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  • 吉本隆明のDNAをどう受け継ぐか ――ハイ・イメージ論2.0へのメモ書き ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.111 ☆

    2014-07-10 07:00  
    220pt

    「吉本隆明のDNAをどう受け継ぐか
    ――ハイ・イメージ論2.0へのメモ書き」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.10 vol.111
    http://wakusei2nd.com

    (初出:「ダ・ヴィンチ」2014年7月号)
    本日のほぼ惑は、「ダ・ヴィンチ」での宇野常寛による批評連載のお蔵出しです。
    宇野常寛が読み解く、「進歩的知識人」批判にとどまらない吉本思想のポテンシャルとは。
    そして『ハイ・イメージ論』で示されたインターネット以降の世界への接続可能性とはどのようなものなのでしょうか――。

    ▲[第一回配本]吉本隆明全集 第6巻(晶文社)
     
     去る5月1日、新宿の紀伊國屋ホールにて「吉本隆明のDNAをどう受け継ぐか」と題されたシンポジウムに登壇してきた。これは晶文社から出版されている吉本隆明全集の刊行開始記念イベントで、ほかの登壇者は中沢新一、内田樹、茂木健一郎の各氏で、冒頭にはよしもとばななさんのスピーチもあった。いずれも、1978年生まれの僕にとっては学生時代より愛読している「歴史上の人物」で、まあ、正直言ってビビッていたのだがここで借りてきた猫のようになってしまってはせっかく僕を指名してくれた晶文社と紀伊國屋書店に申し訳ないと思い、なんとか議論の舵取りを務めてきた。そう、僕の役目は議論の舵取り、つまり司会だった。
     シンポジウムはそれなりにつつがなく、そしてそれなりに白熱したものになったと思うのだが、今回僕は司会という役割上、吉本の代表作を読み返すことになった。もちろん、吉本の膨大な仕事量を考えれば、それはほんのかじっただけとしか言えないかもしれない。しかし今、このタイミングで吉本隆明を読み返したことは、僕にとって非常に大きな収穫をもたらすものだったと思う。そこで、今回は同シンポジウムから僕が得たもの、考えたものを21世紀の吉本隆明論への序章として、いや序章未満の構想メモとして記しておきたいと思う。
    最初に断っておくが、僕はまず新左翼のイデオローグとしての吉本隆明という側面は忘れてもよいと考えている。吉本の前衛党批判や知識人批判が当時果たした役割や、その意味付けは批判的なものも含めて出尽くしているように思う。たしかに一部の戦後的「進歩知識人」にはいまだに当時吉本隆明が丸山真男を批判した内容がそのまま当てはまるのだろうし、彼らの影響力も残念ながら少なくない。たとえば改憲をめぐる議論ひとつ考えても、正統な戦後的進歩知識人であればあるほど、「そもそも自民党の改憲案は、憲法というものの性質を理解していない」とその完成度をあげつらうことが多い。もちろん、僕はこうした指摘が不要だと考えているのではない。むしろその批判自体には全面的に賛同しているとすら言ってもよい。しかし、彼らはこうして論敵の不明を嘲笑うだけで、自民党の改憲草案指示の背景にある国民の感情について無関心だ。中国の外交戦略や北朝鮮情勢の不安定さを前に、国家に軍事力が必要であるという常識を少なくとも建前上は否定している現行の憲法下でそれに対応できるのか、といった不安に応えようとしない。
     必要なのは「自分たちはあいつらよりも博識である」という自慢ではなく、現状の憲法があるからこそ国民の安全と国際社会における平和勢力としての活動が可能であるというアピールとそのための具体的なプランの提出ではないか。しかし、「戦後的進歩知識人」の残存勢力の関心は今も昔もナルシシズムの記述にしかない。その意味では吉本隆明のジャーナリスティックな仕事の数々はいまだにその役割を失っていない。しかし、私見では既にこの問題は、形骸化したマスメディアの言論空間をどう変革するか、あるいは既存の空間の外側にいかに有効な言論空間をつくりあげるかという実践レベルの問題に移行しているように思える。
     しかしここでもっとも重要なのは当時吉本が前提としていた知識人と大衆という問題設定自体が、少なくとも現在においては無効化されていることだろう。たとえば先の震災が明らかにしたのは、ある特定の分野の専門家、それも国際的な第一人者のレベルの研究者が別の分野については陰謀論じみた風評を信じてしまう、といった現実である。
     そう、僕は吉本隆明を21世紀の今、読みかえす価値はジャーナリスティックな機能ではなく、その理論的なポテンシャルにあると考えている。たとえば吉本の好んで使用した言葉に「大衆の原像」というものがある。この言葉は今ではせいぜい「インテリたちは市民のことを理解していない」という前述したような知識人批判のタームであると矮小化されている。しかしこの言葉は吉本思想の中核にあった。
     吉本が活躍した時代は戦後日本が高度成長からオイルショックを経て高消費社会に舵を切っていく時代だった。吉本がこのとき見つめていたのは、激変する時代の中にあっても決して変化することのない大衆の、いや、人間の本質だったのではないか。そして消費社会化は、これまで決して可視化されることのなかったそんな大衆の本質を可視化させていった。それが私見では『共同幻想論』から『ハイ・イメージ論』へ至る流れで吉本が背景にしていた変化である。言い換えれば、当時の消費社会化の流れの中で、自己幻想と対幻想の世界だけで完結して生きている人々が発生していた。それが「大衆」たっだ。いや、正確には大衆とは、いや人間とは、根本的に自己幻想と対幻想があれば生きていける存在であり、消費社会はその本質を露呈させたに過ぎない。
     だからこそ吉本は天皇制だろうが、戦後民主主義だろうが同じ次元で批判することができたのだし、前衛党抜きでの社会変革を信じることができた。そして、ここからが古い吉本読者とは一線を画すところかもしれないが、吉本のこうした可能性の中心は資本主義の内部にあったはずだ。
     これは共同幻想論からハイ・イメージ論に続く一貫した問題意識である。西洋的な社会契約とは異なるかたちで、つまり個人が個人のまま社会を形成する可能性をどう考えるか。その可能性は既に高度資本主義下の大衆の原像に現れていたというのが吉本なのだ。言い換えると、吉本隆明は理性ではなく欲望で生きる生物としての人間を考えていた。西洋近代的な市民化を経なくても、社会を維持できるという確信があった。(里山資本主義のような「いい話」による社会批判とはもっとも遠いところにいる人だと思う。)
     では「共同幻想がなくても、自己幻想と対幻想があればやっていける」とはどういうことか。今風に言えば、個人がメディア化することで前衛党や地域社会に関わらなくても、直接マーケットや法システムに対峙してやっていけるということだ。たとえば戦後民主主義の論理は個人が「徹底して個人的であること」を追求すると逆説的に個人的であることを保証してくれる国家を必要とする=「公共性を帯びる」というものだ。しかし、徹底して個人的であることを是とする吉本隆明はこの戦後日本における市民主義の論理を信じていなかった。共同幻想が機能しなくても、公共性を維持できる社会を考えていた。戦後民主主義は最後に九条が象徴する共同幻想を召喚する。そこが弱点だと指摘したのが吉本隆明だったのだ。そして戦後民主主義という「物語」が破綻し、「普通の国」に良くも悪くも性急に近づきつつある今、僕は吉本隆明を読み直すことで、リベラルな個人主義を再興できないかと考えている。そう、僕の考えでは今、左翼は共同体主義者になりすぎている。保守には戦後的な共同体主義者と脱戦後的な個人主義者とが両方いる。しかし現代の左翼には個人主義者はほとんどいない。 
  • 『静かなる革命へのブループリント』発売記念インタビュー「宇野常寛が考える"社会と個人"を繋ぐ新しい回路とは」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.100 ☆

    2014-06-25 07:00  

    『静かなる革命へのブループリント』発売記念インタビュー「宇野常寛が考える"社会と個人"を繋ぐ新しい回路とは」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.6.25 vol.100
    http://wakusei2nd.com

    本日より全国の書店、Amazonにて発売開始となる、宇野常寛の新刊『静かなる革命へのブループリント――この国の未来をつくる7つの対話』。今回の「ほぼ惑」では、この対談集に込めた意図と、そして宇野常寛がいまこの社会に対して抱く問題意識について、1万字にわたるインタビューをお届けします。

    ◎聞き手/構成:稲葉ほたて
     

    ▲宇野常寛・編著『静かなる革命へのブループリント――この国の未来をつくる7つの対話』河出書房新社

     
     
    ■ P8はそれまでのPLANETSの倍以上も売れた
     
    ――このメルマガの読者にはお馴染みの話だとは思うのですが、この本を読んだ読者には「あれ、
  • 「電通常勝」と彼女は言った ――『指原の乱』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.092 ☆

    2014-06-13 07:00  
    220pt

    「電通常勝」と彼女は言った
    ――『指原の乱』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.6.13 vol.092
    http://wakusei2nd.com

    初出:「ダ・ヴィンチ」2014年6月号
    今朝の「ほぼ惑」は、ダ・ヴィンチの6月号に掲載された
    宇野による『指原の乱』への評論です。
    福田雄一と、そして指原莉乃が、日本のメディアを覆う
    「テレビ的なもの」に対して行った介入とは――?
    ▲『指原の乱』vol.1 DVD(2枚組)
     
     先日、天気が良かったので気分転換に散歩に出かけた。自宅のある高田馬場からまっすぐ南下して、新宿東口にさしかかったところで平日の昼間とは思えない人ごみに遭遇した。いったい何事かと僕は不審に思ったのだが、「32年間ありがとう」という横断幕を目にしてすべてに合点がいった。その日、31日は国民的お昼のバラエティ番組『笑っていいとも!』の最終回の日であり、そのとき東口のアルタ前はこれからはじまる最後の生放送の現場にかけつけたファンでごった返していたのだ。僕は、その瞬間まで『いいとも』が最終回を迎えることを完全に忘れていたのだ。
     そして、僕は、Twitterにアップロードする写真を撮り終えると満足して、その場をあっさりと離れて行った。僕は東口のヨドバシカメラで最近ハマっているドイツの動物フィギュア(シュライヒ)を買うつもりで、ゆっくり選んで打ち合わせの時間までに高田馬場に戻るにはここで無駄な時間を過ごすわけにはいかなかった。
     僕は32年間この『笑っていいとも!』という番組を一度も面白いと感じたことがなかった。他に好きなものがたくさんあったせいか、子どもの頃から相対的に芸能界に関心が薄く、『いいとも』のあの、お互いのキャラクターをいじりあう空間を少しも楽しむことができなかった。僕にとってそれはまるで隣のクラスの内輪ネタを延々と見せられているようで、酷く退屈な代物だった。どうしても「この人たちはどうして自分たちのローカルな人間関係が社会そのものであるかのように振る舞えるのだろうか」と疑問に思ってしまう。
     もちろん、今でこそ僕も僕なりにこの番組の持つユニークさとその洗練を理解してはいるつもりだ。教科書的な解説を加えれば、国内において消費社会の進行と同時に、「大きな物語」の失効が顕在化していった80年代はテレビや雑誌といった(当時の文化空間を牽引した)メディアが、ベタに物語を語ることではなくメタ的なアプローチによってメジャーシーンを形成していった時代だった。具体的には『おしん』的な高度成長期のイデオロギーの通用しない都市部のアーリーアダプターたちに対し、メディアの担い手たちは物語のレベルでは「相対主義という名の絶対主義」をもって(80年代的相対主義、面白主義を東京のギョーカイの掲げる絶対的な価値として)振りかざし、そして形式的にはそんな「東京のギョーカイ」が「楽屋を半分見せる」ことで送り手と受け手、ブラウン管の中と外の境界線を曖昧にすることでリアリティを担保していった。糸井重里が本来添え物に過ぎない雑誌の投稿欄を主戦場に変え、秋元康が番組内でそこに出演するアイドルのオーディションの経過を公開していった。そうすることで、本来東京のギョーカイに縁のない僕らも、そことつながっているように感じられたし、そして東京のギョーカイへの憧れも肥大していったのだ。それがこの時期に隆盛した「テレビ的なもの」の本質だ。
     こうした手法は「客いじり」と「楽屋落ち」を基本にその笑いを組み立てていった萩本欽一と、彼の手がけた70年代のバラエティに起源を持つという(大見崇晴『「テレビリアリティ」の時代』)。そして70年代に萩本が培った手法はその批判的継承者であるビッグ3によって80年代のテレビシーンを、ひいては文化空間の性格を決定づけるものに成長した。そしてその最大の成果が『いいとも』だったのは間違いないだろう。台本らしい台本が存在せず、ただ、無目的で漫然としたお喋りと茶番じみた余興が、毎日のお昼休みに披露される。それはほとんど「楽屋」そのものであり、そしてその「楽屋」を共有することでその観客と視聴者もまたタモリの「友達の輪」に入っているような錯覚を覚えることができた。相対主義という名の絶対主義が、ギョーカイの内輪受けのおしゃべりという非物語が疑似的な大きな物語として機能することで、この国のテレビ文化は隆盛してきたと言っていい。
     だとすると、『いいとも』が成立していたのは、テレビがその圧倒的な訴求力と、それを背景に80年代に形成し90年代を席巻したギョーカイ幻想があってのことだ、ということになる。どれだけ「楽屋を半分見せる」いや、「楽屋そのものを見せる」手法が卓越していても、その楽屋に憧れない人間=テレビ芸能人を人気者だと思わない人間には一文の価値もないのだ。そして、消費社会の進行と情報環境の変化は僕のように感じる人間を飛躍的に増やしていったのだと思う。こうして『いいとも』は過去のものになっていったのだろう。
     実際、インターネットの若者層の間では「テレビっぽい」という言葉が「サムい」と同義で使われはじめて久しい。メディアの多様化はテレビ=世間という等式を崩しつつあり、そこに胡坐をかいた番組作りが東京の業界人の内輪受け以上には映らなくなり始めているのだ。
     
     たぶん、僕が最終回以前に『いいとも』に触れたのは後にも先にも一回だけだったと思う。それは昨年のAKB総選挙で1位を獲得した指原莉乃が、その勝利スピーチのクライマックスを『いいとも』ネタで締めたことに対して、僕は苦言を呈したのだ。
      そう、僕はAKB48がテレビに近づいていくことを、あまりいいことだと思っていない。なぜならば、AKB48はテレビとは異なる方法で人を惹き付けることに成功したところにその本質があると考えているからだ。僕が『いいとも』に出てくる芸能人たちには何の思い入れも持つことができない一方で、AKB48を応援することはできるのもそのためだ。楽屋を半分見せられることくらいでは、そもそもかつてほど「東京」の「ギョーカイ」が輝いていない現代、もはや僕らは彼らに憧れることはできない。だから『いいとも』は終わった。しかし、たとえ「クラスで四~五番目に可愛い女子」の集まりでも(いや、だからこそ)総選挙で票を入れ、握手会の列にならんで直接話すことで自分たちもこのゲームに参加しているという実感が得られる。タモリの友達の輪には入れない(入りたいとも思えない)僕も、AKB48には確実に参加できる。だから同じローカルサークルの内輪話でも、「テレフォンショッキング」には興味を持てないが彼女たちのおしゃべりには興味を持つことができるのだ。
     だからこそ、指原が自らの『いいとも』レギュラーメンバーとしてのアイデンティティを訴える姿は、僕にはあまり気持ちのいいものではなかった。あたらしい方法でポピュラリティを獲得したAKB48がその力をテレビを席巻することに行使していくこと、そしてメンバーの多くがテレビを中心としたあの芸能界に、「友達の輪」に入ることを名誉に考えていることは今現在の、まだ更新され切っていない文化状況や、秋元康プロデューサーの出自を考えればある程度はやむを得ないことだと分かってはいたものの、どこか寂しいものがあった。
     あれからずっと、僕は相変わらず『いいとも』的なものが、「テレビ的な」ものが嫌いで、いまだにテレビ=世間だと思っている傲慢な業界人と鈍感な視聴者を軽蔑していて、そのくせテレビドラマと特撮とアニメと、そしてAKB48だけは大好きだった。「友達の輪」には入りたいと思わなかったけれど握手会の列には並んでいた。僕は深夜番組やコンサート会場で繰り広げられる彼女たちのおしゃべり──他愛もない身内いじりの連鎖──を眺めるたびに、ああ、『いいとも』のようだと思っていた。だからこうして観客との結び方さえ間違えなければ、『いいとも』的な手法は、「テレビ」的な手法はまだまだ有効なのだと確信していた。
     しかし今のテレビは良くも悪くも「テレビ的なもの」を捨てつつある。たとえば現代の視聴率競争の覇者であるテレビ朝日の情報バラエティ番組のことを考えてみよう。そこに存在するのはたとえば「ファミリーレストランの人気メニューベスト5」といった類いの、静的な情報が配置されているだけのものだ。要するにそれはGoogle検索ができない人のために、その数秒もかからない検索をテレビ局が代行し、公共の電波に乗せているのだと言える。そして現代のテレビは少なくとも商業的にはこれが「正解」なのは間違いない。テレビは、Googleを使えない人たちの補助輪に成り下がったのだ。
     あるいは同じテレビ朝日の物語系の番組群を考えてみよう──「刑事もの」「時代劇」「特撮」を得意とするテレビ朝日は、ここでは逆に徹底的に作り込まれた完全な「虚構」を提供することに注力している。要するに、同局は現実そのもの=情報バラエティ番組=データベースと、完全な虚構=ジャンルドラマ群=ファンタジーという二極化することで、視聴率を獲得していると言える。これはかつてのフジテレビのバラエティ番組が象徴する、「楽屋オチ」「内輪ウケ」を中核にした番組作り──送り手と受け手、業界と非業界、現実と虚構の境界線を曖昧にすることで独特の「テレビ的な」リアリティを確保するという「思想」の真逆だと言える。そしてこの「フジテレビの思想」はいま完全に敗北しつつあり、結果的に台頭した「テレビ朝日の手法」が勝利を手にしているのだ。そしてこの状況を見る限り、現代のテレビ朝日的なものこそがこれからの「テレビ」の基本線になっていく可能性が高い。
     では、そうならない可能性は本当にないのか、というのが今回の問いだ。はっきり言ってしまえば、かなり厳しい。しかし可能性はゼロではないと思う、というのが僕の回答だ。そして僕はそんな僅かな可能性を、それもかなり露悪的かつアクロバティックなかたちで示した番組についてここで論じようと思う。
     そしてその番組の主役を務めていたのは、皮肉にも、そしてまたしてもあの指原莉乃だった。
     昨年10月からはじまり、奇しくも『いいとも』と同じこの三月に終了したテレビ東京の深夜番組『指原の乱』は、圧倒的な破壊力をもって僕たちの前に登場した。指原莉乃が番組の企画者にして構成作家である福田雄一の前にひたすら夢を、いや、より正確には極めて即物的な欲望を語る。写真集を出したい、ラーメンをプロデュースしたい、映画を撮りたいetc…。そして指原は福田と実現に向けて動き出すのだが、しかし毎回その極めてテキトーな発想の前には無数の身も蓋もない現実が(特に資金面で)立ちはだかる。その結果、指原はひたすら番組を担当する大手広告代理店(電通)にゴネる。「なんとかしてくださいよ、電通さん」「常勝電通でしょ」「そこは電通さんで」と。 
  • モラトリアムを受け止めるために ――山下敦弘と「間違えた男たち」の青春 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.091 ☆

    2014-06-12 07:00  
    220pt

    モラトリアムを受け止めるために
    ――山下敦弘と「間違えた男たち」の青春
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.6.12 vol.091
    http://wakusei2nd.com


    本日の「ほぼ惑」は予定を変更し、『観ずに死ねるか ! 傑作青春シネマ邦画編』に宇野常寛が書き下ろした「山下敦弘論」を掲載します。『マイ・バック・ページ』以降、従来のモチーフを捨て、「少女」を撮り始めた山下監督の新たな展開とは――?


    初出:『観ずに死ねるか ! 傑作青春シネマ邦画編』(鉄人社)
    http://www.amazon.co.jp/dp/486537003X/
     

    ▲『もらとりあむタマ子』(主演:前田敦子/監督:山下敦弘)
     
     
    ■前田敦子の正しく死んだような目
     
     去年(2013年)の夏のことだったと思うのだが、山下監督と夕食を食べる機会があった。意外なところに共通の知り合いがいて、じゃあ久しぶりに、という話の流れになったのだと記憶している。
     僕の事務所のある高田馬場に監督はひょっこり現れて、世間話をしながら箸を進めた。監督と食事をするのははじめてだったけれど、よく飲む人だった。
     話題が一段落したところで、「あ、そういえばこれを宇野さんに渡そうと思って」と言って取り出したのが、「もらとりあむタマ子」のサンプルディスクだった。終電近くまで飲み食いして、自宅に戻ってすぐに観た。主役の前田敦子は、正しく死んだような目をしていた。もちろん、褒め言葉だ。
     本作において前田敦子が演じているのは、大学卒業後特に就職もせずに自宅でごろごろしている無職女性だ。自意識が強いくせに、いや強いからこそ何者にもなれない自分を受け入れられなくて、何もやろうとしない。そんなヒロインを前田敦子は十二分に演じてるし、いや、それ以上に前田敦子のあの、勃興期のAKB48の激流の中にあってもマイペースを守り続けたデタッチメントの姿勢はこのヒロインと高いシンクロニシティを発揮していたと思う。実際どうなのかはともかく、観ている人間に「あっちゃんって本当にこういう奴なんだろうな」と思わせる佇まいをこのヒロイン・タマ子は獲得しているし、それが山下監督の狙いだったのだとも思う。
     しかし、見終わったあと、僕には妙に引っかかるものがあった。もちろん、映画の出来に不満があったわけではない。企画の発端は監督自身から聞いていたが、なし崩し的に長編映画になっていった企画とは思えないくらい、過不足のない出来だったと思う。だから僕が引っかかったのは別のことで、それは言ってみれば山下敦弘にしては珍しく、この映画には自分自身の「いま」が現れてしまっているように見えたことだ。
     もっとはっきり言ってしまえばこの「モラトリアム」とはあっちゃんのことではなく監督自身のことだ、というのが僕の感想なのだ。
     
     
    ■「気まずい現実」を他人事としてしかコミットできない諦念
     
     山下敦弘はずっと青春映画を撮ってきた監督だと僕は思っている。たとえば90年代に青春期を過ごした多くの同世代の作家たちが、何も起こらない世界に暮らす、何ものにもなれない人たちの青春を描き続けて来たと言える。
     「政治と文学」という古い言葉が体現する世界と個人との距離感の問題は若者文化から後退して久しく、そんな「政治の季節から消費社会へ」のダイナミズムでものを語れた時代も(空騒ぎして見せることに意味のあった時代も)バブルの崩壊と同時に遠い過去のことになってしまった。その結果、90年代に多感なお年頃を生きた僕たちに残されたのは、そんな何もない世界(「終わりなき日常」でも「平坦な戦場」でもなんでもいい)でいかに生きて行くか、だった。だから彼らの作品とその観客達が往々にして自意識過剰なのは当然の話で、個人の自意識にどう決着を付けるのか、という問題だけがどこまでも肥大していったのが90年代のサブカルチャーであり、そんな90年代「サブカル」の自意識を引きずったまま中年になってしまった団塊ジュニア達の憂鬱の種はここにあるからだ。
     そんな時代を背景に山下という作家が撮り続けていたのは、自意識の問題だけが肥大せざるを得ない世界(何もない、何も起こらない世界)を受け止めながらも、自分の自意識語りでその欠落をすら埋められない、決して自分自身は主人公になり得ないという感覚だったと言える。もはや自分の人生と自意識しか語るべきことはない世界に放り出されていながらも、山下の描く世界の住人たちはその主人公としてドラマチックに自らを語る権利を与えられないのだ。山下の映画に登場する人々は、「カッコ悪い自分/何ものにもなれない自分の自意識を語る」ことでその無様さを引き受けている自分という最後のナルシシズムの砦すらも奪われている。
     たとえば「リアリズムの宿」(03)の二人組の佇まいそのものがそうだし、「どんてん生活」(99)のラストシーンで示される滑稽で不格好な「気まずい現実」でさえも他人事としてしかコミットできないという諦念がそうだ。「その男・狂棒に突き」(03/短編)の他人の滑稽さを通してしか世界を眺めることのできない寂しさの背景にあるのも、こうした諦念だろう。
     矮小で滑稽なものにすぎない個人の自意識の問題に開き直り、それを語り続けることでしか当事者になることができない(「平坦な戦場」を生き延びることができない)のが90年代のサブカルチャーに仮託された若者の感覚だとするのならば、そこから半歩ずれた山下敦弘の映画が切り取っていたのは、その矮小さと滑稽の当事者にすらなれないという絶望未満の諦念だったのだと僕は思う。
     
     
    ■撃つべき対象が見つからない
     
     だから「松ヶ根乱射事件」(06/同作はある時期までの山下映画の集大成と言える)の結末で主人公が「乱射」するのは、彼が撃つべき対象を見つけられないからだ。撃つべき対象(たとえば大文字の「政治」)を失い、自分自身しか撃てなくなった世界が90年代だとするのなら、山下が描いていたのは自分自身すら撃てない世界だ。だから松ヶ根乱射事件の主人公・光太郎は銃を「乱射」するしかなかったのだ。そう、「乱射」とはターゲットを持たない狙撃のことをいう。自分という物語すら信じられない光太郎は撃つべき対象をどこにも(自分の内面にすらも)見つけられず、「乱射」するしかなかったのだ。
     対象を失った結果、自分を撃つしかなくなり、そして自分すらも撃てなくなったのが現代ならばそのルーツはどこにあるのか? 山下が「マイ・バック・ページ」(11)で学生反乱の時代にそのルーツを求めたのは必然だったと言える。 
  • 本当は色彩を帯びていた「多崎つくる」――村上春樹が見落とした新しいコミットメント[宇野常寛]

    2013-12-09 19:02  
    105pt
    【今週のお蔵出し】「あたらしい駅のかたちについて、彼は想像することもできない『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』」
                                      (初出:「ダ・ヴィンチ」2013年6月号)


    〈文芸春秋は18日、村上春樹さんの新作小説「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」を20万部増刷することを決め、累計発行部数が100万部に達したと発表した。
    12日に発売されてから7日目。文芸春秋は「文芸作品では最速でのミリオン到達では」としている。村上さんの作品では前作「1Q84 BOOK3」が発売から12日目に100万部に到達している。
    「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はネット書店での予約などが多かったことを受け、発売前から増刷を重ね、計50万部で売り出された。発売初日にも異例の10万部の増刷を決めたが、売り切れ店が続出。15日にも20万部の増刷を決め、6刷80万部に達していた。〉(産経新聞2013年4月18日)
     村上春樹の新作長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が発売直後からベストセラーになっているという。
     僕もまた、村上春樹の愛読者のひとりだ。僕の代表作『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)は村上春樹論でもある。「リトル・ピープル」とはこの本が刊行された当時の春樹の最新作『1Q84』に登場する超自然的な存在にして「悪」の象徴だ。この『1Q84』という小説に、僕は不満を覚えた。正確にはこれまでの村上春樹の長編小説に比べて、あまり想像力を刺激されなかった。そしてそのことが、僕がその本を書く動機になった。
     春樹は二〇〇八年、おそらくは『1Q84』執筆初期に行われたインタビュー中の発言にてこう述べている。
    〈「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」〉
    (毎日新聞 2008年5月12日 僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉)
     リトル・ピープルとはまさに、人々を「精神的な囲い込み」にいざなう社会構造の象徴だ。このリトル・ピープルに対抗するために主人公とヒロインたちが行動を起こす─それが『1Q84』の物語の骨子だ。しかし『1Q84』は完結編であるBOOK3で、それまで中心にあったこの主題─リトル・ピープルの時代への「対抗」という主題─を大きく後退させて(事実上放棄して)しまう。前半に物語を牽引したリトル・ピープルとそれを奉じるカルト教団はほとんど姿を見せず、主人公の「父」との和解と、ヒロインの一人との再会がクローズアップされる。主人公=中年男性の自己回復と自分探しの物語が全面化し、時代へのコミットメントという主題は後退するのだ。僕はここに村上春樹の想像力の限界を感じて、そして前述したあの本(『リトル・ピープルの時代』)を書いた。現代=リトル・ピープルの時代へのコミットメントのかたちを模索する、という春樹から引き継いだ主題については、まったく別の作品群を用いて考え抜いた。
     しかしその一方で、僕は春樹自身がいつか、それも近いうちにこの問題に彼なりの回答を示してくれるのではないかと期待していた。もちろん、これは僕の勝手な期待であり、作家が答える必要もなければ、答えないことで責められる必要もない。だから、僕は続く村上春樹の新作長編『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』を一読したとき、個人的に落胆はしたがこれを批判しなければならないとは思わなかった。だから発売当日にこの本を買って読み終えた僕は、その日の夜に放送するこの春から担当することになったラジオの深夜放送番組で、この本はそもそも肩慣らし投球のようなもので、『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』のような総合小説を期待してはいけないと釘を刺したうえで分析を始めた。
     そう、『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』は発売されたことだけで「事件」となる社会的インパクトとは裏腹に、作品自体はいわゆる「小品」だ。
     
  • 3.11で@NHK_PRがたどり着いた解答――マスメディアの言葉が後退する時代に[宇野常寛]

    2013-12-04 13:36  
    105pt
    【今週のお蔵出し】『中の人などいない@NHK広報のツイートはなぜユルい?』NHK_PR1号
                                      (「中央公論」2013年1月号)
     情報化はこれまで可視化されていなかった膨大な匿名の言葉を発生させる。たとえばマラソンについての一般的な世論を知りたければツイッター等で「マラソン」と検索すればよい。そこには無数のユーザーたちの「マラソン」についての言葉が溢れる。彼らはそれぞれ名前(ID)をもつが、私たちはその検索結果に並ぶものを匿名の言葉の集合体と見做している。その一方で情報化は固有名の言葉の力を強化する。たとえば村上春樹のマラソンに対する見解を求めるとき、私たち読者は村上春樹の個人アカウントをまず検索するだろう。 このとき大きく後退するのがマスメディアの言葉だ。村上春樹(固有名)はマスメディアを介することなく自ら発信し、一般的な「世論」はウェブ検索結果としての匿名の言葉こそが最も早く正確に表現してしまう。 
  • あの日から考えている「うそばなし」のはなし――『七夜物語』をめぐって

    2013-10-16 21:56  
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    【今週のお蔵出し】あの日から考えている「うそばなし」のはなし――『七夜物語』をめぐって                                  (初出:「トリッパー」2012年夏季号) 川上弘美は自分の書く小説を「うそばなし」と呼んでいる、という。そして、《「うそ」の国は、「ほんと」の国のすぐそばにあって、ところどころには「ほんと」の国と重なっているぶぶんもあ》るのだと彼女は語る。また《「うそ」の国は入り口が狭くて、でも奥行きがあんがい広いのです。》とも。 この「うそばなし」という言葉は川上の初期作品集のひとつ『蛇を踏む』のあとがきとして寄せられた文章だ。そしてここの「うそばなし」という不思議な語感をもつ言葉は、「いま」読み返すと川上にとっての物語観、とくにファンタジーについてのそれをたった五文字のひらがなに凝縮したもののように思える。「いま」というのはもちろん「あの日」以降のことだ。そう、あの日からずっと、僕はファンタジーというものとその機能について考えている。大地震と、原子力発電所の爆発――それは僕がまだ子どもだったころ、繰り返し物語の、それも子どものための物語、特にファンタジーと呼ばれるものの中においては〈世界の終わり〉=黙示録的な終末をもたらすものとして描かれてきた。平和で豊かなその一方で退屈な消費社会のもたらす終わりなき日常が一瞬で崩壊し、刺激的な非日常が到来するのだ。 
  • 今週のお蔵出し:社会学とノンフィクションのあいだで

    2013-06-18 18:39  
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    【今週のお蔵出し】社会学とノンフィクションのあいだで              (初出:「星星峡」2012年9月号)  僕は今、いわゆる「反原発運動」というものから距離を置いている。僕はあの日まで原子力発電の問題に、あまり高い関心をいだいていなかった人間のひとりだ。だからこそ、あの日以降はこれからこの国で原子力発電を続けるリスクというものが、いかに過小評価されていったかについては真剣に検討しなければならないと考えるようになった。けれど、あの日から急速にふくれあがった「フクシマ」をめぐる言説のほとんどに、僕は関心をいだけなかった。それはこれらの言説のほとんどが、ほんとうは原発のことなんてどうだっていいという本音が見え隠れするものだったからだ。グローバル資本主義批判、旧自民党的な利益誘導政治批判、「マスゴミ」批判――フクシマを口実に2011年3月11日以前から敵視していた存在を指弾したい――彼ら「知識人」の文章からは、そんな強い意志だけは嫌というほど伝わってきた。もちろん、それはそれで必要なことなのかもしれない。しかし、少なくともそれらは一読者としての僕が必要としている言葉ではなかった。そして、この違和感が今も僕を反原発運動から距離を取らせている。「気持ちはわかる、しかし……」という違和感が拭えないのだ。 
  • 【特別号外】AKB48第5回選抜総選挙直前!宇野常寛インタビュー

    2013-06-06 19:17  
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    ──AKB48選抜総選挙の速報が発表されました。この速報は投票開始の翌日に発表されるものですが、このような驚きの結果になった理由としては、何が考えられるんでしょうか? 劇場盤CDに総選挙の投票券が付くようになるなど、投票に関するルールが変化した影響が強く結果に反映されるようになった結果と言えます。一言で言うと、もっぱらテレビメディアを通じてAKB48に触れているライトなファン層ではなく、握手会や各地の劇場に足繁く通うディープなオタの民意のようなものが、票に反映されやすくなっているということですね。特に速報に限って言えば、マニアックな層が票をぶっ込んでいるようです。 これは今後のAKB48のあり方についてもとても大きな変化だと思います。なぜならば、もともとやはりAKB48の最大の特徴はユーザー参加型のイベントになっていることです。作り手によって完成されたものを受け取るのではなく、ファンの能動的な参加があって初めて成り立つ仕組みになっているのが、AKB48が他のアイドルとの最大の違いです。選抜総選挙は、こうした参加型のイベントの中でも最大のもので、AKB48という文化現象の象徴です。これはテレビや雑誌でしかAKB48を知らない人には見えない側面だと思う。しかし、ここ2年あまりのAKB48はテレビや雑誌で彼女たちを知ったライトなファンの方が多くなり始めている。その傾向は選挙結果にも如実に現れていて、特に去年の総選挙では前田敦子の卒業を機会に世代交代の空気がファンコミュニティの間では非常に濃厚だったにも関わらず、上位陣にはほとんど変動がなかった。これは明らかに数万票のレベルでの競争になる選抜メンバーにおいてはテレビで毎日のように露出している既存の選抜メンバー上位(いわゆる神7や神8)が、ライト層の票を広く薄く獲得し、有利に集票した結果だと考えられます。 AKB48の活動の基盤はあくまで劇場公演や握手会といった現場にあります。しかし、去年までのルールではこの現場に足を運ぶファンの声が反映されにくいルールになってしまっていた。AKB48が「テレビのもの」になってしまっていてこれでは普通の芸能人と変わらないのではないか、と不満を覚えていた人が少なくないはずです。しかし、今回のルール改正は明確に現場に足を運ぶファンたちの民意を反映されやすく改正されている。この選挙でファンたちは、AKB48をテレビから取り戻すつもりで挑むべきだと思いますね。もともと総選挙自体が、秋元康さんの独断で決定されていた選抜メンバー決定に自分たちの意見を強く反映させたいという要請があって、このファンコミュニティの空気を知った運営サイドがそれを逆手に取って一年に一度のビッグイベント兼ビジネスチャンスに仕立てあげたものです。だから、ファンもこの運営の思惑に乗っかりながら逆手に取るような戦略が発揮できると活性化していくでしょうね。 昨年前田敦子さんが卒業して、AKB48はもう終わりだ、終わって欲しいという言説がたくさん見られました。こうした言説の背景にはAKB48が普通のテレビタレントグループだと思われているという事情があると思う。でもそうじゃないんだということを証明すべきでしょうね。実際シングルの売上も伸びているし、速報の大波乱もあって、おそらくこの選挙は過去最高に盛り上がっている。この盛り上がりを維持したまま、AKB48の第二章が展開していくと面白いでしょうね。──マニアックな層というとどういったことでしょうか。 2ちゃんねるやまとめサイトを見ていると、ファンコミュニティが「速報に間に合うように票をぶっ込んで勢いをつけよう」というふうに結束しているメンバーが、速報で上位に来ていることが分かります。ファン同士の結束が固いメンバーが強いということですね。──速報に間に合うように票を入れることには、どのような意味があるんでしょうか。 一つは、あまりランクインが期待されていない研究生が速報の順位に入ると、どうせ死票になるからと言って投票を避けていたファンたちからの支援が受けやすくなります。  また、単純に知名度を向上させる狙いもあるでしょう。例をあげると、SKE48の柴田阿弥がその典型だと言えます。最終的には上位に来ないとしても、速報で8位というとんでもない順位をマークすることで、すでに多くのファンとマスコミにその名を知らしめました。この記事でもこうして名前が挙がっているわけですし、速報でぶっ込んだファンたちの作戦は十分成功したと言えるでしょう。──さっしーこと指原莉乃さんの1位が印象的でした。 指原の速報1位は正直驚きました。速報にすぎないといえばその通りなのですが、やはりあれだけの票数を速報までのたった1日で獲得した指原はすごい。あの順位は、プロデューサーとしての彼女に対する評価票です。九州の地方アイドルの勢いを横目に見つつ、そこまでブレイクしきれていなかったHKT48が盛り上がったのは、指原の功績と言える。そんな、HKTのプロデューサーとしての彼女への評価が、濃いオタたちの関心を買ってあの順位を叩きだしたわけです。 ──指原さんがAKB48のセンターになるんでしょうか? とはいえ、最終的な順位で1位というのは厳しいかもしれないですね。なにせ、まゆゆのファンたちは、優子さんならともかくさっしーには負けられないという気持ちで焦っているでしょうから。優子さんの強さも相変わらず健在です。──速報はこのような結果でしたが、最終的な順位はどうなるんでしょう。 
  • 今週のお蔵出し:『ヘルタースケルター』と「あの頃」の消費社会

    2013-05-28 12:00  
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    【今週のお蔵出し】『ヘルタースケルター』と「あの頃」の消費社会              (初出:「サイゾー」2012年9月号) 映画『ヘルタースケルター』を観た。本作は、基本的には沢尻エリカという「変人」を観るための映画だ。ヒロインと沢尻のスキャンダラスな人生を重ね合わせ、そのユニークなキャラクターの魅力を強調する。私見では、蜷川実花はこの「最低限の仕事」はできている。しかし全体的に練り込みが甘い。沢尻を見せるためだけの映画なのだから、尺はこの半分でよかったはず。中途半端に映画への意志を見せているせいで、冗長な映像体験になってしまっているのだ。 さて、それとは別に僕が考えたのは、この原作を今映像化するなら、他にどんな手があるだろうか、ということと、ひいてはバブル前後の消費社会観が今日の情報環境下でどれくらいの射程を持っているか、ということだ。