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【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ(後編)
2019-01-15 07:00
今朝のメルマガは、文筆家/キュレーターの上妻世海さんと宇野常寛の対談の後編をお届けします。後編は来場者との質疑応答です。対話によって生成される場からは何を持ち帰りうるのか。スケールと距離感から考える新しい都市論の構想。従来的な教養主義がもたらす二項対立を乗り越える〈実践〉のあり方について議論しました。※本記事は2018年10月27日に青山ブックセンター本店で行われたトークイベントを記事化したものです。 ※本記事の前編はこちら、中編はこちら
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主客二元論から対話的な共生関係へ
宇野 質問があれば何でもどうぞ。
質問者1 先ほど、言語と身体の繋がりや速度についてお話されていましたが、たとえば私は今、初めてお二人に向けて喋っているので、私の話す速さについても初めて体験されていると思います。そのときに、この人は何を考えているんだろうとか、他人の走る速度とか喋る速度とか、そいういうことを立ち止まって考える時間や、あるいは俯瞰的視点についてはどのように考えているのか、お聞きしてもいいでしょうか。
上妻 今日は社会的な事象を中心に話しました。僕は社会についてだけでなく、美術やテクノロジーについて話すときも、能動的・受動的という二項対立は使わないようにしています。人が能動的になにかを行うということも、受動的に動かされているんだということも、共に幻想だと思っています。例えば、人間は遺伝子を乗せた乗り物にすぎないという話や、それに対する反論として自由意志というものがあるんだといった議論です。僕が提案したいのは、能動/受動といった二項対立的な議論ではなく、「対話的」であることです。一方的にリズムを押し付けるのでもなく、相手に完全に同期するのでもなく、対話する中でお互いのリズムがその度ごとに立ち上がってくる。今、質問してくださっていますが、質問という形式だと、どういうリズムや速度で話すべきなのか、共有できていない部分が大きいと思います。そこには構造的問題が横たわっています。 お分かりのように、今、質問する人/応答する人という二項対立が存在しています。しかしながら、これは対談とその後の質疑というシステム上仕方ないですが、非常に特殊な状況ですね。実際、もしあなたと僕が、制作環境の只中で対話していく場合、毎日、1〜2時間話す、3日後にまた同じくらい話すといった対話を繰り返していくと思います。そうすれば、あなたも僕のことがわかるし、その逆も然りです。そして、その中でお互いに変化していくと思うんですね。影響を受けたり与えたり、その中で対話のリズムが生まれていきます。俯瞰的視点に関しては、まさにそういった対話のリズムの中でズレが生じたり、うまくいかないことが生じた時に、反省する中で発生するものです。ハイデガーは人がモノそのものについて考えるのは、そのモノが持つ機能が壊れた時だと言います。 例えば、コンピュータで原稿を書くことに集中している時、「何故、キーボードを打ったら文字がディスプレイに表示されるんだろう」などと考えたりはしません。しかし、キーボードを打っても、うんともすんとも反応しなくなった時、「どこが悪くなったんだ、どうすれば動くようになるんだ、そもそもどうしてディスプレイに文字が表示されるんだ」と思考が始まります。対話も同様に、上手くいっている時は反省はしません。しかし、なにか違和感を感じた時、「あの時は意見を押し付けてしまっていたな」とか「相手の表情をしっかりみれていなかったなあ」などと対話を抽象的に仮説的な第三の目で振り返る。それが次の対話での準備になります。そういった関係性を整えることが、ある種の制作的環境を整えるということでもあります。 つまり、この質問でのやりとりのような、突発的に発生した対話で「あなたのリズムが分かります」みたいな超能力のようなことは一切ない。共に継続的に生きていく、共に制作していく、その中に加わり、そこにいるメンバーと対話的に会話し、各々のリズムと同期し、同期しながらも変化し、コンテンツや作品を作っていくというのが、僕のやり方です。それは短時間ではわからない。質問してくださった方も、今は質問するリズムになっちゃってるじゃないですか。それと同様に、宇野さんも今はトークモードになっていて、プライベートではこんな早口な人じゃないと思いますよ。
宇野 僕はプライベートでも早口ですよ(笑)。
質問者1 先ほどタイムラインや発信についてのお話をされていましたが、思考は理解はできてもリアクションができるかとか、こういった共有の場で参加できるのか、そういった感性を持ち合わせているのか。社会的な背景やこれまでの教育とか含めて、やり方を知っている人と知らない人がいると思うんです。そのあたりは自己責任になるしかないのかなと……。
上妻 僕だって最初から今日のように話せたわけではなくて、100回くらいトークイベントをやった上で、今ここに来ている。だから、沢山の人の前で自信をもって話せるわけです。今日初めてここに来た人に「僕たちが早口で喋ったことを処理できないのは自己責任だ」なんて言うつもりはもちろんありません。人間は、様々な経験や、書籍を読むことを含めていろんな人と話すことで段階的に変化していくものです。 実は僕は元々すごく恥ずかしがり屋で、初めて人前で話すことになったとき、緊張しすぎて、iPodでいかついヒップホップとか聞きながら「俺はできる、俺はできる」って自己暗示かけてました(笑)。なんだって最初からできるわけではなくて、プロセスを経れば、いつかはできるようになると思いますよ。
宇野 それって今日のランニングの議論に近いと思う。ここで二人の議論を整理しながら理解し、言い間違いも修正した上で頭の中に叩き込むのは不可能だと思うし、する必要もないと思うんだよね。ここでのトークを一字一句、漏らさずに聞いてメモを取って、そうやって身につけたロジックをTwitterに投稿してドヤ顔しているような人と、ここで得たキーワードやフレーズや思考法を自分のテーマとして持ち帰って、自分の現場で実践している人と、どちらが消費的でどちらが制作的かといえば、答えは明らかだよね。 要するに並走する訓練ができているか否か。コピペじゃなくてね。読解の自由というのは、そういった人間にしか発生しないと思ってる。僕が走ることが好きなのは、歩いたり乗り物に乗ったときの世界に対する速度は一定なのに対して、走っている時が一番スピードをコントロールできるんですよ。それと同じことかなと思っています。
上妻 いかに実践に繋げるか、身体が動くかについては、今日話を聞いたから、すぐにできるようになるといった話ではないですよね。別の人のトークイベントに行ったり、登山したり、旅行に行ったり、そういう時に繋がったりするんですよ。「そういえばあのとき上妻が何か言ってたな」みたいな。
宇野 「あのとき言ってたことって、もしかしたらこういうことじゃない!?」ってなったら、世界の見え方がちょっと変わりますよね。それで十分かな。
上妻 今日、話を聞いたことで即時的に変わるというよりは、これからいろんな体験をしていく中で、記憶の深くにあったものが急にリンクして、ガーッといろんな繋がりが発生したときに「あ、わかった!」みたいなことが起きて、それによって身体がちょっと動く、みたいな形だと思います。
宇野 これまでは「放っておくと変わらない人間をいかにして変えるか」「そのためにもっと他者と触れ合おうぜ」といった議論をしていたんだけど、その前提も変化していて、現在は情報環境の発達によって、人間は放っておいても他者に侵入されて変わってしまう。そんな自分に対してどう向き合うかという方向に、ゲームのあり方自体が変化している、という話を今日はしていたんですよ。人によって理解度や関心があるポイントは違うかもしれないけれど、「変わってしまう自分」に対して、どう向き合うかという方向に思考をチェンジしたほうが、持ち帰れるものは大きいと思いますよ。
〈国家〉でも〈家族〉でもない〈都市〉の可能性
質問者2 P10の解説集に、次号のP11は都市がテーマになるかもしれない、と書かれていて、すごくいいなと思いました。宇野さんはどういう直感や論理から、そのテーマを選ばれたんでしょうか?
▲『PLANETS vol.10』
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【対談】上妻世海×宇野常寛 『遅いインターネット計画』から『制作』へ(中編)
2019-01-09 07:00
今朝のメルマガは、文筆家/キュレーターの上妻世海さんと宇野常寛の対談の中編をお届けします。否応なしにネットワークに接続されタイムライン化する世界認識の中で、〈身体〉に基づいたノード的な存在として自立するためにはどうあるべきか。〈制作〉と〈ランニング〉から、模倣論・メディア論へと議論は広がっていきます。※本記事は2018年10月27日に青山ブックセンター本店で行われたトークイベントを記事化したものです。 ※本記事の前編はこちら
☆お知らせ☆ ただいま青山ブックセンター本店さんにて、宇野常寛責任編集『PLANETS vol.10』特集を展開していただいています! 特典として「遅いインターネット」計画に関する宇野のロングインタビュー冊子がついてきます。いま冊子が読めるのはこちらの店舗さんだけ。ぜひお立ち寄りください!
▲対談直前の上妻世海さんと宇野常寛
ネットワークに流されない〈身体〉の構築
上妻 『PLANETS Vol.10』(以下P10)で面白かったのが、後半にいろんな人のインタビューが載っていて、必ずしもメディアで注目されているわけではないけれど、宇野さんが面白いと思う人たちが集められている。こういう人たちがどんどん出てくる世の中になるといいと思っているんです。必ずしも大衆受けしなくとも、「制作」はそれ自体意義のあるものですし、もしかしたら、いつか、どこかで、結果的に社会的にも重要な価値を持つかもしれません。そういう人に早い段階で焦点を当てるような機能、あるいは勇気付けるような機能が雑誌には求められますし、とはいえ、かなりそういう質を持った雑誌は少なくなってきているようにも思えますが、P10ではそれに成功していたと思っています。 先ほどまでは「身体制作」≒「制作」であるという図式を提示していたのですが、一度その段階を経てしまうと、次に制作者は、隠喩としての「走ること」を通じて「身体制作」を行うこととその外在化として作品化することのギャップにも向き合わなければなりません。そのレベルになって、ある意味、生活を整える目的でのランニングという側面が際立ってくる。P10では第一段階である「身体制作」≒「制作」の段階から第二段階であるその分離までを幅広く扱っていると感じました。分離とはいえ、もちろんそれは切り離せないものではあるのですがそのコントロールが重要になってくる。P10での例で言えば、「身体制作」はロボットを作ってる女の子にとって、継続的可能な制作のための、ある種の準備運動になってくる。
▲『PLANETS vol.10』
宇野 準備運動というか環境整備みたいなものだと思うんだよね。彼ら彼女らにどんな気持ちでインタビューしたかというと、僕を中心とするPLANETSのコミュニティに接続することで、上妻さん的な意味での制作環境を整えて欲しいと思った。それは単に、批評家としての僕に刺激を受けて制作が捗るとかではなくて、P10に参加して知識を共有することで、ランニングによって世界の見え方が変わるように、閉じながら同時に開いているような環境に身体を置いてくれるといいなと思ってやっていたんだよ。 それはインターネット第一世代への僕なりのアンサーになっているんですよね。彼らはリアルとバーチャルを対立項として捉えていて、だからこそリアルにバーチャルが侵入することに快感を覚えていたし、秋葉原の巨大ビジョンで踊る初音ミクに未来を見たわけだよね。もちろん僕もボカロカルチャーにリスペクトはあるけど、ただ、そこに関して限界を感じていたことも確かなんだよね。 実際に、あれから10年経って起きたのは、もうすこし複雑で面白い、そしてタチの悪い現象で我々の日常の中に、かつてバーチャルと呼ばれていたものが侵入して、そのことによって我々のリアルな空間が多重化している。我々の身体はすでに情報化されきっている。そして以前は虚構的な空間にあったものが、カジュアルに持ち歩ける日常の一部になり、そのことで批判力を失っているんだよね。それって押井守が『イノセンス』で突き当たった行き詰まりと全く同じなんだよ。 サブカルチャーの世界でいうと、アニメからアイドルへと中心点が移る地殻変動がまさにそれだった。その結果、みんなが文化的に豊かになったかというと、半分はそうだけどもう半分はそんなことはない。我々がタイムラインを延々と見続けているときのように、一見、多層的で多様ではあるけれど、どこにも切れ目のない、のっぺりとした世界が広がるようになってしまった。 それに対して、物書きやハイカルチャーの担い手の多くは、ネットワークから切り離されて再び孤独に戻れという。しかし、繰り返しになりますが、これはアナクロニズムへの回帰に過ぎない。 僕が、上妻用語でいう「制作」、宇野的にいうと「走るひと」の立場に立つのは、かつて虚構と呼ばれていたものが批判力を持たなくなったこの世界に対して、いかにして多様性や拡張性を回復するかを考えているからなんだよね。
▲この人と始める〈これから〉のはなし
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