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大見崇晴「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」特別編 『騎士団長殺し』 その白々しい語りについて【不定期連載】
2017-03-17 07:00550pt
サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家としても活動している、大見崇晴さんの「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」。今回は特別編として、2017年2月24日に発売された『騎士団長殺し』の書評を寄せていただきました。村上春樹は何故「白々しい語り 」を必要としているのか。春樹への批評や、春樹自身の他作品からの引用を踏まえながら、話題の最新刊に鋭く切り込みます。
2017年2月17日に、村上春樹の新刊タイトルが『騎士団長殺し』と知ったとき、旧来からの読者はため息をついた。そのタイトルからモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』であることが察せられたからだ。
『ドン・ジョヴァンニ』では主役ドン・ジョヴァンニが女たらしで様々な女性と関係を持ち、剣捌きにも優れ、騎士団長を殺したほどでもある。そして彼は、石像となった騎士団長に地獄に引きずり込まれる。
こういった筋立ては、しばしば揶揄される村上春樹作品の特徴そのものである。幾人かの女性と関係を持ち、地獄を巡り、眠りにつくことで小説が閉じられる。だから、『騎士団長殺し』というタイトルから、自己の作品に対して作者自身が言及している、いかにも村上春樹らしい、白々しい小説だと予想されたのだ。
実際に、『騎士団長殺し』という小説は白々しい小説なのだ。屋根裏に隠された「騎士団長殺し」と名付けられた日本画を眺め、「それから私ははっと思い出した。モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』だ」と語り手が呟いている小説なのだ。
この白々しい語りを村上春樹は何故必要としているのか。その解答は簡単なものだ。連載では以前説明したが、村上春樹の小説とは、「自己療養」のために「心理学」を土台にした比喩が用いられ、それらのみでは単調で短編小説にしかならない作品を引き伸ばすために「商品カタログを盛り込んで水増しさせた小説」なのである。その手口を自ら「騎士団長殺し」というタイトルで以って明かしたのである。
では何故、村上春樹は手品師が廃業手前でするように、手口を明かしてしまったのだろうか。この理由は「自己療養」のために「心理学」で小説を執筆してきたため、既存の作品についての記憶も振り返る必要が出てきたためだ。本作では明らかに過去の作品を意識させる表現が多く盛り込まれている。
作品冒頭で主人公夫婦が離婚危機にあるのは『ねじまき鳥クロニクル』を模したものだ。作中のキーパーソンとなる免色渉(メンシキ・ワタル)は、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のことを意味している。「あれではとてもイルカにはなれない」という章タイトルは『羊をめぐる冒険』(いるかホテルが登場する)を意識したものだろう。主人公の年齢が36歳に設定されているのは、作中で地下を潜るという表現を最初に活用した長編小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を発表した年齢であり、この小説でも地下めぐりは行われる。ジョージ・オーウェルの『1984』についても言及がある。それどころか「風の音に耳を澄ませて」というデビュー作『風の歌を聴け』を想像させるフレーズが会話に散りばめられる。『ねじまき鳥クロニクル』で取り扱われたノモンハン事件は、南京虐殺に置き換えられ、以前は「井戸」(=イド、無意識といった個人的なもの)として語られていたものが、「(忘却の)穴」(集団による暴力的なもの)といった思想家ハンナ・アーレントを想起させるように改善がなされている。
そのような常連さん向けの接待にしか思えない部分が多いとはいえ、『騎士団長殺し』は、村上春樹にとっては久々のヒットといえる小説だ。この小説は過去のテーマを総ざらいしたところがある。また、いままで深掘りしてこなかったテーマをようやく取り扱ったという新味がある。死と老いである。
「死と老い」というテーマについては、のちほど語ることとして、ひとまず従来から幾つかある村上春樹のテーマにおいて、本作に重く取り扱われるているものを取り扱うこととしよう。
第一部「顯れるイデア編」、第二部「遷ろうメタファー編」といった部のタイトルにもなっているように、創作について問題意識がある。画家という作者とクリエーターという共通点を持っている主人公が、クリエイトすることについての問題意識とテクニックが比喩を用いて物語として紡がれる。
小説中登場する「騎士団長」なるキャラクターは、自分のことを「イデア」と名乗る。騎士団長は作中の登場人物・雨田具彦の日本画「騎士団長殺し」に描かれた飛び出したキャラクターである。このキャラクターとの対話で主人公である「私」は次のように語る。
「ぼくが思うに」と私は言った。「イデアは他者の認識そのものをエネルギー源として存在している」
「そのとおり」と騎士団長は言った。そして何度か肯いた。「なかなかわかりがよろしい。イデアは他者の認識なしに存在し得ないものであり、同時に他者の認識をエネルギーとして存在するものであるのだ」
(第二部p.119)
ここから読み取れるのは、村上春樹の芸術観である。イデアとは芸術作品の言い換えであって、作品は他者に認識されることで作品として存在し得るというのが村上春樹の芸術観なのである。
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『コードギアス』と『エウレカセブン』の対比から見えてくるもの(『石岡良治の現代アニメ史講義』第5章 今世紀のロボットアニメ(5))【不定期配信】
2017-03-16 07:00550pt
「日本最強の自宅警備員」の二つ名を持つ批評家・石岡良治さんによる連載『現代アニメ史講義』。今回は、2000年代半ばの佳作『コードギアス』と『エウレカセブン』を対比させながら、両作品がロボットアニメ史において果たした役割を考察します。(※今月末3/30(木)20:00より、石岡さんの月1ニコ生「最強☆自宅警備塾」も放送予定! 話題のアニメ『けものフレンズ』を取り上げます。視聴ページはこちら)
『コードギアス』の達成を『エウレカセブン』との比較で考える
今回は、今世紀のロボットアニメを考える上でもっとも重要なタイトルである『コードギアス』の達成について考えてみたいと思います。
ロボットアニメのビッグタイトルはどうしても『ガンダム』『マクロス』という老舗シリーズに集約されがちですが、それでもいくつかオリジナルタイトルの佳作が定期的に生まれています。中でも反響の大きかったタイトルを挙げると、『交響詩篇エウレカセブン』(2005-2006年)、『コードギアス 反逆のルルーシュ』(2006-2009年)、『天元突破グレンラガン』(2007年)あたりが思い浮かびます。あとは河森正治監督作のため『マクロス』と関連付けられがちですが、放映後にネタ人気が出てシリーズ化された『創聖のアクエリオン』2005も入るでしょう。このように、なにげにゼロ年代中葉はロボットアニメが活気付いていたわけですが、ネット動画の時代となったここ十年のアニメをめぐる状況との相性が様々な点で良くないのでしょう。ここ十年のアニメ状況を象徴する京アニもシャフトも、ロボットアニメにはあまりかかわっておらず、例外ともいえる京アニの『フルメタル・パニック! The Second Raid』(2005年)がなんとなく孤立した存在となっていることも象徴的です。
その中では『コードギアス』を考える上で最適の比較対象が『エウレカセブン』だと考えています。対比列伝はどうしても一方を下げることになりがちなので、以下、どちらかというと『エウレカセブン』の残念な部分にフォーカスを合わせる比較になりますが、予め『エウレカセブン』の良さについて述べておくと、一部間延びはあったものの一年間全50話という、長丁場の物語を描ききった上、ボーイミーツガールものとしての掴みの鮮烈な印象もあってか、続編や後続作をいくつも生み出した事実は見逃せません。続編を含めた後続作(一例を挙げると2015年の『コメットルシファー』)がことごとくうまくいっていないのも事実ですが、そこから遡ることで元祖である『エウレカセブン』の良さが時を経ることによって見えるようになったことは大きいでしょう。
両作のOP・EDから見えてくる対比
さて、『エウレカセブン』と『コードギアス』にはわかりやすい比較基準があって、それはどちらも最初のオープニングのアーティストがFLOWで共通しているんですね。『エウレカセブン』の「DAYS」と『コードギアス』の「COLORS」は、曲調も近いところがあり、映像込みで比較すると興味深い対照性をみせていることがわかります。一般に初期OPの映像は作品コンセプトを概観するものが多く、シナリオの「構造」が表に出ているんですね。
「DAYS」が使われている『エウレカセブン』のOP1でわかるのは、河森正治デザインのメカがサーフィンするという『マクロス』から発展させた新規要素、そして人間関係の配置が『ファーストガンダム』を意識していること(三人組の孤児の存在に顕著です)です。さらに「アゲハ構想」という世界の謎関連のイメージがフラッシュカットで切り替わり、そこに神話学の祖フレイザーの『金枝篇』が一瞬見えたりする部分では、技法込みで『エヴァ』要素を持ち込んでいる、というように、過去のロボットアニメヒット作の要素を盛り込んだ上で、ボンズアニメのボーイミーツガールものでおなじみの「ウユニ塩湖っぽい場所で手をつなぐ男女」でまとめています。要所要所でエッジの利いたアクションもあり、模範的なロボットアニメの動きをみせているといってよいでしょう。
他方「COLORS」が流れる『コードギアス』のOP1はどうでしょうか? 日本地図に照準が向けられるイメージにタイトル画面が重なり、続けてルルーシュの瞳がアップ、そしてギアス発動のおなじみの映像が出てきます。これはニューロンがつながるイメージとしてハリウッド映画でも多用されるものですが、ここのダイナミズムはロボットの運動ではなく「脳内イメージ」の可視化そのもので、そこに日本占領をめぐる戦争のイメージが静止画で重ねられていきます。ロボットアニメに定評のあるサンライズ作品とはいえ、深夜枠なので作画リソースはそれほどでもなく、止め絵が中心なのですが、家族状況を背景に仮面の男として立ち上がるルルーシュの反逆を示す構成は、まさにシナリオの初期設定を効果的にみせています。続けて現れる、占領された日本でゲリラ活動を行うメンバーをカレンを中心にまとめる一方で、ブリタニア帝国軍の絢爛豪華なメンバーをみせるところは、統治被統治の関係を貧富の差と重ねるよくある対立構造といえるでしょう。
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香港行政長官選挙について|周庭
2017-03-15 07:00
香港の社会運動家・周庭(アグネス・チョウ)さんの連載『御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記』。3月26日には、香港の首長である行政長官を選出する選挙が行われる予定です。実際に香港で社会運動を行う女子大生の目線から、行政長官選挙の現状と課題について語ります。(翻訳:伯川星矢)
御宅女生的政治日常──香港で民主化運動をしている女子大生の日記第6回 香港行政長官選挙について
この連載で以前、香港政府による自決派及び本土派の議員資格剥奪のお話をしました(編注:中国からの独立を唱える本土派の議員2名が、議員就任の宣誓時に「Hong Kong is not China」の旗を掲げ、「チャイナ」を「シナ」と発音した。これを受け全国人民代表大会(全人代)は、宣誓の内容を規定する香港基本法の法解釈を行い、2人の議員に宣誓無効を言い渡した)。法解釈が行われた後、香港政府による司 -
広尾、麻布十番、六本木 高級住宅街で見つけたテイクアウトできる幸せ(「東京5キロメートル――知ってる街の知らない魅力」第5回)【不定期配信】
2017-03-14 07:00550pt
意外な地点を繋げて歩いてみることで、東京を再発見するこの企画。今回は、広尾から麻布十番、六本木のエリアを「食べ歩き」という視点で切り取ります。高級住宅街の下町でPLANETS一行が見つけた「テイクアウトできる幸せ」とは……?
◎監修:白土晴一
◎取材・文:松田理沙+PLANETS編集部
◎写真:PLANETS編集部
今回の〈東京5キロメートル〉では広尾、麻布十番から六本木までを歩きます。今回は地図の上では3キロメートルと、ちょっと短めの道のりです。
広尾や麻布は高級住宅街、六本木は賑やかな繁華街というイメージがありますが、今回はこのエリアをひたすら「食べ歩く」ことで開拓していきたいと思います。レストランやカフェに入らずとも、テイクアウトで楽しめるお店をたくさん見つけることができました。おしゃれなセンスが光る現代的なお店から、歴史あるお菓子屋さんまで、食べ歩きの旅がスタートです!
(1)AND THE FRIET
PLANETS一行は、広尾駅を出てすぐの商店街にあるフレンチフライ専門店「AND THE FRIET」で待ち合わせました。このお店では8種類のポテトと10種類のディップソースの中から、それぞれ好きなものを組み合わせて選ぶことができます。ポテトは芋の種類によってカットの形も異なり、さまざまな味を楽しめます。
▲ベルギー産のポテトと黒トリュフのマヨネーズ。ほくほくしていて美味!
カウンターにはポテトの容器を差し込む専用の穴があけられていて、便利だなあと思いました。
(2)LUKE'S
「AND THE FRIET 」でフレンチフライを食べ終わった後は、商店街のはす向かいにあるお店、「LUKE'S」にも立ち寄りました。こちらはニューヨークで誕生したロブスターロールの専門店。ロブスター以外にも、シュリンプやクラブなどのシーフードロールが販売されています。
▲ロブスターをはじめ、シーフードロールを一気に購入!
旨味が強く、身の引き締まったロブスターと、こんがりと焼けたパンの組み合わせは、初めての味わいでした。パンに染み込むたっぷりのバターが、味にさらなる深みをプラスしています。白土さんいわく、お昼時には大行列になるというのも納得のクオリティーでした。やや割高ではありますが、ロブスターを手軽に食べられるお店は、日本では珍しいですよね。
▲魚介のおいしそうな匂いがします。
(3)祥雲寺
「AND THE FRIET」や「LUKE'S」がある商店街の突き当たりに、古めかしい門があります。そこをくぐると、それまでの賑やかな街並みとはうって変わって、塀にかこまれた静かな空間が広がっていました。見ると、祥雲寺をはじめいくつかのお寺が集まっています。
▲祥雲寺。まるで田舎にあるお蕎麦屋さんのような外観です。
▲梅の花がきれいに咲いていました。
道なりに進んで墓地に足を踏み入れると、大きく「鼠塚」と書かれた石碑が目に入ります。明治時代、東京でペストが大流行したことがあり、この鼠塚は、そのとき感染源として大量に駆除処分された鼠たちを供養するために立てられたものだとか。
▲鼠塚
▲「鼠塚」の文字の下には小さく鼠が描かれています。
▲ポンプ式の井戸。
敷地内で、お墓参り用の水を汲む井戸を見つけました。今でも現役で使われ続けているポンプ式の井戸はなかなか見ることができません。白土さんによると、この「SUN TIGER PUMP」は、とても有名な手押しポンプのブランドだそうです。調べてみると、大量の水を軽い力で汲み上げる性能を備えた、最高級のモデルとのこと。
祥雲寺の墓地は広く、人間の身長を軽く超えるサイズの墓石がたくさんあります。ここは渋谷区史跡に登録されている「黒田長政の墓」をはじめ、福岡藩や黒田家に関係する人物のお墓が数多くあるお寺なのでした。
▲大きくて立派なお墓がたくさんあります。
墓石には「天保」「安政」「寛永」など、歴史の教科書で見覚えのある元号が彫られていて、歴史上の偉人たちが眠っていることがわかります。白土さんいわく、最近は歴史が好きな女性、いわゆる「歴女」たちに人気のスポットなのだとか。
墓地からはすぐ隣の高台が見えます。
「高台が高級住宅街になっていて、そのふもとに住宅街を支える商店街が広がるというのが東京に多い地形ですが、広尾周辺はその典型的な例ですね。」
そう白土さんに言われて振り返ると、たしかに私たちが歩いてきた商店街は土地が低く、生活感にあふれています。その一方で、ここから見える高台は閑静で立派な家々が並んでいます。「山の手」と「下町」という言葉の由来を実感した瞬間でした。
(4)nuts tokyo
祥雲寺から商店街に戻ると、お寺の出口の近くに、なんだか珍しそうなお店を発見。
「nuts tokyo」は「ナッツのある毎日を」をキャッチコピーに、たくさんのフレーバーのナッツを量り売りしているお店です。注文すると、店員さんがその場で袋に入れてくれます。2016年12月にできたばかりの新しいお店です。
▲カレー味や紅茶味など、個性的な味もありました。
▲窓際に並ぶナッツたち。
家具や内装もとてもおしゃれで、店の中にいるだけでいつもよりも素敵な毎日を送れるような気がしてきます。実際に紅茶味のナッツをいただいてみました。紅茶の香りがしっかりとついており、アクセントにレーズンと思われるドライフルーツも入っています。ナッツの香ばしさとの相性が抜群でした。他の味も試してみたかったです!
(5)ナイス トゥー ミート ユー コダマ広尾店
さらに商店街を歩く途中で、店名がどうしても気になって立ち寄った「ナイス トゥー ミート ユー コダマ広尾店」。定番の味からバジルやカレーなどのフレーバーまで、いろいろなソーセージがあるほか、合わせて食べると美味しいチーズ、サラダなども売られています。
▲様々なソーセージのフレーバーを楽しむことができます。商店街の近くにお住まいの皆さんは、こんなおしゃれな食べ物をテイクアウトして優雅な午後を過ごしているのでしょうか……。
商店街ではこの他にも、野菜ジュースやお箸の専門店など、個性的な店舗が並んでいました。
商店街を抜けて、次は有栖川記念公園へとむかいます。広尾駅前の交差点を過ぎると、テラス席のあるおしゃれなカフェやパン屋が何軒も並んでいました。
(6)ナショナル麻布
このあたりを散策していると、外国人が多く歩いていることがわかります。広尾や麻布には大使館など外国の施設が多いので、必然的に近隣に暮らす外国人も増えたのだとか。外車や外交官ナンバーの車も見かけました。たしかに、今回歩くルートの周囲だけでも、ドイツ、パキスタン、ロシアなどの大使館がありますし、地図で地域全体を見ると、チェコやフランス、中国、フィリピン、オーストリアなどなど、たくさんの大使館が立ち並んでいることがわかります。
なぜこの地域には外国の施設が多いのか、その秘密を白土さんが教えてくださいました。
「広尾、麻布十番や六本木の周辺は、江戸時代には大きな大名屋敷がたくさんありました。ところが、明治維新で大名がいなくなると土地が空いてしまいます。そこで、広い土地の活用方法として麻布にアメリカ公使館を建てたのです。そういった施設は集約したほうが効率的ですから、徐々にいろんな外国の施設が集まってきます。その結果として大使館や関連施設が集中しているんですね。」
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HANGOUT PLUSレポート 稲田豊史×宇野常寛「『ドラえもん』から考える日本社会――のび太系男子の魂はいかにして救済されるべきか」(2017年3月6日放送分)【毎週月曜配信】
2017-03-13 07:00550pt
毎週月曜夜にニコニコ生放送で放送中の、宇野常寛がナビゲーターをつとめる「HANGOUT PLUS」。2017年3月6日の放送は、PLANETSのメルマガの人気連載から生まれた書籍『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』の発売を記念し、著者の稲田豊史さんをゲストにお迎えしました。大長編を中心に『ドラえもん』について徹底的に語り明かした60分の様子をダイジェストでお伝えします。(構成:村谷由香里)
※このテキストは2017年3月6日放送の「HANGOUT PLUS」の内容のダイジェストです。
大長編の困難と藤子・F・不二雄の達成
今回のテーマは『ドラえもん』です。ゲストは、3月4日にPLANETSから発売されたばかりの新刊『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』の著者・稲田豊史さんです。SF作家としての藤子・F・不二雄の作家論から、『ドラえもん』で育った「のび太系男子」の病理まで、硬軟取り混ぜてお届けする『ドラえもん』づくしの一冊です。PLANETSのメールマガジンでの連載を楽しみにしていた人も多いのではないでしょうか。
この回はゲストの稲田さんと宇野さん――まさに「のび太系男子」世代のふたりの間で、『ドラえもん』にまつわる熱いトークが繰り広げられました。
たとえば稲田さんは、藤子・F・不二雄の本質は短編作家であると指摘します。基本8ページという厳しい制約の中で、独創的なひみつ道具を出し、オチをつけて物語をまとめる手腕おいて、藤子・F・不二雄は卓越していた。その短編の名手が、不得手な長編に挑んだのが劇場版大長編であり、初期の作品こそ、蓄積された経験と翻案能力をもとに傑作を連発したものの、晩年は苦戦を強いられていたと語ります。
そもそも、『ドラえもん』を大長編として描くことにどのような困難があるのでしょうか。ふたりは大きく二つを挙げます。
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猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第18回「アートによって地方のポテンシャルを引き出したい!」
2017-03-10 07:00550pt
チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は、福井県やハワイで展示されるチームラボの新作から、日本の地方に秘められたポテンシャルについてまで語っていただきました。「カラス」の更なるアップグレードで到達する「群れ」の表現とは? そして、地方都市だからこそ実現できるアートの可能性とは?(構成:稲葉ほたて)
「群れ」という秩序なきピース
猪子 最近は、各地でチームラボの常設展示をつくる機会が少しずつ増えているんだけど、今回はその紹介から始めたいな。まずは3月26日から、福井県永平寺町に新しくできる文化施設「えい坊館」に、作品を常設することになったの。禅の曹洞宗の大本山の永平寺がある町で、曹洞宗はひたすら座禅する。もちろん、座禅ではないのだけれど、作品の空間で、ひたすら座って体験してもらおうと思ってて。16畳程度のこじんまりした空間の壁4面と床に、森美術館で展示した「追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして衝突して咲いていく - Light in Space」と同じシリーズになる新しい作品を創って展示しようと思っている。
▲「鳥道 - 黙坐 / Bird Road」
実は、今回は無数の鳥が「群れ」で飛んでるんだよね。これまでは、手付け(手作業の)アニメーションによるカラスと、アルゴリズムによるカラスの2つが混ざっていたんだけれど、今回は全てアルゴリズムで鳥が動いているの。まるで、イワシの群れにマグロが来たときみたいに、鳥の群れは鑑賞者を避けるように飛ぶんだよ。
宇野 そもそもなんで群れにしようと思ったの?
猪子 昔から「群れ」そのものに興味があったんだよね。ムクドリの群れの動画があるから、それを見てもらうのがわかりやすいかな。これが、めちゃくちゃヤバい動画なんだよ。今までも作品でよく群れを使っているし。で、今回は、群れにもっとフォーカスを当てて、全体としての意思はなくて、鑑賞者の存在の影響を受けながら、一羽一羽が非常にプリミティブなルールで動くことで、意図のない複雑で美しい線群を空間に描きたかったんだ。
▲Flight of the Starlings: Watch This Eerie but Beautiful Phenomenon | Short Film Showcase
宇野 これはすごいね……。僕、もし時間が有り余ってたらずっとこの動画を見ていられるな。群れ全体が、有機物なのか無機物なのかもよくわからない、巨大な生き物のような動きが素晴らしいね。
猪子 これは遠くから撮影した映像だけど、この群れの真ん中に、鑑賞者の視点があるような世界をつくりたいんだよね。僕がこの動画に惹かれたのは、群れの密度が変わっていくところなんだよ。密度によって、ムクドリの影である黒色が強く出たり、逆に背景の空の色が見えたりと、どんどん印象が変わっていくじゃん。その動きと色の濃淡が美しいよね。
宇野 この前の、スクリーントーンの話に近いかもしれないね。西洋の印刷技術をいかに日本的な平面表現の思想でハックするかという試行錯誤の中でスクリーントーンが生まれてきたという話をしたけど、スクリーントーンは密度だけで僕らの色彩感覚を置き換えてるわけだよね。「濃い青だったらこれくらいの密度の点々」というふうに。そこに時間の動きを組み込んだのが、今回の新作のポイントだよね。
猪子 そうそう。群れの動き自体が、見ていてすごく気持ちがいいんだよね。あと面白いと思ったのは、おのおのの鳥がシンプルなルールで動いているだけなはずなのに、全体で複雑な生き物のように振る舞っているところかなあ。
宇野 その群れの動きの特徴って、まさにチームラボがつくってきた「秩序なきピース」だもんね。猪子さんが群れに惹かれるのもわかるな。
でも、今までのチームラボの作品が、人間を動物の群れのように動かしてしまうことによって、ピースが成り立っていくものだとしたら、今回は少し違うと思う。いわばこの自然に発生している「秩序なきピース」のダイナミズムを、いかに人間に味わわせるかに注目している。だから、猪子さんにしては珍しく、鑑賞者が作品に参加するよりというよりは、作品を観ているという印象が強い。
猪子 確かに。
宇野 ただ、この群れの動きには、人間の意図と自然現象の中間にあるような、独特の他者性があると思う。気持ち悪さと気持ち良さが混在してるこの感覚って、群れ全体が目的の見えない変なリズムで動いていて、とてもじゃないけどあの群れと対話とかできなさそうなところから来てると思うな。意図を持っているように見えるけど、明らかに自分と同じような思考回路をしているわけじゃない、という感じがする。
こういう、小さな生き物の群れが一つの巨大な化け物みたいに見えるみたいなモチーフは、宮崎駿がよくアニメーションで再現してるよね。『もののけ姫』でアシタカの腕に呪いとしてつくタタリ神とか、『となりのトトロ』の真っ黒いススワタリとか。あの自然の群れの持つ奇妙な運動性って、誰の意志もない単なる自然現象なんだけれど、人間の目には、ある種の神や悪魔とかの超自然的な意図を持った何かに見えてしまう。たぶんこれって、古くからは特に妖怪の表象として、伝統的に禍々しく描かれてきていることが多い現象だと思うんだよね。
猪子 あの禍々しさをつくるのには非常に興味があって、でも難しいんだよね。イワシの大群ぐらいだったらできるんだけれど、ちょっとムクドリの禍々しさは研究中だなあ……。でもいくらすごい量だったとしても、桜吹雪には別に禍々しさとか感じないもんね。群れってほどよく意図的に見えながら、理解の範疇を超えてくる”他者”なのかもしれないと思う。そして、そこには、何か、人間がまだ理解していない普遍的原理の存在があるように感じるんだよね。
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加藤るみの映画館(シアター)の女神 2nd Stage ☆ 第10回『デジモンアドベンチャーtri.第4章「喪失」』【毎月第2木曜配信】
2017-03-09 07:00550pt
バラエティに富んだ趣味を生かして活躍中のタレント・加藤るみさんの映画コラム『映画館(シアター)の女神』。今回紹介するのは、るみさんが小学生の頃から大好きな『デジモンアドベンチャー』の最新作『デジモンアドベンチャー tri.』です。高校生になった太一・ヤマト・空たちの冒険を、るみさんが思い入れたっぷりに語ります。
どうも、最近烏龍茶の美味しさに気づきました加藤るみです。
今回のコラムは「加藤るみ、デジモンアドベンチャー tri.を語る!!」
……と題して、2月25日に公開された
『デジモンアドベンチャー tri. 第4章「喪失」』のコラムをメインに、
デジモンアドベンチャーの魅力についてがっつり語りたいと思います。
デジモンを語るということもあり、
冒頭は光子郎の烏龍茶ネタと絡めてみました(笑)。
私がデジモンに出会ったのは小学生の頃でした。
出会ってから今までに至るまで、
ずっと変わらない熱さを持って観られるアニメがデジモンシリーズです。
デジモンを語る上で欠かせないことは、
ただの敵を倒して戦うだけのアニメじゃないということ!
人間味溢れるストーリーが最大の魅力だと思います。
私のスマホカバーがアグモンなんですが、
このカバーをつけていると美容院で100%の確率で
美容師さんに話しかけられます(笑)。
20代はデジモンドンピシャ世代ということもあり……
「アグモン!? 懐かし~!!」って、
出会う美容師さんのほとんどが口を揃えて言います。
そこから必ずデジモンの話になるのですが、
今、『デジモンアドベンチャーtri.』という映画が
上映されていることを知る人は少なく……
あの頃、観ていたデジモンアドベンチャーの続きが
映画館で観られることを知らない人が多いのです。
「なんて、もったいないんだ!!!」
勝手にデジモン布教活動している私としては……
子供の頃、デジモンアドベンチャーに熱くなっていた大人たちに
ぜひ、『tri.』を観てほしいと思うのです。
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古川健介『TOKYO INTERNET』第7回 匿名性の次の依代「初音ミク」から見る日本が作れるプラットフォームとは【毎月第2水曜配信】
2017-03-08 07:00550pt
「けんすう」こと古川健介さんが日本的/東京的なインターネットの特質に迫る連載『TOKYO INTERNET』。今回は、「名無し型匿名」の発展型としてゼロ年代後半に登場した「初音ミク」を分析しつつ、日本的インターネットが次に何を生み出すのかを考えます。
匿名性の次の依代「初音ミク」から見る日本が作れるプラットフォームとは
(イラスト・たかくらかずき)
前回の記事では、なぜ日本のネットサービスでは匿名性が好まれるか、という点に関して「関係性を消し去るため」と述べました。更に「名無しさんというキャラにユーザー全員がなりきることで、より関係性を消していき、一体感を得ていく」というところまで述べています。
たとえばアメリカなどでは、自分の個性やアイデンティティを非常に重視し、「自分は自分であり、自分の意見を言うことが大事」という考え方を強く教育をされます。私は私、という考え方です。
それに比べ、日本を含む東アジアでは、全体の関係性の中で、自分というものを考えます。会社での自分と家での自分、というので、キャラが全く違うということもありえます。
関係性を強く意識する日本人にとって、匿名性のインターネットサービスは、その関係性がないところでコミュニケーションができるため、居心地がよかった。そして、単なる匿名にとどまらず、みんなが「名無しさん」という同一のキャラクターを演じることで、その関係性をよりゼロにしていったのではないか・・・というのが前回の主張です。
この記事ではそこから先にさらに推し進めて考えていきたいと思います。考えていきたいのは、「その匿名性があったことで、日本のインターネットは何を生み出したか、そして何を生み出す可能性があるか」という点です。
ちなみに、この連載の主な目的は「インターネットサービスなどは、実は都市に深く結びついている。東京からは、どんなサービスが生まれる土壌があるのかを整理し、これから作られるサービスの手助けをしたい」という点にあります。その意味からも「匿名性と名無しさんへのなりきりによって、関係性を消した先に、何が生まれたのか」ということを整理し、さらに今後何が生まれていくのか、という点を重点的に書きたいと思います。
集合知と匿名性は何を生み出すか
まず、最初に「集合知」と匿名性の関係について掘り下げて考えていきたいと思います。
集合知とは、2004年くらいに盛んに言われた言葉です。Web2.0という言葉が当時流行ったのですが、要は「たくさんのインターネットユーザーが投稿などをすることで、その集合した知識の全体が良い感じに使える知識になったもの」という感じでしょうか。広義の意味では、オープンソースプロジェクトや、クリエイティブ・コモンズなども含まれますが、ここでは技術者や専門家ではない、一般のユーザーが行動することが、集合的な知となる、という意味に限定して考えていきます。
その意味での集合知を分解すると、以下の2つになります。
・インターネットユーザーによる大量のデータ
・その大量のデータを解析して、使いやすくする
インターネットユーザーによる大量のデータは、明示的に投稿するものから、無意識に行っている活動も入ります。
前者の例としてはクックパッドなどです。多くの人たちが自分のレシピを投稿しており、そのデータが大量にあるため、レシピサイトとしての価値が高いのです。
後者は、Googleの検索結果などです。Googleの検索結果の順番のロジックは、それぞれのサイトに貼られたリンクの数だったり、検索結果から遷移したときのユーザーの動きなどを見てランクを決めています。
ネットサービスにおける集合知についての議論は、2004年ごろのWeb2.0時代に盛んにされましたが、当時は海外と日本の差はほとんどありませんでした。ブログや、ソーシャルブックマークなどは、アメリカで流行し、そのあと日本でも類似サービスが出てきて流行ったわけです。
しかし、ゼロ年代後半から10年代にかけて、差が出てきます。
まず、GoogleやApple、Facebook、Amazonなどのいわゆる「BIG4」と言われる企業たちは、「ありえないほどの大量のデータを確保する」「その大量のデータを、ものすごいリソース(人的資源、サーバ費用など)にて解析する」ということをしていっています。
Googleなどは凄まじく、Android携帯を使っていると、今日どこの場所にいったか、どこでご飯を食べたのか、というものをGoogleマップで保存していたり、「一昨日買ったこの靴、値下がりしていたよ」と表示してきたりします。Googleで検索をしていたり、Chromeを使ってWebを徘徊していたり、Gmailを使ってメールをしたり、Googleカレンダーを使っていたりするユーザーは、相当なデータをGoogleにあずけているわけです。Googleはあらゆるデータを抑えており、それを凄まじい精度で解析をしています。これはますます加速していくでしょう。
こうした戦いは、シリコンバレー的な、グローバルのインターネット企業の得意とするところであり、強者がより強者になっていく、という形です。
そして、現在、よく話題になる人工知能(AI)に関しては、彼らが圧倒的に先に行っています。人口知能とは、いってしまえば大量のデータを保有しており、それを学習するための大量のリソースを使えるかどうか、にかかっているので、その2つを使える企業は限られているからです。
中国などのインターネット企業はそれに追従しつつありますが、日本のインターネット企業では、そのような動きができている企業はかなり限定的です。かろうじてYahoo!JAPANなどでしょうか。
しかし、この流れの中、日本では、全く別の集合知により、新しいプラットフォームができあがっていました。それが「初音ミク」です。
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【新連載】福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』序章――「巨匠」の時代の後に【毎月配信】
2017-03-07 07:00550pt
今月から、批評家・福嶋亮大さんの新連載『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』が始まります。ウルトラシリーズは、戦後日本社会のなかでいったいどういう位置を占めるのか。初回は、60年代当時の「映画からテレビへ」というメディア環境の変化と、特撮番組との関係を考察します。
序章――「巨匠」の時代の後に
特撮と歴史を繋ぐ
一九六六年から八一年にかけて断続的に放映された昭和のウルトラシリーズは、日本では誰もが知る特撮テレビ番組である。宇宙人の巨大ヒーローを中心に、多様な怪獣たちを出現させ、一大ブームを巻き起こしたこのシリーズは、日本のサブカルチャー史のなかでも特異な位置を占めている。本論はこのウルトラシリーズについての、さらには特撮文化そのものについての評論である。
このシリーズの内容や成立過程に関しては、すでにさまざまな検証がなされている。とりわけ九〇年代以降、監修の円谷英二はもちろんのこと、金城哲夫、上原正三、佐々木守、市川森一、石堂淑朗(以上脚本家)、円谷一、飯島敏宏、実相寺昭雄(以上監督)、佐原健二、桜井浩子、黒部進、古谷敏、ひし美ゆり子(当時の芸名は菱見百合子)、森次晃嗣、岸田森(以上俳優)、成田亨、高山良策、池谷仙克(以上美術家)、さらに異色の編集者・大伴昌司ら当時の円谷プロダクション界隈のキーパーソンに関わる書籍や特集が、次々と刊行されるようになった。過去作品のソフト化も進み、二〇一一年には白黒の『ウルトラQ』が「総天然色」版のDVDとして生まれ変わった。今でも、硬派な研究書からマニア向けのムック本まで多くの関連書籍が刊行されており、シリーズ放映五十周年を迎えてからもその量は増すばかりだ。
インターネット上の膨大なファンサイトも含めたこの情報の山には、今さら何も付け加えるべきことはないように思える。とはいえ、大きな課題が実はまだ一つ残されているのではないか。一言で言えば、それは「ウルトラシリーズが戦後サブカルチャー史のなかで、ひいては戦後日本社会の作り出してきた精神や美学のなかで、いったいどういう位置を占めるのか」という文化史的な問いである。
振り返ってみれば、九〇年代以降、日本のサブカルチャーは宮崎駿監督のアニメ映画を筆頭にして、学問的研究や文化批評の対象として頻繁に扱われるようになってきた。今や社会学者や心理学者、文芸批評家がサブカルチャー論を書くのは当たり前の光景となり、良し悪しは別にして、サブカルチャー全般のアカデミックな制度化も進行している。ただ、そこで取り上げられるのはもっぱら漫画、アニメ、ゲーム、J-POP、ネット文化等であり、特撮はどちらかと言えばマイナーな存在に留められてきた。
この傾向は特撮の受容層の世代的な偏りと関係している。現在の出版界において、特撮論の書き手はウルトラシリーズをリアルタイムで視聴できた一九六〇年前後生まれ(オタク第一世代)の男性が圧倒的に多く、一九七〇年代生まれ(オタク第二世代)や一九八〇年代生まれ(オタク第三世代)以降の書き手においては、総じて特撮そのものがあまり重視されていない[1]。これは漫画論やアニメ論の研究者が各世代に散らばっているのと対照的である。さらに、この偏りは作り手の側にもはっきり見て取れる。例えば、二〇一六年にはオタク第一世代を代表する庵野秀明総監督・樋口真嗣特技監督の『シン・ゴジラ』が大反響を巻き起こしたが、今後オタク第二世代以降の映像作家が庵野や樋口と同じ濃度の特撮映画を撮るのは難しいだろう。
ヒーローものや怪獣ものの特撮は、戦後日本社会で広く共有された映像表現である一方で、特定の世代の文化体験と深く結びついてもいる。むろん、それが悪いわけではないが、特撮についての「語り」を多面的かつ持続的なものにしようとするならば、ときに世代のコンテクストから離れ、より大きな歴史的視点を定めることも必要だろう。そもそも、戦後日本のサブカルチャー史は特撮を抜きにしては十分に理解できないし、逆に特撮の意義を考えるには、戦中・戦後の文化史への目配りが欠かせない。だとすれば、今のサブカルチャー論に必要なのは、何よりもまず特撮と歴史の繋がりを回復することではないか――、文芸批評家の私が本論を書く背景にはそのような問題意識がある。
六〇年代――映画からテレビへ
本題に入る前に、まず下準備として六〇年代後半という時代性に注目しておきたい。今から振り返ると、この時期に始まったウルトラシリーズがさまざまな文化領域の転換期と重なっていたことがよく分かる。そもそも、このシリーズは映画、テレビ、演劇、美術、雑誌編集等にまたがる諸分野の人間どうしの「合作」としての性格が強く、しかもその諸分野が当時それぞれに岐路を迎えていた。
例えば、日本映画の娯楽産業としての全盛期はすでに過ぎ去り(観客動員数は一九五八年をピークに減少を続けていた)、ウルトラシリーズの監督や俳優たちは好むと好まざるとにかかわらず、テレビに新たな活路を見出さざるを得なくなっていた。あるいは、金城哲夫や上原正三のような沖縄出身の脚本家たちが自らの情念をウルトラシリーズの怪獣に託す一方、そのようなメッセージ性・物語性にはお構いなしにマニアックな「設定作り」に熱中する大伴昌司の編集者的才能が、作り手たちの意図を超えた怪獣ブームの呼び水になった。さらに、ウルトラマンと怪獣のデザインおよび着ぐるみの制作を担当した成田亨や高山良策のような美術家は、結果的に「純粋芸術」(ファインアート)と「大衆文化」(サブカルチャー)の境界をぼやけさせ、九〇年代初頭の美術界で台頭したオタク第一世代の中原浩大、村上隆、ヤノベケンジら「ネオ・ポップ」の作家たちの先駆けになった。
特に、東京オリンピックを契機にしてテレビが一般家庭に広く普及する一方、映画産業が衰退期を迎えていたことは、ウルトラシリーズという「テレビ映画」(フィルムで光学的に撮影されたテレビドラマ)の出現の決定的要因となった。一九六六年放映の『ウルトラQ』に始まる初期のシリーズでは、すでに東宝の特撮映画で名声を博していた円谷英二を監修として、当時TBSのディレクターであった息子の円谷一がたびたび監督を務めていたが、この体制そのものが映画からテレビへという娯楽の中心の移行を雄弁に物語っている。象徴的なことに、『ウルトラマン』第一話の脚本も、すでに『モスラ』や『キングコング対ゴジラ』等の特撮映画で実績のあった関沢新一と、映画業界とはほとんどゆかりのない金城哲夫の「共作」として世に出ることになった。
むろん、この新旧メディアの交差はさまざまな摩擦も生み出した。例えば、ウルトラシリーズに監督として参加する以前、黒澤明の『蜘蛛巣城』や『隠し砦の三悪人』の助監督を務めた映画畑の野長瀬三摩地は、TBS出身の実相寺昭雄のふざけた演出――ハヤタ隊員がベータカプセルと間違ってスプーンを取り出してしまうというもの――に不満げであったと伝えられる。あるいは、シリーズで光線の合成を担当した飯塚定雄は、『ウルトラマン』のラッシュを確認中にセットのバレモノが見つかったとき、テレビでは切れますからと言った撮影助手に対して、円谷英二が激怒したという逸話を伝えている[2]。メディア史的には、だいたい一九六四年頃を境にして「映画会社とテレビ局のパワーバランスが崩れ始めた」と言われるが[3]、それはまた、映像の見せ方の技術や常識が大きく変わっていくということでもあった。
シリーズの俳優に関しても、東宝の特撮映画の常連であった佐原健二が『ウルトラQ』の主役に起用された一方、そのような華やかな光の当たらなかった映画人もいた。例えば、古谷敏はもともと宝田明を目標に東宝の「ニューフェース」として入社したが、映画では大きな成功を収められないまま、成田亨にそのスタイルの良さを買われてウルトラマンのスーツアクターに抜擢される。しかし、役者でありながら顔の出ないぬいぐるみに入るという現実は、古谷のプライドと身体に過酷な負担をかけるものであった[4]。
このように、初期のウルトラシリーズは高い視聴率を得た一方で、映画畑のひとびとの心理的抵抗も伏在させていたが、それでもシリーズの作り手たちは映画の財産を相続しつつ、それをテレビ向けにアレンジして自らの文法を確立していった。この先行するジャンルの「翻訳」がウルトラシリーズに限らず日本のサブカルチャーの核心にあるということは、後々問題にするので記憶に留めておいてもらいたい。
大島渚とウルトラマン
さらに、六〇年代後半以降は映画の内部でも大きな地殻変動が起こっていた。大手の製作配給会社の映画に代わって、アングラ的なピンク映画、土本典昭や小川紳介のドキュメンタリー映画、松竹ヌーヴェルヴァーグの大島渚、吉田喜重らが台頭し、それまでの黒澤明や小津安二郎ら「巨匠」たちのスター・システムの映画から大きくはみ出したカルト的な映像世界を作り出した[5]。東宝の森岩雄の肝煎りで作られた映画会社アート・シアター・ギルド(ATG)が、その象徴的な拠点となったことは広く知られている。
このうち、ウルトラシリーズと間接的に関わりがあったのが、その鋭利な映像批評も含めてこの新潮流のトップランナーであった一九三二年生まれの大島渚である。大島は自らの監督作『絞死刑』や『新宿泥棒日記』等の脚本に参加した佐々木守を実相寺昭雄にひきあわせた(なお、実相寺の一九六九年の初監督作品『宵闇せまれば』の脚本はもともと大島が自分のテレビドラマ用に準備したものであった)。監督・実相寺、脚本・佐々木のコンビはその後『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』等で異色の実験作を次々と生み出していく。さらに、この一九三六年生まれの佐々木とともにウルトラシリーズの代表的脚本家となった三七年生まれの上原正三も、学生時代に大島に心酔し、『愛と希望の街』『日本の夜と霧』『青春残酷物語』を見て粋がっていたと後に語っている[6]。
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HANGOUT PLUSレポート 宇野常寛ソロトークSPECIAL(2017年2月27日放送分)【毎週月曜配信】
2017-03-06 07:00550pt
毎週月曜夜にニコニコ生放送で放送中の、宇野常寛がナビゲーターをつとめる「HANGOUT PLUS」。2017年2月27日の放送は、月に一度の宇野常寛ソロトークSPECIALをお送りしました。前半は2月24日に発売された村上春樹の新作長編『騎士団長殺し』のネタバレ全開レビュー、後半ではシークレットゲストとして濱野智史さんをお迎えし、対談「〈沼地化した世界〉で沈黙しないために」に続く議論を展開しました。(構成:村谷由香里)
※このテキストは2017年2月27日放送の「HANGOUT PLUS」の内容のダイジェストです。
村上春樹の新作『騎士団長殺し』レビュー
オープニングトークは、2月24日に発売されたばかりの村上春樹の最新作『騎士団長殺し』のレビューです。
宇野さんは春樹作品の変遷を、「〈デタッチメント〉から〈コミットメント〉へ」という主題で整理します。初期の村上春樹は、「やれやれ」という独白に象徴される〈デタッチメント〉の姿勢――あらゆる価値観から距離をおく、自己完結的なナルシシズムを特徴的な作風としていましたが、1995年の地下鉄サリン事件と、それに取材した『アンダーグラウンド』(1997年)以降は、主体的に世界と関わる〈コミットメント〉の立場へと転向します。そして、オウム真理教をモチーフにした長編『1Q84』(2009-2010年)は、その集大成となるはずの作品でしたが、第3部(BOOK3)になるとカルト教団との対決というテーマは後退し、主人公たちの邂逅や父親との和解が描かれて物語は収束。〈コミットメント〉の問題は消化不良のまま終わりました。
とはいえ、宇野さんは今作には期待していたといいます。過去の春樹作品では、世界と接続する〈回路〉や〈蝶番〉の役割は女性に与えられていたが、それが短編集『女のいない男たち』(2014年)では、より他者性の強い男性に置き換えられていた。そこに新しい主題の萌芽を見ていました。
しかし、本作『騎士団長殺し』は、従来の春樹的な主人公像を延命するためだけの小説になっていると批判します。行方不明の少女の捜索を老人に依頼された主人公が、幼少期に亡くした妹に似た少女を救うことで自信を取り戻し、別れていた妻との復縁に成功するという筋ですが、そこから主人公の〈成熟〉を読み取ることはできない。〈最初から与えられていたものの回復〉という意味で、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)と同様、熟年世代の「自分探し」の物語にすぎず、作者ほど自己愛の強くない人間はついて行けないといいます。
さらに、本作において重要なのは、実は主人公と少女や妻の関係ではなく、依頼者の熟年男性・免色渉との関係だったといいます。主人公の分身であり同時に他者でもある同性との交流によって、世界に対する想像力を開く、いわばBL的な主題にこそ作品のポテンシャルがあったのではないかと指摘しました。
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