• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 21件
  • 過剰を抱えた人間のためのフロンティア――DMM.make AKIBAが目指す次のインターネット(プロデューサー・小笠原治インタビュー) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.305 ☆

    2015-04-16 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    過剰を抱えた人間のためのフロンティア――DMM.make AKIBAが目指す次のインターネット(プロデューサー・小笠原治インタビュー)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.16 vol.305
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガに登場するのは、PLANETSの「ものづくり2.0」イベントなどでもおなじみ、小笠原治さんです。さくらインターネットで日本のネット草創期を支えた小笠原さんは、いまなぜ「ものづくり」の拠点、DMM.make AKIBAをプロデュースしたのか? そして、そこから見えてくる「新しいインターネットのかたち」についてお話を伺ってきました。


     

    ▼プロフィール
    小笠原治(おがさはら・おさむ)
    1971年京都府京都市生まれ。1990年、京都市の建築設計事務所に入社。データセンター及びホスティング事業のさくらインターネット株式会社の共同ファウンダーを経て、モバイルコンテンツ及び決済事業を行なう株式会社ネプロアイティにて代表取締役を努め、インターネット・インフラとモバイルサービスにそれぞれ黎明期から取り組む。以降、「Open x Share x Join =∞」をキーワードにスタートアップ向けシード投資やシェアスペースの運営などスタートアップ支援事業を軸に活動。2013年より投資プログラムを法人化し株式会社ABBALabとしてIoTプロダクトのプロトタイピングへの投資を開始。同年、DMM.makeのプロデューサーとしてDMM.make 3D PRINTの立ち上げ、2014年にはDMM.make AKIBAを立ち上げている。他、経済産業省 新ものづくり研究会 委員、福岡市スタートアップ・サポーターズ等。
     
    ◎聞き手:宇野常寛
    ◎構成:鈴木靖子、中野慧
     
     
    ■ DMM.make AKIBAとはどんな場所なのか?
     
    宇野 この「DMM.make AKIBA(以下make)」という場所は、日本におけるメイカーズ・ムーブメントの象徴だと言えるのだと思います。これまでに小笠原さんにはいろいろなかたちでお話を伺ってきましたが、今回はズバリ、この「make」という場所について伺っていきたいと思います。
    小笠原 最初の事前登録が330人位で、現時点で180名の方に実際に使っていただいていて、すべて有料課金です。思っていた以上に初動はよかったですね。賃料は月額1万5000円〜2万円ぐらいなんですが、機材の使用などを含めると、一人あたりの平均は3万5000円〜4万円ほどです。2015年2月末の時点ではこの半分位だろうと見込んでいたので、こういう場所を使いたい人は潜在的にかなり多かったということだと思います。
    宇野 Cerevoのような家電ベンチャーや、ツナグデザインの根津孝太さんのような個人デザイナー、さらには大手メーカーの出張ユニットも入るんですよね?
    小笠原 まだ稼働はしてないですけど、インテルさんからは「edison」という開発プラットホームを絡めて、ここで何かしたいねというご相談はいただいていたりしますね。
     それと長年、「超音波モーター」の研究・開発を続けている新生工業さんが、新規事業のチームをここに置いたりもしていますね。旧来のメーカーさんがmakeを使うことで、社員の働く環境を変えて新しいことに挑戦させるという動きは、僕らが思っていたより早く起こり始めています。
    宇野 個人で登録して使っている方はどういう人なんですか?
    小笠原 ネットベンチャー出身の人が多いんですが、ここで実際にものづくりをしていますね。同じ秋葉原にある秋月(株式会社秋月電子通商)で買ってきた部品とかを使って、はんだごてで作ったりしていますよ。
     

    ▲DMM.make AKIBAの作業用スタジオ
     
     
    ■「作りたい欲求」から始まるものづくり
     
    宇野 読者は、いま個人単位でものづくりをしている人がたくさん出始めていることについてあまり実感がないと思うんですが、このムーブメントについて小笠原さんから解説していただけないでしょうか。
    小笠原 そうですね、じゃあ岩佐琢磨さんのCerevoを例にお話しましょう。そもそも、Cerevoをmakeに入れた理由って、僕が岩佐さんの言葉に反応してしまったからなんです。岩佐さんは「世界で戦うハードウェアスタートアップ企業はなぜ可能になったのか」というお話をよくするんですが、「ハードーウェアスタートアップ」という言葉を、「個人」に置き換えても同じなんですよ。
     Cerevoは「ネットと家電を繋げていく」という、「ものの再定義」のようなことを進めています。そうなると色んな人が岩佐さんたちの取り組みにイマジネーションを掻き立てられて、手を動かせる人はどんどん行動に移していくようになります。そういった、ものづくりをする人たちの精神面での変化がまずひとつあります。
     Cerevoはもとも45%ほどが海外シェアだったんですが、それがさらに伸びていて今は54%ぐらいにまでなっているんです。国内需要だけを見ているとどうしてもジリ貧になっていくんですが、Cerevoのようなハードウェアベンチャーはそこを気にしなくていいから、どんどん革新的な製品を作って、しかもそれが売れるようになっているという状況がある。
     
    ▼参考記事
    ・Cerevo岩佐琢磨インタビュー「ものづくり2.0――DMM.make AKIBAとメーカーズ・ムーブメントの現在」(前編)
    ・Cerevo岩佐琢磨インタビュー「ものづくり2.0――DMM.make AKIBAとメーカーズ・ムーブメントの現在」(後編)
     
     需要面ではそういう背景があるのですが、「じゃあ、なぜそんな革新的な製品をつくれるようになったの?」という疑問が湧くのではないかと思います。でも、実は「売れる」ということが先にあって、「作れるようになったから」ではないんです。
     デジタルファブリケーションがこうして盛り上がっていることについて、「3Dプリンターなどの登場によって”作れるようになった”」ということを主語にしたい人たちがいるんですが、実はそういうわけではないんです。「この製品が売れる」とか「新しい価値観が伝わる」のような、本来だったら「作れる」の後に来るようなことが先にできるようになったことが大きいですね。
     「売れる」というのをもう少し詳しく解説すると、やっぱりインターネット以降にニッチなコミュニティを見つけやすくなったということがあります。例えばスノーボーダーで「体重のかかり方を知りたい」という人たちがこんなにいるのであれば、じゃあ荷重センサで体重のかかり方を計測できるビンディングをつくろうというふうに発想できる。
     そして「作れる」というのは、まず作りたい欲求からはじまって、技術的に作れるようにならないといけないんですが、その「作りたい欲求」が身近な所で見つけやすくなったということもあると思います。
     
     もちろん、家電を構成する電子部品や、モジュール化した電子基板が自由に設計できたり、外装部品のラピッドプロトタイプが3Dプリンターで作れたりとか、そういったところからも「作れる」は実現されてはいますよ。でも、それだけでは、人は「作り出す」までは行かなかったはずなんです。
     「売れるから」「喜んでもらえるから」「新しい最適化ができるから」とか、そういうモチベーションがまずあって、そのやる気を起こしやすい時代になってきたんじゃないか、というのが僕の仮説です。
     

    ▲XYZ方向に加え、回転軸2軸の合計5軸から素材の切削が行えるCNCマシニングセンター。
     
     
    ■ どんな人たちがmakeに集まっているのか?
     
    宇野 実際にmakeに今入っているのって、どんな人たちなんですか? 
    小笠原 抽象的に返すとまだ「何者でもない人たち」なんですけど、でもインターネットの草創期だって「C言語が…」とか「組み込みが…」とか、そういう難しいレイヤーの話ではなかったと思うんですね。まず、「自分で何かを動かしたい」人たちがスクリプト言語だったり、htmlだったりで、自己表現をし始めていました。
     そういうネットの草創期に手を動かしだした人たちと、今リアルな物体を作ることで自己表現している人たちは同じ表現者というイメージです。
    宇野 なるほど。その彼らは、普段他の場所でものづくりに関係した仕事をしていたりするんですか?
    小笠原 平日の昼間にmakeにいる人たちはフリーランスが多いですね。事務系の仕事をされていたりする読者の方にはなかなかイメージしづらいのかもしれませんが、メーカーや町工場に所属しなくても、一人で仕事を受けて、ワンルームでこつこつと試作屋さんをやっている人ってけっこういたりするんですよ。
    宇野 つまり、これまで確実にいたにもかかわらず、日本のものづくりやデザインの表舞台に出てこなかった製造業のフリーランサーたちが、今自分たち自身で製品化するというところまで考え始め、その彼らがmakeに集結しつつある。さらにはCerevoのようなスタートアップに刺激を受けた家電ベンチャー志望の脱サラ組が加わって、makeのフリーランサー層を形成しているということですよね。
    小笠原 そうですね。それ以外には大手メーカーに勤めながら、副業規定があるんで商売にはできないけれど個人的な活動としてやっている方はけっこういらっしゃいます。そういう方々は土日とか水曜日の夜に利用することが多いですね。
    宇野 みなさん基本的には開発と試作をやっているわけですか?
    小笠原 企画、設計、試作あたりまでですね。企画というのは、ここに来て人とおしゃべりをするというのも含めてです。それと設計というのは、今のハードウェアベンチャーって言われている人たちはほとんどが設計屋さんたちで、そこがすべての基本になります。そして、試作というのはここの10階のスタジオを使ったりして「手を動かす」ことです。
     彼らのような人たちがどんどん個人的なものづくりを始めているのは、やっぱりクラウドファンディングのような仕組みがこのタイミングが出てきたのも大きいでしょうね。デジタルファブリケーションもクラウドファンディングも、インターネットがこれだけ接続されている環境も、すべてが「いま、僕たちは転換点にいる」ということの表れなんじゃないかな。
     

    ▲チップマウンター。電子部品をプリント基板に実装する装置。
     
     
    ■ 90年代後半のインターネット草創期とよく似た”熱さ”
     
    宇野 そもそも小笠原さんってさくらインターネットの創業メンバーですよね。その小笠原さんがいまこうしてDMM.make AKIBAを作っている。これってすごく面白いことだと思うんです。
     僕は大学生の頃にやっていたテキストサイトがきっかけで出版業界に入った人間です。当時のネットの世界って、世俗的な権威を頼みにしようとしない、野心的な若者たちが集まっていた。まだソーシャルメディアという言葉も、動画共有サイトもなかったけれど、いまの文化状況につながる二次創作文化がネットを舞台にして花開いていましたよね。さくらインターネットって、そういったネット黎明期の盛り上がりを支えたインフラだったと思うんです。
    小笠原 ええ、当時は同人の方がものすごく多かったですね。料金を安く設定した理由も、そういう方たちに使ってほしかったからなんです。「安ければ自己表現したいヤツはするやろ」、という(笑)。
     ちなみに、さくらインターネットのイメージって世代とか年代とか、インターネットにどう関わったかにもよって違っているんですね。宇野さんのおっしゃるように同人系の方も多かったですが、一方で、20代後半〜30代前半で起業した人たちにとって、さくらインターネットは、スタートアップ時に使う安いサーバーだった。例えばGREEさんとかFC2さんとかもそうでしたが、レンタルサーバーではなく、専用サーバーのイメージです。つまり、設備ってリーチする相手によって見え方が変わると思っていて、それがすごく面白いなと思っています。
    宇野 さくらインターネットのあと、どんなお仕事をされていたんですか?
    小笠原 そのあとの期間はiモードのコンテンツ屋だったり、携帯電話の販売なんかもやっていました。だからインフラからコンテンツ、そして物販までやっていたんですね。
    宇野 そしてmakeの前には、今も六本木で人気のスタンディングバー「awabar」を手掛けたわけですよね。だんだんとリアルの交流の場づくりにシフトしていっている。
     

    ▲awabar
     
    小笠原 実は、最初から今のmakeのように「ものづくり」に特化したかったわけではないんですね。
     僕はおっしゃるとおりインターネットの世界でずっと仕事をしてきましたが、awabarを作った時期はお節介なソーシャルとか、課金ロジックに絵を乗っけているだけのパズルとか、広告費を回すだけのメディアの亜流がとても目に付くようになっていました。そうではないアンチテーゼを打ちたかったという気持ちが大きかったと思います。
    宇野 僕は、小笠原さんが90年代後半のインターネット草創期に感じていたのと似たようなものを、いまの日本的メーカーズムーブメントに感じているんじゃないかと思ったんです。その点についてはいかがでしょうか?
    小笠原 僕は、いまでこそawabarやmakeのようなリアルで人が交流するような場を作ってはいても、気持ちはインフラ屋のままなんです。で、人間が使うインターネットって、これだけソーシャルメディア等が普及してくると、今の100倍に成長することはまずないと思います。でも僕らのようなインフラ屋は、自分たちが作ったインフラが今よりも何億倍も使われてほしい。だから、その「何億倍」を実現できる場として、「人間以外」が使うインターネットをもっと追求したくなったということかもしれません。
     それと、さきほどの「設備やインフラって、人によって見え方が違う」というのって、いまのmakeでも当てはまると思うんです。たとえば、大手のメーカーで頑張ってきたおじいちゃんからしたら、機械を置いているだけの場所にしか見えないかもしれない。そしてまさにその通りでもあるんですが、大手企業の設備がどれぐらい整っているかを実感として知らない人にとっては、makeって自分でできることが拡張していく全能感を与えてくれる場になるんですね。
     人によって感じるイメージがまったく変わるので、僕はmakeでやっているような機械のシェアってすごく面白い商売だと思っていますよ。
     
     
    ■「新しいインターネットのかたち」をつくりたい
     
    宇野 僕が思うのって、「情報テクノロジー×メディア」、つまり情報技術が画面の中やディスクの中を変えていた時代はもう終わるんじゃないか、ということなんです。Googleが何年も前から、ネット上の情報空間だけではなく、〈現実そのもの〉を検索する会社に変わっていったというのは、まさにその象徴ではないでしょうか。だから勘のいい人、鼻の利く人は「情報テクノロジー×現実」の時代がやってくると考えて動きだしている。
     「IoT(=Internet of Things。モノのインターネット)」はその代表です。それが具体的にどう世の中を変えていくのかということに関して、多くの人が想像できていない中、makeが出てきた。「情報テクノロジーで〈ものづくり〉が変わっていくんだ!」と、強烈に打ち出したのがmakeだと思うんですよね。
     

    ▼PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は4月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201504

     
  • 任天堂ハードと「ドラクエ」が挑んだ“古き良きゲーム”の再定義〜『ピクミン』『逆転裁判』『ドラクエVII』(中川大地の現代ゲーム全史) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.304 ☆

    2015-04-15 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    任天堂ハードと「ドラクエ」が挑んだ“古き良きゲーム”の再定義〜『ピクミン』『逆転裁判』『ドラクエVII』(中川大地の現代ゲーム全史)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.15 vol.304
    http://wakusei2nd.com


    本日は、月2回掲載となった「中川大地の現代ゲーム全史」最新回をお届けします! PS2、ドリキャス、Xboxなど次世代ゲームハードが次々に投入されるなか、かつての「王者」任天堂やドラクエのフィールドでは様々な試行錯誤が行われていました。「ゲームキューブ」「ゲームボーイアドバンス」、そしてプレステで発売された『ドラクエVII』――そのゲーム史的な位置付けとは?

     
    「中川大地の現代ゲーム全史」
    第9章 和ゲー成長期の終わり/二極化してゆくゲーム産業
    2000年代前半:〈仮想現実の時代〉終期(3)
     
    前回までの連載はこちらのリンクから。
     

     
    ■ ゲームボーイアドバンスとゲームキューブの明暗〜任天堂ハードが継承したニッチ
     
     国産技術によってゲーム市場を踏み台に総合情報家電のグローバルスタンダードの奪取を狙ったのがSCEのプレステ2、現行のグローバルスタンダード技術に乗りながら日本ローカルなゲーム市場への侵蝕を試みたのがマイクロソフトによるドリキャスのOS提供からXbox投入への流れだったとすれば、徹底して日本独自の“ゲーム屋”としてのローカリティを貫き通す役割を担うに至ったのが、任天堂だということになるだろう。
     同社は2001年、ゲームボーイ以来の実に12年ぶの本格的な携帯ゲーム機の更新にあたる「ゲームボーイアドバンス(GBA)」、およびNINTENDO64の後継となる据え置き機「ニンテンドーゲームキューブ(GC)」を相次いで発売する。
     

    ▲ゲームキューブ(任天堂、2001年)
     
     まず、シェア競争上の結論から言えば、プレステやサターンに遅れたN64と同様、同世代機であるプレステ2から1年以上ものラグを挟んで登場したGCは、劣勢を覆すことができなかった。ついにROMカートリッジを捨てて任天堂として初めて光学メディアを採用し、その名の通り正方形状のスタイリッシュな筐体デザインによって従来の「玩具」的なイメージからの脱却を図ったGCの基本的な仕様は、プレステ以降のIT家電的な傾向に近づけるものではあった。しかしながら、採用メディアが容量の少ない8cm径の独自規格ディスクであったり、AVラックに納まるようなフラット感よりもSF的な異物感を追求したりなど、あえて機能的合理性に抗ってでもアイテムとしての差別化を残そうとしたため、どちらつかずの中途半端な設計思想が普及の枷になったのは明らかだった。
     加えて、ローンチタイトルとしては、本機の3Dグラフィックス性能による波の表現力をプレゼンしようとした水上バイクのレースゲーム『ウェーブレース ブルーストーム』や、コントローラーの左右両方に独自のレイアウトで配置されたアナログスティックを駆使するアクションアドベンチャー『ルイージマンション』といった自社製タイトルがリリースされたものの、GCならではの個性を打ち出せたとは言い難い。『ウェーブレース』は世に数多ある3Dレースゲームの一バリエーションに過ぎなかったし、『ルイージマンション』が要求した操作性も、本質的には例えばプレステ2のDual Shockコントローラーでも実現できるものだ。
     つまりは、最初の看板になったタイトルがマリオではなくルイージであったという点に象徴されるように、本質的な部分でのイノベーショナルな特色の希薄さを、変化球的なパッケージングでカバーしようという性格が、歴代任天堂ハードの中でも目立つ機体となったのである。
     
     そのぶん、業界全体にとってのインパクトとして大きかったのは、GBAの方だったと言えるだろう。携帯ゲーム機市場では、長らくマイナーバージョンアップを重ねて確固たる地歩が築かれてきたゲームボーイシリーズに対して、バンダイのワンダースワンなどが挑戦を仕掛けてはいたものの、任天堂の先行者優位には遠く及ばない状況にあった。したがって図式的には、ちょうどファミコンがPCエンジンなど他社の新鋭機の追随を許さないうちにスーパーファミコンへと順当な代替わりが行われた際の市場環境に近い。初期のモデルでは、旧ゲームボーイのゲームソフトも遊べる下位互換性を持っていたことも幸いし、GBAは携帯ゲーム機の標準を継承していくことになる。
     立ち位置の面だけでなく、機体性能の面でもスーファミの延長線上にある2Dドットグラフィックの描画が可能だったGBAは、高度な3DCGが主流となった据え置き機でのゲーム開発に、資金的・技術的についていけなくなったディベロッパーにとっての受け皿となることができた。これにより、GBAはGCを大きく上回るサードパーティーの参入を得ることになり、発売タイトル数の上で携帯型ゲーム機が据え置き型ゲーム機を上回っていく状況へのターニングポイントとなったのである。
     
     このようにハードとしてのシェア獲得上は明暗が分かれたと言えるGBAとGCだが、ソフトのラインナップの面では、『ポケットモンスター サファイア/ルビー』や『大乱闘スマッシュブラザーズDX』『どうぶつの森+』など、どちらもほぼ既存の人気シリーズの続編や移植・リメイクが多くを占めた。つまりは、低年齢層・ファミリー層向けに特化する方向に向かったN64時代のニッチを守ることはできたものの、のちのゲームシーンの流れを作るような革新的なタイトルの産出には乏しかったと言える。
     その中でも、ゲームデザイン面で出色だったタイトルとしては、GCでは物悲しいCMソングとともに話題を呼んだ群体AIアクション『ピクミン』(任天堂 2001年)が挙げられるだろう。最大100匹集めることができる奇妙な小生物ピクミンたちを率いて、アイテム回収などを目的とするステージ攻略を成し遂げてゆく中で、彼らが集団的に甲斐甲斐しく動き回ったり、儚く敵の原生生物に捕食されたりするさまが感興を呼ぶ体験性は、他に類を見ないユニークさが際立っていた。
     

    ▲『ピクミン』(任天堂、2001年)
     
     また、歴代任天堂ハードにおけるキラーソフトとなる『ゼルダの伝説』シリーズでは、『ゼルダの伝説 風のタクト』が投入されている。本作はポリゴン描画されたキャラクターにトゥーンレンダリングを施し、3DアクションRPGとしての完成形を示したN64時代の『時のオカリナ』『ムジュラの仮面』とは一線を画する、絵本のようなビジュアルを追求。さらには海洋のフィールドを主舞台に、風の流れを駆使したアクションを特色とするなど、シリーズ中でも異色のテイストを放つタイトルとなった。
     ただし、これらのアイディアが光るタイトルも、任天堂ゲームらしい「王道」感よりは目先を変えた変化球としての印象が強く、スタイリッシュな方向と子供向けの玩具的な方向とが相半ばするGCというハードの中途半端さを上書きする結果になったとも言えるだろう。
     
     一方、過去の名作シリーズの移植やスピンオフ作品などが目立っていたGBAのラインナップだが、後代に続くオリジナル人気シリーズの創始となったのが、カプコン発売の『逆転裁判』(2001年)だ。新米弁護士・成歩堂龍一を主人公に、殺人事件で無実の罪を着せられた被告人たちを、その名の通り裁判で真犯人を暴き立てることで救い出していくという趣向の擬似法廷バトルである。
     

    ▲『逆転裁判』(カプコン、2001年)
     
     据え置き機では3DCGによる大作ゲームが全盛の中で、本作は本質的には、ドット絵とテキストで表現される一本道のストーリーをコマンド選択で進めていくという、昔ながらのローテクな推理AVGに過ぎない。しかしながら、関係者への聞き込みや証拠品の収集を行う「探偵パート」と、そこで得た証拠品や情報を証言台に立つ証人たちに突きつけながら尋問を進めていく「法廷パート」とにモードを分け、後者の裁判シーンではケレン味あふれるテンポよい演出証人やライバル検事との丁々発止の言論戦を行うという趣向のインタラクションの工夫を施すことで、まるでRPGのバトルシーンのようなカタルシスが発生。登場人物たちのキャラクターも、ちょうどカプコンが得意としてきた対戦格闘ゲームのように極端に戯画化した造形にすることで、非日常的な快楽性を高めることに寄与した。
     こうしたシナリオやキャラクターデザインやシステム演出の調和に加え、掌の上の携帯ゲーム機の小さな画面上で展開されるというチープ感も含めて、裁判中に真犯人が判明して劇的な逆転判決が起こるという荒唐無稽な世界観を違和感なく堪能させることができたのが、本作の白眉であった。
     
     もちろん、GBAの携帯型ゲーム機としてのハードウェア特性そのものが、たとえば『ポケモン』のようなゲームの登場をもたらしたような意味では、『逆転裁判』の作品性にとって必須だったわけではない。実際、本作の体験版が公式サイトのFLASHコンテンツとしてプレイできたように、ゲーム内容自体としては、例えば当時のPCブラウザなど他のプラットフォーム手段でも、決して実現できないものではなかったからだ。

     
    ▼PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は4月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201504

     
  • SDガンダムが生まれた日――「かっこいい」と「かわいい」の間にある80年代の批評精神(イラストレーター・横井孝二インタビュー) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.303 ☆

    2015-04-14 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    SDガンダムが生まれた日――「かっこいい」と「かわいい」の間にある80年代の批評精神(イラストレーター・横井孝二インタビュー)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.14 vol.303
    http://wakusei2nd.com



    2015年で30周年を迎える「SDガンダム」。二頭身にぎゅっと縮められた独特のディフォルメで、本家ガンダムとは全く異なる発展を遂げた大人気シリーズは、なぜ生まれたのか?
    その不思議なフォルムが生まれた背景と意義について、SDガンダム生みの親「横井画伯」として知られるイラストレーター、横井孝二氏にインタビューを行いました。


     
    ▼プロフィール
    横井孝二(よこい・こうじ)
    1968年生。学生時代に「模型情報」誌への投稿が注目され、10代からイラストレーターとして活躍。「SDガンダム」を生み出したキャラクターデザイナーとして知られる。
    twitter:@nisegundam
     
    ◎構成:池田明季哉
     
     
    ■ イラストレーター横井孝二の原点
     
    宇野 「SDガンダム」は今年で30周年を迎えますよね。僕は今年で37歳なのですが、僕らの世代にとってSDガンダムは基礎教養のようなもので、小学生くらいまではSDガンダムに人生を費やしたと言っても過言ではありません(笑)。そこで今日は、そのSDガンダムの生みの親である横井さんにお話を伺いたいと思ってやってきました。よろしくお願いします。
    横井 ありがとうございます。節目のいいタイミングでお話をいただけてよかったなと思っています。よろしくお願いします。
    宇野 もちろんSDガンダムのお話も伺いたいのですが、今日はどちらかと言うとキャラクターデザイナー、あるいはイラストレーター横井孝二にフォーカスしたいと思っています。
     横井さんが雑誌の投稿から10代でデビューしたということはファンの間では有名な話ですが、絵描きとしてのルーツはどのあたりにあるのでしょう?
    横井 本当に昔からSDのような縮んだ絵ばかり描いていたんです。美術系の学校に行ったわけでもなく、我流です。
     幼い頃(70年代)はもうテレビやマンガが溢れていましたからね。その頃には手塚治虫や石ノ森章太郎も出てきていましたし、ディズニーも全盛でしたし。だから子供の目の前に出てくるのは、ディフォルメされて丸みを帯びたものが多かったんです。家にあった「のらくろ」なんかも、一画面に犬の軍隊と豚の軍隊が集合している絵が気に入ってよく読んでいました。その影響なのかな、縮んだ飛行機とか、縮んだロボットとか、そういうちまちました絵をいっぱい描きたくて、B5くらいのノートに10個とか20個とか描いてました。
     もう少し時代は後になりますが、一番好きだったのは鳥山明さんです。鳥山さんは宇宙船を描くとき、ロケットを持ってくるのではなくて、ヤカンとか炊飯器とかそういうものを宇宙船にしてしまうんですよ。そういった身近な変わったスタイルとSFをくっつけてしまうところや、丸いカーブやぎゅっと縮んだシルエットがとにかく好きで、ずっと鳥山さんの絵を写していましたね。
     
     
    ■ 雑誌からスタートしたキャリア
     
    宇野 横井さんは学生のときに雑誌「模型情報」に投稿したことがデビューのきっかけだったとお聞きしているのですが、その頃からもうイラストレーターになろうと思っていたんですか?
    横井 中学生くらいのとき、もう絵にハマりすぎていて学業が疎かで受験の準備も一切していなかったので、教育熱心な母親が、描いた絵を全部破るんですよ。「こんなもん描いてる暇があったら勉強しろ!」って。そうなると子供だから余計腹が立って続けたくなるじゃないですか。言われても言われてもずっと絵ばかり描いていて、もう絵が描きたいのか親に反抗したいのかわからなくなってました(笑)。
     そうやって隠れて絵を描いてたんですが、ある日雑誌を見ていたときに「模型情報」はイラストが少ないな、という事に気付いたんですよね。プラモデルについての意見が多かったわけです。だから「ここなら描いたら載るかも?」と思ったのが投稿したきっかけですね。
    宇野 これは平成生まれの若者に声を大にして言いたいのだけれど、雑誌の投稿欄がイラストレーターの登竜門だった時代があったんですよ! pixivの投稿を見て出版社から連絡が来たり、コミティアに編集者がうろついていて、向こうから名刺を渡してきて仕事をくれる時代じゃなかった、と。
    横井 当時のアニメ雑誌は、「俺を見ろ!」という感じの自己主張の強い投稿が多かったですね。投稿欄に今のアニメ界のビッグネームが本名で出ていたりしていました。
     それで雑誌に投稿していたら編集長さんが気に入ってくれて「四コマ漫画を描いてみないか?」と言われたんです。それでバンダイさんの広報誌に、当時のガンダムのプラモデルを批判するような四コマを描いちゃって(笑)。
    宇野 ちなみに何のキットですか?(笑)
    横井 1/100のガンダムのお腹って、変形の都合なのかコアファイターが丸見えなんですよね。それをガンダムが「これどうなの?」って指差している漫画。そういう嫌味めいた漫画を何ヶ月か描いていました。学生ですから、言っていいことと悪いこともわかっていないんで、嫌味の言い放題ですよ(笑)。今思えば編集長さんの度量が広かったんでしょうね。
     

    ▲実際の「模型情報」に掲載された四コマの一部。
     
    宇野 これは当時の雑誌文化を物語るいい話ですね。
    横井 そういうことをやっているうちに「玩具の企画を手伝ってくれないか」という話が来て、ガシャポンの「SDガンダム」の企画が本格的にスタートして、お手伝いすることになったんです。それが18歳ぐらいのことですね。
     
     
    ■ なぜ「ガンダム」を縮めたのか
     
    宇野 横井さんはなぜガンダムという題材を選んだんですか? 投稿されるときには既にガンダムの絵を選んで描いていたわけですよね。
    横井 小学生のとき、まわりの男子は戦車とか飛行機とかミリタリー模型が好きだったんです。それで当時、同級生の女の子がガンダムにハマっていたんですが、「ちぇっ、なんだよいい年こいてガンダムガンダムだのアニメだの」って思ったりしていました。いや小学生なんですけどね(笑)。
    宇野 「ガンダムは最初女性ファンが多かった」というのはよく言われていますよね。
    横井 その女の子の誕生日にプレゼントを買おうということになって、ガンダムの載っているアニメ雑誌を見てみたんです。そうしたら、そこにモビルスーツがたくさん出ていた。ガンダム自体はあまりにアニメヒーローロボットっぽくてそれほど好きではなかったんですが、ザク、グフ、ドム、ズゴック、そうしたモビルスーツの丸みを帯びたフォルムと、量産型などの設定も含めたメカニカルなところが気に入って、そこから一気にハマったんです。そうやっているうちに、世の中はガンダム一色になっていって、結局クラスの男子もみんなガンダムにハマっていったという感じでした。
    宇野 ちなみに「ウルトラマン倶楽部」とか「仮面ライダー倶楽部」も手がけていたと思うのですが、特撮もお好きでしたか?
    横井 仮面ライダーは新一号世代ですね。以後は特撮ヒーロー漬けの日々です。「倶楽部」の企画が始まるやいなや、嬉しくて怪人の絵をひたすら描いていました。
    宇野 僕は、当時バンダイやバンプレストが出していた「ヒーロー総決戦」や「ザ・グレイトバトル」のようなゲームにハマっていました。ガンダムとウルトラマンと仮面ライダーは頭身も大きさもテイストも全く違うけれど、SDにすることで違和感がなくなるという感覚はとてもユニークだったように思います。
    横井 同じタッチで一画面の同じところにバラバラな個性のやつがたくさん並べられると、すごく嬉しかったのを覚えています。
    宇野 もしかしたら、そうした感覚が「スーパーロボット大戦」シリーズに繋がっていったのかもしれないですね。
     
     
    ■「RX-78-2」のディフォルメに隠された意外な苦労
     
    宇野 横井さんは80年代から90年代にこうしたディフォルメキャラクターをたくさん描かれているわけですが、その中で書きやすかったものや書きにくかったものってありますか?
    横井 実は「RX-78-2」のガンダムが苦労しました。あのガンダムって、目の下に赤い隈取りみたいな部分があるじゃないですか。あの部分の処理が難しくて、いっそなくしてしまおう、と思うまでかなり時間がかかりましたね。
    宇野 自分のデザインの中で、これは傑作だというものは?
    横井 やっぱり「にせガンダム」ですかね。もともとはガンダムとザクを合わせてみたくて描いたキャラクターだったんです。連載していた漫画にも出したんですけど、連邦陣営にもジオン陣営にも入れない不遇のキャラクターでした。SDガンダムには、戦国時代風の「武者ガンダム」、中世RPG世界の「騎士ガンダム」、ミリタリー色の強い「SDコマンド戦記
    G-ARMS」などいろいろありますが、「にせガンダム」はそのどの世界にも似合わない、かわいそうなキャラクターなんです。どこにも属さないからこそ、自分のキャラクターとして愛着があります。
    宇野 でも「G-ARMS」の「マスクコマンダー」に、「にせガンダムmk2」へのコンパチがあったじゃないですか。
    横井 ああいうかっこいい役目はにせガンダムには向いていないんですよ(笑)。
    宇野 そうか、あれはにせガンダムmk2だからこそできることなんですね(笑)。
     

    ▲「SDX マスクコマンダー」。ガンダム風の黒いマスクの下には、にせガンダムmk2の顔が隠されている。
     
    横井 あとは「騎士ガンダム」は気に入っています。甲冑の丸いフォルムがうまくマッチしたなと思っています。
     にせガンダムも騎士ガンダムも、どちらも苦労して描いたというわけではないんです。でもどちらも力を入れずに、ユルいところがいいのかもしれないと思うんですね。経験上、気合を入れて描いたものは、根強く好きになってくれる人はいるんですが、広くは受けない。意外とユルいものの方が受け入れられるのかもしれません。
     

    ▲「騎士ガンダム」。丸みを帯びた独特のフォルム。
     
     
    ■「かっこいい」と「かわいい」の間で
     
    宇野 横井さんのディフォルメって、本当に「かっこいい」と「かわいい」の中間ですよね。でも僕は当時、SDガンダムを自然と「かっこいいもの」として買っていた。普通はキャラクターをディフォルメすると、本当にかわいくしてしまうと思うんです。こいつ絶対に戦わないだろう、絶対に自己主張しないだろうというものになってしまう。でも横井さんのデザインは、かわいくてギャグ漫画もできるのに、同時に戦える存在でもある。
     少し変な話をしますけど、僕の友人に萌え系のアニメに出てくるキャラクターが好きなアーティストがいるんですが、彼は「人間じゃないけどセックスできるのが最大の魅力なんだ」と言うんですね。僕は萌え系アニメはあまり好きではないのですが、同じように「リアルな身体じゃないんだけどちゃんと戦うことができる」「かっこよさを主張することができる」ということが、80年代にレイアップと横井さんが体現していた、SDキャラクターの魅力の本質だったと思うんです。このテイストは世界中探しても日本にしかないんじゃないかと思うんですよね。

    ▼PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は4月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201504

     
  • 月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」4月6日放送書き起こし! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.302 ☆

    2015-04-13 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    月曜ナビゲーター・宇野常寛J-WAVE「THE HANGOUT」4月6日放送書き起こし!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.13 vol.302
    http://wakusei2nd.com

    大好評放送中! 宇野常寛がナビゲーターをつとめるJ-WAVE「THE HANGOUT」月曜日。ほぼ惑月曜日は、前週分のラジオ書き起こしダイジェストをお届けします!
     

    ▲先週の放送は、こちらからお聴きいただけます!
     
     
    ■オープニングトーク
     
    宇野 時刻は午後11時30分を回りました。みなさんこんばんは、評論家の宇野常寛です。結論から言うと、僕は壁と卵なら卵の側につきます。高くて固い壁と、それにぶつかって割れてしまう卵があるときには、僕は常に卵の側に立ちます。
    先週ですね、ふと思い立って、ラジコンを取り出したんですよ。タイヨーというおもちゃメーカーが出している初代仮面ライダーが乗っていたサイクロン号というバイクのラジコンを持っていて、これが二輪のわりに走行性能が高くてなかなか良く出来ているんですよ。それを10年くらい前に買ってから、ずっと触っていなかったんですけれど、この前すごくよく晴れた日があったので、押入れの奥から取り出してきたんですね。で、その時いろんな人をLINEで誘ってみて、たまたま捕まったのがうちの事務所でインターンのようなものをしている学生で、まあ、仮に名前を「真辺」としておきましょう。その真辺くんを連れて、近所の戸山公園に行ったんですよ。高田馬場と新大久保の間にある、敷地面積的にはけっこう広い公園で、図書館とかプールとかの新宿区の公共施設が集中する、いわゆる区民の憩いの場です。その日は本当に天気がよくて、しかも桜も満開で、すっごくいい感じの雰囲気なんですよ。家族連れとかカップルですごく賑わっていたんです。
    で、ラジコンって意外と昭和後期の文化だったりするんで、平成生まれの真辺くんは今まで触ったことなかったらしいんですよね。ラジコンとか通過しないで21歳になったらしいので、「じゃあお前やってみるか」とか言って、操作するプロポを預けて操縦させてみたんですよ。でね、やらせてみたらこれがけっこう上手いんですよ。わりとすぐコツを掴んで走らせているんですよね。近くにいた子供が興奮して「お母さん! 仮面ライダーが走ってきたよ」とか言って、そしたらお母さんも一緒に興奮して写真とか撮っているんですよね。そんなふうに、一般の新宿区民とも触れ合いつつきわめてハートフルな日常を送っていたんですよ。……その瞬間までは。
    うららかな日曜日に、こんなのんびりした午後も悪くないんじゃないかと僕は思っていたんですよ。
     
    ▼PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は4月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201504

     
  • ソーシャルネット時代のリアリティと「イスラム国」――日本人は"ヤツら"とどう向きあうべきなのか(軍事評論家・黒井文太郎インタビュー) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.301 ☆

    2015-04-10 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    ソーシャルネット時代のリアリティと「イスラム国」――日本人は"ヤツら"とどう向きあうべきなのか(軍事評論家・黒井文太郎インタビュー)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.10 vol.301
    http://wakusei2nd.com



    本日のメルマガのテーマは……現在、世界を騒がせている「イスラム国」。『PLANETS vol.9』のDパート(五輪破壊計画)にも登場した軍事評論家・黒井文太郎さんに、「ヤツら」に対して私達はどう向き合えばいいのかを聞きました。
    さながら「マスターキートン」のように諜報活動に従事し、90年代からビンラディンをはじめとしたイスラム過激派を追ってきたという黒井さんは、「ネットを有効活用して過激思想を広める恐ろしいテロ組織」とされる彼らのリアルをどう見ているのでしょうか――?

     

    ▼プロフィール
    黒井文太郎(くろい・ぶんたろう)
    1963年、福島県いわき市生まれ。横浜市立大学卒業後、講談社入社。週刊誌編集者を経て退職。フォトジャーナリスト(紛争地域専門)、『軍事研究』記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て軍事ジャーナリスト。ニューヨーク、モスクワ、カイロを拠点に海外取材多数。著書に『イスラムのテロリスト』『日本の情報機関』(以上、講談社)、『インテリジェンスの極意!』(宝島社)、『国際テロネットワーク アルカイダの全貌』(アリアドネ企画)、『ビンラディン抹殺指令』(洋泉社)、『イスラム国の正体』(KKベストセラーズ)ほか多数。
     

    ▲黒井文太郎『イスラム国の正体』KKベストセラーズ、2014年
     
    ◎聞き手:中川大地、葦原骸吉+編集部
    ◎構成:葦原骸吉
     
     
    ■ バックパッカーからインテリジェンス研究へ
     
    ――黒井さんには、『PLANETS Vol.9』Dパートで、東京五輪に向けての治安・軍事面でのセキュリティホールを検証していただきました。その上で、本誌座談会ではポリティカル・フィクションとしてテロの可能性を検討したのですが、先進国社会が抱える共通したリスクとして、いわゆる「イスラム国(ISIS)」のような存在が、現在の社会に希望を持てない不満層にとっての駆け込み先になる可能性が無視できないのではないか。そんな話題が出ていた矢先に、例の邦人拘束殺害事件が起きたわけです。
     そこで、今回は本誌での議論のフォローアップとして、『イスラム国の正体』という著書も上梓されている黒井さんに、イスラム国が出てくるに至った背景や、よく指摘されるインターネット普及との関連性、日本人がこの現象をどういう距離感で受け止めたらいいのかといったお話しをうかがえればと思います。
     まず、そもそも黒井さんはどのような経緯で国際インテリジェンス(情報機関・諜報活動)関係の仕事に就かれて、中東の武装集団に興味を持たれたのでしょうか?
    黒井 もともと僕は、学生時代にバックパッカーをやっていて、その延長ですね。藤原新也さんとかが人気だった1980年代の中ごろで、『地球の歩き方』とかH.I.S.とかが出はじめたころです。それで、中南米のエルサルバドルやニカラグア、中東のイランとイラクの国境地帯などをよくうろうろしていました。当時、シリアの首都のダマスカスで安宿に泊まったら、何ヶ月も中東各地で現地調査している年上の日本人の大学生がいて、「これからちょっとPLOの事務所行くんだけど、黒井くんも来る?」という感じで、PLO事務所や難民キャンプなどに連れて行ってもらったんです。
     この人は清水勇人さんという人で、すごい行動力があって、帰国後は政治家になって、今はさいたま市長をしています。僕は日本に帰ってから一度お会いしただけですけど、彼に出会わなければこういう道には入っていなかったですね。
    ――なるほど。冷戦時代の1970年代くらいまでは、それこそミュンヘン事件を起こした「黒い九月」と連携して日本赤軍もロッド空港での乱射事件を起こしたりとか、現在よりも日本人が中東のテロ組織と接点なりシンパシーを持つ土壌が強かったと思います。1980年代のバックパッカー文化の場合は、そういう政治的な意味でのシンパシーみたいな動機はあったのでしょうか?
    黒井 あんまりないと思いますね。そこはもっと興味本位というか、秘境を旅しようという冒険心に近い感じです。当時は、アジアや中南米などで資源の買い付けをやってる現地採用の商社員にも、戦前の大陸浪人みたいな変な人がいましたよ。向こうの沈没組みたいなのが大手商社とかの名刺を持って、腰にピストルなんか下げて「飲みに行こう」とか言ってる。今はコンプライアンスの時代なので、そういう人は使わないで、情報収集や交渉は地元のコンサルタントや弁護士事務所に丸投げですけど......。
     それで、僕は講談社の週刊『フライデー』編集部に入って、そこを辞めたあとフリーのライター兼カメラマンのような形で海外の紛争地の取材をしてました。冷戦も終わった1990年代の前半に日本に帰ってきたんですが、もう地域紛争が世界を変えるという時代でもなかったし、「次は何がテーマかな?」と考えたとき、当時はCIAなどのインテリジェンスやテロ問題は日本では他の人があまりカバーしていない世界だったので、興味を持ったんです。それで、イスラム過激派のテロなどを研究して、1998年に『世界のテロと組織犯罪』という最初の本を書きました。2000年からは『軍事研究』という雑誌の専属ライターになってます。
    ――インテリジェンスの専門家といえば、外務省出身の佐藤優や公安調査庁出身の野田敬生など政府機関のOBが多いですが、黒井さんの情報源はまったくの私的な人脈なのでしょうか?
    黒井 僕は基本的に、自前の取材ではなくオープンソースから情報を集めてます。海外のジャーナリストや研究機関をどれだけフォローできるかが勝負みたいなところで、独自の人脈で「こんなネタ拾ってきました」というのは、あまり参考にならないです。フリーで戦場カメラマンみたいなことをやっていたころの後期、地元のジャーナリストや研究者、人権団体の人などから、いろいろと資料をもらっていたんです。そこから漏れる分は自分で洋書を買って調べたりしました。今だとネットでこういう情報ってすぐに集められますけどね。
     当時、僕が調べていて、「これは面白いな」と思ったのが、アルカイダのビン・ラディンでした。9.11で注目される前ですね。『世界のテロと組織犯罪』では、その辺を詳しく書いていて、もともとたいして売れなかったんですけど、9.11後、すぐ売り切れました(笑)。
     
     
    ■冷戦後のリアリティを変えたアルカイダの台頭
     
    ――ビン・ラディンに興味を持たれたのは、どういう経緯だったのでしょうか。
    黒井 90年代の半ばに僕は一時、カイロに住んでいたんですけど、「TIME」の記事で知りました。当時はエジプトですごいテロがあったんですが、その前から現地の研究機関やジャーナリストに話を聞いて、アフガニスタンのゲリラを支援しているサウジの大金持ちが居るという噂は何度か耳にしていてんです。
     最初に「エコノミスト」というイギリスの雑誌で、五行情報くらいでその話が出たんですね。それで、あの噂ほんとうだな、と思って。どこかで誰か知らないかなと思ったんですけど、みんな具体例を知らなくて。そうこうしている間に、「TIME」の欧州版エディションにビン・ラディンのインタビューの記事が出たんですね。そこで初めて具体的なことを知りました。あれはアメリカ版とかアジア版には載ってないんですよ。当時は誰もビン・ラディンがどれだけ大物かは気づいてなかったので。
    ――その時点では、アルカイダっていう存在はどれだけの勢力だったんですか?
    黒井 当時のアルカイダは、サウジアラビアを追われたビン・ラディンともどもスーダンのバシル政権というイスラム原理主義の政権にかくまわれていました。アフガニスタンにも仲間が残っていて、国際グループみたいなのを作っていましたが、勢力としては小さいです。
     そこで農場をやったり工場をやったりして、元のアフガン義勇兵の連中を呼び集めて、会社を作って、仕事していたんですよ。みんなを食わせなきゃいけないので。そういう時期だったと思いますね。当時、彼が動かせる人は200人とか300人も居なかったと思います。
    ――なるほど……当然、僕らのような一般的な日本人がアルカイダを知ったのは9.11以後のことでした。ただでさえ映画みたいな衝撃的な事件で呆然としている間に、ブッシュ政権は瞬く間にビン・ラディンを指名手配して、またたく間にアフガンに攻め込んだという印象だったので、多くの日本人は戸惑うばかりだったと思います。あれはアメリカの自作自演だったのではないかという陰謀論まで、当時はしきりに囁かれました。
     しかし今、黒井さんたちのような形で情報を追っていた人たちからすると、すでにその時点で感じているリアリティの違いがあったのではないかと。9.11が起きたときに、ビン・ラディンが特定されていく経緯というのは、黒井さんたち的には納得だったんでしょうか?
    黒井 テロを追いかけてる人から見れば、あれがアルカイダの仕業だろうなっていうことは一発でした。1998年にケニアとタンザニアでテロをやって、最終的にアメリカを狙っているのはみんなわかってましたから。在韓米軍が狙われるんじゃないか、みたいな噂はけっこう出てて、どこかの国で、アメリカ大使館とかを狙ったりっていうのをそろそろまたやるだろうっていうのは、みんな思ってたんですね。
     ただ、アメリカ本土でああいうハイジャック型の大規模な事件になったことには、意表を突かれました。だからあの事件が起きたときには、これはもうアルカイダ以外にないな、というのはすぐにみんなが考えることでした。当時、DFLPっていうパレスチナのゲリラがやったんじゃないかっていう第一報が流れたんですよ。そういう問い合わせが僕も新聞社から来たんですけど、「それはありえないです。アルカイダで間違いありません」って言ったのは覚えています。
    ――つまり、90年代の時点ではわずかな勢力でしかなかったけれど、2001年の時点では、そこまで確信を持てるほど急速な盛り上がりがあったわけですね。
    黒井 1996年にアフガニスタンに戻って、タリバンと手を組んだのが転機ですね。ちょうど僕の最初の本が出た頃に、アルカイダはあちこちのイスラム過激派と連携して、十字軍と戦う世界イスラム軍だみたいな旗揚げをして、これからアメリカをやるぞって宣言したんですね。そのときに僕らの間では注目度が高まったんです。当時は、アルカイダって言い方はあまりしてなくて、ビン・ラディン派の連中はこれからどんどんやるぞという雰囲気が、98年くらいから盛り上がっていた。
    ――逆にそういう情報に対して、日本でのニーズはどうだったんでしょう。
    黒井 ないですよ。だから、軍事雑誌でしか扱ってくれないんですね。
    ――つまり、赤軍派の時代とは違って、日本人にとってはテロというの自分の生活とは基本的には関係のない、マニアックな趣味の情報としてしか捉えられていなかった時期が長く続いていた、と。
    黒井 日本だけじゃないですけどね。9.11後にアメリカが調査委員会を作って検証しているんですけど、おもしろいなと思ったのは、アメリカの情報機関ですら冷戦の終結後はテロへの警戒をやめてしまっているんですね。90年代にはCIAやFBIなんかも「テロ対策はもういいだろう」と、麻薬組織関係に人員をシフトしていったりだとか。CIAの「テロ対策センター」という本丸の組織でも、ビン・ラディン班なんて10人とかそこらの規模です。そこの人たちはさすがに「これからこいつらが危ないぞ」と声を大にして言ってたんですけど、CIAの中で誰も話を聞いてくれず、傍流の傍流あつかいをされていました。アメリカはニューヨークの貿易センタービルの地下駐車場を爆破されたり(1993年)とか何度かやられてるんですが、それでも大して動いてないです。
      なんとなく冷戦終わったし、もうこれからあまり危ないことないんじゃないか、という油断はアメリカの中でもありました。そういう背景があったので、9.11はアメリカにとっても晴天の霹靂でした。
    ――とはいえ、中東地域では、紛争はずっと続いていたと思うんですね。
    黒井 でも、ちっちゃかったですね。前は、大きな紛争がいくつもあって、イスラエルの話もそうでしたけども、戦争も起こったし、それぞれバックにソビエトとアメリカが居て、イスラエルが動いてみたいなガチンコだったんですけども、冷戦が終結してからあのへんもけっこうフラットになったんですよ。
     その後には湾岸戦争があって、それが終わった頃からは、ここからもう大きな戦争はないだろうっていうような空気で、やっぱりシリアとかイラクとか、カタフィーのリビアとかもそうですけども、90年代以降になってから、わりとみんな大人しくなるんですよ。もう冷戦が終わってソビエトが助けてくれないから、アメリカと喧嘩してもしょうがないだろうということで、戦争ないし平和だよねみたいな空気が、アラブでも90年代以降には主流でした。
    ――それは、今の空気とはまったくちがうことですよね。やっぱり9.11がきっかけだったという理解で良いのでしょうか。
    黒井 そうですね。ただ、9.11はアルカイダが突出しすぎたので、あれの模倣犯はけっこう出たんですけども、アラブ世界があれで反米になったというわけではなかった。「アメリカが悪い」というよりは「テロの人すごいね」みたいに、アラブの中でもちょっと他人事みたいなところがあって。  反米ブームが一気に来たのは、むしろ2003年のイラク戦争以降のことでした。
     
     
    ■ イスラム過激派は「幕末の志士みたいな意識高い系」?
     
    ――そこでアルカイダが、反米グローバル・ジハードの急先鋒という権威を獲得して、それまでになかった世界的な象徴性を帯びていったと思うんです。そこには、国境を超えるネット利用の効果が大きかったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
    黒井 そもそもアルカイダは、ネットで人を集めていたわけではなくて、イスラム教の説法や軍事訓練風景などのビデオCDなんかを直接配ってました、今のイスラム国のものに比べればずっと手づくり感満載のものです。中東やヨーロッパなど各国のモスクにアジーテーターみたいな人がいて、人脈ネットワークでオルグしていくのがほとんどでしたね。それで「お前、やる気ならパキスタンに行ってみろ」と言われた人がビン・ラディンに会って「がんばれ」とか言われて帰ってくるみたいな感じです。あとは「俺の友だちがメンバーにいるから、お前も集会に来いよ」といった口コミによる紹介で人を集めて、そこで急にテロをやろうと決めたりする。それで終わったら「じゃあね」って言って、次の友だちに会ったら別のグループに行ったりとか、そういうのが普通にある。
    ――口コミから国際的なネットワークになっていくのが、日本人の感覚からすると意外ですよね。
    黒井 日本人のイメージするテロ組織、たとえば、赤軍派やオウム真理教はガチっとした規律があって構成員が決まってる感じですけど、中東はもっとゆるいんですよ。パレスチナ人のグループもいっぱい派閥があって、アラファト派とアブ・ニダル派がケンカしてたりしたんですけど、アブ・ニダル派の人が明日からアラファト派に行くって言っても、「おお、そうか、がんばれよ」と言われるような雰囲気なんですよ。彼らは、なんとか解放戦線とかいう組織名もほとんど知らないで、ボスの名前でグループを呼んでるんです。自民党の宏池会とか清和会とか言ってもよくわかんないけど、安倍派とか言ったらわかるみたいな感覚に近いんですよね。だから、アラブの過激派のメンバーは、自分の所属組織の政策とか綱領なんか誰も気にしていません。それも自民党と似てますね。
     9.11テロのプロットを考えたのはハリド・シェイク・モハメドという男で、彼は若いときからテロをやりたくてやりたくて、1993年に起きたアメリカの世界貿易センタービル爆破事件などを仕掛けた人物ですが、ビン・ラディンにすごいライバル意識を持っていたんですね。行動力はあるんだけども、お金も子分も持ってないから、世界じゅうを渡り歩いて「お前ら一緒にやらないか」みたいにオルグをしてる。それでも自前では限界があって、最終的に9・11テロの計画をビン・ラディンに売り込みに行って、ビン・ラディンをある意味で“引きずり込む”のに成功するのです。それこそ、長州や薩摩の尊皇攘夷志士の間で顔つなぎ役をしてた坂本龍馬みたいな感じですよ。 
     

    ▲ハリド・シェイク・モハメド
    画像出典:The Long, Brutal Interrogation of Khalid Shaikh Mohammed - NationalJournal.com 
     
    ――それは面白い表現ですね。そういった「テロ浪人」のようなイスラム過激派というのは、もはや貧困ゆえのテロというより自己実現的な意識なんでしょうか。
    黒井 彼らは悪い意味で、非常にロマン派ですよ。テロリストの人たちは、承認欲求がすごい強くて、イスラム教徒全般にウケることをしたいというモチベーションが高い。評価されたいんですよ。それを命がけやってます。それで、たとえばアフガニスタンのキャンプに世界中から賛同者を集めて軍事訓練をして、「あっちこちでアメリカ人殺したらすげえ楽しいぜ」みたいな感じで世界に散らしてる。昔の幕末志士や、世界革命を唱えていた左翼もそういう面があったでしょう。
    ――ネットの普及がそれを後押しするようになった面はあるでしょうか?
    黒井 ツールとしてはあると思います。ただ、よく勘違いされていると僕が思うのは、イスラム国もネットを使ってますけど、ネットありきで始まった運動ではなくて、ただ便利だから使ってるっていうことなんです。ヨーロッパあたりからイスラム国に行ってる連中には「ネット見ました!」という人もいますが、実際は、EU圏内で「イスラム国はいいぞ」とアジってる過激なイスラム説法師などの紹介で来る人の方が多いです。どうもイスラム国報道ではネットが誇張されている気がしますね。
    ――もしイスラム国が片付いても、そういう、かつての志士気取りのようなテロ志願者の受け皿は別の場所にまた現れると思いますか?
    黒井 イスラム過激思想自体はなくなりはしないです。ただ、時々こういう感じでテロの流行はくるでしょうけれど、集まってきた人たちも、上手くいかないとだんだん現実に適応していくんですね。かつての左翼もそうです。学生運動がバーッと盛り上がって、その内のいくつかの勢力がテロに走りましたけど、「どうせ社会は変えられない」と、おおかたの人は就職して辞めていってしまう。でも、辞めない少数派がまた違う形で始めたり......それの繰り返しですね、テロは全部そうです。
     
     
    ■ イスラム国のネット利用はむしろ下手だった?
     
    ――アルカイダは明確な拠点がない国際ネットワークのまま転々と活動していましたが、そこから影響を受けながら勢力を伸ばしていったイスラム国が、領域的に浸透したのはなぜでしょうか?
    黒井 それはやっぱり、2011年の「アラブの春」以降のシリア内戦と、イラクからの米軍撤退で、この両国がぐちゃぐちゃになったからですね。本当に偶然ですよ。
    ――まさに「アラブの春」では、インターネットが独裁打倒に寄与しましたが、皮肉にもそれがイスラム国の台頭を招いてしまった。軍事的なリアリズムから見ると、テクノロジー環境の進歩自体は社会の改善につながらないのでしょうか?
    黒井 でも、ネットがなければ「アラブの春」は起こってないですよね。昔であれば反政府運動を唱えてもすぐ弾圧されちゃうけど、それが、携帯などで連絡を取り合って動いたとか、彼らを支える自由な言論空間が出現したとかいう点はやっぱり大きい。情報化が進んだので一方的な統制みたいなものが効かなくなってますから、独裁が崩れていくのは歴史的な必然なんだろうなと思います。僕はシリアで反政府運動を仕掛けた人たちを知ってますが、彼らは最初のデモのときから、ネットを使えば世論が盛り上がるし、世界も見てるから民主化されるだろうという戦略で、隠しカメラも使って撮ってるんです。それで、アサド政権による虐殺などの情報をたくさん流して、国際社会が自分たちを助けてくれると期待した。実際には裏切られてしまったわけですが。
     けれども、そうして現地の情報が世界に流れたことで、イスラム国ができる前の早い段階から「シリア人を助けよう」という義勇兵がいっぱい来てるんですよ。そもそもはそういう人道的な動機で来た人たちがイスラム国に流れてるんですね。今後は、たとえばウクライナなど、どこかで紛争が起こったらネット経由で「世直し義勇兵」みたいな意識で参加する人は間違いなく増えると思いますね。
    ――ネットの利用がそうした人道的な動機に合致することもありますが、一方でイスラム国は斬首映像をYouTubeにアップしたり、残虐性を強調していますね。あれは実際に宣伝効果が高いのでしょうか?
    黒井 僕は逆効果だと思うんですよ。ああした残虐性は、戦略として洗練されているとは思えません。普通だったら残虐な面を出さずに「自分たちは正義の味方だ、ホラ、捕虜も改心して仲間になってるから、一緒に戦おう」なんて感じのプロパガンダの方がよいはずです。昔の中国共産党がそれが上手かったですね。
     
    ▼【ここからはチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は4月も厳選された記事を多数配信予定です!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201504

     
  • サマータイムよりもアツい政策!?/投票率よりも大事なこと(統一地方選2015)(橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第7回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.299 ☆

    2015-04-08 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    サマータイムよりもアツい政策!?/投票率よりも大事なこと(統一地方選2015)(橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第7回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.8 vol.299
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガでお届けするのは、英国留学中の橘宏樹さんによる連載『現役官僚の滞英日記』の第7回! 「政治や国際問題になんて関心ないよ」という読者のあいだでもじわじわと人気を上げてきているこの連載ですが、今回は英国流の「サマータイム」の日本への導入、そして今月の12日と26日に控えた統一地方選について考えます。 いま地方を元気にするために、「選挙に行く」よりも大事なこととは――?
    橘宏樹『現役官僚の滞英日記』前回までの連載はこちらのリンクから。
      
     
     みなさま、こんにちは。ロンドンの橘です。日本はすっかり春到来のようで、このところ私のFacebookのタイムラインも満開の桜やお花見の写真で賑わっていました。イギリスでは今年のイースター(復活祭)は4月5日(日)ということで、今、ロンドンは行楽真っ盛りです。気温もぐっとあがり、ハクモクレンも段々と咲き始め、曇天ではあっても明らかに風に温もりが感じられるようになってきました。
     イギリス(そしておそらくキリスト教国一般)には日本のような休祝日はあまりありません。そのかわり誰もが一斉に長い休暇を取る時期が何度かあります。このイースター休暇は、クリスマス、夏休みに並ぶ3大休暇イベントのひとつと言えるでしょう。観光客とともに、街頭で腕を振るう大道芸人の数も一気に増え、ロンドンの街中が春を歓んでいる雰囲気です。私の同級生たちの多くも帰郷したり旅行に出たりしており、寮は閑散としています。そして5月、6月には各種論文の締切、そして試験が待ち受けています。
     
     さて今回は、サマータイム制度と日本の統一地方選挙について書いてみたいと思います。
     

    ▲サマセットハウス(美術館的な催事場)中庭。春の陽射しを楽しむ若者たち。
     
     
    ■ サマータイムは有効なのか
     
     春の到来とともに、イギリスはサマータイムに突入しました。2015年3月29日(日)1時から10月25日(日)2時まで、時計の針を1時間早めることになります。サマータイム制度の主な目的は、日が出ている時間をなるべく有効活用しようということにあります。日の出がだいたい朝の6時頃で始業が9時だとすれば日照時間を3時間は無駄にしているとも言えます。18時に仕事が終わる人は、昨日までは17時だった時刻に仕事が終わるわけで、自由に使える日没時刻までの時間が1時間長くなるわけです。学校に通ってもよいですし、屋外スポーツもしやすくなります。お子様連れで出かけやすくもなります。経済活動が活発化するでしょう。
     こうしたメリットを考え、日本でもこのサマータイムの導入について、これまで様々な議論や試行実験などが行われてきましたが、混乱を恐れてか、なかなか本格的な導入にまでは至っていません。
     しかし、つい先日(2015年3月27日)安倍首相は、今夏の「ワークライフバランス推進強化月間」に合わせて、中央官庁の国家公務員の就業開始時間を1~2時間程度早めるように各閣僚に指示しました。霞ヶ関だけサマータイム導入ということです。これによって官僚が家族と過ごす時間を持ちやすくなるのはもちろんのこと、様々な業種業界の方々との交友を深めて新鮮な知見に触れることができれば、より適切な政策立案を発想できそうで、良さそうです。
     しかし残業を強制的に不可とするものではないようです。そもそも公務員の残業が長くなる根本要因のひとつは、しばしば指摘されているように(例:駒崎弘樹氏のツイッターでの発言)、国会議員の先生方からのご質問が深夜に舞い込み、翌朝までに回答を準備せねばならぬということが多いからです。担当者が知っていることを電話で答えるだけで済むのであればよいのですが、そうもいきません。関係課や他省庁と連絡して決裁を回し、政府・組織としての正式な回答を作成する調整過程に時間が大きく費やされるのです。
     民主主義国である我が国においては、民主的に選ばれた国会議員は大変エラいので、民主的に選ばれていない我々公務員から、例えば「ご質問は前々日の朝以降受け付けません」などとは到底言えないのが実情です。
     もちろん国会議員の先生方も大変お忙しいので、自分の質問を準備する時間がどうしても押してしまう事情もあります。だからこそ、質問をされる前に「レクチャー」すなわち根回しをしようとする役所も多くなりますし、質問を「早く取ってくる」という新聞記者のようなこともします。これらの業務量は馬鹿になりません。
     
     ちなみにイギリスでは、本稿の第3回(イギリスの情報公開は本当に進んでいるのか? )でも触れたとおり、政治家と官僚の間に接触禁止規定があるので、このような事前根回しは不可能です。そしてほとんど誰も残業しません。英国財務省に出向経験のある高田英樹財務省広報室長によれば、「夕方以降閑散としている」とのことです。(『霞ヶ関発の「働き方改革」へ向けて(2015年1月) )
     とはいえ、霞ヶ関の残業時間も、国会議員の先生方含め、多くの方々の尽力によって、ひと頃よりもだいぶ改善はされてきていることは申し添えたいと思います。誠にありがとうございます。
     

    ▲晴天のテムズ河岸。ビクトリア時代からの個性的な名建築が並びます。
     
     
    ■ むしろ標準時を変える!?
     
     サマータイムの効用に話を戻します。仕事時間を朝方に前倒しするメリットについて、上記の「アフターファイブ経済」の開拓は大変魅力的だと思います。と同時に、日本人が何時から何時まで仕事をするべきかを考える上では、地球上において、GDP世界第3位の規模を持つ日本市場をいつ開きいつ閉じるのか、という視点も重要になってくると思います。
     
     この点、サマータイムやその漸進的導入などにとどまらず、いっそ、兵庫県明石市を通る東経135度の標準時子午線を、東経165度にまで動かしてしまおう、というアイディアもあります。これによって、日本時間を2時間前倒しにしてしまおうというわけです。夏の間に限らず通年です。
     私がこのアイディアを初めて聞いたのは、元京都市観光政策監(京都の観光行政のトップ。市役所のナンバー3)の清水宏一氏からです。(氏は寺社をライトアップして行楽シーズン以外の宿泊客を増やした「夜間拝観」や「京都検定」の導入により京都の年間観光客を4000万人から5000万人にまで増やしたレジェンド的公務員です。「こういう考え方もあるで(ニヤリ)」と、お話してくださいました。
     
    ▼参考リンク
    観光都市東京をプロデュースしてみる 講師:清水宏一氏(第3回ZESDAプロデュース・カレッジ ) - ZESDA's blog 
     
     私は当時、なかなかぶっ飛んだアイディアだな、と大変驚きました。そして、その後調べてみたところ、政府の産業競争力会議(第9回2013 年5月22 日)でも、猪瀬直樹前都知事が同説を主張していました。竹中平蔵氏も「ポジティブ・サプライズになる」として、これに同調していたようです。(第9回産業競争力会議議事要旨 ) 
     また、猪瀬氏は標準時移動の主な狙いとして、「主要都市の中で、最も早く始まる市場 •東京を 目指す。海外から東京市場を カバーすることが困難になり東京回帰が起こる。」「世界市場を東京、ロンドン、NYで8時間ずつ24 時間カバーできるような体制にする」と述べています。(「東京標準時間」導入プラン )
        とはいえ、当然ながら同説には批判も多く寄せられています。例えば、標準時2時間前倒しをそのままの形で実現してしまえば、西日本に住まわれる方々や冬季の北日本の方々などは、日の出前の暗闇や零下の屋外で活動することを強いられてしまうことになってしまいます。
     

     

    ▲賑わう休日のコベントガーデン。007の愛車アストンマーティンを展示し最新作を宣伝中。
     
     
    ■ 標準時を移動すれば東京はアジアの金融センターになれるのか
     
     また、世界で最も早く金融取引を始めることだけが目的なのであれば、東証の取引時間を早めれば良いだけかも知れません。
    しかしそれ以前に、東京がシンガポール・香港・上海よりも魅力的なアジアの国際金融センターとなるには、標準時や取引時間を動かすことだけでは足りないと思われます。ロンドンでもアジアの金融事情は、しばしばシンポジウムのテーマになります。日本の海外投資規制が障害であるということは、既に何度も議論されてきており、思うような動きが日本側にないので、最近はもう話題にもならないというのが「シティ」(ロンドンの国際金融家達)でのリアルだと感じています。
     
     シティから見ると、アジアの金融センターは現在明らかにシンガポールであり、中国経済との接続が進む香港・上海の今後には期待大。東京は、好きな人は好きだが、投資したり住んだりするには、めんどくさいことが多過ぎる、という空気です。特に、投資先ということは赴任先ということにもなりますから、金融エリートの奥さん連中が暮らしてもよい、暮らしたい、と言うかどうかは拠点の開設にあたり非常に大事な問題であるようです。現在、イギリスはじめ先進国の一部では、東京はアフリカなどとともに、暮らすのが大変な「障僻地」に分類されています。蒸し暑い上に英語が通じないので、赴任者には厚い手当がつくのです。
     
    ▼【ここからはチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は4月も厳選された記事を多数配信予定です!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201504

     
  • 本日発売!『文化時評アーカイブス2014-2015』からよっぴーさんと宇野常寛の巻末対談ハイライトを配信します! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.298 ☆

    2015-04-07 07:00  
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    本日発売!『文化時評アーカイブス2014-2015』からよっぴーさんと宇野常寛の巻末対談ハイライトを配信します!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.7 vol.298
    http://wakusei2nd.com


    本日は、毎年恒例のPLANETSによるカルチャー総まとめ本『文化時評アーカイブス2014-2015』の発売日! (表紙は乃木坂46の秋元真夏さん! )
    メルマガでは、巻末の吉田尚記さん(ニッポン放送アナウンサー)と宇野常寛の対談「2014年のサブカルチャーを振り返る」のハイライトを無料配信します。いま物語、そしてサブカルチャーが担うべき役割とは――?
     
    ■ 無印良品、レゴ、IKEA……モノを語る言葉を鍛えたい
     
    宇野 ちょっと変な話をしてい
  • 月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」3月30日放送書き起こし! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.297 ☆

    2015-04-06 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    月曜ナビゲーター・宇野常寛J-WAVE「THE HANGOUT」3月30日放送書き起こし!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.6 vol.297
    http://wakusei2nd.com

    大好評放送中! 宇野常寛がナビゲーターをつとめるJ-WAVE「THE HANGOUT」月曜日。ほぼ惑月曜日は、前週分のラジオ書き起こしダイジェストをお届けします!
     

    ▲先週の放送は、こちらからお聴きいただけます!
     
     
    ■オープニングトーク
     
    宇野 時刻は午後11時30分を回りました。みなさんこんばんは。評論家の宇野常寛です。今日もみなさんに冒頭からひとつ報告があります。いま、僕は精神的な戦いを挑んでいます。某フランスのおしゃれブランドに。実はですね、4月から毎週テレビに出ることになったので、ちょっと服を買い足そうと思ったんですよ。僕は基本的に1年中ジャージを着ているんですけど、さすがにテレビのワイドショーのコメンテーターをやるんだから、少しはパリっとした格好しようかなと思って、1年に1回行くか行かないかの某デパートのメンズ館に行ったんです。このメンズ館は、2年くらい前かな……僕がいつもお世話になっている、というか僕の心の師匠である平成仮面ライダーシリーズでお馴染み脚本家の井上敏樹さん、そして僕の仮面ライダー友達の作家の川上弘美さんに、服を見立ててもらったことがあったんです。そのときに、井上さんが、ご自身の趣味で、かなりワイルドサイドな団体の構成員、もしくは準構成員的な服ばっかり僕に勧めてくるんですよ。紫のジャケットとかね。そんなの、バットマンのジョーカーが着ているのしか見たことないんですけどね(笑)。それで、僕がドン引きしているのを見かねて川上さんが勧めてくれたのが、そのブランドでした。だからそれ以降ちょっとお気に入りになって、ときどき行くようになったんですよね。
    で、今日もそのお店に行こうと思って、シャツとかパンツとか春ものを見繕いに行ってきたんですよ。いくつか選んで、さあ会計だっていうときに、店員さんにポイントが付くから会員カードを作らないかってきかれたんですよ。20代後半くらいのちょっと丸顔の女子店員さんにね。まあ梱包と配送の手続きにちょっと時間があるから、その間に手続きするんだったらいいかなと思ってOKしたんですよ。それで、住所とか名前とかを記入していくんですけど、申し込み用紙の後ろの方に、なぜか趣味とかを書く欄があったんですよね。そしたら、この趣味の欄がすごくて、あまりにもすごかったので僕は写真を撮ってきました。読み上げますね。「あなたの趣味を教えてくらさい。1.アート、2.映画、3.写真、4.スポーツ、5.旅行、6.音楽」。これにはちょっと参りましたね。だって、初っ端からアートですよ? アートって趣味の候補のいちばん先に来ないでしょ普通(笑)。僕ね、ここにあがっているものはだいたいそれなりに嗜んでいるつもりだけど、この並びって、明らかに僕みたいな人間を想定していないんですよね。
    たとえば最初のアートっていうことで言うと、チームラボの猪子寿之が個展をやったときに、僕はニューヨークのPACE GALLERYに文章とか書いているんですよね。で、2番目の映画は、僕は評論を何度も手がけていて、まあアニメが中心だけど、ユリイカのスピルバーグ特集とか山下敦弘特集とかにも書いているわけです。で、写真も、よくプラモやフィギュアの写真を撮っていて、専門誌に寄稿したこともあるんです。スポーツについてはオリンピックの本を作ったばかりですよね。旅行についても人並みには好きだし、音楽に至っては年に5回くらいCDを数十枚買っているんですよ。まあ、同じCDなんですけどね(笑)。
     
    ▼PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は4月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201504

     
  • 落合陽一×宇野常寛「〈映像の世紀〉の終わりに――視覚イメージのゆくえ」(後編) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.296 ☆

    2015-04-03 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    落合陽一×宇野常寛「〈映像の世紀〉の終わりに――視覚イメージのゆくえ」(後編)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.3 vol.296
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガは、現代の魔術師・落合陽一さんの好評連載『魔法の世紀』のスピンオフとして、宇野常寛との対談「〈映像の世紀〉の終わりに――視覚イメージのゆくえ」後編をお届けします。今回は会場から寄せられた質問に答えながら、落合さんと宇野常寛の二人が、「物理世界に染み出す」時代のインターネットと情報技術のありようを解説しています!
    前編はこちら。落合陽一×宇野常寛「〈映像の世紀〉の終わりに――視覚イメージのゆくえ」(前編) 
     
    落合陽一『魔法の世紀』これまでの連載はこちらのリンクから。
     
     
    ■ 質問1.「物理世界に染み出す」
     
    落合 ……会場がすごく盛り上がっていますね(笑)。
    宇野 いいことだね。もう議論を再開できないくらい会場が盛り上がっていて、これは「魔法の世紀」に手応えがあるな。
    落合 はい、じゃあ質問を受けます。一個目が来ましたね。「"物理世界に染み出す"という話を、もっとわかりやすくお願いします」という内容です。
    この、「染み出す」という言葉は重要です。例えば、光源からスクリーンに光が当たって皆さんの目に届くとき、実はパソコンの中の情報がスクリーンに転写されて届いているわけです。とすれば、このときにコンピュータの中にある情報は、あらゆる場所からアクセスできるようになったとも言えます。データの実体は、インターネット世界にあるのかもしれない。でも、情報そのものはどんどん人間が触れられる場所に出てきている。その事実を、僕は「染み出す」と表現しているんです。
    宇野 さっきの触覚の説明がわかりやすいと思いますね。例えば、僕らが生きている間に、おそらくほとんどのものにセンサーが入るでしょう。その行き着く先は、僕がセーターを着てチクッとするなと思った瞬間に、それをセンサーが感じとって肌触りが滑らかになる……みたいな状況です。ここで重要なのは、僕の脳神経ではなくて、素材の方がいじられていることなんですよ。これが、落合さんの研究の重要な問題提起です。
    みんな情報技術というときに、インターネット上で行う自意識上のテキストコミュニケーションだと思っていますよね。つまり、多くの人はインターネットを、僕らの内面を変えるツールだとみなしている。でも、情報技術がディスプレイの中の映像と人間の自意識を変えるだけの段階は既に終わっている。
    そうなってくると、もはやインターネットをバーチャルと呼ぶような話には、もう全く意味がなくない。実際、現状のコミュニケーションしか変えていない程度のインターネットでさえも、リアルと結託しているわけですよ。だって、「食べログ」やGoogleマップのお陰で、僕たちの都市生活は大きく変わりましたから。
    こういうふうに、かつてのインターネットはユートピアをディスプレイの中に作り上げる発想だったけれども、既にリアル空間のコミュニケーションをより円滑にしていく方に発想が切り替わり始めた。ここから先の情報技術の展開というのは、おそらくインターネットという存在すら飛び越えて、センサー技術などと手を結びながら我々の実空間を情報化で書き換えていくというあり方なんだと思います。これが現在見えている、一つの大きな流れだと思います。
    落合 伝わってるかな(笑)。情報の取得というときに、ついついTwitterのTLやメールのような目で見られるものを思い浮かべてしまうけど、五感のあらゆるものが情報を取得してるんですよ。極論すれば、あらゆるものは物性を介した情報のやりとりだといってもいい。
    例えば、椅子が人間の体重を認識して、その体重に合わせて強度を変えたり、表面の材質を変えたりすれば、それは人間が情報に直接触っていると言える。いまや世界中に張り巡らされたコンピュータが、動物や車の動きを情報として読み取って、最適解を返し始めているわけです。物理空間が情報を媒介して、再び物理空間に戻ってくる。こういうことがあらゆる場所で起き始めているんです。それがこの世界にコンピュータでもたらされる魔法、情報の動的な物理実装です。
     
     
    ■ 質問2.原理主義と文脈主義
     
    落合 次の質問です。「エクスペリエンスドリブンとは何でしょうか?」。
    お、これはいい質問ですね。ネットでバズるコンテンツを見ると分かりますが、「ただ大きい」とか「無茶苦茶書き込みがある」みたいな、「ヤバイ」と言いたくなるものへの感動が大きくなる時代になっています。要は「わかりやすい表現」が強くなっているのですが、それって「ヤバイ」と思えることそれ自体に価値が見出され始めているという話なわけです。
    昔は、もっと違いましたよね。今という時代をどう反映して、作家の生い立ちをどうこの作品は表現していて……というのを、誰もがコンテクストを重視していた。ピカソの「青の時代」みたいに、青い絵の具で塗るような感じですね。これは、よく宇野さんと話すことですね。
    宇野 これは僕の言葉に置き換えると、「文脈主義」か「原理主義」かという話なんですよ。
    さらに言えば、僕ならば「映像の世紀」に文脈を、「魔法の世紀」に原理を対応させますね。結局、「映像の世紀」というのは、特定の文脈をメディア装置で多くの人たちに共有させて、「美」の基準を作り上げたり、正しさが共有される空間を作ったりしていく世界だった。
    しかし、その前提がどんどん壊れている。誰もが発信者になり、誰もがメディアを作っていけるようになったとき、もはや僕らはメディア装置を必要としていない。そのとき、人間の心を感動させる力を持ちはじめているのが、より原理的な表現になっているんです。
    落合 ちょっと良い例を思いつきました。例えば、フェンシングの太田選手っているじゃないですか。彼がオリンピックの決勝戦で、超絶すごい突きで相手を倒したとき、「映像の世紀」であれば、きっと幼少期からの太田さんの生い立ちについて語って、「あの努力の高校生時代を過ごし、苦難の大学生時代を過ごして、今のあの突きにつながったんです」というのを、どうしても30分かけてやると思うんです。
    だけど「魔法の世紀」には、より高精細なスローモーションビデオなんかで、その凄まじい一瞬を沢山語ることが出来る。「やっべえ、これ絶対よけられねえじゃん」みたいな映像が共有されて、どんどん盛り上がれる。そもそも重要なのは、コンテクストではなくて、その「突き」そのものですから。それが太田選手の文脈を理解してない人でも突きそのものの凄さとして理解される。
    宇野 たぶん僕らが生きている間に、それをもっと別の手段で我々は感じることができるようになっていくのだろうと思いますね。「突きの鋭さ」だけのもつ圧倒的な体験だけがむしろ共有されていくような。
    落合 例えばHMDを被って正面から突きを食らう映像が来たら、もうそれだけで「これはマジでヤバいな」となるじゃないですか。これが、「魔法の世紀」の重要な転換点なんです。
    しかも、短くて済みますからね。俺たちはコンテクストを共有するには、情報が溢れすぎていて、一個のコンテンツと接する時間があまりに少ない。テレビをぼうっと口を開けて見て、30分長々と鋭い突きを繰り出した人間に時間を割くことは、もうなかなか出来ないでしょう。情報は希薄化され、溢れている。すぐに体感できるコンテンツが重要なんです。
    宇野 もう一つ重要なのは、「文脈主義」の立場に立つ限り、あらゆるものが規模と距離の問題に還元されてしまうことなんです。結局、「文脈主義」というのは、自分にとって感動できるかどうかという問題にしかならない。
    例えば、僕は全くスポーツには興味がないけど、自分が講演に行って生徒と仲良くなった高校が甲子園に出たりすると、一生懸命に応援するわけです。でも、ここで僕が彼らの試合から受け取る感動って、まさに講演に行って少し仲良くなったという事実にしかない。
    とすれば、もはやソーシャルグラフを充実させるアーキテクチャと、その感情が維持できるような、頻繁に握手会をするだとかの近さだけが重要になる。つまりは、規模と距離のコントロールだけで、濃い文脈が発生する確率をどんどん引き上げられるというのが、おそらく現在のゲーミフィケーション的な存在の一つの回答です。
    でも、これはもはやアーティストというよりも、プラットフォーマーの仕事になっている。両者の線引きは物凄く深い議論で、それだけで3時間くらいシンポジウムが出来ると思いますが。ただ、僕としては、もっと大きい形で個人の体験に還元されない価値のようなものを作ろうと思うと、おそらく文脈主義を捨てて、原理主義に回帰するしかないだろうとは思ってますね。
    落合 例えば、昔は同じテレビ・新聞・教科書を見て生きていたから、福山雅治がビールを飲むだけで一気に説明されてしまうようなCM文化が存在していたわけです。福山雅治というコンテクストが一瞬で15秒の間で共有されることが可能だった。でも、その共通文脈が崩壊してしまえば、CM文化も同時に消滅してしまう。逆に言えば、コンテクストでウケを狙いたければ、まずはその説明から入る必要があるんです。
    宇野 僕はエンターテイメントの評論家なので、そこに関してはあっさりとした回答を持っています。例えば、いま一番日本で支持を受けているエンターテイメントは、「300人くらいグループにいたら、1人ぐらい好みの女の子はいるでしょ。その子と1ヶ月に1回は握手させておけば、コンテクストが豊富になるので楽しいでしょ」という発想なわけです。
    つまりは、コンテクストの感動というのはプラットフォームで完全に設計できる――これで、終了です。結局、そういう感動というのは、実はほとんど個人的なコミュニケーションの問題でしかないと判明してしまったんですね。あとは残っているのは、そのコミュニケーションの環境をいかに整えるかという問題と、個人の努力の問題だけでしょう。握手会で変なことを言って嫌われないとかね(笑)。
     
     
    ■ 質問3.ヒューマズムな表現とは?
     
    落合 ここに質問が一個きているので読みます。
    「『魔法の世紀』は文脈主義から原理主義へ移っていくというお話は、ヒューマニズムのような感動よりも五感に直接訴えかける感動の方が主流になるということでしょうか?」
    はい。そう思います。ヒューマニズムというのもポイントですね。BBCなんかは、よく泣けるコンテンツをバズらせるんです。例えば、死ぬ直前の老婆が愛する馬と会った瞬間に死んだみたいな話です。ただ、それってヒューマニズムなのかというと、少し違う。「死」という直接的なコンテンツをバズらせているだけとも言えて、実は「原理主義」的な話なんだと思います。別に些細な心の機微があったわけではなくて、ガツンと人が死んだからええやろ、という発想ですよね。人間の心を直接に金槌でぶん殴るような表現なんだと思います。
    それって嫌だなと思う部分もありますが、機微のある表現はコンテクストが重要である以上、どんなコミュニティの人間も共通して理解できる表現は減少しています。もちろん、あるアートのコミュニティ、SF好きのコミュニティ、何かの映画作品好きのコミュニティみたいなところに分断された表現は残っていくと思いますが。
    宇野 繰り返すけれども、いわゆる狭義のヒューマニズムがもたらす感動というのは、プラットフォームによっていくらでも設計できると判明した。だって単純に、本当にシステムを作って多様な選択肢と近い距離さえ確保していけば、確率的に発生するともう証明されてしまったわけですよ。そうである以上、それはもうアーティストの仕事ではなくなっていく。おそらく、マーケッターやアーキテクトの仕事になっていくでしょう。
    落合 感動の話だったら、前田敦子が転ぶ瞬間を捉えたらいいんだよね。しかも、それは確率の問題でしかない。
    宇野 その感動の大きさというのも、前田敦子との距離の近さによって設計できるわけだからね。つまり、2005年の12月から劇場に通い続けたやつの感動は1億なんだけど、テレビで何となく「何だあの人」と思っている人間の感動はもしかしたら−3みたいなね(笑)。それって、ほとんど多様な選択肢と近さをどう設計するかという問題に、おそらく8割ぐらい還元されている。
    ただ、今日の話について言えば、僕はそういう作業を馬鹿にする気は全くないけれど、もうちょっと別の回路があるんじゃないかという気がする。もう少し文脈主義に回収されない、「魔法の世紀」における「死」とはなにか、みたいなことは考えられると思う。人間と情報との関係が変わりつつある時代の絶対的なものとかね。
    落合 それ、俺も連載で書こうかな。だって、外在的に俺たちは死ななくなってるもんね。死んだ後もブログは残っているわけで。
    宇野 そうなんですよ。「認識できても触れられないものとは何か」みたいなものが、おそらくテーマになっていくんだと思う。
     
     
    ■ 質問4.ソニーについて
     
    落合 次の面白そうな質問は、「ソニーに関して聞いていいですか」というものです。
     
    【ここから先はチャンネル会員限定!】
    ▼PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は4月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201504

     
  • "もし現実にいたら"を具現化する力――造形師・竹谷隆之に聞く三次元の〈美学〉と可能性 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.295 ☆

    2015-04-02 07:00  
    220pt
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    "もし現実にいたら"を具現化する力――造形師・竹谷隆之に聞く三次元の〈美学〉と可能性
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.4.2 vol.295
    http://wakusei2nd.com


    本日のメルマガは造形師・竹谷隆之さんのインタビューをお届けします。竹谷さんはフィギュア、映画美術などさまざまな原型を担当し、最近では庵野秀明さんプロデュースの「特撮博物館」(2012年〜)で巨神兵のコンセプトデザインを務め、2013年には3331アーツ千代田にて「竹谷隆之の仕事展」として個展も開催された造形界のトップクリエイター。サブカルチャーから出発し、現在ではアートの文脈からも注目を集める竹谷さんの創作の裏側に、宇野常寛が迫りました。
     

    ▼プロフィール
    竹谷隆之(たけや・たかゆき)
    1963年12月10日北海道生まれ。造形家。 
     
    卓越した造形力と、独自の解釈で描かれるデザイン力が高く評価されている。特に異形のクリーチャーや有機的なデザインのメカニックを得意とする。
     
    モデルアート社を経て、1985年頃からフリーとして活動を始める。1994年から足かけ5年にわたり、モデル&ホビー雑誌『S.M.H.』誌にオリジナル作品『漁師の角度』を連載。 1999年には初の作品集『竹谷隆之作品集 漁師の角度』がホビージャパン社より発売され、翌年2000年には、渋谷パルコ3にて『竹谷隆之の仕事展 ~「仮面ライダー」から「漁師の角度」まで~』が併せて開催され、好評を博す。 
     
    現在は、映画、玩具、フィギュアなど様々な領域において活躍。 フィギュア原型は、『ファイナルファンタジーⅧ』、『エイリアン』、『プレデター』、『仮面ライダー』、『デビルマン』など多数。海洋堂の『百鬼夜行妖怪コレクション』、『妖怪根付』では、原型総指揮をつとめ、数々の日本妖怪を現代に甦らせた。 同じく海洋堂の『リボルテック・タケヤ』シリーズでは、著名な仏像を全身フル可動化してしまうという前代未聞の造形作品を現出させた。従来のデザインに竹谷流のアレンジを加えることによって、キャラクターの今までに無かった側面を浮き彫りにすることに成功している。また、『牙狼 〈GARO〉』など、映像作品の美術デザインの参加も多い。 
     
    近年では、2012年開催の『館長庵野秀明 特撮博物館』で上映された『巨神兵東京に現わる』の「巨神兵」のコンセプトモデルを制作して話題を集めた。2013年には、ライフワークとも言える『漁師の角度』の完全増補改訂版が講談社より発売されている。
    2015年放送中の「仮面ライダードライブ」のクリーチャーデザインを担当している。
    公式サイト http://www.takeya.jpn.com/
     
    ◎構成:有田シュン
    ◎取材撮影:小野啓
     
     
    宇野 本日は僕の尊敬するクリエイターさんであり、初期『S.I.C.』からファンである竹谷さんにお会いできることをすごく楽しみにしていました。
     

    ▲『S.I.C.』シリーズの仮面ライダー旧1号。『S.I.C.』とは、バンダイのフィギュアブランド「魂ネイションズ」による、芸術美に焦点を当てたフィギュアシリーズ。98年からリリースされており、「キカイダー」や「仮面ライダー」が中心。造形界のトップクリエイターである竹谷氏や安藤賢司氏らによる、オリジナルのデザインをリスペクトしつつも大胆な解釈を加えた造形が特徴。
    「S.I.C.VOL.7 仮面ライダー1号」http://tamashii.jp/item/26/ 
    その他の「S.I.C.」シリーズについてはこちらのリンクから。
     
    竹谷 ありがとうございます。
    宇野 日本には造形師と呼ばれる人はたくさんいると思うのですが、竹谷さんのようにキャラクターデザイナーであり、造形師でもあり、でも人目に一番触れるのは映画美術的なお仕事……という風な独特の守備範囲で活動されてる方は意外といないのではないでしょうか。
    竹谷 そうですね。特に「こっちをやりたい」とか「広げたい」というようなビジョンは若いときから全くなくて、たまたま知り合いから仕事いただいて、それをやってきたらこうなったっていうだけなんですが。知り合いにパワフルで才能の溢れる人が多かったので、その人たちに協力していただけなんです。
    宇野 足場はあくまでも造形にあるという認識なんですね。
    竹谷 はい。中にはデザインだけという場合もありますけどね。ただ、映像物でもなんでも、何かを作るためのデザインをすることが多いです。僕はあまり自分の才能を信用してないので(笑)、「なぜコンスタントに仕事をいただけてるのか?」と問われると、「わりと言うことを聞くから」「要望に応えるから」だと思うんですよね。
     もともと僕は人とコミュニケーション取るのそんなに上手じゃない方なんです。だからこそ気をつけて、「相手が何を求めているのか?」とか、「何を必要としているのか?」というところに気をつけてコミュニケーションを取るようにしてきたんです。多分その辺が、「あいつに頼んだらあんまり変なことはしないだろう」みたいな安心感につながって、仕事を頼んでくれているのかな、と自分では思っています。
    宇野 今おっしゃった「作るためのデザイン」ですが、最近、そのデザインというものについてすごく気になっていることがあるんです。
     そもそもなぜ、映像系のクリエイターたちが竹谷隆之のデザインを必要としたのか? それは、やはり彼らは三次元のために特化したデザインという、洗練されたものを必要としていたからだと思うんです。アニメや特撮の基本的な造形物は、「二次元の劇中のイメージをいかに再現するか?」ということが課題なのだと思っていたのですが、最初に竹谷さんのお仕事を見たときに、撮影の都合とか二次元の線の質感とかを一切取り払って、「本当にこのキャラクターが世界に存在していたらこうなる」というシミュレーション的な感覚が強くアレンジに入っていた。そこに大きな衝撃を受けました。
    竹谷 まさにそれに尽きると思います。なぜかと言うと、やっぱり子供って『ウルトラマン』とか『仮面ライダー』とかを見ていても、「チャックは付いてないんだ」とか「ロボットだから、本当はこの服のしわっぽいのはないはず」とか、脳内で変換すると思うんですよ。そういうふうに「ちゃんと現実に出てきたらどうなるか?」っていうシミュレーションをして見ていたので、その子供の感覚のまま具現化してみただけなんです。
    宇野 個人的な趣味の領域であるアマチュア時代のモデリングの段階で、そういったアレンジをされていたんですか?
    竹谷 そうですね。やっぱり最初はそういうマナーでやる仕事ってあんまりなかったし、あのとき(モデラーとして活動を開始した80年代初頭)は版権の縛りがまだ緩かったこともあり、『ホビージャパン』で「アレンジしてもいいよ」ってお話をいただいたからこそそういうことができたという面はあります。それから、いつの間にかアレンジするのが仕事になって、それで食うようになりましたね。
     

    ▲取材は竹谷さんのアトリエで行なわれました。
     
     
    ■「本当はこう見えてほしい」イメージに近づける
     
    宇野 竹谷さんの作品には、そういった「現実にいたらこうだろう」とシミュレーションする作品や、共通するモチーフが非常に多いと思うのですが、それはやはり郷里である北海道での体験のようなものが一つのベースになっているのでしょうか。
    竹谷 北海道で暮らしていた若い頃は、人口の少ない漁村みたいなところで育ったので、SF的な所とか、ハイテクで最先端な科学の感じとかはあんまりなかったのですが、自然はいっぱいあったんですよ。特に注意して観察していたというつもりはないんですが、生き物とか錆とかは染みついているかもしれないですね。
     

    ▲アトリエ内で「S.I.C.仮面ライダーシン」を発見
     
    宇野 60~70年代の日本のテレビカルチャーを支えていたクリエイターたち、たとえば円谷英二さんや、石ノ森章太郎さんなんかは、自分たちの作っている作品はSFだと思って作っていたと思うんです。でも竹谷さんは、それほどSF的なモチーフというものを受け取らずに、どちらかというと自然との対話という面を受け取ったように感じるのですが、いかがでしょうか。「何か未来的なものを人工的に作っていく」というよりは、「何か人間と環境とのコミュニケーションで生まれてきたもの」というイメージの方を強く受け取っていたように感じます。
    竹谷 今考えてみると、やっぱりそういう方が好きですし、仕事としてもそういうものが多いですね。その頃は──今もなんですが、深く考えていませんでしたが、ただやはり環境として、『ウルトラマン』とか『仮面ライダー』が出始めた時代にたまたま居合わせたというのが大きいと思います。僕らの世代はそういう人が多いんじゃないかな。
    宇野 そうですね。先日、樋口真嗣さんとお話しする機会があったのですが、「宇野くんと違って俺たちの時代は0が1になる瞬間を見ていて、その呪縛から逃れられないんだ」と言われました(笑)。
    竹谷 ははは(笑)。うまい言い方しますね。
    宇野 その話を聞いて、「あぁ、そうなのか」と。僕は78年生まれなので、初代『ウルトラマン』とか『仮面ライダー』は全部本で知った世代なんですよ。
    竹谷 樋口さんの方が僕より若いですけど、多分僕は彼よりももっとボーッとしてたんですよね。ただただ受け入れたというか、「こっちに行くぞ」「こっちで楽しむぞ」みたいに決断することもありませんでした。
    宇野 二次元のものを劇中のイメージで、そのまま再現するという方に行かなかったのはなぜですか?
    竹谷 それは多分、そこに到達するのが難しいし、その時間もかかるし、苦労してイメージに合わせたところで、最終的なものはテレビとかで見えてるじゃないですか。それに近づけるよりは、「本当はこう見えてほしい」というイメージに近づけたほうが楽しいし、きっと楽なんです。
    宇野 ただ、僕は「現実にあったらこうだろう」というイメージを実現するという発想が、新しいものや未来を生んでいくときに大事だと思っているんです。つまり、マイケル・ベイの『トランスフォーマー』では、「こんなの絶対に中に入ってないだろう」みたいなパーツがニョキニョキ生えてロボットに変形しますよね。あれを見ていると爽快なんだけど、あのビジョンで止まってるうちは世の中って何も進歩しない気がするんですよ。本当にバンブルビーを形通りに変形させようと思って、一生懸命三次元にそれを置き換えようとするから人間の想像力は膨らんでいく気がするんですよ。
    竹谷 そうですね。『トランスフォーマー』は宇宙の生命体みたいな謎の設定が付いてますし、CGだしね。オモチャでアレが欲しいなって思ってる人にとっては、「んなわけねぇなだろ」って気持ちはありますよね。オモチャってあの通り変形するんですかね、大変な変形ですよね。
    宇野 このインタビューシリーズで、『トランスフォーマー』のデザイナーの方にインタビューしたことがあるんですが、その人は実際に「差し替えなしに変形させてやろう」と考えて、実践している。そういう、「もし実際にこれが存在できたら、ということを形にしていく想像力」というのはすごく大事なんじゃないかなとここ数年考えていて、僕がそれを一番感じるのが竹谷さんのアレンジなんです。
     
    ▼参考記事
    ・トランスフォーマー:ロストエイジを生き延びた、日本ものづくりを継ぐ者――デザイナー・大西裕弥インタビュー
     
    竹谷 アレンジって既にあるものの、いい所を伸ばして整理する作業なんで楽っちゃ楽で楽しいんですよ。責任もあんまりないし、既に立ったキャラクターがあってそれに乗っかってるわけですからね。「いつも無責任で申し訳ないな」って思いながらやっています。
    宇野 「リボルテックタケヤ」とかもそうで、昔の人は仏像に向かって祈ってたわけですよね。「もしかしたら来世かもしれないけど、この仏像は実際に自分たちを救いに来てくれるかもしれない」とか、みんな仏像を見ながら本当に動いて何かを語りかけてくる仏様を想像しているはずなんですよ。それがオモチャ、フィギュアとはいえ、実際に形になって出てくるという事実に対して、みんな何事もないかのように捉えてるけど、実はものすごく大事なことなんじゃないかな、と思うんです。
     

    ▲リボルテックタケヤシリーズ 阿修羅+四天王(木彫版)
     

    ▲阿修羅(彩色見本)
     

    ▲多聞天(彩色見本)
    リボルテックタケヤ 公式サイトはこちらのリンクから。 
     
    竹谷 わりと誰でもイメージすると思いますよ。僕も10年くらい前から「カチカチって関節が動く仏像があったら良いのにな」って山口隆君と話し合ってて、やっとそれができるようになったからやらせていただいたという感じです。もともとは「あればいいのに」っていう発想から始まったわけなので、やはり妄想することが大事なんですよね。
    宇野 でもなぜ仏像だったんですか? 僕も「リボルテック タケヤ」が好きでいくつか持ってますけど、竹谷さんは仏像のどんなところに惹かれたんでしょうか。
    竹谷 子供の頃は、仏像の写真とか見ても「今から見ると稚拙な表現じゃないかな」と思うことが多かったんですけど、大人になってから見たら日本の独自性を感じるようになったんです。天平時代とかにもいい物があるんですが、特に鎌倉期の彫刻とかはいいですね。「ダントツにうまいな」という作品が多いです。僕はそんなに詳しくないし信仰心もないんですけど、普段彫刻をする立場としては運慶快慶の系列は彫刻として好きです。
    宇野 僕が初期の『S.I.C.』で特に印象に残っているのが、「ハカイダー」です。あのハカイダーをああいう風に鉄臭くアレンジしたということが、僕にとっては衝撃的でした。
     

     

    ▲『S.I.C.』VOL.4 ハカイダー http://tamashii.jp/item/7/
     
    竹谷 確か『S.I.C』でやる前に、雨宮慶太さんが監督した『ハカイダー』に参加していたので形的にはそれに近いですね。その雛形を作るときに雨宮さんが大まかに描いた絵を二人で話し合いながらだんだん具現化していきました。ただ最初に作ったのが、「おっさん臭い」と言われたので映画の方はシュッとしたデザインになったんですけど、『S.I.C.』の方はちょっとおっさん臭くしてみようかなって思って作ったんです。
    宇野 竹谷さんにとって昔小さい頃に衝撃を受けたデザイナーはやはり石ノ森章太郎さんですか?
     
    【ここから先はチャンネル会員限定!】
    ▼PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は4月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201504