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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第10回 戦後ロボットアニメの「終わり」のはじまり(PLANETSアーカイブス)

    2017-09-11 07:00  



    今回の再配信は「京都精華大学〈サブカルチャー〉論」をお届けします。 富野由悠季『逆襲のシャア』で明らかにされた、ロボットアニメにおける〈成熟の不可能性〉というテーマは、80年代末の『機動警察パトレイバー』によるポリティカル・フィクション的なアプローチを経た後、1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』によって再浮上します(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです/2016年10月28日の記事の再配信です)。
    ロボットの意味が脱臭された『機動警察パトレイバー』
     たとえばバブル絶頂期の80年代末に人気となった『機動警察パトレイバー』というマンガ・アニメ作品があります。ブルドーザーやクレーンといった重機の役割を果たすロボット「レイバー」が普及している近未来の東京では、レイバーを悪用した犯罪が多発している。そこで警視庁がレイバーを導入して犯罪を取り締まっていくという物語です。  この『パトレイバー』のメインは若い警官たちの青春ドラマです。おそらく日本で初めて、警察という官僚組織を細かく描いてコメディドラマにした作品で、要は『踊る大捜査線』の元ネタですね。  『パトレイバー』においてロボットは「あったほうが絵的にかっこいい」ぐらいの扱いになっています。むしろロボットというSF的なアイテムを導入することによって、戦争もなければ民族対立も少ない現代日本において政治的なフィクションを成立させているところに意義がある作品ですね。たとえば劇場版第2作の『機動警察パトレイバー2 the Movie』はクーデターものです。ロボットアニメという器を使って、東京という大都市と、近未来社会のクーデターシミュレーションを描いているんです。
     少し『パトレイバー2』を観てみましょう。これは敵のクーデター部隊が、主人公たちの所属するパトレイバー中隊を襲撃するシーンですね。戦闘ヘリの攻撃に、パトレイバーたちは起動する間もなく格納庫に置かれたまま一方的に破壊されていきます。  これとても象徴的なシーンです。レイバーはあくまでも重機の延長線上であって、戦闘ヘリの前では太刀打ちできないということが強調されています。企画段階から関わってアニメ監督を担当したのは『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の押井守です。押井守にとって『パトレイバー』のロボットはあくまで企画を通すための方便でしかなく、実質的には東京の大規模テロのシミュレーションがしたかったんです。だからこそ、ロボットの意味を徹底的に否定しているわけです。近未来の日本に人型の重機が普及したとしても、その軍事的な価値はゼロだと、かなり露悪的にシミュレーションして見せているわけですね。  こうして、80年代のロボットアニメのノウハウを受け継ぎながらも内側から更新していくようなかたちでロボットアニメは進化していくことになります。  ただし、ロボットや怪獣などのファンタジー的なアイテムを用いることによって「日本の官僚組織や企業社会がどう動くか?」というシミュレーションをやる『パトレイバー』のメソッドは、むしろ『躍る大捜査線』や『平成ガメラシリーズ』といった実写作品のほうに受け継がれていくことになります。こうした潮流については別の回で詳しく扱おうと思います。

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  • 【対談】吉田尚記×宇野常寛『空気の読め(読ま)ない男たち』 いま〈世界の全体性〉を記述できるメディアとは――「業界人幻想」のテレビ、「総合芸術」のゲーム、「他人の人生の代理体験」としてのアイドル (PLANETSアーカイブス)

    2017-09-04 07:00  

    毎週月曜日は「PLANETSアーカイブス」と題して、過去の人気記事の再配信を行います。 傑作バックナンバーをもう一度読むチャンス! 今回は再配信はPLANETSでは人気のコンビでもある吉田尚記さんと宇野常寛の対談です。メディア論をテーマに、ラジオ、テレビそしてネットを主戦場とする2人が、80年代〜現在に至るまでの「メディア」とそれを取り巻く状況の変遷について語りました。(2015年9月17日に配信した記事の再配信です/構成:中野慧)
    「業界内輪ノリ」がテレビをつまらなくしている
    宇野 前回の対談は松井玲奈の卒業がテーマでしたけど、今回は当代随一のラジオパーソナリティであるよっぴー氏と「テレビ」「ゲーム」「アイドル」をそれぞれの時代に対応したメディアとして語ってみたいと思います。 まず、少し前の話になってしまうけれど7月にフジテレビ系で放送された「27時間テレビ」が面白くないということで炎上していましたよね。僕は個別の具体的な演出がどうとかには一切興味がないし、もっと言えば1秒も見ていない。なので、内容に関してあれこれ言う権利はないし、そもそも関心がない。だけど、ネットでの炎上の仕方も含めたメディア論に関しては言いたいことがたくさんあるわけです。
    このあいだの「27時間テレビ」のキャッチコピーは「本気になれなきゃテレビじゃないじゃん!!」だったわけですが、あれって実は1981年の「楽しくなければテレビじゃない」という、フジテレビが快進撃を始めた80年代当時のコピーのもじりですよね。つまり「上り調子だったあの頃を取り戻そう」というのが大きなテーマになっていて、往年の名プロデューサー・片岡飛鳥さんの総指揮のもとで、起死回生を狙ってやっていたものだったんだけど、結果として「内輪ネタが寒い」ということで炎上してしまった。
    だけどそもそも、今までフジテレビがつくってきた文化って、『笑っていいとも!』から『とんねるずのみなさんのおかげでした』に至るまでずっと「内輪ネタ」だったと思うんですよ。
    吉田 そうですね。フジテレビはまさに「内輪ネタ」発祥の地と言えると思います。
    宇野 その「内輪ネタ」の構造って、要するに「東京テレビ芸能界とその周辺の人たちが楽しそうに騒いでいるのを毎回中継して、視聴者みんながそれを羨ましがる」というものだったと思うんですよ。 少し長いスパンで考えてみると20世紀って、新聞・ラジオ・テレビなどのマスメディアによってかつてないほど大規模な社会の運営が可能になった時代だったわけです。その20世紀の後半になってテレビが登場して80年代に最盛期を迎えた。世界的には1984年のロサンゼルス五輪が「元祖テレビオリンピック」と言われていて、画面を通して世界の最前線と繋がる実感を何億人もの人に与えた象徴的な出来事だった。
    要は80年代には「メディアが社会を作る」という前提が広く共有されていた。だからこそ、「メディアを作っている人たちやメディアの中の人と繋がれる」ということが、人々が世界の中心と繋がることを実感できる回路だったわけです。なかでもフジテレビ的な「内輪ネタ」は、人々が憧れる対象としてすごく強力で、とんねるずのスタッフいじりや『笑っていいとも!』の芸能界内輪トークもすべてそういう機能を果たしていた。『笑っていいとも!』的なだらだらとした「半分楽屋を見せる」内輪トークが、視聴者に「ギョーカイ」の一員であるかのような錯覚をもたらす効果があったわけですよね。 「もしかしたら私たちもあの内輪に入れるかもしれない、入りたい」という「テレビ幻想」ともいうべき願望を人々から引き出すことで、フジテレビは「80年代=テレビの時代」の象徴的な位置に登り詰めていった。
    しかし2015年現在の「テレビ離れ」って、それまで情報環境的に決定されていたテレビの優位がネットの登場によって崩れたことによって引き起こされたわけです。そんな状況下で、80年代当時の手法に回帰するなんて自殺行為にも等しいですよ。
    吉田 僕は、そういうフジテレビ的な手法の限界をわかっていてあえて突っ込んでいったんじゃないかという気がしたんです。「やりきってしまうことでちゃんと終わらせよう」というわけですね。 もう、ここまでの騒ぎに発展してしまった以上は来年も同じようなことはできなくなった。つまりリノベーションを行う前段階の、最後の一手だったんじゃないかと思うんです。
    宇野 うーん、リノベーションのためだったら、最初から「内輪ネタ」テイストをゼロにしたものをやったほうが潔かったんじゃないかと思うんだけれど。
    吉田 それは難しいところで、「過去の手法をちゃんとやりきりました」ということを示さないと視聴者を納得させられないということがあるんじゃないかな、と。
    「フジテレビの時代」だった80年代はもう戻ってこない
    宇野 でも、それって視聴者というよりも作っている側の自意識の問題でしょう。もともとフジテレビ的な手法の特徴のひとつって、「楽屋を半分見せる」ということがあると思うんですよ。つまり半分演出として、テレビの裏側を見せることで親近感を煽るというもの。80年代にはそれこそ糸井重里から秋元康まで、時代を代表するクリエイターたちがこぞってこの手法を採っていて、その中核がフジテレビだったと思う。
    だけど現代って、たとえばうちのインターン生がカフェの店長をやっていたんだけど、彼が尊敬する村上春樹に「村上さんのところ」でカフェ経営について質問したら普通に春樹本人から回答が返ってきたりする時代ですよ。もう、メディアの送り手が繊細なコントロールで半分だけ楽屋をチラ見せする、とか「あえて」内輪のグダグダトークを披露する、とか、そんなテクニックなんか使わなくても、単に本人が少しでもレスを返せばそれで送り手と受け手はつながってしまうし、そのほうがお互い楽しいことも明らかなわけですよね。でも、フジテレビは昔の「楽屋を半分見せる」という手法を何のアップデートもせずにやり続けている。その無意味さに、作り手側があまりにも無自覚なんじゃないか。
    吉田 僕はいままさにフジテレビの「アフロの変」でレギュラーやっているんですけど、ちょうど「27時間テレビ」の週に番組のイベントがあったんです。で、それが抜群に素晴らしかった。ここ最近、すっかりテンプレ化して面白くなくなっていったロックフェスとかよりもはるかにアツい光景が繰り広げられていたんです。
    このイベントがなぜアツかったかというと、他の場所で活躍の機会を与えられていないグループがいて、この人たちに触発されて、そんなに勝負しなくてもいい人たちも「負けていられない」と必死になってガチンコ勝負が展開されていたんですよ。 なかでもベッド・インというユニットがいて、彼女たちは80年代バブルをモチーフに古臭い下ネタを言いながら、なかなかカッコよく演奏するんですよ。彼女たちがバブルをネタにしているのは80年代を嘲笑するためではなく、今もっとも「ダサい」ネタにまっすぐ突っ込んでいくことで時代の突破口を開こうとしているからなんじゃないかと思うんです。他にもバブルをネタにしているパフォーマーでは芸人の平野ノラさんのような人も出てきていますが、彼女たちのパフォーマンスを見ていると、すごく「自由」な気持ちが生まれるんですね。
    要は何か閉塞感を感じているときに、そのコアにまっすぐ突っ込んでいくことがヒントになるんじゃないかと。「27時間テレビ」もそれと同じことに挑戦していて無残に失敗してしまったけれど、いまのフジテレビのなかに僕は確かに変革の萌芽を感じているんです。
    宇野 よっぴーは「破壊のあとの創造」の可能性を見ているわけですよね。半分は同意するけれど、一方で僕は「フジテレビ的手法」への批判はまだ徹底されきっていないと思う。 たとえば僕自身もテレビバラエティに何度か出演しているけど、もうつまらない番組のパターンってのが確固としてあってさ、大体そういう番組って床に座ってカンペをめくっているADが「ガハハ、ガハハ」と大げさに膝を叩いて笑うことで無理やり雰囲気を作っているわけ。
    芸人やMCの司会がすべて「テレビ的」なテンプレになっていて、もうなにもかも予定調和でまったく面白くないんだけど、なんとかしてみんなで面白いふりをして楽しそうな雰囲気だけ無理やり演じてごまかしている。 何度か聞いたことあるんですよ、番組ディレクターに「あなたたちは本当にこういう番組構成で面白いと思っているんですか?」と。そしたら、「テレビ的にはどうしてもああいうかたちになってしまうんですよ……」という答えが判で押したように返ってくるんですよね。テレビバラエティの世界にはそうやって習い性で仕事をしてしまっている人が多すぎるし、そのことはもっと厳しく指摘しないといけないんじゃないか。
    吉田 テレビ番組に出演する芸人さんや司会って、「この人を呼んでおけば安心だろう」というある一定の枠から「誰でもいいから」とブッキングして番組を作ってしまっているのは事実ですよね。
    もし尖った出演者ばかり集めて数字が取れなかったら「なんでもっとわかりやすい有名人を連れてこなかったんだ!」と言われてしまうけど、同じように視聴率が取れないにしても「この人を呼んだのに視聴率取れませんでした」と言い訳をあらかじめ確保しておけば安心できるわけです。怠慢だって言われるのが怖いがゆえに、どうしてもテンプレ的な番組になってしまうんですよね。
    宇野 あらゆるテレビ局やテレビ制作会社は、80年代から90年代の20年で培われたある種のテレビ芸人のMCというか、「イジり芸」というものが非常にローカルなコミュニケーション様式で、それをやればやるほど心が冷え込んでいく日本人がどんどん増えていっていることをちゃんと理解すべきでしょう。ああいった「テレビは内輪ノリで回さなければいけない」という勘違いを正さないかぎり、いまテレビを見ていない人は将来的にも見るようにならないですよ。
    吉田 おっしゃるとおり、「テレビを一生見ない」という人が普通に存在する時代が来たんだと思います。その「テレビを一生見ない人」を増やしたのは自分たちのやり方だったんですよ。「この人を呼んでおけば安心だろう」というタイプの有名な芸人さんを呼ぶにしても、その人のポテンシャルを活かしてまったく別のすごいことができるはずなのに、決してそこに挑戦しようとしないわけです。 基本的にテレビをはじめとしたメディアの本質って、「なくても誰も死なない」「誰もやらなくてもいいことをやっている」というところじゃないですか。だからこそ本当は大胆にもなれるはずなんだけど、多くの人が適当な仕事で済ませてしまっている。それならいっそ幕末期の江戸城無血開城のように、今までの徳川幕府的な古臭い手法をやりきって「ダメでした」ということをちゃんと世間に示した上で、新しいことに挑戦していくしかないのかな、と。僕は、今回の「27時間テレビ」で意図的にああいうことをやった人のなかからすごいものを作る人が出てくる可能性は十分あるんじゃないかと思いますし、そこに期待したいんですけどね。
    宇野 僕がいまのテレビに提言したいことをまとめると3つあって、 (1)「テレビ的」という言葉の使用禁止 (2)芸人的おまかせMC(+ADのガハハ笑い)禁止 (3)内輪ウケ禁止 です。 よっぴーが言うように、芸人的なコミュニケーションにしても、それがあくまでローカルなものであることをわかっていればすごく効果的に使うこともできる。「アメトーーク!」が良い例で、要するに芸人的コミュニケーションが内輪ノリであるという、そのこと自体を戯画的に見せることで外側の視聴者を巻き込むことに成功しているわけですよね。最低限、ああいったかたちでの工夫ぐらいは見せて欲しい。
    〈公共〉を体現しようとしない現代のテレビ業界
    宇野 ただ、それとは別にもうひとつ気になるのが、ここまで僕らが指摘してきたことってあくまで〈手法〉の問題じゃないですか。でも実は〈手法〉ではなく、〈イデオロギー〉の部分でテレビ的価値観はもはや完全敗北してしまっている気がするんです。
    たとえば携帯電話会社のCMって全部辛いじゃないですか。ソフトバンクの「白戸一家」はある種のパイオニアだから許せる部分もあるけど、次々に作られていった続編や亜流になるとイタくて見ていられない。auの桃太郎とかぐや姫シリーズとか、docomoの「ドコモ田家」なんかもああいったテイストに近いですよね。トヨタ・クラウンのたけしさんやキムタクのCMも同じで、見た瞬間に「俺は絶対にトヨタ車には乗らない」と決意させるだけの寒さがある。
    ああいったものって、日本に暮らすすべての人間がテレビ芸能人をリスペクトしているという謎の前提をもとに、それをイジることが粋(いき)であるという東京のクリエイターたちの思い上がりがああいった演出を生んでいるわけですよ。
    テレビが最盛期だった80年代って、高度成長を達成しオイルショックも乗り越え日本経済が絶好調で、その経済的な余裕を背景にして東京のクリエイターや業界人たちが遊び心に溢れた自由な表現を生んでいった時代だったと今では思われている。
    でも、実は日本人のマジョリティはまだ『おしん』(1983~84年放映)に涙していた時代だったわけですよ。そういうマジョリティの泥臭さを一蹴するように、チャラい人たちが楽しそうに仕事をしていた時代だったからこそ「クリエイター幻想」が成立していたに過ぎないでしょう。そういう前提を抜きにして、80年代当時の感覚で2010年代にテレビ番組やCMをつくってしまうことの意味をもう一度問いなおしたほうがいい。
    吉田 テレビの人たちって、広告代理店的なモードが社会から遊離したものであるってことに気づいていないんですよ。宇野さんのいう「チャラい」モードって、要するに「マジにならないでやりすごそうよ」という考え方だと思いますけど、それって本当はすごく気持ちの悪い生理だと思うんですよ。そういう「マジになることを否定する」というのがいまのテレビ業界の「病」のひとつですよね。
    宇野 そもそもテレビ番組って、テレビ局が放送法で特権を与えられている以上は何かしらの〈公共性〉を担保しなければならないはずなんです。しかし彼らがやっていることは自分たちが「世間」をつくっているんだという時代錯誤の思い上がり以上のものじゃない。
    吉田 民放の番組が今みたいになってしまったのって、NHKが体現している〈公共〉のあり方があまりにもパターンとして小さすぎるということもあるかもしれないですね。
    宇野 まあね(苦笑)。
    吉田 「NHKがああいうお堅い感じだから、俺たち民放はチャラチャラして世間のリアルとのバランスを取っているんだ」という反動を生んでいるとも言える。要するにNHKにしても民放にしても、〈公共〉として想定している範囲があまりにも狭すぎるというのが問題なんじゃないかと思っていて、本当はもっと多様な〈公共〉どうしが競争し合う状態が望ましいわけですよね。
    ソーシャルメディアではなく、マスメディアこそが担保すべき公共性とは
    吉田 いま〈公共〉が実現するべき価値ってダイバーシティ(多様性)が一番大きいわけですよね。そしてそのダイバーシティの実現をビジネスモデルとして回していくということがまだ全然できていない。
    宇野 そこで言うと、ヒントはいくつかあると思っていて、テレビが一番面白くて文化的に批判力があった時代って、実は今よりも多様性が確保されていたわけじゃないですか。たとえばテレビ黄金期の深夜番組って、今ほどコンプライアンス(法令遵守)の圧力も厳しくなく、どちらかといえば治外法権的に自由に実験的なことをやることができた場所だったわけですよね。
    吉田 テレビ業界って80年代〜90年代前半ぐらいまで、東大生が入ったら本人も周囲もガッカリするような業界だった。でも今は東大生がテレビ局に就職できたら本人も親も周囲も万々歳でしょう。テレビがそういうふうに社会的にも広く認められるような既得権的な世界になってしまったら、面白いものを生み出すのは難しいですよね。
    宇野 「いま実験的なことをやりたいならネットで勝手にやってればいいじゃん」と言う人もいるだろうけど、僕は必ずしもそうとは言い切れないと思う。やはり、テレビやラジオのような公共の電波を通して、交通事故のように多様なものに出会える回路をきちんと確保しておくことが必要だと思うんですよ。
    少し遡って考えてみると、テレビが日本で普及し始めたのは50年代からだけど、その当時テレビに求められた役割って「バラバラのものをひとつにまとめる」というものだったわけですよね。言い換えると、いまテレビがつまらなくなっているのは、成立期のイデオロギーにどうしても縛られてしまうからだとも言える。
    ここ2、30年で、「バラバラのものをひとつにまとめるのではなく、人々がバラバラなままでも共存できるように社会にダイバーシティ(多様性)を実装していこう」という方向に社会変革のイメージが変わってきたわけだけど、そのときに必要とされる「テレビに必要とされる公共性」って、これまでのテレビのイデオロギーに縛られないもっと多様なものを想定していいはず。 では、そんな時代にテレビは何をすべきか。普通に考えたら多様性という面でテレビは他のメディアにかなわない。じゃあ、何が仕事かというとたとえば、「もっと野菜を食べましょう」とか「過度の喫煙・飲酒は良くないですよ」「リボ払いはやめましょう」とか、「オレオレ詐欺に気をつけましょう」とかそういった〈最低限知っておかないと人生が不利になるようなこと〉の周知だと思うわけです。

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  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第9回 宇宙世紀と大人になれないニュータイプたち

    2017-08-28 07:00  



    本誌編集長・宇野常寛の連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』、今回のテーマは1980年代の富野由悠季です。『Zガンダム』『逆襲のシャア』を通して明らかになった「成長物語としてのロボットアニメの限界」について論じます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです/2016年10月7日に配信した記事の再配信です )。
    「キレる若者」カミーユが迎えた衝撃の結末――『機動戦士Zガンダム』

    (画像出典)
     『ガンダム』に端を発した第二次アニメブームは1980年前半で沈静化し、ブームを盛り上げたアニメ雑誌の文化も衰退してしまいます。理由は色々ありますが、まずひとつはヒット作があまり続かなかったこと。そしてもうひとつ大きかったのは、少年たちの支持がジャンプを中心とした大手マンガ雑誌の人気作品のアニメ版へと移っていったことが挙げられます。そうなるとアニメ雑誌も人気作を中心にした特集が組みにくくなり、1985、6年頃にはどんどん潰れてしまったわけです。 そういった状況だったので、アニメファンの間では再びブームの中核になる作品の登場が待ち望まれていました。要するに「『ガンダム』の続編を作ってくれ」という声がアニメ業界やファンのあいだで大きくなっていたんです。そうした声を受けて制作されたのが、初代『ガンダム』の直接の続編である『機動戦士Zガンダム』(1985年放送開始)でした。 『Zガンダム』の舞台は、『ガンダム』の一年戦争から7年後の世界です。初代『ガンダム』放映後に流れた現実世界の年月とだいたい同じ年数が経っているという設定です。前作の主人公であるアムロやそのライバルのシャアも登場し、みな年をとっています。これは当時としてはすごく斬新でした。前の戦争で「ニュータイプ」というある種の超能力者として覚醒し、地球連邦軍のエースパイロットに成長したアムロは、その能力を政府から危険視されて閑職に回され、屈折した人間になってしまっているんです。前作で成長したはずの主人公がいじけた大人になってしまっているというのはなかなか衝撃的ですよね。富野由悠季は「実際に宇宙世紀に生きていたら登場人物はこうなっているはずだ」というシミュレーションをここでも徹底しています。 『Zガンダム』では新しく設定された主人公、カミーユ・ビダンという高校生の少年が、前作のアムロと同様に戦争に巻き込まれ、成り行きでガンダムに搭乗して戦っていきます。どういうストーリーなのか、第1話の映像を観ていきましょう。

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  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第8回 富野由悠季とリアルロボットアニメの時代(前編)

    2017-08-14 07:00  

    本誌編集長・宇野常寛の連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』、今回は富野由悠季(当時は富野喜幸名義)の初期作品が登場します。衝撃的な結末を迎えた『無敵超人ザンボット3』、そして、リアリズムを持ち込むことでロボットアニメに革命を起こした『機動戦士ガンダム』について語ります。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです /2016年9月2日に配信した記事の再配信です)。
    ロボットアニメにリアリズムを持ち込んだ『無敵超人ザンボット3』
     『マジンガーZ』で男子児童文化の主役に踊り出たロボットアニメは、様々なかたちで発展を遂げていきます。たとえば1974年放映開始の『ゲッターロボ』では合体ロボが登場します。合体ロボットの初出はおそらくは『ウルトラセブン』(1967年放映開始)に登場したキングジョーという宇宙人の合体ロボットだと思うのですが、『ゲッターロボ』は同じ永井豪を原作とする(作画を担当した石川賢のカラーが強い作品ですが)『マジンガーZ』の「乗り物としてのロボット」というコンセプトにこの「合体」という要素を取り入れたわけです。3機のマシンが合体し、空戦用には「ゲッター1」、陸戦用には「ゲッター2」、海戦用には「ゲッター3」というかたちで3種類の形態に変形するんですね。『ゲッターロボ』は、この変形がカッコいいということで人気を博したんですが、同時に「おもちゃできちんと再現できない」という壁にもぶつかりました。
     ここを突破したのが1976年放映開始の『超電磁ロボ コン・バトラーV』で、劇中のイメージに近い変形合体が再現できるおもちゃを作ることに成功して、これが大ヒットします。ちょっとオープニングの映像を見てみましょうね。はい、『コン・バトラーV』は5体の戦闘メカ、戦闘機や戦車が合体してひとつのロボットになります。『マジンガーZ』と同じ水木一郎さんが主題歌を謳っています。そしてやっぱり、内蔵している武器の名前をずっと叫んでいます(笑)。
     70年代半ばから後半にかけてのロボットアニメブームはおもちゃの進化とともに拡大して、ジャンルとして完全に定着します。基本的には30分の玩具コマーシャル的なロボットプロレスが反復されるのですが、ジャンルの拡大の中でその制約を逆手にとってアニメの表現の可能性を広げよう、という動きも出てきます。
     『コン・バトラーV』の翌年、1977年に『無敵超人ザンボット3』というアニメが登場します。この少し前に、手塚治虫の設立したアニメ制作会社「虫プロダクション(通称:虫プロ)」が倒産してしまい、その残党たちが設立したのが「サンライズ(当時は日本サンライズ)」という制作会社です。そのサンライズが初めての自社企画として制作したのがこの『ザンボット3』でした。さっそくオープニングを見てみましょう。

    ▲『無敵超人ザンボット3』
     『ザンボット3』はいとこ同士3人が合体ロボットに乗って戦うアニメです。ザンボットに乗る神勝平(じんかっぺい)・神江宇宙太(かみえうちゅうた)・神北恵子(かみきたけいこ)の3人とその家族を「神ファミリー」と呼ぶんですが、彼らは江戸時代に地球に逃げてきた宇宙人「ビアル星人」の子孫であるという設定です。なぜ逃げてきたかというと、ガイゾックという別の宇宙人に自分の星が攻め滅ぼされてしまったからです。逃げてきたはいいけど、そのうち地球もガイゾックに襲われる可能性が高いから、ビアル星人たちは300年のあいだに戦闘用ロボットを開発しながら戦いに備えていた。そんななかで、ついにガイゾックが地球侵略を開始します。そこで神ファミリーの3人は地球を守るために、ロボット「ザンボット3」に乗って戦います。
     ここまではいいでしょう。これまで見てきた作品に比べて多少複雑な設定かな、と思う程度だと思います。
     しかしここからが面白い。なんと、地球人たちは自分たちのために戦ってくれている神ファミリーを「お前たちが地球に逃げ込んできたせいで俺達が襲われるんだ」と言ってとことん迫害するんですね。
     神ファミリーからすると「地球を守るために戦っているのに、なんでいじめられなきゃいけないんだ」と思いますよね。もともと友達だった奴らからもいじめられて、石投げられるどころか家代わりの移動要塞に爆弾を仕掛けられたりするんです。ザンボット3が地球を守るために敵のロボットと戦っていると、お巡りさんがやってきて道路交通法違反で取り締まられたりもします。全23話の話ですが、15話くらいまでずっとそういう話で、非常に陰湿な印象を受けると思います。
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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 最終回 三次元化する想像力――情報化のなかで再起動するフューチャリズム【金曜日配信】

    2017-08-04 07:00  

    本誌編集長・宇野常寛の連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』は今回が最終回です。これまでの講義のまとめとして、情報化がもたらした〈体験〉優位の時代に〈サブカルチャー=虚構〉に何ができるのかを考えます。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月22日の講義を再構成したものです)
    コンピュータによって「世界を変える」ことが再び可能になった
     こういった変化をもたらしているのはもちろん情報化です。そして皮肉なことに、情報化によって人々は、〈情報〉ではなく生の〈体験〉のほうに価値を置くようになっていった。この現状を象徴するのが、これまでの講義でもたびたび触れてきた「アニメからアイドルへ」というサブカルチャーの中心の移動です。
     今は映像や音声といった情報は溢れかえっている。だからこそ、直接会いに行って話しかけるとか、自分の一票でアイドルの人生が変わるとか、そういうことのほうに関心が移ってしまっているわけです。〈二次元〉から〈三次元〉への移行は、同時に〈情報〉から〈体験〉へということでもある。もうモニターのなかで何が起こっても人間は驚かないし、リアルな体験にしか人は価値を感じなくなっているんですね。モニターの中の他人の物語に感情移入するのではなく、自分が主役の自分の物語を味わうほうに人々の関心は移行している。技術の進化が、人間の欲望を変えてしまったわけです。
     そうなると、もうサブカルチャーに価値なんて無くなるんじゃないか、と思えてきます。それは残念ながら、半分は正解です。
     逆に言うと、この数十年が例外的にサブカルチャーの時代だったんです。60年代に革命を掲げたマルクス主義や学生運動が敗北していくと、「世の中を変えるのではなく自分の意識を変えよう」という考え方が世界的にも主流になっていく。「どうせ世界が変わらないのであれば、世界の見え方を変えればいい」――そのための手段としてサブカルチャーが浮上していったわけです。
     アメリカ西海岸であれば60年代後半以降にヒッピーやドラッグなどのカウンターカルチャーが流行し、その中の一ジャンルとして注目されたコンピューターカルチャーが伸びていった。これらの文化はやはり「世界を変えるのではなく、自分の意識を変える」という思想を持っています。日本であれば、この講義でお話ししたオカルト文化もそのひとつですね。
     しかし、この「自分の意識を変える」という思想が西海岸でカウンターカルチャーからコンピューターカルチャーへと受け継がれていくなかで、「サイバースペース」という新たなフロンティアが発見されます。ヒッピーの流れを汲む西海岸のギークたちは、サイバースペースを通じて資本主義をハックする力を得てしまった。それがGoogleやAppleといったシリコンバレーのグローバル企業なわけです。
     サイバースペースによって、「自分の意識を変える」ことをしなくても、世界そのものを変えることができるようになった。そうなったとき、サブカルチャーはその役割を終えつつある、ということだと思います。
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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第26回 ノスタルジー化する音楽・映像産業――〈情報〉よりも〈体験〉が優位になった時代に【金曜日配信】

    2017-07-28 07:00  

    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回はこれまでの講義のまとめとして、音楽・映像産業の現在を取り上げます。情報環境の変化は、人々のコンテンツ消費にどのような変化をもたらしたのでしょうか。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月22日の講義を再構成したものです)
    〈情報〉から〈体験〉〈コミュニケーション〉へ
     この講義ではこれまで、マンガやアニメ、アイドルを中心に取り上げてきましたが、ここからは最後のまとめとして「二次元から三次元へ」という話をしてみたいと思います。ひとつの鍵になるのは、これまで中心的には取り上げてこなかった「音楽」というジャンルの現在の姿です。
     今の音楽市場では、CDの売上がどんどん下がっています。これは音楽だけでなく、DVDや本もそうなのですが、人間はもう情報をパッケージしたソフトというものと手を切ろうとしています。テキストや音声や映像はすべてネットワーク上でクラウド化されて、スマホなどの端末からいつでもアクセスできる状態になっている。そうなると人間が物理的なパッケージに記録した情報を所有することに意味がなくなっていくわけで、当然レコードも売れなくなっていく。
     この変化は当然のことですが、これからの音楽産業を考える上では、「人々が音楽に求めるものが変わってきている」という認識を持つことも大事です。90年代後半をピークにCDの売上は右肩下がりなのですが、逆にゼロ年代以降に増えているものがあります。それは、音楽フェスの動員数です。
     人間って希少なものに価値を感じるんですね。僕が中学生〜高校生だった90年代までは、好きな音楽をいつでも好きなときに聴けるとか、好きな映画をいつでも観れるっていうのはすごく贅沢なことだったんです。CDはアルバムだと3000円以上するし、ビデオソフトは当時VHSという規格で高いものだと1万円以上しました。CDもビデオも高くて買えないからレンタルソフト屋がこれだけ普及したんですね。パッケージを買っていつでも好きなときに観れるようにするなんて、すごく贅沢なことだった。
     でも、今やテキストも音声も映像も、どこでも無料で鑑賞できる一番手軽なものになっていますよね。「蛇口をひねれば水が出てくる」というのとほとんど似たような価値しかない。砂漠のど真ん中のミネラルウォーターって無限の価値があるけれど、東京のど真ん中ではミネラルウォーターって100円ぐらいじゃないですか。音声や映像って昔は本当に「砂漠の中のミネラルウォーター」で、数千円払うのが当たり前だった。でも、今は蛇口をひねれば出てくるものでしかない。
     今はそれよりも生の〈体験〉のほうに希少価値を感じるようになっている。「あの日、彼氏と一緒にフジロック行ったな」「友達と一緒にアイドルの握手会に行って、◯◯ちゃんといい話ができたな」とか、そういう自分だけの〈体験〉を求めるようになっていて、それにしかお金の価値につかなくなっているわけです。
     〈体験〉のなかでも一番強いのは「人とのコミュニケーション」です。その点、アイドルって自分の憧れの存在と直接コミュニケーションできるし、「推す」ことによってその人の人生に貢献できる。アイドルってコミュニケーションとやりがいが結びついたものを売っているわけですが、「推す」という体験を盛り上げるために、ある種の蝶番として音楽が使われている。この形式は非常に強力で、だからアイドルがレコード市場の大部分を占めるようになったんです。
     その次に〈コミュニケーション〉の力が強いジャンルが、アニソンやボーカロイドです。こちらも単に音声データそのもの売るのではなく、キャラクターをコミュニケーションの対象にしてCDを売っているわけです。

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  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第7回 〈鉄人28号〉から〈マジンガーZ〉へ――戦後ロボットアニメは何を描いてきたか

    2017-07-24 07:00  


    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。 今回からはロボットアニメがテーマです。日本独特の「乗り物としてのロボット」が生まれた経緯を『鉄人28号』『マジンガーZ』という草創期のヒット作から紐解きます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです/2016年8月5日に配信した記事の再配信です)。

    戦後日本で奇形的な進化を遂げた「乗り物としてのロボット」
     今日はロボットアニメについて講義をしていきたいと思います。
     日本の戦後アニメーションにおいて、ロボットは中心的なモチーフでした。ロボットアニメの歴史を追うことによって、戦後アニメーションが何を描こうとしてきたのかが見えてくると言っても過言ではありません。ところが、日本の戦後アニメーションが描いてきたこの「ロボット」はちょっと変わっている。今日はそこから話していきたいと思います。

     ここに日本のアニメーションを代表する「ロボット」たちが並んでいます。
     鉄腕アトム、鉄人28号、マジンガーZ、ガンダム、そしてエヴァンゲリオン――みなさん、どうですか? 実はこの中に厳密には「ロボット」とはいえないものが混じっています。どれかわかりますか?
     正解は、鉄腕アトム以外全部「ロボット」ではありません。ほかは全部、「ロボット」ではなく人型の道具で、マジンガーZ、ガンダム、エヴァンゲリオンは「乗り物」です。実は戦後アニメーションは厳密な意味では「ロボット」をほとんど描いてこなかったんです。
     そもそも「ロボット」とは何でしょうか。実はロボットの定義とは、「人工知能をもち、自律的に動くもの」です。だから鉄腕アトムはロボットだけれど、リモコンで動く機械である鉄人28号はロボットではないし、ガンダムに至っては「人型の乗り物」にすぎません。逆に、現代では人型をしていなくても人工知能で制御されていればロボットだと分類されていますね。
     特にこの「乗り物としてのロボット」は日本アニメーションの発明です。要するに、戦後アニメーションは間違ったロボット観を普及させてしまって、その結果日本人のほとんどが「ロボット」とは何か、そもそも分からない状態になってしまっていると言っていいでしょう。ただこの「乗り物としてのロボット」が20世紀の映像文化やその周辺のサブカルチャーに与えた影響は絶大で、たとえば2013年に公開され話題になった『パシフィック・リム』というハリウッド映画では「乗り物としてのロボット」が出てきますが、これは監督のギレルモ・デル・トロが日本のアニメや特撮に強く影響を受けているからですね。
     本来は人工知能の夢の結晶だったロボットに対して、「乗り物としてのロボット」というまったく別の文脈を与え、奇形的な進化を遂げたのが日本のロボットアニメなんです。今日はその歴史を考えていきたいと思います。
     みなさんは「ロボット工学三原則」を知っていますか? アイザック・アシモフという20世紀のSF作家の『われはロボット』(早川書房、2004年)という有名な小説に出てくる、科学者がロボットを作る上で守るべき三つの原則で、こういう内容です。

    第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
    第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
    第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

     この原則は、人工知能が暴走して人類や社会に害をなしたり事故を起こすことのないように考え出されたものです。科学技術が飛躍的に進歩し、人類がコンピュータを生み出した1950、60年代には「科学の力で疑似生命を生み出すことができるんじゃないか?」という期待が膨れ上がっていました。そういう状況のなかで、SF小説でロボットがテーマとして扱われるようになります。そうなると必然的に「擬似生命を生み出せるというのは、人間が神になるってことじゃないか?」「ロボットが自由意志を持ったとき、本当に社会に有用なものになるのか?」「本当に人間にとって友好的な存在になるのか?」という問いも生まれていくんですね。人工知能の正の可能性、負の可能性の両方を検討するなかでSF小説が発展していったんです。
     ところが、ロボット工学三原則が代表する20世紀的な人工知能の夢というテーマは、少なくとも戦後のロボットアニメというムーブメントの中では主流になることはありませんでした。初の国産アニメーションである『鉄腕アトム』は、人工知能の夢を正面から扱った作品です。そこには、人間が人工知能を生むことによって生命を創りだすことができるのか、つまり「人間は神になることができるのか?」という問いや、ロボットの人権や政治参加といったテーマ、あるいは人工知能が独自の意志で人類に反乱を起こすといったエピソードが頻出します。少なくともその誕生時において、日本のアニメーションは正しく「ロボット」と向き合っていた。しかし、そんな時代はすぐに終わってしまいます。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第25回 〈近さ〉から〈遠さ〉へ――48Gの停滞と坂道シリーズの台頭【金曜日配信】

    2017-07-21 07:00  


    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、10年代半ば以降の48Gの停滞、坂道シリーズの台頭で見えてきた、今後のアイドルカルチャーの課題を語ります。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    ブレイク後のAKBに立ちはだかる「戦後日本の芸能界」という壁
     AKB48が停滞してしまった理由のもうひとつは、やはり「慣れ」でしょう。昔は多くの人が「人気投票でアイドルを選抜し、それにファンが盛り上がるなんて常軌を逸している」と思っていた。ところが、もうみんな慣れてしまったし、後発のアイドルたちもみな似たようなことをやるようになって、珍しさが薄れてしまった。アイドルの選抜総選挙という特異なシステムによってAKB48は注目を集めることができたけれど、今はそうではなくなっているわけです。
     それと、実は地方展開もあまりうまくいっていません。もちろんSKEもNMBもHKTも、他のアイドルよりははるかに売れているし動員力もある。でも結局のところ、指原莉乃が象徴するように、芸能界で生き残っていくには東京のメディアに出て、〈テレビタレント〉になるしかないわけです。昔ながらの戦後日本の芸能界の構造を、48グループは結局は崩すことができていない。地方グループの人気メンバーになるより、東京のAKBの不人気メンバーでいるほうが有利なんです。SKEなんかは、いつ崩壊してもおかしくない状態です。
     それと、規模の問題も大きくなっています。僕が好きになった頃は推しメンに100票入れるだけでも順位が変動するような状況だったんです。ところが今では総得票数が何百万票になっていて、1位の指原なんて24万票ですから、1人の人間が投じられる票数で状況を変えることが難しくなっている。そのことも停滞の原因になっています。まあ、これはゲーム設計の問題だから仕組みで対応できると思うのですが。
     総じて言えるのは、テレビの問題が大きいということです。たとえば最近の総選挙では中継の演出ひとつとっても仕掛けがすべてテレビバラエティ的になってきています。「にゃんにゃん仮面」とかね(笑)。
     〈ライブアイドル〉というジャンルを作ったのはAKBなんだけれど、ある程度の規模を維持しようと思ったら指原=〈テレビタレント〉にならざるをえず、結局は昔のテレビカルチャーに回帰していくしかない――だとしたら、これまでAKBがやってきたことは何だったのか、ということになります。
     さらに、秋元康も自信を失っていると思いますね。AKBはもともと高校野球とかと同じで、若い子たちが過酷なゲームを戦わされて、喜んだり傷ついする姿を僕らが見て楽しむというリアルドキュメントだった。でも、今のAKBは自然発生するドラマだけではもう人々の関心を引きつけることはできないのではないか、という認識がある。だからテレビバラエティ的な「仕掛け」が多くなっているのだと思います。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第24回 AKB48は〈戦後日本〉を乗り越えられたか【金曜日配信】

    2017-07-14 07:00  


    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、ゼロ年代末に社会現象となっていったAKB48の軌跡を振り返ります。〈ライブアイドル〉として出発したAKBが、やがてぶつかることとなった「壁」とは?(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    ブレイク期のAKBを象徴する「大声ダイヤモンド」「RIVER」
     AKBは大手レコード会社「キングレコード」に移籍し、やがてメジャーな存在になっていくのですが、同時に地方展開も始めています。その時期を象徴する曲が、2008年の「大声ダイヤモンド」です。
    (AKB48「大声ダイヤモンド」映像上映開始)


    (画像出典)
     MVの最初のシーンで階段を駆け上がっているのが、新しく名古屋にできた「SKE48」のセンター、当時小学5年生の松井珠理奈ですね。「これからAKBはマスメディアに打って出ていくぞ」「地方展開もしていくぞ」ということが象徴的に表現されています。MVの内容は、普通の女子高校生たちが様々な障害を乗り越えて学園祭での出し物を成功させていくというストーリーで、まさにAKBの売りである「親しみやすさ」という立ち位置が表現されています。
     このあたりから、秋元康の書くAKB48のシングル曲の歌詞には「僕」という一人称が増えていきます。アイドルソングとしては「私」という女の子の目線から相手の男の子のことを想う歌詞が王道なのですが、これはその逆になっている。これはどういうことかというと、要するに参加型のアイドルであるAKB48では、アイドルは疑似恋愛の対象であると同時に自己同一化の対象なんですね。アイドルとファンが一丸になってこの社会をのし上がっていく、そんな構造を歌詞で表現しているわけです。
     そしてこの時期AKB48は現場+インターネットで培った勢いをベースに、2009年くらいからテレビに出ていき、一気にメジャー化していきます。そのときに秋元康が勝負曲として彼女たちに与えたのが、「RIVER」という曲です。
    (AKB48「RIVER」映像上映開始)


    (画像出典)
     かつて1989年に秋元康は、美空ひばりの生前最後の曲である「川の流れのように」を作詞しています。ここでいう「川」は戦後日本の比喩なんです。美空ひばりは「昭和」を象徴する歌姫で、この曲の歌詞には「戦後っていろいろあったけれど、トータルに見れば経済発展したし平和になったし、良かったよね」という感慨が込められている。戦後日本という「川」に、「おだやかに身をまかせ」ることを肯定する曲なんですね。
     そして「RIVER」は、20年前の「川の流れのように」へのアンサーソングなんです。川=戦後日本を若者たちに立ちはだかる障壁に見立て、その古い時代を乗り越えていこう、という歌詞になっています。秋元康は、そういう歌詞の曲を、自分の勝負企画であるAKBに歌わせた。「この先、AKBは古いものを終わらせてどんどん拡大していくぞ」と宣言しているわけです。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第23回 〈メディアアイドル〉から〈ライブアイドル〉へ――情報環境の変化とAKB48のブレイク【金曜日配信】

    2017-07-07 07:00  


    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は90年代末〜ゼロ年代半ばのアイドルシーンを扱います。モー娘。やPerfume、AKB48のブレイクを、世相や情報環境の変化と絡めて論じます。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    歌謡曲的なアプローチを復活させたモーニング娘。
     しかしそんななかで、90年代後半に出てきて時代を席巻したのが、つんく♂がプロデュースするモーニング娘。とハロー!プロジェクトでした。モーニング娘。はテレビ東京の「ASAYAN」というバラエティ番組から出てきたのですが、やっていることは「夕やけニャンニャン」とほぼ同じで、オーディションの過程からすべてテレビで放映していく、〈楽屋〉を意図的に半分だけ見せるというものでした。半分虚構、半分現実みたいなもので、ある程度作っているところも当然あります。
     今って新しいアイドルが出てくると、みんながその人のTwitterをフォローしてどういう人間かを見ますよね。そういうものが、この当時はまだない。カメラがオーディションに入っていって、アイドル(候補)の表情だけを見せて、親近感を演出したわけです。モーニング娘。はそういった〈楽屋〉を半分だけ見せるという手法を使って人気を得ていったという意味では、ネット以前の最後のアイドルだといえます。
     それと、モーニング娘。は歌番組ではなくミュージック・ビデオ(MV)を重視していました。当時すでに歌番組の衰退が始まっていて、プロモーションツールとしてMVが重要になっているんです。
     もうひとつ特徴的だったのは、つんく♂が明確に「70年代、80年代の歌謡曲を今風にアレンジして復活させたい」と言っていたこと。代表曲である「LOVEマシーン」の歌詞を見るとそれがすぐにわかります。
    (モーニング娘「LOVEマシーン」映像上映開始)

    (画像出典)
     これは、当時日本が右肩下がりになり始めていて「このままズルズルいくとヤバいよね」という空気がある中で、もう一回社会を勇気づけようというコンセプトの曲でした。〈自分の物語〉ではなく〈社会の物語〉を歌うというのは非常に歌謡曲的なアプローチですね。だから「LOVEマシーン」は若者だけでなく中高年男性などの幅広い世代に受け、大ヒットになりました。僕より少し上の40歳くらいの人は、会社の忘年会の出し物で無理やりこれを踊らされた人がすごく多いと思います。
     僕は「スッキリ!」という朝のワイドショー番組にコメンテーターとして出ていますが、毎回、芸能人の内輪ネタクイズをやっていて、まったく興味が持てないんです。ああいったものは「世界の人間はすべてテレビを見ていて、テレビ芸能人が好きなはずだ」という謎の前提をもとに作られています。僕はそもそもバラエティ番組を見ないから基本的に芸人やタレントを知らないですし、ドラマは好きだし役者の演技に興味はあるけど、プライベートには興味がない。普段からテレビをつけっぱなしにしていて、バラエティをだらだら見る習慣のない人にとって、芸能人の芸はわかるけれどもキャラクターはわからない。だからああいう芸能界内輪トークみたいなものばかり見せられると冷めますよね。今のテレビの製作者はそういうことをまったくわかっていません。
     80年代のテレビバラエティが芸能界のタレントたちの内輪話、楽屋ネタばかりをやっていたのは視聴者に親近感を与えるためで、しかもそういう手法は当時としてはトリッキーで斬新だったんです。しかし、今のテレビ製作者は、「テレビ=芸能界の内輪話をするもの」だと思いこんでしまった。80年代のテレビバラエティがどういうロジックで作られているものだったのかという前提を知らないまま、製作者になってしまったんですね。今ではテレビは新しいお客さんを作ることに失敗していて、最初からテレビが好きなお客さん以外は楽しめないものになってしまっている。これは非常に悲しいことですね。

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