(ほぼ)毎週月曜日は、ドラマ評論家の成馬零一さんが、時代を象徴する3人のドラマ脚本家の作品たちを通じて、1990年代から現在までの日本社会の精神史を浮き彫りにしていく人気連載『テレビドラマクロニクル(1995→2010)』を改訂・リニューアル配信しています。
バブル絶頂期のトレンディドラマ、純愛ドラマというブームの波に乗って、一躍時代の寵児となった野島伸司。フジテレビ系からTBS系に活躍の場を移した野島は、『高校教師』『人間・失格』で、いよいよその本来の作家性を剥き出しにしていきます。
成馬零一 テレビドラマクロニクル(1995→2010)〈リニューアル配信〉
野島伸司とぼくたちの失敗(3)──作家的到達点としての『高校教師』『人間・失格』
要約されることに対する反撥
1990年代前半に野島伸司が手掛けたフジテレビ系のドラマは、当時の空気を知る上での歴史的資料としては面白い。しかし、音楽の使い方等の演出がトレンディドラマで培った欲望と感情を煽るような広告的な手法と変わらなかったため、手法と描こうとしたテーマが乖離している印象が残る。
大多と野島が当時おこなったことはヒットの要素を因数分解していき、それぞれのパーツをわかりやすく見せることだった。そのため、主題歌、衣装、ロケ地、俳優、キャッチーな決め台詞といった個々の要素が風俗として語られることは多いのだが、今見ると古臭く見えて、現在のテレビドラマの水準と比較すると映像や演出の面で、どうしても見劣りする部分がある。
日進月歩の激しい映像表現の側面から過去作を裁くことがアンフェアなのはわかっている。しかし、当時のフジテレビが作ったトレンディドラマ的手法の最大の問題点として、このわかりやすさ。個々のパーツの順列組み合わせに見えてしまうという弱点については、どうしても指摘しておきたい。
山田太一は、コラムニストのボブ・グリーンがセールスマンについて書いた露悪的な文章に対して「ひとの人生をそんな風に要約してはいけない」と反撥を感じたことが『ふぞろいの林檎たち』(1983年)を書いたきっかけだと語っている。
セールスマンだとか三流大学、三流会社だとか、そういう視点で、ひとの人生を要約することに反撥して書きはじめたのが、この作品であった。自作の中でパートⅡを書く値打ちのある世界だと、はじめて続篇を書くことにしたのがこの作品である。結局のところドラマというのは、要約を憎む人々のものなのではないだろうか、(などとドラマを要約すると、それから漏れるものをドラマから沢山感じてしまう人々のものなのではないか、だからこそ論文ではなくドラマを求めてしまうのではないか)などと思うのである。[26]
この文章が書かれたのは1988年だが、トレンディドラマと、そこから派生した野島ドラマに対する本質的な批判に読めてしまう。
山田が語っていることは、テレビドラマを考える上でとても重要なことだと感じる。テレビドラマに限らず、現在、世の中に出回っているフィクションは、現実の出来事に根ざした現代的なテーマを扱っているかがジャッジの基準となっており、現実との答え合わせにおける加点法(もしくは減点法)によって作品が評価されがちである。いわゆる社会派ドラマ全盛という状況はトレンディドラマの時代とは真逆の現象だが、どこか表裏一体に思えるのは、そうやってテーマやリアリティに対する作品の態度が抽出される時に、フィクションならではの雑多な魅力がないがしろにされて、受け止める側も箇条書きの情報として処理して「要約」になっていると感じるのだ。
おそらく同じ問題意識を打ち出したドラマが、2017年に坂元裕二の執筆したドラマ『anone』(日本テレビ系)だろう。本作の冒頭、余命半年の男・持本舵(阿部サダヲ)が、医師が(様態が悪い時に患者に)よく言う「止まない雨はありませんよ」「夜明け前が一番暗いんです」といった名言の羅列にうんざりして「自分、ちょっと名言恐いんで」と言う場面があるのだが、この台詞は、本来、ひとつの流れで理解するべきドラマの台詞を断片的に切り取って名言集にされてしまうことが多い、坂元裕二が自身のドラマの消費のされ方に対して苦言を呈しているように見える。それは言い換えるならば、「簡単に要約するな」ということである[27]。
つまり、いくら大多や野島が脱トレンディドラマを打ち出そうとして、70年代的なものや不幸なシーンを持ち出したとしても、それ自体がわかりやすい商品としてパッケージ化され流通してしまう構造がすでにでき上がっていたため、何を書いても断片が切り取られて、わかりやすく「要約された情報」としてしか流通できないということだ。そんなフジテレビで作った野島ドラマの限界が見えてしまうのが『愛という名のもとに』(1992年)以降の作品で、だから今となっては色あせて見える。
対してTBS系の金曜ドラマで放送された野島三部作と言われる作品群は、今の視点で見ても、一つの映像作品として鑑賞に耐えうる強度を保っている。
1993年の『高校教師』
デビュー当時の僕は、それこそ日本中の視聴者に好かれなければならない、好青年であらねばならないという思いが非常に強かったんです。でも、視聴者とドラマの制作者というのは恋愛関係のようなもので、たとえ一部の人に嫌悪されても、僕の作品を支持してくれて、濃くわかりあえるような視聴者がいるんなら、それでいいんじゃないかと思うようになって…。そのきっかけが「高校教師」の成功だったんです。[28]
1993年、野島伸司はドラマ『高校教師』を執筆する。野島にとって憧れの場所だったドラマのTBSの金曜ドラマ初登板だった。
物語の舞台は、とある女子校。大学の研究室から生物の教師として赴任した羽村隆夫(真田広之)は二宮繭(桜井幸子)という女子生徒と知り合い、やがて教師と生徒という立場を超えた恋愛関係へとなっていく。しかし繭は芸術家の父親と近親相姦の関係にあった。
物語は羽村だけでなく、繭の友人の相沢直子(持田真樹)と体育教師の新藤徹(赤井英和)、そして相沢をレイプすることで自分のものにしようとした藤村知樹(京本正樹)の関係も同時に描いていく。
教師と生徒の恋愛にレイプや近親相姦といったショッキングな描写が盛り込まれた本作は、過去の野島作品と比べても、過剰に性的でスキャンダラスな物語だった。
しかし映像の見せ方は淡々としていて心理描写は行間を読ませるものとなっている。森田童子の主題歌「ぼくたちの失敗」に乗せてゆったりと展開される自然音を多用した映像には、静謐な雰囲気があり、簡単に消費することができないドラマとしての強さが存在した。
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