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  • 【再配信】これからの「カッコよさ」の話をしよう ——ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆

    2015-02-14 17:30  
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    【再配信】これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、 プロダクト、そしてカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.14 号外
    http://wakusei2nd.com


    「ほぼ惑」では不定期で過去の好評記事を再配信中! 今回は昨年8月に配信した、建築家の門脇耕三さん、インテリアデザイナーの浅子佳英さん、そして宇野常寛を交えた鼎談をお蔵出しします。
    テーマはこれからの「カッコよさ」について。ユニクロを代表とするファストファッションに隠されたイデオロギーとは? そして、男子のカッコよさが向かう未来とは――?
    なお、この「カッコよさ」鼎談シリーズの第3弾「住宅建築でめぐる東京の旅」が今月末に配信予定です。戦後の住宅建築の名作をまわりながら、「住まい」のデザインと機能について考えます。そちらもお楽しみに!
     
    ▼プロフィール 門脇耕三(かどわき・こうぞう)
    1977年生。建築学者・明治大学専任講師。建築構法、建築設計、設計方法論を専門とし、公共住宅の再生プロジェクトにアドバイザー/ディレクターとして多数携わる。
     
    浅子佳英(あさこ・よしひで)
    1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
     
    ◎構成:池田明季哉、中野慧
     
     
    ■六本木には「カッコよさ」が必要だ――文化を更新するために
     
    宇野 今日は「これからのカッコよさの話をしよう」ということで、ごく私的に声をかけてお二人に集まってもらいました。なんでいきなりこんなことをはじめたかという話からしたいのですが、きっかけは先日僕が登壇したイベントのあるパネラーの発言です。それはどんな発言かというと、「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」というものなんですよね。
    僕はこの発言を耳にしたとき、正直愕然としたんですよ。その人は「痩せっぽちな人間や太った人間がどんな服を着ても似合わない」とか言うわけですが、それってほとんどナチスの五体満足主義と変わらない。自分が障害をもっていたり、健常者でも60代や70代になって筋力が落ちてきたら絶対にそんなことは言えないと思うんですよね。こんな発言が「リベラル」を自称する知識人から出てしまったことに、軽いめまいがした。
    そしてもうひとつ。この五体満足主義的なナルシシズムは文化的にあまりにも貧しい発想なんですよね。だってどんな体形の人間でも工夫次第でカッコよく、かわいく、あるいは気持ちよく過ごせるということがファッションの本質だし、それがなければファッションというか、文化自体が無意味なはずでしょう。でも、その場ではみんな「なんていいことを言うんだろう」みたいに頷いていた。それを見て、これは本当にどうにかしないといけないと思ったんです。
    最近、僕は自分のお客さんが、比喩的に表現して中央沿線や代官山、中目黒といった東京西部と六本木が代表する都心のど真ん中、どちらにいるのかをすごく考えているんです。中央沿線や代官山というのは、戦後的な中流文化の、とくに90年代以降の「文化系」の象徴ですね。こうした東京西部の「いい街」には戦後的な文化が残っているけれど形骸化して久しい。仕事ができない編集者ほどゴールデン街で飲みたがる。「本や映画が好き」なんじゃなくて、「本や映画が好きな自分が好き」なだけな人たちですね。
    対して六本木側に集まっているのはITや外資など、この二十年優秀な人たちがどっと流れ込んでいったジャンルが強い。彼らは、地頭が良くてポジティブで学習意欲も高くいけれど、壊滅的に話がつまらない(笑)。学習意欲も高くて、セミナーや勉強会が大好き。とにかく「自分のパフォーマンスを引き上げる」ことには一生懸命だけど、引き上げたパフォーマンスで何をやっていいかわからない。なんでそうなるかというと、彼らは効率化が得意だけれど、文化がないからですよ。
    そしてあの日、例のイベントで例の五体満足主義発言にうんうん肯いていたのは、見事にこの六本木クラスタだった。要するに、自分の外側に大事なものがない空疎なナルシシストは、あっさりと五体満足主義的な差別者になってしまうってことなんですよね。
    実は僕が東京で7-8年活動して出した結論は、自分の読者層としてはとりあえず後者に賭けようということなんです。前者は底に穴の開いた洗面器のようなものなので、いくら水を注いでも意味がない。だから今は文化的に貧しくても、後者の高い学習意欲に応えようと思って、そのイベントも意図的に六本木系が集まる場所とパッケージングで開催したのだけど、彼らが単に文化的にスカスカなだけじゃなくて、諸手を挙げて、先述したような排他的なナルシシズムに結びついてしまうことがわかって、正直ぞっとしたんですよね。
    少し解説を加えると、六本木的な、あるいはその参照元のアメリカ西海岸的な文化というのは、計算で設計主義的に「良い生き方」や「正しいあり方」を規定できると考えているところがある。でもそんなことは本当はありえなくて、究極的にはオカルトと結びついてしまい、五体満足主義や優生思想と結びついた危険なイデオロギーに至ってしまう。これは彼らのルーツにニューエイジ思想があるから。ニューエイジというのは要するに疑似科学で複雑化して拡散した社会の全体性を記述できる、という発想ですからね。それがテクノロジーを根拠に「よい生き方」を規定できるという発想に結びついている。先日のイベントでの五体満足主義への支持も、これに近いものがある。
    ただ、こういったものに対抗する言論として「文化というのは計算不可能なものだ」「計算不可能な他者に出会うためにリアルに回帰せよ」という東京西部的なアナログ懐古主義は頭が悪すぎる。どう考えても、この10年余りのデジタル文化はアナログな人間のコミュニケーションや自然環境を究極の乱数供給源としてむしろ積極的に利用することで、文化的多様性を育んで発展しているわけでしょう? アナログとデジタルがむしろ結託している今、東京西側的な考え方に戻っても意味がない。
    問題はむしろ、現代のデジタル文化がもつ文化的な多様性を、西海岸カルチャーを歪めて受け取った六本木の意識高い系たちがきちんと消化できずに、五体満足主義に傾いて文化を否定する方向に傾いていることだと思うんですよね。
    浅子 僕は「効率を求めること」自体は間違っていないと思うんです。実際にそれで豊かになるということもある。でも計算可能であるというスタンスのどこかに、自分はこれが好きだとか、カッコいいと思えるものがないと、結局は保守的なものに回帰してしまう。すごく古い肉体的な価値というか、たとえば「顔が男前なやつがかっこいい」といった観念に囚われてしまう。僕は宇野さんの言うニューエイジ的な考え方が、保守回帰に繋がるのが怖いんですよね。そうなると文化的にも面白くなくなってしまうから。
    宇野 一応、断っておくと僕は六本木系のスタイル、つまりシンプルで効率的なライフスタイルの美学というのはよくわかるんです。僕自身、いつも夏はTシャツと短パンで過ごしているし、その服も基本的には無印良品とユニクロとH&Mでしか買わない。それも安いからではなくて、飾り気のない、シンプルなデザインのものが好きだからですしね。交通事故にあってやめてしまったけれど自転車ももともと好きだし、生で食べてもおいしい野菜を取り寄せて食べるのも大好きで、そういった生活を気持ちがいいと思っている。ただその美学を肯定するロジックが、身体論というマジックワードを盲目的に振りかざす五体満足主義や優生思想しかないというのは、非常に問題だと思うんです。もっとそういったシンプルライフを、カッコよさとか、気持ち良さの次元で肯定する言葉が必要なんですよ。つまり「(身体を鍛えることこそが究極のおしゃれなので)ユニクロでもいいんだ」というのではなく、「(シンプルな)ユニクロのデザインがカッコイイんだ」という論理じゃないといけないと思う。実際に、僕はそう思っているし。
    門脇 いまの話は時代的な位置付けも踏まえて理解した方が良いんでしょうね。いまのカジュアルとかつてのカジュアルはだいぶ違った状況に置かれていると感じます。かつては「フォーマル」というものが厳然として成立していたからこそ、敢えてカジュアルな格好をすることがカッコ良かった。でも今は、「絶対にフォーマルな格好をしなくてはならない」という場面がどんどん少なくなっています。現在のユニクロ的なるものの隆盛は、「フォーマルが瓦解している」という状況とも関係しているのではないでしょうか。
    浅子さんは、スーツはあと十年以内に滅びるってよく言っていますよね。「滅びる」というのは比喩的な表現だとは思いますが、スーツを着なくてはならない場面が極端に少なくなるだろうことは間違いない。スーツはある意味での様式であって、「クールビズ」といった考え方に代表されるように、それを着ることが必ずしも合理的ではないからです。シンプルライフ的な志向は、スーツのような封建的でフォーマルな形式から「より合理的に、自由に生きよう」というマインドへとシフトしたことによって起こっている側面があるのは間違いないと思います。「ノームコア」(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと)のような、シンプル・イズ・ベストを極端に進めたトレンドの存在もそうした流れの上にあるのでしょう。でも、それは宇野さんが指摘するように、優生学的な流れに合流しかねない危険も孕んでいる。一方でモード・ファッションでは、「ありのままの身体」を肯定する動きが主流で、「理想的な身体」を仮定することに警鐘を鳴らすような試みが常にありましたよね。
    浅子 有名な話ですが、コム・デ・ギャルソンの服に、瘤(こぶ)のついたドレスがあったんです。囚人服みたいで背中や腰に瘤がついているんだけど、ドレスになっているというもの。あとは背の低い人やおじいちゃんのモデルを使ったりもしていました。それ以外にも当時アヴァンギャルドと呼ばれていたファッションブランドは、普通だったらファッションの俎上に上がらないような肉体に対して美を見出す方法論を構築していた。でも今は、そういった流れがスコーンと全部抜けてしまっていますよね。
     

    ▲コム・デ・ギャルソンの「こぶドレス」
    出典:http://munstylisti.jugem.jp/?month=201101
     
    門脇 今はモードの影響力が小さくなっているように感じますね。
    浅子 売れなくなってしまったんですよね……。だから結構いろんなことが重なってこういう状況になっている、というのはあるかもしれません。
    僕は最近、インテリアツアーというのをやっているんですよ。そこでいろんなお店を一年間くらい見て回りました。高級なアパレルブランドや、高級な家具屋さんも見に行ったのですが……90年代やゼロ年代の初頭に比べると、全然お客さんがいないんです。こういった場所も、それこそスーツと同じように、20年くらいでほとんどが市場から退場してしまうんだろうなと肌で感じました。
    宇野 昔だったらボーコンセプトで買わなければいけなかったものが、全部イケアとニトリで買えるようになってしまいましたからね。
    浅子 しかもイケアとニトリの商品がそれほど粗悪なものかというと、そうではない。確かに比べればモノとしては高級な家具屋さんの方がいいけれど……。
    宇野 価格が1/6とか1/8ですからね。
    浅子 そう、だからそれはそれで構わないのではないか、というのも一方ではあります。でも自分の好きな文化ですからね。以前はそういうお店のダメな所を見ても「こいつらダメだな」と言っていられたんですが、今はこのままだと本当に滅んでしまうという危機感が強くて、どう守るかという方に考えが反転しています。
     

    ▲ニトリの家具
    出典:公式サイトより
     
     
    ■空虚なパロディとしてのカフェ風デザイン――FABが作るべき未来
     
    浅子 あと、つい最近、「インテリア特集」という小さな冊子を作ったんです。その序文に、90年代以降のインテリアデザイン、特にブティックのデザインについて書いたんですが、インテリアデザインの流れを90年代から整理してみたんです。
    まず90年代の最初は、80年代のバブルやポストモダンへの反動からミニマルが流行りました。今も建築家として活躍しているジョン・ポーソンの作品や、カルバン・クライン、ジル・サンダーのような、線が少なくてシンプルなデザインが流行したんです。
    それが90年代の半ばから大きな変化があるんです。ミレニアムという世紀の変わり目であることから近未来的でフューチャリスティックなデザインが求められたことに加えて、90年代の不況がITバブルなどの影響で回復したこと、さらにそこに大流行したミニマルの反動で少し面白いデザインが欲しいという流れが合流して、90年代半ばから2000年代の半ばにかけて、すごく多種多様な面白いデザインのブティックが一気に出てくるんです。フューチャー・システムズが手がけたコム・デ・ギャルソンのインテリアもそうだし、ルイ・ヴィトンもそうだし、ヘルムート・ラングもそうです。
    なぜ急にブティックのインテリアデザインが多様化したかというと、やはりインターネットの登場が大きかった。それまでブティックというのは、実際に足を運べる人だけが見られるものでした。でもインターネット以降は、ブティックを作るとそれがプレスリリースや雑誌やオンラインの記事になって、写真がその日のうちに世界中で見られるようになった。だから空間を作ることそのものが、そこに行ける人だけでなく、そこに行けない人たちへの広告にもなるようになったんです。だから各メゾンはこぞって大きな投資をして、自分のブランドの価値を上げるためにいろんな実験を行った。
    でも悲しいことに、2001年に9.11が起きてしまった。非常に社会が不安定になり、旧来の価値が破壊された結果、反動で価値観自体が保守化してしまうんです。さらにリーマンショックなどで景気が悪くなったこともあって、雑多な多種多様なデザインというものを、だんだん許容することができなくなっていく。だから2003年くらいまではすごく面白いのに、ゼロ年代後半にかけてインテリアデザインは不毛の時期を迎えて、すごくつまらなくなっていくんですよ。
    門脇 それはファッションそのものの流れとも連動しているんでしょうね。同時多発テロ以降のファッションは、「安心感を求める人々の心を反映するように、天然繊維、手仕事への傾倒、あるいはTシャツを代表とする合理的な定番服など、人々の見慣れたファッションを提示し、ファスト・ファッションと呼ばれる合理性に基づいた安価なコピー服を世界規模で広げた」という指摘もあるようです(※新居理絵「ヘルムート・ラングとその創造的世界」(『ドレスタディ』Vol.56)参照)。
    浅子 そうなんです。ではその流れで今のインテリアデザインを見るとどうか。街を見て貰えればわかると思うのですが、Tシャツやチノパンと共に食器を売るような、「ライフスタイルショップ」というのがすごく増えています。でもそれらのインテリアのデザインは、躯体を残して仕上げを剥がし、足場板をどこかに貼って、手描きの金文字のサインをガラスに書き、最後に工場で使われていたようなアンティークのスチールのペンダントライトをぶら下げて終わり、みたいなものばかりです。結局これらは全て、「輝いていた50年代のアメリカを取り戻そう」というパロディで、本当にパッケージが保守化しているんです。そういうことがブティックやカフェで同時に起きている。これは価値観自体が新しくないし、さすがに不毛だと思います。
    門脇 日本の今の流れも長引く不況や東日本大震災から来る保守化の流れに位置付けられるのでしょうか。
    浅子 この先10年くらいこれが続くと思うと、デザイナーとしては正直うんざりしますね。
    宇野 荻上直子監督の『かもめ食堂』の世界ですね。言わば「北欧おばちゃんニューエイジ」というか……。なんだろうなあ、僕自身はスローフード的な暮らしはすごく憧れる。でもあの映画を支配する強烈なイデオロギーというか、無言の排他性がどうしても苦手で……。ライダーキックで破壊したい(笑)。
    浅子 でもあれが中目黒とかでは強いんですよ。まさにああいうカフェが山ほどありますから。
    門脇 カフェ風というか、ああいった自然素材や古びたものを適当にパッチワークしていくものって、すごくまずいと思うんですよ。
    あるとき赤坂の草月会館であった建築界の重鎮たちのパーティに呼んでもらったことがあったんですが、それがすごく80年代的な空気だったんですよ。天井はミラー張りだし、カウンターにはシャンパンが注がれたシャンパングラスがきれいに並んでいるし、「ああ、バブルってこういうことだったのか」みたいな感じ(笑)。
    でもそのスタイルが、すごくかっこいいなと思ったんです。もちろん今の時代とは感覚がズレています。でも、そこには彼らの世代が何をカッコイイと思っているのかがしっかりと表象されている。それは空間のデザインばかりでなく、来ている人のファッションや、パーティでの振る舞いなども含めて、あるトータリティを持っていて、「人はこうやって生きるのがカッコイイ」という人生観というか、哲学のようなものを感じさせるものでした。だからああいう空間を含めたトータルなカッコよさを、僕たちの世代が残せないと負けだなと思いました。そう考えたときに、古びたもので安心してしまうのはまずいだろうと。
    浅子 そう、だから今こそ「これがカッコいいんだ!」というものが必要なんですよね。
    僕がいますごく重要だと思っているのが、80年代に活躍したフランス人のフィリップ・スタルクというデザイナーです。彼はホテルのインテリアデザインなどを手がけたのですが、僕は彼のやったことの本質って「デザインの民主化」だったと思うんです。
    スタルクの手がけたインテリアデザインがどのようなものだったかというと、ものすごく大きい4mくらいあるようなわざとらしいぐらい豪華な鏡を立てかけるとか、必要ないくらい大きなドレープのカーテンをぶら下げてみるとか、あるいはそれまでは同じ椅子を並べるのがセオリーだったホテルのロビーに、全て違うデザインの椅子を並べる、というようなものだったんです。そこでは世界各国の有名デザイナーの椅子と、土産物屋で買ってきたような椅子が等しく並べられていた。
    インテリアデザインというのは、突き詰めると、どうしてもどこかで権威的になってしまうものです。でもスタルクはその価値を転倒させて、民主化しようとした。そういった意味で、すごく重要な役割を果たしたデザイナーです。
    これを踏まえた上で今後のことを考えると、デザイナーの役割が見えてくると思うんです。今、レーザーカッターや3Dプリンターの普及によって、FABと言われるようなムーブメントが流行していて、デザイナーでない一般の人たちが、自分でモノを作れるようになっている。これはスタルク以降のデザインの民主化の流れにある運動だと言える。この流れは止められないし、今後の大きな流れのひとつになるのは間違いない。でも、一般の人たちというのは、ともすると「これがカッコいい」という思想がないまま、例えば雑誌で見たものをそのまま作ってしまうので、価値観の転倒どころか逆に保守回帰してしまう。これは非常に問題です。だから今こそ「一般の人たちがカッコいいと思えるようなもの」を、デザイナーは作らないといけないんじゃないかと思うのです。
     

    ▲スタルクによるインテリアデザイン
    出典:Stark.com
     
     
    ■「もしデザイナーズブランドとユニクロの服が同じ価格だったら、ユニクロを買う人のほうが多いのではないか?」
     
    宇野 さっきも言ったけれど、僕はユニクロや無印良品、H&Mをなぜいいと思うかというと、そこに美学を感じるからなんです。ファストファッションは効率化と最適化の産物だと思われているけど、当然そこに実は美的なイデオロギーが存在する。ファストファッションをデフレカルチャーの一端として切り捨てるのではなく、その明確な思想に基づいたデザイン自体をしっかりと分析することが必要なんじゃないかと思うんですが。
    門脇 まず無印良品に関して僕の雑感を言うと、男子のファッションはきれいめなお父さんスタイルという感じで、まったく惹かれません。でも女子は意外といい。ファッション雑誌でいうと90年代のオリーブ・anan系の価値観を色濃く受け継いだような感じがして、ある種のコスプレとして成立している。無印好きそうな女子のスタイルって想像できますよね? ちゃんとスタイルになっているんです。
    宇野 無印良品には、高度消費社会に対してこれくらいの中距離で行きましょう、という明確なメッセージがありますよね。あの白と黒とネイビーしか使わないデザインが、そうした強力なイデオロギーに基づいていることは誰の目にも明らかです。あれは非常に分かりやすいでしょう?
    無印良品だけではなく、ユニクロにもそういったイデオロギーがあると思うんですよ。だからデザイナーの固有名詞で語るようにユニクロを語ることだってできるはずなんです。そういった視点を持てずに、デザイナーズブランド対ファストファッションみたいな問題の立て方をしてしまうところに弱さがあるのではないか。
    浅子 ただ、一応言っておくと、ファストファションについては剽窃、パクリの問題がありますよね。あるファストファションはコレクションでめぼしいものをピックアップして彼らが売る前に店頭に出してしまうというのも言われています。これは流石に問題です。
    また、ユニクロはTシャツとかフリースとか、どちらかというと生活必需品に近い、生活に必要な洋服で売り上げを伸ばしたブランドというイメージはありますけどね。だからカラーバリエーションがあるということ自体が圧倒的に重要で、必要なものしか買わない人たちにも色を選ぶという意味でファッションに必要な喜びを与えたからすごく成功した。
    宇野 色の問題一つとっても、ユニクロにせよH&Mにせよ、日本だとそれまでスポーツウェアとかアウトドアウェアでしか使わないようなのような蛍光色や派手な色を取り入れているわけでしょう? 単に安いからではなくて、僕はユニクロにしかないものを求めているつもりなんですよね。色合いだけじゃなくて、デザインや着心地にも同じことが言えるんじゃないかと思う。要するに固有名詞のデザイナーが、ユニクロのデザインに、単に勝てていないだけなのではないでしょうか。実は同じ価格でもユニクロを買う人が結構いるんじゃないかというのが僕の仮説です。ユニクロのデザインも、単にデフレジャパンのスカスカのものとしてではなく、イデオロギーとして支持されているんですよ。
    門脇 僕は服を見るとき発色とかをけっこう気にする方なんですが、ユニクロはよく見るとかなり独特の色使いをしているせいだからなのか、そんなに気にならないんですよね。
     
  • 新しいゲーム文化はユーザーから生まれる――「ニコニコ闘会議2015」会場レポート ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.261 ☆

    2015-02-13 07:00  
    220pt
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    新しいゲーム文化はユーザーから生まれる―「ニコニコ闘会議2015」会場レポート
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.13 vol.261
    http://wakusei2nd.com



    本日のメルマガは、1/31-2/1にかけて行なわれた、niconico主催の新たなゲームフェス「闘会議2015」のレビュー・レポートをお届けします。
    「ゲーム実況とゲーム大会の祭典」を謳い、メーカーではなくユーザー主導で作り上げてられていったゲームカルチャーをフィーチャーした同イベントは、現代日本のゲーム文化にいかなるインパクトをもたらすのか。
    『現代ゲーム全史』連載中の中川大地率いる取材チームが、ゲーム史的な観点からその試みの本質と可能性を分析します。

    「闘会議2015」公式サイトはこちらのリンクから。
     

    ◎文:籔和馬
    ◎監修:中川大地
     
    ※写真は断りのあるものを除き、niconicoの公式プレス向け写真を使用しています。
     
    ▼執筆者プロフィール
    籔和馬(やぶ・かずま)
    1986年滋賀県生まれ。地元で映画と音楽漬けのニート生活を送ったのち、一念発起し上京。映像の専門学校であるUTB映像アカデミーに入学し、映像制作の基礎知識を学ぶ。現在、派遣のアルバイトを主な収入源としつつ、放送作家の修行中。
    中川大地(なかがわ・だいち)
    1974年生。文筆家、編集者。PLANETS副編集長。アニメ・ゲーム関連のコンセプチュアルムックの制作を中心に、各種評論・ルポ・雑誌記事等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』(光文社)。「ほぼ日刊惑星開発委員会」にて「中川大地の現代ゲーム全史」を連載中。
    ■曲がり角を迎えたTGSと「闘会議」の開催

    「ソシャゲとスマホゲーとコンシューマーゲームは全く別物で、ユーザーも別の目的の為にやってると思うので、TGS(東京ゲームショウ)はおとなしく規模縮小するか、なんとか任天堂に参加して貰うかした方が良いと思った。ソシャゲとスマホゲーは別のゲームショーの方が良いんじゃないかな。 2014年9月23日 20:48 」

    『ダンガンロンパ』シリーズの企画とシナリオを担当する、スパイク・チュンソフト小高和剛氏は、「東京ゲームショウ(TGS) 2014」を訪れた感想をTwitter上でこのようにつぶやいた。
    TGSに観客として出向いたことのある私は、小高氏の言葉に、はげしく同意した。
    諸事情で2014年には参加できなかったため、これは2013年時点での状況だが、大勢の人たちの間を縫うようにして歩くしかないくらい盛況のTGSで、唯一待ち時間なしで入れたのは、某ソーシャルゲーム/スマートフォンゲームメーカーのブースだけだった。
    そこには嬉々として遊ぶ来場者の姿はほとんどなく、暇を持て余し気味のキャンギャルたちがプレゼントを配るのを横目に、コンシューマーゲーム試遊の整理券配布に間に合わなかったと思われる人々が、あぶれて仕方なくやってきているという雰囲気しか感じられなかった。
    ゲーム市場全体を見渡せば、いまやスマホゲームこそが最も多くの人々がプレイするゲームになっているはずだが、ことゲームショーという空間ではまったく存在感がない。
    わざわざTGSのような新作ゲームお披露目会に出向いてくるのは、どちらかというとソシャゲやスマホゲームを「あんなものはゲームではない」と蔑視するような、あまり一般的ではないコアゲーマー層ばかりということなのだろう。
    そして、ゲームショーに来た以上は何かをプレイして帰らなければ元がとれないとばかりに亡霊のように彷徨う者たちが試遊台から試遊台へと移り、まるで工場での単純作業のようにゲームを「遊ばされている」。
    そんな光景に、自分には見えてしまったのだ。
    はたしてここに、本当に「ゲーム」というジャンルの現在があるのだろうか?
    いまやインターネットやスマホの普及により、現代日本のゲーム文化は、従来のゲーム会社の手から離れたところで独自の進化を遂げた。コンシューマーゲームの最新作を遊ぶことこそがゲーム文化の王道という考えは、とっくに古臭いものになってきていると言わざるをえない。
    一般的には、TGSは日本のゲームシーンの最先端を紹介する最大のイベントと言われているが、ゲームの遊び方が多様化している現在の状況に、企業主体の見本市では、対応できなくなっているのではないか。
    このような状況に一石を投ずるべく手を挙げたのがドワンゴである。
    2012年から幕張メッセで毎年開催されている、ドワンゴが主催するニコニコ動画のオフラインミーティングである参加型複合催事「ニコニコ超会議」。
    その中で最もユーザーが賑わうブースの一つである「ゲームエリア」を、「ニコニコ超会議」から切り離し、老若男女問わず誰でも気軽に参加することができ、純粋にゲームの魅力を体験することができる「ユーザー」を主体としたイベントにしたいという理念のもと、「ゲーム実況」と「ゲーム大会」の祭典として単独でイベントとして成り立たせたのが、今回の「闘会議」である。
    この「闘会議」は、2015年1月31日(土)と2月1日(日)の2日間にわたって「超会議」と同様に幕張メッセにて開催され、当日のイベントの模様はニコニコ生放送でも配信されていた。
    ▲「闘会議2015」会場全景
    つまり、ゲームの大規模イベントといえば、これまではゲーム企業側からの製品のプレゼン空間というレパートリーしか存在しなかったところ、初めてユーザー側のボトムアップな「遊び方」にフィーチャーする空間が提供されたのである。
    ■現代の日本ゲームシーンを縮図化した「闘会議」の空間構成
    最初に言及したいのは、この闘会議というイベント、会場の構成が実によくできている。まずは下の会場マップを見ていただきたい。
    【会場マップ】(「闘会議 2015」来場時に配布されるガイドブックから)
    幕張メッセの6~8ホールを利用した会場は端から端まですぐに行くことができ、実際に1周歩いてみての感想だが、移動で疲れるということはなかった。
    むしろ、歩いていると常時どこかしらのブースのモニターを観ることができ、そのモニターでは絶えずイベント映像が流れているので、歩くという行為にさえ楽しみを持たせてくれている印象を受けた。
    ブースの配置だが、会場の四隅に大きく陣取るのは、スマホゲームアプリの大手メーカーである、ガンホー・オンライン・エンターテイメント、コロプラ、mixi、LINEのブースだ。
    変な比較で恐縮だが、これはコミケに置き換えれば最も大手のサークルが配置される「壁際」にあたる。
    この4社のブースが、巨大スクリーンやステージを備えた最も華々しいプレゼン空間になっており、ニコニコ有名人やスター級の実況者たちが次々と生放送番組を配信していた。そして現在にあっては最も多くのライトユーザーを抱える、ゲーム市場全体の中でのスマホゲーの立ち位置を正確に反映するかたちで、集客の最大ボリュームゾーンを形成していたのである。
    ▲四隅のボリュームゾーンを形成するスマホアプリメーカーのステージ
    これら4ブースの合間を埋めるかたちで、闘会議のメインコンテンツである「ゲーム実況」「ゲーム大会」の2大ステージをはじめ、壁際ではアーケードやレトロゲーム、コスプレ、物販といったテーマ別のエリア群がそれぞれの小宇宙を展開しているという格好だ。
    ▲niconicoのメインステージにあたる「ゲーム実況ステージ」「ゲーム大会ステージ」
    反対に、コンシューマーゲーム業界を長年引っ張ってきている大手ゲームメーカーである、バンダイナムコゲームス、ソニー・コンピュータ・エンターテインメント、スクウェア・エニックス、セガ、およびサイバーエージェントの5社が、会場中央部の「島」のコーナーを形成するかたちで、比較的こじんまりしたブースの列を並べていた。
    そして、これら大手ゲームメーカーにコーナーを挟まれながらほぼ同等のブース規模で、『ドラクエX』や『スーパーマリオ64』『マインクラフト』等々の各タイトルごとの実況プレイを座って見られる「ゲーム実況ストリート」が軒を連ねる。
    つまり、これまたコミケで言うなら、大手コンシューマー企業が、ユーザー実況と同列の島サークルと軒を並べながら、せいぜい中堅サークル並みの「お誕生日席」を与えられているというような扱いだ。
    ここにも、プレイステーション4に「シェア」機能が搭載されたように、実況のネタになることで日本ゲームの斜陽傾向からなんとか生き残りの芽を探ろうとするコンシューマー業界の、リアリスティックな状況を垣間みることができる。
    このように、現代の日本のゲームシーンのパワーバランスをフラットな空間上に縮図化しつつ、壁際中央部の「レトロゲーム」エリアなどでは過去からの歴史的な脈略を緻密な年表やレアな実機展示などで押さえ、11対11人で行う『FIFA 15』の実況プレイや声で操作するゲームに話題が集まった「リアルゲーム」エリアなどではゲームが現実空間に侵食してゆく未来的な光景を演出するなど、新旧の時間的な流れをも体験できるブース構成が特徴的であった。
    ▲黎明期からのゲーム史の年表が掲げられた「レトロゲームエリア」。来場者が附箋に「俺歴史」を記入して貼りつけできる。
    ▲ドットアートの自作コーナーがあるのも面白い試み。
    ▲実際のサッカーのポジションを一人ずつプレイヤーが担当して『FIFA15』を対戦プレイする「リアルゲームエリア」。
    これはメーカーの商業要請に立脚した見本市とは異なるイベントだったからこそ、可能だった展開と言えるだろう。
    ■会場を圧する「任天道場」の君臨がもつ意義
    そして、会場のどこからでも見える中央部に、まさに王者の風格を漂わせながら屹立する看板がひときわ目立つエリアがあった。
    「任天道場」。その名の通り、日本ゲーム業界最大の老舗である任天堂の出展スペースである。
    各エリアの中でも、特にパーテーション分けされた参加型の独立アトラクション的性格が強く、ちょうど超会議における「ニコニコ神社」に相当するような配置で、会場全体のランドマークにも見えるような象徴性さえ帯びていたと言える。
    ▲「任天道場」の看板

     
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  • ジョーカーなき世界、その後――『インターステラー』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.260 ☆

    2015-02-12 07:00  
    220pt
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    ジョーカーなき世界、その後――『インターステラー』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.12 vol.260
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガは、「ダ・ヴィンチ」掲載の宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」のお蔵出しです。今回のテーマは、クリストファー・ノーラン監督の最新作『インターステラ―』。なぜノーランは「ジョーカー」を描けなくなったのか?『インセプション』『ダークナイト・ライジング』から今回の『インターステラ―』に至る軌跡を振り返りながら分析していきます。
    初出:『ダ・ヴィンチ』2015年2月号(KADOKAWA)
     

    ▲インターステラー ブルーレイ&DVDセット(初回限定生産)
     
    ・作品紹介
    『インターステラー』
    監督/クリストファー・ノーラン 出演/マシュー・マコノヒー、アン・ハサウェイ、ジェシカ・チャステイン、マイケル・ケイン
    2014年アメリカ、169分/配給:ワーナー・ブラザース映画
     
     
     一年と少し前、この連載を集めた最初の評論集を出版した(ちなみにこの号が出る頃には二冊目が本屋に並んでいる予定だ)。僕はその自分にとってはじめての評論集に『原子爆弾とジョーカーなき世界』という名前を与えた。もともとこれは、同書に収録した『ダークナイト・ライジング』について取り上げた回につけたタイトルだった。クリストファー・ノーラン監督の手がけたバットマンのリメイク「ダークナイト」トリロジーの最終作にあたる同作は、決して完成度の高い作品ではなかった。しかし、同作におけるノーランのつまずきは、現代を生きる僕たちの想像力の限界を示しているように僕には思えた。映画は傑作とは言い難いが、それとは別の次元でノーランが「ダークナイト」トリロジーを完結させることがなぜできなかったのか、その前作(掛け値無しの傑作である『ダークナイト』)から後退してしまったのはなぜか、どこで壁に突き当たり、そしてどの部分で後退したかを明らかにすることは、とても大事なことのように僕には思えたのだ。だから、僕はあの文章を評論集の本のタイトルに指定した。
     だから僕はノーラン監督の最新作『インターステラー』を、それなりに心待ちにしていた。少なくとも公開日の夜にとしまえんのIMAXシアターで予約して、空いている深夜上映にタクシーで出かける程度には、この作品を大切に待っていたのだ。そして、同作の完成度は僕の期待以上だった。3時間近くの長さを微塵も感じさせない映像の美しさと役者陣の好演には賞賛を惜しむ必要はないだろう。そこで描かれた『北の国から』に勝るとも劣らない父娘の愛情劇に涙する観客も多いだろうし、往年のSF映画ファンの間にはスタンリー・キューブリックの不朽の名作『2001年宇宙の旅』へのオマージュと更新(への意欲)に感心した人もいるはずだ。しかし、僕はこういった要素にはあまり関心を持つことはできなかった。一般論として、ファンタジーを通じてのみ掴み出すことができる人間や世界の本質があると僕は考えている。しかし同作の家族愛や文明論といった主題は少なくともそのレベルでは、宇宙の果てでの五次元的存在との接触といった仕掛けを経なければ描けないものではなかったことは明白であるし、『2001年宇宙の旅』をはじめとする過去の名作群との関連性は世界中の映画史やSF史の専門家が溢れるほどに論じていて、そちらを参照すればよい。
     したがって、僕の関心はひとつ。クリストファー・ノーランという作家が「ダークナイト」トリロジーから持ち帰ったものがこの映画の中でどう生きているのか、だった。そして、結論から述べればそれはほぼ完全に失われてしまったと言えるだろう。
     物語の舞台は、近未来の地球。異常気象による食料生産の激減で人類は滅亡の危機に瀕している。主人公の宇宙飛行士クーパーは、娘マーフィーのもとに正体不明の存在から届けられた暗号に導かれ、人類の移住先の惑星を探索するプロジェクトに参加する。クーパーは「ウラシマ効果」によって、自分にとっての数年が娘にとっての何十年にも相当してしまう現実に苦しみながらも、ブラックホールの中心部で、人類を導く五次元的存在と接触し、重力制御の論理を時空を超えて過去の娘に伝達する。つまり、物語冒頭で父娘にサインを送ったのはこのときのクーパー自身であることが、ここで明かされる。そして、クーパーはブラックホールから生還し、自分のもたらした知識によって数十年の間に人類が危機から脱したことを知る。そして老齢になったマーフィーと再会したクーパーは、再び宇宙のフロンティアを目指して旅立っていく。
     賛否両論の渦巻く本作への批判として代表的なものとしては、その脚本の淡白さがある。たしかに、多くの論者が指摘するように同作は勘のいい観客なら、あるいはSFの愛好家ならば開始15分でほぼ完璧にクライマックスの展開を予測できるだろう。だが、個人的にはこの批判には与しない。というか関心がもてない。なぜならば、過去にあれだけ緻密で意外性に満ちた物語展開で観客を翻弄してきたノーランが、このような淡白さを是とした理由はひとつしかないからだ。ノーランは美しき予定調和のためにこの淡白な脚本を積極的に選択したのだ。そして僕が気になるのは、このノーランの選択した脚本的な淡白さが、そのまま同作の人間観、世界観の淡白さに直結していること、なのだ。
    「This is what happens, when an unstoppable force meets an immovable object.(絶対に止めることのできない力が絶対に動かないものに出会ったとき、こういうことが起きるわけだ。)」
     これは『ダークナイト』の結末近く、バットマンに捕縛されたジョーカーが口にする台詞だ。「絶対に止めることのできない力」とはジョーカー自身のことであり、そして「絶対に動かないもの」とはバットマンのことだ。同作はこのジョーカーとバットマンにトゥーフェイスを加えた三怪人の対比で成り立っている。
     すべてのイデオロギーが(たとえば古き良きアメリカの正義が)、相対的な「小さな正義」でしかないことが前提化した現代によみがえったバットマンは、当然その正義の根拠を問い続ける物語を生きることになる。トリロジーの二作目『ダークナイト』に登場したバットマンは、前作『バットマン ビギンズ』で描かれたように幼き日に両親を悪漢に惨殺されたトラウマを解消すべく戦うヒーローとして登場する。しかしその一方で、その「正義」の執行が半ば自己目的化している。バットマン=ブルースの目的は正義の実現ではなく正義の執行になりつつあるのだ。バットマンの最大の支援者であり、幼なじみのレイチェルはそんなブルースに疑問を抱き、彼ではなくその盟友である正義の検事ハービー・デントを生涯の伴侶に選ぶ。デントはバットマンとは異なり、古き良きアメリカの正義を信じ(それが無根拠なものであっても、あえて)掲げることにためらいがない。「父」を仮構し、演じることにためらいがなく、バットマンのようにその執行が自己目的化もしてはいない。
     一方でジョーカーは力の行使が自己目的化しているバットマンのそのさらに先を行く存在だ。本作におけるジョーカーは登場するたびに自分が怪人と化すに至った過去のトラウマを饒舌に語るが、その過去はその都度異なっている。そう、つまりそれらは「嘘」なのだ。そしてジョーカーには金銭や権力やトラウマの解消といった「目的」や「動機」が存在しない。本作におけるジョーカーは「世界が燃えるのを見て楽しむ存在」と規定される。バットマンが正義の執行自体を半ば自己目的化しつつあるように、ジョーカーにとって悪それ自体が「目的」なのだ、それもより徹底されたかたちで。すべてのイデオロギーが相対化された「小さな正義」でしかない世界、「正義」の成立しない世界では同時に「悪」も存在できない。『ダークナイト』は、ジョーカーはそんな世界における究極の正義/悪の存在を掴み出そうとした作品なのだ。
     そしてデントは回帰的であるがゆえに、やがてジョーカーに利用され、怪人トゥーフェイスに堕落する。デントは「父」であることに拘泥するあまり、その可能性が失われたことへの絶望につけ込まれ、連続殺人鬼に変貌するのだ。ここに同作の三怪人は一直線に並ぶことになる。もっとも家族回帰的であり、物語回帰的であるデント=トゥーフェイスがもっとも「弱く」、そして正義/悪の自己目的化がもっとも進行したジョーカーがもっとも「強い」。そして私たち観客=バットマンはその中間に、トゥーフェイスが立つ古い世界と、ジョーカーの体現する新しい世界の中間に立っているのだ。
     続く『インセプション』ではどうだったか。他人の夢の世界に侵入する特殊な企業スパイを生業とする主人公のコブは、夢の世界への侵入とコントロールを濫用した結果、最愛の妻を結果的に自殺させてしまったという過去をもつ。そして彼は現在もその罪悪感から亡き妻の亡霊に悩まされている。妻殺しの容疑者として誤解され、子どもとも引き離されたコブは、家族を取り戻すために危険な仕事に身を投じることになる。そう、ここで問われているのはいわばトゥーフェイスのレベルの問題だ。トラウマが成立せず、すべてのコミュニケーションが自己目的化した現代の臨界点=絶対に止まらないもののレベルに存在するジョーカーの問題でも、そんな新しい世界に直面し、迷い続けるバットマンのレベルでもない。こうした新しい世界の出現によって失われてしまったものを追い求めるゾンビのような主体、前作で言えば「父であること」に拘泥するトゥーフェイスと同じレベルでコブは生きている。
     そして、物語の結末、コブはミッション中に妻の亡霊を振り切り、「父であること」を回復するために夢の世界から現実への帰還を試みるがその成否はオープンエンド的に宙づりにされる。
     そう、ここでノーランは夢の世界の連鎖を切断し、トラウマを回復し、現実に帰還するという結末を明確には描かなかった。いや、描けなかった。なぜか。ノーランは『インターステラー』に際するインタビューでこう語っている。
    〈スマホ世代に僕の『インセプション』(10年)が人気なのは、あれが心の内側へ内側へと向かっていく話だからだと思う。『インセプション』は内側に向かってばかりじゃダメだ、という話なんだけどね。だから『インターステラー』では外に、宇宙に向かうんだ。〉
    『映画秘宝』2015年1月号
     ここから分かるのはノーランが情報社会を「人々を内向的にするもの」と考え、そして『インセプション』における夢の世界に侵入し、それをコントロールすることを同じように自分の内面の問題に拘泥し、外部性を失った閉鎖的な行為として捉えているということだ。
     
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  • 統計学者・鳥越規央インタビュー(前編)「セイバーメトリクス以降の優雅?で感傷的?な日本野球」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.259 ☆

    2015-02-10 07:00  
    220pt
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    統計学者・鳥越規央インタビュー(前編)「セイバーメトリクス以降の優雅?で感傷的?な日本野球」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.10 vol.259
    http://wakusei2nd.com



    いよいよ発売となった『PLANETS vol.9 東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト』。スポーツを情報化やテクノロジー以降の視点から考えたこの『P9』をさらにフォローアップすべく、日刊メルマガでも新たな切り口でスポーツ文化を考える記事をお届けします。
    今回は、映画『マネーボール』などでも脚光を浴びた「野球を統計で分析する」手法=「セイバーメトリクス」の歴史と現在について、日本における第一人者である統計学者・鳥越規央さんに聞きました。スポーツだけでなく、AKBのような文化興行や政治にまで射程を及ぼすセイバーメトリクス、その本当のポテンシャルとは――? 


    ※後編はこちらのリンクから。
     セイバーメトリクス――この聞き慣れない単語が徐々に広まり始めたきっかけは、やはりブラッド・ピット主演で映画化された『マネーボール』(2011年)だろう。米オークランド・アスレチックスの敏腕GM(ゼネラルマネージャー)として弱小球団を強豪に育て上げたビリー・ビーン。彼はそれまでのアナクロなスカウティングシステムを拒否し、徹底的なデータ活用(=セイバーメトリクス)によって、強豪球団から声のかかることのない一見実力のない選手たちを安価な給料で集め、アスレチックスを強いチームに育て上げていく。そのビリー・ビーンを描いたこの映画は、「弱者の一撃」という古典的なストーリーラインに加えて、脚本のアーロン・ソーキン(『ソーシャル・ネットワーク』他)らによる、人情話に重きを置きがちだったそれまでの野球映画と異なる冷徹な描き方が、野球好きのみならず映画ファンのあいだでも高く評価された。

    ▲『マネーボール』2011年/ブラッド・ピット(主演)ベネット・ミラー(監督)アーロン・ソーキン(脚本)他
     しかしこの「セイバーメトリクスによる革命」はアメリカに限ったものではなく、まさに「耐用年数を過ぎた戦後文化の象徴」たる日本のプロ野球にも2000年代以降導入され、それによって球界の勢力図も急速に塗り変わりつつある。
     今回は日本におけるセイバーメトリクスの第一人者で(実はAKBオタでもある)統計学者・鳥越規央先生をお招きし、セイバーメトリクスの歴史や日本におけるローカライズ、そして他分野への応用可能性についてお話を伺った。
    ▼プロフィール
    鳥越規央(とりごえ・のりお)
    1969年生。現在の研究分野は数理統計学、セイバーメトリクス、スポーツ統計学。各メディアにて、確率や統計に関する監修を行う。著書に『勝てる野球の統計学――セイバーメトリクス』(岩波科学ライブラリー、2014年)、『本当は強い阪神タイガース: 戦力・戦略データ徹底分析』(ちくま新書、2013年)、『プロ野球のセオリー』(仁志敏久との共著、ベスト新書、2012年)などがある。
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    ▲鳥越規央,データスタジアム野球事業部『勝てる野球の統計学――セイバーメトリクス』 (岩波科学ライブラリー、2014年)
    ◎聞き手・構成:中野慧
    ■オタクとインターネットがセイバーメトリクスを作り上げた
    ――「セイバーメトリクス」というものはこれまでのような打率や打点、投手なら勝利数や防御率のようなわかりやすい指標ではなく、「もっと細かく色んな数字を組み合わせることで、選手の能力をより精緻に数値化することができる」ということを打ち出し、それらのデータをもとに選手を集めチームを強くしようという手法ですよね。このセイバーメトリクスは、そもそもどのようにして生まれてきたんでしょうか。
    鳥越 もともと「データで野球を見る」という観戦文化はアメリカでも一部のマニアのあいだで昔からあったのですが、セイバーメトリクスそのものは、1970年代前半のビル・ジェームズという退役軍人が始祖であると言われています。彼は友達の靴屋でバイトをしながら野球を見ていて、もともと野球好きだからとデータを取っていった。そうしたら面白いことが分かってきて、それらをまとめて自費出版したんですね。
     最初は全然売れず、一説には75人しか購入しなかったといわれてます。ですが、これまでの野球のセオリーに反するような分析結果もデータから証明できるという面白さが、だんだんマニアの口コミで広がっていったんですね。版を重ねるに連れ、購読者も増えその結果、スポーツ・イラストレイテッドのライターの目に留り、1982年に出版社から販売されるとたちまちベストセラーになったのです。ただやはりというか、日本と同じようにアメリカでも「野球の素人がこんなこと言っても俺たちは騙されないぞ!」みたいな感じで現場ではなかなか受け入れられなかったようです。
     セイバーメトリクスが面白いのは、「思い込みを是正する」という部分です。たとえば、野球の世界だと「ノーアウト満塁は点数が入りにくい」というのがありまして。
    ――「大チャンスに見えるけど、実は得点するのが難しい」という野球界の定説ですよね。ノーアウト3塁やノーアウト2・3塁に比べると内野ゴロをホームでフォースアウト→一塁に転送でダブルプレーを取られやすいですとか、スクイズしても走者へのタッチでなくホームベースへの触塁だけでアウトにできるからとか、いろんな理由が言われていますよね。
    鳥越 でも、ノーアウト1塁、ワンナウト1・3塁、2アウト2塁……等々、状況別に整理したデータを見ると、得点が入る期待値が一番高いのってノーアウト満塁なんです。
     なぜ野球界で「ノーアウト満塁では点が入りにくい」という説が流布するかというと、一番点数が入りやすそうなチャンスであるにも関わらず、自分のひいきのチームがノーアウト満塁で無得点に終わったらそのショックが大きすぎて、実際は点が入ってる場面が多いにもかかわらず心の中で「ノーアウト満塁は点が入りにくい」という思い込みを形成してしまうからですね。
     セイバーメトリクスって、そういう「人間の思い込みを是正する」というのがテーマなんです。「思い込み」はプレイヤーの方にもあるようで、これはロッテのコーチから実際に聴いた話なのですが、自分はコントロールが悪いと思い込んでいる投手がいて、「いや、君の三振率とフォアボール率の比率(K/BB という指標)を見ると平均よりも高いんだから、自分でノーコンと決めつけることないよ」と諭したりできる。余計な悩みだったことがわかれば、選手自身も自分が本当に改善すべきポイントが見えてきますよね。
    ――なるほど。ちなみに、セイバーメトリクスの始祖であるビル・ジェームズや、その後この手法を発展させていったのってどういう人たちだったんですか? 『マネーボール』でも描かれていましたが、必ずしも元プレイヤーだったりするわけではないわけですよね。
    鳥越 それは「野球オタク」のみなさんですね。セイバーメトリクスの語源となったアメリカ野球学会(Society for American Baseball Researchのこと。頭文字を取った「SABR」をセイバーと発音する)というものがありまして、僕は2007年に参加したんですが、とにかく参加者すべて「オタク」臭を漂わせている人たちばかり。会場のロビーでは野球カードに興じる人達もいれば、オールドスタイルのユニフォームを身にまとう人もいたりで、まさに「野球版コミケ」ですよ。参加者の内訳ですが、いわゆるアナリストと言われる人は4割ぐらいで、あとは企業の社長だったりお医者さんだったり、作家さんだったり、本当に野球が大好きで趣味でデータ分析をしている人たちの集い、という感じでしたね。
     コンピュータやネット環境が発達したことによって、そういう人たちが自分なりの分析を発表できる時代になった。その分析を見て、さらにいろんな人たちが考えて改良を重ねていくわけです。
    ――ソフトウェア開発でいうならオープンソースのように、ボトムアップで作られていったんですね。
    鳥越 そういうことですね。例えばピッチャーの評価法に、DIPS(Defense Independent Pitching Statistics)という概念があります。これは「失点のピッチャーによる責任ってどこまでなんだろう?」ということを考えたときに、運とかチームの守備力といった「投手自身ではコントロールできない」部分の影響はできるだけ排除してあげたいと思うわけです。でも一方で、例えば「ホームラン打たれるのは投手の責任だよなぁ」とか、「フォアボールを与えたりするのは明らかにピッチャーの責任」とか「逆に三振を取るのはピッチャーの力量のみに依存する」といった考えから 「じゃあこの3つの指標だけでピッチャーを評価してみるのはどうか?」ということを誰かが提起するんです。この場合の「誰か」というのはボロス・マクラッケンという人なんですけど。そうすると、色んなセイバーメトリシャンがそれに基づいて「自分はこう考える」といろんな意見を出し合って、一番理に適い、しかも計算が容易な指標が普及していくんですね。DIPSの中で今一番普及しているのはトム・タンゴが提唱したFIP (Fielding Independent Pitching) という指標です。ちなみにこのFIPという指標は先発・中継ぎ・抑えも同様に評価できるので、今では主要な指標のひとつとなっています。
     さらには、野手も投手も究極的に同じ指標で評価することのできるWAR(Wins Abobe Replacemnt)が出てきたり、これまでセイバーメトリクスの中でメジャーな指標だったOPS(出塁率+長打率。打率などよりもより得点貢献への相関が高いとされる)よりもRC (Runs Created) や XR (eXtrapolated Runs) 、さらにはwOBA(Weighted On-Base Average)というように、どんどん新しい指標が提案されていくんですね。
    ――野球には「この選手は打率や打点とかではあんまりパッとした数字は出ていないけれど、なぜかいつも強いチームにいる」ということがよくありますよね。そういったかたちで、これまではっきりとした数字は出ていなかった「なんとなく」だったり「空気感」のような部分を、より細かな指標で可視化させるというのが、セイバーメトリクスの大きな意義ですよね。
    鳥越 その意味では最近、「運」というものを数値化しようという考え方が出てきています。選手本人の調子が悪くなくても、不運が重なって思うように成績を残せないことがよくありますが、たとえばバービップ(BABIP)という指標はその「運」「不運」を可視化しようというものです。
     投手が投げた球を打者に打たれて、それがフェアゾーンに飛んだとき(ホームランを除く)にそれがヒットになる確率って、ほとんどの投手で3割付近に収束するという理論があるんです。たとえば今季、ある投手の調子が悪いなと思ったときにBABIPを見たら3割5分だった、と。そうなると、その選手の調子が悪いというよりも、チームの守備がまずかったり、たまたま転がったところが悪かっただけである可能性が高いと考えられる。なので翌年は本来の数字に戻せるのではと推測する。逆に成績がよくてもBABIPが2割5分だったら運に助けられている部分が大きいから、次のシーズンは成績がよくないかもしれないと予想できる。
    ――そのセイバーメトリクスが一部のマニアだけでなく、アメリカで少しずつ世の中に広がり始めたきっかけってなんだったんでしょうか? やはりビリー・ビーンの登場が大きい……?
    鳥越 いや、大きなきっかけになったのは『ファンタジーベースボール』でしょうね。ビリー・ビーンがチーム編成にセイバーメトリクスを取り入れ始めたのは90年代前半以降ですが、ほぼ時を同じくして『ファンタジーベースボール』がネット上で爆発的に普及し始めました。
     『ファンタジーベースボール』というのは、オンラインゲームの一種で、サラリーキャップ(選手の総年俸額を制限すること)の中で自分たちの夢のチームを作るというものです。実際のメジャーリーガーを題材にしていまして、彼らの現実世界での活躍がゲームでの加点対象になるのです。サラリーキャップですからオールスター級の選手を集められるわけじゃないですよね。だから実際の成績を見て、コストが安いけど良い成績を残している選手を集めていく。これはまさにビリー・ビーンのやっていることと同じですね。プレイヤーがデータを見て年俸の安い若手を雇った結果、その選手が実際に活躍してチームに大きなポイントをもたらしたとき、プレイヤー冥利につきるのでしょうね。
    ■パ・リーグを中心にセイバーメトリクスが普及した2000年代
    ――セイバーメトリクスの日本での受容についても伺っていきたいのですが、そもそも「野球にデータを導入する」という意味では、日本では90年代ヤクルト・野村克也監督の「ID野球」もありましたよね。鳥越さんの著書では、要するにID野球というのは野村監督の経験知に負う部分をデータ化・定式化していたものだったという分析も書かれていました。そうなるとID野球とセイバーメトリクスはまったく別物ということなんでしょうか?
    鳥越 セイバーメトリクスのスタート地点では対極にあるものだったと考えています。僕は「ミクロの視点」と「マクロの視点」というふうに整理していますが、ミクロの視点で「次のノーアウト1,2塁でボールカウント2-1で、ここからはこう投げたらいい」という一瞬一瞬の判断をする際に、野村ID野球の経験知が使えるんだと思います。ですがセイバーメトリクスはミクロな判断というよりは、「この選手は科学的に見るとこういう成績だったから、この人の評価はこうですよ」というマクロな視点を与えるものなんです。
    ――なるほど。では、アメリカ流のセイバーメトリクスが日本で本格的に受容され始めたのは、いつぐらいなんでしょうか。
    鳥越 一番最初に導入したと言われているのは、ロッテの監督を二度にわたり務めたボビー・バレンタインですね。もともとテキサス・レンジャーズで監督をやっていた方なので当然、セイバーメトリクス的考え方を身につけていたわけです。彼が最初に日本に来たのは1995年ですが、ポール・プポという統計の専門家をフロントに招聘して積極的にデータの活用を推し進めた。それで万年Bクラスだったロッテをいきなり2位に押し上げ、ファンのあいだでも大変支持されていたんですが、残念ながら彼のやり方は当時のフロントやコーチ陣に受け入れられなかった。やっぱり「俺たちの意見よりもデータを見るのか!」と反発する人が多いわけです。
    ――日本のプロ野球全体が、職人芸のようなスカウティングを頼りにしていた時代ですよね。
    鳥越 やっぱり「職人さんの粋な腕を評価する」という文化が日本にはあるわけですね。しかしその後約10年間、ロッテはBクラスに沈んだため、ファンは余計にバレンタインの復帰を待望するようになっていったのです。
    ――そのバレンタインがロッテの監督に復帰したのは2004年で、1期目と2期目には約10年の間がありますよね。ちょうどこの時期はビリー・ビーンの手法がメジャーでかなり注目され始めた時期だと思うのですが、その間にセイバーメトリクスを導入していった日本の球団ってあるんでしょうか?
    鳥越 ボビーが戻ってくるのと同時期、2004年に日本ハムファイターズが東京から北海道に本拠を移したのですが、それを機に、2005年頃に導入しています。デトロイト・タイガースのGM補佐から、阪神の総務部次長へと歴任された吉村浩さんをヘッドハンティングしたんですね。彼はセイバーメトリクスの知識を持っていて、1億円かけてBOS(Baseball Operation System)というシステム作り、それを基にフロント主体でチーム作りをやっていくことになったんです。
     一方で同じ頃ロッテに復帰したボビーは、パ・リーグの予告先発制度を活用して、相手の先発投手に相性のよい打者を選んで毎試合打順を組むという大胆なことをやって、前の日4番だった里崎が次の日にはスタメン落ち,その翌日は9番だったりするもんだから「猫の目打線」なんて呼ばれていたりしましたね。結局2005年シーズンはロッテがパ・リーグのチーム得点1位の攻撃力でクライマックス・シリーズを勝ち抜き優勝、阪神との日本シリーズは4勝0敗の圧勝で日本一になったわけです。そのシリーズでの両チームの総得点33−4は、いまでもネット上で大差の例えとして使われていますよね。
    ――ロッテと日ハム以外に、セイバーメトリクスを導入していった球団ってどういうところがあるんですか?
    鳥越 今だと、楽天が2012年から導入していますね。8月から立花陽三さんという、元々ソロモン・ブラザーズ、ゴールドマン・サックス、メルリンチなどで証券マンをやってた人を球団社長に迎えたんですね。彼はまず「我々でもわかるように楽天の戦力を数値化しろ」と指令した。そのためにセイバーメトリクスの分析をしている会社と契約して、2012年のシーズンが終わったところで分析結果を見てみたら、田中将大投手を中心に投手陣は揃っていて十分戦えるが、打線の方は4番・5番が穴だということがわかった。そこで右の長距離砲に狙いを定めて調査したところ、スカウトがA.J(アンドリュー・ジョーンズ)とマギーをリストアップしてきた。そこで立花さんが自ら交渉に向かい中軸を埋めた。そして2013年、投打がうまく噛み合って日本一になったわけです。
     それからソフトバンクも日本IBM、クロスキャットとともに「χ援隊(かいえんたい)」と名付けられたデータ解析、レポート配信システムを構築しまして、スコアラーだけでなく、首脳陣や選手すべてに支給されたiphone、ipadにリアルタイムで分析したデータを配信、チーム内で共有できるようになりました。パ・リーグ優勝がかかった2014年10月2日の対オリックス戦で、10回裏1アウト満塁、一打決めればサヨナラ優勝という場面での松田がベンチ前でスタッフが手にしたデータを凝視しているシーンはちょっと感慨深いものがありましたね。
    ――パ・リーグを中心にセイバーメトリクスが普及して勢力図がどんどん書き換わっていったわけですね。しかしこれだけセイバーメトリクスが有名になってきているのに、セ・リーグのチームは導入していないんですか?
     
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  • 月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」延長戦2月2日放送書き起こし! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.258 ☆

    2015-02-09 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    月曜ナビゲーター・宇野常寛J-WAVE「THE HANGOUT」延長戦2月2日放送書き起こし!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.9 vol.253
    http://wakusei2nd.com

    大好評放送中! 宇野常寛がナビゲーターをつとめるJ-WAVE「THE HANGOUT」月曜日。ほぼ惑月曜日は、前週分のラジオ書き起こしダイジェストをお届けします!



    ▲前回放送はこちらからお聴きいただけます!

     
    ハングアウト延長戦宇野 あらためまして皆さんこんばんは、評論家の宇野常寛です。PLANETSチャンネル深夜の溜まり場「THE HANGOUT」延長戦のお時間がやってまいりました。この延長戦では引き続き私宇野が、ラジオ放送では読みきれなかったお便りを読んでいきます。今日もたくさんメールを貰っています。それではどんどんフォローしていきましょう。まずはラジオネーム、アダンの実さん。

    「宇野さんこんばんは、メールは久しぶりです。基本火曜日は休みにして毎週聞かせて頂いております。『PLANETS vol.9』の発売日は東京に5時間ほど滞在できたので、発売を祝して取手のゴルドン、西荻窪でキングジョー、そして高田馬場のバニラ、そしていわもとQに立ち寄りました。自宅に帰ると『PLANETS vol.9』が届いていてさっそく読み始めましたが、宇野さんの熱い巻頭メッセージに魂が震えました。膨大な情報と幅広い人脈から、これからの日本の在り方を検証する新たな時代の道標となる万人必読の書だと思います」

    宇野 ありがとうございます! もっと宣伝してください(笑)。

    「裏表紙の広告まで魂のこもった、素晴らしい作品をありがとうございます」

    宇野 これは僕が裏表紙の『ウルトラセブン』の広告でもコメントを寄せた事をおっしゃっていますね。
    「微力ながらクラウドファンディングで価格低減に寄与することが出来たことを誇りに思います。離れたところからではありますが、今後のご活躍を期待しております」
    宇野 ありがとうございます。嬉しいですね、この方はクラウドファンディングに参加してくれた方なんですね。本当に、皆さんから支援してもらったお金がなければこんな価格では出せませんでした。僕は基本、厭世的なところがある人間で、性悪説に立っている人間なんですけど、もう少し世の中を信用してもいいのかなって、世界を信じてもいいのかなって思えるきっかけになりました。
    次は、ラジオネームマジ田マジノ介さん。これは2月14日の大阪のスタンダードブックストアでのトークショーの話ですね。

    「宇野さんこんばんは。今月の大阪での宇野さんのイベントに行こうか迷っています。イベントが終わった後など、宇野さんと一言二言でも会話や質問ができたりするのなら行きたいな、と思っているのですがどうなんでしょうか? 教えて欲しいです」

    宇野 これ、全然OKですよ。ぜひ来てください。スタンダードブックストアさんはカフェみたいなものがあって、イベントの時だけそこを貸し切るんですよ。なので、そのカフェの邪魔にならないような形だったらたぶん会場に残っていても大丈夫なので、可能な限り対応したいと思います。僕も、せっかくの関西の読者さんと触れ合える機会なので、これを活かしたいと思っております。あっ、いまニコ生のコメントでも「関西のイベントチケット買いました」って。ありがとうございます、お誘い合わせの上来てください。このトークショーは僕のノートパソコンから簡易生中継して、後日チャンネル会員向けに綺麗な画質の動画をあげるつもりなんですけど、がっつり会員限定放送にして、わりとヤバい話をいっぱいしようと思っています。せっかくの大阪なので、東京のしがらみから離れてね(笑)。(2/14開催! チケットのお求めはこちら→http://www.standardbookstore.com/archives/66169576.html)
    はい、続きましてこれはラジオネーム、鼻からぼた餅さんです。15歳の高校生女性です。おぉー。

    「宇野さんこんばんは、今週のメールテーマ『2020年に実現したいこと』ですが、2020年というと私はちょうど成人している頃です。できればというか、お願いだから大学に入っていて欲しいです。20歳の自分なんて想像できないし、したくないのですが、とりあえず私は歳だけ取りたい願望がすごいので、朝帰りとかしていたら本望です。川田十夢さんと宇野さんのラジオ、最高に面白いです!」

    宇野 ありがとうございます。まぁでも、20歳で大学に入っていなくても世の中なんとかなるんで、そこはあんまり気にしなくていいと思いますね。朝帰りかー、朝帰りとかしていたら本望ですと書いてくれていますけど、僕はもう朝帰りしたくてもたぶん体力的に難しくなっていますね。っていうか無理ですよね。
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  • 宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第2回「中間のものについて」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.257 ☆

    2015-02-06 07:00  
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    宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第2回「中間のものについて」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.6 vol.257
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガは、宇野常寛の書き下ろし連載『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第2回です。今回は、『リトル・ピープルの時代』を経て生まれた「中間のもの」という問題設定について、震災以降の思考の変遷から考えていきます。

    宇野常寛『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』これまでの連載はこちらのリンクから。
    ■中間のものについて
     〈PLANETS vol.8〉は僕のターニング・ポイントになった一冊です。いままでの仕事でいちばん思い入れも深い。この本をつくっていた頃に考えていたのは一言で言うと「中間のもの」についてです。これは直接的に〈リトル・ピープルの時代〉から引き継いだテーマだと言えます。
     〈リトル・ピープルの時代〉の村上春樹批判は、彼の考える「受動的な主体」をめぐる批判だと言い換えられます。村上春樹がマルクス主義の内面的な解毒剤として提示した倫理としてのデタッチメント=受動的な主体の擁護は、消費社会下ではむしろオウム的なものへの免疫のなさとしてその脆弱さをさらけ出してしまう。そのため、村上春樹は従来の受動的主体から、その受動性を残したまま能動性につなげていく道筋を物語の中で示そうとしているのだけど、どうしてもうまくいかない。その結果、性差別的な想像力に依存した責任転嫁モデルを反復してしまう、という問題があるわけです。
     そこで〈リトル・ピープルの時代〉では、仮面ライダーを素材に、内面の問題からシステムの問題に論点を移すことで、この問題を突破しようと考えたわけです。要するに、人間はどのような意識をもとうとも権力的に作用する生き物なのだから、という諦念を前提に、ではそんな愚かしい生き物たちの間をどう調停するのか、というかたちで村上春樹の突き当たった壁を突破しようとした。そして、こうして視点を移すことで浮上する新しい問題こそが重要なのだ、と考えたわけですね。たとえば「悪」と超越の問題がそれで、すべての思想が小さな「正義」なら、「悪」はどこに存在するのか、という問いは要するに大きな物語なき今、超越とは何か、という問いでもある。
     その中で出てきた新しい問題の一つが、「変身」というテーマです。
     平成仮面ライダーは「変身」をエゴの強化の問題から関係性の問題に転換している、という議論をここで僕は展開したわけですが、同時に僕はここに、村上春樹が提示しようとして失敗した、受動的能動性ともいうべきものの問題があるように思えたわけです。
     たとえば〈仮面ライダー龍騎〉に出てくる仮面ライダーは、モンスターと契約することで変身能力を得て、同時にバトルロイヤルに参加する権利を得る。これは普通に考えたら、社会契約の比喩ですね。市民としての自覚を前提に、民主主義に参加する。しかし、この作品はそうは描いていない。主人公は半ば巻き込まれる形で仮面ライダーになってしまうのだけど、やがて戦いを止めるために自分からゲームに参加していく。
     要するに、人間とはすべての選択を自己決定できる能動的な主体=市民でもなければ、すべてを運命に流されていく受動的な主体=動物でもなく、常にその中間をさまよっているわけです。(当時の仮面ライダーがこの問題を内包していたのは、正義や暴力といったテーマを扱う上で、避けては通れない問題だったからでしょう。)
     言い換えれば、20世紀的な想像力の限界はここにあったのではないか、と僕は思っています。20世紀は「映像の世紀」だと呼ばれていますが、この「映像」という制度は現代から考えると古い人間観に立脚したものだと言えます。
     たとえば「映画」はとても能動的な観客を想定したメディアです。対してテレビはとても受動的な視聴者を想定したメディアです。これは先ほどの比喩に当てはめるのなら映画は市民、テレビは動物を対にしたメディアだと言えるわけです。
     しかしインターネットは違います。インターネットはユーザーの使用法で映画よりも能動的にコミットする(自分で発信する)こともできれば、テレビよりも受動的にコミットする(通知だけを受け取る)こともできます。もちろん、その中間のコミットも可能です。
     インターネットは、はじめて人間そのもの、常に「市民」と「動物」の中間をさまよい続ける「人間」という存在に適応したメディアだと言えるでしょう。
     同じことが、たとえば政治制度にも言えます。多くの民主国家では現在、二院制度が敷かれています。上院と下院、参院と衆院。これは要するに「市民」を対象とした熟議と「動物」を対象としたポピュリズムでバランスを取る、という発想です。
     ここからわかるのは、20世紀までの人類は技術的に人間の、極端な二つの側面、つまり「市民」か「動物」かしか想定した制度をしかつくることができなかった、ということです。そして仕方なくその両者を並置させてバランスを取っていたのだと思います。しかしインターネットが、いやインターネットを下支えする情報技術の発達がこの二項対立を崩しつつある。それは具体的には、「市民」や「動物」といった極端な人間像ではなく、「人間」という生物そのものの性質に対応した技術をようやく人類が手にし始めた、ということでもあります。したがって、これからの人間像や社会像は、こうした情報技術によって書き換えられた「後」のものを前提にすべきだというのが僕の考えであり、村上春樹が突き当たった壁の突破口がここにあると考えるのもそのためです。
    〈PLANETS vol.8〉で大きく取り上げた「ゲーミフィケーション」とは、この情報技術による人間の能動性のコントロールのことだと言い換えられますし、チームラボの猪子寿之との議論は、こうした新しい人間性を前提としたときに、人間はどういうかたちで個人と世界との関係をイメージするのか、という議論だとも言えます。
     まとめると、〈リトル・ピープルの時代〉で発生した「中間のもの」という問題は〈PLANETS vol.8〉での情報技術による人間性の更新、という問題に接続されていったことになります。
     
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  • イギリスの政治家は失言をしないのか?(橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第5回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.256 ☆

    2015-02-05 07:00  
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    イギリスの政治家は失言をしないのか?(橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第5回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.5 vol.256
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガは、『現役官僚の滞英日記』第5回です。今回はロンドンのハード面としての交通・道路事情、ソフト面としての言論・ジャーナリズムの在り方を、東京との比較から考えます。

    橘宏樹『現役官僚の滞英日記』前回までの連載はこちらのリンクから。
     
     
    こんにちは。橘です。ロンドンに来て半年が過ぎました。最近、小さなことなのですが、今住んでいるところと、東京で住んでいたところが、非常にそっくりであることに気がつきました。ロンドンの真ん中には、テムズ川という川が東西に曲がりくねりながら流れているのですが、私は今、このテムズ川を渡って南の岸のすぐそばに住んでいます。市役所やthe Shardという地上306メートルのランドマーク的な高層ビルの近くで、川を渡って少し歩くとセント・ポール寺院という非常に有名な大聖堂があります。川に沿って西に1時間ほど歩けば、国会議事堂や官庁街にたどり着きます。東京で暮らしていた時は、東京スカイツリーや墨田区役所のすぐそばに住んでいました。川を渡って少し歩くと、浅草寺があり、隅田川に沿って江戸通りを南下していくと霞ヶ関に至ります。だいぶ似たような位置関係の場所に住んでいると思いませんか?このことに気がついたのは、電車がテムズ川に架かる橋の上を渡って行くのを眺めていたとき、はたと、東武伊勢崎線がスピードを落としながら浅草駅に入っていく隅田川の景色によく似ているな、と思ったことがきっかけでした。そして、テムズ川の北側は荘重な建物の並ぶ旧市街やガラス張りの高層ビルが並ぶ金融街がある一方で、南側は移民が多く住み、雑然とした古いマーケットが賑わういわゆる「下町」になっていて、これもちょうど隅田川の東西と同じような感じなのです。
     
    では、逆に、都市としてのロンドンと東京では何が違うでしょうか。どちらが「進んで」いるでしょうか。それはなぜでしょうか。ロンドンが進んでいるとしたら、それは東京にも取り入れられるものでしょうか。今回は、ハード面の違いとしてまず、交通、道路。そしてソフト面ではマスメディアの拠点である首都ロンドン・東京の言論壇における違いについて気がついたことに触れてみたいと思います。

    ▲セント・ポール大聖堂からの眺望。左奥の三角のビルがthe Shard。天気はいつもこんな感じ。
     
     
    ■交通
    ・地下鉄
    まず地下鉄です。ロンドンではチューブという市営地下鉄が縦横無尽に張り巡らされていて、市民の足として利用されています。私も毎日のように利用しています。「オイスターカード」と呼ばれる東京で言えばSUICAやPASMOのようなICカードがあります。市営バスと共通利用です。学割もあります。
     
    料金は、Zoneという単位で区切られていて、Zone1が中心です。中心に近い区域に向かうほど料金が高く、また時間帯によっても値段が違います。例えば、オイスターカードを使ってZone2からZone1に向かうと、片道で現在オフピーク時だと約400円です。ピーク時には約500円かかります。ちなみに現金で切符を買うと、どの時間帯でも約850円かかります。さらにオイスターカードにはdaily price capと呼ばれる1日の課金上限(約1000円)があって、一日で何度乗り降りしても、オイスターカード利用者はこの金額以上の額は引き落とされません。旅行者にとってもお得です。明らかに「ピーク時乗車を避けてくれ」「現金よりもオイスターカードを使ってくれ」という意図が見て取れます。経済的な傾斜をつけて「ソフトに」大衆行動を誘導する、以前ご紹介した「ナッジ」的政策がここにも見られます。
     
    ▼「ナッジ」に触れた回はこちら。
    第3回「イギリスの情報公開は本当に進んでいるのか?」
     
    地下鉄駅構内は非常に古いです。駅によっては苔むすレンガや石造りの、ローマ時代の水道や坑道のような構内に改修を重ねてギリギリ使っているという風です。携帯の電波はたいてい入りません。また、通路やエレベーターは乗客と降客で出入口が異なるなど動線がはっきり分けられています。間違えて戻ったりする際はなかなか大変ですが、客同士がぶつかったりしにくいので個人的にはスムーズで良いなと思います。エスカレーターやエレベーターは、ある駅もありますが、あってもよく故障して止まっています。ホームに通じる階段にはたいていこれまた狭い螺旋階段ですが、「176段あります」などと段数が明示してあります。ほぼすべての駅では、どこかで必ず階段を使わなければホームまで降りられませんので、乳母車、大きな荷物を抱えた旅行者、お年寄りや障害者には大変酷です。しかし、乳母車や荷物を抱えたご婦人には、必ずそばの誰かが手を運ぶ手を貸してくれます。
     
    また、構内では大道芸人がパフォーマンスをしています。よくあるギター弾き語りのみならず、年配の女性がオペラを歌っているのも見かけました。時には車内でバイオリンを弾いている人もいました。地下鉄車内は、広告は貼られていますが、日本のような「吊り」広告がありません。なぜなら天井が低いからです。東京の都営大江戸線よりも圧迫感があります。車両の幅も、座席の幅も狭いです。体格のいい人も多く、またビジネスマンでもリュックを背負っている人が多いのでなかなか窮屈です。
     

    ▲電車内でバイオリンを演奏する大道芸人
     

    ▲ロンドンの地下鉄路線図
     
    また、駅構内では壁に貼られている地下鉄路線図とにらめっこしている人をよく見かけます。「今いる駅はココ」と強調して明示されていないので、旅行客にとっては、今いる駅を探すことからして大変なのです。それから、東京の駅のホームの柱などによく貼ってある、出口に近い乗車位置がだいたい何両目あたりにあるのかを示す掲示は存在していません。私はあの掲示をけっこう便利だと思っていたので、ユーザー目線の工夫では日本の方が優れていると感じます。とはいえ、合理的な乗車位置の情報が明らかになったら、たいていホームに出る階段は入口も出口もそれぞれ一箇所なので、混雑を誘発してしまうことになりそうなので、表示しないこと自体が「ナッジ」なのかもしれません。
     
    しかし、それ以前に、そんなことまで気にして地下鉄に乗ることは、ロンドンっ子の感覚では異常だと思うような気もします。なぜなら、地下鉄の運行にはもっと大きな問題があって、乗車位置で時間短縮を図る以前に、そもそも移動時間が読めないのです。というのも、問題のないときこそ、運行間隔は混雑時でも1~2分ごとに運営されていて、優秀だなと思うのですが、乗車中、急にアナウンスがあって、この先は行けなくなったからと、次の駅で降ろされることが多々あります。そういう時は、地下鉄の駅ごとに止まる臨時バスが出て代替輸送が行われます。また、駅のホームが車両の長さと合わず「この駅では降りられない車両」があったりします。それから工事の関係で「しばらく降りられない駅」「しばらく乗れない駅」もあります。ちなみに、ストライキも頻繁にあります。工事やストライキなどによって影響が出る運行の情報は、メールアドレスを登録しておくと「ある程度は」事前に知ることができます。
     

    ▲ビッグベンに沈む夕日
     
    ・バス
    バスは地下鉄より安く、より市民に身近な日常の足です。お馴染みの赤い二階建てバスがたくさん行き交っています。バス乗車一回で現金支払いですと一律約400円ですが、オイスターカードを使うと地下鉄同様、約250円になり、1日の課金上限は約800円となっています。市営ですが運行情報が公開されているので、スマートフォンの様々な無料アプリやWEBページで、自分好みの表示のものを選んで見ることができます。例えばこちら。73番ラインのバスルートと運行しているバスの動きがわかります。
    (http://traintimes.org.uk/map/london-buses/#73)
    路線はロンドン市内で約600本運行しているのですが、すべて番号で表示されていますし、私自身もこちらに来てすぐ乗りこなすことができました。夜間でもナイトバスが運行されていて便利です。
     
    しかし、長所ばかりでもありません。石畳の道路や、蛇行する道路が多いこともあって、重心の高い二階建てバスは非常に揺れます。二階への階段をのぼっている途中に、容赦なく揺さぶられますので、本当に危険です。運転手は大変シビアです。バス停でもかなりしっかり手を挙げてアピールしないと、降客がいなければ止まってくれません。乗客のことも基本、待ちません。ある時は「待ってー」と呼びながら乳母車を押して猛然と走ってきたご婦人がいたのに、5秒くらい待ってあげれば乗せてあげられたものを、当然のように置き去りにして発車していきました。運転席は暴漢から運転手を守るため、強化プラスチックで囲まれているので、外の声は聞こえないということなのでしょうか。また、地下鉄同様、急に行き先が変わったり、次の停留所で全員降ろされたりということも珍しくありません。また、車内には路線図はありません。
     
    東京の都営バスは「揺れますのでお気をつけください」とか「ドアのそばは危ない」とか(少なくとも日本語で)アナウンスがあったり、バリアフリーの車両も増えてお年寄りは無料だったりと、「優しい」仕様だと思います。しかし、車内に路線図が貼ってあっても、旧町名が残ったバス停の名前と地図上の地名にズレがあったり、路線名からして漢字が含まれていたりして、外国人には非常に利用しにくいものだったと思います。事実、都営バスを利用する外国人旅行客はだいぶ少ないのではないでしょうか。私は東京に約30年住んでいましたが、土日・平日の昼間含めて、都バスに外国人旅行客と乗り合わせた記憶はあまりなかったように思います。
     
    どの都市の旅行客にとっても、風景を楽しみながら移動できるバスは大変魅力的な交通機関だと思います。秋葉原や浅草などのお決まりスポットを周遊するツアーバスを楽しむのみならず、公共バスにちょっと乗ってみて、車内から目にとまったものを追ってすぐ降りるといった、気ままな散策をしたい外国人旅行者は非常に多いと思います。近年の都営バスは無料Wi-Fiの展開や、わかりやすい「都バス運行情報サービス」webページの公開など外国人利用者向けの施策を打ち出してますし、web上で公開されている運行情報を元にした様々なアプリも出てきており、良いことだと思います。しかし、英語版については、編集部に東京都交通局に聞いていただいたところ、都バスのルート案内の英語アプリはなく、外国人の方には、主要駅のバスターミナルに置いてある紙の地図を案内しているとのことでした。東京オリンピックに備えて、外国人にとってわかりやすい路線図や英語のアプリがさらに供給されていくと良いなと思います。
     

    ▲ハイドパーク内に冬だけ出現する移動遊園地「ウィンター・ワンダーランド」の観覧車
     

    ▲クリスマスシーズン、願い事が書かれた木札がもみの木にぶら下げられていました。ちょうど絵馬や七夕の短冊のようですね。
     
     
    ・人々
    バスや地下鉄車内の人々は、本当に人種が雑多です。白人も黒人も、アラブ系もインド系もアジア系もラテン系もいます。どの人種が特に多いという偏りは、チャイナタウンといった一定の区域では感じることもありますが、交通機関の中ではあまり感じません。私は日本に帰国したら、最初はきっと、周りがすべてアジア系、しかもみな日本人であることに、違和感を感じてしまうかもしれません。ただし、お年寄りや車椅子の方は地下鉄では特に少ない印象です。上記のとおり、バリアフリーではないからでしょう。
     
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  • 妖怪ウォッチはいかにして〈ポケモン〉に挑んだか(石岡良治×真実一郎×宇野常寛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.255 ☆

    2015-02-04 07:03  
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    妖怪ウォッチはいかにして〈ポケモン〉に挑んだか(石岡良治×真実一郎×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.4 vol.255
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガは、真実一郎さん・石岡良治さんと『妖怪ウォッチ』を語った鼎談です。なぜ妖怪ウォッチはここまでのメガヒットコンテンツになったのか? レベルファイブの過去作や水木しげる、『おぼっちゃまくん』『クレヨンしんちゃん』『ポケモン』といった他の児童向け作品と比較しながら考えます。
    初出:サイゾー2015年1月号(サイゾー)
     
    ▼作品紹介
    『妖怪ウォッチ』
    企画・シナリオ原案/日野晃博 監督/ウシロシンジ シリーズ構成/加藤陽一 制作/OLM 放映/テレビ東京
    『レイトン教授』『イナズマイレブン』など多数のヒット作を生んできたゲームメーカー・レベルファイブが手がけるクロスメディア展開作品。さくらニュータウンに住む小学5年生・天野景太(ケータ)と、妖怪執事ウィスパー、ネコの地縛霊妖怪・ジバニャンを中心に展開するギャグタッチの妖怪アニメ。ネットスラングや他作品のパロディネタが多く含まれ、大人でも笑える。
     
    ▼座談会出席者プロフィール
    真実一郎(しんじつ・いちろう)
    広告から音楽、マンガ、グラビアアイドルまで世相を観察するブログ「インサイター」運営。著書に『サラリーマン漫画の戦後史』(洋泉社新書y)。
     
    石岡良治(いしおか・よしはる)
    1972年生まれ。跡見学園女子大学ほかで非常勤講師。専門は表象文化論。近著に『視覚文化「超」講義』(フィルムアート社)。
     
    ◎構成:藤谷千明
     
     
    宇野 今年は、黄色いネズミ(=ピカチュウ)が赤いネコ(=ジバニャン)に食われた年として記憶されるんじゃないかというくらい、『妖怪ウォッチ』の勢いがすごかった。
    真実 ここまで急速にビッグなコンテンツになるとは、予測されていなかったんじゃないでしょうか。僕には小学生の子どもがいるんですけど、子どもたちを見ていて思うのが、ほかのコンテンツと比べて『妖怪ウォッチ』はメジャーになるスピードが速い。『妖怪ウォッチ』のマンガ版が載っている「コロコロコミック」(小学館)も、それまでは60万部くらいだったのが、付録に妖怪メダルをつけた途端130万部が完売になったそうで、今でも安定して100万部は売れているようです。妖怪メダルは2014年末までに1億5000万枚出荷と聞きます。あの大ヒットした『仮面ライダーオーズ』のメダルでも3300万枚といわれているので、その凄さが分かりますね。
    宇野 アウトドア雑誌でも親子向けのグッズ付録を付けたり、セブン-イレブンやピザーラなど、企業コラボの節操なさもすごい。
    真実 ヒットしているコンテンツって、普通は売れれば売れるほどタイアップ先選びに慎重になるんですけど、『妖怪ウォッチ』はなんでもありですよね。経営不振のマクドナルドが、妖怪ウォッチとコラボしたことでハッピーセットの売り上げが3倍くらいになったらしく、「神風が吹いた」と言われています【1】。「hulu」のような動画配信サイトも、どこもこぞって『妖怪ウォッチ』の配信を売りにしている。12月公開の映画も特別協賛がサントリーや花王、日本生命など大企業が8社もついている。これはもう、日本経済を動かしているといえるかもしれません。
    【1】マクドナルドと『妖怪ウォッチ』
    日本マクドナルドでは、ハッピーセットなどで『妖怪ウォッチ』グッズを展開しており、今年9月には開始5日間で当初予定の3倍となる販売数を達成。11月には「妖怪ウォッチ カレンダー2015」を発売した。
    宇野 今年発売された3DSソフト『妖怪ウォッチ2 元祖/本家』も、累計300万本を超えた。玩具の妖怪ウォッチも品薄が続いています。もはや国民的タイトルになっているにもかかわらず、特にアニメ版は、あそこまで好き勝手にやっていいのかと思ってしまう。21世紀の夕方にこういうアニメが放送されているって、奇跡的なことに思える。ゲームも工夫されているとは思うけど、『妖怪ウォッチ』の直接のブレイクのきっかけはアニメでしょう。徹底的に俗悪に風俗と一体化するような形で、キャラクターを新しく作っている。同じ幼年向けコンテンツでゲーム原作の『ポケモン』と比べても、アナーキーさが違う。むしろ今の『ポケモン』アニメは、上品にまとめようとしていてつまらない。
    石岡 ジバニャンの可愛さを盾にして、好き放題やっている感じがいいですよね。『ポケモン』も初期は“ユンゲラー”【2】みたいなパロディに代表されるように、黒い要素が満載だったけど、今はそうではなくなっている。『妖怪ウォッチ』にはまだ、「子どもに見せたくない感じ」があります。あのパロディの節操のなさは異常でしょう。39話がネット配信休止になった時も「ピンクレディーのパロディが原因じゃないか」とかいろいろ理由が推測されてましたが、「ほかの話のほうがヤバイだろ!」と思いました(笑)。
    【2】ユンゲラー
    ねんりきポケモン。当然モデルはユリ・ゲラーで、当の本人から損害賠償を求める裁判を起こされた。
    宇野 23話でロボニャンがアナル開発される回【3】や、27話のスティーブ・ジョブズをパロったスティーブ・ジョーズの回【4】なんか、特にひどかった(笑)。ジョブズなんて、まだ亡くなって3年くらいしか経っていないのに、容赦なくネタにしてしまっている。しかもあの回って、玩具の「妖怪ウォッチ零式」の発売直前で、視聴者に対して「零式もiPhoneみたいに並んで買えよ」と暗に言っているわけで、悪意がすごい。
    【3】ロボニャンがアナル開発される回
    ロボニャンは、ロボットのような外見をした「未来のジバニャン」。決め台詞は「I’ll be back」。27話では妖怪「からくりベンケイ」と戦い、剣で体を突かれて頬を赤く染め「さぁ、もっと来い!」と叫ぶドMぶりを発揮した。
    【4】スティーブ・ジョーズの回
    妖怪世界で「妖怪ウォッチ零式」を開発したとされる「スティーブ・ジョーズ」が登場。ジーパンに黒いタートルネックでプレゼンする姿は、完全にスティーブ・ジョブズだった。「妖怪ウォッチ零式」買いたさに、多くの妖怪がガラス張りのショップに長蛇の列をなし、ウィスパーも「乗るしかないです、このビッグウェーブに!」とケータを連れて参戦。
    真実 昔の『飛べ!孫悟空』【5】的なパロディというか、『サウスパーク』的な風刺というか、サブカルチャー的な過去のネタ引用がめちゃくちゃ豊富ですからね。アニメというより、まるでバラエティ番組です。石岡さんが「子どもに見せたくない感じ」とおっしゃいましたが、『妖怪ウォッチ』のあのブラックさは、教育上はよろしくないかもしれないけど、親も一緒に観ていて楽しめてしまう。うちの子供もニャン八先生の真似とかしてますよ。
    【5】『飛べ!孫悟空』 
    77~79年にTBS系列で放送された、ザ・ドリフターズの人形劇。ドリフのメンバーそれぞれを『西遊記』の登場人物に見立て、よく似た人形を登場させて声をあてていた。毎回ゲストを招き、そのタレントとギャグを展開するつくりになっていた。
    宇野 『サウスパーク』は社会風刺としてのパロディだけど、『妖怪ウォッチ』にはそれすらない。同じ幼年向けアニメの『ケロロ軍曹』は大人のオタクの想像の範囲内、安全圏でパロディをやっているけど、『妖怪ウォッチ』は原作に配慮がないというか、ある種、殺伐としているのが面白い。もちろん、幼年向け作品の中でパロディというのは昔からあって、『ドラえもん』だって、ミニ四駆やガンダムが流行ればそれを取り入れたエピソードを出していた。けれど、それは児童誌で連載しているから流行を追わなければならないということであって、『妖怪ウォッチ』のあの節操のなさとは全然違う。
    石岡 1970~80年くらいの子ども向けのドラマだと、古典落語や時代劇の教養を前提としていて、大衆演芸の歴史を意識した脚本家は結構多かったと思うんですよ。話の中で忠臣蔵パロディが突然始まる、みたいな。今それをやろうとすると、ネタの参照源としてちょっと前のハリウッド映画や海外ドラマ、日本の『金八先生』みたいな作品が古典として出てくる。数十年前の日本のドラマやマンガといったものが、古典としてリサイクルされている感じがある。各話完結で話数がめちゃくちゃ多い幼年向けアニメは、どうしても穴埋め回が増えてしまう。だからその分、脚本家の素のネタがバンバン出てくるわけです。話数が膨れ上がると、そういう穴埋めや引き延ばしが出てくるのは避けがたい。大人が幼年向けアニメーションを見ることの厳しさの理由のひとつとして、穴埋めによる物量の極端な水増し感にあると思うんですよね。『妖怪ウォッチ』はその水増しも穴埋めも、まったく考え抜かれていないがゆえに、かえって結果的にコンテンツとして面白いものになっているのが興味深い。
     そういえば水増しという意味では、古典妖怪【6】の存在はどんどん使い倒していくのかなと思いきや、そうでもなかったのが意外でしたね。現代の子どもに怖がられなくなった古典妖怪たちがホラーDVDを見て、怖さを学習して子どもたちをビビらせるというエピソードはいいなと思いました。現代メディアを活用しない懐古性みたいなものは一切持ち合わせていないところが徹底している。
    【6】古典妖怪
    『妖怪ウォッチ』内で、伝統的な妖怪につけられた種別名。「一つ目小僧」「ろくろ首」「唐傘お化け」などが登場する。ウィスパーがへりくだる。
    宇野 古典妖怪も、ジバニャンの持っている「ニャーKB」【7】のチケットで買収されるしね。
    【7】「ニャーKB」
    『妖怪ウォッチ』作中に登場する、国民的アイドルグループ。ジバニャンが大ファン。
    真実 全体を通じて、『クレヨンしんちゃん』につながる猥雑さがありますよね。
    宇野 『ドラえもん』『ポケモン』『妖怪ウォッチ』というラインで考えると、『クレヨンしんちゃん』は補助線として大事ですね。もしかしたらアニメから風俗を感じる作品って、『クレしん』以来かもしれない。90年代に『クレヨンしんちゃん』が出てきたときに、『サザエさん』世代でもない、ポストバブルの核家族のリアリティが強烈にあった。そういった作品群の現代版が『妖怪ウォッチ』なのかもしれません。
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  • 2020年の挑戦 カルチャー・メタボリズムとしての“裏オリンピック” (安藝貴範×伊藤博之×井上伸一郎×夏野剛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.254 ☆

    2015-02-03 07:00  
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    2020年の挑戦カルチャー・メタボリズムとしての“裏オリンピック”(安藝貴範×伊藤博之×井上伸一郎×夏野剛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.3 vol.254
    http://wakusei2nd.com


    いよいよ発売となった「PLANETS vol.9 東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」。メルマガ先行配信の第3弾は、グッドスマイルカンパニー代表・安藝貴範さん、KADOKAWA代表取締役専務・井上伸一郎さん、クリプトン・フューチャー・メディア代表・伊藤博之さん、そして慶應義塾大学特別招聘教授の夏野剛さんをお招きした座談会です。サブカルチャー産業のキーパーソン4人が、「オリンピックの裏で開催されるサブカルチャーの祭典」計画についてとことんアイデアを出し合いました。
     
    体育祭としての東京オリンピックに対して、文化祭としての“裏オリンピック”はどうあるべきなのか。2020年までの間に、サブカルの担い手たちはどのように世代交代すべきなのか。その議論にうってつけの4人がここに集結した。
    「ねんどろいど」をはじめとしたフィギュアの制作・販売を行うグッドスマイルカンパニー代表取締役・安藝貴範氏。ゼロ年代の音楽業界に一石を投じた「初音ミク」の生みの親、クリプトン・フューチャー・メディア代表取締役・伊藤博之氏。出版人としてアニメやマンガと関わり続けてきたKADOKAWA代表取締役専務・井上伸一郎氏。「iモード」「おサイフケータイ」など数多くのサービスを立ち上げ、現在はKADOKAWA・DWANGO取締役などを務める夏野剛氏。現在の国内ポップカルチャーシーンを「実業家」の立場から牽引する4氏が描く青写真とは?
     
    ◉司会:宇野常寛
    ◉構成:稲葉ほたて
     
    ▼プロフィール
    安藝貴範〈あき・たかのり/写真左から2人目〉
    1971 年生まれ。グッドスマイルカンパニー代表取締役。01年創業。「ねんどろいど」をはじめとしたフィギュアや玩具などの企画・制作・販売業務ほか、近年は『ブラック★ロックシューター』『キルラキル』といったアニメーション作品への出資も行っている。GSC傘下にアニメ制作HD会社ウルトラスーパーピクチャーズ保有し、直下に4社のアニメ制作会社を持つ。
    伊藤博之〈いとう・ひろゆき/写真右から2人目〉
    1965年生まれ。クリプトン・フューチャー・メディア代表取締役。95年、世界のサウンドコンテンツを日本市場でライセンス販売する同社を北海道札幌市に設立。04年からヤマハの音声合成エンジン「VOCALOID」を搭載した音声合成ソフトの開発・発売をスタートする。07年8月、「VOCALOID2」を搭載した「初音ミク」を発売。2013年には藍綬褒章を受章した。
    井上伸一郎〈いのうえ・しんいちろう/写真中央〉
    1959年東京生まれ。株式会社KADOKAWA代表取締役専務。87年4月、ザテレビジョン入社。アニメ雑誌『月刊ニュータイプ』の創刊に副編集長として参加。以後、情報誌『ChouChou』、マンガ雑誌『月刊少年エース』などの創刊編集長などを歴任。07年1月、角川書店 代表取締役社長に就任。13年4月、角川グループホールディングス(現KADOKAWA)代表取締役専務に就任。
    夏野 剛〈なつの・たけし/写真右端〉
    1965年生まれ。慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 特別招聘教授。KADOKAWA・DWANGO取締役。97年NTTドコモ入社、99年に「iモード」、その後「iアプリ」「デコメ」「キッズケータイ」「おサイフケータイ」などの多くのサービスを立ち上げる。05年執行役員、08年にドコモ退社。現在は慶應大学の特別招聘教授のほか、ドワンゴ他複数の取締役を兼任する。
     
    ▼これまでに配信した、関連インタビュー記事はこちら。
    ・アニメが世界を征服するために必要なのは〈デザイン〉の力――グッドスマイルカンパニー代表・安藝貴範インタビュー
    ・東洋の〈個人〉の在り方に根差したアートのかたちとは――?「初音ミクの生みの親」クリプトン・フューチャー・メディア伊藤博之インタビュー
    ・「Newtype」で振り返るオタク文化の30年、そして「2020年以降」の文化のゆくえ――KADOKAWA代表取締役専務・井上伸一郎インタビュー
     
     
    宇野 ここでは2020年の東京オリンピックを「表の体育祭」と位置づけ、そういう「リア充」たちの表の祭典に対抗して、どうせなら僕たち「非リア充」の裏の文化祭を東京で開催できないだろうかと思い、皆さんをお呼びしました(笑)。
    夏野 素晴らしいね。ちなみに私、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の参与なんです。だから裏とか言わずに、両方でやっちゃったらいいんじゃない。
    宇野 もちろん、「裏」とは言っていますが「表」の、つまり正規の文化プログラムに入り込めたらそれに越したことはないと考えています。ここで重要なのは、その気になれば僕ら民間の人間の手で、つまり「裏」で実現可能なプランを出せることですね。
     戦後のオタク系文化にはどこか現実とは遊離したことを主張して、遊離しているがゆえにロマンティックな価値がある、と考える傾向がある。これってたぶん戦後民主主義の間接的な影響で、理想は現実と遊離していなければならない、というイデオロギーが働いている結果です。だから被害者意識も強いし、何かを実現することに対してみんな臆病なところがある。しかし一方ではオタク系文化は科学の作るワクワクする未来へのあこがれを原動力にもしているのも確かです。だから、このタイミングで、僕たちの妄想や理想を現実にしていくことができたら、日本のサブカルチャー、特にオタク系文化は次のステージに行けるように思うんです。
    伊藤 そういう機会を用意するのは大事だと思いますね。お祭りがキッカケを与えて、みんなにパワーを提供することはあると思います。
    宇野 現実的な話をすると、会期中に東京にやってくる観光客が競技を観戦できるのは一瞬だけで、あとは街をぶらぶらしているわけですよ。そのときにサブカルチャー都市・東京を満喫してもらえればいいのでは、という発想が根底にはあります。
     
     
    街にサブカルチャーをインストールする
     
    宇野 まず考えられるのは、既存のイベントを誘致することです。例えば、2020年のオリンピック期間中(7月24日から8月9日)は東京ビッグサイトが使えないので、コミケが通常とは違った開催になるはず。それを中心に他のイベントを配置していくのは、一つのアイデアですね。例えば、ニコニコ超会議をやって、お盆にコミケをやって、その間にJapan Expoやアニメフェアがあるというように。ただ、そもそもの話として、湾岸の大きい箱がオリンピックに使われてしまうんですよ。
    伊藤 我々がやるべき「裏オリンピック」って、そもそも予算がない(笑)。だから、国家のようにどこで競技をやるかみたいなハードウェアから考えない方がいいと思います。要は、ハードウェアにいかに便乗して、ソフトウェアをインストールするか。だから、東京でやってもいいのだけど、そのときには「街を面白くする」とか「ホコ天を始める」とかみたいな発想がいいと思いますね。そうして、街に何かしらのソフトウェアをインストールして、残していくことが大事ですよ。
    夏野 その「街に日本のサブカルチャーをインストールする」という発想はいいですよ。
    安藝 徳島のマチ★アソビとか、札幌の雪祭りみたいな感じですね。
    夏野 実は、ドワンゴが池袋で歩行者天国をやろうと仕掛けてるんです。そうすれば、歩行者天国で常にコスプレができる。そういう広場が、いまの日本にはないんです。本当は、そういう機能を銀座だけじゃなくて、東京の各所に埋め込みたいんですよ。
     そう考えると、これを機会に日本の都市機能の中にサブカルチャーがビルドインできるんだね。オリンピックの期間だけで終わらせるのはもったいない。表のオリンピックは、その夏で終わりでいいよ。でも、この裏のオリンピックは、そこから日本が始まるようなものにしたい。例えば、駅ごとにキャラがお出迎えする機能を作って、ずっと東京のシンボリックなものにしちゃうとかね。そこから、日本が変わったということにしたいな。
    伊藤 つまり、東京オリンピックという国家的な行事に便乗して、アンダーグラウンドまでひっくるめた、趣味的なポップカルチャーのアイコンを都市に埋め込むわけですよね。
    井上 今、日本は2020年までのビジョンは見えますが、2021年以降が見えづらい。これを機に2021年以降に残るアイコンを作りたいですね。
    宇野 なるほど、東京という都市の「どこを」ハックして裏オリンピックを忍び込ませるかという話ですよね。たしかにそこは競技会場の少ない、旧市街を中心に考えたいです。
    夏野 あとは、寺と神社とかね。文化遺産ですから、これは使えますよ。KDDIは増上寺でプロジェクションマッピングをやっていたし、築地の本願寺でもコンサートをやってますからね。
    伊藤 去年の「TEDxTOKYO」の打ち上げが渋谷の神社でした。案外貸してくれるんですよ。
    安藝 去年、平安神宮で水樹奈々ちゃんがコンサートをやりましたからね。寺を見に来た観光客は嫌がるかもしれないけど。
    宇野 今流行っているスマホの位置ゲー『Ingress』をやっていると、いかに日本に寺社仏閣が多いかがわかるんですよ。もはや東京は、駅と寺社仏閣が延々と並んでいる街に見えるくらいです。
    夏野 そういう外国人向けガイドブックに載っていないところをネットワークで繋げばいいんじゃない。
    宇野 神社や寺社仏閣は狭いところも多いですし、コレクション性で勝負するのはいいですね。それこそ、全部周ることに意味があるとか、行ったぶんだけキャラクターが集まるとか。
    井上 44カ所を巡るとかね。
    夏野 最近は代替わりしていて、若い神主さんも多いんだよ。俺なんて最近、真言宗の若手の僧侶の勉強会に呼ばれて、ITの話を頼まれたからね。「こういう企画を通じて宗教を理解してくれればいい」くらいに考えてくれると思うな。しかも、神社の巫女なんて、サブカル的にはたまんないじゃない。
    伊藤 神社は暗くて、空間的にもいいですよね。
    安藝 プロジェクションマッピングができますね。ホログラムの映像が出てきても、おかしくない。
    伊藤 「リアルお化け屋敷」という感じです。
     
     
    「点」ではなく「線」で考える
     
    夏野 ニコニコ超会議くらいの大きなイベントでやっと十数万人の集客なのだけど、実は一日に公共交通機関を利用する人数となると、渋谷駅だけでも何十万人という数なんだよね。そう考えると、「点としてのイベント」みたいなものはメインにしなくていい気もする。むしろ、そんなことは勝手に興行側が考えればいいんであって、点と点を繋ぐ公共交通機関をハッキングできるように、政府に働きかけた方がいいんじゃないかな。
    安藝 外国や地方から東京に来る人は、タクシーを使わずに電車とバスで移動するのが楽しいとよく言いますね。「あそこにどれくらい早く、安く行けるのか」とか。クエストみたいに楽しめるわけです。
    井上 やはり、街とか道のような空間を大事にした方がよさそうですね。
    宇野 それはキーワードかもしれません。表のオリンピックはなんだかんだで「点」で考えているから、湾岸の大きな競技施設に集中するでしょう。でも、それに対して、この裏のオリンピックは通りや旧市街を中心に「線」で考えていく。
    夏野 であれば、意外とバスが面白いんじゃないかな。ラッピングが50万円くらいでできるんだよね。もう、この時期のラッピングは全て牛耳らせてもらって、サブカルをテーマにしちゃえばいい。
    宇野 位置情報を組み合わせると、重層的なゲームのようなものが作れるんじゃないですかね。5年後にはトレンドが過ぎている可能性もありますが、地図情報を上手く使ったゲームもあり得ますよね。
    夏野 都営バスは既にGPSで各車両の位置情報を公開してるんです。「次の停留所まであと何分」というのも公開していて、そこから類推するゲームもできると思う。壮大なスタンプラリーをやるのも面白いよ。しかも、山手線圏内でいうと、都営バスの本数が一番多いんですよ。オリンピックの主催は東京都なわけだから、話は早いですね。
    宇野 キャラクターと組み合わせれば、東京全体が巨大なゲームボードになるんじゃないですか。スカイツリーに行くと『妖怪ウォッチ』のジバニャンが出てくるとか、不忍池に行くと『ポケットモンスター』のゼニガメが出てくるとかね。東京の地理とキャラクターが連動するようなサービスは面白いと思います。そうなると、オリンピックのチケットを持っていないような、夏休みで単に暇なだけの小学生にとっても、東京が特別な空間に変わるわけです。
    安藝 キャラクターがついたバスが走っていて、それに乗れるのもいいね。電車は駅しか見えないけど、バスは街を観光できますから。
    宇野 実際、これから湾岸開発が進むとして、あそこは電車網がしょぼいので車メインの移動になるはずなんです。そうなると、2020年の街づくりで公共の車をどう使うかはテーマになります。僕らは東京を把握するとき、つい電車網で切ってしまいがちだけれども、自動車網で考えることでもう一つの東京像が見えてくるはずなんですよ。
    井上 でも、電車だって使えますよ。昔はプロ野球の球場を作ってそこに電鉄を通したものですが、今は街に人を運ぶためにキャラクターを利用しています。鉄道会社にもコンテンツホルダーにもメリットがあって、KADOKAWAの『ケロロ軍曹』なんかもずっと西武新宿線でやらせていただいています。
    夏野 地下鉄やJRの駅に行くと、各駅ごとに違うキャラがいて、そのフィギュアがドーンと並んでいるのとかも良くないですか? 僕は六本木ヒルズで66体のドラえもんを見たとき、なんとも言えないリアリティを感じたんです。あれは何かのヒントになるなと思いましたね。
    安藝 僕らは、すぐ都道府県とか擬人化しちゃいますからね。「足立区ちゃん」みたいな。
    井上 そこは、美少女でしょう(笑)。鉄娘や23区コレクションみたいなのもありますしね。駅の構内のベンチに誰かが座っていて……。
    伊藤 「本物の人間かな」と思って覗きこんだら、実は大きなフィギュアだったとかね(笑)。これはもう安藝さんのところで受注ですね(笑)。
    夏野 本気でやりたいですね。構想に4年かけて、1年前か2年前の開発でイケるでしょう。
     
     
    東京中心主義からの脱却
     
    夏野 ただね、この宇野さんの企画は面白いのだけど、警備の面で考えるとオリンピック期間中に裏文化祭をやるのは現実的に厳しいと思うんです。やはり開催の直前や直後とか、オリンピックとパラリンピックの間の期間を狙う方が妥当なんです。やっぱり期間中にぶつけるって、悪ノリしてる感じがあるじゃないですか。
    安藝 ゲリラっぽい印象はありますね。それに、この期間のホテルなんて、ほとんど確保できません。
    伊藤 もっと違うところでやればいいんじゃないですか。東京である必要はないでしょう。
     
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  • 【再配信】『もののあはれ』の実装は可能か――「necomimi」作者・加賀谷友典が師・江藤淳から継承した思想 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆

    2015-02-02 07:15  
    220pt
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    『もののあはれ』の実装は可能か ――「necomimi」作者・加賀谷友典が 師・江藤淳から継承した思想
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.2 号外
    http://wakusei2nd.com

    「ほぼ惑」では不定期で過去の好評記事を再配信中! 今回は昨年7月に配信した、脳波で動く猫耳「necomimi」を作った加賀谷友典さんへのインタビューです。一見キャッチーなプロジェクトの先に浮かび上がる、「もののあはれ」という意外な言葉の真意とは――?(2014.7.9配信)
     

    ▼プロフィール 加賀谷友典(かがや・とものり)
    1972年生まれ、慶應義塾大学総合政策学部卒業。フリーのプランナーとしてデジタル・ネットワーク領域で多数のプロジェクト立ち上げに参加。新規事業開発における調査、コンセプトの立案、チームマネジメントが専門。主な事例としては坂本龍一インスタレーション作品「windVibe」「Phonebook」「iButterfly」(電通)、「GEOCOSMOS」(日本科学未来館)、読売新聞yorimoプロジェクト、脳波で動くネコミミ”necomimi”など。
     
    ◎構成:稲葉ほたて・池田明季哉
     
     
    necomimiの作者は何をつくろうとしているのか
     
    宇野 僕は加賀谷さんを人に紹介しようと思う時に、いつもどう紹介したらいいか悩んでしまうんですよ。加賀谷さんのような立場でものづくりに関わっている人って、僕の知る限りほとんどいない。効率化と最適化を行うコンサルティングだけでもないし、単に表層的なアイディアを出すのでもない。何か思想を含めた、トータルなビジョンを提案しているように感じるんです。
    加賀谷 そうですね。僕のやっていることは説明が難しいんです。最近自分のことを「新規事業開発専門のプランナー」と言えばなんとなく耳慣れていて納得してもらいやすい、ということを覚えたんですが……(笑)。もっと本質的なことですよね。
    僕は情報ジャンキーなんで、純粋に知りたい欲求で動いているんです。だからたまたま物事がメジャーになる手前でキャッチすることが多くて、それをプロジェクトにしていく感じです。例えばphonebookはまだガラケー全盛のスマホ黎明期に、タッチパネルを使って絵本を作ったプロジェクトでした。
     
    ▲phonebook
    https://www.youtube.com/watch?v=AQ-oQihxBws
     
    その後はiButterflyという、ARとGPSを組み合わせて、ある場所にしかいない蝶を捕まえてクーポンをゲットするアプリケーションを作りました(https://www.youtube.com/watch?v=HAQh-_nFH-s)。
    それでスマホはだいたいやったな、と思ってシリコンバレーに遊びに行ったら、脳波テクノロジー・ベンチャーのニューロスカイ社と仲良くなり、それでnecomimiに繋がっていったわけなんです。
     

    ▲necomimi
    https://www.youtube.com/watch?v=w06zvM2x_lw
     
    宇野 加賀谷さんのプロジェクトって、言ってしまえば全てコミュニケーションなんです。でもその捉え方が普通と少し違っているのが興味深い。
    そもそも情報機器によるコミュニケーションって、文字とハイパーリンクによって人間の内面を陶冶していくような話が多いじゃないですか。しかも、現在のネット空間を見ていると、その可能性を語るのはかなり厳しくなっている。ところが、加賀谷さんのプロジェクトはそんなふうに人間を文字で内面から陶冶する可能性なんて一度も検討したことがないような気さえする(笑)。
    加賀谷 まさに、そういうところからは距離をおいてますね……。だって、動物の生態系なんて、非言語的ではあっても、情報のやりとりはなされているわけでしょう。別に言語に拘る必要はないじゃないですか。

     
     
    文芸評論家・江藤淳がコンピュータ・サイエンスについて語った"予言"
     
    宇野 プロフィールを見て気になったのですが、加賀谷さんはSFCにいたときに、文芸評論家の江藤淳のゼミにいらっしゃっいましたよね。
    加賀谷 そこに目をつけますか(笑)。江藤先生のことを話すのは初めてですよ……。僕が先生と出会ったのは、ちょうど江藤さんが学部での講義を再開した頃でした。後継者として文芸評論家の福田和也さんを連れて来られる数年前ですね。
    僕の方は当時大学の一年生で、SFCに政治哲学をやりたくて入ったばかりだったのですが、あの頃は現実の政治体制の分析みたいなことしかやっていなくて……もう正直なところ、退学しようと思っていたんです。でも、そんなある日、ちょうど病気の療養から回復してきたばかりの江藤淳さんが、それでまでに一度も話したことがないという「現代思想」の講義をするという機会があったんです。
    じゃあ、それだけは聞いて辞めようと足を運んで……僕は人生で最も興奮する講義を聞いたんです。
    宇野 それは、とんでもなく貴重な機会に恵まれましたね。
    加賀谷 その講義で一つ忘れられないのが、江藤さんがコンピュータについて言及して、「おそらくコンピュータサイエンスから、言語を否定するような言語理論が生まれてくるだろう」と言ったことなんです。
    正直なところ、当時は何を言ってるのかわからなかった(笑)――でも、なぜかめちゃくちゃに興奮したんですね。
    その後、僕は彼の日本文学のゼミで、言語哲学のようなことを始めました。周囲が坪内逍遥の作品だとかを研究している中で、「言語という秩序体系が、なぜ非秩序である"心"を表現しうるのか」みたいな思想的問題を、一人で延々と考えていたんです。そこで興味を持ったのが本居宣長でした。彼は「漢字の輸入によって、言語を文字として定着させられるようになったけれども、"もののあはれ"が失われてしまった」と「漢意」を批判しているわけですね。
    宇野 それは、江藤淳という人が近代日本のニセモノ性に極めて自覚的だったことと大きく関係してると思います。一般的には戦後日本の文化空間が敗戦とその後のアメリカによる統治によってもたらされたニセモノである、ということを批判した人だと江藤さんは思われている。それは正しいのだけど、より正確にはそんなニセモノであることに自覚的であることによってしか、現代人は成熟できないし、その自覚にしか文学は生まれない、という考えがあったと思うんですよね。そして同時にそれは日本語という日本の近代化が生んだ装置の不完全性への対峙こそが、現代文学であるという理解にもつながっていたと思うんです。
    ところが、加賀谷さんのアプローチというのは、言語が世界を表せないのなら、最初から言語以外のツールを使えばいいという発想になっている。だからそもそも言語の不完全性に向き合う必要がない。
    加賀谷 まさにそうなんです!
    だから、そういう話を江藤先生にしたら、「さすがに日本文学の研究室は違うよね」と言われて「どうしますかねえ」となって、一緒にお酒を飲んでました(笑)。
    宇野 江藤淳の弟子筋からこういう人が生まれたのは、いい意味で歴史の皮肉だと思うんですよ。
    加賀谷 でもね、それから僕は大学を出たあとに大学院にも行かずぶらぶらしていたのですが、その頃に江藤さんにお会いしたら「とりあえず、生き延びろ」と言われたことがあるんです。「俺なんて初めて給料をもらったのは30歳を過ぎたときだ。君はまだ8年もあるだろう」と(笑)。▼【ここから先はチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は2月も厳選された記事を多数配信予定です!
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