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  • 歴史観なき時代に、「他者を排除しない物語」をどう語るのか? ――『ナショナリズムの現在』萱野稔人×小林よしのり×朴順梨×與那覇潤×宇野常寛 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.137 ☆

    2014-08-15 12:01  

    歴史観なき時代に、
    「他者を排除しない物語」をどう語るのか?
    ――『ナショナリズムの現在』
    萱野稔人×小林よしのり×朴順梨×與那覇潤×宇野常寛
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.15 vol.137
    【夏休み特別増刊号】
    http://wakusei2nd.com

    本日の「ほぼ惑」は夏休み特別増刊号として、2本立てで配信します。2本目の記事は、発売中の電子書籍『ナショナリズムの現在』からハイライトシーンをお届け。現代日本のナショナリズムの高揚に「承認」の不足を見る朴順梨さんと宇野常寛の問いかけに、よしりん先生、萱野稔人さん、與那覇潤さんはどう答えていったのでしょうか――?
    【座談会出席者】
    漫画家 小林よしのり
    哲学者 萱野稔人
    ライター 朴順梨
    日本史研究者 與那覇潤
    評論家・PLANETS編集長 宇野常寛
    (敬称略)

     
     
    ■歴史観が機能していない状態で、「物語」に
  • 『プラトニック』『ファースト・クラス』から『昼顔』『ペテロの葬列』まで ―― 岡室美奈子×成馬零一×古崎康成×宇野常寛による春ドラマ総括と夏ドラマ ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.136 ☆

    2014-08-15 07:00  
    220pt

    『プラトニック』『ファースト・クラス』から
    『昼顔』『ペテロの葬列』まで
    岡室美奈子×成馬零一×古崎康成×宇野常寛による
    春ドラマ総括と夏ドラマ
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.15 vol.136
    http://wakusei2nd.com


    テレビドラマファンの皆様、今回もお待たせしました! 3ヵ月に1度、日本屈指ドラマフリークたちが、前クールのドラマと次クールの注目作を語り尽くす「テレビドラマ定点観測室」。様々なドラマを見尽くしてきた目利きたちのコメントで、毎週の楽しみが倍増するのをお約束します。


     
    ▼ 生放送の内容はこちらから試聴できます。
    前編
    http://www.nicovideo.jp/watch/1406271134
    後編
    http://www.nicovideo.jp/watch/1406271256
     
    ◎構成:西森路代
     

    宇野 皆さんこんにちは、評論家の宇野常寛です。「テレビドラマ定点観測室 2014 summer」のお時間がやってまいりました。この番組は、3カ月に1回、前クールのドラマの総括と今クールのドラマの期待株についてみんなで話し合う趣旨の番組です。前回に引き続き、ドラマを語るならこの人という御三方に来ていただきました。早稲田大学教授で演劇博物館館長の岡室美奈子先生、ドラマ評論家の成馬零一さん、そしてテレビドラマ研究家の古崎康成さんです。それではさっそく、前クールの総括から入っていきたいと思います。皆さんには「前クールこれが良かったベスト3」を考えてきてらっていますので、さっそく発表してください!
     
    ▼2014年春ドラマベスト3
    宇野:『続・最後から二番目の恋』『プラトニック』『セーラーゾンビ』
    岡室:『BORDER』『55歳からのハローライフ』『ファーストクラス』
    成馬:『続・最後から二番目の恋』『モザイクジャパン』『ファーストクラス』
    古崎:『55歳からのハローライフ』『BORDER』『プラトニック』
     
     
    ■淡々とした中の凄み『55歳からのハローライフ』
     
    宇野 では、『55歳からのハローライフ』からいきましょうか。古崎さん、総評をお願いします。
    古崎 このドラマは55歳周辺の人たちが何らかの人生の転機を迎え、その先をどう生きていくかを決断するプロセスを描くドラマで毎回、違う人物が主人公に据えられているのですね。第1回を見た印象は、音楽もほとんどなく、淡々と展開していて、でもそのわりに画面にすっと引き寄せられる、妙に力のある作品でまぁ、それなりに歯ごたえもあるな、というざくっとした印象を受けていたのですが、2回目以降、次第に描かれる人物の環境が過酷さを増していきます。最後はかなり壮絶になっていく。最終回のイッセー尾形が扮した55歳の人物になると金銭的な蓄積もない人物で体が悪いのに無理をして肉体労働をしている。そんなところに少年時代に慕っていた友人と再会するけど彼も同じように貧困で、その友人はラストに悲しい末路を迎えてしまう。このドラマが物凄いのは、そういう過酷さを増す題材を第1回と同じく淡々としたトーンで一貫して描かれているところにあります。最近はなるべく先入観を持たないよう、スタッフ情報などをなるべく仕入れず視聴するようにしているので制作統括を務めているのが『ハゲタカ』『外事警察』『あまちゃん』の訓覇圭(くるべ・けい)さんで、やっぱりこういう実績ある作り手の作品だったのだと後付けで知りました。
    岡室 私もこの作品はとてもクオリティが高かったと思うんです。とくに最後のイッセー尾形、火野正平の演技はすごかったですね。全体的な配役についても、リリー・フランキーのふわっとした、現実と虚構の区別のつかない感じも面白かったし、小林薫、松尾スズキ、岩松了、奈良岡朋子といった名優、怪優が散りばめられていて、やはり訓覇さんのドラマは配役が素晴らしいと思いました。内容はというと、人生の転機をいろんな形で捉えていって、回を追うごとに現実の残酷さ、苛酷さが増していくんだけど、その中で主人公が他者との結びつきを見出していくんです。非常にきめ細やかに演出が行き届いている、いいドラマだったと思います。
    宇野 なるほどね。いまニコ生で「NHKドラマしか収穫ないの?」ってコメントがありましたけど、NHKのドラマはレベルが高いんですよ。この状況はもうここ5、6年動いてないですよね。
    成馬 もちろん見ていましたし、面白かったんですけど、ベスト3に入れたらちょっと負けかなと(笑)。凄すぎて隙がないんですよね。それに、基本的に下り坂のドラマなので、未来がないなと感じて、あまり好きになれなかったです。僕は、松尾スズキさんがペットロス症候群の人の役で出ていた話はすごく面白く見ていました。あとは第1回でリリー・フランキーがピエール瀧と会談するところは、映画『凶悪』を連想して、同じ高齢化社会つながりとして面白かったです。
    宇野 現代の日本って、もはや高齢化社会じゃなくて高齢社会になっているんですよね。これまでは主人公が40代なだけで大人ドラマと言われていたのが、もう主人公が55歳になっている。民放のドラマだと、まだテレビが若者たちのものだという嘘をつかなきゃいけないから、ここまで大胆な主人公の年齢設定ができないけど、NHKはそんな嘘をつかなくていいから、こういう試みができるんですよね。
     
     
    ■ホームドラマをどうアップデートするか『続・最後から二番目の恋』
     
    宇野 次は、僕と成馬さんがベストに挙げている『続・最後から二番目の恋』はどうでしょう。
    成馬 今季のドラマは、テレビドラマという枠組みの中でいろんな実験がされたと思うんです。たとえば、『BORADER』や『MOZU』という二つの刑事ドラマを比較しても、全然方法論が違うし、いろんな手法が試されていたと思います。そんな中で、一番面白かったのは、テレビドラマというものの良さは何か? ということを一番突き詰めていた『続・最後から二番目の恋』だったと思います。ただ、『続』になって以降は、『最後から二番目の恋』という作品の世界観をどう広げていくかっていう、長いスパンの物語の入り口として見ていたので、一本の作品として評価するのは、けっこう難しいんですよね。
    宇野 僕も『続』を見て、これでもうこのシリーズを何作も続けられるなっていう感じがしました。『最後から二番目の恋』を見たときに誰しもが思うのは、”最後の恋”は中井貴一とキョンキョンの恋なんだろうな、ということですよね。その”最後の恋”を前に、もうちょっと若い年下の加瀬亮や長谷川京子と”最後から二番目の恋”を繰り返す、っていうことをずっと続けていくモチーフだったんですよね。ところが、想定されていたのか制作の都合なのかはよくわからないんですけれども、『続』で加瀬亮さんが途中でいなくなっちゃうんですよ。でも、僕はこのことは結果的にプラスに作用したと思っています。加瀬亮君が途中退場したおかげで、恋愛というテーマから逃れることができて、変に縛られずに済んだなと。
    「セフレ」っていうキーワードがあったように、はじめは、熟年にとってのセックスとは、恋愛とは、みたいな部分にフォーカスした内容をやるつもりだったと思うんです。それがもうちょっと普遍的な、ホームドラマをどうアップデートしていくかという内容に変わっていったのかなと。ホームドラマというジャンルは、若者がどんどん増えていって、若者の価値観に年を取った世代がどう向き合っていくのかっていうことで作られてきたわけですが、『続』は出来上がってみるとぜんぜんそうではなくて、全員30代なかば以上で、人生の下り坂、後半戦を迎えて、どう死に向かい合っていくのかという話になっている。加瀬君の途中退場もあって、ドラマのテーマを、人生の残り時間をどう受け入れていくのかっていう方にスイッチして、ホームドラマ2.0をどう作るのか、っていう問題に集約していっているように見えました。そのホームドラマの新しいビジョンが、毎回意図的に食卓のシーンを入れるシーンから見えてきたかなあ、というのが僕の評価です。
    成馬 加瀬亮の演じた高山涼太は、フジテレビのヤングシナリオ大賞の第一回を受賞した坂元裕二がモデルだと思ったんですよ。新人ドラマコンテストの第一回を受賞して、そのあとちょっとスランプになるとか、繊細そうなところがめんどくさそうな感じとか、坂元さんっぽいじゃないですか(笑)。だから僕は、テレビドラマ版『まんが道』じゃないけど、岡田惠和さんと宮本理江子さんが、テレビドラマを作ってきた自分たちの世代の物語を、神話化しだしたのかのように見えて、ゾクゾクしたんですよ。一方で、鎌倉の方はどんどん都市伝説化していって、箱庭感がどんどん高まっていて、ドラマ自体が吉野千明サーガみたいになっていくわけじゃないですか。まぁ、これは裏読み的な面白さですが、おそらく吉野千明には、宮本理江子さんの今までの人生がかなり投影されていると思うんです。だから、なんで高山涼太が突然いなくなっちゃったんだろうというところが、すごく気になりますよね。果たして、再登場はあるのか。
    岡室 そういうシフトチェンジがあったというのは分かるんですけど、やっぱり私は、最初のシリーズみたいなときめきが足りなかったな、という気がするんです。大人の恋愛が見られると期待しちゃうんですよね。『続』では、中井貴一と小泉今日子の会話もなんかもう、芸風になっちゃっていて。
    宇野 僕は一作目と『続』は半分くらい別物として見ているんです。一作目の舞台になった鎌倉って、東京と沖縄の間にあるわけですよね。要するに『ちゅらさん』で描いた二つの世界の中間にある。『ちゅらさん』には東京が現実で沖縄がファンタジーという対比があった。この現実とファンタジーはそのまま生者の世界と死者の世界。そして本作の一作目は、中間地点としての鎌倉で、いわば半分死んでいるような、死に向かっていくような人たちの日常をどうとらえるか? ということを、すごく高いレベルで表現していた。それに対して『続』は、もう「若者」が存在感を示さない今の日本で、ホームドラマをどうアップデートするかというところに主題が移ったんだと思う。
    成馬 ホームドラマのアップデートという試みは、おそらく10年くらい続けてみて、はじめて意味が出てくるんじゃないかなと思っています。だから『渡る世間は鬼ばかり』みたいに、できるだけ長く続けてほしいですよね。
    岡室 テレビづくりの現場を描く、みたいなことは、面白かったですよね。
    古崎 ここ数年の岡田惠和さんは実にあぶらが乗り切っている感じが漂っていますよね。あくまで想像ですけど、ご自身でも怖いくらい、何を書いても面白いものができちゃうって時期じゃないかと思います。『最後から二番目の恋』も、一作目ではいろんな伏線がラストにググッと収束していくという、普通の連ドラなら当然考慮されるべき全体ドラマ構造のうねりを考慮した作りをきちんと用意して作られていて見事だったんですけど、今回の『続』になってくるともうそんなことは考えていないのではないかとすら思わせられます。持ち合わせの力だけでその場その場をグイッと楽しませて、それでいてちゃんとそれなりにラストで見終わった感を持たせてしまった。この設定でいくらでも転がしていけるよ、という余裕すら感じました。
    宇野 まさに横綱相撲って感じですよね。
    古崎 今後、連作として続く可能性があらかじめ報じられてましたし、それは要するにラストに大きな結末が用意されないことを公にしてしまっていたということであるわけで、それならばそんな「ラストに向けた収束」なんてはじめから意識しないで多少好きなことを盛り込んでやっちゃおうという考えがあったとも言えそうです。一作目と比べると、『続』は主人公の仕事であるテレビドラマ制作の舞台裏を描くことに比重が置かれているじゃないですか。そこは、岡田さんの手持ちの、自分の知っている、見えている世界なわけで、もともと普段からあまり取材をせずに執筆される岡田さんがまったく改めて取材もせずに書いてしまった世界なんですね。知っている世界の中を好きに転がしてしまっているところがあるのかなと思ったんです。なので、あえてベスト3からは外したんですけど、面白かったのは面白かったですよね。
     
     
    ■新しい切り口の『BORDER』、作りこんだがパーツの古い『MOZU』
     
    宇野 じゃあ、刑事ものについていきましょうか。岡室さんと古崎さんは、『MOZU』じゃなくて『BORDER』を挙げているんですね。
    岡室 私、『BORDER』は毎週とても楽しみに見ていたんです。テレ朝なのに、これまでの安定路線刑事ドラマとは毛色が違っていて、まずそこが嬉しかったんですね。小栗旬の演技もすごくよかったですし。東日本大震災の前って、刑事がものすごく多い時期がありましたよね。『BORDER』は刑事ドラマなんだけれども、死者と対話できるという、新しい切り口を持ってきたんですよ。1回目は、死んじゃった被害者から犯人を教えてもらう安易なドラマかなとも思ったんですけど、2回目、3回目と、毎回いろんな工夫がありました。
    宇野 この設定だとすぐマンネリ化するだろうなと思って見ていたら、いろんなパターンを出してきていて、手数が多いなという印象でした。
    岡室 そうですね、ラストでもちょっと思いがけない展開があったりして。『BORDER』(境界線)が、生と死の境界線でもあるし、善と悪の境界線でもある。どちらの境界線を超えるところを描くのかなと思ったら、善と悪の方を超えちゃったみたいな話ですよね。主人公の小栗旬が最初からまさに境界線上の危ういところにいて、なかなか面白いなあと思いました。
    古崎 私も第1回の時に当然『MOZU』との比較で見たわけですけど、導入部から複雑な展開の『MOZU』とは対照的な、いかにもテレ朝らしい、誰でも分かりやすい間口を広くとった手堅い刑事ドラマの導入部でそこにちょっと死者と対話が出来る能力を持った設定を加えてみたのだなと思いました。毎回、死者と対話するなかで犯人を捕まえていくというある意味、娯楽的な面白さを追求していくパターンが続くのかと思っていたらそうじゃなかった。確かに途中までは殺された者の声を聞き犯人を捕まえるカタルシスを味わうという分かりやすい展開だったものが、ある回で突然、犯人がつかまらないまま逃げきってしまう回が出て来た。見ている側はギョッと驚くわけでものすごくストレスがたまった。このあたりから徐々に勧善懲悪的な作りから脱落していきました。死者と対話していくと、事件の本当の真犯人を知ってしまうわけで、普通の刑事ドラマなら犯人が捕まらなくても「ひょっとしたらあいつは犯人じゃなかったかもしれない。まあ仕方ないか」とあきらめがつくがあるのですが、このドラマはもう絶対に殺していると分かっているのに真犯人が易々と逃げおおせてしまう。この不条理、不快感が視聴者も共有されて主人公の憤りと共有されていくんですよね。
    再びその次の回は、通常どおりラストで犯人が捕まる展開になるわけなんですけど一度、捕まらない回があった効果は大きくてどこか満たされないのです。そしてあの最終回ですよ。またとんでもない、もう絶対的な悪が出てくる。ところがこれが捕まらない。そのときもう主人公も正義感が強いだけに精神構造がおかしくなっている。視聴者も同じように「なぜ、この男が捕まらないのだ」と憤っている。だったら、こうするしかないというラストなのですね。まさにボーダーを超えていって瞬間を描いてしまった衝撃の私刑のラストをさらっと描いてしまった。でも、少し時間を経て、改めてこのドラマを思い返すと、実は全然違うのではないかと、ちょっとぞっとさせられてくる。それは本当に主人公は死者と対話できていたのか? ということなんです。実は主人公はケガのせいで最初から精神が少し歪んでしまっているだけで、死者と対話できると勝手に思い込んでいただけだったのではないか、とも思えてしまうのです。だとすると、最後に人を突き落して殺してしまうというのはまさに私刑でしかないわけです。このドラマはじつは精神異常の人物が主人公で、勝手に死者と対話できていると思い込んでいるだけで、無関係の人を追いこんでいるという風にも読めてしまう面白さがあるわけです。お茶の間でふだん漫然と娯楽として刑事ものをのんびり見ている視聴者を、間口を広くすることで取り込んで、いつのまにかとんでもない領域までいざなってしまった。ラストまでみて愕然としている声がネットでも多数ありました。これは目的を持って足を運ぶ人だけを対象としている映画や演劇ではできない、なにげなく見ている人の多いテレビドラマだからこそ出来る所業なのですよ。それをこのドラマは実現してしまっているのです。
    宇野 たとえば、『MOZU』が海外ドラマ的なリアリズム路線で、いわゆる自然主義のリアリズムではないんだけども映像で語っていくっていう路線なのに対して、『BORDER』っていうのは漫画的なキャラクターものの路線でやっていて、そういったファンタジー要素を入れることによって善悪のテーマとか、通常の刑事ものでは扱えないようなものを持ってきている。ここはすごくよくできていたと思うんです。でも、僕の立場からすると、これは平成仮面ライダーシリーズが順にたどった道だよな、と思っちゃうところがあって(笑)、さすがにベスト3に入れなかったんですよ。
    成馬 多分、一番念頭にあったのは『ダークナイト』だと思うけど、刑事ドラマをやる時は、いい加減『ダークナイト』のことは忘れようよ、っていう感じはありますね。
    岡室 映像的にはやはり『MOZU』が一番、しっかり作り込んでいました。
    宇野 僕も、『MOZU』は映像的にすごく作り込んであって、スタッフの志が高くて、演出が凝っているところにはリスペクトしています。でも、日本のドラマでこういうことをやらなくてもいいんじゃないかなと思ってしまう。というのも、じゃあ海外のメガヒットシリーズとガチでやり合って勝てるの? っていうことなんですよ。もし、あそこまでやるんだったら、脚本とか描写のレベルでも完全にリミッターを解除して、本気で『24』を抜くつもりでやらないと、申し訳ないけれどもイミテーション感がどこか抜けないんじゃないかなと思うんです。
    成馬 物語のパーツがことごとく古いですよね。浦沢直樹の『MONSTER』だったり、『ダークナイト』だったり。それがしんどかった。
    宇野 『ダークナイト』って、90年代に盛り上がったサイコサスペンスを僕らが終わらせますっていう話なんですよね。ジョーカーが作中で登場するたびにニセのトラウマを語る。その一方で、本当にトラウマに縛られている人間はみんな心が弱くてジョーカーに太刀打ちできない。『ダークナイト』の公開が2008年で、いまテレビドラマでこれを見せられるのは結構つらいなという感じがありました。
    成馬 『ダークナイト』って、触れるのが今は一番恥ずかしい時期だと思うんですよね。だから、しばらくはネタとして使うのはやめた方がいいよって気がする。
     
     
    ■酷いのに迫力があって毎週見ちゃう『ファーストクラス』宇野 あとベスト3に挙がっているものだと『ファーストクラス』ですか。僕も最後までベストに入れようか迷ったのが、実はこの作品です。
    成馬 ドラマの冒頭にあるLiLiCoのナレーションがすごいんですよ。「さあ、これからエリカの素敵な冒険が始まるわよ♪」みたいなことを言うんですけど、このときのエリカって、沢尻エリカの事で、登場人物の名前じゃないんですよね(笑)。登場人物の名前は吉成ちなみっていうんですけど、最後までナレーションではちなみって名前を言わないんですよ。ある意味、フィクションとしてのドラマ空間を捨てていて、これは沢尻エリカのドラマですっていうことをナレーションで宣言しちゃっているんです。脚本は『泣かないと決めた日』と『名前をなくした女神』の渡辺千穂さんが書いていて、『ライフ〜壮絶なイジメと闘う少女の物語〜』から延々と続くフジテレビのいじめドラマの系譜にあるドラマなんですが、これまでさんざん書いてきた、人間関係の力学が生み出す暴力みたいなテーマを、全部「マウンティング」っていう概念であっさり処理している。だから、いじめのドロドロとした雰囲気が全部なくなって、あっさりしたバラエティ番組みたいになっていて、かなりいろんなものを捨てているんですよね。
    他にも、LiLiCo本人が途中で、外資系の社長役として出てきたり、菜々緒の変なモノローグとか、細かいディテールが、ことごとくひどいんだけど、その酷さが何か面白いんですよね。
    宇野 菜々緒のモノローグでびっくりしたのは、途中で「ゲラゲラポー」とか言っていたことですね。こいつ妖怪ウォッチまでやっているのか! アンテナ高いな、って(笑)。
    成馬 あれ、頭の中で喋っているんですよね。細かいパーツは褒めようがないんだけど、なんか見ちゃう雑な迫力があるんですよね。途中から副音声を入れているんだけど、あれは多分、『テラスハウス』に対抗しようと思っているんだと思うんです。その時点でなんか素敵じゃないですか。『テラスハウス』とちゃんと戦おうと思っているドラマが、まだこの世にあるんだっていう(笑)。
    宇野 『ライフ』が放送された2007年ごろは、ソーシャルメディアでそれまで「空気」としか言われてこなかった人間関係が具体的に可視化されることによって、みんなが何となく感じていたいじめの問題とかが言及され始めたばかりだったんですよね。それ7年立って社会に完全に定着してきて、ほぼ定番の「あるあるネタ」になってしまった時代のドラマがこの『ファーストクラス』ですよね。『ライフ』の頃は、マウンティングという現象を指摘するだけで作品になったんだけど、『ファーストクラス』は冒頭からマウンティングっていうものが社会にはあるという前提で、そのどぎついところの面白さをドラマにしますよっていうところから始まっていくっていう。
    岡室 最初はただのネタドラマかと思っていたんですけど、男子は要らないこととか、女子の野心だとかを正面から描いてしまう潔さが面白いと思いました。最終的には、単に上り詰めて終わりなんじゃなくて、沢尻エリカが一番最下位のところからまた始めるというのがよかったですね。それが、すごく今の女子の気分を捕まえている感じがしました。
    古崎 いま皆さんがおっしゃっているのを聞いて、なるほどそういう面白さがあるんだと思ったんですけど、昔からテレビドラマを愛して見ているものとしては、ちょっとこういうのはあんまり好きじゃないかなと。「時代の空気」というものを記録するという意味では意味のあるドラマだとは思うのですけど。みなさんキャパシティ広いなと思って、私は心が狭いのかなと(笑)。
    宇野 僕はむしろ『ファーストクラス』を一番楽しみにしていたかな。今回は菜々緒さんがどんなヤバいことをするんだろう、みたいなところがとくに楽しみでしたね。これは余談ですが、最後の「I’ll
    be back!」って台詞はアドリブらしいですよ。
    成馬 個人的な興味でいうと、沢尻エリカはこれからどうすんだろうって思いますね。こんなドラマをやってしまった後は、もう、まともな役はできないですよね。『へルタースケルタ―』の時点で、かなり危うかったけど、沢尻エリカの役者人生が気になっています。
     
     
    ■『プラトニック』で野島伸司は若返りをあきらめた
     
    宇野 『プラトニック』は僕と古崎さんが挙げていますが、古崎さんは『プラトニック』いかがでした?
    古崎 4月の「テレビドラマ定点観測室」のとき、
    (参考:http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar524910)
    地上波の連ドラでもないのに期待ドラマ3本の中に入れさせてもらったのですが、すごくよかったですね。これまで野島伸司さんは高視聴率が話題になる方でいらしたわけですけど、今回はBSという、視聴率を第一義に考えなくてもいい放送形態だった。これまで課せられていた高視聴率という枷が取っ払われたら、野島さんは何をするのかなという興味を持って見ていたんです。
    野島伸司さんのうまさはドラマ展開の各段階で視聴者がどういう心理でそのシーンを見ているのか、視聴者心理の抑揚を的確につかむ、そのトレース能力の高さにあると思うのです。それが視聴率という結果につながっていたのですけどそういう能力というものはただ数字を追うだけでなく、純粋に面白い物語を作ることに生かせるのだということを改めて示してくれた気がしています。また台詞が相変わらずうまい。一つ一つの台詞が真に迫ってくるのですね。残り少ない命しかない主人公がどうやって生きていくか、その立場になった者だからこそ見える世界というものが、それなりのリアリティをもってこちらの身に迫ってきたように感じられました。それはやはり元来のトレース能力の高さも寄与している。しかも、あのラストの全くそれまでと何の脈絡もない突拍子もない終わり方がドラマ作りの常識から一つ突き抜けたものになっている。
    テレビドラマにしろ、映画にしろ、物語を扱うとどうしても起承転結といった伝統的な手法に良くも悪くも縛られて、ともすればいかに伏線を張って巧妙に見せていくか、みたいなところを一つの勝負どころみたいに考える向きがあって、ドラマ好きの人もそういうところを重視しがちです。脚本家の中にもその巧妙さを売りにしている意識の人もいらっしゃる。でも、『プラトニック』を見ると、伏線を張って収束するということが現実からいかに乖離しているかを示してくれてもいるわけです。現実の死ってたぶんこんなもんなんだろうなって感じがしました。
    宇野 野島さんはこの10年あまりずっと、若返ろうとしていたと思うんですよ。なんとか時代にくらいついて、若返ろう若返ろうとしていた。その無理がたたって逆ギレしてしまったのが『ラブシャッフル』。最後に主人公の玉木宏が国会議員に立候補して「時代を80年代に戻せ」って演説して終わる(笑)。
    でも、そんな野島さんのあがきも『49』ぐらいが限界で、それから『明日、ママがいない』を経て、完全にあきらめていますよね。それで、今はむしろ、昔の野島ドラマの世界観に戻ってきていると思うんです。時代にくっついていこうということもやめているし、ドラマのプロットを過剰にすることによって話題を引っ張っていこうという作り方も完全に捨てていて、自分が90年代から温めていた世界観を、いかに昇華するかということを、おそらく彼にとってはある程度特別な役者であろう堂本剛を通してやっている。
    実際、堂本剛も吉田栄作も、過剰にやさしい男と過剰に強い男と、という対比で描かれているわけなのだけど、これは野島さんがずっと描いてきた男性像ですよね。そこに今回、中山美穂が演じる、心臓病の娘のためなら体も売るし、なんでもやるってしまうような、ちょっと頭のおかしいヒロインを置いている。野島さんは、ここで彼女のようなキャラクターを置くことによって、むしろ周囲の男たちを描きたかったんじゃないかと僕は思うんです。自分の感性をアップデートするのをやめて、自分の考えるかっこいい男はどうすれば成立するのか、生き残っていけるのかを、ひたすら追求したのがこの「プラトニック」だったんじゃないか。
    成馬 途中で、堂本剛の脳腫瘍が治ってしまうのも驚きましたね。
    宇野 そう、フラグをベキッと折っちゃった。
    成馬 あれも、男らしさをいかに剥奪していくかという話なんですかね?
    宇野 結局、堂本剛も吉田栄作も、野島さんの考える強さとか優しさっていうものを現代で説明することはできなくて、基本的には成立しないんだけど俺は好きだよ、みたいなところで描いていて、結構いさぎよいんですよね。5年前の野島さんだったら、彼の考える男らしさが世の中に成立するために、もう一回バブルを起こせと演説するわけですよ。それも完全にあきらめてしまっていて、個人的な領域というか、ファンタジーの中に完全に退避していったっていう感じがします。
    成馬 この自己完結性は、本来の意味でのハードボイルドですよね。
    古崎 難病とか不治の病という設定は所詮は描きたいものを描くためのドラマ上のツールでしかないという野島伸司の認識を感じますね。『ひとつ屋根の下2』でもラスト、酒井法子がケロッと直ってしまって愕然としたのを思い出しました。
     
     
    ■期待値が高まり過ぎた『ロンググットバイ』
     
    宇野 ちょうどハードボイルドの話が出たので、全員が挙げていない、あのドラマの話をちょっとしますかね。『ロンググットバイ』!
    成馬 ダメな作品だとは思ってないです。ただ、ベスト3に入れるほどではないかな。
    岡室 ハードボイルドってこうだよねって、ちょっと突き放している感じがして、メタ的に見ると面白かったですよ。モデル体形の超美人ばっかり出てきたりして、ハードボイルドでは女はお飾りだよね!みたいな。
    古崎 シンプルな話をわざと難しくしているようなところがありましたね。演出の堀切園健太郎さんは、『外事警察』のときは難しい話をうまく分かりやすく回しているなと思って見ていましたけど、今回は分かりやすく出来る話を無理に難しくしてしまっている。深刻そうに持って回った台詞が続いているので、小雪が「財前と聞いてお医者さんだと思いましたよ」と言っても、そこで笑っていいのかどうかわからないネタがあったりして。
    宇野 僕も古崎さんの感想に近くて、喋りすぎと書き込みすぎ、要は盛り込みすぎですよね。特に最終回では、あんな風に原子力のポスターを出したりだとか、柄本明演じる原田平蔵が演説をしなくても、『ロンググットバイ』を最終回まで見るような人だったら言いたいことは伝わると思うんですよ。つまり、言ってしまえば、戦後社会批判でありテレビ社会批判ですよね。テレビ社会が象徴する戦後日本の虚偽、欺瞞を原田平蔵に象徴させていて、実現しなかった戦後日本のもう一つの可能性として、主人公の増沢磐二を描いているっていうのは誰の目にも明らかですよね。だからあんなしつこい描写はする必要はないんですよ。なんというか、ムックの解説記事みたいなことを本編に盛り込むのは、やめてくれないかなと。
    それよりも、言葉とか露骨な描写に頼らないで、もっとあの世界を成立させる努力をするべきだと思いますよ。特に、僕は個人的に好きな役者だからあえて言うけど、最後の綾野剛の演技ですよね。有名原作なんだから、第1回の時点で、最後にああなることはみんな分かるわけですよね。あの再会のシーンがどれだけ悲しいものになるかっていうことが分かっているからあらかじめ視聴者のハードルが上がっているのに、綾野剛の演技が演出をふくめて応えられていない、っていうのが僕の感想ですね。
    岡室 丁寧に作ってはいたし、言いたいこともわかるんですが、やっぱり『カーネーション』の制作チームでしたから、こちらの期待値が高すぎたのもありますね。
     
     
    ■企業もの、性の問題、疲弊した地方都市の話としても面白い『モザイクジャパン』
     
    宇野 では、成馬さんが挙げている『モザイクジャパン』いきましょうか。
    成馬 『モザイクジャパン』はWOWOWで、しかもR15指定だから見てない方が、多いと思うんですよ。これからDVDが出ると思うので、是非、そのタイミングで見てほしいです。個人的には上半期ベスト1の、すごく刺激を受けた作品です。
    ドラマの内容は、ある地方の田舎町が、巨大AVメーカーに乗っ取られて、企業城下町みたいになっているという話で、あらゆる場所でAVの撮影が行われているという凄い状況になっている。主人公は、瑛太の弟の永山絢斗ですが、彼が実家に帰ってきたら、昔の友達とか、学校の先生も全員AVの撮影をやっているわけですよ。それで、そんなのおかしいんじゃないか、って言うんですけど、「あんたなんかにイオンもない町で生きてる私たちの気持ちがわかってたまるか」みたいに言われちゃうわけです。
    AVをモチーフにしているため、男女の性意識の問題や、体を売ることの是非みたいなテーマもあるし、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』みたいな異法スレスレのベンチャー企業モノの要素もあって、物語は二転三転するんですけど、最終的には坂元裕二さんらしい男女の話になっていくんですよ。だから、企業ものとしても、性の問題としても、疲弊した地方都市の町おこしの話としても面白い。いろんな切り口があるので、これは皆さんに見てほしいと思って、ベスト3に入れました。
    岡室 私も『モザイクジャパン』をベスト3に入れようか迷ったんですよ。初回のつくりがすごく好きで、永山絢人が普通に会社で働いていたら、いきなりそこがエロい場所になっちゃって、実は撮影現場でしたっていう仕掛けがあって、そこからちょっと引き込まれた感じがありましたね。
    成馬 世界が全部テレビのセットになっちゃったみたいな感覚ですよね。
    岡室 そうそう。それで、永山絢人がどんどんその世界の中に取り込まれていく。台詞がいちいち坂本さんらしいんですよね。演出の水田さんからちょっとお話を伺ったんですけど、WOWOWから坂本さんにオファーがあったときに、「何やってもいいですよ」って言われたらしいんです。それで、坂本さんが「だったら一番冒険的なことは何か?」っていうことでこういうドラマになったらしくて、やっぱりすごいなと思いました。
     
     
    ■『花咲舞が黙っていない』と『ルーズヴェルト・ゲーム』井戸潤対決
     
    宇野 池井戸潤対決ということで、『花咲舞が黙っていない』と『ルーズヴェルト・ゲーム』はどうでしょうか。
    僕は、どっちもよくできていると思うんだけど、『花咲舞』は水戸黄門すぎた(笑)。見ていて気持ちもほっこりするし、B級グルメとかも食べたくなるんだけど、毎週見なくてもいいかなっていう感じがしちゃうんです。
    逆に『ルーズヴェルト・ゲーム』は物語の起伏が過剰で、しかしその過剰さのために何をやっても予定調和に見えていた。たとえば、見たらすぐに、江口洋介がいい人だってわかっちゃう。わかっちゃうのに、後半まで彼が善玉か悪玉かでじわじわ引っ張るでしょう?
    あの冒険しないために冒険している感じがちょっと辛かったですね。それこそ『ルーズヴェルト・ゲーム』というタイトル通りに、最終的に8対7で勝つことがあらかじめ分かっているんですよね。そこらへんが池井戸潤物の限界なんだと思います。
    池井戸潤さんの世界観は『半沢直樹』の頃からそうなんだけど、既存のシステムの中でいかにごまかしてやってくかっていう話でなんですよね。でも、たとえばITベンチャーの人間だったらあれを見て「その仕事辞めろよ」って、ひとこと言うんじゃないかなって思うんです。だから良くないっていう話ではなくて、『ルーズヴェルト・ゲーム』っていうタイトルが象徴するような緊張感を出したいんだったら、もう少し予定調和感を崩すような仕掛けが欲しかったですね。
    成馬 俺はあんまり真面目に見ていなかったんですよ。良くも悪くも時代劇というか、ディズニーランドに行くみたいな感じで、池井戸潤ワールドに遊びに行くかー、みたいな。やっぱベタな上司がいるんだな、ってゲラゲラ笑って終わりというか。逆に言うと『半沢直樹』って、作り手の意図を超えた気持ち悪さみたいなものがあってだからあんなにヒットしたんだと思うんですけど、そういうグロテスクな迫力が、今回の2作には足りなかったのかな。
    古崎 『ルーズヴェルト・ゲーム』は、ゴールデンタイムで多数のスターが出てきて、タイトルバックも顔写真が浮かんでは消えるような出し方だったし、まあ王道を行く伝統的なテレビドラマを出してきたのかなと。久々にそこをうまくバランスよく作ってまとめあげた作品だなと思って見ていました。『半沢直樹』よりそのへんは上をいっていたのではないかとすら思います。
    『花咲舞が黙ってない』も、同じ池井戸潤が原作とはいえ、これはまた違う。杏という役者は、そんなに複雑な芝居はできない人だと思うですが、それがかえって持ち味になっている。複雑な芝居をしないがゆえに分りやすく、単純明快なドラマになって楽しめる。どこか篠原涼子のような雰囲気が漂っていてた。『ハケンの品格』とか、あの頃の好調だった水曜22時の日テレドラマがちょっと戻ってきたような感じを受けましたね。ここからもう少し弾けて日テレドラマが再び浮揚していくきっかけとなってほしいという期待を寄せているというところです。
    宇野 工藤公康の息子が役者をやっていたということが、個人的には最大の驚きでした(笑)。
    岡室 私は『半沢直樹』ってスカッとするだけのドラマだと思っていて、あんまり好きじゃなかったんですよ。倍返しっていうのも品がないって思っていたし。
    成馬 たぶん、その不快感が面白かったんじゃないかな。
    岡室 そうですよね。だから『ルーズヴェルト・ゲーム』はもっと頑張って作っているぶん、何を見ていいのかわからなかったという感じはありましたね。そんなにスカッともしないし。
     
     
    ■ゾンビものの常識を覆した隠れた傑作『セーラーゾンビ』宇野 僕は『セーラーゾンビ』を挙げようかな、これは僕しか挙げない気がするので。あれは非常によくできていて、たぶんAKBが出てなくても僕はベストに挙げたんじゃないかな。ゾンビっていうモチーフは、分りやすく言えば現代人の比喩なんですよね。夢とか将来的な自己実現とかをガツガツ追いかけるんじゃなくて、なんとなく個人的な欲望に根差して、だらだら生きている人が大半で、世の中は大した問題もなく回っちゃっていると。
    その中で、アイドルになりたいとか、夢を見ている人たちがちょっと特別な視線で見られている。要するにアイドルというのは現代に生きていてもゾンビにならない稀有な存在なんだってことですよね。これは今の時代におけるアイドルブームの機能というか、位置づけを上手く取り込んでいると思った。
    成馬 最終話のひとつ前で、夢のなかで女の子たちがゾンビになっちゃう話がありましたよね。あれが面白いのは、あいつらから見たら私たちがゾンビで、私たちから見たらあいつらがゾンビに見えるっていう風に描かれていたところで。その反転を描いたのは、良心的だなあと思って見ていました。
    宇野 このドラマの中のゾンビって、あるリズムの歌がかかった時だけ体が勝手に踊っちゃって人を襲わなくなるんです。最終回で、主人公たちがゾンビたちに追い詰められるんですけど、主人公がアイドル志望だから開き直ってゾンビの前で歌を歌うんですね。歌っている間はゾンビに襲われないで生きていける。歌い疲れて体力が切れた瞬間に、たぶん襲われて死んじゃうんですよ。でも主人公は、「私は、いつまでたっても歌っていられるから大丈夫」って笑って終わる。
    成馬 AKBのドラマって、『マジすか学園』のころから、基本的にAKBのことを描いてる寓話だったと思うんですよ。そう考えると、最初、ゾンビってファンの比喩なのかなと思ったんですよね。すごくえぐいことやっているなと思って見ていたんだけど、だんだんそれが社会とかそういうとこまで拡大していた。
    宇野 僕も最初、ゾンビはファンのことかと思って見ていたんだけど、この作品ではもうゾンビって現代人全員のことなんですよね。AKBの自己批評っていう意味では『マジすか学園』には絶対に勝てないところを、今のアイドルブームが象徴する現代社会全般にうまく拡大することができていたと思うんです。演技も主役の大和田南那以外は良かったですよね。とくに、高橋朱里と川栄李奈はすごく良かった。
     
     
    ■どうしてこうなった? 『弱くても勝てます』
     
    宇野 『弱くても勝てます』問題についてもちょっと触れておきましょうか。どうですか、岡室さん。
    岡室 前回、期待のドラマとして挙げました。1話目見てちょっとヤバいなって思いつつ、それでもやっぱり応援したいという気持ちで挙げたんですけども、なかなか……。
    宇野 思い入れが空回りしている感じがありますよね。
    岡室 そうですね。それと、脚本家がちょっとまだ慣れてないのかなと。だから、ドラマの中盤からどんどん慣れてくるといいなって思ったんですけど、慣れないまま終わっちゃったという感じもありましたね。
    宇野 この作品については、ドラマ界の宝であるプロデューサーの河野英裕さんのためにも、愛のあるツッコミをしなければいけないと思うのですが、 
  • そもそも検索ワードなんて要らない?――nanapi代表・古川健介が語る「ポスト検索」の時代 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.135 ☆

    2014-08-14 07:00  
    220pt

    そもそも検索ワードなんて要らない?――nanapi代表・古川健介が語る「ポスト検索」の時代
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.14 vol.135
    http://wakusei2nd.com

    今日の「ほぼ惑」は、PLANETSのIT&ビジネスのトークイベントでもおなじみ、nanapi代表の「けんすう」こと古川健介さんと宇野常寛の対談をお届けします。Google検索への最適化がもたらす「息苦しさ」とは? そして、ブラウザではなくアプリへ「閉じていく」ことで生まれる新たな可能性とは――!?




    ▼プロフィール
    古川健介〈ふるかわ・けんすけ〉
    株式会社nanapi代表取締役。1981年6月2日生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。2000年に学生コミュニティであるミルクカフェを立ち上げ、月間1000万pvの大手サイトに成長させる。2004年、レンタル掲示板を運営する株式会社メディアクリップの代表取締役社長に就任。翌年、株式会社ライブドアにしたらばJBBSを事業譲渡後、同社にてCGM事業の立ち上げを担当。2006年、株式会社リクルートに入社、事業開発室にて新規事業立ち上げを担当。2009年6月リクルートを退職し、Howtoサイト「nanapi」を運営する株式会社ロケットスタート(現・株式会社nanapi)代表取締役に就任、現在に至る。
     
    ◎インタビュー:宇野常寛/聞き手・構成:稲葉ほたて
     
     
    ■リクルートが本当に凄かったのはWeb1.0時代ではないか
     
    宇野 けんすうは元々リクルートにいたわけだよね。個人的にはリクルートが本当に凄かったのって、江副さん時代よりも学生時代に僕たちが見た――リクナビやSUUMOのようなサイトを作って、一方で「R25」や「ゼクシィ」を仕掛けていった――あの90年代後半からゼロ年代前半の時期だったんじゃないかと思う。
    結婚や就職といった、人生の一大イベントであるがゆえに逆に思考停止が起きやすい領域のインフラを握ってえげつなくそのジャンルの文化の決定権を行使していくスタイルって、今思うとジャンルごとにコミュニケーションのインフラが特定のプラットフォームにどんどん集約していったウェブのある時期の流れと相似形をなしていた。
    でも、当時の「うわ、悔しいけどリクルートって凄いな」と思ったヤバさって、やっぱりWeb2.0以降、なくなってしまったんだよね。それは、食べログやNAVERまとめのように、かつてのリクルートがトップダウンで行っていたことをボトムアップで実現するプラットフォームが登場したからでしょう。
    とはいえ、"BtoB"の仕組みとしてあまりに強力な存在になったリクルートという存在に、新興のウェブサービスがどこか上手く勝ちきれないまま戦っているという構図が生まれているのも事実だと思う。金になるけれどつまらなくなった1.0の世界と、面白いけれど金にならない2.0の世界。リクルートを巡る状況って今の日本そのものだと思うわけ。
    けんすう リクルートの強みは、やはり営業の力です。例としてゼクシィを挙げると分かりやすいと思います。ゼクシィはほとんどの結婚式場に営業に行って、情報を全部とってきて毎回一冊の本にまとめているんですね。で、今度は本屋にも営業をかけまくって売った本の利益をすべて本屋に入れてしまう。すると、本屋としてはゼクシィが一番稼げるものだから棚を確保するんですね。これはホットペッパーにしても同様で、街中で配るだけなのにハイスペックな人材を雇って徹底的に教育を施した上でやるわけですよ。結局、そういう強い営業の力によるプッシュで押し切る力は、クライアントから大量の資金を集めていることによって可能になっているわけですね。
    実は、僕はリクルートにいたときに、リクルートモデルの次を考えるミッションがあったんです。でも、世界的に見てもリクルートを超えるビジネスモデルなんて、まず存在しなかった(笑)。だって、あれだけ営業でプッシュする仕掛けなのに、利益率30%をキープして、売上1兆を超えているわけですよ。地域広告も、他国の倍以上はリクルートという一つの会社が押さえている。まさに異常な状態です。まあ、逆に言えば日本以外で、リクルートモデルが成立している国もないとも言えるわけですが。
    そういう中で、リクルートでWeb2.0的なことをやっても、単に利益が減るだけであってやらない方がマシなんです。明確にイノベーションのジレンマです。しかも一方で、食べログを放置していても、別にホットペッパーの売上は大して下がらないですから(笑)。
    宇野 いや、そうだよね。だって、比喩的に言えばみんな食べログで調べた店にホットペッパーのクーポンを使って行くからね。
    けんすう そうなんです。そうなると、店としては「ホットペッパーって集客力あるな」と思うわけですね(笑)。日本では2ちゃんねるまとめのように、お金を稼がなくてもいい人たちが主導権を握っているものが面白いのだと思いますね。海外のバイラルメディアって何十億円と調達できるけれども、2ちゃんねるが1億円を調達するのだって非現実的です。そうすると、経済的活動の外側にいる面白い人たちが参加してくるコンテンツが出てくるものが主流になってくるんです。
    そうでない場合は、偶然ですよね。LINEは明確にグローバルサービスですが、ハンゲームで資金を沢山持っていたのが大きいです。普通にやっていたら、ワッツアップのような大量の資金調達をしている海外サービスに負けていたはずです。ニコニコ動画だって、着メロの収益があって、川上さんのような非合理なことを面白がってやる経営者がいたから成立したわけでしょう。その点、食べログなんかはカカクコムの次の成長戦略の柱になってしまって、マネタイズを無理やり始めていますが、ひじょうに大変だと思いますね。そういう意味で、リクルート的なものにWeb2.0的なサービスが勝てないのは、やはり資本力だとは思います。
    ――ネットビジネスの難しいところって、ニコニコ動画がいい例ですが、ソーシャル上での評価が必ずしも市場の評価には反映されないことだと思うんです。そういうソーシャルと市場の乖離を上手く調整して、クリティカルマスを超えるための資金を与えるはずのベンチャーキャピタルが、日本では色々な意味で弱いという問題が一つありますよね。
    けんすう Uberが1兆円の評価額で500億円を集めるようなのは、日本では厳しいですよね。まあ、シリコンバレーって壮大なインサイダーなんですよ。身内で情報を回して、「ハーバードの頭いいやつがサービス作ったから無理やりお金を突っ込んで成長させてしまおうぜ」みたいな世界だということはあります。日本の場合は、お金を全く稼がなくても儲かるか、最初から凄い儲かるかしかビジネスモデルがない気がしますね。
    宇野 僕がけんすうという実業家の面白いと思うところは、リクルート的にウェブ1.0的軟着陸が一番カネになるつまらない日本社会に最適化するわけでもなければ、カネにはあまりならないけれど、文化的な生成力だけはやたらある「2ちゃんねる的なアナーキズム」にも流れなていなくて、何か両者の中間をふわふわ漂いながらユニークなことをやっているところなんですね。
    けんすう リクルートが好きだったのは、無闇矢鱈に情報を集めていたことでしかなかったんだと、あるときに気づいたんですね(笑)。
    自分は、情報がたくさん集まっていることそれ自体に興奮するんです。例えば昔、大学のサークルが配っているチラシをひたすらスキャンする「サークルライフ」というのをやっていたんです。あの一日か二日しか使われないチラシが、ネット上に何百枚とある。凄いですよ。ぜひ、見ていただきたいですね。
     

    ▲サークルライフ
     
    言ってしまえば、今までにネットに存在していなかった大量の情報が出てくること自体が快感だったに過ぎないんです。だから、自分でもそういう状態を作りたかった。内容に関しても、実は興味ないです。エクセルのハウツーが1000件あって、それがさらに増えていく。そういう状況が好きというだけで、別にぶっちゃけ整理しなくてもいい(笑)。そういうところは、nanapiにつながっていたのだと思います。
     
     
    ■最近興味が有るのは「アンサー」
     
    けんすう ただ、僕自身の最近の興味というところでは、アンサーという最近始めたQ&Aアプリですね。これが非常に手応えがあるんです。
     

    ▲iPhone/Andoridアプリ「アンサー」
     
    ――Q&Aアプリなのに、マトモな質問をしないで雑談をしていてもいいというアプリですね(笑)。どのくらいの人が使っているんですか?
    けんすう 投稿数で言うと一日に50万近くあります。2ちゃんねるの投稿数が、いま1日250万ぐらいで、スピード感的には実は2000年か2001年くらいの2ちゃんねるの数字なのかな。まあ、その割には僕の周囲の30代は使っていないし、訳がわからないと言われるのが面白いところですね。
    実際に使っているのは、若い子ですね。10代が55%で、20代前半が40%。そこで彼らが話していることも、Twitterとは違いますね。単に「おはよう」と書き込んでも、アンサーだと10件や20件返ってくるし、なんか妙に満たされる感じが強いんですね。しかも、現在ユニークユーザー数が10数万人なのですが、滞在時間の平均が66分あります。
    ――その長さは動画サイト並みですね……!
    けんすう 長い人は1日中使うような状態になっている。nanapiなんて、平均滞在時間は2分ないですからね(笑)。そこはアプリの強みでもあります。まあ、ちょっと理解の範疇を超えた世界になっていますよね。非常に閉じた世界で、良し悪しなのですがコテハンも登場してきていて、アンサー内で恋人を作ったりもしています。
    ―― 一時期のラウンジ板とかVIPみたいですね。
    けんすう むしろカラオケ板かもしれない(笑)。なぜか一番人気があるのが、カラオケの音声をみんなでアップすることなんです。まさに2ちゃんねるなどの話題が出た「PLANETS vol.8」で話した「手段の目的化」という問題意識が大きくて、そういう、いわば完全に目的を失ったコミュニケーションがどうなるかという興味で作ったんですね。
    宇野 つまり、nanapiなどのそれ以前のサービスでは、まだ手段と目的が分離していた……?
    けんすう nanapiを作ったときには、何か目的があって人間は行動していて、そのためには手段を調べることになるはずだから、手段を軸としたハウツーサービスをやれば上手くいくはずだ……と思っていたんですよ。
    ところが、実は検索ワードを見てみると、「寂しい」とか「彼氏ほしい」とか、検索してもしょうがないことでのクエリが結構来るんですよ(笑)。しかも、目的があったとしても、そこから課題を顕在化させて、それを言語化して検索エンジンの中に入れて、さらに検索結果10件の中から取捨選択していく……なんてことは、あまりにも敷居が高すぎて、多くの人には出来ないんです。
    そうなると、そもそも何に悩んでいるかもわからない人を対象にしなければいけないと思ったんです。そういう流れで、まずはみんなでコミュニケーションをとるところから作ってみたのがアンサーなんですね。
    宇野 検索ワードをカギに位置づける思想をどう評価するかという問題ですよね。今の話を言い換えると人間は自分が意識的に入力した言葉で検索している限りは何者にも出会えないんじゃないか、という疑問につながると思う。検索は欲望をつくることができない。しかし検索という文化から離れることで、インターネットははじめて他者性を取り込み、欲望をつくるものになれるかもしれない、と。
    例えば、はてなとニコ動の違いってはてなは「はてなキーワード」で繋がる文化で、ニコニコ動画は「タグ」で繋がる文化だったということだと思うわけ。明らかに後者の機能は検索補助から離れて一人歩きしていて、そのことがニコ動の強さにつながっていた、なんてことも言えるかもしれない。
    けんすう はてなキーワードって、自由に登録できることにはなっているけれども、基本的には既に世の中にある名詞しか作れないんですね。それに対して、ニコニコのタグは存在していない言葉でも、思いついたら付けられるんです。だから、ニコニコのタグから生まれた用語は沢山あるけど、はてなキーワードからは生まれていないし、絶対に生まれるはずがない。僕は、そこに大きな違いがある気がしますね。
     
     
    ■Googleという権力が迫る思想の「内面化」
     
    けんすう ちょっと僕も考えながら話しますが(笑)、ニコニコ動画やpixiv、ある意味では2ちゃんねるもそうですが、こういうサービスって実は検索エンジンをほとんど受け入れていないんです。一方ではてなキーワードってSEO対策から出てきた面が強いでしょう。
    さっきの話に戻すと、はてなは課題から出発するところが、どうしてもあるように見えます。やっぱり、はてなやmixiのような人たちは、自分たちのサービスが向上することで、ユーザーが賢くなっていって、生活ももっと豊かになる……なんてことをどこかで考えている。でも、ニコニコ動画や2ちゃんねるは「人間って所詮そういうものだよね」というところから出発していて、ユーザーが賢くなるなんて信じていないようにさえ見える。
    ――少し割り込んでもいいですか。いまお二人がしている検索エンジンの話って、具体的にはGoogleの思想の問題だと思うんです。というのも、ゼロ年代以降のインターネットにおける権力は、ほとんどGoogleが握っているに近い状態なんだと思うんですよ。特にはてなのようなオープン型で、検索からのユーザー流入が大きいサービスというのは、Googleの顔色をうかがいながら生きているのに近いです。Googleが少し検索エンジンのアルゴリズムを変えただけでも売上が一気に上下するものだから、血相を変えて対策会議を開いている企業なんて沢山ありますよ。
    その結果どうなるかというと、伝統的な権力と一緒でその過程でGoogleが強制してくる「思想」を、サービス事業者側が生き延びるために「内面化」していかざるを得ないんですね。実際、GoogleのSEO(検索エンジン最適化)って、自分たちでサイト制作者を啓発するドキュメントも出していますけど、あれって情報の提示の形式からタイトルまで細かくチェックポイントがあって、それに従わないものは検索順位で下位に置くんです。
    けんすう nanapiもGoogleからの流入は凄く多いので、もちろん意識しています。あれを忠実にやると、最初のパラグラフはわかりやすくこう書くべきとか、そういうGoogleが理想とするコンテンツに合わせて書かなければいけなくて、どんどんコンテンツが画一化していくんです。例えば、最近もGoogleがタイトルに表示する文字数を減らしたので、僕らもタイトルの文字数を減らさざるを得なかった。まあ、最近は勝手にGoogleがタイトルを省略してつけたりもしていて……。
    ――でも、そこで「じゃあサイトの方ではタイトルを勝手につけておいて……」というわけには行かなくて、今度はGoogleがこちらの意図に沿うタイトルに省略してくれるような付け方をしなければいけない。結局、彼らがサイト運営を規制してくるような権力構造はどこまで行っても残るんです。
    けんすう nanapiって月間UUが2500万くらいあるのですが、認識率を見るとたぶんそのうちの70万人くらいしかnanapiを知らないんです。結局、ほとんどのユーザーはGoogleとYahoo!から飛んできたユーザーで、彼らからしたらAll Aboutと僕らは変わらないんですね。言ってしまえば、僕たちはGoogleのコンテンツの一つとしか見なされていない。
    そういう中で、やっぱりニコニコ動画のようなサービスは「Googleのコンテンツ」でなかったというのが大きいんですよ。メルマガもそうですね。堀江さんのメルマガのユーザーは、やっぱり「ホリエモンメルマガのユーザー」ですから。
    宇野 そもそもインターネットって、ハイパーリンクによって結びつく、全体を見渡せるメタ視点や中心点のようなものが存在しない場所だったのだけど、そこにGoogleは擬似的な情報の一覧性を持ち込むことによって、メタ視点と中心点を仮構したんだと思うんだよね。
    その結果、むしろGoogleを受け入れずに閉じていたニコニコ動画やpixivのようなサービスの方こそが本来のインターネットが持っていたような、中心点が存在しないままに情報が拡大していく特性を持ってしまっている逆説がある。
    僕はここにポイントがあると思う。一般的にコミュニティは集中型だと閉鎖的になるけれどコミュニケーションが濃密になる。逆に拡散型だと開放的で流動性が高くなるけれどコミュニケーションが希薄になる。文化の生成には前者が向いているとされているので、一般的にインターネットは上質な文化の敵だとされている。しかしニコニコ動画やpixvは、検索との付き合い方を工夫することで、開放的で流動性の高いインターネットという場に留まったまま、濃密なコミュニケーションを実現したんだと思う。
    ――検索エンジンって、そりゃ百科事典のような静的なものに比べれば現代的ですけど、基本的には言葉とモノの関係を整理する秩序を作って権力を握ってるわけで、むしろGoogleはウェブに伝統的な権力の発想を持ち込むことで勝ちに行った集団だと思うんです。今の話は、その結果として、かえってGoogleこそがインターネットが本来持っていた力を奪っているのかもしれない、という話でもあるなと思いました。
    宇野 要するにインターネット社会を検索でメタ的に秩序をもたらすことで、もうひとつのマスメディアとして機能するものとして考えるか、あるいは、「秩序はなくともピースは成り立つ」(猪子寿之)的な中心点を持たないまま広がっていくまったく別のロジックで成立しているものと考えるか。僕は前者は過渡的なもので、これから後者に傾いてくると思う。前者がwww的なもの、後者がp2p的なものと言えるかもしれない。
    そして、僕はサブカル評論家として、前者の思想で考えているサービスからは、日本では力のある文化はなかなか生まれてこないんじゃないかと思う。実際、この10年がそうだった。
    けんすう そうですね。何一つ生んでいないです。啓蒙的な話で良い結果を生み出そうという試みは、もうほとんど失敗して、何も残らなかった印象ですね。むしろ、2ちゃんねるみたいにゴミ箱と言われて、便所の落書きとまで言われたようなところにしか、実はコンテンツも文化も残っていない。ちなみに、掲示板でも昔はちゃんとした良識ある大人同士でまともな議論をしましょうみたいな試みがあったんですけど、結局どれも上手くいかなかったんですよね。
    実際、個人的にはここまでの話はメチャクチャしっくり来るんですよ。nanapiって、検索ワードベースで作ってしまったせいで、nanapiらしい文化はほとんど生まれなかったんです。Googleの延長線上にあるものにしかならなくて、昔にポエムサイトを作ったときの方がやはり文化は強烈にあったくらいです。実際、ポエムなんて全然Google検索では上位に行かないですから(笑)。
     
  • フル・フロンタルこそ真の「可能性の獣」である ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.134 ☆

    2014-08-13 07:00  
    220pt

    フル・フロンタルこそ真の「可能性の獣」である
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.13 vol.134
    http://wakusei2nd.com



    (初出:「ダ・ヴィンチ」2014年8月号)
     
    "あえて言おう。フル・フロンタルこそが真の「可能性の獣」である、と。"今日のほぼ惑はダ・ヴィンチ8月号に掲載された宇野常寛の『機動戦士ガンダムUC』論。作中では矮小な悪党として描かれたフロンタルにシャアの絶望に抗う可能性を見出します。



    ▲機動戦士ガンダムUC(ユニコーン) [Mobile Suit Gundam UC] 2 [Blu-ray] より
     
     今からさかのぼること33年前──1981年2月22日、今やそこはまったく別の意味で「聖地」となりつつある新宿東口のスタジオ・アルタ前はアニメファンでごったがえしていたという。70年代末からのアニメブームは『宇宙戦艦ヤマト』などのヒット作を中心に、国内におけるアニメーションを児童向けのいわゆる「ジャリ番」から、大人まで楽しめるサブカルチャーの1ジャンルに押し上げていった。その流れの中核にあったのが、79年にテレビアニメ第一作が放映開始された『機動戦士ガンダム』だった。テレビでの本放送時は玩具の売り上げ不振等の理由からいわゆる「打ち切り」の憂き目を見た『ガンダム』だが、その革新的な世界観と重厚な物語などで折から形成されていたアニメファンのコミュニティで大きな支持を受け、アニメブームの主役となっていった。
     そして加熱するファンコミュニティの空気に応えるかたちで『ガンダム』劇場版三部作の公開が決定され、その宣伝イベントして企画されたのがこの「アニメ新世紀宣言」だった。
     「私たちは、アニメによって拓かれる私たちの時代とアニメ新世紀の幕開けをここに宣言する」壇上に立った富野喜幸(現:由悠季)はそう宣言した。『ガンダム』の生みの親として、今でこそ広く知られている富野だが当時はまだ知る人ぞ知る存在だった。この時期の富野の発言にはたびたび、自作を中心とするアニメを子供向けの低俗な娯楽としてではなく、独立した1つの文化ジャンルとして受け入れる若者たちの感性を、新世代の感性として肯定する内容が見られる。80年代の後半から富野はどちらかといえばサブカルチャーに耽溺し、情報社会に適応した若者を現代病の患者として否定的に言及することが多くなったので、現在の富野を知る読者はこうした発言を知るとむしろ驚くかもしれない。
     さて、ここで注目したいのは『機動戦士ガンダム』の作中で登場する「ニュータイプ」という概念が、当時の新世代─アニメ新世紀宣言に賛同した若いファンたちの世代─と重ね合わされていたということだ。「ニュータイプ」とはファースト・ガンダムと呼ばれる初代『機動戦士ガンダム』の作中で、新兵のアムロがエースパイロットとしてわずか数カ月の間に急成長する根拠として与えられた設定である。それは人類が宇宙環境に適応することで発現する一種の超能力である。しかしそれはテレキネシスやテレポーテーションといったものではなく、極めて概念的で、抽象的な超能力で超認識力ともいうべきものだ。「ニュータイプ」に覚醒した人類は、地理や時間を超えて他の人間の存在を、それも言語を超えて無意識のレベルまで感じることができる。これは富野による極めて個性的な超能力設定だと言える。宇宙移民時代に人類が適応し始めたとき、その認識力がこのようなかたちで拡大していく、と考えた作家は古今東西他にいないはずだ。
     そしてこの「ニュータイプ」という概念は、作品外のムーブメントと結果として重ね合わされることになった。後にメディアを賑わせる「新人類」の語源のひとつがこの「ニュータイプ」であるという説もあるが、おそらくは「新世紀宣言」が代表する当時のアニメブームが、前述のように世代論と深く結びついていたことがその説の背景にあると思われる。当時物語の中で描かれた「ニュータイプ」とは人類の革新であり、社会的にそれは「アニメ新世紀宣言」が掲げたように、新しいメディアに対応した新世代の感性の比喩だったのだ。
     あれから約30年、当時ティーンだった「ニュータイプ」たちは今や40代の堂々たる中年になっている計算になる。その後『ガンダム』は81年から上映された劇場版三部作と、小中学生の間でのプラモデル商品の大ヒットを通じて社会現象化していった。そしてそれから30年、何度か下火になりながらも断続的に続編が発表され、その広がりはアニメに留まらず、プラモデル、ゲームなどにもおよび「ガンダム産業」と呼ばれる現在においては国大最大級のキャラクター・ビジネスを生み出すシリーズに成長している。
     そのシリーズ展開は多岐にわたり、ティーンを対象とした続編が制作され続ける一方でファースト・ガンダムのファン層をターゲットにした中年向け作品も存在する。いや、正確にはこの「ガンダム産業」はこうした中高年市場に大きく依存していると言っても過言ではないだろう。
     さて、そんな中高年向けガンダム市場の中核にここ数年君臨しているのが今回取り上げる『機動戦士ガンダムUC』である。本作はストーリーテラーに『終戦のローレライ』などの歴史SF、『亡国のイージス』などのポリティカルフィクションで知られる福井晴敏を迎え、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の続編的な物語を展開している。本作ではこれまで事実上の原作者であった富野のみが許されていたファースト・ガンダムから続く架空歴史=宇宙世紀への改変・介入をはじめて富野以外の作家が行い、作中にはブライト・ノア、カイ・シデンといったファースト・ガンダム以来の人気キャラクターが多数登場する。要するに高齢の原作者に代わり、40代のファーストガンダム世代の作家が「正史」を紡ぐ権利を手に入れた、と言えなくもないだろう。その結果、本作はファーストガンダム世代の「ファン代表」である福井による、富野批評的な側面を否応がなく負うことになった。そして、結論から述べれば本作をもって、富野由悠季が築き上げてきた「ガンダム」シリーズの、特に物語面での達成はほぼ引き継がれることなく失われてしまうであろうことがはっきりしたように思う。
     本作『UC』の舞台は『逆襲のシャア』から3年後の宇宙世紀0096年だ。『逆襲のシャア』で連邦軍に敗北したネオ・ジオンの残党は「袖付き」と通称されるテロ組織を結成し、連邦軍に戦いを挑む。「袖付き」の目的は「ラプラスの箱」と呼ばれるおよそ100年前のテロ事件に関わる連邦軍の機密だ。主人公の少年バナージは、この「ラプラスの箱」を狙う袖付きのテロに巻き込まれたことをきっかけにガンダムのパイロットになり、軍とテロリストと巨大軍事産業の入り乱れる陰謀劇に巻き込まれていくことになる、といったのが大まかなストーリーだ。(ついでに言うと、このバナージ少年にも出生の秘密があって、実は新型ガンダムを建造した軍事産業の幹部の隠し子だった、なんて設定が開陳される。)
     表面的にこの物語はファースト・ガンダムがそうであったように、少年の社会化の物語として展開していく。ロボットを人工知能の器としてではなく、少年の成長願望の象徴として(操縦することで得られるかりそめの、巨大な身体として)位置づけた日本のロボットアニメは、常に少年の欲望と並走してきた。巨大な身体を得て、大人社会に混じって活躍し、そして少女を得る。本作『UC』も例外ではない。父からガンダムを託されたバナージ少年は、「ニュータイプ」としての才能を開花させ、時にはテロリストの、そして時には軍の陰謀に立ち向かう。彼の前にはジオンの王女ミネバをはじめとする美少女が彼の救済を求めて現れる。良くも悪くも、その表面的な物語構造は思春期男子の欲望に応えるべく日本のロボットアニメの洗練させてきたパターンだ。
     しかし、福井による小説を、そしてこのたび完結したアニメ版を読んだ/観た人間は気付くだろう。本作は決して少年の成長物語を主眼に置いた作品「ではない」と。
     この『ガンダムUC』という作品を一言で表現するとしたら、それは「説教リレー」という言葉が相応しいだろう。本作は基本的に1パターンのエピソードの反復で構成されている。それは主人公のバナージ君(たまにヒロインのミネバ)が中高年の(つまり、想定視聴者が感情移入しやすい年齢設定の)男性に説教される→適度に(勝たない程度に)バナージ君が反論→結局おじさんの説教に感動して涙目→そのまま出撃してガンダムで大活躍→力を使いすぎて気絶、敵につかまる→つかまった先の中高年男性が出てきてまた説教→(以下繰り返し)……といったループである。
     第1話のバナージの父親からはじまって、「袖付き」のジンネマン艦長、連邦軍特殊部隊のダグザ……と次々と説教のバトンが渡される。中盤でミネバが偶然立ち寄ったレストランのオヤジまで説教を始めたときはほんとうにどうしようかと思った。そして彼らの説教には基本的に中身がなく、どれも「大人の社会はいろいろ立場があるんだけど、みんながまんしてがんばっているんだ(だから俺たちをバカにするな)」の一行に要約することができる。今どきの若者ならスマートフォンをいじりながら聞き流してしまいそうな内容なのだが、バナージ君はどの説教もじっと真剣に聞いている。ほんとうにいい子だと思う。そしてバナージ君に感心すればするほど、情けない気持ちがこみ上げてくる。ここに現れているのは、端的に今の40代男性の自信のなさではないか。バブル入社世代から団塊ジュニア世代─要するにファースト・ガンダム直撃世代にあたる40代男性の「自信のなさ」ではないだろうか。
     『ガンダムUC』は30代、40代を中心に、決して盛り上がっているとは言えない現代のアニメシーンにおいて絶大な支持を獲得した作品だ。完結第7話の先行プレミアム上映の興行収入は10億に上ると言われている。もちろん、この説教臭さがどれほど支持を集めているかどうかは分からないので、性急な結論は避けるべきだろう。しかし少なくとも作品の表面に現れているものが証明しているのは、過剰に「父」として振る舞いたいという欲望に他ならない。『ガンダムUC』は明らかに物語の進行を毎回挿入されるこの過剰な「説教」が停滞させているし、その上前述した通りその説教にはまったく中身がない。そこに存在するのは、少年に説教することで自己確認を行う=「父」的な存在としての尊厳を確認する中高年の悲しい背中だけだ。(個人的にはこの21世紀の世界で旧世紀的な「父」になることに拘泥していること自体があまりにアナクロで滑稽にすら思えるのだが。)
     意地悪な比喩をあえて選べば、今どきの「飲みニケーション」を拒否する20代の若い部下たちに説教する場を与えられない40代の中間管理職たちが、アニメの中に満たされない欲望を吐き出している、ようなものなのではないか。そう、思春期の頃はエースパイロットとして大人社会に混じって活躍することと、お姫さまや薄幸の強化人間美少女との恋愛を夢見ていた彼らは、あれから30年たった今、なんだかんだで結婚し、何割かの確率で子どももいて、そして年功序列的に多少なりとも社会的な立場のできた今、そのような夢はもはや見る必要がなくなっているのだ。その代わりに彼らが欲望しているのはむしろ、「何ものでもない自分の説教を聞いて感動してくれる新入社員」なのではないか。その上教育コストゼロで戦場で大活躍の(だって「ニュータイプ」だから)即戦力新入社員なのではないか。
     ではこの『ガンダムUC』」という壮大な物語に、『ガンダム』世代の作家が原作者=富野殺しを宣言して広げた大風呂敷の上に、自信のない中高年男性の説教ヒーリング以外の可能性はあるのだろうか。
     結論から言えば、「ある」。もちろんそれはひたすらさえない中間管理職のお説教を聞いてあげているだけのバナージ少年や王女ミネバにもなければ、彼らに説教して自信回復する情けない説教オヤジたちにもない。あるとすればそれは、作中ではそんなバナージ君とぞろぞろ出てくるそのお父さん候補たちに否定されつくす「悪役」フル・フロンタルという存在に他ならない。
     
  • 未来のスポーツに必要なのはゲームデザイナーの力 ――【鼎談】「未来の普通の運動会」発起人・犬飼博士×中村隆之×江渡浩一郎 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.133 ☆

    2014-08-12 07:00  

    未来のスポーツに必要なのはゲームデザイナーの力
    ――【鼎談】「未来の普通の運動会」
    発起人・犬飼博士×中村隆之×江渡浩一郎
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.12 vol.133
    http://wakusei2nd.com


    今日の「ほぼ惑」は、プレ『PLANETS vol.9 特集:東京2020』企画として、スポーツに〈テクノロジー〉や〈ゲームデザイン〉の知を持ち込んだ「未来の普通の運動会」仕掛け人たちへのインタビューをお届けします。2020年の東京オリンピックを見据え、ゲームデザインの力は、スポーツの在り方をどう変えていくのでしょうか――?

    去る7月5日、「未来の普通の運動会」をテーマに、デジタルゲームの技術や方法論を応用して、まったく新しいスポーツ種目を創造しようという風変わりなハッカソン(※主にIT系の開発者たちによる協同開発イベント)が、神奈川工科大学にて行われ
  • 萱野稔人×小林よしのり×朴順梨×與那覇潤×宇野常寛『ナショナリズムの現在ーー〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来』発売! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆

    2014-08-11 19:00  

    萱野稔人×小林よしのり×朴順梨
    ×與那覇潤×宇野常寛
    『ナショナリズムの現在
    ――〈ネトウヨ〉化する日本と
    東アジアの未来』発売!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.11号外
    http://wakusei2nd.com


    今日の「ほぼ惑」では、号外として本日発売のPLANETSオリジナル電子書籍『ナショナリズムの現在――〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来』(萱野稔人×小林よしのり×朴順梨×與那覇潤×宇野常寛)の冒頭をお届けします。
    ▼お知らせ
    PLANETSは、Amazon Kindleストアでオリジナルの電子書籍を発売開始します。普段のメルマガ以上に、盛りだくさんの内容を、電子書籍ならではの価格でお届けします。
    第一弾はこちら。
     

    ▲萱野稔人×小林よしのり×朴順梨×與那覇潤×宇野常寛『ナショナリズムの現在ーー〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来』
     
    2月に開催
  • 週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会~8月4日放送Podcast&ダイジェスト! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.132 ☆

    2014-08-11 07:00  
    220pt

    週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会
    ~8月4日放送Podcast&ダイジェスト!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.11 vol.132
    http://wakusei2nd.com

    毎週月曜日のレギュラー放送をお届けしている「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」。
    前回分の放送のPodcast&ダイジェストをお届けします。
    8月4日(月)22:00~放送
    「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」※今週は宇野常寛京都出張中につき、ニコ生主スタイルでの放送でした■パーソナリティ
    宇野常寛
    ■ゲスト
    ピンキー前田(会社員)

    ▼8/4放送のダイジェスト
    ☆ゲストトーク1☆
    まずは、ピンキー前田とは何者なのか!? 30歳の誕生日に妙に繊細な気持ちになった前田さんがとった驚きの行動とは。今回は終始シモの話題でお届けします…!
    ☆ゲストトーク2☆
    バイアグラに限界を感じた前田さんが次に考えたビジネスは、魔法のような効果をもたらす植物"サイリウム"を使った便秘薬の開発でした!
    ☆ゲストトーク3☆
    ピンキー前田、セックスを語る! 「セックスは目的じゃない。コミュニケーションなんですよ!」 さらに、視聴者からのやや引き気味なメールにも応えます。
    ☆延長戦トーク☆
    宇野常寛が皆さまからのコメントを拾いながら、京都精華大学での集中講義やPLANETSチャンネルの展望について語ります!

     
  • 【特別座談会】「なぜゲーム実況は人気ジャンルになったのか?」青山雄一×石岡良治×稲葉ほたて×井上明人 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.131 ☆

    2014-08-08 07:00  
    220pt

    【特別座談会】
    「なぜゲーム実況は人気ジャンルになったのか?」
    青山雄一×石岡良治×稲葉ほたて×井上明人
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.8 1vol.131
    http://wakusei2nd.com

    今やニコニコ動画だけではなく、世界的なムーブメントになりつつあるゲーム実況。ほとんどかえりみられることのない歴史を振り返りつつ、ますます加速する動画文化の最先端に迫ります!

    ■ 先駆的な批評 「Review House 03」の座談会
     
    稲葉 いま、まさに様々な問題を抱えながらも、ゲーム実況が大きく市場化され始めている状況があるんですね。任天堂のYouTubeへのTwitterでの言及が話題になりましたが、他にもGoogleのTwitch買収の話やUnityのApplifier買収のように、世界的にゲームプレイ動画が商業化する機運が強まっています。一方でniconico内ではゲーム実況の人気が過熱していて、企業とのコラボ事例がどんどん生まれて、実況から人気に火がついた『霧雨が降る森』が漫画化されていくような、新しいコンテンツビジネスの生態系も生まれ始めています。
    そういう中で、今回の座談会ではゲーム実況の歴史を総括的に話しながら、そのポテンシャルなどを考えていければと思うんです。
    それでなのですが、まずゲーム研究者の井上明人さんと批評家の石岡良治さんは、4年前に一度「ゲーム実況」の座談会に参加されているんですよね。
    石岡 2010年に「Review House 03」で美術評論家の黒瀬陽平さんが企画した座談会ですね。
     

    ▲Review House vol.03
     
    ゲームについて語るときに作品からアプローチをすると、「ドラゴンクエストの物語性とは」みたいな設定資料集的な世界観構築に注目しがちじゃないですか。それに対して当時考えていたのは、ゲーム実況を語ることを通じて、むしろゲーム世界にプレイヤーが参加していく状況から作品を見ていけないかということでした。
    あの時期、濱野智史さんが『アーキテクチャの生態系』の元になった連載で、「マリオカート」のゴーストを使ったリプレイについて議論していたのですが、実況をつけた動画を投稿するという原始的な行為でそれにかなり近いことが出来てしまうし、そこから新しいファンコミュニティも生まれていた。
    そうした状況それ自体を「批評」として見ようという試みでもあったんです。例えば、音楽ではラジオDJの紹介が音楽文化に大きく影響を与えるわけでしょう。それと同様のレビュアーや批評家に似た役割がゲーム文化の中でゲーム実況に生まれつつあるのではないかという、そんな興奮の中で行われたものでした。
    井上 雑誌での「ゲーム批評」が上手く行かずに萎んでしまった問題って、端的に言って引用が難しいことにあるんです。根本的な話としては、「あのプレイ経験が良くて…」と話しても、「いや、俺はクリアできなかったし……」と言われたら会話が続かなくなってしまう(笑)。要は、同一のプレイ経験というものが存在しないんですね。
    もっと即物的な側面としてはそもそもゲーム画面をキャプチャするのも大変で(笑)、もう10年前とか15年前なんて一つキャプるのでも一苦労ですよ。ゲームの中で「死の表現がどう変遷していったか」について書いたことがあるのですが、例えばDQ3でカンタダが「シャンパーニュの塔」で倒しても死なないで逃げていくのをキャプチャしようとしても、もう許した直後にヒュッと逃げていく(笑)。
    まあ、そういう下らないレベルでの障害も非常に大きかったのですが、そもそもゲームにおける作品論は難しいんです。一つにはクリエイティビティの二重性ですね。集団制作でゲームを作ると部分と、ユーザーがプレイする部分の二つでクリエイティビティが発揮されてしまうので、他のジャンルのように作品論が創作物だけで完結しないんです。その辺は、ユーザーがプレイし終わったところ辺りで「作品」とするわけですが、そうすると今度は「大体の人間はこういうプレイをするんじゃないだろうか」みたいな非常に曖昧なロジックを起ち上げて議論することになってしまう。
    そうなると、逆にリアルタイムで実況されている作品について論じる方が、よほど批評しやすいという構造もあったわけです。
    稲葉 「批評」の視点からゲーム実況にポテンシャルを見出した座談会でもあったわけですね。
     
     
    ■ 「僕はその状況に怒りを覚えていたんです」(青山氏)
     
    稲葉 一方で、今日はドワンゴでゲーム実況の企画などを担当している青山さんに来ていただきました。青山さんは、ドワンゴ入社前にゲーム実況者を特集したおそらく最初の本を出していらっしゃいますね。
     

    ▲『つもる話もあるけれど、とりあえずみんなゲーム実況みようぜ!』小説家の乙一や研究者の金田淳子らの論考も掲載されている。
     
    青山 この本が出たのは、ちょうど2011年の夏くらいでした。まだゲーム実況者は日陰の存在で、メディアとの関わりも、せんとすさんとえどふみさんがニコ生の公式番組である「ゲームのじかん」に出演したのと、「実況野郎Bチーム」さんが幻冬舎でWEBマガジンの連載をしていたくらいの頃です。当時の僕は、そういうゲーム実況を巡る状況に怒りを抱いていたんです。
    一同 おお(笑)。
    青山 そもそもゲーム実況が突出し始めたのは、2007年の後半くらいからのことで、ニコニコでもかなり早かったくらいなんです。
    石岡 実は、ボカロの台頭と同時期ですよね。
    青山 そうです。でも2011年当時でも、特にメーカーの風当たりなんかは強くて、腫れ物に触るような扱いを受けていました。実況者、視聴者、メーカー、ニコニコ動画運営……誰もがすれ違っていたんです。このお互いがお互いを知らない状況を変えて、上手く繋げなければいけなかった。そこで、当時はまだドワンゴ社員ではなかったのですが、「ゲームのじかん」プロデューサーに取材したり、視聴者からアンケートを取ったり、メーカーの人にインタビューをしに行きました。
    稲葉 メーカー取材はいま見てもかなり踏み込んだ内容を聞いているんです。匿名とはいえ、かなり勇気のいる回答を企業側から引き出していますよね。
    青山 やはり企業は、主にネタバレを気にするんですね。これをOKと言ってしまうことで、著作権を放棄していることになるのではないかという不安を覚えています。あとはゲーム自体の改変も厳しくて、たとえば人気プレイスタイルであるオワタ式などはほぼダメです。遊び方としてはかなり面白いと思っても、企業的にはなかなか認められないというスタンスなんですね。
     
     
    ■ ゲーム実況の歴史――1.ゲーム実況前史:「面白く」ゲームを語る文化
     
    稲葉 ゲーム実況について考えていくにあたって、まずはその歴史をさらってみたいんです。人気が爆発したのは明らかにニコニコ動画以降ですが、それ以前からネットラジオの文脈でpeercastなどで行われていたという話がありますよね、永井先生とか(笑)。
    石岡 ネット以前の時代にまで遡ってしまうと、『ゲーメスト』のようなアーケード雑誌がスーパープレイのビデオを販売していたんですよ。そこにオマケで大道芸みたいなネタプレイ動画をつける構成があったんです。それは、一つの起源じゃないかと思いますね。
    稲葉 「面白さ」重視のプレイを見たいという欲求に応えるコンテンツは、昔から供給されていたわけですね。
    石岡 ただね、当時のゲーセンってかなり殺伐としていたんです。ガチのヤンキーみたいなのが一杯いて、上手さで上下関係もあったわけです。そういうところで勝ち残った人たちは、若干気味が悪いことにスーパープレイを隠したがるんですよ。特にシューティングゲームが顕著だったけれども、稼ぎ方をバラさずにスコアだけで争ったりね。だから、古いタイプのゲーマーはゲーム動画の文化に対してずっと懐疑的でした。今でも「動画勢」という物言いにそうした名残をみることができると思います。
    その点で大きかったのが、実は2000年代前半の「ゲームセンターCX」の流行です。僕も細かい動きを把握しているわけではないですが、やはりオタク的な知識を誇るような、謎のマウンティングのゲームを終わらせた点で画期的ですよ。
     

    ▲ゲームセンター「CX」
     
    稲葉 CXはたぶんネットの「ゲーム実況」文化の誕生に直接的な影響もあるでしょうからね。最俺のキヨさんなんかも影響を公言していましたし。
    石岡 もちろん、かつてはゲーム雑誌のライターなんかが、そういう一種のコミュニケーターを担っていたんですよ。堀井雄二さんだって、元々は『Wizardry』のような洋ゲーの紹介者ですね。でも、雑誌文化の場合は物書きのスキルがいるし、広告会社との折衝も必要になる。実況のように、喋りだけでパッと出て行けないんです。しかも登場する人は、東京の業界と繋がれる一部のコネクションに限られていましたからね。
    井上 TRPGのリプレイ文化も実況の源流と言えるかもしれません。リプレイ文化は、ボードゲーマーやTRPGゲーマーの中では、それなりに大きな存在感がある。「リプレイをどれだけ楽しそうに書くか」は、一つ重要な芸でした。あと、1997年から1998年くらいにクソゲーライターも流行りましたよね。あれも、ゲームで理不尽な経験をするプロセスそのものを記述するという点では一つの源流といえるかもしれません。
     

    ▲超クソゲー
     
    石岡 あと、セガマニアとかね。まあ、セガマニアには別のマウンティングがあるけど(笑)。
    井上 セガマニアは、「貴様らはわかっとらん…!!!セガは、昔から64bitだ…!」みたいにツッコミながら自虐をやる文化ですよね。……マウンティングしながら、その行為が虚しいことを知りつつ、でもやっぱりマウンティングするという(笑)、大変にハイソな世界でしたね。
    石岡 サブカルバッドテイストみたいなボンクラ文化ですよね。僕はあの文化を愛していましたが、それ故に現在は超批判的でもあります。
    あと、もう一つ重要なのは、ニコニコ動画が出た時期って、ちょうどレトロゲーマーたちが昔の知恵を語り始めた時期だったんです。いま思うと、ニコ動は凄くタイミングが良かったんだと思いますよ。2007年とか2008年って、ちょうどWiiでバーチャルコンソールが出て、Xbox360とかPlayStation3も登場した時期でしょう。ゲームマシンって、世代が代わるごとにレゲーでちょっと小銭を稼ぐんですよ(笑)。ファミコンですら、ある意味でインベーダーは前時代機のレゲーだったと言えるしね。
     

    ▲「レトロゲームという言葉が雑誌で発見できるのが88年からです。レゲーという概念はその時期からあるんですね」(井上)
     
    稲葉 確かに、僕もバーチャルコンソールのレゲーの攻略動画を探して、ゲーム実況に入っていった記憶があります。
     
     
    ■ ゲーム実況の歴史――2.ニコ動への移行期:視聴者の急激な拡大
     
    稲葉 大学時代の後輩の知人が「ニコニコ動画(仮)」の頃に話題になっていた、当時2ちゃんねるに貼られまくっていたドラクエ実況をしている動画の実況主だったんですよ。彼が言うには、当時peercastなんかのネットラジオ界隈でゲーム実況はコンテンツとして凄く流行っていて、彼はその界隈にノベルゲームの実況を持ち込んだ男として有名だったらしいんです(笑)。
     

    ▲ 「ライブドアねとらじ」で配信されていた『羅刹ラジオ』 青山 黎明期からニコニコの実況者もゲームをやらないラジオ放送はよくやっていました。有名なところでは2008年くらいに当時一番人気だったゆとり組さんが企画したラジオがありました。当時はまだニコ生もなくて、Ustreamも浸透していなかった時期です。
     
    peercastとニコ動では、実況する層もリスナーの層も大きく変わりました。peercastは聴くだけでもハードルが高かったし、何よりも小さなコミュニティだったんです。それこそ、ゲーセンで台に集まってくる人たちみたいな感じですね。ノリも面白いところもみんな共有していたんです。それが2007年頃にニコ動に変わって、一気に見る人の数が増えたんですね。
    なんとなくゲームをプレイしている人を見る面白さ、みんなでわーっと盛り上がる面白さ、あるいは「よくわかんねーけどすげーうめー」みたいな盛り上がり方――そういう現在につながるカオスな面白さが出てきたのは、そこからですね。
    稲葉 具体的にどういう流れだったんですか?
    青山 まだゲーム実況という言葉が生まれる前は、フルボイスというジャンルが強かったんです。実は、当初のゲームに声を入れるスタイルの動画でランキングに上がってきていたのは、RPGのセリフを読み上げるタイプの朗読動画だったんですよ。
    井上 あの、素人な味わいにあふれたフルボイスですよね(笑)。
    青山 ところが、彼らがいつの間にか、ゲームのキャラクターを読み上げるだけじゃなくて、自分の話をしはじめめたんですよ。「いやぁー、ちょっと飯食ってさー」とか「学校めんどくさくって」みたいな。
    そういった動画が「ゲーム実況」とか「実況プレイ」と言われるようになったんです。
    ゲーム実況動画がランキングで上に行きだしたときに、その反動として逆に「ゲームを楽しもう」という風潮も始まりました。
    そうなると、「お前の話はいいからゲームを楽しめ!ムービー中は喋るな!」みたいな視聴者がいたり、逆に「この実況者は面白いからもっといろんな話してよ!」といろいろな視聴者がいたりと、視聴する側の嗜好も多様化しました。そういう感じで、色んな視聴者がいてメチャメチャな状態から、徐々に今の状態に移行したという感じです。
     
     
    ■「永井先生」は当時の最先端だった
     
    石岡 ところで、いま少し名前が出てきていますけど、永井先生ってどうしてるんですかね。彼の人気って、やはり他とは一線画したものがあって、実はゲーム実況というジャンルと関係ないものがありますよね。実際、最初に出てきた「Review House」でも、永井先生は全く位置づけられていない(笑)。でも、やっぱり僕の知り合いにも、永井先生だけTwitterでフォローしている人とかいるわけです。
     
    【参考】

    永井先生ツイッター
    https://twitter.com/nagaikouji1
    永井先生ブログ
    http://nagaikouji072.blog.fc2.com/

     
    稲葉 僕もフォローしていますけど、いまは本格的に日々スロットを回す人になってますよね(笑)。基本的には2chのネットウォッチ板で、特に炎上したわけでもないのにスレが立ってる類の……古式タンとかの楽しまれ方の系譜じゃないかと……。メチャクチャ五目並べが下手とか日本語が読めないこととかが面白がられていたわけで、いまも基本はそういうものなのかなと思います。
     


    ▲永井先生の五目並べ(かちました)
     

    ▲永井先生過去作品55連発
     
    石岡 いや、近所にスロットを売ってる店があるんですけど、「これを買ったら永井先生になってしまうんだろうか……」とか思うわけです(笑)。しかし、最近の状況を見ると、一種のリアリティショーみたいになっている感じなんですかね。この人が生きているというだけでサバイブ感があるというか。
    青山 ただ、初期の実況者が出てきたキッカケとして、間違いなく永井先生は大事だと思いますよ。実際、みんなあんなに見ていたわけじゃないですか。だって、ああいうふうに好き勝手に喋って、それに反応したコメントが大量に流れてくるわけですよ。「あー、やっぱり永井先生は馬鹿だなー」とか「凄いなー」とか。そういった送り手と受け手がいて、言葉と文字のコミュニケーションが数万人単位で行われるのって、当時としてはとんでもなく珍しくて、超最先端だったわけです。まだニコニコ生放送もなかったですしね。
    そもそも初期の実況者って、まだゲーム実況って何? みたいな時代に、小説を書くでもなく、日記を書くでもなく、でも何か俺には喋りたいことがあるという人が単に表現の場として始めたところがあるんですよ。
    石岡 要するに、まだ彼らはそこに暮らし始めただけだったわけですね。……ちなみに、なんかいま永井先生のニコニコ大百科を見たら"ブロントさん"(ブロントさんとは - ニコニコ大百科)と隣接して扱われていて(笑)、その象徴的意味合いを考えておりました。あれですよね、有名コテハンとか、文章の特徴ですぐ特定される厨房とか、そういう愛されキャラの系譜なんですよね。
     
     
    ■ ゲーム実況の歴史――3.黎明期~成熟期:クリエイターの台頭
     
    稲葉 そうして2007年のニコ動の大ブームの中でpeercastのような場所からニコニコ動画への移行が起きて、ゲーム実況は大人気ジャンルに育っていったわけですね。ボカロのように表立って語られることはなかったですけど。
    で、たぶんここから2011年くらいまでが、おそらくここにいる人たちが最も熱狂的に見た時期なんじゃないかなと思うんです。ちなみに、2011年に出た青山さんの本では、ゲーム実況の成長過程を「黎明期」「成長期」「成熟期」などに時期区分をしていらっしゃいましたよね。
    青山 ああー、そんな分類をしましたね。
    大体、2007年から2008年の夏くらいまでで、ひと通り有名なゲーム実況者が出揃うんです。この頃は、まだ単純にゲームをしゃべりながらプレイしているだけの動画スタイルがほとんどでした。それが、2008年の秋あたりから「垂れ流しだけじゃいかんぞ」という風潮になりました。ラジオもやる、編集も字幕も入れて、効果音や音楽も入れるぞ、となる。どんどんクリエイター気質になっていったんですね。
    稲葉 少し当時のネット全体の雰囲気を思い出すと、Twitterが日本で本格的に普及し始める前夜なんですよね。Twitterがどんどんリアルタイムの情報取得ツールとして使えるようになってきて、Ustreamも使われだして、その空気の中でニコニコ生放送も2008年末にユーザー開放されていく。いま思えば、そういうリアルタイム性の強い「だだもれ文化」の台頭の中で、動画投稿で表現することのアイデンティティが問われだしたのかな、と思います。
     

    ▲【マリオ64実況】 奴が来る 壱【幕末志士】
     


    ▲【ゆめにっき】何も知らない友人に無理やり実況させてみた 第一夜前半
     
    実況者という点で象徴的なのが、ボルゾイ企画と幕末志士が2008年の11月に登場してきて、M.S.SProjectと最終兵器俺達が――まだ当時は人気はなかっただろうけど――2009年に初投稿していることですね。企画性が強くなって、キャラクター性で勝負する人たちも出てきて……という。
    青山 なんとなく、自分の表現したいことを表現している人たちが人気になってきて、ここは凄い場所なんじゃないかという雰囲気が、2008年の秋以降に起きてきたんです。で、2009年辺りからは「よし、ワンチャン俺も」という人たちが登場してきた。
    稲葉 MSSPって、現在はもう一番人気ですし実は僕も大ファンなんですけど(笑)、やはり元々は自分たちの音楽活動を知ってもらうために……という動機ですからね。そういう意味では典型かもしれないですね。
     
     
    ■ 「ボルゾイ企画の神格化を進める座談会ですか(笑)?」(石岡氏)
     
    稲葉 最近、『青鬼』の映画化が話題になっているけど、あれって怖ろしいことに、この時期のボルゾイ企画の実況動画から始まった人気じゃないですか(笑)。歴代の総合ランキングでも上位に来ている、ニコニコ動画の中でもレジェンド級の動画だと思うのですが。
     

    ▲【青鬼】絶叫に定評のある友人に無理やり実況させた【実況】part1
     
    それで思い出すのが以前に、はるしげさんが「"ボルゾイ企画"以前/以降」があるとトークイベントで話していたことなんです。
    青山 実はボルゾイ企画って当時、新しい実況者という扱いだったんですよ。ボルゾイより前にゲーム実況を始めていた人たちがいわゆる「古参」と言われてたんです。まあ、時代は流れて、いまはボルゾイも古参なんですけどね(笑)。
    石岡 僕の記憶では、ボルゾイは「キャラ性」が異様に強かったんですよ。お互いにいじり合うような感じとかもあって、そういうシチュエーションの面白さのようなもので見せるのは、確かに現在のシーンの黎明と言えるかもしれないですね。
    青山 女性のファンが多かったです。掛け合いでの関係性の面白さもあったし、イケボイスで格好いいことも言う。しかも、ホラーゲームをやってびびってる姿が、ちょっとカワイイ。
    稲葉 確かに、初期の実況者って基本はぎゃあぎゃあ言って遊んでたり、あるいはぶつぶつ呟きながら黙々とゲームしてる感じですからね。トークショー的な面白さは別にないですよね。
    石岡 確か『ゆめにっき』の実況もボルゾイですよね。あれってホラーフリーゲームの実況シーンの原型ですよ。遡ると、どうしてもそこに行き着く。
    青山 まさにそうです。ボルゾイの『青鬼』と『ゆめにっき』の実況が重要です。現在のフリーゲームの流行自体が、そもそもここから来ていると思います。
    稲葉 つまり、ゲーム実況における一つのスタイルを確立すると同時に、メジャーシーンからも注目を浴び始めているホラーゲーム人気の始まりにもなっているという。いまや映画化ですからね。
    石岡 この座談会は、ボルゾイの神格化を進める座談会ですか(笑)? 
    もちろん、神格化はしなくていいと思いますけど、確かに『電車男』の時はマスコミレベルで食いついたけど、本当は『青鬼』の方がよっぽど異常なことが起きているのに気付かれにくいという問題はありますね。やはり、ゲームというのは現在でもオールドメディアの人にはわかりにくいんでしょうね。
    稲葉 あの辺りのホラーゲーム実況って、普段わざわざ話題にのぼらないだけで、実は結構な数のネットユーザーが見たことがあるんですよ。再生数を見れば当たり前なんですけどね。有名ボカロ曲とかなんかよりずっと多いわけですから。
     
    【参考】カテゴリ合算 合計 総合ランキング -ニコニコ動画:GINZA 
    http://www.nicovideo.jp/ranking/fav/total/all
     
     
    ■ ゲーム実況の歴史――4.現在:スター化と女性人気の本格化
     
    稲葉 だいぶ駆け足に見てきましたが、ここからが現在の状況ですね。たぶん、ニコニコ動画に限定してゲーム実況を見るならば、顕著な傾向は一部のゲーム実況者の「スター化」になると思うんです。これに関しては、やはり運営による公式生放送で、ゲーム実況が取り上げられ始めた影響が大きかったと思うんです。
    青山 そうでしょうね。最初は、2012年の1月の「DARK SOULS60時間実況」の公式生放送でした。ここからゲーム実況の人たちがニコニコの公式生放送に出てくる流れができました。それまでは、やはり本当になかったですよ。
     

     
    稲葉 で、その流れを決定的にしたのが、たぶん同年4月に開かれたニコニコ超パーティで、3Dミクも含めてステージに立った全出演者で一番人気だったのが最終兵器俺達だったという事件(笑)だと思います。いまは一番人気はマックスむらいさんですか?
    青山 たしかに、マックスむらいさんは、今のニコニコの生放送においてかなり人気だと思いますね。だって、この間チャレンジ企画をやったら、2時間で約100万人の視聴者が来ましたからね。
    石岡 えー、100万人!? それはちょっと凄いな……。
     

     
    稲葉 確か、先日のAKB総選挙の中間発表でも、そこまで行ってないですよね。ニコニコとの相性の問題はあるとはいえ、異常な数字ですよね。
    ただ、「スター化」のような状況が起きている一方で、実は2008年頃からゲーム実況に熱狂していたネットオタクたちは、むしろ最近はゲーム実況のメインストリームから離れ気味な印象なんです。
    少なくとも、現在イベントなどで人気を博している、MSSP、最終兵器俺達、チーム湯豆腐あたりって、彼らとは全く異なるユーザー層の、特に必ずしもゲーマーではない女性ユーザーの人気が膨れ上がっている。彼らのイベントに行くと実際、女の子ばかりじゃないですか。しかも、その人気のあり方も結構アイドル的で、ちょっと「疑似恋愛」的なんですよね。ほとんどの人が顔出ししてないのに。
    例えばこの間、つわはすさんの誕生日があったのですが、そのときに上がった動画がこれです。
     

    ▲【実況】つわハッピ.ーシン.セサイザ【手描き】
     
     
  • 【新連載】 稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第1回「神の降臨で2ちゃんねるは変えられるか」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.130 ☆

    2014-08-07 07:00  
    220pt

    【新連載】
    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』
    第1回
    「神の降臨で2ちゃんねるは変えられるか」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.4 vol.127
    http://wakusei2nd.com


    ネット文化をウォッチし続けてきた稲葉ほたてさんが、ついに月イチで連載を開始。『ウェブカルチャーの系譜』と題して、インターネット以降の「文化」を問い直します。

    ■ 「なりきり」文化に見るウェブカルチャーの祖型
     
    筆者がいつもインターネットの文化――特に日本のそれについて考えるときに、必ず思考が戻っていく場所がある。それは「なりきり」と呼ばれる文化圏の存在である。まずは、そこから話を始めてみたい。
    ……と言っても、多くの人はそれを知らないに違いない。筆者にしても存在だけはずっと知っていたが、実際にハマったことは一度もなかった。そうした文化圏の詳しい姿を知ったのは、会社勤めの合間に同僚と始めた同人電子書籍の取材の中で、そのヘビーユーザーだった子から話を聞いたことである。
    「なりきり」とは、一言でいえば自分ではない別の人物になりきって、ネット上でコミュニケーションを図る行為だ。その人物とは、具体的な知人の誰かなどではない。多くの場合は有名なアニメや漫画などのフィクションのキャラクターであり、ときには人気アイドルなどのリアルの人間になりきることもある(いわゆる"ナマモノ"である)。また、少数ではあるが、オリジナルキャラクターを用いた「なりきり」も存在している。
    ここまで読んだ多くの人がお気づきのとおり、この文化は法的な意味で少々デンジャラスである。二次元のキャラクターになりきるにしても著作権の問題が浮上してくるし、三次元ともなると肖像権の侵害という問題が発生してしまい、「なりすまし」との境界線という問題が浮上してくる。故に、基本的には注意深く「検索避け」が施され、表の世界には出てこないようユーザー自身が極めて自制的に行動している。
    また、そんなややこしい問題以前に、なりきりのユーザーは大半が思春期の女の子であることもあって、当人たちとしては"お察しください"な行動の見本市であり、当時のことは黒歴史として固く口を閉ざすべき存在になっている人ばかりである。そんな感じだから、もはや市民権を得た感すらあるBLや、あまり表には出ていないが意外にも話したがる人の多い夢小説のような他の同人サイト文化とは違い、気楽な同人での原稿のわりにはかなりセンシティブな配慮をしながら話を聞かざるを得なかったのが印象深いのだが、そんな取材の中で一つ大変に興味深いことがあった。
    それは、ほとんど全てのネット上の表現メディアにおいて、この「なりきり」の文化が存在していたことである。
    例えば、最も有名なのは、キャラクターになりきってチャットを行う「なりきりチャット」である。これくらいは名前を聞いたことがある人も多いかもしれないが(ちなみに、実際に見に行ってみると、チャットというにはかなり物語性の高い長文の応酬が行われており、むしろリレー小説に近い)、他にもブログを用いた「なりきりブログ」、メルマガスタンドを使った「なりきりメルマガ」、HPを用いた「なりきりサイト」、さらにはmixiをつかった「ナリミク」に、最近では(実はネタアカウントとしての流れもあるのでそことの切り分けが必要だが)Twitterをつかった「なりきりbot」、さらにはLINEをつかった「なりきりLINE」まで……もはや枚挙にいとまがないのでこれ以上はやめるが、つまりは一定規模のユーザーが使っているツールやプラットフォームには、必ず「なりきり」は存在していると断言してよいくらいだ。
    こうしたユーザーの行動というのは、インターネットの大前提に根源的に逆らったものである。そもそもインターネットという場所は、その成り立ちからして人間がそこに「演技」や「フィクション」などの「嘘」の言葉を記すことを前提としていない(故に「虚構新聞」のような嘘サイトはその倫理を常にユーザーから問われるのだ)。ネットの検索流入の巨大な部分を占めるGoogleが自ら公開している検索評価のガイドラインでも、あたかもそんな表現活動はインターネット上に存在しないかのように記されている。
    だが、それにも関わらず、この「なりきり」という行為を行うユーザーは、検索避けなどで周到に公の目から隠れながら、必ず登場してくる。おそらくは、どのような意図のもとに作られたプラットフォームであろうとも、それは逃れられない。たとえアカウントを用いない匿名のサービスであっても(※)、おそらくは人の手による「表現」を投稿する機能を搭載している限りにおいて、「なりきり」のユーザーは必ずぽこぽこと現れてくる。ネットサービスという場所を与えられたときに、ある種の人間たちが必ず始めてしまうのが、この「なりきり」という行為なのだと言ってよいだろう。
    (※)2ちゃんねるにも「なりきりネタ」の板が存在する。
     
     
    ■ 設計・運営・文化という基本ユニット
     
    いきなりマニアックな話から始めているが、別に筆者はここで「なりきり」の話をしたいわけではない。ただ、インターネットの文化を考えるときに、筆者はこのような場所から出発するしかないように感じているのだ。もちろん、別に人間の黒歴史的などろどろとした欲望を探求せよという話をしたいわけでもない。ただ、思考の立脚点として、言説の足場の問題として、こういう場所から始めるのが必要だと思うのだ。
    例えば、現在このPLANETSメルマガでは、メディアアーティストの落合陽一さんと、楽天執行役員で『ITビジネスの原理』著者の尾原和啓さんの、ウェブを含む現代のITについて考える連載が始まっている。おそらくITに対するこの2つの連載とこの連載を比較するのが、(このお2人と自分を比較するのはあまりに僭越かもしれないが)筆者の立場が最もわかりやすいかもしれない。なぜなら3つの連載は互いに補完する関係でありながらも、大きく異なるものになっていくはずだからだ。
    落合陽一さんの『魔法の世紀』の場合は、初回の連載でも記されているようにコンピュータの作動原理から、21世紀の文化を広く規定する「構造」を記述するものだ。それはビジネスにとどまらず、文化、ひいては人間の意識に至るまで規定するのだと彼は語る。この立場を、テクノロジーの設計の水準にまでさかのぼって原理的な記述を試みるという点で、仮に「設計主義」と呼ぶことにしよう。一方で尾原和啓さんの『プラットフォーム運営の思想』では、いかにして運営者がIT技術を駆使しながら、プラットフォームの運営を行っているのかがわかる内容を目指している。それは運営者目線でインターネットを見ていくということだから、これをまた仮に「運営主義」と呼んでみる。
    では、筆者はこの「設計主義」と「運営主義」という極めて強い説得力をもつ立場である二つの連載に対して、どのような立場からインターネットについて記していくというのか。
    それは、さしづめ「文化主義」とでも言うべき立場かもしれない――と思う。つまり、インターネットの設計思想を無視して、運営者の意図さえも食い破っていく、まさに冒頭の「なりきり」ユーザーのような人々が担ってきた文化のダイナミズムのような場所から、インターネットを見てみたいのである。
     
  • これからの「カッコよさ」の話をしよう ——ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.128 ☆

    2014-08-05 07:00  
    220pt
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    これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、 プロダクト、そしてカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.5 vol.128
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガは、建築家の門脇耕三さん、インテリアデザイナーの浅子佳英さん、そして宇野常寛を交えた鼎談を掲載します。テーマはこれからの「カッコよさ」について。ユニクロを代表とするファストファッションに隠されたイデオロギーとは? そして、男子のカッコよさが向かう未来とは――?▼プロフィール
    門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。建築構法、建築設計、設計方法論を専門とし、公共住宅の再生プロジェクトにアドバイザー/ディレクターとして多数携わる。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:池田明季哉、中野慧
     
     
    ■六本木には「カッコよさ」が必要だ――文化を更新するために
     
    宇野 今日は「これからのカッコよさの話をしよう」ということで、ごく私的に声をかけてお二人に集まってもらいました。なんでいきなりこんなことをはじめたかという話からしたいのですが、きっかけは先日僕が登壇したイベントのあるパネラーの発言です。それはどんな発言かというと、「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」というものなんですよね。
    僕はこの発言を耳にしたとき、正直愕然としたんですよ。その人は「痩せっぽちな人間や太った人間がどんな服を着ても似合わない」とか言うわけですが、それってほとんどナチスの五体満足主義と変わらない。自分が障害をもっていたり、健常者でも60代や70代になって筋力が落ちてきたら絶対にそんなことは言えないと思うんですよね。こんな発言が「リベラル」を自称する知識人から出てしまったことに、軽いめまいがした。
    そしてもうひとつ。この五体満足主義的なナルシシズムは文化的にあまりにも貧しい発想なんですよね。だってどんな体形の人間でも工夫次第でカッコよく、かわいく、あるいは気持ちよく過ごせるということがファッションの本質だし、それがなければファッションというか、文化自体が無意味なはずでしょう。でも、その場ではみんな「なんていいことを言うんだろう」みたいに頷いていた。それを見て、これは本当にどうにかしないといけないと思ったんです。
    最近、僕は自分のお客さんが、比喩的に表現して中央沿線や代官山、中目黒といった東京西部と六本木が代表する都心のど真ん中、どちらにいるのかをすごく考えているんです。中央沿線や代官山というのは、戦後的な中流文化の、とくに90年代以降の「文化系」の象徴ですね。こうした東京西部の「いい街」には戦後的な文化が残っているけれど形骸化して久しい。仕事ができない編集者ほどゴールデン街で飲みたがる。「本や映画が好き」なんじゃなくて、「本や映画が好きな自分が好き」なだけな人たちですね。
    対して六本木側に集まっているのはITや外資など、この二十年優秀な人たちがどっと流れ込んでいったジャンルが強い。彼らは、地頭が良くてポジティブで学習意欲も高くいけれど、壊滅的に話がつまらない(笑)。学習意欲も高くて、セミナーや勉強会が大好き。とにかく「自分のパフォーマンスを引き上げる」ことには一生懸命だけど、引き上げたパフォーマンスで何をやっていいかわからない。なんでそうなるかというと、彼らは効率化が得意だけれど、文化がないからですよ。
    そしてあの日、例のイベントで例の五体満足主義発言にうんうん肯いていたのは、見事にこの六本木クラスタだった。要するに、自分の外側に大事なものがない空疎なナルシシストは、あっさりと五体満足主義的な差別者になってしまうってことなんですよね。
    実は僕が東京で7-8年活動して出した結論は、自分の読者層としてはとりあえず後者に賭けようということなんです。前者は底に穴の開いた洗面器のようなものなので、いくら水を注いでも意味がない。だから今は文化的に貧しくても、後者の高い学習意欲に応えようと思って、そのイベントも意図的に六本木系が集まる場所とパッケージングで開催したのだけど、彼らが単に文化的にスカスカなだけじゃなくて、諸手を挙げて、先述したような排他的なナルシシズムに結びついてしまうことがわかって、正直ぞっとしたんですよね。
    少し解説を加えると、六本木的な、あるいはその参照元のアメリカ西海岸的な文化というのは、計算で設計主義的に「良い生き方」や「正しいあり方」を規定できると考えているところがある。でもそんなことは本当はありえなくて、究極的にはオカルトと結びついてしまい、五体満足主義や優生思想と結びついた危険なイデオロギーに至ってしまう。これは彼らのルーツにニューエイジ思想があるから。ニューエイジというのは要するに疑似科学で複雑化して拡散した社会の全体性を記述できる、という発想ですからね。それがテクノロジーを根拠に「よい生き方」を規定できるという発想に結びついている。先日のイベントでの五体満足主義への支持も、これに近いものがある。
    ただ、こういったものに対抗する言論として「文化というのは計算不可能なものだ」「計算不可能な他者に出会うためにリアルに回帰せよ」という東京西部的なアナログ懐古主義は頭が悪すぎる。どう考えても、この10年余りのデジタル文化はアナログな人間のコミュニケーションや自然環境を究極の乱数供給源としてむしろ積極的に利用することで、文化的多様性を育んで発展しているわけでしょう? アナログとデジタルがむしろ結託している今、東京西側的な考え方に戻っても意味がない。
    問題はむしろ、現代のデジタル文化がもつ文化的な多様性を、西海岸カルチャーを歪めて受け取った六本木の意識高い系たちがきちんと消化できずに、五体満足主義に傾いて文化を否定する方向に傾いていることだと思うんですよね。
    浅子 僕は「効率を求めること」自体は間違っていないと思うんです。実際にそれで豊かになるということもある。でも計算可能であるというスタンスのどこかに、自分はこれが好きだとか、カッコいいと思えるものがないと、結局は保守的なものに回帰してしまう。すごく古い肉体的な価値というか、たとえば「顔が男前なやつがかっこいい」といった観念に囚われてしまう。僕は宇野さんの言うニューエイジ的な考え方が、保守回帰に繋がるのが怖いんですよね。そうなると文化的にも面白くなくなってしまうから。
    宇野 一応、断っておくと僕は六本木系のスタイル、つまりシンプルで効率的なライフスタイルの美学というのはよくわかるんです。僕自身、いつも夏はTシャツと短パンで過ごしているし、その服も基本的には無印良品とユニクロとH&Mでしか買わない。それも安いからではなくて、飾り気のない、シンプルなデザインのものが好きだからですしね。交通事故にあってやめてしまったけれど自転車ももともと好きだし、生で食べてもおいしい野菜を取り寄せて食べるのも大好きで、そういった生活を気持ちがいいと思っている。ただその美学を肯定するロジックが、身体論というマジックワードを盲目的に振りかざす五体満足主義や優生思想しかないというのは、非常に問題だと思うんです。もっとそういったシンプルライフを、カッコよさとか、気持ち良さの次元で肯定する言葉が必要なんですよ。つまり「(身体を鍛えることこそが究極のおしゃれなので)ユニクロでもいいんだ」というのではなく、「(シンプルな)ユニクロのデザインがカッコイイんだ」という論理じゃないといけないと思う。実際に、僕はそう思っているし。
    門脇 いまの話は時代的な位置付けも踏まえて理解した方が良いんでしょうね。いまのカジュアルとかつてのカジュアルはだいぶ違った状況に置かれていると感じます。かつては「フォーマル」というものが厳然として成立していたからこそ、敢えてカジュアルな格好をすることがカッコ良かった。でも今は、「絶対にフォーマルな格好をしなくてはならない」という場面がどんどん少なくなっています。現在のユニクロ的なるものの隆盛は、「フォーマルが瓦解している」という状況とも関係しているのではないでしょうか。
    浅子さんは、スーツはあと十年以内に滅びるってよく言っていますよね。「滅びる」というのは比喩的な表現だとは思いますが、スーツを着なくてはならない場面が極端に少なくなるだろうことは間違いない。スーツはある意味での様式であって、「クールビズ」といった考え方に代表されるように、それを着ることが必ずしも合理的ではないからです。シンプルライフ的な志向は、スーツのような封建的でフォーマルな形式から「より合理的に、自由に生きよう」というマインドへとシフトしたことによって起こっている側面があるのは間違いないと思います。「ノームコア」(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと)のような、シンプル・イズ・ベストを極端に進めたトレンドの存在もそうした流れの上にあるのでしょう。でも、それは宇野さんが指摘するように、優生学的な流れに合流しかねない危険も孕んでいる。一方でモード・ファッションでは、「ありのままの身体」を肯定する動きが主流で、「理想的な身体」を仮定することに警鐘を鳴らすような試みが常にありましたよね。
    浅子 有名な話ですが、コム・デ・ギャルソンの服に、瘤(こぶ)のついたドレスがあったんです。囚人服みたいで背中や腰に瘤がついているんだけど、ドレスになっているというもの。あとは背の低い人やおじいちゃんのモデルを使ったりもしていました。それ以外にも当時アヴァンギャルドと呼ばれていたファッションブランドは、普通だったらファッションの俎上に上がらないような肉体に対して美を見出す方法論を構築していた。でも今は、そういった流れがスコーンと全部抜けてしまっていますよね。
     

    ▲コム・デ・ギャルソンの「こぶドレス」
    出典
    http://munstylisti.jugem.jp/?month=201101
     
    門脇 今はモードの影響力が小さくなっているように感じますね。
    浅子 売れなくなってしまったんですよね……。だから結構いろんなことが重なってこういう状況になっている、というのはあるかもしれません。
    僕は最近、インテリアツアーというのをやっているんですよ。そこでいろんなお店を一年間くらい見て回りました。高級なアパレルブランドや、高級な家具屋さんも見に行ったのですが……90年代やゼロ年代の初頭に比べると、全然お客さんがいないんです。こういった場所も、それこそスーツと同じように、20年くらいでほとんどが市場から退場してしまうんだろうなと肌で感じました。
    宇野 昔だったらボーコンセプトで買わなければいけなかったものが、全部イケアとニトリで買えるようになってしまいましたからね。
    浅子 しかもイケアとニトリの商品がそれほど粗悪なものかというと、そうではない。確かに比べればモノとしては高級な家具屋さんの方がいいけれど……。
    宇野 価格が1/6とか1/8ですからね。
    浅子 そう、だからそれはそれで構わないのではないか、というのも一方ではあります。でも自分の好きな文化ですからね。以前はそういうお店のダメな所を見ても「こいつらダメだな」と言っていられたんですが、今はこのままだと本当に滅んでしまうという危機感が強くて、どう守るかという方に考えが反転しています。
     

    ▲ニトリの家具
    出典:公式サイトより
     
     
    ■空虚なパロディとしてのカフェ風デザイン――FABが作るべき未来
     
    浅子 あと、つい最近、「インテリア特集」という小さな冊子を作ったんです。その序文に、90年代以降のインテリアデザイン、特にブティックのデザインについて書いたんですが、インテリアデザインの流れを90年代から整理してみたんです。
    まず90年代の最初は、80年代のバブルやポストモダンへの反動からミニマルが流行りました。今も建築家として活躍しているジョン・ポーソンの作品や、カルバン・クライン、ジル・サンダーのような、線が少なくてシンプルなデザインが流行したんです。
    それが90年代の半ばから大きな変化があるんです。ミレニアムという世紀の変わり目であることから近未来的でフューチャリスティックなデザインが求められたことに加えて、90年代の不況がITバブルなどの影響で回復したこと、さらにそこに大流行したミニマルの反動で少し面白いデザインが欲しいという流れが合流して、90年代半ばから2000年代の半ばにかけて、すごく多種多様な面白いデザインのブティックが一気に出てくるんです。フューチャー・システムズが手がけたコム・デ・ギャルソンのインテリアもそうだし、ルイ・ヴィトンもそうだし、ヘルムート・ラングもそうです。
    なぜ急にブティックのインテリアデザインが多様化したかというと、やはりインターネットの登場が大きかった。それまでブティックというのは、実際に足を運べる人だけが見られるものでした。でもインターネット以降は、ブティックを作るとそれがプレスリリースや雑誌やオンラインの記事になって、写真がその日のうちに世界中で見られるようになった。だから空間を作ることそのものが、そこに行ける人だけでなく、そこに行けない人たちへの広告にもなるようになったんです。だから各メゾンはこぞって大きな投資をして、自分のブランドの価値を上げるためにいろんな実験を行った。
    でも悲しいことに、2001年に9.11が起きてしまった。非常に社会が不安定になり、旧来の価値が破壊された結果、反動で価値観自体が保守化してしまうんです。さらにリーマンショックなどで景気が悪くなったこともあって、雑多な多種多様なデザインというものを、だんだん許容することができなくなっていく。だから2003年くらいまではすごく面白いのに、ゼロ年代後半にかけてインテリアデザインは不毛の時期を迎えて、すごくつまらなくなっていくんですよ。
    門脇 それはファッションそのものの流れとも連動しているんでしょうね。同時多発テロ以降のファッションは、「安心感を求める人々の心を反映するように、天然繊維、手仕事への傾倒、あるいはTシャツを代表とする合理的な定番服など、人々の見慣れたファッションを提示し、ファスト・ファッションと呼ばれる合理性に基づいた安価なコピー服を世界規模で広げた」という指摘もあるようです(※新居理絵「ヘルムート・ラングとその創造的世界」(『ドレスタディ』Vol.56)参照)。
    浅子 そうなんです。ではその流れで今のインテリアデザインを見るとどうか。街を見て貰えればわかると思うのですが、Tシャツやチノパンと共に食器を売るような、「ライフスタイルショップ」というのがすごく増えています。でもそれらのインテリアのデザインは、躯体を残して仕上げを剥がし、足場板をどこかに貼って、手描きの金文字のサインをガラスに書き、最後に工場で使われていたようなアンティークのスチールのペンダントライトをぶら下げて終わり、みたいなものばかりです。結局これらは全て、「輝いていた50年代のアメリカを取り戻そう」というパロディで、本当にパッケージが保守化しているんです。そういうことがブティックやカフェで同時に起きている。これは価値観自体が新しくないし、さすがに不毛だと思います。
    門脇 日本の今の流れも長引く不況や東日本大震災から来る保守化の流れに位置付けられるのでしょうか。
    浅子 この先10年くらいこれが続くと思うと、デザイナーとしては正直うんざりしますね。
    宇野 荻上直子監督の『かもめ食堂』の世界ですね。言わば「北欧おばちゃんニューエイジ」というか……。なんだろうなあ、僕自身はスローフード的な暮らしはすごく憧れる。でもあの映画を支配する強烈なイデオロギーというか、無言の排他性がどうしても苦手で……。ライダーキックで破壊したい(笑)。
    浅子 でもあれが中目黒とかでは強いんですよ。まさにああいうカフェが山ほどありますから。
    門脇 カフェ風というか、ああいった自然素材や古びたものを適当にパッチワークしていくものって、すごくまずいと思うんですよ。
    あるとき赤坂の草月会館であった建築界の重鎮たちのパーティに呼んでもらったことがあったんですが、それがすごく80年代的な空気だったんですよ。天井はミラー張りだし、カウンターにはシャンパンが注がれたシャンパングラスがきれいに並んでいるし、「ああ、バブルってこういうことだったのか」みたいな感じ(笑)。
    でもそのスタイルが、すごくかっこいいなと思ったんです。もちろん今の時代とは感覚がズレています。でも、そこには彼らの世代が何をカッコイイと思っているのかがしっかりと表象されている。それは空間のデザインばかりでなく、来ている人のファッションや、パーティでの振る舞いなども含めて、あるトータリティを持っていて、「人はこうやって生きるのがカッコイイ」という人生観というか、哲学のようなものを感じさせるものでした。だからああいう空間を含めたトータルなカッコよさを、僕たちの世代が残せないと負けだなと思いました。そう考えたときに、古びたもので安心してしまうのはまずいだろうと。
    浅子 そう、だから今こそ「これがカッコいいんだ!」というものが必要なんですよね。
    僕がいますごく重要だと思っているのが、80年代に活躍したフランス人のフィリップ・スタルクというデザイナーです。彼はホテルのインテリアデザインなどを手がけたのですが、僕は彼のやったことの本質って「デザインの民主化」だったと思うんです。
    スタルクの手がけたインテリアデザインがどのようなものだったかというと、ものすごく大きい4mくらいあるようなわざとらしいぐらい豪華な鏡を立てかけるとか、必要ないくらい大きなドレープのカーテンをぶら下げてみるとか、あるいはそれまでは同じ椅子を並べるのがセオリーだったホテルのロビーに、全て違うデザインの椅子を並べる、というようなものだったんです。そこでは世界各国の有名デザイナーの椅子と、土産物屋で買ってきたような椅子が等しく並べられていた。
    インテリアデザインというのは、突き詰めると、どうしてもどこかで権威的になってしまうものです。でもスタルクはその価値を転倒させて、民主化しようとした。そういった意味で、すごく重要な役割を果たしたデザイナーです。
    これを踏まえた上で今後のことを考えると、デザイナーの役割が見えてくると思うんです。今、レーザーカッターや3Dプリンターの普及によって、FABと言われるようなムーブメントが流行していて、デザイナーでない一般の人たちが、自分でモノを作れるようになっている。これはスタルク以降のデザインの民主化の流れにある運動だと言える。この流れは止められないし、今後の大きな流れのひとつになるのは間違いない。でも、一般の人たちというのは、ともすると「これがカッコいい」という思想がないまま、例えば雑誌で見たものをそのまま作ってしまうので、価値観の転倒どころか逆に保守回帰してしまう。これは非常に問題です。だから今こそ「一般の人たちがカッコいいと思えるようなもの」を、デザイナーは作らないといけないんじゃないかと思うのです。
     

    ▲スタルクによるインテリアデザイン
    出典:Stark.com
     
     
    ■「もしデザイナーズブランドとユニクロの服が同じ価格だったら、ユニクロを買う人のほうが多いのではないか?」
     
    宇野 さっきも言ったけれど、僕はユニクロや無印良品、H&Mをなぜいいと思うかというと、そこに美学を感じるからなんです。ファストファッションは効率化と最適化の産物だと思われているけど、当然そこに実は美的なイデオロギーが存在する。ファストファッションをデフレカルチャーの一端として切り捨てるのではなく、その明確な思想に基づいたデザイン自体をしっかりと分析することが必要なんじゃないかと思うんですが。
    門脇 まず無印良品に関して僕の雑感を言うと、男子のファッションはきれいめなお父さんスタイルという感じで、まったく惹かれません。でも女子は意外といい。ファッション雑誌でいうと90年代のオリーブ・anan系の価値観を色濃く受け継いだような感じがして、ある種のコスプレとして成立している。無印好きそうな女子のスタイルって想像できますよね? ちゃんとスタイルになっているんです。
    宇野 無印良品には、高度消費社会に対してこれくらいの中距離で行きましょう、という明確なメッセージがありますよね。あの白と黒とネイビーしか使わないデザインが、そうした強力なイデオロギーに基づいていることは誰の目にも明らかです。あれは非常に分かりやすいでしょう?
    無印良品だけではなく、ユニクロにもそういったイデオロギーがあると思うんですよ。だからデザイナーの固有名詞で語るようにユニクロを語ることだってできるはずなんです。そういった視点を持てずに、デザイナーズブランド対ファストファッションみたいな問題の立て方をしてしまうところに弱さがあるのではないか。
    浅子 ただ、一応言っておくと、ファストファションについては剽窃、パクリの問題がありますよね。あるファストファションはコレクションでめぼしいものをピックアップして彼らが売る前に店頭に出してしまうというのも言われています。これは流石に問題です。
    また、ユニクロはTシャツとかフリースとか、どちらかというと生活必需品に近い、生活に必要な洋服で売り上げを伸ばしたブランドというイメージはありますけどね。だからカラーバリエーションがあるということ自体が圧倒的に重要で、必要なものしか買わない人たちにも色を選ぶという意味でファッションに必要な喜びを与えたからすごく成功した。
    宇野 色の問題一つとっても、ユニクロにせよH&Mにせよ、日本だとそれまでスポーツウェアとかアウトドアウェアでしか使わないようなのような蛍光色や派手な色を取り入れているわけでしょう? 単に安いからではなくて、僕はユニクロにしかないものを求めているつもりなんですよね。色合いだけじゃなくて、デザインや着心地にも同じことが言えるんじゃないかと思う。要するに固有名詞のデザイナーが、ユニクロのデザインに、単に勝てていないだけなのではないでしょうか。実は同じ価格でもユニクロを買う人が結構いるんじゃないかというのが僕の仮説です。ユニクロのデザインも、単にデフレジャパンのスカスカのものとしてではなく、イデオロギーとして支持されているんですよ。
    門脇 僕は服を見るとき発色とかをけっこう気にする方なんですが、ユニクロはよく見るとかなり独特の色使いをしているせいだからなのか、そんなに気にならないんですよね。