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記事 21件
  • 三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか|倉持麟太郎×玉木雄一郎

    2020-08-17 07:00  
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    今朝のメルマガは、イベント「遅いインターネット会議」の冒頭60分間の書き起こしをお届けします。本日は、弁護士法人Next代表弁護士の倉持麟太郎さんと国民民主党の党首・玉木雄一郎さんをゲストにお迎えした「三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか」です。著名人を含む多くの人々を巻き込み、SNS上で展開された「#検察庁法改正案に抗議します」。今国会での成立は断念することになりましたが、今後も改正のための議論は続けると政府は発表をしています。今回の改正案の問題点はどこにあり、私たちはこの国の三権分立のあり方についてどう向き合うべきなのでしょうか。(放送日:2020年7月14日)※本イベントのアーカイブ動画の前半30分はこちらから。後半30分はこちらから。
    【明日開催!】8/18(火)19:30〜牧野圭太「広告がなくなる日」はいつ訪れるのか?SNS上のターゲティング広告が常態化し、そして、問題化されつつある現在。かつて、時代を牽引したマスメディア型の広告の遺産から、現代の表現者たちはなにを継承すべきなのでしょうか。カラス代表/エードット取締役副社長の牧野さんと議論します。生放送のご視聴はこちらから!
    遅いインターネット会議 2020.7.14三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか|倉持麟太郎×玉木雄一郎
    たかまつ みなさん、ごきげんよう。本日ファシリテーターを務めます、お笑いジャーナリストのたかまつななです。よろしくお願いします。
    宇野 みなさん、こんばんは。PLANETSの宇野常寛です。よろしくお願いします。
    たかまつ 遅いインターネット会議。この企画では政治からサブカルチャーまで、そしてビジネスからアートまで、さまざまな分野から講師をお招きしてお届けします。本日は有楽町にある三菱地所さんのコワーキングスペースSAAIからお送りしています。本来であれば、トークイベントとして、みなさんとこの場を共有したかったんですけども、当面の間は新型コロナウイルスの感染防止のために動画配信と形式を変更しております。今日もよろしくお願いいたします。
    宇野 今日も安定の200人ぐらい入る会場での無観客配信です。よろしくお願いします。
    倉持 たかまつさん、ちょっと元気ないんじゃないですか?
    宇野 今日はある意味インディペンデンス・デイだよ。記念すべき日だよ。
    たかまつ そうですね。よろしければ、Twitterのほうを見ていただけると嬉しいかぎりです。それではゲストの方をご紹介いたします。本日のゲストは、国民民主党の党首・玉木雄一郎さんと、弁護士法人Next代表弁護士の倉持麟太郎さんです。よろしくお願いします。さては、本日のテーマは「三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか」です。著名人を含む多くの人を巻き込み、SNS上で展開された「#検察庁法改正案に抗議します」。今国会での法案成立は断念することになりましたが、今後も改正のための議論は続けると政府は発表しています。そこで、今回の改正案の問題点はどこにあるのか、また私たちはこの国の三権分立のあり方についてどう向き合うべきなのか。ゲストのお二人とともに議論したいと思います。ということで、宇野さん、なぜ今なのかということがすごく気になっているんですけれども。
    宇野 僕は今、みんなが忘れた頃にやりたかったんです。当時はみんな、すごく盛り上がっていたじゃない? 僕もハッシュタグをつけてツイートしようかなと一瞬思ってた。
    たかまつ 宇野さんはつぶやいていないんですか?
    宇野 僕はつぶやいていない。確かに、一過性の盛り上がりで政府の喉元に合口を突きつけるのも大事なんだけど、これを起点に継続的な議論をしていくことのほうが大事だし、それが自分の役目かなと思ったんだよね。そこで倉持さんに、2ヶ月後ぐらいにやりたいんだと個人的に相談をしたら、「玉木さんを呼ぼう」という話になって、この会をやることになったんですよ。だから、あの盛り上がっているときに、実はこれを企画したんです。
    たかまつ スケジュールが間に合わなかったとか、そういうのじゃなくて、あえてだったんですね。
    宇野 あれが盛り上がっているときに、いきなりやっても流されていっちゃうと思うんだよね。そうじゃなくて、あのタイミングで、なかなか普段議論の的にならなかったこの問題が表沙汰になって問題化された。けれど、問題化されたことによって、みんな満足しちゃっている。でも、そうじゃないだろう、と考えたんです。あの出来事は、今の戦後憲法の枠組みは9条以外の側面から見直したほうがいいんじゃないかとか、あるいはインターネット時代の民意とはなにかとか、大きくて広い問題につながっていく事件だったはずなんですよ。こういったことをもっと長期的に議論するベースをつくりたくて、今日この会を企画しました。よろしくお願いします。
    検察庁法改正案の論点をあらためて考える
    たかまつ それでは、早速議論に入っていきたいと思います。今日は、まず最初に検察庁法の改正案をめぐる動きを振り返った上で、この騒動に関する論点をゲストのお二人にお伺いしたいと思います。そもそも検察庁法の改正案は衆議院本会議で4月16日に審議が始まりました。実質的な審議は国家公務員の定年を段階的に65歳に引き上げるための法案とともに一本化して、ゴールデンウィーク明けの5月8日からスタートいたしました。この改正案は検察官の定年を、他の国家公務員と同様に段階的に65歳に引き上げるとともに、内閣や法務大臣が認めれば、定年を最長で3年間延長できるというものです。これを受けて「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグが大きく広がりました。著名人を巻き込みながら5月9日から10日にかけて投稿は 500万件を超え、トレンド入りもしていました。世論を背景にしつつ、野党側は5月15日に武田国家公務員制度担当大臣への不信任決議案を提出するなど、徹底抗戦する姿勢で挑みました。結果、5月18日に安倍総理は「国民の理解をなくして前に進めていくことはできない」として今国会での成立を見送る考えを表明いたしました。ということで、一連の動きが簡単にスライドでも表示されていると思いますが、まとめました。今回の改正案について、いろんな論点があったと思うんですけども、まずはどんな論点があるのか、ここに特に注目してほしい、というところをゲストのお二人にお伺いしていきたいと思います。玉木さん、いかがでしょうか?




    玉木 確かに、この時期にこの話題をやるのは季節外れというか、旬が過ぎたものをやっているという気がするかもしれません。安保法制もそうなんだけど、そのときはすごく盛り上がるんだけれど、過ぎ去ってしまうと忘れてしまう。本当は、その思いを投票で示さなきゃいけないのに、「いろいろあったけれど、忘れちゃったし、選挙に行くのやめよう」みたいに、民意がいくら盛り上がっても全然反映されない。そういう状況の中で、こういう振り返りというか、あらためて再確認するようなことは非常に意味があるなと思っています。  今回の検察庁法改正は、もともとは現行法を解釈で変更して、それまでできなかった検察官の定年延長をやろうとしたところに一番の問題があるんですよ。後づけで法律を改正して認めるようにしたものなので、そもそもタチが悪い。安倍総理が、東京高等検察庁の黒川前検事長に対して、戦後唯一の例外として定年延長を認めようとしていて、いきなり本会議場で、法律の解釈変更で定年延長をやりますと言って、進めたのがもともと問題なんです。  もともと検察官は行政の一部であって、公務員のひとりだけれども、行政のトップである総理大臣さえ逮捕できるという強大な権限を与えられている点で、他の公務員と圧倒的に異なっている。なので、高度な独立性と中立性が求められる。力がすごく強いからこそ、定年にあっても、もっとも客観的な基準である年齢でブチッと切る。途中で一般公務員には定年延長という制度が導入されてもなお、検察官については内閣や大臣が裁量で定年延長をすることはできないと、貫き続けてきたんです。  これには歴史があって。帝国憲法下、いわゆる戦前は裁判所構成法があって、司法大臣の裁量で検察官の定年延長は可能だったんです。しかし戦後、明確な立法意思として昭和22年に検察庁法を作るときにダメだと定めた。それは、戦前に特別高等警察など、いろんな人権侵害的なことがあったので、検察官には高度な独立性、中立性を与える代わりに、政治の裁量によって定年延長はさせないと定めた。だって、政治家に気に入られた検察官は定年延長が認められ、「お前は俺の言うことを聞かないから逮捕」とか「捜査したから定年延長は許さん」となると、やっぱり忖度しちゃうわけですよ。そういうことを防ごうとずっと運用されてきたものを、安倍総理が「解釈を変えたので今日からできるようになりました」と言い出した。それが国会で問題になって、我々が追及して、法律の形で後づけで解釈変更を認めるものが出てきた。こんなものは認めるわけにはいかないと、大きな社会的な広がりも出たわけです。廃案になりましたけど、こういうことにチャレンジする権力と我々は向き合っていることをあらためて自覚しないといけないなと思いました。
    たかまつ ありがとうございます。そもそもの事の発端は今年の1月でしたもんね。あれが盛り上がったことだけを見ると、5月のときの記憶ばかり蘇りますけれども。そのときにはあまり問題化せず、確かに一部報道はしていましたけども、少なかったかなと思いますね。倉持さん、いかがでしょうか?
    倉持 玉木さんがほとんど説明されていたので、付け加えることはあまりないですけど。今の話で出ていたように1~2月くらいに問題化して、森法務大臣がトンデモ答弁をし続けたり、人事院の松尾(恵美子)局長に「なんで変えたいんですか?」と聞いたら、「言い間違いでした」と言ってしまったりと、酷かったんです。その前の森友・加計問題や、「桜を見る会」の問題も含めて、もっと盛り上がってもよかったはず。なのに、こんなに難しいことで5月に盛り上がったのは、ちょうどコロナ禍でみんなが自粛中で、不平不満を我慢してフラストレーションが溜まっていたところだったから。自分たちが自粛しているのに、権力側が全然自粛していないじゃないか、といった不公平感から、政治がすごく日常化したマターだったと思うんですよ。だから、検察庁法自体の権力のパワーバランスのことも重要だけども、コロナによる自粛下でのフラストレーションが、政治が日常化する方向に向いたことを忘れちゃいけないのがひとつ。  この問題を私が話すときは、3つに分けて話しています。まず、政治的意図の問題です。黒川さんという属人的に政権と親和的な方をこのポジションに据えることの問題点。私は法律家なので政治的な動きは推測でしかわからないんですけど、そういう問題がある。もうひとつはいわゆる準法律的な問題。それは玉木さんがご説明いただいたような、そもそも国家公務員法は検察官に適応できるのかということ。できないと言っていたのに解釈変更し、さらにそれを追認するような法改正をしていて、法改正さえすればいいのかという問題。あとは審議過程の問題です。内閣法制や人事院にどのように何について諮ったのか、法案審査はどの程度されたのか、担当者たちがウソをついていないか。答弁を知らないと大臣が言っていましたけれども、そういうプロセスの問題や純法律的な問題がある。3つ目がこの後の話にもつながると思うんですけど、制度的な問題です。つまり、これが憲法違反だったとして、争えるのか。今の日本の制度で、司法審査とか国の手続きに乗せて、これを違法違憲だという手続きがあるかというと、直接的に審査することはできない。たとえば、黒川さんが名宛になるような、行政の個人情報や情報を開示してくださいと言って、黒川さんの名でされた何らかの処分に対して、「違法・違憲な人事だとすれば、憲法に照らし合わせると本来そこにいるはずがないんだから、権限がないはずですよね。無権限の人の処分は無効ですよね」というような、テクニカルな方法を使えば争ったりはできるかもしれないけれども、直接的にこの改正を違憲かどうか審査して廃案にさせることができるシステムはない。これは完全に制度の不備ですよ。
    たかまつ それはまずいですよね。
    倉持 全く同じ事案はフランスで警察庁長官に関して起きたことがあって、フランスは裁判所が違法違憲か、ちゃんと判断していたりするんですね。政治的な意図と法律的な問題と制度的な欠陥の3つの問題があると思います。
    たかまつ ありがとうございます。たしかに制度的な問題については、これだけ盛り上がっても何も変わらないんだ、と。しかも、逆に毎回こういう形じゃないと変わっていかないのかというところも含めて、なかなか難しいなと思いますね。今のお二人のお話を聞いて、宇野さんはいかがですか?
    宇野 思い出しながら聞いていたんですけど、僕も3つ問題を指摘したいんですよ。1つ目は法の支配か、人の支配かという問題。これは概ね第二次安倍政権の問題と言われているんですけど、実際に統計データをいじり、公文書は潰し、日報は黒塗りにして、民意を背景にやりたい放題である。ただ、僕の考えではこれは安倍政権に始まったものではなく、戦後の政治史そのものが法の支配よりも人の支配を優先してきた歴史が間違いなくあると思う。その象徴が憲法9条です。何があっても解釈改憲で、とりあえずバランスをとって、いろいろ誤魔化す方法をその都度考えることが、リアルポリティクスです、という恐ろしいことを言い張ってきたのが戦後日本だった。冷戦終結ぐらいまではそれで曲がりなりにやっていけたのかもしれないけれど、今、これで本当に大丈夫ですか、と突きつけられている。この先、東アジアで大規模な武力衝突があることは大いに考えられるから、9条の問題もシリアスなものになっている。  それはそうとしてとにかく、日本の近代においては、ありとあらゆるところがどんな制度を作ったとしても運用レベルで適当にごまかすんで、みたいな人の支配がまかり通ってきた。その象徴が憲法9条です。こうしているいまも「法律なんてものは所詮お題目でしょ」ということが霞ヶ関にも永田町にも染みついているんです。たとえば、90年代の政治改革の問題は、一般的に永田町と霞ヶ関の戦争だというふうに思われていて、官から政に主導権を取り戻すという改革であったという解釈もされている。ところが、その実態はどちらが運用レベルで法律を骨抜きにする権力を握るかという戦いだったという解釈ができるわけですよ。  ここにいよいよメスを入れなきゃまずいんじゃないかと。当然、法の支配の最低限の枠組みをなし崩し的に70年間やってきた結果、いよいよこのレベルまできてしまったのが第二次安倍政権であるだけであって、安倍政権の問題ではなくて戦後日本、もっといえば近代日本の問題だと思っています。だから、この問題を単に黒川の問題に矮小化しないほうがいいということが大前提ですね。
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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉第三章 オープンワールドと汎用人工知能(2)

    2020-08-14 07:00  
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    (ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第三章「オープンワールドと汎用人工知能(2)」をお届けします。一般的な人工知能は「問題に立脚して」作られていますが、三宅さんは問題に立脚しない、汎用人工知能に人類の「他者」となる可能性を見出します。
    (2)人工知能の持つ虚無
    問題特化型人工知能
     「人工知能は稠密に作られる」というのは、人工知能は人間が設定した目標に達成するように、最適に作られていくことを意味しています。問題特化型の人工知能はその問題に向かって、というよりも、その問題を土台として築かれる人工知能です。つまり、問題特化型の人工知能は、問題を対象として構築されるというよりは、問題を立脚点として構築される、といった方が正しいでしょう(図3.15)。

    ▲図3.15 問題の上に構築される人工知能
     たとえば、工場のベルトコンベアでネジを締めるロボットを考えてみましょう。ロボットは目の前に来る部品のネジを締めるために、画像でネジを入れる位置を確認してアームでネジを締めるとします。このロボットアームはベルトコンベアで部品が流れてくる、という前提の上に固定されて設置されているわけですので、なぜ部品がそこに来るか、なぜネジを締めなければならないか、という問題は、人工知能が考える問題の外にあります。このロボットアームは問題の上で初めて成立する人工知能になっているのです。ベルトコンベアから外されればこのロボットは何者でもなくなってしまうのです。
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  • 島根県民ファンドのプロデュース|田辺孝二

    2020-08-13 07:00  
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    NPO法人ZESDAによる、様々な分野のカタリスト(媒介者)たちが活躍する事例を元に、日本経済に新時代型のイノベーションを起こすための「プロデューサーシップ®」を提唱するシリーズ連載。第7回目は、田辺孝二さんです。通産省(現:経産省)の中国経済産業局長として、2000年代初頭という早期から島根県に県内企業向けの県民ファンドを創設した田辺さん。一過性の成果でなく、地域にベンチャー文化とエコシステムを根付かせるための仕組みづくりを振り返ります。
    プロデューサーシップのススメ#07 島根県民ファンドのプロデュース
     本連載では、イノベーションを引き起こす諸分野のカタリスト(媒介者)のタイプを、価値の流通経路のマネジメント手法に応じて、「inspire型」「introduce型」「produce型」の3類型に分けて解説しています。(詳しくは第1回「序論:プロデューサーシップを発揮するカタリストの3類型」をご参照ください。)
     今回はカタリストの第3類型、すなわち、イノベーターに「コネ」や「チエ」を注ぐ座組を整える「produce型カタリスト」の事例の第2弾として、田辺孝二氏をご紹介します。
     ベンチャーキャピタルは、普通、「カネ(資金)」を投資したベンチャー起業家に自らの「コネ(人脈等)」や「チエ(経験等)」も同時に投じていくことで成長を導くものです。成功しそうなものにカネだけ投じてあとは伸びるのを待つ、というわけでは決してありません。二人三脚なのです。今日では、日本でも首都圏を中心にこのような「普通」のベンチャーキャピタルが増えてきましたが、田辺プロデューサーはこれを2000年代に島根県で創設しました。
     しかし、この「島根県民ファンド」の評価に関して、集めた資金は1500万円足らず。投資した6社のうち、業績拡大したのは1社のみ。5社は業績が向上せず、うち2社は倒産といった結果を指して、あまりうまくいかなかったと見る向きがあるかもしれません。ですが、そうした理解はやや浅薄であると言わざるを得ないでしょう。というのも、実は、島根県民ファンドは、創設当初から、営利的な成功を必ずしも目的にしていませんでした。
     田辺プロデューサーは、ファンドの支援を得た起業家たちが失敗することを完全に前提にしており、むしろ失敗による経験と学びを得る機会を与えて、これからの地域経済を担う人材の育成を企図していました。また、個人貯蓄の多い地方の人々が地域経済の活性化を自分ごととして捉えるきっかけとなることも重視してファンドを設計しました。
     つまり、ファンドの組織やシステムだけではなく、失敗を肥やしにして挑戦を何度でも続けていく人材が多くの機会を得て躍動する地域、地域住民が補助金頼みではなく自腹を切って地元を盛り立てていく地域、すなわち、ベンチャー文化それ自体を創育するという、地方創生やイノベーション促進の真髄を突く事業だったのです。島根をシリコンバレー化しようとしたわけなのです。
     また、この事業は、田辺プロデューサーが中国経済産業局長時代に着想し、退職後に一個人の課外活動として実行したものでした。枢要な地位にあったからこそ得られたコネとチエを活用していることは、「コンサバをハックする」という点でも要注目です。もちろん、局長を経験すれば誰にでもできることでは決してありません。また、経済産業省が政策としてファンドを創設していたら、一個人発信の声がけによる草の根活動よりも、ベンチャー文化の創出効果はむしろ低かったかもしれません。  ちなみに、コンサバのハック、ファンド創設といった手法の点で、知事との連携、コンテスト創設を行った前号の桐山登士樹プロデューサーと異同を比較するのも面白いと思います。  本文最後に、田辺プロデューサーは反省点も率直に述べられています。島根の経済史に残る歴史的事業に関する極めて重要な回顧録から、今回もみなさんと一緒にプロデュースの要点を学んでいきたいと思います。(ZESDA)


    1.島根県民ファンドとは?
     田辺孝二と申します。今回は、私が取り組んだ、地域(島根県)のアントレプレナーと彼らを応援したい人たちを結びつけて、島根県の活性化を図った「島根県民ファンド」を紹介します。また、この「島根県民ファンド」のプロデュースの事例から、「応援者としての立場」に重点を置くプロデューサーの機能について考察します。
    1.1 地域のためのベンチャーファンド
     島根県民ファンド(正式名称は島根県民ファンド投資事業組合1号)は、島根県内のベンチャー企業に投資することを目的に設置されたファンドです。本ファンドは筆者が提唱し、2004年3月に民法上の組合として設立され、2014年6月まで運営され、資金総額は1440万円でした。  県民ファンドの目的は、「新ビジネスの創出や地域の課題解決等に資する事業にチャレンジする島根県内の企業に対し、投資という形で資金提供し、応援することによって、投資先企業の発展を推進すること」(島根県民ファンド投資事業組合契約書)であり、利益の確保を一義的な目的とするものでなく、地域でチャレンジする企業を応援するためのファンドであることを明確に打ち出しました。 県民ファンドの運営を担う業務執行組合員は、当初、片岡勝氏(市民バンク)と筆者の2名が就任し、2008年1月から吉岡佳紀氏(元島根県職員)が加わり、3名となりました。ファンド運営の報酬はなく、ボランティアで務めました。投資先企業の決定は、業務執行組合員の合意で行いました。 ファンドの出資者は、地元の産業界・大学・自治体の方々など島根県内を中心に、島根県出身で県外におられる方々、島根県とは縁のない筆者の知人なども含め、76名の個人と1グループ(県庁職員有志)です。県民ファンドへの出資は個人に限定し、一口10万円、5口までで募りました。1000万円を超えたところで県民ファンド設立の新聞発表をしたところ、県内外から出資の問い合わせがあり、最終的に144口になりました。  ファンドの事務局業務は、ベンチャー企業投資の経験豊富な「ごうぎんキャピタル株式会社」(松江市)に委託し、ファンド運営のアドバイスとともに、投資先企業への出資業務、会計決算業務、組合員への連絡業務などをお願いしました。
    1.2 島根県民ファンドの特徴
     島根県民ファンドは、ベンチャーファンドとして、投資先候補企業のビジネスの将来性や、経営者の能力等を評価して投資先を決定する点は、一般のベンチャーファンドと同じですが、地域の問題解決のためのコミュニティファンドとして、次のような特徴があります。
    ・島根県内のベンチャー企業のみを対象  出資者は島根県内に限っていませんが、島根県内の企業に投資することを前提に資金を募った、地域限定のベンチャーファンドです。このため、島根県出身者であっても県外で設立する企業は対象としていません。また、ベンチャーファンドであるため、将来の発展が期待できる企業を対象とし、島根県内でビジネスを行う組織であっても、コミュニティビジネスを行うNPOや、事業の発展可能性が高くない企業は対象としていません。
    ・資金とともに信用と応援団を提供する  ベンチャーが必要としているのは資金だけではなく、信用や顧客・経験・人脈などが欠けているのがベンチャーです。県民ファンドの投資を受けることによって、県内で脚光を浴びることができ、将来性のある企業だと評価され、信用力を高めることができます。また、200名を超える県民ファンド出資者が、顧客として投資先企業の製品を購入したり、アドバイスの提供や取引先の紹介を行ったりします。つまり、投資先企業に応援団を提供するのです(図1)。

    図1 島根県民ファンドの仕組み
    ・地域へのリターンを目指すファンド  島根県民ファンドでは、出資者に対してリターンがあまり期待できず、儲かるファンドではないことを明確に伝えました。一方で、地域にはリターンがあることを訴えました。まず、ベンチャーを応援することは、地域経済の活性化の効果があること、また、投資先企業が失敗したとしても、地域の未来を担う人材の育成には役立ちますので、地域にはリターンがあるのです。ファンドは寄付ではなく、出資者が応援することによって、投資先企業が成長すれば、出資者にもリターンの可能性があり、応援団としての活動がリターンに結びつくことを伝えました。 業務執行組合員の報酬はなく、ファンドの運営はボランティアベースで実施しました。一般のベンチャーファンドの場合、ファンド運営の報酬・費用で3割程度かかり、ベンチャー企業への投資のための資金は7~8割程度ですが、県民ファンドは95%以上を投資に使うことができました。
    1.3 島根県民ファンドの投資先企業
     投資先企業の決定には、事業の将来性と経営者の資質を評価するとともに、地域経済の活性化に貢献する観点も考慮し、次の6社に投資しました。ファンド運営期間中に、業績を拡大したのは1社のみで、5社は業績が向上せず、うち2社が倒産する結果となりました。
    ・「サプロ島根(飯南町)」:山陰地域に自生するくま笹から抽出したエキスは、すぐれた抗菌作用や血液浄化作用などを有しており、くま笹エキスの抽出、同エキスを配合した笹塩製品等の製造・販売を行いましたが、くま笹収集のコスト増等から採算が悪化し倒産しました。
    ・「ティーエム21(松江市)」:山陰地域の総合情報ポータルサイト(山陰ホームページナビゲーター)の運営、独自開発のホームページ自動作成システムによる事業など、地域の各種情報サイト及びWebアプリケーションを構築運営し、着実に業績を拡大しました。
    ・「しまね有機ファーム(江津市)」:有機栽培の桑葉・大麦若葉等の有機農産物による原料・製品の製造、販売事業を行い、原料生産・加工・販売まで地域で一貫して行う「農業の6次産業化」の実践に取り組み、売り上げは拡大しましたが、収益面は改善しませんでした。
    ・「アルプロン製薬(斐川町)」:健康維持に役立つ機能性食品のβ-グルカンに関する島根大学との共同開発など、独自の技術によるパン酵母から高純度のβ-グルカンの製造・販売を行いましたが業績が低迷し、サプリメント事業に取り組みました。
    ・「アートクラフト設計(松江市)」:地域再生型福祉施設の設計、歴史的建造物のリニューアル設計、古民家の建材を活かした設計などに取り組みましたが、市場が拡大せず、倒産しました。
    ・「島崎電機(出雲市)」:洗剤なしで洗濯・除菌ができる洗浄水・除菌水生成装置を開発・製造し、老人ホームやクリーニング工場などに販売しており、顧客から高い評価を得ていますが、営業体制などの制約から、業績は改善しませんでした。
     投資先企業から、「県民ファンドからの投資により、地元からの応援や期待を感じる」、「就職説明会において、県民ファンドから投資を受けていると話したところ、学生の態度が違った」などの声が寄せられたりしました。
     ファンドは当初の予定通り、10年間で清算をし、保有の株式を出資先企業の経営者に買い取っていただき、出資者の方々に1口約9万円の返還をしました(これは、業務執行の3人が資金返還の受け取りを辞退したことなどによるものです。)。
    2.島根県民ファンドのプロデュースの経緯
    2.1 現代版「頼母子講」の発想
     島根県民ファンドの構想を筆者が得たのは、2001年7月に島根県松江市で開催された、地元企業の方々との交流会の意見交換がきっかけでした。中国経済産業局長として初めて島根県を訪問した機会に、地域の経済産業局の役割は3つのブリッジ、「地域と経済産業政策とのブリッジ」、「地域企業と必要とする経営資源とのブリッジ」、「地域の望ましい未来と現在とのブリッジ」という考えを伝え、政策として新事業を創出するために、産学官連携や大学発ベンチャーを推進していることを話したところ、ある経営者から「日本の地方の問題はベンチャーを応援するエンジェルがいないこと」との問題提起がありました。  その会合の後に思いついたのが、日本の伝統の「頼母子講(たのもしこう)」、「無尽(むじん)」です。みんなでお金を持ちより、必要とする人に融通する仕組みです。つまり、一人で多額の資金をベンチャーに提供するエンジェルはいなくても、多くの方が小規模のお金を持ちよることでベンチャー支援ができるのではないか、と考えたのです。
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  • コクヨにおける私の働き方改革 最終章:マネージャー編|坂本崇博

    2020-08-12 07:00  
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    2014年、昇格試験を受けてマネージャーへの道を歩みはじめた坂本崇博さん。それまで「早く家に帰ってアニメが観たい」というワガママで意識の低い動機で「My WX(私の働き方改革)」を進めてきた坂本さんが、なぜ管理職を目指したのか? そしてそこで直面した「燃え尽きそうなほどのギャップ」とは?自らの半生をサンプルに「私の働き方改革」の普遍化の手がかりをさぐる自己検証編、いよいよクライマックスです。
    坂本崇博『(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革』第9回 コクヨにおける私の働き方改革最終章:マネージャー編
     入社して十数年、新人研修、営業への配属、新規事業開発プロジェクトを通じて、早く帰ってアニメを観たいという「ワガママ(欲)」に動機付けられ、他の人とは異なるやる事・やり方・やる力で「道を外れる」ことにこだわり、My WX(私の働き方改革)を進めてきた私ですが、ここでまた大きな転機、いえ、大きな壁に直面します。  その壁はこれまでで最も高く、手掛かりすら見つからない「管理職(マネージャー)としての私の働き方改革」という壁でした。 その話に入る前に、「そもそもどうして私は管理職になったのか?」というところから振り返ってみたいと思います。
    「管理職・坂本崇博」──爆誕!
     2014年、私は管理職への昇格試験を受けることにしました。これに合格すると、「管理職資格」という位置づけになり、俗にいう「課長」としてチームのマネージャーとして仕事することができるようになるわけです。
     36歳での管理職受験はコクヨという老舗会社の中では比較的若いタイミングでしたので、周囲の先輩、上司から「まだ早い!」とか「もうチャレンジするの?」とか言われるかなと思いつつ相談を持ち掛けました。 しかし相談相手から返ってきた反応は、「え? 坂本って管理職になりたいの?」というものでした。
     我ながらなんともひどい話なのですが、そのときはじめて私は、「なぜ私は管理職試験を受けるんだろう?」という問いに直面することになったのです。 そして導き出した答えは、「会社のなかで管理職としてチームを持ち、チームの力を発揮して大きな仕事をして、組織にも社会にも貢献しながら、自己成長を図りたいから」という意識が高いものではもちろんなく、一言でいうと「“ギャップ萌え”だから」でした。
     よくある老舗企業の管理職のイメージは、メンバーシップを重視し、毎週定例会議という名の自分がお山の大将であることを確認する場を開き、従来のやる事・やり方・やる力に従ってメンバーを画一化していくチェック者というものだと思います。少なくとも私はどこかでそういうイメージを持っていました。 一方で、私はこれまでの10数年間、メンバーシップに時間を費やすことよりも、やることをやってとっとと帰ることに情熱を注ぎ、従来と異なるやる事・やり方・やる力を探り、人と違ったことばかりやろうとする「外道社員」として働いてきました。
     私のイメージにある「王道の管理職」の姿に対して、自分自身が管理職になることで「これまでにない管理職としての外道」を見出して踏み出すことができるかもしれない。外道の探求者として、今このタイミングで私が管理職になるということは、とても魅力的な「道を外れる行為」だったのでした。
     そして、そんな私が管理職になる。そのギャップの大きさは、きっと多くの人にとって意外に受け止められるとも思ったのです。 雨の日に不良が捨て犬に傘をさしてミルクをあげているような、もしくは日頃はおとなしい眼鏡っ娘が眼鏡をとると急に残虐な殺し屋になるような、そんなギャップの中に感じるそこはかとない「萌え」を私が体現できるかもしれない。萌えの探求者でもある私として、そうした萌え展開にもとても大きな魅力を感じたのです。
     こうして自分の内なる想いがクリアになり、一層管理職になることへの情熱を高めた私は、前述のなぜ管理職になりたいのかという問いにも胸を張ってこう答えることができるようになりました。
     「新しい道に進みたい、それにもえるからです」と。
     この想いを、あえて若干の誤字をしながら論文にしたためて提出したところ「実は熱い男だったらしい」という評価を得られたのか、無事最終面接まで進みました。
     そして面接では、「徹底的に自分を表現する」ことにこだわることにしました。なぜなら私の本質について誤解をされたまま管理職に昇格してしまっては、会社にとっても自分にとっても不幸ですから。
     そこで面接当日、多くの被面接者が待合スペースに、論文とこれまでの成果物(デザインした商品や、設計したオフィスの写真パネルなど)を持参して面接に臨む中、私は、大きな模造紙をつなぎ合わせて作った3mくらいの「巻き物」を持ち込みました。
     そして、よくある面接室、すなわち被面接者1人が椅子に座り、その1メール前くらいに長机をいくつか並べて5名ほどの面接官の部長や役員が座るスタイルの部屋に入り、いきなり自分の椅子を長机に寄せて、巻物を机の端から端までざーっと広げたのです。 この時点で面接官は面食らったようでしたが、気に留めずに、「それでは、私の半生を巻物にしてきましたのでご説明します」と右端から左端まで、いかに道を外れつつ人生・そして仕事を進めてきたかを解説していきました。 最後に「管理職になってもこの道を続けていくことを約束します。」と結び、「普通の管理職になろうとしている」と誤解がされないように最大の配慮をしたプレゼンテーションを終えました。
     そこからの質疑応答は、もやは「ブレスト」でした。会社としての変わりたい想いの強さと「何だかわからないけどまず試してみよう」という度胸を確認しながら、部長や役員と私とでどうすればこれから面白い会社として成長していけるかを語り合い、新しい事業のアイデアなんかも飛び出したりと、入社面接同様、とても面白い面接になりました。
     そうしてお互い偽りなく本音を出し合った末、「管理職 坂本」が誕生したのです。
     ちなみにコクヨでは、その年の昇格者を集めて新しいステージに立つことを祝い、気を引き締める「昇格記念訓話会&パーティー」が行われるという慣例があります。その席上で、私の面接の後に順番待ちをしていた先輩から「お前の番のときに面接室からやけに大きな笑い声が聞こえてきたのは何だったのか?」と問われ、「面接が面白かったので」と答えた通り、この昇格試験は、自分が「変」でありたいことを再確認するとともに、入社面接から10年以上たった今もコクヨが「変な会社」であることを再確認する機会にもなったと感じています。
    Mission Impossible:オフィス設計の専門家集団を「管理」せよ
     そうこうしていよいよ、私は所属する部署に新しく発足したグループのグループリーダーに任命されます。 自ら進んで管理職試験を受けて管理職になったわけですから、組織を持つことは必然ですし、ギャップ萌えかつ変な管理職になるという野望を持った私にとっても1つの夢の実現だったわけですが、現実とのギャップは萌えるどころか大炎上でした。 なぜなら、グループリーダーである私がグループで一番の若手だったからです。
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  • 『魔法少女たち』に込めるもの~「希望」により抑圧されたアニメは|山本寛

    2020-08-11 07:00  
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    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第11回。今回は、目下PV制作中の新作『魔法少女たち』のコンセプトに関するセルフプレビューです。一貫して「日常」を描き続けてきた山本監督が、いま改めてファンタジーに臨む真意とは?
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第11回 『魔法少女たち』に込めるもの~「希望」により抑圧されたアニメは
    現在、PV(パイロットフィルム)を制作中の新作『魔法少女たち』だが、多分に漏れず所謂「コロナ禍」の煽りを受け、2か月の完全な作業中断の末、その後もスケジュールの切り直しなど、苦戦を強いられている。 フィルム自体は8月頃には完成する予定だが、今度は予算面に限界が出てきた。 完全自主制作のこの作品はまとまった出資者がいない。やむなく、2回目のクラウドファンディングを行うことになった。 以下、URLを載せておくので、興味のある方は是非ご支援願いたい。
    『魔法少女たち(仮)』制作中のPV、追加予算集めさせてください!
    宣伝はこのくらいにして、やはりクラウドファンディングで集められる額には限界がある。 ましてや他のコンテンツに比べても巨額の制作費がかかるアニメでは、全額クラウドファンディングで賄うことは到底不可能だ。 もちろん本編制作の営業、製作組成も同時並行で進めていたのだが、これもやはり「コロナ禍」で止まってしまい、仕切り直しの状態だ。 恐らく今はほとんどの業種・業態で同じような苦境が想像されるので、ひとり被害者ぶるつもりもないのだが、しかしこれはキツい。
    まぁ「コロナ禍」はひとまず置いておいて、ところでこの『魔法少女たち』についてだが、最初のクラウドファンディングで宣言した通り、きっかけはあの「京アニ事件」である。 一応そのURLも載せておく。
    山本寛新作アニメプロジェクト『魔法少女たち(仮)』のPV、作らせてください!
    この時の「声明文」は、事件直後なのもあって、今読むとかなり過激な文章となっている。 しかし、その時の想いは、今も変わっていない。
    「京アニ事件」がアニメ業界と現代社会にどれだけの禍根を残したかについては連載第6・7回で分析したのでそれを読んでほしいのだが、さてその分析をどう『魔法少女たち』に盛り込むのか? 僕はここで「ファンタジー」の機能に着目した。
    「ファンタジー」とは、言わば「たとえ話」だ。 現実に対し直接的な批判や風刺が難しい時(政治情勢など)、ファンタジーは雄弁となる。 宮﨑駿は『風の谷のナウシカ』を生み出した時、当時のバブル期全盛の浮かれた世相には直接的な批判を加えられないと判断し、ファンタジーの力を利用したという。 結果、必ずしも彼の本意通りではなかったにせよ、環境問題他多くのテーマが『ナウシカ』を通して世間に広く顧みられるようになった。 同様のことを海外ではアーシュラ・K・ル=グウィンやミヒャエル・エンデなどのファンタジー界の巨匠たちが実行しており、人種問題や文明・社会批判などの要素を「たとえ話」として描出している。
    さて、僕がどうして今「魔法少女」を選んだのか? これまでの創作は『Wake Up, Girls!』(2014~2015)や『薄暮』(2019)など、ファンタジー要素皆無の現実・日常路線の作品が続いた。 それは、二作とも東日本大震災を「批判」することではなく、むしろそのまま「語り継ぐ」必要があると判断したからだ。 だから被災地の様子もそのまま絵に起こし、原発問題も現実問題として登場人物の中に設定した。 これはつまり高畑勲の言う「現実を描き起こす」機能として、アニメを活用したのだと言える。因みに彼も『火垂るの墓』(1988)では(若干のファンタジー要素はありつつも)戦争の惨状を徹底したリアリズム志向で描いている。
    過去の悲劇や災禍をまずはそのまま「伝え残す」、そのためには当然、ファンタジーよりリアリズムが相応しいと、僕は考える。
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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉第三章 オープンワールドと汎用人工知能(1)

    2020-08-07 07:00  
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    (ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第三章「オープンワールドと汎用人工知能(1)」をお届けします。東洋的な思想を通じて「存在としての人工知能」について論じた前回を踏まえて、今回はビッグデータやアルファ碁を例に取りながら、高度化していく人工知能の現状と未来について考察します。
    (1)果てのない世界のための人工知能
     前章までは、人工知能の内部構造について、東洋的知見に基づいて議論を展開してきました。要点としては、西洋的な問題特化型が機能的な性質の実現を目指すことに対して、存在としての根を持とうとする人工知能を、東洋的な人工知性という言葉によって表現したい、ということでした。この章では、その議論を踏まえつつ、方向を変えて、世界に人工知能を展開していくことを考えてみましょう。  2010年代前半から始まる、第三次人工知能ブームの特徴は、インターネットを通じて蓄積された膨大なデータ、ビックデータと呼ばれる集積されたデータを使って人工知能を学習させることで、人工知能のクオリティを向上させることです。しかし、それでも、人工知能はフレーム問題が解決されたわけではありません。フレームとは人工知能が物事を考える設定のことであり、たとえば将棋のような要素とルールからなります。しかし、人工知能は自らがフレームを作り出すことはできず、拡大して行く人工知能の活躍の場に際しても、問題ごとに一つの人工知能を割り当てているのが現状です。  現在のビックデータの解析においても、大変なのはビックデータ解析そのものよりも、ビックデータとしてデータをきれいに整備する、いわゆる「洗浄」(前処理)という操作です。解析そのものはアルゴリズムですから、いったん開始すれば人間は待つしかありません。知的な解析と解釈をアルゴリズムが実行してくれるという意味で、特にビックデータ解析は人工知能に向いた分野と言われるわけですが、しかし、その人工知能に与えるデータは、その人工知能がきちんと解析できるように、余計なデータを省いたり、データを簡単な関数で変換したり、結合したり、スケールを変えたりする必要がある場合が多くあります。最終的には、そういった操作自体も、解析プログラムの中で仕込んでしまえば良いのですが、そのデータが作られた「人間的な事情」があり、それを加味してデータを整備することもあります。たとえば、あるデータはその日、8分間の停電があったため、時刻が飛んだデータになってしまったとします。せっかくナンバリングしているファイル名も変える必要があり、そのように時刻が飛んだデータを解析することによる影響がどのくらいあるか、といったことはそのアルゴリズムを実行する人工知能ではなく、アルゴリズムの性質を知る人間にしか判断できないという問題があります。そうやって純粋なアルゴリズムの周囲に、アルゴリズムをうまく動かすための「工夫」を積み重ねていくときに担当者が感じるのは「世話がやけるなあ」ということです(図3.1)。

    ▲図3.1 人間、人工知能、人間という処理の順番
     かつて画像処理のアルゴリズムは、画像の特徴に応じてさまざまな手法を人間が組み合わせて探求する分野でした。色々な前処理、アルゴリズム、後処理などです。ディープラーニングは、そのような画像の特徴を自動的に抽出する「折り畳みニューラルネットワーク」という技術が織り込んであるために、自動的に特徴を抽出する機能を持っています。ここではニューラルネットが画像や映像の特徴を自動的に、マルチスケールで抽出してくれます。これを行動決定に使うと、画像処理のプログラムから人工知能のプログラムになります(図3.2)。

    ▲図3.2 画像処理から人工知能
     このように、人間が、世話をする部分が減り、人工知能の担当する部分が増えると便利になります。世話をするのは人工知能の実行前だけでなく、人工知能の実行後の部分も同様です。前の部分に対しては、人間は「準備が面倒だな」と思いますし、後の部分に関しては「ここまでやってくれたらなあ」と思うわけです。お掃除ロボットのために、最初にロボットが掃除をしやすいように家具を片付け、掃除の後に家具を元の位置に戻したりしながら、そう思われた方も多いかと思います。つまり、人工知能はできることが決まっており、また行う領域も決まっており、その舞台は人間が整えなければなりません。人工知能を運用するには、人間がした方がよい領域と、人工知能がした方がよい領域をよく知って運用する必要があります。そして、人工知能技術の発展はその境界を変化させます(図3.3)。

    ▲図3.3 人間、人工知能の住み分け、そしてその拡大
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  • 読書のつづき[二〇二〇年五月第一週] 大型連休に為する事|大見崇晴

    2020-08-06 07:00  
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    会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。緊急事態宣言が延長され、例年繰り返してきた読書生活のリズムにも狂いが生じる大型連休。ステイホームで部屋掃除ばかりが捗る中で、往年のテレビバラエティの旗手らの変調や世間の「カモ」たちの動向を横目に、歴史なるものの功に思いを馳せます。
    大見崇晴 読書のつづき[二〇二〇年五月第一週] 大型連休に為する事
    五月一日
     部屋片付け。カルペンティエール『方法異説』[1]、チェスタトン[2]『チョーサー』[3]が見つかる。独裁者もの[4]が読みたくなっていた昨今だから、ちょうど良かった。
     長谷川宏[5]訳のヘーゲル『美学講義』[6]を落札。
    「全力!脱力タイムズ」がテレワークを前提としたコントを放送。この手のものではいち早い。
     注文しておいた以下の書籍が届く。
    ・デイヴィッド・ロッジ[7]『絶倫の人 小説H・G・ウェルズ』 ・ロバート・ブレイク『英国保守党史』 ・ジャン・クリストフ・アグニュー『市場と劇場』
     ロッジとブレイクの本は、第二次世界大戦前、カズオ・イシグロが描いた過去のイギリスが描かれているようなもの。イギリスという国は二つの大戦を経て、植民地を手放し、連合王国の栄光を失った。世界の覇権というものがあるならば、第一次世界大戦が終戦したあたりでイギリスからアメリカ合衆国に、それは移行している。そうだとしても、当時のイギリスは依然として植民地を多く抱えた宗主国に変わりなかった。
     パンク・ロックを代表するボーカリストであるジョン・ライドン[8]はザ・キンクス[9]のファンとして知られている──このこと自体が英国の複雑さを物語っている。ジョン・ライドンは家系をたどればアイルランド移民であり、差別の対象だったわけであるから──が、キンクスには『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』という名盤がある。このアルバムは、イギリスの絶頂期にあたるヴィクトリア女王の時代が過ぎ去り、オーストラリアに移住する家族の物語をコンセプトに作られた。発売されたのは一九六九年だが、ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』[10]を発売したのが一九六七年だから、それから二年遅れてのことになる。ロック史、というよりは商業音楽史の重要なエポック・メイキングのことなので、さも常識のように『サージェント・ペパーズ』と略されるビートルズのアルバムは、レコードアルバムが楽曲を集めたコンピレーションというものから、コンセプトに沿って録音された芸術であると、多くの聴衆の理解(受容意識)を変えた作品だった。
     ある意味においてはへんてこなことである。イギリスのロックシーンは世界を席巻しているのである。しかしキンクスは「大英帝国の衰退」を歌わなくてはいけなかった。このへんてこさは当時のイギリスを考えると理解ができる。ビートルズは一九六五年にエリザベス女王から勲章を受章したが、これはイギリスがビートルズのレコードで外貨を多く獲得できたからというものだ。それほどまでに商業音楽というものは巨大化していたわけだが、イギリスはすでにして工業において他国に遅れを取り始めていた。だからこそビートルズの輝きは、より鮮明に思われたわけである。産業革命が起こった国であるイギリスは、脱工業化のまっただなかにあった。工業と貿易で世界に覇を唱えたイギリスは国のつくり自体を大きく変えなくてはいけなかった。それゆえの「衰退」であり、オーストラリア行きである。そのオーストラリアは、形式的にはイギリス国王を君主としているからイギリスみたいなものだが、二〇世紀には実質的には独立国家になっている。イギリス本国にとって、領土の開墾という意味よりも、富の源泉である国民が流出しているという意味のほうが大きくなっている。
     連合王国であるイギリスの悩みというものを、小説や演劇などよりも、ポップ・ミュージックであるロックがわかりやすく、かつ芸術的に成立したものとして表現してしまうのが、第二次世界大戦のイギリスである。レコードを中心とした音楽産業はイギリスを抜きにして語ることが難しいだろう。しかし、大戦後の小説をイギリス抜きでも語れてしまいそうなぐらいには、目立たなくなっていく。その理由はいったい何なのだろう。

    [1]『方法異説』 キューバの作家アレホ・カルペンティエールが一九七四年に発表した長編小説。小説は水声社から寺尾隆吉の訳で二〇一六年に刊行された。「啓蒙的暴君」である架空の独裁者を描く。
    [2]G・K・チェスタトン ギルバート・キース・チェスタトン。イギリスの作家、評論家。一八七四年生、一九三六年没。熱心なカトリック信者としても著名。推理小説の古典となっている「ブラウン神父」シリーズは彼の手によって生まれた。一九〇九年に発表した『正統とは何か』はキリスト教擁護論の古典であり、多くの保守主義者が参照する一冊となっている。
    [3]ジェフリー・チョーサー イギリスの詩人、外交官。一三四三年ごろに生まれ、一四〇〇年没する。ボッカチオの物語集『デカメロン』の影響を受け、『カンタベリー物語』を執筆した。未完となったが『カンタベリー物語』はイギリスを代表する文学作品として評価されている。
    [4]独裁者もの(独裁者小説) 第二次世界大戦後、植民地だった地域はそれ以前から引き続き次々と独立したが「開発独裁」と呼ばれる軍事力を背景にした独裁政権が多かった。ラテンアメリカも多分にもれず独裁国家が多かったため、一九七〇年代に体制を皮肉った文学が流行を見せた。代表的な作品はカルペンティエール『方法異説』(一九七四)、アウグスト・ロア=バストス『至高の存在たる余は』(一九七四)、ガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』(一九七五)など。
    [5]長谷川宏 日本の在野研究者。一九四〇年生。一九六八年東京大学大学院哲学科博士課程を終了。学生運動に参加したこともあり、大学に就職しなかった。一九九〇年代から読書会の成果であるドイツ哲学者ヘーゲルの翻訳を続けて刊行する。訳書はヘーゲル『哲学史講義』(一九九二~一九九三)、『歴史哲学講義』(一九九四)、『美学講義』(一九九五~一九九六)、『精神現象学』(一九九八)など。
    [6]『美学講義』 ヘーゲルがベルリン大学で開いていた美学の講義を、受講していた学生のノートを元に書籍化したもの。一般的には聴講生だったホトーのノートに依拠したものが広まっている。近年シュナイダーという速記者が残したノートを元にした講義録も出版されている。
    [7]デイヴィッド・ロッジ イギリスの作家、英文学者。一九三五年生。一九九八年に長年にわたる功績から大英帝国勲章が授けられた。大学の研究者を題材にとった『交換教授』などで知られることになったが、近年はヘンリー・ジェイムズやH・G・ウェルズの伝記小説を著している。
    [8]ジョン・ライドン イギリスのミュージシャン。一九五六年生。ニックネームは「ジョニー・ロットン」で、この名前で呼ばれていた時期にセックス・ピストルズに参加。一躍パンク・ロックの代名詞的存在となる。アイルランド系移民の子供で、幼少期に差別を受ける。七歳で髄膜炎を患って昏睡状態に陥るなど弱者の立場を経験していた。衰退にあるイギリスで体制(現状)を皮肉った「アナーキー・イン・ザ・UK」、「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」、「プリティ・ヴェカント」などの作詞を手掛ける。過激な詞が原因で保守派の暴漢からナイフで襲われた。セックス・ピストルズ脱退時に「ロックは死んだ」と発言し、このことは広く知られることになった。脱退後は、クラウト・ロックと呼ばれた西ドイツの実験的なロックや、ジャマイカで生まれイギリスでも独自に発展していたダブを愛好していた友人らとP.I.L.(パブリック・イメージ・リミテッド)を結成。一九九三年と二〇〇七年にセックス・ピストルズを再結成したが、そのたびに「金のためだ」と取材に応えた。二十一世紀に入るとリアリティーショーに多く出演し、テレビタレントとしてを活動の領域に加えた。女性ミュージシャンへのリスペクトが多いことでも知られ、スリッツやレインコーツ(のちにソニック・ユースのメンバーとなるキム・ゴードンが所属)を評価し、後押しをした。
    [9]ザ・キンクス イギリスのロックバンド。一九六四年にレイとデイヴのデイヴィス兄弟によって結成された。オアシスがデビューする以前は兄弟仲の悪いバンドの代名詞のように必ず名前が挙がっていた。デビュー年のシングルである「ユー・レアリー・ガット・ミー」はヴァン・ヘイレンによってカバーされた名曲。ディストーションサウンドを広めた楽曲として知られる。「ウォータールー・サンセット」は男女の恋愛風景を描いた名曲として知られる。七〇年にヒットした「ローラ」は自分を誘惑した美女が実は男性だったことを歌ったもので、ミュージカル「キンキー・ブーツ」に影響を及ぼした。
    [10]『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』 ザ・ビートルズのアルバム。一九六七年に発売され、グラミー賞では「最優秀アルバム賞」、「最優秀コンテンポラリー・パフォーマンス賞(ロック部門)」、「最優秀ポップ・ボーカル・アルバム賞」、「最優秀アルバム技術賞(クラシック以外)」、「最優秀アルバム・ジャケット賞(グラフィック・アート部門)」を受賞した。架空のブラスバンド「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のショウを収録したレコードというコンセプトをとっており、バンドの自己紹介からアンコール曲で締めくくられる構成となっている。

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  • 序章 デジタルネイチャーからマタギドライヴへ|落合陽一

    2020-08-05 07:00  
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    『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』刊行から2年余。いよいよメディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの連載がスタートします。ユビキタス化した情報テクノロジーが世界を再魔術化していく原理を読み解いた初の単著『魔法の世紀』、その力がもうひとつの「自然」となって社会を変えていく未来像を描いた『デジタルネイチャー』につづく本連載では、そこで生きていくための新たな人間像やクリエイティビティの在り方を模索します。序章では、第3のコンセプト「マタギドライヴ」に至る道筋について語ります。
    落合陽一 マタギドライヴ序章 デジタルネイチャーからマタギドライヴへ
    「魔法の世紀」に汎化してゆく「デジタルネイチャー」
     新しい連載を始めるにあたって、私の最初の本である『魔法の世紀』以来の議論を振り返っておきたいと思います。  同書のコアにある考え方、その着想のヒントは、自分のメディアアート表現にありました。映像のようであって物質であるもの、あるいは物質のようで映像であるものというように、両者のはざまにある、どちらともつかないものについての思考です。おそらくそこから、バーチャルとリアルの垣根を越えた表現や、次世代志向のコンピューティングが見つかっていくだろうと、博士課程のころからずっと考えていました。  その裏側には、計算機というテクノロジーが、全貌を理解不可能なブラックボックスとして現実世界に浸透しているという状況があります。つまり、計算機が生成するCGのような物質を伴わない映像が実世界指向のインターフェースで物質のように扱えるようになったとき、もはやそれは魔法のような奇跡に近いものとして多くの人々に経験されることになる。VRの開祖アイヴァン・サザランドも世界初のヘッドマウントディスプレイに関する論文の中で、アリスの世界のように物質を操れる部屋のような概念を究極のディスプレイと表現していますし、アーサー・C・クラークの有名な法則「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」とも言われていることもあります。しかし、その裏側にはブラックボックスによる世界の再魔術化があり、虚構と現実の区別がつかない(人の感覚器の意味でも、フェイクニュース的な意味でも、仕組み自体という意味でも)魔術の中に身を置くことになる、という議論をはじめました。  そこから、第二次世界大戦を契機に生まれたコンピュータ技術の歴史をひも解きながら、映画やテレビジョン放送といった映像技術が近代国民国家の統合装置として機能した「映像の世紀」たる20世紀の世界が、いかに技術と芸術の交錯を通じて再魔術化されて塗り替えられてきたのか。そうした21世紀という時代の変化を、「魔法の世紀」と名付けました。
     この『魔法の世紀』という本の最後に出てくるのが、「デジタルネイチャー」という考え方です。  それは、映像と魔法を対峙させたこの本において、映像と物質の垣根を越えた先に生まれる新たな自然観を考えたものです。映像というものが質量のない自然の写し絵だとすれば、いま計算機の力が現出させているのは、質量をもつ元来の自然そのものに近づく何かになります。現実に出てくることもあれば、引っ込むこともある。触ろうとした瞬間に消えてしまうこともあれば、実際に物質的な価値を持っていたりすることもある。質量のある自然と質量のない自然の二つの自然が横たわり、双方の姿を変えようとしている。  実際のコンピュータ技術としては、例えばユビキタスコンピューティングやIoT、サイバーフィジカルシステム、あるいはアイヴァン・サザランドが提起したアルティメットディスプレイなどを通じて、それは具現化されています。つまりは、コンピューター上でどのように理想の世界を再現するかという試みと、この世界をどのように大量のコンピューターで覆っていくかという試みが合流したところに、元来の自然とは異なる新しい自然が生まれているのではないか。このビジョンを本格的に展開したのが、前著『デジタルネイチャー』でした。

     こうした考え方に基づいて、筑波大学で2015年からデジタルネイチャー研究室を主宰していたのですが、その後2017年から大学としてデジタルネイチャー推進戦略研究基盤が発足し、2020年にはデジタルネイチャー開発研究センターが設立されました。  ここにきてデジタルネイチャーの像はより明確化していて、ユビキタスコンピューティングおよびIoT、サイバーフィジカルシステムの基盤となる計算機技術によって、音や光などあらゆる波動現象をコントロールする技術により、実物と見まがう映像を空中に浮遊させることができたり、さらに自然物と区別しがたい人工物が生まれつつあります。つまり、計算機技術が生み出した人工物と自然物の相互作用によって再構築された新たな環境として、デジタルネイチャーは具体化しつつあります。つまり、「デジタル/ネイチャー」ではなく、「デジタルネイチャー」というべき「新しい自然」の姿が明確になってきました。  より具体的なレベルでは、狭い範囲では3DプリンターやAR/VRなどの要素技術を用いて構築されていて、人工生成物を自然環境との相互作用で再びデータ化し、さらに関連するフィードバックループによって進化させていくような自律系として考えていくことができます。あるいはロボティクスとして表現されることもあれば、CGとして表現されることもある。そのような新たな自然の形成方法を工学的に研究しながら、文化・芸術の実践も行っていこうというのが、新たに発足する研究センターの概要です。
     また、もうひとつデジタルネイチャーの新展開としては、日本科学未来館の常設展示として2019年から「計算機と自然、計算機の自然」を公開しています。ここでは、現実世界と計算機上で再現された世界の区別がつかなくなるときに、我々の自然観そのものが更新されるのではないかということを人々に問いかける取り組みを行っています。  つまり、いまや我々が作り出した計算機はこの世界にあふれ、それが作り出す世界の解像度や処理能力が、わたしたちの持つ知覚や知能の限界を超えつつある。近い将来、元来の自然と計算機の作り出した自然の違いはますます薄れていき、その違いが意識されない、新しい大きな自然として統合されていく在り方を想像しようということが、この展示のテーマです。現実の蝶々と見まがうデジタルの蝶や砂粒のような人工部品など、ミクロ的なものからマクロ的な世界像までを体感できる展示空間が実現しました。


    ▲日本科学未来館「計算機と自然、計算機の自然」©Yoichi Ochiai
     このように、デジタルネイチャーというコンセプトは、私の本を読んだ人以外にも、徐々に世の中に浸透つつあります。計算機を主軸においた自然環境を含める大きな自然生態系に関するビジョンは、新しい自然観として議論されつつあります。例えば、ガイア仮説のジェームズ・ラヴロックは最近、「人新世」ののちに「ノヴァセン」という計算機や機械による新たなる地質年代を想定する考え方を表明しています。  なぜこうした新しい自然が出現するかの本質を社会的・経済的な条件に即して言えば、未来学者ジェレミー・リフキンの『限界費用ゼロ社会』などで言われている通り、情報テクノロジーの利活用にまつわる限界費用が限りなくゼロに近づいていくからです。このように限界費用が下がった環境で、いま通信網を通じてオープンソフトウェアやハードウェアにアクセスしたり、GitHubなどのプラットフォームを共有したりしながらものづくりを行い、SNSでそれが拡散して新しいテクノロジーを生み出していくといった流れが促進され、それがまた新たな環境を更新していく。 また、自然に含まれる計算プロセスを利用しようという考え方も、「ナチュラルコンピューテーション」、「ナチュラルコンピューティング」などと呼ばれており、自然を演算装置としてみる考え方と、自然から演算機に入力し、自然に再出力するような考え方は相互乗り入れしています。そこには計算機の生態系の一部としての計算機自然(デジタルネイチャー)があり、元来の自然の多様性に基づき、地産地消の進化を遂げていることもあります。  地産地消のテクノロジーについては、一時期メイカーズムーブメントがもてはやされたりしましたが、今後はもっと自然な流れでわれわれの生活に土着していくことになります。このようにデジタル環境が新しい価値を生み出していくプロセスは、発酵のプロセスに似ているかもしれません。たとえば、微生物が作物を発酵させる作用を利用して酒や醤油を醸造したりするように、限界費用の低下したデジタル技術を利用して、様々なプロダクトやカルチャーが生み出されていく。限界費用の低い自然に根差した文化的な意味と、地産地消のナチュラルコンピューテーションというテクニカルな意味の両方を含んでいます。そうした「デジタル発酵」の現象を伴いながら、この社会にいま新たな自然が築かれているのだと見立てることができるわけです。これは2019年のSXSWの基調講演で発表し、近著『2030年の世界地図帳』の中でも解説している考え方です。  限界費用の低いテクノロジーの上に生み出されたデジタルネイチャー上には、現実とほぼ区別がつかないような人工物を作られていくのかもしれないし、逆に人間の側が新たな人工環境のシステムに慣熟して適応していくことになるのかもしれない。前著『デジタルネイチャー』には、人間がデジタルで飲み会を行うようになるということを書きましたが、まさにCOVID-19のパンデミックを機にオンライン飲み会が浸透していくなど、人々の行動変容にも顕れているわけです。目下、自然観としては、人工と自然の区別のつかない新しい自然と新しい日常や新しい行動へと変容しつつあります。
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  • YouTubeとNetflixは世界をどう変えるのか|明石ガクト

    2020-08-04 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、イベント「遅いインターネット会議」の冒頭60分間の書き起こしをお届けします。本日は、明石ガクトさんをゲストにお迎えした「YouTubeとNetflixは世界をどう変えるのか」です。YouTubeやNetflixなどの映像配信プラットフォームの台頭により、エンターテイメントの世界が大きな変容を迎える中、今後求められる映像コンテンツとはなにか。そして、それらのコンテンツは、どのように受容され、文化の地図をどう牽引していくのでしょうか。明石さんと考えます。(放送日:2020年7月7日)※本イベントのアーカイブ動画の前半30分はこちらから。後半30分はこちらから。
    【本日開催!】8月4日(火)19:30〜「思想としての発酵/発酵する思考」(ゲスト:小倉ヒラク)話題をあつめた『発酵文化人類学』や、各地のユニークな発酵食品を集めた専門店「発酵デパートメント」の開業など、世界でただひとりの「発酵デザイナー」として精力的に活動する小倉ヒラクさん。味噌や醤油、ヨーグルトに醸造酒と、人類が古来から豊かな食文化を築くために活用してきた微生物たちの「発酵」という活動には、どんな叡智が隠されているのか。そして多彩な発酵食品や醸造文化との付き合い方を見つめ直すことで、現代人の生活をどう豊かにしていけるのか。目に見えないものたちとの協働が育む思考や世界各地の発酵文化の魅力など、「発酵」を通じて見えてくる社会とライフスタイルへの気づきについて、たっぷりと学んでいきます。生放送のご視聴はこちらから!
    遅いインターネット会議 2020.7.7YouTubeとNetflixは世界をどう変えるのか|明石ガクト
    長谷川 こんばんは、本日ファシリテーターを務めます、モメンタム・ホースの長谷川リョーです。
    宇野 はい、みなさん、こんばんは。PLANETSの宇野常寛です。
    長谷川 「遅いインターネット会議」。この企画では政治からサブカルチャーまで、そしてビジネスからアートまで、様々な分野の講師をお招きしてお届けしております。本日は有楽町にある三菱地所さんのコワーキングスペース、SAAIからお送りしています。本来であれば、トークイベントとしてこの場を皆さんと共有したかったんですけれども、当面の間は新型コロナ感染防止のため動画配信と形式を変更しております。今日もよろしくお願いします。それではさっそくゲストの方をご紹介いたします。今日のゲストはワンメディア株式会社代表取締役の明石ガクトさんです。
    明石 よろしくお願いします。
    宇野 よろしくお願いします。
    明石 いやぁもうね、ほんとはここで割れんばかりの歓声と拍手。
    宇野 そう、僕の想定では猪木コールばりの、割れんばかりのガクトコールで始まる予定だったんですけど(笑)。
    明石 「ガクト! ガクト!」って感じになるはずが(笑)。
    宇野 そのはずが、まさかの無観客ですよ。
    明石 マジっすね、ほんと。
    宇野 僕ら、半年近く無観客やってるので、恐るべきことに無観客にこそ慣れつつある。
    明石 しかし、この広大な空間で無観客だと、短パン履いてきたことが間違いだったなってくらい足がスースーしますね(笑)。
    宇野 ちなみに僕も短パンで、ハセリョーはジャージ。有楽町でこんな格好してる3人組ってもう僕たちだけですよ(笑)。
    明石 ほんと、3密とは程遠い空間で(笑)。
    宇野 下半身から疎な感じで行こうかなと思ってます。
    明石 未来感じますね。
    宇野 間違いなく最先端なんで頑張って、気合入れていきましょう。
    長谷川 さて、本日のテーマですが、「YouTubeとNetflixは世界をどう変えるか」です。YouTubeやNetflixなどの映像配信プラットフォームの台頭により、エンターテインメントの世界は大きな変容を迎えております。今後、求められる動画コンテンツとは何か。私たちはそれをどのように受容し、楽しむことができるのか。それらのコンテンツは文化の地図をどのように牽引していくのか。動画制作のプロフェッショナルである明石ガクトさんと議論していきたいと思います。
    宇野 以前、明石さんが『動画2.0』という本を出したときにPLANETSチャンネルの番組に来ていただいて、いろいろ話したわけですよ。自分の著書『遅いインターネット』で引用させてもらったんだけど、20世紀を代表した劇映画というカルチャーが、インターネットの中で大きく変質していて、今や動画はコミュニケーションツールのひとつに過ぎないのだ、ということを「映像から動画へ」というキラーフレーズで表現していたのがあの本だった。あれから2年ぐらい経ったのかな?
    明石 そうですね、ちょうど2年くらいですね。
    宇野 この一連のコロナ騒ぎが起きてステイホームの時代になったことが、あの本が予言していた状況を決定的に後押ししたと思うんです。そこで今日は、このタイミングでもう一度、明石さんと議論の続きをしたいなと思ってお呼びしました。
    明石 いや、めっちゃありがたいですね。宇野さんほど、あの本で本当に言いたかったことを汲んでくれている人はいないです。いかに日本人の読解力が下がってるかっていうこともあるのかもしれないけど(笑)。「映像から動画」みたいなテーマの時には、みんな表面的なことを聞きたがるんですよ。けれども、宇野さんが今言ったように「動画はコミュニケーションツールのひとつになる」っていうことを、あの本では言いたかったんです。今まさにコロナ禍で大きな変化が起こっている中で、そのコミュニケーションツールとしての動画の役割が先鋭化してきている。そういうことを「これから動画に起きる10の変化」としてまとめていて、この後スライドにも出てくるんですけど、今日はそのあたりのことをたっぷり語り合いたいなと思っています。
    宇野 はい。よろしくお願いします。
    「withコロナ時代」において動画コンテンツ、ビジネスはどう変化するか
    長谷川 それではさっそく議論に入っていきたいと思います。本日は2部構成で番組をお届けします。前半では「with コロナ時代」において動画コンテンツ、ビジネスはどう変化していくのか議論していきたいと思います。後半では、これからの動画を考えるうえで、重要になる作品を5つ挙げていただき、それについて話していきたいと思います。ではまず、最初にコロナショックを受けて、これからの動画業界にどのような変化が起きるのか、動画コンテンツ、ビジネスはどう変化していくのかについて、明石さんからお話を伺いたいと思います。

    明石 いまお見せしている、この「The STORY MAKERS」というスライドを何のために作ったのかっていうと、コロナショックでONE MEDIAの仕事がめっちゃ飛んだんですよ。
    宇野 やっぱり飛ぶんですね。
    明石 具体的な金額をあえて言ってしまうと、3.8億円くらい飛んだんですよね。4〜5月の間、宇野さんとは別の収録で一回会ったんですけど、僕は本当にすごく暗かったんです。会社が潰れるかもしれない状況なんで暗くなるんですけど(笑)。
    宇野 そうですよね(笑)。
    明石 そこから復活するためには、「動画」とか言っていても仕方ないんじゃないかって思ったんです。要は、動画ってほとんどの人にとって、いわゆる不要不急のもので、もっと本質的なものに立ち返らなければいけない。それで作ったスライドを今日は持ってきています。

     それで、いろいろやろうと思って、最初にNewsPicksの記事を書きました。もう、困ったときのNewsPicks、みたいな感じで記事寄稿したんですが、これがすごいバズって。今、左下に「バズるは古い」って書いてあって自己矛盾がすごいんですが(笑)。
    宇野 これいいっすねぇ(笑)。
    明石 けっこう読まれた記事で、この中でいろんな表面的なテクニックみたいなものを書いているんですけど、本質的なメッセージとしては、「VUCA」の時代です。

     もともとは軍事用語として使われている言葉なんですが、今って不確定な時代で、いろんなものが複雑になっているから未来予測が非常に困難になっていくよね、ということです。たとえば、70年代、動画コンテンツ、映像コンテンツの世界では、レスラーが空手チョップをやるだけで群衆がワーッと沸き立ち、ウルトラマンがスペシウム光線を出すだけでキッズは大盛り上がりだったんです。そこと比べると、今の『仮面ライダー』や戦隊ものって、半端なく複雑になっているじゃないですか。これはビジネスにおいてもそうで、どんどん世の中の複雑性が増していて、何が当たるのかもわからなくなっている。

     そういう時代に、コロナショックが起きた。それで、最初に述べたように僕の会社も、飲食業界、旅行業界やいろんなところが大変なことになったんです。

     このスライド、イーロンマスクのロケットが打ちあがった瞬間の写真を使ってるんですよ(笑)。
    宇野 それ説明されなきゃわからないですよ(笑)。
    明石 僕、この打ち上げの写真を見ながら「動画とかって必要なのかな」とか考えちゃったんです。もっと言うと、僕らはクリエイティブを作る会社なので、絶対に打ち合わせが必要だと思っていました。会議室に集まって、ホワイトボードにワーッと書いた中からいいアイデアをひねり出そうとやっていたのが、コロナショックでみんなが在宅勤務になって、できなくなってしまった。それで、Zoomでやってみたら、意外とオンライン会議の方がアイデアが出るんです。オンラインの方が会議室の上座と下座みたいな概念もないし、偉そうにふんぞり返ってるだけじゃダメだから自分で意見を言わなきゃ、と思うようになって、むしろうちのクリエイティブが息を吹き返してきた。本質的には、いい議論が必要なのであって、ホワイトボードを使ったりして長時間の打ち合わせをする必要はなかったんです。それで、そういったエッセンシャルなものに向かっていかなきゃいけないと思ったんですね。
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  • 落合陽一さんの新連載「マタギドライヴ」開始!

    2020-08-03 11:30  
    PLANETSメールマガジンにて、メディアアーティスト・落合陽一さんの新連載がスタートします!
    題して「マタギドライヴ」。
    『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』刊行から2年余。
    ユビキタス化した情報テクノロジーが世界を再魔術化していく原理を読み解いた落合さん初の単著『魔法の世紀』、その力がもうひとつの「自然」となって社会を変えていく未来像を描いた『デジタルネイチャー』につづく本連載では、そのような社会で生きていくための新たな人間像やクリエイティビティの在り方を模索します。掲載は今月(2020年8月)からを予定しています。お楽しみに!

    撮影:蜷川実花
    落合陽一(おちあい・よういち)
    メディアアーティスト。1987年生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了(学際情報学府初の早期修了)、博士(学際情報学)。筑波大学デジタルネイチャー開発研究センター センター長