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宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』最終回 三次元化する想像力(2)
2018-04-13 07:00
2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。映像の世紀が終焉したいまもなお、虚構を通してしか描けない現実がある。最終回の今回は、研究者でメディアアーティストの落合陽一さん、チームラボ代表・猪子寿之さんの取り組みへ期待を寄せながら、現代版にアップデートされた〈ゴジラの命題〉について論じます。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
ニュータイプと〈魔法の世紀〉
富野由悠季にも、2015年秋に久しぶりに連絡を取った。私が自分の事務所から出版した、若い科学者の本に推薦文をもらおうと考えたからだ。もちろん、それは口実で私の狙いは富野を挑発することだった。〈Gのレコンギスタ〉について対談したときに伝えきれなかったことを、自分の企画した本を読んでもらうことで伝えようとしたのだ。
メディアアーティストでもある筑波大学の落合陽一はコンピュータプログラムによる光波/音波の制御によって、触感をもったレーザー、音波による空中の物体固定などを実現し、これらの研究開発で内外からの注目を集めている。
そして落合はいう。このネットワークの世紀は同時に「魔法の世紀」なのだと。20世紀は映像という発明が、具体的には広義の劇映画的な映像が、人々をつなぐ最大の媒介として機能し、かつてない規模の社会(文脈の共有)を実現した。そしてそれゆえにモニターの中の映像こそが、もっとも批判力のある視覚体験として共有されていた。しかし、その映像の世紀は技術的に乗り越えられようとしている。ネットワーク技術の発達はいま、人間と人間、人間と事物、事物と事物と直接続しつつある。そしてコンピュータの処理能力の向上によって、もはや人々にモニターの中で何が起こっても本質的に驚かすことはできなくなっている。
そんな映像の世紀の後に訪れた世界――本稿ではネットワークの世紀と呼んだ既に訪れつつある未来――を、落合は自らの研究で〈魔法の世紀〉にするという。実際に映像に代替する次世代の視覚体験の研究開発を手掛ける落合はこう主張する。
エジソンからリュミエール兄弟までの時代――生まれたばかりの映像はまさに「魔法」そのものだった。しかし、その魔法は驚くほど短い時間で、覚めた。瞬く間に人々に浸透し、当たり前のものとなり、もはや魔法ではなくなってしまった映像は物語の器となることでその社会的な機能(媒介者)を得、そしてそれゆえに前世紀の社会の構造を規定する装置になっていった(映像の世紀)。しかしそれは同時に劇映画とは魔法を失った映像の屍(しかばね)にすぎないことを意味するのだ、と。そして媒介者としての、文脈の共有装置としての映像がその役割を終えようとする今、全盛期における劇映画のように人々の心を動かすものは何か。それが編集者としての私が作家としての落合に投げかけた問い、だった。
落合の回答はこうだ。
映像の世紀が終焉したいま、魔法的な技術こそが人々の心を動かすだろう、と。映像の、特に劇映画的なものによる他者との文脈共有がその威力を決定的に低下させたとき、それに代わるもの――人の心を決定的に動かすもの――は劇映画以前の映像がそうであったように魔法的な技術そのものだ、と落合は言うのだ。そして自分の研究はその最先端であり、新時代のアートそのものである、と。さらに、遅れてきた富野由悠季のファンを自称する落合は言う。富野自身とは異なり、自分はニュータイプの理想を信じているのだ、と。幼いころに見た富野のアニメーションから得たイマジネーションを、自分は社会に実装するのだと。〈魔法の世紀〉とは人類をニュータイプに導くものだ、と。
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【入場受付方法変更】富野由悠季×國分功一郎×福嶋亮大×宇野常寛 11/25(土)開催!『母性のディストピア』刊行記念シンポジウム 「戦後アニメーションは何を描いてきたか」(号外:イベント情報のお知らせ)
2017-11-24 14:30【お知らせ】当日13:00より入場整理券を配布することになりました。ご入場方法について下部に追記があります(11/24)。国産アニメーションがその特異な進化を経ることで、内外に独自の地位を築いてから久しい。そして同時にこれらアニメーションは戦後日本の産み落とした文化的な「鬼子」として、ときに美しく、ときにグロテスクなかたちで現実以上に現実を表現するジャンルとして認知されてきた。
この度出版された宇野常寛著『母性のディストピア』はこうした戦後アニメ、とりわけ宮﨑駿、押井守、そして富野由悠季の作品を中心的に論じ、アニメーションの分析から戦後日本の精神史に対する批評を試みたものである。
本シンポジウムでは富野由悠季監督を招き、同書を素材に実作と批評、双方の観点からこの国のアニメが描いてしまったものとは何だったかを議論する。
【登壇者】
富野由悠季(とみの・よしゆき)
1941年生まれ。神奈川県小 -
【入場受付方法変更】富野由悠季×國分功一郎×福嶋亮大×宇野常寛 11/25(土)開催!『母性のディストピア』刊行記念シンポジウム 「戦後アニメーションは何を描いてきたか」(号外:イベント情報のお知らせ)
2017-11-14 07:30【お知らせ】当日13:00より入場整理券を配布することになりました。ご入場方法について下部に追記があります(11/24)。国産アニメーションがその特異な進化を経ることで、内外に独自の地位を築いてから久しい。そして同時にこれらアニメーションは戦後日本の産み落とした文化的な「鬼子」として、ときに美しく、ときにグロテスクなかたちで現実以上に現実を表現するジャンルとして認知されてきた。
この度出版された宇野常寛著『母性のディストピア』はこうした戦後アニメ、とりわけ宮﨑駿、押井守、そして富野由悠季の作品を中心的に論じ、アニメーションの分析から戦後日本の精神史に対する批評を試みたものである。
本シンポジウムでは富野由悠季監督を招き、同書を素材に実作と批評、双方の観点からこの国のアニメが描いてしまったものとは何だったかを議論する。
【登壇者】
富野由悠季(とみの・よしゆき)
1941年生まれ。神奈川県小 -
【『ガンダム Gのレコンギスタ』放映記念!】いま、ガンダムと富野由悠季の歩みを振り返る(中川大地) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.151 ☆
2014-09-04 07:00
【『ガンダム Gのレコンギスタ』放映記念!】いま、ガンダムと富野由悠季の歩みを振り返る(中川大地)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.9.4 vol.151
http://wakusei2nd.com
本日のほぼ惑は、10月からの『ガンダム Gのレコンギスタ』放映を(勝手に)記念し、2004年刊行のムックシリーズ『ガンダムヒストリカ』(講談社)にて、富野由悠季と「ガンダム」シリーズの歩みを総括した中川大地のエッセイをお届けします。ファーストガンダム放映35周年となる今回の『Gレコ』開始にあたり、25周年当時の富野由悠季が置かれていた状況を振り返る、貴重なドキュメント・レポートです。【富野由悠季プロフィール】
1941年生まれ。虫プロで『鉄腕アトム』を手がけ、日本初のTVアニメ制作に参加。斧谷稔名義で「コンテ千本切り」の伝説を築き、『海のトリトン』で初のチーフディレクターを担当。『無敵超人ザンボット3』『無敵鋼人ダイターン3』の原作・総監督を経て『ガンダム』に至る。小説家としても数々の作品があるほか、井荻麟名義で自作の使用歌曲の作詞も行う。
▲『ガンダム Gのレコンギスタ』公式HPより
2004年4月17日。金沢工業大学にて、昨年度に第1期を終えた公開講座「ガンダム創出学」の第2期が開講した。講師は、富野由悠季ガンダム総監督。「リアルに対面するために」と題されたその最初の講義に、『ガンダム』四半世紀史の中核にある「リアル」の意味を再検証してきたすべく、筆者は学生たちの列に混じった。
■「ガンダム創出学」で起きたこと
金沢工業大学の学生触発企画のひとつとして、2003年度から催されている公開講座「ガンダム創出学」。昨年度の第1期「現代編」の講座は、メカデザインやSF設定に携わった『機動戦士ガンダム』制作当時の関係者たちを講師とし、エンジニアの卵たちに「ものづくり」の発想をガイドする主旨で、全10回の講義が行われた。第2期「未来編」となる今年は、ガンダム世界の未来像と通底するコンセプトを呼び水に、自動車デザインや二足歩行ロボットの専門家など、より実業の現場に近い講師陣での展開になる。
この、授業と講演の合いの子のような独特の講座の全体を設計し統括するのが、富野由悠季「客員教授」。連続講座の最初と最後は、いわずとしれたガンダム総監督自身が導入と総括を務める。
その最初の講義を聴講すべく、筆者は金沢を訪ねた。タイトルは、「リアルに対面するために」。真新しい超近代的な設備の校舎に感心しながら、興奮気味で『ガンダムSEED』の話をしてる学生たちに混じって教室の片隅に陣取ることしばらく。襟のない牧師みたいな黒いスーツの、スキンヘッドのおじさんが入ってきた。
――トミノさんだ。大学スタッフからの紹介ののち、その人は低い声で学生たちに語りかけた。
「富野です、おはようございます。タイトルの通り、いま皆さんとリアルに対面しているわけですが、まず教えてください。今年、こちらに入学なさった方、手を挙げてください」
教室の半分以上の手が挙がった。こんな調子で、学生たちの手応えをすこし丁寧すぎるくらいに確認していきつつ、徐々に話は熱を帯び、次第に歯に衣きせぬトミノ節があらわになってくる。ノートを取る気配のない生徒たちへの注意、「金沢工大にしか来られなかった」とクサっているかもしれない連中への檄、そして「皆さんよりもっと優秀で努力家だった人たちが考えた原理原則公式を、いまさら白紙から考えたら何回人生があっても間に合わないから」という、きわめて身も蓋もない学習の必要性の種明かし……。
「今日は、僕らのような人間からみて、工業大学という理科系の環境でこれから技術開発に携わっていく人に、いちばん大事だと思うことをお伝えしたいと思います。……はい、全員立って!」
そうきたか! ざわめき、戸惑う学生たちと一緒に立ち上がりながら、筆者は富野が以前齋藤孝(*1)と対談していたのを思い出していた。
「……両手を合わせて、まっすぐ伸ばして上へ、上へ。上げていく過程での肩の筋肉、肩胛骨の筋肉、指先の筋肉、お尻の穴から這い上がっていく感覚がどうに指先に伝わるかを、感じてください。……はい、では隣の人と手を合わせてください。合わせろっ(笑)! それぞれの掌のふくらみが相手とどう接しているか。指先同士が、その面積が何センチ平方メートル相手とどう接しているか、感じろ。感じるだけでなく考えろ! そしてできたら考えるだけでなく、それを認識として、自分の中に、取りこめっ!!」
そして黒板に大書きした、「身体性」の3文字。筆者の脳裏に思い浮かんだのは、『ガンダム』最終話でのアムロとシャアの応酬だ。
『ニュータイプでも身体を使うことは普通の人と同じだと思ったからだ!』
『そう、身体を使うわざはニュータイプといえども訓練をしなければな!』
デジタル社会に適応しケータイやパソコンを苦もなく使いこなす新世代たちへ、おもねらずに真っ向から突きつける生身のリアリティ。かつて思春期的な感性で「子供騙し」のアニメを変革した〝御大〟は、その本質をまるで揺るがすことなく、そんなふうに大人をやってみせている。それはきっと、「アニメ新世紀宣言」以来、その時々の若者たちとの向き合いかたをずっと考えつづけてきたからこその姿だろう。そんな富野が過ごした25年の来歴に、筆者は思いを馳せた。
■その後のガンダムシーンと富野の苦悩
1980年の本放送終了から劇場化を経て、社会現象的な盛り上がりをみせた『ガンダム』の人気は、以後のアニメをめぐる状況を文字通り一変させた。次々と創刊されたアニメ誌がティーンエイジャーたちの間に「アニメファン」という共同意識をもたらし、ガンプラブームが玩具ではなくプラモデル市場を存立基盤とする「リアルロボット」アニメというカテゴリーを生み、一気に主流化する変化のなか、富野は一躍アニメファンたちのカリスマに祭りあげられることになる。しかし後年の談話が示す当時のムーブメントへの本人の認識は、常に苦々しいジレンマと裏腹だった。
「時代の問題だと思います。(中略)時代はそういう芯になるものを欲するんです。そういう時に、例えば僕のようながカリスマだと呼ばれて、ひょっとしたらそうかも知れないなと思ったという僕の馬鹿さ加減の方がよほど問題です」(*2)
子供向け玩具の古い約束事が、アニメの作品性を縛る状況はたしかに変わった。しかし次に訪れたのは、『ガンダム』の成功自体が新たな商業的束縛の枠組みとなり、MSVなど作品本編から独り歩きした設定遊び的な充足をも含めた期待が、劇場化の際にも頑なに拒んでいた続編の制作を富野に強いるという事態だった。
「結局『ガンダム』しか残ってないから、これから10年『ガンダム』でやるしかない。(中略)だけどこれを続けて行ったら、自分の作家性の部分は絶対にジリ貧になっていくというのと、これに甘えていく自分というのもあるだろう」(*3)
その自覚のとおり、'85年の『機動戦士Zガンダム』以降、「続ける」ことを前提づけられてしまったシリーズでは、白々しいウソを避け、「リアル」な作品性に誠実であろうとすればするほど、物語は余裕のない、痛々しい現実の写し絵へと陥ってゆく。地球連邦と宇宙移民の対立は永遠に解決を許されず、またニュータイプの希望は幻滅を重ね、やがて「なかったこと」にされる。そして'93年の『機動戦士Vガンダム』を「ガンダムを潰す」つもりで完結させると、富野は「キレて病気になった」(*4)。
そうして本編のドラマが求心力を失うに伴い、不満を抱きつつもガンダムを見限れないファンたちは、関連書籍やプラモを通じたモビルスーツや細部設定に執着したりファーストを絶対視したりするマニアックな層へとしだいに収斂していく。'80年代後半から'90年代にかけては、そのようにコア化した市場向けにOVAやゲームで「一年戦争外伝もの」が作られる一方、反対にまったく先入観のない新規層に向けては「ガンダム」の暖簾だけを継ぎ、宇宙世紀に無関係な『機動武闘伝Gガンダム』以降の、いわゆる「アナザーガンダム」のTVシリーズが放映。富野のパーソナリティが必要とされずにガンダムが再生産・消費される時代として、過ぎていったのである。
■「黒歴史」に向きあって
富野がふたたびガンダムに呼び戻されたのは、『機動新世紀ガンダムX』が打ち切りとなりTVからガンダムが撤退していた'97年4月10日のことだったという。'99年の「ガンダム20周年記念事業」に向けつつも、「記念イベント論はかんがえずに撤退をうけたニューガンダムを企画してくれ」とサンライズの吉井孝幸社長から要請される。『ブレンパワード』でようやく「病気」から回復しつつあった富野は、こうして『∀ガンダム』を作りはじめるのだった。 -
フル・フロンタルこそ真の「可能性の獣」である ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.134 ☆
2014-08-13 07:00
フル・フロンタルこそ真の「可能性の獣」である
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.8.13 vol.134
http://wakusei2nd.com
(初出:「ダ・ヴィンチ」2014年8月号)
"あえて言おう。フル・フロンタルこそが真の「可能性の獣」である、と。"今日のほぼ惑はダ・ヴィンチ8月号に掲載された宇野常寛の『機動戦士ガンダムUC』論。作中では矮小な悪党として描かれたフロンタルにシャアの絶望に抗う可能性を見出します。
▲機動戦士ガンダムUC(ユニコーン) [Mobile Suit Gundam UC] 2 [Blu-ray] より
今からさかのぼること33年前──1981年2月22日、今やそこはまったく別の意味で「聖地」となりつつある新宿東口のスタジオ・アルタ前はアニメファンでごったがえしていたという。70年代末からのアニメブームは『宇宙戦艦ヤマト』などのヒット作を中心に、国内におけるアニメーションを児童向けのいわゆる「ジャリ番」から、大人まで楽しめるサブカルチャーの1ジャンルに押し上げていった。その流れの中核にあったのが、79年にテレビアニメ第一作が放映開始された『機動戦士ガンダム』だった。テレビでの本放送時は玩具の売り上げ不振等の理由からいわゆる「打ち切り」の憂き目を見た『ガンダム』だが、その革新的な世界観と重厚な物語などで折から形成されていたアニメファンのコミュニティで大きな支持を受け、アニメブームの主役となっていった。
そして加熱するファンコミュニティの空気に応えるかたちで『ガンダム』劇場版三部作の公開が決定され、その宣伝イベントして企画されたのがこの「アニメ新世紀宣言」だった。
「私たちは、アニメによって拓かれる私たちの時代とアニメ新世紀の幕開けをここに宣言する」壇上に立った富野喜幸(現:由悠季)はそう宣言した。『ガンダム』の生みの親として、今でこそ広く知られている富野だが当時はまだ知る人ぞ知る存在だった。この時期の富野の発言にはたびたび、自作を中心とするアニメを子供向けの低俗な娯楽としてではなく、独立した1つの文化ジャンルとして受け入れる若者たちの感性を、新世代の感性として肯定する内容が見られる。80年代の後半から富野はどちらかといえばサブカルチャーに耽溺し、情報社会に適応した若者を現代病の患者として否定的に言及することが多くなったので、現在の富野を知る読者はこうした発言を知るとむしろ驚くかもしれない。
さて、ここで注目したいのは『機動戦士ガンダム』の作中で登場する「ニュータイプ」という概念が、当時の新世代─アニメ新世紀宣言に賛同した若いファンたちの世代─と重ね合わされていたということだ。「ニュータイプ」とはファースト・ガンダムと呼ばれる初代『機動戦士ガンダム』の作中で、新兵のアムロがエースパイロットとしてわずか数カ月の間に急成長する根拠として与えられた設定である。それは人類が宇宙環境に適応することで発現する一種の超能力である。しかしそれはテレキネシスやテレポーテーションといったものではなく、極めて概念的で、抽象的な超能力で超認識力ともいうべきものだ。「ニュータイプ」に覚醒した人類は、地理や時間を超えて他の人間の存在を、それも言語を超えて無意識のレベルまで感じることができる。これは富野による極めて個性的な超能力設定だと言える。宇宙移民時代に人類が適応し始めたとき、その認識力がこのようなかたちで拡大していく、と考えた作家は古今東西他にいないはずだ。
そしてこの「ニュータイプ」という概念は、作品外のムーブメントと結果として重ね合わされることになった。後にメディアを賑わせる「新人類」の語源のひとつがこの「ニュータイプ」であるという説もあるが、おそらくは「新世紀宣言」が代表する当時のアニメブームが、前述のように世代論と深く結びついていたことがその説の背景にあると思われる。当時物語の中で描かれた「ニュータイプ」とは人類の革新であり、社会的にそれは「アニメ新世紀宣言」が掲げたように、新しいメディアに対応した新世代の感性の比喩だったのだ。
あれから約30年、当時ティーンだった「ニュータイプ」たちは今や40代の堂々たる中年になっている計算になる。その後『ガンダム』は81年から上映された劇場版三部作と、小中学生の間でのプラモデル商品の大ヒットを通じて社会現象化していった。そしてそれから30年、何度か下火になりながらも断続的に続編が発表され、その広がりはアニメに留まらず、プラモデル、ゲームなどにもおよび「ガンダム産業」と呼ばれる現在においては国大最大級のキャラクター・ビジネスを生み出すシリーズに成長している。
そのシリーズ展開は多岐にわたり、ティーンを対象とした続編が制作され続ける一方でファースト・ガンダムのファン層をターゲットにした中年向け作品も存在する。いや、正確にはこの「ガンダム産業」はこうした中高年市場に大きく依存していると言っても過言ではないだろう。
さて、そんな中高年向けガンダム市場の中核にここ数年君臨しているのが今回取り上げる『機動戦士ガンダムUC』である。本作はストーリーテラーに『終戦のローレライ』などの歴史SF、『亡国のイージス』などのポリティカルフィクションで知られる福井晴敏を迎え、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の続編的な物語を展開している。本作ではこれまで事実上の原作者であった富野のみが許されていたファースト・ガンダムから続く架空歴史=宇宙世紀への改変・介入をはじめて富野以外の作家が行い、作中にはブライト・ノア、カイ・シデンといったファースト・ガンダム以来の人気キャラクターが多数登場する。要するに高齢の原作者に代わり、40代のファーストガンダム世代の作家が「正史」を紡ぐ権利を手に入れた、と言えなくもないだろう。その結果、本作はファーストガンダム世代の「ファン代表」である福井による、富野批評的な側面を否応がなく負うことになった。そして、結論から述べれば本作をもって、富野由悠季が築き上げてきた「ガンダム」シリーズの、特に物語面での達成はほぼ引き継がれることなく失われてしまうであろうことがはっきりしたように思う。
本作『UC』の舞台は『逆襲のシャア』から3年後の宇宙世紀0096年だ。『逆襲のシャア』で連邦軍に敗北したネオ・ジオンの残党は「袖付き」と通称されるテロ組織を結成し、連邦軍に戦いを挑む。「袖付き」の目的は「ラプラスの箱」と呼ばれるおよそ100年前のテロ事件に関わる連邦軍の機密だ。主人公の少年バナージは、この「ラプラスの箱」を狙う袖付きのテロに巻き込まれたことをきっかけにガンダムのパイロットになり、軍とテロリストと巨大軍事産業の入り乱れる陰謀劇に巻き込まれていくことになる、といったのが大まかなストーリーだ。(ついでに言うと、このバナージ少年にも出生の秘密があって、実は新型ガンダムを建造した軍事産業の幹部の隠し子だった、なんて設定が開陳される。)
表面的にこの物語はファースト・ガンダムがそうであったように、少年の社会化の物語として展開していく。ロボットを人工知能の器としてではなく、少年の成長願望の象徴として(操縦することで得られるかりそめの、巨大な身体として)位置づけた日本のロボットアニメは、常に少年の欲望と並走してきた。巨大な身体を得て、大人社会に混じって活躍し、そして少女を得る。本作『UC』も例外ではない。父からガンダムを託されたバナージ少年は、「ニュータイプ」としての才能を開花させ、時にはテロリストの、そして時には軍の陰謀に立ち向かう。彼の前にはジオンの王女ミネバをはじめとする美少女が彼の救済を求めて現れる。良くも悪くも、その表面的な物語構造は思春期男子の欲望に応えるべく日本のロボットアニメの洗練させてきたパターンだ。
しかし、福井による小説を、そしてこのたび完結したアニメ版を読んだ/観た人間は気付くだろう。本作は決して少年の成長物語を主眼に置いた作品「ではない」と。
この『ガンダムUC』という作品を一言で表現するとしたら、それは「説教リレー」という言葉が相応しいだろう。本作は基本的に1パターンのエピソードの反復で構成されている。それは主人公のバナージ君(たまにヒロインのミネバ)が中高年の(つまり、想定視聴者が感情移入しやすい年齢設定の)男性に説教される→適度に(勝たない程度に)バナージ君が反論→結局おじさんの説教に感動して涙目→そのまま出撃してガンダムで大活躍→力を使いすぎて気絶、敵につかまる→つかまった先の中高年男性が出てきてまた説教→(以下繰り返し)……といったループである。
第1話のバナージの父親からはじまって、「袖付き」のジンネマン艦長、連邦軍特殊部隊のダグザ……と次々と説教のバトンが渡される。中盤でミネバが偶然立ち寄ったレストランのオヤジまで説教を始めたときはほんとうにどうしようかと思った。そして彼らの説教には基本的に中身がなく、どれも「大人の社会はいろいろ立場があるんだけど、みんながまんしてがんばっているんだ(だから俺たちをバカにするな)」の一行に要約することができる。今どきの若者ならスマートフォンをいじりながら聞き流してしまいそうな内容なのだが、バナージ君はどの説教もじっと真剣に聞いている。ほんとうにいい子だと思う。そしてバナージ君に感心すればするほど、情けない気持ちがこみ上げてくる。ここに現れているのは、端的に今の40代男性の自信のなさではないか。バブル入社世代から団塊ジュニア世代─要するにファースト・ガンダム直撃世代にあたる40代男性の「自信のなさ」ではないだろうか。
『ガンダムUC』は30代、40代を中心に、決して盛り上がっているとは言えない現代のアニメシーンにおいて絶大な支持を獲得した作品だ。完結第7話の先行プレミアム上映の興行収入は10億に上ると言われている。もちろん、この説教臭さがどれほど支持を集めているかどうかは分からないので、性急な結論は避けるべきだろう。しかし少なくとも作品の表面に現れているものが証明しているのは、過剰に「父」として振る舞いたいという欲望に他ならない。『ガンダムUC』は明らかに物語の進行を毎回挿入されるこの過剰な「説教」が停滞させているし、その上前述した通りその説教にはまったく中身がない。そこに存在するのは、少年に説教することで自己確認を行う=「父」的な存在としての尊厳を確認する中高年の悲しい背中だけだ。(個人的にはこの21世紀の世界で旧世紀的な「父」になることに拘泥していること自体があまりにアナクロで滑稽にすら思えるのだが。)
意地悪な比喩をあえて選べば、今どきの「飲みニケーション」を拒否する20代の若い部下たちに説教する場を与えられない40代の中間管理職たちが、アニメの中に満たされない欲望を吐き出している、ようなものなのではないか。そう、思春期の頃はエースパイロットとして大人社会に混じって活躍することと、お姫さまや薄幸の強化人間美少女との恋愛を夢見ていた彼らは、あれから30年たった今、なんだかんだで結婚し、何割かの確率で子どももいて、そして年功序列的に多少なりとも社会的な立場のできた今、そのような夢はもはや見る必要がなくなっているのだ。その代わりに彼らが欲望しているのはむしろ、「何ものでもない自分の説教を聞いて感動してくれる新入社員」なのではないか。その上教育コストゼロで戦場で大活躍の(だって「ニュータイプ」だから)即戦力新入社員なのではないか。
ではこの『ガンダムUC』」という壮大な物語に、『ガンダム』世代の作家が原作者=富野殺しを宣言して広げた大風呂敷の上に、自信のない中高年男性の説教ヒーリング以外の可能性はあるのだろうか。
結論から言えば、「ある」。もちろんそれはひたすらさえない中間管理職のお説教を聞いてあげているだけのバナージ少年や王女ミネバにもなければ、彼らに説教して自信回復する情けない説教オヤジたちにもない。あるとすればそれは、作中ではそんなバナージ君とぞろぞろ出てくるそのお父さん候補たちに否定されつくす「悪役」フル・フロンタルという存在に他ならない。
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