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  • 【新連載】 橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第1回:なぜイギリスなのか ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.180 ☆

    2014-10-16 07:00  
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    【新連載】 橘宏樹『現役官僚の滞英日記』 
    第一回 : なぜイギリスなのか
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.16 vol.180
    http://wakusei2nd.com


    今日の「ほぼ惑」は、現役官僚の橘宏樹(仮名)さんによる新連載「現役官僚の滞英日記」の第一回目となります。スコットランド独立選挙から、中東のテロリストの話題まで、現役官僚ならではのリアルな視点で、最新の英国事情をお届けします。その過程で見えた、「課題先進国」日本が学ぶべき「先進する国」イギリスの姿とは――?


    ▼プロフィール
    橘 宏樹(たちばな・ひろき)
    官庁勤務。2014年夏より2年間、政府派遣により英国留学中。官庁勤務のかたわら、NPO法人ZESDA(http://zesda.jp/)等の活動にも参加。趣味はアニメ鑑賞、ピアノ、サッカー等。
     
    ▲スコットランド独立反対派の庭にプラカード
     
    はじめまして。橘宏樹(仮名)と申します。男性で、官庁に勤務しています。今夏から2年間、政府派遣でイギリス留学に来ています。これから、月に一度、イギリスで僕が学んだこと、感じたことのなかから、ぜひ、みなさんと一緒に考えていければと思います。
    みなさんは、イギリスにどういうイメージを持たれていますか。イギリス英語の発音はアメリカ英語と違うらしい、ビートルズ、プレミアリーグ、カッコイイ時計台つきの議会、シャーロック・ホームズ、赤いバス、雨が多い、大英博物館、ハリー・ポッター、007、ご飯が美味しくない……などなど、イギリスは世界にいろいろな個性を発信していると思います。
    ちなみに、2013年の一人当たり名目GDPでは、日本は24位、イギリスは23位とほとんど変わりません。しかし、1990年代以降日本がもがいている一方、イギリスも様々な経済問題を抱えつつも、この20年間、いちおう右肩上がりの経済成長を維持しています。ただ、日英ではいろいろなことが違いますから、この数字の扱いには注意が必要です(http://ecodb.net/ranking/imf_ngdpdpc.html)
     
     
    ■スコットランド独立投票と2015年総選挙
     
    既に日本でも様々に報道があったことと思いますが、9月18日に、スコットランド独立の是非を決める住民投票がおこなわれました。私は投票日の前後に、エジンバラのスコットランド議会前に集まる若者たちを見てきましたが、一昼夜、集会所や投票所、議会前、投票結果の発表会場などを歩いた限りでは、独立賛成派の人たちも、NOにおさまったことにホッとしているような空気を感じました。
    また、投票直後に、独立賛成派のリーダーのスコットランド第一首相は辞任したのですが、その引き際の鮮やかさにも目を見張るものがありました。賛成派・反対派の統合を促す効果があったと思います。
    その一方で、保守党政権が、独立を思いとどまったスコットランドに示した財政分権等の譲歩は、むしろイングランド地方にも大きな分権を認めるべきという議論をも喚起して、目下、討論が白熱しています。と同時に、住民投票を推進し、16歳の投票も容認するなどして、かかる緊迫した事態を招いたとして、キャメロン首相を降板させようという動きも、今後保守党内で加速していきそうです。
    他方で、労働党はというと、およそ250議席中の40議席をスコットランドに保有しているので、独立によってこれを失う可能性があった割には、独立反対運動において影が薄かった気がします。しかし、投票後の労働党大会では、スコットランド労働党と中央の労働党は、対保守党、対UKIPとの選挙戦に向けて、団結を確認できたようです。
    地方分権は引き続き、来年5月の総選挙でも最大の争点になりそうな趨勢です。与野党の政治的駆け引きは、これからが本番となってくるでしょう。
     

    ▲独立賛成派はスコットランド旗と民族衣装で意思表示
     
     
    ■ジハード(聖戦)に参加するイギリス人
     
    日本でもBBCの報道に接しておられる方はきっとお感じになっておられるとおり、イギリスのメディアにおける中東情勢への関心は極めて高く、毎日何かしらトップニュースに上がっています。これは日本のメディアとの大きな違いだと思います。
    イラクの過激派組織「イスラム国」はアメリカ人ジャーナリストのジェームズ・フォーリー氏を「処刑」し、2014年8月19日、その動画を公開したことは日本でも大きく報道されたようですが、イギリス国内で非常な衝撃を与えたのは、この殺害を行った人物として最も疑われたのがイギリス人であったことです。
    輸送機を派遣して難民を救出したり、中東に新しく3つの軍事基地の建設を検討したりと、シリア・イラク情勢に極めて深く関わっているイギリスにとって、敵側に加担する自国民がいたことは、国民感情としてやはり大きなショックだったのだと思います。イスラム国側もこの点を狙ってPRに利用したと考えられます。
    イギリス保安局は、ここ数カ月の間でイギリス国内のムスリムの若者およそ500人が、シリアおよびイラクのジハード組織に加わるために出国したと推定しており、イギリス発給のパスポートを持つ彼らが自由に往来し、テロ活動に携わることを極めて問題視しています。
    テロ活動への参加が疑われる者のうち、二重国籍保持者やイギリス以外で出生した者のパスポートを取り上げる施策が発表されるなど、彼らをいかにして取り締まるかについて毎日のように各紙紙面上で議論が交わされています。
     

    ▲エジンバラのスコットランド議会前
     
     
    ■なぜイギリスか
     
    さて、では、そんなイギリスを僕が留学先として選んだのは、どうしてでしょうか。それは、イギリス人の、特にリーダー層は「何かがすごくうまい」という気がしていたことがあります。
    僕が最初にそう感じたのは、高校の世界史の授業で、帝国主義時代のイギリスが、インドを植民地支配する際に、民衆の恨みを直接買わないよう、現地支配者層を間に挟んだ「間接統治」を展開したり、ジブラルタル海峡、ケープタウン(アフリカの南端)、香港、シンガポール、スエズ運河といった地政学上の要所を、ピンポイントで確保していたりしたことを教わった時です。
    当時僕は、「この人たちは、少しずるい気もするけど、戦略家、リアリストとして『センス』がいいのではないか」という印象を受けました。しかも、100年くらい全世界の制海権を握っていたということは、一時期に突出したリーダーがいたというだけではなくて、伝統的、集団的、組織的な形でそうしたセンスを共有していたのではないか、そして、今もその薫陶が残っているのではないか、と考えたのです。
     
  • 稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』 第2回「『電話』から始まる日本的インターネット史」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.179 ☆

    2014-10-15 07:00  
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    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第2回「『電話』から始まる日本的インターネット史」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.15 vol.179
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、稲葉ほたて「ウェブカルチャーの系譜」第2回をお届けします。2ちゃんやはてなブックマーク、Twitterのようなテキストコミュニケーションではなく、「音声」によるコミュニケーションの歴史を解き明かすことによって描き出される「もうひとつのインターネット史」の可能性とはーー?

    前回記事「神の降臨で2ちゃんねるは変えられるか」はこちらから。

     
    ■「テキスト」国の「議論」村
    ■「文字」で「音声」を"ハック"する装置
    ■「電話」の戦後史――1.「閉された言語空間」における通信
    ■「電話」の戦後史――2.会社から家庭へ、家庭から個室へ
    ■ 情報民主主義の「個」と個室の「個」
     
    前回に続いて、まずは総論的な話から始めたい。
    ウェブビジネスの動向を語る中で、しばしば「言語」のウェブに対して「非言語」の流れが巨大になっていくだろうという議論がなされる。そこでの「言語」が「テキスト」という意味で使われているなら、それは確かに正しい。実際、米国におけるSnapchatやInstagramのような画像投稿プラットフォームの隆盛はその事実を示しているようにみえる。
    だが、例えば先日、AmazonがGoogleと争って買収したTwitchなどは「ゲーム実況」に強みを持つプラットフォームである。このジャンルで最も有名なスウェーデン人のゲーム実況者・ピューディパイはYouTubeチャンネルに3000万人の会員を持ち、2013年に運営から配分された年収は約4億円と言われている。
     

    ▲ピューディパイのYouTubeチャンネル
     
    実は、この「実況」というジャンルでは、「音声」による「言語」表現の面白さが問われるのである。日本に目を移しても、おそらくは最も多くの人間を食わせている娯楽のプラットフォームはニコニコ動画とYouTubeであるが、そこの人気のプレイヤーたちは、歌に実況に生放送にスナック菓子の開封中継に、という具合にとかく言葉を用いた「音声」の芸で勝負を賭けている。つまり、今のネットでカネになると注目されているのは、むしろ(「音声」という意味での)「言語」のウェブなのである。
    もちろん、この「言語/非言語」という区別は、かつては容量の小さいテキストがメインだったインターネットが、画像や動画などを扱えるまでに回線が向上したことを示すためのキャッチーな表現にすぎないのだから、それは当然である。だが、いずれにせよネットの「文化」を探っていく予定の我々には、もう少し細かな区別が必要になる。具体的には、テキスト・音声・画像・アバターなどの様々なメディアの「国家」において、各々のユーザーがいる。彼らはしばしば他国へと旅行するが、やはり軸足は必ずどこかの国に置いている……というくらいの粒度の視点の方が、特に娯楽に近い分野になるほどに多くのネットユーザーの実感に則したものになるはずだ。
    実際、ブログのページビューと動画の再生数を一概に比較できないことなどからもわかるように、ユーザーは各々のメディアの生態系に生息して、独自の振る舞いを見せるものである。その傾向は、ヘビーユーザーになるほど著しい。各々の国家の中には、その国に独特の国民性と統計データがあるのだ。そして、その国家の中には、例えば「音声」国であれば、ヤフチャからニコ生、ツイキャスへと続く問題児揃いの「チャット」村もあれば、ネットラジオの界隈から出てきた今やゲームから旅の風景まで中継してみせる芸達者な「実況」村もあるし、こえ部などでなりきり勢に近い層の集まる「ボイスドラマ」村もあれば、2chのカラオケ板のような場所からニコニコ動画へと流れ込んで今や一大商業圏となった「歌い手」村もある……というふうに、さらに細分化されたクラスタが形作られているわけである。
    前回、特定のプラットフォームやメディアに拠らない「文化」という切り口を提示したが、それに対して今回はむしろメディアごとのユーザーの差異を問題にすることから始めたい。というのも、これは既存のウェブ論がどのようなものであるかを示す上で欠かせない視点なのである。
     
     
    ■「テキスト」国の「議論」村
     
    そもそも、先に挙げたピューディパイやこえ部(正式には、現在はkoebu)などの名前をあなたは知っていただろうか。あるいは知っていたとして、実際にそれらを見に(聴きに)行ったことはあるだろうか。まあ、20代前半くらいまでの読者なら、そもそも実際に楽しんでいるかもしれないが、多くの読者は行ったことすらないのではないか。
    実はこうしたユーザーたちは、ネット論における暗黒大陸のようになっている。「音声」国だけではない。「画像」国や「アバター」国などの実態も、当該クラスタのユーザーたちにしかほぼ知られていない。実際、はてなブックマークやTwitterでウェブについて語っている人たちを見てみよう。彼らがこうした自分の知らないクラスタについて語るときは、大抵は「ガラパゴス論」と結びつけて批判的に語るか、とりあえずオリエンタリズム的に褒めておくか、というあたりになっている。つまり、興味がないのである。
    ここで問題なのは、こうしたネット論を語る人々そのものが「テキスト」国の「議論」村あたりに生息している、大変に狭い界隈の人々でしかないことだ(「狭い」というのは彼らにウケた際に記事に来るPV数も含めての話である)。しかも、その実像をつぶさに見ると、大変に偏りのある集団でもある。
    彼らの多くは団塊ジュニアからロスジェネ付近の、黎明期のテキストサイトや2ちゃんねるの隆盛期に居合わせて、その後にはてなやmixiが流行り、今度はTwitterに移行して、最近はFacebookにいるがNewsPicksも少し気になっている……みたいな感じの、まあすごく乱暴な言い方をしてしまうと、その多くがテキスト中心のネット全盛の時代を過ごしてきた、30代半ば以上の中年男性で、おそらくはパソコンをメインに使っているであろうユーザーである。
    一方で、例えば先に挙げた「音声」クラスタなどは、先駆的にヤフチャやねとらじなどがあったにせよ、基本的には近年ニコニコ動画やこえ部などの登場で大きく盛り上がったクラスタである。女性ユーザーも多いし、10代から20代の人間も多い。といっても、中高生の流行でしょ、といって済ます話でもない。例えば、ニコニコ動画が話題を呼んだ2007年に中二病真っ盛りの14歳だったネットユーザーなど、今年まさに新卒で就活中の年齢である。そういう視点で見たときに、彼らの「音声」や「画像」や「アバター」(ちなみに、筆者はアプリ以前のソーシャルゲームはアバターサービスの一種だったと考えている)への嘲笑的な態度は、単に自分の知らない界隈に対して相応の年齢の大人が抱く冷淡な反応でしかないことがわかるだろう。
    この問題がややこしいのは、最近になって、この「議論」村の住人がなんとなく”ネット論壇”のようなものを形成して、権力を持ち始めたことである。実際、彼らの間で話題になると、数日後に朝日新聞の文化面で取り上げられたりして、「ネットの話題が新聞に出る時代が来たのだねえ」などと牧歌的なコメントがTwitterで流れてくる。
    だが、実際には上に見た通りの無関心がもたらす排除の実態がある。ギャル文化やサブカルであれば出版メディアで専門ライターが確立しており、たとえ大抵の大人は興味がなくとも公的な場への発信者は必ずいる。もちろん、ネトウヨやジョブズについて書けるネットライターもいる。しかし、こうした非「議論」村のネット文化を書くネットライターは、ほぼいないに等しい。そして、こうしたネット論の占有は、例えばカゲロウプロジェクトのアニメ化で起きた大事故などを鑑みるに、やはり放置してよい問題ではないように思えるのだ。
    もちろん、慌てて付け加えておくと、そのことで「議論」村の住人を腐すのはお門違いである。むしろ、そんなことよりも本当に問題なのは、いまだ暗黒大陸となっている文化圏を記述する理論的基盤がどこにもないことではないだろうか。先のカゲロウプロジェクトの問題にしても、ボカロの議論がせいぜい黎明期のN次創作が騒がれていた時代で止まっており、歌い手文化やボカロ小説へと連なっていくようなその後の動きを肯定的に評価する言説が空白地帯となっていたことが、根底にあるように見える。
    そこで筆者が提案したいのは、まず現代のウェブカルチャーの成り立ちを解き明かすような、新しいインターネット史の作り直しである。それは「議論」村の歴史までも含む包括的な歴史観でなければならないだろう。そこまで行ってこそ、理論的な対抗軸になりうるからである。そして、それはパソコン通信があり、それに対してインターネットが登場して、テキストサイト、2ch、ブログ、Twitterと次々にプラットフォームが生まれては、アーリー・アダプタ層がそこに移動していく……というようなありきたりの発展史ではないはずだ。そもそも、それは「テキスト」国の「議論」村の住民たちの正史としては精確だろうが、決して他のクラスタへとそのまま敷衍しうるものではないだろう。
    代わりに、この連載ではパソコン通信よりさらに前の時代に遡り、そこから全く別の包括的な歴史の線を引いていきたいと思う。そもそも私の考えでは、プレ・インターネットに、寝ても覚めても議論ばかりしていたようなパソコン通信を置いてしまうことが、様々なものを見えにくくしているように思う。
    では、代わりに注目するのは何なのか? 私が注目するのは――「電話」である。
     
  • 無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性 ーー浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.178 ☆

    2014-10-14 07:00  
    220pt

    無印良品、ユニクロから考える
    「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性
    ――浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛
    「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.14 vol.178
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、8月に配信し大好評だった建築学者の門脇耕三さん、インテリアデザイナーの浅子佳英さんと本誌編集長宇野常寛との鼎談記事「これからのカッコよさの話をしよう」の第2弾をお届けします。今回は実際に銀座のファッションストリートにある様々なお店を周り、そこで三人が感じたこと、考えたことをもとに、「ライフデザインのプラットフォーム」としての無印良品、そしてユニクロの位置付けを考えます。
    ▼関連記事
    ・これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
     
    ▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社 、2013年)ほか。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:中野慧
     
    ファストファッション、IKEAやニトリ、アップル製品など、ゼロ年代以降の私たちの生活に欠かせなくなった様々な「モノ」と「デザイン」について考えた前回の鼎談企画「これからの『カッコよさ』の話をしよう」。第2弾となる今回は、鼎談の収録前に、まず実際に門脇・浅子・宇野の3氏で、銀座の街にある様々なお店を廻ることにしました。
    3氏がまず足を運んだのは、世界一巨大な規模を誇るユニクロ銀座店。
     

    ▲銀座の中央通沿いにある、ユニクロ店舗でも世界最大のグローバル旗艦店「ユニクロ 銀座店」。12階建てだそうです。
     

    ▲床から天井まで隙間なく服が並んでいます。
     

    ▲Tシャツフロア。フロア全体に多種多様なデザインのTシャツがひしめいていました。ぶらぶらと見ていたら、浅子さんが当日着ていたスヌーピーTシャツと似たようなデザインのものを発見。「このTシャツけっこう高かったのにw!」(浅子さん)
     

    ▲女性ものの丈長のスウェットシャツが気になるという門脇さん。このあと「XLサイズなら僕でもダボッと着れそう」とのことで、お買い上げになっていました。
     
    ユニクロ銀座店の次に3人は、ユニクロ銀座店と渡り廊下でつながっているお隣のドーバーストリートマーケット(コム・デ・ギャルソンの川久保玲氏がトータルプロデュースするセレクトショップ)へと向かいました。
     

    ▲ドーバーストリートマーケット ギンザ。
     
    渡り廊下を渡るとそこには、ユニクロとはまるで別世界が広がっていました。好対照だったのはお店のレイアウト。通路は広く取りつつも縦にぎっしりと服を並べるユニクロと違い、様々なアイテムがゆったりと店内に配置されていました。
    ドーバーストリートマーケットを出た一行は、「無印良品 有楽町店」へ向かいました。
     

    ▲無印良品有楽町店。ここもかなりの大型店舗です。
     

    ▲無印良品の家。
     
    無印らしいアースカラーの服が並ぶ店内を分け入っていくと、目に入ってきたのはスチールの外壁(「金属系サイディング」というものだそう)の、「家」でしたーー。そう、最近、無印では「無印良品の家」を販売しているとのこと。コンパクトなサイズながら、吹き抜けと、ガラス張り(でも断熱性も高いそうです)による採光のよさもあって、見た目以上にゆったりとした住空間。「暮らしに合わせて間取りが変えられる」とのことです。(出典:「無印良品の家」ホームページ )
    その後、一行はクロムハーツ、ミュウミュウ(MiuMiu)、Aesop(イソップ)、フライターグなどを回ってこの日の街歩きを終えました。
     
     
    ■ユニクロとコム・デ・ギャルソン、何が明暗を分けたのか?宇野 まず簡単に前回のおさらいをすると、今の時代のファッションは、ノームコア(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと。最近のファストファッションの隆盛を受けたトレンドでもある)的なものが優位になっている。そしてその潮流は一部で「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」という五体満足主義的な思想に回収されつつある。それはファッションが本来持っていた「やせっぽちでも太っていても、工夫しだいでカッコよく、気持ちよくなれる」という、文化としての豊かさがやせ細ってしまっているということでもある。こういう現状に対する違和感は共有されていますよね。
    そこに対して例えばデザイナーである浅子さんは、ノームコア的なものを批判して「新しいラグジュアリー」のような価値を提示していくことが必要なのではないかという立場でした。
    また、鼎談のなかで見えてきたのは、ファッションだけでなく、インテリアや建築のような「デザイン」と言われる世界ではどこでも、90年代以降に似たようなことが起こっているのではないか、ということでした。
    今日は第二弾ということで、ファストファッションからデザイナーズブランドまで、銀座のいろいろなお店を実際に回ってきたわけですが、みなさんは改めてどう感じましたか?
    浅子 やっぱりユニクロが今強いのは、面白いデザインの服を揃えているわけではないけれど、カラーバリエーションやちょっとしたデザインの違いの製品を大量に揃えていて、その「多くのものから一つを選ぶ」という体験自体に楽しさがあるからなんだと思いましたね。
    宇野 ショッピングにゲーム的な楽しさがあるということですよね。
    浅子 そうです。銀座店は特に、12階建てなのにもかかわらず、フロアのレイアウトがほとんど同じだったりして、あの感じは僕自身はそんなに好きじゃないんだけど、実際に上から下まで全部見て回ると本当にゲーム空間にいるようで面白かったです。
    門脇 ユニクロの店内のレイアウトは「とにかく下から上まで整然と服を並べる」という思想ですよね。対照的だったのはそのあとに行ったドーバーストリートマーケットで、店内に余白をたくさん取っていました。あれは「アート的に見せる」というテクニックなんだけど、物量としてはユニクロよりも全然少ないですよね。そうすると服の一点一点が高くならざるをえない。置いているモノはカッコいいんだけど、トータルで見るとどうしても元気がないように見えてしまった。
    浅子 僕は立場的にコム・デ・ギャルソンを擁護するしかないんだけど、たしかに銀座店は少しゆったりしすぎているかもしれないですね。ただ、最初にできたロンドンのドーバーストリートマーケットはとてもエキサイティングな空間です。もともとオフィスか何かだった建物に、川久保玲やセットデザイナーなどが介入して百貨店にしてしまっている。たとえばエスカレーターでなく階段で登らないといけなかったりとか、フロアの使い方もわけのわからないことになっていて。
    そもそもドーバーストリートマーケットの面白さって、コム・デ・ギャルソンというブランドが、自分たちの服を売るだけではなく様々なブランドの服を売ったり、アーティストの作品を展示するスペースをつくったり、ある種のプラットフォームとしてお店を構えたところにあると思うんですよ。
    ただ銀座のお店はやっぱり、「ギンザコマツ」という百貨店の建て替えで用意された空間に出店しているから、そういう面白い化学反応が起こらなかったんだと思います。だからそこを責めるのはちょっと気の毒な感じがするんですよね。
    門脇さんは店内のレイアウトのことを指摘されたけど、インテリアのデザイナーとして言うとやっぱり余白というか、そもそも白い壁が良くないと思う。確かに白い壁にするとニュートラルであるかのようにふるまいながらも簡単に綺麗に見せることができるんだけど、それは何も考えていないということの裏返しでもあるんですよね。
    門脇 結局現代アートもそうだけど、白いところにポツーンと何かゴミが置いてあるだけでアートに見えたりするんですよ。それ以外の見せ方を開発できてないのはちょっと残念だった。そういう意味ではユニクロの見せ方のほうが面白かったですよね。
    宇野 ユニクロって、ある時期まではフリースだったり、インナーや寝間着を買うお店というイメージで捉えられていましたよね。で、誰が着てもそこそこ似合うものを、豊富なカラーバリエーションで提供していたのがフリース時代だとすると、今は第2段階、いわばUT(=ユニクロのTシャツ)以降の時代に入っていると思うんですよ。
    UTって色々な企業のロゴだったり、スヌーピーやディズニーなどのキャラクターイラストに、多種多様なカラーバリエーションを掛け合わせるという発想でつくられていますよね。あれってインターネット以降の感覚だと思っていて、要するに統一されたフォーマットに多様なコンテンツを流し込むことで無限にバリエーションを生成できるということだと思うんです。そういう思想が商品ラインナップだったり、レイアウトの方法とも結びついていて、UTという独特のジャンルを生んでいるんじゃないか、と。
    門脇 フォーマットが決まっているからこそ多様な表現が生まれてくる、ということですよね。僕には商品そのものとしてあれが良いのかどうかピンと来ないところがあるけど、でもあれだけのバリエーションがあるなかで選ぶという体験はたしかに楽しかった。さっきもスウェットを買ったけれど、たぶんドーバーストリートマーケットに並んでても買わないんじゃないかな。たくさんのバリエーションが並んでいるなかで気に入ったものを見つけて、買ってしまう。そういう体験を含めて買っている気がしますね。
     
     
    ■「バブルの鬼子」としての無印良品
     
    宇野 これは都市部に限った話かもしれないけど、ユニクロと無印良品ってもうインフラみたいになっているじゃないですか。「あ、この街って駅前にユニクロと無印あるんだ、便利だね」とみんな思ったりする。だからこの2つの企業って、日本の生活文化においては非常に強いと思うんだけど、でも今日見ていて改めて思ったのは、ユニクロはまだ無印を倒せていないということなんですよ。要するに今の無印良品はライフスタイルそのものを提案できているけど、ユニクロはまだそこまで行けていない。
    たとえばユニクロの主力製品であるヒートテックひとつとっても、「冬のファッションで重ね着させない」ということを目標にしたもののはずです。厚着させないということは、つまり「こういう身体が美しい」とか「こういう屋内ライフスタイルが気持ちいい」という提案であるはずで、それを延長していくと僕たちの身体観やライフスタイルの変革へと結びついていくはず。でも、今のユニクロのラインナップからはまだ「新しいライフスタイルの提案」まで読み取ることはできない。アイテム1個1個の持っている快楽やゲーム性に留まっていて、総合的なビジョンがまだないんだなあ、と思ってしまいました。
    一方で無印は、僕の考えでは言わばディフェンディング・チャンピオンだと思うんですよ。あそこに行くと衣食住全部ある――というか、今は家具だけでなく家まで売っているわけですからね。総合的なライフスタイルを提案できているわけです。たとえば僕はあの透明の衣装ケースも使っているし、食べ物にしても僕はMUJIカフェによく行くし、無印カレーも大好きなんですよ。
    そもそも、無印良品のコンセプトって基本的に「アンチバブル」だったわけですよね。80年代の消費社会=バブル的な価値観に対して距離をとりつつ、かといってニューエイジや昔のヒッピーのように消費社会を全面的に批判するわけでもなく、要するに「消費社会に対してはこれぐらいの中距離で付き合いましょう」というライフスタイルを提案している。
    浅子 いや、それもあるけれど、その前にみんな忘れているのは、僕らが子どもの頃の昭和の時代って、ともかくダサイもので溢れていたんですよ。布団がなぜか花柄だったり、家具も変な色に塗られていたり、ほとんどの家庭にはわけのわからないデザインのものがいっぱいあって、子ども心にあれがすごく嫌だったわけですよね。そこに対して無印は、「柄のない布団のほうがいい」というようなニュートラルでフラットでシンプルなデザインを提案し、支持を受けた結果、今やそれがスタンダードにまでなったと。
    宇野 無印だけが、モノだけでなく「こういうライフスタイルがいい」という世界観を提示するに至っているんじゃないかなと思うんです。そしてそれは90年代以降の世界的な潮流ともマッチしていた。たとえば宮台真司さんがよく言っているけど、スローフードが好きな奴って、エアコンの効いた部屋でスターバックスのコーヒーを飲みながら環境問題の本を読んで悩んだふりをしている人なんですよ。要するにスローフードとはグローバル資本主義下におけるアッパーミドル向けの優秀な商品にすぎないわけです。でも、それでいいと思う。だから無印良品は強い。僕も大好きです。あの「素材を大切にした」シリーズのカレーやスープのレトルトパウチは家に常備している。あれは、「レトルトのスローフード」という矛盾するコンセプトが同居しているわけなんですが、そこが素晴らしい。
    門脇 レトルト食品を排除するのではなく、レトルトをいかに美味しくて栄養バランスもいいものにしていくかという発想ですよね。ただ、無印の提案しているライフスタイルって、今ではちょっと古くなってしまっている気もするんです。「家族で郊外に住み、お父さんは電車で都心に通勤する」という昭和的モデルのバージョンアップで、まだその先に突き抜けられていないというか。
    宇野 無印はやはりバブルの落とし子なので、どうしてもそうなってしまうところはありますよね。それに、当初のコンセプトである「アンチバブル」が実はすごく狭いイデオロギーなので、その価値観が押し付けがましいと感じる人も多いと思うんですよ。たとえばこれだけ無印大好きな僕でさえも、ほぼアースカラーオンリーの衣料や、家具類の「柔らかい木目」のゴリ押しはちょっとしんどく感じることがある。
    浅子 正直、僕もそう思っていますよ。
    門脇 無印良品ってすごく哲学がしっかりしていて、「文明は共通化して文化は差異化する」という未来予測を展開しています。つまりグローバル化のなかで「感じのよい暮らしをリーズナブルに」という方向性はぶれずに追求していきつつ、それだとほかの国や地方、あるいは「無印的価値観にドンピシャな世代」以外には展開できないから、地域性や時代性に紐付いた文化で彩っていくということになるんだと思いますが、それだとどうしても既成の価値観を無印的にセレクトすることになってしまうから、まったく新しいものを生み出すことが難しくなってしまう。
    無印も本当は「新しいラグジュアリー」のようなものを追求すべきなんだけど、そもそものコンセプトが「オルタナティブなスタンダード」なので、クリエイションに根拠を与えるものが既にあるものにしかならない。無印のインパクトって確かに大きいし、それがいよいよ浸透してきた勢いも感じますが、次の時代を考えるとそこが弱いところだと思うんですよね。
    浅子 無印のデザインって文化の多様化と言うにはちょっと一本調子すぎますよね。たとえばヤンキーが作るわけのわからないバイクのようなものって、文化の多様化そのものだと思うけれど、そういうデザインのものは絶対に製品ラインナップに入ってこない。だからすごく偽善的な感じがするわけです。これは無印だけでなく、アップルのデザインにも言えることだと思うんですけど。 
  • 月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」10月6日放送全文書き起こし! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.177 ☆

    2014-10-13 07:00  
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    月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」
    10月6日放送全文書き起こし!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.13 vol.177
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    大好評で放送がスタートした、宇野常寛がナビゲーターをつとめるJ-WAVE「THE HANGOUT」月曜日。毎週月曜日は、前週分のオンエアの全文書き起こしをお届けします!

    ▲前回放送はこちらでもお楽しみいただけます!
     
    宇野 はい、皆さんこんばんは。今日からこの時間のナビゲーターを務めます、評論家の宇野常寛です。ここは東京港区六本木のJ-WAVE、六本木ヒルズの33階です。実は僕は、半年前まで有楽町のあるAMのラジオ局で深夜ラジオのパーソナリティをやっていたんですが、まぁ、はっきり言って同じラジオ局とは思えないですね(笑)。先週、この番組のリハーサルだったんですけど、もうAMとFMでこんなに別の世界が広がっているとは、衝撃でした。同じラジオ局なのに、有楽町の某局にあった昭和テイストが全く無いんですよ。なんでこっちには演歌のポスターとかが無いんですかね? あと、野球のスコア表も無いですね(笑)。
    今日は半年のブランクを経てラジオのレギュラーが復活するっていうことで、僕はこう見えて緊張しいなので、平常心でいこうと思って、いつも通りジャージで来たんですよ。YouTube Liveで映像も見ている人は分かると思いますけど、これ、僕の普段着なんです。偉い人に会うとき以外はだいたいこういう感じのジャージなんですよ。それで今日六本木ヒルズに来てみたら、誰もジャージ着てないですね。っていうか、浮き過ぎですね。なんか、日比谷線を降りてヒルズに向かう道路の時点で「何だコイツは?」って目で見られるんですよ。これには参りましたね。僕、来月で36歳になりますけど、「人はこんな簡単に孤独になるんだな」っていう感じがしています。僕はいま、六本木ヒルズの33階、たくさんのスタッフに囲まれていますけど、本当に孤独です。みんなもうアベノミクスでアゲアゲな感じがするんですよ。全員がMacBook Air使ってますからね。まぁ僕も使ってますけど。ということで僕はいま、番組冒頭から大変孤独なんですが、ラジオの前の皆さんとは電波にのって地理空間を超えて繋がれると信じています。それではJ-WAVE 「THE HANGOUT」記念すべき第一回のスタートです!
    〜♪
    宇野 はい、改めましてこんばんは! 今日からこの番組の月曜日を担当する評論家の宇野常寛です。J-WAVE深夜の溜まり場「THE HANGOUT」月曜担当のナビゲーターです。他の曜日のナビゲーターをご紹介します。火曜日はAR3兄弟の川田十夢さん。水曜日は作家の大宮エリーさん。木曜日が音楽プロデューサーの蔦谷好位置さんです。この番組は先週の水曜から始まっているので、僕は三回目の当番なんですが、今日から毎週この時間は私評論家の宇野常寛がお届けすることになりました。まぁ評論家っていう肩書きを名乗ると「何の評論家なんですか?」と絶対聞かれるんですが、結論から言うと僕は何でも喋ります。もう世界の大半のことについては扱っています。キャッチフレーズ的に、よく「自民党からAKBまで」って言っていて、実際に自民党の石破茂さんと本を出したりとか、AKB48の選挙解説とか、なんか自分でもよく分からない仕事の幅でやらせてもらっている感じですね。
    僕は1978年生まれで、いま35歳です。29歳の頃に最初の本『ゼロ年代の想像力』っていう本を書いて、最初はずっと若者向けのサブカルチャーについて評論を書いていて、今もその仕事が一応僕の中心にあります。ちょうど、僕がデビューした2007、8年からもうちょっと前は、サブカルチャーの定義が変わっていった時期だったんです。1990年代までは、音楽やファッションを中心とした都市部の輸入文化、アメリカやヨーロッパのかっこいい物を知っている人こそが、いちばんサブカル通でかっこいいという時代が続いていたんです。でも、それが21世紀になったあたりから、少なくとも日本ではわりかしドメスティックなアニメとかゲーム、しかもネットカルチャーを詳しい人が若者向けのサブカルチャーに詳しい人、そこが若者向けのサブカルチャーの中心になっていた時期なんですね。で、僕はその流れの中で、新しい21世紀型の日本のサブカルチャー観というものを説明する評論が出来るってことを売りにして、それでデビューしていったんです。
    それで、同時代のサブカルチャーを語ることって、決して作品の評論だけに収まっていかないんですよね。どうしてもメディア論、例えば「インターネットが世の中をどう変えたのか?」とか、「最近の若者、少子化時代の若者の社会やコミュニケーションってどうなってるの?」とか、そういった問題に自然と打ち当たっていくんです。その関係で政治や社会問題について言及することが多くなっていって、政治向けの討論番組に出たりとか、政治家と絡んだりとか、そういった仕事も増えていった感じですね。最近では、ビジネスとかものづくりとか、僕個人としては産業とか生活文化とかに感心があったりもするんですけどね。あと僕は、このラジオでもおいおいお伝えしていきたいと思うんですが、「PLANETS」という雑誌を10年くらい、自分でお金を出して作っていたりとか、インターネットの番組を自主制作していたりするんですよ。なので、こういった僕の自主的な活動っていうものについても、僕の番組でちょこちょこ触れていけたらなと思っております。
    この番組は、言ってしまうと深夜の溜まり場みたいなものですね。最初に僕がこの番組の日浦プロデューサーに番組の説明を受けてたとき、「若者たちが溜まれるような空間をJ-WAVEに作りたいんだ」という話をしてもらって、「あ、それは結構良いな」って思ったんですよ。やはり僕はラジオの魅力って、時間や擬似的な場所を共有できる感覚だと思うんです。なので、「THE HANGOUT」でも、この月曜日の僕の番組っていうのはちょっと他の3人のカラーとは違った場にしていけたらとなと思っています。僕の読者って、ほとんど20代〜30代で、学生さんもすごく多いんですよ。その学生さんっていうのも、目がキラキラしていて、自分が人生の主人公であることを疑ってないタイプの人はあんまりいなくて、どちらかというと、自分と世の中の繋がりがストレートに信じられないタイプの人っていうのがやっぱり多いんですよ。僕自身もそういった学生だったし、そういった人達の味方であったらいいなというふうに思ったりもしています。
    ということで、この番組はそんな皆さんの参加を超絶お待ちしております。twitterのハッシュタグは#hang813です。メールはこの番組のホームページにメッセージ覧があるので、そこから送ってください。そして更にですね、この番組はYouTube Liveでスタジオの様子を生中継しています。僕の素敵なジャージ姿を完璧に捉えることが出来ますので、ぜひともこっちも見ちゃってください。それでは宇野常寛がナビゲートするJ-WAVE「THE HANGOUT」、FMラジオのオープニングとは思えないぐらいたくさんしゃべったわけですが、そろそろ一曲目の音楽の時間がやって参りました。さて、記念すべき第一回の曲を何にするか? 僕はこの番組が決定した時から、一曲目を何にしようかずっと考えていたんですよ。前の番組の終了から半年、深夜ラジオにやっと帰って来た想いを込めて、僕はこの曲を選びました。
    それでは聞いてください、団次郎、みすず児童合唱団で「帰って来たウルトラマン」
    〜♪
    宇野 はい、聞いて頂きましたのは、団次郎、みすず児童合唱団で「帰って来たウルトラマン」でした。これはですね、「ドラゴンクエスト」シリーズの作曲で知られている、すぎやまこういちさんの結構初期の名曲ですね。このいわゆる「帰マン」、「帰って来たウルトラマン」というのは劇伴もすごく人気があるんですよ。冬木透っていう、「ウルトラセブン」も同じ人なんですけど。ワンダバとかもね。もし機会があったら皆さんね、サントラを買って聴いてみてくださいね。
    はい、J-WAVE深夜の溜まり場「THE HANGOUT」月曜担当の宇野常寛です。改めましてこんばんは、時刻は23時42分を少しまわったところです。いやー、皆さんこの時間って何をやってるんですかね? 僕、前の番組はもっとド深夜だったんで、この時間にしゃべっていること自体が若干新鮮だったりもするんですけどね。ちなみに僕はいつもこの時間はインプットに使っています。この時間だと、だいたい仕事は終わっていて、僕はお酒を飲む習慣がないので、ほぼ家にいるんですよ。で、本読んでいたりとか、録り溜めしていたテレビ番組、ドラマとかアニメとかを見ていたりしていますね。ダラダラとテレビを見る習慣がないので、いつもこの時間ぐらいにtorne三台体勢、正確に言うとtorne、nasne、nasneみたいな感じなんですけど……三台? あれ、四台あるかな? 自分でも分からなくなってるんですが、それでずっと録画を消化してるってことが多いですね。はい、思わず雑談してしまったんですが、twitterではですね、こんな何気ないことでも構わないんでガンガン呟いちゃってください。改めまして、ハッシュタグを告知します。ハッシュタグは#hang813です。番組ホームページからのメールの方もお待ちしております。
    ということでですね、初回なんで、ここで番組の構成、コーナーとかを皆さんに説明したいと思います。このあと23時50分頃からは南沢奈央ちゃんですね、っていうか僕「栞と紙魚子の怪奇事件簿」超見てましたよ。前田敦子とコンビのやつね。あれ可愛かったですよねー、南沢奈央ちゃんの健康美とあっちゃんの眼鏡女子の文科系っぽい感じのバランスなんですけど、僕は実は奈央ちゃん派でしたね。まぁそれはおいといて、NIPPON SEKIJUJISHAの”GAKUKEN” The Reason Whyというコーナーをお届けします。そしてその後は、J-WAVE「THE HANGOUT」各曜日のナビゲーターが、毎週共通のテーマや旬のトピックを語る、シェアザミッションというコーナーがあります。「ミッションをシェアしちゃいましょう」ということですね。みんなで同じテーマに関して5分、10分喋りましょうという、週変わりのコーナーです。そしてですね、皆さんお待ちかね12時代にはアナーキーミュージックシェアというコーナーを用意しています。このコーナーはですね、J-WAVEの他の番組ではまず流れることの無いアニメソング、特撮ソング、アイドルソング、あるいは映画やドラマの主題歌や劇伴などなど、アナーキーな一曲をリスナーの皆さんの選曲でお届けしちゃいましょうという趣旨のコーナーです。番組ホームページのメールフォームからどんどんお寄せください。今週もまだ間に合いますよ! そしてですね、この毎週月曜日ですが、なんと番組終了後に僕が主催している「PLANETSチャンネル」のニコニコ生放送で、この番組の延長戦のトークを、30分ぐらいをめどに繰り広げたいと思います。「これだけ喋ってお前まだ喋り足りないのかよ!」と思うかもしれませんが、僕はそういう人間ですよ(笑)。番組内で語りきれなかったとこや、読み切れなかったメールなどを更にディープに掘り下げていきたいなというふうに思います。はい、ということで宇野常寛がこの後深夜1時まで生放送でお届けします。夜の溜まり場「THE HANGOUT」ここで一旦お知らせです。
    はい、J-WAVE深夜の溜まり場「THE HANGOUT」。六本木ヒルズの33階J-WAVEのBスタジオから生放送、月曜日は評論家・宇野常寛がお届けしております。メール沢山頂いております。これはですね、ラジオネームいりやまこ@ヨモツヘグリふうちゃんさん。はい、なかなかハイコンテクストなラジオネームですね(笑)。
    「宇野さん、新番組おめでとうございます。以前他局で放送していた番組が終了してから早くも半年。また深夜ラジオで宇野さんのおしゃべりを聴きたいなとずっと思っていたのでとっても楽しみでした。今度も深い時間だからこそ喋れる濃いサブカルトークやAKB評論を期待しています。」
    ありがとうございます。そうですね、AMと違って、FMってさらさら流れていくイメージがあるじゃないですか。だから今回の僕の隠れた目標としては、「たまたまチューニングをしてさらっと聞いた所に一点、聞き逃してしまいそうなんだけどちょっと耳に残るような、そんな偶然耳に入った交通事故のような一言で世界の見方が変わる」、そんな感じのトークが出来たらなというふうに思っております。
    続きましてこれはラジオネームさえきあきひろさん。
    「宇野さん質問です。宇野さんは今回のこの『THE HANGOUT』という番組をどんな番組にしたいと思っていますか? また、毎週送られて来たらいいなというメールはどのような内容、ジャンルのメールですか? よかったら改めて教えて頂けたら嬉しいです」
    そうですね、僕の仕事っていうのは、たとえ自分事じゃなかったとしてもそのことに興味を持って分析したりとか、自分の意見をまとめたりする仕事なんですよね。なので、もし僕のこういったおしゃべりだったりとか、あるいは僕の本だったりとかに少しでも感心を持ってもらえるんだったら、「宇野だったらどんなこと言うだろう?」っていうことが頭に浮かぶと思うんですよね。その疑問みたいなものを、もっと何気なく送ってくれるといいと思います。そこで、答えは出さなくていいと思います。僕のしゃべったことが脳に残って、その結果、なにか考えるヒントのようなものになればそれで十分だと思うので、もう思いつく事なんでもいいからバンバン送っちゃってください! 皆さんのメールの量は番組への愛です。
    もう一通行きます? はい、これはですねラジオネーム、モリゾウさんですね。
    「昨日からスタートした仮面ライダーの新シリーズ『仮面ライダードライブ』を宇野さんはどう見ていますか?」
    まぁまだ第一話なんでね。仮面ライダーが車に乗るってことで結構話題になっていますけど、もともと東映っていうのは刑事モノのノウハウがめちゃめちゃあるとこなんですよ。オタクの人にとっては戦隊モノやライダーの東映なんですけど、一般的にはやはり『相棒』とか、刑事モノの東映なんですよね。なので、東映のすごく得意な所が二つミックスされているのが今回の『ドライブ』なんで、もう何十年もやっている刑事ドラマのノウハウでどう見せていくのか? 30分に起承転結入れるとか、アクションだったりとかそういった所をどう見せていくのかっていうのが、玄人目線というか、ちょっと面白い視点かなと思ったりもしています。
    はい、この番組はあなたの参加をお待ちしております。twitterで皆さんからいろいろとツッコミや質問をお待ちしております。ハッシュタグは#hang813です。メールの方は番組ホームページのメッセージ覧から送っちゃってください。そしてこの番組ホームページはなんと! YouTube Liveでスタジオの様子を同時生配信中です。はい、J-WAVE「THE HANGOUT」このあとは南沢奈央ちゃんがお届けするNIPPON SEKIJUJISHA ”GAKUKEN” The Reason Whyの時間になります。僕は12時過ぎに戻ってくるんですが、その前に一曲お届けしちゃいたいと思います。今ちょうどライダーの話題が出ましたが、このまえ日曜朝の放送で完結した平成仮面ライダーシリーズ第15作「仮面ライダー鎧武」の主題歌で、湘南乃風が鎧武乃風っていう名義で歌ったオープニングテーマです。「JUST LIVE MORE」。
    〜♪
    宇野 はい、YouTube Liveでも同時生配信中、J-WAVE 深夜の溜まり場「THE HANGOUT」改めましてこんばんは、月曜日担当ナビゲーターの宇野常寛です。メール行っちゃいましょう、たくさん貰ってますよー、嬉しいですね。これはですねラジオネーム、たかしのぶです。
    「宇野常寛くん、メジャーラジオにお帰りなさい。楽しみに待っていました」ありがとうございます~。
    「朝ドラの『マッサン』が始まりましたね。朝ドラの歴史が重なるにつれ、何かしらの引用とかパロディがすぎるよなーとか思っちゃいますよね。好きな作品は『あまちゃん』でしたが、『マッサン』の一つ前の『花子とアン』にまさかお笑い芸人が出まくり、壇蜜に脳科学者の茂木健一郎さんまでが出演したのはすごく一筋縄ではいかない何かを覚えました」
    茂木さん出てましたね(笑)。ちなみに僕は朝ドラマニアで、マニアと言っても大学生ぐらいから見始めているんで「ちゅらさん」以降なんですけど、朝ドラを毎日見るなかで、三倉姉妹の茉奈さん佳奈さんの見分けがほぼパーフェクトにつくようになるとか、なんか忍耐という言葉の真の意味を覚えたりとか(笑)いろいろしているんですけど、ここ最近の朝ドラってずっとアベレージ高いじゃないですか。でね、僕「カーネーション」とか本当にハマって、尾野真千子さんがスタジオパークに出る時とかスタジオまで行きましたからね。普通行ったら人がごった返していてまともに見られないんですよ。でもその日は都内が大雪で、「絶対これ人数少ないな」と思って、一生懸命間に合うように走って行って、結構いい位置で見られて、カメラにも映り込んだりして、しかも僕、質問読まれたんですよ! 「30代・東京都 宇野さん」みたいな(笑)。そこで、「小原糸子としてではなく、尾野真千子として好みの登場人物の男性は誰ですか?」とか質問を読まれたんです。で、帰って来たらtwitterに「宇野いた!」「あれ宇野じゃね?」とか書かれてましたね。あれは僕のすごくいい思い出ですね。
    ちなみに「マッサン」はですね、今のところ劇的につまらないですね。なんか、「ゲゲゲの女房」以降、大正デモクラシーのリベラルな空気が暗黒の昭和前期に真っ逆さまに転がり落ちていって、辛い戦争を乗り越えて最後は高度成長でハッピーエンド、っていう「おしん」パターンをやりすぎ。 
  • 『ダンガンロンパ』は「バトルロワイヤル的想像力」をどう更新したのか?——西尾維新、ゲーム的リアリティ、”ダークナイト以降”のキャラ造形から考える (井上明人×中川大地)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.176 ☆

    2014-10-10 07:00  
    220pt

    『ダンガンロンパ』は
    「バトルロワイヤル的想像力」を
    どう更新したのか?
    ――西尾維新、ゲーム的リアリティ、
    ”ダークナイト以降”のキャラ造形から考える
    (井上明人×中川大地)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.10 vol.176
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    本日のほぼ惑では、月イチ連載の「中川大地の現代ゲーム全史」のスピンオフとして、新作『絶対絶望少女 ダンガンロンパ Another Episode』が発売されたばかりの人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』を語った対談記事をお届けします。
    同シリーズは、ソーシャルゲームが全盛となり大作シリーズ以外は不振にあえぐ家庭用ゲームシーンにあって、2010年の第1作『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』(以下『1』)、2012年発売の続編『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』(以下『2』)ともに20万本を超える堅調な売上を記録し、2013年にはテレビアニメ化。若い世代のコスプレや二次創作シーンにも定着し、最近の家庭用ゲーム発のコンテンツとしては特異な存在感を誇るタイトルになっています。
    PLANETSでもおなじみ、ゲーム研究者の井上明人さんと、弊誌メルマガで「現代ゲーム全史」を連載中のPLANETS副編集長・中川大地が、「ゲーム」の範囲にとどまらないこの作品の文化史的/批評的ポテンシャルを改めて語り尽くします。
    ※ネタバレが重大なゲームですので、ゲーム未プレイ/アニメ未視聴の方は注意してお読みください。
    ※この記事は、2014年9月3日にPLANETSチャンネルで放送されたニコ生番組を加筆・再構成したものです。
    ▲左:最新作『絶対絶望少女 『ダンガンロンパ』 Another Episode』(発売元:スパイク・チュンソフト/PS VITA)
    右:旧作まとめパッケージ『『ダンガンロンパ』1・2 Reload』(発売元:スパイク・チュンソフト/PS VITA)
     

    ▲PS Vita『絶対絶望少女 ダンガンロンパ Another Episode』プロモーションムービー


     

    ▼『ダンガンロンパ』とは
    学級裁判の中で相手の矛盾を論破し、殺人事件の犯人を暴いていくゲーム。ハイスピードでテンポよく展開する学級裁判の中、捜査パートで集めてきた証言や証拠を弾丸としてトリガーにセットし、相手の主張の矛盾をアクションゲームのように撃ち抜くことで論破する。推理とアクションの融合により、これまでにない。まったく新しいエキサイティングなゲーム体験を表現。(公式サイトより)
     
    ▼ストーリー
    舞台は、あらゆる分野の超一流高校生を集めて育て上げる為に設立された、政府公認の特権的な学園「私立 希望ヶ峰学園」。国の将来を担う希望を育て上げるべく設立されたこの学園に、至極平凡な主人公、苗木誠もまた入学を許可されていた。 平均的な学生の中から、抽選によってただ1名選出された超高校級の幸運児として……。入学式当日、玄関ホールで気を失った誠が目を覚ましたのは、密室となった学園内と思われる場所だった。「希望ヶ峰学園」という名前にはほど遠い、陰鬱な雰囲気。薄汚れた廊下、窓には鉄格子、牢獄のような圧迫感。何かがおかしい。 
    入学式会場で、自らを学園長と称するクマのぬいぐるみ、モノクマは生徒たちへ語りはじめる。――今後一生をこの閉鎖空間である学園内で過ごすこと。外へ出たければ殺人をすること。――主人公の誠を含め、この絶望の学園に閉じこめられたのは、全国から集められた超高校級の学生15人。生徒の信頼関係を打ち砕く事件の数々。卑劣な学級裁判。黒幕は誰なのか。その真の目論見とは……。
    (『1』のAmazon商品説明より)

     

    ▼プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。立命館大学及び国際大学GLOCOM客員研究員。ゲーム研究者および、ゲーミフィケーションの推進者。2010年日本デジタルゲーム学会第1回学会賞(若手奨励賞)受賞。2012年CEDEC AWARDSゲームデザイン部門優秀賞受賞。著書に『ゲーミフィケーション』(NHK出版)。
    ・関連記事はこちら。
     
    中川大地(なかがわ・だいち)
    1974年生。文筆家、編集者。PLANETS副編集長。アニメ・ゲーム関連のコンセプチュアルムックの制作を中心に、各種評論・ルポ・雑誌記事等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』(光文社)。「ほぼ日刊惑星開発委員会」にて「中川大地の現代ゲーム全史」を連載中。

     
    ◎構成:中野慧
     
     
    ■ポスト「逆転裁判」の系譜と「西尾維新」的文芸センスの融合
     
    中川 今回は、PLANETSチャンネルで連載中の「中川大地の現代ゲーム全史」の番外編として、新作『絶対絶望少女』が発売されたばかりの人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』について、ゲーム研究者の井上明人さんをお招きして、いま改めて語ってみようという企画です。井上さん、よろしくお願いします。
    井上 よろしくお願いします。
    中川 この『ダンガンロンパ』シリーズですが、まず第1作が発売されたのは2010年末ですよね。2010年といえば、ソーシャルゲーム市場が急激に成長して、家庭用ゲームがどんどん不振に陥っていった時期です。つまり『怪盗ロワイヤル』などが登場して一般のゲームユーザーの可処分時間を圧迫していった時期に、この『ダンガンロンパ』はクラシックなパッケージゲームの新作シリーズとして登場しつつ、比較的若い世代のライトオタク層を掴んで健闘したタイトルだった点が特徴です。井上さんが最初に『ダンガンロンパ』に注目されたきっかけは何だったんですか?
    井上 実は体験版が出た最初の段階で、ちょっと話題になっていたのでやってみたんですよ。僕はプレイステーション・ネットワークのストアで体験版を漁る習性があるんです(笑)。それでプレイしてみたら「あっ、これは『逆転裁判』をすごく意識して、変種を打ち込んできたぞ」と思いました。体験版のときは難易度調整に若干失敗気味だったんですが、非常に野心的な試みだと思いましたね。
    中川 やっぱり僕らのような30代ゲーマーからすると、まず思い浮かぶのが『逆転裁判』からの脈絡ですね。あれは第1作が出たのが2001年ですが、ゲームボーイアドバンスを代表する最初のオリジナルヒットシリーズでした。殺人事件の聞き込みや証拠品集めなどをする捜査パートと、容疑者や証人の証言の矛盾を指摘したり証拠を突きつけあったりする論争を通じて真相がつまびらかになる裁判パートの繰り返しで進行していくという構成のルーツは、ここから来ています。実際には「裁判」というよりも、ミステリーの王道の真犯人当ての形式的な趣向を置き換えただけだったわけですが、推理アドベンチャーゲームの作劇と体感性を大きく変えました。
     

    ▲『逆転裁判123 成歩堂セレクション』(発売元:カプコン/ニンテンドー3DS)
     
    その後、『逆転裁判』のフォロワーがなかなか出てこなかった中で、10年を経てようやく新しい意匠とシステムで出てきたのがこの『ダンガンロンパ』シリーズなのかなと思うんですが。
    井上 いや、『逆転裁判』のフォロワー的なタイトルは、売れていなかっただけで実はあるにはあったんです。たとえば、『有罪×無罪』『遠隔捜査 真実への23日間』なんかですね。少し離れたところでは『銃声とダイヤモンド』なんかはすごく良かった。『銃声とダイヤモンド』は、『街 〜運命の交差点〜』『かまいたちの夜』の麻野一哉さんがシナリオを手掛けていて、ゲームシステム自体もよくできていたんだけど、主要登場人物がおっさんが多めというのもあり(笑)やや渋めで、あんまり売れなかった。でも、『銃声~』はほんとにすごい作品でした。そういう作品も過去にはあったんですが、それらと『ダンガンロンパ』が何が違ったかといえば、『ダンガンロンパ』はシステム、キャラ、シナリオ、グラフィックなど多面的にK点越えをしていてグイグイ引っ張れる要素が本当にたくさんあった。ほんとに、いい作品なので、売れてよかったなぁという感想を持ちましたね。
    中川 そんな中、『ダンガンロンパ』は推理パートと裁判パートで進むゲームシステムを『逆転裁判』から継承しつつ、そこに2000年代初頭から大きく盛り上がった講談社BOXや西尾維新の一連の作品のような、フリーキーなキャラクターたちが常識ではありえないフィクショナルな状況での推理を繰り広げる、いわゆる「新伝綺」と呼ばれるミステリーとライトノベルの中間領域のような文芸センスを導入してみせたことで、それまでのフォロワータイトルとは一線を画する支持を獲得した。
    井上 『ダンガンロンパ』ですごいなと思ったのは、非常にアイロニカルで批評性があって問題意識がグネグネしたものなのに、『1』『2』ともそれぞれよく売れて、マニアックなサブカルっ子以外にもちゃんと受け入れられたことですね。それは素晴らしいことだと思う一方で、『ダンガンロンパ』や、その先駆者である西尾維新もそうだけど、グネグネしたことをやっていそうでいて、実はそんな難しい問題意識を持っていなくても楽しめるようにもなっている。そこの両立の仕方というのがすごいな、と。
    中川 単純にキャラクターコンテンツとして秀逸です。男性と女性両方のファンがついていて、ノーマルなカップリングを喜ぶ層もいるし、男どうしあるいは百合カップルでの組み合わせの要素もあるし、全方位に向いていて、10代から20代までの若い層にも受けていますよね。それに加えて、ムダに豪華な声優陣の存在もありますよね。
    井上 これは本当に豪華ですよね。
    中川 やっぱりなんといっても特筆すべきは、マスコット兼悪役で、生徒どうしのコロシアイを操るモノクマ役への大山のぶ代さんの起用。ドラえもんの声に新たなイメージを付け加えたのは、この『ダンガンロンパ』シリーズの功績(?)ですよね。
    井上 今のドラえもんの声優は水田わさびさんに代わっていて、今の子どもたちは大山のぶ代のドラえもんを知らない可能性もあるぐらいですよね。
     

    ▲ゲームを操る「モノクマ」中川 そう。別格感あふれる大山さんをはじめ、声優陣は豪華は豪華ながら、実は懐かしい感じのラインナップだった。たとえば『1』の主人公の苗木誠くんを演じたのは『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役の緒方恵美さんだし、『2』の主人公の日向創役はコナンで有名な高山みなみさん、メインキャラの一人である十神白夜役は同じく『エヴァ』の渚カヲルとか『ガンダムSEED』のアスランで有名な石田彰さん等々、主に1990〜2000年代のヒットアニメを代表作とするベテラン勢が中心。かろうじて現役の声優ヲタの文脈に訴求する若手と言えるのは、霧切響子役の日笠陽子さんや『2』の七海千秋役の花澤香菜さんくらいですかね。
    でもこういった今時の深夜アニメ等での旬よりは一回り年齢層高めなレジェンドクラスが起用されたことで、われわれ団塊ジュニア世代のオタク教養的なものと、近年の10-20代のニコニコ世代というか、ジュブナイルライトオタク層との共通言語ができた側面もある気がします。かつてのアニメやマンガなどの小ネタを縦横無尽に引用して詰めこみながら、それを若い世代向けに届けることに成功しているという意味では、やはり西尾維新とも通ずるところがありますよね。
     
     
    ■「学級裁判」が体感させる“推理”と“理不尽”の詐術井上 『逆転裁判』との比較をさらに掘り下げてみましょうか。『逆転裁判』の場合は、単に選択肢を選ぶのではなくて、選択肢を選ぶことに対して「なぜこの選択肢の方がいいのか」という合理的推論をする仕組みが提供されてましたよね。これは、ものすごい発明だったわけです。
    まず第一に現実のコミュニケーションを簡単なゲームシステムに変換するということが難しいわけです。で、とりあえずアドベンチャーゲームは、選択肢で会話をするという方式をだいぶ初期につくりだしたわけです。ただ、その次にどの選択肢が正解か、ということについて、納得感をどう演出するか、というのが難しい。すごいゲームデザインというのは、ここの納得感の演出というのが神がかっているわけです。
    たとえば今僕はこうやって中川さんと話していますが、僕が「中川さん、最近どうですか」とか言ったときに中川さんからいきなり「ボンッ! 不正解だ!」みたいなことをバシッと言われたら困るわけです。中川さんがそれを言ったら「この中川さんって人はちょっと、イっちゃった人だな」って感じがしますよね?
    中川 なるほど(笑)。裁判ならそれを言ってもいい、という。
    ▲『ダンガンロンパ』の学級裁判パート
     
    井上 そうです。そこまでが『逆転裁判』が切り開いた地平です。
    さらにその上の第三の地平があるわけです。『逆転裁判』との違いは、『ダンガンロンパ』って学級裁判パートがリアルタイム制であることですね。リアルタイムで議論しているなかで議論の進め方のおかしな点を指摘しないといけなくて、それがゲームとしての緊張感を生んでいた。ちなみに『逆転裁判』も最初はリアルタイム制にしようとしていたらしいんですが、ただし、さすがにそれだと難易度が高すぎるということで実装しなかった。『ダンガンロンパ』はそれをある程度、なんとか遊べる形にしてしまった。
    中川 まあ、ミスをすれば同じ議論が再びループするので、厳密な一回性という意味でのリアルタイムではなく、静的な『逆転裁判』のテキストメッセージに比べ、『ダンガンロンパ』の方が、1ターンの中のタイミング演出が動的になったというだけのことではあるんですが、アクション性が大きく高められたのは間違いない。こういう難易度調整の考え方って、基本的にアクションRPG的だと思うんですよ。ターン制のRPGは静的なパラメータに規定されていて、レベル上げやアイテム収集などプレイヤー本人の腕前によらず根気があれば誰でもできる反面、臨場感に欠ける。対して、ただのアクションゲームの場合は本人にアクションの腕前がないとゲームを進められない。
    アクションRPGはその中間で、パラメータ管理とプレイヤー本人のアクションの腕前をミックスしたゲームデザインになっている。この折衷性が、2000年代以降は『モンハン』シリーズやオープンワールド系RPGでの標準になっていますよね。それと似たようなことを、ストーリーゲームの領域でやったのがこの『ダンガンロンパ』のシステムだったんじゃないのかな。
    捜査パートで他のキャラクターと親しくなると、学級裁判でのアクションを有利にできるアイテムをもらえたりするあたりとかも含め。
    井上 今まで混ざっていなかった「アクション」と「謎解き」のふたつの要素を混ぜて、何とかいい感じに納めたのは偉業と言っていいと思います。
    中川 あと学級裁判パートで面白いのは、推理のプロセスを別種のミニゲームで置き換えていることですね。つまり、いくらプレイヤーに自分の頭で推理するリアルタイム論争に近づけると言っても、所詮は与えられた選択肢から正解を選んで一定のストーリーをなぞっていくAVGとしての本質は変わらない。そのお仕着せ感を軽減すべく、本来なら主人公が能動的な思考をするところを、パズルゲームや音ゲーなどの異なるゲーム的障壁を乗り越えていく体感性で代替して疑似体験性を補っているわけです。
    コンシューマーゲームでは、『ファイナルファンタジー』シリーズぐらいから全体のゲームシステムと関係ないさまざまなミニゲームを入れ込む流れがあって、特に『レイトン教授』シリーズは、大きな推理ストーリーの骨格の中に「脳トレ」的なクイズを組み込むことで、自分が謎解きのプロになった気分を味わえるロールプレイングの詐術を使ったのは大きかった。ああやってゲーム内にミニゲームの多様性を入れ込み「体験を体験で置き換えていく」手法は、ストーリー演出のエフェクトとは無関係なゲーム的要素をすべて取り払っていく方向にAVGシステムを特化させていった1990〜2000年代のPCノベルゲームの台頭に対する、コンシューマーならではのリアクションでもあったのかなと。
    井上 あー、ただ学級裁判のミニゲームに関してはちょっと僕は悩ましい気持ちになりましたね。特に『2』で出てきた「ロジカルダイブ」と称したスノボゲーム(下図参照)とか、さすがに「これは推理のスキルと関係が何もないのでは?」というところがありますよね。
     

    ▲『ダンガンロンパ』2に登場するゲーム内ゲーム、「ロジカルダイブ」の画面
     
    ゲームデザインにおいて、プレイ中にずっと同じことをしていると飽きるので、刺激の多様性は必要なんだけど、そこの多様性の与え方って難しいポイントなんですよね。完全に別ゲームにすると、「関係ないことをやらされるストレス」が発生しやすくなってしまう。経験としては連続していて、かつ多様な展開というのが重要なわけですが、『ダンガンロンパ』に関しては、そこは少し振り切りすぎてしまって、もう完全に別のミニゲームになっているな、とは思いました。もちろんトータルで素晴らしいゲームであることは前提として、ですがこのゲーム設計はちょっとダメなストレスの与え方だな、と感じました。
    中川 なるほど。ただ、あのスノボゲームに関して無理やり深掘りすると(笑)、『FFⅦ』でヒロインのエアリスが死んだあと、ものすごい衝撃を受けて悲しい気分になっているときにスノボゲームをやらされましたよね。それを彷彿とさせるところがあって。で、『ダンガンロンパ』ってそもそも理不尽なゲームをやらされているゲームですよね。
    井上 ああ、なるほど、あれも含めてモノクマの陰謀であると。たしかにそれなら、一貫性がとれてますね(笑)。
     
     
    ■『ダンガンロンパ』に埋め込まれたゲーム史的な自己言及性中川 『ダンガンロンパ』って、ゲーム内で『ジョジョの奇妙な冒険』や『るろうに剣心』など、団塊ジュニア以降の世代が親しんできたサブカルネタをちょくちょくぶっこんできているわけですが、その中でゲーム自体の言及もすごくあったりするので、あのスノボゲームも『FFⅦ』のオマージュなんじゃないか、なんてことも思ったりするんですよね(笑)。
    これがあながち邪推すぎるわけでもないかと思うのは、『2』に『トワイライトシンドローム』っていう妙なサイドビュー画面のゲーム内ゲームが出てくるじゃないですか。実際、本作を制作したスパイクの前身の会社が同名のシリーズをちょうど1990年代後半にPSで出していて、さらに後には『夕闇通り探検隊』という伝説的な後継作品にもなっていますが、そういうセルフオマージュを入れてきているわけです。
     

    ▲ゲーム内ゲームとして登場する『トワイライトシンドローム』の画面。
     
    ここにはちょうど、『FFⅦ』までのPS第一世代的なローポリゴンの不気味の谷(3D表現の進化過程で人間の造形が中途半端に再現されると妙に不気味に感じられる段階があること)や構成のチグハグさ、操作系の未洗練さなどが結果的に恐怖や理不尽さの表現として独特の味わいを醸し出していた時代のゲーム史的な記憶を、意識的に埋め込む姿勢が感じられるんですよ。
    井上 『moon』(1997年にラブデリックが開発しアスキーが販売したPS用ゲームソフト。王道RPGやゲームそのものを批評的に捉え返した名作とされる)と同じく、ゲーム内ゲームを構築して、その中でゲームに対する批評性みたいなものをちゃんと獲得していくというやり方ですよね。
    中川 そもそも『ダンガンロンパ』という作品全体が、ゲーム内で登場人物たちが理不尽なデスゲームをやらされているという二重構造になっていて、それに対する言及が1作目のときからキモだったんだけど、それをさらにメタ視点で捉え返すかたちで2作目がつくられていますからね。
    プレイしていて思い出したのが『メタルギアソリッド』の1、2の関係です。メタルギアは第1作の主人公・スネークがシャドーモセス島事件でああいう経験をして、2作目の主人公の雷電はその1の体験のコピーを仕組まれたゲームとしてやらされていて、それを1の主人公だったスネークが最後に解き明かして導いていくという構造があった。これはまさに『ダンガンロンパ』の1、2作目の作劇構造と同じですよね。
    井上 なるほど。ただ僕としては、中川さんとは少し違う感想を持っていて。『ダンガンロンパ』は1作目の時点ですでにリアリティショー(台本や演出なしで素人の出演者がさまざまな状況に直面するさまをドキュメンタリー形式で放送するテレビ番組の一形態)として、中のコロシアイの様子が全世界に中継されていたわけですよね。続く『2』ではそのリアリティショーをさらにバーチャルリアリティに嵌め込んでいるというわけのわからないことをやっていて、これは「お約束をことごとく覆していく」という意味で、すごく西尾維新的な構造だなと思ったんですよ。
    中川 たしかにそうですね。『1』では、閉鎖空間でコロシアイをさせられている学園内がディストピアだと思っていたら、実は世界全体のほうがすでに絶望病に冒されていて『北斗の拳』みたいな終末的な世界になっていて、むしろ学園のなかのほうが守られていた、というどんでん返しがあるわけです。そこにさらにモノクマが登場して学園をコロシアイの舞台にしてリアリティショーとして外の世界に中継していた、という。
     
     
    ■『ダンガンロンパ』に結実した「バトルロワイヤル」な想像力の系譜
     
    井上 これは『ダンガンロンパ』に限らない話ですが、バトルロワイヤルとリアリティショーはなんでこんなに相性が良いのか、というのも論点の一つかもしれないですよね。
    中川 2000年代以降に台頭してきたバトルロワイヤル的な想像力って、学校やクラスの狭い人間関係の持つ日常の残酷さの表象として、クローズド・サークルのなかで疑心暗鬼になってコロシアイをさせられるというようなものですよね。で、そもそもバトルロワイヤル系の語源である『バトル・ロワイアル』(高見広春による小説。1999年刊で2000年に映画化され大ヒットした)がまさに、「少年たちがバトルする様子を大人たちが見て楽しむ」という構造でしたよね。僕の考えでは、00年代前半の時点ですでにゲームの体験がある程度、人々のリアリティに刷り込まれていたからこそ、殺し合いとリアリティーショーを結びつけるバトルロワイヤル系の想像力が出てきたのかな、と。その感覚が映画や小説に波及して、それをもう一回ゲームのほうに持ち帰ってきたのが『ダンガンロンパ』だったとも位置付けられるんじゃないでしょうか。
    井上 なるほど。ゲーム発だったどうかかは、はっきりと断言できないですけど、その説明は説得的だと思います。
    ちなみに僕の知り合いの20代前半の子が『ぼくらの』とか、バトルロワイヤルものがすごい好きで「こういうものにこそ人間の真実があると思うんですよ」ということをずっと言っていたんですよ。で、案の定『ダンガンロンパ』にはドハマりをしていました。20代前後の子が「ここにこそ人間の真実が!!」という感想を持つのは、頭では理解できなくはないけど、直感的には今ひとつピンとわからない。おそらく、僕が1990年に生まれていたら理解できたのかもしれませんけれど、そこの感覚が今ひとつ腑に落ちる感じがありません。中川さんはどうですか?
    中川 やっぱり1970年代生まれの自分自身のリアリティとして、そういう感覚はないですよ(笑)。でもそれこそ、宇野君が『ゼロ年代の想像力』で書いていたように、『新世紀エヴァンゲリオン』以降の世代にとっては、ある種のバトルロワイヤル的な想像力が身の周りの社会をイメージする上での前提的なリアリティになっていて、まだ引きこもる余裕のあった『エヴァ』以前に思春期を過ごした世代にはその感覚があんまりわからない、というのはあるんじゃないですか。
    80年代に実現された高度消費社会って、あくまで誰かに構築された偽物で、これはいつ壊れてもおかしくないものであるという感覚があり、それは『トゥルーマン・ショー』のような「この平和な日常は本当は存在しない、仕組まれたバーチャルなものなんだ」という想像力を生み出しましたよね。その一方で、旧ソ連が崩壊する前までは「核戦争が起こって世界が終わる」ということにリアリティがあって、そういった終末世界を描くフィクションもたくさんありました。
    つまり『ダンガンロンパ』を規定している構造として、子供たちの2000年代以降のリアリティ(教室内でのバトルロワイヤル)を、大人が構築した1980年代的リアリティ(トゥルーマン・ショーと終末的な世界)が取り巻いている、という重層的な構造があるとも言える。
    井上 ただ、今日び「終末後の世界」をそこまで気合を入れて描く気はないのだろうなっていう感じもしませんでした? 「人類史上最大最悪の絶望的事件」って、えらくざっくりとした表現ですし……。
    中川 まあ、そこにはリアリティはないですよね(笑)。ポスト『エヴァ』の想像力としてバトルロワイヤル系と比肩される、いわゆるセカイ系的な想像力の流行って、新海誠のアニメやノベルゲームのような個人レベルのミニマムな制作環境と親和性が高かったと思うんですよ。他方、集団制作を前提としたコンシューマーゲームだと、もうすこし大勢のキャラクターを表現できるという事情もあって、教室レベルのクローズドな人間関係を主題化するリアリティサイズが表現できた。
    しかし、その外側は後景としてボンヤリとせざるをえないあたりは共通している。それでも2000年の『高機動幻想ガンパレード・マーチ』なんかは、教室外のマクロな世界の戦争状況をうっすらとパラメータ化して関連させていたわけですけどね。
    井上 セカイ系という物語形式って、要は「世界が滅ぶ/滅ばない」という大きなスケールの話が、主人公の周りのローカルな人間関係と直結するというものでしたよね。で、同学年の同じ部活の友達だけで楽しく過ごす日常を描いた『けいおん!』のようなものを「空気系」というわけですが、実は近場の人間関係だけ選んでいるという意味ではバトルロワイヤルものもそうで、この二つは近い関係にあるのかなと思ったりするんですけど。
    中川 まさに、その二つは表裏一体ですよね。近場の人間関係のユートピア感だけを取り出すと空気系のぬるい世界になり、逆に残酷な面を戯画化して描くとバトルロワイヤル系になるという。『2』は最初に、(後でモノクマの妹という設定に無理やりされる)「モノミ」というキャラが出てきて、「みなさん、この南国の島で、修学旅行を永遠に楽しみまちょうね〜」って言っていて、実際に本編とは別にモノクマが登場しない平和な日常を楽しく過ごす「アイランドモード」というモードもありますが、それはまさに空気系的な世界観が表裏一体の構造として、この作品に埋め込まれているということの証左でもありますよね。
     
     
    ■2010年代的なキャラクター造形とゲームの形式的必然が生んだ「黒幕」
     
    井上 ……と、裏のほうから「キャラの話をしてくれ」というオーダーがきているので、すこし強引な振りになりますが(笑)、『ダンガンロンパ』が空気系的な構造すらも取り込んでいるとすると、空気系においてやっぱり重要なのはキャラ描写ですよね。『ダンガンロンパ』は本当にキャラづけが強いゲームだということがあると思いますが、
    中川 『逆転裁判』の頃から成歩堂くんとか真宵ちゃんみたいな感じで記号的かつフリーキーにキャラを立てていく流れがありましたが、『ダンガンロンパ』はその傾向をさらに押し進めつつ、2010年代のボカロ世代や「カゲロウプロジェクト」好きなどにも通ずる、ジュブナイルライトオタク層の感性に適した元ネタをぶちこんだキャラクター造形へとアップデートできた点に勝因がありました。ちなみに井上さんが一番好きなキャラは?
    井上 僕は『2』に登場する超高校級の飼育委員・田中眼蛇夢くんが、ペットであるハムスターを「破壊神暗黒四天王」と呼ぶ、あのパッケージングが好きですね。ハムスターだけ出されてもげんなりですが。
    中川 なるほど(笑)。まさに彼なんかは、「厨二病」という2000年代後半以降のライトオタク層が自嘲的に共有するに至った属性を取り込んだ典型例ですね。実際人気も高いですし。僕は男性キャラでは、やはり『2』の狛枝凪斗くんの造形に度肝を抜かれました。狛枝くんは名前が1作目の主人公の苗木誠のアナグラムで、声優も同じ緒方恵美さんだし「超高校級の幸運」というところも同じなのに、第1話でいきなり前作の記憶のあるプレイヤーの予期を覆してみせる攪乱者ぶりが見事すぎました。彼のクライマックスである第5話でもそうだけど、彼の能力をああいうかたちでトリックに活かすというのも狂っていたし。
    井上 たしかに狛枝くんのあのトリックは、本当にゲームデザインとシナリオを融合させた非常に素晴らしい、歴史に残したいトリックといってもいいですね。
    中川 シナリオ自体が強烈にキャラクター性を引っ張っていましたよね。このシリーズを手がけている小高和剛さんのシナリオライターとしての力をすごく感じさせられたキャラだった。
    一方、女性キャラでインパクトが強かったのは『1』の大神さくらちゃんですね。明らかに『北斗の拳』のラオウや『グラップラー刃牙』の範馬勇次郎みたいな格闘マンガのラスボスをムリヤリ女子高生化したネタキャラ枠なのに、それをシナリオの力で最後にはあれだけ可憐な乙女っぽく思わせたのも圧巻でした。
    井上 さくらちゃんはすごい露骨ですけど、超高校級のアイドルとか、超高校級の野球選手とか、超高校級の文学少女とか、全部マンガ違いのキャラですよね。そういうジャンル違いのキャラクターを一同に会させてバトルロワイヤルさせるというのがこのゲームのコンセプトでもあった。
    中川 キャラクターの話が出たので、重大なネタバレですが、ここからはあのキャラクターの話をしましょうか。
     
  • 與那覇潤×宇野常寛「ベストセラーで読む平成史――『ウェブ進化論』と『電車男』」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.175 ☆

    2014-10-09 07:00  
    220pt

    與那覇潤×宇野常寛
    「ベストセラーで読む平成史
    ――『ウェブ進化論』と『電車男』」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.9 vol.175
    http://wakusei2nd.com

    本日のほぼ惑は、「文學界」に掲載された與那覇潤さんと宇野常寛との対談をお届けします。インターネットが普及し、様々な新しい文化が花開いたゼロ年代。そんな時代状況をそれぞれのかたちで映し出し、ベストセラーとなった2冊の本から、日本のウェブ空間と「近代的個人」の問題を読み解きます。
    初出:『文學界』2014年10月号(文藝春秋)

    ▲梅田望夫『ウェブ進化論』ちくま新書、2006年刊。発行部数:390,000部(23刷)
     

    ▲中野独人『電車男』新潮社、2004年刊。発行部数1,015,000部(25刷)
     

    與那覇 前回は平成の政治家二人の書物を取り上げて、ウェブ世代にとっての「政治」の新しいフォーマットとはなんだろうかという話になりました。今回はインターネット界隈から生まれた2000年代半ばの二冊のベストセラーから、ウェブ体験が私たちの社会をどう変えたかを考えたい。
    まずは梅田望夫さんの『ウェブ進化論』(ちくま新書、2006年)。「〇〇2・0」というすっかり定着したフレーズも、同書が唱えた「Web2.0」が元祖でしたよね。新しいインターネットの上では「誰もが自由に、別に誰かの許可を得なくても、あるサービスの発展や、ひいてはウェブ全体の発展に参加できる」(120P)。不特定多数の力が何かを生むことを信じて、みずからの情報データベースをどんどんオープンにしてユーザーを獲得していく、Googleやアマゾンがその象徴だと。
    宇野 この本は一時期、不当に槍玉に挙がることが多かったと思うんです。要するに、日本のブログ社会は梅田さんの予想するようなかたちで個人を啓発し、その創造性を引き出す、というかたちでは進化しなかった。「自立した個」の絶対数がインターネットによって増えて、その結果「一億総表現社会」になる、といった近未来は来なかったわけです。そしてその一方で、どちらかというと、2ちゃんねるやニコニコ動画といった、匿名もしくはハンドルのユーザーが集まる、日本的なムラ社会に適応したサービスが集団主義的なクリエイティビティを発揮していった。しかし、梅田さんがこの本で書いた未来予測で、現実と大きくずれていたのはこの部分くらいだし、それ以上に当時この本を読んで沸き立った読者の方が、梅田さんの主張を願望込みで過大に受け取って、そして勝手に裏切られたと思っている側面も大きいと思うんです。
    與那覇 ブログ社会については後ほど議論するとして、いま読むとそれ自体に意外の念を受けるのは「インターネットは終わった」と言われた時期がかつてあったということ。2000年代初頭にITバブルがはじけて、シリコンバレーも沈鬱な状態になった。しかしそれは終わりではなく始まりなんだ、というメッセージで「2.0」という表現が使われているわけですよね。
    歴史研究者として面白かったのは、ブライアン・アーサーの「技術革命史観」を引用するところです(42P)。19世紀の鉄道革命のときだって、一回バブルははじけてる。しかし真に不可逆的な変化というものは、それを乗り越えて結局普及していくんだ、という教訓を引いています。
     
     
    ■「総表現社会」はなぜ挫折したか?
     
    宇野 インターネットの登場は単なる情報産業の効率化か、それとも人間観や社会観を根本から揺るがす変化か。梅田さんは迷うことなく後者なんですよね。僕もそう思います。オールドタイプからは「結局インターネットなんて情報を集めて拡散するだけだ」とか「ネットワークからは本質的な表現は出てこない」という意見が出てくる。でも、それは、グローバル化が進むとネット右翼が出てくるのと同じで、一種のアレルギー反応にすぎないと思う。
    與那覇 宇野さんが「過大に受け取って勝手に裏切られた」と仰ったけど、いま『ウェブ進化論』についてよく叩かれるのが、同書がうたった「総表現社会」なんて来なかったじゃないかと。アメリカのブロゴスフィアのように、メッセージ性のあるブログがどんどん立ち上がってネット上で討議する空間が出来上がるんだみたいな夢物語を、煽ったけど失敗しました、みたいに言われる。
    今回読みなおすと、これはちょっとかわいそうな評価で、まず総表現社会といっても本当に全員が情報発信するとは書いてない。クラスに一人くらいいた「ちょっと面白いことをいう奴」がセミプロ的にブロガーになって、総計で全人口の一割ほどの読者層を獲得する、くらいのビジョンです。また、興味深いのはむしろ、日米の同一性ではなく差異の方に目配りしているところ。「米国は米国流、日本は日本流で、それぞれのブログ空間が進化していけばいいのだと思う。たとえば、日本における教養ある中間層の厚みとその質の高さは、日本が米国と違って圧倒的に凄いところである」(144P)と書かれていて、米国流に日本が合わせろという話では、必ずしもないんですね。
    宇野 当時、20代後半だった僕のイメージでは、いちばん盛り上がっているブログは技術系だったんですね。プログラムも書ければ、自分でサイトも構築できるような人たちが「こういうやり方が有効だ」という話を共有しているページが一番盛り上がっていた。
    與那覇 「プチ・シリコンバレー」的なITテクノロジストの共同体であれば、日本でも米国と割りあいに似たものが作れた。言い換えると、フューチャリストとしての梅田さんのビジョンを挫折させたのは、日本が強いとされたはずの「中間層」が、その後に続かなかったからだということになる。その理由はどうご覧になりますか。
    宇野 梅田さんの予測が現実とずれてしまったところがあるとしたらそこだと思うんですよ。要するに「教養ある中間層の厚みとその質の高さ」が存在しないことが、この10年で、それも皮肉なことにインターネットのせいで完全に可視化されてしまった。
    あるいは10年前はまだ、アンテナが低くなりすっかり問題設定の能力もクリエイティビティもなくなってしまった新聞やテレビといったマスメディアに対して、インターネットから若く、そして力のあるほんとうのジャーナリズムや文化発信が生まれると信じられていた。しかし後者はともかく前者は残念ながらほぼ破綻しているわけですね。あれほど当時テレビ文化を軽蔑していたアラフォーのネット文化人とその読者たちが今何をやっているか。一週間に一回目立っているひとや失敗した人をあげつらって袋叩きにする。そして自分たちはその叩きに参加することで「良識の側」にいることを確認する。要するに自分たちがさんざん軽蔑してきたテレビ文化と同じことをやっているわけですよね。
    與那覇 悪い意味でワイドショー的ということですか。要するに、日本の中間層って人口的には分厚いかわり、クオリティ・ペーパーじゃなくてスポーツ新聞を手に取る人々だったと。戦後の一億総中流というのも、そういう意味だったので。中間層が自分たち自身を「社会で公的な役割を果たすべき、ハイブロウな中産階級」としてではなく、「そのへんのおっちゃんおばちゃん」として自己規定していることの表れだから。
    宇野 クオリティ・ペーパーをとっている人たちも似たようなもんだと思いますよ。たとえば震災とその後の原発事故のあと、文学や美術といったハイカルチャーにかかわる人たちに「放射脳」と呼ばれるような陰謀論者が少なくないこともネットが可視化してしまったわけですからね。
    でも僕の認識ではそれは決してSNSの普及で起こったことじゃない。この本が出るずっと前からそうだったんですよ。
    だから僕は梅田さんのシナリオは、かなり手前の段階で挫折していたと思う。僕の記憶でも、2005年~06年ころのブログの世界で、それも社会や文化の話題で注目を集めていたのは、基本的にはそういった、梅田さん風に言えば質の高くない中間層によるソーシャルいじめ的な「炎上」案件で、本質的な議論や独立した読み物は注目を集めなかった。
    與那覇 ブログ論壇でもオープンなアリーナで議論を戦わせるというよりは、井戸端会議というか、知りあいどうしで「口喧嘩」の野次馬をしあうような感覚になっちゃっていたと。SNSという言い方が流行るのは、FacebookやTwitterが上陸した2000年代末からですが、ブログ時代から日本人はコメント機能なんかをSNS的に使ってきたわけですね。
    宇野 象徴的に言えば「『はてな』が何も残さなかった問題」ですね。
    與那覇 しかしこの本は、梅田さんが最後その「はてな」の創立に関わるところで終わっているのですが……。
    宇野 当時僕が、雑誌を作ることにこだわってたのもそこなんですよね。ブログ論壇で発信する限り、そこでの「空気」を読まなきゃいけなくなってロクなコンテンツを出せないし、質の高い記事も評価されない。だから別の回路を作らなきゃいけないと思って紙の雑誌(PLANETS)をつくったんですよ。
     
     
    ■LINE、ニコニコ動画の優位とは
     
    宇野 要するに梅田さんの予測と現実とのズレがどこにあったのかというと、ブログ論壇的な中間層が想定よりずっと生産性が低く、ムラ社会のネットいじめしかできなかったのに対し、匿名的、半匿名的な趣味や世間話のコミュニティばかりが発達し、結果的にはクリエイティビティも後者のほうが高かったということなんですよね。
    ところで、僕自身のSNSの使い方としてはLINEをよく使うのですが、あれは完全に閉じた仲間内の中でダラダラとしたコミュニケーションをとる、という、いわば「おしゃべり」の楽しさですね。逆に、TwitterやFacebookは、自分の言論活動のツールとして、もっといえば「宣伝媒体」として活用している。
    そんな僕には日本のブログ空間というのは非常に中途半端に見えます。日本語に閉じられているし、かといって「顔が見える」ような近さでもない。匿名ゆえの「炎上」や「叩き」が横行し、梅田さんが想定していたような知的発信の場としての可能性が摘まれてしまっているのではないでしょうか。
    與那覇 なるほど。僕は自分ではやらないからよくわかりませんが、LINEは情報発信のツールではなく、人間関係のメンテナンスツールというわけなんですね。
    宇野 その通りです。LINEは、設計思想的にはガラケー(ガラパゴスケータイ)のiモードの子孫なんです。iモードはeメールをカジュアルなおしゃべりを楽しむものにしたことが革命的だったと言われています。要するに携帯電話で使用するショートメールというものは端的に要件を伝えるものだった。しかしiモードはそこに絵文字をはじめとするエンターテインメントの要素を盛り込んでいった。LINEの「スタンプ」なんかは、その延長線上にあります。
    與那覇 学生たちと話すと、彼らにとっての「ソーシャル」って社会ではなく「世間」なんですね。だからリア友対象のLINEが一番使われるし、Twitterでも近況報告とか文字通りの独り言のみで、「社会に向けて」は全然発信しない。リツイートされるってこと自体が想定外なので、「RT欄に表示があるなんて先生はすごいですね」と言われたことがあります。
    宇野 僕は人間というのは、実はそんなに開かれた広場に出てきたい生き物ではないと思うし、開かれた広場があると社会がうまく回っていくという発想も疑問なんですよね。現にこうして日本のネット社会を見ていると広場を形成するブロゴスフィアのほうが陰険で非生産的だという現実がある。だから僕はインターネットのもうひとつの可能性を考えたほうがいいと思うんですよ。みんなインターネットというと、世界中につながるGoogle的なものを想定すると思うんです。しかし、閉じたつながりが並列されたLINE的なものだって、インターネットの生んだ社会なんですよ。
    與那覇 インターネットに関する議論はよく「情報社会論」といわれるけど、情報というよりも紐帯、否むしろ情報なき紐帯を強化する方向への進化が起きたということですね。総表現社会のうち、みんながつながりあう「総」の部分だけが実現して、パブリックに意見を表明する「表現」の部分は全部落ちた。
    宇野 これからの社会を考える時に、情報なき紐帯をどう活用するのかをしっかり考えることは、意外と大事な気がします。それが、アジア発のウェブ社会の姿かもしれない。
    與那覇 ただ、それって要するに開発途上国的ということではないですか。人的紐帯はどんな世界にもあるけど、市民社会は先進国にしかない。顔見知りどうしが井戸端会議をしない国はないけど、政治的な公共圏のある国は限られる。
    宇野 西洋近代の雛形から遠ざかると後進的、というのは僕にはちょっと同意できないのですが……。それに、僕が言っているのは人間というのはどうしようもなく身勝手でワガママな存在なので、現実を受け入れた上でその欲望を逆手にとった制度設計をしないと、この種の議論は絵に描いた餅で終わってしまう。だから、実際に匿名空間から「表現」を生んだケースについてしっかり評価しなければいけない。
    たとえば濱野智史さんが指摘するように日本的共同性にマッチしたユーザー環境をうまく作ったのがドワンゴだと思うんですね。ブログ文化がうまくいかなかったのは、そこにインターネット上の「世間」が誕生してしまったからだと思うんですよ。しかしニコニコ動画はその半匿名性を利用して、井戸端会議的なコミュニティの濃さと、それが固定しない流動性の高さを実現していった。その結果、高いクリエイティビティが生まれていった。これは西洋近代的な市民社会をネット上にどう実装するか、という発想からは絶対に出てこない。
    與那覇 いや、後進的といいたいのではなくて、仰るように少なくとも西洋近代的なそれとは違う。むしろ逆の方向性を持った何かだということをはっきりさせておきたいということですね。よしあしは別にして、日本のウェブ進化の方向性をめぐって一種の「転向」があったことは間違いないのだから。
    ふと連想するのは「大正教養主義から昭和農本主義へ」の流れです。阿部次郎の『三太郎の日記』とか、世界に通ずるコスモポリタンを目指して最初は輝かしかったはずのものが、後になってみるとすごく閉ざされた「意識の高い俺アピール」に見えてしまう。で、みんな「あれはイタい」と思って、周囲の個別具体的な対人関係をリア充化していく方向に走る。
     
     
    ■95年の煩悶から05年のベタ回帰へ宇野 ここで『電車男』(中野独人著、新潮社、2004年)についても見てみましょうか。文化史的な話をすると、『電車男』は、オタクのカジュアル化のメルクマールですよね。ネタになるということは、その問題をシリアスに捉えている人間が少なくなっているということです。M君事件の頃には、これはできなかったでしょう。
    與那覇 2005年には、人気俳優を使って映画とドラマにもなった。要するにオタクというものが異星人じゃなくて、サラリーマンとかOLとか弁護士とかと同類の「ごく普通に劇中で演じられるキャラのジャンル」になった。
    宇野 同じ時期にアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』もヒットしていますが、世の中はつまらないから、本当に宇宙人が居ればいいのにと思っていたオカルト狂いの女の子がちょっと部活をやってみたら、結構普通に友達ができて、わりと楽しいという話なわけですよね。そのことが象徴するように、オタク的なものが、居場所のなさを異世界に解消していく、といったパターンが完全に終わり、現実の中でカジュアルに居場所を見つけられるようになった。今思うと、そこにもソーシャルメディアの発達が、一役買っていると思います。
    與那覇 宇野さんの『ゼロ年代の想像力』のラストが、まさにその「セカイ系の女の子=涼宮ハルヒが日常回帰していく」という話でしたよね。同書には「95年の思想」というキータームがあったけど、僕は「05年の思想」というのがありえるのかなという気がしています。
    電車男ブームが起きた2005年は、平成史的にみると日本人の「ベタ回帰元年」だったのではないか。政治的には「郵政解散」でちょっと吹っ切れていたけど、この年は愛知万博(愛・地球博)の年でもある。開催前は「高度成長期でもあるまいし、いまさら万博かよ」みたいにインテリ層は言っていたけれど、意外とこれが当たっちゃうわけでしょう。で、同じ年に『ALWAYS 三丁目の夕日』も大ヒット。電車男現象もいま振り返ると、2ちゃんねるは怖いとか、オタクは危ない人だと思っていたら「なんだ。普通に女の子とデートしたがってる、しごく平凡な人たちじゃないか」ということを、社会全体で確認する儀式だったように見えますよね。
    宇野 その指摘は面白いですね。戦後的な文化空間が、多分下部構造的にも、コミュニティ的にも、コンテンツレベルでも解体されていったのが95年だとすると、それをどう維持、あるいは再構築するのかを考えたのが、その後の10年です。戦後的なアイロニーが使えないなら、別のアイロニーは可能か、みたいなことをずっとやってきた。だけれど、結局、ベタ回帰した。
    その背景にはインターネットが代表する情報技術の発達があったわけです。「アイロニカルな没入」がなければロマン主義的に振る舞えないのが戦後社会だとするなら、この時代は物語の力が内面に作用するアイロニーから、社会心理学や行動経済学的に人間の心理を操作するアーキテクチャーに没入の支援装置が変化したわけです。「今更こんなベタな物語にハマれないよ」という自意識を突破する方法が、このころ文化空間の「空気」から、ウェブサイトの導線設計やゲームデザインに変化した。「電車男」はその代表的なコンテンツで、「いまさらこんなベタな話にはまれないよ」と思っていた人たちが、「2ちゃんねる」の匿名空間に自分も参加する、あるいは参加できたかもしれないリアリティがあるとすんなり泣くことができた。いわば「アーキテクチュアルな没入」ってやつですよね。
    與那覇 「95年の思想」の典型として挙げられたのが初期の宮台真司氏であり、右傾化する直前の『ゴーマニズム宣言』であり、『新世紀エヴァンゲリオン』(旧版)でしたね。彼らは、自分が正しいと信じるものが結局は「自分にとっての正しさ」に過ぎないという逆説に煩悶するとともに、それを受け入れて生きる道を模索したと。しかし、それらは結局、決断主義への衝動の前に崩壊した。そう説いた宇野さんは一方で、「05年の思想」にはある程度肯定的なわけですね。
    宇野 というよりも、不可避だと思うんですよ。「95年の思想」というのは戦後の終わりのことです。冷戦が終わっている以上、それを肯定しても否定しても仕方がない。
    與那覇 ただ、ベタ回帰って「思考停止」という側面もあるわけでしょう。戦後の日本がいかに「平和」や「正義」を普遍的に語ろうと、それらは実は、冷戦体制の特殊な地政学の下で享受される賞味期限つきの特権に過ぎなかった。そのパラドクスに気づいて、さあどうする、というのが「95年の思想」ですよね。
    しかし「05年の思想」では、「そんなこじれたこと考えたってしゃあないやん」となってしまう。前回取り上げた、93年の小沢一郎『日本改造計画』は「パラドクスを解こう」としていたけど、06年の安倍晋三『美しい国へ』は「日本にパラドクスなんてない」と言い張るのと、それは正確に対応します。
    宇野 僕は2005年のそれが単純なベタ回帰だとは思ってないんですよ。それを言ったら、いわゆる80年安保の反動としてのポストバブル期の90年代ベタ回帰のほうがよっぽど酷かった。そもそも、「昔のようにこじらせろよ」と若いオタクたちに説教しても絶対に空振りになるだけですよ。だって、かつてオタクたちをこじらせていた社会環境自体が変化しているんだから、こじらせをバネにしたものとは異なった表現を生む回路を発展させるしかないし、現にそうして成果を上げてきた現実が既にある。
    與那覇 加藤典洋氏の論文「敗戦後論」もまた「95年の思想」だったわけですが、その用語でいうと戦後日本という国自体が「ねじれ」を帯びざるを得ない位置にいたわけですよね。そのせいで、突き詰めて物事を考えるとみんなこじれたわけで。僕は、日本国民が自意識の上でベタに回帰しても、日本という国の立ち位置自体はベタな「普通の国」にはなってくれないものだと思うんですよ。その状況をこじらせずに「普通に」受けとめちゃう人の方が、マスになったときちょっと怖いなという気持ちがある。
    宇野 だから、集団的自衛権の問題でも冷戦下の国際情勢が変化して、戦後的な「ねじれ」の力が弱まった以上、日本は「普通の国」になった上でどうリベラルな外交戦略をとっていくかを議論したほうがいいに決まっている。そんな当たり前のことがなんで昔の左翼の人にはわかんないのか、僕には不思議ですらあるんですが。
     
     
    ■参加型コンテンツだった「電車男」
     
    宇野 ベタ回帰ということで言うと、もう一つは『電車男』の「いい話」性ですね。2ちゃんねるという悪口を書くことがデフォルトの世界で「めしどこか(教えてくれ)たのむ」と書きこむと、みんな答えてくれる。
     
  • なぜデザインはマネジメントの武器になるのか――『デザインマネジメント』著者・田子學が語る"市場の作り方" ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.174 ☆

    2014-10-08 07:00  
    220pt

    なぜデザインはマネジメントの武器になるのか
    ――『デザインマネジメント』著者・田子學が語る
    "市場の作り方"
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.8 vol.174
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑には、「渋谷セカンドステージ vol.3 ものづくり2.0」にも登壇していただいた田子學さんが登場。日本のものづくりとマーケティングとの関係について、たっぷり話を伺いました。

    ▼プロフィール
    田子學(Manabu Tago)
    MTDO inc.(株式会社エムテド)代表取締役、アートディレクター/デザイナー。東京造形大学II類デザインマネジメント卒。株式会社東芝デザインセンターにて多くの家電、情報機器デザイン開発にたずさわる。同社退社後、株式会社リアル・フリートのデザインマネジメント責任者として従事。その後新たな領域の開拓を試みるべく、2008年株式会社エムテドを立ち上げ、現在にいたる。現在は幅広い産業分野において、コンセプトメイキングからプロダクトアウトまでをトータルでデザイン、ディレクション、マネジメントしている。iF PRODUCT DESIGN AWARD、reddot design award、GOOD DESIGN AWARD、IDEA (International Design Excellence Award)  他受賞多数。日本デザイン振興会(JDP)「グッドデザイン賞」審査委員。慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科: SDM 特任教授。法政大学 デザイン工学部 非常勤講師。東京造形大学 非常勤講師。

     
    ◎聞き手/構成・稲葉ほたて
     
     
    ■なぜ経営にまで入り込んでデザインするのか
     
    宇野 田子さんの『デザインマネジメント』を読ませていただいたのですが、素晴らしい本だと思いました。年末になると、今年のベスト5みたいな依頼が来るのですが、今年はそこに絶対に入れようと思ったくらいに面白かったです。一冊の本として見ても、ビジネス書なのに読まれ方や見せ方を非常に考え抜かれていて、とても良かったです。
    田子 いや、プロの方に言ってただけると、大変にありがたいですね。
     

    ▲田子學『デザインマネジメント』
     
    ――あの本で最も印象的だったのが、OSOROの製作過程でした。おそらく、あのプロダクトが生み出された背景から聞いていくのが、田子さんの思想に最も迫れる気がします。
    田子 なるほど。ただ、キッカケは単純で、ちょうどリアル・フリートを辞める頃に、共著者の橋口寛さんに会ったことです。彼はファンドから呼ばれて、ナルミ復活のテコ入れに主にマネジメントの立場から入っていました。そこで初めてボーンチャイナという素材の説明を受けながら、僕は彼の悩みを聞いていました。
    宇野 僕もこの本で、ああいう高級洋食器の素材をボーンチャイナと呼ぶのを知りました(笑)。
    田子 でも、あの食器が使われるシチュエーションって、ホテルのディナーくらいしかないわけですよ。
    その場でかなり率直に話し合ったのですが、やはり僕らの世代は特に日常生活の中にあの食器を使う場面はないわけです。しかも、ホテルでの食器の買い替え需要なんてあまりないから、ひと通り行き渡ると次が難しい。そこに橋口さんは悩まれていて……まず第一印象は「特殊な世界だな」でした。
    ただ一応、掘り下げて聞いていくと、日本の洋食器業界は世界的に名前も通っていて、それなりに供給されているんですよ。それだけに、そのノスタルジーをずるずる引きずっているように見えて、そこが少し気になりました。
     


    ▲NARUMIの食器
     
    ひとまずその場では、「この技術を食器以外に使う手もあるんじゃないか」と話しました。例えば、京セラだって元々はセラミックの会社だけど、それを工業セラミックに活かして、いまや全く違う会社になっている。そういうふうに焼き物を焼き物のまま終わらせず、別の企業体になっていくブレイクスルーもありじゃないか、と。これまでの経験から可能なブランディングについて話して、その場は橋口さんと別れました。
    その後しばらく音沙汰はなかったのですが、半年ほどたった頃に急に連絡が来て、「社員の前でこの間の話をしてくれ」と言われたんです。どうやらその後、彼は何がデキるかを社内で掘り下げたようで、クリエイティブをどうにかしなければいけないという結論になったそうです。「もしよければ、田子さんにお願いできないか」と言われました。
    ――その後、かなり経営判断に関わるレベルで、このプロジェクトに関わっていきますよね。
    田子 そうです。すぐに契約に入ったのですが、その際に「何かの具体的な障害に対してデザインしてくれというのでは、単発の解決策にしかならない」とハッキリと言いました。
    僕が仕事をするときには、必ず経営判断まで含めてやらせてもらいます。そうでないと軸がブレたまま進む可能性が高いんですよ。「この企業が何を誇りに思う会社なのかというレベルまで、ちゃんと議論を落とし込みましょう」と言って、トップと話ができることを条件に入社しました。
    これについては、向こうも実は望んでいたそうです。僕としても、ファンドがナルミを復活させる構図の中で入れたので、半ば応援団がある状態だったのは助かりました。ナルミの再構築のようなところから着手できました。
     
     
    ■社内デザイナーを製作から外した理由――そうして出来上がったのがOSOROですね。生活スタイルに合わせて色々な食器を選べるのですが、どの組み合わせでもデザインに統一感があるのが素敵だなと思いました。しかも、収納性や冷凍・温めへの配慮も行き届いていて、現代の食生活にピッタリだと思います。ここに行き着いたのは、どういう経緯ですか。
    田子 もし僕の目的が商品開発でしかなかったら、OSOROは出来ていなかったでしょうね。というのも、OSOROはナルミの商材の中でも異例なんです。
     
    ▼OSORO

     

    ©NARUMI CORPORATION
    これを作るには、ナルミの工場もそこに働く人間も変えなければいけなくて、つまりは会社を変えなければいけない。だから、とにかく色んな人にインタビューをするために、工場などに出向きました。
    そこで何がナルミの誇りになっているのかを見て、喧嘩とまでは行かないけれども、結構やり合いましたよ。ただ、そうやっていくと、だんだん議論が本質的になるんです。「あなた、会社ではそんなこと言ってるけど、家でボーンチャイナは使ってんの?」というと、実は使っていなかったりする(笑)。
    だったら、「ホテルだっていいけど、身近な場所でどう使えないか掘り下げてみませんか?」という話です。自分たちの誇りに思える部分をしっかり残した商材を作ればいいわけですから。
    最終的には社員とワークショップを開いて、そういう話し合いをやりました。最終的に、彼ら自身が導いたのは「幸せを作る器」という言葉です。とすれば、別に必ずしもボーンチャイナである必要はない。こんなふうに本質へと議論が向かうように導いて、OSOROの構想が固まっていきました。
    ――ブランドの本質を探り当てたわけですね。
    田子 現代のマーケティングって、すぐに細分化を進めてしまうでしょう。でも、本当の解答はもっと別の場所に転がっているんですよ。実際、よくマーケットが細分化されて難しくなったなんて言うけど、それはマーケティングの細分化を推し進めた結果でしかない。本当に何かが欲しくなったら、年齢なんて関係ないですから(笑)。
    一方で悩ましかったのが、インハウスデザイナーと言われる社内デザイナーたちとの距離感です。僕自身も、東芝時代に社外のデザイナーとコラボレーションしたときに、「何で俺たちじゃないんだ」みたいなせめぎあいを見てきたんです。こうして協力することで可能になることもあるのだけど、やはりレガシーな業界ですから……なかなかマインドを変えてもらうのは難しかったです。
    そこで僕は、「僕らに全て任せてくれ」と自らがプロダクトデザインをする意志を伝えました。これが唯一の経営陣への直談判ですね。せっかく社員を含むチームで本質を研ぎ澄ましたのに、ターゲットがどうこう、絵柄がどうこうみたいな従来型の話になって、元に戻されるわけにはいかない。プロジェクトとしては、ここが一番の勝負どころでした。そもそも誰にも突き刺さらないコンセプトになっては、ヒットするしない以前の問題です。
    ――ちょっと面白いなと思うのですが、つまり特定の年齢層や性別を狙うような作りにしないほうがヒットするというお話ですか。これってわりと普通の人が考えるマーケティング理論の真逆を言っているような……。
    田子 そうですよ。だって、僕らは理論値でのマーケティングはしませんから。
     
     
    ■ピラミッドの頂点を狙え宇野 その逆説はすごく重要だと思いますね。というのも、モノの持つ本来の力とは、そういうものだと思うからです。
    僕は消費社会のダイナミズムって、大量生産されるモノに人間の方が合わせて生活や文化を変えていくところにあったと思うんですよ。大量生産品の仕様に人間が合わせることで社会が変化していったわけです。自動車が人間の地理感覚を変えて、電気洗濯機が女性観を変えたように。だからこそ、統治権力はモノのスペックを規制してきた。
    しかし現代は中途半端にマーケティング技術が発達してしまったせいで、ターゲットに想定した人物像に合ったものを提供できるようになった。これが3Dプリンターの時代になるとオーダーメイドの一般化に近いことが起こってくる。そうなるとモノが人間に合わせる時代になるわけです。これはものづくりと市場の発展の成果であることは間違いない。しかし同時に、モノが自分で人間に歩み寄って行き過ぎているような気もして、そのせいでモノの力を失いつつあるようにも思えるんです。
    田子 まさにそうです。やはり、僕が東芝にいたときにも、広告代理店がつくったストーリーに乗っかった商品開発があるんですね。でも、例えばマーケットから出てきた「20%のホットなゾーン」が現在あったとして、それが本当に半年後もあるかは怪しい。しかも、みんなとりあえずそこに向けて投入するから、あっという間にレッドオーシャンですよ。
    ところが、過去をたどってみると、ウォークマンにしてもiPhoneにしても、ヒット商品は常に自分たちで市場を作り上げてきたんですね。
    宇野 あの頃のSONYやAppleは、モノに人間を引き寄せて市場をつくったんですよね。
    田子 先駆者になることが一番大事で、それによってこそブランド価値は上がるんです。
    モノを扱うときに重要なのは、最初に「憧れ」を作ることです。「憧れ」を作れば、自然にそれはブランドの発信力を生むので、あとから人間が追いついてきます。
    どんな時代でも、実は人間の消費行動は、先端ユーザーから末端のユーザーまでがピラミッドを成しています。そのときに現代の人間は、ついついピラミッドの真ん中から下を攻めてしまうんですね。現状を見れば、一番パイが大きいから。でも、本当に狙うべきは、最も数が少ないテッペンのユーザーたちです。「憧れ」は常にピラミッドの上を向いてますから、実は上に飛び込めば、シャワー効果で下におりていきます。
    ――なるほど、スタティックに現状を見ると、下の大きなパイを取るのが有利に見えてしまうけれども、ダイナミックに見れば、むしろ最小のパイであるテッペンに「憧れ」を喚起させるモノを投入するべきである、と。そこから一気に下まで全部取っていくのが正解というお話ですね
    宇野 現在のマーケティングって、いわば「北海道の気候は寒いから、それに適した米を作ろう」といった発想が、情報技術の発達で社会にも適用できるようになったのだと思うんですね。でも、本当は気候のような自然環境と違って、社会のような人工環境なんていくらでも変えていけるわけですよ。しかも、その変化の原動力こそがまさにモノだったりするわけです。そういう当然のことを、どこか忘れてしまっている気がしますね。
    田子 そうなんですよ。例えば、iPhone以前に日本のメーカーは、どこも既にiPhoneと同じようなスレート型のデバイスを模索していました。でも、そのときに必ず議論になっていたのが、「視覚障害者が使えないじゃないか」という話です。彼らはその人口の中で0.2%の盲目者を引き合いに出して、「彼らを犠牲にするのはブランドが崩れる」なんて話していたのだけど、結局どうなったか。iPhoneは人気が爆発した結果として、Siriを出しました。お陰で今や、逆にiPhoneのSiriで盲目者がメールやネットを使えるようになっています。
    これなんて、まさにいまの宇野さんの話そのものだと思います。一度はそういう人たちを切り捨てたとしても、彼らを戻してくるようなことは出来るんですよ。だけど、この国ではどうも議論がそういう方向には行かない。最先端の研究や技術が上手く投入されない背景には、こういう文脈もあります。
    ――ちなみに、「憧れ」を喚起するモノのパワーって、具体的にはどういうものでしょうか。
    田子 いろいろな側面があって一概には言えないですが、やはり「驚き」が出発点だと思いますよ。良いモノは、触れた瞬間になぜか「今までと全然違う!」という驚きが感じられてしまうんです。もうね、言語なんかとは全く別の次元で伝わってきますよね。
    宇野 要は「他者性」の問題で、自分が全く想像しなかったアクションがモノに出会うことではじめて可能になってしまって、そこから欲望が生じてくるんです。iPhoneが登場することで、ケータイでこんなことが出来るんだという欲望がたくさん生まれたようなものでしょう。
    そういう意味では、無印良品なんかは最後の最後でモノの力をどこか信じきれていないところがあるんでしょうね。無印良品のアイテムは僕も大好きでとても気持ちいいけれど、それは無印良品のアイテムが提案している消費社会との距離の取り方が気持ちいいだけで、あのアイテムからあたらしい欲望を教えられることはなかなかない。
    田子 そうそう。無印の良いところって、これまでのモノに存在していた余計な部分をちょっと削いでくれた事だと思います。だからブランドの思考は決して新しいものの提案ではないはず。だから、「これでいい」というのが売り文句に出来たのだと思います。
    そういう意味では、僕らがリアル・フリートを作ったときには「これでいいじゃなくて、これでなくては」という言葉を掲げていました。あくまで裏話ですから、あまり外では言ってないのですが、そのときの「これでいい」とは、実は無印良品を意識していたんです(笑)。
    ライフスタイル系ビジネスはひとくくりに同じと出来る訳ではありません。ですから欲する使用者は全く違うという事を意識させるために作られたワードでした。
     
    ▼リアル・フリートの"amadana"ブランドの携帯電話「N705i」
     
    ▼同じくamadanaのマルチユースのリモコン「CR-102」©REALFLEET
     
    宇野 なるほど、この本を読んで無印良品を思い出した僕は結構正しかったですね(笑)。
    ちなみに、このメルマガは「ほぼ日刊惑星開発委員会」というのですが、要は糸井重里的なものへのリスペクトと更新への意思を込めたんですよね。
    彼の「ほぼ日刊イトイ新聞」も無印良品も、東京の消費文化が生んだある種の最適解になってはいるけれども、どこか新しいものを生み出す想像力になっていない気がします。僕たちは彼らに敬意を込めつつも、その先に行きたいという思いも込めて、あえてこの名前にしたんですね。
     
     
    ■モノとは新しい言語である
     
    宇野 ところで、僕はこの本における橋口さんの存在は、とても重要だと思いました。
    田子さんはデザイナーとして、デザインの定義を拡張する中で、「デザインとはそもそもマネジメントなのだ」というテーマで書かれていますね。ところが、橋口さんにとっては、「マネジメントにとって、デザインが有効だった」という驚きがあったように思うんです。実際、橋口さんはマネジメントサイドから、デザインがいかに経営において決定的な影響力を持つのかを書いています。僕のようなデザイナーではない人間にとっては、橋口さんの視点こそが一番興味深いポイントなんですよ。
    なぜデザインを中核に据えることで、マネジメントの姿が変わっていくのでしょうか?
    田子 なるほど……それはですね、「モノ」という新しい言語が生まれるからですよ。
    モノは日本語でもなければ英語でもない。しかし、知性さえあれば、誰もが触れることで共通の感覚を得られるような、新しい言語なんです。しかも、その共通項としての体験は驚きを作り出し、理屈を超えた「欲しい」という欲望を生み出し、ついには人間を動かす運動へと変わります。そこに至って、初めてビジネスが成立するんです。
    だから、経営にとってモノは最大の武器ですね。結局、共通項は何かをいくら話し合ったって、所詮は自分の解釈を図や言葉にしているにすぎないんです。それが立体物になると途端に言い訳ができなくなるし、新しい現象がたくさん出てきはじめる。
    もちろん、これはモノの強みであると同時に弱みにもなりかねないところなんですよ。
    でも、そこをいかに万人に共感できるデザインに落としこむかが、僕にとって最も面白いところです。だからこそ、マネジメント側も「デザインこそが自分たちの最も誇りを持てる言語なのだ」と理解する必要があるし、そのクロスオーバーこそを書きたかったんです。
    宇野 なかなか共通言語がつくりだしにくい状況で、モノこそが逆説的に共通言語に近い機能を帯びつつあるという話ですね。
     
  • ショッピングモール&テーマパークの発想でつくる東京五輪「選手村計画」――デザイナー・浅子佳英が考える”職住近接”の都市生活の未来 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.173 ☆

    2014-10-07 07:00  

    ショッピングモール&テーマパークの発想で
    つくる東京五輪「選手村計画」
    ――デザイナー・浅子佳英が考える
    ”職住近接”の都市生活の未来
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.7 vol.173
    http://wakusei2nd.com


    今年の秋〜冬頃に発売予定のPLANETSの新刊「PLANETS vol.9」(以下、P9)。特集を「東京2020」とし、2020年の東京とオリンピックの未来図を描きます。
    「P9」は、以下の4パートで構想されています。
    “A”lternative=オルタナティブ(僕らが考えるもう一つのオリンピック/パラリンピック)
    “B”lueprint=ブループリント(2020年の東京、その未来都市の青写真)
    “C”ultural Festival=カルチュラル・フェスティバル(日本ポップカルチャーの祭典)
    “D”estruction=ディストラクション
  • 週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会~9月29日放送Podcast&ダイジェスト! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.172 ☆

    2014-10-06 07:00  
    220pt

    週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会~9月29日放送Podcast&ダイジェスト!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.6 vol.172
    http://wakusei2nd.com

    9月29日(月)21:00~放送
    「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」
    ▼パーソナリティ
    宇野常寛
     
    ▼9/29放送のダイジェスト
    ☆OPトーク☆
    週刊での放送は今回で最終回。ということで、この番組の放送形態についていろいろぶっちゃけます! 東京千代田区有楽町のエルファクスタジオ、その正体とは?
    ☆むちゃブリスケッチブック☆
    番組Dのトミヤマが選んだいくつかのお題から、ニコ生アンケート機能でトピックを選ぶコーナー。今週は「X JAPAN TOSHI洗脳で15億」の話題から脱線して、同級生とカラオケに行った際のエピソードを紹介します。
    ☆48開発委員会☆
    放送の裏ではAKBチームK岩手公演、SKE加藤智子卒業公演、NMB横浜コンサートが行われていました。お便りをご紹介します!
    ☆今週の一本☆
    今年の夏に放送されたテレビドラマを総括します。「アオイホノオ」で主演を務めた柳楽優弥が素晴らしかった!
    ☆延長戦トーク☆
    会員限定の延長戦部分では、新番組J-WAVE「THE HANGOUT」への意気込みを語ります。
     
  • 世界と自分を一直線に繋げる――睡眠時間を削ってまで散歩がしたくなる、位置情報ゲームIngress(イングレス)って何? ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.171 ☆

    2014-10-03 07:00  
    220pt

    世界と自分を一直線に繋げる――睡眠時間を削ってまで散歩がしたくなる、位置情報ゲームIngress(イングレス)って何?
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.3 vol.171
    http://wakusei2nd.com


    現在ブームの兆しを見せ始めている位置情報サービスを利用したゲーム・Ingress(イングレス)。今朝のほぼ惑では、このゲームの魅力に取り憑かれた男が、現実を楽しむ新しい方法について語ります!

    ▼プロフィール中津 宗一郎(なかつ・そういちろう)
    1968年生まれ。早稲田大学卒。広告代理店・ゲーム会社を経て、現在は文芸含めて色々やっている編集者。
     
     
    Ingress(イングレス)というゲームについては、日々ネットからの情報に触れている人であるならばもう数回は目にしたことがあるだろう。
    僕がIngressというゲームの噂を耳にしたのは、1年ほど前。プレイをし始めたのは、7月12日のiPhone版リリースからのわずか2ヶ月にすぎないけれども、こんなにゲームにハマるのはここ20数年記憶にないというぐらい、プレイに熱中している(ちなみにその前にハマったゲームはPBM「蓬莱学園の冒険!」(注1) )。一体、Ingressの何が面白いのか、そしてこのゲームからかいま見られるGoogleの目指す未来と思想、そして新しい現実拡張の世界をちょっと語ってみたい。
    まず簡単に概略を説明しよう。IngressはGoogleが無料で提供している位置情報を利用したスマートフォン用のソーシャルゲームだ。プレイヤー(以下、エージェントと呼称)は、地球に出現したエネルギー「エキゾチックマター」(XM)を巡って、エンライテンド(覚醒者:緑)とレジスタンス(反抗者:青)の2つの陣営に分かれて、実際の地図上に点在する「ポータル」と呼ばれる拠点を奪いあいながら、Portal同士を直線で結んで作る「コントロールフィールド」(CF)と呼ばれる陣地を広げる闘いをしていく。
     

    ▲実際の地図上を陣取りをしていく
     
    GPS情報を利用したゲームは、現実に世界に情報を上書きして重ねているという意味で、AR(拡張現実)ゲームとも呼ばれる。アニメ「電脳コイル(注2) 」を彷彿とさせ、また既知の街を拠点として戦い合う雰囲気は、コミック「GANTZ(注3) 」に近いと言ってもいいかもしれない。
    ゲーム画面は、スタイリッシュで、英語で通知される情報に加えて、闇の中を探索しているバックグラウンドエフェクトや、目標に近づくに連れて間隔が短くなるピンガー音などがSF的な雰囲気をよりいっそう高めている。実際、夜に自転車に乗りながら、英語でしゃべるIngressをプレイしていると、気分は「攻殻機動隊」だ。
     

    ▲サイバー感あふれるプレイ画面
     
    その雰囲気をよく伝える動画がある。
     

    ▲Ingress - It's Time To Recruit - YouTube
     
    街でプレイしていた主人公が、敵と遭遇する――。この動画はIngressのプレイ風景をイメージで作ったCMだけれども実はGoogle製作によるこうした動画は数多く作られている(お金かけてるね)。
     

    ▲Playing Ingress
     
    ちなみにプレイヤー自身が、ゲーム内容を説明した最新動画はこちら。6分とちょっと長め。この2つを見ればほぼIngressがどのようなものかが分かるだろう。
     
    (注1)「蓬莱学園の冒険!」…1990年に遊演体が運営したPBM(Play by mail:郵便で行なうRPG)と小説、ゲームなどの関連作品。南海の孤島に作られた巨大学園にて、地球の存亡を巡る戦いがおこる。ゲームデザイナーは柳川房彦(作家名:新城カズマ)。現実の出来事を多く取り込んだ設定が特徴。参加者の多くが後にクリエイターとして活躍することが多かったため、伝説的なゲームと言われている。
    (注2)「電脳コイル」…2007年にNHK教育で放送されたSFアニメ。ウェアラブル端末が普及した田舎の街で、現実と電脳が交錯するなか、子どもたちが君ょ言うな都市伝説と遭遇していく。(注3)「GANTZ」…奥浩哉による漫画作品。事故で死んだ主人公が、謎の黒球GANTZによって死後再生され、地球を侵略する宇宙人と街で戦うことを宿命付けられる。緻密な作画とスタイリッシュなスーツデザインで人気を博す。
     
     
    ■「何をしていいか分からない」から始まる、発見のゲームさて、最初にゲームをスタートさせた時には、何をしていいのか分からないエージェントが大半だろう。説明もマニュアルも英語であるため、最初の一歩のハードルが非常に高いゲームだ、けれども進めていくうちに、「現実の世界を舞台にした巨大なRPG」のような体験をしていくこととなる。そして最終的には、自分ひとりだけのストーリーが組み上げられていってしまうのが、このゲーム最大の魅力だ。
    Ingressのキャッチフレーズは、"The world around you is not what it seems." (あなたの周りの世界は見えたままとは限らない)。東京中心部に住む僕がまずプレイを始めて驚いたのは、街中に存在するPortalの多さだ。神社やお寺、歴史的建造物、石碑、彫刻や郵便局……加えて街中の変なもの……などがエージェントたちの申請によってPortalとして登録されている。
    このPortalを探して、hackという作業をして、経験値APとアイテムを集めるのがレベル1のエージェントの最初のミッションだ。そのためエージェントは街中を歩き回るハメになるのだが、まずこの時点で、自分の生活範囲にこんなに多くの歴史的な建造物があることに驚くに違いない。
    参加者が増えた現在では、すぐにでも敵や味方と遭遇することになる。Ingressをインストールするまで、こんな戦いが街の日常の裏で行われていたなんて! と驚くのは必至だ(ストリートファイトに紛れ込んだ素人という感じを否応なく味わう)。
    僕は浅草橋に住み、九段下の職場へと通っているのだが、普通ならば見逃して通りすぎてしまう道祖神などを、レベルアップを目指して、iPhone片手に探しまわる生活になってしまった。というのもIngressをプレイすると、レベルアップのために、色々な場所を歩きまわる必要が出てくるからだ。
    動きまわる範囲を通勤路線に限定してしまうと、全然経験値(AP)が稼げない。そこで徒歩や自転車を使って、生活圏以外の場所をドンドンと動き回るワケ。結果、普通の都市生活では気付けないような街の成り立ちを記した碑文、ビル影に残された稲荷神社などに次々と遭遇してしまうのだ。
    東京は電車網が非常に発達しているので、少しでも歩く距離を減らすために遠回りでも地下鉄に乗ってしまうことも多い。けれどもIngressをやっていると、「自宅から日本橋なんて歩いてすぐじゃん」「早稲田と雑司が谷ってこんなに近かったのか?」「こんな身近にこんなにゆっくり時間を過ごせる公園があるなんて」「都市生活者の最良の移動手段はロードバイクだ」ということを次々と発見していく。
    例えばPortalにはこんな面白いものもある。
     
     
    ■「100年続く田中食堂」
     
    このPortalは、上野・浅草という緑の陣営が強い所に位置するPortalで、正直、Googleの提示する基準ギリギリのグレーな拠点であるのだが、普段は前を通り過ぎるだけだった定食屋が「ここ百年も営業しているのか?」と違った視点で見えてくる。
    街を再発見するのが、Ingressの喜びだが、絵のように美しいコントロールフィールドを敵と共同で作ったり、南国も飛び越えるlinkをはるなどその楽しみ方は多彩だ。
     

    ▲「100年続く田中食堂」ポータル
     
    こうしたIngressエージェントの面白い活動は、ネット上に散見しているのでぜひ見て欲しい。
     
    (参考リンク)
    ingressの面白いPortalとコントロールフィールド
    Ingressナニコレ面白ポータル
    Ingressナニコレ面白ポータル2
    Ingressナニコレ面白ポータル3
     
    こうして未知のPortalを探索する楽しみに目覚め始めると、現実と同じように、「際限がない」ことがわかってくる。MMORPGのプレイで出てくる、製作時間の都合のための「時間つぶしのためのミッション」などはない。逆説的だが、Ingressをプレイすることで、現実世界ってこんなに巨大なのかということが再確認される。
    休日に18時間かけてロードバイクで走り回っても、「全地球的な闘い」の前では、自分が寄与できる範囲は、初心者のうちは、ほんのちょっとなのだ。その結果、躍起になるまでハマったエージェントは、1日に10キロから20キロも歩くようになってしまう(スゴイね)。
    実際、僕の場合は7月14日にiPhone版が解禁になってから、仕事をしながら睡眠時間を削って100キロも歩いてしまった(で、GoogleのイベントでIngressシールもらいました)。とはいえ、歩き過ぎて足が痛いからロードバイクを買った(これを通称リアル課金という)。僕なんてまだまだで、多くのエージェントが集まるPortalの密集地へ足を運ぶと、大抵、一人くらいは歩き過ぎて足を痛めて杖を付いている廃人レベルの人間がいるのだから恐ろしい。
     
     
    ■一人一人の特別なゲーム体験を産むシステムと、遭遇する面白エピソード
     
    現実とリンクしているゲームであるためか、普通のゲームでの目標にあたるものを、自分で決め、そのために努力出来るのも楽しい。僕がやって個人的に達成したものにこんなものがある。
     
    『皇居を全部、自陣営に染める』
     
    皇居の内堀の外をロードバイクで何周もして、ある程度まで成功。ただどうやっても皇居内――しかも通常の参賀では絶対に入れない箇所――に侵入しないと出来ないPortalがあるのだが、これは一体、誰が設置したのだろう? 流石に僕には皇宮警察の目を盗んでまで、二重橋奥のPortalをhackする勇気はなかった。ちなみに首相官邸内のWi-Fiから、Ingressにアクセスしてしまい、その結果、外部には秘密にしているルーターのIPアドレスが漏れ、一悶着という事態もあったらしい。
     
    『隅田川の花火会場を全部緑に染める』
     
    Ingressを初めて2週間目ぐらいに、隅田川花火大会があったため、その時までの隅田側の河畔をつないで自陣営にしようと画策。朝の4時から隅田川に掛かる橋を雨の中、山岳用のゴアテックスのレインコートを着込んで行ったり来たり。これまたある程度までは成功したのだけれども、花火大会が終わったら敵の猛反抗を受けて挫折。『埼玉スタジアムを攻略する』これは緑側プレイヤーの間で、都市伝説的に広まっていた話。埼玉スタジアムに、青側の有力エージェントたちの手によって作られたファームがあった(ファームとは、レベルの高いPortalが集まった場所で、強力なアイテムを入手しやすい)。
    埼玉スタジアムを落とすことで、都内へ通勤している彼奴らの、首都襲撃の威力を弱めたいのだが、生半可な攻撃ではすべてを壊せないばかりか、あっという間に修復されてしまう。いつかLevelが高い仲間が集ったら、ぜひ埼玉スタジアムの攻略に行こう……というわけだ。「まるでゾウの墓場を探そうとか、ショッカー基地みたいな扱いだなぁ」と感心した記憶がある。
     

    ▲レジスタンス(青)側に占拠された埼玉スタジアム
     
    こうした個人的なチャレンジや、不可思議な都市伝説が、街のアチコチで発生している。ガチのエージェントは、自分の庭に、Amazonで買った燈籠(税別7万円)を設置してPortalに申請していたりするとかしないとか。
    そんな「自宅Portal」も、眉唾話だと思っていたら、先日、あるエージェントたちが、地方で深夜に寺の敷地内のPortalを攻めていたら、急にお坊さんが登場。門が空いているとはいえ、参拝でもない深夜の進入を怒られるかとビクビクしていたそうだ。と思ったら、「Ingressですか? まあほどほどに」と諭されたとか。僧侶でもIngressを知っているのか、さすがにブームも加熱しているなと思ったら、なんとそのお坊さんは敵側のエージェントだった。
    寺を離れるやいなや、たちまちのうちにPortalを奪還されてしまう。ちなみにその坊さんのエージェント名が「アナンダ」(釈迦の弟子)。「坊さん、自宅をPortalにしているのか」「このAgentは聖お兄さん気取りかよ!」とひとしきり話題になったそうな。
    架空現実のゲームではありえない巨大さのため、ハマった廃人のエピソードは単に日本に限らず、中には「私有地に電波塔をカンパで建てちゃった」という米国人プレイヤー集団もいるそうだ。