以降、隣接するオタク系カルチャーのメディアミックス展開や、プレイステーションの成功によって音楽CDと同じ光学メディアによるパッケージソフト流通の方式が定着すると、この傾向はさらに顕著になものとなる。
     こうした著作物性の前面化と、ポリゴン表現によるグラフィックスの3D化によって、この時代の大作ゲームは、急速に先行する総合視聴覚表現である映画を強く意識したものとなっていった。例えば伊藤計劃が最終作のノベライズを手がけた《メタルギア・ソリッド》も、こうした潮流の中で登場してきた「映画的」ゲームの最も代表的なシリーズである。
     
     そしてゲームが産業資本によるメディア・テクノロジーのイノベーションの勢いのままに既存コンテンツジャンルの表現を旺盛に取り込んでいった動きの反作用として、逆にゲーム独自の体験性が旧メディアに輸出されていった例も枚挙に暇がない。
     最も素朴な意味ではRPGによる「剣と魔法のファンタジー」の意匠やキャラクターメイキングの作法がライトノベルの成立を促したことや、「努力・友情・勝利」の精神論的なドラマツルギーが制していた少年マンガにおけるカードゲーム的な戦術性の導入、AVGなどにおける繰り返しプレイの経験を劇化した「ループもの」や善悪の規範ではなく等価なプレイヤー同士が不条理なルール設定の中で戦い合う「バトルロワイヤルもの」の流行など、形式・内容の両面でゲームの前提なしには成立しえない表現が1990〜2000年代のフィクションの潮流を牽引した。
     つまり批評家の東浩紀が『AIR』や『ひぐらしのなく頃に』など美少女ゲームの影響圏に限定した作品から論じた「ゲーム的リアリズム」や、宇野常寛が諸ジャンルのコンテンツについて社会反映論として展開した「ゼロ年代の想像力」は、より直接的にはまさにコンピュータゲームを通じて形成されていった広範な文化再編の一部として捉え直すことができるのである。
     
     
    ■「文学」から「ゲーム」への移行が意味するもの
     
     以上見たようなジャンルの再編をともなうゲーム発のフィクション変動の意義を、より本質論的な観点から位置づけるなら、それは近代という文明パラダイムの中でリアリズムを基軸とする指導理念の下に諸文化の中核として編成されてきた「文学」という装置の機能と地位が、事実上は「ゲーム」によって置き換えられつつあることを示している。
     どういうことか。そもそもリアリズムに基づく純文学とは、先近代の神話や戯作のように単純・荒唐無稽で恣意的・予定調和的に見える幼稚な物語を批判し、現実の複雑さを科学を範とする理性的省察によって描出しようとする精神性から生み出されたものであった。
     だが、近代社会が成熟していく過程で国民国家とセットになった理性的自我という観念の虚構性が明らかになるにつれ、しだいに文学は前衛としての役割を失っていく。現実の複雑性を描出しようとする物語批判の動機は、むしろ分裂症的な主体や言語的表層の難解な文体操作によって純文学を延命させようとする修正主義としてのポストモダニズムなどに転化していくが、正味の社会的なインパクトは喪失の一途にあったという他はない。
     
     そうした中で、コンピュータゲームの登場によって20世紀の終わりから人類史上空前の規模でゲームなるものが普及し、フィクションの世界と結合したことは、文学の存立基盤にとっても巨大な意味を持っていたと言える。なぜなら、ゲームと物語は、ともに人間が外界の情報から材を得て虚構的な領域を形成するという現実加工の営みである点は共通していながら、その構成法がまったく異なるものだからである。
     物語とは、基本的に人間が知覚経験を通じて得た情報ストックの中から個々人の主観的な認知バイアスによって取捨選択や圧縮を施し、事物の因果を暫定的に関係づけていく解釈作用によってシリアルに形成される、認知コストの低減のための記号化過程である。
     対してゲームの場合は、ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンによる最近のゲーム研究の標準書『ルールズ・オブ・プレイ』での概念整理に従うなら、窮極的には数学的に表現可能な「ルール」に基づくシステムを要件として備え、現実の時間と空間の中から「魔法円(マジックサークル)」などと称される「遊び」の領域を異化し、ルールの策定者にとっても予測不可能な経験を創発していく「可能性の空間」を生成する営みである。
     
     つまり、ゲームは本質的に非物語的な現実経験の産生エンジンとしてあり、従来の物語では描かれえなかった現実性が自ずと備わりやすい性格を有している。
     例えばアクションやシューティングにおいて、制作者の想定外のプレイングがゲームの醍醐味を引き出してきた例は数限りなくあるし、RPGなら通常の英雄物語では描かれないようなザコ敵とのランダム遭遇を避けられなかったり、物語の筋立てとはまったく無関係なパラメータ的事情や選択ミスによって死に至るような理不尽もままある。
     そうした物語的な収まりの良さを逸脱する体験性を様々なレベルで有するゆえにこそ、ゲームの伸長は純文学が志向する「物語の中での物語批判」というミッションを別のかたちで置き換え、各フィクションジャンルの想像力にインパクトをもたらす中心源たりえたのではないだろうか。
     
     
    ■「日常化されたSF」としてのゲームと伊藤計劃の作家性
     
     もうひとつ、純文学の中心性と並んで、ゲームによって成立基盤に侵食を受けてきたジャンルが存在する。同時代の支配的な先端技術が開きうる可能性を外挿し、それをフィクション上の世界律として組み直して作劇に活用する文芸手法、すなわちSFである。
     
     すでに述べたように、人々にコンピュータ技術がなしうる「夢」を可能性の段階から体感させる装置であったゲーム機の歴史にあっては、何か大きな技術的イノベーションがあるたびに「まるでSFのようだ」という感慨が決まり文句のように寄せられるというプロセスが繰り返されてきた。これは裏を返せば、SFが純然たるアイディアの力によってセンスオブワンダーを与えることの敷居がきわめて高くなったことを意味する。
     実際、80年代に発展して情報技術と身体の関係性の考察を押し進めたという点でコンピュータゲームとは双子のような関係にあるサイバーパンクを最後に、本質的なパラダイムの次元ではジャンルSFは同等以上の潮流を起こせていない。
     
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  • 中川大地 デジタルゲームの現在――「2016年ショック」以降の展開

    2018-12-26 07:00  
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    今朝のメルマガは、『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』(2016年)の著者で評論家/編集者の中川大地さんによる、2018年までの日本のゲームシーンの総括です。『Fate/Grand Order』が先導する「虚構回帰」や、任天堂の「Switch」の成功、インディーゲームの席巻、そして「eスポーツ」の急速な勃興など、ゲーム業界を揺るがした地殻変動を改めて振り返りながら、〈拡張現実の時代〉に続く新たなパラダイムの可能性を構想します。 ※本稿は「S-Fマガジン 2018年6月号 ゲームSF大特集」に掲載された同名原稿の再録です。
     拙著『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』では、一九四五年を起点に戦後史を十五年ごとにゆるやかに腑分けする社会文化史の時代区分に照らしながら、第二次大戦後の情報技術の発展とともに推移したデジタルゲームの史的展開を分析した。
    ▲『現代ゲーム全史』
     すなわち、ちょうど日本では昭和という元号のカバー期にほぼ一致する〈理想の時代(一九四五~一九五九年)〉〈夢の時代(一九六〇~一九七四年)〉〈虚構の時代(一九七五~一九八九年)〉の三セットと、ポスト冷戦という世界史的なメルクマールとも重なった平成前半の〈仮想現実の時代(一九九〇~二〇〇四年)〉、後半の〈拡張現実の時代(二〇〇五~二〇一九年)〉といった枠組みだ。  このうち、デジタルゲーム産業が本格的に成立していく〈虚構の時代〉以降の三時代は、それぞれをさらに五年間ずつの「確立期」「本格期」「変貌期」の三期に分けての章立てを行った(五年というのは、おおよそ家庭用ゲーム機の世代スパンにも該当するため、ゲーム史の枠組みを語りやすいためだ)。  その枠組みに照らせば、現在は二〇一五~二〇一九年の〈拡張現実の時代〉変貌期の最終盤ということになる。二〇一六年夏に刊行された拙著では、当時まさにブームの渦中にあった『ポケモンGO』や、「プレイステーションVR」の発売などで「VR元年」と呼ばれた事柄などを取りあげ、それまでコンセプト先行だったARやVRが、いよいよ市場での普及段階に入っていく期待までを取りあげていた。  以後の国内シーンに目を転ずれば、まさに東日本大震災を経由して「現実対虚構(ニッポン対ゴジラ)」を謳った特撮映画『シン・ゴジラ』を皮切りに、邦画として歴代二位の興行成績を記録した『君の名は。』、さらに『この世界の片隅に』の未曾有のロングラン化など、まさに戦後日本のフィクション・エンターテインメントの画期となるような社会現象的なヒットが相次ぐことになった。
     こうした周辺領域ふくめての状況が示しているのは、二〇〇〇年代初頭よりインターネットやモバイル端末が普及したことで、パッケージ流通のコンテンツが軒並み退潮し、ソーシャルメディア等を介したコミュニケーションや体験型の消費へと向かう、いわば「虚構から現実へ」に向かっていた二十一世紀的なトレンドが部分的に逆転し、ある意味での「虚構回帰」を起こしているというフェーズの変化だろう。 『ポケモンGO』が現実の風景の中にスマホを介して接触できるポケモンたちの姿を重畳させたように、『シン・ゴジラ』が震災後の日本のリアルな状況シミュレーションとしてゴジラを解き放ったように、二〇一六年を境に、現実の中に穿たれる虚構側のパワーバランスが相対的に強められている。  それが目下の情勢のように見える。
    『FGO』がもたらした「虚構回帰」
     局面別に見ていこう。  国産ゲームコンテンツがもたらした「虚構回帰」の直近の徴候として、おそらく最も商業的インパクトが大きかったのが、二〇一五年から運営されているスマートフォンゲーム『Fate/Grand Order』の展開だ。  TYPE-MOONによる人気伝奇シリーズ《Fate》の集大成とも言える本作は、『チェインクロニクル』(二〇一三年~)や『グランブルーファンタジー』(二〇一四年~)あたりで顕著になったシナリオ重視型のスマホRPGの潮流に乗り、複雑なキャラクタードラマの「連載媒体」としてガラケー時代からのソシャゲのフォーマットを転用したことで、一躍オタク業界における覇権コンテンツの一角に成長した。
     とりわけ本作の盛り上がりを演出したのが、おおむね現実とリンクしたリアルタイムの進行によって「人類史の修復」をテーマにした連作ストーリーを展開したことである。多くのプレイヤーの参加を要したレイドバトルなども含め、二〇一六年末までに第一部のラストシナリオをクリアしなければ劇中世界に二〇一七年が訪れないという「時間」の同期性を強調したイベント演出は、「空間」の同期性を追求した『ポケモンGO』と対になる〈拡張現実〉性だったとも言える。
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  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 モンスターが涙を流すとき——ゲームAIの哲学をめぐって(後編)

    2018-10-30 07:00  
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    身体論からのボトムアップで「人間」の構築を目論む西洋哲学的AIと、超越的な存在を仮構しようとする東洋哲学的AI。2つのアプローチが融合した先に、虚構のキャラクターが「涙を流す」ような情緒は宿るのか。ゲームAIが可能にする新しい想像力のあり方について語り合いました。(この対談は『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』刊行記念トークイベントとして、2018年6月28日にジュンク堂書店池袋本店で開催されました)(構成:大内孝子)※本記事の前編はこちら
    三宅陽一郎さんの連載「三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき」の記事一覧はこちら
    知能を形成する2つの流れをメタAIが補完
    中川 三宅さんの「人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇」のセミナーにも何回か参加しているんですが、何回目かのときに「東洋哲学は人間の主体の側だけではなくて、それをもう少しメタな視点から見返す視座がある」という話をされていたと思います。
    三宅 知能を探求すると、2つの流れがあるんですね。「実世界と一緒に同期して動こうとする流れ」と、もう1つは「周りの環境世界とは別に自分を恒常的に保とうとする内面の流れ」、世界とともにありたいという欲求とむしろ世界を超越したいという人間のもう1つの欲求、この2つがいつも流れているというようなところが知能の本質なのかなと思います。
    ▲知能の場の形成
    実際のゲームAIを作るときも、片方を作った後にもう一方のほうを作らないと、どんどん壊れていくんです。60分の1秒で回さなきゃいけないとか、いろいろな計算途中のスレッドがたまってきて、なんか汚い感じになってしまう。ですが、たとえば人工知能を眠らすように内面の流れだけを流すというようにクリーンアップして、自分の形を整えていくみたいなところがあります。 生物学的に言うと、この2つの流れはアポトーシスとホメオスタシスと言います。自分を変えてまで環境に適応しようとするアポトーシス的な流れ、自分をある一定の形に保とうとするホメオスタシス的な流れ、この2つの力が生物の中で拮抗しているんです。知能を探求していくと、実は生物的な細胞レベルの話になる。知能の中にそういう2つの力が宿っているわけです。
    中川 アポトーシスとホメオスタシスと生命科学用語が出てきたので、一応解説しますと、まずホメオスタシスというのは、自己同一性を保つための秩序形成の話です。たとえば、何かものを食べてそれが身体の成分に変換されて……という形で、人間の細胞は入れ替わってるけど構造は変わらない。いわゆる動的平衡を保つ仕組みがホメオスタシスです。一方、全体の秩序形成のために部分的に壊れることをアポトーシスといいます。たとえば、人間が胎児からだんだん赤ん坊に育っていくときに、受精卵の段階からだんだん人間らしく形成されていく。初期は指の間に水かきがあったりするんですが、途中でそういうのがなくなっていく。 トップダウン的にこうなるべきだというふうに一つの秩序を保っていくのがホメオスタシス、それに対して、部分的に壊していくのがアポトーシスという意味ですね。
    三宅 極論すると、物理世界からの流れは極めて西洋的(機能的)なもので、物理世界と時間的に同期しながらボトムアップに自分が築かれます。一方、自分を超越した何かがコアにあり、そこに向かって自分自身が保たれているという流れは極めて東洋的です。
    中川 三宅さんの本を読むかぎり、環世界からボトムアップ的に自意識みたいなものができていく動きというのは、東洋哲学を導入しなくてもある程度説明できるという印象でした。以前の『人工知能のための哲学塾』(西洋篇)でフィーチャーされていたのは、ユクスキュルが定義した環世界から現象学、メルロ=ポンティの身体論などに至る流れが、デカルト的な自意識の構成原理を補完的に説明していくということだったと思いますが、そのへんの捉え方はいかがですか?
    三宅 そうですね。この図でいうと、どちらかというと、身体から出発しているほうが西洋篇で説明したこと、上のほうは東洋的、東洋哲学篇で語っていることです。超越的な何かから出発するというのは、あまり西洋では許されない思考だったりします。自分の存在の起源みたいなものが自分の中にあるみたいな神秘主義的なところなんですが、結局、自分自身を作り出しているものは身体からできるというのと、そんなこともないだろうという話もあって、僕はそこを補完するような理論を探求してきました。 もう1つ東洋哲学篇から図を引用します。井筒俊彦先生の回で書いたものですが、この構造は東洋思想には共通してあって、単にイスラムの神秘主義だけではなくて、実は、いろいろなところに出てきます。
    ▲上昇過程・下降過程
    イスラム哲学では「上昇過程」「下降過程」、仏教では「向上」「向下」、「向上門」「却来門」と言ったり、いろいろな呼び方がされています。そして、この一番上、いろいろな呼び方があるんですが、バルトは「存在の零度」、老子は「道」、イスラムでは「絶対的一者」、華厳教では「空」というように、同じことをいろいろな人が東洋的な存在の起源みたいな不思議な言葉で示しています。 これは西洋の人工知能には絶対に出てきません。これを人工知能に取り入れようとすると、先ほど言ったような、人工知能の存在の起源みたいなものを人工知能の中に組み込まなければいけない。昔の僕が使っていたモデルはどちらかというと「こちらから入ってきて、インフォメーションフローをぐるぐる回して終わり」というような単純なものだったんですが、この東洋思想を入れると、下からの環境世界からの流れ、上からの一なる全からの流れが交差するということになります。やはり、存在の起源というのがないといけないので。自分自身を修復している流れ、超時間的な流れが2つ存在する、そういうことです。
    ▲エージェントアーキテクチャの2つのフロー 
  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 モンスターが涙を流すとき——ゲームAIの哲学をめぐって(前編)

    2018-10-25 07:00  
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    車の両輪にもたとえられる「ゲームとAI」。実際、現実の社会に実装するにはまだ拙いAIを、今、解き放すことができる世界は(閉じた系ではあるが)ゲームの空間だけとも言えます。AIはゲームをおもしろくするための技術であり、ゲーム空間はある意味AIの実験場。そんな関係性にある"ゲーム"と"AI"、さらにその先にいるプレイヤー(="人間")。――ゲームのモンスターが涙を流すとき、人は駆け寄って、その手を差し伸べるのか? ゲームAIエンジニア・三宅陽一郎さん×評論家・中川大地さんの対談をお届けします。(この対談は『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』刊行記念トークイベントとして、2018年6月28日にジュンク堂書店池袋本店で開催されました)(構成:大内孝子)
    三宅陽一郎さんの連載「三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき」の記事一覧はこちら
    人工知能にとってゲームはどういう意味を持つか
    三宅 僕は、普段はゲーム会社でゲームの中で動く人工知能を作っています。人工知能を作るときにその足場として哲学があるんですが、人工知能を作るために僕が必要とした哲学を解説したものが2016年の夏に発刊した『人工知能のための哲学塾』で、第二弾として、この4月に東洋哲学を取り上げた『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』を出しました。今日は、刊行記念トークイベントとして中川大地さんをゲストに、ゲームと人工知能、AIについて、さまざまな確度から議論したいと思います。
    中川 僕は評論家をやっておりまして、『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』という本を出しています。これはその名の通り、基本的にはデジタルゲームの歴史を文明論的な視点から掘り下げた本なんですが、今日はそういった立場からお話しできればと思います。
    ▲中川大地『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』
    ▲三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』
    三宅 人工知能を作っていると人間の業の深さがわかるというのはあります。僕が何をしているかというと、モンスターたちをいかに「堕落」させるかということをやっています。

    ゲームの中のモンスターは、生まれたときはただのポリゴンの塊です。欲求も、感覚もない。何も食べない、何も飲まない。プレイヤーを見ても何の反応もしない。世の中に何の執着もない。簡単に言うと、解脱している状態です。それを、いかにこの世界に執着させるかということで、欲望を持たせたり、感覚を持たせたり、プレイヤーを見たら「とりあえず、戦え」と教えてたり、堕落させるのが僕の仕事なんです。そうすると、だんだん生き物っぽく見えてくるわけですね。 この「人工知能にどう煩悩を与えるか」というのは東洋的な視点です。どちらかというと、西洋の人工知能は組み立てて作っていく。東洋はというと、全体の世界の中の一部として知能を作りましょう、と。非常に大雑把に言うと、そういう違いがあります。人工知能は変わった学問で、それぞれの文化的な土壌が出るんです。 西洋的には「神様がいて、人間がいて、人工知能がいる」という縦の序列で考えます。ですから、人工知能は最初から人間とは対立して、かつ、人間の下にいるというのが前提となります。ロボットもそうです。必ずしも人間の姿をしている必要はなくて、社会の中で使役する存在としてあればいい。ところが、東洋的知能観はちょっと違います。ゾウリムシと鹿とaiboとたまごっちと人間はだいたい同じ。生命はみな同じと考えます。
    中川 自然の生物も初音ミクとかaiboみたいな人工物も、区別なく捉えていく世界観なんですね。
    三宅 それが日本のエンタメを支える土壌でもあって、キャラクターの誕生日にチョコレートを送ってきたり、キャラクターがゲームの中で死んだら涙を流してくれたり、そういうシンパシーが、キャラクターそのものを作る土壌になっています。ですから、キャラクターに頭脳、つまり人工知能を入れるのは、日本が一番恵まれていると言えると思います。
    ▲西洋的知能観と東洋的知能観
    三宅 ゲームAIと一口に言っても3種類あって、キャラクターの頭の中のAI、これはみなさんが直感的に思っている頭脳のことです。そしてナビゲーションAIという地形を解釈するちょっと特殊なAI、メタAI。メタAIはキャラクターを使って、それとはわからないようにプレイヤーを楽しませる。ゲームを神様みたいに上から見ていて、プレイヤーがちょっと詰まっていたら、キャラクターに襲わせて正しい方向に行くよう仕向けたり、あるいはプレイヤーが下手だなと思ったらちょっと手を抜いてあげたり、ゲーム全体を制御するんです。うまくユーザーを楽しませてあげる、映画監督みたいな存在です。
    ▲ゲームAIの種類
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  • もはやサブカルチャーは「本音」を描く場所ではなくなった――『バケモノの子』に見る戦後アニメ文化の落日(宇野常寛×中川大地)(PLANETSアーカイブス)

    2018-07-09 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは『バケモノの子』をめぐる評論家の中川大地さんと宇野常寛の対談をお届けします。『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』などでヒットを飛ばし、ポストジブリの最右翼と目される細田守監督とスタジオ地図。その最新作が逆説的に示してしまった戦後アニメ文化の限界とは? 初出:「サイゾー」2015年9月号(サイゾー) ※この記事は2015年10月7日に配信した記事の再配信です。
    Amazon.co.jp:バケモノの子
    大作化で発揮されなくなった細田守の批評性
    中川 どうしても面白いとは思えない作品でした。「“夏休み映画”を作らなければ」という形骸的要請ばかりが先だって、ワクワク感が全然なくて。異世界ファンタジーとしての体裁が、ほとんど機能してなかった気がします。
    宇野 僕はちょっと評価が複雑で、観ている間はそんなに気にならないんですよ。でも、観終わったあとに何か言おうと思うとまぁ、誰も傷つけずによくできていたな、ということしか浮かばない。
    中川 基本的には、シングルマザーの子育てを描いた前作『おおかみこどもの雨と雪』【1】と対の構造になっている。つまり、親が一方的に子を導くのではなく、親の側が子から教えられる相互性とか、熊徹【2】だけではなく、友人の多々良と百秋坊【3】らにも子育てのタスクを分散させるとかで、細田守監督なりの新たな父性や家族像を追求しようとしたわけですね。そのメッセージ性自体にはなんら異論はないのだけれど、『おおかみこども』とセットだと「母にはあれだけ苛酷な運命を押しつけといて、父はここまでユルユルに免責すんのかよ!」という見え方になってしまう(笑)。

    【1】『おおかみこどもの雨と雪』
    公開/12年7月 
    細田守のオリジナル長編2作目。
    “おおかみおとこ”と結婚し子どもを産んだ女性と、その娘と息子の“おおかみこども”の物語。シングルマザーとなった主人公の花を通じて描かれる母性信仰の強さが、一部から批判を集めた。
    【2】熊徹
    熊の容姿をした半獣人で、武道家。バケモノの世界で次期宗師の座を猪王山と争っている。人望が厚い猪王山に比べ、荒くれ者で我が強い。蓮を拾い、名前を名乗らなかった9歳の彼を「九太」と名づける。
    【3】多々良と百秋坊
    どちらも熊徹の幼なじみで、多々良はヒヒの半獣人、百秋坊は豚の半獣人で僧侶。多々良は大泉洋、百秋坊はリリー・フランキーが声を当てている。

    宇野 『おおかみこども』では「女性賛美の形をとった女性差別」の典型例みたいなことをやってしまって、ちょっと過剰に叩かれすぎた面もあるけど、まあ、さすがにあれは今の40代男性の自信のなさと、屈折した男根主義が悪い形で全面化して作品を狭くしていた側面は否めない。その反省か、今回、現代的な家族観・コミュニティ観を最小公倍数的にきれいに描いていて、こういう関係が美しいという美学はわからなくもないけれど、今度はその分、批判力のあるファンタジーではなくなってしまった。
    中川 まぁ『おおかみこども』での批判に誠実に対応した結果、たまたま男性側の免責に見えてしまっただけかもしれないからジェンダー論的な批判は留保するとして。もっと問題なのは、「渋天街」のイメージの弱さでしょう。『千と千尋の神隠し』的な、この世とは違う理で動く摩訶不思議な異界としての設定も映像的快楽も希薄で、ただステレオタイプな都会としての渋谷に対比させるためだけの、素朴な共同体社会でしかなかった。
    宇野 あそこで描かれているものって、完璧に正しくてそこそこ美しいと思うんですよ。でも、いま期待をかけられているスタジオ地図【4】の新作アニメーションで、夏休みの最大のごちそうとしてみんなが観に行って、この作品が出てきた時の物足りなさは否めないと思う。ポスターから想像できるストーリーの半歩もはみ出ていない。
     結局細田さんって、美少年というモチーフに一番興味があると思うんですよ。『サマーウォーズ』【5】を観ると明らかじゃないですか。一番思い入れがあるのはカズマだったでしょう。カズマは脇役だったのが『おおかみこども』で“雨”を経て、『バケモノの子』では完全に少年が主役になっている。モチーフレベルでは正直になってきているんだけど、その間に細田守の社会的地位が上がって、表現レベルではどんどん丸くなってしまって、とうとう誰も傷つけない代わりに何もない作品になってしまった。
     特に九太が青年になって以降、後半のシナリオが完全に“段取り”になってしまっている。一郎彦【6】が実は人間の子どもだというのは観ていればすぐにわかるし、クライマックスのアクションシーンが必要だからという理由だけで渋谷に出るのも……。あと、九太の社会復帰が、勉強して高認をとって大学に行くことを決意する【7】って展開に到っては、だったらなんのためにファンタジーが存在するのかよくわからなくなってしまう。異世界で修行をすることで、大学では学べないような世界の豊かさを学んできたんじゃなかったのか、と(笑)。この映画の中でいちばん豊かに描けているのって、少年期の修行時代の擬似親子+2人の傍観者(多々良・百秋坊)というあのコミュニティですよね。

    【4】スタジオ地図
    『時をかける少女』『サマーウォーズ』を手がけたプロデューサーが、細田守と共にマッドハウスから独立して設立したアニメ制作会社。
    【5】『サマーウォーズ』
    公開/09年8月
    17歳の健二が、ふとしたことから憧れの先輩の田舎に共に帰省し、
    大家族の仲間入りをする。同時進行でインターネット上の仮想世界「OZ」ではサイバーテロが発生。田舎の大家族とネット上の仮想世界での出来事がリンクしながら進んでゆく。
    【6】一郎彦
    熊徹と宗師の座を争う猪王山の長男。実は拾われてきた人間の子ども。少年期はさわやかで聡明な子どもだったが、成長するにつれて心に闇を宿し、最後に暴走する。
    【7】勉強して高認をとって~
    17歳になってから人間社会に再び足を踏み入れた九太は、図書館で出会った楓(後述)の存在をきっかけに勉強を始め、楓の勧めもあって大学受験を考えるようになる。結果、熊徹とぶつかり、渋天街を飛び出してしまう。

    中川 映像的には、細田さんが自分の本当に得意な表現を純粋抽出して組み合わせることで構築されてますよね。要は『サマーウォーズ』でも好評だった対戦格闘アクションを核に、『おおかみこども』での人獣のメタモルフォーゼの要素を盛り込むなどの手法で、ドラマの軸線を作った。熊徹からの見取り稽古をアニメーションのシンクロで示した修行時代や、猪王山とのバトルなどは、すごく良かった。
     渋天街のイメージの弱さも、肯定的に捉えるなら、これまでの細田作品における現実社会と異世界──『デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!』【8】や『サマーウォーズ』ならデジタル空間だったり、『おおかみこども』なら狼たちの自然世界だったり──とを等価に描く表現の延長線上に発想されたがゆえの帰結ともいえる。渋天街って、設定上は人間界の渋谷の地形と対応している〈拡張現実〉的な世界ということなので。そういう感じで、異世界を人間社会とフラットに捉えて特別視しない点が、自然/空想賛美的なジブリ作品に対する、細田守の現代的な作家性だったわけです。
     しかし今作については、画面を見ていても2つの世界の対応が全然伝わらないし、作劇上も活かされていない。結局、世界観構築に際しての批評性が弱いので、前半と後半でファンタジー世界と現代社会を対置するプロットが作劇意図ほどには機能していないんですよ。それが“段取り”感につながっているのだと思う。
    【8】『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』
    公開/00年3月 
    細田守監督作品。ネットに出現した新種のデジモンの暴走を止めるべく、少年たちが戦いに乗り出すストーリーで、『サマーウォーズ』公開当初から類似性が指摘されていた。

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  • 【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(後編)

    2018-05-24 07:00  
    540pt

    写真提供:映画『リビング ザ ゲーム』横浜シネマリン(〜5/25)ほか、山口情報芸術センター[YCAM](5/18〜20)、シネモンド(金沢市・5/26〜6/1)にて順次公開 ⓒWOWOW/Tokyo Video Center/CNEX Studio
    『ゲームセンター文化論』の著者でゲームセンター研究の第一人者である社会学者の加藤裕康さんと、『現代ゲーム全史』の著者である評論家の中川大地さんの対談の集中連載。最終回である今回は、コミュニティの大切さやビジネスモデルについて、〈eスポーツ〉の今後のあり方について提言をしていきます。(構成:藪和馬+PLANETS編集部) ※本連載の一覧はこちら。
    どこにカネを落とすべきか
    中川 ここまでの話では、とにかく高額賞金ありきの制度化は、概念としてのeスポーツにとってマストな要素では決してない。それはあくまでもやはり二の次三の次の問題であって、文化としてやはりデジタルゲームを使った競技としてのeスポーツを盛り上げていく上ではやはり多様な参加チャンネルによるコミュニティとかシーンづくりのほうが大事ということですよね。
    だからこそ、もし本当に賞金額を上げるためにスポンサードするお金があるんだったら、勝ち上がった一部のプレイヤーにだけにあげるんじゃなくて、サスティナブルなコミュニティができるようなイベントの運営や大会などに投資するチャンネルをつくってくださいよということですね。これは、ももち選手が自分の主張としておっしゃっていたことでもあります。
    その主張には本当に同意で、サスティナブルなシーンをつくりたいのならば、ライセンスなんかやっている場合じゃないんです。そんなことで賞金獲得のスキームを作ることじゃなくて、もっと違う金の使い方があります。だから、もっと具体的なかたちでいろんな人たちが提案していくといいかなという感じはしますよね。
    加藤 まさに、おっしゃる通りだと思います。ライセンス制の向いている方向は、けっこう内向きです。eスポーツを広げようというふうには言うんですけど、そこは懐疑的です。
    中川 広がるわけがない。
    加藤 先ほども触れましたが、ゲームシーンの外には大きな壁があります。そこはやっぱりコミュニティとかにお金を落として、楽しそうな場をいっぱい作って、参加者の輪やゲーム文化を広げていかないと先細りしていってしまう気がします。だから本当に今のやりかたでうまくいくのかどうかは、ちょっと見守っていきたいなと思うんです。
    中川 例えばももちさんのようなプレイヤーが、もっとスポンサーやIPホルダーと別の形で組んで、JeSUのライセンス制度とは違うスキームでの盛り上げ方をしてくれたらおもしろいなと思うんですね。
    実際、彼のパートナーのチョコブランカさんなんかは、大会をイベントとして盛り上げるプロモーター的な役割を実践することで、競技に勝つだけではないプロゲーマー像のロールモデルを示してるわけで。
    加藤 すごくわかりやすいのが、闘会議でライセンス制の大会をいくつかやっていたじゃないですか。中川さんと二人で観に行った大会は、どこも観客が少なかったですよね。もちろん、そこではプレイヤーたちの熱い戦いが繰り広げられていましたけれども、観客が盛り上がっているようにはとても見えませんでした。それは配信だけ観ていたらわからないけど、現地にいったら如実に伝わってきてしまう。
    闘会議と同じ日に、秋葉原のe-Sports SQUAREでコミュニティ主導の大会が開かれていました。その大会運営には、海外のプレイヤーからも伝説のゲームセンターと謳われる「ゲームニュートン」のオーナーで、株式会社ユニバーサルグラビティーの代表取締役社長、松田泰明さんが協力しているのですけれども、非常に盛り上がっています。闘会議みたいな大きな会場ではありませんけれども、かなりの熱量を持って多くの人が集まっているんですね。ゲームニュートンでは定期的に大会が開かれていて、日頃からプレイヤーの集まる場を提供しています。つまり、コミュニティが大事というのは、そういうことなんです。 プロライセンス制度などを整えても、コミュニティが根付いていない大会は、結局その場が盛り上がらない。そうなったら、やっぱり続けていくのは厳しいですよね。
    ストリートファイター系はプロゲーマーも多いし、今の日本では認知度が一番あるので、別格だとは思うんです。それでも、あるときを境に東京ゲームショウなどの大会の観客が少なくなったと感じたときがありました。その頃、格闘ゲーム人気の低迷も言われていましたが、大会を開けば成功するわけじゃなくて、いろんな要因が絡んでいる。コミュニティを無視して単に大きな企業が先導して大会を開いたとしても、それが盛り上がるかどうかっていうのはまた別物だと思うんですよ。

    ▲2018年4月1日に行われたバーチャファイター系の大会「第16回ビートライブカップ」の模様。コミュニティの根強い支持により、4年ぶりに開催された。
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  • 【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(中編)

    2018-05-16 07:00  
    540pt

    写真提供:映画『リビング ザ ゲーム』横浜シネマリン(〜5/25)ほか、山口情報芸術センター[YCAM](5/18〜20)、シネモンド(金沢市・5/26〜6/1)にて順次公開 ⓒWOWOW/Tokyo Video Center/CNEX Studio
    『ゲームセンター文化論』の著者でゲームセンター研究の第一人者である社会学者の加藤裕康さんと、『現代ゲーム全史』の著者である評論家の中川大地さんの対談の集中連載。全3回のうち中編では、話題となっているプロライセンス制度を含めた〈eスポーツ〉を取り巻く現状について分析します。(構成:藪和馬+PLANETS編集部) ※本連載の一覧はこちら。
    eスポーツが保つべき「遊び」の本質とは
    中川 前回の議論で、いわゆる「eスポーツ」をプロゲーム産業の振興に限定せず、デジタルゲームの競技大会と一般スポーツの文化的な土壌がどう違うのかから考えていく話題に行き着きました。そこでもうすこし掘り下げておきたいと思うのは、ゲームセンター的な第四空間で得られる、みんなが感じている価値は、武道を近代スポーツ化した嘉納治五郎的な求道心とどのように違うものとして言語化すべきなのか、ということです。eスポーツとしてのゲームでも第四空間としてのゲームのどちらも勝つことだけが目的じゃないし、ゲームによって稼ぐことが目的でもなくて、基本的にはそれぞれ自己のための価値じゃないですか。同じく自己にとっての価値でありながら、どう違うんでしょうか。
    加藤 遊び論に戻るんですけど、現在、ゲーム研究の分野で最も多い研究領域は効果研究です。つまりゲームをやることによって、その人がどういう影響を受けるのかという研究が多い。たとえば、人は暴力的になるとか、社会的に不適応になるとかが研究のテーマとなり、量的調査や実験をするわけです。
    中川 一昔前に物議を醸した、『ゲーム脳の恐怖』的な方向性ですね。
    加藤 でも、カイヨワが言っていることは、ゲームは遊びであるから、暴力的なゲームをプレイしたとしても、遊びなのでいつでもやめることができます。それが現実の戦争だと、一端の歩兵がやめたいと言ってもやめられない。敵前逃亡したら、場合によっては処刑されちゃうわけですよ。そういう強制的な環境の中で、正当な人殺しが行われるわけです。  でも、ゲームは、たとえ戦争のシミュレーションゲームが作られていたとしても、そこで遊んでいるという意識は常にあるはずなんですよ。  同じようにスポーツがなぜ遊びに分類されるのかというと、スポーツはやめようと思ったらやめられるし、実際の命のやり取りではありません。それは特に近代スポーツの特徴であると思います。ルールによって、そこは明確に守られるわけですよ。  そういう意味ではゲームもスポーツと非常に似ていて、そこに本当の命のやりとりがあるのではなく、想像の中で遊ばれるものであると思うんですね。ホイジンガは、イメージを心の中で操ることから遊びが始まると論じていますけれども、子どもでさえも、ごっこ遊びの中で本当に自分が演じている対象になってしまったとは考えません。そこが抜け落ちてしまうと、ゲームをやると何か悪い影響を受けるんじゃないかと思われがちになるんです。
    中川 つまり、嘉納治五郎がスポーツとしての柔道を実際の殺傷とは切り離したような意味で、遊びの持つ現実からの独立性に立脚することで「悪い影響」を切り離しつつ、さらに「道としての完成を目指す」とか「自己修養に役立つ」みたいな価値を打ち立て、近代スポーツ的な規範性を人々に納得させるイデオロギー再編による社会化をはかる方向性が、部活的なモデルとしてのeスポーツになるわけですね。
    加藤 はい。しかし、ホイジンガの言葉を借りると、遊びはそれ自体でおもしろい、価値のあるものとして認められるものなんですよね。にもかかわらず、近代スポーツの流れや、今のゲームの流れのような部活動的なものをやることによって、自己修養や成長につながるものとか、価値のあるものだと切り分けちゃうわけですよね。そうなると、何かのためにやるものはもう遊びじゃないわけですよ。
    中川 自己修養になるとか道を追求できるとか、それを認識した時点ですでに遊びが遊びたる所以を離れてしまっているということですね。遊びの持つ無目的な自由さの面を担保し続けるのが、第四空間的なゲーム文化であると。
    加藤 だけど、おもしろいことに、実は遊びは適当にやっていたらつまらない。どんなゲームでも、技の掛け合いや駆け引きなどを一生懸命取り組むから面白くなるんですよ。ストイックに突き詰めていくのは真面目なことだから、遊びではないかというと必ずしもそうではありません。真面目に取り組んだものがふとむちゃくちゃ楽しくなっていることがあり得ます。むしろ一生懸命取り組まなければ、面白さがわからなくなるものもあったりすると思うんです。そうやって考えると、部活動的なものがダメなのではなくて、それだけが最高の価値であると言うような人が出てきたり、そういう言説が流布することこそ、危険で注意したいなと思うんですね。部活的なものやスポーツも遊びの要素を含むわけですから。逆に遊びの分野だけが最高のものとみなしたときにも、僕はちょっと危険を感じるんですよ。  つまり、流動的なものであることを踏まえた上で、どちらかにバランスがブレることを僕は注意したいなと思っています。
    中川 本当に拮抗的なバランスを維持していくことこそが大事だと思いますよね。そのバランスを能動的に維持することを僕は中沢新一さんの言葉を使って、〈非対称性の論理〉と〈対称性の論理〉の複論理(バイロジック)として捉えています。つまり、真面目な修練によってルールや技術に習熟し、自らを研ぎ澄ますことで他者と差別化をしていく〈競技〉化のモーメントが〈非対称性の論理〉。対して、遊びだからいつでもやめてカオスに戻ることができる自由さがあるからこそ、勝ち負けを超越した楽しさを見出せる〈遊戯〉のモーメントが〈対称性の論理〉。  この二つの論理が協働してバイロジカルに作動しているからこそ、ももちさんや梅原さんのような境地が成り立つんだと思います。
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  • 【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(前編)

    2018-05-10 07:00  
    540pt

     写真提供:映画『リビング ザ ゲーム』  シアター・イメージフォーラム(5/11まで)、横浜シネマリン(5/12〜25)ほか全国にて公開中  ⓒWOWOW/Tokyo Video Center/CNEX Studio
    今回から、『ゲームセンター文化論』の著者でゲームセンター研究の第一人者である社会学者の加藤裕康さんと、『現代ゲーム全史』の著者である評論家の中川大地さんの対談の集中連載が始まります。全3回のうち前編ではゲームとスポーツの文化的本質に立ち返りながら、〈eスポーツ〉発展の可能性について検討します。(構成:藪和馬+PLANETS編集部)
    ゲームとスポーツはどう同じで、どう違うのか

    中川 今回、加藤さんとお話ししたいと思ったのは、現在ゲーム業界のホットトピックになっているeスポーツを、ゲーセン文化の文脈で捉えていらっしゃる視点に共感したからです。今年2月に開催された「闘会議2018」は、もともと「ニコニコ超会議」のゲーム版のスピンアウトで、ゲーセン文化とも相通ずる、ボトムアップなゲーム実況カルチャーの集積体に近いイベントでした。しかし、おそらくニコニコカルチャーの凋落なんかも背景に、今年はそれがカドカワ傘下のGzブレインの主導で大きく様変わりしました。具体的には、発足したての日本eスポーツ連合(JeSU)が認定するプロライセンス制度による初の賞金制ゲーム大会を前面に打ち出した、eスポーツ振興のデモンストレーションの場になったわけですね。
     これを機に、様々な団体がeスポーツ事業への参入を表明し、一般メディアでの報道も増えて社会的な関心が高まっていますが、そこでの議論は、海外並みにプロゲーマーが稼いでスター化するショービジネスを築きたいという業界的な期待か、あるいは「ゲームがスポーツになるなどとんでもない」という一般世間の無理解かの、両極端な方向に向かいがちです。
     ただ、これまで実際に国内のゲームコミュニティで実際にデジタルゲーム競技のシーンに接してきた人々からは、そのどちらの態度にも違和感の声が寄せられることが多い。両者の溝を埋めて、日本のゲーム文化の脈絡に即したeスポーツのシーンを地に足ついたかたちで築いていくには、もうすこしゲームとスポーツの文化的本質に立ち返りながら、展望していく必要があると思うんですよ。そこでまずは、一般の人々が直感的に感じるだろうゲームとスポーツの相同と相違から、改めて掘り下げてみたいのですが。
    加藤 一般の人にとって、ゲームはそのまま「遊び」として理解されています。対してスポーツは、遊びとは違うものだと思われています。春夏の甲子園などを見てもわかるように、高校球児は努力して技術を磨き、スポーツマンシップに則って競技をする。私たち視聴者は、その努力がわかるからこそ、高校球児の汗と涙に感動するのだと思います。スポーツにおける努力が自己成長にもつながっていくわけですから、教育的効果も見込むことができます。それに対してビデオゲーム(以下、ゲームと略記)は、単なる遊びであるばかりでなく、社会的害悪をもたらすもの、つまり教育から遠く離れたものと考えられてきました。
     しかし、スポーツの語源が気晴らしや遊びを意味する「デポルターレ(deportare)」であることを考えてみても、スポーツと遊びは密接に結びついています。ヨハン・ホイジンガ(高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』中公文庫)やロジェ・カイヨワ(多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社学術文庫)は、競技スポーツや登山などのスポーツを遊びと捉えました。
     では、ゲームとスポーツの一般認識の違いは、どこから生まれたのか。それは教育化と制度化と、それらを勧めるためのイデオロギーの浸透によって生じました。たとえば、柔術や剣術など「術」であったものが精神修養に役立つ「道」に作り変えられ、警察や学校などに取り入れられていく中で、柔道や剣道といった近代スポーツへと変貌していきます。その最大の立役者は、講道館の創設者で大日本体育協会の設立者である嘉納治五郎ですが、彼は柔道をオリンピックの種目にまで押し上げていきます。その流れは、まさに今のゲームシーンの流れと、まったく同じ流れであることを昨年7月に行なった中央大学でのシンポジウム(拙著「ゲームがスポーツになるとき── eスポーツにおける情報と身体」『社会学・社会情報学』28号に講演内容を収録)で指摘しました。このシンポジウムには、プロゲーマーの百地祐輔(ももち)さんと百地裕子(チョコブランカ)さん、ライターの金子紀幸(ハメコ。)さんも登壇して有意義な議論をしています。
    中川 そうですね。カイヨワは遊びをアゴン(競争)とアレア(運)、インリンクス(眩暈)、ミミクリ(模擬)という四つの枠組みによる分類していますが、 原初の遊びは四つの枠組みが渾然一体になっていました。
     でも、遊びが社会によって制度化されていくと、勝敗を分けるタイプの遊びであるアゴンとアレアの結びつきが〈競技(ルドゥス)〉としての様相を強めていき、古代オリンピックのような形で発展していきます。それは現実と切り離された遊びの一領域としてのスポーツのみならず、現実自体を制度化するモーメントにつながっています。つまり遊びから競技を作っていく流れの中に、すでに人間が法律や社会制度といった抽象的なルールを作っていくための原理原則があった。勝ち負けをはっきりさせる文明が発展することで、イリンクスとミミクリが呪術のようなかたちで結びつく〈遊戯(パイディア)〉優勢のゆるい原始的な社会よりも、高度に制度化された近代という文明が起きていったというのが、僕流に解釈したカイヨワの文明観です。
     ただ、コンピューターの登場で、現実の在り方をより高精度に模倣(ミミクリ)しつつ、インタラクティブな身体的快楽(イリンクス)が生成できる情報環境が生まれたことで、この文明史的な流れが逆転します。古典的なアナログゲームやスポーツは、人間の処理能力の限界に沿って現実を単純化・抽象化し、人間が決めたルールの取り決めを、人間自身が手動で遂行することによって成立していました。しかし、コンピューターは数学の力で自然法則に近いものを自動再現したり、多彩な感性情報をデジタル処理したりできるので、近代が切り捨てていったインリンクスとミミクリの結びつきを新たなかたちで復権できるようになった。例えば、コンピューターゲームでは現実とは半歩ずれた仮想世界を疑似体験したり、何かの物語に見立てたロールプレイングを行ったりすることが可能です。
     この力によって、近代スポーツが〈競技〉を成立させるために現実の複雑性を縮減・抽象化する方向で進化してきたとは逆に、デジタルゲームは〈遊戯〉としての様々な具象的な見立てを取り戻していく方向の進化を遂げていきました。それによって、競技に純化されない余計な要素がたくさん入る営みとして、コンピューターゲームがあるからこそ、アスリートとは呼ばれえない人たちも巻き込んで、この数十年間のデジタルゲーム文化が育まれていった流れがある。そういう描像が、拙著『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』の歴史解釈の基本的な軸になっています。
     そのように、いったん複合的な遊びが復権した状況の中で、再び〈遊戯〉を切り捨て〈競技〉としての制度化や純粋化を目指そうという方向が強くなってきていることは、文明史的には近代的な原理の揺り戻しという側面があるのかなという見方を、今のeスポーツシーンに対して僕はしています。
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  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(後編) (PLANETSアーカイブス)

    2018-04-16 07:00  
    540pt


    今朝のPLANETSアーカイブスは、ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんと、評論家・編集者の中川大地さんの対談の後編をお届けします。日本のゲームとゲーム批評は、なぜダメになってしまったのか。圧倒的な技術力と資金力で成長を続ける欧米のゲームに、日本のゲームが対抗しうる方策とは? 『人工知能のための哲学塾』の三宅さんと『現代ゲーム全史』の中川さんが、日本のゲームと人工知能に秘められたポテンシャルについて語ります。(構成:高橋ミレイ)※この記事は2016年11月1日に配信した記事の再配信です。 ※この記事の前編はこちら。

    【イベント情報】
    中川大地さん出演 日本型スポーツの過去・現在・未来
    日時:2018年4日24日(火) 19:00~21:30
    会場:専門学校東京ネットウエイブ ガオ君シアター(東京都渋谷区千駄ヶ谷1-8-17)
    料金:前売2,500 円/当日3,000 円(東京ネットウエイブの学生は無料)
    詳細はこちら。
    【書籍情報】

    ▲中川大地『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』 

    ▲三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』
    ゲーム論壇の衰退とゲーム実況の登場
    三宅 近年、日本のゲームが衰退していると言われています。その責任はもちろん開発者自身にありますが、ゲームを批評する言論の力の弱さも、原因の一端にあると思います。ゲーム産業が盛り上がった時期には、ゲームを語る文化も同時に盛り上がるのが常で、そうした時代には、ゲーム批評を担うスターが現れます。当時、『ゲーム批評』という雑誌がありましたが、今の時代にもそういうメディアや批評家の存在は必要です。
    その点、中川さんの『現代ゲーム全史』は、コンピューターの黎明期から現代の『Pokemon GO』までを網羅した、ゲームの歴史を俯瞰するマップとして使うことができる。僕はこのマップを足がかりに、ゲーム批評を再興できるのではないかと期待しています。批評が盛り上がって言論が面白くなると、ゲーム開発の現場もエキサイティングになります。そうしてユーザーとゲーム開発者が高いレベルで応答できるようになれば、もう一度、「文化としてのゲーム」を取り戻せるかもしれません。今のメディアは売り上げばかりを報じていて、商業色が濃すぎますからね。
    中川 ありがとうございます。ゲームがコンテンツカルチャーとして伸びていった2000年前後は、批評の文脈でゲームを語る人たちが、テキストサイト界隈で記事を書いていました。ところが、ちょうど三宅さんがゲーム業界に入った頃から、そういった論壇がどんどん弱くなっていった。日本のゲーム産業の停滞と共に、ゲームを批評的に語るモチベーションも衰退していって、2000年代後半に、その隙間を埋めるものとして現れたのが「ゲーム実況」でした。ニコニコ動画内で、ゲームをプレイしている動画を実況付きで放送する。このゲーム実況の登場によって、かつて批評の対象だったゲームが、ネット上のおしゃべりのネタとして共有されていきました。
    ゲーム実況でプレイされるゲームは、すでに多くの人が共通体験を持っているレトロゲームとか、あるいは『青鬼』や『ゆめにっき』といった「RPGツクール」などで制作されたフリーゲームです。あの辺の作品は、スーパーファミコン時代のゲームシステムを踏襲しながら、ストーリーテリングの部分に工夫を加えたものです。基本的にファンコミュニティが有する共通のコミュニケーションコードに即したかたちでプレイヤーの心情を揺さぶる手法で、ゲームそのものの本質としては新しい体験が生み出されていないし、求められてもいないように見えます。
    三宅 批評の役割のひとつは、その分野を他の分野とつなぐことです。例えば、ゲームと16世紀頃の絵画、あるいはゲームと別の産業のプロダクト、といったように、開発者が気付いていないような、他分野の事柄と関連づけることで新しい可能性を開拓します。確かに、ゲーム実況もこれはこれで興味深い文化なのですが、内輪の盛り上がりだけで終わってしまうのが難点です。
    なぜ日本のゲームは衰退したのか
    三宅 日本のゲームの衰退の背景には、コンピューターサイエンティストの少なさがあるように思います。ゲームプログラマーとして一流の人はたくさんいますが、ハイパフォーマンスのマシンに向けたゲームを制作する際に、コンピューターサイエンスの土壌の弱さが露呈してしまいます。その結果、相対的に欧米のゲームが伸びて、国内のゲームとその批評が衰退してしまうという連鎖が起きています。
    中川 日本のゲーム文化がピークに達した2000年代初頭ぐらいまでは、それまで蓄積したシステムを使って、いかに先進的な表現ができるかを突き詰めていくような試みがありました。ところが本格的な3Dエンジンを使う時代に入ると、技術力の不足も相まって、日本のゲーム業界全体が目的や発想力を失ってしまい、語るべき新しさを持ったゲームが現れなくなってしまったように思います。
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  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(前編)(PLANETSアーカイブス)

    2018-04-02 07:00  
    540pt

    毎週月曜日は「PLANETSアーカイブス」と題して、過去の人気記事の再配信を行います。 傑作バックナンバーをもう一度読むチャンス! 今朝は、ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんと、評論家・編集者の中川大地さんの対談をお届けします。デカルト以降の近代西洋哲学はどのように人工知能を定義するのか。欧米と日本のゲームの背景にある思想的な差異とは。『人工知能のための哲学塾』の三宅さんと『現代ゲーム全史』の中川さんが、ゲームとAIについて徹底的に論じ合います。(構成:高橋ミレイ) ※本記事は2016年10月18日に配信した記事の再配信です。

    ▲中川大地『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』 

    ▲三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』
    実験物理学の研究からゲームAIの世界へ
    中川 今回、三宅さんとの対談をお願いしたのは、『現代ゲーム全史』をまとめてみて、ゲームと人工知能(AI)は車の両輪のような関係にあるなと感じたからなんですね。拙著の序盤の章でも述べたように、ゲームの数学的解析から始まるデジタルゲームとAIは、同じ起源を共有しています。以来、基本的には何か実用的な目的のために使うのではなく、純粋に人間がコンピューターで何ができるかの可能性を追求していくジャンルとして発展してきました。それが2012年あたりからAIではディープラーニング(深層学習)のブレイクスルーがあり、ゲームではOculus Riftなどが出てきてVRへの流れが全面化して、2016年現在はそれぞれに大きな歴史的転機が訪れています。
     そんな時流の中で、三宅さんはまさにゲームに活用するAIの専門家として、『人工知能のための哲学塾』と森川幸人さんとの共著『絵でわかる人工知能』を立て続けに出版され、AIという概念についての非常に本質的な思索を展開されていたのが印象的で、ぜひ深くお話をうかがってみたいと思ったわけなんです。
     それで、もともと三宅さんは物理学の研究をされていたそうですが、そこからどういう関心を持ってAIの研究に進まれたのかを、まずはお聞きかせ願えますでしょうか。
    三宅 最初は京都大学で数学と理論物理を勉強していました。修士課程で大阪大学に移って地下にある半径数kmという巨大な加速器でデータを取るような研究をやっていたのですが、装置を自分で作ってみたくなって、博士課程で東京大学に移り電気工学を学びました。そのうちに装置を自律的に動かすことに興味が出てきて、そこが人工知能の研究のスタートですね。「ひとつの知能を丸ごと作る」というのが僕の目標で、そういった技術はゲーム業界でこそ必要とされているはずだと思って、2004年頃にゲーム業界に入ったんです。でも、当時のゲームで使われていた人工知能は完全なものではなかった。今でも世間で人工知能と呼ばれるものの90%は、人工知能の一部を利用したものです。たとえばAmazonのレコメンドシステムやGoogle検索、ディープラーニング、画像認識などで、こういった単機能のAIの方がサービスにしやすいんですね。でも、僕が作りたいのは、ゲームの世界で本当に生きている、完全な人工知能でした。完璧でなくていいですが、知能として最低限必要な一揃いが作っているという意味で完全な人工知能です。そのためには、ゲームの中に「世界」そのものが存在しなくてはいけない。
    中川 なるほど。2000年頃といえば、ゲーム史的には2Dのドット絵の時代から、プレステ革命を経てポリゴンを用いた3DCG表現への主流の移行が完了したくらいの時期ですね。ゲーム世界が3D化すると、物理演算エンジンによって、現実の三次元空間に近い世界を作れるようになる。理念としてのAIは、特定の専門分野での用途に特化したものではなく、人間のような汎用的な問題解決のできる知能を目指すわけだから、知能に対して課題を与える環境の性格が人間のそれに近づくことが大きな意味を持つわけですね。言うなれば、AIがAIとして活動するための最も純粋なフィールドを用意しうる分野が、「世界」や「環境」を生成するテクノロジーとしてのゲームだったと。
      
    三宅 おっしゃる通りです。人間も含め、知能というのは外部の環境に合わせて相対的に生成されるので、単純な世界では知能を複雑にする必要がない。ゲームデザインが複雑になれば、人工知能もゲームを理解するために高い知能を持たなければいけなくなります。僕がゲーム業界に入ったのは、森川幸人さんがプレステで『がんばれ森川くん2号』(1997年)や『アストロノーカ』(1998年)を出した、そのちょっと後くらいでした。
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