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記事 4件
  • 【新連載】上妻世海 作ること、生きること — 分断していく世界の中で 第1回 創造性についての覚書 — イメージ思考と抽象的思考

    2019-07-02 07:00  
    540pt
    ※7/2配信の下記記事に誤りがありましたため、修正して再配信いたします。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。


    昨年秋、初の論考集『制作へ』で読書界に鮮烈なインパクトを与えた気鋭の文筆家/キュレーターの上妻世海さんによる、待望の新連載がはじまります。現代美術や人類学・哲学における最先端の思索と実践を下敷きに、制作という営みの根源に迫った前著の刊行から9ヵ月。「書くこと」への徹底的な自己内省と、現代における最も外部化されたメタ認知たる脳神経科学との烈しい交錯が、さらなる探求の扉をこじ開けます。

    上妻さんの過去記事はこちら 【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ( 前編| 中編 | 後編)
    われわれにとって唯一なわれわれの世界とは、そこに万物が存在しかつ万物の変化し流転しつつあるこの空間即時間的な世界である。生物は死んだ瞬間からその身体が解体をはじめるであろう。生物がもし生きたものとしてこの世界に存在しようとするならば、この解体に抗してその身体を維持し、その身体を維持するためにはその身体を絶えず建設して行かねばならぬ。そこに生物とはみずから作るものであり、生長するものであるといわれるとともに、それがまた生きているということにもなるのである。
    -- 今西錦司『生物の世界』
    「制作」の始原としての「書くこと」をめぐって
     これから本連載にて、僕は様々なテーマについて書いていくことになる。 僕はその時々に惹きつけられたことについて書く。身体の内側から書きたいと思うだけでなく、外側から誘惑されることよって書かされる。僕は思考を、内部にではなく、外部に記す。 持って生まれた脳神経系という内部記憶装置にだけでなく、紀元前3000年頃に発明された「書き言葉」を用いて、外部記憶装置(紙やハードディスク)に安定させる。
     なぜだろう。そもそも、なぜ、僕は書きたいのか。 それは、一方で、思考が流れであり、他方で、僕の集中力と記憶力が脆弱だからだ。もちろん、その脆弱性は柔軟性と言い換えることもできて、そのおかげで、例えば、後ろからからイノシシが突進してきても、無意識が音を通じて反応し、僕は差し迫る危険にいち早く意識を向ける/向かわされることができるし、記憶はテキストファイルとしてフォルダに保存されるのではなく、常に脳内で様々な可能性へと組み替えられる。記憶のあり方は固定的なものではなく、常にぐにゃくにゃと形を変えながら、可能性を模索する実験室である。
     例えば僕が友人と同じ経験をしたとしても、二人が全く異なる記憶を持っていることがある。両者の記憶の差異はその体験を共有する時、つまりお喋りを通じて明らかになる。僕が「あの時、すごく面白かったよな」と言っても、「え、そんなことあったっけ」なんて返答があることはザラである。 これは記録と記憶の差異であり、文化としての記録と脳神経系としての記憶の違いとも言える。前者が相対的に安定しているとすれば(例えば、文字は紀元前388-389年に書かれたプラトンの著作を読むことを可能にしている)、後者は相対的に不安定である。そして、思考はこの不安定な記憶を基盤としていて、ある意味、それによって創造の余白があるとも言えるのだ。思考は、意識が設定したテーマを超え出て連想される。
     まさに今、僕が書いていることは、当初打ち合わせしたこととは完全に異なることである。人類における「制作」の始原性について書き始めていると、「なぜ書くのか」という問いが僕を捕らえ始めた。そうすると、次に僕はイメージと抽象的思考について考えさせられていて、昔読んだ本の内容が思い出され、会うたびにエピソードを少しずつ変える知り合いのことが思い返された。 僕の注意はテーマを超え、書くことすらも通り過ぎる。その虚言癖のある知り合いのイメージが、昨日食べた焼き魚を、焼き魚が学生時代の友人との楽しかった記憶を想起させ、それがなぜか先月見た映画のワンシーンを顕にする。僕は、意識のどこかではこのエッセイについて考えなければならないと思っているのに、映画のワンシーンが次に連鎖したオムライスのイメージによって、僕は身体的に食欲を刺激される。
    イメージ、この傍若無人なるもの
     僕がイメージという言葉を用いるとき、それは深層心理学で用いられている定義、つまり、情動を伴った「私」への現れのことを指している(*1)。イメージは「私」への現れであり、だからこそ表現を通じて共有されなければ、その齟齬も確認しえない。 もちろん、ここで言う表現には、先ほどのようにエピソードを話し合うという方法もあれば、小説や絵画、映画のような手段も存在する。芸術作品の多くは「私」への現れの複雑さを、多様さを、芳醇さを僕たちに教えてくれる。それを単に齟齬などと呼ぶのはおこがましいほどである。 しかし、もしかしたら、このイメージの定義はイメージを画像や網膜像として考える一般的な定義とは異なるかもしれない。心理学者の河合俊雄も、僕たちがイメージについて考える際には、どの定義で用いられているか考えるよう促している。彼が言うには、実験心理学はイメージを「『外界の模像』または『知覚対象のない場合に生じる視覚像』のようなものとして考え、あくまで外的現実との関連において考えようとする」(*2)。 要するに、そこでは、イメージは単なる視覚的像として考えられており、外側に正しさ、基準があり、あくまで内側のイメージはそれとの関連で正しい/間違っていると判断されるということだ。もちろん、その定義は私と対象を分ける客観性を軸に添えており、そういう意味で再現性のある科学、少なくとも知覚心理学のいくつかの発見に寄与したに違いない。
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  • 【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ(後編)

    2019-01-15 07:00  
    540pt

    今朝のメルマガは、文筆家/キュレーターの上妻世海さんと宇野常寛の対談の後編をお届けします。後編は来場者との質疑応答です。対話によって生成される場からは何を持ち帰りうるのか。スケールと距離感から考える新しい都市論の構想。従来的な教養主義がもたらす二項対立を乗り越える〈実践〉のあり方について議論しました。(構成:菊池俊輔)※本記事は2018年10月27日に青山ブックセンター本店で行われたトークイベントを記事化したものです。 ※本記事の前編はこちら、中編はこちら
    ☆お知らせ☆ ただいま青山ブックセンター本店さんにて、宇野常寛責任編集『PLANETS vol.10』特集を展開していただいています! 特典として「遅いインターネット」計画に関する宇野のロングインタビュー冊子がついてきます。いま冊子が読めるのはこちらの店舗さんだけ。ぜひお立ち寄りください!


    主客二元論から対話的な共生関係へ
    宇野 質問があれば何でもどうぞ。
    質問者1 先ほど、言語と身体の繋がりや速度についてお話されていましたが、たとえば私は今、初めてお二人に向けて喋っているので、私の話す速さについても初めて体験されていると思います。そのときに、この人は何を考えているんだろうとか、他人の走る速度とか喋る速度とか、そいういうことを立ち止まって考える時間や、あるいは俯瞰的視点についてはどのように考えているのか、お聞きしてもいいでしょうか。
    上妻 今日は社会的な事象を中心に話しました。僕は社会についてだけでなく、美術やテクノロジーについて話すときも、能動的・受動的という二項対立は使わないようにしています。人が能動的になにかを行うということも、受動的に動かされているんだということも、共に幻想だと思っています。例えば、人間は遺伝子を乗せた乗り物にすぎないという話や、それに対する反論として自由意志というものがあるんだといった議論です。僕が提案したいのは、能動/受動といった二項対立的な議論ではなく、「対話的」であることです。一方的にリズムを押し付けるのでもなく、相手に完全に同期するのでもなく、対話する中でお互いのリズムがその度ごとに立ち上がってくる。今、質問してくださっていますが、質問という形式だと、どういうリズムや速度で話すべきなのか、共有できていない部分が大きいと思います。そこには構造的問題が横たわっています。 お分かりのように、今、質問する人/応答する人という二項対立が存在しています。しかしながら、これは対談とその後の質疑というシステム上仕方ないですが、非常に特殊な状況ですね。実際、もしあなたと僕が、制作環境の只中で対話していく場合、毎日、1〜2時間話す、3日後にまた同じくらい話すといった対話を繰り返していくと思います。そうすれば、あなたも僕のことがわかるし、その逆も然りです。そして、その中でお互いに変化していくと思うんですね。影響を受けたり与えたり、その中で対話のリズムが生まれていきます。俯瞰的視点に関しては、まさにそういった対話のリズムの中でズレが生じたり、うまくいかないことが生じた時に、反省する中で発生するものです。ハイデガーは人がモノそのものについて考えるのは、そのモノが持つ機能が壊れた時だと言います。 例えば、コンピュータで原稿を書くことに集中している時、「何故、キーボードを打ったら文字がディスプレイに表示されるんだろう」などと考えたりはしません。しかし、キーボードを打っても、うんともすんとも反応しなくなった時、「どこが悪くなったんだ、どうすれば動くようになるんだ、そもそもどうしてディスプレイに文字が表示されるんだ」と思考が始まります。対話も同様に、上手くいっている時は反省はしません。しかし、なにか違和感を感じた時、「あの時は意見を押し付けてしまっていたな」とか「相手の表情をしっかりみれていなかったなあ」などと対話を抽象的に仮説的な第三の目で振り返る。それが次の対話での準備になります。そういった関係性を整えることが、ある種の制作的環境を整えるということでもあります。 つまり、この質問でのやりとりのような、突発的に発生した対話で「あなたのリズムが分かります」みたいな超能力のようなことは一切ない。共に継続的に生きていく、共に制作していく、その中に加わり、そこにいるメンバーと対話的に会話し、各々のリズムと同期し、同期しながらも変化し、コンテンツや作品を作っていくというのが、僕のやり方です。それは短時間ではわからない。質問してくださった方も、今は質問するリズムになっちゃってるじゃないですか。それと同様に、宇野さんも今はトークモードになっていて、プライベートではこんな早口な人じゃないと思いますよ。
    宇野 僕はプライベートでも早口ですよ(笑)。
    質問者1 先ほどタイムラインや発信についてのお話をされていましたが、思考は理解はできてもリアクションができるかとか、こういった共有の場で参加できるのか、そういった感性を持ち合わせているのか。社会的な背景やこれまでの教育とか含めて、やり方を知っている人と知らない人がいると思うんです。そのあたりは自己責任になるしかないのかなと……。
    上妻 僕だって最初から今日のように話せたわけではなくて、100回くらいトークイベントをやった上で、今ここに来ている。だから、沢山の人の前で自信をもって話せるわけです。今日初めてここに来た人に「僕たちが早口で喋ったことを処理できないのは自己責任だ」なんて言うつもりはもちろんありません。人間は、様々な経験や、書籍を読むことを含めていろんな人と話すことで段階的に変化していくものです。 実は僕は元々すごく恥ずかしがり屋で、初めて人前で話すことになったとき、緊張しすぎて、iPodでいかついヒップホップとか聞きながら「俺はできる、俺はできる」って自己暗示かけてました(笑)。なんだって最初からできるわけではなくて、プロセスを経れば、いつかはできるようになると思いますよ。
    宇野 それって今日のランニングの議論に近いと思う。ここで二人の議論を整理しながら理解し、言い間違いも修正した上で頭の中に叩き込むのは不可能だと思うし、する必要もないと思うんだよね。ここでのトークを一字一句、漏らさずに聞いてメモを取って、そうやって身につけたロジックをTwitterに投稿してドヤ顔しているような人と、ここで得たキーワードやフレーズや思考法を自分のテーマとして持ち帰って、自分の現場で実践している人と、どちらが消費的でどちらが制作的かといえば、答えは明らかだよね。 要するに並走する訓練ができているか否か。コピペじゃなくてね。読解の自由というのは、そういった人間にしか発生しないと思ってる。僕が走ることが好きなのは、歩いたり乗り物に乗ったときの世界に対する速度は一定なのに対して、走っている時が一番スピードをコントロールできるんですよ。それと同じことかなと思っています。
    上妻 いかに実践に繋げるか、身体が動くかについては、今日話を聞いたから、すぐにできるようになるといった話ではないですよね。別の人のトークイベントに行ったり、登山したり、旅行に行ったり、そういう時に繋がったりするんですよ。「そういえばあのとき上妻が何か言ってたな」みたいな。
    宇野 「あのとき言ってたことって、もしかしたらこういうことじゃない!?」ってなったら、世界の見え方がちょっと変わりますよね。それで十分かな。
    上妻 今日、話を聞いたことで即時的に変わるというよりは、これからいろんな体験をしていく中で、記憶の深くにあったものが急にリンクして、ガーッといろんな繋がりが発生したときに「あ、わかった!」みたいなことが起きて、それによって身体がちょっと動く、みたいな形だと思います。
    宇野 これまでは「放っておくと変わらない人間をいかにして変えるか」「そのためにもっと他者と触れ合おうぜ」といった議論をしていたんだけど、その前提も変化していて、現在は情報環境の発達によって、人間は放っておいても他者に侵入されて変わってしまう。そんな自分に対してどう向き合うかという方向に、ゲームのあり方自体が変化している、という話を今日はしていたんですよ。人によって理解度や関心があるポイントは違うかもしれないけれど、「変わってしまう自分」に対して、どう向き合うかという方向に思考をチェンジしたほうが、持ち帰れるものは大きいと思いますよ。
    〈国家〉でも〈家族〉でもない〈都市〉の可能性
    質問者2 P10の解説集に、次号のP11は都市がテーマになるかもしれない、と書かれていて、すごくいいなと思いました。宇野さんはどういう直感や論理から、そのテーマを選ばれたんでしょうか?
    ▲『PLANETS vol.10』
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  • 【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ(中編)

    2019-01-09 07:00  
    540pt

    今朝のメルマガは、文筆家/キュレーターの上妻世海さんと宇野常寛の対談の中編をお届けします。否応なしにネットワークに接続されタイムライン化する世界認識の中で、〈身体〉に基づいたノード的な存在として自立するためにはどうあるべきか。〈制作〉と〈ランニング〉から、模倣論・メディア論へと議論は広がっていきます。(構成:菊池俊輔)※本記事は2018年10月27日に青山ブックセンター本店で行われたトークイベントを記事化したものです。 ※本記事の前編はこちら
    ☆お知らせ☆ ただいま青山ブックセンター本店さんにて、宇野常寛責任編集『PLANETS vol.10』特集を展開していただいています! 特典として「遅いインターネット」計画に関する宇野のロングインタビュー冊子がついてきます。いま冊子が読めるのはこちらの店舗さんだけ。ぜひお立ち寄りください!

    ▲対談直前の上妻世海さんと宇野常寛

    ネットワークに流されない〈身体〉の構築
    上妻 『PLANETS Vol.10』(以下P10)で面白かったのが、後半にいろんな人のインタビューが載っていて、必ずしもメディアで注目されているわけではないけれど、宇野さんが面白いと思う人たちが集められている。こういう人たちがどんどん出てくる世の中になるといいと思っているんです。必ずしも大衆受けしなくとも、「制作」はそれ自体意義のあるものですし、もしかしたら、いつか、どこかで、結果的に社会的にも重要な価値を持つかもしれません。そういう人に早い段階で焦点を当てるような機能、あるいは勇気付けるような機能が雑誌には求められますし、とはいえ、かなりそういう質を持った雑誌は少なくなってきているようにも思えますが、P10ではそれに成功していたと思っています。 先ほどまでは「身体制作」≒「制作」であるという図式を提示していたのですが、一度その段階を経てしまうと、次に制作者は、隠喩としての「走ること」を通じて「身体制作」を行うこととその外在化として作品化することのギャップにも向き合わなければなりません。そのレベルになって、ある意味、生活を整える目的でのランニングという側面が際立ってくる。P10では第一段階である「身体制作」≒「制作」の段階から第二段階であるその分離までを幅広く扱っていると感じました。分離とはいえ、もちろんそれは切り離せないものではあるのですがそのコントロールが重要になってくる。P10での例で言えば、「身体制作」はロボットを作ってる女の子にとって、継続的可能な制作のための、ある種の準備運動になってくる。
    ▲『PLANETS vol.10』
    宇野 準備運動というか環境整備みたいなものだと思うんだよね。彼ら彼女らにどんな気持ちでインタビューしたかというと、僕を中心とするPLANETSのコミュニティに接続することで、上妻さん的な意味での制作環境を整えて欲しいと思った。それは単に、批評家としての僕に刺激を受けて制作が捗るとかではなくて、P10に参加して知識を共有することで、ランニングによって世界の見え方が変わるように、閉じながら同時に開いているような環境に身体を置いてくれるといいなと思ってやっていたんだよ。 それはインターネット第一世代への僕なりのアンサーになっているんですよね。彼らはリアルとバーチャルを対立項として捉えていて、だからこそリアルにバーチャルが侵入することに快感を覚えていたし、秋葉原の巨大ビジョンで踊る初音ミクに未来を見たわけだよね。もちろん僕もボカロカルチャーにリスペクトはあるけど、ただ、そこに関して限界を感じていたことも確かなんだよね。 実際に、あれから10年経って起きたのは、もうすこし複雑で面白い、そしてタチの悪い現象で我々の日常の中に、かつてバーチャルと呼ばれていたものが侵入して、そのことによって我々のリアルな空間が多重化している。我々の身体はすでに情報化されきっている。そして以前は虚構的な空間にあったものが、カジュアルに持ち歩ける日常の一部になり、そのことで批判力を失っているんだよね。それって押井守が『イノセンス』で突き当たった行き詰まりと全く同じなんだよ。 サブカルチャーの世界でいうと、アニメからアイドルへと中心点が移る地殻変動がまさにそれだった。その結果、みんなが文化的に豊かになったかというと、半分はそうだけどもう半分はそんなことはない。我々がタイムラインを延々と見続けているときのように、一見、多層的で多様ではあるけれど、どこにも切れ目のない、のっぺりとした世界が広がるようになってしまった。 それに対して、物書きやハイカルチャーの担い手の多くは、ネットワークから切り離されて再び孤独に戻れという。しかし、繰り返しになりますが、これはアナクロニズムへの回帰に過ぎない。 僕が、上妻用語でいう「制作」、宇野的にいうと「走るひと」の立場に立つのは、かつて虚構と呼ばれていたものが批判力を持たなくなったこの世界に対して、いかにして多様性や拡張性を回復するかを考えているからなんだよね。
    ▲この人と始める〈これから〉のはなし
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  • 【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ(前編)

    2019-01-08 07:00  
    540pt

    今朝のメルマガは、文筆家/キュレーターの上妻世海さんと宇野常寛の対談の前編をお届けします。上妻さんの提唱する「制作」と、「遅いインターネット」に通底する主題を踏まえながら、「開かれた運動体」を実現する方法についてや、押井守やランニングを通した「身体」を巡る議論が展開されます。(構成:菊池俊輔)※本記事は2018年10月27日に青山ブックセンター本店で行われたトークイベントを記事化したものです。
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    ▲イベント当日の青山ブックセンター本店さんの様子。『PLANETS vol.10』と『制作へ』が一緒に!
    『制作へ』と『遅いインターネット』の共通性
    上妻 10月16日に『制作へ』という本を上梓しました。上妻世海です。専門としては、現代美術、あと文筆業をしています。よろしくお願いします。
    ▲『制作へ 上妻世海初期論考集』
    宇野 よろしくお願いします。
    上妻 まず、『PLANETS Vol.10』(以下P10)の感想から始めようかな。
    ▲PLANETS vol.10
    宇野 何でも聞いてください!
    上妻 まず驚いたのは、僕の関心領域と非常に近かったことです。僕としては、宇野さんとは違う山を登ってると思っていたんだけど、重なっている部分がとても多かった。とりわけ『制作へ』では「消費から制作へ」と言っていますからね。「遅いインターネット宣言」には非常に共感しました。 最初の猪子寿之さんとの対談は、境界と身体がテーマでしたよね。対談の中に「身体で世界を捉え、そして立体的に考える」という発言が出てきますが、これは僕が『制作へ』で提示したビジョンと非常に近くて驚きました。 僕は2013年頃から、今後は「誘惑モデル」あるいは「魅惑モデル」しかありえないということを言っていたんです。説明と説得による合意に基づいた意思決定は、民主主義における重要な手続きですよね。しかし、文化は議会ではないので、好きなコンテンツやその惹かれた部分を「模倣」することが、制作の最初のきっかけになる。「説明モデル」や「説得モデル」ではなく「魅惑」や「誘惑」するようなやり方じゃないと、文化的な共感や交感の関係は築けないということを、僕はずっと言っていたんです。それでP10を読んだら、「遅いインターネット」をどう進めるかの議論で、宇野さんは「誘惑モデルしかない」と。言葉まで一致していて驚きました。 あと「走るひと」の特集は、単なるコラボレーションと勘違いされそうですが、押井守さんのインタビューの身体論とブリッジになっていて、「遅いインターネット」を考える上でも、かなり重要な特集だと思います。そして、巻末の「遅いインターネット」の「実践編」としての鼎談。落合君の……。
    宇野 「マタギドライヴ」ね(笑)。
    ▲デジタルネイチャーからマタギドライヴへーー世を捨てよ、クマを狩ろう
    上妻 以前、落合さんのサロン向けの配信で、レーン・ウィラースレフという人類学者の著書『ソウル・ハンターズ』で論じられているユカギール人の狩猟の話をしたことがあって。狩猟民と落合さんの生き方には共通点があると論じたことがあったんです。そしたらP10の落合さんのインタビューに「マタギドライヴ」という言葉が出てきて(笑)。自分の文脈に引きつけて読みすぎかもしれませんが、非常に共感しました。 ここまで、P10で僕が重要だと思った点を挙げたのですが、ここからはそれを踏まえて質問に移りたいと思います。現在、社会システムのクロック数や消費の速度がますます速くなっている中でつまらないリプライや反論が日本社会全体を覆い尽くしている状況に、宇野さん自身がうんざりされていて、それに対する提案として「遅いインターネット」がある。そこでひとつだけひっかかったのは、ここで想定されているのは、いわゆる一般の「公」の人たちですが、今の社会はもうすこしセグメント化されているというか。宇野さんはテレビに出られているので、そういう層からの反応が異常に多くて、クソリプだらけの言説空間になっているという意見になってしまうのかもしれませんが、たとえば今日、会場に来てくださっている方や僕の読者は、まあ僕のフォロワー自体が少ないのもあると思いますが、あんまり変なリプライしはないし、変な人が目につくことも今のところ少ないんですよね。 だから、そういう反論をしたり、ヘイトスピーチ的なツイートをしている人たちを「公」と呼んでいいのか。それはかなり偏った人たちなのではないか、と思うんですが、どうでしょう?
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