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記事 98件
  • 今夜20:00から生放送!石岡良治×福嶋亮大×宇野常寛「続・高畑勲の遺産をどう受け継ぐか」2019.9.17/PLANETS the BLUEPRINT

    2019-09-17 11:20 11時間前 
    今夜20時から生放送!「PLANETS the BLUEPRINT」では、 毎回ゲストをお招きして、1つのイシューについて複合的な角度から議論し、 未来の青写真を一緒に作り上げていきます。 今回のゲストは、批評家・石岡良治さんと、文芸批評家の福嶋亮大さんです。 戦後日本アニメーションに多大な影響を与え、昨年この世を去った高畑勲監督。 彼がアニメーション業界に遺したものとは、一体なんだったのでしょうか。そしてその遺産は、どう受け継がれるのでしょうか。 現在国立近代美術館で開催中の回顧展を踏まえ、改めてその功績について議論します。 【合わせてご覧ください】 高畑勲監督追悼企画 -アニメにとって高畑勲の遺したものとは何か-https://youtu.be/FHvDC2xDHAc▼放送日時2019年9月17日(火)20時〜☆☆放送URLはこちら☆☆https://live.nicovideo.jp
  • 宇野常寛×中川大地 いま、「もう一度、男女を出会わせる」ことは可能か?――『ごめんね青春!』でのクドカンの挑戦と挫折を考える(PLANETSアーカイブス)

    2019-09-06 07:00  
    540pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、2014年の宮藤官九郎脚本のドラマ『ごめんね青春!』をめぐる、宇野常寛と中川大地の対談です。『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』など初期作からクドカンを見守ってきた二人が、『あまちゃん』大ヒット以降の新たな挑戦を考えます。(初出:サイゾー2015年2月号) ※本記事は2015年2月25日に配信されたものの再配信です。
     

    ▲『ごめんね青春!』Blu-ray BOX
     
    ▼作品紹介
     『ごめんね青春!』
    プロデューサー/磯山晶 脚本/宮藤官九郎 演出/山室大輔、金子文紀 出演/錦戸亮、満島ひかり、永山絢斗、斎藤由貴ほか 放映/TBS系にて毎週土曜21:00〜21:54(14年10月〜12月)
    TBS「日曜劇場」枠にて放映された、クドカン脚本作品。経営難を理由に合併話が持ち上がった、駒形大学付属三島高校(通称「東高」トンコー)と、カトリック系の聖三島女学院という不仲の別学校を舞台に、その教師であり高校時代に後ろめたい過去を持つ原平助(錦戸)と、シスターでもある蜂矢りさ(満島)ら教師、そして学園の生徒たちの恋愛と青春を描く。
    宇野 「つまらないわけじゃないんだよなぁ」という感想ですね。宮藤官九郎(以下、クドカン)&磯山プロデューサー【1】コンビのドラマは、長瀬智也くんと一緒に年を取ってきたところがあるわけじゃないですか。思春期の終わりに直面している『池袋ウエストゲートパーク』(00年〜)、大人になって地に足をつけた共同体や家族的なものと向き合わないとやっていけないというのが『タイガー&ドラゴン』(05年)で、大人になりきった後にホモソーシャル空間でどう生きていくかというのが『うぬぼれ刑事』(10年)だった。その流れの中で一番重要な作品がやはり『木更津キャッツアイ』(02〜06年)ですよね。これはまさに男の子のモラトリアムとその終わりの話で、今でいう「マイルドヤンキー」的な、部活動の延長線上にあるような同世代のホモソーシャルに依存したまま年を取って死んでいく、というモデルを提示したわけで、これはやはり決定的に新しかった。その後のクドカンはむしろ、『木更津キャッツアイ』的なものを自分で信じられなくて試行錯誤していったところもあると思うんですよね。
    【1】磯山プロデューサー:TBSのドラマプロデューサー・磯山晶。『IWGP』以降のクドカンTBS作品をすべて手がけた、クドカンを育てたゴッドマザー。
     磯山ドラマで培ったものを、80年代以降の消費社会の総括に応用して大成功を収めたのが『あまちゃん』(13年)だったと思うんです。そして今回クドカンがTBSに帰ってきたわけだけど、今度は長瀬くんより5歳若い30歳の錦戸くんを主人公にして、もう一回青春との決別の話をやった。『木更津〜』シリーズでケリをつけたはずだったところに、戻ってきてしまった。もちろん、あれから10年くらい経っていて、相応のアップデートは随所に見え隠れしていたんだけど、全体的には単ににぎやかな楽しい話を無難に描いて終わってしまったように思うんです。もちろん、それはそれでいいんだけど、なぜ今この作品を描く必要があったのか、よくわからないんですよね。
    中川 「先に進めなかったな」という感想は、僕も同感。はじめは、すごく期待感があった。基本的にクドカンが得意としていたのは、『木更津〜』以降の、ホモソーシャル的なコミュニティで異性愛を絶対視しない幸福像を描くことだったわけだけど、だんだん世の中がそこに追いついてきて、2014年に至っては『アナと雪の女王』で「ソフト百合な女子バディもの最強!」になりましたよね。で、これに対して男女共にホモソーシャルな世界観が広がってきた中で、今度は女子高と男子校の合併話を通じて2つのホモソーシャリティがぶつかると、どのように軋轢を起こし融和するかのプロセスを描くという、そのコンセプト性はすごく刺激的でした。実際、最初の2〜3話くらいまではそれがいきいきと描かれていてワクワク観てました。最近ネットで神経質になりがちな性愛にまつわるジェンダー問題も相当先回りして取り込んだ上で、「そうはいっても一緒にやっていかないといけないよね」という描き方は非常に巧みだった。だけど、その葛藤が解消されてからドラマがなくなってしまった。
    宇野 90年代の日本のポップカルチャー全体は、Jポップに代表されるように、恋愛至上主義的だったわけですよね。ゼロ年代はその反動で、脱恋愛の流れがやってきた。というか、恋愛やファミリーロマンスでは人間の欠落は埋められない、という世界観が支持を集めていって、まず『ONE PIECE』的な仲間主義が台頭し、さらに先鋭化したものはだんだん「ホモソーシャリティ最高!」となっていった。クドカンはその先鋭化を担っていた中心的な作家ですよね。そのクドカンが、人間はホモソーシャル抜きでは生きていけないことを前提にした上で、もう一回男女をどう出会わせるか、ということを今回やったわけだけど、コンセプトが途中で空中分解してしまったところがあると思う。
     中川さんが言う通りそのモチーフは、第3話で生徒会長(黒島結菜)が「男子」と書いて「アリ」と読んだ瞬間に終わってしまった。でも、それを「アリ」としてしまったら、ただの共学青春ものになってしまう。
     『木更津〜』って「人は死なないと青春を卒業できない」という話だったと思うんですよ。「青春」や「卒業」といった概念自体を崩していった作品だともいえる。だって木更津にいる大人も、キャッツの連中とやっていることはあまり変わらない。「そういうところから究極的に離脱する唯一の方法が死なんだ」として、モラトリアムが終わって意識の高い大人になっていくという従来の青春観を打ち破っていくところが斬新だった。なのに『ごめんね青春!』では、最後に平助が「卒業」してしまう。
    中川 「遅れてきた卒業」モチーフって、日テレ土曜9時枠の『マイ☆ボス☆マイ☆ヒーロー』(06年)や『35歳の高校生』(13年)で、さらに赤裸々なシチュエーション設定でやられちゃったからね。
    宇野 そう、まさに00年代クドカン磯山ドラマのライバルだった河野英裕プロデューサー【2】が立脚していた、オーソドックスな成熟観に寄り添ってしまって、しかもそれをクドカン自身が信じきれていない。

     
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  • 中川大地 『ひぐらしのなく頃に』が到達したところ――「共同性」と「公共性」の相克の果てに(PLANETSアーカイブス)

    2019-08-30 07:00  
    540pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、中川大地さんによる『ひぐらしのなく頃に』論のお蔵出しです。のちの「カゲロウプロジェクト」や「ダンガンロンパ」シリーズ、『僕だけがいない街』など、10年代のヒットコンテンツにも大きな影響を与えたと言われる「ひぐらし」。当時としては珍しく、同人作品から出発しアニメ化など多数のメディアミックス展開も行なわれたこの作品のインパクトを改めて振り返ります。(初出:『パンドラvol.3』講談社BOX、2009年) ※本記事は2015年3月6日に配信された記事の再配信です。
    ■はじめに〜「放送中止騒動」から考える
     
     2007年9月、京都府京田辺市で16歳の少女が手斧で父親を殺害した事件の発生を機に、当時放映中だったアニメ版『ひぐらしのなく頃に解』に対し、作中の残酷な描写が事件を連想させることなどを理由に、いくつかの放送局で打ち切りや放送自粛の措置が執られた。これを受け、同時期のアニメ『School Days』の最終回放送中止と並んでそれなりに物議を醸したことは記憶に新しい。
     もちろん、そのこと自体はアニメやゲームに限らず、その時代時代のサブカルチャー表現が事あるたびに陥ってきた、凡庸なトラブルの一つでしかない。事件と『ひぐらし』に直接的な影響関係などないことが公判の経緯からも明らかであったのは案の定であったし、逆に「何か犯罪があればすぐアニメやゲームをスケープゴートにするマスコミの偏向報道」に憤り、自分たちの愛好ジャンルが置かれている不当な地位の低さを受動的に嘆くオタク側の論調も旧態依然としたもので、取り立てて新たな状況や議論の深まりをもたらすものでなかったことは、今となっては明らかである。
     というよりも、世間なんていうのは、そんなものだ。もし『ひぐらし』ファンとして、あの騒ぎでの作品の扱いに不当さを感じ、つい“公憤”めいたものを抱いてしまった人がいたとしたら、逆に自分が興味も利害関係もないローカルな領域の社会的事象について、いかに自分が無理解な「世間」の一部としてしか存在しえないかに思いを馳せてみたらいい。
     
     ただ、一見あまり幸福でないこの“接触事故”が逆説的に示しているのは、02年の夏コミでの原作ゲーム発売以来、基本的にはコアなオタク的感性の極致にあるところから始まり発展していった『ひぐらし』のメディアミックス展開が、見知らぬ世間のまなざしに出会えるだけの広がりの獲得に成功していたという事実だ。だからこそ、あの時点において、『ひぐらし』は一部ファンダムの島宇宙内で評価される狭い共同性の範囲を超え、「中高生への悪影響を懸念される」だけの資格を得はじめていたのだとも言える。
     つまり07年の騒動は、『ひぐらし』ムーブメントが、ある意味では社会的な責任を問われるまでの成熟を遂げた、ささやかなメルクマールとしてあったと思ってみるのも、一つの手だと思う。
     
     実際、騒動を受けたあるネットインタビューで、原作者の竜騎士07はこんなことを語っている。

    「自分たちの作品はメッセージがくどすぎる、メッセージ性が強すぎる、と言われることが多いんです。批評家の方々にも、「道徳の本じゃないんだから、価値観を強く押し付けるな」と怒られてきた。でも、今回のことで思ったのは、くどいと言われても自分なりのメッセージを書き切ってよかったと思います。京都の子がもし『ひぐらし』をプレイしてくれたら、今回の事件は起こす前に、それが正しい行為であるか考えてくれたのでないかと思うことがあります。」(『OhmyNews』07年11月9日記事「[ひぐらしのなく頃に解]放送中止騒動 竜騎士07さんインタビュー(中)」より)

     説教上等……!
     
     生真面目なこの原作者は、ゲームやアニメの立場の弱さを糾弾する前に、無理解・無関心な世間なり社会なりと本気で切り結ぶためには、たとえ批評家風情がいかに表現形式上の洗練のなさを厭おうと、メッセージの鮮明さこそが何よりの武器となることを確信しているのである。
     そしてその確信どおり、『解』の正味の作品性に鑑みて、アニメの放送を打ち切った局よりも、OP映像の一部差し替えなどによって放送を続けた局の方が多かった。そんなもう一面の事実に注視してみれば、受け手である私たち一人一人にとって、あの騒動の経験を、より有用なものとして捉え返せるのではないだろうか。
     
     たとえば、放映中止の憂き目に遭ったアニメ版『解』の第12〜13話といえば、「皆殺し編」中盤のクライマックス部分。つまり前原圭一たち主人公メンバーが過去の編で繰り返してきた短絡的な殺人の惨劇の過ちに自発的に気づき、仲間の北条沙都子を苛烈なDVから救い出すため、互いの相談と連帯によって、見事に社会的な勝利を勝ち取るくだりの直後である。具体的には、「部活メンバー」−「学校全体」−「雛見沢連合町会」と、順を追って協力者コミュニティの規模を拡大しながら、市の児童相談所に地道な陳情闘争を行っていくという展開だった。
     ここに立ち現れているのは、内輪の幸福を追求する「共同性の論理」が、その共感範囲の線引きを可能なかぎり外へ外へと拡げていくプロセスの果て、容易には共感しあえない他者と出会い、生存資源の配分を調停する「公共性の論理」に直面していくという主題性だ。
     そしてこの作中展開は、同人ゲームの小コミュニティから始まって漫画やアニメや実写映画と、空前のメディアミックス展開を遂げた果てに、まったく予期しなかった社会事件に直面することになった、このときの『ひぐらし』ムーブメントの成長過程そのものにも、重ね合わせることができるのだ。
     
     このような具合で、言葉で語られるメッセージに耳を傾けるだけが能ではない。『ひぐらし』というコンテンツには、作品面でも現象面でも、「共同性の論理」と「公共性の論理」の相克を、様々なレベルで見出すことができるのだ。さしあたりはそんなお題でもって、私たちの『ひぐらし』体験の諸相を、段階的に腑分けしていってみたいと思う。
     
    ■同人ノベルゲーム発の「メディア・シャッフル」展開
     
     まず、物語を載せる「器(メディア)」のレベルに焦点を当て、外堀を埋めておきたい。
     『ひぐらしのなく頃に』という物語作品は、同人制作によるパソコン用の「ノベルゲーム」と総称される種類のデジタルメディアで提供されるコンテンツとして、誕生した。
     改めて確認しておけば、ノベルゲームとは、小説形式で逐次的に表示されるテキストを、描写シークエンスに対応した登場キャラクターの絵や背景画、およびBGMや効果音といった視聴覚要素によって演出するというスタイルで、プレイヤーに物語を体験させるソフトの通称である(作品で力点の置かれる演出要素の違いによって「サウンドノベル」「ビジュアルノベル」等と呼称することもあり、『ひぐらし』の場合は「サウンドノベル」をジャンル名としている)。
     1990年代後半以降に発展したノベルゲームが歴史的に積み重ねてきたコンテンツ傾向として、タイプの異なる多数の美少女キャラクターそれぞれとの恋愛や交遊を疑似体験する「美少女ゲーム」の媒体に使われるケースがほとんどであった。つまり、目標とするヒロインを「攻略」するため、いかに正しい選択肢を選び続けて思惑通りのシナリオに進んでいくか、という試行錯誤の過程をゲームとして遊ぶわけである。そのため、基本的にプレイヤーは全ヒロインのシナリオ分岐を制覇すべく、何度も繰り返しプレイするのが、こうしたジャンルのソフトにおける当然の受容形態となっていったのである。
     さらに、プレイヤーによるこうした能動的な繰り返しの体験性に順応してきた00年代初頭になると、今度はその順応を逆手に取って、「世界が超越的な力によってループしている」ことを劇中の登場人物が自覚していることを示唆するメタフィクション的な描写を行ったり、あえて選択肢を排除することでプレイヤーに無力感を味わわせたりするようなトリッキーな作劇によって、ある種の前衛性を表現したかのようにみえる作品群が登場してきたのである。
     
     以上、少々クドいおさらいとなったが、『ひぐらし』もまた、こうした一連の流れの中に系譜づけられる一作であることは間違いない。「鬼隠し編」から「祭囃し編」までの全8話の連なりを通じて、昭和58年6月近辺の雛見沢世界が何度も繰り返されるという特異な趣向や、その要因となる古手梨花や羽入の存在は、特殊なノベルゲームの発展史抜きには、まず考えられなかった設定だ。つまり、この物語はメディア自体の性格がもたらすきわめて強力なコンテンツ干渉性と、そのユーザーコミュニティの強固な文脈依存性とが帰結した、「共同性の論理」の結晶のような産物と言えるのである。
     しかし『ひぐらし』が画期的だったのは、そうしたノベルゲーム的なリアリティへのリテラシーがなければ理解しがたい全体構造と物語の同一性はそのままに、個々の各編を別々の作家・版元から出版してみせた漫画版や、全編をシリアルに配列したアニメ版、そして実写映画版まで、表現特性の振れ幅が極端に広いメディアミックス展開を成功させたことだ。
     結果として、メディアとコミュニティの垣根によって従来きわめて狭いレンジでしか受容されることのなかったハイコンテクスチュアルなノベルゲーム的作劇が、ほぼ初めて一般エンターテインメントのフィールドに解放されるかたちとなった。
     そうした仕掛けが、最終的にどこまで受け入れられるのかは、各メディアでの展開がまだ途上である現在のところはまだ未知数だ。しかし、すでに従来のノベルゲームのユーザー層からすれば、世代や性別を越えたはるかに多様な文化トライブに属する人々が多様な入り口からファンとなり、裾野が広がっているのは間違いない。
     こうしたメディア・シャッフル状況は、もはや単なる「共同性の論理」の拡大の域を越え、幅広い受け手たちの間で『ひぐらし』の物語が「公共性の論理」として機能するような、横断的なインフラを提供しつつあるのではないだろうか。
     
    ■「ジャンルの転調」が実現する「真のゲーム的リアリズム」
     
     続いて、物語がまとう「様式(ジャンル)」のレベルに話を進めよう。
     『ひぐらし』原作のゲームジャンル名である「サウンドノベル」と銘打たれた初めてのゲームは、1992年チュンソフト発売の家庭用ゲームソフト『弟切草』である。先述の通り、やがてほとんど成人向け美少女ゲームの代名詞のようになっていく90年代後半以降のノベルゲーム全体の傾向とは異なり、この作品は基本的には万人向けのサスペンスホラーであった。しかし、「元祖」であるこの作品が特徴的だったのは、プレイヤーの選ぶ選択肢によって、描かれる物語のジャンル性格そのものが、推理ミステリーから心霊ホラー、スパイ冒険ものやスラップスティックコメディ等々、登場人物の設定から何から根こそぎ変わってしまうという、分裂症的なシナリオ分岐を持っていたことだ。分岐した物語相互に何の関連性もなければ、選択肢を選んだ後の物語の変化にも特に必然性や整合性はない。完成度の高い本格推理ホラーとしてヒットした次作『かまいたちの夜』等に比べて、黎明期ゆえの自由すぎる粗削りな作品だったと言うほかないだろう。
     
     筆者が思うに、本来はチュンソフトの登録商標である「サウンドノベル」の名を継承した『ひぐらし』の物語の転調スタイルは、どこかこの『弟切草』を彷彿とさせる、「面白ければ何でもアリ」な横紙破り的性格への“原点回帰”を果たしているような気もするのである。
     というのは、第4話までの出題編に対応して各編の物語を裏返していく後半の『解』のスタイルは、従来のミステリーという物語ジャンルの約束事を、大きく打ち破るものだったからだ。
     『解』の冒頭を飾る第5話「目明し編」こそ、出題にあたる第2話「綿流し編」の双子トリックを、犯人側の視点から見るかたちで真相を示していくという、ミステリー的にオーソドックスな「解答」の体を為していた。しかし、続く第6話「罪滅し編」以降の展開は、そうしたストレートな意味での「解答」の体裁を捨て、かわりにノベルゲーム的な「世界ループ」の設定と主題が立ち現れてくる。この点こそ、本作への賛否が大きく分かれるポイントになっているのは、周知の通りである。
     
     確かに、ミステリーという様式的な伝統の蓄積が、物語の構成性を高め、コアなミステリーファンだけでなく、多くの人々にとってもなじみやすいオープンなエンターテインメントの作法として定着している実績は見過ごせない。実際、メディアミックス化が進んでいる『ひぐらし』の前半パートは、そうしたミステリーとしての趣向性の高さに支えられて、大きな支持を得ているのは間違いないからだ。
     しかし、だからといってミステリーというジャンルの「大きな共同性」に沿った方が、ノベルゲーム的な世界ループ系の「小さな共同性」よりも普遍的で公共性に近づけるのかというと、事はそう単純ではない。稲葉振一郎が『モダンのクールダウン』において、近代フィクションにおける「(SFやミステリーなどの)ジャンル小説」と「純文学」の理念的な本質性を区別してみせたように、ジャンルの島宇宙の規模が大きかろうが小さかろうが、一定の様式や約束事への同調をはかるという意味で、共同性は共同性である。対して本来の文学の持つ公共性とは、あくまで異なる約束事同士の間を、メタレベルから関係づけることだ。特定の共同性がともすれば陥ってしまう排外性や暴力性に警鐘を鳴らし、その共同性の外部にある他者への共感の芽を担保することこそが、その役目である。
     
     そう考えれば、『解』の展開がミステリーの縛りを捨てて、世界ループものや青春もの、そして明朗な冒険活劇へと、次々とジャンルを転調していったこともまた、明らかだ。ジャンル小説的手法であろうが自然主義的リアリズムであろうが、ひとつの物語ジャンルを採用するとき、それは必ず描写リアリティの性格を規定し、描きうるテーマやストーリーの拘束条件となり、特定の共同性に回収される慣性を帯びてしまうのが、ポストモダン時代のフィクションの宿命である。
     だからこそ、描くべきテーマが優先されるものとしてあるとき、『弟切草』という原点の時点で萌芽的に示しされていた、複数のジャンルを並列化できるノベルゲームのメディア特性が威力を発揮する。すなわち、単にプレイの繰り返しで世界をループさせられるというだけでなく、同一パッケージの作品世界に対して、異なるジャンル的リアリティをもつ複数のシナリオで重層的にアプローチすることで、現実のもつ多面性や全体性を体感させる手法が採りうること。
     余談になるが、この特性こそ、東浩紀が想定した概念よりもさらにベーシックで一般性の高い、真の「ゲーム的リアリズム」と名づけられるべきものではないだろうか。90年代後半以降の美少女ゲームしか見なかった東の場合、あくまで閉塞したループ世界にプレイヤーの立場を重ね合わせるセカイ系的な感傷(=「感情のメタ物語的詐術」)という特殊な事例にのみ、この概念を限定してしまっていた。しかし、ゲーム史的な観測点のスパンを遡ることで、「リアリズム」と呼称すべき文学的性質がよりハッキリするかたちで概念をアップデートできるのではないかと、もののついでに提案しておきたい。
     
     ともあれ、個々のジャンルの共同性に限定されないメタな立場から、現実なるものの多面性を感得することこそ、すなわち公共性にほかならない。サウンドノベルの忘れられていた原初的性格に則るかたちで、『ひぐらし』というコンテンツがジャンル転調的な作劇手法を採用していたこともまた、本作が「公共性の論理」を志向してゆく諸相の一面であるのは、まぎれもないことではないかと思う。
     
    ■「雛見沢症候群」は「ミステリー」を内破する
     
     『ひぐらし』が進めた「様式」破壊の意味を、もうすこし詳しく掘り下げてみたい。
     『ひぐらし』が昭和58年の雛見沢村という、祟りへの信仰の残る村落共同体の舞台設定を採用し、凄惨な猟奇殺人事件をめぐるストーリーを展開しているのは、横溝正史に代表される田舎の前近代的な共同体の因習や怨念を犯罪の背景に用いた、典型的な日本ミステリーの類型の踏襲にほかならない。
     こうした、戦後の高度経済系長期に確立された横溝ミステリーの王道は、奇異な前近代的風習や、超自然的な祟りの実在を示唆する言い伝えなどによって一見おどろおどろしく殺人事件がカモフラージュされているものの、最終的にはあくまでも動機を持った人間による現実的なトリックとして推理され、すべての謎が解かれるというのがお約束だ。ここから、ミステリーという物語様式の批評的な意味での本質を敷衍すれば、犯罪という前近代的な不条理に対し、近代主義的・人間主義的な理性に基づく論理的な推理によって立ち向かい、屈服するという形式だと定義することができる。つまり、基本的には「幽霊の正体見たり枯れ尾花」的なかたちで、前近代的な共同体社会の迷妄や抑圧性を否定し、人々を啓蒙主義的な理性に基づく近代社会の公共価値に馴致させるためのイデオロギー装置としての骨格を持っている。
     ただし、犯罪トリックや犯罪者の描き方によっては、逆に近代合理主義の暴走を、時代に取り残されたマイノリティの側から告発する作品が紡がれる場合もある。笠井潔などの立場によれば、もともとミステリーやSFといったジャンル小説の批評的な存在意義は、突き詰めれば「公共性」を僭称する無自覚な「共同性」でしかない近代の「裸の王様」ぶりを相対化し、自然主義的リアリズムの閉塞を打ち破りうる点にあるとされている。要は古典的な近代−反近代という対立軸のスキームを提示できるフォーマットだということだ。
     
     だが、こうしたミステリーという表現形式が、近代主義の理想を掲げたり、逆にその暴力性を衝いたりするビビッドな機能を保っていたのは、まだ日本各地に田舎の古い共同体社会のリアリティが残っていた、せいぜい1980年代くらいまでのことだろう(だからこそ、『ひぐらし』の舞台は、昭和58年に設定されている)。そうした現実の前近代の圧力がなくなり、古典的な近代主義の理想がもはや理想たりえなくなったポストモダン社会たる現在では、もはやミステリーは愛好者たちの島宇宙内で“ネタ”として安全に消費されるバロックとしてしか存在しえないのだ。
     そうした認識に立ったとき、物語を真に受け手の現実に届くものとして機能させようとするなら、ミステリー的な約束事の遵守などは、もはや二の次の問題ではないだろうか。
     
     その意味では、『ひぐらし』の物語の前半の惨劇の原因となる「雛見沢症候群」という、人間の内面的な狂気を描く猟奇ミステリーの醍醐味を台無しにしてしまうSFめいた“反則設定”の導入にさえ、ジャンルのお約束を内破する積極的な意義を見出すことが可能かもしれない。 
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  • 今夜20:00から生放送!石岡良治×福嶋亮大×宇野常寛「『天気の子』とポスト・ジブリアニメのゆくえ」2019.7.30/PLANETS the BLUEPRINT

    2019-07-30 07:30  
    「PLANETS the BLUEPRINT」では、毎回ゲストをお招きして、1つのイシューについて複合的な角度から議論し、未来の青写真を一緒に作り上げていきます。
    今回のゲストは批評家・石岡良治さんと、文芸批評家・福嶋亮大さん。 7月19日に公開される新海誠監督の最新作「天気の子」をはじめ、 「プロメア」、「海獣の子供」、「きみと、波にのれたら」など、 今年の夏アニメ映画について、ネタバレ全開で語ります。 ▼放送日時放送日時:本日7月30日(火)20:00〜☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者石岡良治(批評家) 福嶋亮大(文芸批評家) 宇野常寛(評論家・批評誌「PLANETS」編集長)ファシリテーター:中川大地(評論家/編集者)
    ハッシュタグは #ブループリント
    ゲストへの質問など、番組へのお便りはこちらから!
    番組終了後、延長戦をPLANETS CLUBで配信します! PLANETS
  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(後編)(PLANETSアーカイブス)

    2019-07-19 07:00  
    540pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんと、評論家・編集者の中川大地さんの対談の後編をお届けします。日本のゲームとゲーム批評は、なぜダメになってしまったのか。圧倒的な技術力と資金力で成長を続ける欧米のゲームに、日本のゲームが対抗しうる方策とは? 『人工知能のための哲学塾』の三宅さんと『現代ゲーム全史』の中川さんが、日本のゲームと人工知能に秘められたポテンシャルについて語ります。(構成:高橋ミレイ) ※本記事の前編はこちら
    ゲーム論壇の衰退とゲーム実況の登場
    三宅 近年、日本のゲームが衰退していると言われています。その責任はもちろん開発者自身にありますが、ゲームを批評する言論の力の弱さも、原因の一端にあると思います。ゲーム産業が盛り上がった時期には、ゲームを語る文化も同時に盛り上がるのが常で、そうした時代には、ゲーム批評を担うスターが現れます。当時、『ゲーム批評』という雑誌がありましたが、今の時代にもそういうメディアや批評家の存在は必要です。
    その点、中川さんの『現代ゲーム全史』は、コンピューターの黎明期から現代の『Pokemon GO』までを網羅した、ゲームの歴史を俯瞰するマップとして使うことができる。僕はこのマップを足がかりに、ゲーム批評を再興できるのではないかと期待しています。批評が盛り上がって言論が面白くなると、ゲーム開発の現場もエキサイティングになります。そうしてユーザーとゲーム開発者が高いレベルで応答できるようになれば、もう一度、「文化としてのゲーム」を取り戻せるかもしれません。今のメディアは売り上げばかりを報じていて、商業色が濃すぎますからね。
    中川 ありがとうございます。ゲームがコンテンツカルチャーとして伸びていった2000年前後は、批評の文脈でゲームを語る人たちが、テキストサイト界隈で記事を書いていました。ところが、ちょうど三宅さんがゲーム業界に入った頃から、そういった論壇がどんどん弱くなっていった。日本のゲーム産業の停滞と共に、ゲームを批評的に語るモチベーションも衰退していって、2000年代後半に、その隙間を埋めるものとして現れたのが「ゲーム実況」でした。ニコニコ動画内で、ゲームをプレイしている動画を実況付きで放送する。このゲーム実況の登場によって、かつて批評の対象だったゲームが、ネット上のおしゃべりのネタとして共有されていきました。
    ゲーム実況でプレイされるゲームは、すでに多くの人が共通体験を持っているレトロゲームとか、あるいは『青鬼』や『ゆめにっき』といった「RPGツクール」などで制作されたフリーゲームです。あの辺の作品は、スーパーファミコン時代のゲームシステムを踏襲しながら、ストーリーテリングの部分に工夫を加えたものです。基本的にファンコミュニティが有する共通のコミュニケーションコードに即したかたちでプレイヤーの心情を揺さぶる手法で、ゲームそのものの本質としては新しい体験が生み出されていないし、求められてもいないように見えます。
    三宅 批評の役割のひとつは、その分野を他の分野とつなぐことです。例えば、ゲームと16世紀頃の絵画、あるいはゲームと別の産業のプロダクト、といったように、開発者が気付いていないような、他分野の事柄と関連づけることで新しい可能性を開拓します。確かに、ゲーム実況もこれはこれで興味深い文化なのですが、内輪の盛り上がりだけで終わってしまうのが難点です。
    なぜ日本のゲームは衰退したのか
    三宅 日本のゲームの衰退の背景には、コンピューターサイエンティストの少なさがあるように思います。ゲームプログラマーとして一流の人はたくさんいますが、ハイパフォーマンスのマシンに向けたゲームを制作する際に、コンピューターサイエンスの土壌の弱さが露呈してしまいます。その結果、相対的に欧米のゲームが伸びて、国内のゲームとその批評が衰退してしまうという連鎖が起きています。
    中川 日本のゲーム文化がピークに達した2000年代初頭ぐらいまでは、それまで蓄積したシステムを使って、いかに先進的な表現ができるかを突き詰めていくような試みがありました。ところが本格的な3Dエンジンを使う時代に入ると、技術力の不足も相まって、日本のゲーム業界全体が目的や発想力を失ってしまい、語るべき新しさを持ったゲームが現れなくなってしまったように思います。
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  • 今夜20:00から生放送!山本寛×宇野常寛「山本寛は『薄暮』で何を描いたか」2019.7.16/PLANETS the BLUEPRINT

    2019-07-16 07:30  

    「PLANETS the BLUEPRINT」は、毎回ゲストをお招きして、1つのイシューについて複合的な角度から議論し、未来の青写真を一緒に作り上げていきます。
    今夜のゲストは、アニメーション監督の山本寛さん。現在公開中の映画 『薄暮』
    東日本大震災後の福島県を舞台にしたこの映画について、
    作品制作に至った経緯や、そして、
    この作品に込めた思いを全力でうかがいます!
    ▼放送日時放送日時:本日7月16日(火)20:00〜☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者山本寛(アニメーション監督)宇野常寛ファシリテーター:中川大地(評論家 / 編集者)ハッシュタグは #ブループリント
    ゲストへの質問など、番組へのお便りはこちらから!
    番組終了後、延長戦をPLANETS CLUBで配信します! PLANETS CLUBについて詳しくはこちら
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  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(前編)(PLANETSアーカイブス)

    2019-07-12 07:00  
    540pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんと、評論家・編集者の中川大地さんの対談をお届けします。デカルト以降の近代西洋哲学はどのように人工知能を定義するのか。欧米と日本のゲームの背景にある思想的な差異とは。『人工知能のための哲学塾』の三宅さんと『現代ゲーム全史』の中川さんが、ゲームとAIについて徹底的に論じ合います。(構成:高橋ミレイ) ※本記事は2016年10月18日に配信した記事の再配信です。

    ▲中川大地『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』 

    ▲三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』
    実験物理学の研究からゲームAIの世界へ
    中川 今回、三宅さんとの対談をお願いしたのは、『現代ゲーム全史』をまとめてみて、ゲームと人工知能(AI)は車の両輪のような関係にあるなと感じたからなんですね。拙著の序盤の章でも述べたように、ゲームの数学的解析から始まるデジタルゲームとAIは、同じ起源を共有しています。以来、基本的には何か実用的な目的のために使うのではなく、純粋に人間がコンピューターで何ができるかの可能性を追求していくジャンルとして発展してきました。それが2012年あたりからAIではディープラーニング(深層学習)のブレイクスルーがあり、ゲームではOculus Riftなどが出てきてVRへの流れが全面化して、2016年現在はそれぞれに大きな歴史的転機が訪れています。
     そんな時流の中で、三宅さんはまさにゲームに活用するAIの専門家として、『人工知能のための哲学塾』と森川幸人さんとの共著『絵でわかる人工知能』を立て続けに出版され、AIという概念についての非常に本質的な思索を展開されていたのが印象的で、ぜひ深くお話をうかがってみたいと思ったわけなんです。
     それで、もともと三宅さんは物理学の研究をされていたそうですが、そこからどういう関心を持ってAIの研究に進まれたのかを、まずはお聞きかせ願えますでしょうか。
    三宅 最初は京都大学で数学と理論物理を勉強していました。修士課程で大阪大学に移って地下にある半径数kmという巨大な加速器でデータを取るような研究をやっていたのですが、装置を自分で作ってみたくなって、博士課程で東京大学に移り電気工学を学びました。そのうちに装置を自律的に動かすことに興味が出てきて、そこが人工知能の研究のスタートですね。「ひとつの知能を丸ごと作る」というのが僕の目標で、そういった技術はゲーム業界でこそ必要とされているはずだと思って、2004年頃にゲーム業界に入ったんです。でも、当時のゲームで使われていた人工知能は完全なものではなかった。今でも世間で人工知能と呼ばれるものの90%は、人工知能の一部を利用したものです。たとえばAmazonのレコメンドシステムやGoogle検索、ディープラーニング、画像認識などで、こういった単機能のAIの方がサービスにしやすいんですね。でも、僕が作りたいのは、ゲームの世界で本当に生きている、完全な人工知能でした。完璧でなくていいですが、知能として最低限必要な一揃いが作っているという意味で完全な人工知能です。そのためには、ゲームの中に「世界」そのものが存在しなくてはいけない。
    中川 なるほど。2000年頃といえば、ゲーム史的には2Dのドット絵の時代から、プレステ革命を経てポリゴンを用いた3DCG表現への主流の移行が完了したくらいの時期ですね。ゲーム世界が3D化すると、物理演算エンジンによって、現実の三次元空間に近い世界を作れるようになる。理念としてのAIは、特定の専門分野での用途に特化したものではなく、人間のような汎用的な問題解決のできる知能を目指すわけだから、知能に対して課題を与える環境の性格が人間のそれに近づくことが大きな意味を持つわけですね。言うなれば、AIがAIとして活動するための最も純粋なフィールドを用意しうる分野が、「世界」や「環境」を生成するテクノロジーとしてのゲームだったと。
      
    三宅 おっしゃる通りです。人間も含め、知能というのは外部の環境に合わせて相対的に生成されるので、単純な世界では知能を複雑にする必要がない。ゲームデザインが複雑になれば、人工知能もゲームを理解するために高い知能を持たなければいけなくなります。僕がゲーム業界に入ったのは、森川幸人さんがプレステで『がんばれ森川くん2号』(1997年)や『アストロノーカ』(1998年)を出した、そのちょっと後くらいでした。
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  • 中川大地 「ゲーム」からみた「伊藤計劃以後」〜コンピュータゲームのあゆみはフィクションの想像力をいかに変えたか〜(PLANETSアーカイブス)

    2019-02-08 07:00  
    540pt
                 画像出典:Project Itoh 公式サイト スクリーンショット

    今朝のPLANETSアーカイブスは中川大地さんによる伊藤計劃論です。『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』といった伊藤計劃の作品の現代性とは何だったのか――『現代ゲーム全史』の中川大地さんが、「純文学」「SF」「ゲーム」の3つのジャンルをキーワードに考察します。(初出:S-Fマガジン 2011年 07月号(早川書房)※一部改稿)
     
    ■ フィクション表現の変化の震源だった「ゲーム」
     
     周知のように、1974年生まれの伊藤計劃は、幼少期にファミコンブームによるコンピュータゲーム産業の立ち上がりを経験し、その発展を血肉化してきた世代の精神性を最も濃密に体現する作家の一人である。デビュー作『虐殺器官』が、小島秀夫監督の『ポリスノーツ』や《メタルギア》シリーズから決定的な影響を受けているように、その想像力は日本ゲームの進化とともに歩んできたものと言える。
     したがって「伊藤計劃以後」を展望するための補助線として、本稿ではゲームの発展史がフィクション表現の想像力に与えてきた影響を改めて把捉し直しておきたい。
     
     伊藤個人の作家性に限らず、ゲームというカルチャージャンルの勃興と定着は、ここ20年あまりの日本の社会文化全般にとって、きわめて本質的かつ甚大な影響をもたらした変化の震源地であった。なぜならそれは、高度経済成長を終えて「実用」の領域では劇的な進歩が望めなくなった1970年代後半以降の日本にあって、唯一日進月歩の技術進歩を実感させてくれるコンピュータなる道具が不要不急の「遊び」の多様化を通じて人々の生活の中に入りこんでくるという、かつてない生活体験の変容そのものだったからである。
     言い換えればコンピュータゲームは、人々が初めて接した最も純粋なかたちの消費社会の体現物であり、インターネット普及以前にあっては最も実感的に情報化社会なるものの手触りを味わえるマスプロダクトに他ならなかった。
     
     かくして、高度成長期的な進歩への「夢」の名残を背負いながら、まずは「玩具」とカテゴライズされる生活の異物として登場したゲームは、1980年代のファミコンブーム期に《ドラクエ》シリーズのヒットなどストーリイ表現を伴うゲームが一般化したことを機に、しだいに独自のコンテンツ価値を持つ「作品」としての性格を認知されてゆく。特に1990年代以降、隣接するオタク系カルチャーのメディアミックス展開や、プレイステーションの成功によって音楽CDと同じ光学メディアによるパッケージソフト流通の方式が定着すると、この傾向はさらに顕著になものとなる。
     こうした著作物性の前面化と、ポリゴン表現によるグラフィックスの3D化によって、この時代の大作ゲームは、急速に先行する総合視聴覚表現である映画を強く意識したものとなっていった。例えば伊藤計劃が最終作のノベライズを手がけた《メタルギア・ソリッド》も、こうした潮流の中で登場してきた「映画的」ゲームの最も代表的なシリーズである。
     
     そしてゲームが産業資本によるメディア・テクノロジーのイノベーションの勢いのままに既存コンテンツジャンルの表現を旺盛に取り込んでいった動きの反作用として、逆にゲーム独自の体験性が旧メディアに輸出されていった例も枚挙に暇がない。
     最も素朴な意味ではRPGによる「剣と魔法のファンタジー」の意匠やキャラクターメイキングの作法がライトノベルの成立を促したことや、「努力・友情・勝利」の精神論的なドラマツルギーが制していた少年マンガにおけるカードゲーム的な戦術性の導入、AVGなどにおける繰り返しプレイの経験を劇化した「ループもの」や善悪の規範ではなく等価なプレイヤー同士が不条理なルール設定の中で戦い合う「バトルロワイヤルもの」の流行など、形式・内容の両面でゲームの前提なしには成立しえない表現が1990〜2000年代のフィクションの潮流を牽引した。
     つまり批評家の東浩紀が『AIR』や『ひぐらしのなく頃に』など美少女ゲームの影響圏に限定した作品から論じた「ゲーム的リアリズム」や、宇野常寛が諸ジャンルのコンテンツについて社会反映論として展開した「ゼロ年代の想像力」は、より直接的にはまさにコンピュータゲームを通じて形成されていった広範な文化再編の一部として捉え直すことができるのである。
     
     
    ■「文学」から「ゲーム」への移行が意味するもの
     
     以上見たようなジャンルの再編をともなうゲーム発のフィクション変動の意義を、より本質論的な観点から位置づけるなら、それは近代という文明パラダイムの中でリアリズムを基軸とする指導理念の下に諸文化の中核として編成されてきた「文学」という装置の機能と地位が、事実上は「ゲーム」によって置き換えられつつあることを示している。
     どういうことか。そもそもリアリズムに基づく純文学とは、先近代の神話や戯作のように単純・荒唐無稽で恣意的・予定調和的に見える幼稚な物語を批判し、現実の複雑さを科学を範とする理性的省察によって描出しようとする精神性から生み出されたものであった。
     だが、近代社会が成熟していく過程で国民国家とセットになった理性的自我という観念の虚構性が明らかになるにつれ、しだいに文学は前衛としての役割を失っていく。現実の複雑性を描出しようとする物語批判の動機は、むしろ分裂症的な主体や言語的表層の難解な文体操作によって純文学を延命させようとする修正主義としてのポストモダニズムなどに転化していくが、正味の社会的なインパクトは喪失の一途にあったという他はない。
     
     そうした中で、コンピュータゲームの登場によって20世紀の終わりから人類史上空前の規模でゲームなるものが普及し、フィクションの世界と結合したことは、文学の存立基盤にとっても巨大な意味を持っていたと言える。なぜなら、ゲームと物語は、ともに人間が外界の情報から材を得て虚構的な領域を形成するという現実加工の営みである点は共通していながら、その構成法がまったく異なるものだからである。
     物語とは、基本的に人間が知覚経験を通じて得た情報ストックの中から個々人の主観的な認知バイアスによって取捨選択や圧縮を施し、事物の因果を暫定的に関係づけていく解釈作用によってシリアルに形成される、認知コストの低減のための記号化過程である。
     対してゲームの場合は、ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンによる最近のゲーム研究の標準書『ルールズ・オブ・プレイ』での概念整理に従うなら、窮極的には数学的に表現可能な「ルール」に基づくシステムを要件として備え、現実の時間と空間の中から「魔法円(マジックサークル)」などと称される「遊び」の領域を異化し、ルールの策定者にとっても予測不可能な経験を創発していく「可能性の空間」を生成する営みである。
     
     つまり、ゲームは本質的に非物語的な現実経験の産生エンジンとしてあり、従来の物語では描かれえなかった現実性が自ずと備わりやすい性格を有している。
     例えばアクションやシューティングにおいて、制作者の想定外のプレイングがゲームの醍醐味を引き出してきた例は数限りなくあるし、RPGなら通常の英雄物語では描かれないようなザコ敵とのランダム遭遇を避けられなかったり、物語の筋立てとはまったく無関係なパラメータ的事情や選択ミスによって死に至るような理不尽もままある。
     そうした物語的な収まりの良さを逸脱する体験性を様々なレベルで有するゆえにこそ、ゲームの伸長は純文学が志向する「物語の中での物語批判」というミッションを別のかたちで置き換え、各フィクションジャンルの想像力にインパクトをもたらす中心源たりえたのではないだろうか。
     
     
    ■「日常化されたSF」としてのゲームと伊藤計劃の作家性
     
     もうひとつ、純文学の中心性と並んで、ゲームによって成立基盤に侵食を受けてきたジャンルが存在する。同時代の支配的な先端技術が開きうる可能性を外挿し、それをフィクション上の世界律として組み直して作劇に活用する文芸手法、すなわちSFである。
     
     すでに述べたように、人々にコンピュータ技術がなしうる「夢」を可能性の段階から体感させる装置であったゲーム機の歴史にあっては、何か大きな技術的イノベーションがあるたびに「まるでSFのようだ」という感慨が決まり文句のように寄せられるというプロセスが繰り返されてきた。これは裏を返せば、SFが純然たるアイディアの力によってセンスオブワンダーを与えることの敷居がきわめて高くなったことを意味する。
     実際、80年代に発展して情報技術と身体の関係性の考察を押し進めたという点でコンピュータゲームとは双子のような関係にあるサイバーパンクを最後に、本質的なパラダイムの次元ではジャンルSFは同等以上の潮流を起こせていない。
     
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  • 中川大地 デジタルゲームの現在――「2016年ショック」以降の展開

    2018-12-26 07:00  
    540pt

    今朝のメルマガは、『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』(2016年)の著者で評論家/編集者の中川大地さんによる、2018年までの日本のゲームシーンの総括です。『Fate/Grand Order』が先導する「虚構回帰」や、任天堂の「Switch」の成功、インディーゲームの席巻、そして「eスポーツ」の急速な勃興など、ゲーム業界を揺るがした地殻変動を改めて振り返りながら、〈拡張現実の時代〉に続く新たなパラダイムの可能性を構想します。 ※本稿は「S-Fマガジン 2018年6月号 ゲームSF大特集」に掲載された同名原稿の再録です。
     拙著『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』では、一九四五年を起点に戦後史を十五年ごとにゆるやかに腑分けする社会文化史の時代区分に照らしながら、第二次大戦後の情報技術の発展とともに推移したデジタルゲームの史的展開を分析した。
    ▲『現代ゲーム全史』
     すなわち、ちょうど日本では昭和という元号のカバー期にほぼ一致する〈理想の時代(一九四五~一九五九年)〉〈夢の時代(一九六〇~一九七四年)〉〈虚構の時代(一九七五~一九八九年)〉の三セットと、ポスト冷戦という世界史的なメルクマールとも重なった平成前半の〈仮想現実の時代(一九九〇~二〇〇四年)〉、後半の〈拡張現実の時代(二〇〇五~二〇一九年)〉といった枠組みだ。  このうち、デジタルゲーム産業が本格的に成立していく〈虚構の時代〉以降の三時代は、それぞれをさらに五年間ずつの「確立期」「本格期」「変貌期」の三期に分けての章立てを行った(五年というのは、おおよそ家庭用ゲーム機の世代スパンにも該当するため、ゲーム史の枠組みを語りやすいためだ)。  その枠組みに照らせば、現在は二〇一五~二〇一九年の〈拡張現実の時代〉変貌期の最終盤ということになる。二〇一六年夏に刊行された拙著では、当時まさにブームの渦中にあった『ポケモンGO』や、「プレイステーションVR」の発売などで「VR元年」と呼ばれた事柄などを取りあげ、それまでコンセプト先行だったARやVRが、いよいよ市場での普及段階に入っていく期待までを取りあげていた。  以後の国内シーンに目を転ずれば、まさに東日本大震災を経由して「現実対虚構(ニッポン対ゴジラ)」を謳った特撮映画『シン・ゴジラ』を皮切りに、邦画として歴代二位の興行成績を記録した『君の名は。』、さらに『この世界の片隅に』の未曾有のロングラン化など、まさに戦後日本のフィクション・エンターテインメントの画期となるような社会現象的なヒットが相次ぐことになった。
     こうした周辺領域ふくめての状況が示しているのは、二〇〇〇年代初頭よりインターネットやモバイル端末が普及したことで、パッケージ流通のコンテンツが軒並み退潮し、ソーシャルメディア等を介したコミュニケーションや体験型の消費へと向かう、いわば「虚構から現実へ」に向かっていた二十一世紀的なトレンドが部分的に逆転し、ある意味での「虚構回帰」を起こしているというフェーズの変化だろう。 『ポケモンGO』が現実の風景の中にスマホを介して接触できるポケモンたちの姿を重畳させたように、『シン・ゴジラ』が震災後の日本のリアルな状況シミュレーションとしてゴジラを解き放ったように、二〇一六年を境に、現実の中に穿たれる虚構側のパワーバランスが相対的に強められている。  それが目下の情勢のように見える。
    『FGO』がもたらした「虚構回帰」
     局面別に見ていこう。  国産ゲームコンテンツがもたらした「虚構回帰」の直近の徴候として、おそらく最も商業的インパクトが大きかったのが、二〇一五年から運営されているスマートフォンゲーム『Fate/Grand Order』の展開だ。  TYPE-MOONによる人気伝奇シリーズ《Fate》の集大成とも言える本作は、『チェインクロニクル』(二〇一三年~)や『グランブルーファンタジー』(二〇一四年~)あたりで顕著になったシナリオ重視型のスマホRPGの潮流に乗り、複雑なキャラクタードラマの「連載媒体」としてガラケー時代からのソシャゲのフォーマットを転用したことで、一躍オタク業界における覇権コンテンツの一角に成長した。
     とりわけ本作の盛り上がりを演出したのが、おおむね現実とリンクしたリアルタイムの進行によって「人類史の修復」をテーマにした連作ストーリーを展開したことである。多くのプレイヤーの参加を要したレイドバトルなども含め、二〇一六年末までに第一部のラストシナリオをクリアしなければ劇中世界に二〇一七年が訪れないという「時間」の同期性を強調したイベント演出は、「空間」の同期性を追求した『ポケモンGO』と対になる〈拡張現実〉性だったとも言える。
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  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 モンスターが涙を流すとき——ゲームAIの哲学をめぐって(後編)

    2018-10-30 07:00  
    540pt

    身体論からのボトムアップで「人間」の構築を目論む西洋哲学的AIと、超越的な存在を仮構しようとする東洋哲学的AI。2つのアプローチが融合した先に、虚構のキャラクターが「涙を流す」ような情緒は宿るのか。ゲームAIが可能にする新しい想像力のあり方について語り合いました。(この対談は『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』刊行記念トークイベントとして、2018年6月28日にジュンク堂書店池袋本店で開催されました)(構成:大内孝子)※本記事の前編はこちら
    三宅陽一郎さんの連載「三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき」の記事一覧はこちら
    知能を形成する2つの流れをメタAIが補完
    中川 三宅さんの「人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇」のセミナーにも何回か参加しているんですが、何回目かのときに「東洋哲学は人間の主体の側だけではなくて、それをもう少しメタな視点から見返す視座がある」という話をされていたと思います。
    三宅 知能を探求すると、2つの流れがあるんですね。「実世界と一緒に同期して動こうとする流れ」と、もう1つは「周りの環境世界とは別に自分を恒常的に保とうとする内面の流れ」、世界とともにありたいという欲求とむしろ世界を超越したいという人間のもう1つの欲求、この2つがいつも流れているというようなところが知能の本質なのかなと思います。
    ▲知能の場の形成
    実際のゲームAIを作るときも、片方を作った後にもう一方のほうを作らないと、どんどん壊れていくんです。60分の1秒で回さなきゃいけないとか、いろいろな計算途中のスレッドがたまってきて、なんか汚い感じになってしまう。ですが、たとえば人工知能を眠らすように内面の流れだけを流すというようにクリーンアップして、自分の形を整えていくみたいなところがあります。 生物学的に言うと、この2つの流れはアポトーシスとホメオスタシスと言います。自分を変えてまで環境に適応しようとするアポトーシス的な流れ、自分をある一定の形に保とうとするホメオスタシス的な流れ、この2つの力が生物の中で拮抗しているんです。知能を探求していくと、実は生物的な細胞レベルの話になる。知能の中にそういう2つの力が宿っているわけです。
    中川 アポトーシスとホメオスタシスと生命科学用語が出てきたので、一応解説しますと、まずホメオスタシスというのは、自己同一性を保つための秩序形成の話です。たとえば、何かものを食べてそれが身体の成分に変換されて……という形で、人間の細胞は入れ替わってるけど構造は変わらない。いわゆる動的平衡を保つ仕組みがホメオスタシスです。一方、全体の秩序形成のために部分的に壊れることをアポトーシスといいます。たとえば、人間が胎児からだんだん赤ん坊に育っていくときに、受精卵の段階からだんだん人間らしく形成されていく。初期は指の間に水かきがあったりするんですが、途中でそういうのがなくなっていく。 トップダウン的にこうなるべきだというふうに一つの秩序を保っていくのがホメオスタシス、それに対して、部分的に壊していくのがアポトーシスという意味ですね。
    三宅 極論すると、物理世界からの流れは極めて西洋的(機能的)なもので、物理世界と時間的に同期しながらボトムアップに自分が築かれます。一方、自分を超越した何かがコアにあり、そこに向かって自分自身が保たれているという流れは極めて東洋的です。
    中川 三宅さんの本を読むかぎり、環世界からボトムアップ的に自意識みたいなものができていく動きというのは、東洋哲学を導入しなくてもある程度説明できるという印象でした。以前の『人工知能のための哲学塾』(西洋篇)でフィーチャーされていたのは、ユクスキュルが定義した環世界から現象学、メルロ=ポンティの身体論などに至る流れが、デカルト的な自意識の構成原理を補完的に説明していくということだったと思いますが、そのへんの捉え方はいかがですか?
    三宅 そうですね。この図でいうと、どちらかというと、身体から出発しているほうが西洋篇で説明したこと、上のほうは東洋的、東洋哲学篇で語っていることです。超越的な何かから出発するというのは、あまり西洋では許されない思考だったりします。自分の存在の起源みたいなものが自分の中にあるみたいな神秘主義的なところなんですが、結局、自分自身を作り出しているものは身体からできるというのと、そんなこともないだろうという話もあって、僕はそこを補完するような理論を探求してきました。 もう1つ東洋哲学篇から図を引用します。井筒俊彦先生の回で書いたものですが、この構造は東洋思想には共通してあって、単にイスラムの神秘主義だけではなくて、実は、いろいろなところに出てきます。
    ▲上昇過程・下降過程
    イスラム哲学では「上昇過程」「下降過程」、仏教では「向上」「向下」、「向上門」「却来門」と言ったり、いろいろな呼び方がされています。そして、この一番上、いろいろな呼び方があるんですが、バルトは「存在の零度」、老子は「道」、イスラムでは「絶対的一者」、華厳教では「空」というように、同じことをいろいろな人が東洋的な存在の起源みたいな不思議な言葉で示しています。 これは西洋の人工知能には絶対に出てきません。これを人工知能に取り入れようとすると、先ほど言ったような、人工知能の存在の起源みたいなものを人工知能の中に組み込まなければいけない。昔の僕が使っていたモデルはどちらかというと「こちらから入ってきて、インフォメーションフローをぐるぐる回して終わり」というような単純なものだったんですが、この東洋思想を入れると、下からの環境世界からの流れ、上からの一なる全からの流れが交差するということになります。やはり、存在の起源というのがないといけないので。自分自身を修復している流れ、超時間的な流れが2つ存在する、そういうことです。
    ▲エージェントアーキテクチャの2つのフロー