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わずか6年で日本人の寿命は25年伸びた――私たちが知らないGHQの人類史的偉業(石川善樹『〈思想〉としての予防医学』第4回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.392 ☆
2015-08-20 07:00
今朝のメルマガは予防医学研究者・石川善樹さんの連載『〈思想〉としての予防医学』の第4回です。今回のテーマは「予防医学の戦後史」。今や世界に冠たる長寿大国となった日本ですが、その基礎を築いたのはGHQだった? 第二次大戦後に進駐してきた彼らが、日本人の〈健康〉に対してどのような介入を行ったのかを歴史的に紐解き、さらには「ポスト戦後の予防医学」を展望します!
石川善樹『〈思想〉としての予防医学』前回までの連載はこちらのリンクから。
■ GHQと予防医学
今回は、日本人のすべてが知っておくべきだと僕が考える、ある人物について話したいと思います。その人物の名前は――クロフォード・F・サムス。おそらく、その名前を知っている読者はほぼいないでしょう。しかし、この無名の米国人こそが、現代の日本人の高水準な衛生と健康を作った人物にほかなりません。
話は、終戦間もない頃の日本にさかのぼります。
第二次世界大戦で敗戦国となった日本は、米国の占領下に置かれました。そこに降り立ったのが、マッカーサー率いるGHQです。マッカーサーの下には、日本再建の中核を担ったSix Men(6人の男たち)が組織されており、その一人が戦時中は軍医をしていたサムスでした。
当時の日本の総人口は8000万人。終戦とともに彼らが一斉に疎開先や戦地から引き揚げてきて、一気に人口の大移動が始まりました。
これだけの人間が移動すると、感染症の問題が深刻になります。しかし、連合国の方針はといえば、「放っておけ」というもの。日本の敗戦は自業自得であり、特にサポートする必要などない、というスタンスだったのです。しかし、当時の日本に降り立ったGHQの人間たちはその方針に耳を貸しませんでした。彼らは、日本人の健康状態を改善するために動き始めたのです。
例えば、サムスは米国の本国に頼み込んで、ヨーロッパの同盟国に渡すはずの食料を、わざわざ日本へと引っ張ってきました。そうして彼らが始めたのが「給食」です。
当時の日本の食事内容は実にひどいもので、まだ幼い子どもたちの健康状態を改善するには食事環境の改善しかないのは明白でした。ところが、そこでGHQが出してきた「給食」という施策に、当時の日本政府は大反対しました。「今ある食料は、働いている世代に渡すべきだ。10年後、20年後にしか国力にならない子供に食料を上げるのはおかしい」と言うのです。
そう主張する日本政府と、GHQは大げんかを繰り広げます。中でも怒ったのはサムスです。サムスは「もうお前らには頼らん」とばかりに、米国から脱脂粉乳を輸入してきて、東京で子どもたちに給食を与える実験を行いました。すると、たった1年で目覚ましい健康改善の成果が上がり、子どもたちの体格も一気に変わっていきました。
その成果を、今度はサムスは時の総理大臣・吉田茂のところに持って行きました。この吉田茂という人は、156cmの身長にコンプレックスを抱えていることで有名でした。サムスは吉田に説明します。なぜ日本人は身長が低いのか? それは栄養が足りないからだ、と。
瞬く間に、日本政府の方針は変わりました。あっという間に給食バンザイです。給食の全国的な導入が決まり、ついには無償で提供するべきだとの論が巻き起こりました。
ところが、ここでもサムスは猛反対したのです。彼は、給食を導入するのは良いが、無償で提供すべきではないと言いました。彼は、「給食を無料にしていたら、今度は朝食と夕食まで無料にせよと望むようになる。それでは日本人の自立性を奪うことになる」と主張しました。私たちが学校に給食費を納めることになったのは、このサムスの主張が通ったからです。
サムスは、「個人には価値がある」と強く信じていた人物だったそうです。彼は「天皇万歳」の日本人たちにその「個人」という価値観を植え付けることで、民主主義を日本に根づかせたいと考えていました。その一方でサムスは、どこまでも科学者らしい、謙虚な態度を貫いていました。というのもサムスは生前、「自分は正しいと信じることを日本で行ったが、それが本当に日本人にとって良いことだったかはわからない」とし、「それは歴史が証明してくれることだ」と語っていたそうです。
■ GHQは日本人の特性を調べ上げた
戦後、焼け野原にあった日本を再建したGHQのマッカーサーとシックスメン、とりわけこのサムスこそが、日本の予防医学の歴史の起源に当たる人々です。
それまでの日本には、予防医学の思想は存在しませんでした。戦前の日本は、ハエが飛び回り、ネズミが走り回り、蚊がうじゃうじゃといる、決して美しいとは言えない国でした。江戸時代の諺に、「良い料理人の台所にはハエがたかる」という言葉があるのがよい例です。ネズミも、仏教の輪廻転生の概念にのっとって、「おじいちゃんかもしれないから、殺すな」と注意される始末でした。
サムスはDDTを用いてそんな日本を徹底的に洗浄しました。その後、DDTには副作用があったと判明しますが、それでもなお、日本を現在のような綺麗な国に作り変えたのが彼とGHQであったのは確かです。
GHQの方針は徹底的なトップダウンの手法でした。それは彼らが日本を占領する際に、日本人の特性を調べたことにあります。GHQは日本の統治にあたって、大英帝国の植民地の統治術を研究したそうです。というのも、大英帝国は世界中を最少の武力で統治してきた歴史があり、マネジメント能力にとても長けているからです。企業でも、P&Gのような米国企業が途上国の攻め方が下手な一方で、ユニリーバのような英国企業はとても上手です。その秘密は、大英帝国には「占領国の国民性を徹底的に調べあげる」という方針があったからです。国民性を踏まえた手法こそが、最少のコストで最大の効力を発揮する統治術――GHQはそれを大英帝国に学び、さっそく日本文化の調査をはじめました。
そうしてGHQが日本人の国民性を調査した結果、たどりついた結論とは何だったのか?
それは、「勝てば官軍、負ければ賊軍」というオリエンタルマインドでした。
日本人は強いものにはおもねるが、弱いものには徹底的に厳しい。だからこそ、マッカーサーは天皇と総理大臣以外には原則的に会わなかったのです。それより下の人間と会うと、途端に日本人は見下してくるような国民だと、少なくとも彼らは判断したのです。そして、こういう国民性にぴったりな統治手法は、お上から強権的に一気に下へと方針をおろしていくことだと彼らは考えたのでした。
実は、第二次世界大戦後のアメリカの占領軍の統治は、日本以外ではあまりうまく行かなかったそうです。私が思うに、それはGHQが、日本再建にあたってその国民性を徹底的に調べあげ、日本人にふさわしい手法を選択したことにあるのだと思います。そのことは、彼らの改革の手法の成果にもあらわれています。
■ 生存権はGHQが制定した
このGHQの健康に対するこだわりがもっとも強く現れているのが、憲法第25条の「生存権」です。以下に、その内容を引用しましょう。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
この生存権については、しばしば朝日訴訟などの文脈で、当時の社会党が盛り込むことを主張したことで有名な「健康で文化的な最低限度の生活」の部分が語られがちです。しかし、予防医学の観点から言えば、実は2 の「国が国民の健康を見るべし」をうたう、一見して私たちには当たり前に思えてしまう一文こそが重要です。
実はこんな文言はアメリカの憲法などには全く存在していません。彼らは地方分権の国であり、まして国が国民の面倒を見る必要などないと考えるのです。しかし、サムスたちGHQは日本人の国民性の調査結果を考えたときに、「生存権」としてこの一文を入れることで、それを根拠に一挙にトップダウンで日本人の衛生環境を変革するべきだと考えたのでした。
そこで、サムスが創案したのが全国的な「保健所」のシステムです。
当時のGHQの合言葉は「革命は急げ、ゆっくり行けばつまずくぞ」だったと言います。彼らは日本の46都道府県800ヶ所に瞬く間に保健所を作り、一つの保健所につき10万人を見る想定で、当時の日本人8000万人全員の健康を管理することにしました。そうして、そこで徹底的に衛生状況の改善や健康教育などを行ったのです。
実はこの保健所のシステムは、サムスをして、「もっとも誇りとする仕事」と述べています。占領下という特殊な状況を活かし、他のいかなる国にも追従を許さない、きわめて近代的なシステムを作り上げたのです。
その結果はどうなったか?
――GHQが統治した6年の間に、日本人の平均寿命は25年も伸びました。
それほどわずかの期間に、8000万人もの人口の寿命をこれほど延ばしたというのは、人類史上に類を見ない偉業です。なにしろ、アメリカでは寿命を25年延ばすまでに10倍の60年がかかっているのです。
ちなみにその頃、アメリカでは「日本人をそんなに健康にして、一体どうするのだ?!」という批判があがっていました。というのも、そもそも日本人は人口が増えすぎたために、国内でまかなえなくなって、戦争に走ったと考えられていたからです。しかし、そのときもサムスは「日本人が健康になり、経済が活発になるのは、アメリカにとっても良いことのはずだ」と敢然と批判を切りかわしたと伝えられています。
そうして、サムスが築いた基盤の下、日本は着々と健康への道を歩み始め、ついに1978年、世界最高の長寿大国となるのです。
一体、このサムスという人物は何者だったのでしょうか?
彼のウィキペディアは英語圏にはありません。あるのは日本だけです。しかし、日本人の健康にこれほど大きな影響を与えた人間であるとは、ほとんどの日本人は認識していないでしょう。
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予防医学が考える「幸福論」(予防医学研究者・石川善樹『〈思想〉としての予防医学』第3回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.367 ☆
2015-07-16 07:00
本日は予防医学研究者・石川善樹さんの連載『〈思想〉としての予防医学』の第3回です。今回のテーマは「幸福論」。予防医学という科学的アプローチは、「幸福」という抽象的・哲学的な概念にどこまで迫っているのか。その最新の動向について解説します。
石川善樹『〈思想〉としての予防医学』前回までの連載はこちらのリンクから。
前回、予防医学の観点から「がん検診」をめぐる人間の確率的な判断の問題を話しました。
おさらいしましょう。 アメリカでは乳がんの検診で本当にメリットがあるのは、せいぜい1000人に0.3~3.2人程度で、かなりの数の人はむしろ必要がないのに乳房を切除している現実があります(注:アメリカのデータなので、日本は別です)。例えば、ある人が「乳がん」の診断を受けたとしましょう。でも、そう診断されても、実際には11人に1人程度しか本当に治療する必要はないのです。手術をした場合には、残りの10人は必要もないのに、乳房を失う可能性があるのです。 果たして、その人は手術をしない選択肢を取れるのでしょうか。
――やはり、多くの人は乳がんの手術を受けてしまうでしょう。
注意したいのは、ここまでの人間の意志に伴う問題とは切り離す必要があることです。肥満が、友達の友達の友達からの「太る習慣」の隠れた影響を受けているだとか、あるいは一種の中毒症状から喫煙行動をやめられなかったりするだとかという話とは違うのです。むしろ確率論的には一見して非合理に見えるような判断であると納得した上でも、やはり人間はそういう「意志決定」をしてしまうという話です。
そして、ここに現代の予防医学において「過剰診断・過剰治療」が横行する原因があるのです。
1.人間ドックは本当にメリットがあるのか?
もう一つ、例を出したいと思います。
日本では、多くの人が一年に一度「人間ドック」に入ることが提唱されています。これは、「病気は早期発見・早期治療によって改善することが多い」という考えにもとづくものです。合理的な考え方であり、人間ドックの「光」の側面をよく示しています。しかし、人間ドックには「影」の側面もあります。それは「病気が早期発見・早期治療されることで、過剰診断・過剰治療が横行する」ということです。
人間ドックでは問題が見つかり次第、その病気の治療が開始します。しかし、実際には治療という行為は、人間の体に良い影響をもたらすものばかりではありません。
例えば、がんの放射線治療がそうです。
もちろん、人間ドックで診断される病気の中でも、乳がん・子宮がん・大腸がん・胃がんなどは、(乳がんのように、過剰診断がかなりの確率で起こるにせよ)やはり実際にがんであった場合には早期発見・早期治療が功を奏します。ところが、前立腺がんなどは、実はしっかりと効果が検証された治療が確立していないのです。
そういう状況でがん治療を行うのは、身体に多大なストレスを与えることになります。ある程度は働ける状態で死ぬまでの3年間を過ごせたはずの人が、特に治療が確立しているわけでもないのに放射線治療を受けたがために、苦しみながら3年間を過ごしてしまうこともあるのです。
治療という身体を苦しめる行為をするにあたって、それが本当にベネフィットがあるのか?――を本来であればもっと考えてもいいはずなのです。
前立腺がんについては、現状の医療技術で治療するよりも、放置したほうが苦しまずに済む可能性が高いという現実があります。治療のベネフィットに対して、デメリットがあまりに大きいと言えるでしょう。同様の問題は、脳ドックなどにも指摘されています。こちらに至っては、むしろ治療を受けた人の死期が有意に早まっているというケースさえ報告されています。
2.人間ドックのヘルスサーティフィケイト
とすれば、人間ドックは受けないほうがいいのでしょうか。
私は予防医学の研究者ですから、こういうときには予防医学の大原則に立ち返ります。予防医学の大きな目的は、第一回で述べたような意味での「健康」を人々が維持することです。その意味で、「過剰診断・過剰治療」の可能性がある人間ドックというものは、個人が自分の意志で受けるのは自由だとしても、社会のあらゆる人間が受けるべきものだとは思いません。
むしろ私としては、第一回でも述べたように、結局のところ人間の健康を大きく左右するのは「生活習慣」であり、よほどそういう日々の心がけの方が大事なのだということを改めて強調したいくらいです。ところが、この観点でも、本当に人間ドックがどれほどメリットがあるのか、怪しい部分はあります。
例えば、喫煙者が人間ドックに入って「肺がんの疑いはない」と聞いたせいで、大喜びで「やっぱり大丈夫だ」と喫煙の習慣を維持していることがあります。実際には、喫煙は統計的にも明らかに肺がんの確率を高めるものですから、どんなに今は大丈夫だと診断されようと、健康のリスクを高める行為なのは疑いないのです。これは専門的には「ヘルスサーティフィケイト(健康保証効果)」と言われるもので、診断で問題がないと判明したために、患者がかえって「不健康な生活を続けてよさそうだ」と考えてしまう状態です。
結局のところ、人類は必ずしも正確に診断できるほど病気をわかっていません。せいぜい「この程度の確率であなたはこの病気の疑いがある」と言えるだけに過ぎません。また、仮にその診断結果が正しかったとしても、それを人間が正しく解釈するのもやはり期待できません。そういう現実がある中で、私たちはどう振る舞うべきなのかを考える必要があるのです。
その点で、通常の医療は「病気を治療して元に戻す」ことが目的ですから、たとえ過剰治療であっても、出来る限りの手段で病気に対処するのが正解になるでしょう。
しかし、予防医学の考え方は違います。我々の目的は「健康」な状態をなるべく長く維持することであり、それは心の健康まで含めたものです。例えば前立腺がんであれば、現代医療の限界を見据えて患者のQOLを目指すことを重視して、がん治療を受けずにおく選択肢もまた成立しうるのです。
そして、この二つの考え方は、現実の治療の場面において、結構簡単にぶつかってしまうのです。
3.孤独は人間を不幸にする
こういう問題を考えていくと、人間の「健康」を考える際には、やはり精神的な側面の考察も必要であるとわかります。
それは、予防医学が考える「幸福」とは何か、という問いそのものとも言えるでしょう。というのも、やはり「幸福」という言葉には、精神的に完全に満たされた状態を示すニュアンスが含まれるからです。
この「幸福」については、一つ予防医学が発見した面白い研究結果があります。
それは、友達の数が多い人ほど自分を「幸福である」と答える人が多く、孤独な人間ほどその逆であったというものです。しかも、その研究によれば人間関係の質はあまり重要ではなくて、単に人間関係の量――すなわち周囲の人間との「繋がり」の数が、とにかく彼らの「幸福度」に強く相関していたのです。
これは、ある意味では意外な結果です。よくTwitterやFacebookなどのソーシャルメディアに対して言われるように「繋がっている人の数が多くなると、人間関係が煩わしくなる」という考え方もあるからです。
しかし、この研究結果には、理論的な背景があります。 それは、ハッピーな感情はアンハッピーな感情よりも周囲の人間への伝染力が高いという事実です。たとえあなたの周囲に不幸な感情を撒き散らす人がいたとしても、その影響はないことはないにしても限定的です。しかし、あなたの周囲で起きた幸福な感情は、不幸な感情よりも強く伝わるのです。
とすれば、ネットワーク科学の観点から言えば、とにかく周囲に人を集めれば集めるほど、幸福な感情が自分のもとに伝播してくる確率は高まるわけです。実際、うつ病の抑止は、やはり友だちが多い人のほうが起きやすいという研究結果もあります。
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ネットワーク時代の予防医学(予防医学研究者・石川善樹『〈思想〉としての予防医学』第2回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.352 ☆
2015-06-25 07:00
本日は石川善樹さんの連載『〈思想〉としての予防医学』第2回、「ネットワーク時代の予防医学」をお届けします。今回は「自己啓発」の歴史を振り返りながら、人間の〈意志〉と〈行動〉の関係、そして〈行動〉に影響を与える人間関係のネットワークの在り方について、最新の予防医学の知見を参照しながら解説していきます。
前回記事:思想としての予防医学を考える(予防医学研究者・石川善樹連載「〈思想〉としての予防医学」第1回)
1.「自己啓発本」の源流をたどる
しばしば、自己啓発本では高いモチベーションで物事を成し遂げていくことの重要性が語られます。こういう本に出てくるような意味での「意志」を最初に著したのは、英国の医者にして作家であったスマイルズであると言われています。スマイルズは、19世紀半ばに書いた『自助論』で欧米の300人に及ぶ成功者について書き記し、不屈の意志をもって物事を成し遂げることの重要性を語りました。
▲サミュエル スマイルズ (著), 竹内 均 (翻訳)『スマイルズの世界的名著 自助論 知的生きかた文庫 』三笠書房
スマイルズがこういう著作を記した背景には、人類が都市文化の中で生きていくようになったことがあります。彼の言うような意味での「意志」とは、地域の規範を必ずしも守らなくても生きられる時代が来て、初めて登場した考え方だったとも言えます。
ただし、スマイルズの『自助論』はあまりにもストイックな成功伝であり、そう簡単に真似できるものではありませんでした。それに対して、「もっとポジティブに行こうよ」という考え方で登場してきたのが、『思考は現実化する』の著者ナポレオン・ヒルです。彼が凄かったのは、スマイルズの『自助論』からさらに一歩考えを進めて、「では、その不屈の意志はどこから生まれるのか?」という問いを立てたことです。
彼の結論は、それは願望の力である――というものでした。願望が強ければ強いほど、意志は強くなるというわけです。よく自己啓発本に、「自分が1億円を手にした姿をイメージしよう」みたいな言葉が出てくると思いますが、こういうふうに願望を具体化させて、意志の力を高めていこうと考えるのは、ナポレオン・ヒルに始まる発想です。現代の、「夢を持つのは良いことだ」という考え方の源流がここにある、とも言えるでしょう。
▲ナポレオン・ヒル (著)『思考は現実化する』きこ書房
彼らの語るような「意志」や「夢」の機能は、今や私たちにとって特に珍しい考え方ではないくらいに浸透しています。
しかし、行動科学の観点から言えば、夢を持つことは決して良いことばかりではありません。例えば、研究者の間で「偽りの希望シンドローム」と呼ばれる心理状態があります。そもそも人間が希望を抱くタイミングというのは大抵、落ち込んだときなのです。そういうときに手に取ると未来に希望を抱けるというのが、自己啓発本の一つの効用なのだと思います。
しかし、基本的にはそういう希望の持ち方は危険です。なぜならば、高い希望を抱いたときに、脳はそれだけで満足するようにできているからです。オリンピックで一流選手たちの試合を見終えて、「よし、俺も明日から頑張るぞ」なんて思う人は多いですが、残念ながらそういう言葉は大抵、翌日には忘れられているものです。本来、行動というのはある種の不足感が生むものです。高い希望を抱くことは、かえって自分の脳を満足させてしまい、本当に取るべき行動を取るためのモチベーションを削ぐのです。
また一方で、そういうふうに夢に向かって本当に邁進できるようになったとしても、なかなか到達することはできません。その過程は辛い一方でしかない――というのも、よくある話です。モチベーションを上げ過ぎるのは、決して幸福なことではないのです。
実のところ、予防医学でも21世紀に入った頃、こういう「意志」の存在を前提にして研究が行われました。しかし、行動の変化に意志の影響がどの程度あったのかを定量化してみると、その影響を明言できるのはたった3割に満たない程度でした。人間がなにか行動を起こすときに、意志によらない影響というものが、実は8割近くを占めているのです。
スマイルズが考えたような意志と、現実の行動の間にはどうやらギャップがあるようです。その間を埋めるものは――例えば、「習慣化」のテクニックかもしれないし、「楽しそうな感情」かもしれません。いずれにせよ、現在の我々は意志と行動の果てしないギャップを埋める作業をしているといえるでしょう。
2.意志と行動を埋められない
少し議論が込み入ってきたので、ここからは行動科学の観点から、意志についての論点を整理してみたいと思います。行動科学では、意志は基本的に3つの要素からなると考えます。それは、「態度」、「規範」、そして「自信」です。
「態度」というのは、知識と言い換えたほうが分かりやすいかもしれません。ダイエットで言えば、「痩せるとこういういいことがあるぞ」と自ら思う姿勢のことです。それに対して、「規範」というのは「周りがそうしているから」という理由で、自分もそうするということです。そして最後の「自信」は、目指している行動がそもそも可能だと思っているかどうかです。
行動科学では、この3つを切り分けた上で、これらが働くことで意志を形成しているという観点から分析していくのです。
前回、肥満の友人関係ネットワークにおける影響で「規範」という言葉を出しました。もう一度おさらいすると、ある人が太った際には、その友達の友達の友達にまで肥満をめぐる「規範」の緩みが伝達されていきます。その数は、おそらくは数百万人にも及ぶとてつもないものでした。
ここで言う「規範」という言葉は、上の行動科学の用法を踏まえたものです。そして、この「規範」がネットワークで伝染していくというのが、ネットワーク科学が明らかにしたことなのです。
つまり、顔も知らない誰かの生活習慣が、皆さんの生活習慣に影響している可能性があるわけです。そして、こういう複雑な影響関係は、人間が自分の意志決定を全てコントロールできているという「幻想」を打ち砕くものです。具体的な問題として言えば、太ってしまった人が、「さあ、痩せるぞ」ということで「態度」や「自信」を抱いたとしても、今度は自分がその周囲のネットワークに与えた太りやすい「規範」によって、肥満しやすい生活習慣をなかなか改善できなくなってしまうのです。
3.ネットワークにどう接していけばいいか
では、このように意志決定が複雑な影響関係のもとにあると分かってしまった状況で、私たちはどういうふうに対策を取ればいいのでしょうか。
この肥満の問題については、一つ面白い解決策が見つかっています――それは、その人の友達の友達と一緒にダイエットをさせるという手法です。
友達と一緒に……ではありません。友達の友達と一緒に、です。なぜかといえば、肥満している人の友人は既に肥満する生活習慣の影響を受けていて、その友人こそがリバウンドの要因であるからです。しかも、同じことはその友人にも言えて、痩せる生活習慣の影響をその友人に与えたとしても、今度はその友人が周囲のネットワークから影響を受けて、また元に戻ってしまうので、その影響を自分もまた受けてしまい……と、またもや肥満する生活習慣に逆戻りしてしまうのです。
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思想としての予防医学を考える(予防医学研究者・石川善樹連載「〈思想〉としての予防医学」第1回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.317 ☆
2015-05-07 07:00
PLANETSメルマガでは今月より新たな連載がスタートします!
テーマは、これまでPLANETSがまったく扱ってこなかった「医学」と「健康」。予防医学研究者の石川善樹さんが、今にわかに注目を浴びている「予防医学」を〈思想〉という観点から解説していきます。
▼執筆者プロフィール
石川善樹(いしかわ・よしき)
(株)Campus for H共同創業者。広島県生まれ。医学博士。東京大学医学部卒業後、ハーバード大学公衆衛生大学院修了。「人がより良く生きるとは何か」をテーマとして研究し、常に「最新」かつ「最善」の健康情報を提供している。専門分野は、行動科学、ヘルスコミュニケーション、統計解析等。ビジネスパーソン対象の講演や、雑誌、テレビへの出演も多数。NHK「NEWS WEB」第3期ネットナビゲーター。
6月4日に『最後のダイエット』(マガジンハウス刊)を発売予定。その他の著書に『友だちの数で寿命はきまる(マガジンハウス)』など。
はじめまして。予防医学という分野の研究をしている、石川善樹です。
いきなりですが、この連載のタイトルにも入っている「予防医学」という言葉ですが、馴染みのある人はどのくらいいるのでしょうか――「予防医学が21世紀の医学の主流になるだろう」なんて言われているのを、聞いたことがある人もいそうです。しかし、そういう人であっても、予防医学について具体的な話を聞いたことは少なそうです。
そこで、まずはイメージをつかむところから始めたいと思います。
■ かつて「運動は健康に悪い」と言われていた
例えば、予防医学による発見の一つが、「運動は健康に良い」ということです。
――え、それって常識じゃないの? と思う人もいそうです。
確かに、今となっては、あまりこの話を疑う人はいなさそうです。しかし、19世紀までの人類は、むしろ「運動こそが健康に悪い」と思っていたのです。ですから、例えば郵便局の内勤の人と外勤の配達員とでは、あくせく外歩きをする配達員の方が「早死するんだな、かわいそうに」というくらいに思われていたのでした。
この常識を最初に覆したのは、英国の疫学研究者ジェリー・モーリスでした。彼は1953年に発表した論文で、2階建てバスの乗務員を調べて、運転手と、1階と2階を行き来する乗務員のどちらが健康的なのかを比較したのでした。すると、1階と2階のあいだをせわしなく動きまわる仕事をしている方が健康的で、座り仕事の運転手の方こそが不健康であるというデータが出てしまったのです。
余談ですが、このモーリスは後に、ロンドンで健康のためのジョギングをした初めての人間となりました。当時の人々は、彼のことを"頭のおかしい人"を見るような目で見ていたそうです。彼の業績は長らく、予防医学の世界でのみ、ささやかに讃えられてきましたが、ついに先日のロンドン・オリンピックで彼の功績が大々的に讃えられることになりました。それは、彼がスポーツ文化に新しい価値を付け加えたことを賞賛してのものでした。
予防医学では、このような統計的手法によって、人間の健康に影響する要因が何かを調べあげてきました。他の予防医学の有名な成果としては、タバコの健康への悪影響の証明があります。今となっては驚くような話ですが、それまではタバコを「健康に良いから吸った方がいい」と主張する医者まで存在したそうです。
実は結構な数の健康についての常識を、僕たち予防医学の研究者は見つけてきたのです。
こういう手法を、予防医学の世界では「疫学」と呼んでいます。簡単にいえば、英国のモーリス博士がやったように、沢山の人を集めてきて、病気になった人と病気になっていない人を比較して、何が原因だったのかを探り当てていく手法です。
これは、いわば医学における最初の"ビッグデータ解析"だったと言えるかもしれません。その意味で、現代のIT分野で話題になっているようなトピックについても、いろいろな示唆が与えられるように思います。
この連載のタイトルになっている『〈思想〉としての予防医学』というのは、こういう話題を本誌主宰の宇野常寛さんにお話ししたときに、宇野さんから連載のタイトルとして提案されたものです。IT分野でのビッグデータ解析の成果と同様に、予防医学のこういう話題には、従来の人文的な思想に対してインパクトの強い話題が含まれているということで、こういう名前を思いついたとのことです。
■ カナダが80年代に発表した研究結果の"衝撃"
最初にも述べたように、近年は日本でも予防医学について「21世紀の医学の主流になるだろう」という意見を耳にすることが増えてきました。
そんなふうに予防医学が注目されるキッカケになったのは、アメリカが1980年代に提示した衝撃的なデータです。彼らは、当時の国家的な財政危機の中で、本当に「医療制度」が社会全体での健康維持に効果があるのかを調査したのでした。
その結果はというと――なんと、ほとんど効果がないというものでした。
ここでは具体的な算出の過程は省きますが、彼らは健康に影響を与える要因をリストアップして、医療制度・遺伝・環境・生活習慣の4つに絞り込みました。そして、それぞれの病気との相関関係を調べあげて、各々が健康な生活に寄与する度合いを算出したのです。その結果わかったのは、医療制度はなんと1割程度しか寄与しておらず、むしろ病気の大きな要因は、単なる「生活習慣」の問題であるということでした。
そこで、アメリカは「治療から予防へ」という方向に舵を切り替えて、医療制度の改善よりも生活習慣の改善に注力するようになりました。その後すぐに、他の先進国も続いていくことになります。よくアメリカについて、健康に悪いファストフードばかりを食べているというイメージが語られますが、既にそれは過去の話です。喫煙率についても、この20年ほどで米国は劇的に低下しています。
ひるがえって、日本にこの考え方が入り込んできたのは2000年に入ってからのことです。「分煙」などの言葉が、この頃から使われるようになったのを覚えている人もいるでしょう。
そんな感じの状態ですから、いまやホワイトカラー同士の比較でいえば、日本人はアメリカ人よりもずっと運動量が少なく、コレステロール摂取量も多いというのが実情です。先進国のホワイトカラーとして見ると、もう日本人は決して健康的な部類の生活をしているとは言えないのです。この差は、まさに予防医学の浸透した時期が遅かったことから来ています。
▲男女別喫煙率の国際比較。日本は女性は8.4%なものの男性に限っては32%と、男女ともに10%台の米国よりかなり高い。(出典:社会実情データ図録▽男女別喫煙率の国際比較 )
■ 「心」が脚光を浴びる、予防医学の現在
さて、そんな予防医学の世界で、最近になって注目されているのが、人間の「心」にまつわる問題です。
そもそも、予防医学の歴史は、19世紀に「下水道を整備して、コレラの対策をしよう」だとか、「きちんと靴を履かせて、傷口から寄生虫が入るのを予防しよう」だとかというように、感染症対策を研究したことから始まりました。その後、感染症をめぐるアプローチが一段落すると、今度は先ほど述べたように、生活習慣からくる心臓病のような病への対策に移りました。
しかし、20世紀の人類は素晴らしい発展を遂げて、経済も医療も大きく進歩させました。その結果、平均寿命は右肩上がりになり、先進国の人々はかつてない長寿の時代を迎えています。そういう中で、健康についての予防医学的なアプローチは、ある意味で転換点を迎えているのです。
▲石川善樹『友だちの数で寿命はきまる 人との「つながり」が最高の健康法』マガジンハウス、2014年
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