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京都アニメーション 2ストロークのリズム(後編)|石岡良治
2024-02-29 07:00550pt
今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「京都アニメーション」論をお届けします。現代アニメシーンとの直接的な接続を見出せるであろう、2010年代の京アニ作品を歴史的にどのように位置付けるべきか。「けいおん!」や「Free!」シリーズ、『氷菓』などをメルクマールとして、ゼロ年代的感性の転換を経た現代アニメ史の一つの系譜をたどります。 (初出:2023年9月29日放送「石岡良治の最強伝説 vol.66 京都アニメーション作品」、構成:徳田要太)前編はこちら:京都アニメーション 2ストロークのリズム|石岡良治
バンドアニメとしての『けいおん!』から考える時代性
『けいおん!』についてもう少しコメントすると、これも『CLANNAD』と同じく「2ストローク」のリズムで2シーズンの物語を描いた作品です。個人的にはテンポの良さからして1期のほうが好みではありますが。
正直当時は『けいおん!』を「バンドアニメ」としては見ていませんでした。いま聞くとサントラのクオリティがとても高いと思うんですが、当時は「いや、これはロックバンドのアニメではないのでは?」と難癖を付けていたタイプですね。2022年の『ぼっち・ざ・ろっく!』との違いは何かというと、『ぼざろ』の楽曲が邦ロックとして完成度が低いなどと言っている人はごく少数派だということです。これはフレームが逆転したと思います。むしろ当時は『けいおん!』の楽曲が「ロックとしてすごい」と言うほうが難易度の高い批評行為だったと思います。
『映画けいおん!』(2011)はロンドンに行くエピソードで当時は大丈夫かと心配したんですが、しっかりリアリティラインを保っていましたね。裕福な家庭で育った女子高生がフェスで大成功を収めるとかそこまでの達成ではなく、ちょっとした日本にかんするフェスでライブをしたという、あり得る程度の描写に収まっています。ただ、ここはやはり現在とは時代が違っているところもあって、いま『けいおん!』を放送したら貧困キャラがいないことを理由に嫌われていた可能性もあると思います。『ぼざろ』には廣井きくりという風呂なしアパートのお姉さんキャラがいますし、『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』でも主要キャラに貧困キャラがいないと思いきや、まさかの超貧困キャラの存在が最終回で明らかになりますからね。日本のアニメはそこまで変わってしまいました。今だったらいわゆる「きらら系」を含めて、一人くらいは貧困キャラがいないとリアリティーがないと言われてしまう時代だと思うので、隔世の感がありますね。
このテーマをどこまで遡れるかというと、恐らく『きまぐれオレンジ☆ロード』(1984〜)くらいからでしょう。同作の主要キャラが住んでいるマンションは80年代で言うゴージャスマンションで、いま見ると少し古い、いわゆるバブルマンションです。ちょうどあれぐらいから貧困キャラが減っていって、つまり80年代後半ごろから続いた世界観が、とうとう2010年代に終わったということですね。
そう考えると『中二病』と『氷菓』(2012)には生活感があると思います。なお『氷菓』のエンディングでは少女キャラのフェチ表現が盛り込まれていて、これが一部視聴者からの顰蹙を買っていました。つまり『ふもっふ』から『AIR』のノリで、男性オタクノリの身体フェチ表現を「エンディングだからサービスしてもいいよね」と思って実践してみたら作風に合わないと判断されたわけです。これは結構重要なことだと思います。実はこれこそが私の現代アニメに対するモチベーションで、2010年代ぐらいから男性向けの女性身体表現、つまり覗き見アングルとボディーパーツ強調表現の扱いが変わっていって、その「終わりの始まり」が『氷菓』に見出せるわけです。
フロンティアとしてのアニメ表現
『Free!』にもさらに触れておこうと思いますが、私は凛といういわゆる「ギザ歯」キャラがお気に入りです。なぜギザ歯キャラを好むかというと、恐らく歯列矯正をしいてない人のアレゴリーだからでしょうね。凛は違いますが、かなりの確率で貧乏キャラなんですね。
『劇場版 Free!-the Final Stroke-』(2021、2022)のネタバレを含みますが、これは終盤のオーストラリアのシーンがポイントです。現地の踏切で電車が通り過ぎたとき、主人公の遥と凛が線路を挟んで向き合うんですね。そして遥と凛がメインカップルのようでいて、必ずそこに真琴が割り込むという構図を最後まで徹底していました。遥が「受け」となっているようでいながらその他のキャラたちを攻略する(ここは解釈がわかれるところですが)、ある種のハーレムラブコメの様相を呈しています。
作中にはスウェーデン出身のアルベルトという、世界記録保持者が登場し遥と対決するわけですが、この辺りのリアリティラインの保ち方は巧みだと思います。つまり遥は個人種目の100m自由型では敗北するんだけれども、100m×4の団体リレーでのタイムではアルベルトを超えるわけですね。ギリギリファンタジーとして成り立つところに落とし込んでいます。
『Free!』は長く続いているシリーズなだけあって、京アニ作品では意外と独自の立ち位置を示していると思います。一見するとひたすら上半身裸のメンズたちをサービスし続けるだけの作品に見えるかもしれませんが、私は実はこの作品には出崎統イズム、あるいは梶原一騎イズムとでも言うべき思想が宿っていると思います。つまり『巨人の星』『エースをねらえ!』のようなスポコンものの王道です。昭和期には「世界最強が日本人ではない競技で日本人の天才がどこまでやれるのか」という問題に挑んだ作品がいくつかあって、梶原一騎はその典型でしょう。ところが現代では、大谷翔平や藤井聡太などフィクションのリアリティーラインが書き変わるレベルの競技者が登場しているので、遥の活躍は現実的に許容できる範囲に収まっています。そう考えると『Free!』は実はしっかりスポーツものの作品として作られていたことがわかります。
また2023年に第2期が始まった『ツルネ』では、女性が嫌悪感を抱かずに済む、それでいてイリーガル感がありそうでない絶妙なラインに落とし込んだ、小学生少女と高校生によるカップリング要素を堂々と展開しています。一度最盛期を極めたアニメスタジオは安定して緩やかに老舗となっていく道をたどると思うんですが、私はこれらの要素はどちらも現在のアニメに求められている表現としては十分フロンティアだと思っています。
通過儀礼からの超越
さて、冒頭で紹介した「通過儀礼」および『現代アニメ「超」講義』で論じた彼岸への超越の断念、「川を渡ること」「カップルが同じ方向を見つめているけれど違うものを見ている」という主題は次のようなことに関係しています。
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京都アニメーション 2ストロークのリズム|石岡良治
2024-02-27 07:00550pt
今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「京都アニメーション」論をお届けします。『CLANNAD -クラナド-』をはじめとするゼロ年代の代表作で確立された制作スタイルは、どのように現代まで継承されているのか。近年話題を集めている『響け!ユーフォニアム』最新シリーズ以降の展望も交えつつ、元請スタジオとしてアニメ史に名を刻んだ「京アニ」の約20年間を振り返ります。 (初出:2023年9月29日放送「石岡良治の最強伝説 vol.66 京都アニメーション作品」、構成:徳田要太)
「京都アニメーション 2ストロークのリズム」というテーマで京アニ作品について分析しようと思います。「2ストロークのリズム」が何かは後述しますが、シンプルに言うと『CLANNAD -クラナド-』(2007〜)と、続編にあたる『CLANNAD 〜AFTER STORY〜』(2008〜)のように、シリーズの第1期終了から少し期間を空けてから続編を展開するパターンをモデルにすることができます。最近の作品では「ツルネ」シリーズもそれにあたります。
今回はファン・ヘネップ『通過儀礼』(岩波文庫、2012)での論をもとに分析していきます。京都アニメーションの青春もの、たとえば『MUNTOシリーズ』では、あるヤンキーカップルが川を渡り切ったあとで周りのキャラクターたちが拍手するシーンがあるわけですが、ああいうのはまさに通過儀礼ですよね。
このテーマは青春ものでは重要ですし、それに加えて私は宮崎駿アニメを「ゆきて帰りし物語」としてプロット化するよくみられる慣習も実際には通過儀礼の言い換えだと思っています。儀礼というのは簡単に言うと祭りのことで、まず一般社会から分離して何かイベントを行う。その後もう一度社会に戻ってくるということで、これがいわゆる「ゆきて帰りし物語」ですね。ポイントは「PASSAGE」という言葉で、和訳すると「通過」「通路」といった意味になります。ヴァルター・ベンヤミンの「パサージュ論」の「パサージュ」はアーケード商店街の原型のような場所ですが、、近代における消費の場としての通路の重要性を説いています。これはあらゆる成長モデルを、事実上の通過儀礼モデルとしてみなすことが可能だということです。しかしポイントは「何でも『成熟』でいいのか?」という問題で、この辺りはやはり改めて捉え直してみる価値があると思います。「青春もの」に対して「テンプレ的ないい話」とみなして嫌いな人は一定数いますよね。なぜ嫌うかというと、おそらくは通過儀礼の3区分(分離、過渡、統合)のうちの「統合」に回収されてしまうからでしょう。
これを典型的に示している京アニ作品といえば『中二病でも恋がしたい!』(2014)、とりわけ主人公の小鳥遊六花です。彼女は『マビノギオン』などのウェールズ神話を読みまくるような世界に閉じこもっていたところから、恋をすることで(一般社会への統合を経て)成熟したわけですよね。その落とし所が「教育的」にみえるのは否めないかもしれません。
また、逆に「統合が欺瞞である」と主張したい場合には、「終わりなき過渡期」というものに直面する必要があると思います。こうした問題は、子ども向け作品にとどまらないとはいえどこかで「成長」が問われるアニメを語るときには、必ず問われてしまうものだと思っています。
2023年時点での京アニへの展望
それでは具体的な作品について、現時点での最新作『特別編 響け!ユーフォニアム アンサンブルコンテスト』(2023)から話を始めようと思います。この作品は京アニにとって良いきっかけになったのではないでしょうか。というのは、同時期に放送されていてわたしをはじめとした一部のアニメファンの話題をかっさらった作品に『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』(2023)があります。こちらのシリーズ構成・脚本を務めた綾菜ゆにこと、『ユーフォ』の原作者・武田綾乃との対談があります(「アニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」綾奈ゆにこ×武田綾乃対談」)が、ここで興味深いのが、武田が『ユーフォニアム』の番外編『飛び立つ君の背を見上げる』では「尖ったことをやっている」と明言していることです。私はこの対談の勢いに乗って、京アニが『飛び立つ君の背を見上げる』をアニメ化すべきではないかとすら思っています。この対談では二人とも「百合」について熱く語っていますが、言うなれば「ドロドロ展開の百合もの」は勢いを増しているように思われるジャンルなので期待しています。京アニの今後の一つのフロンティアとして強く推していきたいところですね。
もう一つ、2023年6月にKAエスマ文庫に動きがありました。賀藤招二の『MOON FIGHTERS!』と吉田玲子『草原の輝き』が秋頃に同時に発売されるようです。これが何の布石かというと、一時期は停滞していたエスマ文庫からの京アニメディアミックスに動きがあるということです。両方かどうかはわからないとはいえ、どちらかはアニメになるのではないでしょうか。
正直ここ数年の京アニ作品は、続編と完結編が大半だったと思うんですが、ここにきて新作のアニメ化の可能性が浮上しています。とくに2024年に放映される『ユーフォニアム』の3年生編が終わった後に、いろいろ動きがあるのではないかと思っています。
それと、『バジャのスタジオ』『バジャのスタジオ〜バジャの見た海〜』二部作についても触れておこうと思います。センシティブな話題になりますが、これは三好一朗(木上益治)が監督を務め、今はなき京アニの第1スタジオに捧げられた作品です。2019年以降NHKで放映されているので、第1スタジオの追悼となってるうえに木上益治の遺作にもなっています。この作品は『MUNTOシリーズ』と並び、この時期、具体的に言うと2019年までの京都アニメーションというのは結局木上益治によって成立していたことを示すベンチマーク的作品でしょう。木上益治はアニメーターとしても名高く、たとえば『AKIRA』(1988)において、金田が下水道に侵入するシーンや、『CLANNAD』の「風子参上」、『日常』(2011)の「校長 VS 鹿」などが有名です。こうしたクオリティの高い作画は大体彼がやっていましたし、京都アニメーションが納期をしっかり守るスタジオで、かつ安定した原画マンもたくさんいたというのは、要するに彼が育成の天才でもあったということですよね。
「通過儀礼」としての『CLANNAD -クラナド-』
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シャフトアニメと演出(ミザンセーヌ)の力(後編)|石岡良治
2023-11-21 07:00550pt
今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「シャフト」論をお届けします。 新房昭之作品や「シャフ度」などから独自の作風をみせる、シャフトアニメの「演出」的な美点とは何か。2024年公開予定の『劇場版 魔法少女まどか マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』への展望なども交えつつ考察しました。前編はこちら。 (初出:2023年8月24日放送「石岡良治の最強伝説 vol.65 テーマ:シャフトアニメ」、構成:徳田要太)
「シャフト美学」の達成と挑戦
私は『現代アニメ「超」講義』では批評的判断として意識的に「〈物語〉シリーズ」をほぼスルーしており、代わりに大沼心監督の『ef - a tale of memories.』(2007)を取り上げています。同作は個人的に大沼監督の最高傑作だと思いますし、新海誠と接点があるという点でも重要な作品です。尾石達也の美意識などがダイレクトにみられることから「〈物語〉シリーズ」のほうが「シャフト美学」を展開していると思うんですけれど、「作画」に頼らないモーショングラフィックス的な映像作りという点では『ef - a tale of memories.』のほうが優れています。ネタバレを恐れずに言うと、人工都市に関わる二つのロケーション同士の関係がギミックになっているというのがポイントです。ノベルゲームマニアに名高い『Ever17 -the out of infinity』(2002)のトリックをどこか思わせる仕掛けで、非現実的なスカスカな画面だからこそ生きる演出なんですね。かつ、私はシャフトのオープニング演出のギミックでは、『ef - a tale of memories.』をもっとも評価しています。最終回の特殊なモーションでエモーションを喚起するスタイルですね。 もう一つは『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)[2]について。あらためて正直に言うと、同作は事前情報を知った時点ではかなり懸念がありました。蒼樹うめと虚淵玄のタッグで、新房昭之がまったく新しい魔法少女を作るということだが果たして大丈夫なんだろうか、と。『The Soul Taker』と同じく意欲作かもしれないが不発もあり得るだろうと思っていました。しかしじっさいは周知の通り斬新な作品になりましたね。結果的には2011年の1月から4月という放送期間がライブ感を高めたことも作品の魅力を底上げしたと思います。 さらに言うと劇場版『叛逆の物語』の達成は、シャフト成分と虚淵成分とが混ざっていることにあると思います。一度完結した物語をさらに転調していくスタイルでしたが、私が思うに虚淵玄抜きのシャフト成分について比較するのによいのがソーシャルゲーム原作の『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』(2020)で、この作品と、虚淵玄が脚本をつとめた『叛逆の物語』との関係を考えると、近年数多くなっている「ユニバースもの」への回答になるのではないかと思っています。前提として私は『マギアレコード』のファイナルシーズンはそれなりに評価しているのですが、シリーズを通してのシナリオは正直二転三転しており、すっきりしていなかったと思っています。というのは「魔女」の設定を生かしきれていないところがあるからです。魔女は時代によっては女性のエンパワーメントとして機能したり、ときには端的な迫害対象になったりするわけですが、そのあたりを『マギアレコード』は「やや雑な相対主義」で片付けてしまっているきらいがあります。ジェンダー論的にいくらでも現代的な仕掛けを施せそうな「魔女」という設定を、存分に活用できていないのではないでしょうか。「ユニバースもの」への回答というのはそのことで、「それぞれの世界(宇宙)でいろいろあるよね」で終わらせてしまうところがあります。ここは虚淵玄が『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』で何をやってくれるかに期待したいと思います。 それでは虚淵玄成分はどこで測ればいいか。じつは、『シン・ゴジラ』(2016)の陰に埋もれてあまり評価されていない、アニメ版『GODZILLA』(2017〜)三部作が重要だと思っています。「現実の都市と結びつかないゴジラ」があまりわくわくさせないということが判明してしまった感もあり、あまり注目されなかったアニメですが、この作品には面白いところがちゃんとあると考えています。要は創世神話をやり直しているんですね。端的にいうと虚淵版の『古事記』の再話と言えます。主人公男性にはパートナー女性が二人いて、そのそれぞれが子供を産むことが示唆されたわけですが、これは言ってしまえばギリシャ神話のゼウスのようなものです。これと同じように、2024年に公開が予定されている『劇場版 魔法少女まどか マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』からかりに新たな単性生殖創世神話を作れたらなら、魔女ものの新機軸になるのではないかと思っています。 『マギアレコード』では本編のアイデアは一応全て使えるわけですが、まどかとほむらの関係という、作品世界の根幹に関わるような特大設定が存在するが故に、そこをあまり動かさない範囲内での外伝をやらざるを得ない。そこに限界があったと思います。そう考えると、結局「エヴァンゲリオン」はOPソング『残酷な天使のテーゼ』の歌詞に反して「神話」にはならなかったわけですが、『まどか』がそのチャレンジを超えて神話になることを個人的には期待しています。 私見では、シャフトには二つのチャレンジがあると考えています。一つは前編で述べたように『五等分の花嫁∽』が再確認させてくれた方向で、物語的には無に等しいマルチヒロインハーレムものなど、ジャンルとしてのルールやレギュレーションがある程度固まりきっている題材を用いつつ、「ブランコが揺れる」などの映像ギミックだけで不思議な感動を与えることができるという方向です。 もう一つは「世界そのものの悪」とは何かを問うような、世界の底が抜ける経験を掘り下げる方向です。私が過去に『叛逆の物語』について語った際、日本のポスト『デビルマン』コンテンツの良さと欠点に触れました。それは「根源悪」にかかわるものです。日本のコンテンツでは「正義なんかない」ということは描かれるけれど、おそらく「悪」は存在するということが前提になっていると思います。 しかし、優れた「世界底抜け型」のコンテンツというのは、どこかで黙示録の反作用成分として、ひそかに別の仕方で正義成分が導入されているんですね。『デビルマン』はよく読むとそうなっています。悪の原理を身にまとうダークヒーローは、単に善が気に食わないのではなく、善の名のもとに大きな悪をなす者を倒しているので、明示されない形で正義の代行者となっています。「正義の味方」というフレーズが意味しているのは大まかにはそういうことなのだろうと思います。要は単に正義がいなくなってしまうだけだと、悪もチンケなものになり、スケールが小さくなるということです。ここで序盤の話と結び付くんですけれども、黒澤明の『生きる』では、キリスト教的モチーフを薄めたことで特定宗教に縛られない普遍性を獲得した一方で、『素晴らしき哉人生』で示されたような「生きることが正義であって自殺は罪である」という道徳的な重みもまた薄れています。ここには良し悪しがあって、日本の陰謀論コンテンツの迫力が弱い理由かもしれません。基本的にアメリカで深刻な事件を起こすような陰謀論者の想像力に比べたら日本は概してスケールが小さいんですよ[3]。その辺りの問題圏を認識していると思われる虚淵玄が、このテーマに踏み込めるかどうかには期待しています。日本のエンタメコンテンツのうち優れたものは、結局アメリカの陰謀論的な要素を輸入している傾向があって、たとえば『真・女神転生』などは合衆国大統領が悪魔になるとかいう設定ですよね。多くは匂わせにとどまり迫力に乏しいのですが、時々面白いものが出てくるので、そこにも注目していきたいところです。 「日常系」と「セカイ系」は対立するとしばしば言われますけど、上述した2つの方向のチャレンジがそれぞれ「日常系」「セカイ系」に対応するものと言えるので、シャフトの「ミザンセーヌ」の力によって、どちらも実現できるのではないでしょうか。
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シャフトアニメと演出(ミザンセーヌ)の力(前編)|石岡良治
2023-11-14 07:00550pt
今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「シャフト」論をお届けします。 数々のヒット作とともに現代のアニメシーンを牽引してきたアニメスタジオの一つ、シャフト。近作では『五等分の花嫁∽』を手がけたことで改めて注目が集まっている「シャフト演出」の魅力と底力について考察しました。 (初出:2023年8月24日放送「石岡良治の最強伝説 vol.65 テーマ:シャフトアニメ」、構成:徳田要太)
「シャフトアニメと演出(ミザンセーヌ)の力」というテーマで、シャフト作品について分析してみようと思います。「演出」という言葉を「ミザンセーヌ」と読みたいと思いますが、フランス語で「セーヌ」というのは英語の「シーン(scene)」のことです。英語に直訳すると「put in scene」となり、映画における特定場面の演出のことを指します。マンガで例えれば、数ページ単位で展開する場面のことで、たとえば『SLUM DUNK』の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」のセリフが登場する一連の場面のように、そのシークエンスのユニットを切り取った部分のことを指します。いわゆる「切り抜き動画」で切り抜かれる部分がどのように作られているか。そういった視点からシャフトアニメを考えてみます。 分析にあたって『モーション・グラフィックスの歴史:アヴァンギャルドからアメリカの産業へ』(三元社、2019)という書籍を紹介しようと思います。「モーショングラフィックス」というのは一言で言えばテキストやイラストに動きや音声をつける手法のことで、言葉自体は多くの読者の方が聞いたことがあるでしょう。端的な例はソール・バス(1920-1996)が手がけた映画のタイトル画面などが挙げられると思います。
▲アルフレッド・ヒッチコック『めまい』(1958)のビジュアルポスター。タイトルバックでは映画史上で初めてコンピューター映像が取り入れられた。(出典)
これまでの国内の映像研究は物語の分析に偏っていて、こうした視覚演出が見過ごされる傾向にあったのですが、近年の研究ではこのモーショングラフィックス的な表象の映像演出を改めて見直す機運が高まっているように感じます。 「映像演出」というとアニメファンの多くはいわゆる「作画アニメ」を思い浮かべるかもしれませんが、これは「モーショングラフィックス」的な演出とはやや別物であると考えています。つまり「すごい」作画アニメと言われてるものはじつは、実験映画のように演出手法そのものを発明するようなものではなく、あえていうとその大半は「身体」の描写が精緻だということに過ぎません。極論すればバトルアクションか、窃視のエロティシズムの二つに還元されるものだと言えます。ある意味では、内容は空虚かもしれない一連の「トム・クルーズ映画」において、彼が体を張っているだけで感動するような感性と同じなわけです。 そうした面白さだけではなく、実験映画でみられたような映像演出の遺産が、どのように昨今のアニメなどのエンタメ映像作品に落とし込まれているのかを考えるには、「モーショングラフィックス」を媒介として捉える必要があると思います。たとえばオスカー・フィッシンガー(1920-1947)は「ヴィジュアル・ミュージック」の始祖的な人物で、「映像の動きと音を同期させる」という、今日のMVなどでは当たり前にみられる手法を発展させたことで知られています。彼の影響の元にディズニー映画の名作『ファンタジア』(1940)などがあり、じっさい彼は同作の一部制作に参加した後方針の違いから離脱するということもありました。こうした映像作品は多くの作家が作りたがるもので、例えば大友克洋の『MEMORIES』(1995)、あるいは庵野秀明を中心に企画された「日本アニメ(ーター)見本市」(2014〜2018)もそれに含めていいでしょう。ああいったモーショングラフィックス的な映像美学を目指した作品はいくつか存在しますが、残念なことに「物語」が映像分析の前提となっている時代環境では、製作陣の技術力に比して十分な評価は得られませんでした。 しかし、今日の日本アニメーションのグローバルな達成においては、『モーション・グラフィックスの歴史』で分析されたような視点から映像演出について考えることの意義は大きいと思っています。
2023年のシャフト再評価
さて、私がシャフトに(再)注目したのは2023年に公開された映画『五等分の花嫁∽』がきっかけでした。同時期には『君たちはどう生きるか』も含めて話題のアニメ映画がいくつか公開されていましたが、自分でも驚いたことに最も惹かれた作品は『五等分の花嫁∽』でした(笑)。正直公開前は何も期待しておらず、同シリーズについてもいわゆる「マガジン」ハーレムラブコメの中では女性人気も相まって一番人気だった、という程度の認識です。内容的に言っても、夏休みに海とプールを連日ハシゴする場面をわざわざ映画化するという、どう考えてもおもしろくならない脚本でしょう。ところがじっさいに観てみるとどういうわけか感動してしまったんですね。 簡単に言うと「ウォータースライダー」と「ブランコ」がポイントです。あまり使いたくないミームですが、いわゆる「負けヒロイン」のことを「滑り台ヒロイン」と呼ぶことがあります。マルチヒロインものではメインヒロインになれなかった子が、滑り台とブランコなど公園の遊具で遊ぶシーンがしばしば描かれます(おそらくノベルゲームの演出が肥大化してそうなっているのではないかと思います)。一応名前は伏せますが、ヒロイン候補のうちあるキャラがブランコに乗っているというだけで感動してしまって、かなり驚きました。 ブランコというギミックについて考えたいのですが、過去のアニメ作品で有名な場面といえば、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)において、幼少期のシンジを描いたシーンでブランコが使われていたと思います。また私が想起したのはやはり、黒澤明の最高傑作とも言われる『生きる』(1952)の有名なラストシーンです。胃がんによる余命宣告を受けた市役所勤めの中年男性が、ある女性との出会いから希望を取り戻していき、晩年は住民の希望だった公園の建設に奔走するという物語です。やがて彼は亡くなってしまうんですが、最期の瞬間をついに完成した公園のブランコの上で迎えるわけです。これはフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』(1946)へのアンサーになっていると思います。現在でもクリスマス定番の古典となっているこの映画は、自殺願望を抱えた男が周囲の支えと天使の力によって自殺を踏みとどまる話なんですが、自殺はキリスト教では特に重い罪だという文脈で、生きることの希望を描いているわけです。『生きる』では、おそらくキリスト教的フレームワークはある程度外していて、クリスチャンでない人にも通じる普遍性を獲得したと思いますが、これは日本のアニメ、あるいは日本文化の「良さ」と「欠点」の両方に関わっていると思います。 この点については後述するとして、ここではひとまず、公園の遊具は両義的な意味を持つものとして機能するということを指摘しておこうと思います。つまり、戦後復興期には次世代の希望の象徴として、逆に現在ではその意味が完全に逆転して一種の産業遺構として機能します。産業遺構といえば強制労働などが問題になった軍艦島や富岡製糸場などの工場跡地など、近代から戦後復興期の遺産のことを指しますが、現存している公園もそれに含まれるわけです。現在は子供にとって危険ということで、立ち入り禁止になったり撤去されたりしている遊具が増えていますよね。 そういった「遊具」が揺さぶられるというだけで、未来を向いてようが過去志向であろうが、ある種のエモーションを掻き立てられるわけです。シャフトに関しては一時期は少し熱が冷めていたんですけれど、こうした経験から改めて再注目するきっかけを得ました。
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京アニはキャラクターをどう動かしているか(後編)|石岡良治
2023-10-10 07:00550pt
本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの論考をお届けします。 近年の京アニ作品にみられる精緻な心理描写のスタイルはどのように確立されたのか。ターニングポイントとしての『けいおん!』以降の作品史について分析します。 前編はこちら。 (初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))
ターニングポイントとしての『けいおん!』
次は『けいおん!』から『氷菓』までの時期(2009~2012)をみていきます。 Key作品で得た学園フォーマットの可能性を拡大したことが、この時期の特徴として挙げられます。この時期「脱いたる絵」の傾向が進んでいったのですが、それが堀口悠紀子デザインの『けいおん!』で明確になりました。堀口悠紀子は今では「白身魚」名義でのイラストレーターとしての活躍が目立ちますが、『らき☆すた』から京アニ作品でキャラクターデザインを務めています。『らき☆すた』から『けいおん!』にかけて、絵柄が「セカイ系」から「日常系・空気系」へと適応しているところが注目されます。Key原作作品である『CLANNAD』と『けいおん!』のOPムービーを比べると、作風の変化は印象的です。いわゆるギャルゲーのオープニングムービーに、ヒロインたちの「立ち絵」と名前が同時に現れる場面がしばしばみられ、アニメ『CLANNAD』もこの形式を踏襲しています。他方の『けいおん!』でも、バンドメンバーの5人(初期は4人)の紹介のところで、立ち絵と名前表記が現れるのですが、こちらではプリクラフレームのような装飾が付加されており、些細な差のようでありながらも、ギャルゲームービーの印象が完全に払拭されています。『けいおん!』は男女問わず広く人気を集め、軽音楽部員とガールズバンドの増加に寄与しました。今振り返ると、2010年代アニメの主要ジャンルであるアイドルアニメやバンドアニメの原点とみることもできる『けいおん!』は、京アニ作品のターニングポイントでもあるわけです。 この時期、『涼宮ハルヒの消失』(2010)、『映画けいおん!』(2011)の2作の映画作品で京アニは、「映画らしさ」にとって必要な画面設計およびフレーミング表現を洗練させたのだと考えています。『涼宮ハルヒの消失』における長門有希の屋上シーン、『映画けいおん!』のロンドンでのライブシーンにおける放課後ティータイムとロンドンという街の両方が写っているシーンは特に印象的です。 現在私たちが考える京アニのイメージは、この時期に形成されたと言えるでしょう。この時期以降はテレビアニメでも画面設計が洗練されていくように思えるからです。それゆえ、『けいおん!』以降、さらに京アニ視聴者の層が拡大したというのが私の考えです。
京アニはキャラクターをどう動かしているか
他方、この二つの劇場版の間で犠牲になった作品が、『涼宮ハルヒの憂鬱』第2期で放映された「エンドレスエイト」(2009)でしょう。夏休み終盤の同じ1日がループし続けているという題材を、文字通り8週にわたり同一場面を繰り返したことで悪名の高いエピソードで、現在では研究書も出ており[1]、今なお深夜アニメ史に残る出来事とされています。 日本ギャグマンガ界の巨星、漫☆画太郎の技法に「コピーアンドペースト(コピペ)」というものがあります。漫☆画太郎のコピペは、トラック激突オチが有名ですが、機械的な反復が中心で、ときどきバリエーションが加わるものです[2]。 しかし「エンドレスエイト」ではコピペのたぐいは一切行わず、毎回きちんと作画をして、音声収録も行われていたことが興味深いかもしれません。ある観点からみると壮大な無駄ないし愚行と考えられがちな、この京アニ最大の問題作は、動作をひとつひとつ丁寧に描くことを得意とするスタジオの特徴と一致しており、漠然と考えられがちな乱暴さの印象の一切ない職人仕事でありながらも、ほとんどの人が1回目と8回目だけを視聴するという状態に置かれています。リアルタイムで視聴していた私が今でも印象に残っているのは、キョン妹による「キョンくん、でんわ~」というセリフの反復です。ここには漫☆画太郎のトラックオチに近い「かすかな狂気」を感じます。京アニのよく動く作画は、すべてがジャストフィットしているわけではなく、演出とマッチングしていないこともしばしばありますが、コスパを度外視した過剰さがときにみられるところが京アニの良さのように思います。その意味では「エンドレスエイト」は京アニならではの過剰さの典型と考えることもできるでしょう。 アニメ『日常』(2011)でも、校長と鹿のプロレス対決の作画を本気で描きこんでいます。ここに京アニの執拗な強迫観念があると言えるかもしれません。とはいえこうした「本気」は、原作『日常』のピタゴラスイッチ的な連鎖反応のテンポの良さとはときに相反するところがあるように思われます。『日常』マンガ原作の第1話は、意外なギミックもあり伏線も回収している点で完璧なピタゴラスイッチものだと思います。あくまでも印象論ですが、京アニは、ピタゴラ装置的な因果関係がつながる連鎖反応を描くことを、必ずしも得意とはしていないように思います。ひとりひとりのキャラの個性が大事にされている反面、その場合は、キャラを機能に還元したうえでピタゴラスイッチ的な「回路」をつくるような演出にはなりにくいため、『日常』の装置的なギャグにはそぐわないように思われるわけです。また、ギャグアニメは「静」と「動」の動きでメリハリをつけるものですが、『日常』においてはすべてのキャラクターが動きすぎであるようにも思われました。 しかし、26話だった『日常』を全12話に再構成したNHK版(2012、Eテレ)では、間延びした印象がだいぶ軽減されていました。私が京アニ作品を常にスゴいとは思わない理由として、「編集」のキレが必ずしもよいわけではないところを挙げたいと思います。『AIR』『けいおん!』(第1期)のように「シナリオ進行の速さ」がうまく機能している場合もありますが、このようなケースは尺の都合で外的に生まれた成功のような気がします。たとえば『日常』はDVDを売る商売という点では必ずしもうまくいかず、しばらくささやかれていた京アニ売上神話を崩した作品と言われる時があります。しかし『日常』にポテンシャルがなかったわけでは決してなく、シャッフルして編集し直したNHK版では、シーンとシーンのつなぎがメリハリのあるものになり、エピソードのピタゴラ装置性が生まれていたように思われます。その結果、『日常』NHK版は一定の評価を得ることになりました。もちろんそこでカットされた場面を惜しむ人も多いため、今私が言っているような、『AIR』『けいおん!』(1期)そして『日常』NHK版が好き、という感性を持つ人は、必ずしも京アニファンの趨勢と一致しているとは考えていません。
アニラジ系作品の元祖としての『らき☆すた』
『らき☆すた』についても少しだけ言及したいと思います。アニメラジオ的なミニコーナー「らっきーちゃんねる」が、このアニメの楽しさの象徴ともいえるものであり、興味深いと考えています。『らき☆すた』は有名でありながらも結果的に京アニ作品としては異色作となっており、『gdgd妖精s』(2011、2013)から『てさぐれ!部活もの』(2013~2015)に至るまでの石ダテコー太郎(石館光太郎)作品にも見られる「アニラジ」的な作品に影響を与えているのではないかとも考えています。30分枠作品から派生的に作られる5分枠のミニアニメは、元作品がそれほど好きでない場合もけっこう楽しめることが多いのですが、「らっきーちゃんねる」はそうしたアニメのひとつのモデルとなっているように思われます。「らっきーちゃんねる」のバラエティ番組感覚がリアルタイムで持っていたインパクトについては、あとから振り返るとどうしてもわかりにくくなりやすい(=ネタが面白く感じられないことが多い)のですが、改めて強調したいと思っています。 また『らき☆すた』の舞台である鷲宮神社は「聖地巡礼」として最も成功した場所です。ただし『らき☆すた』の聖地性は、OPムービーを見ればわかるようにかなりデフォルメが効いたものなので、絵面としてはフォトリアルなクオリティとはいえません。OPでも登場人物がダンスを踊りながら、春日部共栄高校など、モデルとなった場所が移り変わっていくのですが、交換可能な任意の場所にみえなくもない演出であり、ライトな扱いとなっています。このように、現在の様々なアニメの標準と比べると異質にすら映る『らき☆すた』こそが、「聖地巡礼」アニメ最大級のヒットとなったことは興味深いように思われます。コンテンツツーリズムが一般化した現在でも、鷲宮神社は特筆され続けるでしょう。隙間の空いたゆるいトークが魅力の「らっきーちゃんねる」も含めて、『らき☆すた』は京アニの中でも例外的な作品と言えると思います。シャフトの『ぱにぽにだっしゅ!』からの影響がしばしば指摘されますが、他に似た作品をなかなか見出せないアニメだと考えています。
女性の視覚的快楽へと踏み出した『Free!』
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京アニはキャラクターをどう動かしているか(前編)|石岡良治
2023-10-03 07:00550pt
本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの論考をお届けします。 フォトリアルな背景、キャラクターの「しぐさ」の精緻な描写が従来のアニメ表現の水準を刷新した「京都アニメ」の達成について、『AIR』『涼宮ハルヒの憂鬱』といったゼロ年代の初期ヒット作から振り返ります。(初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))
今世紀アニメを象徴するスタジオ=京都アニメーション
京都アニメーション(京アニ)を、「境界の両岸」という観点から語りたいと思います。京アニは『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』などのヒット作をゼロ年代に連発したアニメーション制作会社です。アニメをスタジオ単位で観ることが一般化した深夜アニメのファンコミュニティにおいて、「京アニ派」や「シャフト派」などが熱心に語られていましたが、私自身はあえて言うならシャフト派でした。しかし、ここ十数年は京アニ派が圧倒的多数を占めていた感触があります。 まず最初に上げておきたいポイントとしては、アニメーターの木上益治が、京アニの作画クオリティの基礎を築いている点でしょう。木上益治はとりわけアクション作画で有名になったアニメーターですが、京アニの高い作画水準への到達を導いた人として重要な人物です。『CLANNAD』のヒトデヒロイン風子の「風子参上」場面の作画などが有名です。アニメーター教育に用いられている『京都アニメーション版 作画の手引き』という教本があるのですが、作画の基本を解説した簡素な記述のなかで、動作に伴う微細な身体運動に注意を払う指示が掲載されており、繊細な身振り描写からアクションに至る様々な運動に対応可能な木上イズムが、京アニ出身のアニメーターすべてに行き渡っている所以を垣間見ることができると思います。 また、新海誠に由来する、アニメにおける取材に基づく背景の細密表現やレンズフレアなどの撮影効果を取り入れたフォトリアルな表現の「コモディティ化」をいち早く確立した点も京アニの功績でしょう。コモディティ化という言い回しはややどぎついかもしれませんが、たとえばアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』がリアルタイムで評判になった一因として、必ずしも名所とは言えない現実の風景が舞台になっていることが、明確にわかるぐらい写実的な背景描写があったことは間違いありません。新海誠は『ほしのこえ』(2002)以来、デジカメで撮った写真をもとに背景画を起こす方法を一貫して用いてきました。新海誠作品は『君の名は。』以前は人物表現が弱く、むしろ背景のほうが感情表現の媒体となるレベルで作り込まれていたわけですが、京アニ作品の背景は、テレビアニメということもあり、そこまでの執拗な描き込みはみられないものの、それ以前のアニメとは一線を画す厳密さで描かれており、そこに木上イズムに貫かれた人物描写が加わっていたわけです。今ではアニメの背景から取材箇所を特定することは当たり前のように行われていますが、京アニ作品がこうした手法の普及に果たした役割は大きなものがあります。 なぜなら、こうした背景の作画方法が、アニメの外側にもひとつのイノベーションをもたらしたからです。キャラクターと実在の背景がアニメ上で組み合わさることで、視聴者たちの「この背景のモデルとなっている場所に行きたい」という欲望を生み出し、一連の「アニメ聖地巡礼」ブームが巻き起こりました。もともと映画やテレビドラマの舞台が「聖地」となる現象はみられましたが、実写とは異なるところに強みがあるとみられたアニメが、現在ではフォトリアルな背景がもたらす「コンテンツツーリズム」の中心媒体として一般化されるようになる過程で、京アニ作品がもたらした影響は多大です。埼玉県の鷲宮神社の参拝客が、アニメ『らき☆すた』の効果で増加し、アニメ終了後10年以上経ってもなおアニメ聖地巡礼の舞台となっている事例は象徴的です。 京アニの特徴としては、元請の初期に樋上いたるのキャラクターヴィジュアルが印象的なKeyのノベルゲーム原作を数多く手がけた点も挙げられます。その代表作として『CLANNAD』を取り上げます。Key作品は『AIR』(2005)、『Kanon』(2006~2007)、『CLANNAD』(2007~2009)の順番にアニメ化されています。しかし、このなかで現代の京アニに通じた部分が多いのは『CLANNAD』だと考えています。『CLANNAD』は相当な話数をアニメ化していて、ここで得たメソッドが未だに京アニの「貯金」になっているのではないでしょうか。 京アニの元請初期にはスポークスマンとしての山本寛が目立っていました。『ハルヒ』や『らき☆すた』などのキレの良い演出と様々な発言で知られ、「ヤマカン」の愛称でも有名です。しかし彼の京アニ退社以後、作品・作家性を主張しないスタジオというイメージが広まります。今では『けいおん!』や『聲の形』などで知られる山田尚子が、京アニで作家性を明確に備えた監督といえますが、それでもやはり、個々のスタッフよりもスタジオの存在感のほうが目立つように思われます。 スタジオの統一感が際立つ京アニには、「累積性」が強いというアドバンテージがあります。アニメーターは一般に、様々な絵柄を書き分けられるほうが優れていると言われていますが、スタジオとしての京アニでは、とりわけゼロ年代の頃は、「前の作品」の絵柄が次の作品へダイレクトに影響するサイクルが続いていました。『涼宮ハルヒの憂鬱』の絵柄が『Kanon』に影響を与え、『Kanon』は『らき☆すた』に影響を与え、『らき☆すた』は『CLANNAD』に影響を与えるという具合です。 京アニ作品は、ルックの「累積性」を持ったスタジオであるという印象を持ちます。そうしたルックの累積性は、キャラクターデザインにとどまらず、画面設計から仕上がりに至る工程が生み出した統一感なのでしょう。これはちょうど、実際には絵柄に一定の多様性があるジブリアニメが、漠然と「宮崎駿っぽい絵柄」と受け止められている事情と近いのではないでしょうか。『現代アニメ「超」講義』で触れたシャフトアニメが「シャフ度」のような特徴的演出で知られるのとは別の仕方で、「京アニ作品」としての統一感が生まれているわけです。たとえば京アニ出身の堀口悠紀子が別名義である「白身魚」でキャラクターデザインしている『ココロコネクト』(2012)は、シルバーリンクによってアニメ化されており、絵柄は一見すると京アニ作品のようですが、作画も作劇も全くの別物になっているので、かえって京アニの際立った個性が明確になったのではないかと考えています。
「エブリデイ・マジック」と川のシンボリズム
私は「エブリデイ・マジック」が京アニ作品の重要な特徴だと考えています。「エブリデイ・マジック」とは、ファンタジー小説でよく言われる「日常に魔法が入ってくる」作風のことを指します。また京都の地形的特徴である「川」へのこだわりも、もうひとつの大事な特徴といえるでしょう。「エブリデイ・マジック」と川のシンボリズムの組み合わせによって、日常性と「超越」についての独特の展開が生まれているわけです。 アニメにおける「超越」というのは難しいテーマですが、京アニについては語らなければいけないと考えています。京アニの花を植えるCM(自社CM「花編」)を観てもらえばわかると思いますが、京アニのCMからは微妙な底知れなさを感じる人も少なくないのではないでしょうか。それは、真顔で健康的な雰囲気が強調されすぎている過剰さが一因だと考えています。京アニ作品における「超越」とは、なにも世界終末を暗示するカタストロフ表現や、いわゆるノベルゲームの「青空」が示唆する無限遠点への憧憬だけではなく、日常を描きつつもそこから半歩踏み出してしまっているような「気配」を指すのかもしれません。 木上益治監督作『MUNTO』(テレビ版タイトル『空を見上げる少女の瞳に映る世界』)における、不良の和也が病弱の涼芽を背負って河川敷を歩いて渡りきるシーンにも同様の「超越」の気配があります。『MUNTO』はある意味問題作でもあり、京アニ作品ではヒットしなかったアニメのひとつですが、重要なモチーフを含んでいます。ここで考察したい「川渡り」のシーンは、OVAとテレビ版(第3話「立ち向かうこと」)の両方で登場します。このシーンにこそ京アニの本領が現れていると私は考えています。このシーンでは、それまで交際を反対されていたかのようである2人が川を渡りきった瞬間、周りのみんなが拍手し2人を祝福します。このあたりはあたかも『新世紀エヴァンゲリオン』テレビ版最終話の「おめでとう」シーンにも似た、「承認の場面」と言えるのかもしれません。 このシーンには、「なぜ祝福?」という唐突感ゆえにやや不気味なところもありますが、京アニの持っている「超越」への意志のエッセンスがあると考えています。実際、このシーンを単に気持ち悪い場面で終わらせないところが京アニの力技の真骨頂で、今でもこのモチーフはいろいろな作品の中に生きていると考えています。たとえば『響け!ユーフォニアム』(2015~)の宇治川でのシーンは、このエッセンスが活かされているシーンと言えるでしょう。京アニは「エブリデイ・マジック」と「超越」をテーマとして作品に織り込もうとしています。 花を植える自社CMが奇妙に見える理由は、おそらく自然の描写にあります。自然描写と「健全な青春」の混ざり方によって、独特の「人間化した自然」となっているのでしょう。同様に『氷菓』(2012)の文字演出なども、シャフト作品と比べると牧歌的というかややもっさりした印象を受けるのですが、ここには「青春」というテーマに正面切って取り組み、すべての力を注いでいるようなところがあるからなのだろうと考えています。フェチ表現や露悪性を売りにする作品が多い深夜アニメという媒体において、そうした表現を得意とするにもかかわらず、同時にどこかしら健全な「青春」というテーマを全力で主張する一種の不器用さ、京アニのスタジオとしての個性や表現したいものの多くは、こうしたところに由来すると考えています。 花を植える自社CM、『MUNTO』の川渡りシーンに見られる底の抜けたような本質を、ただのカルト的演出(あるいは「ネタ」)であるとみてはいけないと私は思います。このような意味合いの底が抜けたシーンには、ある種のナンセンス性を感じます。しかし、きちんとやりきらないとただの寒いシーンになってしまうでしょう。京アニはそうした表現を全力できちんとやり遂げるからこそ、独自の表現にまで達しているのでしょう。 ノベルゲーム会社Key原作の京アニ作品は、『AIR』『Kanon』『CLANNAD』の三つがあります。京アニのKey原作作品のポイントは、「しぐさ」と「小芝居」で底なし感覚を埋めているところにあります。『CLANNAD』の「風子参上」シーンで魔法少女のように現れる風子は、本体が病床に臥していながら生霊が歩き回っている状態です。要するに風子が生霊として現れて参上する「小芝居」によって、底知れなさを埋めているんですね。「エブリデイ・マジック」の奇跡を説得的に示す上で、独特の存在感をみせる風子という脇役キャラに、魔法少女のような演出を施したことは、極めて効果的だったといえるでしょう。 しかし、「しぐさ」は演出にとってつねに効果的であるとは限りません。たとえばアニメ『Kanon』では、キャラクターの動作をくねくねさせすぎたようにも思われます。ところが、キャラクターが「しぐさ」を止めると途端にある種の空虚さが生じます。たとえばKeyの麻枝准作品でも、他社制作の『Angel Beats!』『リトルバスターズ!』(2012、2013)のような「ギャグの小芝居」と京アニ制作の『CLANNAD』では、主として「しぐさ」の充実によって、質の違いが生じているように思います。これは麻枝准の作風と、京アニが元来持っていたイニシエーション的表現への志向性がうまく融合した描写だと考えています。京アニは執拗といえるほど一貫して「青春」というテーマに取り組むスタジオなので、制作側が意図的に「しぐさ」と「小芝居」を加えている面もあると考えています。
『AIR』『MUNTO』『中二病』の“彼岸と此岸”
この問題を『AIR』に遡ってみていきましょう。
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ジブリ的「国民映画」の継承から考える新海誠|石岡良治
2023-07-28 07:00550pt
本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの論考をお届けします。 スタジオジブリ最新作の公開や、近年の新海誠の評価などから、現代は「国民的」アニメ映画とは何かが問われる時期にあります。今回は改めて『君の名は。』時点での新海誠をどう評価すべきか、石岡さんが論じました。 (初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))
細田守から新海誠へ
あらためて、新海誠の『君の名は。』から現代のアニメを考えてみましょう。2016年の同作は、アニメ映画としては2001年の『千と千尋の神隠し』に次ぐ歴史的ヒットとなり、普段アニメを観ない人にまで届いた作品です。マイナーかつマニアックな作風で知られていた新海誠の作品が、これほどまで広範囲に受け入れられた理由を考えるうえで、『現代アニメ「超」講義』第1章で述べたことを繰り返すなら、作風をよりメジャーなものに寄せていく際に、いわゆる青春映画を強く意識したことが挙げられるでしょう。細田守監督の『時をかける少女』が直接の参照ですが、キャラクターデザインに田中将賀を起用したことで、『とらドラ!』以降の超平和バスターズ組(『あの花』『ここさけ』)の作風も取り入れられています。 『君の名は。』は「ポスト細田守」を意識した企画となっており、大林宣彦監督の『転校生』(1982)のモチーフ、すなわち原作の山中恒『おれがあいつであいつがおれで』によって広く知られるようになった男女の入れ替わりネタを、時空を隔てた男女の入れ替わりとして描きました。大林宣彦監督版『時をかける少女』(1983)の続編としての性格をもつ細田守作品とは別のタイプのオマージュとなっています。またタイトルも、戦後の混乱のなかでカップルがすれ違いまくるが最後には出会って結ばれるドラマ『君の名は』(ラジオドラマ版:1952~1954)から取られていることが有名です。 『現代アニメ「超」講義』の序章で少し考察した「ポストジブリ」という呼称が、細田守や新海誠の作風とそぐわないと感じる人は多いと思います。それはおそらく、ここで想定されているのがジブリアニメのすべてではなく、スタジオジブリが1990年代前半に、高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』(1991)、望月智充監督のテレビスペシャル『海がきこえる』(1993)や近藤喜文監督の『耳をすませば』で追求していた、ファンタジー要素が希薄な現代劇の系譜に位置付けられるからでしょう。当のスタジオジブリはこの路線を伸ばすことはせず、1997年の『もののけ姫』以後の国民映画路線へと舵を切り、代わりに細田が2006年に『時をかける少女』を成功させることで、『耳をすませば』が切り開いたポテンシャルを継承したわけです。 実のところ『君の名は。』は、このような参照項が加えられた以外、基本的にはこれまでの新海誠アニメと変わっていないところが興味深いのだと思います。なのでジブリアニメが担っていたような国民映画的な感触よりは、むしろ実写の青春映画的な要素がうまくハマったことで、中高生の圧倒的な支持が得られたことがヒットの大きな要因になったのだと思います。 近年の青春映画の雛形というと、一方には少女マンガ原作の『アオハライド』(2014)のような複数男女の恋愛群像劇があり、もう一方には『君の膵臓をたべたい』(2017)や『四月は君の嘘』(2016)のような難病ドラマがあります。後者は難病ヒロインの死を目の当たりにすることで、恋愛のロマンティックな展開が繰り広げられる。昔だったら結核として描かれていたもので、ジブリアニメでいうと『風立ちぬ』(2013)で展開されていたようなドラマになります。 難病ものには、死ぬまで恋人と添い遂げる甘美なファンタジー性と、性的な展開をそれほど入れずに済むメリットがあります。普通であればセックスよりも死のほうが重々しいはずなんですが、こと青春枠のフィクションにおいてはなぜかセックスのほうが重くみられているため、死というデバイスが便利に使われる傾向があるように思われます。その要素は『君の名は。』にも、大災害による三葉の死という形で入っていますね。 対して『君の名は。』には、口噛み酒や三葉が胸を揉むアクションといったセクシャルな要素も入っており、一部からは批判も浴びましたが、これは現在ではアニメだからこそできた描写だと思います。古くは実写のドラマにも、性的な要素を交えたコメディはたくさんありました。実写映画の『転校生』もまさにそうで、当時高校生すなわち18歳未満だった小林聡美が下着姿になったり、上半身裸になったりする描写が出てきます。現在の実写映画では、こうした描写はもはや倫理的に困難になっているように思われます。しかしアニメであれば、今なおそのような描写を入れることができるわけです。『君の名は。』はそこの強みをうまく活かしていたと思います。 また『君の名は。』はノスタルジーコンテンツとしての機能も巧みでした。たとえば、『君の名は。』には地方の伝統行事が描かれているなど聖地巡礼的・地域おこし的な要素が入っていますが、シナリオにおいては最終的に、メインの登場人物4人全員が上京してきてしまう。地域起こしものにありがちな、村落共同体礼賛どころか、その場所は災害によって失われ、新海誠が得意とする新宿近辺すなわち都心部の描写へと引き寄せられるわけです。一歩引いた視点で見るなら、地方から都市への一極集中は日本の未来の姿として見てもリアリティがあると思いますし、地域をノスタルジックに描く要素を備えつつも、『秒速5センチメートル』のような青春の喪失感に対するこだわりのような、後ろ向きな感じが消えているんですね。 また2018年の中国アニメ『詩季織々』も補助線になると思います。『詩季織々』は、『秒速』ファンの李豪凌総監督が、新海監督の所属するコミックス・ウェーブと共同で作った、“ジェネリック新海” スタイルのオムニバス映画です。この作品を観ると、新海スタイルを用いれば、世界中の様々な都市で、同じような青春アニメを作れるような気がしてきます。 つまり、地方と都市の格差、学園生活、そして初恋、別離、再会、そうしたモチーフをナルシスティックなモノローグと映像でアニメ化すれば、世界中どの地域でも青春アニメが作れるという普遍性のようなものが見出せるのではないか。そう考えると『君の名は。』の特異な点は、特殊アニメ的なものではないけれども、ユースカルチャーとしてのアニメのユースの部分をうまくすくい上げることに成功している点だ、というのが見えてくるわけです。 『ほしのこえ』におけるPHSを用いたメールコミュニケーション描写の頃から一貫してそうですが、『君の名は。』も2016年のディテールを描き込みまくっているため、後の時代に振り返ったときには、作品で描かれている世界は古びると思いますが、むしろそのことによって「2016年のリアリティ」を通じた普遍性を得られるタイプのものだと思います。
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ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(後編)
2023-01-31 07:00550pt
本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「今世紀のロボットアニメ」論をお届けします。「ガンダム」をはじめとして、作中における「死」や「性」的なシーンがしばしば視聴者に衝撃を与えるロボットアニメ。そうした描写を可能にする、ジャンル特有の機能とはどんなものなのでしょうか。前編はこちら。(初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))
ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(後編)
「宇宙世紀ガンダム」を支え続けるガンプラ市場
現時点(2019年執筆時点)における『ガンダム』テレビシリーズ最新作『鉄血のオルフェンズ』の反響について、ひとつ興味深いことがあります。視聴率やソフト売上という点では必ずしもブランド力に見合っていないとする見解もあるのですが、主役機「ガンダム・バルバトス」をはじめとして、ガンプラの売上という点ではそれなりに好調だったという事実です。 そもそも1980年代のロボットアニメブームはほぼ『ガンダム』の存在や、再放送中に爆発的に売れた「ガンプラブーム」の余波という側面があるのですが、プラモデルというホビーの世界が、アニメから半分自律した世界を形成していたことが、興味深い展開を生みました。 「リアルロボットアニメ」の典型として挙げた『太陽の牙ダグラム』は、もっぱらプラモデルの売上の力によって放送延長となり、75話という長期アニメとなりました。現在では後続の『装甲騎兵ボトムズ』のほうがアニメ作品としての存在感は大きいのですが、1980年代のガンプラブームの直撃世代である私の印象としては、『ダグラム』のプラモデルは、デザイナー大河原邦男の無骨なデザインがいい感じに出ていて、ガンダムをよりリアル寄りにしたメカが魅力的でした。 当のガンプラにかんしても、とりわけ小学生にとって魅力的だったのは、手頃な値段で買えた最小スケールの「1/144」では、マイナーなメカも含めた「コンプリートの楽しみ」が味わえたことです。1980年代前半が社会現象としてのガンプラブームの最盛期なのですが、ガンプラバトルを題材にしたマンガ『プラモ狂四郎』などの存在によって、掲載誌の「コミックボンボン」(講談社)が、『ドラえもん』などが連載されていた「コロコロコミック」(小学館)の部数に肉薄する勢いを持つほどでした。「コミックボンボン」は現在では廃刊となってしまいましたが、『SDガンダム』が展開されていた1980年代末から1990年代初頭には、一時「コロコロコミック」と売上が逆転していたぐらい、ガンダムのホビーとしての力が大きかったことがうかがえます。 ガンプラブームで興味深いエピソードとしては、アニメに登場したモビルスーツが発売され尽くされた後、「ザク」などの派生機を「モビルスーツバリエーション(MSV)」として独自展開していたことが挙げられます。そこでは「ザク」と「グフ」の中間形態や、最後のMS「ジオング」への発展系の「サイコザク」など、モデラーやデザイナーがアニメの設定から膨らませていった様々なモビルスーツが多数発売され、現在に至る「宇宙世紀もの」の派生アニメに出てくるカスタム機の原点となりました。今の私は宇宙世紀派生もの作品の多くはアニメとしては「蛇足」になりがちという印象を持っていますが、これらの作品についてはむしろ「プラモデルをつくる側」から眺めることで、その魅力がわかるのかもしれません。その嚆矢となったのは、カトキハジメがデザインした「Sガンダム」によって知られ、模型誌「モデルグラフィックス」(大日本絵画)で連載されていた『ガンダム・センチネル』(1987~1990)でしょう。 カトキハジメ以後、明らかにプラモデル展開の重点が「ザク」などのジオンMSからガンダム派生機に移動した感があるのですが、それは『センチネル』から『機動戦士ガンダム0083 STARDUSTMEMORY』(1991~1992)、『機動戦士ガンダムUユニコーンC』(2010~2014)に至る作品人気を支えているのが、決してシナリオではなく、根強いガンプラマニアであることを示しています。たとえばしばしば話題になった『ガンダムUC』のテーマ曲「UNICORN」の独特の高揚感は、カトキハジメデザインの主役機「ガンダムユニコーン」の可動ギミックが開示される映像と切り離せないのではないでしょうか。
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ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(前編)
2023-01-24 07:00550pt
本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「今世紀のロボットアニメ」論をお届けします。20世紀のロボットアニメブームを概観し、ブームの要因となった特徴と今世紀におけるアニメファンと「ロボットもの」との距離感について考察します。(初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))
ロボットアニメはなぜティーンズの「性と死」を描けるのか|石岡良治(前編)
戦後アニメ史と並走してきたロボットアニメ
「アニメーション」一般から区別される意味での日本の「アニメ」が、1963年1月1日放映開始の『鉄腕アトム』にはじまるという見方は比較的共有されていると思います(もっとも当時は「アニメ」とは呼ばれていなかったわけですが)。興味深いのは同年秋に『鉄人28号』(~1966)もアニメ化されていることで、数多いアニメジャンルの中でもロボットアニメは、日本のアニメ史とほぼ重なる歴史的広がりを持っています。とはいえ現在ロボットアニメとみられる作風の原点は『マジンガーZ』(1972~1974)でしょう。このあたりの事情は、宇野常寛さんの『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版社)で詳しく解説されています。 多くの場合、自律型ロボットであることは稀で、主人公が操縦する乗り物としての性質をもつ超兵器であることも重要な特徴です。このジャンルの代表作『機動戦士ガンダム』が「モビルスーツ」という呼称を用い、厄介なロボット定義論から距離を置いているにもかかわらず、総称としてはざっくりと「ロボットアニメ」としてまとめられてしまうのも興味深いところです。それはおそらく、『ガンダム』のヒットを受けて1980年代に数多く作られた後続作が、それぞれの世界観に合わせて「アーマードトルーパー」(『装甲騎兵ボトムズ』1983~1984)や「オーラバトラー」(『聖戦士ダンバイン』1983~1984)といった名称を増殖させすぎたことも一因でしょう。「要するにこれらは全部ロボット」なのだという直観のほうが、正確な定義に勝ったわけです。 私がロボットアニメにおいて重要だと考えているのは、ミリタリーの想像力をかすめつつも、そこから逸れていく展開がしばしばみられるところです。本稿の話題の一部は『視覚文化「超」講義』の4‐3「ロボットアニメの諸相とガジェットの想像力」で語ったことと重なるのですが、一点だけ要点をまとめると、しばしば男性オタクの欲望と重ねられてきた「メカと美少女」というキーワードとの関係を追うことで、ロボットアニメの現状を考えることができるのではないかという見通しを持っています。ロボットアニメは現在でも数多く制作され続けていますが、特に若いアニメファンのニーズと合致することが少ないジャンルとなっている上、「アニメファン=男性オタク」の等式を作れるという幻想がそもそも成り立たなくなっています。そうした現状を踏まえつつ、今回は「今世紀のロボットアニメ」について分析してみたいと考えています。
前世紀の「基準作」だった『ガンダム』と『エヴァ』
「今世紀のロボットアニメ」というテーマを考える上で、やはり前世紀の1990年代までの展開を簡単に整理しておく必要があると思います。とりわけ私が注目したいのは、20世紀ロボットアニメの「ガジェット性」です。 1960~1970年代のロボットアニメは、少年(後に少女も)を軍隊とは別の手段で活躍させるために最適な枠組みとして選ばれていたように思います。少年探偵ものが、警察に属することなく捜査を行うのと似ていて、軍隊組織に属さない一種の「特殊部隊もの」としての性格を帯びた作品が多いんですね。少年少女が大人以上に大活躍しなければならないというジャンル的な要請は、昔も今も「不自然だ」として嫌われることが多く、しばしばミリタリーマニアが「おっさんが活躍するアニメ」を求める声を上げているのをネットなどでは目にします。ですが、実際のところ、日本ではダイレクトな軍隊ものにはせずにそこを「やや迂回する」ほうが好まれているわけです。このことは萌えミリタリージャンル最大のヒット作『ガールズ&パンツァー』が徹頭徹尾「部活物」として描かれていることをみれば明らかでしょう。というのも、ここをリアリズム寄りで突き詰めていくと、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』における少年兵のようなタイプの悲惨さが前面に出ることになってしまうからです。
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『グエムル-漢江の怪物-』の環世界|石岡良治
2022-04-05 07:00500pt
今日のメルマガでは特別お蔵出し企画として、批評家の石岡良治さんによる怪獣映画『グエムル-漢江の怪物-』論をお送りします。 『パラサイト 半地下の家族』で非英語圏では初めてアカデミー賞で作品賞を受賞したポン・ジュノ監督の出世作であり、2006年の公開当時、韓国社会のリアリティを浮き彫りにした反米映画として話題を呼んだ『グエムル』。表層的な物語展開による社会風刺にとどまらない、この映画を特徴づける橋桁や下水溝、「水」や「煙」といったディテールがどのようにアレゴリーとして機能しているのか。表象文化研究を専門とする石岡さんならではの切り口で論じられています。 (初出:『ユリイカ』2010年5月号110-118ページ)
『グエムル-漢江の怪物-』(グエムル ハンガンのかいぶつ、原題:괴물)は、2006年公開の韓国映画。2006年7月7日に韓国、同年9月2日に日本で公開された。2007年までに世界23か国で公開された。 漢江から突如上陸した黒い両生類のような怪物(グエムル)は、河原の人々を捕食殺害し、露店の男カンドゥ(ソン・ガンホ)の娘、ヒョンソ(コ・アソン)を捕まえて水中へ消えた。ヒョンソは怪物の巣の下水道から携帯電話で助けを呼ぶ。一方、在韓米軍は怪物は未知の病原菌を持ち、感染したとみられるカンドゥを捕えようとする。カンドゥと一家はヒョンソを救う為に追われながら怪物を探す。(出典)
「反映」から「反響」へ
ポン・ジュノ監督の『グエムル-漢江の怪物-』(2006)もそうであるように、すぐれた怪物映画はほぼ例外なく、政治的アレゴリーとして読解することが可能である。じっさい『グエムル』では、韓国の対米関係への風刺にはじまり、軍政から民主化に至る社会変動についての批評的なまなざしを随所に見出すことができる。かりにそのような「社会派」的な次元に抗する形で、この映画を「家族の物語」とみても同様だろう。怪物に立ち向かうのは、ソン・ガンホが演じる主人公パク・カンドゥとその家族たちだが、世代差がそのまま韓国史の縮図になるように、周到に彼らの関係が配置されているからだ。 しかしながら、この映画の政治性は社会の「反映」にのみ見出されるのではない。多くの怪物映画では、平和な社会秩序に怪物というカオスが導入されたあと、最終的に怪物が撃退されることで再び秩序がもたらされる。もちろん『グエムル』にもそうしたモメントは存在するが、そのようなプロットから読解することは不毛だろう。むしろ怪物の異形性が、人々の行動にひそむ敵対性の次元を明るみにしたうえで、そこからさらなる連帯の可能性が模索されていることが重要である。すなわち、怪物が政治的に機能するためには、たんなる異物の排除や調伏の物語にとどまることなく、オーダーとカオスの分割そのものが動的に変容し続けていくことが必要なのだ。『グエムル』の随所に見出される批評的なまなざしは、社会そのものが備えるカオス性を暴き続けている。ゆえに刻々と移り変わる状況は、カオスからカオスへのたえざる移行として現れる。たとえみかけ上画面が静けさを取り戻しているときも、それは相対的安定にすぎない。
したがって、実際には怪物こそがこの映画にオーダーを与えている。この言明は『グエムル』がジャンル映画としての性質を持つ以上、一見すると自明の理であるように響く。しかし英語のタイトル『The Host』が示すように、怪物がパラサイトではなく「ホスト(宿主)」と呼ばれていることは、たんなる自明の理を超え出る射程をみせている。映画の冒頭部は漢江へと流れ込む下水溝に廃棄物が垂れ流される場面であり、怪物の発生源を示唆している。だが、怪物映画のクリシェに忠実なこの場面も含めて、駐韓米軍を介する形で繰り広げられる陰謀のプロットは、作中常に疑わしいものとして描かれ、ほとんど滑稽な性質すら帯びる。というよりむしろ、「設定」に対する詮索の疑わしさがこの映画の「プロット」に取り入れられている。未知のウイルスの「ホスト」とされる当の怪物は、突然変異の帰結をみせつけるばかりで、原因の探究が慎重に省略されているだけでなく、途中でウイルス説がフェイクだと判明するのだ。このように、発生原因への遡行ではなく、怪物の存在が投げかける波紋の方に力点が置かれた演出は、最終場面に至るまで、状況をコントロールする「ホスト(主人)」が怪物であることを示すだろう。 こうして、実際にはウイルスなど存在しないにもかかわらず、「ホスト」とみなされた怪物の存在は、米国の介入による化学薬品「エージェント・イエロー」散布作戦の口実に用いられる。だがもちろん、この映画が描くのは「実体を欠いた社会的パニック」ではない。それどころか、パニック映画の典型ともいえる、暴れ回る怪物から人々が逃げ惑う場面が、クライマックスではなく最初の山場に置かれているところが興味深い。怪物がもたらす集団的なパニック経験の場面を早々と印象づけることによって、『グエムル』は映画そのものの集団的な次元を浮き彫りにしているのだ。以後は大規模な惨事を繰り返すのではなく、むしろ怪物の存在が登場人物たちに及ぼす「反響」が強調されることになる。媒介者となることで、漢江の怪物は政治的状況を「反映」させるだけでなく、物語が動的に変容していく状況を「反響」させるのだ。
漢江の怪物
『グエムル』を比類なき怪物映画にしているのは、怪物の絶妙なサイズ設定である。魚や両生類と似た形状を有しつつ、ちょうど個人の手に負えないぐらいの巨大さがもたらすグロテスクな印象が、どっしりとした量塊性とぬらぬらした質感を兼ね備え、状況を動的に反響させる荒唐無稽なアクションを可能にしている。そして怪物のこうした特性は、画面のレイヤーを任意に超えていくCGの存在論的身分と結びつく。 グエムルすなわち漢江の怪物は、ヨイドの公園でパク一家が営む売店からみえるところで、まず橋桁にぶら下がった姿で現れる。そして水面へと飛び込むと、川べりの近くに影をみせる。ここで最初にうかつな行動を取るのは主人公のカンドゥだ。よりによって影に向かって缶ビールを投げ、丸ごと飲み込んだことを確認した観光客たちが、「つまみ」をはじめとして様々なものを投げ、画像を撮影する者まで出る始末だ。このような、パニックに先立つ冒涜行為は怪物映画の「掟」であろう。事実、その直後に、背後から公園に上陸した怪物が次々と人間を襲い始める場面が続き、その姿はバスからもみることができる。 プレハブの建造物内部や駐車場の陰などの、見えないところで起こる惨劇は、観客への配慮や画面作りの省力化だけでなく、隙間へと潜り込んでいくこの怪物の「機能的」な行動へとフォーカスされている。いずれにせよCGで描かれる限り、怪物とそれ以外の画面要素との齟齬は決して避けられまい。ならば「レンズを通す必要のない」変幻自在な特性を最大限に生かすべきなのだ。最初の山場である一連の惨劇の締めくくりとして、カンドゥの娘ヒョンソをしっぽでつかまえたまま、怪物はスワンボートの「間に」着水する(図1)。
▲図1 出典:『グエムル-漢江の怪物-』より(以下同)
それまでの派手な立ち回りと比べるとあっけないぐらいに静かなこの場面の恐怖は、あらかじめ小型化されていた怪物のサイズがCGの特性と結びつくことによって得られたものといえるだろう。 「漢江の怪物」の棲息地は、川の中というよりはむしろ橋桁と下水溝である。人工物が立ち並ぶ漢江沿いが、怪物にとっての知覚と行動が成り立つ「環世界」(ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫)となっているのだ。防疫要員として動員され、黄色い作業服を着た男が漢江の水面を見つめる場面は、怪物の環世界を効果的に要約している。濡れた紙幣というわかりやすい欲望に気を取られた作業員は、水面ではなく橋桁から現れる怪物に強襲されてしまうからだ(図2)。
▲図2
以後、登場人物だけでなく観客も、怪物が何に気付き、どのような行動を取るのかについての予測を迫られることになるだろう。この種の怪物映画において、恐怖の対象が投影されるためには、音楽とともに水面を映すだけで十分だが、それはあくまでも気配の演出にとどまっている。ポン・ジュノはここから一歩進み、橋の下から橋桁を見上げた時に映る闇をも恐怖の対象にすることで、「漢江の怪物」の棲みつく圏域を効果的に印象付けている。 怪物の行動の変幻自在さを可能にしているのは、数多くの機能を備えたしっぽである。上陸早々人を投げ飛ばしたり捕らえたりするだけでなく、とりわけ脚としっぽを用いてバク転しながら橋桁を伝うトリッキーな動きが素晴らしい(図3)。
▲図3
このように、怪物のしっぽが人を投げ飛ばしたり、巻き付けて捕獲したり、橋桁にぶらさがる器官であるとするなら、怪物の口は、食物に噛みついて咀嚼する補食機能だけでなく、獲物をくわえたあと口の中に入れ、巣に持ち帰る機能も備えている。この機能が明らかになるのは、カンドゥがヒョンソから携帯電話を受け、下水溝に捕らえられていると告げられたあと、ヒョンソが、強襲された作業員の生死を確かめる場面においてである。彼女はすでに怪物の「口の中に入る」ところを見せつけられ、葬儀も執り行われてしまっていたが、下水溝の怪物の巣で生きていることが判明するのだ。 死んでいたと思われたヒョンソの生存は、パク一家の脱走劇を動機付けるだけでなく、下水溝の怪物の巣が、遺体と生存者が混在する場所であることを示すだろう。ほどなく死んでしまった作業員のあと、「売店荒らし」をして暮らす兄弟もまた巣に運び込まれ、兄セジンの死亡と弟セジュの生存をヒョンソは確認する。ここで観客はヒョンソと共に、怪物はまず巣に食物を運んだのちに補食するという推測を行うかもしれない。だがそのあと巣に運びこまれるのは、勢いよく吐き出される人骨である。この場面が生々しく描く恐怖は、主要人物の安全の鍵が、あくまでも怪物の側にあることを示すだろう。 このように、怪物の造型は、漢江とその沿岸の陸地だけでなく、橋桁と下水溝といった高低差を伴う「環世界」のひろがりを、口やしっぽの機能によって明らかにする。怪物が水面から来るか、橋桁から来るか、それとも真っ直ぐ駆け抜けていくかという選択だけでなく、襲われていったん怪物の口の中に入ってしまった後も、生け捕りになるか、そのまま息絶えるか、あるいは骨になるかという選択が生じる。「漢江の怪物」にとっての環世界となりうるあらゆる知覚や行動のターゲットとして、人々は様々な仕方で恐慌に陥れられるのだ。
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