• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 3件
  • 「ゲーム」からみた「伊藤計劃以後」〜コンピュータゲームのあゆみはフィクションの想像力をいかに変えたか〜(中川大地) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.328 ☆

    2015-05-22 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    「ゲーム」からみた「伊藤計劃以後」〜コンピュータゲームのあゆみはフィクションの想像力をいかに変えたか〜(中川大地)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.5.22 vol.328
    http://wakusei2nd.com


    『虐殺器官』『ハーモニー』『屍者の帝国』のアニメ映画化/連続公開が今秋に迫り、没後6年にして再び注目を集めつつある伊藤計劃。その伊藤計劃の作品の現代性とは何だったのか――『ゲーム史』連載中の中川大地が、「純文学」「SF」「ゲーム」の3つのジャンルをキーワードに考察した論考を配信します。

    画像出典:Project Itoh 公式サイト スクリーンショット
    初出:S-Fマガジン 2011年 07月号(早川書房)※一部改稿
     
     
    ■ フィクション表現の変化の震源だった「ゲーム」
     
     周知のように、1974年生まれの伊藤計劃は、幼少期にファミコンブームによるコンピュータゲーム産業の立ち上がりを経験し、その発展を血肉化してきた世代の精神性を最も濃密に体現する作家の一人である。デビュー作『虐殺器官』が、小島秀夫監督の『ポリスノーツ』や《メタルギア》シリーズから決定的な影響を受けているように、その想像力は日本ゲームの進化とともに歩んできたものと言える。
     したがって「伊藤計劃以後」を展望するための補助線として、本稿ではゲームの発展史がフィクション表現の想像力に与えてきた影響を改めて把捉し直しておきたい。
     
     伊藤個人の作家性に限らず、ゲームというカルチャージャンルの勃興と定着は、ここ20年あまりの日本の社会文化全般にとって、きわめて本質的かつ甚大な影響をもたらした変化の震源地であった。なぜならそれは、高度経済成長を終えて「実用」の領域では劇的な進歩が望めなくなった1970年代後半以降の日本にあって、唯一日進月歩の技術進歩を実感させてくれるコンピュータなる道具が不要不急の「遊び」の多様化を通じて人々の生活の中に入りこんでくるという、かつてない生活体験の変容そのものだったからである。
     言い換えればコンピュータゲームは、人々が初めて接した最も純粋なかたちの消費社会の体現物であり、インターネット普及以前にあっては最も実感的に情報化社会なるものの手触りを味わえるマスプロダクトに他ならなかった。
     
     かくして、高度成長期的な進歩への「夢」の名残を背負いながら、まずは「玩具」とカテゴライズされる生活の異物として登場したゲームは、1980年代のファミコンブーム期に《ドラクエ》シリーズのヒットなどストーリイ表現を伴うゲームが一般化したことを機に、しだいに独自のコンテンツ価値を持つ「作品」としての性格を認知されてゆく。特に1990年代以降、隣接するオタク系カルチャーのメディアミックス展開や、プレイステーションの成功によって音楽CDと同じ光学メディアによるパッケージソフト流通の方式が定着すると、この傾向はさらに顕著になものとなる。
     こうした著作物性の前面化と、ポリゴン表現によるグラフィックスの3D化によって、この時代の大作ゲームは、急速に先行する総合視聴覚表現である映画を強く意識したものとなっていった。例えば伊藤計劃が最終作のノベライズを手がけた《メタルギア・ソリッド》も、こうした潮流の中で登場してきた「映画的」ゲームの最も代表的なシリーズである。
     
     そしてゲームが産業資本によるメディア・テクノロジーのイノベーションの勢いのままに既存コンテンツジャンルの表現を旺盛に取り込んでいった動きの反作用として、逆にゲーム独自の体験性が旧メディアに輸出されていった例も枚挙に暇がない。
     最も素朴な意味ではRPGによる「剣と魔法のファンタジー」の意匠やキャラクターメイキングの作法がライトノベルの成立を促したことや、「努力・友情・勝利」の精神論的なドラマツルギーが制していた少年マンガにおけるカードゲーム的な戦術性の導入、AVGなどにおける繰り返しプレイの経験を劇化した「ループもの」や善悪の規範ではなく等価なプレイヤー同士が不条理なルール設定の中で戦い合う「バトルロワイヤルもの」の流行など、形式・内容の両面でゲームの前提なしには成立しえない表現が1990〜2000年代のフィクションの潮流を牽引した。
     つまり批評家の東浩紀が『AIR』や『ひぐらしのなく頃に』など美少女ゲームの影響圏に限定した作品から論じた「ゲーム的リアリズム」や、宇野常寛が諸ジャンルのコンテンツについて社会反映論として展開した「ゼロ年代の想像力」は、より直接的にはまさにコンピュータゲームを通じて形成されていった広範な文化再編の一部として捉え直すことができるのである。
     
     
    ■「文学」から「ゲーム」への移行が意味するもの
     
     以上見たようなジャンルの再編をともなうゲーム発のフィクション変動の意義を、より本質論的な観点から位置づけるなら、それは近代という文明パラダイムの中でリアリズムを基軸とする指導理念の下に諸文化の中核として編成されてきた「文学」という装置の機能と地位が、事実上は「ゲーム」によって置き換えられつつあることを示している。
     どういうことか。そもそもリアリズムに基づく純文学とは、先近代の神話や戯作のように単純・荒唐無稽で恣意的・予定調和的に見える幼稚な物語を批判し、現実の複雑さを科学を範とする理性的省察によって描出しようとする精神性から生み出されたものであった。
     だが、近代社会が成熟していく過程で国民国家とセットになった理性的自我という観念の虚構性が明らかになるにつれ、しだいに文学は前衛としての役割を失っていく。現実の複雑性を描出しようとする物語批判の動機は、むしろ分裂症的な主体や言語的表層の難解な文体操作によって純文学を延命させようとする修正主義としてのポストモダニズムなどに転化していくが、正味の社会的なインパクトは喪失の一途にあったという他はない。
     
     そうした中で、コンピュータゲームの登場によって20世紀の終わりから人類史上空前の規模でゲームなるものが普及し、フィクションの世界と結合したことは、文学の存立基盤にとっても巨大な意味を持っていたと言える。なぜなら、ゲームと物語は、ともに人間が外界の情報から材を得て虚構的な領域を形成するという現実加工の営みである点は共通していながら、その構成法がまったく異なるものだからである。
     物語とは、基本的に人間が知覚経験を通じて得た情報ストックの中から個々人の主観的な認知バイアスによって取捨選択や圧縮を施し、事物の因果を暫定的に関係づけていく解釈作用によってシリアルに形成される、認知コストの低減のための記号化過程である。
     対してゲームの場合は、ケイティ・サレンとエリック・ジマーマンによる最近のゲーム研究の標準書『ルールズ・オブ・プレイ』での概念整理に従うなら、窮極的には数学的に表現可能な「ルール」に基づくシステムを要件として備え、現実の時間と空間の中から「魔法円(マジックサークル)」などと称される「遊び」の領域を異化し、ルールの策定者にとっても予測不可能な経験を創発していく「可能性の空間」を生成する営みである。
     
     つまり、ゲームは本質的に非物語的な現実経験の産生エンジンとしてあり、従来の物語では描かれえなかった現実性が自ずと備わりやすい性格を有している。
     例えばアクションやシューティングにおいて、制作者の想定外のプレイングがゲームの醍醐味を引き出してきた例は数限りなくあるし、RPGなら通常の英雄物語では描かれないようなザコ敵とのランダム遭遇を避けられなかったり、物語の筋立てとはまったく無関係なパラメータ的事情や選択ミスによって死に至るような理不尽もままある。
     そうした物語的な収まりの良さを逸脱する体験性を様々なレベルで有するゆえにこそ、ゲームの伸長は純文学が志向する「物語の中での物語批判」というミッションを別のかたちで置き換え、各フィクションジャンルの想像力にインパクトをもたらす中心源たりえたのではないだろうか。
     
     
    ■「日常化されたSF」としてのゲームと伊藤計劃の作家性
     
     もうひとつ、純文学の中心性と並んで、ゲームによって成立基盤に侵食を受けてきたジャンルが存在する。同時代の支配的な先端技術が開きうる可能性を外挿し、それをフィクション上の世界律として組み直して作劇に活用する文芸手法、すなわちSFである。
     
     すでに述べたように、人々にコンピュータ技術がなしうる「夢」を可能性の段階から体感させる装置であったゲーム機の歴史にあっては、何か大きな技術的イノベーションがあるたびに「まるでSFのようだ」という感慨が決まり文句のように寄せられるというプロセスが繰り返されてきた。これは裏を返せば、SFが純然たるアイディアの力によってセンスオブワンダーを与えることの敷居がきわめて高くなったことを意味する。
     実際、80年代に発展して情報技術と身体の関係性の考察を押し進めたという点でコンピュータゲームとは双子のような関係にあるサイバーパンクを最後に、本質的なパラダイムの次元ではジャンルSFは同等以上の潮流を起こせていない。
     

    【ここから先はPLANETSチャンネル会員限定!】
    PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は5月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201505

     
  • 楽器と武器だけが人を殺すことができる――井上敏樹が『海の底のピアノ』で描いた救済 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.049 ☆

    2014-04-10 07:00  
    509pt

    楽器と武器だけが人を殺すことができる
    ――井上敏樹が『海の底のピアノ』で描いた救済
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.4.10 vol.049
    http://wakusei2nd.com

    今回の「ほぼ惑」は宇野常寛による、8000字にわたる井上敏樹論です。彼が『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー555』から、新作小説『海の底のピアノ』へ引き継いだ問題意識とは? そして、『衝撃!ゴウライガン』で示された、世界を変えるための想像力とは――?
    初出:ダ・ヴィンチ2014年4月号 KADOKAWA
     もし21世紀の日本でもっとも重要な作家は誰かと尋ねられたら、僕は間違いなく井上敏樹の名前を挙げるだろう。
     井上敏樹は1959年、脚本家・伊上勝の長男として埼玉県に生まれた。伊上勝は『隠密剣士』『仮面の忍者 赤影』など日本のテレビ草創期から児童向けの時代劇や冒険活劇などを手掛けるヒットメーカーとして知られた存在だった。(ライターの岩佐陽一は「主人公の必殺技にリスクがあり、敵がそこを攻めてくる」「敵が裏切りを偽装して主人公に接近するが、それをきっかけに改心し任務と心情の狭間で苦悩する」「リタイアした歴戦の勇士が悪の組織に人質を取られ、心ならずも主人公に戦いを挑む」といったヒーロー番組に頻出するプロットを伊上の「発明」だと指摘している。)そんな伊上の最大の代表作は1971年に放映開始された『仮面ライダー』シリーズだった。仮面ライダーは社会現象と言えるブーム(第二次怪獣ブーム/変身ブーム)を起こし、70年代を通して国民的ヒーロー番組に成長していったが、作家としての伊上は70年代の末には壊死しつつあったという。
     晩年の伊上は酒に溺れるようになり、そして、当時大学生だった井上敏樹は「借金しか残さなかった」父親を傍らに家計を助けるという目的もあってアニメの脚本を手掛け始めた。やがて井上敏樹の名前は『鳥人戦隊ジェットマン』(1991~1992年)、『超光戦士シャンゼリオン』(1996年)など、東映特撮ヒーロー番組を通してファンの間に知られるようになる。その作風は1話完結パターンの発明と再利用に長けた父親のそれとは真逆のものだった。井上敏樹が得意とするのは特撮ヒーロー番組の長い放映期間を活用した複雑な群像劇の展開と、パターン破りによる問題提起的なストーリーだった。
     そして2001年、井上敏樹は父・伊上勝の手がけた仮面ライダーについにメインライターとして関わることになる。井上は『仮面ライダーアギト』(2001~2002年)にて全51話中50話を手掛けた。僕の知る限り、「アギト」は90年代を席巻したアメリカのサイコサスペンスドラマ(『ツイン・ピークス』がその代表例だろう)のノウハウの輸入とローカライズにもっとも成功した作品である。三人の仮面ライダー(主人公)を軸に膨大な登場人物が絡み合いながら、ある客船の遭難事件に端を発する巨大な謎を解き明かしていく。しかも、三人の主人公の三つの物語は互いに絡み合いながらも、物語の後半まで決して合流しない。そしてクライマックスでの合流の後、エピローグでは再び三つに分かれていく。僕の知る限り、こんなアクロバティックなドラマを一年間(全50話)展開し、破綻なく描ききった作家はいない。
     しかし、それ以上に僕が衝撃を受けたのは、井上が本作で示した人間観と世界観だ。同作には複数の仮面ライダー(劇中では「アギト」と呼ばれる)が登場するが、この「アギト」とはいわゆる超能力者のことだ。そしてこの超能力者(アギト)たちが、自分の居場所を発見していく過程が物語の軸になる。
     ここで僕たちは初代「仮面ライダー」が(特に石森章太郎の原作版で)「異形」のヒーローとして描かれていたことを思い出すべきだろう。原作漫画において仮面ライダー1号=本郷猛は感情が高ぶるとその顔面に改造手術で受けた傷跡が浮かび上がる。その醜い傷を隠すために本郷は仮面を被り、自らを拉致しサイボーグにしたショッカーと戦うのだ。
     そして同作に登場する超能力者たちもまた、ことごとくその過去の体験から精神的外傷(トラウマ)をもつ。この世界ではトラウマと超能力が、比喩的に深く結びついているのだ。その結果彼らはその傷を埋め合わせるために力(超能力)を行使し、そしてその結果ことごとく命を落としていく。そしてその一方で、この物語には「いま、ここ」にある快楽に全力でぶつかっていく人々が登場する。彼らは生活自体を楽しみ、ことごとくよく食べ、よく楽しみ、そしてよく恋をする。そして彼らは劇中においてまったく命を落とすことなく、ほぼ全員が最後まで生き残っていく。そして彼らは全員アギト「ではない」普通の、超能力を「もたない」人間として設定されているのだ。これはなかなか悪意のある設定だと言えるだろう。
     特に「食べる」というモチーフに井上の意図は明確に表れている。『仮面ライダーアギト』はヒーロー番組とは思えないくらい、食事のシーンが多い。登場人物たちは、何かにつけて家庭の食卓を囲み、外出先でサンドウィッチをむさぼり、屋台のラーメンを啜り、そしてストレスが溜まると焼肉屋で飲み明かしそれを発散する。そしてこれらの「食べる」という行為はどれも生き生きと描かれ、視聴者の食欲を誘う。(特に焼肉については、当時狂牛病問題で牛肉の消費が下がっていたため同番組は関連機関から感謝状を贈られているほどだ。)
     そして、ほとんど毎回のように描かれる食事のシーンが、前者(超能力者=アギト)にはほとんどなく、後者(非超能力者)に集中しているのだ。
     そんな哀しき超能力者=アギトの中で唯一例外的な存在として描かれるのが主人公の津上翔一(仮面ライダーアギト)だ。翔一は、この物語の中で唯一トラウマを持たない。と、いうかそもそも記憶喪失で過去のことをほぼ覚えていない。しかし、そのことを本人はあまり気に留めておらず、居候先での「主夫」生活を楽しんでいる。趣味は料理を作ることで、毎日のようにユニークな創作料理を手がけ、他人に振る舞おうとする。当然、自身の食事シーンも多い。
     そう、翔一は劇中に登場する唯一の「もの食う」超能力者だ。そもそも記憶のない翔一は、トラウマに捉われない。したがって自身の超能力(仮面ライダーへの変身能力)にもこだわりはなく、警察の尋問にあっさりと「実は僕、アギトなんですよ」と答えてしまう。物語の終盤、記憶を取り戻してからもその佇まいは変わらない。「津上翔一」とは記憶喪失中に仮に与えられた名前だが、彼は物語後半に判明した本名にも関心がなく周囲の人間には好きなように呼ばせてしまう。翔一は、世界に与えられたもの(記憶、名前、超能力)に関心を示さない、ある種超越した存在だ。彼を支えるのは「食べる」ことが象徴する、「いま、ここ」の世界から快楽を、生きる力を汲みだす思想だ。そして物語では、ほとんどの仲間たちが死にゆく中、翔一に感化された超能力者たちだけが生き延びていく。
     かつて伊上勝は石森章太郎の描く悲劇的なドラマツルギーを、痛快娯楽活劇の「パターン」に落とし込むことで事実上無効化していった。しかしその息子の井上敏樹は、石森的なものを継承しながらも、その世界観を完全に反転させたのだ。
     そして『仮面ライダーアギト』と双子の関係にあるのが、井上が全50話の脚本をすべて手掛けた『仮面ライダー』(2003~2004年)だろう。同作には、「アギト」同様、超能力(モンスターへの変身能力)をもつ人類の亜種が登場する。オルフェノクと呼ばれるその亜種は、人類を特殊な方法で殺害する。そして殺害された人類は一定の確率でオルフェノクとして蘇る。こうしてオルフェノクたちは密かに勢力を拡大していく。主人公の青年・乾巧は偶然手に入れたベルト(仮面ライダーへの変身能力を付与する)を用いて、人類を襲うオルフェノクたちと戦うことになる。
     津上翔一と乾巧はコインの裏と表のような存在だ。陽気でコミュニカティブな翔一に対して、巧は周囲に心を開くことを苦手とする。料理好きの翔一とは対照的に、巧は猫舌でほとんど「食べる」ことを楽しめない。そして翔一がアギトであったように、巧もまたオルフェノクであることが判明する。(本作におけるオルフェノクはいわゆる「怪人」に相当する。そう、『仮面ライダー555』は仮面ライダーと怪人が「同じもの」であるという初代「仮面ライダー」の世界観に回帰した作品でもあるのだ。)
    『555』でもまた、井上はアクロバティックな脚本術を披露している。『仮面ライダー555』では物語が進行するとオルフェノクは誕生と共に壊死の始まる種であり、既にその存在が滅亡する寸前であることが明かされていく。そして、物語も巧を含むオルフェノクたち(登場人物の大半)が壊死していく未来を示唆して、終わる。要するに同作は予め滅びの運命を刻印されていた人々が、そのときを迎えるまでの短い時間を描いたものだった、と言えるだろう。実際に、同作の展開を俯瞰するとベルト(仮面ライダーへの変身能力)と人間関係(主に恋愛関係)の移り変わりが存在するだけで、同作の世界には何も本質的な変化は起っていないのだ。
    『555』には海堂直也というオルフェノクが登場する。
     かつて天才的な才能を示し、音楽家(ギタリスト)としての将来を嘱望されていた海堂だが、その才能を妬む人物により事故を仕組まれ、指の神経を失ってしまう。以降、海堂は自暴自棄な生活に溺れるようになり、やがてオルフェノクとして覚醒する。オルフェノクとなった海堂は、やがて自分に匹敵する才能をもった若いギタリストにその夢を託し、そしてすべてを清算するために愛用していたギターを階上から放り投げて、壊す。
     しかし、以降の海堂は夢(生きる目的)を失い、迷走する。あるときはベルトを入手して(仮面ライダーとなって)人類に加担するオルフェノクを排除しようとする。またあるときは逆にオルフェノクから人類のを守るために奮闘する。しかし海堂の心は満たされない。
     海堂は劇中で語る。「夢ってのは呪いと同じなんだよ。呪いを解くには夢を叶えなければ。でも、途中で挫折した人間は、ずっと呪われたままなんだよ」──アギト=オルフェノクとはまさにこの「呪い」を受けた存在だろう。しかし『555』の主人公・巧には「夢」がない。正確に言えば(オルフェノクである自分の人生に絶望しているため)「夢」を抱くことができないのが巧の「呪い」だ。したがって巧はもっとも救済され得ないオルフェノクとして描かれる。『555』という物語はそんな巧の救済をめぐる物語だと言えるだろう。
     そして物語の結末で、巧はその死(の暗示)によって救済される。巧は長い闘いを経て「夢」をもつことのできない自らの宿命を受け入れる。「夢=呪い」から自由になった巧の立つ場所は翔一のそれと同じ地点だと言える。しかしその救済の瞬間は同時に彼の死が暗示された瞬間であり、物語の結末でもある。ここには翔一的な超越を、徹底して作品世界から排除しようとする井上の意図が感じられる。こうして考えると、同作は津上翔一のような超越者(アギト=オルフェノクであるにもかかわらず、「食べる」ことができる)を設定することなく、井上の世界観を追求したものだと言える。
     そもそも「食べる」というモチーフは、井上敏樹の作品において世界への肯定の象徴であると同時に、執着を持たないことの象徴でもあった(津上翔一の描写はその最たるものだろう)。「食べる」という行為は一瞬で快楽をもたらし、そして一瞬で終わる。要するに、井上敏樹にとって「食べる」=世界を肯定することと「夢=呪い」をもたないことは等号で結ばれているのだ。
     だとすると井上がその作品世界から翔一的な超越者を排除した理由が浮かび上がる。そう、『555』で「食べる」ことではなく「夢=呪い」を主題にすえた井上の意図は明らかだ。井上の本作におけるねらいはただ滅ぶだけの、世界を肯定できない呪われた存在たち=オルフェノクたちの目を借りてこの世界を描写することだ(前述したようにこの作品には事実上「展開」が存在しないのだから)。
     そして、井上敏樹の最新作となる小説『海の底のピアノ』は、井上が『555』で掴み出したものに10年の歳月を経て再びアプローチした作品だと言える。 
  • ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.009 ☆ 井上敏樹の退屈だけが、文学として機能する――小説『海の底のピアノ』をめぐって

    2014-02-13 07:00  
    220pt

    井上敏樹の退屈だけが、
    文学として機能する
    小説『海の底のピアノ』をめぐって
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.2.13 vol.009
    http://wakusei2nd.com


    ジェットマン、シャンゼリオン、アギト、そしてファイズ……井上敏樹は特撮ドラマを中心に多数のシナリオを手がけてきました。そんな彼が2月7日に上梓したのが、小説としては処女作となる『海の底のピアノ』です。今回は、この作品を読み「改めてきちんと語ってみたくなった」と語る宇野常寛が、その魅力あふれる作品たちを振り返りながら「愛と欲望と情念の交錯する」井上作品を解き明かします。

     
    ※ 以下、宇野が語った内容を編集部が構成しています。

     
     

    ■ 日本であんなことをやってのけたテレビドラマって多分他にはない
     
    僕はたぶん平成仮面ライダーシリーズについては、史上最も多く評論を書いた人間だと思う
    (http://www.amazon.co.jp/dp/4344020243)
    のだけど、井上敏樹という作家個人については、あまり語ったことはない。でもこの『海の底のピアノ』という小説を読んで、改めて井上敏樹という作家についてきちんと、語ってみたくなった。
    井上敏樹という作家はインタビューを注意深く読むと思うけれど、ああ見えてものすごく自己批評的で、手法に自覚的な作家なんだと思う。平成仮面ライダーの中では『アギト』『555』が自信作なのだけど、『キバ』はあの80年代と現代を往復する物語構造とそれを毎回30分に収める手法を生んだところで力尽きてしまった、という自己評価らしい。批評家としては制御しきれていない作品だからこそ、あの作品の端々には井上さんの無意識が、本質が現れているようにも思うのだけど。
    井上さんってあの人の家に行くと分かるんだけど、部屋に置いてあるのは海外文学と古い映画と海外のテレビドラマと日本の漫画、あとは料理と骨董と武道の本が積んである。あまり整理する気はないみたいで、ただ積んである。井上敏樹という作家を考えるときに、日本の特撮ヒーローの枠組みだけで考えるのは、あまりいい攻め方ではないよ。僕はそのうち『ヒカリアン』や『ギャラクシーエンジェル』のアニメ版を含めた、要するにコメディ作家としての側面も含めた井上敏樹論を書くつもりで、そのときに手がかりになるものはないかなと思って部屋に行くたびに本棚に目を光らせている(笑)。
    たとえば僕は、90年代のアメリカン・サイコサスペンスの日本輸入でいちばんうまくいったのは、『仮面ライダーアギト』だと思う。あの番組は視聴率も高かったし、一年間30分×50話の群像劇を、それもあれだけ謎解きも人間関係も入り組んだ大河ストーリーを破綻させなかった作家って井上敏樹だけだと思う。特にいまだにすごかったと思うのが、あの作品、三人の仮面ライダーのストーリーが中盤までほとんど独立して進行していて、実はきちんと合流するのは後半の木野薫が死ぬエピソードの周辺だけなんだよ。ほかは、少しづつ絡み合って――この絡み過ぎない塩梅が絶妙なんだけれど――いるけれど基本的には独立している。そして気が付いたら合流してクライマックスでに流れ込む。そして、エピローグではまた分離していく。これは相当アクロバティックな脚本術だったと思う。しかも一個一個のキャラクターも限られた分数の中で最大限魅力的に描き出すという荒技をやっていて、テクニカルに僕が一番すごいと作品はやっぱり『アギト』だと思うんだよ。日本のテレビドラマ史の中でもスバ抜けている。
    そして、この『海の底のピアノ』のストーリーテーリングは間違いなくあの『アギト』の延長線上にある。どこまでネタバレしていいのか分からないけれど、これ、一応恋愛小説なのに二人が出会うのは物語のだいぶ後半だからね。そう、出会うまでに半分使っちゃうの(笑)。
    ただ、この小説の世界観は、むしろ『仮面ライダー555』を昇華したものだと思う。誰が、どう考えても作家・井上敏樹の抱えている世界観を究極に近いところまで表現しちゃっているのは『555』だからね。それはご本人もたぶんそう思っている。井上さん自身も、たぶんあの作品を一年かいて自分の中から出てきたものに戸惑っているところがあると思う。だからこの小説を書いたんじゃないかってくらい、あれは大きなものを残している。
    僕もだいぶあの作品については書いてきたけれど、『555』は特撮ヒーローという枠組みを超えて少なくとも国内のサブカルチャー史の中では少し特別な位置を占めつつある。あれからもう10年以上たつけれど、未だに綾野剛がテレビドラマに出ると「澤田」だってツイッターで騒がれるし、毎年9月13日には「カイザ祭り」が行われている(笑)。平成ライダー第一期の中で初めてBlu-ray化されるのも『555』っていうのも、はっきり言ってしまうとコアなファンが十年間騒ぎ続けていたからだと思う。
    少し前に、井上さんと『555』について話していて愕然としたことがある。「あれ(『555』)って実は何もない話なんだ。オルフェノクってのは黙っていれば勝手に滅ぶんだから。実は何も起こっていない話なんだ」とかぬけぬけと言うんだよ(笑)。
    たしかに、『555』というのは究極的には、ボーイズ・ラブ的なものも含む恋愛関係のソーシャルグラフとベルトの持ち主が入れ替わるだけで、本質的には一年間何も物語が進行していない。物語中の大状況や世界の構造は一切動いてなくて、単にベルトの持ち主と恋愛感情が変わるとドラマがあるかの様に視聴者は錯覚している。そして井上敏樹という作家は最初からそのつもりだったんだと思う。そうじゃないと、オルフェノクという存在を描かないし、ましてや主人公にはしない。要するに、ただ滅ぶだけの存在から世界がどう見えるのか、ということを描きたかったんだと思う。最初からね。確信犯なんだよ。
     
     
    ■ ホントは食べてそのまますごく快楽を得て、一瞬で消えていくモノにしか興味がない人。
     
    僕等が井上敏樹の作品を観たときに感じる壮大なペテンに引っかかったような気持ちっていうのは、当然だけど本人は意図して仕掛けている。そして、それはあの人自身の作家として抱えてきた世界観、哲学の様なものに深く結び付いてる。
    たとえばあの人は、一言で言うと稼いだ金をひたすら食べることに使う人なんだよ。