10月26日に発売された、宇野常寛の待望の新著『母性のディストピア』。その内容を題材にして、長年の盟友である濱野智史氏と共に日本のこれまでとこれからについて語ります。第4回では、大塚英志氏のオタク論をいかにして継承するか。また、「語り口」の問題に左右されてしまう批評の言語の限界について議論します。(構成:斎藤 岬)
※その他の回はこちら。(第1回、第2回、第3回、第4回、第5回)
批評の言語の脆弱さと「語り口」の問題
宇野 『母性のディストピア』はやたらと長くなったんだけど、その原因のひとつが、作品をちゃんと紹介しているからなんだよね。
濱野 それは宇野さんの特徴でもあると思う。実は僕は平成ライダーシリーズはちゃんと観ていないんですが、実際に作品を観るよりも『リトル・ピープルの時代』を読んだほうが、平成ライダーシリーズの知識や理解度が深まることは間違いない。僕は宇野さんのおかげで、平成ライダーを観ている人と語り合えたりしますもの(笑)。
▲『リトル・ピープルの時代』
宇野 それが狙いで、追体験してほしいというのはある。あと今回は過程を見せたかったんだよね。インターネット以降、改めて本の役割が問われている。結論を伝えるだけならツイートでいいわけで。この本では、なぜ一回現実を切断し、虚構の世界に逃避することが必要だったのか。結論だけを受け取るのではなく、なぜアニメの世界において、現実の世界で完全に断絶した〈政治〉と〈文学〉の問題が、独特のアイロニカルな接続をなしえたのか、その過程をしっかりと見せることが必要だと考えていて。だから作品の内容もしっかりと紹介してるんだよね。
濱野 想像力のいらないものほど140字で終わりますからね……。まあだからこそ、いまやTwitterは言論のディストピア状態に陥ってしまっているのが皮肉なところではありますが。
さて、ちょっと話題を変えたいのですが、そもそも宇野さんは「想像力」という言葉にすごく思い入れがありますね。これは実は『ゼロ年代の想像力』を出された頃からずっと思っていたのですが、宇野さんはこの言葉を普通の人よりかなり重い言葉として使っている印象がある。ちなみに僕自身は「想像力」という言葉を大して重視していない。僕だけじゃなく、いわゆる人文・社会科学系の発想だと、人間は理性、つまり論理性や合理性で振る舞うのが基本であって、「想像力」はむしろ添え物だという発想のほうが強いと思うんですよ。「他者への想像力は必要だ」みたいな使い方くらいはするけど、それも結局ロールズのいう「無知のヴェールが〜」的な理論的根拠を持ってこないと、なかなか「想像力」をまず前面に出すという語り方ができない。宇野さんの使う「想像力」というのは、そんなものよりももっと独特の重みを持っていますよね。だから、宇野さんはどうして「想像力」という言葉にこだわっているのかな、とかねてから関心はあったんです。
宇野 それはサブカルチャー評論家としてだよね。つまり「理性を持って、立派な近代的市民として成熟しよう」と言ったときに、「人間はそれだけで生きていけないでしょ」というところを基盤に置かないと、ものを書いている意味がない。その立場から発言するしかないところが、僕の動機と直結しているんだよね。
濱野 なるほどな……。そこも僕とは全然違っていて面白い。僕は実はわりと今回の対談を通じて改めて思ったけど、やっぱりポストモダン社会における動物的主体として「開き直っている」ところが多々ある。それこそ自分自身も含め、人間なんてどうせ完璧な理性なんて無理だし、動物的にコントロールできるんだから、とっとと環境管理でスマートな社会運営をしよう。ただし、独裁はまずい。だから、なるべく民主的でオープンなアーキテクチャ設計/管理の方式を考えて、旧き良き近代的でリベラルな理念も「そこそこ」21世紀以降に埋め込むにはどうするか……くらいの感じなんですよね、正直。
だから『母性のディストピア』で書かれたような、日本のアニメが育んできた想像力の巨大なねじれや独特さに改めて向き合って、いやちょっと自分は楽観的すぎたな、と素朴に反省したんですよ。だから宇野さんが、いまの世の中にはそういう想像力のファイトをする相手がおらず、だから過去のアニメ界の巨人に向かうという気持ちも、非常によく分かった。
ただ、ひとつ思ったのは、実は『ゼロ年代の想像力』の中にも、「母性のディストピア」という言葉を使って一章を割いていますよね。だから宇野さんとしては、これはずっと抱えていたモチーフだったと思うんですが。
宇野 『母性のディストピア』は昔からずっと書きたかった本で、僕がずっと書きたかったのは究極的には富野由悠季論なんですよ。「有意義なことに人生を使おうと思った」というのは僕の内的な動機で、それは本文にそのまま書いてある。だから、ここで語るべきは、なぜ今のタイミングで本が出るのか、だろうね。外側から見たら『母性のディストピア』が結果的にこのタイミングになってしまった問題には、いろんなものが象徴されているのかもしれない。
濱野 今回の対談に備えて、『ゼロ年代の想像力』も読み直したんですが、いや、宇野さんが当時言っていた「決断主義」の問題って、いまやガンガン強化されて世界中を席巻しまくっているわけじゃないですか。当時は「たしかにそういう風潮があるよね、やばいよね」くらいで、僕はなんだかんだいってわりと楽観的だった。『アーキテクチャの生態系』もまだ楽観的だったんですよ。
それが、いまや本当に「環境管理型権力によって人間の主体性や自由が奪われる……」とか言っている場合じゃなくなってきていて、完全にスマートフォンとクラウドで完全なるスマートな監視「に基づく」サービスフルな社会が到来しつつある。こうしたとき、今までの「監視社会反対!」的な左派的・反権力的な議論の枠組みは完全に機能しない。
▲『アーキテクチャの生態系』(濱野智史)、『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)
宇野 僕も『母性のディストピア』を書いていて「『ゼロ年代の想像力』を書いてた頃は気楽だったな」と本当に思った。あの頃は、知的であることや戦後中流が機能していることが、暗黙の前提になっていた。
濱野 たしかに言われてみればそうですね。それは結構、重要な話かもしれない。特にクドカンの章はすごく印象的で、その後のマイルドヤンキー問題につながっていくんだけど、「そのまま地方って滅びていくだけでいいんですか?」という話になっていて、実はいまの日本の現状を明確に描いている。つまり固有名としてすら認識されない地方って本当に文字通り「滅びる」ことが完全にいまや明らかになっているわけじゃないですか。地方創生なんていっても、要は勝ち負けがはっきりするし、それこそ決断主義的リーダーがいないと絶対に勝てない。でもみんな勝てないから国にすがり、それによりますます日本は国全体としての競争力を失っていく。あのあたりはかなり日本社会の2010年代の先まで予見している評論で、読み直してすごいなと正直思いました。
宇野 『ゼロ年代の想像力』は、自分的には若書きで至らないところもある反省が多い本だし、"編集者・宇野常寛”が書いた本だと思ってるんだよね。今となっては「ファウスト」とかセカイ系とか、本当にどうでもいい話だしね。その一方で、宮藤官九郎とマイルドヤンキー論、あとは『涼宮ハルヒの憂鬱』が実はセカイ系ではなく、セカイ系の限界を示しているという読みは、我ながら正しかったと思う。自分で気に入っているのは、このクドカン論とハルヒ論くらいかな。
僕としては『リトル・ピープルの時代』のほうが好き。平成ライダーという、ほかの人間が注目していないものを取り上げて、〈政治〉と〈文学〉の問題として、村上春樹と接続するアクロバティックさがある。
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