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  • フリット・アスノの魂は、円堂教に救われる『イナズマイレブンGO クロノ・ストーン』| 宇野常寛

    2020-06-01 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回は、2012年放映のキッズアニメ『イナズマイレブンGO  クロノ・ストーン』を取り上げます。日野晃博率いるゲーム開発会社・レベルファイブが手がけた人気サッカーRPGシリーズ「イナズマイレブン」第5作のアニメ版にあたる本作は、まさかのタイムスリップSF展開でファンを驚愕させました。おりしも日野が原作を手がけた前年放映の『ガンダムAGE』(2011年)における「家族の絆」の呪縛とは対照的に、本作が描いた自由で破天荒な「仲間の絆」は、どんな可能性を垣間見せたのでしょうか? ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
    宇野常寛コレクション vol.22フリット・アスノの魂は、円堂教に救われる『イナズマイレブンGO クロノ・ストーン』
     フリット・アスノは高名なエンジニアの家系──アスノ家──の長男として生まれた。幼少期からその天才を発揮し、周囲を驚愕させていたというフリットだが、その運命は七歳のある事件で一変する。彼が生まれた当時、人類は正体不明の外敵の脅威に晒されつつあった。そしてフリットが七歳を迎えたある日、生まれ育ったスペースコロニーが敵の襲撃を受け、彼は最愛の母親を失う。既に父親を亡くしていたフリットは天涯孤独の身になった。フリットは軍事技術者だった母親の意志を継ぎ、外敵に対抗し得る新兵器──ガンダムの開発を引き継ぐことを決心する。そしてフリットが14歳になったある日、地球人類はようやくその姿を現した外敵──火星移民者による軍事国家ヴェイガン──との戦争状態に突入する。フリットは自ら開発したガンダムを操り、人類の救世主となるべく戦いに身を投じる。その胸に刻まれたフリットの復讐心は、戦いの中で恋人や仲間が犠牲になっていくことでさらに肥大してゆく……。  これは一昨年(2011年)から1年間放映されたテレビアニメ『機動戦士ガンダムAGE』のあらすじだ。本作は全四部構成となっており、第二部ではフリットの息子アセムを、第三部と四部ではアセムの息子(フリットの孫)キオを主人公に、約100年に及ぶ地球人類とヴェイガンとの戦争の行方を描いた大河ストーリーが展開する。
     はっきり述べれば、本作は「ガンダム」シリーズ屈指の不人気作品だ。ストーリー原案に株式会社レベルファイブを率いる人気ゲーム作家・日野晃博(代表作に「レイトン教授」「イナズマイレブン」シリーズがある)を迎え、主に小学生男子を中心とした低年齢層をターゲットにしたと思われる本作は、視聴率、ソフト販売、玩具の販売とすべてにおいて苦戦が報じられた。失敗の原因はいくらでも思いつく。1年の放映期間をもってしても圧倒的に尺が足りず、詰め込み過ぎのエピソードを強引に処理する脚本は常に総集編を見ているかのような印象を視聴者に与えたのは間違いないし、近年のアニメとしては作画のクオリティも高いとは言えなかった。
     しかし、僕が引っ掛かるのはもっと別のことだ。僕は日野晃博は現代日本を代表する作家のひとりだと考えている。日野は僕の知る限りもっとも果敢に「失われた20年」以前の少年漫画(ジャンプ)、児童漫画(コロコロコミック)のドラマツルギーを現代的なものにアップデートすることに挑戦している作家であり、そして相応の成果を上げている作家である。しかし、その日野をもってしても、「ガンダム」を扱うことはできなかったのだ。  『機動戦士ガンダムAGE』の主題は明確だ。それは「ガンダム」を通して、日本のロボットアニメの想像力を総動員して、男性の「成熟」を、もっと言えば「老い」を描く、ということだ。そもそも日本のロボットアニメは、男子幼児、男子児童の成長願望に根差した表現だった。「ロボット」とは定義上、人工知能をもつ自律した存在だが鉄人28号も、マジンガーZも、そしてガンダムも人工知能を持たないただの「乗り物」にすぎない。少年がかりそめの、機械でできた、そして巨大な身体を手に入れることで疑似的な成長を果たし、大人たちと肩を並べて敵と戦う──。そう、戦後日本の文化空間は「日本的ロボット」ともいうべき奇妙なキャラクターを生み出し、そしてこの奇妙なキャラクターが絶大な支持を受けることで日本のオタク系文化は成立していったと言っても過言ではない。  したがってそこで描かれるのは常に幼少期から思春期にかけての(男性の)物語だった。なぜならば、ほんとうに歳をとってしまった男子にはもはやロボットは必要ない、いや、ロボットがもたらすというかりそめの成長に賭けることができないからだ。そして日野という作家の挑戦はここにあったように思える。それは言いかえれば換えれば人はロボットに、ガンダムに乗ったまま歳をとることができるのか、という問いだ。という挑戦だ。機械の身体と架空年代記を通じて人間の成長と老いを描くことができるのか。それが本作における日野の挑戦だったはずだ。  「ガンダム」シリーズの架空年代記は、とくに初代「ガンダム」ブームの直撃世代である団塊ジュニア世代にとっては、疑似的な国民文学として機能している。団塊世代が司馬遼太郎の歴史小説の影響下に「自分も幕末に生まれていれば龍馬のように生きたかった」と思いをはせるように、団塊ジュニア世代のサラリーマンは「自分は宇宙世紀に生まれていればシャアのように」と考える。当時のファンタジー、とくに架空年代記的なそれが高度消費社会を背景に失われた「歴史が個人の生を意味づけていた世界」を消費者に疑似的に提供することで支持を集めていたのだ。機械の身体(日本的ロボット)による成長の仮構と架空年代記による人生の意味付けの仮構──「ガンダム」はアニメという「つくりもの」が象徴する戦後日本の文化空間と精神史の生んだ結晶であり、鬼子なのだ。
     そして日野が本作で行おうとしたのは、こうした「つくりもの」の成長(を象徴する)「ガンダム」の清算だったに違いない。
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