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  • 【特別再配信】『Gレコ』で富野由悠季は戦後アニメを終わらせたのか――石岡良治、宇野常寛の語る『Gのレコンギスタ』

    2017-08-21 07:00  
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    アニメでありながら「現実よりも乖離した世界」を描こうとした『Gレコ』。この意欲作に富野監督が込めた思いとは何だったのか――アニメ史的観点から石岡良治さんと宇野常寛が対談形式で読み解いています。
    (本記事は2015年7月21日に配信した記事の再配信です/「サイゾー」2015年7月号)

    (画像出典)

    ▼作品紹介
    『Gのレコンギスタ』
    監督・脚本/富野由悠季 制作/サンライズ 放送/2014年10月~15年3月(MBSほか)
    宇宙世紀が終わって1000年が経ったとき、人類は技術進歩に制限をかけることで新たな繁栄を作り出していた。 地球上のエネルギー源として宇宙からフォトン・バッテリーがもたらされ、その輸送経路である軌道エレベーター「キャピタル・タワー」と周辺地域は神聖視されている。そのエリアを守護する組織キャピタル・ガードの候補生であるベルリ・ゼナムは、初の実習で未知の高性能モビルスーツ「G-セルフ」の襲撃を受ける。それがすべての始まりだった──。

    アニメなのに「現実よりも乖離した世界」を描いた『Gレコ』
    石岡 近年、宮﨑駿の『風立ちぬ』、高畑勲『かぐや姫の物語』と、アニメ界の巨匠の引退作らしき作品が続きましたが、正直どれも「これで引退は許されないんじゃないか」と思うところがありました。その中にあって、『Gのレコンギスタ』(以下、『Gレコ』)は意欲作だった。73歳の富野由悠季が、枯れることなく変なことをやっている。ただ、いきなり新しいことを始めてしまってそれをモノにしきれなかった。例えば、5つの勢力を同時展開させることがそう。基本的には、これはすごくいいんです。『機動戦士Zガンダム』(85年)以来、富野ガンダムの基本は「三つ巴」だった。二大勢力が争っていて、そこに3番目の新興勢力が現れる構図。それが『Gレコ』では中盤で勢力が増えていって、最終的に「五つ巴」になる。普通なら作家として脂が乗っている若手~中堅のときに持ち込むような新しい試みを73歳がやっていること自体は買いたいんだけど、そのせいで難解になってしまっていた。そもそも尺が短すぎた。1年間かけないと語りきれない話を2クールでやったことによる混乱があって、それを解きほぐす作業をまだ誰もできていないんじゃないか。僕も3周しましたが、まだよくわかっていないところがあります。
    宇野 僕は本当に最初は話がまったく理解できなくて8話あたりで一度挫折して、しばらくして15~16話まで観てまた挫折して、その後ようやく最終話まで観終えました。まあ、内容がまったく理解できない、説明不足で情報量を詰め込み過ぎだという批判は正しいと思うけれど、ラスト数話はそれでも流れで見せてしまう演出の力技のほうが勝っていたと思うんですよね。全話このクオリティが維持できれば、普通に傑作扱いだったんじゃないかとすら思う。逆にいえば、ラスト数話まで「これはなんだろう」と思って観ていた。ただそれは必ずしも批判じゃなくて、富野由悠季がすさまじいことをやっているから。もともと彼の演出テクニックとして、物語的に整理されていないところを意図的に残すことによってリアリティを出すというのは80年代以前からよくあった。けれど、なんと『Gレコ』は全部それで作られている。
     これは結構恐ろしいことで、そもそもこんなに映像というものが20世紀に発達したのは、三次元の体験は特定の狭い共同体の中のコンテクストをわかっていないと共有できないけれど、一度それを二次元に焼き直して映像にして、虚構にしてしまうとわかりやすく整理できるから。だから映像メディアというものが生まれたことによって初めてグローバルコンテンツが生まれたし、今までにない規模で社会というものを運営することができるようになっていった。
     その意味では、作家の意図したもの以外配置できないアニメは、究極に統合された、現実の解離性を全く孕まない映像を生むことができる究極の映像装置なわけです。だからグローバル化の進行と並行して、世界的にメガヒットする映画がアニメ中心になっていったわけだけど、その状況下において『Gレコ』は、わざわざアニメで現実以上に乖離した状態を執拗に描いている。これは要するに富野由悠季の反時代的なメッセージだと思う。誰もが映像=統合されたリアリティにカジュアルに接することができる時代にあって、もはや作家が100%コントロールできる映像でしか、バラバラに乖離した現実に人々が向き合うことはできないってことだと思うんですよね。
     例えばベルリ[1]がカーヒル[2]をなぜ殺したのかはよくわからないけれど、そのよくわからないところも含めて、うまく説明できない、腑に落ちない「現実」をわざわざアニメでシミュレーションしている。話が終始噛み合っていたり、人物の行動がいちいち腑に落ちるのは物語の中だけ。というか、そもそも我々が物語に求めるのは説明可能な、統合された世界という虚構なんですよね。でも『Gレコ』はほとんど嫌がらせのようにそれを拒否していて、アニメでわざわざ、それも執拗に現実並みに乖離した世界をシミュレーションしている。
    石岡 そう、全員の思惑がどうもフワフワしてるんですよね。公式サイトのあらすじを読み返しても、いまいち掴めない(笑)。確かに、“非統合”の可能性がここにはあるのかもしれない、と思わされますね。
    主人公に恋人ができなかったのはなぜか
    宇野 メカ演出は普通に素晴らしかった。あれだけバラバラのデザインワーク[3]で作られたものを同じ絵に収めて、あの尺でまとめあげるということをやれる演出家は世界中で富野由悠季だけだと思う。これは押井守がよく言うことだけど、通常はアクションを入れると物語は停滞するもの。それが、モビルスーツ戦闘自体が登場人物たちの思想のパワーバランスとリンクされていて、物語的な緊張感を演出することができていた。

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  • 【特別再配信】稲見昌彦「ヒトと超人の境界面――身体拡張のアクチュアリティ」

    2017-08-18 07:00  
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    「身体拡張」や「超人スポーツ」で知られる、東京大学先端科学技術研究センターの稲見昌彦教授 。稲見先生にお話を伺いながら、哲学的な領域を包括しつつある昨今の工学的知見を元に、テクノロジーによって拡大化・細分化される人間の「自己」あるいは「身体」の新たな定義について考えます。
    (構成: 神吉弘邦/本記事は2016年9月20日に配信した記事の再配信です )

    3層のレイヤーから見える世界
    宇野 2月に刊行された稲見先生のご著書『スーパーヒューマン誕生―人間はSFを超える』、拝読いたしました。この本の中で扱っている話題と、今の稲見先生の研究領域とは、どのくらいつながっているのでしょうか?
    稲見 僕これまで主にやっていたテーマは「人間拡張」でしたが、現在の研究テーマは「人体の再設計や再定義」や「心の身体の問題」です。今回の書籍では、前者の方が今の時代に多くの人に伝わる話題だという判断で、そちらをメインに書いています。
    今の研究分野に名前を付けるなら「身体情報学分野」でしょうか。今年春に、東京大学先端科学技術研究センターに異動したときに、研究分野名を自由につけて良いというので、そう名乗っています。今は興味の対象がそちらに向かっているので「人間拡張工学分野」とは付けませんでした。う、全員の思惑がどうもフワフワしてるんですよね。公式サイトのあらすじを読み返しても、いまいち掴めない(笑)。確かに、“非統合”の可能性がここにはあるのかもしれない、と思わされますね。
    宇野 この本では、ヴァーチャルリアリティとロボットの話題が一冊にまとめられていますが、この分野を包括的に表すような言葉はないんでしょうか?
    稲見 私はVR、ロボットを包含する学問領域名として、「身体情報学」と名付け、身体を情報システムとして理解、設計することを目指しています。身体拡張はその第一段階と考えています。旧来的には「ヒューマン-マシン インタフェース」や「コンピュータ-ヒューマン インタラクション」になるんでしょうが、こういった伝統的なヴァーチャルリアリティの分野が研究していたのは、情報世界と物理世界、つまりデジタル-フィジカルの関係をどう設計していくかでした。
    情報技術はニコラス・ネグロポンティの著書『ビーイングデジタル』で語ったように、すべてがデジタルに移行しようとしています。その両者の中間的なところに「タンジブル」があったりして、物理-情報界面領域はいま落合陽一先生も取り組んでいるところですね。
    この物理世界と情報世界を対比する考え方に対し、私は最近サイバネティクスの始祖であるノーバート・ウィーナーに倣って、世界を「自分が直接制御できるもの」と「自分が直接制御できないもの」に分けて捉えることを提案しています。そして自らの可制御領域を押し広げて行こうというのが「人間拡張」の考え方です。
    その考え方を基本とし、”We”という概念を考えます。「自分が直接制御できるもの」と「自分が直接制御できないもの」は、「自己」と「それ以外」と言い換えることができます。ここで主語を「自己」ではなく「我々」に転換する、つまり"I"から"We"へと考え方を広げることで、これはまさに我々人類が制御可能な領域を広げるというエンジニアリングによって目指すべき目標となります。
    このエンジニアリングの世界にも界面があって、それは「可制御界面」と捉えられます。その外側に広がっているのは「観察できるもの」と「観察できないもの」の世界で、ここでも主語を"We"に置き換えることによって、新たな技術により観察可能な世界つまり「可観測界面」を広げるという、サイエンスの目標と捉えることができます。そして、学問全般が目指す目標は人類にとっての「理解界面」を押し広げることかもしれません。
    まとめると「制御できる世界」「観察できる世界」そして「理解できる世界」。この3層のレイヤーが、テクノロジーによってどう変わっていくかに興味があります。

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  • 本日21:00から放送☆ 今週のスッキリ!できないニュースを一刀両断――宇野常寛の〈木曜解放区 〉2017.8.17

    2017-08-17 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈木曜解放区 〉生放送です!
    〈木曜解放区〉は、宇野常寛が今週気になったニュースや、「スッキリ!!」で語り残した話題を思う存分語り尽くす生放送番組です。
    時事問題の解説、いま最も論じたい作品を語り倒す「今週の1本」、PLANETSの活動を編集者視点で振り返る「今週のPLANETS」、週替りアシスタントナビゲーターの特別企画、そして皆さんからのメールなど、盛りだくさんの内容でお届けします。
    ★★今夜のラインナップ★★メールテーマ…「夏休み」アシスタントナビゲーター特別コーナー…「長谷川リョーの論点」 and more…
    今夜の放送もお見逃しなく!▼放送情報放送日時:本日8月17日(木)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛
    アシスタントナビゲーター:長谷川リョー(ライター・編集者)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterの
  • 【特別再配信】秋草俊一郎「〈文学〉は情報化を欲望する――デジタル・ヒューマニティーズの可能性」

    2017-08-17 07:00  
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    フランコ・モレッティ『遠読〈世界文学システム〉への挑戦』を翻訳した、秋草俊一郎さん。過去の膨大な文学作品をビックデータとして解析するという、新しい比較文学の手法「デジタル・ヒューマニティーズ」の代表的な論者であるフランコ・モレッティと、彼が提示した「遠読(Distant Reading)」という方法論は、文芸批評に何をもたらすのか。比較文学の研究者であり翻訳家でもある秋草さんにお話を伺いました。(本記事は2016年9月20日に配信した記事の再配信です )


    『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』
    ▼内容紹介(Amazonより)
    テクノロジーや流通の革命・発達により世界がネットワーク化する今日、ごく少数(世界で刊行される小説の1%にも満たない)の「正典(カノン)」を「精読」するだけで「世界文学」は説明できるのか?
    西洋を中心とする文学研究/比較文学のディシプリンが通用しえない時代に、比較文学者モレッティが「文学史すべてに対する目の向けかたの変更を目指」して着手したのが、コンピューターを駆使して膨大なデータの解析を行い、文学史を自然科学や社会学の理論モデル(ダーウィンの進化論、ウォーラーステインの世界システム理論)から俯瞰的に分析する「遠読」の手法だ。
    本書には、「遠読」の視座を提示し物議を醸した論文「世界文学への試論」はじめ「遠読」が世界文学にとりうるさまざまな分析法が展開する10の論文が収められている。グラフや地図、系統樹によって、世界文学の形式・プロット・文体の変容、タイトルの傾向や登場人物のネットワークが描出されてゆくのだ。
    21世紀に入り、人文学においても、デジタル技術を用いて対象や事象をデータ化し、調査・分析・綜合を行う〈デジタル・ヒューマニティーズ〉の方法論が拓かれつつある。「遠読」もまた世界文学に新たな視界を開こうとする比較文学からの挑戦なのだ――「野心的になればなるほど距離は遠くなくてはならない」。

    文学を“離れて読む“「遠読」というアプローチ
    ――まずは、この本のタイトルにもなっている「遠読」が、どういう意味で使われている言葉なのか、改めてお伺いします。
    秋草 そもそも「遠読」って聞き慣れない言葉ですよね。この本の原書のタイトルである“Distant Reading”は、著者のフランコ・モレッティによる造語で、「遠読」はそれを邦訳したものです。この本の元となった論文は、海外の動向に通じた文学研究者の間ではよく知られていて、この「遠読」という言葉も本になる以前から関係者の間では膾炙していました。
    もともと文学研究には、アメリカで50〜60年代に出てきた「精読」(Close Reading)という概念があって、それが理想的な批評のあり方とされてきました。たとえば海外の夏目漱石の研究者であれば、『こころ』などの日本語で書かれた原文を何回も読んで論文を書くのが本道である、という考え方です。その後、いろいろな方法論が出てきましたが、それでも「精読」は一貫して文学研究の中で強い権威を持っていたわけです。
    そこに、イタリア人の文学研究者であるモレッティが、それだけでは見えないものがあるということで、“Distant Reading”という言葉を使い始めました。当初は挑発的だったり冗談のような使い方をしていたりもするんですが、具体的なやり方としては、とにかく大量にデータを集めて、そこから何が得られるかを、距離を置いて見ようとする。“Close Rading”=「近い読み」に対して、「距離を取る読み」=“Distant Reading”(遠読)と呼ばれました。
    そのコンセプトで書かれた10本の論文を集めたのが、この本です。各章はそれぞれ独立した論文なので内容はバラバラですが、“Distant Reading”という方法論は共通しています。
    もっとも、「遠読」という言葉は、この本の第2章の論文「世界文学への試論」(2000年)で初めて登場しますが、その時点では、明確な方法論があったわけではないと思います。
    その後、自分の言葉に引っ張られるかたちでデータを重視するアプローチへとシフトし、モレッティ自身も2000年にコロンビア大学からスタンフォード大学に移籍して、Literary Labという研究所を設立し本格的に研究を始めます。
    その後、2005年に『グラフ、地図、樹――文学史の抽象モデル』という本を出していますが、そこではグラフや地図を使った分析をかなりやっています。たとえば、日本の江戸時代の出版物の点数をグラフ化して、同時代のアメリカやイギリスといった欧米諸国と比較するといった試みをしています。
    ――『遠読』のアイディアは、ビックデータを駆使した経済学の研究でベストセラーとなったトマス・ピケティの『21世紀の資本』の文学史版という印象を抱きました。
    秋草 ピケティの場合は、いろんな国の数百年分のデータを苦労して集めた、という部分が注目されたわけですよね。今、人文系の分野でこういった試みは、モレッティ以外にもあちこちで行われています。今後はそういったデジタル・ヒューマニティーズと文学研究を融合した分野がどんどん出てくると思います。

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  • 【特別再配信】根津孝太(znug design)×宇野常寛「レゴとは、現実よりもリアルなブロックである」

    2017-08-16 07:00  
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    誰もが知っているブロック玩具のレゴ。しかし、身近だからこそ、改めてその魅力について考える機会は少ないものです。昔からレゴが大好きだというカーデザイナーの根津孝太さんにお話を伺いながら、レゴの歴史から批評性、現実と虚構の繋ぎ方、そしてものづくりの未来まで、これからの日本を考える上で重要な想像力に迫りました。 (構成:池田明季哉/本記事は2014年6月11日に配信した記事の再配信です)

    小さいときからレゴ大好き!――根津孝太とレゴ 
    宇野 僕がレゴを買いはじめたのって、実はここ1年くらいなんですよ。ずっと買おうと思っていたんですが、手を出したら泥沼にハマることがわかっていてなかなか買えなかった(笑)。でもとうとう我慢できなくなって「レゴ・アーキテクチャー」シリーズに手を出してしまい、それから「レゴ・クリエイター」の大型商品を買ったりとか、あとは「レゴ・テクニック」の3つのモデルに組み替えられる小型商品とか、あとはヒーローものが好きなので、バットマン・シリーズを買ったりとかしています。
     根津さんは昔からのレゴファンという風に聞いています。今日はレゴについて、いろいろなお話を伺えればと思います。
    根津 僕はレゴが小さいときから好きなんです。ただ最初に買ってもらったのがレゴってだけだったんですけど、子供ながらに発色の良さとかカチッと組み合わさる感じとかにクオリティを感じていて。レゴ新聞に載ったこともあるんですよ!

    ▲楽しそうに話してくれる根津さん。「CAST YOUR IDEAS INTO SHAPE」と書かれたレゴのTシャツが素敵
    宇野 レゴ新聞! そんなものが……。やはり後に根津孝太になる人間は、小さい頃から根津孝太だったということですね(笑)。
    根津 街づくりのコンテストに妹と一緒に出したら入賞しちゃって。そしたら依頼が来て、小学校6年生くらいのときにF1を作ったんです。同じF1の、ひとつすごい大きいのを作って、もうひとつすごい小さいのを作って、ブロックの差こんだけです! みたいなことをやったんですね。
     例えば、これは僕のデザインしたリバーストライク「ウロボロス」をレゴにしたやつなんです。アメリカに自分がデザインしたモデルをパッケージに入れて届けてくれるサービスがあって、それで作ったんです。これも大きいものと小さいもの、両方作っています。

    ▲異なる解釈のふたつのウロボロス。資料の右上が大きいもの、左下が小さいもの。レゴファン諸氏は、ウィンドシールド部分の大きさから全体のサイズを推し量っていただきたい。
     ウロボロスのレゴも実物の写真を見ながら作るわけですけど、小さく作るとよりディフォルメしないといけない。だったらやっぱりこのフェンダーの丸いところと、タイヤの表情がウロボロスらしさだよね、それ以外は大胆に省略しよう、ということで、自分の解釈を出してるんです。 
    解像度と見立ての美学ーーディフォルメだけが持つ批評性
    宇野 根津さんはずっと小さいときからレゴをほとんど途切れなく作ってきてるわけですよね。それなりに長いレゴの歴史をずっと追ってきたと思うんですけど、レゴの歴史のターニングポイントみたいなものってありますか?
    根津 一時期、解像度を上げるために、専用パーツが一気に増えたことがあったんですよ。絶対にそのモデルでしか使えないような。
     でもレゴがさすがだなと思うのは、必ずそうじゃない使い方も用意して提案してくるんですよ! 「これ他に何に使えるんだよ……」みたいなパーツでも、後で必ずなるほどと思うような使い方をしてくる。それは最初からそれがあってパーツを作っているのか、それとも後からレゴの優れたビルダーが使い方を考えているのかはわからないんですけど。
     例えば僕が作ったこの装甲消防車も、このコックピットの横の板の部分は、チッパー貨車っていう列車のすごく特徴的な部品を使ってるんですが、パッと見わからないと思うんですよね。あとは有名なビルダーさんには、ミニフィグだけで何かを作ってしまう人とかもいますし、このオウムが人間の鼻に見えるんですとか、いろんな見立てができるんです。
    宇野 レゴってある時期から、どんどん模型化しているじゃないですか。組み替えを楽しむ玩具というよりは、独特のディフォルメと解像度を持つ模型の方向に舵を切っていて、この転向に批判的なファンもすごく多い。でもここ10年くらいのレゴの変化って、もっとポジティブに捉えていいんじゃないか。レゴの美学がもたらす快楽に世界中が気付き始めている、そう考えていいんじゃないかと思っているんですね。

    ▲根津さんが持ち上げているのが、開閉式のコックピット。

    ▲同じパーツを使った別モデルのコックピット内部。このアングルになって初めて、バケット状のパーツを使っていることに気付かされた。

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  • 【特別再配信】ロビイストは日本的政治風土を変えうるか? マカイラ株式会社代表・藤井宏一郎が語る「パブリック・アフェアーズ」

    2017-08-15 07:00  
    550pt


    お盆休みの特別再配信第2弾は、元Googleで現在はマカイラ株式会社の代表を務める藤井宏一郎さんのインタビューです。日本では数少ない、政治と企業とをつなぐ「ロビイング」を仕事としている藤井さんは、旧来的な中間団体や談合がはびこる日本の政治風土に、どのような新風を吹き込もうとしているのか。藤井さんが考えるロビイストの役割と理想について、宇野常寛がお話を伺いました。(聞き手:宇野常寛、構成:稲葉ほたて/本記事は2016年4月22日に配信した記事の再配信です)

    パブリック・アフェアーズとは何か
    宇野 藤井さんとはじめてお会いしたのは、数年前ですね。当時はGoogleにいらっしゃって、この前のお正月に久しぶりにお会いしたときに、藤井さんのご活動についてお伺いしたのですが、とても面白いと思いました。ただ、同時に説明が非常に難しいなとも思ったんです。けれど藤井さんのようなプレイヤーがいることとその活動を、このメルマガの読者に伝えることはとても価値があることだと思ったので、取材をお願いした次第です。
    藤井 そうですね(笑)。でも、ひとまず説明してみましょう。
    私は現在、マカイラ株式会社というコンサルティングファームをやっているんです。これが何の会社かというと、「イノベーション・アドボカシー」をやる会社になります。「アドボカシー」というのは広く「政策などの提唱活動」という意味の英語ですが、その意味するところは提言するだけに留まりません。PR活動、イベント開催、ロビー活動……まで広くその政策過程に入り込んで支援していく業務なんですね。
    たとえばあくまでも例ですが、今話題になっているシェアリングエコノミーだったら、そのための新たな規制について、新規産業側の視点に立って積極的に提言していくことになります。規制についてであれば、民泊と旅館業法の問題や、ライドシェアだったら道路運送法の問題がある。そういうことに関して、法律事務所さんなどの手を借りたりしながら、「日本の規制はこういうふうになっていて、こういう問題がある」ということを分析するわけです。すると「法律や政策をこういうふうに変えれば、このビジネスは実現できるんじゃないか」ということが提案できるんですね。
    で、その上で規制当局――つまり霞ヶ関で実際に法律を所管している役所のお役人の方々にお会いして、「こういうビジネスを日本でやりたいのだが、こういう問題があって、諸外国ではこういう形で法律が改正されてうまくいっている。日本でもなんとかならないか」と話すわけです。もちろん、その一方で永田町にいる先生方にもお会いして、同じようなご説明を差し上げます。
    さらに経済団体や産業団体も関わってくるので、そういう方々にもお会いして、味方になってくれそうな人たちに「ぜひ一緒にやりましょう」と言って、巻き込んでいきます。同様の問題で困っているベンチャー企業などにも当たって、「この運動を一緒に巻き起こしましょう」と話します。
    宇野 基本的にはロビイング活動の啓蒙とサポートをしているわけですね。
    藤井 もちろんそれだけではなくて、ときにはイベントなどを開いて、ユーザーの組織化も積極的に行います。あるいは、経済分析をやるようなコンサルティング会社さんと組んで、具体的な経済効果を算出したりもしますしね。
    宇野 政治過程の一連のプロセスに総合的に関わっていく仕事がパブリック・アフェアーズだということですね。
    藤井 そうです。
    今、我々はテクノロジーのものすごく面白い転換期にいるんですよ。情報通信革命という言葉はこの20年くらい使われ続けていますが、間違いなくこれは新たな産業革命でしょう。ここまで劇的に世の中が変わるのは本当に何百年に一度、下手をすれば千年に一度です。それこそ活版印刷の発明と同じくらいの節目に、我々は立っているわけですよね。
    そのときにテクノロジーと世の中の間に立って、政策や社会システムを作り上げる仕事の一端を担えることは、とても幸せで特別なことだと思いますね。
    しかも、ここに来てテクノロジーが“ウェブブラウザから飛び出した”わけですよ。単にブラウザの中で完結するSNSなどのサービスと違って、IoTやロボティクス、ドローンやシェアリングエコノミーのような、物理的に機械と機械を繋いで、画面の外で起きる出来事を扱うサービスが盛り上がり始めているんです。

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  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第8回 富野由悠季とリアルロボットアニメの時代(前編)

    2017-08-14 07:00  
    550pt

    本誌編集長・宇野常寛の連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』、今回は富野由悠季(当時は富野喜幸名義)の初期作品が登場します。衝撃的な結末を迎えた『無敵超人ザンボット3』、そして、リアリズムを持ち込むことでロボットアニメに革命を起こした『機動戦士ガンダム』について語ります。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです /2016年9月2日に配信した記事の再配信です)。
    ロボットアニメにリアリズムを持ち込んだ『無敵超人ザンボット3』
     『マジンガーZ』で男子児童文化の主役に踊り出たロボットアニメは、様々なかたちで発展を遂げていきます。たとえば1974年放映開始の『ゲッターロボ』では合体ロボが登場します。合体ロボットの初出はおそらくは『ウルトラセブン』(1967年放映開始)に登場したキングジョーという宇宙人の合体ロボットだと思うのですが、『ゲッターロボ』は同じ永井豪を原作とする(作画を担当した石川賢のカラーが強い作品ですが)『マジンガーZ』の「乗り物としてのロボット」というコンセプトにこの「合体」という要素を取り入れたわけです。3機のマシンが合体し、空戦用には「ゲッター1」、陸戦用には「ゲッター2」、海戦用には「ゲッター3」というかたちで3種類の形態に変形するんですね。『ゲッターロボ』は、この変形がカッコいいということで人気を博したんですが、同時に「おもちゃできちんと再現できない」という壁にもぶつかりました。
     ここを突破したのが1976年放映開始の『超電磁ロボ コン・バトラーV』で、劇中のイメージに近い変形合体が再現できるおもちゃを作ることに成功して、これが大ヒットします。ちょっとオープニングの映像を見てみましょうね。はい、『コン・バトラーV』は5体の戦闘メカ、戦闘機や戦車が合体してひとつのロボットになります。『マジンガーZ』と同じ水木一郎さんが主題歌を謳っています。そしてやっぱり、内蔵している武器の名前をずっと叫んでいます(笑)。
     70年代半ばから後半にかけてのロボットアニメブームはおもちゃの進化とともに拡大して、ジャンルとして完全に定着します。基本的には30分の玩具コマーシャル的なロボットプロレスが反復されるのですが、ジャンルの拡大の中でその制約を逆手にとってアニメの表現の可能性を広げよう、という動きも出てきます。
     『コン・バトラーV』の翌年、1977年に『無敵超人ザンボット3』というアニメが登場します。この少し前に、手塚治虫の設立したアニメ制作会社「虫プロダクション(通称:虫プロ)」が倒産してしまい、その残党たちが設立したのが「サンライズ(当時は日本サンライズ)」という制作会社です。そのサンライズが初めての自社企画として制作したのがこの『ザンボット3』でした。さっそくオープニングを見てみましょう。

    ▲『無敵超人ザンボット3』
     『ザンボット3』はいとこ同士3人が合体ロボットに乗って戦うアニメです。ザンボットに乗る神勝平(じんかっぺい)・神江宇宙太(かみえうちゅうた)・神北恵子(かみきたけいこ)の3人とその家族を「神ファミリー」と呼ぶんですが、彼らは江戸時代に地球に逃げてきた宇宙人「ビアル星人」の子孫であるという設定です。なぜ逃げてきたかというと、ガイゾックという別の宇宙人に自分の星が攻め滅ぼされてしまったからです。逃げてきたはいいけど、そのうち地球もガイゾックに襲われる可能性が高いから、ビアル星人たちは300年のあいだに戦闘用ロボットを開発しながら戦いに備えていた。そんななかで、ついにガイゾックが地球侵略を開始します。そこで神ファミリーの3人は地球を守るために、ロボット「ザンボット3」に乗って戦います。
     ここまではいいでしょう。これまで見てきた作品に比べて多少複雑な設定かな、と思う程度だと思います。
     しかしここからが面白い。なんと、地球人たちは自分たちのために戦ってくれている神ファミリーを「お前たちが地球に逃げ込んできたせいで俺達が襲われるんだ」と言ってとことん迫害するんですね。
     神ファミリーからすると「地球を守るために戦っているのに、なんでいじめられなきゃいけないんだ」と思いますよね。もともと友達だった奴らからもいじめられて、石投げられるどころか家代わりの移動要塞に爆弾を仕掛けられたりするんです。ザンボット3が地球を守るために敵のロボットと戦っていると、お巡りさんがやってきて道路交通法違反で取り締まられたりもします。全23話の話ですが、15話くらいまでずっとそういう話で、非常に陰湿な印象を受けると思います。
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  • 本日21:00から放送☆ 今週のスッキリ!できないニュースを一刀両断――宇野常寛の〈木曜解放区 〉2017.8.10

    2017-08-10 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈木曜解放区 〉生放送です!
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    ▼放送情報放送日時:本日8月10日(木)21:00〜22:45
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    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛
    アシスタントナビゲーター:たかまつなな(お笑いジャーナリスト)
    ▼ハッ
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第18回 物語からゲームへ【毎月第2木曜配信】

    2017-08-10 07:00  
    550pt


    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前回に論じた2つのゲーム的形式をふまえ、今回はゲームと物語の関係について捉え直します。

    3−5.物語認知とゲーム(学習説の他説との整合性③)
    3-5-1.二次的フレームとしての「物語」
     前回の議論で、ゲームというものが日常の内側にあるものか、外側に在るものかについて論じ、日常(一次的現実)の内側にもゲーム的な体験の一種(二次的フレーム)は充分に成立しうるという結論を得た。そして、また我々が「ゲームを遊ぶ」とき、我々の日常の感覚と、それにもう一つの感覚が重ね合わされた、重層化された経験を生きることであるということを確認してきた。一つの時間を、感覚が重ね合わせられた状態として経験する、というのは珍しい経験ではない。
     これらの話を前提として、次の論点に進みたいと思う。ここまで「二次的フレーム」という述語をあくまで「ゲーム」に関わる認知の形成として扱ってきた。しかし、世界のありようを理解するフレームは「ゲーム」的なものだけではない。その代表的なものの一つは「物語」だ。そして、この「物語」と「ゲーム」は少し難しい関係にある。
     今回はこの「物語」と「ゲーム」の関係について考えたいと思う。
     「物語」について「ゲーム」を論じる文脈のなかで語るということは、しばしばある種の問題について語ることと同義とみなされる。
     たとえば、ゲームと物語はしばしば対立関係にあるものとして語られる。ゲームというメディアが持つインタラクティヴな性質と、表現メディアとしての物語がもつ固定された性質との対立というものが重要な対立であるとみなされることは、コンピュータ・ゲームについて議論する文脈では、たびたびとりあげられる[1]。この対立関係には「ludonarrative dissonance」[2]という用語まである。
     たとえば、RPGの物語上で「強い」とされているキャラクターが仲間に加わったときに、レベル上げをしすぎていた場合そのキャラが「強い」という物語上の設定を受け入れるのに違和感が出てしまったり、物語上の強力なボスの手前でゆったりと宝箱を物色していたりするときの違和感といったものは、ゲームメディアのインタラクティヴな性質と固定された表現としての「物語」の対立の一例になるだろう。
     「物語」は、現実理解のフレームの一つとして極めて強力なものだが、このような事情から、ゲームとは対立構造にあるものとしてしばしば語られてきた。
     しかし、今回はこの対立について扱わない。この問題は重要な論点の一つではあるが今回論じようとしている文脈では不可避の論点ではないからだ。こうした対立は「ゲームと物語の本質的な対立」というよりは、「ゲームのもっている性質の一つと、物語のもっている性質の一つの対立」という部分的な問題にとどまる[3]。
     どういうことか。
     ここまで「ルール」の話[4]でも、「非日常」の話[5]でも、繰り返してきた話だがある対象に対してプレイヤーが抱く主観的な認識の問題と、対象そのものをここでも分けて論じることにしたい[6]。その前提に立ったうえで、整理するならば、「ゲームと物語の対立」というのは、プログラムの束としてのゲームと、テクストや音声として固定化された物語の対立という部分的な問題にすぎないといえる。映画/マンガ/小説/ゲームシナリオといった形で表現された「物語」は確かに固定され、閉じたものとしての性質を持つが、それは表現メディアとしての性質であって、我々が日常において経験する物語的な認識プロセスとか、物語の経験全体が閉じているわけではない。家族や友人と、今日あった出来事について話し合うときに、そこで語られる物語は決して閉じているわけではない。そのようなときに語られ/生成される物語は、固定されているどころが、インタラクションを通じて生成されるものだ[7]。我々の日常は、小説を読むようにして流れているわけではない。そして、今回扱おうとしているのは、このような現実理解の枠組みとしての「物語」の現れ方である。
    結論を先取りしていえば、世界を理解する仕方としての「物語的な理解」と、「ゲーム的な理解」といったものは、対立するどころか相互になだらかにつながっている。
     それは本連載の当初、イラクにおけるアメリカ軍の「誤射」の映像を、リークした事件についての複数の感覚の現れについて理解するうえでも重要な議論だ。イラクの人々のドキュメンタリー映像を見て、ノンフィクションの記事を読み、同時に中東の戦場へと赴くゲームをプレイするとき(1)「戦争が人々の生活を残酷に破壊してしまった」(2)「これなら誤射をしてしまいかねない」というふたつの感覚はパラレルに成立する可能性がある、ということを論点としてとりあげたが、この問題の理解にも関わるものだ。
     我々の日常の中にも、非日常のなかにもゲーム的な状況も、物語的な状況も埋め込まれているし、埋め込まれうる。そして、このように「ゲーム」が日常のものに混ぜ込まれうる、という前提は「ゲーム」観について、いくつかの新しい事態をよび起こすことになる。 「物語」と「ゲーム」概念の差分について確認をしながら、それがいったいどういう意味なのかを示していきたい。

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  • 【新連載】池田明季哉 "kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 序章(前編)「G.I.JOEとスーパーヒーロー──20世紀を戦った偉大な父とその子供たち」【不定期配信】

    2017-08-09 07:00  
    550pt


    今回から、デザイナーの池田明季哉さんによる新連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』が始まります。20世紀末に登場したボーイズトイの歴史をめぐりながら、21世紀における男性の「かっこよさ」について考えます。今回は、G.I.ジョーの描いた理想の男性性の変遷をまとめ、日本のボーイズトイへ与えた影響を考えていきます。

     子供の頃のおもちゃのことを、覚えているだろうか。
     そう言われて、全く何も思い出せないという人は稀だろう。買ってもらえたもの、買ってもらえなかったもの、大切にしていたもの、捨ててしまったもの、なくしてしまったもの、今でも大切に持っているもの……さまざまなおもちゃの思い出が、誰の心にもきっとあることと思う。
     この連載では、そんなおもちゃのデザインを通じて、21世紀における男性の「かっこよさ」について考えていく。
     主に登場するのは、80年代から90年代ーー20世紀末に流行した、主に幼稚園から小学生までの男子をターゲットにしたいわゆる「ボーイズトイ」と呼ばれる日本のおもちゃ群だ。
     トランスフォーマー、ミニ四駆、SDガンダム、ゾイド、ビーダマン、ミクロマン、勇者シリーズ……20世紀末に子供時代を過ごした現在30歳前後の世代ならひょっとすると懐かしさを感じるかもしれないし、有名なおもちゃも含まれてはいるが、このリストの全てで遊んだことがあるという人はそれほどいないだろう。

    ▲トランスフォーマーより「コンボイ」(画像出典)

    ▲ミニ四駆「シャイニングスコーピオン」 (画像出典)
     私は多くの人と同じように幼少期におもちゃに慣れ親しみ、そして多くの人とは違って大人になった今もおもちゃで遊び続ける、おもちゃファンのひとりだ。そろそろ2歳になる娘の父親でもある。だからこの20世紀末のボーイズトイという世界が、一般的に「おもちゃ」という言葉からイメージされるものとは大きく異なる、著しく狭い領域であることもよくわかっているつもりだ。
     この連載で紹介するおもちゃの多くは、教育を目的とした積み木のような知育玩具ではなく、あるいはアンパンマンや仮面ライダーのような、映像メディア上の存在を写し取ったキャラクター玩具でもない。メディアミックスされつつもプロダクトを中心として展開し、それゆえに独自の表現を発展させていたユニークなデザインのおもちゃ群である。男の子たちの欲望に徹底して応えていった結果、これまでになかった新しいデザイン文化がおもちゃの世界を舞台に花開いたのが、20世紀末というタイミングだった。
     こうしたおもちゃのデザインについて考えることで、私はひとつの「やり残した宿題」を解くヒントを見出したいと思っている。20世紀の男性が解くべきだった、そして未だ解かれていない難問。それは「21世紀の男性にとって、『かっこいい』とは何か」ということだ。もし「かっこいい」という言葉が曖昧すぎるなら、「成熟のイメージ」と言い換えてもいい。どのように大人になり、社会と関係していくべきなのか。21世紀になって曖昧になってしまったそのイメージをよりはっきりしたものにするヒントを、20世紀末のボーイズトイを振り返ることで改めて発掘していきたい。
     序章では、まずは前提として本連載で扱うおもちゃの範囲と位置付けを確認しておきたい。この前編では、おもちゃ自体の社会的位置付けと、20世紀までのおもちゃが担ってきた男性性について確認する。次回の後編では、世紀末ボーイズトイの原点となったエポックメイキングなおもちゃを紹介しつつ、この連載で扱うおもちゃを定義づけていく。
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