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中心をもたない、現象としてのゲームについて 第41回 第5章-7ハブとしての循環概念を評価する|井上明人
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。
「遊び-ゲーム」の分節を説明できる理論はいかにして可能なのか。「インタラクション」「学習」「循環」といった概念でそれを記述する困難を確認しつつ、改めて「遊び-ゲーム」を分節化すること自体の意義を問い直します。
井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて
第41回 第5章-7 ハブとしての循環概念を評価する5.7 ハブとしての循環概念を評価する
5.7.1 包含関係によるハブ概念としての循環概念前回、「遊び-ゲーム」に関わる現象を観察する4つの観察モデルが、さまざまな遊び-ゲームを捉える説明(学習説や非日常説)の多くに適用可能なものであることを示してきた。
これは、いわば複数の要素間の循環のような現象がゲームを説明する鍵を握っているのではないかということを示すものだった。こうした複数の重要概念が、この4つの観察モデルを通して並列させてみることができるとは一体どういうことなのかを考えてみたい。
「遊び-ゲーム」にとって中心的な概念とは何か、という基本的な問いを考えたとき、その対象となる行為を幅広く説明可能なものとして、第三章では、ゲームを学習として考えるという発想を論じてきた。それと同様に、循環もまた遊び-ゲームに関わる概念を幅広く説明可能なものとなっている。学習説の概念が多様な概念と先後関係を持つというような形で機能し、複数の概念間をつなぐハブとして機能しうるからではないか、というのが現時点での見解だった。
前回までの議論から言えることとして、 ここで循環のモデルとして取り上げた概念系も、そうした性質をもっているということだ。多様な現象を記述できる媒介となりうる性質をもっている。これは遊び-ゲームについての「循環」系の概念を使った説明が、遊び-ゲームのほとんどの領域を記述可能な万能理論的な性質をもっているということを示しているといっていい。それゆえに、ガダマーも、ボイデンディクも西村清和も、多くの論者が循環的な性質の意義を強調してきたと考えてもいいだろう。
では、循環のモデルはハブ概念として、学習説と比較して、どのように評価できるだろうか? 循環的な側面を強調することは、学習説とは異なっている側面がある。
第一に、循環のモデルを用いて遊び-ゲームに関わる諸概念を記述することはできる。しかし、「記述できる」ということは、因果関係や相関関係、先後関係といった仕方で諸概念と関係しているといったことではない。
さまざまな概念を「記述できる」ということは、遊び-ゲームに関わる様々な概念が循環に関わる属性を共通して備えているということである。
言い換えれば、それは遊び-ゲームに関わる様々な概念が、循環に関わる概念の(1)部分集合であるか、(2)もしくは積集合(共通部分)としての性質を持っているということだと考えられる。可塑的な複層構造をもったものは様々なものがあるが遊び-ゲームはその一例となりうるし、循環参照的な推移をするものも様々なものがありうるが遊び-ゲームはその一例となりうる。
すなわち、何らかの包含関係という形で循環に関わる概念は遊び-ゲームの諸概念のハブとなっていると考えられる。
部分集合であるか積集合であるかはさておくにせよ、遊び-ゲームの諸概念を幅広く含むかたちで、循環系の概念は位置づけることができる。学習説が現象の移行するプロセスに着目していたのとは違った関係性によって循環系の概念は概念のハブとしての性質を持っていると見做すことができる。
5.7.2 循環概念は遊び-ゲームだけを含むのか
包含関係的なハブであるということは良いとして、これが何らかの包含関係によるものなのだとすれば次に起こる問題は、これがどこまで広い現象を説明するものなのかということだ。
学習説は、「学習」と省略して呼んではいるが、実際にはフロー体験のような比較的、限定された学習のケースを想定している。では、可塑的な複層構造や循環参照的な順序といったものはどうなのか。
素朴に考えれば、可塑的な複層構造のような話は、記述可能な範囲が広すぎると言っていい。構造化が徐々に進むやや複雑なプロセスをもったような現象を含むものであれば、だいたいのものはこのモデルで記述できてしまう。生命の進化プロセスでも、法の制定過程でも、組織の秩序化が行われるプロセスでも記述できる。記述できる幅が広すぎる。
20世紀後半に多くの学問分野で、オートポイエーシスやシステム論が注目され、それらの理論は、生命システムから社会システムまでかなり広範な領域を説明してきた。こうした一般性の高い話との切り分けをしなければいけない。
説明力は高く、確かに循環のような現象は遊び-ゲームの記述において有用であるが、遊び-ゲームの領域固有の特徴を限定するための説明モデルとしては適切な粒度であるとは言い難い可能性がある。
5.7.3 適切な限定を加えることはできるか?
これは、適切な限定をすることが不可能であると言っているわけではない。
概念範囲の広さをめぐる論点は、ビデオゲーム研究に限定した話をするならば、「インタラクティビティ」概念が、ビデオゲーム特有の性質を適切に記述する概念たりうるのか? という議論でも似たような議論がなされてきた。インタラクティビティの概念と「循環」の概念が同じであるかどうかはやや注意すべき点もあるが[1]、可塑的な複層構造や、固定的な複層構造、あるいはその中間のような複層構造は、一般に「インタラクティビティ」という語彙によって想定される範囲とほとんど重なるものだろう。
「インタラクティビティ」はビデオゲームに特有の性質を持つ語彙として、しばしば注目されてきたが、「インタラクティビティ」のあるものはビデオゲーム以外にも、ゲーム以外のPCのソフトウェアや、若干の複雑な挙動をする機械の多くに当てはまる性質である。そのため「インタラクティビティ」をビデオゲーム固有の性質として見做すことはしばしば批判を受け[2]、そして、適切な範囲の限定を加えるための議論も蓄積してきた。
興味深いことに、インタラクティビティの範囲を限定する際に行われる概念化は、しばしば学習説やコミュニケーション説の要素を部分的に採用しているように解釈できるものが多い。
たとえば、オーセット(1997)は「エルゴード的(ergodic)」という概念を導入し、読者が読み通すために「小さくない努力(nontrivial effort)」を要するものだという限定を加える[3]。また、スマッツ(2009)Smuts, A. 2009. What Is Interactivity?. The Journal of Aesthetic Education, 43(4), 53–73.は、反応を返すもののうち、完全にコントロールするものではなく、完全にコントロールされるものでもなく、完全にランダムな仕方では反応しないもの[4]という限定を加える。プロのテニスプレイヤーがまともに勝負にならない程度に下手な相手とプレイするようなときは、あまりインタラクティブな状況とは言えず、何かを習得することが難しいようなときには、その何かが最もインタラクティブであるのだという[5]。こうした概念化は、遊び手による主体的な状況の関わりについての概念化であり、とりわけスマッツによる概念化はインタラクションの議論と学習説の議論を融合させた議論のように読める。
また、クロフォードによるインタラクティビティの概念化は、会話をモデルとしたものになっている。クロフォードによれば、インタラクションとは「二人の行為者が交互に聞き、考え、話す循環的プロセス」だと言う[6]。
ここまで、遊び-ゲームのハブ概念として、学習説、コミュニケーション、インタラクティビティといった概念が強力に機能しうることを述べてきたが、いずれも、インタラクティビティの概念化のために、深く関係を持ちうる学習説やコミュニケーションような概念ハブの特質を借りてくることで、概念の範囲を絞ろうとしているように思われる。
こうした概念の限定の仕方は、遊び-ゲームに関わる範囲を限定する上で、学習やコミュニケーションが強力なハブ概念として機能しうる限りにおいて、説得的な限定にはなりうるだろう。
ただし、ここで与えたい限定は、学習説やコミュニケーションのようなハブ概念に頼らないかたちでの概念の限定がありうるのか? ということである 。学習説やコミュニケーションなどを再記述するものとしての「循環」の適切な概念化のために、学習説やコミュニケーションの概念を借りてしまってはトートロジカルな説明になってしまわざるを得ないため、それらに頼ることはできない。
学習説ほとんどそのものではなくても、学習説の一部を構成する――たとえば「自発性」――のような心的態度を条件の限定に持ち込んで、「自発的に循環の中で揺蕩うこと」あるいは「循環の中で揺蕩うことを拒否しないこと」といった形で限定すれば、それなりに限定できるかもしれない。ただし、循環の観察モデルのなかに心的態度を持ち込むことを正当化できる根拠を筆者はここで持ち出すことはできない。
循環や「インタラクティビティ」といった概念を扱うことの難しさの一つは、「会話」や「学習」といったものに比べると、こうした概念が指し示す範囲についての日常的な意味の範囲というものが日本語ではあまり明確に存在しているとは言い切れないという点がある。「インタラクティビティ」などは英語圏ではかなり日常的な語彙になっているようだがそれでも1960年以後のことであり、非西洋圏では、いまだ日常的な語彙とは言えず、言語圏によっては、かなり専門的な語彙にさえ響く[7]。いわば「日常概念」であるのかどうかのボーダーライン上にあるものだと言える。
それゆえ、この概念が適切な範囲をもった日常概念たりうるかどうかは、現在の原稿執筆時の2024年時点では、議論すること自体がおそらく難しい。この概念がハブ概念として適切な範囲を持ちうるかどうかは、100年後の議論に委ねても良いかもしれない。
2024年の現時点では、「適切な概念範囲の限定を与えることが難しい概念なのではないか」ということを確認するに留めたい[8]。
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勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(後編)
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。
今回は『勇者警察ジェイデッカー』について分析します。女性性の強いキャラクターデザインの主人公・勇太のビジュアルを引き合いに、戦後ロボットアニメが提示してきた「父性」「母性」のあり方を本作がどのように更新したのか考察しました。池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」母なる勇太、父たるレジーナ
ファイヤージェイデッカー誕生は、次のような展開を通じて行われる。かつてデッカードを倒したチーフテンは、紆余曲折を経て再びブレイブポリスの前に立ちはだかる。もともとは相棒を失ったことを悲しむ心を持っていたチーフテンは、しかし創造主たるビクティムが「強い者が全てを手にする」という「悪の心」を徹底させたことで、片方が片方を殺害し、そのパーツを吸収するかたちで一種の「グレート合体」を果たす。これに対抗するためにデッカードとデュークもまた合体しようとする。しかしここで、合体してしまうとどちらか一方の人格が消えてしまうという問題が発生する。そこにはさまざまな設定的理由があるのだが、物語世界においてドラマを成立させるためのエクスキューズにすぎないため、いったん置いておこう。重要なのは、象徴的なレベルにおいて、この対立がいかなるものであるのかだ。結論から言えば、ファイヤージェイデッカーは「母」であった勇太が「父」となり、そして「父」であったレジーナが「母」となることによって完成する。どういうことか、順番に見ていこう。まず、デッカードが「人間の心」を得るきっかけとなったのは勇太その人であった。そして勇太はデッカードに、そしてブレイブポリスのロボットたちに、無条件といえるような承認を与えていく。勇太は常に、心を持ったブレイブポリスたちを丸ごと受け入れる。その一方で、そのあまりの愛情の深さゆえに、しばしば警察組織たるブレイブポリスのボスとして正しくない判断をすることもある。レジーナが勇太のことを「悪い手本」と指摘するのは、勇太にロボットたちを正しい方向に導き、上司として職務を遂行させようという父性が欠如しているからだ。実際、これまで主人公を務めてきた少年たちに比して、勇太には際立って女性的なキャラクターデザインが与えられている。眉の太さなどいくぶんか男性的な記号も入っているものの、基本的にはふたりの姉にそっくりな顔立ちで、美少女の文法としてデザインされていると見てよいだろう。また女子中学校への潜入捜査のために女装するエピソードがあるのだが、これは劇中で似合っているともてはやされ、実際に違和感なく潜入を成功させる。こうしたデザインが物語に先立っていたのか、それとも物語に対して適切なデザインがこうであったのかを論じることは難しい。しかしいずれにせよ結果として、勇太は勇者シリーズにおいて、かつてない母性的な側面を持った主人公だといってもよいだろう。一方でより「成熟した」デザインを与えられたレジーナが、警察組織におけるロボットの理想像を徹底しようとしてきたことはすでに論じてきた。デュークが「人間の心」を持つことを認めず、あくまで「善の心」だけを持つよう厳しく求めてきたレジーナは、強い父性を持ったキャラクターとして配置されているといえる。ファイヤージェイデッカーへの合体は、勇太とレジーナが、その欠落した部分――勇太にとっては父性、レジーナにとっては母性を獲得することによって、はじめて成立する。先にレジーナの側から見ていこう。超AIから悪の心を取り去り善の心のみを持たせたいというレジーナの動機は、その過去に由来していることが明かされる。ロボット研究者であったレジーナの母親は、違法ロボット兵器にかかわったことで犯罪者となってしまった。そして警察官であった父親は、情に流され母親を逃がしてしまったことで職を追われていた。レジーナはそんな自分の両親に対する悲しみと憎しみ――すなわち「悪の心」を封じ込め、かつて遂行されなかった「父性」を貫徹しようとしてきたのだった。レジーナを想うデュークは、次のように問いかける。「人間には、自分を作った者に対する愛情はないのか?」。この言葉をきっかけに、レジーナは自分自身もまた思っていたほど成熟した存在でなかったこと、自らも「善の心」と「悪の心」、愛と憎しみが複雑に絡み合った「人間の心」を持つことを受け入れる。これによって、デュークが「人間の心」を持つこともまた肯定される。すなわち自分の過去に向き合うことで、デュークを丸ごと受け入れる愛情を認めていくことになっていくのだ。一方、勇太はデッカードあるいはデュークが消えてしまうことから、当初は合体を躊躇する。しかしレジーナの指摘を真摯に受け止めることで勇太は成長し、ときにリスクをおかしてでも犯罪を止めなくてはならないと覚悟する。ゆえに、勇太は人格消滅のリスクを飲み込んだ上で、ファイヤージェイデッカーへの合体を命じる。そしてレジーナはデュークを失いたくない愛情ゆえに、一度これを止める。ここに至って、母性からスタートした勇太と父性からスタートしたレジーナは、それぞれ父性と母性を得てその立場を逆転させているのだ。合体に際して、デッカードとデュークは次のように誓いを立てる。デッカードが消えた場合は、デュークが勇太を守る。デュークが消えた場合は、デッカードがレジーナを守る。憎しみの裏側にあるこうした思いやり――デュークの言葉を借りれば「愛情」――を持ったことによって、人格消滅のリスクを彼らは奇跡的に乗り越えるのである。「母性」をまとうジェイデッカー
ファイヤージェイデッカーをめぐる想像力が、勇者シリーズにもたらした画期はふたつある。ひとつは親子の関係が逆転していること。もうひとつはそこに「母性」の論理が持ち込まれたことだ。勇者シリーズの前身となるトランスフォーマーVは、スターセイバーという「父」とジャン少年という「子」の物語からはじまっていたのだった。これまで理想の成熟を体現していたロボットは、象徴的な意味では「父」として存在してきた。勇者シリーズはそうした理想像であるロボットに対して命令する権利を与えることで、子供たちの地位をロボットと対等なものに格上げし、命じる者/行う者として相補的に機能させることで、「父子」から「兄弟」へとその関係を対等なものとして描き直してきた。ジェイデッカーにおける勇太少年とデッカードの関係も、当初はこうした構造を確認している。一方で、デュークのレジーナに対する想いは、レジーナの両親に対する想いと「自らを生み出した者」という条件によって重ね合わされている。これまで「大人」として描かれてきたロボットは、ここではむしろ「子供」の立ち位置を与えられている。ジェイデッカーにおいて、人間とロボットは単なる対等な友人なのではない。それは創造主と被造物の関係であり、この物語における「愛情」とは、創造主から被造物へと与えられる無条件にして無限のものなのだ。ファイヤージェイデッカーは、パトカー・トレーラーと、救急車・消防車のグレート合体であった。犯罪を取り締まる警察は父性を、命を救わんとする救急・消防は母性を象徴しているということができる。グレート合体が対立するふたつの要素を統合することによって成立するのなら、ファイヤージェイデッカーの誕生は、男性的・父性的成熟を目指してきたサイボーグの美学が、その半身に女性的・母性的成熟を取り入れた瞬間なのだ。▲「大警察合体ファイヤージェイデッカー」。その象徴的存在感に見合う威容。勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p37 -
世界文学のアーキテクチャ 終章 時間――ニヒリズムを超えて|福嶋亮大
1、近代小説に随伴するニヒリズム
一八八〇年代に書かれた遺稿のなかで、ニーチェは「ニヒリズムが戸口に立っている。このすべての訪客のうちでもっとも不気味な客は、どこからわれわれのところへ来たのであろうか」と書き記した。ニーチェによれば「神が死んだ」後、人間の基準になるのはもはや人間だけである。しかし、神の死によって生じたのは、神のみならずあらゆる価値を崩落させ、意味の探究をことごとく幻滅に導く「不気味」な傾向であった。ニヒリズムとはこの「無意味さの支配」を指している。
ハイデッガーの解釈によれば、ニーチェの哲学において「意味」は「価値」や「目的」とほぼ等しい。つまり、意味は「何のために」とか「何ゆえに」という問いと不可分である。意味を抹消するニヒリズムが支配的になるとき、世界の「目的」や「存在」や「真理」のような諸価値もすべて抜き取られる。ニーチェが示すのは「諸価値を容れる《位置》そのものが消滅」したということである。われわれは世界に価値や意味を嵌め込んできたが、今やそれを進んで抜き取っている――このようなニヒリズムの浸透は、世界に「無価値の相」を与える[1]。目的をもたなくなった世界で、人間は確かに価値の重荷から解放されるが、それは幸福を約束しない。
ここで文学史を回顧すれば、すでにニーチェ以前に「ニヒリズムという不気味な客」の来訪する予兆があったことが分かる。宗教が世界に意味や価値を嵌め込んだのに対して、デフォーの『ペスト』やスウィフトの『ガリヴァー旅行記』を筆頭とする一八世紀の近代小説は、意味の探究を超えた不確実性に傾いてきた。小説は安定した意味のシステムを自らくり抜き、一種の「壺」として自らを造形したが(前章参照)、特に絶滅やジェノサイドへのオブセッションは、小説という壺に底なしの空虚をうがち続けてきた。小説にとって、ニヒリズムは不意の来客というよりも、むしろ長期にわたって共生してきた伴侶なのである。
そう考えると、ニヒリズムがニーチェに先立って、まずロシア文学において結晶化したことも不思議ではない。ツルゲーネフは一八六二年の『父と子』で若き医師で唯物論者のバザーロフをニヒリストとして描き、この概念を広く普及させた(第十章参照)。宗教的な救済のヴィジョンを内包したロシア文学は、人生の意味の飽くなき希求によって、かえって世界の無意味さの深淵に足を踏み入れた。その後もロシア文学は、哲学とは異なるやり方で、ニヒリズムに応対したように思える。その興味深い例として、一八六〇年生まれのアントン・チェーホフを取り上げよう。
2、二〇世紀最初の文学――チェーホフの『三人姉妹』
生粋の一九世紀思想家ニーチェは一九〇〇年に亡くなるが、その翌年の二〇世紀最初の月すなわち一九〇一年一月に、チェーホフの戯曲『三人姉妹』がモスクワ芸術座で初演された(以下、チェーホフの作品の引用は松下裕訳[ちくま文庫版全集]に拠り、巻数と頁数を記す)。その第二幕に、雪の降る日に父をなくした三人姉妹の一人マーシャが、正教徒の軍人トゥーゼンバッハとやりとりをする場面がある。もう一人の軍人ヴェルシーニンが、未来の新しい幸福な生活のために働くべきだと言うのに対して、トゥーゼンバッハは百万年後にも生活の法則は変わらないと断言する。マーシャは、世界を無意味と見なす彼の態度に懸念を示す。
マーシャ それでも意味は?
トゥーゼンバッハ 意味ねえ……。こうして雪が降っていますがね。どんな意味があります?
(間)
マーシャ わたしはこういう気がするの。人間は信仰を持たなくてはいけない、すくなくとも信仰を求めなくてはいけない、でなければ生活はむなしくなる、むなしくなる、って……。生きていながら知らないなんて、なんのために鶴が飛ぶのか、子どもたちが生まれるのか、空に星があるのか……。なんのために生きているのか知らねばならないし、さもないと何もかもがつまらない、取るにたらないものになってしまうわ。
(間)
ヴェルシーニン それにしても残念でたまらない。青春の過ぎ去ったのが……。(第二巻、二四七‐八頁)
トゥーゼンバッハはここで、生の意味を否定するニヒリストのように振る舞う。雪が降るように、人間が生まれ死ぬだけなのだとしたら、人生に意味や目的を求めるのは無益だろう。ここで思い出されるのは「雨の降るごとく死が降る」と記した哲学者のドゥルーズである。ドゥルーズはたんに雨が降るという「非人称的」な出来事を人間的な意味づけに優先させたが[2]、トゥーゼンバッハの考え方はそれに近い。
逆に、マーシャは世界に意味や目的がなければ、人間の生が取るにたらないものになることを恐れている。ただし、このマーシャの発言は誰かに賛同されたり反論されたりするわけではない。ひとしきりの「間」があってから、話題は別の方面に移り変わる。トゥーゼンバッハもマーシャも、この件で口角泡を飛ばして議論しないし、自説に固執もしない。彼らの思想は、ティータイムの前の退屈しのぎとして語られるにすぎない。
ツルゲーネフの『父と子』における若い男性知識人たちの熱っぽい会話とは対照的に、およそ四〇年後の『三人姉妹』では、意味と無意味に関する問いは、空白やためらい、退屈や倦怠の気分のなかに控えめに浮かんでいる。すでに青春を過ぎた彼らの口調は、決然とした強さをもたない。彼らは他者を声高に説得しようとする意志を欠いたまま、会話の「間」に滑り込んで、つぶやくようにして自らの考えを語る。
この慎ましさにおいて、チェーホフは明らかに反ドストエフスキーないしポスト・ドストエフスキーの作家である。ドストエフスキーの登場人物は、経験的にはふつうの人間と何ら変わらないが、その存在には「形而上学的な次元」が随伴している。ドストエフスキーを特徴づけるのは、経験的なレベルと形而上学的なレベルの「神秘的な一体化」である[3]。逆に、チェーホフは生と思想をむしろ乖離させる。自己の思想を論文や文学を動員してまで述べようとするラスコーリニコフやイワン・カラマーゾフのような熱意を、チェーホフ的人間は初めからもちあわせていない[4]。
二〇世紀最初の文学である『三人姉妹』が「意味」の問題を提示したこと、これは非常に示唆的である。ただ、チェーホフの独自性は、人生の意味ないし無意味というテーマを、ニーチェやドゥルーズのような「哲学」としてではなく、人間の頭上を鳥のように通過するあいまいな思念や気がかりとして示したことにあった。トゥーゼンバッハに言わせれば「渡り鳥、たとえば鶴などは、ただひたすら飛んで行くだけで、高遠な思想やちっぽけな思いが頭のなかに浮かんだとしても、飛んで行きながら、やっぱりなぜ、どこへ飛んで行くかを知りはしない」(第二巻、二四七頁)。彼にとっては、いかなる思想も人間の頭脳には根づかない。チェーホフ的人間は、思想の所有者ではなく、思想の一時的な止まり木なのだ。
アメリカの哲学者コーネル・ウェストは、チェーホフの文学の根幹に「世界との不一致」があり、それが彼の喜劇性の源泉になっていると指摘した。「彼は最も洗練された知性的なやり方で、知性の失敗と不十分さについて語る」[5]。『三人姉妹』の人間たちは、彼らにとって価値あるものが過ぎ去った時点にたたずんでいる。このuntimelyな――反時代的で時機を失した――チェーホフ的人間たちは、世界に対して遅れてやってくる。思想と生とが乖離してしまう、このチェーホフ的な「不一致」の情景においては、世界は有意味とも無意味とも断定されない。ニヒリズムは文字通り「客」であり、人間の生に定住はできない。
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