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僕らに『スターウォーズ』さえあれば――グッスマ社長・安藝貴範が語るオタク文化の世界戦略 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.052 ☆
2014-04-15 07:00524pt
僕らに『スターウォーズ』さえあれば――グッスマ社長・安藝貴範が語るオタク文化の世界戦略
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.15 vol.052
http://wakusei2nd.com
今朝の「ほぼ惑」に登場するのは、グッドスマイルカンパニーを率いる同社代表取締役・安藝貴範氏。宇野と彼が語り合ったのは、新しい日本文化の姿と、そして、それを創りだす人々がいかに生きていくか。現代カルチャーの最先端が垣間見えるインタビューです。
figma 初音ミク 2.0
国内キャラクター可動フィギュアの代名詞である「figma」シリーズ、そして大胆なデフォルメが一目見たら忘れられない「ねんどろいど」シリーズ。今回、PLANETS編集部が訪ねたのは、それらの企画発売元及び製造元のグッドスマイルカンパニーである。
オフィスのエントランスに立っていた公式マスコット「ぐま子」"グッスマ"といえば一般に、「ねんどろいど」に代表されるグッズ・フィギュアの展開で有名だが、実はそうしたホビー事業に加えて、カフェやアーティストマネジメント、さらにはアニメの制作会社運営にカーレーシング事業と多岐にわたる。そんな多彩な顔を持つグッスマを率いるのが、同社の代表取締役・安藝貴範氏だ。
今回のインタビューでは、一見バラバラのテーマを手がけてきたように見える氏に、宇野がその背後にある思想や"野望"について聞いていく。二人の話題は、先進国を覆い始めた西海岸のカルチャーにどう応答するかに始まり、やがて日本のクリエイターをいかに世界へと発信していくかに移っていった。
◎構成・稲葉ほたて
■新しい日本人の文化をことごとく押さえる謎の企業
宇野 グッドスマイルカンパニーって、フィギュアを中心にアニメやゲームといったコンテンツビジネスに進出している会社といったイメージが一般的だと思うんですね。でも、僕の見立てでは、安藝さんはもっと広い意味での「文化」を作ろうとしているように思えて仕方がないんです。
例えば、いま僕が20代、30代に向けた若い「BRUTUS」のような雑誌を作ろうとしたら、単にグッスマがやっていることを全ジャンルフォローして行くと思うんですね。アニメ、ゲーム、ホビー、自転車、アウトドアグッズにガジェット系、それにアイドル……これって、実は20代~30代の若い文化系男性の必修科目で、それをグッスマが片っ端から押さえていっている印象があるんです。
安藝 そう言って下さると、嬉しいですよ。自分でも何をやってるのか分かってないんで(笑)、自信がつきますね。
宇野 たぶん、安藝さんが好きなものは、みんな好きなんですよ。僕が思うに、そうやってグッスマが押さえているものって、実は戦後の中流家庭の人たちが考えてきた「文化」とは違う、新しい文化のスタンダードに近いものという気がするんです。
去年出した『日本文化の論点』という新書で、僕は「新しいホワイトカラーが都市部を中心に登場してきた」という話を書いたんです。彼らはテレビを見ないし、百貨店でモノを買わない。情報の収集は基本的にネットで、ECサイトでの購入が多い。服装もアウトドア系がなぜか好きで、自転車やスニーカー集めが趣味で、ガジェットが大好き。
安藝 僕の生活スタイルですね(笑)。でも、僕が知ってる外国の一線級のアーティストの連中も、ほとんど一緒ですよ。
グッドスマイルカンパニー代表取締役社長・安藝貴範氏
宇野 たぶんこの10年くらいで、IT業界を中心に米国の西海岸的な文化を日本的に受容する動きがあるんだと思います。おそらく、昭和のサラリーマンが米国式のライフスタイルを受容する中で、東京を西に延長しながら戦後的中流文化にローカライズしていったのと同じように、これから西海岸文化のローカライズがはじまっていくのだと思います。そしてそのポスト戦後中流文化になっていきそうなジャンルをことごとく押さえている謎の企業が、グッスマです(笑)。
安藝 はっはっは(笑)。僕らのやっていることは、そういう文化の表層でしかないですが、きっと掘り下げていくと色んなものが出てくるんじゃないですか。深いところで繋がっていますよ。
■ "オーバースペック"という新しい美学宇野 例えば、アウトドアの服にしても、普通に東京でデスクワークをしている人間には、本当は「異常に丈夫な服」とか絶対に必要ないはずなんですよ。
安藝 「これを着てると、全然寒くないんだぜ」みたいな服もあるよね(笑)。
宇野 これは過剰なスペックへの「萌え」みたいなもので、一つの新しい文化と見てよいと思うんです。ああいう20代~30代のカジュアルなオタクセンスって、僕の周囲のホワイトカラーに凄く広がっているんですが、何か昔の銀座の「ゴルフ文化圏」的ものの次になり得る予感も僕にはあるんです。
安藝 確かに衒いなくオーバースペックを求めるのはありますね。実は今度、変形するヘッドフォンを作ってるんです。
宇野 へええ。ヘッドフォンですか。
安藝 いま、ヘッドフォンが面白いんですよ。iPhoneのお陰でみんなが音楽を持ち歩くようになって、ヘッドフォンへの需要がファッションアイテムの一面もあって高まってるんです。その人気の先駆けになったのが「Beats」で、いま世界中の若い子たちにとって、あの「かっこいい」ヘッドフォン持っているのが、ある種のステータスなんです。
Beats by Dr.Dre beats studio ノイズキャンセリングヘッドフォン ブラックカラー BT OV STUDIO V2 BLK
http://www.amazon.co.jp/dp/B00F3V3RYW商売としても大きくなっていて、一個3万円するものもあるのに一ヶ月に10万の桁で売れることもあるらしいです。一ヶ月に3万円×20万個だと仮定すると、60億ですよ。
実はいま、日本のFostexさんっていう凄腕の音響メーカーさんが、自分たちのブランドでヘッドフォンを作ろうとして、グッドスマイルカンパニーに声かけて下さったんです。それで考えたのが、「トランスフォーミング・ヘッドフォン」というもので、さっきも言ったように変形するヘッドフォンですよ(笑)。
もうね、これを作るのに下町の技術からなにから寄せ集めてます。昔のガラケーに、SONYのわけわからない変形をするヤツがあったじゃないですか。その辺の職人さんたちなんかも呼んできて、複雑でもスムーズネスがあって、しかも強度も両立させるようなヒンジ設計をしてもらっています。音についても、一般的なものでは10万円クラスであろうと言われるドライバーが入っていて、チューニングも最高です。4万円前後くらいで販売するつもりなんですが、これにGizmodeさんがが凄く良いタイトルをつけて紹介してくれたんです。
GEEK JAPANを代表するプロダクツになるかも?グッスマ×フォステクスの可変ヘッドフォン : ギズモード・ジャパン
http://www.gizmodo.jp/2014/02/geek_japan.html
宇野 なるほど、「ギークジャパンを代表するプロダクト」。
安藝 いや、良いタイトルでしょう(笑)?
これを今度、Linkin Parkのジョー・ハーンと一緒に展開します。今、そのチューニングセッションのために、スタッフがロサンゼルスに行ってます。更にこのプロジェクトには、グラミーアーティストなんかも興味持ってくれてます。Skrillexって知ってます? ダブステップで今一番人気があるアーティストなんです。
SKRILLEX - Scary Monsters And Nice Sprites
(https://www.youtube.com/watch?v=WSeNSzJ2-Jw)
カップスタックという遊びで米国の女の子が新記録を出した瞬間の声をYouTubeからサンプリングして曲の冒頭に使っちゃったりして、話題づくりも上手い。グラミー賞ホルダーです。
宇野 あ、ニコ動的な感じなんですね。
安藝 そうそう、「キーボードクラッシャー」みたいな。YouTubeを上手く使うアーティストで、全米を席巻してます。その彼が『ブラック★ロックシューター』のhukeくんのアートを凄く気に入って、彼らがとっても仲良しなんです。Skrillexのキャラクターをhuke君がデザインしてみたり。彼らの協業もこれから実現したいと思っています。
skrillexのPVは爆発的な再生数です。1億5000万再生とかされてるわけです。そうすると、hukeくんとのコラボPVとかあったら凄い認知が広がるなぁと……夢が広がりますよ! こうやって、だんだん色んなものが繋がっていくんですよ。
■「日本のスーパーアニメーターはワンカット8000円」
宇野 いまのお話は西海岸的なギークカルチャーのグローバル化に対して、日本のオタクカルチャーがどう応答していくかという話でもありますね。
安藝 いやもう、その二つは混ざります。日本のローカルなオタクカルチャーが、外国人は大好きなんですよ。最大の発信源である西海岸の人たちが、特に大好き。Skrillexもそうですが、みんな東京で何かやりたがるんです。日本に来ても、京都に行かないですからね。ひたすら秋葉原や中野、浅草なんかを回ってますよ(笑)。
宇野 社会学者の知人が香港にいるのですが、彼がこの間、「東京の人たちは、東京の西側に文化があると思っている。それは外国からみたら大きな間違いで、外国人にとっての東京は、やはり浅草と秋葉原と銀座とビックサイトである」と言っていたんですね(笑)。つまり、昔ながらのスキヤキ・フジヤマの日本と、クールジャパンのサブカルチャー・ジャパンの二つにしか彼らは興味がなくて、それは東京の東側の文化なんだ、と。いま西海岸的なギークカルチャーがインテリ層へと世界的に広がっている中で、それを一番ホットに打ち返せる場所の一つが東京の、それも東側なのだと思うんです。僕は21世紀前半の日本が新しい文化を発信できるのは、この文脈しかないとさえ思うんですよ。
安藝 そういう意味では、ロサンゼルスとのマッチングがまだうまく行ってないかもしれませんね。ハリウッドがあるので、どうしてもエンターテイメントはそこで完結してしまうんです。でも、アパレルやアートの人たちは、非常に東京に注目していますね。
実は僕らもロスに数百坪くらいの大きなウェアハウスを借りていて、そこに一流どころの絵描きやミュージシャンなんかが集まっているんです。でも、彼らと遊んでいると、なんかこうちょっと"嫌な気分"になるんですよ。
というのも、基本的には普通のヤツラなんです。会話の節々や人柄、そして作品にカリスマや天才性は大いに感じられるんですけどね。でも、日本に帰ってくると、彼らのような、いやもしかしたら彼ら以上に凄い連中が、普通にフィギュアの原型を作っていたり、アニメの世界でLAの絵描きとは段違いのギャラで絵を描いていたりするんです。かたや絵を一枚何千万円で売ってる連中がいるのに、相変わらず日本のスーパーアニメーターはワンカット8000円ですよ。
これ、僕にもどうしたらいいか答えがないですね。一時期、もう少しアート寄りに作品の価値をつけた方がいいのかと悩んだりしたけど、それも違っていて……。
宇野 例えば、そこに竹谷隆之さんのフィギュアがありますよね。彼は一部の日本人にしか知られていないけど、現代日本における最大のアーティストですよ。将来的には絶対に名前が残る人だと思うんです。
竹谷隆之監修の「巨神兵」のスタチュー。「巨神兵を、現代的でインパクトのある姿に作りかえた」(宇野常寛)
安藝 いや、本当に大天才ですよ。他に匹敵する人はいるのかな……。
宇野 S.I.Cの初期に、竹谷隆之の造形が3500円とか売られていたでしょう。当時、こんなことが許されるのかとびっくりしましたね(笑)。この3500円のフィギュアが、もし世界中のトイザラスで売れたらと思うんです。そのとき、きっと彼の制作環境は今の10倍どころではなく良くなる。
安藝 彼のような作家に、しっかりしたギャラリーがつけば……ただ、竹谷さんの場合は、そもそも値段をつけることに興味がなさそうですね。「その値段で!」とびっくりするような額を聞いたことがあります。
宇野 いや、竹谷さんの一点物が買えるんなら、僕はいくらでも出しますよ。僕は生まれ変われたら、ホビージャパンの撮影スタッフになりたいと思ってますからね。そうしたら毎回、竹谷さんの造形を撮影できるじゃないですか。
安藝 別に今からでも竹谷さんのところにちょいちょい遊びに行かせてもらえば、全然中に入れてくれるようになりますよ(笑)。宇野さん詳しいし!
話を戻すと、フィギュアをアートとして売ることは何回も考えたんです。だけど、やっぱり「こっちはオリジナルのコピーです。こっちはマスプロダクトです」というふうに分けるのは難しい。
それに、アートとある種のキャラクターグッズとしてのフィギュアをどう折衷させるかも悩ましい。やっぱり中途半端なところに価値を置いておきたくて……(笑)。アートと呼ぶには、元の作品を愛しすぎていて、おこがましいわけです。
figma 仮面ライダードラゴンナイト
宇野 日本のアートの文脈って、巻き込まれて幸せになるのか微妙ですしね。あそこに巻き込まれると、むしろ作家は死んでいくとよく言われている。だから、村上隆さんはあんなに苦労しているわけでしょう。
安藝 竹谷さんも、アートに行ってないから幸せという気がするんです。人からオファーがあって、作りたい人なんですよね。
宇野 しかも竹谷さんは、日本においてホビーと映画美術とアートの間に区別がないことの象徴ですからね。いや、本当はホビーが美術よりレベルが高いことをみんな知っているわけですからね。
彼らはあまりにも過小評価されているし、コンテンツ産業の末端にいる人も多い。でも、アートの世界に行ったら行ったで、その才能がうまく花開かない可能性が高い。そういう状況の中で、安藝さんは例えば質の高い商品化でお金を回したり、企画そのものにスポンサーとして入ることで、彼らの創作環境を整えていくことを考えているわけでしょう。
安藝 上手い着地点を探しています。でも、探しても、探しても、難しい。結局、エンターテイメントもアートも、成功するケースって稀なんですよ。だからこそ、そのときにはもっとお金がしっかり入るようにしたい。フィギュアやアニメがそこそこ売れた程度では、日本のクリエーターやユーザーが求める品質感やエンターテイメント性は実現できない。成功したときの最大値が日本では低いんですよ。
宇野 この日本のサブカルチャーのまま、グローバルに支持されるしかないと思うんですよね。
安藝 まったく、その通りです。ただ、それに気付いてもらうために、アメリカの音楽を使ったりするのはアリだと思っていますね。日本のサブカルチャーに憧れや敬意を持っている外国人たちとパートナーシップを組んでね。そろそろできるような気がするんです。
■「僕らにスターウォーズさえあれば」
安藝 そういう意味で、いま考えてるのは『スターウォーズ』ですよ。何十年、ヘタしたら百年持つような、バカみたいに稼げる状態を、今の日本の作家たちが生きていくために作りたいんです。
宇野 そこで必要なのは「作品」である、と考えるんですね。
安藝 それさえあれば、僕らに『スターウォーズ』さえあれば、と思います。たぶん、海外では200億円かかるものでも、日本でなら3分の1の予算でできるはずなんです。
宇野 でも、3分の1のお金を集めるのも大変でしょう。それに、日本中のクリエーターを総動員体制にしないといけないですし。
安藝 確かにお金はかかるけど、お陰様でグッスマは今なら多少キャッシュがあるんです。だからこそ、いまのうちにある種の博打を打ちたいんです。ここから、あと何年かでこのキャッシュを使い切って制作して、そのときに僕らはヒットを手にできているか……という。まあ、もし手にしていなかったら、また一から貯めなきゃいけないですね(笑)。
そういう作品を制作できたとき、僕が手を広げてきた全てがつながる気がするんです。ヘッドフォンも格好よくなるし、自転車ももっと格好いいものが出せるかもしれない。F1にもフィギュアにも使えるかもしれない。そういう、会社のすべてを振り返るような作品になると思う。
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宇野常寛のラジオ惑星開発委員会~4月7日放送Podcast&ダイジェスト! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.051 ☆
2014-04-14 07:00306pt
宇野常寛のラジオ惑星開発委員会
~4月7日放送Podcast&ダイジェスト!
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.14 vol.051
http://wakusei2nd.com
毎週月曜日のレギュラー放送がスタートした「宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」。前週分の放送のPodcast&ダイジェストをお届けします。
4月7日(月)22:00〜放送「宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」
▼4/7放送のダイジェスト
☆オープニングトーク☆
「相互フォロー的リアリズム」に生きる宇野常寛が、趣味の散歩の最中に人だかりに出くわして……?
☆48開発委員会☆
ラジオ惑星開発委員会でもやります! あなたのヲタ活報告のコーナー。先日開催された「AKB48単独春コン in 国立競技場」「リクエストアワード2014 セットリストベスト200」 について語ります。
☆メール紹介☆
「宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」に期待すること・やってほしいことを大募集!
☆今週のぶっちゃけコーナー☆
3/31に最終回を迎えた「笑っていいとも」から考える、日本のテレビ文化のゆくえとは? -
いまこそ語ろう90年代テレビドラマとその時代ーー野島伸司・北川悦吏子・三谷幸喜 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.050 ☆
2014-04-11 07:00509pt
いまこそ語ろう90年代テレビドラマと
その時代――野島伸司・北川悦吏子・三谷幸喜
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.11 vol.050
http://wakusei2nd.com
90年代のテレビドラマの魅力は何だったのか? 当時のドラマがいかに“大衆の気分”を反映していたか代表的な作品と脚本家を振り返りながら、宇野が語りました。
初出:「ROLa」2013年11月号・新潮社
◎取材・文:福田フクスケ
■赤名リカの敗北とバブル終焉
今振り返ると、“90年代的な”テレビドラマは、『東京ラブストーリー』(91年・以下『東ラブ』)から始まったと僕は思っています。要するに、トレンディドラマの“敗北”と“終焉”から始まっているんじゃないでしょうか。
フジテレビの「楽しくなければテレビじゃない!」というモットーが象徴的ですが、80年代のテレビは“意味のなさ”“軽さ”が、当時出現しはじめていた消費社会の批判力を体現していました。その終盤に現れた『抱きしめたい!』(88年)や『君の瞳に恋してる!』(89年)といった作品が代表するトレンディドラマの多くは、都心のマンションに住むおしゃれな登場人物が、最先端のスポットやファッション、アイテム、ライフスタイルを見せる“消費社会のショーケース”だったわけです。
『東ラブ』も、そんなトレンディドラマの代名詞だと思われています。しかし、個人的にこの作品は、むしろトレンディドラマ的な価値観の終焉を描いていたように思います。というのも、主人公のカンチ(織田裕二)は、バブリーでトレンディな赤名リカ(鈴木保奈美)ではなく、手作りおでんを持って家に押し掛ける古風な関口さとみ(有森也実)を最終的に選ぶんですよね。
奇しくも『東ラブ』が放送された91年は、バブル崩壊の年。“赤名リカの敗北”というこのドラマの結末は、大衆の本音がバブル的/トレンディドラマ的なものを実は求めていなかった、ということを暗示していたのだと思います。
■トラウマを描いた野島伸司
消費社会の“モノ”の過剰さと、“物語”の空虚さを体現していたトレンディドラマがその役割を終えたときに、90年代のドラマは始まりました。この比喩を続けると、この時期にどう“物語”を過剰にしていくかというゲームが展開されることになった。過剰なストーリー展開で見せる「ジェットコースタードラマ」が生まれたのもこの頃。それに加えて当時、大事MANブラザースバンドの「それが大事」とか、KANの「愛は勝つ」といったヒットソングが流行ったでしょう? あれと同じで、当時のマスメディアはほとんど胸倉つかんで感動しろと言っているような、ある種の“ベタ回帰”のフェイズに入ったと思うんですよね。
今、僕が話した一連のトレンディドラマからベタ回帰への流れを体現していたのが、間違いなく野島伸司でしょう。彼は、トレンディドラマでデビューしてまさにベタ回帰のお手本のような『101回目のプロポーズ』(91年)や『ひとつ屋根の下』(93年)の大ヒットを通じて、トップクリエイターになっていった。このとき彼がやったのは、ある種の物語の“感動サプリメント化”のようなものだと思います。
野島さんはその後『人間・失格』(94年)辺りから、レイプやいじめといった過激なモチーフと、それに伴う露骨な“トラウマ”を登場人物に負わせることで、物語を動かす手法を使いはじめる。登場人物の動機をすべて過去のトラウマに回収させていくこの手法は、書き割りのような人間観で深みがない、と批判されることが現在では多かったりもします。基本的には僕もそう思うけれど、野島伸司という作家をそれだけで片付けていいようにはどうしても思えない。
彼にはたしかに、効率的に視聴者を(後に引かない程度に)傷つけて、効率よく感情を揺さぶるために、トラウマ頼みの人物造形を行っていた側面があるんでしょう。しかしその一方で、彼のドラマには“もっとも深く傷ついている者こそ、もっとも深く救われる”という独特の美学が貫かれています。その美学が、ときに私たち視聴者の道徳感覚とズレているため、違和感ややりきれなさといった理不尽な感情がかきたてられ、それが野島ドラマの不思議な魅力になっていたと思います。
■シットコムに憧れた三谷幸喜
一方、同時期に欧米のシチュエーションコメディ(シットコム)の手法を使って、従来のテレビドラマの文法を拡張したのが三谷幸喜です。彼はずっと、日本で本格的なシットコムを作りたかった人ですが、どうもうまくいっているとは言えない。その理由は、政治風刺の文化の違いなど、いろいろあるんでしょうね。その代わり、“基本的に一話完結”“舞台設定を変えない”といったシットコムの手法だけを部分的に取り入れて、独自の手法を確立していく。その成果が『振り返れば奴がいる』(93年)というシリアスドラマや、『古畑任三郎』(94・96・99年)というキャラクタードラマだったように思えます。その集大成といえる『王様のレストラン』(95年)は、名作として今も評価が高いです。
しかし、彼の悲劇は『総理と呼ばないで』(97年)や『合い言葉は勇気』(00年)など、彼が本来やりたいものを書くとヒットしなかったということ。シットコムを受け入れない日本文化が生んだいびつな成功例として、日本の文化空間を考える上で重要な人だと思います。
三谷さんは、『古畑』で自身が生み出した名脇役・今泉巡査に対して、シリーズを重ねるごとに「ウンザリしていた」と語っています。僕にはこのエピソード、シットコムの手法がキャラクターものにしか生かせない日本の文化空間への呪詛に聞こえたりもしますね。
■時代の空気と寝た北川悦吏子
もうひとり、この時期の重要なヒットメーカーが北川悦吏子です。野島伸司が過激なモチーフや練り込まれた構成で、戦略的に時代の波に乗ったのに対して、彼女はナチュラルに時代と寝られた人。
『あすなろ白書』(93年)が「大学に入るとこんな青春が待っているんだ」という憧れのひな形として機能したように、90年代はテレビが日本を標準化し、世間のスタンダードを作る力を持っていた時代でした。北川さんは、そんな時代の空気や世間の感性を汲み上げる天性を持っていたんでしょうね。
そのセンスが時代の転換点と一致した最高傑作が『ロングバケーション』(96年)でしょう。本作の“神様がくれた休暇”というロマンティックなモチーフは、かつてのように右肩上がりの日本には戻れないとみんなが薄々気付いていた時期に、「“疲れた”“休みたい”と言ってもいいんだよ」というメッセージを提示しました。大衆が心の底では求めていたけど、自覚していなかったテーマを探り当てたわけです。
ここまで挙げた野島伸司、三谷幸喜、北川悦吏子の3人が、90年代のテレビドラマの方向性を決定付けた、代表的な脚本家といえるでしょう。
■『踊る』と『ケイゾク』
90年代後半になると、“プレ・ゼロ年代”とも言うべき潮流が出てきます。その萌芽と言えるのが、日テレの土曜9時枠のドラマ。ジャニーズ俳優を主演に起用したティーンズ向けのドラマ枠と思われがちですが、ドラマ史を考える上では非常に重要です。
堤幸彦がメイン演出を務めた『金田一少年の事件簿』(95・96年)をはじめ、凝った映像やトリッキーな演出で、俳優の身体を漫画のキャラクターのように撮る手法は、漫画原作のドラマが増えたゼロ年代的な演出手法のさきがけとなりました。 -
楽器と武器だけが人を殺すことができる――井上敏樹が『海の底のピアノ』で描いた救済 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.049 ☆
2014-04-10 07:00509pt
楽器と武器だけが人を殺すことができる
――井上敏樹が『海の底のピアノ』で描いた救済
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.10 vol.049
http://wakusei2nd.com
今回の「ほぼ惑」は宇野常寛による、8000字にわたる井上敏樹論です。彼が『仮面ライダーアギト』『仮面ライダー555』から、新作小説『海の底のピアノ』へ引き継いだ問題意識とは? そして、『衝撃!ゴウライガン』で示された、世界を変えるための想像力とは――?
初出:ダ・ヴィンチ2014年4月号 KADOKAWA
もし21世紀の日本でもっとも重要な作家は誰かと尋ねられたら、僕は間違いなく井上敏樹の名前を挙げるだろう。
井上敏樹は1959年、脚本家・伊上勝の長男として埼玉県に生まれた。伊上勝は『隠密剣士』『仮面の忍者 赤影』など日本のテレビ草創期から児童向けの時代劇や冒険活劇などを手掛けるヒットメーカーとして知られた存在だった。(ライターの岩佐陽一は「主人公の必殺技にリスクがあり、敵がそこを攻めてくる」「敵が裏切りを偽装して主人公に接近するが、それをきっかけに改心し任務と心情の狭間で苦悩する」「リタイアした歴戦の勇士が悪の組織に人質を取られ、心ならずも主人公に戦いを挑む」といったヒーロー番組に頻出するプロットを伊上の「発明」だと指摘している。)そんな伊上の最大の代表作は1971年に放映開始された『仮面ライダー』シリーズだった。仮面ライダーは社会現象と言えるブーム(第二次怪獣ブーム/変身ブーム)を起こし、70年代を通して国民的ヒーロー番組に成長していったが、作家としての伊上は70年代の末には壊死しつつあったという。
晩年の伊上は酒に溺れるようになり、そして、当時大学生だった井上敏樹は「借金しか残さなかった」父親を傍らに家計を助けるという目的もあってアニメの脚本を手掛け始めた。やがて井上敏樹の名前は『鳥人戦隊ジェットマン』(1991~1992年)、『超光戦士シャンゼリオン』(1996年)など、東映特撮ヒーロー番組を通してファンの間に知られるようになる。その作風は1話完結パターンの発明と再利用に長けた父親のそれとは真逆のものだった。井上敏樹が得意とするのは特撮ヒーロー番組の長い放映期間を活用した複雑な群像劇の展開と、パターン破りによる問題提起的なストーリーだった。
そして2001年、井上敏樹は父・伊上勝の手がけた仮面ライダーについにメインライターとして関わることになる。井上は『仮面ライダーアギト』(2001~2002年)にて全51話中50話を手掛けた。僕の知る限り、「アギト」は90年代を席巻したアメリカのサイコサスペンスドラマ(『ツイン・ピークス』がその代表例だろう)のノウハウの輸入とローカライズにもっとも成功した作品である。三人の仮面ライダー(主人公)を軸に膨大な登場人物が絡み合いながら、ある客船の遭難事件に端を発する巨大な謎を解き明かしていく。しかも、三人の主人公の三つの物語は互いに絡み合いながらも、物語の後半まで決して合流しない。そしてクライマックスでの合流の後、エピローグでは再び三つに分かれていく。僕の知る限り、こんなアクロバティックなドラマを一年間(全50話)展開し、破綻なく描ききった作家はいない。
しかし、それ以上に僕が衝撃を受けたのは、井上が本作で示した人間観と世界観だ。同作には複数の仮面ライダー(劇中では「アギト」と呼ばれる)が登場するが、この「アギト」とはいわゆる超能力者のことだ。そしてこの超能力者(アギト)たちが、自分の居場所を発見していく過程が物語の軸になる。
ここで僕たちは初代「仮面ライダー」が(特に石森章太郎の原作版で)「異形」のヒーローとして描かれていたことを思い出すべきだろう。原作漫画において仮面ライダー1号=本郷猛は感情が高ぶるとその顔面に改造手術で受けた傷跡が浮かび上がる。その醜い傷を隠すために本郷は仮面を被り、自らを拉致しサイボーグにしたショッカーと戦うのだ。
そして同作に登場する超能力者たちもまた、ことごとくその過去の体験から精神的外傷(トラウマ)をもつ。この世界ではトラウマと超能力が、比喩的に深く結びついているのだ。その結果彼らはその傷を埋め合わせるために力(超能力)を行使し、そしてその結果ことごとく命を落としていく。そしてその一方で、この物語には「いま、ここ」にある快楽に全力でぶつかっていく人々が登場する。彼らは生活自体を楽しみ、ことごとくよく食べ、よく楽しみ、そしてよく恋をする。そして彼らは劇中においてまったく命を落とすことなく、ほぼ全員が最後まで生き残っていく。そして彼らは全員アギト「ではない」普通の、超能力を「もたない」人間として設定されているのだ。これはなかなか悪意のある設定だと言えるだろう。
特に「食べる」というモチーフに井上の意図は明確に表れている。『仮面ライダーアギト』はヒーロー番組とは思えないくらい、食事のシーンが多い。登場人物たちは、何かにつけて家庭の食卓を囲み、外出先でサンドウィッチをむさぼり、屋台のラーメンを啜り、そしてストレスが溜まると焼肉屋で飲み明かしそれを発散する。そしてこれらの「食べる」という行為はどれも生き生きと描かれ、視聴者の食欲を誘う。(特に焼肉については、当時狂牛病問題で牛肉の消費が下がっていたため同番組は関連機関から感謝状を贈られているほどだ。)
そして、ほとんど毎回のように描かれる食事のシーンが、前者(超能力者=アギト)にはほとんどなく、後者(非超能力者)に集中しているのだ。
そんな哀しき超能力者=アギトの中で唯一例外的な存在として描かれるのが主人公の津上翔一(仮面ライダーアギト)だ。翔一は、この物語の中で唯一トラウマを持たない。と、いうかそもそも記憶喪失で過去のことをほぼ覚えていない。しかし、そのことを本人はあまり気に留めておらず、居候先での「主夫」生活を楽しんでいる。趣味は料理を作ることで、毎日のようにユニークな創作料理を手がけ、他人に振る舞おうとする。当然、自身の食事シーンも多い。
そう、翔一は劇中に登場する唯一の「もの食う」超能力者だ。そもそも記憶のない翔一は、トラウマに捉われない。したがって自身の超能力(仮面ライダーへの変身能力)にもこだわりはなく、警察の尋問にあっさりと「実は僕、アギトなんですよ」と答えてしまう。物語の終盤、記憶を取り戻してからもその佇まいは変わらない。「津上翔一」とは記憶喪失中に仮に与えられた名前だが、彼は物語後半に判明した本名にも関心がなく周囲の人間には好きなように呼ばせてしまう。翔一は、世界に与えられたもの(記憶、名前、超能力)に関心を示さない、ある種超越した存在だ。彼を支えるのは「食べる」ことが象徴する、「いま、ここ」の世界から快楽を、生きる力を汲みだす思想だ。そして物語では、ほとんどの仲間たちが死にゆく中、翔一に感化された超能力者たちだけが生き延びていく。
かつて伊上勝は石森章太郎の描く悲劇的なドラマツルギーを、痛快娯楽活劇の「パターン」に落とし込むことで事実上無効化していった。しかしその息子の井上敏樹は、石森的なものを継承しながらも、その世界観を完全に反転させたのだ。
そして『仮面ライダーアギト』と双子の関係にあるのが、井上が全50話の脚本をすべて手掛けた『仮面ライダー』(2003~2004年)だろう。同作には、「アギト」同様、超能力(モンスターへの変身能力)をもつ人類の亜種が登場する。オルフェノクと呼ばれるその亜種は、人類を特殊な方法で殺害する。そして殺害された人類は一定の確率でオルフェノクとして蘇る。こうしてオルフェノクたちは密かに勢力を拡大していく。主人公の青年・乾巧は偶然手に入れたベルト(仮面ライダーへの変身能力を付与する)を用いて、人類を襲うオルフェノクたちと戦うことになる。
津上翔一と乾巧はコインの裏と表のような存在だ。陽気でコミュニカティブな翔一に対して、巧は周囲に心を開くことを苦手とする。料理好きの翔一とは対照的に、巧は猫舌でほとんど「食べる」ことを楽しめない。そして翔一がアギトであったように、巧もまたオルフェノクであることが判明する。(本作におけるオルフェノクはいわゆる「怪人」に相当する。そう、『仮面ライダー555』は仮面ライダーと怪人が「同じもの」であるという初代「仮面ライダー」の世界観に回帰した作品でもあるのだ。)
『555』でもまた、井上はアクロバティックな脚本術を披露している。『仮面ライダー555』では物語が進行するとオルフェノクは誕生と共に壊死の始まる種であり、既にその存在が滅亡する寸前であることが明かされていく。そして、物語も巧を含むオルフェノクたち(登場人物の大半)が壊死していく未来を示唆して、終わる。要するに同作は予め滅びの運命を刻印されていた人々が、そのときを迎えるまでの短い時間を描いたものだった、と言えるだろう。実際に、同作の展開を俯瞰するとベルト(仮面ライダーへの変身能力)と人間関係(主に恋愛関係)の移り変わりが存在するだけで、同作の世界には何も本質的な変化は起っていないのだ。
『555』には海堂直也というオルフェノクが登場する。
かつて天才的な才能を示し、音楽家(ギタリスト)としての将来を嘱望されていた海堂だが、その才能を妬む人物により事故を仕組まれ、指の神経を失ってしまう。以降、海堂は自暴自棄な生活に溺れるようになり、やがてオルフェノクとして覚醒する。オルフェノクとなった海堂は、やがて自分に匹敵する才能をもった若いギタリストにその夢を託し、そしてすべてを清算するために愛用していたギターを階上から放り投げて、壊す。
しかし、以降の海堂は夢(生きる目的)を失い、迷走する。あるときはベルトを入手して(仮面ライダーとなって)人類に加担するオルフェノクを排除しようとする。またあるときは逆にオルフェノクから人類のを守るために奮闘する。しかし海堂の心は満たされない。
海堂は劇中で語る。「夢ってのは呪いと同じなんだよ。呪いを解くには夢を叶えなければ。でも、途中で挫折した人間は、ずっと呪われたままなんだよ」──アギト=オルフェノクとはまさにこの「呪い」を受けた存在だろう。しかし『555』の主人公・巧には「夢」がない。正確に言えば(オルフェノクである自分の人生に絶望しているため)「夢」を抱くことができないのが巧の「呪い」だ。したがって巧はもっとも救済され得ないオルフェノクとして描かれる。『555』という物語はそんな巧の救済をめぐる物語だと言えるだろう。
そして物語の結末で、巧はその死(の暗示)によって救済される。巧は長い闘いを経て「夢」をもつことのできない自らの宿命を受け入れる。「夢=呪い」から自由になった巧の立つ場所は翔一のそれと同じ地点だと言える。しかしその救済の瞬間は同時に彼の死が暗示された瞬間であり、物語の結末でもある。ここには翔一的な超越を、徹底して作品世界から排除しようとする井上の意図が感じられる。こうして考えると、同作は津上翔一のような超越者(アギト=オルフェノクであるにもかかわらず、「食べる」ことができる)を設定することなく、井上の世界観を追求したものだと言える。
そもそも「食べる」というモチーフは、井上敏樹の作品において世界への肯定の象徴であると同時に、執着を持たないことの象徴でもあった(津上翔一の描写はその最たるものだろう)。「食べる」という行為は一瞬で快楽をもたらし、そして一瞬で終わる。要するに、井上敏樹にとって「食べる」=世界を肯定することと「夢=呪い」をもたないことは等号で結ばれているのだ。
だとすると井上がその作品世界から翔一的な超越者を排除した理由が浮かび上がる。そう、『555』で「食べる」ことではなく「夢=呪い」を主題にすえた井上の意図は明らかだ。井上の本作におけるねらいはただ滅ぶだけの、世界を肯定できない呪われた存在たち=オルフェノクたちの目を借りてこの世界を描写することだ(前述したようにこの作品には事実上「展開」が存在しないのだから)。
そして、井上敏樹の最新作となる小説『海の底のピアノ』は、井上が『555』で掴み出したものに10年の歳月を経て再びアプローチした作品だと言える。 -
本当に"意識が高くなければ生き残れない"のか?――20代のための"キャリアとお金"のぶっちゃけ話 秋山進×小室淑恵×竹内幹×水無田気流×南章行×宇野常寛×堀潤 現場レポート☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.048 ☆
2014-04-09 07:00220pt
本当に"意識が高くなければ生き残れない"のか?
20代のための"キャリアとお金"のぶっちゃけ話 現場レポート
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.09 vol.048
http://wakusei2nd.com
去る3月31日、多くの企業が入社式を控える中で行われたPLANETSならではの働き方についてのイベント。ワークライフ・バランス代表の小室淑恵さんから詩人の水無田気流さんまで多様な登壇者を迎えて、皆様の仕事にまつわる悩み相談に回答していきました。
本イベントは4月1日(月)、東京・芝浦の「SHIBAURA HOUSE」にて開催されました。現在若者を取り巻く労働の状況は、問題が山積みです。元エリートサラリーマン、起業家、研究者、人材コンサルタントから元ハゲタカ(?)まで、様々なバックグラウンドを持つ登壇者に、参加者のみなさんからキャリアや子育てについてのリアルな質問が寄せられました。この記事では、2時間に及ぶイベントから、登壇者のみなさんの解答をピックアップしてお届けします。
◎文:池田明季哉
当日の動画はこちらから。
http://www.nicovideo.jp/watch/1396932194
http://www.nicovideo.jp/watch/1396932254
http://www.nicovideo.jp/watch/1396932432
まず最初に宇野常寛から、このイベントの趣旨が説明されました。
宇野「ここ2年ほど、ノマドブームや新卒一括採用批判が盛り上がっていましたが、僕は「こういう議論に参加していた若者たちが本当に知りたかったのは、本当にそういうことなのだろうか?」とずっと疑問に思っていたんです。こうした議論が気になってしまう人に、本当に必要な言葉はほかにあるんじゃないか、という思いがずっと拭えなかった。だからひととおり議論が出揃った今、いろんな立場のいろんな経歴の人を集めて、若い人たちの質問にひたすら答えていきたいと思っています」
続いて登壇者のみなさんが、個性的なこれまでのキャリアや、現在のライフスタイルを通じての自己紹介をしてくれました。イベントでは事前に来場者やニコ生視聴者のみなさんから質問を募集しており、その質問に対するアンサーから議論を深めていきました。
■【質問1】
会社員(男性 27歳)
「安定しているけれどつまらない仕事を続けるか、不安定だけれどやりがいがあるNPOのような仕事に行くか、なかなか決断できない」
南「まあ、面白いと思ったら本気になれるし疲れないし、面白い方に行ったらいいんじゃないの? というのが僕の基本スタンスですね。人間、精神的に辛いのが一番きついですから。僕はその上で、なんとかお金をやりくりできる方法を考える、という順番でいつも考えていまね。例えばNPOをやっていたときは、お金が厳しいことはわかっていたので、土日だけでもたくさんの人数を集めようということをやって、その経験が起業に繋がっていきましたから」
秋山「おそらくこの相談者さんが勤めているのは、すごく大きい会社なんじゃないかと思うんです。で、最初はベンチャーをやってる人の方が元気なんですけど、50歳くらいになると、立派な会社の立派な仕事してるやつって、結構立派になってくるんですよ(笑)。「ポジションが人を育てる」というのは本当にあるんですよね。超大企業って、けっこう捨てたもんじゃないので、無理して辞める必要はないんじゃないかな」
小室「私、プレゼンテーション講座のボランティアをやってるんですけど、本当にこういう質問をしてくる学生が多いですね。共通しているのは、完全にその会社の仕事一色になっている、ということ。私が「辞める前に一回試してごらん」と勧めているのは、とにかく今所属している会社の仕事は6時になったら上がって、本当にやりたいと思うことを6時以降に毎日やってみるということなんです。一回「辞めよう」という気持ちになったら、会社のなかでの評価も気にならないから、残業も断れるんですよ。それで一旦ボランティアで1年くらい関わればスキルもつくし、本当に欲しい人材だと思われたら声がかかるし、本当に好きなら続くんです。だから、それからでも辞めるのは遅くないよ、と言っています。それで6時に帰るようになると、その会社の仕事が、嫌いじゃなくなる人がすごく多い。そればっかりやるから嫌いになってしまうんです。だからどっちに対してもフルに時間を使えない飢餓感のようななものを持ち続けるのがコツなんだよ、という話はいつもしています」
■【質問2】
出版社営業マン(男性 25歳)
「スーパーブラック企業に就職してしまいました。①私が一番得な辞め方はどんな辞め方でしょうか? ②働く先に待っている「辞める」ということについてはみなさんどうお考えでしょうか? ③中途、あるいは第二新卒の採用に当たって、職歴が短いのはどの程度マイナスになってしまうのでしょうか?」
宇野「これは明日失踪ですね(笑)。出社しない、電話も出ない。もう得られるものはないので明日失踪してください」
南「いちばん大事なアセットって時間だと思うので、できるだけクイックに辞めた方がいいです。世の中には成功と学びしかなくて、失敗は学びなので、「こういう会社はダメだな」ということをサッと学んで次に行った方がいいですね。採用する側の立場からいうと、生き方とか選んできたものが一貫していればいいだけの話なんで、1社目がたまたま短くてもぜんぜん関係ないです」
小室「私が採用するときに、前職がブラック起業だったのでそこから抜け出てきたかったんです、っていう子は不採用なんです。それは自分が逃げたいだけだし、しかも解決できてない。そこで、何を学んでどうしていったのかということが大事です」
■【質問3】
大学院生(男性 21歳)
「研究職に行きたいんだけれども、学閥やヒエラルキーのようなもので気後れしてしまいます。学歴ロンダリングってどうなんでしょう?」
竹内「私は経済学者なので経済学の場合で言うと、数学上の定理があって、仮説が証明できたら学歴は関係ないです。それでノーベル経済学賞取ったりということも、本当にあります。でも、工学系や実験系はマジで体育会系のところがありますね。結局ピラミッド構造なので、上に教授がいて、自分がそこに行きたいんだったら、ピックアップしてもらうしかないわけなんですよ。だから気後れしてる場合じゃないですね。好きなら絶対になんとかなります。もちろん能力があればいけるし、能力がなければいけないという厳しい現実は待っていますが」
■【質問4】
会社員(女性 29歳)
「考えれば考えるほど、夫婦共働きなら子供を作らない方が得なように思います。女性が働きながら子供を作るのはクソゲーだと思うんですが、お子さんをお持ちの方は、どうして子供を作ろうと思ったんでしょうか? 子供を産んでみて良かった点があったら教えてください」
ここで「子供を作るのはクソゲー」という言葉を受けて、水無田さんの準備していたプレゼンテーションが炸裂、会場を大いに湧かせました。なぜ女性が働くことは困難なのか? ということをクソゲーに例えてわかりやすく解説。ここではダイジェストでお送りいたしますが、その熱いプレゼンテーションの全容は、ぜひとも動画でご確認ください。
水無田「クソゲーとは「誰も勝てない=幸せにしないゲーム」であると言えますが、女性が働くこと自体がクソゲー化しているんですね。どうしてクソゲーかというと、 -
社会学者・南後由和インタビュー 都市をスポーツの問題として読み替える――都市と身体の新しい関係 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.047 ☆
2014-04-08 07:00社会学者・南後由和インタビュー都市をスポーツの問題として読み替える――都市と身体の新しい関係
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.8 vol.047
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今朝の「ほぼ惑」は、P9チーム連続インタビューの第4回。 社会学者・南後由和さんの登場です。 都市をスポーツの問題系にある概念で読み替えて 人間と切り結ぶ新しい関係を考えていきます。
【PLANETS vol.9(P9)プロジェクトチーム連続インタビュー第4回】この連載では、評論家/PLANETS編集長の宇野常寛が各界の「この人は!」と思って集めた、『PLANETS vol.9 特集:東京2020(仮)』(略称:P9)制作のためのドリームチームのメンバーに連続インタビューしていきます。2020年のオリンピックと未来の日本社会に向けて、大胆な(しかし実現可能な)夢のプロジェクトを提案します。 -
『艦これ』でブラウザゲー定着の道筋は見えた?――井上明人×岡本基×中川大地で振り返る2013年のゲーム業界 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.046 ☆
2014-04-07 07:00220pt
『艦これ』でブラウザゲー定着の道筋は見えた?
井上明人×岡本基×中川大地で振り返る2013年のゲーム業界
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.7 vol.46
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今朝の「ほぼ惑」は、4/3に発売された今年度版の「文化時評アーカイブス」からゲーム業界についての座談会を採録。ゲーム市場を『パズドラ』が席巻し、PS3の最終年でもあった2013年を振り返ります!もちろん、『艦これ』についてのトークもあります。
初出:『別冊サイゾー×PLANETS(プラネッツ) 文化時評アーカイブス2013-2014 (月刊サイゾー5月号増刊)』
▼登壇者プロフィール
井上明人〈いのうえ・あきと〉
1980年生まれ。国際大学GLOCOM客員研究員。ゲーム研究者およびゲーミフィケーションの推進者。著書に『ゲーミフィケーション』(NHK出版)がある。
岡本基〈おかもと・もとい〉
1975年生まれ。株式会社エンタースフィア代表。任天堂で『ピクミン』やWiifit等の開発に関わったのち、独立。ゲーム開発等を手がける現社を設立。
中川大地〈なかがわ・だいち〉
1974年生まれ。文筆家、編集者。アニメ・ゲーム関連のコンセプチュアルムックの制作を中心に、各種評論・ルポ・雑誌記事等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』(光文社)。
■PS4の初動32万台をどう見るか
中川 2013年度のゲーム界は、ファミコン登場30周年ということもあって結構なメルクマール性があったと思うんですが、ここはやはり先頃2月に発売されたPlayStation4の話からですかね。つまり、2012年のWii U登場に続いて、コンシューマーゲームの一角を占めていたPS3からの代替わりの年だった。昨年11月の北米から発売が順次始まり、日本が世界で一番最後にあたり、この事実ひとつ取っても世界ゲーム市場のここ10数年の情勢変化が現れている。
これはもう2012年の『パズル&ドラゴンズ』(以下、『パズドラ』)のブレイクを通じて一般的な認識になってきていると思うんですけど、現在では「ゲーム業界」と言ったときに、SNSベースのソーシャルゲームやスマホゲームといった、非専用機の分野が半分以上を意味するようになっています。その状況を踏まえたPS4は、たとえばニコニコ動画なんかで人気ジャンルとなっているゲーム実況のような、プレイ風景のソーシャル共有ができる機能をハードそのものに取り込み、コンシューマーの劣勢に対応しようとした。その苦肉の策がどれだけ奏功するかが、PS4の見所ではないかなと思う。
岡本 PS4の初動は、20万〜25万台ぐらいだと予想してんたですけど、余裕で超えて32万台になりましたね。PS3の時は当初品不足だったせいで8万台程度からスタートだったから、かなり好調に立ち上がった。国内で家庭用ゲームを作っている人たちは、ひと安心したんじゃないかな。Wii Uがゲームキューブよりもさらに悪い状況で、Xbox Oneも全然だし、これでPS4が売れなかったら、今後10年さらにPS3で作らなきゃいけなくなってましたからね。
井上 32万台という数字が何を意味するのか、が重要ですよね。これは、「ソニー信者」なんて言われるファンがまだちゃんと付いてきてるという数字だと思う。この後1年間の伸び率がどうなのかと考えると、まだ楽観はできない。今までの戦いに比べても厳しい状況かな、と。
岡本 PS3は国内での立ち上がりが悪かったけど、今は据置機ではメインのハードになっている。今って、みんなの期待値というか、商売する上での最低ラインが低いと思うんですよ。なのでハードルは低くなっているから、そんなに厳しくはないかな、と。PS3とのマルチやPSVitaとのマルチもあって、早い段階で商売には乗ってくるんじゃないか。たぶん累計でPS3を超えると思う。5年ぐらいかかるかもしれないけど、初動のデカさは大きいし、全世界で売れているなら値下げも早いはず。PS3は2万円まで落ちるのに結構かかりましたけど、少し普及曲線が速いんじゃないかな、となんとなく思ってますけどね。
中川 少なくとももうすでに海外では600万台を突破してますよね。海外の勢いは強くて、これはソフトタイトルの発売状況にも言える。日本のコンシューマーゲーム市場は典型的なガラパゴス状況にあって、2013年の年間上位タイトルは1位が『ポケットモンスターX・Y』で、2位から10位を『モンスターハンター4』『とびだせ どうぶつの森』『トモダチコレクション』といった、ほぼ国内市場でしか通用しない相変わらずの3DS用タイトルが占めている。さらに6位に『パズドラZ』が入ってるのが面白いんですが。
ところが、8位に『グランド・セフト・オートⅤ』(以下、『GTA』)が入っていて、コンシューマー業界のこの数年間のPS3の巻き返しもあり、海外のヒットタイトルがトップ10に入ってくるようになった。日米の市場状況の差を業界やファンが意識した上で、その壁を乗り越えてこようとする動きがこの1年はわりと見えてきた気がするんですよね。
岡本 『GTA』は80万本までいきそうな勢いですけど、これはすごいことで、PS2時代には考えられなかった。『コール・オブ・デューティ』も結構売れてますよね。でも掛かっている開発費とか、それに裏打ちされた品質という点では、当然の結果なのかもしれません。開発費や求められる品質に耐えられるスタジオがなくなってしまったという据置機ゆえの高いハードルがある。言ってみれば、洋画に押されていた頃の邦画みたいな状態になってきてるわけです。おそらくPS4世代の主役の大半は海外ゲームになってしまうのはほぼ間違いない。だから、その後映画界では邦画が盛り返したみたいに、日本のゲームも盛り返せるように、僕もそうですが、ゲーム会社が頑張るところなんですよね。
宇野 少しだけいいですか? そこで邦画が勝ったといっても、客が入っているのは『海猿』や『踊る大捜査線』みたいに、すでにほかのメディアでヒットしたものの続編なんですよね。つまり、ファンイベントのようなテレビ局映画か、ジブリアニメか、という状況になっている。アニメはまだいいとして、その盛り返した中身ってすごい空疎で。ゲーム業界の方がそこでいう「盛り返す」って、もうちょっと内実を伴ったことだと思う。だから、そのためのシナリオは別に考えておかなきゃいけないんじゃないか。
中川 というか、『海猿』とか『踊る大捜査線』が興収1位2位を取るような状況というのは、まさに現在の日本のゲーム市場そのもの。つまり『海猿』なりジブリ映画なりが『ポケモン』とか『モンハン』とか、見慣れたシリーズブランドしかヒットしない状況に該当する。後で議論するけど、大メジャーヒットシリーズと単館系のニッチの二極に収斂されるという意味では、ゲームは順調に映画や音楽の轍を踏んできてます(笑)。
井上 僕が2013年のランキングで面白かったことの一つは『パズドラZ』が、3DSで100万本以上売れてること。これは事態として新しいと思うんですよね。今までは、コンシューマーで売れてるIPの“劣化版”がソシャゲで出て、「そんなに楽しくないけど無料だから」と遊ばれる流れだった。それがようやく、ソシャゲで評価されたタイトルがコンシューマーで売れるという逆の流れが出てきた。今コンシューマーのほうは完全に売り上げの見積もりのできるタイトルでないと出しにくい状況がある。だからこそ、ソシャゲがイノベーションパイプラインの源流になっているんだと思いますが、だとしてもこれは非常に好ましい動きだと思うんですよね。
中川 まったく同感です。『パズドラ』以降の状況は、それ以前と比べるとゲーム好きにとってははるかにマシ。それ以前というのは、モバゲーとGREEが仁義なきトレーディングカードゲームもどき戦争を繰り広げていた、ガラケーSNSソシャゲの時代ですね。その中でガンホーが、ゲーム好きに訴えかけるものとして、スマホのタッチパネルインターフェースを活かし、縦使い画面の下半分を占める文字入力パネルのような画面構成で、一筆書き式のスリーマッチパズルをモンスターとの戦闘用コマンドに充てるという独自のゲーム性を編み出した。
それが『Z』で3DSの2画面式インターフェースに移植されたときに、パズル部分をタッチペン式の下画面に置き換えつつ、上画面でのストーリー進行の部分をいかにも『ポケモン』的、あるいはレベルファイブ的な児童向けRPGのフォーマットに接続して違和感なくコンシューマー化できたというのは、結構大きな驚きでした。
岡本 そういう意味ではセガさんの『チェインクロニクル』はたとえばVitaで通用しそうな深みがあると思いますし、スクエニさんの『拡散性ミリオンアーサー』Vita版は、実際に商売になるような数字が出ているとは耳にします。非常に細くはあるけれど、家庭用でもいわゆる「F2P(フリー・トゥ・プレイ)」のビジネスが成り立ってきつつある。13年の東京ゲームショウではバンダイナムコさんが、『機動戦士ガンダム バトルオペレーション』『鉄拳レボリューション』『エースコンバット インフィニティ』『ソウルキャリバー ロストソーズ』をF2Pの4大タイトルと位置付けていく、と宣言しました。スマホ以外でも、始めは無料でアイテム課金という形式が本格化してくる。PS 4にもそういうタイトルが最初からいくつかあります。いよいよ据置機でもパッケージで商売する時代ではなくなりつつあるというのが、大きな流れかなと。
中川 業界の中の人からすると、基本無料でアイテム等で課金するフリーミアム型のスマホゲームだと、どれぐらいのダウンロード規模で“キャズム超え”と見なされるんですか?
岡本 200万ダウンロードあたりでテレビCMを打って、それでブーストして300〜400万DLを超えたあたりでしょうか。ただ、ジャンルによって客単価が違うので、微妙に異なります。パズル系のような簡単なものだと400〜500万DLは超えないとそうは言えないし、RPGだと100万200万でもかなりの数字、という見方がある。
中川 なるほど。『パズドラ』以降の状況として、『チェインクロニクル』や『ブレイブフロンティア』あたりの200万ダウンロード級のゲームの登場のしかたが、『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』の後にJRPGの有象無象が出てきた時に似てるな、と感じたんですよ。つまり、『パズドラ』での破壊的イノベーションを受けて、その方向での“改訂洗練版”が充実していった1年だったという印象を受ける。
井上 ソーシャルゲームの市場自体が、似た改訂版を出回らせる速度が単純にコンシューマーの頃の3倍速ぐらいで回っているイメージがありますね。業界構造として、製作ノウハウを共有する仕組みが良くも悪くも高度に出来上がっている。その結果、やたら似たゲームがポンポン出来上がって、ユーザーが飽きてしまう。
岡本 確かに似たゲームが多いのは間違いないですね。一方でモバゲー・GR EEの全盛期は、“ガワ替え”といわれていたくらいで、本当に同じようなゲームが次々出てきていた。それに比べるとだいぶ健全さが増していて、今は必ずプラスアルファが必要になってる。ただ、そのプラスアルファがどのくらいのレベルなのか、という議論はあると思います。そこで革命的なものはまだまだないですよね。ただ、そもそもユーザーさんがそこまで求めてるのかどうか。たとえば『ポコパン』はLINEのモンスター級アプリですが、それと似た『ディズニー ツムツム』が登場したら、あっという間にLINEゲームの中でトップに立った。ちょっとした物理挙動が入っていて感触は違うけど、基本的なゲーム性は同じなんですよ。全く同じものはだめなんだけど、まったく違うものを求めているわけでもない。スマホゲームは空いた時間にやるものだから、イチから新しいルールを覚えるのは荷が重くて、ユーザーさんの抵抗感が強いです。
中川 LINEのカジュアルゲームが強いのは、知り合い間の小さなソーシャルグラフを通じて、やってるゲームの紹介やポイント贈与やランキング変動がどんどん押し寄せてくる点ですね。『LINE POP』がそれで大きく伸びて、それが順当に『ポコパン』や『ツムツム』に継承されてるかな、という印象です。
岡本 アクティブユーザー数は少し落ちてるという推測は出てきているんですけど、その分課金への慣れも若干あるので、トータルとしてはまだまだ強いプラットフォームですね。ただ、パズル系以外はLINEのユーザーさんにはあんまり刺さらないですよ。女性が多い証明だと思いますが、男性ユーザーはもう少し濃いゲームで遊びたい。そこを掬ったのが『パズドラ』だった。
中川 濃いものを求める層がLINEゲーム以外に行ってるんですよね。LI NEのプラットフォームでは、『パズドラ』級の濃いものは出てこない。ただ相互的な影響は確実にあって、『ポコパン』は、マッチパズルとモンスターバトルを組み合わせた基本構成をパクりつつ、それを時間制にしたりキャラをポップ化したりして『パズドラ』をカジュアル化したものだったと言える。
岡本 LINEさんの中にも、もっと露骨に『パズドラ』っぽいのはあるんですよ。でもそっちは当たってない。『ポコパン』ぐらいの、そんなにガチャを回さなくていいのがちょうどよかったんでしょう。『パズドラ』のように、ガチャを含めた育成の比重が大きいタイトルは男の子向けで、ユーザーさんからはみ出してしまうのかもしれません。それとダンジョンの長さなどのゲームサイクルの問題もあります。『ポコパン』は60〜80秒で1サイクルで、LINEのユーザーさんにはそれぐらいがちょうどよかったんだと思う。スマホゲームで重要なのは、1サイクルの長さをどう作っていくか。作り手としては悩まされるところです。
■「粗くても面白い」実験系は、コンシューマには遠すぎる井上 もうひとつ、ソーシャルゲームじゃないマーケットも全部含めて見た場合の話として、実験的なタイトルをどこでやるのがいいかというのが、この数年ですごいはっきりしてきたと思うんですね。90年代なら、実験的なタイトルも、メジャーでガンガン売るタイトルも、良くも悪くも全部コンシューマーでやっていた。それがここ数年は、実験的なタイトルはインディーズやiOS、あるいはSte amで300〜500円で買えるようになっています。そしてそういうものが好きな人たちの間で評価を得て、海外ならIGFのようなゲーム系のフェスティバルで評価を得ていく、というインディーマーケットの流れが出来上がっている。一方で、コンシューマーは、シリーズものやタイアップなどもともとお客さんが付いてるIPに向けて売る市場になっている。ソーシャルゲームはその中間というか、開発コスト自体も高くなってきているとはいえコンシューマーと比べればそこまででもないし、数字を獲りに行くマーケットではあるけれど、まだいろいろ多様なやりようはあるという感じ。この3つのマーケットで、だいぶ方向性が分かれてきてる。そこがはっきりしてきた1〜2年だったかな、と。
中川 前回の「文化時評アーカイブス」ゲーム座談会で、そういうふうにプラットフォーム別に細分化したゲーム文化が成立したのを確認しましたね。先程見たように、スマホの中ではLINEのカジュアルゲームと『パズドラ』的なもう少し歯応えのある独立アプリ系がある。コンシューマーでは、PS3で『風ノ旅ビト』がスマッシュヒットして、150 0円ぐらいで買えるダウンロード専用タイトルの認知度が日本でも高まり、まるで単館上映系の文芸映画のようなニッチができた。その状況が2013年にも順当に続き、『パズドラ』後のスマホゲーと同様、『The Unfinished Swan』や『Rain』のような同系統のバリエーション作品が出てる。とはいえ、このニッチは実験性はあるけれど、どうしても『ICO』『ワンダと巨像』に似た上田文人ゲーのエピゴーネンという印象を拭いがたいですが。
井上 90年代と2000年代初頭が良かったと今になって思うのは、インディーズ系ゲームでも、実験的でかつ数億以上の予算がかかって仕上がりのクオリティも良いタイトルがあったことですね。今は、そういうタイトルが少なくなっています。実験性のあるタイトルは増えてるんだけど、仕上がりは粗いのがだいたいのインディーゲームです。僕自身はそういうゲームは好きだけど、仕上がりもよくて実験的なのもやりたいと思ったときに、いいものをピックアップしにくい状況になってきているという側面もある。
岡本 Steamの売上でも、アーリーアクセス系が半分ぐらい占めているときもありますね。未完成なゲームを楽しめる層が集まっていて、そういう人たちが今インディーズを支えている。ある意味日本の同人ゲームもそうだと思うんですけど、逆に、狭いところで固まっちゃう危険性はあるんですよね。もちろん英語圏だけでもそこにはすごい人口がいて、日本よりは何十倍も市場があるんですけど、そこからコンシューマーのところまでは結構遠いという危険性は感じます。
中川 やっぱりインディーズ系が盛り上がっているのは、北米圏が中心ですよね。日本だと、実験的なタイトルがどこにあるのかもあまり見えない状況がある気がします。
井上 ただ、ひとつ希望があるのは、2013年はフラッシュゲーム『クッキークリッカー』のヒットがありました。あれは粗いどころの話じゃなくて、クッキーをクリックするとクッキーがひとつ増える、究極的にはそれだけ(笑)。延々とクリックしていってクッキーを作るおばあちゃんを増やしてパワーアップさせたり、クッキー工場を1000クッキーで買えたり、とにかくクッキーをただただ大量に作っていく。いってみれば『ぐんまのやぼう』『おさわり探偵なめこ栽培キット』のラインですね。『クッキークリッカー』のゲーム自体に完成度がないというのは、始めて最初の5秒でわかる。あとはネタ消費としてやってもらえるかどうか。僕は『クッキークリッカー』みたいものがバッと広がるのはいいことだと思います。今までのいわゆる“ゲーマー”のゲーム消費の仕方とは全く違うスタイルのマーケットが─マーケットという言い方が正しいのかは謎ですが─立ち上がっている。
中川 自分のアンテナが低かったこともあるんですが、13年はガチなスマホゲームにしか出会えてなくて、『ぐんま』とか『にゃんこ大戦争』のラインの新ネタに出会えなかったのが物足りなかった1年だったんですよ。『アルパカにいさん』はさすがに出オチすぎたし……。
井上 『にゃんこ』は『ぐんま』系のユルいものと戦略性の高いゲームの中間ぐらいの位置付けのタイトルですね。ソシャゲの育成系ゲームとしてはそこそこちゃんと遊べるものに仕上がってる。そこに「にゃんこキモいなー」みたいなネタが挟まり、『なめこ』的なムーブメントと、ソシャゲのある程度作りこまれたもののハイブリッドでやられた感じですよね。
中川 『にゃんこ』的なタワーディフェンスを一歩ハイブロウにしたガチ和ゲーとして、『チェインクロニクル』が出てきたなという印象。スマホを横にして構えるという、縦使いの日常動作よりは専用機寄りの集中を要しつつ、勝手に敵軍が進行してくるのを煩雑すぎないタッチで食い止める操作系が、ちょいコア向けスマホゲーとして適確で、一つのスタンダードになりうるなと思いました。
岡本 あれはセガさんのアーケードのチームが作っていて、従来のソシャゲの文法からはかなり外れてるんです。ソーシャルゲームを作っていた業界人は最初「これはちょっとソーシャルゲームとしてどうなの」って反応悪かったぐらいだったんですが、意外と王道がハマっちゃった。逆に、業界人がいきなり褒めるようなものは、ちょっと違うな、となっていたのが2013年だと思います。「脱ソシャゲ」「脱カードゲーム」がすごくはっきり出てきたと感じました。ただ、とはいえ、ユーザーさんがゲームに関してすごく情報を集めてくださるかっていうと、残念ながらそんなことはない。だからファースト画面でジャッジされることがすごく多くて、逆にカードゲームの流行っていた頃以上に見た目が重要なんです。イラストだけ良ければいいわけでなくて、そもそもキャラクターをどう見せるのか。ちょっとした手触り、UIや提示の仕方で刺さり方が違ってきて、そこで「お、新しいな、でも簡単そうだな」と思うとユーザーさんが集まってくださる。それが今起きてる現象かなと。
■『艦これ』ブレイクで見えたブラウザゲー定着の道筋
中川 いま岡本さんがおっしゃった、アイテム課金モデルへの反発を含む脱カードゲームの流れの中から出てきたのが、『艦隊これくしょん─艦これ─』だったと思うんです。これが出てきたことで、『パズドラ』ですら「悪しき課金ゲー」の位置付けにされてしまったのが、2013年の驚きでしたね。
井上 PCブラウザゲームのタイトルで、マンスリーで70万ユーザーいるというのはちょっと驚きですよね。中身もある意味地味というか、万人受けするゲームデザインとまではいえないですし。
岡本 『艦これ』の口コミがどう広がっていったかは、もう歴史に埋もれてしまっているところもあると思うんですけど、モバゲーの『アイドルマスター シンデレラガールズ』が、年数が経って実は結構飽きてきて課金疲れもしてきていたところにうまくハマったというのはありますね。ツイッターでハマっている人を見ていても、初期は“プロデューサー”さんが結構多かった。それと、同人界隈でひとつ大きな話としては、「東方」のユーザーさんが移ったこと。「東方」の同人誌を描かれているイラストレーターさんを、狙い撃ちにしてイラストを発注したんじゃないかと言われてます。『アイマス』も「東方」も、どちらも時間が経っているコンテンツなので、新鮮なものを求めていた2つのコミュニティからアクティブなユーザーさんを採ってきたところが大きいのかもしれません。
中川 あとはゲーム内の文脈というよりは、アニメ『ガールズ&パンツァー』等の流れで、「ミリタリー+萌え」という組み合わせへの敷居がずいぶん下がっていたことが大きかったと思うんですよね。『宇宙戦艦ヤマト』や『ガンダム』の時代から、戦後日本のオタクコンテンツの底には第二次世界大戦での日本軍の戦いを捉え直そうという情念が連綿とあったわけですが、これまではそれがストレートには出せずSF的にぼかすしかなかった。それがここに来て、かくも赤裸々な「メカと美少女」のフェティッシュを通じて太平洋戦争の詳細に真正面から立ち入るコンテンツがヒットしたのは、宮崎駿の『風立ちぬ』やNHK朝ドラ『ごちそうさん』との共振も含めて、文化史的には大きな事態だと感じます。
……と、話が盛り上がってきたところですが、「ほぼ惑」ではここまで!
続きは、4/3に発売された『別冊サイゾー×PLANETS(プラネッツ) 文化時評アーカイブス2013-2014 (月刊サイゾー5月号増刊)』で読むことができます。
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「AKB48単独 春コン in 国立競技場」を写真で振り返るーーPLANETSの選んだ44ショット ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆
2014-04-05 16:27220pt
「AKB48単独 春コン in 国立競技場」
を写真で振り返る
――PLANETSの選んだ44ショット
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.6 号外
http://wakusei2nd.com
先日写真集『NEW TEXT』を刊行したばかりの写真家・小野啓が、3月29日に開催された「AKB48単独 春コン in 国立競技場」を撮影! 大島優子卒業を記念するAKB48待望の単独ライブで、少女たちが躍動する姿を会場の空気ごと捉えました。
▼プロフィール
■小野 啓(おの・けい)
1977年京都府出身。 2002年より日本全国の高校生のポートレートを撮り続けている。
写真集に『青い光』。『桐島、部活やめるってよ』、『少女は卒業しない』(著者:朝井リョウ)の装丁写真を手がける。
「小野啓写真集『NEW TEXT』作って届けるためのプロジェクト」を経て、写真集『NEW TEXT』を刊行。
▲大島優子登場!「暴れるぜええーー!!」
▲「メンバーたちが回っております!」と解説するまゆゆが興行主のようだった
▲横山チームAの華やかな一枚
▲まゆゆのステップはまるで無重力のように軽快
▲肌が白すぎて大会場でもすぐに見つけられる岩田華怜さん
▲しょっぱなから横山キャプテンもハイテンション!
▲北原里英さん抜群の安定感・安心感
▲優子さん0ズレのポジションからパシャリ!
▲豊かな表情を、ぜひ拡大して見てください
▲ちゃっかり優子さんに抱きつくひらりー(平田梨奈)
▲福岡聖菜ちゃんの独特なたたずまいに注目が高まっている
▲ずっとこの「Baby!Baby!Baby!」を見ていたかった
▲本日の主役・大島優子さん。眼力強め!
▲かと思ったら柔和な笑顔。このギャップ!
▲みるきーはこのあと髪をばっさりカット
▲光を背負うぱるる!
▲なぜだろう、川栄なのにカッコいい…!
▲これが大島優子!
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「宇野常寛のオールナイトニッポン0(zero)金曜日~3月28日最終回放送全文書き起こし!」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.045 ☆
2014-04-04 01:00220pt
宇野常寛のオールナイトニッポン0(zero)金曜日
~3月28日最終回放送全文書き起こし!
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.4 vo.045
http://wakusei2nd.com
好評放送中の「宇野常寛のオールナイトニッポン0(zero)金曜日」。
前週分の放送を、全文書き起こしでお届けします。
■オープニングトーク
はい。大島さん、宮澤さん、秋元さん、お疲れ様でした! 評論家の宇野常寛です。そして、ラジオの前の皆さん、こんばんは! というか、そろそろおはようございますのお時間の方もいらっしゃいますね。評論家・宇野常寛が、東京有楽町のニッポン放送から生放送でお届けしております。オールナイトニッポン0(zero)金曜日。本日が最終回となります。そこでいつもとは異なって、3時台のスタートからアナーキーリクエストコーナーをお届けします。このコーナーは、他のラジオ番組 -
"人間"を単位に考えるのは生命に失礼――Yahoo!Japan CSO・安宅和人が神経科学とマーケティングの間で考えてきたこと ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.044 ☆
2014-04-03 07:00220pt
"人間"を単位に考えるのは生命に失礼
Yahoo!Japan CSO・安宅和人が神経科学と
マーケティングの間で考えてきたこと
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.4.3 vo.044
http://wakusei2nd.com
今朝の「ほぼ惑」で話をお伺いするのは、Yahoo!Japan CSOの安宅和人氏。ベストセラー『イシューからはじめよ』の著者であり、神経科学の研究者と経営コンサルタントの経歴を持つ人物です。そんな氏の「思想」に宇野が迫ります。
2010年末に出版されベストセラーとなったビジネス書『イシューからはじめよ』の作者である、Yahoo! Japan CSOの安宅和人氏は、経営コンサルタントと神経科学者の2つの経歴を併せ持つ異色の人物だ。ネットユーザーには人気ブログ「ニューロサイエンスとマーケティングの間」のid:kaz_ataka氏としても有名である。
ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Being between Neuroscience and Marketinghttp://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/
このブログや著作からも窺えるように、氏の経歴は双方ともに華々しい。外資系コンサルティングファームで、独自の消費者マーケティング手法によってヒット商品の開発に関わってきた一方、米国イェール大学での研究者時代には、平均7年弱かかるプログラムを、当時最短の3年9ヶ月でPh.Dを取得している。そんな氏の仕事術を明かしてみせた本が、『イシューからはじめよ』であった。
今回、ひょんなことから安宅氏と知り合った宇野の希望で、我々PLANETS編集部は六本木の東京ミッドタウン内にあるYahoo! Japan本社を訪問することになった。宇野が今回、強く興味を惹かれていたのは、安宅氏の「哲学」である。『イシューからはじめよ』の背景で彼が考えていた内容にはじまり、二人の議論はインターネット時代における「言葉」や「人間」についての認識を問うものになっていった。
◎構成:稲葉ほたて
■『イシューからはじめよ』は"科学書"だった
宇野 今日僕が聞きたいことは究極的には一つで、それは安宅さんの『イシューからはじめよ』という本の背景にある人間観についてなんですよ。あの本には、安宅さんが冒頭で書かれているように、ニューロサイエンスとマーケティングの間で考えた仕事術が詰め込まれているのですが、僕の興味はむしろその背景にある人間観の方なんです。科学者・安宅和人はニューロサイエンスとマーケティングの間からかなりユニークな人間像を持ち帰っている。そこを引き出したいんです。
安宅 ありがとうございます。あれはブログで書いた記事の反響を受けて、重い腰を上げて書き始めた本なんです。しかも、ブログのハンドル名で出すつもりだったのですが、最後になって「こんなに濃い本なのだから、ちゃんと実名で出しましょう」という話になってしまった(笑)。
でも、本来は科学研究のためののような本だったんですよ。大量のサイエンス事例を載せていたのですが、優秀なエディターの強烈なパワーによって一般向けに味付けが代わり、ビジネスチックな話を多く差し込みました。
宇野 だとすると、僕が読みたいのはその理論編ですね。事例というのは研究結果についてですか。
安宅 いえ、研究における知的生産の手法についてです。そもそも僕のブログの読者は何らかの研究をしている人がどうも多く、彼らのリクエストによって書籍化されたわけですから。そこで書いたのは、まさにタイトルの通り、「イシューからはじめよ」を優れた科学研究の事例に沿って説明しようとしたものでした。
宇野 門外漢からすると、この2014年の現在においては特定の業界ではこの本の影響か、僕の周囲にいる人、たとえば楽天の尾原和啓さんなどがその代表ですが、「イシューから始める」ことを意識している人は決して少なくはない。でも、日本の自然科学の現場ではそういう発想が弱かったのですか?
安宅 私の関係する分野では一部の優秀な研究者を除いて、明示的には行っていなかったと思いますね。日々これはどうだろうと実験をして、面白い結果が出てこないか、それをみて考えようという人が多かったのではと思います。現在もそうかは難しいところですが、僕のブログに対する数多の研究者からの反応を見るに、さほど状況は変わっていないように思います。
しかし、少なくとも私の体験、見聞した米国の一部のラボは違いました。例えば、僕が留学していたとき、たった5人程度のある名もないラボが年間5本も6本も超一流誌に論文を掲載していたんです。その手法は驚くべきもので、彼らはまず論文のタイトルから真っ先に決めてしまうんです。そして、もう研究完成時の絵ができていて、「この5つが示せればよい」ということまで最初に設計しているんです。しかも、最初の問題の立て方が非常に秀逸で、みんなが議論している問題の本当に重要な論点を見事に突いてくるので、答えが何であろうが必ず大きなインパクトを持つ結果になるわけです。当時の僕はもう「こいつら、なんちゅうやり方しとんねん」と大変にショックでしたね。
この研究室のやり方を書いたブログエントリーは、私が全く想定していなかったレベルの評判を呼びました。ある時など、国内の著名な分子生物学の研究者の方から「ぜひこれについて学会で紹介して、一席ぶちたい」とメールが来たり(笑)。あの本は、こういうふうに課題設定の在り方から先に始めて成功した研究、知的生産事例についてまとめたものだったんです。
■「ビジュアルの思考」が伝わらない世界で
宇野 安宅さんはこの本で「言語で考える思考」と「絵で考える思考」のふたつを対置させて、ご自身は後者の思考を用いるタイプだと位置づけていますね。そしてこの「イシューからはじめよ」という本は、タイトルの通り回答の追求よりも問題設定を優先せよというメッセージを訴えた本なのだけど、これは同時に言語的な思考ではなく、絵的な思考でアプローチせよと主張しているのだと思うんです。
安宅 そういう面は、確かにあるかもしれないと思います。自分はさておきですが正しい問いを見出す人というのは、個別の現象を解釈せずに、まずは構造的に全体で見る人が多いように思います。例えば、彼らは、法律を研究するとなったときに、六法全書を読んで条文にある言葉を一つ一つ意味を考えていくようなことをしないでしょう。一体、どの法律がどういう関係の中にあるのかを、まずは見るはずです。あるいは、この分野はここの部分がまだ研究されてないぞ、とかね。
それは、やはり俯瞰して見る能力ですよ。一体どの問題が大事なのかということは、まずは大きい絵の中で見なければわかりませんから。そういう考えができる人のほうが有利ですが、少ないです。
これは個人的に、非常に悩んだことでもあります。僕は日本の大学院で分子生物学の研究をしていたときに、コンサルティングファームに偶然、誘われたのですが、そこで急に科学者同士だと分かりあえていた話が通じなくなってしまったんです。ビジネスの世界に入ると「お前が言っていることは正しそうだけど、何も理解できない」と言われて、大変に苦労したのですね。
科学者って、言語化が困難な部分をムリヤリに言語化して論文に叩き込むところがあって、そういう世界が存在する前提で生きてるんです。でも、一緒に仕事をしたチームの人たちの経済学部や法学部出身の人の多くには、それが伝わらない。だから、この言語化し得ないメタ形而上学のような世界をどうにか形にしなければいけないと感じました。
宇野 「ビジュアルの思考」を用いないと「イシューからはじめることは困難」というのは大きな問題だと思います。ちょっと変な言い方になるのだけど、少なくともいま僕たちが用いている言語的な思考では記述することが難しい論理というものが世界には間違いなく存在している。それは「直感」や「感性」と呼ばれることも多いのけれど、実はあくまで「論理」なのだということですよね。
安宅 同感ですね。もちろん、解決するために言葉に落としこむのは大事ですから、言葉の重要性を否定しているわけではありません。しかし、そういう側面は大きいと思います。
■言葉にするのが難しいものをどう言語化するか
宇野 対して、現代の情報技術の発達は、従来の言語では記述できないものを可視化していっているんだと思うんですよ。例えば、僕はFacebookの「イイね!」の付け合いから、誰と誰が付き合っているかのような人間関係を見抜くのが得意で……
安宅 はっはっは(笑)
宇野 このとき僕は「イイね!」の数という、従来の言語では扱いづらかった、「空気」とか「感触」と言われていた曖昧な存在を数字というかたちで可視化する装置を用いて、論理的な分析を行っているんですよね。そこで『イシューからはじめよ』に話を戻すと、僕がこの本で面白いなと思ったのは、安宅さんがこうした「言葉にできない論理」をなんとか言葉に落とし込もうとしている悪戦苦闘の過程が見えているところで、そこに発見出来る試行錯誤こそが「イシューからはじめ」ること、つまり問題設定から解決のプロセスへの接続、つまりビジュアルの思考から言葉の思考へと接続する作業の極めて優れた例になっていることなんです。
安宅 あの本には、ひじょうに感覚的なことをたくさん書いた気がします。自分が上手く問いを立てた経験と見聞きした事例をグルーピングして、うんうん考えるというなかなか大変な作業でした。とはいえ、普段から僕がやっているのは、そういうふわっとしたものを言語に落とす作業です。この"言語化が難しいもの"を言語化して枠組みに叩き落とす作業というのは、知的生産と呼ばれる営みの半分以上を占めていると思います。
■脳の中で言語が占める部位はオマケのようなもの
宇野 そもそも世の中には、人間は言葉でしかものを考えられないとするか、言葉は考えられることの一部にしか過ぎないと捉えるか、の二通りがあると思うんです。僕は後者の方が正しいと思うのですが、これまでの世界では圧倒的に前者の考えの方が優勢ですよね。
ところが現在、世の中を動かしている情報テクノロジーは後者の世界理解に親和性が高い。どんどん言語が追いつかない領域も可視化してコントロールしはじめていて、そのせいでたぶん言葉の世界だけで思考してる人たちが、世界から完全に置き去りにされちゃってる気がするんですよね。
安宅 (スマホを手にとってスクロールさせながら)こういうUI/UXなんかによって、世界が変わってしまいますからね。言葉じゃない部分の実態に、人間が急速に気づきつつあるんだと思います。
宇野 その変化は、具体的にどういう形で起こっていくと思いますか?
安宅 やはり端緒はスマホになると思います。まず、このデバイスでのUI/UX自体が、基本的にTwitterのようなストリーム以外の形式で受け入れにくいんです。いつも手の中に何かがあって、あまりにも激しすぎる情報が流れてくるときに、上下にスクロールさせていくしかない。だって、昔テレビのチャンネルをチェンジしていた時の、1000倍くらいの情報を処理しているわけですから。そして、こういうふうに情報量がある閾値を超えたときに一瞬で理解する唯一の方法が、目で画像を見ることだと思うんですよ。結果的に、脱言語化しているんですよね。
最初に画像がスマホで流れてくるのを見たとき、僕も、単に「綺麗だな」としか思わなかったのですが、現在はこれが本質だと思っています。膨大な情報をみんなが普通に消化して生きていく時代に、我々の脳の基本構造に立ち返ると、画像が中心にならざるをえないからです。実際、我々の脳の中で言語にダイレクトに関係する箇所なんて、(ウェルニッケ中枢とブローカの)2箇所くらいしかなくて、ほとんどおまけみたいなものですよ。でも、視覚というのは(後頭部を触りながら)この辺りの全部ですからね。人間の脳の7割は視覚処理に何らかの形で関与していて、その中で視覚にメインに使われているところだけでも皮質の3割から4割を占めているんです。
宇野 そうなんですか!
安宅 映画や小説を見ても分かる通り、別れた彼女のことや手のひらのことを思い出すだけでも、脳のスクリプトのかなりの部分が視覚で埋め尽くされてしまいますしね。そのくらいに脳の構造は視覚に依存しているのに、人間が言語で思考してきたということに、そもそも限界があるんです。これほど情報量が膨大になった現代で、脳のキャパを広げて対応しなければいけなくなったときに、もっとも処理が長けている部分で情報処理をせざるをえなくなっている。
宇野 情報技術はそうした「脳のキャパを広げて」過剰になった情報量を処理するための支援ツールとして発達しているわけですからね。それは言い換えると「ビジュアルの思考」を扱いやすくするための支援ツールだとも言える。
■ウィキペディアが示してしまった固有名の本質
安宅 たとえば、そういう情報量への対応という点で、ウィキペディアは偉大な実験をしていると思いますね。ブリタニカの時代には、項目ごとにその分野の大家が書いていたのが、なんと一般人の集合知に負けてしまったわけですから。それに、もう一つ面白いのは、概念を固定化しなくてよいと証明したことです(笑)。人間は概念がエボルビングに(進化しながら)動いていっても全然回していけるし、むしろハッピーである。そういう当然といえば当然なことを、これ以上ない形で明示してしまったんですね。現在のウィキペディアはなにか概念を浮遊させて、転がして遊んでいるような感じがします。この言葉はいまこの位置にあるのだなというのが見えるし、その動きもわかる。
宇野 なるほど。ある概念はいま、概ねこの状態にあるということがネットワーク上で常に確認できること、というかすべての概念が固定されるものではなくこの状態にあるというものでしかなくなってしまったとき、社会における言葉の位置づけが変わってしまいますよね。そうすることで今より「ビジュアルの思考」を置き換えやすいものに言葉を進化させることができるかもしれない。
安宅 日本人はずっと苦しんでいるんじゃないかとは思います。というのは、ビジュアルもそうですが、もう知覚全般にまつわる意識が非常に強い国民なのに、外から入ってきた漢字を中心とする言語体系というのは極度にドライで殺伐としたものなのですね。
宇野 たとえば、これまでの社会は専門職が専門家の言葉を使うことで成立していたのですが、現在はこうした言語の用法に規定された社会そのものからの解放が起きていると思うんです。インターネット以降、僕らは日常的に「書き言葉」でコミュニケーションをとっている。しかし、そこで使われる言葉は少なくとも日本語においては僕ら物書きが扱っている日本語の散文の形式からは次第に離れて行っている。文学の衰退や、オールドタイプの文化の没落の根源的な理由のひとつがここにあると僕は思うんです。要するに、ここでも日本語という言語が世界の変化に追いついていない。
で、そんな僕が、では新しい日本語の書き言葉として、どんな形が有望だと思ってるかというと、たとえばそれはウィキペディアの文体だったりするんです。あれって、グローバルな表記ルールに無理矢理日本語を当てはめた結果いろいろおかしくなっているけれど、そこに可能性を感じるんですよ。
いま僕らが使っている日本語の散文の文体は、どう考えても論理を記述するのに向いていないですからね。逆に、安宅さんのいうような「ビジュアルの思考」には適しているのかもしれないけれど、僕個人は「イイね!」の数を用いる方が「ビジュアルの思考」も取り扱いやすくなると思っています。だからウィキペディアのようなところから、ポスト近代日本語が出て来ると面白いと思っています。
安宅 確かにそういうところはあるかと思います。言語が世の中、我々の感じるものをちゃんと表現できないこの時代に、新しい表現が生まれてきている、あるいは表現そのものが進化しようとしているのかなと感じますね。
■消費を人間単位で考えるのは生命に対する"冒涜"?
宇野 もうひとつ、この本の背景にあるのは、「言葉の思考」の背景にある人間観への懐疑だと思うんです。安宅さんは一貫して人間の内面ではなく、人間と人間、あるいは人間とモノ、サービスなどとのつながり、構造に注目していて、そのためには「言葉の思考」ではなく「ビジュアルの思考」が必要だと主張しているのだと僕は解釈しました。言ってみると安宅さんには、内面に異様に高く価値を置くような「近代小説」的な思考とは根本的に異なる否定のものを感じますね。
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