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  • 第九章 環境――自然から地球へ|福嶋亮大(後編)

    2024-01-30 07:00  
    550pt

    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    6、環境文学のビッグバン――フンボルトの惑星意識
    以上のように、ルソーやワーズワースが《自然》と心を同調させる歩行の技術を定着させたことは、文学史上のブレイクスルーと呼ぶべき事件であった。レベッカ・ソルニットが示唆するように、この技術は二〇世紀のモダニズム文学にまで及ぶ[25]。主人公の行動履歴を細かく再現したヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』やジョイスの『ユリシーズ』は、歩行のログを感覚の基盤とし、それを思考や記憶の触媒とした。
    ただ、ここで見逃せないのは、彼らの自然のイメージがあくまでヨーロッパに限定されていたことである。彼らの「エコ言語」の特性と限界は、ワーズワースと同世代のドイツの知的巨人、一七六九年生まれのアレクサンダー・フォン・フンボルトと比べるとき、いっそうはっきりするだろう。
    博物学者にして地理学者、そして何よりも野心あふれる冒険家であったフンボルトは、地球の全体性を思索の対象とした画期的な著述家であった。ルソーの主人公サン゠プルーが海の向こうの忌まわしい新世界から、スイスの静謐な庭に引き返したのに対して、フンボルトはむしろヨーロッパ人の知らない南米への冒険を敢行し、その驚くべき世界のありさまを詳しく報告した。フンボルトは名文家とは言えなかったが、本人もお気に入りの『自然の諸相』(一八〇八年)はベストセラーとなり、その後の科学者や文学者に多大な影響を与えた。彼の一連の著作は、まさに環境文学のビッグバンと呼ぶにふさわしい。
    シニカルなゲーテですら、この猛烈な知識欲を備えた二〇歳下の若者のとりことなり、その来訪を心待ちにしていた。彼はフンボルトから献呈された『アンデス山脈の景観と先住民の遺跡』に熱中し、新世界の未知の景観にすっかり魅了された。興味深いことに、ゲーテのファウストは、当初からフンボルトとの類似性が指摘されていた。フンボルトの優れた評伝を書いたアンドレア・ウルフが指摘するように「ファウストもフンボルトも猛烈な活動と探究が知識につながると信じ、どちらも自然に強靭さと一体性を見ていた」[26]。
    フンボルトは同時代人にとって驚異の的であったが、それは何よりも、彼のファウスト的な冒険が文字通り「グローバル」な地平に及んでいたためである。もともと、ジェイムズ・クック船長の同行者に触発され、著名な探検家ブーガンヴィル――ディドロの『ブーガンヴィル航海記補遺』の着想の源泉でもある――を訪問したこともあったフンボルトは、一八世紀の初期グローバリゼーションの遺産の継承者でもあった。のみならず、彼の活動は非ヨーロッパ的な異文化との出会いというディドロのプロト人類学的なテーマを超えて、物質としての地球の発見を伴っていた。
    一七九九年にスペインからベネズエラに渡った際には、フンボルトはその眩暈をもたらすような魔術的な自然に熱中しながら、博物学的な調査にいそしんだ。なかでも、彼を強く触発したのは火山である。彼は一八〇二年には六千メートル級のチンボラソ山の初登頂に成功し、その後もエクアドルの火山を踏破した。この一連の探検は地球物理学の基礎となり、フンボルトの数多い知的貢献のなかでも突出した事例となった。彼にとって、火山は人間の諸文化をはるかに凌駕して、自然そのもの、ひいては地球そのものの力を顕現させる崇高にして驚異的な場なのである。
    フンボルトの前例のない冒険は、ヨーロッパのエコ言語にも質的な変化をもたらした。メアリー・ルイーズ・プラットの指摘によれば、従来のヨーロッパの旅行記では自己中心的で情緒的な書き方が主流であったのに対して、フンボルトはむしろそのような個人のナルシシズムを取り去り、旅行記を科学的な客観性と融合させた。強靭な「惑星意識」(planetary consciousness)を備えたフンボルトの文体は、精神を人間の尺度をはるかに超えて、惑星のスケールにまで拡大した[27]。非人称的な科学のスタイルが、この意識の拡大を支えたのである。
    この新しい「惑星意識」は、ゲーテのような先行する学者の想像力を逸脱するものであった。一七八七年にイタリアのナポリを訪れたゲーテは「ナポリは楽園だ。人はみな、われを忘れた陶酔状態で暮している。私もやはり同様で、ほとんど自分というものが解らない。全く違った人間になったような気がする」とあけすけに記し、動揺を隠さなかった。ゲーテをこの錯乱の危機から救ったのは、ナポリ近辺のヴェズヴィオ山の偉容であった。彼はこの火山に三度も登り、そのつど測量をおこなった。ルソーのみじめで孤独な人生を反面教師としながら、狂気じみた世界に秩序を与えようとしたゲーテにとって、エネルギーに満ちた火山を科学的に観察することは、精神を治癒する手段になったのである[28]。
    逆に、南米で苛酷な冒険を経てきたフンボルトにとって、ヨーロッパの自然は地球のほんの一部にすぎなかった。彼はたまたまイタリア滞在中にヴェズヴィオ山の噴火を目撃したが、その迫力は南米の火山とは比べ物にならないと感じられた。地球そのものと接触し続けてきた冒険家フンボルトからすれば、ナポリ程度で自分を見失ってしまうゲーテはヤワな文人ということになるだろう――むろん、フンボルトが偉大な先人ゲーテから多大な知的影響を受けたことは確かだとしても。
    してみると、フンボルトの惑星意識が、一九世紀の先進的な自然科学者たちを鼓舞したことも不思議ではない。若きダーウィンはフンボルトの著作に魅了され、ビーグル号でもずっと手放さなかった。ダーウィンの進化論に影響を与えた地質学者チャールズ・ライエルも、フンボルトの研究を継いで、地球を形成する「深い時間」(後述)を見出した。フンボルトはまさに「地球というウェブ」(アンドレア・ウルフ)に基づく思考を、自然科学の基盤に据えつけたのである。
     
  • 第九章 環境――自然から地球へ|福嶋亮大(前編)

    2024-01-23 07:00  
    550pt

    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、物質ともつれあった心の生成
    近代文学が生成したのは、環境に心を創作させる技術である。物質的な環境(自然)の記述が、心的なものの表現として利用される――この心と自然の共鳴現象が、近代文学を特徴づけている。例えば、小説における風景描写はたんなる記録という以上に、語り手の心の動きと相関関係にある。つまり、ある特定の風景の選択は、心のステータスを間接的に説明しているのである。
    もとより、心的なものと物質的なものは、さしあたり別個のシステムである。しかし、近代文学はこの二つのシステムを交差させ、物質(自然)を心のあり方の隠喩として使用する道を開いた。そのパイオニアの一人であるアメリカの詩人エマソンは、有名な論文「自然」(一八三六年)で「そもそも人間はアナロジストであり、あらゆる物象のなかに関係を探る」「自然全体が人間精神の隠喩だ」と記したが、これはまさに心と自然のあいだの相関関係を強調したものである。エマソンによれば、この両者は「鏡」のように顔を向きあわせており[1]、ゆえに自然を深く精密に理解することが、そのまま心の正確な表現となる。
    エマソンをはじめ欧米のロマン主義者は、この「鏡」のアナロジーを推し進めた。それが意味するのは、物質ともつれあった新しいタイプの心が、文学にプログラミングされたということである。このような現象が生じたのは、近代における文化的・学問的関心の中心が、神学から人間学に移ったことと無関連ではない。
    もとより、神とは隠喩的に語られるしかない存在である。ドイツの神学者エーバーハルト・ユンゲルの言い方を借りれば「神自体はただ隠喩的にのみ表現しうる。言いかえれば、そもそも隠喩的に語られる時にのみ、神について語りうるのである」。神は「この世の言語」では記述できない何ものかであり[2]、ゆえに神をこれこれと言語的に定義するのは、すべてメタファーとなる。
    かたや、近代文学は神を記述する代わりに、もっぱら人間を説明することに舵を切ったジャンルである。小説において、神についての語りは、心についての語りに凌駕されたが、この新たな関心事となった「心」もまた、隠喩なしには語れない不可解な何ものかであった。神的なものは変形されて、小説の心=中心(heart)に残り続けた。ポスト神学時代の表現と呼ぶべき近代文学は、心を表現するのに、物質的な環境を隠喩として導入するという新たな技法を編み出したが、それはエマソンの汎神論的世界像に見られるように、心=自然が神のオルタナティヴになったことも意味していた。
    ゆえに、近代文学における心は唯物論と宗教の交差点に位置している。心は感覚的・物質的なものでありながら、ときに神に似たものとして――ジョルジュ・バタイユの言う意味でのコミュニケーション(霊的交通)の場として[3]――記述される。前章で述べたように、ジョン・ロックやディドロは心を感覚的反応の集合体として捉え、それが文学上のリアリズムやモダニズムの源流となった。逆に、ルソーやドストエフスキーにおいては、心はこのような唯物論に還元されない神的あるいは霊的なものと結びつく。ただ、その場合でも、心はいきなり神に跳躍するのではなく、あくまで特定の環境(ルソーのスイス、ドストエフスキーのロシア)ともつれあいながら、神的な境地に到るのである。
    では、近代の著述家たちは、環境と心をいかに「もつれ」させたのか。さらに、自然との接触の仕方を反映した文学的言語、すなわち「エコ言語」(ecolect)はいかなる変化を遂げてきたのか[4]。これらの問いについて、以下《一八世紀的自然から一九世紀的地球へ》という大きな見取り図をもとに論述を進めていこう。
     
  • 第八章 超‐感覚的なものの浮上――モダニズムの核心|福嶋亮大(後編)

    2023-12-26 07:00  
    550pt

    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    6、感覚の雪崩――ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』
     ヴァージニア・ウルフの一九一九年のマニフェスト的な評論「現代小説」には、その重要な手がかりが記されている。ちょっとの間、普通の一日の普通の心を調べてみよ。心は無数の印象を――些細な、とてつもない、はかない、あるいは鋼の鋭さで刻まれた印象を受け取っている。あらゆる面からその印象はやってくる。それはおびただしい原子のたえまないシャワーだ。そして、それらの印象のシャワーが落下し、月曜日ないし火曜日の生活へと自らを形成するにつれて、そのアクセントは以前とは変わる。重要な瞬間は、ここではなくあちらに訪れるのだ。[14]
     何でもない日常の心を仔細に観察すると、そこには無数の原子化した印象が離合集散するさまが浮かんでくる――こう述べるウルフは自らの小説においても、五感に根ざしたリアリズムのプログラムを、その臨界点に推し進めた。彼女の狙いは、不定形のまま揺らめき続ける無数の印象の戯れを、「カメラ(部屋)」の図像として所有するのではなく、言語を超えた「ヴィジョン」として図示することにあり、絵画で言えばセザンヌら後期印象派に対応するこの手法は、『灯台へ』(To the Lighthouse)で頂点に達した[15]。 このそっけなく無造作なタイトルからは、ウルフが印象の戯れを妨害することのない、控えめで重量感のない目標物を求めたことがうかがえる。ディドロの『ラモーの甥』はあらゆる感覚を一人の音楽機械的男性に集中させ、メルヴィルの『白鯨』は超‐感覚的な鯨を「象形文字」に仕立てあげたが、ウルフの『灯台へ』は逆にそのような不動の重心からたえず逸れようとする。ウルフ自身「人生は、光まばゆい暈輪である。意識のはじめから終りまでわれわれをとり巻く、半透明の包被である」と述べ、人生そのものというより、そこから滲み出す半透明の暈(halo)の伝達こそが小説の任務ではないかと問いかけていた[16]。 このような脱中心化の志向は、ウルフが女性の生活を描こうとしたこととも深く関わっている。そもそも、彼女の評論で述べられたように、女性の担ってきた家事や育児は「試験され検討されることが男性よりはるかに少ない」。ゆえに「女性の生活は名なしという性格を帯びていて、極端に不可解で謎めいている。この暗黒の国がはじめて小説の中で探検され始めている」[17]。『灯台へ』でも名を与えられない女性の生活と感情を、どこか一点に収束させる代わりに、むしろ限界ぎりぎりまで微分しようとする戦略が貫かれている。ウルフは「不可解で謎めいた暗黒の国」としての女性の生活やコミュニケーションを、昼の光のもとで鮮明にするのではなく、むしろ感覚が波のように流動する「夕暮れ」の時空のなかで、いっそう増幅させたのだ[18]。 このようなウルフ流のモダニズムは、一家の精神的な支柱であったラムジー夫人の描き方によく示されている。第一部では彼女がいかにその細やかな神経によって周囲を支えてきたかが述べられるが、第三部では彼女がもう亡くなったことが前提となっている。彼女の死そのものには焦点があわされず、故意に脱中心化された。しかし、そのことによってラムジー夫人は、この一家を取り巻く半透明の「暈」の領野に静かに移行した。彼女が純粋な印象の束になったとき、その存在の本質は生き残ったひとびと、さらには読者においてかえってより強く感じられる。 ウルフにとっては、人生の「暈」における不定形の揺らぎ、その弱くはかない運動にこそむしろ強度なリアリティがあり、『灯台へ』はそれを手法のレベルで展開した。特に、ラムジー一家を観察する画家リリー・ブリスコウの感受性は、ウルフの手法そのものの見事な絵解きになっていた。リリーは知人のバンクスの誠実さや几帳面さに触れたとたん、強烈なショックを感じる。リリーがバンクス氏について密かに抱いてきた印象の山が少し傾いだかと思うと、彼女の思いのすべてが、大きな雪崩となって一気に溢れ出した。一方でそのような感覚に押し流されつつも、他方バンクス氏の存在のエッセンスが、そこに霧のように立ち昇るのを見届けた気もした。彼女は自らの知覚したものの激しさ、強さに圧倒されたが、それはバンクス氏のこの上なく厳格で善良な姿にほかならなかった。(四四頁/以下『灯台へ』の引用は御輿哲也訳[岩波文庫]に拠り、頁数を記す)
     ウルフ的印象には明確な形が与えられず、たえず不可解なショックにさらされるために、いつでもインフレーションを起こす可能性がある。しかし、ウルフにとっては、この不意の「感覚の雪崩」こそが、存在のエッセンスを瞬間的に顕現させる。つまり、感覚や印象が人間のなかに留まらず、アンビエントな広がりをもったとき、それを地(ground)として存在の図(figure)が改めて描き直されるのだ。 ここで重要なのは、この感覚や印象のインフレーションが、語りによる評価や判断をも超えてしまうことである。リリーは次のような思考をめぐらせる。人を評価し判断するとはどういうことなのか?あれこれ考え合わせて、好き嫌いを決めるためには、どうすればよいのだろう。それに「好きだ」「嫌いだ」っていうのは、結局どういう意味なのか?梨の木のそばに釘づけにされて立ちつくしていると、二人の男性のさまざまな印象が降りかかってきて、目まぐるしく変わる自分の思いを追いかけることが、速すぎる話し声を鉛筆で書きとめようとするのにも似た、無理な行為に思われてくる。(四五頁)
     語りとはまずは人間や出来事を評価し、それを他者に伝達する行為である(第二章参照)。特に、イギリスの近代リアリズム小説では、捉えがたい対象についての多面的な評価を累積するプロセスが、しばしば物語の中核となってきた。 例えば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、未知の孤島の環境に関するアセスメントの記録そのものであり、『モル・フランダース』はその評価の対象を新世界にまで拡大した。あるいは、ジェイン・オースティンの代表作『高慢と偏見』(一八一三年)では、結婚相手の資質や性格を見定めようとする女性たちの評価が、会話や手紙のような複数のチャンネルでなされる。当初の低い評価が、さまざまなパラメータの加味によって次第に逆転してゆく――このような評価の揺らぎの緻密な再現にこそ、オースティンのリアリズムの本領があった。 それに対して、『灯台へ』はむしろ、そのような環境の評価や個体の識別そのものを不可能にする領域に肉薄しようとする。「人間の心も体もすっかり闇に包みこまれてしまい、「これは彼だ」「こっちは彼女だ」と言える手がかりすらなくなった」(二四〇頁)。しかも、この個体の消えた世界では第一次大戦のショックをはじめ、見えない爆発がたえず起こっているのだ(実際、ラムジー家の音楽家アンドリューが戦争で即死したことが、断片的なヴィジョンとして示される)。画家リリーは「神経の受ける衝撃そのもの、何かになる以前のものそれ自体」(三七六頁)をつかみたいと願うが、それはどこにも中心がない夕暮れの世界に身をさらすことに等しかった。 
  • 第八章 超‐感覚的なものの浮上――モダニズムの核心|福嶋亮大(前編)

    2023-12-22 07:00  
    550pt

    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、五感に根ざしたリアリズム
     小説の台頭は、それ自体が世界認識のパラダイムの変化と結びついている。私はここまで、それを初期グローバリゼーションと植民地の拡大という政治的な観点から説明してきたが、そこに心理的な次元での変革が関わっていたことも見逃せない。例えば、英文学者のイアン・ワットは名高い研究書『小説の勃興』のなかで、デカルトやジョン・ロックの哲学と、それに続くデフォーやリチャードソン、フィールディングら一八世紀イギリス小説のリアリズムの共通性について論じている。「近代のリアリズムは〔…〕真実は個人の五感を通じ、個人によって発見され得るという立場から始まっている」[1]。 近代以前の世界認識においては、神やイデアこそが不動の「リアル」であり、人間の移ろいやすい五感で捕捉された情報は、あてにならない不規則な現象として処理された。しかし、近代の文化はこの前提そのものを転倒させ、むしろ個人の感覚器官において時々刻々と受容されるデータこそをリアルなものと見なし、それを思考の出発点とした。ワットによれば、それは「新奇〔ノヴェル〕なるものを前例のないほど高く評価」する文化への転回であり、小説は「個人的な経験に対する忠実さ」によって、この新興のリアリズムの文化における中心的な地位を獲得した。 小説のリアリズムは、個人の束の間の感覚的反応の記録を「真実」の基盤として受け取ることから始まる。ここで興味深いのは、この新たな真実性のモデルが、当時の先端的な記録装置とも関連性をもったことである。 例えば、ジョン・ロックの『人間悟性論』(一六九〇年)やニュートンの『光学』(一七〇四年)は、知覚のモデルを当時の写真装置であるカメラ・オブスキュラ(「暗い部屋」の意)に求めた。これは外部から入力された刺激をノイズも歪曲もなく正確に記録する「暗い部屋」のようなものとして、人間の知覚の仕組みを理解するものである。もし人間の知覚がカメラ・オブスキュラのように外界を複写できるならば、そこで得られる無数の表象は世界に近似するものとして捉えてよい――このような機械的な透明性への信頼は、小説で言えば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の文体にも当てはまる。クルーソーはまるで帳簿をつけるように、自身の冒険の顛末や島での孤独な生活を詳細に記録した。クルーソーの島はいわば、さまざまな情報を取り込み整然と並び変えるカメラ・オブスキュラ、より現代的なメタファーを使えば、彼の行動履歴をビッグデータとして逐一保存する高性能の記録装置であった。 このように、小説のリアリズムの背景には、それまでは浮かんでは消えるばかりであったエフェメラルな個人的経験のデータにこそ価値を認めようとする新しい信念がある。加えて、ここで重要なのは、この新興のリアリズムが読者との共犯関係を必要としたことである。 読者は作中のデータを、自らの経験上のデータと照合しながら、架空のキャラクターに想像上の肉づけをおこなう。小説を読むとは、キャラクターの心や思考を、断片的な情報を手がかりとしていわば「即興」で創作する作業である。作者は独立した架空の人生をそっくりそのまま再現するというよりは、むしろ読者側で起こる即興的創作をあてにして、前後のつじつまがあうようにキャラクターの記述を編集する。ごく限られた記述で説明されるだけのキャラクターの心は、あくまでフラット(=表面しかない)だが、読者はそこに心の深みを創作する。小説のリアリズムは、薄い感覚的な記述に虚構の深みを与える、読者の心の動きに依存している[2]。つまり、小説における心を創作するのは、作者である以上に、実は読者なのである。 
  • 第七章 海の象形文字――シェイクスピアからメルヴィルへ|福嶋亮大(後編)

    2023-11-28 07:00  
    550pt

    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    7、愚かさを拡大する新世界――デフォーの『モル・フランダーズ』
     シェイクスピア劇においては、しばしば二つの異質の世界が交差する。それを象徴するのが、地中海世界の中心であるヴェニスにアウトサイダーとしてやってくるアフリカの黒人オセローであり、ミラノから退出して新世界の支配者となったプロスペローである。そのなかで、ハムレットは旧世界の飽和を感じさせる人間である。  T・S・エリオットが、ハムレットの悩みは「客観的相関物」を欠くと批判したことはよく知られている[18]。ハムレットは自らの悩みに対応する客観的な現実をもたないため、その心は場違いの感覚にさいなまれ、とめどない内部分裂に向かわざるを得ない。この分裂はメタフィクション的な劇中劇――王の犯罪を告発する罠――において、きわめつけに複雑なものとなる[19]。ハムレットは芝居の脚本家となり、父の暗殺を再現し、自らの苦悩の原因を虚構として演じ直す。しかし、彼がどれだけ演技を積み重ねても、らせん状に迷宮化した自らの心から脱け出すことはできない。  ただ、「デンマークは牢獄だ」(第二幕第二場)と言い放つ閉塞的なハムレットの前には、本来は無限の海が広がっていた。この海との遭遇こそが、煮え切らなかったハムレットに政治的な決断を促す。彼が叔父である国王クローディアスに復讐するきっかけになったのは、デンマークからイギリスに出港したとき、海賊に襲撃されて(ちょうどロビンソン・クルーソーのように)捕虜になり、その際に自らを殺させようとする国王の陰謀に気づいたときである。海上のハムレットは再び陸地に戻って、復讐を決行する。しかし、もし海賊の捕虜となった彼がそのままデンマークを離れ、大西洋につながる「海的実存」に生まれ変わっていたとしたら、内部に向かってとぐろを巻くような彼の心には、別の解放の道筋が開けたに違いない[20]。  興味深いことに、シェイクスピアの活躍からおよそ一世紀後の一六八九年に、アメリカのカロライナ憲法の制定にも関わった哲学者のジョン・ロックは「最初の頃は、全世界がアメリカのような状態であった」(『統治二論』後篇・四九節)と述べながら、貨幣ももたずに「生存の必要」(同・四六節)だけで動いている初期状態の人間のモデルとしてアメリカ人を描いた。ロックがアメリカを自己流に理想化しているのは否めないとはいえ、飽和したヨーロッパ社会をまとめて初期化できるジョーカー的存在としてアメリカが現れたことは重要である。実際、シェイクスピア以降の近代小説の主人公は、ハムレットのように悩みを内的に自乗する代わりに、むしろその累積したエネルギーを外に振り向け、人生を新たに始め直すようにして大西洋を横断した。  例えば、ダニエル・デフォーはロビンソン・クルーソーを環大西洋的存在として造形した後、一七二二年のピカレスク・ロマン『有名なモル・フランダーズの運不運』で、新世界アメリカへの旅立ちを物語の核心に据えた。ロンドンのニューゲートの牢獄で生まれた女性主人公――本名を隠してモル・フランダーズという変名を名乗る――は、虚栄心にとりつかれ、自ら破滅への道を歩まずにはいられない。その美貌を駆使して結ばれた二人目の夫は、彼女をアメリカのヴァージニア州のプランテーションに連れてゆく。しかし、この夫が実の弟であったというショッキングな事実が判明し、彼女は一人で帰国するのである。  当時のヴァージニアは「ニューゲートやその他の牢獄」から流刑になった人間たちで溢れていた。イギリスでは罪人であった彼らは、うまくやればアメリカの植民地で出世することもできた。夫=弟の母(つまりモル・フランダーズの実母)が「ニューゲートにいた連中でえらぶつになっている人がたくさんいるよ。ここには治安判事や民兵団の将校や自分の住んでいる町の判事でも、腕に焼印のある人が何人もいるんですよ」と語るように[21]、ヴァージニア植民地はシェイクスピアのヴェニスにも似たアウトサイダーたちの「共和国」であり、モル・フランダーズも含めた悪人も、統治側の人間に生まれ変わる可能性をもった土地であった。  この小説のテーマは、犯罪者たちがお互いに秘密を隠しながら、騙し騙される関係を生き延びてゆくことにあった。西洋文学史を振り返っても、モル・フランダーズほど戦略的な女性はほとんどいない。ロビンソン・クルーソーが島を計算づくで経営するのに対して、彼女はむしろ人間関係を巧妙に計算して操作する。しかも、デフォーが画期的なのは、社会の下層のアウトサイダーが人間になろうとするシェイクスピア的なゲームの底面に「愚かさ」を据えたことである。  実際、モル・フランダーズは愚かしい虚栄心に導かれるままに、新世界の社会に滑り込もうとするが、結局は弟との近親相姦というこれまた愚かしい予想外のエラーによって、その企ては失敗に終わる[22]。新世界アメリカへの渡航は、理性のコントロールの及ばない領域を浮かび上がらせた。『テンペスト』が「眠り」や「夢」として描いた問題は、『モル・フランダーズ』では「愚行」に変換される。後のディドロと同じく、デフォーにとっても植民地の創設は、人間性のひび割れを拡大するものであった。
    8、世界文学は新世界文学である
     デフォーはショッキングな例外状態によって、読者を外部に連れ出す作家であった。彼の近代性の核は、ヨーロッパ社会を動かす法(プログラム)を強制停止し、別の法則を備えた世界へと人間を連行したことにある。『ロビンソン・クルーソー』の漂流、『疫病の年の日誌』のペスト、『モル・フランダーズ』のヴァージニア渡航と近親相姦――これらはいずれも、人間を人間たらしめる理性ではなく、人間をその安全な進路から突き落とすショッキングな不意打ちとして描かれた。  このデフォーの手法は、演劇から小説へという近代の枢軸のジャンルの変化とも関連する。ヴェニス、デンマーク、大西洋等を舞台としたシェイクスピアは、演劇的空間の弾力性の高さを存分に活用した。プロスペローが放逐された経緯は、彼の一つのセリフのなかに圧縮されるため、地中海から大西洋への移動もSF的なワープのように軽快に処理される。それに対して、ジャーナリストでもあった小説家デフォーは、このような気ままな省略を許さなかった。クルーソーやモル・フランダーズがヨーロッパから離れるプロセスは、動機や行動経路を含めて詳細に記録されるが、その移動の根幹には人間性そのものの揺らぎがある。シェイクスピアが世界を可変的なシアターに仕立てたとしたら、デフォーは世界を激変させるショックの力を利用したのだ。  では、デフォー以降のヨーロッパの作家は、アメリカにどのような意味を与えたのか。世界文学論の観点から言えば、デフォーからおよそ一世紀後の晩年のゲーテがやはり重要である。  ゲーテはアメリカを組織的・集団的な起業の場として描いた。彼の『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』(一八二九年)では、主役の一人であるレナルドがアメリカ移住を志す。レナルドは紡績工を募集し、「真に活動的な人間」たちとともに新天地アメリカに工場を設立しようと試みた。彼の長い演説によれば、その企ては土地所有を最善とするヨーロッパ的な価値観を乗り越えて、むしろ最高の理念を「動産」および「行動に富む生」を認めるものである[23]。新世界アメリカに適した人格は、デフォー的な犯罪者からゲーテ的な企業家へと移り変わったが、そのいずれも私的所有よりもオープンな「生」を求めるタイプであったことは注目に値する。  ゲーテはアメリカに、私的所有制を超克するアソシエーショニズムの理想を投影した(すでに前作の『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』でも、フリーメイソン的な「塔の結社」を主宰するロターリオにアメリカ経験があった)。この理想の背景には、全人類を結びつけるフリーメイソン的な「世界同盟」(Weltbund)のアイディアがあった。世界同盟とは遍歴=さすらい(Wandern)の人間たちの集うアナーキズム的な結社だが、レナルドがその樹立を試みるとき、ヨーロッパの土地所有制度から脱出することが必要であった[24]。  レナルドの壮大なプロジェクト(人類補完計画?)は、明らかにゲーテの世界文学論――各国が文学を所有するのではなく、活発な翻訳と相互浸透を通じて世界規模の文化的コモンズを創設しようとする企て――と通底している。ゲーテの世界文学論は、私的所有制を批判する一種のアソシエーショニズムとつながっていた。しかも、このアソシエーションが機能するには、ヨーロッパとは異なる人間的結合を実現する《新世界》が欠かせなかった。レナルドとその生みの親ゲーテは、ともに同じ問題を抱えていたと言えるだろう。  こうして、『ファウスト』でポストヒューマンの領域へと踏み込んだゲーテは、『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』および世界文学論では、ポストヨーロッパの時代の到来を予告した。すでに『テンペスト』というアメリカ文学の序論に先取りされていた問題が、ゲーテによってくっきりと輪郭づけられた。一七世紀のシェイクスピア、一八世紀のデフォー、一九世紀のゲーテの三人を並列するとき、そこには世界文学とは新世界文学であるというテーゼが浮かび上がってくるだろう。
     
  • 第七章 海の象形文字――シェイクスピアからメルヴィルへ|福嶋亮大(前編)

    2023-11-07 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。国家/個人としての主権の存在を宣言したとして発明的な出来事だったアメリカ独立宣言。ある種の「文学」とも言えるこの文書に潜む、ヨーロッパ文学の財産とは?
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、世界文学としてのアメリカ独立宣言
     アメリカの生み出した最初の、そして最も強い衝撃力を備えた≪世界文学≫は、一七七六年に発せられたアメリカ独立宣言(United States Declaration of Independence)である。政治学者のデイヴィッド・アーミテイジが指摘するように、この宣言は「現在まで存続し続けている政治的著述の一ジャンル」の誕生を告げた[1]。そのユニークさは、主権国家としての対外的な独立のみならず、諸個人の「生命、自由、そして幸福の追求」の権利も強く主張したことにある。国家の権利と人間の権利の価値を、世界という法廷で高らかに「宣言」し、現実のものに変える創設的な言説――それこそがアメリカ建国の始祖たちの発明したものである。独立宣言というジャンルは、ちょうど一八世紀のヨーロッパ人が「小説」を飛躍させたことに匹敵するような、言説の歴史における驚くべき発明であったと言えるだろう。  しかも、この新しい政治的著述のジャンルは、強力な感染力を備えていた。アーミテイジによれば「アメリカ革命は、主権という名の伝染病の最初の大発生であり、この伝染病は一七七六年以降の数世紀の間、世界に大流行した」。この主権のパンデミックは「諸帝国が織りなす世界」から「諸国家が織りなす世界」への移行を決定づけた。この政治的疫病によって、世界じゅうに諸国家がひしめきあう新時代の扉が開かれた。一九世紀のヨーロッパが多極的な安定構造の時代であったのに対して(前章参照)、同時期の南北アメリカ大陸はむしろ国家の繁殖地となり、ハイチ、ベネズエラ、ブラジル等が相次いで独立を宣言し、二〇世紀になるとアジア、アフリカ、中東、バルカン半島、旧ソ連、東欧等で「主権という名の伝染病」が再燃した[2]。独立宣言という文書ジャンルは、この感染症の媒体になったのである。  私がアメリカ独立宣言という「ノンフィクション」の文書を≪世界文学≫に数え入れるのは、そこにヨーロッパ文学の財産が受け継がれているからである。そもそも、一八世紀後半まで、文学(literature)は現代ならばノンフィクションに分類される著述――歴史、旅行記、哲学、科学等――を含む多義的な言葉であった[3]。当時のイギリスの『ロビンソン・クルーソー』や『ガリヴァー旅行記』は、いずれもノンフィクションの体裁を利用した作品である。逆に、それ以降のロマン主義者たちは、「オリジナリティ」や「天才性」や「想像力」という概念を駆使し、literatureをむしろ現実から独立したフィクションに近づけた。一八世紀のクルーソーやガリヴァーが後に本格的な文学というより、しばしば児童文学のキャラクターとして扱われたのは、この大きな変化と関係している。一九世紀のliteratureの観念からすれば、一八世紀のliteratureは不純なテクストに映るだろう。  しかし、われわれはむしろここで、今で言うノンフィクションからフィクションまでを横断する一八世紀的な「文学」の概念を呼び戻そう。なぜなら、アメリカ独立宣言という第一級の政治的文書のなかにも、大西洋を横断する(transatlantic)文学の痕跡があるからだ。  現に、独立宣言の起草者の一人であるトマス・ジェファーソンは、ジョン・ロックの啓蒙思想に加えて、同時代のイギリスの小説家ローレンス・スターン、特にその最も実験的な『トリストラム・シャンディ』の愛読者でもあった。transatlanticな文学の研究者ポール・ジャイルズによれば、ジェファーソンがスターンの多面性――センティメンタルなモラリストにしてコスモポリタンな旅行者、下品な道化師にしてメタフィクション的なソフィスト――に魅了されていたのは、大いにありそうなことである。加えて、ジャイルズは独立宣言の掲げる有名な「幸福の追求」の権利も、スターンの思想と関連性があると推測した。  ふつう「幸福」の意味は、共和主義的な公共的参加か、あるいはジョン・ロック的な私的財産の獲得と結びつけられることが多い。しかし、ジェファーソンの好んだ文学を鑑みれば、彼の幸福概念には恐らく、身体と心が複雑に織り交ざったスターン的な「感覚の衝動」のテーマが入り込んでいた。たえず揺れ動きながら、人間を本来的な「自然」と結びつける感覚(sensibility)は、一八世紀の知的パラダイムにおいて高く評価されたものであり、ジェファーソンの主著『ヴァージニア覚え書』を読んでも、彼が民主政治の諸制度の根底に、アメリカの風土や気候を感じ取る能力を置いていたことが分かる。公共的な生と個人的な生をともに包み込む「感覚」の哲学者・文学者としてジェファーソンを理解しようとするジャイルズの見解は、十分な注目に値するだろう[4]。  その一方、アメリカがヨーロッパに及ぼした思想的影響も甚大であった。一八世紀の初期グローバリゼーションを背景として、当時のヨーロッパの思想家たちの観念は、環大西洋世界から強い作用を受けた。『カンディード』や『ロビンソン・クルーソー』の心象地理には、さも当然のように大西洋が組み込まれていたし、イギリスのデイヴィッド・ヒュームの哲学的著述も、環大西洋世界から得られる多くの情報によって支えられていた[5]。ジェファーソンもまた、アメリカの最も知的な政治家であり、かつ政治の前線に立つ一八世紀の大西洋人でもあるという二重性を備えていたと言えるだろう。
    2、すべてを変えてしまった革命
     では、独立宣言の切り開いたアメリカではいかなる《世界文学》が産出されたのだろうか。この本題に入る前に、ヨーロッパ人がアメリカへの進出をどう理解していたかというテーマを、もう少し掘り下げておこう。  独立宣言と同じ一七七六年に、イギリスでは経済学者アダム・スミスの『国富論』が刊行された。スミスはそこでヨーロッパ人の植民史を大きく取り上げている。彼によれば、古代のギリシア人やローマ人にとって植民地建設には居住空間の拡大という明快な目的があったのに対して、アメリカ大陸の植民地ははっきりしたニーズがないままに創設された。
    アメリカと西インド諸島における植民地の設立は、必要性から生じたものではなく、その結果生じた効用がきわめて大きなものであったとはいえ、それは、まったく明白かつ明瞭なものではなかった。それは最初に設立された時に理解されておらず、しかも、その設立の動機や、それを発生させることになった発見の動機でもなかったから、その効用の性質、程度や限界は、おそらく今日でも十分に理解されていないのである。[6]
     ヨーロッパ人は自らがなぜ植民地を欲するのか、植民地がいかなる効用をもつのか十分に理解しないうちに、アメリカと西インド諸島に植民地を創設した。しかも、このニーズを超えた過剰な集団行動こそが、世界を劇的に変化させたのである。ミクロな個人の利益追求がマクロな「意図せざる目的」を達成するという≪見えざる手≫に注目したアダム・スミスは、ヨーロッパの植民史にも人間の意図を超えた力を認めた。  さらに、フランスのディドロも同時代のスミスとよく似た認識を記していた。フランス革命前夜の一七七〇年に初版刊行されたギヨーム゠トマ・レーナルの大著『両インド史』に寄せた序文で、ディドロは新世界の発見を「革命」だと明言した。「新しい関係と新しい欲望によって、もっとも離れた国の人間同士が相互に近づいた」。経済圏が広がり、人間どうしの距離が縮まった結果として「いたるところで、人びとは意見や法律や慣習や病気や薬や美徳や悪徳をお互いに交換してきた」。ディドロはここで、あらゆるものが交換可能な商品になった、グローバルな商業ネットワークの到来を率直に認めていた。  そもそも、スミスやディドロが生きたのは、ヨーロッパの資本主義経済が急速に拡大した時代である。ウォーラーステインによれば、一七五〇年前後を境にして、インド亜大陸、オスマン帝国、ロシア、西アフリカといった諸地域が、世界経済に組み込まれた[7]。ディドロが気づいていたのは、それまで資本主義の外部にあった地域を内部化してゆく巨大な経済圏の出現が、前例のない「革命」であったということである。  しかも、ディドロの考えでは、自ら植民地を築いたにもかかわらず、ヨーロッパ人はこの全人類の接近の帰結を十全に理解していない。「ヨーロッパはいたるところに植民地を作ってきた。しかし、ヨーロッパは、植民地がどのような原理にもとづいて作られなければならないかを知っているだろうか」。このスミスにも似た問いかけは、人類の未来に対するディドロの懸念をいっそう深くした。
    すべてが変わってしまったし、今後も変わっていくに違いない。しかし、過去に生じた革命は、人間本性にとって有益なものであっただろうか。また、今後、まちがいなく起こると思われる革命は、人間本性にとって有益なものになるだろうか。いつの日か人間は、これらの革命のおかげで、よりいっそうの平安と幸福と快楽を得ることになるだろうか。人間の状態は、よりいっそうよくなるだろうか。それともただ変化していくだけなのだろうか。[8]
     ディドロは植民地の獲得が、ヨーロッパのすべてを根本的に変えてしまったことに驚いている。ヨーロッパ人はこの思いがけない革命が「人間本性」にとって、幸福な変化であったかを検証する術をもたなかった。  ヨーロッパ人が植民地事業によって、自らの根源的な自然=本性(nature)をも知らないうちに変えてしまったというディドロの考え方には、深い内省の跡が感じられる。それは、一八世紀文学の主人公像とも無関係ではない。例えば、ロビンソン・クルーソーは南米植民地の経営者、海賊の捕虜、さらに孤島の漂流者へと生まれ変わる。このめまぐるしい変身は、植民地の支配者であることによって、かえって不慮のアクシデントにさらされ、孤独な漂流者になったヨーロッパ人の姿を寓意している。『両インド史』に関わったディドロは、このクルーソー的な逆説を見事に捉えていたように思える。
     
  • 第六章 長い二日酔い――一九世紀あるいはロシア(後編)|福嶋亮大

    2023-09-26 07:00  
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    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。前回に引き続き、19世紀ヨーロッパの社会思想について分析します。「アジアからヨーロッパへ」という単純な図式に収まり切らないアメリカやロシアを、当時の知識人たちはどのように捉えていたのでしょうか。 前編はこちら。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    6、ヘーゲル、トクヴィル、マルクス
     一七七〇年生まれの哲学者ヘーゲルは、世界史をアジアからヨーロッパへと進歩するプロセスとして捉えた。ただ、その場合アメリカはどうなるのか。一口に言えば、ヘーゲルの狙いは、世界史と≪新世界≫のデカップリング(分離)にあった。 ヘーゲルの独断的な見解によれば、アメリカ大陸は社会を結集させる力を欠いている。そこでは動物も人間も弱々しく、衰亡の瀬戸際にある。「新世界は旧世界よりずっと脆弱であることが示されており、また鉄と馬という二つの手段が不足している。アメリカは新しく、脆弱で力を欠いた世界である。ライオン、トラ、ワニはアフリカのものよりも弱く、そのことは人間に関しても同様である」「この国〔アメリカ〕は生成途上の未来の国であり、それゆえこの国はわれわれにはまだ関わりのないものである」[20]。ただ、ヘーゲルの口調が自信たっぷりであるように見えて、最終的な判断を保留するような含みをもつことも見逃せない。彼はこの脆弱な≪新世界≫が、いつか世界史に関係してくる未来を否定しきれていないのだから。 一八〇五年生まれのフランスの政治家にして思想家のトクヴィル――二月革命の折に外務大臣を務めた経験を、後に『フランス二月革命の日々』で回想している――になると、≪新世界≫の勃興は世界史の転換点として捉えられた。彼の『アメリカのデモクラシー』第一巻(一八三五年)の末尾には、アメリカおよびロシアという新興国が「いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになる」という、きわめて正確な予想が記された。後年カール・シュミットは、頑固なヨーロッパ中心主義者ヘーゲルと違って、若きトクヴィルが「ヨーロッパ精神の刻印を受けつつなおヨーロッパ的でないこの新興二大国」を明確に名指ししたことを「驚きの極みである」と評している。シュミットがトクヴィルを「一九世紀最大の歴史家」と呼ぶのは、いわばヨーロッパの私生児であるロシアとアメリカにこそ人類の未来を認めた、その並外れてシャープな時代認識のゆえであった[21]。 しかも、慧眼なトクヴィルは、この両国の尋常ではない発展速度に注目していた。「[ロシアとアメリカは]どちらも人の知らぬ間に大きくなった。人々の目が注がれているうちに、突如として第一級の国家の列に加わり、世界はほぼ同じ時期に両者の誕生と大きさを認識した」[22]。私は先ほどから、フランスの二月革命や『レ・ミゼラブル』を例にして、事態の「不意打ち」や「急転」が一九世紀の特徴だと述べてきた。二日酔いでふらつく一九世紀的人間は、社会の安定構造のなかでまどろみながら、ときにそれを出し抜く急転に巻き込まれる。変化を加速させ、ヨーロッパ人のしらふの意識を追い抜いてしまったロシアとアメリカは、まさに異常なアゴーギクを国家形成のプロセスにおいて実現した。トクヴィルは一種の速度論(kinetics)の立場から、この両国の地滑り的な変化の速度そのものに注目したのだ。 さらに、ヘーゲルともトクヴィルとも異なるやり方で≪新世界≫の世界史的位置を考えたのが、一八一八年生まれのマルクスである。一八五二年に『ブリュメール一八日』を刊行したマルクスは、それに続いてロシアの分析に取り組んだ。クリミア戦争(一八五三~六年)の時期に構想された彼のロシア論は、ヨーロッパとは異なる政治経済のシステムを「タタールのくびき」(モンゴル帝国による支配)以降のロシアの専制政治に認め、その形成プロセスを批判的に検討したものである。 後にマルクスは一八六七年刊行の『資本論』で、亡命先の経済先進国イギリスを拠点として、資本主義を分析した。そこでは、資本主義のグローバルな拡大が前提とされている。ただ、一八五〇年代のマルクスによれば、ロシアの政治経済システムはむしろ資本化の作用をせきとめる専制主義を内包していた。この悪しき障害物がある限り、たんに資本主義の揚棄をめざすだけでは、人類の真の解放には到らない。マルクスはこの「東洋的専制」のシステムが、一八世紀初頭のピョートル大帝によって強化されたと見なした。ピョートルは西欧文明を効果的に利用しながら、国境に近いバルト海沿いに「中心から外れた中心」しての新都ペテルブルクを急ピッチで建設した。マルクスはこの驚くべき「速成的創造」に、ロシアが海の帝国に変わった瞬間を認めたのである[23]。 このマルクスのロシア論が、クリミア戦争の渦中から出てきたことは見逃せない。一九世紀ヨーロッパは相対的な安定期であったが、クリミア戦争は例外的に、膨大な死者を出した史上初の「全面戦争」であった。ロシア帝国とオスマン帝国の軍事衝突で始まったこの戦争は、やがてカフカス(コーカサス)から黒海沿岸にまで戦域を広げ、ヨーロッパ諸国の参戦も招いた。そこでは、新型兵器や電報のような通信テクノロジー、最新の軍事医学までもが動員され、まさに総力戦の様相を呈した[24](クリミア戦争に従軍し、軍の衛生環境と看護婦の地位を改善したイギリスのフローレンス・ナイチンゲールはその象徴である)。このヨーロッパとアジアのコンタクト・ゾーンにおける熾烈な世界戦争を背景としながら、マルクスはロシア特有の政治経済システムを考察した。 ヘーゲルにとって、いわば世界史の時計は一つであった。その途上でいかなる困難があろうとも、ヨーロッパの理念が次第に自己完成に向かうという原則は疑われていなかった。しかし、一八五〇年代のマルクスはむしろ人類が複数の時計をもつこと(ピョートルのロシア)、さらに時計が逆戻りし得ること(ナポレオン三世のフランス)を認めていた。この認識は二一世紀のわれわれにとっても示唆に富む。現に、いったん全面的に勝利したはずのポスト冷戦期の自由主義的なグローバリズムが、かえってその反動としてのプーチン(いわばピョートルの劣化コピー)や習近平(いわば毛沢東の劣化コピー)を生み出している現状は、マルクスの先見性を示すものだろう。
    7、アンチ・ファウスト――プーシキン
     このように、ヨーロッパ中心主義者のヘーゲルは世界史と≪新世界≫のデカップリングを試み、トクヴィルはむしろ≪新世界≫にこそ人類の未来を認め、マルクスはロシアの政治経済システムのもつ特殊性を強調した。この三者三様の言説から分かるように、ヨーロッパの第一級の知識人にとっても、ロシアやアメリカは知的に解決しがたい謎であった。 ここで興味深いのは、当のロシア人自身が自らを奥深い「謎」として了解したことである。ロシア近代文学の祖となった一七九九年生まれの作家アレクサンドル・プーシキンは、一八二二年に「ロシアはいまだ未完成である」と端的に述べた[25]。これはロシアが今後何にでも変わり得ること、そこには無限の可塑性があることを意味する。ロシアの知識人は総じて、自らが創出したロシアという謎に酩酊した。過去と未来にアクセスしながら、ロシアをたえず発見・発明し続けようとする未完の思想運動の中心にいたのが、まさにプーシキンのような詩人であった。 ロシア史家のオーランドー・ファイジズが強調するように、ロシアへの回帰を促したのは、一八一二年のナポレオン侵攻である。もともと、ロシアの上流貴族はフランスにすっかり夢中であり、家庭での教育もフランス語でなされていた。ナポレオン戦争を描いたトルストイの『戦争と平和』が、フランス語の会話で始まるのは、それを諷刺したものである。しかし、ロシアがナポレオンを撃退した後、農民とともに戦った兵士たちは、むしろロシア人のネーションとしての一体性を強く自覚するようになり、それが一八二五年のデカブリスト(農奴解放を訴える自由主義的な将校)の蜂起へとつながってゆく[26]。この国民統合をめざす新しいナショナリズムが、プーシキン以降のロシア近代文学の枢軸になったと言えるだろう。 もとより、ロシアが未完であることは、バラ色の未来を約束するものではない。現に、プーシキンはロシアを晴れやかな進歩にではなく、むしろ底なしの混沌に接続した。その文学上の拠点となったのが、ピョートルの築いた新都ペテルブルクであった。バルト海沿岸の湿地に工学的に築かれたペテルブルクは、その狂気じみた都市計画の代償として、たびたびネヴァ川の凶暴な洪水に襲われてきた。プーシキンの『青銅の騎士』は、若く貧しい下級官吏エヴゲーニーの視点から、この自然からの復讐を描いた長編叙事詩である。 ピョートルの騎馬像が傲然とそびえたつペテルブルクに、あるとき獣じみた洪水が襲来する――この粗暴な侵略者の創造した黙示録的光景を前にして、エヴゲーニーをはじめ民衆はただ茫然とするしかない。見慣れた街角は戦場のような廃墟に変わり、都市の繁栄はリセットされる。しかし、洪水が収まった後、ペテルブルクの生活は再び元通りになり、お互いに対して冷たく無関心な態度がよみがえる。エヴゲーニーにとっては、洪水という非日常よりも、洪水の後の退屈な日常こそが耐えがたい。世間からすっかり疎遠になった彼は、やがて荒々しいピョートルの騎馬像に取り憑かれ、狂気のなかで孤独な死を迎える。 ピョートルの悪魔じみたエネルギーの所産であるペテルブルクでは、破局と退屈が背中あわせになっており、人間的な生には何ら意味が与えられない。ボードレールはパリの商品世界を破局の集積として捉えたが、プーシキンは悪魔の創造したペテルブルクが、いわば誕生時にすでに破滅しており、その住民たちはたかだか人間の影絵でしかないことを示していた。ネヴァ川の荒々しい暴力は、このあらかじめ終わった都市を、何一つ変えなかったのである。 してみると、ロシア文学者のミハイル・エプスタインが『青銅の騎士』を「アンチ・ファウスト」の文学として位置づけたのも、不思議ではない。「プーシキンの作品は『ファウスト』が事実上終結したところに始まる」[27]。究極の人工都市ペテルブルクは、まさに自然を克服しようとするファウスト的な労働の一大成果である。しかし、それは人間の完成という達成感どころか、敗北感ばかりを募らせる。エヴゲーニーはペテルブルクの洪水を経て、精神的な二日酔いにいっそう深く沈み込んでゆく。ショッキングな洪水=革命の酔いは、退屈な日常がよみがえった後も、彼にだけはいつまでも残り続けた。ペテルブルクの化身であるピョートルは、この覚醒と酩酊の狭間にいるエヴゲーニーを罰するように、みじめな死に到らしめる。 かつて井筒俊彦は、意識の殻を吹き飛ばす「ディオニュソス的暴風圏」――ペストや洪水のような負の祝祭も含めて――を、プーシキン文学の核心と見なした[28]。それに付け加えれば、『青銅の騎士』の仕掛けは黒い祝祭を歌い上げるディオニュソス的な声が、かえってアンチ・ロマン的な日常に吸収されたことにある。この二重写しには、ロシア文学を深く規定する「パラドックス」(エプスタイン)を認めることができるだろう。 
  • 第六章 長い二日酔い――一九世紀あるいはロシア(前編)|福嶋亮大

    2023-09-19 07:00  
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    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。今回は19世紀ヨーロッパにおける社会思想について分析します。アメリカ独立戦争やフランス革命の反省から、個人の人権尊重への意識が高まった前半期から、自然科学が優勢となった後半期にかけてどのような思想の変遷があったのでしょうか 。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、消費社会と管理社会の序曲
     一九世紀ヨーロッパの社会思想史は、大きく前半と後半で分けることができるだろう。アメリカ独立やフランス革命を経た一九世紀前半には、誰もが自由や幸福を追求する権利をもつという理念が、多くの思想家たちに抱かれていた。彼らは、恐怖政治に陥ったフランス革命の限界を見据えつつ、貧困をはじめとする産業社会の問題に立ち向かう新しい社会体制を構想した。 特に、一八二〇年代から四〇年代のフランスでは、サン゠シモンおよびその後継者たち(生産の優位を掲げ、人間による地球の開発を正当化し、社会を束ねる世俗宗教を支持した)からルイ・ブラン、ブランキ、さらにはプルードン(中間集団を一掃して個人を国家に依存させるサン゠シモンとは異なり、自立した個人がその労働を通じて自由と尊厳を得るアソシエーションを構想した)に到る社会主義者が、さまざまな国家像や労働観を示した。彼らはイギリスの産業革命のインパクトを強く受けつつ、しかしイギリスを「反面教師」として、労働者を中心とする社会革命のシナリオを描いた[1]。 しかし、このような変革の機運は、一九世紀後半のヨーロッパでは萎んでしまう。革命運動が下火になる一方、自然科学や医学の重要な発見に伴って、形而上学よりも実証主義が優勢となり、経済的には繁栄期を迎えた。むろん、デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争といった争いはあったが、それらはいずれも短期間に終わり、その戦域も限られていた。このおおむね安定した社会では、変革のエネルギーはビジネスや科学に向けられた。芸術家もそれと無関係ではいられない。例えば、一九世紀後半のドイツの教養市民層に根ざしたブラームスは、社会問題には無関心を貫く一方、ナショナリズムには熱烈に反応した。彼の音楽も、人類全体に呼びかけるベートーヴェン的な交響曲よりも、小規模で親密な室内楽に傾いた[2]。 現代の政治学者ジョン・ミアシャイマーは、ナポレオン戦争後の一九世紀の大半が「多極的な安定構造」の時代であり「ヨーロッパ史の中で最も紛争の少ない時代になった」と評している[3]。フランス革命やナポレオン戦争のような血なまぐさい沸騰を目の当たりにすれば、その後にすさまじい変革の時代がやってくると考えるのが自然である。しかし、一九世紀ヨーロッパはかえって、大国どうしがバランスをとる相対的な安定期に入った。このような政治的不発の感覚が、当時のヨーロッパ的精神風土の根底にある。 騒乱と変革の時代から、安定と均衡の時代へ――その折り返し点を示す象徴的な出来事が、フランスの二月革命のたどった奇妙な顛末である。一八四八年二月、経済政策に不満を抱いたブルジョワたちが、フランス国王ルイ゠フィリップの体制(七月王政)を倒して新政権を樹立した。このほとんど誰にも予見できない不意打ちとして起こった革命は、ただちにヨーロッパ各地に飛び火する。フランス革命以前のヨーロッパへの回帰を企てた「ウィーン体制」の旗振り役であった保守派のメッテルニヒも、オーストリアからロンドンへの亡命を余儀なくされた。フランスの革命はヨーロッパの「諸革命」(いわゆる諸国民の春)へと発展したのである。 しかし、この不意に始まった諸革命は、あっという間に沈静化してしまった。革命運動が行き詰まるなか、ナポレオンの甥ルイ゠ナポレオン・ボナパルトが、一八五一年にクーデタを起こし、市民の絶大な支持を集め、翌年にはナポレオン三世として帝政を樹立した。彼がよく弁えていたのは、たとえ独裁者であってももはや民衆の「世論」を無視できず、禁止や抑圧という強権的なやり方では政権を保てないという、政治の新しいルールである。彼の体制はあくまで普通選挙の結果であり、民意の支持なしには成り立たなかった。 こうして、いったん勝利したはずの市民革命が、皮肉なことにかえって反動的な帝政を呼び込んでしまう――しかも、このドタバタ劇の後、社会は表面的には安定と繁栄に向かった。オリジナルのナポレオンが軍事的な拡大をめざしたのに対して、そのシミュラークルとしてのナポレオン三世はむしろ商業的・平和的な社会を望んだ。彼の政権下で開催された一八五五年および六七年のパリ万博では、産業社会そのものが神聖化され、不衛生であったパリの街もジョルジュ・オスマンの指揮のもとで「改造」された。さらに、「貧困の根絶」を目標とするナポレオン三世は、金融と産業の発達によって貧困を除去しようとするサン゠シモン主義の継承者であり、労働者用の共同住宅やリハビリ施設を建設しつつ、新しいベンチャー・キャピタルの創設にも手を貸した[4]。 この「第二帝政期」のフランスを覆ったのは、ナショナリズムとポピュリズムを背景としながら、産業そのものを宗教として、労働者の福祉や社会保障にも配慮するマイルドな権威主義であった。この新たな統治システムは、上からの一方的な禁止ではなく、ミシェル・フーコーの言う「管理」の技術を駆使しながら、世論を味方につけようとする[5]。そう考えると、一九世紀後半のフランスが、今日のポストモダンな消費社会・管理社会の序曲になっていることが分かるだろう。この時代を批評することは、ポストモダンの前駆的環境でいかなる芸術や社会思想があり得たのかという問いを惹起せずにはいない[6]。 
  • 第五章 エスとしての日本(後編)|福嶋亮大

    2023-08-08 07:00  
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    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。 日本で最初の著述家と言われる曲亭馬琴の作品には、中国文学からの影響がありました。彼がどのように中国文学を捉えていたかを通じて、小説の「文体」が持つ表現の幅を分析します。 前編はこちら。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    5、中国の文学的知能の相続――曲亭馬琴
     繰り返せば、中国小説には文化のエスに潜り込み、その原則を明らかにするという精神分析的な性格があった。特に『水滸伝』は、カーニヴァル的な沸騰状態において規範を解体し、人間たちの秘められた欲望をリリースする。中国小説の変異株(変態)である秋成の物語にも、それに近いことが言えるだろう。そこでは悪霊や悪漢を主人公として、エス的な「呪われた部分」へのアクセスがしきりに試みられていた。  この秋成の手法を別のやり方で引き継いだのが、一七六七年に生まれ、黒船来航を前に亡くなった曲亭馬琴である。日本で最初に商業作家として生計を立て、実に半世紀にわたって第一線で書き続けた馬琴は、明治期を含めても一九世紀日本の最大の小説家と言えるだろう。一八一四年に初輯が刊行され、一八四二年に完結した『南総里見八犬伝』は、彼のマラソン・ランナーのような作家人生を象徴する大作である。  しかも、その汲めども尽きない旺盛な語りの力は、中国由来の小説批評への強い関心と切り離せなかった。馬琴は秋成と同じように、先進的な中国小説といわば「アフィリエーション」(養子縁組)の関係を結んだ。しかも、洗練された美文家であった秋成とは違って、馬琴は脱線を恐れず、テクストにさまざまな学問的知見や批評を盛り込んだ。特に、その小説論は同時代の誰よりも卓越している。彼は『八犬伝』の作家であるだけではなく、日本の「小説批評家の元祖」でもあった[12]。  そもそも、流行作家であった馬琴は、作品を眼で見ても、声に出しても楽しめるように多様な読者サービスに努めた。葛飾北斎らとコンビを組んで上質のイラストを用い、朗読に向いたリズミカルな文体を導入した彼の読本は、文字テクストを視聴覚メディアに変える実験場となった。馬琴の文学が家庭内で女性や子どもたちにまで読み伝えられたのは、まさにその実験の成果である[13]。その一方、より高尚な議論を期待する読者に対しては、馬琴は文芸批評を提供した。  馬琴は宣長および秋成の学問を敬愛しつつも、彼らがやらなかった小説批評という新しい分野にチャレンジした。その際に、彼がモデルにしたのは、金聖嘆や李漁のような近世中国の批評家=思想家たちである。中国小説がそのメタ言説(批評)を含むハイブリッドなテクストであったように、馬琴の読本(稗史)は文芸批評や雑学を、その語りの余白において展開した。彼の最も名高い物語論である「稗史七則」――物語の制作にあたって心得るべき七つの技術をマニュアル化したものであり、金聖嘆や李漁の影響を強く受けている――も、『八犬伝』第九輯中帙附言として記されたものである。物語の仕組みを、当の物語のなかで解き明かすというこのメタゲームは、中国小説との接触なしにはあり得なかった。  さらに、馬琴は自らの批評を読者との双方向のコミュニケーションに仕立てた。彼の熱烈なファンであった殿村篠斎が、まだ完成途上の『八犬伝』について質問や批評を送ってきたとき、著者はそれに快く応じた。この両者のやりとりをまとめたのが『犬夷評判記』である[14]。『八犬伝』を二〇年以上も書き続けるのに並行して、その創作の秘密の一端を解き明かすような自作批評も公にする――ここからは、馬琴が批評というコミュニケーションを戦略的に活用していたことがうかがえるだろう。  こうして、小説と批評を交差させた中国の新しい文学的知能は、一九世紀日本の馬琴によって相続された[15]。しかも、彼は中国小説の単純な形態模写をしたわけではなく、ときに中国にもないような先進的な文芸批評も試みた。特に、われわれの目を引くのは、その文体論である。例えば、馬琴は建部綾足の『本朝水滸伝』が雅語を用いていることを厳しく批判し、中国小説(稗史)を「父母」として小説を書こうとするならば、俗語を用いなければならないと力説した。
    稗史野乗の人情を写すには、すべて俗語によらざれば、得なしがたきものなればこそ、唐土にては水滸伝西遊記を初として、宋末元明の作者ども、皆俗語もて綴りたれ、ここをもて人情を旨として綴る草紙物語に、古言はさらなり、正文をもてつづれといはば、羅貫中高東嘉もすべなかるべく、紫式部といふとも、今の世に生れて、古言もて物がたりふみを綴れといはば、必ず筆を投棄すべし。[16]
     ふつう日本文学史では、書き言葉を話し言葉に近づけようとする俗語化の試みを、明治期の言文一致運動に求める。しかし、馬琴は早くも一九世紀前半に、「人情を写す」には俗語の力が不可欠であり、それは『水滸伝』や『西遊記』はもとより、日本の『源氏物語』も変わらないときっぱり述べていた[17]。このような方法論的な自覚は、中国で大量の白話小説が刊行され、文学環境をラディカルに変化させたことに裏打ちされている。  馬琴にとって、先進的な中国小説のプログラムを日本語の環境でいかに利用するかは、一貫したテーマとなった。それは俗語化だけではない。彼は『八犬伝』以前に大きな人気を博した『椿説弓張月』(一八〇七~一一年)において、すでに中国小説の趣向を借りている。『椿説弓張月』は鎌倉時代の『保元物語』を下敷きとしつつ、弓の名手である亡命軍人・源為朝をその悲劇の運命から救済しようとする架空の物語である。保元の乱で敗北し、伊豆大島に流された馬琴版の為朝は優れた統治者となるが、その後朝廷に追われて琉球にまで落ち延び、そこで独立王国の父祖となる。この後半部のアイディアが一七世紀中国の陳忱の小説『水滸後伝』から得られたことは、つとに指摘されてきた。  もともと、『水滸伝』を部分訳し、『水滸伝』の好漢のジェンダーを反転させた『傾城水滸伝』をも世に送り出した馬琴は、陳忱の『水滸後伝』にも強い批評的関心を寄せていた。ゆえに、この小説が『椿説弓張月』の設計に利用されたのも不思議ではない。では、『水滸後伝』とはいかなる小説なのか。少し回り道になるが、簡単に紹介しておこう。
    6、遺民=亡霊のユートピア的想像力
     一六世紀の中国はドラマティックな出版革命を経験したが、それから一世紀も経たない一六四四年に、漢民族王朝の明は満州族に攻略されて滅亡する。このトラウマ的なショックを強く受け取ったのが、明の「遺民」たちである。彼らは新しい異民族王朝(清)に仕えるのを潔しとせず、前王朝の記憶を保ち続けた。一七世紀中国の文学や美術を考えるのに、遺民という亡霊的な存在を欠かすことはできない。  この遺民の志をもつ知識人の一人であった陳忱は、梁山泊の水軍を率いた李俊が後年シャムに逃れて王になったという『水滸伝』の一文をふくらませて、『水滸後伝』という新たな小説に仕上げた。そこでは、李俊をはじめ梁山泊のサバイバーたちが、腐敗した宋王朝――やがて女真族の金に蹂躙される――から逃走し、シャムに理想の政権を樹立するまでの物語が語られる。この亡命者たちの活躍には明らかに、異民族に蹂躙された明の遺民の苦境および願望が投影されていた。  著作権の概念のなかった当時、小説は一種のオープンソースとして用いられた。都市の盛り場でのパフォーマンスを母胎とする『水滸伝』や『三国志演義』はもとより、その『水滸伝』のエピソードをもとにした『金瓶梅』、さらには『水滸伝』の続書(続編)である『水滸後伝』は、いずれも間テクスト的なネットワークから派生したものである。ゆえに、これらの中国小説は、単独の作者の所有物としては理解できない(なお、二一世紀の中国においても、劉慈欣のベストセラーSF小説『三体』の「続書」が、インターネット上のファンによって書かれた――これは、近世的な伝統がネットワーク社会で復活したことを意味する)。  そのことと一見して矛盾するようだが、ここで面白いのは、この匿名的なオープンソースからときに固有の「作家性」が産出されたことである。この現象はしばしば、続書において認められる。現に、『水滸伝』や『西遊記』の著者の実態があいまいであるのに対して、その続書である陳忱の『水滸後伝』や董説の『西遊補』には、作者の遺民=亡霊としての境遇が投影された。オリジナルよりも二次創作において作家性がより鮮明になるという逆転現象が、ここには生じていた。  特に、一六六〇年代――ちょうど明の遺臣である鄭成功が、オランダ人から台湾を奪取しようとした時期にあたる――に書かれたと思しき『水滸後伝』には、遺民=亡霊の立場からの政治批評という一面がある。そこでは、オリジナルの『水滸伝』に引き続き、奸臣に牛耳られた宋王朝の衰退のシミュレーションが試みられ、政治家や僧侶の堕落が次々とあばかれてゆく。国家の中枢がすでにすっかり腐敗しきっていたところに、強力な異民族が襲来し、ついに宋は滅亡のときを迎える……。陳忱がここに、明の滅亡というトラウマ的体験を重ねていたのは明白である。  この致命的な内憂外患のなかで、『水滸後伝』の好漢たちには中国の「文化防衛」という役割が与えられた。シャムに亡命した彼らは、その地の奸臣と敵対するのみならず、何と「関白」の率いる日本軍とも交戦し、魔術によってその全員を凍死させる。粗野でずるがしこい異民族に対して、それを遥かに上回る中国人の叡智が誇示されるのだ。ここには、漢民族王朝の宋の自滅に対する一種の償い(redemption)という意味がある。  もともと、あらゆる社会的職種が戦争に差し向けられるオリジナルの『水滸伝』は、一種の総動員体制のような様相を呈していた。『水滸後伝』は好漢たちに再び動員をかけて、海外のシャムでユートピア建設に乗り出すが、物語が進むにつれて原作のカーニヴァル性はどんどん希薄になってゆく。かつての荒くれのピカロ――悪漢にして好漢――たちは、最終回に到ってついに礼楽の担い手となり、優雅な詩会を開催するまでになった(第四〇回)。こうして、李俊の統治するシャムは、中華文明のミニチュアとして再構築された。  ただし、ここには、無力な遺民=亡霊の文学ならではのアイロニーがある。というのも、李俊たちの「文明化」とその全面勝利は、あくまで限界を刻印されていたからである[18]。現に、この詩会の後に、宋江や燕青らの登場する芝居(水滸戯)が上演され、李俊らがそれを楽しむというメタフィクション的な場面が続くが、これは『水滸後伝』の虚構性に対するアイロニカルな自己言及である。李俊たちがシャムにユートピアを築いたところで、それはせいぜい上演された虚構にすぎない。ゆえに、トラウマ的な破局の歴史は何も変わらない。『水滸後伝』の末尾では、やがて南宋の滅亡が訪れることが仄めかされる。 そして、一八世紀に入ると、このようなアイロニーを含んだ文明の再建は、シャム(想像上の外国)ではなく中国の内部に向かった。『水滸後伝』のおよそ一世紀後の『紅楼夢』では、ジェンダー表象にも巧みな操作が加えられた。陳忱が『水滸伝』のエネルギーを呼び覚まして、男性優位のホモソーシャルな国家を海外に再建したのに対して、没落した名家の出身である曹雪芹は、むしろ反国家的な女性優位のユートピア(大観園)を国内に設計してみせるが、それも結局は崩壊する。この二つの小説はまさに好一対のユートピア小説であり、その夢はいずれ現実に屈することが示唆されていた。
     
  • 第五章 エスとしての日本(前編)|福嶋亮大

    2023-08-01 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。今回は日本文学が受けた中国小説からの影響について分析します。あくまでも傍流的立ち位置だったという「小説」が隣国の文化に何をもたらしたのか、18世紀に国学を興した本居宣長の研究から明らかにします。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、エスとしての日本/小説
     文芸批評家のテリー・イーグルトンはアイルランドをイギリスの無意識(エス)と見なす立場から、エミリ・ブロンテの『嵐が丘』(一八四七年)のヒースクリフが、わけのわからない言葉を話す薄汚れた黒髪の孤児として登場することに注目した。彼の考えでは、リヴァプールの街角で飢えていたところを拾われたヒースクリフは、一八四〇年代後半に未曽有のジャガイモ飢饉に襲われたアイルランドの難民のアレゴリーである。イーグルトンはこの黒々とした難民的存在のもつ不気味さに、イギリスにとって目を背けたいエスの露呈を認める。
    われわれは、エスの領域にあっては自我にとって許容しがたい行為に耽る。それと同じように、十九世紀のアイルランドという場所にあっては、イギリス人たちは、自らの意識的な信念の否定あるいは逆転という形で、自分自身の諸原則を明るみに出してしまうことを余儀なくされたのである。[1]
     この見解を応用して言えば、日本にも中国のエスとしての一面がある。つまり、中国から見ると、日本は(イギリス人にとってのヒースクリフのように)意味のわからない言葉を話しながら「許容しがたい行為」に耽り、ついには道徳的な信念を「逆転」させるミステリアスな存在ではなかったか。しかも、一九世紀後半以降の日本は急速に軍事化し、中国に戦争を仕掛けるまでに到ったのだから、その存在はなおさら不気味に映るに違いない。  現代の日本研究者である李永晶は、まさにこの不気味さを「変態」と言い表した。それは性的な「変態」を指すとともに、日本が中国から文化的影響を受けつつ、思いがけない方向に自らを「変異」させてきたことも意味する。中国のコピー(分身)である日本は、ときにオリジナルを凌駕するような文化的変異株を作成した。李によれば、中国人はこの捉えどころのない日本に対して、潜在的な「情結」(コンプレックス)を抱いてきた[2]。私なりに言い換えれば、この固着した感情は、日本が中国の意識を脅かす「エス」であることと等しい。  その一方、中国の内部にも私生児的なサブカルチャーがあったことも見逃せない。それはほかならぬ「小説」である。『水滸伝』にせよ『金瓶梅』にせよ『紅楼夢』にせよ、そこには儒教的な規範意識によって抑圧されたもの(カーニヴァル性、性愛、少女性……)が回帰している。前章で述べたように、李卓吾をシンボルとする明末以降の批評家は、中国のオーソドックスな文化の「変態」であるサブカルチャー=小説に積極的な価値を認めた。  のみならず、このエスとしての中国小説は、同じくエスとしての日本にも多面的な影響を及ぼした。中国小説と早期に接触した思想家として、ここで空海の名を挙げておこう。空海が『聾瞽指帰』(七九七年)の序文で、唐の張文成(張鷟)の小説『遊仙窟』――運命の行き詰まりを感じていた著者が、仙女のいる家に迷い込み、詩の巧みな応酬によって彼女の心をつかんで一夜の性的な交歓にふけるエロティックな小説――に言及していたことは興味深い。
    中国に張文成という人がいて、疲れやすめの書物を著した。その言葉は美しい玉をつらぬくようで、その筆力は鸞鳥や鳳凰を高く飛ばすようである。ただし残念ながら、むやみに淫らなことを書きちらして、まったく優雅な言葉[雅詞]がない。その書物にむかって紙面を広げると、魯の賢者柳下恵も嘆きをおこし、文章に注目して字句を味わおうとすれば僧侶も動揺する。(原文は漢文)[3]
     『聾瞽指帰』とは空海の思想書『三教指帰』――中国の「賦」をモデルとする対話体の作品であり、儒教・仏教・道教の三教を競わせた末に、仏教の優位性を示す――の原型になったテクストだが、『三教指帰』のヴァージョンでは序文が書き直され、この引用部は削除された。それだけに、この小説論には、どこか過剰で不穏なものが感じられる。空海は確かに『遊仙窟』の「淫らさ」は文章の標準にならないと見なすが、そのような不埒な小説=サブカルチャーが僧侶の心を動揺させるだけの魔力をもつことも、はっきり認めている。小説を批判しつつその幻惑的な美しさにも言及するという両義性が、この序文には忍び込んでいる。  なぜ空海は宗教者でありながら、自身の信条とは無関係のフィクションにわざわざ言及したのか。仏教学者の阿部龍一が指摘するように、それは恐らく、若き空海がエリート的な立身出世コースからドロップアウトした私度僧、つまり律令体制のアウトサイダーであったことと関わるだろう[4]。その濃厚なエロスによって信仰心をかき乱す『遊仙窟』は、あくまで非公式的なサブカルチャーにすぎない。しかし、日本の律令国家を支える政治的・宗教的な言説に飽き足らなかった空海には、そのような異国のサブカルチャーに感応する余地が大いにあった。「文」(エクリチュール)に対する空海の態度は、当時の日本の誰とも似ていない。彼は『三教指帰』のような護教論的著作のみならず、中国の詩学を体系化した『文鏡秘府論』も残しているが、これも後にも先にもほとんど類例のない仕事であった。  象徴的なことに、遣唐使によって持ち帰られた『遊仙窟』は、中国では早くに散逸し、日本でしか現存していない(それを再発見した中国人は『中国小説史略』を書いた魯迅である)。しかも、日本人はこの舶来の『遊仙窟』を神聖視し、その影響は『万葉集』や『源氏物語』のような日本文学の中枢にまで及んだ。中国では抑圧されたエス的なサブカルチャーが、かえって日本では文化の表面に堂々と現れ、空海や紫式部のような優れた知識人をも魅了する――ここには日本の文化体験の原型があると言えるだろう。