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記事 21件
  • 我々はなぜ「生身のX」に居心地の悪さを覚えるのか?――X JAPANのドキュメンタリー映画『WE ARE X』を語る(市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第9回)【不定期連載】

    2017-05-17 07:00  
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    【配信日変更のお知らせ】 毎月第2水曜日更新の古川健介さん『TOKYO INTERNET』は、諸般の事情により今月は配信日程を変更してお送りいたします。楽しみにしていた読者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、次回の更新まで今しばらくお待ち下さい。


    80年代以降の日本の音楽を「V系」という切り口から問い直す、市川哲史さんと藤谷千明さんの対談連載『すべての道はV系に通ず』。今回は、現在公開中のX JAPANのバンド・ヒストリーを追うドキュメンタリー映画『WE ARE X』を取り上げます。(構成:藤谷千明)


    ▲『WE ARE X』劇場パンフレット
    映画公式サイトはこちら
    〈雑誌〉の機能を代替し始めた音楽ドキュメンタリー
    藤谷 今回は市川さんたってのご希望として、番外編的にX JAPANのドキュメンタリー映画『WE ARE X』について語りたいと思います。
    市川 こらこら誰のたっての希望だよ(馬鹿負笑)。
    藤谷 (無視)この『WE ARE X』、初週の興行収入は3日で7432万円、ランキングは初登場10位とロックバンドのドキュメンタリー映画としては非常に良い滑り出しでした。「キネマ旬報」によると3〜40代の女性が中心とのことです。邦楽ミュージシャンのドキュメンタリー映画は「2週間限定上映」的な短期間公開のものも少なくないわけですけど、つまり短期間の間に劇場まで足を運んでくれる、DVDになったら購入するコア層に向けた映画ということですよね。この作品は3月に公開されて以降今でも局地的ではありますが上映が続いているのも、異例です(編注:東京や大阪では終了しているものの、それ以外の地域では上映が続いています。詳細は映画公式サイトの劇場情報をご覧ください)。《サンダンス映画祭》をはじめ各国の映画祭にも出品され、台湾やタイでの上映も決まっているそうです。
    市川 私は映画の存在をすっかり忘れていて、藤谷さんのメールで想い出したのが3月末。慌てて観ることにしたけど、もはや近場では大阪ぐらいでしか上映しておらず。それも一日1回の上映でしかも朝の8時20分スタート――週イチで教えてる女子大がある神戸から、「何が哀しくて月曜の早朝から、サラリーマンで満員の阪急電車に揺られ梅田まで行かなきゃならんのか」という。よりにもよって『WE ARE X』を鑑賞するために(醒笑)。
    藤谷 それはそれはお疲れ様でした(←おざなり)。
    市川 うわ、心ねぇぇ。ま、これはこれで私にとってはXに相応しいシチュエーションではあったんだけどね。
    藤谷 では『WE ARE X』本編の話に入る前に、まずは現在の音楽ドキュメンタリー映画にまつわる状況を整理させてください。
    市川 <無敵の議事進行マシーナ>と化しております。
    藤谷 <ましーな>?
    市川 ん、<マシーン>の女性形。適当に思いついた造語だから人前で遣っちゃ駄目だよ、きみが恥かくから。
    藤谷 ……近年、映画会社はODS(other digital stuff=非映画コンテンツ。映画館で上映される映画以外のコンテンツのこと)に力を入れており、ゼロ年代以降コンサートのライブビューイング中継やドキュメンタリー映画の上映が増えています。例えば『DOCUMENTARY of AKB48』シリーズや『Born in the EXILE ~三代目 J Soul Brothersの奇跡~』もODSですね。
    市川 うん。2011年から毎年公開されている<ODSの先駆け的存在>AKBシリーズに関して言えば、「総選挙やフランチャイズ化ばっか目立つけど、AKB48はこれだけ必死で頑張ってるんです!」的なCI戦略だよね。泣いたり倒れたり挫けたりいがみ合ったり励まし合ったり、のあの戦場ドキュメント感は。
    藤谷 ジャンルを邦楽ロックバンドに絞りますと、2010年公開の『Mr. Children / Split The Difference』、『劇場版DIR EN GREY -UROBOROS-』あたりから増え始め、12年に『劇場版 BUCK-TICK ~バクチク現象~』、14年にはSEKAI NO OWARI『TOKYO FANTASY』とか、『Over The L' Arc-en-Ciel』、15年にはhideの生誕50周年を記念して制作されたドキュメンタリー「JUNK STORY」も公開されています。
    この<ドキュメンタリー>には大きく分けて二種類あります――「映画館でライブを追体験する」タイプのものと「雑誌のインタヴュー記事の実写版」というようなタイプのもの。『WE ARE X』はどちらかといえば後者寄りの作品ですね。
    市川 かつては我々音楽評論家や音専誌が担ってきた機能が、アーティスト自前のドキュメンタリー映画で賄われるようになっちゃったね。EXILEの『月刊EXILE』みたいなもんで、第三者的視点や批評性が排除される分、アーティストの一方的な美化・神格化が過度に進行してしまった感はある。

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  • 【新連載】鷹鳥屋明「中東で一番有名な日本人」第1回 中東で一番有名な日本人?【不定期配信】

    2017-05-16 07:00  
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    今回から、「中東で一番有名な日本人」とも言われる鷹鳥屋明さんの連載がスタートします。サウジアラビアのサルマン国王に関する報道でテレビ出演をしていた鷹鳥屋さんは、日本での偏った報道について憤りを感じていました。中東やアラブに造詣の深い鷹鳥屋さんの視点から、中東のイメージと現実のギャップについて語っていただきました。
    中東で一番有名な日本人?

    ▲バーレーン、マナマの友人の結婚式にて
    はじめまして、鷹鳥屋明(たかとりや あきら)です。現在日本と中東を繋ぐベンチャー企業で商品企画の仕事をする傍ら、日本文化や日本のポップカルチャーを中東全域に広める活動を個人で行っております。「中東で一番有名な日本人」という少し大げさなタイトルにはなっておりますが、上記活動を継続し私人として中東各国の日本のことに興味がある、日本に興味があるアラブ人の方々はだいたい知っている、現地中東大手メディアに出演を繰り返し、InstagramやTwitterでフォロワーの合計がアラブ地域で合計9万人くらいまでになり、Like数も250万を超える、くらいに知名度を上げることができました。

    ▲サウジアラビア、キングダムタワーにて講演私自身、中東・アラブという地域に触れてまだ6年程度で多くの諸先輩方を差し置いて色々お話することは大変おこがましいですが、この常時何万人ものアラブの方々からの繋がりから集めた情報や現地の人たちの意見などを交え、日本から離れており知り得る機会が少ないこの中東地域について、私自身が学んだことや感じたこと、知り得たことを皆様に共有し、少しでも正確な情報をご提供できればと思います。このような機会を与えてくださったPLANETSの方々に感謝致します。

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  • 【春の特別再配信】『君の名は。』興収130億円でポストジブリ作家競争一歩リード――その過程で失われてしまった“新海作品”の力(石岡良治×宇野常寛)

    2017-05-15 07:00  
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    「2017年春の特別再配信」第5弾は、話題のコンテンツを取り上げて批評する「月刊カルチャー時評」から、映画『君の名は。』についての石岡良治さんと宇野常寛の対談をお届けします。コアなアニメファン向けの映像作家だった新海誠監督が、なぜ6作目にして大ヒットを生み出せたのか。新海作品の根底にある“変態性”と、それを大衆向けにソフィスティケイトした川村元気プロデュースの功罪について語ります。(構成:金手健市/初出:「サイゾー」2016年11月号)
    宇野常寛が出演したニコニコ公式生放送、【「攻殻」実写版公開】今こそ語ろう、「押井守」と「GHOST IN THE SHELL」の視聴はこちらから。
    延長戦はPLANETSチャンネルで!


    (画像出典)

    ▼作品紹介
    『君の名は。』
    監督・脚本・原作/新海誠 製作/川村元気ほか 出演(声)/神木隆之介、上白石萌音、長澤まさみほか 配給/東宝 公開日/8月26日
    東京都心で暮らす男子高校生・瀧と、飛騨の山奥の村で暮らす女子高生・三葉は、ある時から、互いの肉体が入れ替わる不思議な現象を体験する。入れ替わって暮らす際の不便の解消のために、別の身体に入っている間に起こった出来事を互いに日記にし、その記録を通じて2人は次第に打ち解けていく。だがある日、突然入れ替わりは起きなくなり、瀧は突き動かされるように飛騨へ三葉を探しに行く。そこで彼は意外な事実を知り──。新海誠の6作目の劇場公開作品にして、まれに見る超メガヒットとなった。

    宇野 まあ、身もふたもないことを言えば、よくできたデート映画ですね、という感想以上のものはないんですよね。本当に川村元気って「悪いヤツ(褒め言葉)」だな、と思わされました。新海誠という、非常にクセのある作家の個性を確実に半分殺して、メジャー受けする部分だけをしっかり抽出するという、ものすごく大人の仕事を川村元気はやってのけた。
     新海誠の最初の作品である『ほしのこえ』【1】は、二つの要素で評価されていた作品だと思う。ひとつは、キャラクターに関心が行きがちな日本のアニメのビジュアルイメージの中で、背景に重点を置いた表現を、それもインディーズならではのアプローチで再発掘したという点。もうひとつは、後に「セカイ系」と言われるように、インターネットが普及しつつあった時代の人と人、あるいは人と物事の距離感が変わってしまったときの感覚を、前述のビジュアルイメージと物語展開を重ね合わせてうまく表現していたところ、この二つです。ただ、それ以降の新海誠は、背景で世界観を表現しようというのはずっと続いていたけれど、ストーリーとしてはそうした時代批評的な部分からは一回離れて、ある種正当な童貞文学作家というか、ジュブナイル作家として機能していた。
     今回、久しぶりに過去作を見返したんですけど、意外とというかやっぱりというか、あの気持ち悪さがいいんですよね(笑)。例えば『秒速5センチメートル』【2】でのヘタレ男子の延々と続く自己憐憫とか、『言の葉の庭』【3】の童貞高校生の足フェチっぷりとか。どっちも女性ファンを自ら減らしに行っているとしか思えない(笑)。でもそんな自分に正直な新海先生が愛おしいわけですよ。1万回気持ち悪いって言われても自分のフェティッシュを表現するのが『ほしのこえ』以降の新海誠作品であり、基本的に彼はそこを楽しむ作家だったと思う。
     それが『君の名は。』では、その新海の本質であるところの気持ち悪さの残り香が、三葉の口噛み酒にわずかに残っているだけで、ほぼ完全に消え去ってしまった。おかげで興行収入130億円を達成したわけだけど、あの愛すべき、気持ち悪い新海誠はどこにいってしまったのか。まぁ、それも人生だと思いますが(笑)。
    石岡 僕が新海作品でずっと興味を持っているのは、エフェクトや背景の描写です。彼が日本ファルコム在籍時に作った、パソコンゲーム『イースⅡエターナル』のオープニングムービーは、ゲームムービーを刷新した。この当時から空や背景の描写はとんでもなく優れているんですが、自然に迫る美しさとは違っていて、ギラギラした光線をバシバシ見せつけるような、人工的なエフェクトの世界を高めていくものだった。宇野さんが言った「気持ち悪さ」でいうと背景自体も気持ち悪いというか、その方向へのフェティッシュも濃厚でした。なぜ彼の作品が童貞文学的になってしまうかというと、圧倒的な背景描写に対して、キャラクターをあまり描けなくて動かせないからなんですよね。でもその結果、豊かな背景を前に、キャラクターが立ち尽くす無力感が背景そのものに投影されて、観る人はそれに惹かれる仕組みがあった。
     一方で今回は、キャラクターがよく動く作画でありながら、新海監督には由来しない別の気持ち悪さが生まれていると思う。去年この連載で『心が叫びたがってるんだ。』を取り上げた時、田中将賀【4】さんのキャラデザは中高年以上を描けないんじゃないか、という話をしましたよね。『君の名は。』も田中さんなんだけど、作画監督・安藤雅司【5】の力によって、三葉の父親や祖母はさすがにうまく描かれていた。だけどその代わりに、日本のアニメーター特有の病というか、演出的にはいらないはずのシーンでついパンチラを描いているあたりには、また別種の気持ち悪さがあるんじゃないか。

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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第二章 「寓話の時代」としての戦後――宣弘社から円谷へ(1)【毎月配信】

    2017-05-12 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、『月光仮面』『モスラ』『浮雲』といった50年代〜60年代初頭の作品群が、いかにして「帝国」の地理的想像力に裏付けられていたのかを読み解きます。
    第二章 「寓話の時代」としての戦後――宣弘社から円谷へ
    1 大東亜の亡霊たち――ウルトラマンの前史
     改めて言えば、私は昭和のウルトラシリーズには大きな断層が二つあり、そのそれぞれが時代相を映し出すものだと考えている。第一の断層は『ウルトラQ』における夢のシニカルな否定が、ウルトラマンという高度成長期の生んだ突飛なヒーローによって上書きされたことである(近代化)。第二の断層は『帰マン』から『A』にかけて、社会よりも心が、科学の夢よりも反科学的な怪奇性やオカルティズムが上昇したことである(ポストモダン化)。要は、公的な正しさや社会的なコンセンサスの代わりに、私的な妄想やスポ根的な身体性が際立ってくるのだ。
     しかし、実はもう一つの大きな断層がある。それはウルトラシリーズ全体がそれ以前の、五〇年代から六〇年代初頭にかけての日本の地理的想像力を切断して出てきたということである。第一の断層(シニシズムから科学の夢へ)も第二の断層(社会から心へ)も、シリーズ以前のこの世界認識の変化の後に生じたものなのだ。そこで本章では歴史をもう一段階遡り、私の本業である文芸批評の分析手法も交えながら、ウルトラマンの「前史」のサブカルチャーを輪郭づけてみたい。結論から言えば、それは戦時下の「大東亜」の記憶と深く関わっている。
    宣弘社の男性ヒーロー
     戦後のテレビヒーローの歴史を考えるとき、ウルトラシリーズ以前に宣弘社プロダクション制作のテレビ映画があったことは重要な意味をもつ。『月光仮面』(一九五八〜五九年)、『豹〔ジャガー〕の眼』(一九五九〜六〇年)、『快傑ハリマオ』(一九六〇〜六一年)といった宣弘社のヒーローものは、戦後の草創期のテレビのなかに、戦前・戦中の日本の地理的想像力を呼び込んだユニークな作品群であった。
     もともと、宣弘社は社長の小林利雄の指揮のもと、敗戦直後にネオン、駅広告、シネサイン、街頭テレビ、ビルボード等を精力的に手がけた広告会社であり、戦後日本の都市風景の形成にも大きな貢献をした。例えば、宣弘社が銀座で展開したクリスマスのデコレーションはその後日本の冬の風物詩となり、一九五一年に小林の依頼で作られた猪熊弦一郎《自由》は(良い絵かどうかはともかく)今日のパブリック・アートの先駆的作品として、現在でも上野駅中央改札を飾っている[1]。さらに、宣弘社は『ウルトラマン』にも広告会社として関わっており、TBS、円谷プロ、スポンサーのあいだの関係を取り持つことになった。
     だが、ここで面白いのは、小林がたんなる広告業者で終わらず、ハリウッドの視察をきっかけに「宣弘社プロダクション」を創設し、草創期のテレビ映画の制作にも乗り出したことである。広告からコンテンツへのこの「越境」の結果として、川内康範が原作と脚本を担当し、プロデューサーの西村俊一がキャラクターの奇抜なデザイン(バイク、ターバン、サングラス……)を構想した『月光仮面』が日本初の本格的な「国産テレビ映画」として一九五八年に放映され、誰もが知る大ヒットとなる。「憎むな!殺すな!赦しましょう!」という『月光仮面』の有名な寛容のテーマは、苦い敗戦を経た戦後日本の理想を示したものでもあっただろう。
     川内康範もまた、宣弘社とは別の意味で「越境」を繰り返した人物である。彼は駆け出しの頃に東宝の演劇部の秦豊吉(丸木砂土)のもとで修行し、人気絶頂の喜劇役者古川ロッパや榎本健一(エノケン)らとも知り合うとともに、後にはそのマリオネット劇の知識を円谷英二に買われて、東宝の戦時下の人形劇映画『ラーマーヤナ』の脚本を担当するという具合に、師匠の秦にも似た脱領域的な才人であった(後には歴代首相との交友でも広く知られる)。その川内が「脇仏」の月光菩薩をモチーフにした月光仮面について、「正義」そのものではなくあくまで「正義の味方」だということを――アメリカのスーパーマンのような「超人」ではなく「神でも仏でもない、あくまで人間」だということを――後年のインタビューで強調していたのは、文化史的に見てきわめて興味深い[2]。
     現に、この控えめな男性ヒーロー像は「生涯助っ人」を信条とした川内自身に留まらず、『七人の侍』(一九五四年)や『隠し砦の三悪人』(一九五八年)、『用心棒』(一九六一年)等で「助っ人」としての三船敏郎を撮り続けた黒澤明の映画、さらには戦後のアニメの代表作でも反復された。例えば、宮崎アニメの少年は自分が超人になるのではなく、常に少女を助ける「正義の味方」(高畑勲の評を借りれば「エスコートヒーロー」)であろうとするのであり、その限りで月光仮面の系譜に属していた。男の主役が正義の脇役(用心棒)に甘んじることで、かえってヒーローになり得るというこの『月光仮面』的な逆説には、戦後日本の男性性の構造、特にその屈折したナルシシズムが表出されていたのだ。

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  • 本日19時から生放送☆ 今週のスッキリ!できないニュースを一刀両断――宇野常寛の〈木曜解放区〉2017.5.11

    2017-05-11 07:30  

    今夜19時からは、宇野常寛の〈木曜解放区〉生放送です!

    〈木曜解放区〉は、宇野常寛がその週気になったニュースや、「スッキリ!!」で語り残した話題を思う存分語り尽くす生放送番組です。
    時事問題の解説、いま最も論じたい作品を語り倒す「今週の1本」、PLANETSの活動を編集者視点で振り返る「今週のPLANETS」など、週替りのアシスタントナビゲーターと一緒に盛りだくさんの内容でお送りします。
    会員限定の「延長戦」では、本編では語り尽くせなかったニュースを取り上げたり、読みきれなかったおたよりにお返事していきます。今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報
    放送日時:本日5月11日(木)19:00〜20:30
    コーナー盛りだくさんの本編60分間と、延長戦(限定放送)30分間でお送りします!
    出演者:宇野常寛、井本光俊(アシスタントナビゲーター)
    Twitterのハッシュタグは「#木曜解放区」です
  • 【最終回】落合陽一「デジタルネイチャーと幸福な全体主義」 第6回 インターネット時代の新帝国主義(後編)【毎月第1木曜配信】

    2017-05-11 07:00  
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    メディアアーティストにして研究者の落合陽一さんが、来るべきコンピュータに規定された社会とその思想的課題を描き出す『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』。〈物質〉と〈実質〉の境界が失われ、人間中心主義ではなくなっていく世界の中で、GoogleやFacebookに代表される新帝国主義に対抗する、オープンソース的な「穏やかな世界」の実現を考えます。(構成:長谷川リョー)

    働かずして富を得るか、働かずして貧しくなるか
    インターネット以降の世界の覇権争いにおいて、勝利国家となったのはアメリカでした。そして現在、唯一それに対抗しうる国家といえるのが中国です。
    中国のインターネットといえば、中国共産党にとって不都合な情報へのアクセスを遮断する国家規模の巨大なファイアウォール「金盾」がよく知られています。当初、この施策は「グローバリズムに乗り遅れている」と揶揄されていましたが、しかし彼らは、このファイアウォールを築いたことにより、インターネットにおける米国の植民地支配から逃れることができました。アメリカで生まれたインターネットですが、中国国内のインフラはすべて中国製品によって代替されています。その巨大な市場によってAlibabaなどの中国企業は、一大勢力を築くに至りました。
    翻って日本では、FacebookやTwitterを受け入れたことにより、結果的に国産SNSのmixiを潰してしまいました。日本人は気質的にソーシャルネットワークサービスと親和性の高い民族であるにも関わらず、グローバリズムの波を受けて、その全てがアメリカナイズされてしまったことは、残念といえば残念です。
    ソフトウェアはハードウェアとは異なり、人間の内面にまで入り込んで影響を与えます。その「見えない檻」によって僕らは周囲を取り囲まれ、制御されている。その環境のことをユビキタス・コンピューティングと呼んだりもしますが、その「見えない檻」の向こう側、デジタルネイチャーに辿り着いたときに僕達が遭遇するのは、新しい自由なのか、あるいはさらなる争いでしかないのか。
    そこで重要なトピックとなるのが「労働」についての議論です。今後は、最低限の労働で収入を得られる社会、いわば「楽園」に暮らす層と、それ以外の貧困層に分かれてくでしょう。前者では帝国的なプラットフォームが世界中からコミッションを徴収する仕組みによって、人々は働かずに豊かな生活を送ることができます。一方、それ以外の世界では、ロボットの普及によって人間の仕事は大幅に減っていますが、そこに暮らす人々は貧しい。
    『銃夢』というSF漫画では、「ザレム」と「クズ鉄町」という2つの未来社会が描かれています。「ザレム」はカリフォルニア連合国のような様相を呈しており、クズ鉄町がそれ以外の全てとなっている。この世界ではロボット技術が普及し、人間は働かなくてもいいように統治されていますが、それでも「持たざる者」は仕事をせざるをえない。私たちを待ち受ける未来も、これと似たようなものになるでしょう。
    しかし、こうした格差をテクノロジーのせいにするのはお門違いです。人類社会がテクノロジーに支えられていることは厳然たる事実であり、それ以前の生活に戻ることは不可能です。事実「植民地支配だ!」と言って、スマホを手放す人はいないわけで、今後も我々はこの世界で生きていかなくてはなりません。
    ロボットによる労働の代替が進むと、お金よりも人間の時間をいかに占有するか、すなわち可処分時間でしか物事の価値を測れなくなるでしょう。たとえば、Facebookに1時間、Twitterに1時間、国産アプリに1時間、テレビに2時間使っている人がいるとします。すると、日本国に滞在している実質的な時間は3時間ということになり、3時間分の上がりを国家が、それ以外の2時間分の上がりを帝国が持っていくということになります。このように、可処分時間の割り当てが重視されるようになると、人々はアビリティ(才能、能力)ベース、もしくはアクションベースの発想になります。個々人のアビリティやアクションを、どのような配分で切り出して仕事にするのか、あるいはオープンソースに貢献するのか、ということを考えていくようになるでしょう。

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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第一章 西洋的な人工知能の構築と東洋的な人工知性の持つ渾沌

    2017-05-10 07:00  
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    【配信日変更のお知らせ】
    毎月第1水曜日更新の猪子寿之さんの〈人類を前に進めたい〉は、諸般の事情により今月は配信日程を変更してお送りいたします。楽しみにしていた読者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、次回の更新まで今しばらくお待ち下さい。
    ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。今日の人工知能を生み出すに至った、機械論的な知能の構築を試みる西洋の思想。混沌から知性を「削り出す」東洋の発想との相互補完によって開かれる、人工知能の次の可能性について提案します。
    1. 東洋的な人工知性の在り方
     荘子の言葉に、

    斉人之井飲者相守也。(列御冠篇 二)
    (斉人の井に飲む者の相いまもるがごときなり。)
    ちょうど凡人が井戸の水を飲むのに、自分の水だからお互い飲ませないと言って、お互い守りあっているようなものだ

    という言葉がある。「井戸の水は井戸を掘ったものが自分で作ったものと思い込んでしまうが、自然から湧いているものだということを忘れている、ということである。同じように、人工知能を作ることは、作ったものが設計に基づいて実現したと思っている。しかし、東洋的な考えではそうではない。最初からそこにあったものを掘り出している、と考えるのである。オーギュスト・ロダン(1840-1971)が、石の中に眠っているものを掘り出す、と言ったごとく、電子の海から人工知能を掘り出すのである。
     しかし、東洋から人工知能は生まれなかった。急速な西洋の人工知能の発展がそれを許さなかった。そういったことが起こる前に、西洋的な人工知能が世界を席巻したのである。歴史に「もし」はないにせよ、もし東洋から人工知能が生まれる可能性があったとすれば、西洋的な構築の人工知能ではなく、プログラムと電子回路とノイズの混沌とした空間から、知能の形をしたものを抜き出す、という方法に寄ったであろう。或いは、混沌をそのままに、そこからエレガントな思考を引き出す仕組み、として人工知能を作っただろう。歴史がそうならなかったのは、そのような混沌を作り出すまでの計算パワーと手法がそれまでに生まれなかったことによる。遅きにしろ、これからそういった創造と研究が推進されることで、西洋のカウンターとしての「人工知性」が生まれるだろう。日本や中国のコンテンツには、ネットの海から人工知能が自動的に生成するというストーリーがよく見受けられる。東洋にとっては人工知能ですら、自然発生的なものでなければならない、という強い思想がある。
    2. 構築と混沌(I)思考とノイズ
     脳も身体も同じニューロン(神経細胞)からなる。身体のニューロンには殆どノイズがない。だからこそ身体は正確に動かすことができる。一方、脳のニューロンはノイズだらけである。アクティブに活動していないニューロンも、さまざまなノイズの中で活動している。脳の活動の90%は「無駄な」活動をしていると言われている。おそらくノイズによって、至るところで微弱なニューロンが発火しているのだろう。
     脳は決して、一つの問題に対してたった一つのエレガントな解答を実現する器官ではない。さまざまな可能性の思考を同時に走らせたり、或いは次に来るべき思考を準備してバックグラウンドで走らせている。複数の思考の顕在化にも、潜在化にも走っていて、主導を取ろうとしている。正確には、環境の多様な変化に最もマッチした思考が勝者となり主導権を握るのである。その柔軟性の高さの代償として、ほとんどの思考は戦いに敗れて無駄な思考として終えることになる。或いは果たせなかった役割を夢の中で実現しようとする。
     一つの勝ち残った思考が意識に上っている。それ以外の思考は無駄に見える、しかし、雷が雲から生まれるように、混沌という母体がなければ、一筋の思考は生まれない。我々は困難な場面や問題に直面し、考え続け、己を混沌そのものにし、己の中の混沌を活性化させ、そこからエレガントな思考を生み出す。それは思考のドラマである。
     しかし、現在の人工知能に与えられているのは、そういった思考ではなく、筋道のついた出来上がった後の思考をうまく再現する思考である。現代の人工知能では、問題がなければ思考はない。そして、現在の人工知能には問題を自ら作り出す力も必要もない。人間が、考えるべき要素とそれに対する操作を教えて、設定したゴールへ向かって計算させるのが、現代の人工知能の姿である。「考えるべき要素、それに対する操作、設定されたゴール」のセットはフレームと呼ばれ、これに関して人工知能は3つの制限を受ける。

    1. 人工知能は自らフレームを作り出すことはできない。
    2. 人工知能はフレームの外に出ることはできない。
    3. 人工知能は与えられたフレームだけしか解くことはできない。

     人工知能が得意なのは「閉じられた問題」である。それは未知の要素がない、という意味である。「閉じられた問題」として人工知能にフレームが与えられる時、人工知能はその問題を解くことが出来、また人間よりも圧倒的に優秀である。将棋、囲碁、自動翻訳、リコメンドシステム、データの世界の閉じた問題は遅かれ早かれ、人間より圧倒的に優秀になる。しかし、フレームを一歩出るや否や、人工知能はまるで無力になる。コンビニの店員のロボットを作ったとして、その人工知能を搭載しても、想定外の出来事に対しては何もできない。犬がコンビニに入って来た時の対処法がもしプログラムされていなければ、動きようがなく、完璧なお料理ロボットも鍋の取手がいきなり壊れたらストップするしかない。お掃除ロボットが動く前に部屋を片付けておく必要があるように、人工知能ができることは想定したフレームの中である。ディープラーニングのような学習も学習の仕方は自由度があるが、囲碁AIが囲碁以外の何かを出来るようになることはない。
     人工知能はフレームの中で動作する。そして、その問題をできるだけエレガントな思考で、できるだけコンパクトな計算とメモリで実現することが人工知能でもある。そこには無駄があってはならない。それは通常のプログラムの宿命である。プログラムというのは無駄をそぎ落とそうする力が働く。それは先に指摘したようにオートメーションの延長としての流れの中に人工知能があるからでもある。
     そうやって西洋の人工知能は、徐々に狭く閉じられた問題の中に閉じ込められていくことになる。狭いショートサーキットの中で、無駄のない、隙のない、高速なプログラムとしてやせ細って行くことになる。それを解放できるのは東洋的な人工知性の考え方である。この章では、西洋的な人工知能と東洋的な人工知性がいかなる対立をなし、お互いを解放できる力を見て行くことにする。

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  • 犬飼博士 安藤僚子 スポーツタイムマシン 第3回 「山口の人にバトンを渡すため、まず僕らの全力疾走」【不定期連載】

    2017-05-09 07:00  
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    山口に新しいeスポーツのための装置「スポーツタイムマシン」を作った犬飼博士さんと安藤僚子さんのタッグが、制作当時を振り返る連載『スポーツタイムマシン』。今回は、山口と東京で見つけた仲間たちの協力のもと、スポーツタイムマシンが少しずつ形になっていく様子を、犬飼さんの視点から語ります。
    こんにちは犬飼です。
    今回は前回の安藤さんに引き続きスポーツタイムマシンを作るための山口のリサーチと、主に僕が行った電子プログラム開発部分のお話しをさせていただきます。
    展示開始は2か月後です。
    YCAMの人たちからは「間に合わせてね」とやさしい言葉と厳しい目つきで指定されております。そんな緊張感ある時期のお話しです。 
    プロジェクトが目指すゴールのデザイン
    ライフバイメディアというテーマの作品であるスポーツタイムマシンの事前リサーチ。つまり山口のライフサイズを調べる活動は、僕たちが山口を知ることと同時にスポーツタイムマシンをいっしょに”作って”、”運営して”、”遊ぶ”ための仲間探しでした。
    「こんにちは。突然すみません。」
    「こんな場所にこんなマシンを設置しようと思っています。」
    「このアイデアはどう思いますか?」
    「このマシンを7月にオープンさせるので一緒に作りませんか?」
    「物もお金も人も足りないのです。協力してくれませんか?」
    こんな会話をあっちこっちでする旅です。
    安藤さんは内装というモノ、僕はコトの設計と制作をおこないます。
    コトの設計というのは、ある物や者の間にある「関係」をデザインするということです。
    スポーツタイムマシンというモノと山口を、人々の関係を作っていく、それがこの時に僕が始めたことです。
    今回は電子プログラムだけでなく人や町、商店街そのものがメディアになるための事前リサーチで、人と会う行為そのものが制作になっていきます。
    コトをデザインする手法の一つに、僕がずっと携わってきたゲームデザインがあります。モニター画面の中だけのゲームではなく、モニターを飛び出してしまったゲームのデザインです。
    ゲームデザインでは、なんらかのゴールと報酬を用意します。
    報酬では失礼なのでプレゼントと言い換えます。
    山口の人たちに用意したプレゼントは”笑顔になってもらうこと”だと
    この段階で決めました。
    初対面の人にはわざわざ「笑顔をプレゼントします」とは言いませんが
    少し仲良くなって負担を多くかけてしまう仲間には、「あなたを含め、山口の人が自ら行動して内発的に笑顔になってもらうように頑張りましょう」と伝えていました。
    僕は当時のブログにこう書きました。

    YCAM10周年のお祭りを、YCAM、商店街、山口市、県、県外の人たち全員で参加して盛り上がるイベントにして、みんなを笑顔にしたいのです。
    笑顔があればいいです。
    ただそれだけなのです。
    そして
    その先にはもっと大きな
    絶対イエーイはあるはずなんです。
    (中略)
    25年前、石井聰互さんが、キューブリックの「2001年宇宙の旅」等をさして絶対映画というのがあるんだと言いました
    その先です
    人類はもう25年も拡張をしてきたのです
    絶対イエーイ
    ジョン・レノンがピースというように、
    ジェーン・マクゴニガルがエピックウィンというように
    ぼくは絶対イエーイというんです。
    (ブログ 絶対イエーイはあるんですよ。)

    つまらないレトリックに聞こえてしまうかもしれませんが、お祭りやスポーツ、遊びで得たい報酬は「楽しくなる気持ち」しかなく、それが得られたとき身体というデバイスに表示されたものが笑顔であり、僕らは“口角の上がり具合”で楽しんでくれたと認識するしかないという意味です。
    安藤さんは、この時期しきりに「ゼッテーかわいい物を作る」と言っていました。
    安藤さんは“かわいい物”、僕は“笑顔”を。
    この2つは、この山口から数年たった今もなおゴールとして掲げられています。
    デザインをするメディアの差からこのような言葉の差が生まれます。
    安藤さんがなにかをつくると、かわいいものが出来上がってくるのですが
    「そのかわいいって何?」という僕の質問にはなかなか言葉が出てきません。
    うーんと眉間にしわを寄せて睨んでくるか無視されます。
    信じてとにかく任せるしかないのです。信頼しています。待ちます。
    ですが、待っているだけでは平行してするべき僕の作業もすすまないので困ることもあります。「それ、かわいくない。」僕はずっとこの安藤さんが何度も口にする「かわいい」について苦心します。
    コトのデザインとして内発的な「かわいい」をめぐるデザインのやりとりは、また後の連載でふれたいと思います。
    とにかくスポーツタイムマシンを“作って”、“運営して”、“遊ぶ”あいだに「笑顔とかわいい」をプレゼントできるようになることが全員の共通の目標として、山口に触れていったのです。

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  • 【春の特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第2回 サブカルチャーから考える戦後の日本

    2017-05-08 07:00  
    550pt


    「2017年春の特別再配信」、第4弾は本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』の第2回をお送りします。今回は、21世紀に改めて見直す〈サブカルチャー的な思考〉の可能性と、その中でもとりわけ〈オタク的な想像力〉を重視すべき理由。そして、20世紀前半に普及した〈自動車〉と〈映像〉が、いかにして現代社会を作り上げたのかを論じます(この原稿は、京都精華大学ポピュラーカルチャー学部 2016年4月15日の講義を再構成したものです/2016年5月20日に配信した記事の再配信です)。
    宇野常寛が出演したニコニコ公式生放送、【「攻殻」実写版公開】今こそ語ろう、「押井守」と「GHOST IN THE SHELL」の視聴はこちらから。
    延長戦はPLANETSチャンネルで!

    いま、サブカルチャー的な思考を経由する意味
     前回は60年代の「政治の季節」の終わりから70年代以降のサブカルチャーの時代、そして2000年代以降のカリフォルニアン・イデオロギーの台頭までの流れを、駆け足で見てきました。1970年代から20世紀の終わりまでは世界的に人口増加=若者の時代であり、そして若者の世界は脱政治化=サブカルチャーの時代だった、とおおまかには言える。もちろん、サブカルチャーと政治的な運動の関係は内外でまったく異なっているし、一概には言えない。しかし重要なのは、マルクス主義の衰退からカリフォルニアン・イデオロギーの台頭までは「世界を変える」のではなく「自分の意識を変える」思想が優勢な時代であって、そこに当時の情報環境の変化が加わった結果としてサブカルチャーが独特の機能を帯びていた、ということです。そして、そのサブカルチャーの時代は今終わりつつある。
     普通に考えれば、サブカルチャーの時代が終わろうとしているのなら、僕はとっとと話題を変えてカリフォルニアン・イデオロギー以降の世界を語ればいい。情報技術の進化と、その結果発生している新しい社会について語っているほうが有益なのは間違いない。僕は実際にそういう仕事もたくさんしてます。
     でも、ここではあえて古い世界の話をしたい。それはなぜかというと、皮肉な話だけれど、いま急速に失われつつあるサブカルチャーの時代に培われた思考のある部分を活かすことが、この新しい世界に必要だと感じることが多いからです。
     かつてサブカルチャーに耽溺することで自分の意識を変え、さらには世界の見え方を変えようとしていた若者たちは、いま市場を通じて世界を変えることを選んでいる。実際に、僕の周囲にもそういう人が多い。学生時代の仲間とITベンチャーを起業して六本木にオフィスを構えているような、いわゆる「意識高い系」の若者たちですね。彼らは基本的に頭もいいし、人間的にも素直です。付き合っていて不快なことはないし、仕事もやりやすい。だけど、話が壊滅的に面白くない。
     なぜ彼らの話が面白くないのか、というとたぶんそれは彼らが目に見えるものしか信じていないからだと思うんですね。彼らはたとえば、うまくいっていない企画があって、それに対して予算や人員を再配置して最適化するような仕事はとても得意です。しかし、今まで存在していなかったものを生み出すような仕事は全然ダメな人がすごく多い。もちろん、そうじゃない人もちゃんといて、彼らはものすごく創造性の高い仕事をやってのけているのだけど、その反面これだけ賢い人なのになんでここまで淡白な世界観を生きているんだろう、という人もすごく多い。ブロックを右から左に移動するのはものすごく得意で効率的なのだけど、そのブロックを面白い形に並べて人を楽しませることが苦手な人がとても多い。正確にはそれができる人とできない人の落差があまりにも激しくてびっくりするわけです。

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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第一章 ウルトラシリーズを概観する――科学・家族・子供(2)【毎月配信】

    2017-05-02 07:00  
    550pt
    【メルマガ配信休止のお知らせ】 5月3日(水)〜5月5日(金) のメールマガジン配信はお休みです。5月8日(月)より配信を再開いたします。

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、『A』『タロウ』『レオ』を経てウルトラシリーズが勢いを失っていく過程を追うことで、「子供」と「青年」の狭間で揺れ動く戦後文化の輪郭を描き出します。
    第一章 ウルトラシリーズを概観する――科学・家族・子供

    2 後期ウルトラシリーズ――家族物語とメディアミックスの時代
     前期ウルトラシリーズは科学と未来の夢によって『Q』のシニシズムからいったんは逃れるものの、『帰マン』はその夢を後退させ、宇宙からも引きこもって、東京の風景と人間へと接近していく。そう考えると、一九六九年のアポロ一一号の月面着陸や一九七〇年の大阪万博という科学の「祭り」のときに、ウルトラシリーズが放映されていなかったのは象徴的である。祭りの前の「期待」(『セブン』)と祭りの後の「現実」(『帰マン』)の落差が、このシリーズには残酷なまでにはっきり刻み込まれていた。ウルトラシリーズはたんに世相を反映するというよりは、日本社会の抱えた夢や象徴の変容こそをあからさまに示しているのだ。
     戦後のサブカルチャー史を考えるときに、未来との距離感はきわめて大きな意味をもつ。例えば、建築研究者の森川嘉一郎は、一九八〇年代に名づけられた「オタク」について「未来の凋落」を「趣味」で埋め合わせようとする存在だと定義した[14]。オタクはマニア的に情報を集めては、自分でもイラストを描いたりフィギュアを制作したりするプロシューマー(生産者+消費者)だが、未来のイメージを非公共的な趣味として楽しむしかなくなったその姿は、万博以降の日本社会そのものの戯画である。オタクは科学・宇宙・未来にまつわる象徴的魔術が後退した後の、どこか奇妙な適応形態なのだ。
     ウルトラシリーズの場合、この後退の穴を埋めたのは「家族」であった。現に『帰マン』に続く後期ウルトラシリーズは、急速にファミリー・ロマンス(家族物語)へと傾き「ウルトラ兄弟」という概念も定着する。と同時に、その家族的な親密さを脅かす妄執のテーマも上昇し、心理化・怪奇化が進んだ。このテーマの推移は、ポストモダン的な「リアリティの多元化」を象徴する出来事でもあった。その過程を具体的に見ていこう。
    ウルトラマンA――家族と心のあいだ
     繰り返せば、『帰マン』は主人公郷秀樹が東京の市井の家族とともにある物語であった。本多猪四郎監督・上原正三脚本の最終話も、ゼットンに対する郷の自己犠牲的な「特攻」の後、弟のような坂田次郎との交流によって締めくくられる。郷が「次郎、大きくなったらMATに入れ」というメッセージを残してウルトラマンとして戦地に旅立ったのに対して、次郎は「一つ、腹ペコのまま学校に行かぬこと」「一つ、天気の良い日にふとんを干すこと」「一つ、道を歩くときには車に気をつけること」「一つ、他人の力を頼りにしないこと」「一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと」という「ウルトラ五つの誓い」によって答える。このどこか珍妙で、それでいて不思議と胸を打つシーンは、戦中の特攻青年と平和な戦後民主主義社会の少年が心を通わせる場面のようにも読めるだろう。
     それに対して、一九七二年から翌年にかけて放映された『ウルトラマンA』はもっと単純に「ウルトラ兄弟」という家族イメージを確立し、作中にも歴代のヒーローがたびたび登場する。しかし、前半のメインライターを務めた市川森一自身は、ナイーヴな家族愛や人類愛からはむしろ明確に距離を置こうとしていた[15]。そのこともあってか、それまでの科特隊、ウルトラ警備隊、MATがどれも男どうしのホモソーシャルな絆によって結ばれていたのに対して、『A』の防衛チームTACはしばしば人間関係においてギスギスした空気をまとい、ときには相互不信と疑心暗鬼に取り憑かれる。『A』には子供向けのファミリー・ロマンスの裏側に、絆を断ち切る負の「心理」が深く根を張っていた。
     特に、波打つ不定形の怪人である『A』の主要敵ヤプール人は、人間の妄想と疑心暗鬼をますます増幅させ、それがしばしば超獣の源泉となる。例えば、市川脚本の第四話では、売れっ子の漫画家がストーカー的にTACの女性隊員への欲望を募らせ、テレパシーによって超獣ガランを出現させる。あるいは上原正三脚本の第一七話では、母を亡くした娘の心にヤプールがつけこみ、不気味な鬼女と超獣ホタルンガを生み出す。超獣は心の歪みやオカルト的な呪いの産物なのだ。『帰マン』は未来や科学という「大きな物語」が失墜した後を、東京の現実の風景によって埋めたが、『A』ではそのような公共の風景よりも、『怪奇大作戦』ふうの不透明な怨念や呪詛のほうが大きくなる。そこには、リアリティの多元化・不透明化によって特徴づけられるポストモダンの世界像が、綺麗に表出されていた。
     したがって『A』には一定の現代性があるのだが、作品の完成度については疑問符がつく。そもそも、市川は第一話で広島の原爆ドームを超獣ベロクロンに襲わせるという野心的なプランを立てていたが、それは実現せず、広島県福山市に舞台が変更される。そして、その後は結局おおむね東京の物語に戻り、『帰マン』後半以来の「怪談」の枠組みに沿ったエピソードも増える。さらに、北斗星司と南夕子が「合体」によってウルトラマンAに変身するという根本的な設定も、物語中盤でなし崩し的に変更されてしまった。『A』では作品のコンセプトが漂流し、中途半端になった印象は否めない。

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