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記事 24件
  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第二回 チームラボと「秩序なきピース」(前編)(10)【金曜日配信】

    2018-01-19 07:00  
    550pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。グローバル/情報化によって曖昧になった人間と人間の境界線を、もう一度引き直したいという揺り戻しに対して、チームラボ代表・猪子寿之さんは他人がいることで変化するアートを提案しました。他者をファジーな存在として再定義することを試みる猪子さんの取り組みについて宇野常寛が考察します。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号)
    10 人間と人間との境界線を無化する
     人間と人間の境界線、それはグローバル/情報化でもっとも曖昧になったものであり、それだけにいまトランプ(という固有名詞が象徴する「境界のない世界」へのアレルギー反応)がもっとも強力に引き直そうとしているものだ。
     このアレルギー反応という現実に対して、猪子はどうビジョンを示したのか。猪子はアートの力でもう一度「境界のない」世界に人々を誘惑する。そしてそこで語られる理想は、たとえば二〇世紀の人々が掲げた「他者」をめぐる理想とは明らかに異なっている。理解できない、不愉快な存在としての「他者」を、高い意識と深い寛容さをもって「歓待」せよ、といったメッセージを猪子は採用しない。それは既に、トランプに敗北した理想だからだ。かといってこうしているいまも(いや、いまこそ)日本社会を覆う、「無責任の体系」に基づいた共同体への自己同一化も採用しない。それは既に歴史によって失敗が証明されたものだからだ。
     では、いかにして猪子は人間と人間の間の境界線を取り払うのか。それは端的に述べれば情報技術の介在によって、本来不快な他者という存在を快い存在に変化させてしまう、というプロジェクトなのだ。

    〈「モナ・リザ」を観るのに隣の人は邪魔で、できれば一人で見たほうがいいんだよ。「ゆっくり鑑賞させてくれ」としか思わないじゃない。それって、「モナ・リザ」では同じ空間にいる人が邪魔になるということなんだよ。
     でもさ、それは他人の振る舞いで目の前の「モナ・リザ」が変化しないからだと思うの。ルーブル美術館の「モナ・リザ」の前でいくらぎゅうぎゅう詰めでも、「俺たちはここにいすぎないか」なんて相談はじめたりしないじゃん(笑)。〉(16)

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  • 濱野智史『S, X, S, WX』―『アーキテクチャの生態系Ⅱ』をめざして 第1章 東方見聞録 #1-2 Googleというアトラス: 究極のデータベースの実現【不定期配信】

    2018-01-18 07:00  
    550pt


    情報環境研究者の濱野智史さんの連載『S, X, S, WX』―『アーキテクチャの生態系Ⅱ』をめざして。サンフランシスコに到着した濱野さんは、Google Cloud Next ‘17に出席しました。そこで発表された「Cloud Spanner」の提供開始は、21世紀の情報社会においてどのような思想的意義を持つのでしょうか。
     前回の掲載からだいぶ時間が過ぎてしまった。不定期連載とはいえ読者諸兄には申し訳ない。また当初構想していた連載はより紀行文的な――リアルタイム性の高い散文――を予定していたのだが、編集部との方針相談もあり、だいぶ文体や構成から練り直す必要が生じた。これが遅れた理由の1つだが、もう1つの最大の理由は、目下本連載が対象としているGoogleおよび競合他社のクラウド戦略が、連載開始直後の2017年6月以降、加速度的に変化をもたらしており、著者としてはいかにそこから批評的に距離を置くか、書きあぐねていたのが正直なところである。とはいえ本連載は、筆者が所属する組織とは関係なく、あくまで一人の、社会学者でありフィールドワーカーによる、いささか思弁的で抽象的な情報社会の現在形に関する考察であることに変わりはないはずだ。今後もやや不定期な連載になってしまうかもしれないが、お許しをいただきたい。
    #1-2 Googleというアトラス: 究極のデータベースの実現

     2017年3月。SFOすなわちサンフランシスコ国際空港に到着した私は、まずGoogle本社の見学へと向かった。通称、Googleplex(グーグルプレックス)。それは10の10の100乗乗という途方もなく莫大な数「googolplex」から取られたものであり、Googleの社名の由来にもなっていることはよく知られた話であろう。
     Googleplexはしかし素っ気ない、本当にそれくらいしか形容しようのない、田舎の大学のキャンパスのような場所だ(実際にGooglerは「キャンパス」と呼ぶ)。広大なキャンパスの中には、複数のオフィス棟が無数に存在している。ちなみに見学者は、オフィス棟の中にはセキュリティの関係で入ることは許されない。ほぼ唯一見学者に許されるのは、まずGoogleの記念品を購入できるGoogle Storeだ。といってもApple Storeのようなものを想像してはいけない。Tシャツやペン、サングラスといった、よくあるような安価なお土産が陳列されているだけの「お土産屋さん」である。
     そしてもう一つは、Google創業時の歴史を伝える一種の「展示室」のようなスペースだ。しかし、これもまた実に飾り気のない、よくある自治体がつくった無料の展示スペースのような場所だ。Googlerが創業当初の頃、立ちながらパソコンを置いてミーティングをするのに最適な、「自作感たっぷり」のベンチ型テーブル(ホームセンターで購入した脚立と板で作成されている)が陳列されていたのが、印象的だった。言葉遊びをするつもりはないが、要はこのベンチ(長椅子)がGoogleの「ベンチマーク(測量における水準点。比べる同類物との差が分かるような、数量的や質的な”指標”)」だとでもいいたげなように見えた。とにかくそこには「創業者」のような人間らしさを装飾する要素がどこにもないのだ。少くとも社史を「人間像」を通じて輝かしく見せる、といった発想はない。そういった印象を筆者には与える空間だった。
     これは後に思想的に整理することになるが、そもそもGoogleには(人文的意味での)「美(意識)」が欠けている。そう断言してよいだろう。キャンパスの建物も、全くといっていいほど、いわゆるポストモダン建築に見られるような「アヴァンギャルドさ」のようなものは特に感じられない。少なくとも、Appleが2017年現在も建造中の新社屋(Apple Park)のような、建築への意志は見られない。生前、スティーブ・ジョブズはこの新社屋を建設するにあたって、社員が自然と美しいデザインを意識するようにとの狙いを込めたというが、そうした考えは見られない。これに対して実際Googleは、建物に限らず、例えばよくある(ハーマン・ミラーのような)「高級なオフィスチェアー」を購入することはしないという。なぜならそうした「固定費」への投資は創造性とは無縁だからだといった記述が『How Google Works』の中にも出てくる。
     けだしGoogleにとって美とは無駄なコストなのだ。近代思想を代表/体現する建築家たちの命題の1つに「機能的なものは美しい」(ヴァルター・グロピウス、ル・コルビジェ、丹下健三……誰もがそれを口にする)というものがある。しかしまるでGoogleは美を気にしない。Googleにとってデザインとは、A/Bテストを通じてビッグデータによって選択/淘汰されるものが行き残った帰結にすぎない。小林秀雄はかつて「美しい花がある。花の美しさというものはない」といったが、Googleならむしろこういうだろう。「美しい花はデータによる投票で決まる」と。
     ……そんな思索に耽りつつ筆者は淡々とキャンバスを歩いた。あとひとつ印象に残っているのは、Googleplexのほぼ中心、全社ミーティングが行われるという大講堂のそばに、T-rex(ティラノサウルス)の像が立てられていたことくらいだろうか。これには「巨大な恐竜のような会社になるな(図体だけ巨大になると、いつか滅びてしまう)」というメッセージが込められているという。果たして「巨大」とは何か。もはやそれは「見えるもの」では測れない時代が来ている。そのことを、筆者は次の日から嫌というほど思い知ることになる。

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  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.1.17

    2018-01-17 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★ アシナビコーナー「加藤るみの映画館(シアター)の女神」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日1月17日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:加藤るみ(タレント)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご感想、宇野に聞いてみたいこと、お悩み相談、近況報告まで、なんでもお寄せ
  • 【新連載】丸若裕俊『ボーダレス&タイムレスーー日本的なものたちの手触りについて』第1回 伝統のアップデートには日常生活のハックが必要だ

    2018-01-17 07:00  
    550pt

    今回から、丸若裕俊さんの連載『ボーダレス&タイムレスーー日本的なものたちの手触りについて』が始まります。丸若さんは菓子壺や弁当箱、iPhoneケースや磁器ボトルなどの様々なプロダクト、そして茶畑からのものづくりを通して日本の伝統的な文化や技術を現代にアップデートする取り組みをしています。今回は、丸若さんにとって伝統工芸はタイムレスな価値を体現するものであり、日常生活のハックこそがその本質であることについて宇野と語り合いました。(構成:高橋ミレイ)
    伝統工芸のソフトウェアを現代にアップデートする
    ▲「PUMA」と共に発表した「PUMA Around the bento box project」
    宇野 今回は連載の第1回目なので、まずは丸若さんが何をやっている人なのかという紹介から始めたいと思います。丸若さんは様々なプロダクトやお茶のプロデュース活動を通して日本の伝統工芸が現代の生活の中に溶け込むようにアップデートする取り組みをされていますが、その工芸といかにして出会ったのかというところからお伺いできればと思います。
    丸若 僕は昔から「間」をすごく気にする子どもだったんですね。そもそも間や調和感を気にするようになったきっかけを考えてみると、実家が横浜の中華街や元町のエリアだったこともあって、海外のフラットで主体性のあるノリにすごく憧れていたことにあると思います。ヨーロッパカルチャーの影響の元、ファッションに出会ってアパレルの仕事を始め、スケートボードやヒップホップのようなサブカルチャーも好きになっていった。でも、段々と見た目よりもソフトウェアの方が重要で、別に何インチのパンツを履いているとかは関係がないことに気づいた時、「なんだ、自分は今までスタイルばかり気にして、僕のは猿真似じゃないか」と思ったんです。そんな心境や業界を取り巻く環境の変化もあってアパレルの仕事を辞め、地方をうろうろしていた時期がありました。
    そんな時、たまたま知人に誘われて360年前に作られた九谷焼を美術館で見て、「なんだこれは!」と衝撃を受けたのが、日本の伝統工芸との出会いでした。ソフトウェアとハードウェアが完璧なバランス感覚で両立していると感じたんですね。それで知人に「これが欲しい」と言ったところ、連れて行かれた土産物屋で、さっき見た物とは似ても似つかぬ安っぽい器が並んでいるのを目の当たりにして、冗談かと思うくらいの落差を感じたんです。九谷焼の技術が360年の間にすっかり変貌して劣化してしまった。 もう一つ違和感を覚えたのは、美術館で九谷焼の器を見ていた人たちが、その作品の作り手の権威の話や値段の話をしていたことでした。僕にとっては、工芸品をそのような視点から評価すること自体が衝撃だったんです。
    宇野 つまりその光景は、伝統文化がハイカルチャーに取り込まれたことで、上流階級のマーケットに吸収されてしまったことの象徴だったんですね。そして、先ほどの土産物屋で見たのは、逆に伝統文化が大衆化した問題から生じたことだと思います。「とりあえずこういう柄をプリントしておけば客は満足するだろう」という近代の工業社会のロジックです。この二つが伝統工芸を殺してしまった要因だと思います。
    丸若 そうです。でも、それに誰も気がついていない。なので、この過去と現在とのギャップを伝えたいという衝動に駆られたのが、工芸を現代にアップデートする仕事を始めたきっかけです。
    宇野 丸若さんのやっていることは本来の、正しい意味での「工芸」だと思うんですよね。何百年前に作られた物を、そのままもう一回作るんじゃなくて、ちゃんとアップデートしていかないと工芸の本質を失ってしまう。それは工芸というものが、日常の、生活の中に息づいているものだからですよね。
    博物館の中に飾られてしまったり、アートとして権威化し、高額で取引されてしまっては生活の中に息づいているものとは言えない。
    そして同時に工芸はその生活の、日常の中から深遠で、遠大な世界観、宇宙観を表現しているものでなければならない。日常の内部に存在する超越したものへの裂け目として機能していないといけない。だからそれを「とりあえず昔の椀にはこんなガラが描いてあったからこれをプリントしてしまえ」と安易にデザインして工場で大量生産してしまっては、その表現力を損なってしまう。やはりきちんと、現代のライフスタイルと対峙しないといけない。
    だから丸若さんは、言ってみればもしかつての名匠たちがいま生きていたらどんなモノをつくっただろう、という視点から工芸を現代的にアップデートしているのだということはよく分かります。
    ただ、やっぱり多くの人はなかなかその本質に行きつけないと思います。伝統工芸が好きであればあるほど、うっかり当時の名工の物を再現しようとしてしまいますから。丸若さんは工芸をどのようにして自分の血肉にしていったのでしょうか?
    丸若 僕はプロデュースやアウトプットをする時に、手がけた物に宿る真実を伝えたいとは思っても、自分自身がプレイヤーになりたいと思ったことは一度もないんですよ。これが伝統工芸を手がける他の人たちとの大きな違いだと思います。九谷焼に出会って東京に帰ってから、人に会うたびにその良さを言葉で話すんですが、どうしても伝わらないんです。それは作品を体験した人にしか感知できないような微妙な差異をうまく言語化することができなくて、分かる人にしか分からないような言語でしか語れないからだと思います。だからと言って美術品である九谷焼きをその場に持っては来られない。ならばそれを体現する物を、自分の方法論で作るしかないと思ったんです。
    宇野 つまり旧来の九谷焼きそのものを再現しようとは最初から思っていなかったわけですね?
    丸若 そうですね。これは料理で言うと、エビが獲れないのにエビのスープを作ろうとしても仕方がないのと同じです。でも、エビのスープがめちゃくちゃ美味しかった時の感動は分かるのでそれと近い感動を他の食材で再現することはできるんじゃないかと考えたんです。
    宇野 この感動を現代に再現するには何を素材にしたらいいだろうかということですよね。
    丸若 そうなんです。
    工芸を通してタイムレスの概念を感じてほしい
    ▲日本の技術の可能性を追求し、前川印傳と丸若屋が作り上げた「‘otsuriki’ Collect of Japan」
    丸若 僕は小さい頃から時間に強い関心があって、「もし時間を自由に行き来できたら……」と空想していました。そこで僕の人生と仕事に共通するテーマとして「タイムレス」を掲げています。これは時間には前も後ろもなく、全てをつながっているものとして捉える概念と定義しています。そこに理論的な裏付けはありませんが、僕にとっては、まさに工芸こそがタイムレスの概念を体現しているんです。
    多くの人は時間軸の中に過去と未来があると思っていて、工芸を過去の象徴であると見なしています。これはタイムレスとは真逆の認識なんですよね。だからこそ僕は工芸を通してタイムレスという感覚を人々と共有したい。そうすれば、みんなの愛やエネルギーがそこに向かうことで、より上質な一歩が生まれると思うんです。僕のプロデュースの仕事は、それを目指して日本の伝統文化や工芸を、現代や未来の形にアップデートするというものなんです。
    宇野 具体的にどのような仕事を手がけてきたのかを簡単に教えていただけますか?
    丸若 まず最初に出会った石川県の九谷焼きの上出長右衛門窯による「髑髏 お菓子壺」をプロデュースしました。これはミュージアムピースとして、金沢21世紀美術館や森美術館に展示されています。
    もう少し複合的な仕事としては、PUMAとのコラボレーションで製作した弁当箱があります。職人さんによる「Traditional Handcraft (伝統的工芸)」と、ハイテク技術によるインダストリアルな「Ultra Modern Handcraft (現代産業工芸)」の2つのラインから構成されていて、どちらも日本の技術によって作られています。これもタイムレスの概念を具現化した作品ですね。さらに、チームラボ作品を納める特製桐箱。これは初期の作品からすべて手がけています。あとは印傳(いんでん)という染色した鹿皮に漆で模様を施した素材で作ったiPhoneカバーのシリーズ「‘otsuriki’ Collect of Japan」とか。最近だと、村上隆さんのカイカイキキと秋田県酒蔵ユニット「NEXT5」との日本酒プロジェクトの一端ですがお手伝いさせていただきました。九州の波佐見の磁器で作ったプレミアム磁器ボトル3種をプロデュースしたんです。
    ▲村上隆 × NEXT5 日本酒磁器ボトルプロデュース ©Kaikai Kiki Co., Ltd. All Rights Reserved.
    宇野 これらに共通しているのは、日本のトラディショナルな工芸のシンプルさに込められた“わびさび”の美学ですよね。これらのミニマルな美学が現代的なシンプルライフやエコライフの感性と親和性が高いことを感じている人はたくさんいると思いますが、それらを自覚的に正面から引き受けて、しっかりと取り組んでいる人は意外と少ない。京都や合羽橋のお店で「最近うちの包丁が外国人に売れるんだよね」と言う人はいても、その現象が何なのかをちゃんと考えた上でアップデートしていこうとする人を、僕は丸若さんの他にはほとんど見たことがないんです。
    丸若 僕は「陰」と「陽」が表裏一体であることをすごく意識していて、なぜならそこに本質があると思っているからです。「髑髏 お菓子壺」を森美術館で展示した時に、南條史生さんが「死と生の両方を感じる作品だ」という主旨のコメントを書いてくれたんですね。僕にとっては、死と生という感覚ではなかったんですけど、タイムレスを言い換えるとそういうことだと思いました。生まれた瞬間に死を感じる、過去を感じて未来を感じるということです。このようにマイナスとプラスを常に行き来する感じ方を共有してくれる人がなかなかいないのは確かかもしれません。
    ▲開窯130年以上の歴史を持つ九谷焼 上出長右衛門窯と作り上げた「髑髏 お菓子壷 花詰」
    宇野 タイムレス、つまり時間性がないということは、究極的にはあの世とこの世との境界線がないということですよね。それは東洋的な世界の見方で、日常の生活風景の中に、あの世への入口があるということです。お盆には死んだ人間が仏間までやってくる、妖怪のような類が台所や道端に現れるのも日本ならではの世界観です。僕らが生きているこの世の生活空間の中に穴ぼこが空いていて、そこがあの世とこの世をつないでいる。この国の持つタイムレスな想像力は、そういった死生観に担保されていたと思うんです。西洋近代の枠組みの外側に出るための手段として、東洋的なものにも目を向けようということは20世紀から言われてきました。しかし我々のトラディショナルな生活感覚や生活感覚の中にある死生観までが視野に入っていないと、表面的なオリエンタリズムの域を絶対に出られないと思うんです。
    丸若 死生観を感じる物は、それ自体がすごくエネルギーを持っていますよね。工芸も狂気じみた物になればなるほど、製作に関わった人たちがどれほどのエネルギーでその作品にコミットしたかが、自然と感じ取れてしまうものなのだと思います。だからといって、職人の超絶技巧でつくられた物の価値が高くて、大量生産のプロダクトは価値が低い、ということではありません。超絶技巧と同じくらい情熱を込めて開発された大量生産品には、まさに生き様というか熱量を感じます。
    別の対比としてはたとえば、美術館で名画を観て感銘を受けたから、帰り際に売店でポストカードを買うことはすごく良い流れだと思うんです。両方あっていいことで、どちらが良い・悪いという議論自体がナンセンスだと思うんですよ。
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  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第六章 オタク・メディア・家族 1 大伴昌司のテクノロジー(1)【毎月配信】

    2018-01-16 07:00  
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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。60年代末の少年マガジンで、図解による怪獣文化の「情報化」を試みた編集者・大伴昌司。その多彩な活動を追いながら、小松左京や眉村卓らSF作家たちと特撮の関わりについて論じます。
    第六章 オタク・メディア・家族
     日本の特撮史においては、円谷英二および円谷プロが決定的に重要な位置を占めている。「特撮の神様」と評された円谷に匹敵する名声を得た日本人の特撮作家はいない。このことは、戦時下の政岡憲三や瀬尾光世以来、手塚治虫を経て、高畑勲、宮崎駿、富野由悠季、押井守、庵野秀明といった優れた作り手たちが、戦争を主題化しながら、あたかもお互いを批評しあうようにしてジャンルを成長させてきたアニメとは、ちょうど対照的である。
     ただし、それは円谷の「遺産」が貧困であったことを意味しない。六〇年代の円谷プロは特撮テレビ番組という当時の映像のフロンティアにふさわしく、雑多な才能の集合した「梁山泊」であった。したがって、その関係者の活動範囲も特撮だけに留まらず、しばしば多くの分野にまたがっていた。そのなかでも、ともに一九三六年生まれの編集者・大伴昌司と脚本家・佐々木守は六〇年代後半以降、メディアを横断する幅広い仕事を手掛け、後の「オタク」ないし「新人類」の先駆者となった興味深い存在である。円谷プロの特撮が出版メディアにも刺激を与えながら図らずもオタク文化の下地を作ったことは、ここで改めて強調しておきたい。ウルトラシリーズはたんに日本のテレビ史に残る特撮ドラマであっただけではなく、サブカルチャーのオタク的受容を組織した作品でもあるのだ。
     そして、先駆者とはえてして、フォロワーにおいては失われていくような「過剰さ」を抱え込んだ存在である。私はここまで、生粋のホモ・ファーベルである円谷英二が、戦中と戦後を通じて「非転向」の技術者として活躍したのに対して、その息子世代に当たる上原正三らが特撮という「技術」のなかに、屈折した政治性を導入したと述べてきた。上原とほぼ同年齢の大伴昌司も、少年誌の特集を企画するなかで「情報化」に早くから注目した一方、単純な技術的合理性には収まりきらないものも抱え込んでいたように思える。では、この「息子」の世代から「父」の円谷英二とも「孫」のオタク第一世代とも異なる、いわばオルタナティヴなオタク像を引き出すことは可能だろうか?本章では大伴と佐々木を出版メディア史のなかに位置づけながら、この問いを掘り下げてみよう。
    1 大伴昌司のテクノロジー
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  • 【特別対談】落合陽一 × 田川欣哉 〈人間〉という殻を脱ぎ捨てるために 前編(PLANETSアーカイブス)

    2018-01-15 07:00  
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    毎週月曜日は過去の傑作記事を再配信するPLANETSアーカイブスをお届けします。今回は、takram design engineeringの田川欣哉さんと、『魔法の世紀』で知られるメディアアーティスト落合陽一さんの対談です。デザインとエンジニアリングのスペシャリストである2人が、人工知能、アルファ碁、そして、コンピュータによるパラダイム転換がもたらす、人間を中心としない新しい世界観のビジョンを語り合います。 (司会:宇野常寛、構成:神吉弘邦/この原稿は、2016 年4月1日に配信した記事の再配信です)
    『魔法の世紀』に辿り着くまで
    宇野 落合さんが遅刻しているので、先に田川さんに少し打ち合わせ的に問題意識を共有しておきたい。
     この本の編集を指揮していたときに思ったのは、コンセプトメイク的にちょっとずるいというか、チート的な本なんだよね。つまり、ほとんどのメディアアーティストは、与えられた情報環境の中で、それをいかに批評的に打ち返すかというゲームを強いられているんだけど、落合陽一は「既存のメディアアートはもはや無効で、これからは魔法的なテクノロジーを持ったアートだけが有効である。そのアートとはテクノロジーそのものである」というロジックで、さらに「俺はそれを自分で作っている」という論理構成になっている。これをやられると、同じことができない人は反論できないし、極論すると「研究してないやつはこの先アーティストとは呼べない」とすら言えてしまう。
     ここに真正面から反論しようとすると、結構大変だと思う。落合君はアートがテクノロジーの発明ではなく、批評で成り立つ時代と状況のほうが特殊だったと言っていて、たとえば19世紀の印象派の登場や20世紀のキュビズムの登場は、ひとつのテクノロジーの発明だったと考える。だから「テクノロジーを開発しない表現行為が批判力を持つこと」がこの先もあり得るのかというレベルで戦わなきゃいけなくなる。ある人たちにとっては当然そうで、それ以外の人たちにはあり得ないことをめぐって論争することになっちゃう。そのせいで、すごく批判しにくい本になっていると思う。
    田川 確かに、それはそうかもしれないね。最近『フェルメールの謎〜ティムの名画再現プロジェクト〜』というドキュメンタリー映画を観たんだけど、ティム・ジェニソンという発明家が、フェルメールの絵画の再現にチャレンジするという内容で、それがすごく面白かった。
     フェルメールの絵画は本当に写真みたいで、カメラ・オブスクラを使っていたんじゃないかって説があるくらい。だけど、ティムさんは「きっとフェルメールは何らかのもっと高度なツールやテクニックを用いたに違いない」と考えて、当時から入手可能だったレンズや鏡を駆使して、フェルメールと同じような絵を描くための装置を作るんです。彼は一度も油絵を描いたことがないのでフリーハンドで描いたら下手くそなんだけど、その装置を使いこなすことで、フェルメールに近い絵を描いた。それをアートの大家に見せたらすごく喜んで、「本当にこれで描いたのかもしれないね」というコメントをもらうんです。
     つまり、表現と技術は常に表裏の関係にあって、新しい表現を求める人たちが、新しいテクノロジーを探求してきた。そうやって、みんな出し抜きあいながらやってきたんだと思う。「この青色は彼にしか出せない」という絵の具が、有名な絵師の手元に秘蔵されていたという話もあるし。その意味では昔から一部のアーティストは、テクニックとメディアとコンテンツの間に区分を作らず、作品の表現面を作るだけじゃなくて、内部の技術的なこともやってきた。だから落合くんも、自分の作った機械でそこを目指すのかなと。
    宇野 ずっと彼は「自分はグラフィックスの研究者である」と言っていて、やってることはセザンヌやピカソとあまり変わっていないというのが彼自身の認識なんだよね。
     つまり、当時は平面のキャンバスに絵の具を塗るしか方法がなかったから、彼らの感覚にとってリアルなものを描こうとすれば、これまでとは異なった論理で平面を再構成する技法を追求するしかなかったけど、現代のテクノロジーを動員すれば、全く別のビジュアルを根本的に作り出すことができると思っている。
    田川 僕が聞いてみたいのは、落合くんが物理現象にこだわる理由なんだよね。ピクセルに行かないじゃないですか。プラズマに触れられる「Fairy Lights in Femtoseconds」も身体性を前提にした作品で、そこには彼なりのエクスタシーがあるんだろうなと思う。

    ▲ Fairy Lights in Femtoseconds
    https://www.youtube.com/watch?v=AoWi10YVmfE
    宇野 彼はそこは一貫していますね。初期のいわゆるメディアアートっぽい作品、ゴキブリを使った「ほたるの価値観」とか「アリスの時間」の頃からそう。ああいった作品を「テクノロジー自体がアートだ」と言うようになってから作らなくなったけど、そこは今も変わらない。
     あとは場の制御の問題に集中するようになったのも大きい。「Pixie Dust」のあたりで、完全に人間がまだ体験したことのない感覚を発明する、という方向に行ったでしょう。メディア論的に気の利いたメッセージや「政治的に正しい」問題提起よりも「触れるレーザー」を実現してしまうほうが社会批評的にもインパクトがある。これが真のメディアアート、だと開き直りはじめた。
    田川 光と音を分けなくてもいいという統一原理的な理解が、落合くんの中にあるときアブダクション的に降ってきたんだろうな。
    宇野 一昨年の音波の研究が大きかったんだと思う。僕が最初にインタビューしたのはその頃なんだけど、それまでの彼の研究モチーフは、基本的には「三次元空間にいかに描画するか」に集約されていたと思うんだよね。シャボン玉にモルフォ蝶を描いて浮かべるようなさ。そこには乾さんや藤井さんとの決定的な違いがあって、あの人たちは脳に電極を刺すことを考えているけど、落合くんは最初に会ったときからずっと「脳に電極を刺すことの先に行きたい」と言っていた。あれはちょうど「Pixie Dust」の原型になった音波で物体を浮かべる実験をやっていた頃だね。描画だけ、つまりビジュアルイメージの再構成だけだったら、脳に電極を刺したほうが早いと考える人はまだいると思う。

    ▲Pixie Dust
    https://www.youtube.com/watch?v=NLgD3EtxwdY
    田川 それは『魔法の世紀』の巻末の作品集を見ていても、改めてそう思うな。おそらく、あるときから落合くんは表現することをやめたんだよね。それがすごく潔いよい。
    宇野 本当はもっと美術プロパー受けする小賢しいメディアアートも作ろうと思えば無限にできる。でも、そういう方向には行かなかった。
    田川 これは相当に凄いことで。彼は一度表現を捨てている。でも一方で、彼の研究は視覚芸術的に強烈なインパクトを持っている。実は、そこが強みだったりもする。だから逆説的なんだけど、純粋に表現として見たときに、それが審美的な意味での完成に到達したら、無敵感さえ出てくると思うんだよね。
    宇野 最初に会った首からカメラを提げていた頃の落合くんの仮想敵って、やっぱりパースペクティブだったと思うのね。ピントの合っていない眼球からの情報を脳で再構成している人間の視覚体験に対して、パースペクティブ以外のロジックで構成された新しいビジュアルで介入すること。より直接的に、三次元の世界にアクセスできるビジュアルをつくるというのが、ずっと彼のテーマだったと思う。
     遠近法の発明は、人類史における最大級の視覚体験への介入だったわけで、当初の落合くんはそれに勝てるレベルのハックを考えていた。だけど実際に出来上がったモノは、それよりもかなりヤバいものになっていて、もはや視覚イメージからは逸脱しつつある。それが『魔法の世紀』の「デジタルネイチャー」につながっている。
    田川 ピカソもそうだけど、作家には「○○の時代」っていう区分があるからね。落合くんは今の自分の好奇心の整理が付いた後、どこに向かうのかな。
    宇野 「Pixie Dust」から「魔法の世紀」までが「対パースペクティブの時代」で、そこから先はもうちょっと違うものになるんじゃないかな。
    田川 従来のテーゼに対するカウンターとして「魔法の世紀」があるとして、それが一定の機能を発揮した後、彼がどんなテーマを設定するのかには興味がある。
    落合 お疲れ様です!
    (落合さん到着)
    宇野 お、来た来た。では僕はもう黙るので、あとは田川さん、よろしくお願いします。
    インタラクティブからは2011年に卒業
    田川 『魔法の世紀』面白かったです。僕は落合くんと宇野さんの二人のことを知ってるから、二人で書いた本だな、と。宇野くん担当の教科書的によく書かれている部分と、落合くんが持っているコアなスピリットみたいなところがよく一冊にまとめられた本だと思って勉強になりました。表紙にちょっと昔の作品(「A Colloidal Display」2012年)が使われているじゃない。この本で書かれているのは、この写真以降の話が中心になっているよね。
     ある瞬間を境に、落合くんの中で、ビフォー・アフターがクッキリ分かれているのかな。落合くんがどこかで表現をやめた瞬間が確実にあるな、と本を読んで感じたから、そこを最初に解説してほしい。

    ▲A Colloidal Display
    https://www.youtube.com/watch?v=tvxJs_4m0ZE
    落合 俺はやることがガラッと変わったのが2011年。これ以降、俗に言うインタラクティブなことをやるのを一切やめたんですよ。あの年は震災もあったけど「インタラクティブ」というものが、かつての先鋭的なものから広告やMAKE的な表現に変わった瞬間だと思うんです。
     それまで当時の中村勇吾さんが作っていたような作品がメチャクチャ評価されてインタラクティブ・ウェブメディアみたいなものもすごく見かけたのに、いつの間にインタラクティブで閉じた作品それ自体は「そういうのあったな」という感じになった。俺の変化か、社会の変化か分からないけど、チームラボもインタラクティブなものを作ることをやめてしまった。今までコンピュータ表現をやってきた俺はどこを目指すのか、考えた時期があったんです。
    田川 僕にも同じくらいの時期にアクションという単位で行ったり来たりをカウントする表現自体が、少し古臭く見えた瞬間があった。
     人間と機械のつながりをアクション単位で説明するよりは、場のポテンシャルの方程式みたいなことで、定常的に釣り合っている状態がいくつかあって、その落ち着き方がいろいろある、という理解の方が楽なんだろうと思って。
    人間中心論を超えていく
    田川 落合くんにとってインタラクションが古臭く見えたのは、自分の創造性が「人間機械系」から「機械系」に移ったということなの?
    落合 むしろ人間を機械で分解してやったら、結局は機械系の真理に落ちるんじゃないかという気づきがあったんですよ。人工知能がそのうち人間の仕組みを解明してくるとするならば、人間はどんな感じに分解されていくんだろうって。人間って部品だし、フィルターでできていると思うから。
     人間もきっと、人工知能のディープラーニングと全く同じような方程式で記述されるようになる。そう思ったとき、「場」とか「物理」みたいなもので人間を捉え直していく表現手法があるだろうと思ったんです。そこが2011年。おっしゃるとおり、この年以降は「波」しかやっていないんですよ。
      そこからの系譜にいったん区切りが付いたのが今年の頭で、今の俺の中での流行は「人間中心論を超えて場をどう捉えるか」になっているんです。
    田川 音波も光も波として統一的な理解ができるけど、それに対して人間の知覚は統一的じゃないじゃない。音は鼓膜で聴くし、光はやっぱり目で捉えるしって。そして、その中で浮かび上がる知覚的イメージはお互いに断絶してて。面白いよね。
    落合 色っていうのが一番ヘンなもの。おそらく自然界に存在しなくて、波長ベースの強度分布しかないにも関わらず、人間は赤とか青とか、全く違うものとして認識しているんです。本当はグレースケールで見えるはずじゃないですか。それなのに、波長をセパレートして混ぜ合わせるっていうオリジナリティの高いことをしている。
       その人間の時間尺度とか空間尺度とか、振動に対する感覚って独特。人間って揺れているもの以外、知覚できないんですよね。目ですら動きがないと全く知覚できないから。
    田川 落合くん、ロケットの打ち上げって見に行ったことある?
    落合 1回あります。種子島で。
    田川 俺も-Ⅱを結構な至近距離で見たんだけど、あの時に、聴覚と体表の触覚が連続した瞬間を味わった。分かる気するでしょ?
    落合 わかります。「あ、揺れてるんだ」って。体感で1Hzくらいの波!
    田川 ドォォーーーッ!と来て、自分の身体が揺れる。「音って空気がリアルに振動するんだ!」みたいなね。人間は自分たちが日常生きてる時に、合理的に反応する感覚器だけが今残ってるけど、エネルギーの爆発的な放出を前にすると、人間の感覚器と、それに由来する知覚イメージの断絶は吹っ飛ぶと、その時に思ったんだよね。
    落合 その合理的な反応ってきっと、生活の中に閉じ込められた弱いエネルギーたちの集まりなんで、結構セパレートされてる。
      でも、強力なプラズマ場とか作ってやって、もう何だかわからない猛烈なエネルギーが出てきて、下手するとエックス線とかも出てるんですけど(笑)、そうなると「あ、人間にとってはこれは音でも光でも触覚でもない何かなんだな」みたいなのがあって、それが俺にとって面白かったんですよ。
    田川 そういう意味では、全ては波と釣り合いで考え得るよね。
    落合 まぁ、重力波まではそうでしょうね。
    人間機械系から、機械人間系へ
    落合 しかし、場の釣り合いっていう話題が田川さんからも出てくるのがさすがっていうか慧眼ですよね。
    田川 インタラクティブな、コンピュータの入ったプロダクトを作っていくときには、必ずそんなイメージで考えるわけ。インタラクティブではないプロダクトの場合にはなおさら、それが際立つ。
     例えば今、僕がこの椅子に座ってるけど、自分の脚と椅子の脚とで合計6つの脚で着地をしていて、その地面と力の釣り合いを保っているわけで、僕と椅子は安定的に一体化しているよね。その安定状態を離脱して、次の安定状態に行くっていうのが「移動」とか「動き」ってことになる。
    落合 状態遷移図で書く話になってくる。
    田川 多分、全地球上に存在しているオブジェクトは、全部が状態の相関の中で理解できる。次、僕がコップを持つっていうところから鉛筆で書くっていうところまで、それで理解できる。
    落合 そうですよね、場の釣り合いの動きだけで。
    田川 人間機械系のモデルってさ、やっぱり通信速度とかCPUのクロック数とかセンシングの速度とか、ロジックが一回転するステップにすごい時間がかかってた時代の物差しだと思うんだよね。
     だから、その時代の人たちのレイテンシー(遅延時間)に対する考え方も、やっぱりレイテンシーがあるからそれを意識するんだけど、もはやそれがゼロになった人たちってレイテンシーのことなんて考えないと思うんだよね。
    落合 ああ、そうですね。
    田川 人間の脳内でコンマ2秒くらいの認知の遅延が起こってる時に、それでも、刻々と変化する周囲の状況に対応するために、人間の側は先読みをしながら動く。つまり、人間の側は仮説モデルを頭の中に持っているから、プロダクトの側はできるだけそれに合わせた動きになるようにデザインする、というのが基本なわけじゃない。
     全くそれが一致したとき、つまり、人間の脳内で構築されたモデルとプロダクトの動きのズレが完璧に一致したときに何が起こるのか。それは「釣り合っている」というイメージに近い。それを何と呼ぶのかっていう世界。釣り合ってるってことはさ、場的にいくと一体化してるわけ。
    落合 一体化してますよね。安定状態にある。
    田川 それともうひとつ大きな流れとしては、かつての人間機械系が、主客逆転で機械人間系に移っていくことなんだと思う。
     そうなったとき、これは逆説的なんだけど、コンピュータサイエンティストたちは人間を理解するというフェーズに戻らなきゃいけない可能性がある。なぜなら、いわゆる関数として人間を見たときに「この人たちをどうやって命令通りに動かすのか」みたいなことで。
     それは従来、政治家とかが取り組んできたことだと思うんだけれども、同じことをコンピュータサイエンティストたちが機械人間系をうまく機能させるために考えなきゃいけないのかもしれないね。全く新しいフィールドがなんか開けてくる(笑)。
    落合 政治と立法ですよね! 俺も最近講演会で政治の話すること増えました。人間がやってきたコーディングの過程、法律ってコードだと思うんですけど、それをこっち側が考えて緩めたりしないといけないんだろうなって、最近はすごく思うようになってきました。
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  • 宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第二回 チームラボと「秩序なきピース」(前編)(9)【金曜日配信】

    2018-01-12 07:00  
    550pt

    本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。従来イメージされている「知性」とは異なる「身体的な知」へのアプローチを試みる猪子寿之さん率いるチームラボの作品群。「世界」と「人」の境界を無化しようとする猪子さんの取り組みを宇野常寛が解説します。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号)
    9 身体的な知をめぐって
     ハンケのそれが人間の意識に、理性に、言語化された知性にアプローチするものなら、猪子のそれは無意識に、感性に、非言語的な知性にアプローチする。たとえば猪子が故郷である徳島に対して行ったアプローチは、川と森から生まれた地誌に対してのものであり、徳島という城下町の文字化された歴史に対してのものではない。
     この差異は猪子の考える「人間」観に由来している。

    〈言葉の領域とか論理的な領域というのは、知的領域の中で最も低水準なものにもかかわらず、みんなそれを最も高度だと言い、それ以外のことを低俗だと扱っている事自体がまったくおかしいと思う。
     たとえば、人間がつまずいて転びかけた時に、何かものがあればつかんで転ばないようにするし、受け身もとる。それって、すごい量の情報を人間は過去の経験とか含めて処理していて、コンピューターには全然真似ができない。知的レベルははるかに高度だと思うけど。〉(14)

     人間のもっとも高度な知性は非言語領域にこそ存在し、情報技術の発展の意義は非言語的な領域の知性にアプローチし得ることにこそ意義があると、猪子は考えるのだ。
     この非言語的な知性を「身体的な知」と呼ぶ。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第22回リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 後編<番外編>【毎月第2木曜配信】

    2018-01-11 07:00  
    550pt

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。これまでゲームについて語ってきた井上さんが、番外編としてゲームに強く影響を受けている近年の小説について、ジャンル別に分類/分析します。
    (2)現代知識チート:現代知識を用いることで最強になる話。
    「そろそろ転生しそうな予感がしている人必読。異世界に持っていきたいこれらの知識」という売り文句で、今年の春に『現代知識チートマニュアル』(山北篤、新紀元社)という本が発刊された。
    ▲『現代知識チートマニュアル』(山北篤、新紀元社)
    ファンタジー異世界に転生してしまった人が参照するためのマニュアル本という体で作られており、原始的な火薬の製法から蒸気機関の作り方まで書かれた分厚い内容である。
    筆者は、リリースされてすぐに「そう!これだよ!こういう本が読みたかった!」(というか、むしろこういう内容を自分で書きたかった!)と感じ、貪るように読み、たいへん勉強になった。
    もちろん、異世界に転生する予定はないのだが、なぜこんな一人ウィキペディアのような本が面白く思えるのか。それは、「現代知識チート」作品群を読みまくっているからに他ならない。
    橙乃ままれが2ちゃんねるに掲載した『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』(通称『まおゆう』)のヒットあたりから、なんちゃって中世ファンタジー世界に行って現代知識を駆使して、活躍するというフォーマットの物語が、鬼のように出てきた。これらの作品のなかでは軍オタ的な知識はもちろんのこと経済学、政治学、農学、化学、物理学など多彩な知識が動員されて、中世ファンタジー世界に革命を起こしていく。ある意味で、ナイーヴな開発経済学の夢みたいな小説群ともいえるのだが、割り切って読むことができれば技術科学史教養のための学習漫画の一種のようなものだという気分で、楽しく読める。こういう作品を大量に読んでいた人々にとっては、古代から現代における重要なイノベーションをなるべくコンパクトにまとめた『現代知識チートマニュアル』のような本は「そうそう、こういうまとめが欲しかったんだよね」という内容になっている。
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  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.1.10

    2018-01-10 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★ メールテーマ「2018年にやりたいこと」 今週の1本「映画:勝手にふるえてろ」 アシナビコーナー「井本光俊、世界を語る」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日1月10日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:井本光俊(編集者)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご感想、
  • 宮台真司×宇野常寛 〈母性〉と〈性愛〉のディゾナンス──「母性のディストピア」の突破口を探して(中編)

    2018-01-10 07:00  
    550pt

    宇野常寛の著書『母性のディストピア』をテーマに、社会学者の宮台真司さんと宇野常寛の対談を3回にわたってお届けします。中編では、フェイク父性を胎内に囲い込むディストピア的な〈母性〉を超克する可能性を、高橋留美子と『この世界の片隅に』を手がかりにしながら議論します。
    高橋留美子とディストピア化する〈母性〉
    ▲『母性のディストピア』
    宮台 『母性のディストピア』で押井作品を通して論じられた高橋留美子は、僕にとって古くから大切な論点です。『サブカルチャー神話解体』(1992年連載)で書いた通り、70年代半ば以降の松本零士アニメブームに彼女は激怒します。「母なる女に見守られて孤独な男が旅をする」という十年遅れのモチーフが逆鱗に触れたのです。
    ▲『増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在』
     『サブカル神話~』で引いた彼女の発言を読むと、60年代で廃れたはずの「母なる女/旅する男」という陳腐な図式が、「大宇宙という非日常」を舞台とすることで──謂わば包み紙を変えただけで──再発されて現に売れてしまっている事実に、フェミニズム的というよりも、創作者の倫理において反発しているのが分かります。
     高橋留美子が嫌悪した「母なる女が身守る旅する男」図式は、宇野さんが批判する〈母性に庇護されたフェイク父性〉図式と同一で、僕が知る限り宇野さんと同じ苛立ちを最初に表明したのは高橋です。彼女は凡庸な図式の反復に対抗すべく、奔放に生きるラムを描きました。僕の言葉だと、母なる女=〈便所女〉、ラム=〈奔放女〉です。
     最初に断ると、僕の言葉は性的に積極的な女が〈便所女〉と〈奔放女〉に分類される事実に注目したもの。僕の言葉が汚いのは〈便所女〉が大多数なのを告発するためです。〈便所女〉は高橋が嫌悪する「旅する男を身守る母なる女」で、宇野さんが批判する〈フェイク父性を庇護する母性〉です。こうして宇野さんと僕の問題設定は通底します。
     『サブカル神話~』で示したように、(1)「旅する男を身守る母なる女」を切断すべく「大世界&非日常」の結合から「小世界&日常」の結合へとシフトした高橋に対して、(2)これをパロって「小世界&非日常」の結合へとエロ化したのがコミケ的二次創作で、(3)高橋世界の再解釈で「大世界&日常」の結合を持ち込んだのが押井守です。
    ▲『サブカルチャー神話解体』第3章 青少年マンガ分析編から (なおローマ数字は、各象限が出現した歴史的順序)
     僕の言葉で言えば、高橋留美子は、男視点の〈便所女〉に代えて女視点の〈奔放女〉の形象を持ち込んだのですが、宇野さんの問題設定に引きつければ、そのことで戦後=〈フェイク父性を庇護する母性〉を切断したのです。彼女はフェイク父性を退けるために、男視点にありがちな「大世界=大宇宙」と「非日常=戦争」を共に退けた訳です。
     そんな文脈を持つ「小世界&日常」を誤読、「終わりなき日常=戦後のぬるま湯」と解釈したのが押井守です。『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で彼は、「小世界&日常」という母の胎内で男はどう生きるか、つまり、去勢された男がいかに自己回復を遂げ得るかを考えた。高橋留美子がこの作品を嫌ったのは有名です。

    ▲『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
     すると、高橋が「小世界&日常」、押井が「大世界&日常」となるのは、必然的です。高橋も押井も「小世界での戯れ」を微に入り細に入り描きますが、高橋の場合は「小世界が閉じている」のに対し、押井の場合は「小世界の外に大世界がある」。そして「本当は歴史が大きく動いているのに、我々は小世界から出られない」となります。
     宇野さんも御存じの通り、そもそも僕の「終わりなき日常」概念自体、「戦後のぬるま湯」への苛立ちという麻原彰晃的=オウム的な男視点を切断すべく、「まったりとした援交女子高生」という女視点を賞揚したもの。僕は〈まったり革命〉と呼んでいました。宇野さんがそれを〈フェイク父性を庇護する母性〉の切断という歴史的所作として再確認してくれて、感謝しています。
     『サブカル神話~』と『終わりなき日常を生きろ』(1995年 )が典型ですが、僕は「男になる」「近代になる」という問題設定を否定します。その意味で僕の出発点は高橋留美子ですが、宇野さんの出発点が高橋留美子なのか押井守なのか微妙です。押井守的な男視点を否定しつつ、高橋留美子的な女視点を肯定する訳でもないからです。
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