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本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.8.22
2018-08-22 07:30
本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「出身地」今週の1本 大畠順子著「離島ひとり旅」アシナビコーナー「加藤るみの映画館の女神」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
▼放送情報放送日時:本日8月22日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
▼出演者
ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:加藤るみ(タレント)
▼ハッシュタグ
Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
▼おたより募集中!
番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご感想、宇野に聞いてみたい -
井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第27回 メタファーとしてのゲームーー「快楽」説の検討(2)(学習説の他説との整合性⑥)
2018-08-21 07:00550pt
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームという現象を、ある複合的な行為と行為の間にある対応関係、メタファーの一種と見做す立場から、快の行為を変換する起点、中心性の強いハブになりうるかという、ゲームの新しい定義の可能性を導き出します。
3.8.4 遊び、メタファー、表象
前回、ゲームの快楽経験の範囲が拡張していくことを、言語活動との比喩で述べたが、なぜこのような「言語」と「ゲーム」に類似性をみてとることが可能たりうるのだろうか? 言語の議論と、ゲームの快楽の議論が接続して論じてよいものなのか? この点について説得的な視点を提示しているのが、セバスチャン・マーティン(2013)による議論だ。[1] セバスチャンによれば、ベイトソン[2]、ゴンブリッチ[3]、ウォルトン[4]、フィンク[5]といった論者はいずれも、遊び(play)、表象(representation)、メタファー(metaphor)の三つの領域を相互参照しながら、議論をすすめている。遊びについて説明するために、表象の理論を用い、その例示としてメタファーを用いる。または、表象について説明するためにメタファーの理論を用い、遊びを事例として用いるといったことを彼らは行っている。三つの領域は互いが互いを説明するために参照されており、この相互参照は偶然ではないという。
▲表:Bateson,Gombrich,Walton,Finkにおけるメタファー、表象、遊びという語の使用[6]
セバスチャンによれば、三つの領域はパラドックスを持つという点で共通しているという。 表象(representation)のパラドックスの例に挙げられるのは、ルネ・マグリットの「これはパイプではない」[7]というパイプが描かれた絵画だ。描かれているのは、どう見てもパイプだが、その言葉が示す通り一枚の絵画であってパイプとして使用できるものではない。それは、絵画が、絵画以外のものを表象するという性質によってこうした不思議な事態は起こる。
▲『イメージの裏切り』(1929)
遊び(Play)の例に挙げられるのは、動物の子どもが狩りの遊びとして行う「甘噛み」だ。戯れにカプッと噛み付くのは、確かに「噛んでいる」行為ではあるが、本気で「噛んでいる」わけではない。[8] これらはいずれも、コミュニケーションについてのコミュニケーション、観察についての観察というような「二次の観察」に属するものであると整理できると述べる。[9] 確かに、遊び、表象、メタファーは、いずれもそれ自体から外側の何かと関係するというメタ的性質を持っている。いずれも「それ自体ではない何かと結びつく」ものという点において共通している。
▲『The Marriage』(2006)
そして、セバスチャンは遊びとゲームを比較的近い意味として使用し[10]、ゲームについての議論が行われる際に「メタファー」と「シミュレーション」がほとんど同義で用いられていると指摘する。 四角と丸で表現されたコンピュータ・ゲームに『The Marriage』(2006)と名付けられたものがある。このゲームでは、結びついている二つの四角をうまく結びつけたまま、長くゲームを続けることが目標になる。うまく操作をしてやらないと、片方の四角が消えたり縮小してしまいゲームオーバーになってしまう。 このゲームの二つの四角は、ゲームのタイトルから察するに、おそらく夫婦のことであり、関係を維持することの難しさは夫婦生活の難しさについての比喩であろう、と多くのプレイヤーは解釈するだろう[11]。このゲームは夫婦生活のメタファー(細かく言うとシネクドキ[12])であり、同時に夫婦生活のシミュレーション的なものであると言うこともできる。 以上は、セバスチャンの議論であるが、メタファー、遊び、表象の三領域が近い性質をもっているという主張は、おおむね受け入れ可能だろう。これらの三領域はいずれも、ある領域を別の領域にマッピング(写像)する性質をもっており、マッピングをする性質ゆえに類似したパラドクスを抱えやすく[13]、時にほぼ同義のものとして用いることも可能になる。 言葉や、絵画は指示対象となるモノや概念との間に対応付け(マッピング)がなされる。ゲームは複合的な行為のプロセスと、別の複合的な行為のプロセスとの間での対応付けをしてみせる。そして、セバスチャンが論じているような文脈でいえば、メタファーは対応付けの仕組みのことだと整理できるのではないだろうか。もっともゲームの場合、『テトリス』のように特定のなにかと対応付けられているとはみなしにくいものも多い。そのため、ゲームはすべてがなにかを示すような仕組みだというわけではない。[14] セバスチャンはゲームのシミュレーション的性質を一つの重要な要素として扱っているが、ゲームの快楽説という文脈で言えば、ここに一つ要素を付け加えられるだろう。シミュレーションに、極めて近いものとして「快楽のエミュレーション(模倣)」という問題系を、改めてこの議論のなかに位置づけてみたい。
3.8.5 快楽経験の拡張バリエーション
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これから映画はオペラ・歌舞伎化していく――『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が示す「自己参照の時代」の到来(森直人×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)
2018-08-20 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』をめぐる森直人さんと宇野常寛の対談をお届けします。J.J.エイブラムス監督による本作の「出来の良さ」から見えてくる映画に対する欲望の変化、20世紀の劇映画の名作を参照する二次創作的なアプローチがもたらす新たな課題とは?(初出:「サイゾー」2016年2月号) ※この記事は2016年2月24日に配信した記事の再配信です。
▲Amazon.co.jp『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 宇野 僕は全然『スター・ウォーズ』マニアではないんですよ。さらに言うと、J.J.エイブラムス【1】も世間ほど高く評価していなかった。『スター・トレック イントゥ・ダークネス』(13年)がそうだったように、脚本のギミックで勝負しようとする作品が多くて、どうにも小賢しく感じていた。映画的な快楽を全然信じていないし使えない人なんだな、と。唯一好きだったのが『SUPER8/スーパーエイト』【2】で、あの作品に現れていた、映画史的なものに対するノスタルジックな視線のほうが、エイブラムスのオタク性が有効に働くと思っていた。今回も彼の二次創作作家としての才能がプラスに働いたんじゃないか。こんなこと言ったらファンに怒られるかもしれないけれど、単純に1本の映画として観た時、シリーズ全7作の中で一番「出来が」いいと思う。これはこれで褒め言葉に聞こえないかもしれないけど(笑)。
【1】 J.J.エイブラムス:1966年アメリカ生まれ。高校・大学時代から映画音楽や脚本に携わり、98年に『アルマゲドン』の脚本に参加。2000年代は『エイリアス』や『LOST』など人気テレビドラマシリーズの脚本を手がけ、05年には『ミッション:インポッシブルⅢ』、その後『スター・トレック』等の監督を務める。
【2】『SUPER8/スーパーエイト』:監督・脚本/J.J.エイブラムス製作/スティーヴン・スピルバーグほか 公開年/11年
79年、オハイオ州で自主制作のゾンビ映画を撮ろうとしていた少年たちは、夜中に線路で貨物列車の炎上事故を偶然撮影する。貨物に積まれていたのは宇宙人であり、彼らの周囲と街全体は恐慌に陥ることに。スピルバーグ監修、エイブラムス監督による『未知との遭遇』『E.T.』へのオマージュ的作品とされる。
森 僕も感想をひと言でまとめるなら「すごく上手」に尽きる。まったくストレスを感じずに楽しみました。とはいえ基本的にそれは想定内で、もしルーカスが監督するんだったら「今度は何をしでかすのか?」と皆ドキドキしていたと思うんですけど(笑)、J.J.がやるとなった時、誰もがある程度安心したんじゃないかな。宇野さんのおっしゃることもよくわかるんですけど、J.J.に対する世間の評価は『スター・トレック』のリブートを優等生的に成立させた時点でかなり固定したと思うので、今回も確実に80点を取ることは予想できていた。でもエピソード7は「無難以上の出来」だったと思う。
宇野 きっちり現代風にアップデートされていましたね。今初期三部作を観ると、恥ずかしくなるくらいストレートに、少年の社会化の物語から始まって父殺しの神話に接続していくというのをやっている。それが今回は、物語構造はほぼエピソード4を踏襲し、主人公格を黒人の青年と若い女の子に分散していて、政治的な配慮と共感のアイコンの分散として非常にうまく機能していた。キャラクター消費として旧来のファンの欲望を満たしつつ、現代の新しい神話として再提示するという役割を果たしていた。その時点でこの映画は、我々の期待しているものをクリアしていたと思う。
もともと『スター・ウォーズ』って、ストーリーは省略が多くて繋がっていないし、ドラマ性もとってつけたような薄っぺらさがあって、脚本・演出共に出来がいいとは言いがたかった。でも発想が新しくてエポックメイキングだからそれでいい、というものだったと思う。新三部作(エピソード1~3)は逆に、現代の技術で世界観を拡張することが望まれていたにもかかわらず、旧三部作と同じテンションで展開されてしまったためにどこか焦点がぼやけていたように思う。今回はその反省から、しっかりとマーケットの要請を押さえていましたよね。加えて、単純に現在の技術で『スター・ウォーズ』をしっかりやると、絵面はそんなに変わらないのにものすごくレベルアップしている。その快楽と、ヒロインの女優がものすごくいいというプラスアルファがあった。まさかエイブラムスの撮った『スター・ウォーズ』で、普通に役者がいいと思うなんてことがあると思っていなかった(笑)。ただ、往年の『スターウォーズ』ファンはこういう「過不足のないつくり」はすごく嫌がるかもしれませんね。まったく「らしくない」とも言えるので。
森 ルーカスは ILM【3】を立ち上げただけあって、デジタルジャンキーな側面があるでしょう。そのせいで新三部作はVFXの進化の過渡期をそのまま表していた。特にエピソード1『ファントム・メナス』(99年)はまだデジタルとフィルム撮影が交じっていて、どこか映像の実験に走っている印象です。でも今作は、シリーズで初めて3Dカメラで撮られたものなんだけど、同時に「旧三部作への回帰」がテーマにあって、映像もアナログの特撮と最新のCGを絶妙に組み合わせている。役者も活きているし、模型フェチ心をくすぐる物質感もあって、最適解と言っていいほどバランスがいい。観賞後は思わずトミカのおもちゃとか買っちゃいますよね(笑)。
J.J.は66年生まれで、エピソード4(77年)をリアルタイムで観ている世代。つまり『スター・ウォーズ』は彼の文化的原体験のひとつです。だからファン目線で批評的に作ることができていて、オールドファンの欲望のツボを突いてくるし、同時にビギナーも感染させる力がある。物語の途中から観てもハマるようにできているのは、J.J.がテレビドラマの仕事で培った話法が大きいのかもしれませんね。
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15年)について対談した際に宇野さんは、15年は大作シリーズのリメイクやリブートが多くて、20世紀生まれのキャラクターを消費する段階に入っているという話をされてました。それはさらに進んで、20世紀のキャラクターやコンテンツを21世紀の技術で強化するやり方が本流になりつつある。そういう意味で今作は、破天荒な天才オリジネーターより、“使えるヤツ”的な最優秀フォロワーが重宝されがちな時代の象徴的な成功作であり、J.J.はフォロワータイプの代表選手だと明らかにしたんじゃないかな。
【3】ILM:ルーカスが立ち上げた特殊効果・VFXのスタジオ。「インダストリアル・ライト&マジック」の略。ルーカスフィルム買収により、現在はディズニー傘下にある。
宇野 今回、エピソード7への評価とは別に、このSW現象を見ていて、僕らの映画に対する欲望自体の変化を感じた。実際、エピソード7を観てそこそこ満足している自分を顧みたときに、映画に対する欲望がオペラに対するもののようになってしまっているんですよね。映画というのは究極的には20世紀のもので、特に大衆娯楽映画をグローバルに拡大する動きは戦後のものだった。そして今、グローバルな映像産業においては、20世紀のビッグタイトルを温め直す娯楽が興行の中心に来ている。もちろんそうでない映像産業はローカルかつミニマムに移っていくんだけど、少なくともハリウッドはそうなってしまっている。結果、ある程度の規模以上のグローバルな映画はオペラや歌舞伎のように、20世紀のノスタルジーで駆動する名作への二次創作的なアプローチとして、再解釈の精度とユニークさを競う自己参照の時代になっていくんだと思う。
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ジョーカーなき世界、その後――『インターステラー』 (PLANETSアーカイブス)
2018-08-17 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、クリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラ―』論です。なぜノーランは「ジョーカー」を描けなくなったのか? 『インセプション』『ダークナイト・ライジング』から『インターステラ―』に至る軌跡を、振り返りながら分析していきます。初出:『ダ・ヴィンチ』2015年2月号(KADOKAWA) ※この記事は2015年5月12日に配信した記事の再配信です。
Amazon.co.jp:『インターステラー』
一年と少し前、この連載を集めた最初の評論集を出版した(ちなみにこの号が出る頃には二冊目が本屋に並んでいる予定だ)。僕はその自分にとってはじめての評論集に『原子爆弾とジョーカーなき世界』という名前を与えた。もともとこれは、同書に収録した『ダークナイト・ライジング』について取り上げた回につけたタイトルだった。クリストファー・ノーラン監督の手がけたバットマンのリメイク「ダークナイト」トリロジーの最終作にあたる同作は、決して完成度の高い作品ではなかった。しかし、同作におけるノーランのつまずきは、現代を生きる僕たちの想像力の限界を示しているように僕には思えた。映画は傑作とは言い難いが、それとは別の次元でノーランが「ダークナイト」トリロジーを完結させることがなぜできなかったのか、その前作(掛け値無しの傑作である『ダークナイト』)から後退してしまったのはなぜか、どこで壁に突き当たり、そしてどの部分で後退したかを明らかにすることは、とても大事なことのように僕には思えたのだ。だから、僕はあの文章を評論集の本のタイトルに指定した。
だから僕はノーラン監督の最新作『インターステラー』を、それなりに心待ちにしていた。少なくとも公開日の夜にとしまえんのIMAXシアターで予約して、空いている深夜上映にタクシーで出かける程度には、この作品を大切に待っていたのだ。そして、同作の完成度は僕の期待以上だった。3時間近くの長さを微塵も感じさせない映像の美しさと役者陣の好演には賞賛を惜しむ必要はないだろう。そこで描かれた『北の国から』に勝るとも劣らない父娘の愛情劇に涙する観客も多いだろうし、往年のSF映画ファンの間にはスタンリー・キューブリックの不朽の名作『2001年宇宙の旅』へのオマージュと更新(への意欲)に感心した人もいるはずだ。しかし、僕はこういった要素にはあまり関心を持つことはできなかった。一般論として、ファンタジーを通じてのみ掴み出すことができる人間や世界の本質があると僕は考えている。しかし同作の家族愛や文明論といった主題は少なくともそのレベルでは、宇宙の果てでの五次元的存在との接触といった仕掛けを経なければ描けないものではなかったことは明白であるし、『2001年宇宙の旅』をはじめとする過去の名作群との関連性は世界中の映画史やSF史の専門家が溢れるほどに論じていて、そちらを参照すればよい。
したがって、僕の関心はひとつ。クリストファー・ノーランという作家が「ダークナイト」トリロジーから持ち帰ったものがこの映画の中でどう生きているのか、だった。そして、結論から述べればそれはほぼ完全に失われてしまったと言えるだろう。
物語の舞台は、近未来の地球。異常気象による食料生産の激減で人類は滅亡の危機に瀕している。主人公の宇宙飛行士クーパーは、娘マーフィーのもとに正体不明の存在から届けられた暗号に導かれ、人類の移住先の惑星を探索するプロジェクトに参加する。クーパーは「ウラシマ効果」によって、自分にとっての数年が娘にとっての何十年にも相当してしまう現実に苦しみながらも、ブラックホールの中心部で、人類を導く五次元的存在と接触し、重力制御の論理を時空を超えて過去の娘に伝達する。つまり、物語冒頭で父娘にサインを送ったのはこのときのクーパー自身であることが、ここで明かされる。そして、クーパーはブラックホールから生還し、自分のもたらした知識によって数十年の間に人類が危機から脱したことを知る。そして老齢になったマーフィーと再会したクーパーは、再び宇宙のフロンティアを目指して旅立っていく。
賛否両論の渦巻く本作への批判として代表的なものとしては、その脚本の淡白さがある。たしかに、多くの論者が指摘するように同作は勘のいい観客なら、あるいはSFの愛好家ならば開始15分でほぼ完璧にクライマックスの展開を予測できるだろう。だが、個人的にはこの批判には与しない。というか関心がもてない。なぜならば、過去にあれだけ緻密で意外性に満ちた物語展開で観客を翻弄してきたノーランが、このような淡白さを是とした理由はひとつしかないからだ。ノーランは美しき予定調和のためにこの淡白な脚本を積極的に選択したのだ。そして僕が気になるのは、このノーランの選択した脚本的な淡白さが、そのまま同作の人間観、世界観の淡白さに直結していること、なのだ。
「This is what happens, when an unstoppable force meets an immovable object.(絶対に止めることのできない力が絶対に動かないものに出会ったとき、こういうことが起きるわけだ。)」
これは『ダークナイト』の結末近く、バットマンに捕縛されたジョーカーが口にする台詞だ。「絶対に止めることのできない力」とはジョーカー自身のことであり、そして「絶対に動かないもの」とはバットマンのことだ。同作はこのジョーカーとバットマンにトゥーフェイスを加えた三怪人の対比で成り立っている。
すべてのイデオロギーが(たとえば古き良きアメリカの正義が)、相対的な「小さな正義」でしかないことが前提化した現代によみがえったバットマンは、当然その正義の根拠を問い続ける物語を生きることになる。トリロジーの二作目『ダークナイト』に登場したバットマンは、前作『バットマン ビギンズ』で描かれたように幼き日に両親を悪漢に惨殺されたトラウマを解消すべく戦うヒーローとして登場する。しかしその一方で、その「正義」の執行が半ば自己目的化している。バットマン=ブルースの目的は正義の実現ではなく正義の執行になりつつあるのだ。バットマンの最大の支援者であり、幼なじみのレイチェルはそんなブルースに疑問を抱き、彼ではなくその盟友である正義の検事ハービー・デントを生涯の伴侶に選ぶ。デントはバットマンとは異なり、古き良きアメリカの正義を信じ(それが無根拠なものであっても、あえて)掲げることにためらいがない。「父」を仮構し、演じることにためらいがなく、バットマンのようにその執行が自己目的化もしてはいない。
一方でジョーカーは力の行使が自己目的化しているバットマンのそのさらに先を行く存在だ。本作におけるジョーカーは登場するたびに自分が怪人と化すに至った過去のトラウマを饒舌に語るが、その過去はその都度異なっている。そう、つまりそれらは「嘘」なのだ。そしてジョーカーには金銭や権力やトラウマの解消といった「目的」や「動機」が存在しない。本作におけるジョーカーは「世界が燃えるのを見て楽しむ存在」と規定される。バットマンが正義の執行自体を半ば自己目的化しつつあるように、ジョーカーにとって悪それ自体が「目的」なのだ、それもより徹底されたかたちで。すべてのイデオロギーが相対化された「小さな正義」でしかない世界、「正義」の成立しない世界では同時に「悪」も存在できない。『ダークナイト』は、ジョーカーはそんな世界における究極の正義/悪の存在を掴み出そうとした作品なのだ。
そしてデントは回帰的であるがゆえに、やがてジョーカーに利用され、怪人トゥーフェイスに堕落する。デントは「父」であることに拘泥するあまり、その可能性が失われたことへの絶望につけ込まれ、連続殺人鬼に変貌するのだ。ここに同作の三怪人は一直線に並ぶことになる。もっとも家族回帰的であり、物語回帰的であるデント=トゥーフェイスがもっとも「弱く」、そして正義/悪の自己目的化がもっとも進行したジョーカーがもっとも「強い」。そして私たち観客=バットマンはその中間に、トゥーフェイスが立つ古い世界と、ジョーカーの体現する新しい世界の中間に立っているのだ。
続く『インセプション』ではどうだったか。他人の夢の世界に侵入する特殊な企業スパイを生業とする主人公のコブは、夢の世界への侵入とコントロールを濫用した結果、最愛の妻を結果的に自殺させてしまったという過去をもつ。そして彼は現在もその罪悪感から亡き妻の亡霊に悩まされている。妻殺しの容疑者として誤解され、子どもとも引き離されたコブは、家族を取り戻すために危険な仕事に身を投じることになる。そう、ここで問われているのはいわばトゥーフェイスのレベルの問題だ。トラウマが成立せず、すべてのコミュニケーションが自己目的化した現代の臨界点=絶対に止まらないもののレベルに存在するジョーカーの問題でも、そんな新しい世界に直面し、迷い続けるバットマンのレベルでもない。こうした新しい世界の出現によって失われてしまったものを追い求めるゾンビのような主体、前作で言えば「父であること」に拘泥するトゥーフェイスと同じレベルでコブは生きている。
そして、物語の結末、コブはミッション中に妻の亡霊を振り切り、「父であること」を回復するために夢の世界から現実への帰還を試みるがその成否はオープンエンド的に宙づりにされる。
そう、ここでノーランは夢の世界の連鎖を切断し、トラウマを回復し、現実に帰還するという結末を明確には描かなかった。いや、描けなかった。なぜか。ノーランは『インターステラー』に際するインタビューでこう語っている。
スマホ世代に僕の『インセプション』(10年)が人気なのは、あれが心の内側へ内側へと向かっていく話だからだと思う。『インセプション』は内側に向かってばかりじゃダメだ、という話なんだけどね。だから『インターステラー』では外に、宇宙に向かうんだ。(『映画秘宝』2015年1月号)
ここから分かるのはノーランが情報社会を「人々を内向的にするもの」と考え、そして『インセプション』における夢の世界に侵入し、それをコントロールすることを同じように自分の内面の問題に拘泥し、外部性を失った閉鎖的な行為として捉えているということだ。
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3.11が発見した新しい消費者像――コンビニエンスストアの商品戦略と展開から(坂口孝則)(PLANETSアーカイブス)
2018-08-16 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、調達・購買コンサルタントの坂口孝則さんによる論考です。テーマは「コンビニの文化地図」。すっかり私たちの生活に浸透し、プライベートブランド商品の開発や地域インフラ化などでも注目されるコンビニ業界。消費者ターゲティングのトレンド、商品開発、そして各社ごとの今後の取り組みまで、「文化としてのコンビニ」について考えます。 ※この記事は2015年5月28日に配信した記事の再配信です。
■ 社会のインフラとなったコンビニ
ビジネスパーソンがスーツ姿でスーパーに行くのは躊躇しても、コンビニエンスストアならば行ける。パジャマ姿の女性がスーパーに行くのは逡巡するものの、コンビニエンスストアになら行ける。ちょっとした買い物から、日用品まで、私たちの生活はコンビニエンスストアと切り離せない。
コンビニは現在1年間で約25,000人ものひとたちがストーカー被害、DV、不審者などから逃げ込むインフラとしての役割もある。さまざまな意味で私たちに身近なコンビニでは、どのような取り組みが行われ、コンビニはどこに向かおうとしているのか。
そこで本稿では、まずはコンビニ各社が行う消費者ターゲティングの現在を分析した上で、各社の今後をめぐる展開の、その背後に見える大きなトレンドを探していく。
高齢化と少子化、世帯の共働き化によって、消費者は近くの店舗で、仕事帰りに手間のいらない多様な食品を買い求める。コンビニは「冷蔵庫のアウトソーシングから」「キッチンのアウトソーシング」までを請け負うために、各社は日本最高の物流システムと、POSデータ等による商品企画を進めてきた。
セブン-イレブンやローソンの戦略を見るのは、日本流通先端の状況を見ることでもある。
■ コンビニを取り巻く状況
個別の戦略を見る前に、まずはコンビニ業界を取り巻く状況を確認したい。
昨年末(2014年12月末)のコンビニ店舗数を見てみよう。日本全体に5万5139店ものコンビニエンスストアがある。業界1位はセブン-イレブンの1万7206店。そこからだいぶ差があり、2位はローソンの1万2119店、3位はファミリーマートの1万1170店だ。その後、サークルK、サンクス……と続く。ただし、それ以下は桁数も異なるため、コンビニ3強と称される場合が多い。
コンビニは現在、市場規模約10兆円だ。これから、スーパーとの競争激化のすえ、スーパー(GMS含む)の市場規模20兆円弱の1割をさらに奪えば、まだ2兆円ほどの成長余地が残されている。消費税増税後は伸びが鈍化しているとはいえ、コンビニ3強の鼻息は荒い。
コンビニの発祥については、大阪マミーとする説(昭和44年)、ココストアとする説(昭和46年)、セブンイレブンとする説(昭和49年)がある。
マミーはスーパーマーケットとする向きもあるため、有力なのはココストアとする説だ。当時、スーパーマーケットの台頭で酒屋がどこも経営的な不調に呻吟していた。ココストアはいわば、彼らの救済を目的として組織され、酒屋の活性化を志向した。そして日本におけるコンビニエンスストアは他の小売フォーマットを凌駕して成長してきた。
しかし、コンビニは、もちろん安穏とした状況にはない。
これまで勝利してきたスーパーマーケットからの攻勢もある。とくにイオン「まいばすけっと」はコンビニエンスストアなみの敷地面積で、プライベートブランド「トップバリュ」を武器に低価格帯で闘いを挑んでいる。「まいばすけっと」を含む戦略的小型店事業の経営状況は良く、イオン本体との圧倒的なボリュームで、低価格・低コストを実現させてきた。イトーヨーカドーもこの小規模、低価格帯で進出を加速している。
その中で、コンビニ業界各社が近年重視しているターゲティング戦略から、話を始めたい。それは、3.11をキッカケにしたものだった。
■ 3.11が引き寄せた新しい消費者――1.「女性」
2011年の大震災時、これまでコンビニと縁遠かった層が来店し、それがリピートにつながった。同時にコンビニ各社も女性やシニアに焦点をあわせて集客戦略を練ってきた。全国の約5000万世帯のうち、共働き世帯が1000万世帯に至り、構成員が減少するなか、時短かつ少量をもとめる消費者にコンビニが照準を合わすのは当然だった。
大手各社とも、戦略に違いはあるものの、前述の理由から、ターゲット消費者として大きく「女性」「シニア」を外すチェーンは見当たらない。そしてそのターゲティングゆえ、商品トレンドとしては、必然的に「健康」志向となっている。また、その「健康」志向の徹底ぶりとしては、ローソンが先行し、セブン-イレブン、そしてファミリーマート、他チェーン店とつづく。
現在、女性客を増やすために講じられている施策は、「主菜」「スープ」「スイーツ」のいった三本柱が多い。
まずは、「主菜」である。
コンビニエンスストアの商品ラインアップとして少量かつ主菜の商品が目立ってきた。この変化こそ、コンビニ各社が女性向けを意識している特徴だ。というのも男性の消費者と違って、女性は複数食品を食卓に並べたいニーズが高い。具体的には、男性は一品でもじゅうぶんとするひとがいるいっぽうで、女性は三品以上を並べたいと志向する。おかずではなく、食卓の主役としての三品が求められる。
セブン-イレブンは煮物の魚だけではなく、焼き魚も用意しだしているし、冷凍中華だけではなく麻婆豆腐のような商品に力を入れている。さらに、タンシチュー、牛肉煮などもある。面白いのは、食卓の主役になるものの、かといって、まな板が汚れるほど本格的調理は不要な点だ。焼き魚は皿に乗せて温めればいいし、麻婆豆腐もボウルに入れればいい(そして温めるだけでは再現できないもの。たとえばトンカツなどは商品化されていない)。
また、ローソンも店内調理商品を意識的に拡大しており、惣菜にくわえ、レジ横で調理する揚げ物等の販売が伸びている。これも女性たちの調理代替需要を狙う。
また、サークルKサンクスでは女性客のニーズをつかむために、「ごちそうデリカ」を拡充している。これは季節ごとの食材を使った惣菜で、店舗にあるフライヤーを使ってカウンター前で販売する。家庭の食卓にそのまま並ぶ食材を目指し、スーパーからの需要を取り込む。これは小口需要も同時に狙っていて、1パック100~200円ていどで、重量は約100gとしている。これからも同社は、女性を中心とした客層拡大を目論む。
次に、「スープ」である。
また、このところ、とくに冬場においてコンビニ各社は、コーヒーとスープで女性客を惹きつけようとしている。当初はコンビニ各社とも試験的に導入したスープだったものの、ローソンの「海老のビスク」「北海道コーンのポタージュ」、サークルKサンクスの「三元豚の豚汁」「10品目のミネストローネスープ」「あさりと野菜のクラムチャウダー」などが、いずれも好調だった。スープ市場が好調な理由は、女性の昼食が変化していることにある。お弁当や定食屋でのランチから、具材を工夫しスープを昼食として消費されるケースが多くなった。
そして、最後は「スイーツ」だ。
おなじく、これまで男性客比率が大半だったチェーンは、スイーツを活用し女性客を獲得しようとする。この傾向は、ほぼすべてのチェーン店で見受けられる。
たとえばミニストップはポップなロゴマークのいっぽうで、ほとんどの来客(約7割)は男性となっていた。そこで女性客の取り組みが急務だったため、スイーツに注目した。同社は2012年からアイスクリームを見直し、ソフトクリームの材料を改善したり、夕張メロンソフトを発表したり、プリンパフェなどを発売した。実際に女性客からの評判が上々だったため、これからも高付加価値型スイーツを志向していくだろう。
また、セブン-イレブンは人気アイスクリームチェーンのコールド・ストーンとアイスクリームを共同開発し限定発売した。同社はコールド・ストーンとの連携でこれまでも商品を発売してきた。これはとくに10代~20代の若年女性層をねらったものだった。
■ 3.11が引き寄せた新しい消費者――2.「シニア」
くわえて各社が力を入れるのは、シニアマーケットだ。おなじく各社の施策のうち代表的なものを抜粋してみよう。
セブン-イレブンはネオ「御用聞き」サービスを開始した。これは買い物弱者ともいわれる高齢者層にたいして食事などの宅配を行うものだ。セブンミールから注文すれば近隣店舗が届けてくれる。セブン-イレブンでは、リアル店舗とネットなどをシームレスにつなぐ「オムニチャネル」化を進めている。ネットで注文したものをリアル店舗で受け取ったり、リアル店舗に欠品していた商品もその場で注文し自宅で受け取ったりできる仕組みを作っている。米ウォルマートが先行するオムニチャネルだが、今後、セブン-イレブンも同種の施策を進めていくだろう。
また、ローソンは有料老人ホームに併設した店舗で高齢者向けサービスを開始した。佐賀市にあるローソンミズ木原店では、調剤薬局を抱え、商品ラインナップとしては介護関連商品や杖(!)、そしてカツラ(!!)までを揃える。
ファミリーマートも高齢者向け宅配事業で先行するシニアライフクリエイトを買収し、ファミリーマートの弁当などをあわせて届ける仕組みを構築している。ローソンも佐川急便とタッグを組み、買い物弱者対策を進めている。
その他の動きとして、サークルKサンクスは、女性とシニア(とくに高級志向をもつシニア層)向けに弁当販売を拡大するために、2013年よりデパ地下の惣菜売り場を手本とした施策を展開している。文字通り、手に取った瞬間にデパ地下のような高級感を醸成する目的で、デパ地下に強い業者とも連携した。
またシニア層をターゲットにしたコンビニ各社は、おせち料理も変容させている。コンビニ各社は年末に「お一人さま用おせち」を発売して話題になった。セブン-イレブンがはじめた当コンセプト商品は、ファミリーマートとサークルKサンクスにもひろがった。これは単身者需要だけではなく、シニア層をターゲットにしたものだった。セブン-イレブンは、セブンミールなどを通じて高齢者からの注文を集め、またサークルKサンクスは「華GOZEN」という1980円の低価格おせちで訴求した。
■ 明確化した商品トレンド「健康志向」
チェーン店を限定しないプライベートブランド商品でこのところ顕著なのが、パッケージに特徴を大きく表示方法だ。
とくに女性層は食品にたいして比較優位性を求めるといわれるため、同層にアピールできるように「生きて腸まで届く乳酸菌入り」といったようにフォントを大きく表示する。これもおなじく健康志向の消費者にたいして、その健康メリットを強調するための工夫だ。
実は、これまで述べたとおり、コンビニ各社が女性とシニアをターゲットに据えたとき、商品全体の健康志向トレンドが必然となったのである。各社とも、カロリーオフ商品、有機栽培、オーガニック、といったキーワードを全面に出すようになった。
そのなかでも、この動きを意識的に加速しているのはローソンだ。「マチのほっとステーション」から「マチの健康ステーション」へと、ローソンはセルフメディケーションを事業の柱に打ち出した。医薬品の販売を開始する店舗を増やしたり、テレビ電話による健康相談も行ったりしている。さらには一部自治体と提携し、健康診断の受付窓口も担っている。ローソンは、事業そのものを健康主体に切り替えるという、きわめて成熟社会的企業と評することができる。
その特徴は商品にも表出している。ローソンは2014年末に特定保健食品の許可を受けたパンやざるそばを発売した。糖質を抑えたパンや、血糖値を抑えるそばで、それら「ブランシリーズ」は同社のヒット商品となっている。これらは調理方法の工夫にくわえて、製粉会社と組んだ材料開発のたまものでもある。糖質制限の必要な消費者からの人気は高く、圧倒的なリピート率を誇る(公正に付け加えれば、これはローソンだけではなく、たとえば人気の商品として、糖質を抑えたファミリーマートの「国産小麦のブランロール」などがある)。
これからも健康志向商品はたえまなく開発されていくだろうし、ファミリーマートが薬局とコンビニを併設するように、業態や店舗設計としても健康をキーワードとしたものが増加していく。
■ トレンドメーカーとしての覇者セブン-イレブン
上の分析を見ても分かるように、既にコンビニ業界は独自の商品開発をはじめている。その先頭を一見して常に切っているように見えるのが、セブンイレブンだ。
実際、コンビニエンスストア業界ではセブン-イレブンが先行した商品を、他社が後追いする傾向が続いてきた。たとえば、サラダをカップ状にしたのも、赤飯をおにぎりにしたのも、ツナマヨネーズを売りだしたのも、セブン-イレブンだった。これは本社の企画力としてセブン-イレブンが優位性を誇っていることを示す。
ただし、生鮮食品を取り扱ったのは、ローソンが先行したし、惣菜もファミリーマートやローソンが先立った。その意味ではセブン-イレブンの優位性とは、先行していても後追いであっても、商品の改善力で圧倒的な品質の商品を具現化するところにある。むしろ我々はセブン-イレブンの改善力の高さにこそ注目したい。
まず、セブン-イレブンの商品開発は同社主導でおこなわれる。
たとえばセブン-イレブンではセブンカフェで100円コーヒーを販売しており、これがそれまでコーヒーチェーンに向かっていた需要を取り込みはじめた。この圧倒的な成功は、本社主導によって、複数メーカーを共同開発させたことにあった。カフェの豆は味の素ゼネラルフーヅが担当しており、コーヒー機は富士電機が担当していた。ほんらいは別々で開発が進むところを、本社主導で富士電機とともに味の素ゼネラルフーヅが最高の味が実現できるように徹底的に作りなおされた。さらに本社は富士電機にたいして2万台のコーヒー機をまとめ交渉し、導入コストを最適化したうえで全国のセブン-イレブンに納入した。
このようにセブン-イレブンの手法は、まず商品コンセプトを提示し、手をあげたメーカー各社を競合させる仕組みだ。セブン-イレブンはメーカーの技術力をリサーチのうえで最大限の提案を引き出す。また、厳しい目標コストを提示する。高いレベルの商品仕様が決定しており、競争も激しいため、必然的にコストはギリギリまで抑えられる。
コストの多寡によって売価を決定する方法を原価主義といい、逆に理想売価からコストを逆算する方法を非原価主義と呼ぶ。つまり「コストがいくらかかるか」を考えるのではなく「コストをいくらに抑えねばならない」と考える方法だ。
セブン-イレブンは非原価主義によって、取引メーカーから最大限の強みを引き出しているといえるし、その徹底した状況からセブンプレミアムなどの高価値商品が生まれているともいえる。
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ネトウヨ時代の「二重の卑しさ」にどう抗うか――「ナショナリズムの現在」に寄せて(PLANETSアーカイブス)
2018-08-15 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、2014年に刊行された対談集『ナショナリズムの現在――〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来 』の電子版に掲載された、宇野常寛による「あとがき」をお届けします。ネットにとめどなく溢れるヘイトスピーチに対し、「卑しさ」の再生産に陥ることなく立ち向かうための「語り口」を見出し、それを維持できる「場」を構築するという決意を語ります。 ※この記事は2014年12月12日に配信した記事の再配信です。
▲左=紙書籍版『ナショナリズムの現在』(朝日新聞出版)/右=電子版『ナショナリズムの現在』(PLANETS)
※紙書籍版には、電子版『ナショナリズムの現在』の内容に加えて、宇野常寛と萱野稔人さん、與那覇潤さんとの対談がそれぞれ収録されています。
あとがき
本書は今年2月に行われたシンポジウム「ナショナリズムの現在─〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来」の再録に大幅な加筆修正を加えたものを中心に、その前後に行われたふたつの対談によって構成されている。
最後の収録から数カ月が経ったが、この間僕がずっと考えていたのはいったいいつの間にこの国は、こんなに卑しくなったのだろうか、ということだ。
議論のなかで、僕たちはヘイトスピーチ的なものへの対決と、そのために必要な現実的なリベラルの構築を、そしてカルト化する保守勢力の歯止めの必要性を確認し合ったはずだ。その結論に、修正を加える必要はとくに感じていない。ただ、ほんとうにそれだけでいいのか、問題はもっと見えづらく、そして厄介なところにあるのではないか、という思いが今の僕の頭の中には渦巻き続けている。
自衛官だった僕の父親は生前、中国の覇権主義的な外交に違和感を示すことが少なくなかった。しかし、その一方で大陸の文化には深い敬意を抱いており、僕は小さい頃からその精神と歴史を学ぶようにと言われて育った記憶がある(怠惰な僕はせいぜいビデオゲームの「三国志」シリーズにハマった程度だったが……)。僕の父親は専門家でもなんでもなく、これはごくごくありふれた、単に間違っていないだけの凡庸な見識にすぎないと思う。しかしこのような最低限の「凡庸な妥当さ」さえも成立しなくなっているのが現代の日本なのだ。
そしていま本屋に足を運べば、隣国を蔑み、敵視することで読者を満たそうとするサプリメントのような見出しが並び、ネットを覗けばとめどなくヘイトスピーチが流れてくる。
もちろん、こうした排外主義や民族差別に対しては決然と対応するしかないのだが、たぶんモグラ叩きのようにこれらに対抗するだけでは、対症療法だけではダメなのだという思いも日に日に強くなっている。
いま、この国の社会には隣国の人々を蔑まないと自信がもてない、卑しい人々が増えている。その背景にはたとえば、経済的なものもあるのだと思う。貧すれば鈍する、というのも間違いないし、その一方で結局日本の実情に即した市民社会を構築できなかった政治文化的な問題もあるだろう。
そしてその結果、いま僕がいちばん怖いなと思うのが、この卑しさが「ネトウヨ」たちの外側にも広がりつつあることだ。
たとえば僕は、2012年に自民党の石破茂氏と対談本を出版した。同書に収録された対話のなかで、氏と僕とのあいだには当然、意見が合うものもあれば合わないものもあった。しかしある日、僕はTwitter上で「自民党の国会議員と本を出したあいつは敵だ」と罵倒する投稿が何百回もリツイートされているのを見て愕然とした。自民党の幹部とは、話し合いのテーブルにさえついてはいけないのだろうか。それでは、少しでも親中、親韓的な発言をした人間を「サヨ」と決めつけ、言動の内実も吟味せずに罵倒する「ネトウヨ」たちと変わらないのではないか。■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
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「2.5次元って、何?」――テニミュからペダステまで、「2.5次元演劇」の歴史とその魅力を徹底解説(PLANETSアーカイブス)
2018-08-14 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、「2.5次元演劇」の誕生から定着までを見守ってきた編集者・真山緑さんのインタビューです。2010年代以降に顕在化した「テニミュ」「ペダステ」ブームの背景にある歴史や文脈を辿りながら、新しい演劇文化としての「2.5次元」の魅力について、お話を伺いました。(聞き手:編集部) ※この記事は2015年2月26日に配信した記事の再配信です。 ※インタビュー内容は、2015年当時の状況に基づいたものです。
Amazon.co.jp:『舞台「弱虫ペダル」インターハイ篇 The First Result2014』
■ 2.5次元って、何?
――今回は、このところ話題になっている「2.5次元舞台」について、真山さんに解説をお願いできればと思います。まず2.5次元という概念についてお聞きしたいですが、そもそも「2.5次元」という言い方が定着したのはここ数年ですよね?
真山 そうですね。あくまで私が劇場に足を運んでいた体感的なところとデータから見たものでお話しますが、2012年あたりから……だと思います。その前にまず単語として説明すると、2.5次元というのは、マンガ・アニメ・ゲームが原作のものを舞台化――つまり2次元のものを3次元化したからその間をとって2.5次元、という認識でいいと思います。
元々キャラ性の強い特撮作品や声優さんたちに対しても「2.5次元」という言葉は使われてきていましたが、ここ数年で一気に舞台化作品が増えメディアで紹介されたり、昨年「日本2.5次元ミュージカル協会」という組織ができたりしたこともあり、そういった舞台作品を総称して「2.5次元」舞台というジャンルで捉える動きが出てきています。
――2.5次元ブームというと、やはり『ミュージカル・テニスの王子様』(以下『テニミュ』)から『舞台・弱虫ペダル』(以下『ペダル』)の流れを中心に広がっている印象ですが、作品としてはやはり女性向けのものがメインなんですか?
真山 観劇に足を運ぶ層に女性が多いのもあって過去の舞台化作品を見ても、女性ファンが多い作品が選ばれることが多いです。実は、ここ数年で作品数自体も相当増えていて、私は「PORCh」というテニミュを中心とした評論のZINE(=自主制作・自主流通の同人誌のこと)を作っているのですが、2012年に「おいでよ!2.5次元」という特集をしました。これを出した理由は、観劇に行く中で「最近、急に2.5次元作品が増えたよね」と体感したことなんです。「日本2.5次元ミュージカル協会」の資料をみると、数字的にも2011年は30作品以下だったのに対し、2012年は60作品を超える形で、2011年から2012年にかけて爆発的に作品数が増えたのがわかります。
――震災後に爆発的に増えているわけですね。
真山 2011年がちょうど『テニミュ』の2ndシーズンが始まった年で、2012年は『ペダル』のシリーズ初演と、乙女ゲームの人気作の舞台化『ミュージカル薄桜鬼』(=薄ミュ)シリーズの初演と、『テニミュ』の関東立海公演――これは『テニミュ』のシリーズとして後半戦に入る直前の盛り上がる公演です――その三つが重なって観劇に行くお客さん自体も増えたように思います。2011年から2012年にかけては、動員数も60万人以下から120万人規模とほぼ倍に増えていることが協会の資料からもわかります。
―― 一気に2倍以上になってるんですね。
真山 資料には、2013年には160万人突破とまで書いてありますが、リピーターもかなりいるのでユニークユーザーがどれくらいかわかりませんけど(笑)。『テニミュ』は「Dream Live」という楽曲だけのガラコンサートをするんですが、昨年の2ndシーズンを締めくくるライブではさいたまスーパーアリーナが埋まりました。それまでは横浜アリーナ(最大収容人数17000人)で毎回公演をしていて、さいたまスーパーアリーナ(最大収容人数37000人)でやるという告知があったときに、ファンは「え、埋まるの!?」という感じでしたが、意外とチケットが取れない人もいたりしていて。
――スーパーアリーナぐらいの規模だとはむしろ「行ってあげる」くらいの気持ちでいたら、意外と取れなかったわけですね。
真山 あんなに油断せずに行こうと言われてたのに(笑)! ただ、その公演で『テニミュ』2ndシーズンのキャストが卒業だったので、さいたまスーパーアリーナに最後を見届けようというのも大きかったと思います。
ここまで爆発的にファンが増えたのは、『テニミュ』を中心とした観劇ファンだけでなく『ペダル』や『薄桜鬼』といった別の作品のヒットとその原作から劇場に足を運ぶファンが増えたことも大きいです。『テニミュ』は知っていたけど観たことはないという層が、原作の舞台化をきっかけに2.5次元の世界に入ってきた。その流れに合わせて作品数も増えたのではないかと思います。
――『テニミュ』の成功を背景に、ネルケプランニングといった舞台の制作会社とその周辺の企業が動いたというわけですか。作品数が増えていくと同時に『テニミュ』で培われた人材が分散していったということなんでしょうか?
真山 『テニミュ』出身のキャストを「テニミュキャスト」(ミュキャス)と呼んだりするのですが、彼らが卒業後別の2.5次元舞台に出ることはとても多いです。『テニミュ』は基本的に舞台経験の少ない若手俳優を役に据えるので、2.5次元舞台をやる上での若手俳優養成所的な役割も担っていると思います。
■「発明」から生まれるヒットシリーズ
真山 ファン自体も『テニミュ』をきっかけとして舞台にハマって出演者を追いかけて他の作品を観に行ったりするファンや、2次元(アニメ・マンガ)を平行して追いかけている原作ファンもいるので、『テニミュ』で入ったファンがそのままずっと『テニミュ』を観続けるとは限らない。2012年からお客さんがどっと増えたのは、『ペダル』と『薄桜鬼』が舞台化されたことが大きいですけど、どちらも初演から満員だったわけではなく、シリーズを続けることで徐々に原作や役者のファンから作品のファンへと観客を増やしていった印象です。
それに加えてこの2作は、演出に小劇場系の人を呼び、すでに2.5次元系の作品の出演歴があるキャストに演じさせることで、それぞれの作品にカラーが出たことも大きかった。それが結果的に「あの原作(2次元)がこうやって舞台(2.5次元)になりました」という驚きをあたえることができた。特に『弱虫ペダル』は驚きでしたね! まさかああくるとは(笑)。
――想像では、クロスバイクを持ち込んでみんなで漕ぐのかと思っていたら、実際はハンドルだけを持ってみんなで漕いでるアクションをやるという――衝撃でしたよね。
真山 本当にあれは「発明」でした! 元をたどれば、演出の西田シャトナーさんが「惑星ピスタチオ」という劇団でやっていた「パワーマイム」と呼ばれるもので、小道具を極力使わずに役者の身体で表現をする、パントマイムを使った演出方法なんです。それを『弱虫ペダル』の原作に活かすことによってああいった表現になった。これは『テニスの王子様』も同じで、実際にボールを打っているわけではないんですよね。ただ、ラケットの振りに合わせて、スポットライトと音を効果的に使うことで、ちゃんと打っているように見える。映像だと全てをきちんと表現しないと描けない原作の要素が、舞台では観客の想像力で補われる。そこに「.5(てんご)」の部分が生まれる。そこが2.5次元のおもしろさだと思います。
――2.5次元演劇の魅力のひとつが「見立ての美学」であるというのは共有されつつある気がするのですが、『ペダル』のDVDを観たら、舞台としても洗練されているという印象を受けました。メタ視点の入れ方も良いし、原作のまとめ方も良いし、そこにさらにクレイジーな「見立ての美学」という要素が加わっていて。
真山 これまで「舞台」というと「ちょっと高尚な趣味」という感じで、宝塚や東宝ミュージカルも含めて少し敷居が高い大人の趣味と思われがちでしたが、『テニミュ』や『ペダステ』といった2.5次元系の作品が増えたことで、観に行く敷居が下がったところはあると思います。昔は『テニミュ』ファンだけだったのが、作品数が増えることによって2.5次元舞台ファンが細分化して、広がっていった印象です。
――ちなみに『薄ミュ』は、『ペダステ』のようにぶっ飛んだものではないんですか?
真山 『薄ミュ』は、意表をつく演出があるというわけではないですが、乙女ゲームが原作なので乙女ゲームにあるキャラクターの「ルート」をうまくシリーズに昇華させています。ゲームの『薄桜鬼』はキャラクターごとに主人公と結ばれるルートごとの物語があって、『薄ミュ』では、このゲームの1ルートを1作で見せる形式だったんです。
『テニミュ』は、主人公の学校が全国大会優勝までを描く物語が一本筋で続いて、その対決を学校ごとに1作で見せていく形式なんですが、こちらは、パラレルワールドとしてストーリーを毎回見せる形でした。お客さんも「このキャラのルートが観たい」という形で原作ファンを定期的に呼び込めるのが上手い点だと思います。
もうひとつ『薄桜鬼』の発明は、男性キャストは基本的に変えずに「沖田総司篇の千鶴(主人公)役はこの人で…」という形で、1作ごとに主人公を演じる役者さんを変えたことです。その理由は簡単で、パラレルワールドのストーリーになるので、毎回同じ人が演じたら、主人公が移り気過ぎに見えるじゃないですか(笑)。そのやり方で、結果的に「今回の千鶴は~」という風に話題にできたのも良かったと思います。
――なるほど。クラスタとして、「2.5次元ファン」というのが生まれつつあるんですか?
真山 クラスタが生まれているかというと、中々むずかしいと思います。「2.5次元舞台だから追いかける」というとちょっと違う気がするんですよね。2.5次元作品から舞台を観るようになって、キャストのファンになったりすることも多いので、そうすると下北沢の小劇場だったり、もしその人が蜷川幸雄の作品に出ることになったら彩の国に行くことになるので(笑)。原作や俳優が好きで観に行くことはあっても、「2.5次元だから観に行く」というそれを中心としたクラスタはそこまで生まれてないと思います。
――たとえば「アイドルオタク」って、AKBだったり、ももクロだったり、もっとマイナーなアイドルもみんな好き、という人が多い気がするんです。自分が推しているグループはあるけれど、基本的にはアイドル全体が好きで、その時々によって好きなグループや好きなメンバーがちがう、という。そういう形にはなっていないということなんでしょうか?
真山 それは若手俳優のファンが近い感じですね。『テニミュ』から好きになった若手俳優を追いかけて別の舞台を観に行って、さらに別の若手俳優を好きになってその人が出る別の舞台に行く……そういうおっかけ的な習性は、いわゆる「ドルオタ」と近いかもしれません。
――つまり、「2.5次元クラスタ」というよりは、観劇ファンの中に、オタク勢力の女性ファンが今いっぱい流れ込んできている。
真山 そうだと思います。ただその中にも、そこから若手俳優を追う人もいれば、私のような考察するのが好きな人間もいて、自分の好きな作品が舞台化したら舞台も観るよという2次元に準拠したファンもいるので様々ですね。
■斎藤工も!? 役者育成機関としての2.5次元
真山 「観劇」を趣味とする人の増加も大きな変化ですが、こういった2.5次元舞台が増えることで、若手俳優がデビューするための登竜門の役割が強まったことも大きな変化だと思っています。『テニミュ』以前は、スタイルや見た目の良い若い男の子が芸能活動をしてみたいと思ったときになかなか入り口がなかったところに、そういった2.5次元舞台を経由することでファンを付けられる。それが結果的に2.5次元舞台を盛り上げるところに還元されているんですよね。
――なるほど。男性アイドル文化ってジャニーズの存在で発展しづらいところがあるけれども、その分をこの2.5次元を登竜門とする若手俳優が代替しているとも言えるかもしれないですね。
真山 『テニミュ』が広く知られるようになったとされる1stシーズンのキャストには、ナベプロ(ワタナベエンターテインメント)のD-BOYSという俳優集団のメンバーが多いんですが、彼らは俳優としての活動だけではなく、イベントで歌ったり握手会したりと、限りなくアイドルに近い活動をしているんです。いまでこそ若手俳優がユニットを組んで歌ったり踊ったり、握手会などのイベントをしたりしますが、アイドルとしては売り出しにくいものに対して、それとは別の男性「アイドル」的な回路をナベプロが作ったんだと思っています。2ndシーズンから握手やハイタッチなどの接触系イベントが増えたこともあって、『テニミュ』や他の2.5次元系舞台がそういった流れを組んで、いまの若手俳優の売り方に影響を与えているとは思います。
――ちなみに『テニミュ』の出世頭といえば、城田優と加藤和樹という感じなんでしょうか?
真山 他には、斎藤工ですね。氷帝の忍足侑士役でした。
――なるほど、斎藤工!
真山 いまや「情熱大陸」です! 『テニミュ』などの多くの2.5次元舞台を制作しているネルケプランニング自体も舞台経験なしの若手俳優を一から役者として育てるのでそういった育成機関としてうまく機能していると思います。そこから特撮や朝ドラ、東宝ミュージカルなどに出演する人も多いです。
――ネルケプランニングは芸能事務所として機能してたんですか?
真山 いえ、あくまで舞台制作会社なんですが、何も知らない……事務所にも入っていないような子を採用しているので結果教えることになるんだと思います。役のイメージに合う男の子をスタッフがカフェでスカウトもしていたくらいなので(笑)。
――つまり普通の制作会社の域は超えていて、なかばプロデュースに近いこともしているAKSに近いのかもしれないですね。
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3D・4D化の時代に映画表現が挑戦すべき課題とは? ――森直人・宇野常寛が語る『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 (PLANETSアーカイブス)
2018-08-13 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、興行面でも批評面でも高い評価を得た2015年の映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の記事をお届けします。本作のヒット作から見えてくる映画表現のこれからの可能性とは? 映画評論家の森直人さんと宇野常寛が、『ゼロ・グラビティ』『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』などの作品と比較しながら語り合いました。(初出:「サイゾー」2015年10月号) ※この記事は2015年10月27日に配信した記事の再配信です。
Amazon:『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
森 実に30年ぶりのシリーズ最新作となった『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ですが、率直な感想は「理屈抜きでめっちゃ面白い」に尽きる(笑)。そこにあえて理屈をつけるならば、初期映画のハイパーグレードアップ版をやっているってことですね。
リュミエール兄弟の『列車の到着』【1】やジョン・フォードの『駅馬車』【2】までの「活劇」の黎明期、サイレント映画や初期トーキー映画を具体的に参照している。『駅馬車』は今ではクラシックの代名詞のような扱いになっているけど、同作が公開された1930年代当時のハリウッドは西部劇が一回衰退している時期で、ジョン・フォードは大手の映画会社ではことごとく企画を蹴られてしまい、インディペンデント系会社に持ち込んで作られた低予算映画なんです。『マッドマックス』シリーズも元はオーストラリアの低予算映画から始まったものなので、成り立ちもよく似ている。監督のジョージ・ミラーは、ジョン・フォードの映画史の神話に、自分を重ね合わせているところがあるのではないでしょうか。今回の『デス・ロード』は、『駅馬車』のアクション部分を拡大して、ストーリーはシンプルに削ぎ落としている。それゆえ初期映画感を明確に打ち出しているように見えました。
【1】『列車の到着』
正式タイトルは『ラ・シオタ駅への列車の到着』。1895年にフランスで製作された、50秒間のサイレントフィルム。映画の発明者といわれるリュミエール兄弟の手による作品。
【2】『駅馬車』
監督/ジョン・フォード 出演/ジョン・ウェイン 公開/1939年(アメリカ)
アリゾナからニューメキシコに向かう駅馬車に乗り合わせた人々の人間模様と、彼らへのアパッチの襲撃と応酬の様子を描く。西部劇史上のみならず、映画史を代表する傑作と呼ばれることも多い。
宇野 『デス・ロード』はある種の境界線にある映画で、ギリギリ20世紀の劇映画にとどまっているという印象を受けました。いま映画は3Dや4Dの影響によって、初期映画への先祖返りというか、動く絵を体験するというアトラクションに近づいている。『ゼロ・グラビティ』【3】がまさにそうなんだけど、その点『デス・ロード』は物語を失う寸前で踏みとどまっている。
この作品の評価は、ライムスター・宇多丸さんのようにフェミニズム的な側面も含めて丁寧に読み解いていくタイプと、町山智浩さんのように初期映画などの歴史を参照しつつも基本は「バカ映画」とするタイプの大きく2つに分かれていますよね。
前者はアクションの連続の中に物語を最大限詰め込んで踏ん張っているところに着目していて、後者は物語が必要とされなくなっている、映画という制度の、物語への依存度が相対的に下がる段階についての意識に注目して語っているわけです。実はこのふたつの立場は一見対立しているようで、とても近い状況認識を示していると思うんですよ。それがすごく象徴的だと思う。
【3】『ゼロ・グラビティ』
監督/アルフォンソ・キュアロン 出演/サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー 公開/2013年
宇宙空間で事故に遭った宇宙飛行士と科学者が、生還を目指してサバイバルする様相を描いた。3Dを前提として作られており、「活動写真」としての映画で話題を呼んだ。
森 そのパラレル感はすごくよくわかる。ジェームズ・キャメロンの『アバター』で3D映画が本格的な段階に入った時から、「2回目の映画史」というべき流れが始まっていると僕は思っています。ハイパーリアルに進化した映像技術でシンプルな見世物をやる。そこを意識している作品は、物語の構造もどんどん単純化させている。それはまさに『ゼロ・グラビティ』がそうだし、結果的にかどうかはわからないけど『デス・ロード』も然り。
でも映画のリニアな構造を持たせるためには、何らかの物語を最低限選択しなければいけない。その時に「どんな物語を選択すれば今において最適解なのか」という“判断”がとても重要になってくる。『デス・ロード』でいえば今までのマッチョな男性主人公を引き継ぐのではなく、シャーリーズ・セロン演じる女戦士フュリオサを中心にしたヒロイン活劇にするという判断があった。『ゼロ・グラビティ』の主役も同様に女性だったことは示唆的ですよね。そう考えると、おそらく町山さんも宇多丸さんも基本的な認識や立脚点は同じで、ただ“判断”の部分から意味をどの方向に生成するかで違いが見えるのではないでしょうか。総合的に言うと、『デス・ロード』はとにかく一番基本的なことを、精度を最大限に高めてやろうとしたってことだと思うんです。
宇野 それでいうと、シャーリーズ・セロンの演技はすごく良かった。主演のトム・ハーディがちょっと食われちゃったんじゃないかと思うほど。
森 彼は『ダークナイト・ライジング』でベインを演じていましたけど、あれ自体が『マッドマックス』やその影響下にある『北斗の拳』的なキャラクターだった(笑)。宇野さんがさっき仰った「ギリギリ20世紀の劇映画」というニュアンスは僕もすごくよくわかるんです。例えば構造も「行って、帰ってくる」だけの極めてシンプルなものなんだけど、より重要なのは前半パートが「逃走」で後半パートが「闘争」になっていること。「行って」の部分は、自由を奪われていた女性たちがイモータン・ジョーの独裁国家から必死に逃げる。
「帰って」の部分は、当初の目的地だったフュリオサの故郷“緑の地”が不毛の地になっていたから、じゃあ戻って戦おうと。奴隷たちが革命を起こす話に旋回する。つまりアクションとエモーションがぴったり連動している。映画の根源的な快楽が高純度で実現されている。そのうえでキャラやマシンはシリーズ前3作のデザインワークを引き継ぎ、こってり盛りに盛りまくっているというバランスがすごく面白い。
だから『ゼロ・グラビティ』がほぼCGアニメーションに近いものなのに対し、『デス・ロード』は実写アクションという20世紀的な映画言語に踏みとどまって勝負している。それは監督の世代性も大きい。なんせ70歳のベテランですから。例えば話題になった火を噴くダブルネックギターのドゥーフワゴンも、基本のセンス自体は60~70年代風でしょう。シアトリカルでロック・ミュージカル的。『ヘアー』を通過してKISSに遭遇したみたいな(笑)。積まれたアンプもヴィンテージ物のマーシャルだったりね。そんなことを堂々とやる人が今いないから、一周回って新鮮に見えたんじゃないかな。
宇野 『ゼロ・グラビティ』と比べると、『デス・ロード』は表現論と物語を積極的に重ね合わせようとはしていなかった、とは言えるでしょうね。
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本日21:30から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.8.10
2018-08-10 07:30
本日21:30からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
水曜日の台風に伴い、金曜日に振替放送!21:30から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「お盆休み」今週の1本 大畠順子著「離島ひとり旅」アシナビコーナー「加藤るみの映画館の女神」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
▼放送情報放送日時:本日8月10日(金)21:30〜23:00☆☆放送URLはこちら☆☆
▼出演者
ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:加藤るみ(タレント)
▼ハッシュタグ
Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
▼おたより募集中!
番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番 -
宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第五回 吉本隆明とハイ・イメージのゆくえ(1)【金曜日配信】
2018-08-10 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。吉本隆明の『ハイ・イメージ論』で提出された「世界視線」と「普遍視線」の概念は、情報技術の発達により前者が後者に飲み込まれ、共同体に最適化された自己幻想によって、ヘイトスピーチや陰謀論が跋扈します。それはボトムアップから生まれる単一的な共同幻想への依存という、新しい病理の現れでした。(初出:『小説トリッパー』 2018 夏号 2018年 6/25 号 )
0 ハイ・イメージ化する情報社会
『ハイ・イメージ論』の冒頭は「映像の終りから」と題された小文からはじまる。「映像の終り」という問題設定は、今日においては同書が執筆された八〇年代とはまったく異なる意味を持って私たちの前に浮上する。吉本の同文に登場する「映像の終り」とは(当時の)コンピューターグラフィックスの与えるイメージから、新しい情報環境の出現を予感しているに過ぎない。しかし、二一世紀の今日において二〇世紀的な「映像」は本当に終わろうとしている。いや、既に「終わって」いる。映像とは二〇世紀の社会を形成した原動力だ。文字メディアよりも、聴覚メディアよりも人々に負担なく、駆動的にメッセージを伝達する表現手法、それが一九世紀末に発明された「映像」だった。この発明は同時期に発達した放送技術と同調することで、二〇世紀の社会の大規模化を支えたものだった。 自動車と映像は一九世紀の末にヨーロッパで生まれ、二〇世紀前半にアメリカの広大な大地とそこに住む多民族をつなぐために、ばらばらのものたちをつなぐために発展したものだ。ただし自動車が内燃機関で動く一トン前後の鋼鉄の塊という強大かつ危険な力を個人が所有し、場合によっては制御するという個人のエンパワーメントによって「ばらばらのもの」をつないでいたのに対し、映像は不特定多数の人々が同じものを見ることによってそれを実現するものだった。前者が自己幻想の水準でのアプローチだったとするのなら、後者のそれは共同幻想を水準としたものだったと言えるだろう。したがってその「映像」の終わりとは、共同幻想の社会におけるかたちの変化に他ならない。具体的には私たちはいま、「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」への変貌期を生きている。現代という時代はトップダウン的な映像から、ボトムアップ的なネットワークへ、共同幻想の発生メカニズムの形態を変化させつつある、その途上なのだ。 ここでは、この観点から「映像の終り」という問題提起からはじまる吉本の『ハイ・イメージ論』を読み直してみよう。 『ハイ・イメージ論』の中心的な概念として登場するのが「世界視線」と「普遍視線」だ。世界視線とは、この世界の全体像を俯瞰して捉える神の視点だ。対して普遍視線とは私たちがこの生活空間の中で世界を捉える等身大の視点のことだ。前者は共同幻想の視線であり、そして後者は対幻想、自己幻想の視線であると言い換えることもできるだろうし、前者を「政治」、後者を「文学」の視線と言い換えることもできるだろう。そして前者を「公」の、後者を「私」の視線と言い換えることもできる。そして吉本は現代の(当時の)情報環境の進化はこの両者の関係を決定的に変化させていると指摘する。
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