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  • 『ダンガンロンパ』は「バトルロワイヤル的想像力」をどう更新したのか?──西尾維新、ゲーム的リアリティ、“ダークナイト以降”のキャラ造形から考える (井上明人×中川大地)【PLANETSアーカイブス】

    2020-06-19 07:00  
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    ▲『ダンガンロンパ』生誕10周年記念トレーラー

    今朝のPLANETSアーカイブスは、第1作発売から10周年を記念し、ゲーム研究者の井上明人さんとPLANETS副編集長・中川大地が、人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』を語った対談記事をお届けします。2010年の第1作『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』(以下『1』)、2012年発売の続編『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』(以下『2』)はともに20万本を超える堅調な売上を記録し、2013年にはテレビアニメ化。若い世代のコスプレや二次創作シーンにも定着し、2010年代の家庭用ゲーム発の国産IPとしては特異な存在感を誇るタイトルになった本作。「ゲーム」の範囲にとどまらないこの作品の文化史的/批評的ポテンシャルを改めて語り尽くします。※この記事は2014年10月10日に配信した記事の再配信です。

    ※ネタバレが重大なゲームですので、ゲーム未プレイ/アニメ未視聴の方は注意してお読みください。

    ※この記事は、2014年9月3日にPLANETSチャンネルで放送されたニコ生番組を加筆・再構成したものです。
     
    ▼『ダンガンロンパ』とは
    学級裁判の中で相手の矛盾を論破し、殺人事件の犯人を暴いていくゲーム。ハイスピードでテンポよく展開する学級裁判の中、捜査パートで集めてきた証言や証拠を弾丸としてトリガーにセットし、相手の主張の矛盾をアクションゲームのように撃ち抜くことで論破する。推理とアクションの融合により、これまでにない。まったく新しいエキサイティングなゲーム体験を表現。(公式サイトより)
     
    ▼ストーリー
    舞台は、あらゆる分野の超一流高校生を集めて育て上げる為に設立された、政府公認の特権的な学園「私立 希望ヶ峰学園」。国の将来を担う希望を育て上げるべく設立されたこの学園に、至極平凡な主人公、苗木誠もまた入学を許可されていた。 平均的な学生の中から、抽選によってただ1名選出された超高校級の幸運児として……。入学式当日、玄関ホールで気を失った誠が目を覚ましたのは、密室となった学園内と思われる場所だった。「希望ヶ峰学園」という名前にはほど遠い、陰鬱な雰囲気。薄汚れた廊下、窓には鉄格子、牢獄のような圧迫感。何かがおかしい。 
    入学式会場で、自らを学園長と称するクマのぬいぐるみ、モノクマは生徒たちへ語りはじめる。──今後一生をこの閉鎖空間である学園内で過ごすこと。外へ出たければ殺人をすること。──主人公の誠を含め、この絶望の学園に閉じこめられたのは、全国から集められた超高校級の学生15人。生徒の信頼関係を打ち砕く事件の数々。卑劣な学級裁判。黒幕は誰なのか。その真の目論見とは……。
    (『1』のAmazon商品説明より)

    ポスト「逆転裁判」の系譜と「西尾維新」的文芸センスの融合 
    中川 今回は、PLANETSチャンネルで連載中の「中川大地の現代ゲーム全史」の番外編として、新作『絶対絶望少女』が発売されたばかりの人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』について、ゲーム研究者の井上明人さんをお招きして、いま改めて語ってみようという企画です。井上さん、よろしくお願いします。
    井上 よろしくお願いします。
    中川 この『ダンガンロンパ』シリーズですが、まず第1作が発売されたのは2010年末ですよね。2010年といえば、ソーシャルゲーム市場が急激に成長して、家庭用ゲームがどんどん不振に陥っていった時期です。つまり『怪盗ロワイヤル』などが登場して一般のゲームユーザーの可処分時間を圧迫していった時期に、この『ダンガンロンパ』はクラシックなパッケージゲームの新作シリーズとして登場しつつ、比較的若い世代のライトオタク層を掴んで健闘したタイトルだった点が特徴です。井上さんが最初に『ダンガンロンパ』に注目されたきっかけは何だったんですか?
    井上 実は体験版が出た最初の段階で、ちょっと話題になっていたのでやってみたんですよ。僕はプレイステーション・ネットワークのストアで体験版を漁る習性があるんです(笑)。それでプレイしてみたら「あっ、これは『逆転裁判』をすごく意識して、変種を打ち込んできたぞ」と思いました。体験版のときは難易度調整に若干失敗気味だったんですが、非常に野心的な試みだと思いましたね。
    中川 やっぱり僕らのような30代ゲーマーからすると、まず思い浮かぶのが『逆転裁判』からの脈絡ですね。あれは第1作が出たのが2001年ですが、ゲームボーイアドバンスを代表する最初のオリジナルヒットシリーズでした。殺人事件の聞き込みや証拠品集めなどをする捜査パートと、容疑者や証人の証言の矛盾を指摘したり証拠を突きつけあったりする論争を通じて真相がつまびらかになる裁判パートの繰り返しで進行していくという構成のルーツは、ここから来ています。実際には「裁判」というよりも、ミステリーの王道の真犯人当ての形式的な趣向を置き換えただけだったわけですが、推理アドベンチャーゲームの作劇と体感性を大きく変えました。
     

    ▲『逆転裁判123 成歩堂セレクション』(発売元:カプコン/ニンテンドー3DS)
     
    その後、『逆転裁判』のフォロワーがなかなか出てこなかった中で、10年を経てようやく新しい意匠とシステムで出てきたのがこの『ダンガンロンパ』シリーズなのかなと思うんですが。
    井上 いや、『逆転裁判』のフォロワー的なタイトルは、売れていなかっただけで実はあるにはあったんです。たとえば、『有罪×無罪』『遠隔捜査 真実への23日間』なんかですね。少し離れたところでは『銃声とダイヤモンド』なんかはすごく良かった。『銃声とダイヤモンド』は、『街 〜運命の交差点〜』『かまいたちの夜』の麻野一哉さんがシナリオを手掛けていて、ゲームシステム自体もよくできていたんだけど、主要登場人物がおっさんが多めというのもあり(笑)やや渋めで、あんまり売れなかった。でも、『銃声~』はほんとにすごい作品でした。そういう作品も過去にはあったんですが、それらと『ダンガンロンパ』が何が違ったかといえば、『ダンガンロンパ』はシステム、キャラ、シナリオ、グラフィックなど多面的にK点越えをしていてグイグイ引っ張れる要素が本当にたくさんあった。ほんとに、いい作品なので、売れてよかったなぁという感想を持ちましたね。
    中川 そんな中、『ダンガンロンパ』は推理パートと裁判パートで進むゲームシステムを『逆転裁判』から継承しつつ、そこに2000年代初頭から大きく盛り上がった講談社BOXや西尾維新の一連の作品のような、フリーキーなキャラクターたちが常識ではありえないフィクショナルな状況での推理を繰り広げる、いわゆる「新伝綺」と呼ばれるミステリーとライトノベルの中間領域のような文芸センスを導入してみせたことで、それまでのフォロワータイトルとは一線を画する支持を獲得した。
    井上 『ダンガンロンパ』ですごいなと思ったのは、非常にアイロニカルで批評性があって問題意識がグネグネしたものなのに、『1』『2』ともそれぞれよく売れて、マニアックなサブカルっ子以外にもちゃんと受け入れられたことですね。それは素晴らしいことだと思う一方で、『ダンガンロンパ』や、その先駆者である西尾維新もそうだけど、グネグネしたことをやっていそうでいて、実はそんな難しい問題意識を持っていなくても楽しめるようにもなっている。そこの両立の仕方というのがすごいな、と。
    中川 単純にキャラクターコンテンツとして秀逸です。男性と女性両方のファンがついていて、ノーマルなカップリングを喜ぶ層もいるし、男どうしあるいは百合カップルでの組み合わせの要素もあるし、全方位に向いていて、10代から20代までの若い層にも受けていますよね。それに加えて、ムダに豪華な声優陣の存在もありますよね。
    井上 これは本当に豪華ですよね。
    中川 やっぱりなんといっても特筆すべきは、マスコット兼悪役で、生徒どうしのコロシアイを操るモノクマ役への大山のぶ代さんの起用。ドラえもんの声に新たなイメージを付け加えたのは、この『ダンガンロンパ』シリーズの功績(?)ですよね。
    井上 今のドラえもんの声優は水田わさびさんに代わっていて、今の子どもたちは大山のぶ代のドラえもんを知らない可能性もあるぐらいですよね。
     

    ▲ゲームを操る「モノクマ」中川 そう。別格感あふれる大山さんをはじめ、声優陣は豪華は豪華ながら、実は懐かしい感じのラインナップだった。たとえば『1』の主人公の苗木誠くんを演じたのは『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役の緒方恵美さんだし、『2』の主人公の日向創役はコナンで有名な高山みなみさん、メインキャラの一人である十神白夜役は同じく『エヴァ』の渚カヲルとか『ガンダムSEED』のアスランで有名な石田彰さん等々、主に1990〜2000年代のヒットアニメを代表作とするベテラン勢が中心。かろうじて現役の声優ヲタの文脈に訴求する若手と言えるのは、霧切響子役の日笠陽子さんや『2』の七海千秋役の花澤香菜さんくらいですかね。
    でもこういった今時の深夜アニメ等での旬よりは一回り年齢層高めなレジェンドクラスが起用されたことで、われわれ団塊ジュニア世代のオタク教養的なものと、近年の10-20代のニコニコ世代というか、ジュブナイルライトオタク層との共通言語ができた側面もある気がします。かつてのアニメやマンガなどの小ネタを縦横無尽に引用して詰めこみながら、それを若い世代向けに届けることに成功しているという意味では、やはり西尾維新とも通ずるところがありますよね。
    「学級裁判」が体感させる“推理”と“理不尽”の詐術
    井上 『逆転裁判』との比較をさらに掘り下げてみましょうか。『逆転裁判』の場合は、単に選択肢を選ぶのではなくて、選択肢を選ぶことに対して「なぜこの選択肢の方がいいのか」という合理的推論をする仕組みが提供されてましたよね。これは、ものすごい発明だったわけです。
    まず第一に現実のコミュニケーションを簡単なゲームシステムに変換するということが難しいわけです。で、とりあえずアドベンチャーゲームは、選択肢で会話をするという方式をだいぶ初期につくりだしたわけです。ただ、その次にどの選択肢が正解か、ということについて、納得感をどう演出するか、というのが難しい。すごいゲームデザインというのは、ここの納得感の演出というのが神がかっているわけです。
    たとえば今僕はこうやって中川さんと話していますが、僕が「中川さん、最近どうですか」とか言ったときに中川さんからいきなり「ボンッ! 不正解だ!」みたいなことをバシッと言われたら困るわけです。中川さんがそれを言ったら「この中川さんって人はちょっと、イっちゃった人だな」って感じがしますよね?
    中川 なるほど(笑)。裁判ならそれを言ってもいい、という。
    ▲『ダンガンロンパ』の学級裁判パート
     
    井上 そうです。そこまでが『逆転裁判』が切り開いた地平です。
    さらにその上の第三の地平があるわけです。『逆転裁判』との違いは、『ダンガンロンパ』って学級裁判パートがリアルタイム制であることですね。リアルタイムで議論しているなかで議論の進め方のおかしな点を指摘しないといけなくて、それがゲームとしての緊張感を生んでいた。ちなみに『逆転裁判』も最初はリアルタイム制にしようとしていたらしいんですが、ただし、さすがにそれだと難易度が高すぎるということで実装しなかった。『ダンガンロンパ』はそれをある程度、なんとか遊べる形にしてしまった。
    中川 まあ、ミスをすれば同じ議論が再びループするので、厳密な一回性という意味でのリアルタイムではなく、静的な『逆転裁判』のテキストメッセージに比べ、『ダンガンロンパ』の方が、1ターンの中のタイミング演出が動的になったというだけのことではあるんですが、アクション性が大きく高められたのは間違いない。こういう難易度調整の考え方って、基本的にアクションRPG的だと思うんですよ。ターン制のRPGは静的なパラメータに規定されていて、レベル上げやアイテム収集などプレイヤー本人の腕前によらず根気があれば誰でもできる反面、臨場感に欠ける。対して、ただのアクションゲームの場合は本人にアクションの腕前がないとゲームを進められない。
    アクションRPGはその中間で、パラメータ管理とプレイヤー本人のアクションの腕前をミックスしたゲームデザインになっている。この折衷性が、2000年代以降は『モンハン』シリーズやオープンワールド系RPGでの標準になっていますよね。それと似たようなことを、ストーリーゲームの領域でやったのがこの『ダンガンロンパ』のシステムだったんじゃないのかな。
    捜査パートで他のキャラクターと親しくなると、学級裁判でのアクションを有利にできるアイテムをもらえたりするあたりとかも含め。
    井上 今まで混ざっていなかった「アクション」と「謎解き」のふたつの要素を混ぜて、何とかいい感じに納めたのは偉業と言っていいと思います。
    中川 あと学級裁判パートで面白いのは、推理のプロセスを別種のミニゲームで置き換えていることですね。つまり、いくらプレイヤーに自分の頭で推理するリアルタイム論争に近づけると言っても、所詮は与えられた選択肢から正解を選んで一定のストーリーをなぞっていくAVGとしての本質は変わらない。そのお仕着せ感を軽減すべく、本来なら主人公が能動的な思考をするところを、パズルゲームや音ゲーなどの異なるゲーム的障壁を乗り越えていく体感性で代替して疑似体験性を補っているわけです。
    コンシューマーゲームでは、『ファイナルファンタジー』シリーズぐらいから全体のゲームシステムと関係ないさまざまなミニゲームを入れ込む流れがあって、特に『レイトン教授』シリーズは、大きな推理ストーリーの骨格の中に「脳トレ」的なクイズを組み込むことで、自分が謎解きのプロになった気分を味わえるロールプレイングの詐術を使ったのは大きかった。ああやってゲーム内にミニゲームの多様性を入れ込み「体験を体験で置き換えていく」手法は、ストーリー演出のエフェクトとは無関係なゲーム的要素をすべて取り払っていく方向にAVGシステムを特化させていった1990〜2000年代のPCノベルゲームの台頭に対する、コンシューマーならではのリアクションでもあったのかなと。
    井上 あー、ただ学級裁判のミニゲームに関してはちょっと僕は悩ましい気持ちになりましたね。特に『2』で出てきた「ロジカルダイブ」と称したスノボゲーム(下図参照)とか、さすがに「これは推理のスキルと関係が何もないのでは?」というところがありますよね。
     

    ▲『ダンガンロンパ2』に登場するゲーム内ゲーム、「ロジカルダイブ」の画面
     
    ゲームデザインにおいて、プレイ中にずっと同じことをしていると飽きるので、刺激の多様性は必要なんだけど、そこの多様性の与え方って難しいポイントなんですよね。完全に別ゲームにすると、「関係ないことをやらされるストレス」が発生しやすくなってしまう。経験としては連続していて、かつ多様な展開というのが重要なわけですが、『ダンガンロンパ』に関しては、そこは少し振り切りすぎてしまって、もう完全に別のミニゲームになっているな、とは思いました。もちろんトータルで素晴らしいゲームであることは前提として、ですがこのゲーム設計はちょっとダメなストレスの与え方だな、と感じました。
    中川 なるほど。ただ、あのスノボゲームに関して無理やり深掘りすると(笑)、『FFⅦ』でヒロインのエアリスが死んだあと、ものすごい衝撃を受けて悲しい気分になっているときにスノボゲームをやらされましたよね。それを彷彿とさせるところがあって。で、『ダンガンロンパ』ってそもそも理不尽なゲームをやらされているゲームですよね。
    井上 ああ、なるほど、あれも含めてモノクマの陰謀であると。たしかにそれなら、一貫性がとれてますね(笑)。
    『ダンガンロンパ』に埋め込まれたゲーム史的な自己言及性
    中川 『ダンガンロンパ』って、ゲーム内で『ジョジョの奇妙な冒険』や『るろうに剣心』など、団塊ジュニア以降の世代が親しんできたサブカルネタをちょくちょくぶっこんできているわけですが、その中でゲーム自体の言及もすごくあったりするので、あのスノボゲームも『FFⅦ』のオマージュなんじゃないか、なんてことも思ったりするんですよね(笑)。
    これがあながち邪推すぎるわけでもないかと思うのは、『2』に『トワイライトシンドローム』っていう妙なサイドビュー画面のゲーム内ゲームが出てくるじゃないですか。実際、本作を制作したスパイクの前身の会社が同名のシリーズをちょうど1990年代後半にPSで出していて、さらに後には『夕闇通り探検隊』という伝説的な後継作品にもなっていますが、そういうセルフオマージュを入れてきているわけです。
     

    ▲ゲーム内ゲームとして登場する『トワイライトシンドローム』の画面。
     
    ここにはちょうど、『FFⅦ』までのPS第一世代的なローポリゴンの不気味の谷(3D表現の進化過程で人間の造形が中途半端に再現されると妙に不気味に感じられる段階があること)や構成のチグハグさ、操作系の未洗練さなどが結果的に恐怖や理不尽さの表現として独特の味わいを醸し出していた時代のゲーム史的な記憶を、意識的に埋め込む姿勢が感じられるんですよ。
    井上 『moon』(1997年にラブデリックが開発しアスキーが販売したPS用ゲームソフト。王道RPGやゲームそのものを批評的に捉え返した名作とされる)と同じく、ゲーム内ゲームを構築して、その中でゲームに対する批評性みたいなものをちゃんと獲得していくというやり方ですよね。
    中川 そもそも『ダンガンロンパ』という作品全体が、ゲーム内で登場人物たちが理不尽なデスゲームをやらされているという二重構造になっていて、それに対する言及が1作目のときからキモだったんだけど、それをさらにメタ視点で捉え返すかたちで2作目がつくられていますからね。
    プレイしていて思い出したのが『メタルギアソリッド』の1、2の関係です。メタルギアは第1作の主人公・スネークがシャドーモセス島事件でああいう経験をして、2作目の主人公の雷電はその1の体験のコピーを仕組まれたゲームとしてやらされていて、それを1の主人公だったスネークが最後に解き明かして導いていくという構造があった。これはまさに『ダンガンロンパ』の1、2作目の作劇構造と同じですよね。
    井上 なるほど。ただ僕としては、中川さんとは少し違う感想を持っていて。『ダンガンロンパ』は1作目の時点ですでにリアリティショー(台本や演出なしで素人の出演者がさまざまな状況に直面するさまをドキュメンタリー形式で放送するテレビ番組の一形態)として、中のコロシアイの様子が全世界に中継されていたわけですよね。続く『2』ではそのリアリティショーをさらにバーチャルリアリティに嵌め込んでいるというわけのわからないことをやっていて、これは「お約束をことごとく覆していく」という意味で、すごく西尾維新的な構造だなと思ったんですよ。
    中川 たしかにそうですね。『1』では、閉鎖空間でコロシアイをさせられている学園内がディストピアだと思っていたら、実は世界全体のほうがすでに絶望病に冒されていて『北斗の拳』みたいな終末的な世界になっていて、むしろ学園のなかのほうが守られていた、というどんでん返しがあるわけです。そこにさらにモノクマが登場して学園をコロシアイの舞台にしてリアリティショーとして外の世界に中継していた、という。
    『ダンガンロンパ』に結実した「バトルロワイヤル」な想像力の系譜
    井上 これは『ダンガンロンパ』に限らない話ですが、バトルロワイヤルとリアリティショーはなんでこんなに相性が良いのか、というのも論点の一つかもしれないですよね。
    中川 2000年代以降に台頭してきたバトルロワイヤル的な想像力って、学校やクラスの狭い人間関係の持つ日常の残酷さの表象として、クローズド・サークルのなかで疑心暗鬼になってコロシアイをさせられるというようなものですよね。で、そもそもバトルロワイヤル系の語源である『バトル・ロワイアル』(高見広春による小説。1999年刊で2000年に映画化され大ヒットした)がまさに、「少年たちがバトルする様子を大人たちが見て楽しむ」という構造でしたよね。僕の考えでは、00年代前半の時点ですでにゲームの体験がある程度、人々のリアリティに刷り込まれていたからこそ、殺し合いとリアリティーショーを結びつけるバトルロワイヤル系の想像力が出てきたのかな、と。その感覚が映画や小説に波及して、それをもう一回ゲームのほうに持ち帰ってきたのが『ダンガンロンパ』だったとも位置付けられるんじゃないでしょうか。
    井上 なるほど。ゲーム発だったどうかかは、はっきりと断言できないですけど、その説明は説得的だと思います。
    ちなみに僕の知り合いの20代前半の子が『ぼくらの』とか、バトルロワイヤルものがすごい好きで「こういうものにこそ人間の真実があると思うんですよ」ということをずっと言っていたんですよ。で、案の定『ダンガンロンパ』にはドハマりをしていました。20代前後の子が「ここにこそ人間の真実が!!」という感想を持つのは、頭では理解できなくはないけど、直感的には今ひとつピンとわからない。おそらく、僕が1990年に生まれていたら理解できたのかもしれませんけれど、そこの感覚が今ひとつ腑に落ちる感じがありません。中川さんはどうですか?
    中川 やっぱり1970年代生まれの自分自身のリアリティとして、そういう感覚はないですよ(笑)。でもそれこそ、宇野君が『ゼロ年代の想像力』で書いていたように、『新世紀エヴァンゲリオン』以降の世代にとっては、ある種のバトルロワイヤル的な想像力が身の周りの社会をイメージする上での前提的なリアリティになっていて、まだ引きこもる余裕のあった『エヴァ』以前に思春期を過ごした世代にはその感覚があんまりわからない、というのはあるんじゃないですか。
    80年代に実現された高度消費社会って、あくまで誰かに構築された偽物で、これはいつ壊れてもおかしくないものであるという感覚があり、それは『トゥルーマン・ショー』のような「この平和な日常は本当は存在しない、仕組まれたバーチャルなものなんだ」という想像力を生み出しましたよね。その一方で、旧ソ連が崩壊する前までは「核戦争が起こって世界が終わる」ということにリアリティがあって、そういった終末世界を描くフィクションもたくさんありました。
    つまり『ダンガンロンパ』を規定している構造として、子供たちの2000年代以降のリアリティ(教室内でのバトルロワイヤル)を、大人が構築した1980年代的リアリティ(トゥルーマン・ショーと終末的な世界)が取り巻いている、という重層的な構造があるとも言える。
    井上 ただ、今日び「終末後の世界」をそこまで気合を入れて描く気はないのだろうなっていう感じもしませんでした? 「人類史上最大最悪の絶望的事件」って、えらくざっくりとした表現ですし……。
    中川 まあ、そこにはリアリティはないですよね(笑)。ポスト『エヴァ』の想像力としてバトルロワイヤル系と比肩される、いわゆるセカイ系的な想像力の流行って、新海誠のアニメやノベルゲームのような個人レベルのミニマムな制作環境と親和性が高かったと思うんですよ。他方、集団制作を前提としたコンシューマーゲームだと、もうすこし大勢のキャラクターを表現できるという事情もあって、教室レベルのクローズドな人間関係を主題化するリアリティサイズが表現できた。
    しかし、その外側は後景としてボンヤリとせざるをえないあたりは共通している。それでも2000年の『高機動幻想ガンパレード・マーチ』なんかは、教室外のマクロな世界の戦争状況をうっすらとパラメータ化して関連させていたわけですけどね。
    井上 セカイ系という物語形式って、要は「世界が滅ぶ/滅ばない」という大きなスケールの話が、主人公の周りのローカルな人間関係と直結するというものでしたよね。で、同学年の同じ部活の友達だけで楽しく過ごす日常を描いた『けいおん!』のようなものを「空気系」というわけですが、実は近場の人間関係だけ選んでいるという意味ではバトルロワイヤルものもそうで、この二つは近い関係にあるのかなと思ったりするんですけど。
    中川 まさに、その二つは表裏一体ですよね。近場の人間関係のユートピア感だけを取り出すと空気系のぬるい世界になり、逆に残酷な面を戯画化して描くとバトルロワイヤル系になるという。『2』は最初に、(後でモノクマの妹という設定に無理やりされる)「モノミ」というキャラが出てきて、「みなさん、この南国の島で、修学旅行を永遠に楽しみまちょうね〜」って言っていて、実際に本編とは別にモノクマが登場しない平和な日常を楽しく過ごす「アイランドモード」というモードもありますが、それはまさに空気系的な世界観が表裏一体の構造として、この作品に埋め込まれているということの証左でもありますよね。
    2010年代的なキャラクター造形とゲームの形式的必然が生んだ「黒幕」
    井上 ……と、裏のほうから「キャラの話をしてくれ」というオーダーがきているので、すこし強引な振りになりますが(笑)、『ダンガンロンパ』が空気系的な構造すらも取り込んでいるとすると、空気系においてやっぱり重要なのはキャラ描写ですよね。『ダンガンロンパ』は本当にキャラづけが強いゲームだということがあると思いますが、
    中川 『逆転裁判』の頃から成歩堂くんとか真宵ちゃんみたいな感じで記号的かつフリーキーにキャラを立てていく流れがありましたが、『ダンガンロンパ』はその傾向をさらに押し進めつつ、2010年代のボカロ世代や「カゲロウプロジェクト」好きなどにも通ずる、ジュブナイルライトオタク層の感性に適した元ネタをぶちこんだキャラクター造形へとアップデートできた点に勝因がありました。ちなみに井上さんが一番好きなキャラは?
    井上 僕は『2』に登場する超高校級の飼育委員・田中眼蛇夢くんが、ペットであるハムスターを「破壊神暗黒四天王」と呼ぶ、あのパッケージングが好きですね。ハムスターだけ出されてもげんなりですが。
    中川 なるほど(笑)。まさに彼なんかは、「厨二病」という2000年代後半以降のライトオタク層が自嘲的に共有するに至った属性を取り込んだ典型例ですね。実際人気も高いですし。僕は男性キャラでは、やはり『2』の狛枝凪斗くんの造形に度肝を抜かれました。狛枝くんは名前が1作目の主人公の苗木誠のアナグラムで、声優も同じ緒方恵美さんだし「超高校級の幸運」というところも同じなのに、第1話でいきなり前作の記憶のあるプレイヤーの予期を覆してみせる攪乱者ぶりが見事すぎました。彼のクライマックスである第5話でもそうだけど、彼の能力をああいうかたちでトリックに活かすというのも狂っていたし。
    井上 たしかに狛枝くんのあのトリックは、本当にゲームデザインとシナリオを融合させた非常に素晴らしい、歴史に残したいトリックといってもいいですね。
    中川 シナリオ自体が強烈にキャラクター性を引っ張っていましたよね。このシリーズを手がけている小高和剛さんのシナリオライターとしての力をすごく感じさせられたキャラだった。
    一方、女性キャラでインパクトが強かったのは『1』の大神さくらちゃんですね。明らかに『北斗の拳』のラオウや『グラップラー刃牙』の範馬勇次郎みたいな格闘マンガのラスボスをムリヤリ女子高生化したネタキャラ枠なのに、それをシナリオの力で最後にはあれだけ可憐な乙女っぽく思わせたのも圧巻でした。
    井上 さくらちゃんはすごい露骨ですけど、超高校級のアイドルとか、超高校級の野球選手とか、超高校級の文学少女とか、全部マンガ違いのキャラですよね。そういうジャンル違いのキャラクターを一同に会させてバトルロワイヤルさせるというのがこのゲームのコンセプトでもあった。
    中川 キャラクターの話が出たので、重大なネタバレですが、ここからはあのキャラクターの話をしましょうか。
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  • もはやサブカルチャーは「本音」を描く場所ではなくなった――『バケモノの子』に見る戦後アニメ文化の落日(宇野常寛×中川大地)(PLANETSアーカイブス)

    2020-03-06 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは『バケモノの子』をめぐる宇野常寛と中川大地の対談をお届けします。『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』などでヒットを飛ばし、ポストジブリの最右翼と目される細田守監督とスタジオ地図。その期待作であったはずの本作が逆説的に示してしまった戦後アニメ文化の限界とは? 初出:「サイゾー」2015年9月号(サイゾー) ※この記事は2015年10月7日に配信した記事の再配信です。
    Amazon.co.jp:バケモノの子
    大作化で発揮されなくなった細田守の批評性
    中川 どうしても面白いとは思えない作品でした。「“夏休み映画”を作らなければ」という形骸的要請ばかりが先だって、ワクワク感が全然なくて。異世界ファンタジーとしての体裁が、ほとんど機能してなかった気がします。
    宇野 僕はちょっと評価が複雑で、観ている間はそんなに気にならないんですよ。でも、観終わったあとに何か言おうと思うとまぁ、誰も傷つけずによくできていたな、ということしか浮かばない。
    中川 基本的には、シングルマザーの子育てを描いた前作『おおかみこどもの雨と雪』【1】と対の構造になっている。つまり、親が一方的に子を導くのではなく、親の側が子から教えられる相互性とか、熊徹【2】だけではなく、友人の多々良と百秋坊【3】らにも子育てのタスクを分散させるとかで、細田守監督なりの新たな父性や家族像を追求しようとしたわけですね。そのメッセージ性自体にはなんら異論はないのだけれど、『おおかみこども』とセットだと「母にはあれだけ苛酷な運命を押しつけといて、父はここまでユルユルに免責すんのかよ!」という見え方になってしまう(笑)。

    【1】『おおかみこどもの雨と雪』
    公開/12年7月 
    細田守のオリジナル長編2作目。
    “おおかみおとこ”と結婚し子どもを産んだ女性と、その娘と息子の“おおかみこども”の物語。シングルマザーとなった主人公の花を通じて描かれる母性信仰の強さが、一部から批判を集めた。
    【2】熊徹
    熊の容姿をした半獣人で、武道家。バケモノの世界で次期宗師の座を猪王山と争っている。人望が厚い猪王山に比べ、荒くれ者で我が強い。蓮を拾い、名前を名乗らなかった9歳の彼を「九太」と名づける。
    【3】多々良と百秋坊
    どちらも熊徹の幼なじみで、多々良はヒヒの半獣人、百秋坊は豚の半獣人で僧侶。多々良は大泉洋、百秋坊はリリー・フランキーが声を当てている。

    宇野 『おおかみこども』では「女性賛美の形をとった女性差別」の典型例みたいなことをやってしまって、ちょっと過剰に叩かれすぎた面もあるけど、まあ、さすがにあれは今の40代男性の自信のなさと、屈折した男根主義が悪い形で全面化して作品を狭くしていた側面は否めない。その反省か、今回、現代的な家族観・コミュニティ観を最小公倍数的にきれいに描いていて、こういう関係が美しいという美学はわからなくもないけれど、今度はその分、批判力のあるファンタジーではなくなってしまった。
    中川 まぁ『おおかみこども』での批判に誠実に対応した結果、たまたま男性側の免責に見えてしまっただけかもしれないからジェンダー論的な批判は留保するとして。もっと問題なのは、「渋天街」のイメージの弱さでしょう。『千と千尋の神隠し』的な、この世とは違う理で動く摩訶不思議な異界としての設定も映像的快楽も希薄で、ただステレオタイプな都会としての渋谷に対比させるためだけの、素朴な共同体社会でしかなかった。
    宇野 あそこで描かれているものって、完璧に正しくてそこそこ美しいと思うんですよ。でも、いま期待をかけられているスタジオ地図【4】の新作アニメーションで、夏休みの最大のごちそうとしてみんなが観に行って、この作品が出てきた時の物足りなさは否めないと思う。ポスターから想像できるストーリーの半歩もはみ出ていない。
     結局細田さんって、美少年というモチーフに一番興味があると思うんですよ。『サマーウォーズ』【5】を観ると明らかじゃないですか。一番思い入れがあるのはカズマだったでしょう。カズマは脇役だったのが『おおかみこども』で“雨”を経て、『バケモノの子』では完全に少年が主役になっている。モチーフレベルでは正直になってきているんだけど、その間に細田守の社会的地位が上がって、表現レベルではどんどん丸くなってしまって、とうとう誰も傷つけない代わりに何もない作品になってしまった。
     特に九太が青年になって以降、後半のシナリオが完全に“段取り”になってしまっている。一郎彦【6】が実は人間の子どもだというのは観ていればすぐにわかるし、クライマックスのアクションシーンが必要だからという理由だけで渋谷に出るのも……。あと、九太の社会復帰が、勉強して高認をとって大学に行くことを決意する【7】って展開に到っては、だったらなんのためにファンタジーが存在するのかよくわからなくなってしまう。異世界で修行をすることで、大学では学べないような世界の豊かさを学んできたんじゃなかったのか、と(笑)。この映画の中でいちばん豊かに描けているのって、少年期の修行時代の擬似親子+2人の傍観者(多々良・百秋坊)というあのコミュニティですよね。

    【4】スタジオ地図
    『時をかける少女』『サマーウォーズ』を手がけたプロデューサーが、細田守と共にマッドハウスから独立して設立したアニメ制作会社。
    【5】『サマーウォーズ』
    公開/09年8月
    17歳の健二が、ふとしたことから憧れの先輩の田舎に共に帰省し、
    大家族の仲間入りをする。同時進行でインターネット上の仮想世界「OZ」ではサイバーテロが発生。田舎の大家族とネット上の仮想世界での出来事がリンクしながら進んでゆく。
    【6】一郎彦
    熊徹と宗師の座を争う猪王山の長男。実は拾われてきた人間の子ども。少年期はさわやかで聡明な子どもだったが、成長するにつれて心に闇を宿し、最後に暴走する。
    【7】勉強して高認をとって~
    17歳になってから人間社会に再び足を踏み入れた九太は、図書館で出会った楓(後述)の存在をきっかけに勉強を始め、楓の勧めもあって大学受験を考えるようになる。結果、熊徹とぶつかり、渋天街を飛び出してしまう。

    中川 映像的には、細田さんが自分の本当に得意な表現を純粋抽出して組み合わせることで構築されてますよね。要は『サマーウォーズ』でも好評だった対戦格闘アクションを核に、『おおかみこども』での人獣のメタモルフォーゼの要素を盛り込むなどの手法で、ドラマの軸線を作った。熊徹からの見取り稽古をアニメーションのシンクロで示した修行時代や、猪王山とのバトルなどは、すごく良かった。
     渋天街のイメージの弱さも、肯定的に捉えるなら、これまでの細田作品における現実社会と異世界──『デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!』【8】や『サマーウォーズ』ならデジタル空間だったり、『おおかみこども』なら狼たちの自然世界だったり──とを等価に描く表現の延長線上に発想されたがゆえの帰結ともいえる。渋天街って、設定上は人間界の渋谷の地形と対応している〈拡張現実〉的な世界ということなので。そういう感じで、異世界を人間社会とフラットに捉えて特別視しない点が、自然/空想賛美的なジブリ作品に対する、細田守の現代的な作家性だったわけです。
     しかし今作については、画面を見ていても2つの世界の対応が全然伝わらないし、作劇上も活かされていない。結局、世界観構築に際しての批評性が弱いので、前半と後半でファンタジー世界と現代社会を対置するプロットが作劇意図ほどには機能していないんですよ。それが“段取り”感につながっているのだと思う。
    【8】『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』
    公開/00年3月 
    細田守監督作品。ネットに出現した新種のデジモンの暴走を止めるべく、少年たちが戦いに乗り出すストーリーで、『サマーウォーズ』公開当初から類似性が指摘されていた。

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  • 中川大地 タンポポの綿毛を追って ~『この世界の片隅に』ファンムーブメントの軌跡~(PLANETSアーカイブス)

    2020-01-17 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、映画『この世界の片隅に』とそのファンムーブメントの考察です。2016年11月、わずか63館で封切られた本作は、熱烈なファンムーブメントの後押しを受けて公開規模を拡大、異例のロングランヒットとなりました。公開前のクラウドファンディング当時からファンムーブメントに参加してきた評論家の中川大地が、その軌跡を追いながら、作品と現実が呼応する本作の意義を改めて問い直します。(初出:『ありがとう、うちを見つけてくれて「この世界の片隅に」公式ファンブック』双葉社)※本記事は2018年4月1日に配信された記事の再配信です。
    【告知】 1月21日放送予定のPLANETS the BLUEPRINTに『この世界の片隅に』の監督・片渕須直氏がゲスト出演します。ご興味のある方は以下のリンク先から、ぜひご覧ください。片渕須直×宇野常寛「(さらにいくつもの)片隅から描かれた世界とはなにか」
    ▲『ありがとう、うちを見つけてくれて 「この世界の片隅に」公式ファンブック』(双葉社)
     2017年6月16日、映画『この世界の片隅に』の累計動員数がダブルミリオンを突破した日の翌朝、テアトル新宿での凱旋上映で200万100人目くらいの観客として祝福する時間を、筆者は来場者たちと共有していた。
     各地のファンミーティングや広島でのロケ地巡り等で知り合ったその面々は、古参の原作ファンから、アニメ化に際してのクラウドファンディングの支援者、主演女優の応援団まで、それぞれまったく異なる背景から参入してきた人々だ。しかしながら、みなSNSでの発信や勝手イベントの実施・参加など、並外れた能動性をもって自ら作品にコミットし、“自分事”としての使命感をもって意識的にムーブメント化しようとする人々の割合が非常に高いという点だけは、不思議と一致していた。
     そうしたファンムーブメントは、どのように触発され、本作を異例のロングランヒットへと押し上げたのか。本稿では、筆者が本作をめぐる折々の縁に目の当たりにしてきた軌跡を辿り直しつつ、その意味を改めて問い直してみたい。
    こうの漫画が誘う「昭和越しの戦争体験」
     2005年、初夏。右手を失ったすずさんが激昂した玉音放送から干支が一巡りし、終戦60年の節目を偲ぶ企画が様々に登場していたおりのこと。
     駆け出しのライターだった筆者は、戦後日本の漫画やアニメ等の歴代のサブカルチャーが、いかにあの戦争を描いてきたかを検証する雑誌特集に携わっていた。その前04年には、こうの史代の『夕凪の街 桜の国』が刊行されて大きな話題を呼んでおり、双葉社の担当編集である染谷誠氏を訪ね、同作の反響について訊かせていただいたことがあった。
     取材の席上、広島での被曝体験に端を発する3世代の戦後史を繊細な筆致で描いた同作に続いて、呉軍港空襲を題材に、いよいよこうのが戦中の時代そのものを描く新作を準備中であるとの話を聞いた。それが、筆者が『この世界の片隅に』という作品の存在を知った、最初の機会だった。
     その呉ではこの年、大和ミュージアムこと呉市海事歴史科学館がオープンしている。同館が協力した映画『男たちの大和/YAMATO』の公開とも相まって、戦後長らくタブー視されてきた「軍都」としての歴史を直截に見据えていこうとする機運が熟してきつつあったわけだ。
     だから筆者の目には、『この世界の片隅に』の登場は、まさに『夕凪の街』から『桜の国』への変遷で描かれたような語り手世代の交代によって、ようやく左右のイデオロギーの呪縛を脱したフラットな視点から、日本人の戦争の語り継ぎ方が様々な意味で更新されていく大きな流れとして見えていた(実際、大和ミュージアムの施設や関係者たちの人脈は、後述する映画化に際しての現地支援ムーブメントでも中核的な役割を果たしていく)。
     直接の戦争体験者たちからの語り継ぎを得る機会は、やがて完全に失われていくほかはない。だとするなら、私たちはいかにして風化と忘却に抗いながら、しかも押しつけがましい教条に陥ることなく、大切な記憶を後生に遺していくことができるのか。
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  • 『この世界の片隅に』――『シン・ゴジラ』と対にして語るべき”日本の戦後”のプロローグ(中川大地×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)

    2020-01-10 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは2016年の映画『この世界の片隅に』をめぐる宇野常寛と中川大地の対談です。戦時下の一人の女性の視点を通して個人と世界の対峙を描き、大好評を博した本作。しかし、その出来の良さゆえに逆説的に明らかになった「戦後日本的メンタリティの限界」とは?(構成:須賀原みち/初出:「サイゾー」2017年1月号)
    【告知】 1月21日放送予定のPLANETS the BLUEPRINTに『この世界の片隅に』の監督・片渕須直氏がゲスト出演します。ご興味のある方は以下のリンク先から、ぜひご覧ください。片渕須直×宇野常寛「(さらにいくつもの)片隅から描かれた世界とはなにか」
    中川 本作は、『シン・ゴジラ』と対にして語るのに今年一番適した作品だと思いました。『シン・ゴジラ』は日本のミリタリー的な想像力が持ってきた最良の部分をリサイクルして、従来日本が苦手といわれてきた大局的な目線での状況コントロールに対する夢を描いていた。一方で、『この世界の片隅に』は『シン・ゴジラ』で一切描かれなかった庶民目線での大局との向き合い方を描ききった。この両極のコンテンツが2016年に出てきたことは、非常に重要です。
     すでに多くの人が語っていますが、雑草を使ってご飯を作るような戦時下の生活を“3コマ撮りのフルアニメーション”に近い手法で丹精に描くことにより、絵として表現できる限りの緻密さと正確さで日常描写を追求するという高畑勲の最良の遺産を、見事に現代的にアップデートしていた。そうした虚構の力によって、劣化していく現実へのカウンターを打てていたのは、素晴らしいと思う。
    宇野 片渕さんは高畑勲的な「アニメこそが自然主義的リアリズムを徹底し得る」というテーゼを、一番受け継いでいる人なんだと思う。高畑勲が前提にしていたのは、自然主義とは要するに近代的なパースペクティブに基づいた作り物の空間であるということ。だからこそ、作家がゼロから全てを生み出すアニメこそが自然主義リアリズムを貫徹できるという立場に立つ。対する宮﨑駿は、かつて押井守が批判した「塔から飛び降りてしまうコナン」問題が代表する反自然主義的な表現、彼のいう「漫画映画」的な表現こそがアニメのポテンシャルであるとする。
     片渕さんの軸足は高畑的なものにあるのだけど、『アリーテ姫』【1】や『マイマイ新子と千年の魔法』【2】がそうであったように「アニメだからこそ獲得できる自然主義リアリズム」をストレートに再現するのではなく、常に別の基準のリアリズムと衝突させることでアニメを作ってきた。比喩的に言うと、本作はその集大成で、“高畑的なもの”と“宮﨑的なもの”がひとつの作品の中でぶつかっていて、しかもそれがコンセプトとして非常に有効に機能している。そういう意味で、戦後アニメーションの集大成と言ってもいいんじゃないかと思いますね。

    【1】『アリーテ姫』:01年公開の、片渕監督の出世作。制作はSTUDIO 4℃。
    【2】『マイマイ新子と千年の魔法』:09年公開。片渕監督の代表作。制作はマッドハウス。

    中川 そうした大前提の上で、原作が持っていたコンセプトとのズレや違和を語るなら、こうの史代の幻想文学性とでもいうべきものが、映画では児童文学性に置き換えられて失われてしまった部分もある。片渕さんは「子どもだから見ることのできる世界」といった児童文学的なものへのこだわりが非常に強く、これはむしろ“宮崎的なもの”に近い。
     『この世界の片隅に』は、周りから大人になることを押し付けられて嫁に行ったすずさんの日常の鬱憤が、最終的に戦争という理不尽さの受け止め方につながる構造になっている。映画では周作と水原哲に対するすずさんの目線は、子どもでいたかった人が大人の性愛関係を拒絶するように描かれている。それは、片渕さんがすず役の声優として、『あまちゃん』以来ユニセックスなイノセンスを持ち続けているのんという女優にこだわったことにも表れています。でも、こうのさんはミニマムな人間関係の中で表出する世界の残酷さに対する感性が非常に高い人で、『長い道』【3】でも描かれたように、こうの作品のヒロインは大人の性愛関係を前提に織り込んだ上で、男性との間の丁々発止のバーター関係を築いている。その違いが、片渕さんによるこうの史代解釈の限界とも感じました。

    【3】『長い道』:訳ありで結婚した夫・壮介と妻・道の、穏やかだが奇妙な生活を描いた短編連作集。01~04年連載。

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  • e-sportsはどう社会を変えるのかーー〈ゲーム〉と〈スポーツ〉の相克をこえて(後編)

    2019-11-13 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、2018年に明治大学で行われたe-sportsをテーマにしたシンポジウムのレポートをお届けします。後編では、メディアテクノロジーの研究者・福地健太郎さんが、スコアを争う競争に留まらない、多様な評価軸を取り込んだ文化的なゲームのあり方について提案します。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    デジタル技術と身体
    中川 最後にご登壇をお願いするのは、同じく明治大学の福地健太郎先生です。福地先生は主にメディアテクノロジーの工学的なご研究をされていて、デジタルゲームにも非常に造詣が深く、学内の教員ではもっともゲーム研究に通じていらっしゃる方の一人です。いまの高峰先生のご発表のなかにもあった「デジタル技術と身体」の問題に対して、クリティカルな立場からのご発表をいただけると思います。
    身体運動とテクノロジーの関係をめぐって
    本学総合数理学部で教員を務めております、福地と申します。ふだんは、さまざまな映像メディアを多様な場面に実装していく研究をしております。最近は能と映像技術の融合ということをやっておりまして、2019年1月には実際に能舞台で披露いたします。この系統のルーツにあたる研究として、もう15年くらい前のものになりますが、2003年には音楽フェスティバルでお客さんがリアルタイムに楽しめる映像作品の展示を行っています。こうした実践を通じて、映像技術が人間の身体や行動にどのような影響を与えられるのかということが、自分の研究の中心テーマになっております。 この技術を応用したもので、スポーツとエンターテインメントのテーマに関連するものとして、「自撮りトランポリン」というものをつくりました。この研究の背景として、健康増進やリハビリテーションの現場では、ただ「運動しなさい」と言っても誰もやりたがらない、ということがあります。特にリハビリテーションの場合は、継続が辛くて、ついついサボってしまう。そのような人たちに対して、モチベーションを提供するために映像技術を応用できないかというところから取り組みました。具体的には、トランポリンでピョンピョン跳んでいると、Instagramよろしく、パシャッと良いタイミングで写真を撮ってくれるという、単純な機構のシステムです。 これを明治大学中野キャンパス前の中野セントラルパークで行われた夏祭りで展示したところ、4時間の展示で約660枚の写真を撮影することができました。1枚の写真を撮るためにだいたい10回くらい跳ぶので、延べ6,600回くらい人を跳ばしています。図の右側に一番枚数が多い順番に結果を並べた順位表がありますが、一位の子は84枚、つまりこの日、840回くらいトランポリンを跳んでいることになると思います。さぞかしこの日の夜は、ぐっすり眠れたのではないでしょうか。
    ゲームの力でスポーツの評価軸を多様化する
    ここでポイントになるのは、ゲームの面白さをリハビリテーションや運動に取り入れようという際には、より高く跳びましょうとか、たくさん跳びましょうとか、ある種のスコア競争のかたちで採り入れがちになることです。いわゆるゲーミフィケーションの方法論の多くは、そのような定量化された指標によってユーザーを動機づけしようという仕組みが中心になっているように思います。 ただ、トランポリン運動の場合に「高く跳ぼう」ということを目的に取り入れてしまうと、危険な姿勢で跳んでしまったり、反対にすぐに諦めてしまう子がどうしても出てしまう。そうした時に、競争の原理として「より高く」「より速く」といったスポーツ的な競技性ではなく、「より面白い写真を撮りましょう」という呼びかけをしているところが、この研究のポイントです。
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  • e-sportsはどう社会を変えるのかーー〈ゲーム〉と〈スポーツ〉の相克をこえて(中編)

    2019-11-12 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、2018年に明治大学で行われたe-sportsをテーマにしたシンポジウムのレポートをお届けします。中編では、スポーツ社会学が専門の高峰修さんが、デジタルゲームを含んだ包括的なスポーツの定義のあり方について発表します。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    e-sportsとスポーツ
    中川 さて、ここまではe-sports業界の「中の人」側からのプレゼンテーションでした。ここからは明治大学の二人の教員に、それをアカデミックサイドがどのように受け止めるのかという方向で議論の提起をお願いしたいと思います。e-sportsという新しいジャンルの勃興に対して、われわれの社会にはスポーツが築いてきた既存の文化があります。いわば先達である一般スポーツの経験から捉え直した時に、e-sportsが果たす社会的な意義や役割は、どのように考えることができるのか。スポーツについての研究を専門とされている高峰修先生のお話をいただきたいと思います。
    「スポーツ」の定義からe-sportsを考え直す
    皆さん、こんにちは。私は大学で体育の実技の指導をするかたわら、「スポーツ社会学」という分野でスポーツのことを考えています。 そもそも、スポーツとはどういうものかということを、皆さんは深く考えたことがあるでしょうか? これを考えるにあたって、スポーツをめぐる著名な専門家や国際会議、あるいはいろいろな国の法律などで取り上げられているスポーツの定義について、共通する要素を抜き出してみました。 一つ目は、スポーツのいちばんの基本にあるのは、何かのために行う仕事や労働ではなく、広い意味での「遊び」だということ。英語では「play」という言葉が使われますが、これは人間にとっての遊びについて深く考察した研究家であるヨハン・ホイジンガやロジェ・カイヨワといった人たちが指摘している、非常に有名な考え方です。 二つ目は、遊びのなかでも、特に「競争」や「対戦」、あるいは「挑戦」といった要素を本質とするもの。レスリングやサッカーのように対戦相手がいる場合もありますし、陸上競技で記録の更新をめざすように自分との戦いという場合もあります。または登山や波乗りなど、自然環境への挑戦という場合も含まれます。 三つ目は、そういったもののなかでも、さらに「身体活動」を伴うもの。私が大学に入った頃は、「大筋運動」ということが、スポーツの定義のなかで言われていました。要は、身体を構成する筋肉を大きく動かす、または大量の筋肉を使って行う活動だという定義です。 ただしこれは、よく考えると「本当にそうなのかな?」と思えてきます。スポーツを語る時の難しさは、あまり典型的な定義には収まらないさまざまなスポーツがあるということですが、今日のこの話に関しては、利点になるかもしれません。
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  • 今夜20:00から生放送! ゲーム・オブ・ザ・ラウンド 第3回 令和元年のeスポーツ──ゲーセン文化とコミュニティの視点から 出演:影澤潤一(かげっち)/加藤裕康/松田泰明/中川大地

    2019-11-11 07:30  

    「ゲーム・オブ・ザ・ラウンド」は、話題の最新タイトルから懐かしの名作、xRやAIといったテクノロジーや社会的・学術的なトピックまで、あらゆる話題を縦横無尽に語り合う〈ゲーム円卓会議〉。『現代ゲーム全史』の評論家/PLANETS副編集長の中川大地を進行役に毎回豪華ゲストをお迎えしながら、ゲーム・カルチャーの真髄をえぐるクリティカル・トークを繰り広げていきます。

    第3回目のテーマは、世界的な盛り上がりが継続中の「eスポーツ」ムーブメントの実像について。
    古くからゲームセンターで育まれてきた日本の対戦ゲームコミュニティは、
    2018年の日本eスポーツ連合(JeSU)発足以来の「eスポーツ」化の波をどのように受け止めているのか。
    伝説のゲーセン「ゲームニュートン」のオーナーで、
    今年8月からはGaming Community Network(GCN)の活動を開始した松田泰明さん、
    個人
  • e-sportsはどう社会を変えるのかーー〈ゲーム〉と〈スポーツ〉の相克をこえて(前編)

    2019-11-11 07:00  
    550pt

    世界的なe-sportsの隆盛に対して、ようやくキャッチアップをはじめた日本のゲーム業界。日本のe-sportsはどのような課題に直面しているのか。PLANETS副編集長・中川大地がコーディネーターを務めた明治大学でのシンポジウムの記録をお届けします。前編では、SEGA・eスポーツ推進プロデューサーの西山泰弘さんとウェルプレイド株式会社代表取締役CEO谷田優也さんが、日本のe-sportsの状況について報告します。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    イントロダクション
    明治大学野生の科学研究所研究員の中川と申します。 土屋恵一郎学長からのアカデミックフェスの主旨説明でもあったように、これからの知のあり方の「楽しさ」を考えていくことが、この「e-sportsはどう社会を変えるのか」と題したセッションの役割になります。ニュースなどで耳にしたことがある方も多いかと思いますが、e-sportsというのは、いわゆるデジタルゲームを使った対戦競技です。これが2018年に入って、非常に大きく盛り上がってきています。 もともと日本には、1970年代からゲームセンターや家庭用ゲーム機で根強くゲーム文化を培ってきた土壌があります。対して、世界では主にPCでプレイするゲームタイトルを競技種目に、個人あるいはチームを組んだゲーマーたちが高額な賞金をかけて対戦するのを一種のプロスポーツとして観戦するといったシーンが、ここ15年ほどで急成長してきました。そのような海外主導の競技文化を輸入するかたちで、いまようやく国内でもe-sportsブームが起きているという状況です。 こうしたゲームをめぐる異文化接触が、どのように社会を変えていくのかということを、今日は楽しみながら考えていきたいと思っています。実はこのセッションの後、「明治大学学長杯 三種混合e-sports大会」として、実際に大学でe-sports大会を行ってみようという取り組みを準備しています。その主旨紹介も兼ねたかたちで、今回のセッションを進めていきたいと思います。 最初にご登壇いただくのは、午後のe-sports大会の競技種目の一つである『ぷよぷよeスポーツ』のベンダーであるSEGA eスポーツ推進室プロデューサーの西山泰弘さんです。
    e-sportsとは。そして何が生まれるんだろう。
    日本におけるe-sportsの現状
    皆さん、SEGAの西山と申します。私からは、「e-sportsとは。そして何が生まれるんだろう。」と題して、日本におけるe-sportsの現状や、SEGAのようなゲーム会社の立場からはどう見えるかというスタンスについて、私の個人的な考え方も交えながらご説明させていただきます。 まず、e-sportsとは何かについてですが、ゲームを通してプレイヤー同士がスキルを駆使して対戦することに加えて、ゲーム大会とその環境下でのプレイヤーとファンの共感の場、といった捉え方をさせていただいています。つまり、プレイヤー同士が競う大会が、観客を集める興行として行われるという構造があるわけです。 たとえばスポーツというカテゴリーには、個人的にキャッチボールをしたり、学校の運動会でリレーをしたり、さまざまな内容が含まれていますが、そのようなアマチュアの活動が裾野になって、プロ野球を観たり、オリンピックで応援したりする人たちがいます。あるいは関連グッズを売ったり、それを買ったりする人たちもいて、プロスポーツという興業が成り立っています。そのような活動を全部含めて、私たちはスポーツと呼んでいます。 ゲームについても同じことが言えるわけです。家庭でゲームを買って、ちょっと友達と対戦することもあれば、ゲームセンターやオンラインで見知らぬ誰かと対戦することもある。そこからいまではプロゲームプレイヤーと呼ばれる人たちが登場して、自分でプレイする以外にも試合を視聴したり、ファンとして同じ場を共感するという、スポーツビジネスと同じようなシーンが成立してきています。このような状況を指してe-sportsという表現があるのだと思っていただくと、わかりやすいかと思います。 国内でe-sportsが話題になっている背景には、2018年の2月に「JeSU(日本eスポーツ連合)」という統一団体が発足したことがあります。それまではe-sportsの業界団体は四つほどあったのですが、オリンピックやアジア大会、あるいは国体などの国内外のスポーツ競技大会に日本の選手が出場する場合の派遣主体になったり、競技種目となるタイトルの版権をもつゲーム会社とのあいだでの権利処理をしたり、あとは大会で選手に賞金を出す際の法律的な問題をクリアにするための窓口として、一つに統合したわけです。 そのような動きを受けて、国内のゲームメーカー各社も本腰を入れ始めて、2018年は「e-sports元年」と言われるようになりました。たとえば、私がいるSEGAグループ内でのe-sportsの事業部も4月に立ち上がりましたし、5月にはコナミの『ウィニングイレブン[註1]』が2019年に開催される国体文化プログラムに協力する告知があり、さらには、8月にジャカルタで開かれたアジアカップに採択されています。9月の東京ゲームショウでも、2017年のVRに続いてe-sportsがゲーム業界のいちばんのメイントピックとして扱われるような状況が生まれています。
    ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • 今夜20:00から生放送!池谷勇人×木村祥朗×吉田寛×中川大地「『moon』復刻と メタフィクション・ゲームの系譜」2019.10.31/GAME OF THE ROUND

    2019-10-31 07:30  

    新番組「ゲーム・オブ・ザ・ラウンド」は、 話題の最新タイトルから懐かしの名作、xRやAIといったテクノロジーや社会的・学術的なトピックまで、あらゆる話題を縦横無尽に語り合う〈ゲーム円卓会議〉。『現代ゲーム全史』の評論家/PLANETS副編集長の中川大地を進行役に毎回豪華ゲストをお迎えしながら、ゲーム・カルチャーの真髄をえぐるクリティカル・トークを繰り広げていきます。
    第2回目のテーマは、去る10/10にニンテンドーSwitchで復刻配信されて 人気再燃中の『moon』をめぐって。 20世紀末プレステ黄金期のゲームシーンに衝撃を与えた「アンチRPG」は、 なぜ21世紀の現代に蘇ったのか? 『MOTHER』とともに『UNDERTALE』などの インディーゲームを触発した本作のゲーム史的な意義とは? 開発者の一人である旅人でゲームデザイナーの木村祥朗さん、 ねとらぼ副編集長の池谷勇人さん、東京
  • 今夜20:00から生放送!飯田和敏×犬飼博士×高橋ミレイ×中川大地「『ドラクエウォーク』と位置情報ゲームの思想戦」2019.10.16/GAMES OF THE ROUND

    2019-10-16 13:00  

    今夜から、新番組「ゲーム・オブ・ザ・ラウンド」がスタートします。話題の最新タイトルから懐かしの名作、xRやAIといったテクノロジーや社会的・学術的なトピックまで、あらゆる話題を縦横無尽に語り合う〈ゲーム円卓会議〉。『現代ゲーム全史』の評論家/PLANETS副編集長の中川大地を進行役に毎回豪華ゲストをお迎えしながら、ゲーム・カルチャーの真髄をえぐるクリティカル・トークを繰り広げていきます。記念すべき第1回のテーマは、『ドラゴンクエストウォーク』と位置情報ゲームの最新動向について。『テクテクテクテク』や『ハリー・ポッター:魔法同盟』なども含め、『ポケモンGO』以降の3年間で何が変わったのか?ゲームクリエイターの飯田和敏さん、運楽家/ゲーム監督の犬飼博士さん、ライター/モリカトロンAIラボ編集長の高橋ミレイさんとともに、各タイトルの“思想対決“の諸相に迫ります!▼放送日時2019年10月16日