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  • ライフスタイル化するランニングとスポーツの未来 『走るひと』編集長・上田唯人×宇野常寛・前編(毎週金曜配信「宇野常寛の対話と講義録」) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.518 ☆

    2016-02-12 07:00  
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    ライフスタイル化するランニングとスポーツの未来 『走るひと』編集長・上田唯人×宇野常寛・前編(毎週金曜配信「宇野常寛の対話と講義録」)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.2.12 vol.518
    http://wakusei2nd.com


    今朝は、雑誌『走るひと』編集長の上田唯人さんと宇野常寛の対談をお届けします。東京マラソン以降現れたアスリートとも、かつてのジョギングブームで走っていたランナーとも異なる、新しいタイプの「走るひと」たち。体育とは違うランニングのあり方や、自分の物語性が求められるようになったスポーツの現在、そして2020年の東京オリンピックとスポーツの関係について語りました。
    毎週金曜配信中! 「宇野常寛の対話と講義録」配信記事一覧はこちらのリンクから。
    ▼雑誌紹介
    雑誌『走るひと』
    東京をはじめとする都市に広がるランニングシーンを、様々な魅力的な走るひとの姿を通して紹介する雑誌。いま、走るひととはどんなひとなのか。プロのアスリートでもないのになぜ走るのか。距離やタイム、ハウツーありきではなく、走るという行為をフラットに見つめ、数年前とはひとも景色もスタイルも明らかに異なるシーンを捉える。 アーティストやクリエイター、俳優など、各分野で活躍する走るひとたちの、普段とは少し違った表情や、内面から沸き上がる走る理由。もはや走ることとは切っても切れない音楽やファッションなど、僕らを走りたくてしようがなくさせるものたちを紹介。
    待望の第3弾となる『走るひと3』(2016年1月16日発行)は、発売後まもなくAmazonカテゴリー新着「1位」、総合「19位」をつけるなど、大変な好評を博している。
    https://instagram.com/hashiruhito.jp
    https://twitter.com/hashiruhito_jp

    ▼プロフィール
    上田唯人(Yuito Ueda)
    走るひと編集長 / 1milegroup株式会社 Founder CEO。早稲田大学在学中にアップルコンピューター(現Apple Japan)にてipodのプロモーション、上場前のDeNAで新規事業に携わる。卒業後、野村総合研究所に入社、企業再生・マーケティングの戦略コンサルタントとして、主にファッション・小売業界のコンサルティングを行う。その後、スポーツブランド役員としてファイナンス・事業戦略・海外ブランドとの事業提携などを手がける。
    2011年7月、1milegroup株式会社を設立。『走るひと』の前身となるWEBメディア・クリエイティブ組織を立ち上げ、様々なブランドのクリエイティブ、ブランディングプロジェクトを実施。2014年5月、雑誌『走るひと」創刊。
    現在、ひととカルチャーに関わる領域にて様々な制作・メディア事業を手掛ける。
    http://instagram.com/yuito_ueda
    https://twitter.com/yuito_ueda
    ◎構成:望月美樹子
    ■「体育」ではなく「ライフスタイル」としてのランニング
    上田:日本に「走るひと」というのはすごく多いんですね。トップアスリートもいるし、1970年くらいにジョギングブームがあって、マラソンをする中高年の方も大勢現れました。だけど、東京マラソンが2007年に始まって以降、それまでとは違うタイプの20代〜30代で走る人が増えてきたんです。
    そこで雑誌『走るひと』では、今までの「ランナー」という言葉を使わずに「走るひと」という象徴的な言葉を使って、これまでの枠組みとは関係のない動機で走ってる人たちを大きく捉えて、その人たちがなぜ走っているのか、そこから文化として何が言えるのかを紹介しています。アーティストやタレント、モデル、文化人の方に話を聞いていくことで、新しい「走るひとのリアル」が見えてくるというのが、『走るひと』を始めた動機であり、作っている中での結果でもあります。
    宇野:なるほど。よくわかります。
    上田:走ることは身体を動かすということなので、東京オリンピックに向けて東京がどうなるのかについての関心は我々としてもすごく高かったんです。それでオリンピックにどう関わっていくかを考えていた時に『PLANETS vol.9』を拝見しました。そこで、どんなことをお考えなのかや、この本ができた経緯、見えてきた視点を伺えればというのが、今回取材をお願いさせていただいた経緯です。今ざっくりと、我々が見たランニングの市場の変化や様子をお話したんですけど、どんなことを思われましたか?
    宇野:まず、僕自身のランニング経験から話しましょうか。震災前後くらいの半年間ですけど、一時期走ってたんですよ。時間のある時に自宅から新宿東口のヨドバシカメラまで走って、ミニカー1台買って帰ってきていました。ダイエットが目的だったんですけど、今は、事務所に電話して仕事しながらできるし、人と話しながら歩くのも楽しくてウォーキングに切り替えています。自営業だから細かい時間を取れるので、1日5キロとか7キロとか、時間があれば10キロくらい歩いてるんですよ。
    僕はずっとマラソン大会を始めとする「走ること」が大嫌いでした。走ること自体も嫌いだったけど、「苦しさを我慢して肉体を痛めつけないと一人前にはなれない」というような、マッチョな世界観に基づいた体育会系なイデオロギーがものすごく嫌だったんですね。走ることが苦手な人も、体が弱い人もいるのに、そういうところを全然考慮せずに、あるタイプの運動を我慢してこなせないと「ちゃんとした」人間じゃない、という価値観が嫌で、スポーツ文化自体にどちらかというと苦手なものを感じていたんです。
    でも、会社をやめて独立して少し経ったころかな、体重が80キロくらいになっていた時期があって、医者に「あんたこの数年ですごい太ってるから痩せなよ」と言われ、食生活を変えて運動も始めて20キロくらい痩せたんです。その時に友達から「最近ランニングが面白い」と言われたんですね。当時NIKE+がすごく流行ってる時期で、彼が言うには、自分の走っているスピードや消費カロリーが全部計測されるから、どうすれば速くなるかを考えながらゲーム的に走るのが面白いということだったんです。
    それで、友達と一緒に新宿東南口のオッシュマンズに行って、ランニング用のウェアやグッズを一通り大人買いしました。僕は普段からジャージとかを着ている人間なんですよ。伊勢丹のメンズ館にある衣類よりも、オッシュマンズにある服の方がデザイン的に好きで。トレーニングウェアは普通にかっこいいし、ガジェット的にスペックにも萌えられるし、オタク的な感性にフィットするんですよね。そうやってグッズを身に付けて走ったらすごく楽しくて、それでハマりました。その流れで今でもウォーキングしています。

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  • クルマがファッションを纏うとき――「Be-1」「パオ」「フィガロ」日産パイクカーシリーズ(根津孝太『カーデザインの20世紀』第7回)【毎月第2木曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.517 ☆

    2016-02-11 07:00  
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    クルマがファッションを纏うとき――「Be-1」「パオ」「フィガロ」日産パイクカーシリーズ(根津孝太『カーデザインの20世紀』第7回)【毎月第2木曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.2.11 vol.517
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガではデザイナー・根津孝太さんの連載『カーデザインの20世紀』をお届けします。今回のテーマは80年代〜90年代前半にかけて一世を風靡した「日産パイクカーシリーズ」。バブルの自由な空気の後押しを受けて生まれたこのシリーズから、「ファッション・オリエンテッド」なカーデザインの可能性を再考します。
    ▼プロフィール
    根津孝太(ねづ・こうた)
    1969年東京生まれ。千葉大学工学部工業意匠学科卒業。トヨタ自動車入社、愛・地球博 『i-unit』コンセプト開発リーダーなどを務める。2005年(有)znug design設立、多く の工業製品のコンセプト企画とデザインを手がけ、企業創造活動の活性化にも貢献。賛同 した仲間とともに「町工場から世界へ」を掲げ、電動バイク『zecOO (ゼクウ)』の開発 に取組む一方、トヨタ自動車とコンセプトカー『Camatte (カマッテ)』などの共同開発 も行う。2014年度よりグッドデザイン賞審査委員。
    本メルマガで連載中の『カーデザインの20世紀』これまでの配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:21世紀に必要なのは「もっと遅い自動車」だ ――超小型モビリティが革新する「人間と交通」の関係(根津孝太『カーデザインの20世紀』第6回 日本の軽自動車 未来編)
    今回は「パイクカー」を取り上げたいと思います。パイクカーという言葉は指し示す範囲が広く「デザインに主な価値を置いた車」といった意味で使われることが多いのですが、中でも日産から80年代〜90年代前半にかけて発売された「Be-1」「パオ」「フィガロ」と3車種続いたシリーズが代表格です。今回はこの「日産パイクカーシリーズ」について語ってみたいと思います。
    敢えてちょっと意地悪な言い方をすると、パイクカーは「デザインだけで売ろうとした車」とも言えます。「Be-1」「パオ」「フィガロ」の3車種は、発売されるやいなや、大人気になりました。全て数の限られた限定生産だったのですが、中でもBe-1は10,000台の予約がたった2ヶ月で完了、あまりの人気に中古市場は高騰し「買った値段の倍で売れる」とさえ言われていました。
    この3台は外見こそ全く異なっていますが、実は中身は全て傑作コンパクトカーである日産の初代「マーチ」をベースにしています。そこにちょっといいデザインのボディを乗せたところ、マーチより価格が上がっているにもかかわらず、あっという間に完売してしまうような、とんでもなく価値の高い車として迎え入れられたのです。
    これはとても革新的な考え方でした。基本的に車の価値は、エンジニアリングが基本だと考えられていました(これは今でも大部分がそうです)。燃費や加速性能、安全性など、車の性能を決めるのは全てエンジニアリングの部分です。車メーカーは、こうした性能を向上させるために、新たにエンジンを開発したり、トランスミッションやサスペンションを工夫したりしています。でもパイクカーは全て中身は「マーチ」を使っているわけですから、エンジニアリングの部分で新しいことは一切していません。デザインを成り立たせるための調整こそ行われていますが、エンジニアリングには価値を置いていない、とも言えるんですね。
    ですから、このシリーズを世に出すまでは「新しい技術もないのにデザインだけ変えたようなものを売り出すとはけしからん、そんなものはクルマのデザインではない」という声もあったようです。車のデザインが持つ雰囲気や気分のようなふわっとしたものに価値を置いていることは、それほどまでに新しい考え方だったのです。

    ▲日産「マーチ」(初代)。直線的なデザインは、ジョルジェット・ジウジアーロによるもの。(出典)
    ■ 何かに似ているようで何にも似ていない「Be-1」
    パイクカーの中で、最初に発売されたのがこのBe-1です。発表されたときの衝撃は今でも覚えています。当時デザインを志そうとしていた学生だった僕は「コレ欲しい!」「工業デザインでこんなこともできるんだ!」と思いました。


    ▲日産「Be-1」。直線的なデザインが主流だった80年代に、どこかレトロな雰囲気も感じさせる曲線主体の外観は革命的だった。ロゴもキュート。(出典)
    「Be-1」はデザインとしても、とても面白い試みがなされています。いい車のいい雰囲気だけを持ってくるために、何かに似ているようでいて何にも似ていないオリジナルのデザインが巧妙に組み立てられています。一見イギリスのミニ・クーパーに印象が似ていますが、それは印象だけで、実際には全くの別物になっています。これはとても高度なテクニックですね。

    ▲モチーフのひとつと思われる「ミニ」。一見似た印象にも思えるが、比較すると驚くほど似ていない。(出典)
    もう一つ僕が学んだのは、車の表情の作り方です。車のライトって、目に見えますよね。グリルは口に見えるかもしれませんし、ひょっとしたらナンバープレートは歯に見えるかもしれません。人は実際に車のフロントを「顔」として認識して、そこに表情を読み込んでいるというウィーン大学の研究(http://www.afpbb.com/articles/-/2520582)もあります。Be-1は車のフロントを顔として捉えて、キャラクターをデザインするように作られているのです。実際、デザインするときには「目」となるヘッドライトの大きさや形状にとても気を遣ったそうです。目は口ほどに物を言う、ともいいますが、人間は目に非常に敏感に反応するということでしょう。
    最初から雰囲気作りだけを目的として、いい雰囲気だけ持ってくることを確信犯的にやっている――中身はマーチでも、雰囲気を作ることについては徹底的に突き詰められてデザインされているのです。
    ■ 冒険よりも冒険「気分」――「パオ」
    Be-1の大成功を受けて、次に送り出されたのがこの「パオ」です。パイクカーの中でも最も成功した一台で、50,000台以上を売り上げました。


    ▲日産「パオ」。ドアやトランクのヒンジ、ボンネットやサイドの強度確保のためのライン、曲げたパイプに取り付けられたサイドミラーなど、タフなイメージの記号が散りばめられていながらも全体としては丸くて可愛らしい。(出典)
    このパオは当時の「バナナ・リパブリック」というファッションブランドをイメージソースとしています。カリフォルニア発のこのブランドが掲げていたのは「冒険」というテーマでした。「サファリテイストを取り入れた服を身にまとうことで、冒険気分を味わおう」という遊び心あるコンセプトが、バブルに沸く日本で人気を集めていました。実際に冒険に行くのではなく、今いる場所に冒険の気分を持ち込む。「パオに乗っていると、電柱がヤシの木に見えるんだ」という話を聞いたことを覚えています。

    ▲バナナ・リパブリックのカタログ。オニオオハシやシマウマなど、濃厚なサファリ感。(出典)
    パオのデザインも、軍用車のようなタフな車をイメージさせる記号がたくさん散りばめられています。例えばドアのヒンジがそうです。今の車はヒンジがボディに内蔵されて外から見えないようになっていますが、昔の車や軍用車はパオのように外側にヒンジがついていました。

    ▲モデルのひとつと思われる、第二次世界大戦で活躍したドイツの軍用車「キューベルワーゲン」。ドアはもちろん外ヒンジ。プレス加工のビードをあしらったサイドの雰囲気もよく似ている。このビードには本来、薄い板厚で剛性を確保するという意味があるが、パオではそれをファッションとして取り入れている。(出典)
    これを見たトヨタ時代の上司が「なんで外ヒンジなのに、マーチより高いんだ」と苦笑していました。自動車の文化史的に言えば、外ヒンジはシンプルな構造による生産性と低コストのために止むなく採用するものであって、内ヒンジの方が外観も滑らかで、錆びることも少なくていい、というのが常識です。
    でもパオは「冒険の気分のためには、外ヒンジの方が『らしい』よね」、という発想で作られていて、しかもそのことに価値を感じて、みんながお金が払ったんです。
    ちなみに、このパオは特に女性から人気がありました。女性は男性に比べて「ここが気に入ったから買います!」というように、車のディティールを大切に考えて購入を決める印象があります。パオにはこの外ヒンジのような「ここが可愛い」というポイントが幾つもたくさん散りばめられていたことが、成功の秘密になっていることは間違いないでしょう。
    実際にパオが冒険に適した車かといえば、そうではありません。繰り返しますが、中身はあくまでマーチなのですから。機能ではなく、雰囲気こそを大切にするというファッションの感覚が、きちんとコンセプトと繋がったデザインになっているのです。
    ■ クラシックの雰囲気とモダンの性能――「フィガロ」
    パイクカーシリーズ最後の一台がこのフィガロです。フィガロは限定20,000台を応募者に抽選で販売しました。車を販売するのに抽選なんてなかなかありません。それくらいパイクカーシリーズの人気は盛り上がっていたということです。


    ▲日産「フィガロ」。レトロなスポーツカー風の外観。トップは手動で開閉するオープンカー。(出典)
    この車に乗ったことのある人は、冗談めかして「フィガロはハンドルの切れも良くないし、後ろのトランクも開けにくいし、ツードアなので後部座席へのアクセスも不便」ということを語ったりします。
    もし仮にそういったことを本当に不便に感じるようでしたら、「あちらにマーチという素晴らしい車がありますよ」ということになります。「フィガロの不便だった部分が、マーチでは全部直ってる!」いやいや、マーチが元なんですけどね(笑)。

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  • 内外インディーズゲームの対照展開と実況カルチャー 〜『マインクラフト』『青鬼』『Ib』〜(中川大地の現代ゲーム全史)【毎月第2水曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.516 ☆

    2016-02-10 07:00  
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    内外インディーズゲームの対照展開と実況カルチャー〜『マインクラフト』『青鬼』『Ib』〜 (中川大地の現代ゲーム全史)【毎月第2水曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.2.10 vol.516
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    今朝のメルマガでは『中川大地の現代ゲーム全史』をお届けします。今回取り上げるのは、2010年代のインディーズゲーム勃興期。その隆盛を促した環境要因、そしてブームを大きく盛り上げた「ゲーム実況カルチャー」の内実を、ゲーム史の中に位置付けます。
    ▼執筆者プロフィール
    中川大地(なかがわ・だいち)
    1974年生。文筆家、編集者。PLANETS副編集長。アニメ・ゲーム関連のコンセプチュアルムックの制作を中心に、各種評論・ルポ・雑誌記事等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』(光文社)。本メルマガにて『中川大地の現代ゲーム全史』を連載中。
    前回:新世代ハードはいかに現実空間を拡張したか 〜「Kinect」「ニンテンドー3DS」「PlayStation Vita」〜(中川大地の現代ゲーム全史)
    第11章 デジタルゲームをめぐる地殻変動/汎遊戯的世界への芽吹き
    2010年代前半:〈拡張現実の時代〉本格期(3)
    ■『マインクラフト』と海外インディーズゲームシーンの隆盛
     スマホとの差別化を宿命づけられた携帯型ゲーム機に顕著なように、おおむね日本国産の家庭用ゲームハードとソフトは、どうにかして独自のギミック主義的な付加価値によって完成度の高い一品物の作品を提供しようという発想に向かいがちであった。対してPCゲームの裾野が広い欧米圏では、市井のハッカーたちや中小のベンチャーディベロッパーたち汎用の開発ツールやノウハウを共有することで、FPSなどのジャンルが育まれ、あるいは既存のタイトルを改変するMODのようなカルチャーを隆盛させてきたことは、ここまでの章に述べてきたとおりだ。
     とりわけ2000年代中盤から「Unity」のような完成度の高いゲームエンジンや「Steam」などのダウンロード販売プラットフォームが普及したことで、大手パブリッシャーに依存しない制作・流通環境の民主化に拍車がかかる。これにより家庭用ゲームなどのパッケージングにはボリューム的、コンセプト的に乗りづらいタイプのインディーズゲームであっても充分ペイできる規模で配信可能になり、日本ではソーシャルゲームの時代になってようやく定着したサービス課金型のオンラインゲームだけでなく、小額買い切り型のスタンドアローンゲームが一定の市場を形成することができた。加えて、Xbox系のハードの普及率が高い欧米圏では、ウィンテル系のPC環境での成功作をシームレスに家庭用ハードに移植できるという強みもあったため、人気のブレイクしたタイトルがメジャー化するというサクセスコースも描きやすいという事情があった。
     こうした経路に支えられて、大作ゲームがCG映画ばりのゴージャスなグラフィックで構築されたFPSやオープンワールドものに収斂されていく一方で、アーティスティックな作風を目指した小品や実験作が開発・受容されていくインディーズゲームのシーンも強固に形成され、時にメジャーシーンを揺るがすインパクトをもたらすようになっていく。
     この動きの中から最大級のヒット作として登場してきたのが、Notch制作の『マインクラフト』であった。2009年からテストバージョンが登場した本作では、レトロチックな味わいのローポリゴンのスクウェアブロックを単位として、まるでレゴブロックを組み上げるように広大な3D描画の自然環境が自動生成される。この中に投げ出された主人公を主観視点で操作しながら、周囲の環境から木材や石炭など様々な資源を採掘。これらを素材として、ツルハシなどの様々な道具や家などの建造物などへと自由に創り変えながらサバイバルしていくという概要の、いわゆる「サンドボックス型」と括られるタイプの作品である。

    ▲Official Minecraft Trailer
    https://www.youtube.com/watch?v=MmB9b5njVbA
     これは大きくは、仮想構築された世界のほとんどの要素にアクセスできるというオープンワールド型ゲームの一類型とも言えるが、クエストの連続やボス敵の存在などでゆるくストーリーテリングの存在する『Grand Theft Auto(GTA)』や『The Elder Scrolls(TES)』といったシリーズよりもさらにプレイの拘束性が弱く、目的や手順を与えるストーリー自体が存在しない。あくまでも時間の経過による空腹や、夜になると暗闇から湧いて出てくるモンスターによってゲームオーバーに追い込まれるといった危機を避けての生存の継続のみが、通常プレイモードにあたる「サバイバルモード」における中心的なゲーム要件であり、それ以上の過ごし方は何をしても構わない。
     そのかわりにプレイヤーを没入させる仕掛けとして与えられているのが、膨大な種類の資源を様々に組み合わせることによって素材をクラフトし、”ものづくり”の世界を思うままに創り変えることのできる、フリークリエイティングツールとしての多様性と奥深さに他ならない。プレイヤーがニューゲームを開始すると、ちょうど『不思議なダンジョン』シリーズなどのローグライク型RPGのダンジョンのように、世界は変化に富んだバイオーム(生態圏)の様々な組み合わせとして生成されるため、思い通りにクラフトできるようになるためには、しばらくは地形に応じて身を守るための拠点を築きつつ、素材集めに専念しなければならない。
     こうした擬似的な〝自然〟に手を入れて荒れ地を開墾し、木から石、鉄や貴金属へと採掘と造成を進めていくさまは、さながら理想的な近代人のモデルたるロビンソン・クルーソーのような視座へをプレイヤーキャラクターに与え、人類の文明史を個人の体感レベルにディフォルメして辿り直すかのような体験性をもたらしたと言えるだろう。
     この仕様によってプレイ履歴は必然的に個性化されていき、仮想空間上にエディットされた構築物は、それ自体がプレイヤー自身の自己表現となりうる。そのため、インディーズゲームゆえの権利処理の寛容さも手伝って、しだいに動画サイトにアップされるプレイ実況動画などをチュートリアルとして日本国内にも長い期間をかけて徐々に浸透を果たし、『マイクラ』と「マイクラ実況」は2011〜12年あたりまでにはニコニコ動画などで一大人気動画ジャンルとして台頭していくことになる。
     このようなフリーエディット型のステージ構築の自由度を備え、ユーザーの創造性が発揮された先行タイトルとしては、例えばイギリスのメディアモレキュールが制作した横スクロールアクション『リトルビッグプラネット(LBP)』(SCE 2008年)が挙げられる。こちらのステージクリエイト機能の場合は、メルヘンチックでありながらもリアリスティックにオブジェクトの挙動を制御する物理演算エンジンや、無限に近いカスタマイズが可能なテクスチャの多様性を駆使することで、あたかもジャンルの異なる他のゲームを『LBP』世界のキャラクターたちが「ごっこ遊び」のように再現したり、オルゴールやリレー式計算機のような精密機械を組み上げたりといったことまでが可能だった。このように趣向を凝らした高度な〝職人技〟が、プレイ動画を通じてコアなゲームファンたちを驚嘆させた事例は、『マイクラ』以前にも存在していた。
     ただし、『マイクラ』の場合はステージエディットの仕組みがより単純で敷居が低く、ゲーム実況が大きく隆盛してきた流れとクロスして多くの実況主たちの実践意欲を喚起できた点で、いささかアーティスティックで高踏的なテイストをまとっていた『LBP』よりも、さらに大きな感染力を獲得することができたと言えるだろう。
     本来的には『マイクラ』は、いきなり目的提示のストーリーテリングもチュートリアルもなく主観視点のオープンワールドに投げ出されるという点で、日本では受けづらいとされてきた、紛うことなき「洋ゲー」チックな体裁の作品であることは間違いない。しかしながら、大作系FPSの高精細CGなどとは一線を画した記号的なルック&フィールは洋ゲーアレルギーを引き起こさずに済み、実況主たちが遊び方の手本を見せたことによって、日本のゲームファンたちは海外インディーズゲームという新たな鉱脈に目を向けることができるようになったのである。
     この鉱脈から発掘された注目を集めたその他の傾向の作品としては、PlayStationNetworkでダウンロード販売されたPS3用タイトル『風ノ旅ビト』(thatgamecompany 2012年)などが挙げられるだろう。本作は、同社がリリースしてきた『flOw』(2006年)や『Flowerly』(2009年)などに続く一種のメディアアート的な作風の小品で、一切の言語的な誘導のない静謐な世界の中、風使いの旅人を操ってゲーム開始当初から遠くに見えている山の頂上をひたすら目指して進んでいくという3Dアドベンチャーである。
     ワンアイディアを徹底的に突き詰めて余分な要素を削ぎ、キャラクターの足下で揺れる砂の質感や上昇気流に乗る浮遊感など、ミニマリスティックで繊細な表現によって情感を醸し出しだしていくテイストは、ちょうど2000年代初頭の『ICO』『ワンダの巨像』といった上田文人作品を彷彿とさせる。こうした禅や茶道に通ずるワビサビの効いた文芸性のごときは、FPSやオープンワールドRPG等の派手な暴力表現の印象が強い洋ゲーにはない、日本ゲームならではの魅力だとも思われがちであったが、こうした特質を海外クリエイターたちはすでに十二分に消化していたのである。
     いずれにしても、和洋のメジャーゲームにない、3Dゲームの黎明期を思わせる作家性の強いミニシアター的な作品が依然として創られ続けているシーンの存在は、ゲームならではのインタラクティブ表現の芸術性を信ずる古き良きゲームファンの心胆を、少なからず暖からしめるものであった。
    ■国内フリーゲームと実況カルチャーの伸長
     もちろん、個人や小規模ユニットによるPCでの自主制作ゲームの展開は、海外だけには留まらない。第9章にも述べたように、とりわけインターネットの普及期である2000年代以降、日本国内でも独自の蓄積が連綿と重ねられていた。00年代前半の時点では、コミックマーケットに代表される同人誌即売会の頒布経路から火が付いた「東方Project」や『ひぐらしのなく頃に』といった同人ゲームの文脈から二次的三次的なUGCが派生していく潮流が生まれたが、00年代後半に入ると、そのホットスポットは「RPGツクール」シリーズなどのツールで制作されたネット流通のフリーゲームへと移行していく。
     この動きを大きく触媒したのが、ニコニコ動画やYouTubeといった動画サイトであった。先駆となったケースが、「RPGツクール2003」制作のフリーAVG『ゆめにっき』(ききやま 2004年)のプレイ動画が、07年5月、サービス開始間もないニコニコ動画に投稿されたことである。

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  • 無印良品に見る人生100年時代の生き方(石川善樹『〈思想〉としての予防医学』第9回)【毎月第2火曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.515 ☆

    2016-02-09 07:00  
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    今朝のメルマガは予防医学研究者・石川善樹さんの連載『〈思想〉としての予防医学』の第9回をお届けします。今回は、人間の他の霊長類との違いは何かから始まり、本当の豊かさとは何かを考察していきます。
    ▼執筆者プロフィール
    石川善樹(いしかわ・よしき)
    (株)Campus for H共同創業者。広島県生まれ。医学博士。東京大学医学部卒業後、ハーバード大学公衆衛生大学院修了。「人がより良く生きるとは何か」をテーマとして研究し、常に「最新」かつ「最善」の健康情報を提供している。専門分野は、行動科学、ヘルスコミュニケーション、統計解析等。ビジネスパーソン対象の講演や、雑誌、テレビへの出演も多数。NHK「NEWS WEB」第3期ネットナビゲーター。
    著書に『最後のダイエット』、『友だちの数で寿命はきまる』(マガジンハウス)など。
    本メルマガで連載中の『〈思想〉としての予防医学』これまでの記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:「人生百年」時代、社会は二層構造になっていく?(石川善樹『〈思想〉としての予防医学』第8回)
     さて、今回でこの連載も9回目になりました。
     前回までは、予防医学とはどんな学問であり、そこからどんな社会の姿が見えてくるかを語ってきました。今回は少し私と予防医学の関わりから話してみたいと思います。
     以前、私はハーバード大学に留学していたとき、心臓病の研究をしている先生に、こんなことを尋ねたことがありました。
    「今の研究が全て上手くいって、心臓病がなくなったとする。そうすると次に人類はどうなるんですか?」
     先生は少し驚いた表情になって、こう答えました――「そんなこと考えたこともないし、考える必要もない」と。しかし、本当にそうなのでしょうか。目の前の患者の治療がどう影響をおよぼすのかについて、やはりイマジネーションがないと言わざるをえないのではないでしょうか。当事の私は、「病気と戦っている自分を正義だと思い込んで思考停止しているのではないか」と思った記憶があります。
     実際、予防医学でよく出てくる問題として、「一体、なにを予防しているのか」問題というものがあります。何かの病気を予防した結果が、かえって次の病気を呼び寄せる結果につながることは往々にしてあるのです。
     例えば、タバコを吸っていると肺がんになって死ぬ確率が高まる――これはよく知られた事実です。しかし、たばこをやめた途端に今度は、心臓病で死ぬ確率が高まることはあまり知られていません。しかも、死ぬときの苦痛は心臓病のほうが遥かに大きいものです。ガンは一般的にずっと元気を保ったまま、最後の数ヶ月を苦しむというものですが、心臓病は死ぬまでに何度も苦痛を繰り返します。さらに言えば治療費も大量にかかるので、社会のコストの観点からは、正直なところタバコを吸って亡くなってもらったほうが“ありがたい”ということさえ言う経済学者もいます。
     もちろん、だから喫煙を推奨したいというのではありません。つまりは何が害で何がメリットになるのかというのは、そう簡単に判断できないということです。実際、研究の場では、○○をすると「健康によい」という結果も「健康に悪い」という結果も両方出ることがしばしばです。一個一個の情報だけを追いかけていても、その情報がどこまで正しいのかはわからないのです。
     ちなみに、そこで生まれたのが「メタアナリシス」という概念です。これは予防医学の現在の研究を考える上で最重要とも言える概念です。簡単にではありますが説明しましょう。
     といっても、まさに名前の通り、メタに研究結果を分析するのがこの手法です。
     これを使うと、一個一個の研究結果はバラついていても、それらを統合して分析することで各々の効果がどの程度のものかを理解することが出来ます。しかも、このメタアナリシスには「回帰分析」を適用することが出来ます。すると、この「メタ回帰分析」によって、ある予防方法がA人では効くがB人では効かないとか、大人には効くけど子どもには効かない、とかのように「誰にどのくらい効くか」が回答できるようになるのです。
     言わば、「人間」に関する現象について何が本質的に正しく、何が間違っているかをかなりの精度で教えてくれる手法なのです。そして、この手法が重要なものとなってることからも分かるように、予防医学とは様々な分野の学問の成果を利用して判断を下すための学問なのです。
     かつて、まだ科学者が自然哲学者と名乗っていた頃、アイザック・ニュートンにしてもガリレオ・ガリレイにしても、いろいろな学問を総合的に捉えることで世の中を理解しようとしました。専門分化が進んだのは、科学という概念が出てきてからのことです。しかし、今や総合や統合のほうが価値を持つ場面が世の中で登場し始めているのも事実です。予防医学とはまさにその典型であり、そういう時代の要請の中で注目を浴びている学問なのだと思います。
     その意味で、私は科学者であるよりは哲学者でありたいと思っています。
     一方で、そんな学問である予防医学に私が惹かれるのは、ある意味で性格の問題もあるように思います。
     私は子供の頃から、「普通の人が何気なくやること」がよくわからない苦しみを抱えてきました。なぜ自分には毎日食事が三食当然のように出てくるのか、なぜクリスマスプレゼントやお年玉やお小遣いがもらえる家庭があるのか(私自身は一度ももらおうと思ったことがありませんでした)、そういう基本的なことがどうしても分からなかったのです。
     「欲しいものはある?」と聞かれても、「自分が欲しいもの」が何かわかりませんでした。人に対して「ちゃんと考えろ」と言う人をみると、「ではこの人は“考える”ということを真剣に考えているのか」と思いました。端的に言って、私はどうも「人間がよくわからない」というところがあるのだと思います。
     そう考えてみると、私自身の予防医学に懸ける情熱の根幹には、ただ「健康」を考えるだけではなくて、「人間とはなにか?」を知りたいという問いがあるように思います。
    1.人間の本質は共同体間の贈与にある
     人間とは何か?――この問いについては様々なアプローチがありますが、霊長類の研究から一つ面白い報告があります。それは300種類くらいいる霊長類の中で、人間だけが自分の子供でもなく同じコミュニティでもない、外のコミュニティに対してエサを「贈与」できるということです。
     現在の研究では、初期の人類が長距離移動を可能にしたのは、この性質があったためだという仮説が立てられています。というのも、長距離移動を続けるためには立ち寄ったコミュニティで、食事を貰う必要があるからです。そして、この複数のコミュニティを長距離移動で繋いでいくことで、人は新しいアイディアを伝播させて、知性を発達させたのではないかと考えられているのです。
     この話は大脳生理学からも裏付けられるものかもしれません。実は人間の脳は「困っている人を助ける」ことで、気持ちがポジティブになるという研究結果があるのです。
     ちなみに、この研究結果の面白いところは、単に困っている人に「かわいそうに」と思うだけでは、むしろ気持ちがネガティブになってしまうことです。同情や共感だけでは、気持ちが落ち込むだけなのです。ところが、「この困っている人を助けてあげたい」と思うとき、人間の脳はとてつもなくポジティブに働き出すのです。
     もしかしたら、人間の脳は「見ず知らずの赤の他人に贈与する」ことを喜びと感じるように進化していくことで、最適な生存戦略を獲得していたのかもしれません。
     そもそも種としての人類の特徴は、必ずしも弱肉強食の社会ではないことです。霊長類の中でもサルなどは弱肉強食そのものですが、ゴリラなどは強者と弱者が対峙した場合でも食べ物やメスを譲りあうことがしばしばあるそうです。人間の社会もそういう「優しい社会」としての側面は、やはりふんだんにあるように思います。
     面白いのは、この「困った人を助けることに喜びを覚える」機能をお坊さんたちが活かしていることです。
     彼らは脳内でわざわざ苦しんでいる人々の姿を思い浮かべて、彼らを救いたいと考えます。そのことによって、実は非常に喜びにあふれたリラックスした状態を得ているのです。このリラックスした状態は、以前にもこの連載で書いた「マインドフルネス」そのものなのです。
     しかし、近年の大脳生理学の研究でもう一つの面白い結果が浮かび上がってきました。
     それは、お坊さんのような生活とは最もかけ離れたところにいる、エクストリームスポーツの選手たちが、どうもお坊さんと同じ脳の状態をつくりあげているようだということなのです。

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  • 月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」2月1日放送書き起こし! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.514 ☆

    2016-02-08 17:00  
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    月曜ナビゲーター・宇野常寛J-WAVE「THE HANGOUT」2月1日放送書き起こし!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.2.8 vol.514
    http://wakusei2nd.com


    大好評放送中! 宇野常寛がナビゲーターをつとめるJ-WAVE「THE HANGOUT」月曜日。前週分のラジオ書き起こしダイジェストをお届けします!

    ▲先週の放送は、こちらからお聴きいただけます!
    ■オープニングトーク
    宇野 時刻は午後11時30分を回りました。みなさんこんばんは、宇野常寛です。今日は最初に、中年男性の繊細な自意識の問題について、みなさんに聞いて欲しいと思います。私、宇野常寛はですね、昨年の11月に37歳になりました。いわゆるアラフォーですね。順調に齢をとってきていて、最近だんだん温泉とかが好きになっていて、寒くなると「温泉行きたいなあ」とか思うんですよね。あと、昔ほど脂っぽいものが好きじゃなくなったんですよ。昔はとりあえず腹が減ると「ラーメンか肉が食べたいなあ」とか思っていたんですよ。でも、いまはぜんぜん違って「お造りが食べたいな」とか「そばが食べたいな」とか思うようになってきているんですよね。そういった変化をひしひしと感じて生きているので「40歳ってけっこう近いんだな」とか「やっぱ37歳とかって本当におじさんなんだな」とか思うことが多いんです。
    まあ、ジタバタしても仕方ないから、いい齢のとり方をしたいなと思っているんですよ。無理して若作りしている人って、単に痛いじゃないですか。でも、いかにもオヤジというのではなく、「宇野さんってなんかこう、いい感じの齢のとり方してきているよね」って言われるようになれたらいいなあと、純粋に思っているんですよね。見た目も、無理に大学生みたいな格好するのはダメだなと思うんだけれども、「えっ、宇野さん37歳なんですか?」とか「ぜんぜん若く見えますよ」とか言われるくらい、年齢のわりには元気そうでみずみずしい感じがちょうどいいかなと漠然と思ってるんですね。そう思う理由のひとつとして、僕はデパートとかで売っている「男の大人のたしなみ」みたいなイメージのスーツとか時計とか、ミドルエイジ男性向けのアイテムに対して「昔の企業社会」みたいだなっていうイメージが強くて、ぜんぜんかっこいいと思わないんですよ。
    というわけで、実は僕はここ2、3年で、見た目にはそんなに気を使ってないんだけれども、その代わりに運動もすごくしているんです。1日5キロくらいウォーキングしたりしているんですよ。食べ物にもわりかし気をつかっているし、「おじさんになったぞ」って開き直らないようにしようとずっと思ってるんですよね。
    そんな37歳のね、繊細な自意識を抱えた僕にあることが起きたんですよ。先週の金曜の夜です。仕事が終わって家に帰ろうと思って、高田馬場の駅前をてくてく歩いていると、突然見知らぬカップルに話しかけられたんです。たぶん28,9歳ぐらいの男性と、それよりちょっと年齢が下の女性ですね。なんか持っている荷物もちょっと大きめだったし、おそらくは地方から来た観光客だと思うんですよ。そのカップルの男の方が、いきなり「すみません、ここらへんで美味しいラーメン屋さんありませんか?」ってきいてきたんですよ。マジで。東京に住んでいてもなかなかこんなこと無くないですか?
    なので「うわ何だコイツ」と思ったんだけれど、悪い人たちには見えなかったから、「高田馬場は美味しいラーメン屋さんいっぱいありますけど、どんな感じのやつがいいですか?」と普通にきき返したんです。
    すると、男子の方が「つけ麺の美味しいところがいいです」と。女子の方は「こってりじゃない家系があったらそこがいいです」って言うんですよね。これは、おそらくすごく地方の人で「関東圏には家系と呼ばれるラーメン屋群がはびこっているらしい。でもこってりラーメンはちょっとカロリーも気になるし、やだな」とか思っていたんだと思うんですよ。僕はついマジレスしてしまいましたね。こってりじゃない家系というのは定義上存在しないので、駅前の麺屋武蔵を検索して、鷹虎という店を教えてあげた。そこまではよかったんです。

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  • ルールのないゲームたち ――ゲームにルールはどのように必要なのだろうか?――(井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第3回 )【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.513 ☆

    2016-02-08 07:00  
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    ルールのないゲームたち――ゲームにルールはどのように必要なのだろうか?――(井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第3回 )【不定期配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.2.8 vol.513
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第3回です。7つのルールを元に新たなルールを生成するゲーム「ミニマム・ノミック」。そして、個別具体性のない理念としてのみ機能する「ルーウィのルール」を主題に、ゲームにおけるルールの定義の問題について論じます。
    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:第2回 理性を喚び起こすもの――複数の合理性と向き合う

    ■1-3.ルールのないゲームたち――ゲームにルールはどのように必要なのだろうか?――
    <事例:ミニマム・ノミック>
     
     「ゲームとは何か」と問われた時、多くの人が思いつくのが「特定のルール内での競争」のようなイメージだろう。これはかなり素朴なゲーム観としては、しばしば支持されるようなものだと言っていいだろうし、遊びをめぐる研究者でもこのゲーム観を支持する人はいる[1]。もう少しそれらしく、定義して「プレイヤー間で明確に共有され、固定されたルール」を通じて遊ばれるものをゲームだと捉えるとしよう。実際、ゲームをプレイしたり、ゲームを作ったりするのに、このゲーム観でじゅうぶんであるということは多い。
     だが、前回までゲームという現象の複数の側面について紹介してきたわけだが、ゲームという現象のたらえがたさは、このゲーム観だけだとどうにもならないようなことがしばしば発生する。
    この側面を考えるため、今回は『ノミック』と名付けられたアナログの対話型ゲームの検討から話をはじめたい。
     このゲームは、ルールのないゲームである。
     正確にいえば、ルールというものがきちんと固定されていないゲームである。
     このゲームは、最初にルールを作るためのルールが設定されている。特に、ノミックの簡易版として作られた『ミニマム・ノミック』[2]などは初期ルールが、これだけしかない。
     

    一〇一 競技者は時計回りに手番が回ってくる。
    一〇二 手番の中で行うことは、規則変更を一つ提案し、それを投票にかける。
    一〇三 規則変更は投票が有権者の間で満票であった場合にのみ採択される。
    一〇四 採択された規則変更は、その採択を行った投票の直後、直ちに発効する。新しく制定された規則は二〇一番から順次付けられる。一度破棄された規則の番号は永久欠番とする。
    一〇五 競技者は常に一票の投票権を持つ。
    一〇六 二つ以上の規則が矛盾するとき、最も若い番号の規則が優先する。
    一〇七 競技者間で、手の合法性、規則の解釈・適用に関して意見の不一致があった場合、現在手番になっている競技者の右隣の競技者が判事となり、判決を下す。(このような手続きを裁判と呼ぶ)。判事の判決は、次の手番の直前に行う投票で、当該判事以外の全員一致を見ない限り、くつがえされない。判決がくつがえされた場合、その判事のさらに右隣の競技者が新たな判事となり、再度裁判を行う。以下同様。

     
     これだけ読んでも何のことかはわかりにくいかもしれない。
     ノミックは「ルールの変え方」が記述されている。ノミックを遊ぶとき、ルールは次々と変更されていく。
     あるときは、少数派のプレイヤーが多数派の専制によってどんどんと不利なルールを押し付けられていく。あるときは、ルールの変更をめぐる裁判論争が延々と長引き、もっとも声の大きかったプレイヤーが勝利を手にする。あるときは、国会の運営のように、参加者同士が党派をつくってルール変更をお互いに牽制しあう。
     このゲームでは何気ないルールの変更によって、ゲームでの有利不利がガラッと変動する。ゲームがすすみ、ルールの数が増えれば増えるほどに、ルールの全体構造は複雑性を増し、意外な一手が、ゲーム全体の構造を変化させる。そのダイナミックな構造変化を楽しむことがこのゲームの醍醐味だと言えるだろう。
     
     典型的なノミックのゲームの推移はおおむね次のようになる。
     たとえば、最初の段階では、何をしたら勝利なのか。得点はどうすれば発生するのか。といった基本的なことが決められていない。
     ノミックを遊ぶとき多くの場合は、まず「勝利」の方法の提案か、「得点」をする方式の提案から、ゲームがはじまる。「点数が一〇〇点で勝利とする」「一五時になった瞬間に得点が最も少なかったものを敗者とする」などといった具合だ。
     これが決まると、次は、得点の取得方法として「提案が可決されると一回につき一〇点」「全員最初の持ち点が一〇点で、提案が可決されるごとに、点数が倍になる」などといったルール提案が続き、それが決まると、採択ルールの変更が提案される。この採択ルールは基本的には多数決になりがちで、採択が満票なのか過半数でよいのか、といった形で複数の人間が自分に有利なようにルールの提案を行おうとしはじめる。
     特に、この採択ルールがクセモノになりやすい。たとえば、プレイヤーが六人いたときに、四人がメガネをかけているとすると、
     「メガネの人は全員五〇点を得る」
     という提案が出てきて、採択ルールが緩ければ、この提案はかなり可決されやすい。
     「提案が否決されるごとにマイナス一〇点」
     「採択は三人以上の賛成で成立する」
     「ルールの間に衝突があった場合、斉藤さんの判断で全てが決着する」
     など新しくルールが追加されるごとに、それまでのプレイヤーの有利・不利は大きく逆転する。二分前までもっとも有利だったプレイヤーが、一瞬にして、もっとも不利なプレイヤーになることが予想外の方向から起こってくる。
     誰かが、勝利かと思われたその瞬間にも一悶着が起こることが多い。
     「勝利とは、ゲームの終了を意味しないのではないか。その人がもっとも優勢である、ということを意味するだけではないのか。よって、まだゲームは終わってない」
     「いや、勝利とはゲームの終了を意味するはずだ!」
     と議論がおこると、ここで一〇七番のルール「裁判」が活きてくる。これで、勝利がゲームの終了とイコールである、と認められないとゲームは終わらない。その瞬間をみこして、一〇七番のルールに予め修正を加えておく知恵の回るプレイヤーもいる。
     この議論を経た後に、結局ゲームの「終了条件」をゲームの「勝利条件」とは別にして追加ルールが書き加え、ようやくゲームが終了へと向かうといったようなことも起こる。
     
     このゲームを開始した当初は、アイデアマンが有利になるようなゲームだというような雰囲気を一瞬おもわせる。
     しかし、「過半数採決」のルールが可決された途端に、ゲームの構造はいかにマジョリティを味方に付け、引きこむかというゲームに変わる。
     そして、後半ではどういった、要素がゲームにとって鍵を握るかは、わからない。修正されたルールのすべてをきちんと覚えておけるプレイヤーが有利であることもあれば、議論をふっかける能力の高さが重要になることもある。あるいは、それまでのゲームプレイで高い好感度を勝ち得ているプレイヤーが有利になることもある。または、全く捻りなく、多くの提案を通した人間が勝利する場合もある。
     

     このゲームはそもそも、法哲学者のPeter Suberによって作られ、その後、様々なバージョンにカスタマイズされたものが作られた[3]。本稿で紹介したのは、畠山昌則によって作られたバージョンである。
     前回、ゲームという現象は、どうも捉えがたい複雑さを持っているというように述べたが、ノミックはゲームのもつこうした複雑さを表す代表的な事例の一つと言える。
     さきに、「プレイヤー間で明確に共有され、固定されルール」をゲームの素朴な構成要素の一つとして挙げたが、言うまでもなく、この『ノミック』は「明確で固定されたルール」という要素を、必要としていない。必要とされているのは、現在どのようなルールであるかということが明確に合意されているという状況だけである。このルールに関する知識共有が前提として成り立つのであれば、ノミックは機能する。
     つまり、最初の
    A-1 「プレイヤー間で明確に共有され、固定されたルール」
    という構成要素はもしかすると、ゲームという現象が成立するための必要最小要件としては不適当であり、
    A-2 「プレイヤー間で明確に共有された個別具体的ルール」
     という記述で、最小要素としては十分なのということが言えるのではないか、と。
     
    <事例:ルーウィのルール>
     
     しかし、ここでさらに厄介な事例が出てくる。リンダ・ヒュージ(Linda Hughes)という民俗学研究者が報告している「ルーウィ・ルール」と呼ばれるケース[4]だ。このケースでは、「ルールの明確化」を促せば促すほど、ゲームが機能しなくなってしまう、という状態が示されている[5]。

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  • 【新連載】吉田尚記×宇野常寛『新しい地図の見つけ方』第1回 マニフェスト【毎月第1金曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.512 ☆

    2016-02-05 07:00  
    220pt
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    【新連載】吉田尚記×宇野常寛「新しい地図の見つけ方」第1回 マニフェスト【毎月第1金曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.2.5 vol.512
    http://wakusei2nd.com


    あなたは今、この社会に息苦しさを、先行きの見えない不安を、感じてはいないだろうか。怒涛のように情報は流れてくるが、自分が次にどんな一歩を踏み出したらよいかはわからないーーそんな時に、具体的な道筋を示す“新しい地図”を広げられないか。息苦しさと不安を越えて、新しい地平を見出すことはできないか。友人として、論客として、対話を積み重ねてきた二人が語り合います。(初出:「ダ・ヴィンチ」2016年1月号(KADOKAWA/メディアファクトリー))
    毎週金曜配信中! 「宇野常寛の対話と講義録」配信記事一覧はこちらのリンクから。
    ▼対談者プロフィール
    吉田尚記(よしだ・ひさのり)
    1975年12月12日東京・銀座生まれ。ニッポン放送アナウンサー。2012年、『ミュ〜コミ+プラス』(毎週月〜木曜24時00分〜24時53分)のパーソナリティとして、第49回ギャラクシー賞DJパーソナリティ賞受賞。「マンガ大賞」発起人。著書『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』(太田出版)が累計12万部(電子書籍を含む)を超えるベストセラーに。マンガ、アニメ、アイドル、落語やSNSに関してのオーソリティとして各方面で幅広く活動し、年間100本近くのアニメイベントの司会を担当している。自身がアイコンとなったカルチャー情報サイト「yoppy」が春より本格スタートを控えており、現在準備サイトが展開中(http://www.yoppy.tokyo/)。
    ◎取材・文:臺代裕夢
    吉田 先日、ある高校で講演させていただく機会があったんです。興味があって生徒さんに聞いてみたら、そこの高校生は現段階でスマホ所持率100%でした。ニコニコ動画、Twitter、LINEの利用率も、Amazonで買い物をしたことがある率もほぼ100%。この数字を見て、今の若い人たちはすごく忙しいと解釈すればいいのか、反対にすごく暇だと解釈すればいいのかがよくわからないんですよね。というのも、僕はインターネットって巨大なインデックス、目次だと思うんですよ。例えばまとめサイトを見ている人は多いですけど、あれって物事の表面的な部分をさらってるだけじゃないですか。目次だけをぱらぱら見ていたって退屈でしょうし、ちゃんとその先に行っているのかなっていう。
    宇野 僕はむしろ、インターネットがインデックスとして機能していないことのほうが問題なんじゃないかと思ってる。最近はそこかしこで「ネットで話題」とか「ネットで叩かれてる」という言い方をするけど、この「ネット」が指しているものって、TwitterやFacebook、ニュースサイト、まとめサイトなんかで回っている「ソーシャルな世間」のことなんだよね。確かに90年代のインターネットというのは、「これまでのマスメディアにはなかった自由な文化空間が生まれる」という期待のもとに普及していった。現実社会には身内で固まってだらだら酒を飲みながら仕事の愚痴をこぼすような人間関係しかないけど、ネットでは全然知らない人とも出会えるし、ムラの空気の読み合いじゃなくて、ちゃんと中身のあるやりとりができる場所だよねって。だけどソーシャルメディアの台頭によって、いつの間にかネットと現実社会が強く結びつき、結局はリアルの人間関係に縛られて生産的なことが全然できなくなった。つまり、現実社会の閉鎖的な全体主義みたいなものがネット上にも形成されてしまったんだよ。その結果起こっているのが、週に一回悪目立ちした人間や失敗した人間をネット上で袋だたきにして「スッキリ!!」するという、いじめエンターテインメントの横行。個人が自由にアクセスできる“地球の本棚”としてインターネットが正しく機能していればこんなことにはならなかったと思うんだよね。「これが好き」とか「これに関心がある」とか、まさによっぴー(吉田さん)の言うインデックス機能で人と繋がって、思わぬシナジー(相乗作用)が生まれていくっていう、本来期待されていた可能性を回復していかないと。
    吉田 インターネット、とくにソーシャルメディアって本来は「無くても生きていける」ものじゃないですか。ネット上のいじめなんて、エゴサーチしなきゃいい話なんですから。だけど今の人たちは「ネットがすべて」みたいになっている。僕が2年前ぐらいに衝撃を受けたのは、中学生に将来なにになりたいかを聞いたとき「『踊ってみたの人』になりたい」って(笑)。それはそれで悪くないのかもしれないけど、ネットだけで完結していること、そこがゴールみたいに妄信していることの危険性にも気づいたほうがいいと思うんです。ひと言で言うなら「ネットを見ていて気分がよくなったことはありますか?」ということ。ネットで評判の映画を見に行ったり、紹介されていたお店でご飯を食べたりして気持ちよくなることはあっても、ネットを見ているだけで気持ちよくなることって絶対にないはずなので。
    宇野 そういう意味では僕の周りには今の情報社会を背景に活動している起業家や研究者が多いんだけど、パソコンの中だけで仕事を完結させている人は一人もいないよね。最新のテクノロジーや社会の情報を使って、じゃあ働き方を変えてみようとか、交通を変えてみようとか。情報社会の第二ステージとして、モニターの外側を変えていく段階が来ているんだと思う。
    吉田 それでひらめきました! よく宇野さんは、今の社会は「●●でない」という切り口でしかモラルを語れなくなっているって言うじゃないですか。ネットいじめの話もその典型ですよね。

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  • 履歴書に「?」を盛り込め!――超難関・オクスフォード入試を突破するために必要なこと(橘宏樹『現役官僚の滞英日記 オクスフォード編』第4回)【毎月第1木曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.511 ☆

    2016-02-04 07:00  
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    履歴書に「?」を盛り込め!――超難関・オクスフォード入試を突破するために必要なこと橘宏樹『現役官僚の滞英日記 オクスフォード編』第4回
    【毎月第1木曜配信】

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.2.4 vol.511
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガでは英国留学中の橘宏樹さんによる『現役官僚の滞英日記』をお届けします。今回のテーマは「オクスフォードの入り方」。独特の入学者選抜の在り方から、「徹底的な徒弟制」「完全主観主義採用」というオクスフォード流教育哲学の核心を読み解きます。
    ▼プロフィール
    橘宏樹(たちばな・ひろき)
    官庁勤務。2014年夏より2年間、政府派遣により英国留学中。官庁勤務のかたわら、NPO法人ZESDA(http://zesda.jp/)等の活動にも参加。趣味はアニメ鑑賞、ピアノ、サッカー等。
    本メルマガで連載中の橘宏樹『現役官僚の滞英日記』これまでの配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:サンデル教授の「白熱教室スタイル」では足りない!? オクスフォード教育の本質は「ネオ・パターナリズム」にあり(橘宏樹『現役官僚の滞英日記 オクスフォード編』第3回)
    ※本稿の内容(過去記事も含む)に関して、皆様からのご質問や、今後取材して欲しいことを受け付けたいと思います。こちらのフォームまたはTwitter(@ZESDA_NPO)にお寄せいただければ、できるかぎりお応えしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
    こんにちは。橘です。関東、九州をはじめ各地の大雪のニュースに驚いていますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。オクスフォードも氷点下まで冷え込んでおります。朝、自転車に乗ろうとすると、サドルに霜が降りていて、硬いし冷たいし座れません。池や川にも氷が張っています。
    最近は「オクスフォードの教育とは何か」について、つらつらと考えているこの連載ですが、前回は「ネオ・パターナリズム」と仮称しつつ、結論を出すことから逃げない姿勢を示す教師の指導スタイルについて論じました。
    サンデル教授の「白熱教室スタイル」では足りない!? オクスフォード教育の本質は「ネオ・パターナリズム」にあり (橘宏樹『現役官僚の滞英日記:オクスフォード編』第3回)
    今回は、制度としての側面、つまり組織・コミュニティ全体として、オクスフォードが教育というものをどのように捉えているか、ということについて、学生の選考方法という切り口から論じてみたいと思います。その上で日本人がオクスフォード(主に大学院)に入学するにはどうすればいいか、受験対策にも踏み込んで書いてみたいと思います。
    いかにもキャッチーな表題で少し恥ずかしいのですが、「ドラゴン桜」でも描かれているように、入学試験の形式や選考方法を追究していくことは、その大学が求める学生像や教育哲学を理解する大きなヒントを与えてくれると考えます。

    ▲マンスフィールド・カレッジの図書室で勉強する学生。

    ▲パブでのイベント。オクスフォード大のJAZZクラブのメンバーが演奏しています。かなり上手!
    「どういう学生がオクスフォードに合格するのか」「なぜ自分はオクスフォードに合格したのか」
    様々な国籍の学生や教授らと話す機会を通じてそういったことを考えているうちに、文系・理系、修士課程・博士課程問わず、学生の選考は、ある一貫した「哲学」に基づいて行われているな、と思うに至りました。そしてこれは、ほとんど同じ種類の提出書類を要求し、カレッジ制度や少人数指導制を共有するケンブリッジ大学にもおそらく通底するものであるように思います(もともとケンブリッジ大学はオクスフォード大学から派生してできた学校です)。
    オックス・ブリッジ(英国のエリートは多くがオクスフォードとケンブリッジから輩出されることから、この両校を併せて「オックス・ブリッジ」と呼びます)に合格するには、まずこの哲学をよく理解することが大事だと思います。そして、この哲学から当然導かれてくる要求内容をどのようにして満たすかを考えるのが、合格戦略であり、その具体的諸施策が合格戦術になってきます。
    しかし、このようなアプローチが日本ではどこまで共有されているか、少し疑問に思います。というのも、僕が日本で受験準備をしていた頃、周りの人々は、「仕事や学業の傍らIELTSやTOEFLのスコアを上げるのに精一杯で、論文や研究計画には時間が割けず、どこかで入手したテンプレに沿って適当に書き、推薦状も頼みやすい上司に頼んで、締切ギリギリに提出して、間に合った!と安堵する。学歴の高い人は受かりやすいらしい。自分も運が良かったら通るかも。とにかくあとは祈るだけ」という考えの人が大半だったように思いました。これは、日本人の社会人留学のリアルそのものでもあると思います。しかし、このアプローチは、僕が仮説として持っている「オクスフォードの教育哲学」にはことごとく沿いません。
    僕はほとんど同じリアルを共有しながらも、「オックス・ブリッジはこういう人が合格するはずだ」「僕が合格するにはこういう風にするしかない」という仮説・戦略をある程度立てて受験し合格しました。そして現在、オクスフォードには100人程の日本人が学んでいるようですが、飲み会などで色々話す中で、僕の戦略は一般的にもかなり正しそうだという感触を得るに至りました。
    僕は、オクスフォードやケンブリッジに学ぶ日本人を増やしたいと思っています。この気持ちは必ずしも母校礼賛主義からのものではありません。オクスフォードには最先端があるだけではなく、800年かけて培われてきた「最先端を切り拓くチカラを養うノウハウ」があるからです。このノウハウを文化として身につけた人材は、どの分野でも必ずや世界の最先端で闘い続けていけると思います。
    また、より正しい戦略がより広く理解されたならば、人口比という観点からも、ここで学ぶ日本人を増やすことができる余地も大きいように思います。「神は細部に宿る」と申しますし、オクスフォードの教育哲学に対する考察から始めつつ、ややテクニカルで具体的な戦術にまで踏み込んで、僕のオクスフォードへの合格戦略論をご紹介したいと思います。

    ▲ロンドンの高級デパート、セルフリッジでジャパンフードの催し。賑わっていました。
    1.オクスフォードは「徒弟制の集合体」
    オクスフォードの教育哲学は、一言で言うと、「教育は個人に施すものである。」というものです。つまり、Aさんの知性を育てるには、Aさんに合った方法に依らねばならない。Aさんに合った方法は、経験豊富な教師がじっくり丁寧に指導するなかで、教師が創造的に開発し適用していく、というものです。
    教育方法は、十人十色、テイラー・メイドが当然です。ひとりひとりに合った教育には、もちろん試行錯誤も伴いますけれども、経験豊富な優れた教師であれば、試行錯誤のコストは少なくて済みます。
    オクスフォードのこうした手法は、極めて贅沢な教育思想であるとも思います。もともと貴族の子弟を教育する機関だったので当然かもしれません。ですから、学生たちは「知識や技術を求める者が教わりにやって来る」というよりも、極論すると「さあ、名家の跡を継がなくてはならない私を偉大なエリートに育て上げてください」と育成されにやって来る、という感じがあります。
    幼いアレクサンダー大王が、マケドニア貴族の子弟のためにアリストテレスが設立した「ミエザの学園」に放り込まれる感じに近いのです。よくオックス・ブリッジの教育の特徴は全人格的教育だ、と言われるのは、こういう点を指しているのだと思います。最先端の知見を日本に移植するべくやって来た、夏目漱石や森鴎外のような明治期の国費留学のセンスとは、根本的なすれ違いがあります。まるで、立派な雌鶏を育てているところに、卵をもらいに来るというような感じです。
    しかし、日本の留学希望者達は、現代でもこの古いセンスを引きずっている方が多いように思われるのですが、どうでしょうか。
    800年の歴史の中で、オクスフォード大学の規模は大きくなりました。カレッジの数も38個になりました。と同時に財政が厳しい時期も幾度となくありました。しかし、学生と教師の人数比は維持しています。教育の「効率化」は必死で拒絶し続けているのです(昨今設立されたMBAやMPP(公共政策大学院)など「稼ぎ頭」のコースは除きます……)。
    なぜそうしたスタイルを堅持しているかというと、テイラー・メイド型教育こそが、オクスフォード教育の本質だという確信があるからでしょう。テイラー・メイド型教育を貫いたまま規模だけ拡大してきたこの大学の最小構成単位は、必然的に、徒弟関係であり続けています。そう、オクスフォードは、徒弟制の集合体なのです。オックス・ブリッジに入学するということは、学部やコース、クラスに所属するというよりも、特定の教授に弟子として採ってもらった、ということにほかならないのです。
    そしてこれは、「決まった採点基準で採点された共通の試験で何点以上」というような客観的な評価基準をクリアしたから合格したわけでもないのです。弟子は「総合的で全人格的」な観点から選抜されます。「育ちの良さが見られる」というような意味ではありません(礼儀正しいかは厳しく見られると言われています)。入門したら「総合的で全人格的」な付き合いをすることになる教授が全権を委任されて判断する、ということです。
    日本の研究者養成コースの大学院受験でも、指導教官への弟子入りという側面が強いところも多いように思いますが、いずれにせよ、イメージとしては、落語家の「弟子入り」に近い印象です。つまり、徒弟として入門するための受験対策は、師匠の個性に沿って計画されなくてはならない、ということを意味します。ですから、後にも述べますが、自分を受け入れてくれるような教授との出会いや、教授に自分を受け入れてもらえるようなアピールが大事になってくるのです。

    ▲クライストチャーチ・カレッジの壁面の蔦。夏は真っ青、秋は真っ赤でした。
    2.「完全主観主義採用」とは
    総合的で全人格的な観点から教授が選抜すると言いましたが、では、教授は何を基準に判断するのでしょうか。一言で言うと、「コイツを教えたいか」――つまり、教えたくなる何かを感じさせれば良い、ということであるようです。
    オックス・ブリッジの教授職は、アカデミアにおいては世界最高に名誉ある地位であり、基本的には「アガリ」のポジションです。まだまだ追い求めるものがある研究者は、もっと研究費を貰える大学に引き抜かれていったりもしますが、余生はじっくりとエリート教育に取り組もう、と、椅子が自分の机よりも学生の方にしっかりと向いている教授が多く見受けられます。もちろん講師や准教授クラスは次のポストを求めてキャリアを形成しなくてはならないので、7割くらいは自分の机の方に体が向いている人も多いです。理系などでは同じ問題関心のバリバリの若手研究者とラボで最先端をともに歩みたい場合もあるかもしれませんが、学生たちは概して、全人格的教育を求めるからこそここに来ているわけで、同じ学費を収めているのであれば、なるべくシニアな教授クラスの指導を受けたがります。
    入学選考ではまず書類選考があり、それに通るとスカイプ等での面接があります。面接では指導教官になる可能性のある教授や学部の責任者級の教授2~3名によって30分程度問答が行われます。面接に通れば最終合格です。書類選考を通るには、「コイツの顔を見てみたい」「とりあえず話を聞いてみたい」と思わせる何かが必要なようです。そして、面談においては、何らかの理由で、面接官の教授の1人以上に「私がコイツを教えてみたい」「あの先生ならコイツを教えたいと思うだろうな」と思わせることに成功することが目標になってきます。そのためには、当意即妙で鋭くて妥当でユニークな回答を、緊迫した中でも笑顔で魅力的に話すことが大事だと思われる方も多いでしょう。そのことを否定はしませんが、困難です。でも、事前に会ったことがあり、意気投合もした教授が、その面接の場に出てくるように仕向けることができたならば、尚良いですよね。
    ■「?」と「!」を積み重ねる
    では、オクスフォード大教授はどういう受験生なら教えたいと思うか。端的に言うと「?」と「!」がある人だと思います。「?」とは、「なんでそんなことやってきたの?」「おもしろい」「謎」「一見、意味不明だけど価値は感じる」といった印象要素です。
    「!」とは、「すごい」「意外」「驚嘆すべき美点アリ」です。大学時代の成績が良いとか、出版物があるとか、受賞経験があるとかのイメージで結構ですが、そこまでのものは必ずしも必要ありません。受験者の属性から想像される普通の人物像に比したとき「!」と「?」を抱かせればよいのです。
    例えば僕であれば、「普通の日本人の官僚だったら普通は推薦状は課長からなのに、こいつは『!』な人から貰ってるなあ」「そして履歴書のここは『?』だなあ。とりあえず話してはみたいかもな」という風に思ってもらえるように、提出書類を工夫するわけです。そして、抱かせておいた「?」に対する答えを二次の面接で回答することで、それも「!」に変えて、「なるほど。おもしろい。うん。教えてもいい」と思ってもらうことを狙うのです。より具体的には後半の受験対策のところで詳述します。
    ■ オクスフォードの学生たちから立ち上る「獅子のオーラ」
    加えて、いい歳の社会人として役所の採用にも何年も携わっており、一応修士号を2つ持っている「上から目線」で20代半ばのクラスメイト達を傍から見ていると、何となく、教授がこの子らを採用した理由がわかるなぁと思う時があります。例えば、ただ笑顔で人の話に頷いている様子を見ているだけでも、この瞬間にかなり高度で深い理解を進めたな、という印象を受けます。のびしろが実力に変わる時の轟(ごう)という勢いといいますか、「わかったぞ!! 覚えたぞ!! 思いついたぞ!!」ということだけである種の圧を人に与えるチカラ、喉奥で唸りを転がす若獅子のオーラのようなものが背中に立ち上っているのが見えるような若者が多いように感じます。その上、とても素直で可愛らしいのです。「そりゃあ、おじいちゃん、おばあちゃん達、教えたくなるよなあ」という子達ばかりです。
    ちなみに、LSEの同級生たちのクレバーさにも、もちろん目を見張るものがありましたが、ものすごく頭の回転も速くて賢いけれど、根本的に学問だの理論だのという話には気乗りしないビジネスエリートたちの知性、というものだったかもしれません。
    若獅子の圧力というより、「あー、はいはい。わかったわかった。」「さもありなん。ふふん。」というような、軽さと爽やかさとキレを備えた食えない奴ら――言うなれば誇り高き狐のような連中だったように思います(ちなみに、LSEのマスコットはビーバーですが)。
    無論、限られた人数の友人たちに抱く感覚論に過ぎませんけれど、同じように多国籍な学校なのに少し校風を描写しようとすると、そういう雰囲気の違いはあるかなと思います。
    こうして教授らは、自分が教えたくて採った学生を、当然のように手塩にかけて丁寧に育てることになります。自分が見込んだ人物なのだから、立派に育てなければならないし、育つはずだという自負もありましょう。義務や責任も当然ありますが、それを上回る愛情も伴うことになります。そして師の愛情に感謝し、応えようと弟子も頑張る。ここが徒弟制の良いところだと思います。
    そして、ちゃんと育てているかどうかは、カレッジや学部がつぶさに管理する制度が充実しています。問題があれば指導教官も換えられます。学生たちは何重もの視線に見守られているのです。
    しかし、客観主義採用と同様に、完全主観主義採用にも、もちろん失敗があります。修士課程に入れても学業を怠ったり、修了の見込みが立たない学生もいます。そういう場合はなるべく中退させたりせず、教授が判断して除籍にします。大学・学部としても、教授の評価基準として、卒業率をチェックしているからです。

    ▲オクスフォードのヘディントン地区、屋根にサメが突っ込むユニークなオブジェ。「ヘディントン・シャーク」

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  • 『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第7回 「世界」を改変する道具たち【毎月第1水曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.510 ☆

    2016-02-03 07:00  
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    『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第7回  「世界」を改変する道具たち【毎月第1水曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.2.3 vol.510
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    今朝のメルマガは稲田豊史さんによるドラえもん論『ドラがたり』の第7回です。今回は「「世界」を改変する道具たち」。ドラえもんが四次元ポケットから取り出す数々の道具の、今だから分かる驚くべき先見性。そして、道具に込められた重要なモチーフ〈世界の改変〉について論じます。
    ▼執筆者プロフィール
    稲田豊史(いなだ・とよし)
    編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。
    http://inadatoyoshi.com
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    前回:『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第6回 ふたりのファム・ファタール 後編
    ●一番好きな道具はなんですか?
     2008年に小学館から刊行された『ドラえもん最新ひみつ道具大事典』によれば、ドラえもんが四次元ポケットから出す道具の数は約1600にものぼる(「ひみつ道具」はアニメ版ほか原作以外のメディア展開において使用される呼称なので、本稿では単に「道具」として記述する)。卓越したドラえもんファン同士であれば、道具の名称だけでしりとりも可能だ。こちらの連載を大幅に加筆修正した書籍が発売中です!
    『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』☆★Amazonで詳しく見る★☆ 
  • 猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第5回「アートには正しさがないから、人類を新しい方向に“導ける”」【毎月第1火曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.509 ☆

    2016-02-02 07:00  
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    猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第5回「アートには正しさがないから、人類を新しい方向に“導ける”」【毎月第1火曜配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.2.2 vol.509
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは、チームラボ代表・猪子寿之さんによる連載『猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉』の第5回です。
    浮世絵の登場以前、西洋絵画には現在の「雨」のようなビジュアルはなかった――そんな話題から始まった対話は、アートが人間の認識をいかに変えるか、そして猪子寿之の「超主観空間」は人間に何をもたらすのか、という議論に発展していきました。
    ▼プロフィール
    猪子寿之(いのこ・としゆき)
    1977年、徳島市出身。2001年東京大学工学部計数工学科卒業と同時にチームラボ創業。チームラボは、プログラマ、エンジニア、CGアニメーター、絵師、数学者、建築家、ウェブデザイナー、グラフィックデザイナー、編集者など、デジタル社会の様々な分野のスペシャリストから構成されているウルトラテクノロジスト集団。アート・サイエンス・テクノロジー・クリエイティビティの境界を曖昧にしながら活動している。
    47万人が訪れた「チームラボ踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地」などアート展を国内外で開催。他、大河ドラマ「花燃ゆ」のオープニング映像、「ミラノ万博2015」の日本館、ロンドン「Saatchi Gallery」、パリ「Maison & Objet 20th Anniversary」など。2016年はカリフォルニア「PACE」で大規模な展覧会を予定。
    http://www.team-lab.net
    ◎構成:稲葉ほたて
    本メルマガで連載中の『猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉』配信記事一覧はこちらのリンクから。
    前回:猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第4回「モナ・リザの前が混んでて嫌なのは、絵画がインタラクティブじゃないから」
    ■ かつて雨は「雨」らしく描けていなかった

    ▲『パリ通り、雨』ギュスターブ・カイユボット(出典)
    猪子 これは1877年の『パリ通り、雨』というタイトルの絵画なんだけど、傘は差しているし、濡れているのに、雨が描かれてないんだよね。それは当時の人にとって、少なくとも現在のようには「雨」が見えていなかったからじゃないかと思うんだよ。
    宇野 それは、雨粒がいま我々がイメージするように降っているとは認識できなかったということ?
    猪子 ゴッホなんかも浮世絵の雨の絵を模写しているんだよ。面白いよね。今や3歳くらいの子供でも雨なんてスラスラ描けるのにね。でさ、きっとゴッホにとってさえも、浮世絵の雨は衝撃的だったんじゃないかな。

    ▲『大はしあたけの夕立』歌川広重(出典)

    ▲『雨中の橋』フィンセント・ファン・ゴッホ(出典)
    でも、本当はこの雨の見え方だって、ひとつの物の見え方でしかない。だって、落ちる雨粒は速いし多すぎて、肉眼でそんなにしっかり追えるはずないからね。世界にはきっと腐るほどたくさん正しい見え方があって、そのひとつが画家によって提示されたにすぎないんだけど、なぜか人々がそれを真似し始めたら、この雨の見え方が定着してしまったんだと思う。
    宇野 奥行きにおける見え方と遠近法の関係もそうだろうね。
    猪子 これって脳が物理現象を補足して認識しているということだと思うんだけど、実はサイエンスにも同じことが言えると思うの。例えば、スーパーボールをここで投げてポンポンと飛んでいるとき、実はこれも速すぎて見えないはずなんだけど、物理の原理をなんとなく知っているから、脳がそれを補足してるはずなんだよ。
    とすれば、アーティストもサイエンスも同じくらい、人間にとって世界をより見えるようにした側面があると思う。
    宇野 そうだね。
    猪子 ただ、アートとサイエンスには決定的に違うところがあると思う。それはサイエンスはある種の正しさを証明できるのだけど、アートは違う。
    アートって例えば絵画で言うと、四次元みたいな複雑な情報を、二次元に変換する行為だと思うの。でも、四次元情報を二次元に変換する方法は無限にあって、その全部が正しいわけじゃない。そうなると、その見解を広めるときの説得の仕方が、正しさというよりは「雨をこう認識すると脳が気持ちよかった」みたいなことでぶわーっと広がる気がするんだよ。
    宇野 逆に「醜い」と感じたりすることもあると思うね。
    猪子 そう考えると、浮世絵の雨はいわば人類が3歳の子供でも描くくらいに「良い!」と思った表現なんだよね。逆にピカソみたいな二次元の表現は、実はピカソ以外の人はあんまり描かないでしょ。つまり、ああいう二次元化を人類は受け入れなかったんじゃないかな。
    宇野 でも逆に言うと、アートは可能性の問題を扱っているとも言えるよね。
    猪子 そうそう。サイエンスは正しさが証明できるものだけど、アートには絶対的な正しさがない。ただ、どうにも上手く言葉にはできないような、ある種の脳の気持ちよさみたいなものによる「人類への説得力」の度合いだけがある。
    とすれば、それは複雑なものを、ものすごく偏った見せ方をさせているわけで、あるアートによる提示を人類が受け入れた瞬間、人類の見え方は極めて偏るんだと思う。
    宇野 偏らせることが「できる」とも言えるよね。サイエンスは「正しさ」があるから、偏らせることはできない。
    猪子 そう、アートには絶対的な真理がないゆえに、それが可能なんだと思う。
    たぶん、雨を現在のように我々が認識するようになったとき、僕たちはハンパなく世界をすごく偏らせてしまい、そして失ったんだと思うの。そういうふうにアートは、人類のある種の方向性を導けるところがあって、僕はそういう部分がなんか好きなんだよね。
    宇野 これはジャストアイデアなんだけど、たぶん効率や必要性のレベルで物事を二次元に整理しないといけない時代は、20世紀に終わったんだと思う。ただ、そこで二次元の役割が消滅するかというと、アートとして、可能世界を提示するものとしての二次元というのは、むしろ重要性を増しているというロジックが作れる気がするんだよ。
    猪子 情報量が超爆発し、急激にグローバル化する中で、共通のコンテキストなんかを持つことが不可能になる中で、従来とは違う意味でアートの役割は、急激に重要性が増すとは思うんだよね。

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