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本日19:30〜生放送! 山口揚平さんと、2020年以降の経済と個人の生存戦略について考えます
2020-06-16 11:30本日19:30〜、ゲストに山口揚平さんをお迎えした生放送があります!https://live.nicovideo.jp/watch/lv326030665新型コロナウィルスによるパンデミックは、世界経済と社会生活をどう変えるのか?
この危機を個人はどう生き抜くべきなのか。
山口さんと、大きな構造の問題から小さな生活の問題まで、アフター2020を考えます。▽ゲストプロフィール
山口揚平(やまぐち・ようへい)
ブルー・マーリン・パートナーズ株式会社 代表取締役、株式会社シェアーズ 代表取締役。
早稲田大学政治経済学部。東京大学大学院修士。1999年より大手コンサルティング会社でM&Aに従事し、カネボウやダイエーなどの企業再生に携わった後、独立・起業。企業の実態を可視化するサイト「シェアーズ」を運営し、証券会社や個人投資家に情報を提供する。2010年に同事業を売却。現在は、コンサルティング会社を -
不自由律|高佐一慈
2020-06-16 07:00550pt
お笑いコンビ、ザ・ギースの高佐一慈さんが日常で出会うふとしたおかしみを書き留めていく連載「誰にでもできる簡単なエッセイ」。第6回は、たった一人での生配信ライブ「不自由律」を終えたばかりの高佐さんによる、ライブ開催までの奮闘記です。涙なしには読めません。
高佐一慈 誰にでもできる簡単なエッセイ第6回 不自由律
2020年6月3日水曜日夜19時。下北沢ザ・スズナリという老舗の劇場で「不自由律」なるタイトルのライブを行った。コンセプトは、劇場内にたった一人で生配信ライブを行うというものだ。本番はお客さん無しの無観客ライブな上、スタッフさんもいない、劇場内のドアは解放という三密超回避作戦だ。自宅から劇場へも電車は使わず、車で向かう。 僕自身、正直ここまでやる必要はないと思っているのだが、この形式が上手くいけば、緊急事態宣言が発令されたとしてもライブを開催し続けられると思った。
実際、4月中旬はこのくらいの厳戒態勢で臨まないといけない風潮があった。 そう、このライブは元々4月14日〜19日に開催する予定だったのだ。 本来この期間に、ザ・ギース単独ライブ「自由律」を行うはずだったのだが、やむなく中止となったため、タイトルを引き継ぐ形で「不自由律」と銘打ち、この無謀なライブを行う計画を立てていた。
遡ること2ヶ月半前。2020年3月31日。ギース、事務所の社長、マネージャーで話し合い、単独ライブ中止の決定をした。その2週間前あたりから、そうするしかない、それがベストな判断だとは薄々気づいてはいたものの、いざ中止と決定するとそれまでライブに向けて張っていた力がみるみる脱力していった。 その頃はどの芸人も劇団もアーティストも、ライブの中止を発表していた。 これはしょうがない状況であるし、いやしょうがないというか、中止にするべきだと自然に思ったし、芸人という職業もといエンタメなんて緊急事態な状況においては何ら必要の無いものなんだなぁと思った。それに「こんな状況だからこそ、ただ自粛するだけじゃなく、何かしら動くことで、エンタメの力を発揮しよう! それをお客さんも望んでいるはずだ!」と、何の疑いもなく、使命感に駆られた熱いエンタメ魂を放出することは、ただのエゴだなとも思ってしまった。こんな時に何も出来ないのがエンタメ界に身を置く者の宿命だ。一番の目的はウイルスを抑え込むことなんだから、勝手に使命感なんて抱くなよ、と。
しかし。これが1〜2年も続くと話は変わってくる。この状況はワクチンや特効薬が出来るまでのことと、その時の僕は思っていたので、だとしたらウイルスと共存して生きていかないとと思った。家でじっとしているのが一番安全で賢い方法だとは理解した上で、その中で生きていくための手段を講じないといけない。
4月に入り、どうやって生きていくかを毎日考えた。何度考えても人の命より勝るものはなかった。そして絞り出して出た答えがこのライブだった。 当初はギースで代替ライブをやろうと思っていたのだが、この状況に関しては人によって温度差がある。その人を取り巻く環境であったり、その人自身の経済状況であったり。もし僕が子供や両親と暮らしていて、1年やり過ごす蓄えもあるのなら、ライブをやろうなどとは考えなかったかもしれない。 結局、人を巻き込まない形、つまり僕がたった一人で開催するということになった。 ハープを弾き続けるライブ、石膏でダビデ像を作り続けるライブ。いろんな案を経て、4月14日〜19日の元々の単独ライブの開演時間に合わせて、45分間の無観客ライブを配信する、という結論になった。 45分間8ステだ。あと10日も無い。 無我夢中で考えた。 そして本番まであと1週間というところで、大枠の構成が出来た。配信なので、毎ステ内容を変えなければならないということもあり、構成は一緒で、ネタの中身を全部変えることにした。8ステかけての連続物の演目も用意した。あとは1週間で細かいボケを出すだけ出しまくる作業だ。
しかし、その日の夜に電話があり、配信という形でも劇場の使用が不可になったという連絡があった。 残念という気持ち以上に、ホッとしている自分がいた。怖かったのだ。 また別の形を模索する毎日だった。 それから緊急事態宣言が発令され、自粛期間が続いた。そして、そろそろ緊急事態宣言が解除されそうという動きになってきた頃だ。
そこで再びお話が来た。スズナリからだ。6月から劇場を再開するので、もし何かあれば生配信ライブをやりませんか? というお話だった。現在5月中旬。 世の中では自粛警察のニュースが出始め、ライブや営業を再開しようとしている人への風当たりが強い時期でもあった。 そこで、一旦ゴミ箱に捨てた「不自由律」を拾いなおし、再構築することにした。 開催日時は6月3日。1ステ限りの生配信。 この2ヶ月で生活様式はガラッと変わり、ほとんどの仕事がリモートでの配信や収録に取って代わり、中でもZoomを使っての配信というライブ形式が、全配信ライブのほとんどを占めていた。僕もそのテクノロジーにあやかり、トーク配信をしたり、別の企画配信に参加したりした。Zoomはめちゃくちゃ便利なツールで、なんで今まで知らなかったんだろうというくらい重宝しているのだけれども、このツールはそもそもオンライン会議用アプリとして開発されたものなので、ライブを配信するには、画質が悪かったり会話にタイムラグが生じたりという欠点もある。慣れてくればそれも気にならなくなってくるのだが、やはりストレスなく100%すっきりと見れるかというとそれには及ばない。 だからこそちょっと忘れかけていたであろう、劇場でお笑いや芝居や音楽を鑑賞するという、あの感覚。あの感覚を感じてもらいつつ、配信という形を生かしたものを提供できたなら。それは今後のライブ生配信の可能性を広げられるかもしれない。それをするのは別に僕じゃなくてもいいのだが、まだ誰も手をつけていないことだったので、やってみようと思った。
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「D」は〇〇〇〇の「D」『頭文字D』| 宇野常寛
2020-06-15 07:00550pt
今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回は、しげの秀一による「走り屋」たちの世界を描いた漫画『頭文字D』を取り上げます。かつて「車」が背負っていたアメリカ的な「大人の男」の成熟像への憧れを、本作の物語はいかに覆していったのか。ゼロ年代への助走としての「走り屋」コミュニティが持つ意味と、タイトルに込められた「D」の謎に迫ります。 ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
宇野常寛コレクション vol.24「D」は〇〇〇〇の「D」『頭文字D』
正月休みに組み立てるレゴとプラモデルを買いに、池袋に出かけた。たぶん、大晦日のことだったと思う。僕は混みあうビックカメラの6階でレゴ・アーキテクチャーのマリーナ・ベイ・サンズと、1/144スケールのガンダムF91を手にして浮かれていた。そして6人待ちのレジに並んで、若干の苛立ちを覚えていたとき、あの車と僕は再会したのだ。 AE86 スプリンタートレノ、通称「ハチロク」。白黒のツートンカラーに塗り分けられたこのタイプ(パンダトレノ)は90年代に全国の「走り屋」たちに愛された名車にして、そんな走り屋たちの世界を題材に展開し、彼らのバイブルとなった漫画『頭文字D』の主人公・藤原拓海の愛車だ。 僕が目にしたのはレジ前のトミカコーナーに積まれた「ハチロク」藤原拓海仕様のミニカーだった。そう、国内を代表する児童向けミニカーシリーズ「トミカ」には、漫画・アニメなどに登場する車を「ドリームトミカ」として発売しているのだが、この年の秋に『頭文字D』のハチロクがラインナップに追加されたのだ。 思わず手に取りながら、そういえばこの漫画の連載も終わったんだな、と思い出していた。この年の夏に18年続いた『頭文字D』の物語はようやく完結を迎えていたのだ。この漫画の連載がヤングマガジンではじまったとき、僕は高校2年生だった。自動車の運転に憧れていても、法律上免許を取ることが許されていない年齢だった。しかし連載が始まった1995年の夏、高校3年生という設定で既に18歳を迎えていた藤原拓海は、免許をとってはじめての夏を迎えていた。作中で物語の舞台は「90年代」としか明かされていないが、仮に連載開始時の1995年だと考えれば拓海は僕と同世代、ひとつ年上のお兄さんにあたる。そんな拓海は自動車の購入計画に胸を弾ませる級友を「何がそんなに楽しいのか」と冷ややかに眺めていた。その拓海の冷めた感想は、実は僕がこの漫画に出会ったときの、そして僕が自動車というものに対して抱いていた感想にそっくりだった。そう、当時の僕は自動車にも、その運転にもまるで興味がない17歳だった。
一昨年(2012年)の秋、トヨタ自動車社長の豊田章男氏が「車を持てば、女性にもてると思う」と発言しインターネットの若者層から強い反発を浴びた。豊田社長のこの発言は「若者の車離れ」を食い止めることをテーマに設定したイベントでの発言だったという。しかし、豊田社長は分かっていない。「車を持てば、女性にもてる」という発想が過去のものになったからこそ、若者の「車離れ」は起ったのだ。 戦後という長くて短い時間、自動車はアメリカ的な豊かな社会の象徴であり、それを実力で獲得できる「大人の男」の象徴だった。少年は安価で小回りの利くオートバイに憧れ、やがて自動車に乗り換えて大人の男になっていく。助手席に恋人を乗せるところからスタートして、やがて家族のためにファミリーカーに乗り換え、子育てを終えたあとは趣味の高級車に乗り換える……。そんな時代がこの国にも「あった」のだ。 そして拓海や僕の世代は、そんな物語の重力が失われた最初の世代でもあったはずだ。僕からしてみると、まず、男が女を助手席に乗せて自分の優位を示す、というマッチョな発想についていけない。そして、高校に上がるころにはすっかりバブルも崩壊していた僕らが、いまさら自動車にアメリカ的な豊かな消費生活を見ることなんか、あるわけがない。僕らが思春期を迎えたのは、一度アメリカを追い越したはいいものの、調子に乗ってスピードを出しすぎた結果コーナーを曲りきれず、ガードレールを突き破って谷底に転落した後の時代だ。古本屋で見つけた片岡義男の小説をめくったときは、昔の日本はこうだったのかと文化史の教科書のつもりで読んだ。それがヒルクライムではなく、ダウンヒルの時代に思春期を送った僕ら世代のリアリティだ。僕らにとって自動車を運転することで重要なのは、速く、力強く坂を上がることではなく、ガードレールを突き破らないように器用に坂を下ることだった。 だから僕も、そして藤原拓海もまた、そんな器用にやり遂げることだけを要求される世界=自動車の運転にまったく面白みを感じていなかったのだ。 その結果、藤原拓海はまったく自覚のないままに卓越したドライビングテクニックを身に付けていた。どうやらかつてプロのレーサーだったらしい父親によって、家業のとうふ屋の納品を代行するという名目で拓海は14歳の頃から自動車の運転を身に付けていた。毎朝、夜明け前に峠を全力疾走していた彼は自分でも気が付かない間にダウンヒルのスペシャリストになっていたのだ。しかし拓海にとってそれは単に効率よく家業の手伝いをこなすための技術であり、無味乾燥な作業だった。 そしてこの『頭文字D』はそんな拓海少年が車の快楽に目覚め、成長していく物語として幕を開ける。少なくとも、物語の開始時はそう構想されていたはずだ。かつて『バリバリ伝説』でオートバイを題材に少年の成長物語を描いたしげの秀一は、おそらくオートバイや自動車がかつて背負っていた物語を失いつつあることを察知して、その回復をこの作品を通して描こうとしていたのではないかと僕は思う。 だからこそ、拓海は父親から受け継いだハチロク(当時すでにレトロカーとして扱われていた)を愛車にしなければならなかったのだ。なぜならば本作は喪われた「車」の物語を回復するための作品としてはじまったのだから。 そして拓海が思いを寄せるクラスメートの女子(なつき)は高級車を乗り回す中年男性と援助交際をしていなければならなかったのだ。なぜならば、拓海は強い大人の男に成長して、間違った歳の取り方をした大人の男から彼女の心を奪い取らなければいけなかったのだから。 実際に、藤原拓海は走り屋の世界に触れることで、自動車の快楽に目覚めることで社会化し、やがて無難にやり過ごしていた自身の父子家庭や、なつきの問題に向き合っていく。 だがそんなアナクロな世界観が苦手で、僕は長い時間この漫画のいい読者ではなかった。拓海はやがていわゆる「ラスボス」としての父親と対決し、彼に勝利するのだろう。そして仲間たちに見守られながら、地元(群馬)を去り、レーサーになるために東京に発つのだろう。僕はこの物語の展開を勝手にそう決めつけて、そんなありきたりな、そしてアナクロな成長物語にリアリティを感じないと心の中で切り捨てていたのだ。 しかし、それは愚かな判断だった。
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【特別寄稿】三宅陽一郎「解題『正解するカド』」【PLANETSアーカイブス】
2020-06-12 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、2017年放送のアニメ『正解するカド』について、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんによる寄稿をお届けします。『2001年宇宙の旅』や『スタートレック』といったSF作品の系譜を継ぐ、正統的な「ファーストコンタクトもの」である本作。異方存在ヤハクィザシュニナの現代性、そして、この物語が最後に辿り着いた「正解」とは?(※注意:本記事には作品に関するネタバレがあります)※この記事は2017年7月12日に配信した記事の再配信です。
カド
『正解するカド』は、大ヒットとなったフル3D劇場アニメーション『楽園追放』(2014年)を放った東映アニメーションが、同作品の野口光一プロデューサーの指揮のもと、ユニークな作品群で注目を集める野崎まど氏を脚本に擁し、満を持して放つフル3Dテレビアニメーションである。ゲームエンジンUnity3Dを用いた計算による表現が「カド」の時間結晶運動の表現に用いられている。
『正解するカド』は彼方からやってくる存在「異方」との出会いの物語である。それは極めて仕組まれた出会いであり、「ファーストコンタクト」と言ってもまったく一方的な出会いである。それは降臨と言ってもいいし「押しかける」と言ってもいいし、あるいは「取り立てる」と言うべきかもしれない。何百億年と異方から長らく宇宙を見守っていた存在が、満を持して会いに来た、そんな出会いなのである。
図 「正解するカド」設定見取り図
出現する異次元からの立方体は「カド」と呼ばれる、多次元の存在が幾重にも折りたたまれたフラクタル立方体である。第一話で飛行機をまるごと飲み込んでしまうが、乗客の安全は保障される。飛行機は一つの比喩であり、いつでも地球全体を飲み込めることを暗示している。「カド」は人類を超えた圧倒的な存在であることを証明したのだ。「カド」は3次元の空間ではなく、この宇宙とは異なる物理法則を持つより高次元の存在(3+37次元)である。「カド」によって「異方」より来たりしは「ヤハクィザシュニナ」一人である。その高次元の存在体は、人間の警戒心を抑えるために白い装束に身を包み、真っ白い髪を持つ男性として顕現する。人間の言語を一瞬で学習し、人間とのコンタクトを始める。物語はこのカドを代表する「ヤハクィザシュニナ」と、人類を代表して外務省 国連政策課の交渉官(ネゴシエーター)である「真道幸路朗(しんどう・こうじろう)」との交渉を軸として展開される。
ヤハクィザシュニナ(1)
ヤハクィザシュニナの東洋的な姿、そして彼がそこから来た場所である「異方」はその根底に東洋的神話を思わせる。一つの世界に、その世界に属さない客人(まろうど)、あるいは「まれびと」として現れる存在である。世界に新しい兆しをもたらし、去って行く存在である。
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アメリカにとって大学とは何か〜アメリカにおける大学観の変遷 | 小山虎
2020-06-11 07:00550pt
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第9回。これまで中欧からアメリカに渡った学問や思想の潮流や担い手たちを辿ってきましたが、今回は知の生産を担う「大学」制度に光を当てます。宗主国イギリスのカレッジ制度を範に出発したアメリカの大学は、南北戦争後の「ドイツ化」の波を経て、次第に独自の発展を遂げていきます。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第9回 アメリカにとって大学とは何か〜アメリカにおける大学観の変遷
どうしてENIACは大学で開発されたのか?
コンピューターの歴史にその名を刻むENIACが開発されたのはペンシルバニア大学である。現在の視点からすると、大学がコンピューターを開発することに何の奇妙さも見出されないだろう。じっさい、Google、Apple、MicrosoftといったIT界の巨人たちはみな、その誕生の物語が大学と結びついている。 しかし、改めて考えてみると、今となっては常識にしか見えないことにうちに隠れているミステリーが浮かび上がってくる。例えば、試しに考えてみて欲しい。ENIACが高校で開発されるなどということは、ちょっと想像できないのではないだろうが。もちろん、小規模のものなら高校でも可能だったかもしれないが、周知の通り、ENIACは巨大であり(設置には167平方mのスペースが必要だったという)、開発のためのスペースを確保することすら容易ではない。しかし、なぜ高校では不可能なものが大学では可能になるのだろうか。もし大学が高校卒業後に学ぶ次の学校に過ぎないのなら、高校と同じような困難があるはずである。問題はスペースだけではない。開発のための予算がどこから入手するのか。誰が何のために開発するのか。大学では中学や高校とは違って、こうしたことは問題にならない。その理由はなぜかというと、大学は教育だけではなく、研究もおこなう機関だからだ。 くどくど述べたが、大学では教育とともに研究もなされていることは、大学院に進学した人や理系の研究室に所属したことのある人には、改めて述べるようなことではないだろう。だが、ここで立ち止まらず、さらに考えて欲しい。どうして大学では、高校までと異なり、研究もおこなわれているのだろうか。そもそもどうして学校で研究もする必要があるのだろうか。 コンピューター誕生の背景には、今となっては当たり前の、「研究機関としての大学」の存在がある。だがそれは、大学という制度が誕生した当初からのものではなかった。コンピューター、そしてコンピューター・サイエンスという学問は、アメリカに「研究機関としての大学」が根づいたことによって初めて誕生したものだ。今回はこのことに焦点を当ててみたい。
大学の歴史〜世界最古の大学からアメリカ最古の大学まで
大学の歴史は古い。世界最古の大学と言われているのはイタリアのボローニャ大学であり、11世紀に設立されたとされている(正確な年月は残されていない)。ボローニャに続くのはパリ大学、そしてオックスフォード大学であり、13世紀までにはヨーロッパの各地で大学が設立されたことがわかっている。ただし、ややこしいことに、設立当時の段階では、これらは大学とは言えない。まだ大学制度が確立されていなかったからだ。 じつのところ、設立された時点では、ボローニャ大学もパリ大学も当時世界各地にあった学校のひとつに過ぎず、世界最古と呼べる要素は何ひとつない。日本では、奈良時代(8世紀)の時点で「大学寮」と呼ばれる学校があり、大学寮で教える役職として「博士」が設置されている。その意味では、日本の「大学」の方がヨーロッパよりよっぽど歴史が古いのである。 もちろん、その名称だけを理由に、日本にはヨーロッパよりも古くから大学があった、と言うのは無理が過ぎる。事態は単に、明治期にヨーロッパから大学制度が輸入された時に、奈良時代に存在した由緒ある言葉を訳語として利用した、というだけである。そもそもヨーロッパでも、ボローニャ大学ができるよりもずっと前から同じような学校は存在した。ボローニャ大学は法学校として始まるが、もちろん最初の法学校ではない。ローマにはそのずっと前から法学校があった。では、どうしてボローニャ大学は最古の大学だとされるのだろうか? 13世紀に入ると、こうした各種学校のうち一定の基準を満たしたものに対して、ローマ教皇が「大学」として認可を与え始める(といっても、まだ「大学(university)」という名称は用いられていないのだが)。最初に認可されたのはフランスのトゥールーズ大学、次がモンペリエ大学。それ以前から名声を獲得していたボローニャ大学やパリ大学も負けじと認可を求め、無事認可される(奇妙なことに、オックスフォード大学は何度か認可を求めたにもかかわらず、結局一度も認可されることがなかった)。ローマ教皇による認可はその後、ヨーロッパ中に広まっていく。こうしてローマ教皇から認可を得た大学のうち、もっとも古くから存在していたことが確認されているのがボローニャ大学だ。ボローニャ大学が最古の大学とされるのは、このような理由からなのである。 ローマ教皇が認可していたということからもわかるように、初期の大学で重要な地位を占めていた学問は神学だった。13世紀ごろ、教会の神父やその上の司教になるためには神学をしっかり学ぶことが求められるようになり、そのための「品質保証」をしてくれる学校を定める必要が生まれていたのだ。その後もずっと、聖職者を育成することは大学の大きな役割として残り続ける。今の日本の大学でも神学部を持つものがあるぐらいだ。 現代の日本に生きる我々にはイメージしづらいが、建国当時のアメリカでひとつの問題となったのは聖職者の育成だ。前回の連載でも少し触れたが、アメリカ建国はピューリタンたちによって始められた。毎週日曜には教会の礼拝に参加するような敬虔なキリスト教徒である彼らの生活にとって、聖職者は不可欠である。そして上述のように、聖職者になるには大学で必要な課程を修了する必要があった。こうした理由により、当時のマサチューセッツ入植地政府は大学の設立を決定する。1636年のことだ。だが、大学のための土地は確保したものの、大学設立を進めるための予算が足りず、計画は頓挫する。 2年後、状況が変化する。ジョン・ハーバードという人物が、大学設立のためとして莫大な遺産を寄贈するのだ。その額は入植地政府の1年間の予算に相当するほどだったという。こうしてアメリカで最初の大学が設立される。それがハーバード大学である。ジョン・ハーバードはイギリス生まれであり、ケンブリッジ大学の卒業生だった。だからハーバード大学はケンブリッジ大学をモデルとして設立される。ハーバード大学が立地する土地の名前もまた、「ケンブリッジ」へと改称される。
「カレッジ」と「大学」の差〜植民地時代のアメリカの大学
エマニュエル・カレッジ(ケンブリッジ大学)の礼拝堂にあるジョン・ハーバードの記念碑Dolly442 at English Wikipedia / CC BY-SA
ハーバード大学はケンブリッジ大学をモデルとしていたが、ケンブリッジ大学全体ではなく、その一部だった。少し細かい話になるが説明しておこう。大学制度は国ごとの違いが大きいため、日本の大学のイメージで捉えていると簡単に誤解してしまうからだ。 ケンブリッジ(およびオックスフォード)大学は、世界でも数少ないカレッジ制を採用した大学である。ざっくりいって、日本の大学が文学部や理学部などの学部によって構成されているのに対し、カレッジ制の大学は学部の代わりにカレッジによって構成されていると理解しておけばよいだろう。 学部とカレッジはある点ではよく似ている。例えば、日本の大学では学部ごとに歴史が異なる。例を挙げると、山口大学で最も古い経済学部の来歴は1905年設立の山口高等商業学校にまでさかのぼるが、最も新しい国際総合科学部が設立されたのは2015年である。一方カレッジ制の大学であるオックスフォード大学で最初にカレッジとして認められたのはマートン・カレッジであり(1274年)、最も新しいカレッジであるパークス・カレッジの設立は2019年である(ちなみに2020年6月現在でまだ一期生すら入学していない)。また、学費や予算、定員が学部ごとに異なるように、カレッジごとに学費や予算、定員もまちまちである。 このようにカレッジは学部と似ているが、最大の違いは、その名称からもわかるように、分野別ではないことである。
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読書のつづき[二〇二〇年三月下旬〜四月上旬] 非常時の日記文学|大見崇晴
2020-06-10 07:00550pt
会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。人生の習慣をも悉く中断させていくコロナ禍の拡大が、日常を日常でないものに変えていく令和二年の春。異常と平常とが奇妙な振れ幅をみせる緊急事態宣言前後の日々は、高見順や永井荷風ら昭和の文人たちが遺した戦時の日記文学への追想を、自ずと引き起こさずにはいられないものでした。
大見崇晴 読書のつづき[二〇二〇年三月下旬〜四月上旬] 非常時の日記文学
二〇二〇年三月下旬
三月×日 ミル『自由論』の新訳が岩波文庫[1]で出るらしい。ロールズの『公正としての正義再説』は岩波現代文庫[2]に収まるそうだ。後者は読んでも私は理解できない気がする。
[1]ミル ジョン・スチュワート・ミル。一八〇六年生、一八七三年没。イギリスの思想家。父親は政治経済学者として著名なジェイムズ・ミル。父の友人であるベンサムの影響を受け、功利主義の代表的な論者となる。女性解放論者としても著名。私生活では人妻であったハリエット・テイラーとの交友ののち、結婚をした。著作におけるテーマは幅広く、主著は『論理学体系』、『経済学原理』、『自由論』、『功利主義論』、『代理制統治論』、『女性の解放』、『自伝』と多岐にわたる。
[2]ロールズ ジョン・ロールズ。一九二一年生、二〇〇二年没。アメリカの学者。二〇世紀中葉以降の政治哲学を代表する人物。一九七一年に出版した『正義論』は、その後の政治哲学を大きく規定している。自由と自由を可能にする分配が主題である。社会的な基本的な財(自由・機会・所得・資産・自尊心の基盤)の分配は、恵まれないひとへの利益にならないかぎり、不平等に分配してはならないとする構想を打ち出したことなどが、大きな論点となった。
三月x日 注文しておいたロラン・バルト[3]『新しい生のほうへ』が届く。だが、これを注文した理由を忘れてしまった。
[3]ロラン・バルト 一九一五年生、一九八〇年没。フランスの批評家。劇作家のブレヒトに感銘を受け、フランスにおけるブレヒトを支持する批評家として頭角を現す。世界的に著名となる契機は小説に関する評論によるものでカミュを論じた『零度のエクリチュール』(一九五三)だった。ほかにはフランスを代表する劇作家ラシーヌを以前と異なる手法を多用して論じた『ラシーヌ論』(一九六三)、「作者の死」について触れた『物語の構造分析』(一九六六)、バルザックの小説『サラジーヌ』を過剰に読み込むことで読書体験自体を展開した『S/Z』(一九七〇)などがある。『ラシーヌ論』では、旧来のアカデミズムを代表する学知ピカールと論争を起こしており、新しい批評を鮮明にしたことは強く記憶される。「新しい小説」(ヌーヴォ・ロマン)と呼ばれるフランスの小説を支持し、伴走した批評家でもあった。写真論や映画論、ファッション論も手掛けており、記号学を広めた。しかし根底には、それまで見落とされてきた観客や読者、消費者といった受容者側に対しての観点を強く打ち出すという点が貫かれており、観客に自発性を促す作劇を心がけていたブレヒトからの影響が強く伺える。その死は交通事故による唐突なものだった。
三月x日 通院。吉祥寺の書店をひととおり巡る。買ったのは以下のとおり。 • 松沢裕作『生きづらい明治社会』 • 青山拓央『分析哲学講義』 • 講談社現代新書『江戸三百年』1~3 • 渡辺慧『認識とパタン』 • 横張誠『侵犯と手袋 「悪の華」裁判』 • 『魯迅案内』 • 『つかこうへいによるつかこうへいの世界』 • 寺山修司・虫明亜呂無『対談 競馬論』 『生きづらい明治社会』[4]は石岡良治[5]さんが推薦されているのを見かけて買ってみた。『侵犯と手袋』は同じ著者の『ボードレール語録』が書名とまったく異なり語録と思えない内容の、奇妙な本で面白く読んだので手にとってみた。『魯迅案内』は竹内好[6]・久野収[7]らの対談が収められていたのが気にかかった。『つかこうへいによるつかこうへいの世界』は例によって買い直し。これで何冊目になるのだろう。何度読んでも『蒲田行進曲』のヤスに柄本明[8]を抜擢するくだりに唸ってしまう。 『対談 競馬論』は書棚から見つからなくなってしまったので、探すより買い直したほうが早いと思ってしまった。そういう買い物。寺山修司[9]も虫明亜呂無[10]も、私より年上のひとまでしか、そんなに読んでいないだろう。読んでいたとしても、なにかを読み落としているのではないか。この二人は変人である。変人の対話というのは、書き起こすひとの実力が試される種類のもので、奇を衒うと、かえって興が削がれる。この本ではそうしたしくじりはあまりなく、ちゃんと面白い。たとえば、次のようなやりとり。
虫明 どういう疑問ですか? 寺山 競馬は、一頭のドラマではなくて、群衆のドラマだということです。これはきわめて重要なことだ。つまり、競馬の楽しみがローマン主義的になってゆけばゆくほど、それへの反発として、もっとぬきさしならない悲劇の翳がちらちらしはじめる。 (中略)虫明 つまり、言うところのレースの展開とか、ペースの均衡とか、コーナリングにまぎれが生まれて勝敗がきまるということのほうが興味の中心になってしまった。(寺山修司・虫明亜呂無『対談 競馬論』)
二人の間で会話として成立しているのだから、驚く。
[4]『生きづらい明治社会』 二〇一八年に岩波書店から岩波ジュニア新書として刊行された書籍。明治維新など開放的な印象が記憶されていることが多い明治時代が、生きるには過酷な時代であったことを地道な検証をもとに示したことが話題となり、二〇一八年度新書大賞の一〇位となった。著者は慶応大学経済学部教授・松澤祐作(一九七六年生)。
[5]石岡良治 一九七二年生。二〇一八年度より早稲田大学文学学術院准教授。美学・藝術学に関する豊富な知見(ヴォリンガー『ゴシック美術形式論』の解説は行き届いたものとして知られる)をもとに、サブカルチャー・ハイカルチャーの区別なく論じる。
[6]竹内好 一九一〇年生、一九七七年没。中国文学者であり、魯迅の代表的な紹介者。東京都立大教授であったが、六〇年安保での国会強行採決への抗議として辞職。一九五〇年代の国民文学論争などでポストコロニアル(アジア・アフリカなどの植民地からの視点)を先駆的に示したことで知られる。
[7]久野収 一九一〇年生、一九九九年没。評論家。戦後民主主義を支持し、市民概念を広めた。思想の科学社の初代社長。体系だった著作がないことでも知られるが、反面『久野収対話史』(一九八八)のような対話を集めた大冊がある。
[8]柄本明 一九四八年生。妻は劇団仲間だった角替和枝、息子は柄本佑と柄本時生。佑の伴侶が安藤サクラ、時生の伴侶が入来茉里であり、皆俳優である。一九七六年に劇団東京乾電池を結成。ベンガル・岩松了・高田純次らと活動。当初はアドリブ劇が主だったとされる。のちに岩松了を作家に据えて騒がしい劇だけでなく「静かな演劇」も主導した。フォークシンガーだった高田渡を敬愛していたことでも著名。
[9]寺山修司 一九三五年生、一九八三年没。歌人、劇作家。演劇集団である天井桟敷を主宰。路上劇が事件になったことや、住居侵入で逮捕されたことでも世間を騒がせた。早稲田大学時代の友人はドラマのシナリオで有名な山田太一。『書を捨て、街へ出よ』で若者を魅了した。彼のもとに集まり世に出たひとは多い。一九七〇年には『あしたのジョー』の力石徹の葬儀委員長を務めるなどサブカルチャーとの縁も深く、竹宮惠子との交流も知られる。大学の短歌会で同席した大橋巨泉が短歌では勝てないと感じ、俳句に転向したことは有名。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」は彼の歌である。この歌が日本に対する愛国歌と安易に捉える読者が多いが、このうたは後に「李康順」という長編叙事詩に組み込まれたように、特定の国家に対する歌ではない(ように寺山が詠みかえた)ことに注意すべきだろう。
[10]虫明亜呂無 一九二三年生、一九九一年没。「むしあけ・あろむ」と訓む。本名。三島由紀夫より強く信頼をされ、『三島由紀夫文学論集』の編集を依頼される。競馬評論として有名となり、タレント活動などで多忙になったのち、一九八三年に脳梗塞で倒れる。その死について触れたエッセイで小林信彦が自身の仲人であったことを明かしている。
三月x日 勤務先近くの図書館に足を運んだら、コロナウィルスの感染防止ということで、返却と予約図書の貸し出ししかしなくなっていた。開架資料を目当てにしていたので、とりあえず戻って、インターネットで書籍を予約することにした。
三月x日 丸善丸の内OAZO店で、安藤礼二[11]推薦図書とポップがあったポ―[12]『ユリイカ』(岩波文庫)を買う。学生時代に『ユリイカ』は目を通した気もするのだが、改めて買ってみると、まったく知らない内容に思える。数年前からプラグマティズム[13]を勉強しているから、ポーの「宇宙」が、ジェイムズ[14]の多元的宇宙論の「宇宙」のようなものとして読めるのが、歳を重ねた証拠か、それとも要らぬ裏読みか。 それにしてもアメリカの書き手というのは不思議だ。時間よりも空間にこだわりを見せる。だから宇宙とかフロンティアといった空間を連想する言葉で考えが表明される。あれはいったいなんなのだろう。
[11]安藤礼二 一九六七年生。編集者ののち文芸評論家。多摩美術大学芸術人類学研究所所員。『神々の闘争 折口信夫論』から継続して折口信夫に関する研究・評論を執筆している。角川文庫にあった折口信夫の著作が新版として角川ソフィア文庫に収まった際に新版解説を担当している。
[12]ポ― エドガー・アラン・ポー。一八〇九年生、一八四九年没。アメリカの作家・詩人・評論家・編集者。「モルグ街の殺人」で探偵小説を発明する。「詩の原理」など作詩法に関する考察はのちの詩人たちに大きな影響を与えた。『ユリイカ』は一九四八年に発表された散文詩。
[13]プラグマティズム アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースによって名付けられた。実用主義とも訳される。
[14]ジェイムズ 一八四二年生、一九一〇年没。アメリカの哲学者、心理学者。弟は小説家のヘンリー・ジェイムズ。ベルグソンやヴィトゲンシュタインなど同時代の哲学者にも大きな影響を及ぼした。
三月x日 植松聖被告に死刑判決が出た[15]。判決前に植松被告が発言したがったそうだが、裁判官から許されなかったそうだ。ニュース記事を追ってみると、マリファナ解禁について語りたかったそうだ。ああ、これでは本当に「マリファナの害について」だな、と思ったが、チェルフィッチュ[16]の初演は二〇〇三年のことだった。もうあれから十五年以上も経過しているのか。時の流れは早い。
[15] 植松聖 相模原障害者施設殺傷事件の犯人。死刑が確定している。
[16] チェルフィッチュ 劇作家・岡田利規が一九九七年に結成、主宰している演劇ユニット。代表作である「三月の5日間」(二〇〇四)は岸田國士戯曲賞をもたらした。同時受賞者は宮藤官九郎。
三月x日 志賀浩二『無限のなかの数学』を読もうとしたが睡魔に襲われ、果たされず。
三月x日 『評伝ウィリアム・フォークナー』なんて翻訳されていたのか。値段もだが、まず分厚さに圧倒されて、この年度末忙しいだろうから読むこともできないだろうと判断して買うのを諦める。
三月x日 バーリン選集を取り出す。ゲルツェン[17]について彼が何を書いていたかを思い出したくなった。
魚類マニアたちは、魚が「生来」飛ぶようにつくられていることを証明しようと努めるかもしれない。しかし、魚は飛ぶようにつくられていない。
それはそうだろう。
[17] ゲルツェン 一八一二年生、一八七〇年没。ロシア人。亡命し諸外国で執筆。社会主義革命に強い影響を与えた。
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『風の谷のナウシカ』を読む~アニメの「黄昏」に立つ僕たちへ | 山本寛
2020-06-09 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第9回。今回取り上げるのは、原作漫画版の『風の谷のナウシカ』です。アニメ映画版とは一線を画す、宮﨑駿の「思想」が凝縮された不朽の名作は、コロナ禍を経たいま、どのように読み返せるのでしょうか?
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第9回 『風の谷のナウシカ』を読む~アニメの「黄昏」に立つ僕たちへ
アニメで「思想」が語られなくなって、もう随分と経った。 もちろん宇野常寛氏ら、何人かはまだ気を吐いている。しかしアニメ専門誌に載るのは日銭稼ぎの軽佻浮薄な文章ばかりとなった。
第8回でアニメの「モダニズム」を説明したが、僕はまだアニメに「モダニズム」が残っていることを信じている。 ある意味、今までの僕の論説では「時計の針を元に戻す」作業なのかも知れない。 しかし、たとえ時代錯誤であろうと、昨今のアニメ業界の荒廃ぶりを見るに、道なき道を進まなければならない。そう覚悟した。
今回は僕が恐らく、アニメに「モダニズム」を見出しただろう最初の作品、『風の谷のナウシカ』(徳間書店)について語ろうと思う。 ただし、アニメーション映画の方ではなく、原作漫画の方だ。 ご存知の通り、原作と映画とは似て非なる別物だ。
尚、僕は普段宮﨑さんのことを心の師として「御大」と称しているが、この文章では敢えて客観性を持たせるため、敬称略とさせていただく。 加えて、僕にとっての言わば「聖書」に対して批判的な総論を行うなんてとんでもない話で、仮に真剣に書こうと思えば本一冊分にはなるはずなので、今回に限っては雑感に近い文章になることをご容赦願いたい。
さて、今の若者、特に中高生で『ナウシカ』を読んだことのある人がどれくらいいるだろうか? 僕は悲観的になるしかない。
僕にとって『ナウシカ』は大袈裟ではなく、中学高校の頃から「聖書」のようなものだった。それだけ僕の精神史には決定的な作品となった。 既に『天空の城ラピュタ』(1986)で宮﨑駿を「発見」し、『風の谷のナウシカ』(1984)の映画を経て原作本に入ったが、その衝撃は凄まじいものだった。 描かれていることの深みが、重みが、段違いに違った。 人間とは、自然とは、世界とは、生とは。 すべての根源的な疑問が僕たちに突き付けられているような気がした。
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坊屋春道を/から「卒業」させる/する方法 『WORST』| 宇野常寛
2020-06-08 07:00550pt
今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回は、髙橋ヒロシによるヤンキー漫画『WORST』を取り上げます。1990年代を代表する傑作不良漫画『クローズ』の続編として描かれ、12年の歳月をかけて2013年に完結した『WORST』。前作主人公・坊屋春道なきあとの鈴蘭男子高校の抗争を通じて描かれた、「最強の男」と「最高の男」をめぐる葛藤とは? ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
宇野常寛コレクション vol.23坊屋春道を/から「卒業」させる/する方法 『WORST』
〈「オレはおまえらと同じで/よそを放り出されて鈴蘭へ来たただの勉強ぎらいさ/ただちょっと違うのは/オレはグレてもいねーしひねくれてもいねえ!/オレは不良なんかじゃねーし悪党でもねえ!!〉
髙橋ヒロシによる90年代を代表するヤンキー漫画『クローズ』は、主人公・坊屋春道の自分は不良「ではない」という宣言ではじまった。引用したのはそんな彼=春道が物語の冒頭、転入してきたばかりの高校で貴様は何者だと問われたときの返答だ。 舞台となる架空の高校・鈴蘭男子高校はとある街にあるいわゆる「底辺」高校だ。不良少年の巣窟である同校では、その社会の「覇権」をめぐって常に派閥抗争が繰り広げられている。しかし所属する生徒の大半が不良高校生である鈴蘭は常に群雄割拠の状態にあり、もう何世代にもわたり「統一政権」が生まれていないのだという。世代を超えて数えきれないほどの不良少年がその統一を夢見て入学し、3年間をケンカに明け暮れて過ごし、そして鈴蘭統一の志半ばで卒業していく……そんなループが永遠に続く世界に、春道は転校してきたのだ。 春道は圧倒的な戦闘力を見せつけ、彼に戦いを挑む鈴蘭内の各派閥の領袖たちをことごとく破ってゆく。その勇名はやがて彼を他校との抗争の中に導いてゆくが、春道はその挑戦者たちをもことごとくほぼ初戦でノックアウトしてゆく。なぜ春道は「強い」のか。 答えは既に春道自身の口から語られている。春道は「グレてもい」なければ、「不良なんか」でもないからだ。 坊屋春道は劇中でほとんど唯一、鈴蘭の統一など不良少年社会での権力の獲得に興味を「示さない」人物として描かれている。そう、「グレてもいない」し「不良でもない」春道は単に「勉強が嫌い」で「ケンカが好き」なだけで、決してアウトローであることに意味を見出していないのだ。したがって「鈴蘭のてっぺん」にも「大人社会への反抗」にも興味がない。彼が戦う理由はふたつ、仲間を守るためと自分の快楽、面白さのためだ。そんな春道に、鈴蘭の統一や不良少年社会での覇権を夢見る少年たちが次々と挑戦し、そして敗れていくことで物語は進行する。
これが意味するところは何か。髙橋ヒロシがここで描いているのは、ヤンキー漫画がその数十年の歴史の中で育んできた男性ナルシシズムの更新、「カッコイイ男」のイメージの更新だ。そう、髙橋ヒロシの作品世界において「強さ」とは「カッコよさ」の、「男」の価値を反映したものに他ならない。より「カッコいい」男こそが、より「強い」のだ。したがって、作中ほぼ無敵の坊屋春道は髙橋ヒロシの生み出したあたらしい「カッコよさ」を体現するキャラクターに他ならない。
春道は不良少年たちの世界──思春期の数年間だけそこに留まることができるモラトリアム空間、疑似的な社会──の中での自己実現に拘泥する少年たちの挑戦を愛情をもって次々と退ける。「不良」である彼らは一般の社会から疎外されたアウトローであるという自覚を持ち、それゆえにもうひとつの社会での自己実現を権力奪取というかたちで目論む。しかし、そんな自己実現に全く興味を示さない春道に敗れることで、彼らはことごとく転向してゆく。疑似社会での期間限定の自己実現ではなく、ケンカすることそれ自体を楽しみ、魂を燃焼させることに美的な達成を見るという春道の示したモデルに転向してゆくのだ。(劇中で春道と互角以上の戦いを展開することができたのは、同様に権力闘争に興味を持たない林田恵・通称リンダマンのみだ。) ここで髙橋が坊屋春道という男に託したのは、これまでのヤンキー漫画の美学の延長線上にありながらも、少なくとも従来の意味では「グレてもい」なければ、「不良なんか」でもない、しかし明らかにこの国の「ヤンキー」文化の延長戦上にあるあたらしい「男」の理想像に近づいていくのだ。、「大人社会への反抗」に意味を見出し、アウトローであることにアイデンティティを見出さ「ない」男の理想像に他ならない。だからこそ、この物語では従来のモデルの不良少年が春道の影響下に転向してゆくという物語が描かれたのだ。
そんな坊屋春道の最後の戦いは、全国的な勢力を誇る不良少年グループ「萬侍帝國」の幹部・九頭神竜男とのタイマンだ。不良少年社会=疑似社会の頂点に君臨する九頭神はまさにこの物語で描かれてきた古い、従来の「不良」を代表する存在だ。そう髙橋ヒロシは物語の結末に、春道のこれまでの戦いとは何だったかを総括し、改めて読者に示すエピソードを配置したのだ。
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【緊急対談】石川善樹 × 安宅和人 人間は臨死体験せずに根性論を突破できるのか?(後編)【PLANETSアーカイブス】
2020-06-05 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、本メルマガで連載していた「〈思想〉としての予防医学」著者の石川善樹さんと、『イシューからはじめよ』著者にしてヤフー・ジャパンCSO・安宅和人さんの対談記事の後編をお届けします。前編で、「根性論」の撲滅について一定の結論を得た安宅氏と石川氏。今回はその先にある、本当に〈効率的〉な物事の進め方とはどんなものかを語り合います。※この記事は2016年4月25日に配信した記事の再配信です。
予防医学研究者・石川善樹さんが6月9日(火)開催のイベント「遅いインターネット会議」に出演されます! 【イベント概要】 6/9(火)石川善樹「予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと」 パンデミックをインフォデミックが補完する悪夢はいつ終わるのか。予防医学者でありながら、組織論から幸福論まで広く社会に提言を続けてきた石川善樹さんをお招きし、コロナ危機からいま人類が学ぶべきことについて議論します。 イベント詳細・お申し込みはこちらから。
本対談の前編はこちらから。
研究結果が教える「効率のいい働き方」
石川 最善の学習戦略とは何か。そんなことを研究した論文が2010年のサイエンス誌に出ていました。その研究は、複雑な環境を生き抜く上で、「外に新しい情報を取りに行く」のと「自分で実験・考察する」のを、どれくらいのバランスで行うとよいのかシミュレーションしたものです。
すると、外に情報を取りに行くのを「9」、自分で試行錯誤するのを「1」くらいの比率でやるのがもっとも生存確率が高いというんです。
正直、ちょっと意外な結果でした。一人でもんもんと悩むのはそんなに効率が悪いことなのかと(笑)。そんなことより、よい情報はもう十分外にあるから、それを取りにいけばいいのだと。
安宅 ああ、これはマッキンゼーでもよく言われていた話です。「Don't reinvent the wheel」――すなわち「車輪を再発明するんじゃない」と。
世界中の大企業の7割とかをクライアントに持っていて、広範な最先端の経営課題についてコンスタントに誰かが扱っているのだから、もうどこかに何か解答か、カギになるモノの見方が転がっている可能性が高い。「とにかくまずは聞いて回れ」というわけです。すると、実際、多くの場合、ある程度の方向性はわかってしまう(笑)。
最初、向かうべき方向性が360度、すべての方向性にありえるように見えても、この30度の辺りに答えがあるなと見えてくる。この削ぎ落とされた330度のバリ取りのパワーというのはとてつもないです。
石川 プロジェクトが始まる前に、本当にダメな手法の8~9割を知っている。
安宅 そうなんです。
まだ若かった頃に、社是的な考えである「DISTINCTIVEであれ」という言葉について、あるグローバルなトレーニングで世界中から集まった同僚とディスカッションしていたことがあります。すると北米オフィスのある男が「そんなのシンプルだよ」と言うんです。
彼はDISTINCTIVEであるというのは”know the person who knows the stuff”だというのです。つまり、「それを知ってる人を知っているかどうか」が「DISTINCTIVE」の意味だと。その言葉に、そこにいたみんなシビレてしまいました。
僕は一度会社をやめて、アメリカの大学で研究者に戻ったのですが、アメリカの大学の強さも半分ぐらいはそこにあると思いました。主要な研究大学では、関連する大半の分野で一流の研究者が揃っていて、しかも国内の近くの大学に世界レベルの専門家が普通にいるので、下のフロアに行ったり、それで無理でも、近くの町の別の大学に行けば、もう30分とか1時間で、そのテーマについての専門家に会え、フランクに話ができるんです。自分が知らないラボでも、「お前、Johnのところに行って習ってこい、言っておいてやるから」とか。あの感覚が、あまり語られないことですが、アメリカの研究を生み出す与件的なベースになっている……。これは大変に印象的でした。
石川 しかし、そう聞くと「車輪の再発明をするな」というのは、先ほどの学習効率の研究と照らしあわせても、「根性論」に陥らない重要な手法ということになるのでしょうね。
安宅 ですね。ただ僕はこれをストレートにやることには、心理的な抵抗がすごくあるんです(笑)。
石川 なんと(笑)。その理由を詳しく教えてください!
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イノベーティブな関係性を創る〜大阪・メビックの活動を通して(後編)| 堂野智史
2020-06-04 07:00550pt
NPO法人ZESDAによる、様々な分野のカタリスト(媒介者)たちが活躍する事例を元に、日本経済に新時代型のイノベーションを起こすための「プロデューサーシップ®」を提唱するシリーズ連載。第4回目は、大阪市の施設「クリエイティブネットワークセンター大阪 メビック」でクリエイター・デザイナーの支援活動に取り組む堂野智史さんです。前編に引きつづき、大阪におけるクリエイティブ産業支援の状況やコーディネート手法についての詳細な情報や、制度設計の考え方が語られます。そこでマッチング支援者が心がけるべき、「沿道の応援者」としての姿勢とは?
プロデューサーシップのススメ#04 イノベーティブな関係性を創る〜大阪・メビックの活動を通して(後編)
メビックのミッションと活動内容
メビックは、大阪市経済戦略局が設置し、公益財団法人大阪産業局が運営受託している施設で、大阪で活動するクリエイティブ産業の振興を目的としています。そのミッションは、大阪のクリエイターが活動しやすい事業環境を整備し、クリエイターの自立・成長を促すことです。大阪を拠点に、営業は国内外どこででもやってもらえばいいのですが、最終的には、家族や従業員がいる大阪で競争力を発揮して活動してもらいたい、そんな状況を創ることができればと考えています。
そのためには、2つのキーワードが大事かなと。一つは、大阪に「仕事」があること。もう一つは大阪に本音で話ができる「仲間」がいること。そんな状況を創ることができれば、大阪のクリエイティブ産業の「未来」が拓けるのではと考え、行動しています。
なぜ大阪市がクリエイティブ産業振興に取り組んでいるかというと、クリエイティブ産業自体、様々な分野の産業や社会経済に影響を与える、重要なサポーティングインダストリーであることが挙げられます。大阪には全国第2位の同産業集積があるにもかかわらず、マーケットの東京シフトが進む中で東京への移転傾向がみられます。しかし、大阪全体の産業や社会経済を発展させるためにも、大阪に拠点を維持し活動を継続することで、他産業や社会経済に対し波及効果を及ぼすことが不可欠だと考えているからです。
ただ、大阪のクリエイティブ産業は、デジタル化の浸透により人と人とのリアルなコミュニケーションが希薄になっていること、クリエイティブ産業自体、業界が細分化されているのに対し、クリエイティブ市場は複数の業種でないと対応ができないほど複合化が進み、供給と需要の間にミスマッチが生じていることなどが問題点として考えられます。 メビックでは、こうした問題点や課題に対応し、大阪のクリエイターが自分のやりたい仕事を大阪でやり続けられるような状況を創ろうと日々活動しています。
そこで、メビックの具体的活動についてご紹介しましょう。メビックでは、クリエイティブコミュニティの中に、日々新しいクリエイターや企業等を誘い込んでいます。 大阪で活動する新しいクリエイターを見つけては、現役のクリエイターで構成するコーディネーター同伴のもと面会し、その人の情報を共有するとともに、メビックで開催するイベント等を紹介し、クリエイティブコミュニティに誘っています。
一方、クリエイターに仕事を依頼したり、クリエイティブに関する案件について相談したい企業等についても、コーディネーター同伴のもと面会し、クリエイターとの出会い方やコミュニケーションの取り方等について話をし、最終的にはクリエイティブコミュニティに誘い込みます。
クリエイティブコミュニティの中では、クリエイター同士、クリエイターと企業等が互いにコミュニケーションを取り、互いに意気投合する人を見つけて、つながり、最終的には何らかの形でコラボに結びつくケースも多々ありますが、そこは当事者に任せる部分で、メビックとしては仲介等は行いません。あくまでも当事者同士の責任のもとで自由に行って頂くようお話ししています。
なお、こうした出会いの機会は、年間200日、150回程度にも及び、様々な切り口で形を変えて頻繁に行うことで、そこに集まる人と人との関係性を熟成させるよう努力しています。
その結果、2019年6月1日現在1564のクリエイターの事業所が、メビックWEBサイト「クリエイティブクラスター」に掲載されています。これらの事業所の代表者または主要クリエイターに対しては、メビックスタッフが必ず面会しており、顔の見える関係を創った上で情報発信をサポートする形を取っています。
また、クリエイティブコミュニティに参加するクリエイターや企業等に対し、イベント等を通じて互いのコミュニケーション機会を増やし、関係づくりを熟成させた結果、商取引・新事業創出、高付加価値などの面で様々な結果が生まれています。メビック設立以来、報告を受けているだけで、契約関係にある、あるいはプロジェクトとして形になったコラボレーション案件は3,362件にも上っています。
メビックのこうした活動を支える工夫の一つに、“現役”のクリエイターにコーディネーターを委嘱する「クリエイティブコーディネーター(通称:コーディネーター)」という制度があります。メビックでは、現役のクリエイターにコーディネーターを依頼するという、他に例を見ない方法を12年前から採用しています。
なぜ“現役の”クリエイターを活用するのかというと、いくつか理由があります。
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