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住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.284 ☆
2015-03-18 07:00※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
住宅建築で巡る東京の旅――「ラビリンス」「森山邸」「調布の家」から考える(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.3.18 vol.284
http://wakusei2nd.com
本日は、好評の「これからのカッコよさの話をしよう」第3弾をお届けします。今回のテーマは「住宅建築」。浅子佳英さん、門脇耕三さん、宇野常寛の3人で、東京にある3軒の住宅建築を巡りながら「住まい」のデザインと機能について考えました。
▼これまでの記事
・これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
・無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性(「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾)
▼プロフィール
門脇耕三(かどわき・こうぞう)
1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社、2013年)ほか。
浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コムデギャルソンのインテリアデザイン』など。
◎構成:中野慧
「これからのカッコよさ」鼎談シリーズ第3弾となる今回は、門脇さんの発案で、都内にある3軒の有名住宅を一日かけて周りました。最初に訪れたのは80年代の集合住宅の代表作のひとつである、杉並区下井草の「ラビリンス」。そして90年代から00年代的方法論の最高傑作とされる「森山邸」を訪れ、その後はJR南武線に乗って多摩地区に向かい、2010年代的なリノベーション住宅である「調布の家」を訪れました。それぞれの時代精神を象徴する3つの住宅から見えてきた、これからの「住まいとライフスタイル」が向かうべき未来とは――?
当日の宇野のツイートはこちらから。
http://twilog.org/wakusei2nd/date-150122
■周辺環境からの〈切断〉と内部への〈演出〉――80年代の「ラビリンス」(杉並区井草/設計:早川邦彦建築研究室、1989年)
宇野 今日のテーマは「建築めぐり」ということですけど、まずこのコンセプトメイクをした門脇さんから今日の趣旨説明をお願いします。
門脇 今日は80年代、90年代から00年代、2010年代の各年代の建築デザインを代表するような、現在でも「カッコいい」と思える3つの有名な住宅建築を周りました。建築にはヒトの生き方そのものをデザインするようなところがあるので、いつの時代も「カッコイイ生き方・ライフスタイルとはどういうものか」を考えているところがあるんだけれども、その「カッコよさ」がどんな世界観・空間観に基づいているのかを紐解きつつ、そもそも各時代の「カッコよさ」が、周辺領域のどういう文化と関連しながら形成されていったのかも考えていきたいと思っています。
最初に行った「ラビリンス」は、80年代トレンディドラマの代表格である『抱きしめたい!』(1988年放映、フジテレビ系)で、主演のW浅野(浅野温子・浅野ゆう子)のうち、浅野温子のほうが住んでいたマンションを設計した早川邦彦さんの作品なんですね。そのマンション(=「アトリウム」)は中野区にあったんですが、すでに取り壊されてしまっていることもあって、下井草にあるこの「ラビリンス」を訪れることにしました。これはいわば「デザイナーズマンションの走り」ですね。
▲「ラビリンス」の外観。中庭を囲むように敷地の周縁部に建物が配置されています。
(写真提供:早川邦彦建築研究室)
▲フジテレビ開局50周年記念DVD 抱きしめたい! DVD BOX
浅子 「アトリウム」も、この「ラビリンス」と同じくパステルカラーが全面的に使われているのですが、さらに尖った色とデザインで水盤まであったんですよ。あそこまで作り込んだ外部空間は中々ないのでもう一度見たかった! 最近は80年代的なもののリバイバルがあり、それこそ復活したKENZOにはとても似合ったはず。なくなったのがとても残念ですね。 それはともかく、2つとも、中庭を公共スペースとして大きく取り、その周りを住戸で固めるという設計になっています。
▲各住戸への階段は複雑に張り巡らされています。
(写真提供:早川邦彦建築研究室)
門脇 我々は建物のブロックとしてのまとまりを「ボリューム」と言うんだけれど、ボリュームの中庭側はさまざまな色で彩られていますが、街並みと連続する道路側は実は落ち着いた色に塗られています。そのことによって、中庭側に足を踏み入れた瞬間にハッとするような、すごく特異な「カッコいい」世界が、まさに「演出」されている。
浅子 一方で各住戸の内部のプランは割とオーソドックスで、そんなに特殊なものではないんですよね。
宇野 ちなみにあの中庭の共用部はどう使われてたんですか?
門脇 詳しいことはわかりませんが、基本的にはあまり使われていないと思います。ただ、集合住宅として考えると、あそこで家族の記念撮影とかはしたんじゃないかな。普通のマンションって家族写真を撮りたくなるような場所はないけれど、集合住宅にそういうフォトジェニックなスペースがあるというのはすごく良いことだと思います。
浅子 あとは、集合住宅の機能的なこととは別に、階段を抜けると全然違う場所にたどり着くという「迷路」のような空間自体を作りたかったということもあると思います。
門脇 迷路性と関連させると、「ラビリンス」は面ごとにさまざまな色が塗られていて、それが重層的に重なることによって、奥行きのようなものが作り出されています。建築的には色々ルーツが考えられますが、すぐに指摘できるのが、建築史家であり建築家でもあったコーリン・ロウによる「透明性」についての議論です。コーリン・ロウは、モダニズムの代表的な建築家であるル・コルビュジェの作品分析を通じて、さまざまな面が重なり合って奥行き感が生まれるような空間を、視線は抜けなくても体験的には「透明」であると位置付け、後の建築に大きな影響を与えました。「ラビリンス」の色の塗り方は、カラースキームとしてもコルビュジェの作品に通じるものを感じますので、モダニズムの文脈との結びつきは強く感じます。
ただやっぱり、当時の80年代の日本のポップカルチャーとの結びつきも大きい気はしますね。
浅子 さっきの『抱きしめたい!』もそうだし、今改めて見ると、色使いに関してはわたせせいぞうのイラストや、江口寿史の『ストップ!! ひばりくん!』に近いものがある。 ポップさや、 アメリカ的な物をそれこそ平面的に取り入れる80年代のあのちょっと浮かれた感じの世界観。やっぱり建築史的なルーツとは別に、他ジャンルとの近接性を感じますよね。
▲わたせせいぞう 卓上ポストカードカレンダー 2014年度版
▲ストップ!!ひばりくん!コンプリート・エディション 2
門脇 80年代のイラストって、ベタに塗った面の上に星や三角形などの記号的なアイコンを散らせたりするなど、面としての重層性で奥行きを出すという方法で、作り方としては近い感じがある。
浅子 2015年の感覚でみると、そもそも共用部をあれだけ広く取るというのがいまいち理解できないはず。だって、普通に考えたら、あの空間には何の機能もないしメンテナンスも大変だし、それだったら一つ一つの住戸がもっと広いほうがいいですよね。ただ、当時の感覚からすると、建築家というのは、それなりの規模の建築を作る場合には、そこに住む住人のためだけではなく、周囲の人々のために公共空間を作らなければならないという意識があったんですよ。実際にあそこが公共的な役割を持てていたかどうかは別にして。
宇野 しかしこれは単純なツッコミですけど、下井草のど真ん中にああいう建物があったとして、周辺住民は景観被害のように捉えなかったんですか?
門脇 周辺にはきちんと配慮していて、敷地を囲むように建物を配置して、周辺と切断した上で、中に独自の空間を生み出しているんですよね。だからこそ「演出」的な感じを強く受けるとも言える。けれどもそのように「表」と「裏」を作らざるをえなかったことへの反動として、90年代、00年代の「裏表のない世界」への志向につながっていく。同じ頃、周辺領域にもトレンディドラマのようなキメキメの世界観から自然体へという流れがあって、おそらく建築界にも共通した雰囲気はあったんじゃないかな。
写真提供:早川邦彦建築研究室
■90年代・00年代デザインの結晶としての「森山邸」(東京都南部/設計:西沢立衛建築設計事務所、2005年)
門脇 そうした中で、90年代になると、たとえば雑誌なんかだと文字組みを均一にしていって、すべてがフラットなものが「カッコいい」とされる時代になっていくわけです。その流れの中に、次の「森山邸」も位置付けられると思います。
▲「森山邸」の外観。大小様々なかたちの「箱」が並んでいて、それぞれが住人の部屋になっています。オーナーの森山さんによれば、左側の建物の屋上スペースでは住人同士でバーベキューをしたり、さらにはここで出会って結婚した方までいらっしゃるそうです。
(C)TakeshiYAMAGISHI
ちなみに「森山邸」の設計者の西沢立衛(にしざわ・りゅうえ)さんは、妹島和世さんとプリツカー賞(建築界でももっとも権威ある賞)を受賞していて、お二人は世界的な建築家ユニットです。
この住宅は「ラビリンス」のような演出された空間とは違って、「日常世界にいかにフラットに連続させていくか」という問題意識に基づいているように思えます。周辺から切断された特異な世界を差し込むのではなく、外の世界との連続のなかからどのように日常を豊かにしていくか、というアプローチをしているんですね。
浅子 これまで見た事のないほど強烈で新しいデザインでありながら、小さな建物の多い周囲の街並みに溶け込むようにもなっているんですよね。
あと「森山邸」が特徴的なのは、塀がないこと。「ラビリンス」はある種の閉ざされた世界をつくっていたけれど、こちらは小さな庭をいっぱい配置しながら敷地の外側の世界とも完全に連続している。
▲下町風景の残る周辺の街並みにもそれほど違和感なく溶け込んでいます。
(C)TakeshiYAMAGISHI
宇野 あれは非常に素晴らしいと思いましたね。敷地内の地面や木を、窓の配置や採光を工夫することで間接的に取り込んでいく。建物外の環境に対して切断的でなくて連続的な空間になっているわけですよね。
さらにいえば、それほど広大とはいえない敷地のなかでも、窓の位置や大きさを使って部屋ごとに取り込む風景を変えているじゃないですか。あの狭い空間の中に、あれだけ多様な文脈を共存させるという設計は舌を巻くものがある。
浅子 「森山邸」もラビリンスと同様に集合住宅なのですが、一見適当に箱をばらまいているだけに見えて、たとえば隣の棟の窓がふたつとも開いていると、自分の窓から他人の家の窓を貫通してさらにその先が見える、というように実はとても緻密な設計がなされている。写真だと平面的に見えるんだけど、実際にはすごく奥行きが感じられますよね。
宇野 その上で、ちゃんとプライベートな空間も確保されていて、非常に計算されていますよね。今日(収録は1月下旬)は雨だったこともあって家の中がすごく寒かったんだけど、その問題さえなければ、ビジュアル的・空間的には一番魅力的な住宅だと思いました。
浅子 実際、この「森山邸」がこの十数年の住宅建築のなかではもっとも素晴らしい建築だと言ってもいいと思いますよ。宇野さんの言っている寒さの問題にしても、それほど広くない敷地のなかにたくさんの部屋を共存させるためにはどうしても壁を薄くせざるをえないというところもある。要は外壁を間仕切り壁のように扱っているわけで、建物ひとつひとつそして庭がそれぞれ部屋になっていて、リビング、ベッドルーム、キッチンやお風呂がそれぞれ独立し大量にばらまかれているわけだから。
▲建物の中にも外にも読書やお茶ができるスペースが。ちなみにこの棟の梯子を登った上の階には「茶室」があります。
(C)TakeshiYAMAGISHI
▲森山さん専用のバスルーム。こちらも独立した建物になっています。森山さん曰く「露天風呂のように使っていて、雪の日なんかはとてもお風呂が楽しいんです」。共同風呂ではないのに他の住人の方も時折「借りたい」と言って入るんだそう。
(C)TakeshiYAMAGISHI
門脇 「森山邸」では、私的な領域を細かくして敷地にばらまいた結果、公共スペースも細かくなっているわけですが、小さな公共スペースは親密な雰囲気を醸し出しはじめていて、私的領域と公共的領域が境目なく混じり合ってしまうんだよね。
宇野 住民がよく屋上でバーベキューをしているって話が象徴的ですよね。ただ、僕が気になったのは入居者のライフスタイルというか、センスがどの部屋も似たり寄ったりになっていたこと。
浅子 共通チケットが要る、ということですね。
宇野 意外と住むのが難しい部屋で、若い人がうっかり住んじゃうとことごとく代官山のショウウィンドウのような、いわゆる「オシャレ」な生活が並んでしまうことになってしまうんだと思う。
門脇 ある程度他人の部屋が見えてしまうということによって、むしろ自分の生活をディスプレイする欲求が生まれてしまう。
宇野 やっぱり限界があると思うのは、ここには変態は住めないこと。生活が丸見えだから。特に日本の場合、ある特定の文化的コミュニティの中で承認されているライフスタイル以外は、あそこまでオープンにすることはできない。浅子さんの言う通り、暗黙のうちに特定の文化圏の住人であるというアピールを要求されてしまっていると思うんだよね。建物を取り巻く文化状況とのかかわりの中で、Facebookのリア充写真投稿がみんな同じパターンになるのと近い現象が起こってしまっていると思う。
門脇 80年代的作り方は「演出」的だから、物語的なアイテムをたくさん使っているんですよね。壁をチェック状にペイントしてみたりだとか。それはあくまで見せる場所、つまり公的な領域でしか発露しなかったのだけど、「演出」だからこその非日常性にも到達できた。その非日常性が私的領域にも及べば、「変態」と表現されるような異質なものの宿り代にもなり得たかもしれませんが、それはいずれにしても「表」と「裏」の切断をもたらしかねない。ジレンマですね。
デザイン言語的にも、80年代的な「演出」に対する反動として、90年代から00年代は徹底的に抽象性を志向した時代です。建築にはもともと屋根とか庇(ひさし)とか、雑多なものがくっついてくるんですが、そうした雑多なものを徹底的に排除して、四角いシンプルなかたちにして、色も白で、というようにダイアグラム的に空間をつくろうという意識が強い。で、「森山邸」になると「集合住宅を解体して四角の箱にしてばら撒くという論理的な操作だけで空間が作れますよ」というダイアグラム的方法論の達成に至るわけです。
ところがそうした表現は、浅子さんがこれまで2回の座談会で指摘してきたような「白いもの」、つまりアートギャラリーのような空間に近づいてしまう。「白いもの」は00年代に蔓延しきった結果、文化的な記号としても作用するようになってしまったから、そこで宇野さんの言っているような排他性の問題も生まれてしまうんだと思います。
浅子 屋根だったら雨を受けて下に流すという機能があるし、壁だったらまた違う機能があるんだけど、例えば森山邸は屋根も壁も床も同じ鉄板で出来ている。本来は別々の材料で、別々の作り方で作っていたものを1つの要素で作ってみようという挑戦をした結果、デザインとしては極端にシンプルになったのだけど、なってしまったとも言える。
宇野 ウェブデザインもそうだけれど、ああいった一種のミニマリズムって、画一的なプラットフォームの上に多様なコミュニティを花開かせるために採用されているものじゃないですか。でも建築の場合、森山邸のような達成ですらも、多様性を生むことに成功していないような気がする。これはどうしてなんでしょうか?
門脇 建築の場合は「プラットフォームであろう」としても、それ自体がどうしても形を持ってしまうんですよね。
浅子 つまり、コンテンツの側面がどうしても出てきてしまって、単純なプラットフォームだけにはなりえない。「森山邸」のデザインも様々な人を受け入れるプラットフォームとしての機能より、この見た事のない新しく面白いデザインの家に住みたい、というコンテンツの機能のほうが大きいんじゃないかと思うんです。
宇野 つまり建築という存在自体が、定義的にミニマルであり得ないと。ミニマルというイデオロギーにはなり得るけど、ミニマルなプラットフォームにはなり得ない。
門脇 建築が存在を感じさせないようなものになり得るのであれば、それこそオープンなプラットフォームだと言えるんでしょうが、建築のデザインとして、それは白くてミニマルなものではない、ということなのでしょうね。
■多様なものを包摂する「住まい」とは?――「調布の家」(調布市調布ケ丘/設計:青木弘司建築設計事務所、2014年)
門脇 この新たに生じた問題をどう乗り越えるのかということについて、ひとつの解答を示していると思えるのが、最後に見た「調布の家」です。
(C)TakeshiYAMAGISHI
▲一見普通の集合住宅の1階・2階と屋根裏部分をぶち抜き、三階建ての居住スペースにリノベーションした「調布の家」。3階から下を見ると2階部分とガラスで隔てられた1階部分が少し見えます。
(C)TakeshiYAMAGISHI
この住宅は「建築が本来持っていた雑多な要素はそのまま扱っていいんじゃないか」という思想で作られている。その建築の雑多な要素ひとつひとつをデザインとして自律させて、バラバラに見せていくと、建築のスケールが空間未満に小さく解体されて、家具とか人とか犬とか、建築以外の要素とも混じり合ってしまう。そういう作り方ですね。
また、「調布の家」は敢えて仕上げを剥がしたり、逆に仕上げをしていたり、古いものを残したり、新しいものを作ったりと、とにかく情報を増やすような設計になっています。
▲2階部分。写真右下の暖炉の熱が上下の階に行き渡り、室内はとても暖かかったです。
(C)TakeshiYAMAGISHI
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【再配信】無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性 ーー浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆
2015-02-21 16:30※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
無印良品、ユニクロから考える 「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性 (浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.2.21 号外
http://wakusei2nd.com
「ほぼ惑」では不定期で過去の好評記事を再配信中! 今回は昨年10月に配信した、建築家の門脇耕三さん、インテリアデザイナーの浅子佳英さん、そして宇野常寛を交えた鼎談シリーズ「これからのカッコよさの話をしよう」第2弾をお蔵出しします。 この回のテーマは、「無印良品」「ユニクロ」です!
今月PLANETSチャンネルに入会すると、前回記事(これからの「カッコよさ」の話をしよう ――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来)も読むことができます!
なお、この「カッコよさ」鼎談シリーズの第3弾「住宅建築でめぐる東京の旅」は来月初旬に配信予定です。戦後の住宅建築の名作をまわりながら、「住まい」のデザインと機能について考えます。そちらもお楽しみに!
▼プロフィール
門脇耕三(かどわき・こうぞう)
1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社 、2013年)ほか。
浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
◉構成:中野慧
ファストファッション、IKEAやニトリ、アップル製品など、ゼロ年代以降の私たちの生活に欠かせなくなった様々な「モノ」と「デザイン」について考えた前回の鼎談企画「これからの『カッコよさ』の話をしよう」。第2弾となる今回は、鼎談の収録前に、まず実際に門脇・浅子・宇野の3氏で、銀座の街にある様々なお店を廻ることにしました。
3氏がまず足を運んだのは、世界一巨大な規模を誇るユニクロ銀座店。
▲銀座の中央通沿いにある、ユニクロ店舗でも世界最大のグローバル旗艦店「ユニクロ 銀座店」。12階建てだそうです。
▲床から天井まで隙間なく服が並んでいます。
▲Tシャツフロア。フロア全体に多種多様なデザインのTシャツがひしめいていました。ぶらぶらと見ていたら、浅子さんが当日着ていたスヌーピーTシャツと似たようなデザインのものを発見。「このTシャツけっこう高かったのにw!」(浅子さん)
▲女性ものの丈長のスウェットシャツが気になるという門脇さん。このあと「XLサイズなら僕でもダボッと着れそう」とのことで、お買い上げになっていました。
ユニクロ銀座店の次に3人は、ユニクロ銀座店と渡り廊下でつながっているお隣のドーバーストリートマーケット(コム・デ・ギャルソンの川久保玲氏がトータルプロデュースするセレクトショップ)へと向かいました。
▲ドーバーストリートマーケット ギンザ。
渡り廊下を渡るとそこには、ユニクロとはまるで別世界が広がっていました。好対照だったのはお店のレイアウト。通路は広く取りつつも縦にぎっしりと服を並べるユニクロと違い、様々なアイテムがゆったりと店内に配置されていました。
ドーバーストリートマーケットを出た一行は、「無印良品 有楽町店」へ向かいました。
▲無印良品有楽町店。ここもかなりの大型店舗です。
▲無印良品の家。
無印らしいアースカラーの服が並ぶ店内を分け入っていくと、目に入ってきたのはスチールの外壁(「金属系サイディング」というものだそう)の、「家」でした。そう、最近、無印では「無印良品の家」を販売しているとのこと。コンパクトなサイズながら、吹き抜けと、ガラス張り(でも断熱性も高いそうです)による採光のよさもあって、見た目以上にゆったりとした住空間。「暮らしに合わせて間取りが変えられる」とのことです。(出典:「無印良品の家」ホームページ )
その後、一行はクロムハーツ、ミュウミュウ(MiuMiu)、Aesop(イソップ)、フライターグなどを回ってこの日の街歩きを終えました。
■ユニクロとコム・デ・ギャルソン、何が明暗を分けたのか?
宇野 まず簡単に前回のおさらいをすると、今の時代のファッションは、ノームコア(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと。最近のファストファッションの隆盛を受けたトレンドでもある)的なものが優位になっている。そしてその潮流は一部で「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」という五体満足主義的な思想に回収されつつある。それはファッションが本来持っていた「やせっぽちでも太っていても、工夫しだいでカッコよく、気持ちよくなれる」という、文化としての豊かさがやせ細ってしまっているということでもある。こういう現状に対する違和感は共有されていますよね。
そこに対して例えばデザイナーである浅子さんは、ノームコア的なものを批判して「新しいラグジュアリー」のような価値を提示していくことが必要なのではないかという立場でした。
また、鼎談のなかで見えてきたのは、ファッションだけでなく、インテリアや建築のような「デザイン」と言われる世界ではどこでも、90年代以降に似たようなことが起こっているのではないか、ということでした。
今日は第二弾ということで、ファストファッションからデザイナーズブランドまで、銀座のいろいろなお店を実際に回ってきたわけですが、みなさんは改めてどう感じましたか?
浅子 やっぱりユニクロが今強いのは、面白いデザインの服を揃えているわけではないけれど、カラーバリエーションやちょっとしたデザインの違いの製品を大量に揃えていて、その「多くのものから一つを選ぶ」という体験自体に楽しさがあるからなんだと思いましたね。
宇野 ショッピングにゲーム的な楽しさがあるということですよね。
浅子 そうです。銀座店は特に、12階建てなのにもかかわらず、フロアのレイアウトがほとんど同じだったりして、あの感じは僕自身はそんなに好きじゃないんだけど、実際に上から下まで全部見て回ると本当にゲーム空間にいるようで面白かったです。
門脇 ユニクロの店内のレイアウトは「とにかく下から上まで整然と服を並べる」という思想ですよね。対照的だったのはそのあとに行ったドーバーストリートマーケットで、店内に余白をたくさん取っていました。あれは「アート的に見せる」というテクニックなんだけど、物量としてはユニクロよりも全然少ないですよね。そうすると服の一点一点が高くならざるをえない。置いているモノはカッコいいんだけど、トータルで見るとどうしても元気がないように見えてしまった。
浅子 僕は立場的にコム・デ・ギャルソンを擁護するしかないんだけど、たしかに銀座店は少しゆったりしすぎているかもしれないですね。ただ、最初にできたロンドンのドーバーストリートマーケットはとてもエキサイティングな空間です。もともとオフィスか何かだった建物に、川久保玲やセットデザイナーなどが介入して百貨店にしてしまっている。たとえばエスカレーターでなく階段で登らないといけなかったりとか、フロアの使い方もわけのわからないことになっていて。
そもそもドーバーストリートマーケットの面白さって、コム・デ・ギャルソンというブランドが、自分たちの服を売るだけではなく様々なブランドの服を売ったり、アーティストの作品を展示するスペースをつくったり、ある種のプラットフォームとしてお店を構えたところにあると思うんですよ。
ただ銀座のお店はやっぱり、「ギンザコマツ」という百貨店の建て替えで用意された空間に出店しているから、そういう面白い化学反応が起こらなかったんだと思います。だからそこを責めるのはちょっと気の毒な感じがするんですよね。
門脇さんは店内のレイアウトのことを指摘されたけど、インテリアのデザイナーとして言うとやっぱり余白というか、そもそも白い壁が良くないと思う。確かに白い壁にするとニュートラルであるかのようにふるまいながらも簡単に綺麗に見せることができるんだけど、それは何も考えていないということの裏返しでもあるんですよね。
門脇 結局現代アートもそうだけど、白いところにポツーンと何かゴミが置いてあるだけでアートに見えたりするんですよ。それ以外の見せ方を開発できてないのはちょっと残念だった。そういう意味ではユニクロの見せ方のほうが面白かったですよね。
宇野 ユニクロって、ある時期まではフリースだったり、インナーや寝間着を買うお店というイメージで捉えられていましたよね。で、誰が着てもそこそこ似合うものを、豊富なカラーバリエーションで提供していたのがフリース時代だとすると、今は第2段階、いわばUT(=ユニクロのTシャツ)以降の時代に入っていると思うんですよ。
UTって色々な企業のロゴだったり、スヌーピーやディズニーなどのキャラクターイラストに、多種多様なカラーバリエーションを掛け合わせるという発想でつくられていますよね。あれってインターネット以降の感覚だと思っていて、要するに統一されたフォーマットに多様なコンテンツを流し込むことで無限にバリエーションを生成できるということだと思うんです。そういう思想が商品ラインナップだったり、レイアウトの方法とも結びついていて、UTという独特のジャンルを生んでいるんじゃないか、と。
門脇 フォーマットが決まっているからこそ多様な表現が生まれてくる、ということですよね。僕には商品そのものとしてあれが良いのかどうかピンと来ないところがあるけど、でもあれだけのバリエーションがあるなかで選ぶという体験はたしかに楽しかった。さっきもスウェットを買ったけれど、たぶんドーバーストリートマーケットに並んでても買わないんじゃないかな。たくさんのバリエーションが並んでいるなかで気に入ったものを見つけて、買ってしまう。そういう体験を含めて買っている気がしますね。
■「バブルの鬼子」としての無印良品
宇野 これは都市部に限った話かもしれないけど、ユニクロと無印良品ってもうインフラみたいになっているじゃないですか。「あ、この街って駅前にユニクロと無印あるんだ、便利だね」とみんな思ったりする。だからこの2つの企業って、日本の生活文化においては非常に強いと思うんだけど、でも今日見ていて改めて思ったのは、ユニクロはまだ無印を倒せていないということなんですよ。要するに今の無印良品はライフスタイルそのものを提案できているけど、ユニクロはまだそこまで行けていない。
たとえばユニクロの主力製品であるヒートテックひとつとっても、「冬のファッションで重ね着させない」ということを目標にしたもののはずです。厚着させないということは、つまり「こういう身体が美しい」とか「こういう屋内ライフスタイルが気持ちいい」という提案であるはずで、それを延長していくと僕たちの身体観やライフスタイルの変革へと結びついていくはず。でも、今のユニクロのラインナップからはまだ「新しいライフスタイルの提案」まで読み取ることはできない。アイテム1個1個の持っている快楽やゲーム性に留まっていて、総合的なビジョンがまだないんだなあ、と思ってしまいました。
一方で無印は、僕の考えでは言わばディフェンディング・チャンピオンだと思うんですよ。あそこに行くと衣食住全部ある――というか、今は家具だけでなく家まで売っているわけですからね。総合的なライフスタイルを提案できているわけです。たとえば僕はあの透明の衣装ケースも使っているし、食べ物にしても僕はMUJIカフェによく行くし、無印カレーも大好きなんですよ。
そもそも、無印良品のコンセプトって基本的に「アンチバブル」だったわけですよね。80年代の消費社会=バブル的な価値観に対して距離をとりつつ、かといってニューエイジや昔のヒッピーのように消費社会を全面的に批判するわけでもなく、要するに「消費社会に対してはこれぐらいの中距離で付き合いましょう」というライフスタイルを提案している。
浅子 いや、それもあるけれど、その前にみんな忘れているのは、僕らが子どもの頃の昭和の時代って、ともかくダサイもので溢れていたんですよ。布団がなぜか花柄だったり、家具も変な色に塗られていたり、ほとんどの家庭にはわけのわからないデザインのものがいっぱいあって、子ども心にあれがすごく嫌だったわけですよね。そこに対して無印は、「柄のない布団のほうがいい」というようなニュートラルでフラットでシンプルなデザインを提案し、支持を受けた結果、今やそれがスタンダードにまでなったと。
宇野 無印だけが、モノだけでなく「こういうライフスタイルがいい」という世界観を提示するに至っているんじゃないかなと思うんです。そしてそれは90年代以降の世界的な潮流ともマッチしていた。たとえば宮台真司さんがよく言っているけど、スローフードが好きな奴って、エアコンの効いた部屋でスターバックスのコーヒーを飲みながら環境問題の本を読んで悩んだふりをしている人なんですよ。要するにスローフードとはグローバル資本主義下におけるアッパーミドル向けの優秀な商品にすぎないわけです。でも、それでいいと思う。だから無印良品は強い。僕も大好きです。あの「素材を大切にした」シリーズのカレーやスープのレトルトパウチは家に常備している。あれは、「レトルトのスローフード」という矛盾するコンセプトが同居しているわけなんですが、そこが素晴らしい。
門脇 レトルト食品を排除するのではなく、レトルトをいかに美味しくて栄養バランスもいいものにしていくかという発想ですよね。ただ、無印の提案しているライフスタイルって、今ではちょっと古くなってしまっている気もするんです。「家族で郊外に住み、お父さんは電車で都心に通勤する」という昭和的モデルのバージョンアップで、まだその先に突き抜けられていないというか。
宇野 無印はやはりバブルの落とし子なので、どうしてもそうなってしまうところはありますよね。それに、当初のコンセプトである「アンチバブル」が実はすごく狭いイデオロギーなので、その価値観が押し付けがましいと感じる人も多いと思うんですよ。たとえばこれだけ無印大好きな僕でさえも、ほぼアースカラーオンリーの衣料や、家具類の「柔らかい木目」のゴリ押しはちょっとしんどく感じることがある。浅子 正直、僕もそう思っていますよ。
門脇 無印良品ってすごく哲学がしっかりしていて、「文明は共通化して文化は差異化する」という未来予測を展開しています。つまりグローバル化のなかで「感じのよい暮らしをリーズナブルに」という方向性はぶれずに追求していきつつ、それだとほかの国や地方、あるいは「無印的価値観にドンピシャな世代」以外には展開できないから、地域性や時代性に紐付いた文化で彩っていくということになるんだと思いますが、それだとどうしても既成の価値観を無印的にセレクトすることになってしまうから、まったく新しいものを生み出すことが難しくなってしまう。
無印も本当は「新しいラグジュアリー」のようなものを追求すべきなんだけど、そもそものコンセプトが「オルタナティブなスタンダード」なので、クリエイションに根拠を与えるものが既にあるものにしかならない。無印のインパクトって確かに大きいし、それがいよいよ浸透してきた勢いも感じますが、次の時代を考えるとそこが弱いところだと思うんですよね。
浅子 無印のデザインって文化の多様化と言うにはちょっと一本調子すぎますよね。たとえばヤンキーが作るわけのわからないバイクのようなものって、文化の多様化そのものだと思うけれど、そういうデザインのものは絶対に製品ラインナップに入ってこない。だからすごく偽善的な感じがするわけです。これは無印だけでなく、アップルのデザインにも言えることだと思うんですけど。
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【再配信】これからの「カッコよさ」の話をしよう ——ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆
2015-02-14 17:30※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
【再配信】これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、 プロダクト、そしてカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.2.14 号外
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「ほぼ惑」では不定期で過去の好評記事を再配信中! 今回は昨年8月に配信した、建築家の門脇耕三さん、インテリアデザイナーの浅子佳英さん、そして宇野常寛を交えた鼎談をお蔵出しします。
テーマはこれからの「カッコよさ」について。ユニクロを代表とするファストファッションに隠されたイデオロギーとは? そして、男子のカッコよさが向かう未来とは――?
なお、この「カッコよさ」鼎談シリーズの第3弾「住宅建築でめぐる東京の旅」が今月末に配信予定です。戦後の住宅建築の名作をまわりながら、「住まい」のデザインと機能について考えます。そちらもお楽しみに!
▼プロフィール 門脇耕三(かどわき・こうぞう)
1977年生。建築学者・明治大学専任講師。建築構法、建築設計、設計方法論を専門とし、公共住宅の再生プロジェクトにアドバイザー/ディレクターとして多数携わる。
浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
◎構成:池田明季哉、中野慧
■六本木には「カッコよさ」が必要だ――文化を更新するために
宇野 今日は「これからのカッコよさの話をしよう」ということで、ごく私的に声をかけてお二人に集まってもらいました。なんでいきなりこんなことをはじめたかという話からしたいのですが、きっかけは先日僕が登壇したイベントのあるパネラーの発言です。それはどんな発言かというと、「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」というものなんですよね。
僕はこの発言を耳にしたとき、正直愕然としたんですよ。その人は「痩せっぽちな人間や太った人間がどんな服を着ても似合わない」とか言うわけですが、それってほとんどナチスの五体満足主義と変わらない。自分が障害をもっていたり、健常者でも60代や70代になって筋力が落ちてきたら絶対にそんなことは言えないと思うんですよね。こんな発言が「リベラル」を自称する知識人から出てしまったことに、軽いめまいがした。
そしてもうひとつ。この五体満足主義的なナルシシズムは文化的にあまりにも貧しい発想なんですよね。だってどんな体形の人間でも工夫次第でカッコよく、かわいく、あるいは気持ちよく過ごせるということがファッションの本質だし、それがなければファッションというか、文化自体が無意味なはずでしょう。でも、その場ではみんな「なんていいことを言うんだろう」みたいに頷いていた。それを見て、これは本当にどうにかしないといけないと思ったんです。
最近、僕は自分のお客さんが、比喩的に表現して中央沿線や代官山、中目黒といった東京西部と六本木が代表する都心のど真ん中、どちらにいるのかをすごく考えているんです。中央沿線や代官山というのは、戦後的な中流文化の、とくに90年代以降の「文化系」の象徴ですね。こうした東京西部の「いい街」には戦後的な文化が残っているけれど形骸化して久しい。仕事ができない編集者ほどゴールデン街で飲みたがる。「本や映画が好き」なんじゃなくて、「本や映画が好きな自分が好き」なだけな人たちですね。
対して六本木側に集まっているのはITや外資など、この二十年優秀な人たちがどっと流れ込んでいったジャンルが強い。彼らは、地頭が良くてポジティブで学習意欲も高くいけれど、壊滅的に話がつまらない(笑)。学習意欲も高くて、セミナーや勉強会が大好き。とにかく「自分のパフォーマンスを引き上げる」ことには一生懸命だけど、引き上げたパフォーマンスで何をやっていいかわからない。なんでそうなるかというと、彼らは効率化が得意だけれど、文化がないからですよ。
そしてあの日、例のイベントで例の五体満足主義発言にうんうん肯いていたのは、見事にこの六本木クラスタだった。要するに、自分の外側に大事なものがない空疎なナルシシストは、あっさりと五体満足主義的な差別者になってしまうってことなんですよね。
実は僕が東京で7-8年活動して出した結論は、自分の読者層としてはとりあえず後者に賭けようということなんです。前者は底に穴の開いた洗面器のようなものなので、いくら水を注いでも意味がない。だから今は文化的に貧しくても、後者の高い学習意欲に応えようと思って、そのイベントも意図的に六本木系が集まる場所とパッケージングで開催したのだけど、彼らが単に文化的にスカスカなだけじゃなくて、諸手を挙げて、先述したような排他的なナルシシズムに結びついてしまうことがわかって、正直ぞっとしたんですよね。
少し解説を加えると、六本木的な、あるいはその参照元のアメリカ西海岸的な文化というのは、計算で設計主義的に「良い生き方」や「正しいあり方」を規定できると考えているところがある。でもそんなことは本当はありえなくて、究極的にはオカルトと結びついてしまい、五体満足主義や優生思想と結びついた危険なイデオロギーに至ってしまう。これは彼らのルーツにニューエイジ思想があるから。ニューエイジというのは要するに疑似科学で複雑化して拡散した社会の全体性を記述できる、という発想ですからね。それがテクノロジーを根拠に「よい生き方」を規定できるという発想に結びついている。先日のイベントでの五体満足主義への支持も、これに近いものがある。
ただ、こういったものに対抗する言論として「文化というのは計算不可能なものだ」「計算不可能な他者に出会うためにリアルに回帰せよ」という東京西部的なアナログ懐古主義は頭が悪すぎる。どう考えても、この10年余りのデジタル文化はアナログな人間のコミュニケーションや自然環境を究極の乱数供給源としてむしろ積極的に利用することで、文化的多様性を育んで発展しているわけでしょう? アナログとデジタルがむしろ結託している今、東京西側的な考え方に戻っても意味がない。
問題はむしろ、現代のデジタル文化がもつ文化的な多様性を、西海岸カルチャーを歪めて受け取った六本木の意識高い系たちがきちんと消化できずに、五体満足主義に傾いて文化を否定する方向に傾いていることだと思うんですよね。
浅子 僕は「効率を求めること」自体は間違っていないと思うんです。実際にそれで豊かになるということもある。でも計算可能であるというスタンスのどこかに、自分はこれが好きだとか、カッコいいと思えるものがないと、結局は保守的なものに回帰してしまう。すごく古い肉体的な価値というか、たとえば「顔が男前なやつがかっこいい」といった観念に囚われてしまう。僕は宇野さんの言うニューエイジ的な考え方が、保守回帰に繋がるのが怖いんですよね。そうなると文化的にも面白くなくなってしまうから。
宇野 一応、断っておくと僕は六本木系のスタイル、つまりシンプルで効率的なライフスタイルの美学というのはよくわかるんです。僕自身、いつも夏はTシャツと短パンで過ごしているし、その服も基本的には無印良品とユニクロとH&Mでしか買わない。それも安いからではなくて、飾り気のない、シンプルなデザインのものが好きだからですしね。交通事故にあってやめてしまったけれど自転車ももともと好きだし、生で食べてもおいしい野菜を取り寄せて食べるのも大好きで、そういった生活を気持ちがいいと思っている。ただその美学を肯定するロジックが、身体論というマジックワードを盲目的に振りかざす五体満足主義や優生思想しかないというのは、非常に問題だと思うんです。もっとそういったシンプルライフを、カッコよさとか、気持ち良さの次元で肯定する言葉が必要なんですよ。つまり「(身体を鍛えることこそが究極のおしゃれなので)ユニクロでもいいんだ」というのではなく、「(シンプルな)ユニクロのデザインがカッコイイんだ」という論理じゃないといけないと思う。実際に、僕はそう思っているし。
門脇 いまの話は時代的な位置付けも踏まえて理解した方が良いんでしょうね。いまのカジュアルとかつてのカジュアルはだいぶ違った状況に置かれていると感じます。かつては「フォーマル」というものが厳然として成立していたからこそ、敢えてカジュアルな格好をすることがカッコ良かった。でも今は、「絶対にフォーマルな格好をしなくてはならない」という場面がどんどん少なくなっています。現在のユニクロ的なるものの隆盛は、「フォーマルが瓦解している」という状況とも関係しているのではないでしょうか。
浅子さんは、スーツはあと十年以内に滅びるってよく言っていますよね。「滅びる」というのは比喩的な表現だとは思いますが、スーツを着なくてはならない場面が極端に少なくなるだろうことは間違いない。スーツはある意味での様式であって、「クールビズ」といった考え方に代表されるように、それを着ることが必ずしも合理的ではないからです。シンプルライフ的な志向は、スーツのような封建的でフォーマルな形式から「より合理的に、自由に生きよう」というマインドへとシフトしたことによって起こっている側面があるのは間違いないと思います。「ノームコア」(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと)のような、シンプル・イズ・ベストを極端に進めたトレンドの存在もそうした流れの上にあるのでしょう。でも、それは宇野さんが指摘するように、優生学的な流れに合流しかねない危険も孕んでいる。一方でモード・ファッションでは、「ありのままの身体」を肯定する動きが主流で、「理想的な身体」を仮定することに警鐘を鳴らすような試みが常にありましたよね。
浅子 有名な話ですが、コム・デ・ギャルソンの服に、瘤(こぶ)のついたドレスがあったんです。囚人服みたいで背中や腰に瘤がついているんだけど、ドレスになっているというもの。あとは背の低い人やおじいちゃんのモデルを使ったりもしていました。それ以外にも当時アヴァンギャルドと呼ばれていたファッションブランドは、普通だったらファッションの俎上に上がらないような肉体に対して美を見出す方法論を構築していた。でも今は、そういった流れがスコーンと全部抜けてしまっていますよね。
▲コム・デ・ギャルソンの「こぶドレス」
出典:http://munstylisti.jugem.jp/?month=201101
門脇 今はモードの影響力が小さくなっているように感じますね。
浅子 売れなくなってしまったんですよね……。だから結構いろんなことが重なってこういう状況になっている、というのはあるかもしれません。
僕は最近、インテリアツアーというのをやっているんですよ。そこでいろんなお店を一年間くらい見て回りました。高級なアパレルブランドや、高級な家具屋さんも見に行ったのですが……90年代やゼロ年代の初頭に比べると、全然お客さんがいないんです。こういった場所も、それこそスーツと同じように、20年くらいでほとんどが市場から退場してしまうんだろうなと肌で感じました。
宇野 昔だったらボーコンセプトで買わなければいけなかったものが、全部イケアとニトリで買えるようになってしまいましたからね。
浅子 しかもイケアとニトリの商品がそれほど粗悪なものかというと、そうではない。確かに比べればモノとしては高級な家具屋さんの方がいいけれど……。
宇野 価格が1/6とか1/8ですからね。
浅子 そう、だからそれはそれで構わないのではないか、というのも一方ではあります。でも自分の好きな文化ですからね。以前はそういうお店のダメな所を見ても「こいつらダメだな」と言っていられたんですが、今はこのままだと本当に滅んでしまうという危機感が強くて、どう守るかという方に考えが反転しています。
▲ニトリの家具
出典:公式サイトより
■空虚なパロディとしてのカフェ風デザイン――FABが作るべき未来
浅子 あと、つい最近、「インテリア特集」という小さな冊子を作ったんです。その序文に、90年代以降のインテリアデザイン、特にブティックのデザインについて書いたんですが、インテリアデザインの流れを90年代から整理してみたんです。
まず90年代の最初は、80年代のバブルやポストモダンへの反動からミニマルが流行りました。今も建築家として活躍しているジョン・ポーソンの作品や、カルバン・クライン、ジル・サンダーのような、線が少なくてシンプルなデザインが流行したんです。
それが90年代の半ばから大きな変化があるんです。ミレニアムという世紀の変わり目であることから近未来的でフューチャリスティックなデザインが求められたことに加えて、90年代の不況がITバブルなどの影響で回復したこと、さらにそこに大流行したミニマルの反動で少し面白いデザインが欲しいという流れが合流して、90年代半ばから2000年代の半ばにかけて、すごく多種多様な面白いデザインのブティックが一気に出てくるんです。フューチャー・システムズが手がけたコム・デ・ギャルソンのインテリアもそうだし、ルイ・ヴィトンもそうだし、ヘルムート・ラングもそうです。
なぜ急にブティックのインテリアデザインが多様化したかというと、やはりインターネットの登場が大きかった。それまでブティックというのは、実際に足を運べる人だけが見られるものでした。でもインターネット以降は、ブティックを作るとそれがプレスリリースや雑誌やオンラインの記事になって、写真がその日のうちに世界中で見られるようになった。だから空間を作ることそのものが、そこに行ける人だけでなく、そこに行けない人たちへの広告にもなるようになったんです。だから各メゾンはこぞって大きな投資をして、自分のブランドの価値を上げるためにいろんな実験を行った。
でも悲しいことに、2001年に9.11が起きてしまった。非常に社会が不安定になり、旧来の価値が破壊された結果、反動で価値観自体が保守化してしまうんです。さらにリーマンショックなどで景気が悪くなったこともあって、雑多な多種多様なデザインというものを、だんだん許容することができなくなっていく。だから2003年くらいまではすごく面白いのに、ゼロ年代後半にかけてインテリアデザインは不毛の時期を迎えて、すごくつまらなくなっていくんですよ。
門脇 それはファッションそのものの流れとも連動しているんでしょうね。同時多発テロ以降のファッションは、「安心感を求める人々の心を反映するように、天然繊維、手仕事への傾倒、あるいはTシャツを代表とする合理的な定番服など、人々の見慣れたファッションを提示し、ファスト・ファッションと呼ばれる合理性に基づいた安価なコピー服を世界規模で広げた」という指摘もあるようです(※新居理絵「ヘルムート・ラングとその創造的世界」(『ドレスタディ』Vol.56)参照)。
浅子 そうなんです。ではその流れで今のインテリアデザインを見るとどうか。街を見て貰えればわかると思うのですが、Tシャツやチノパンと共に食器を売るような、「ライフスタイルショップ」というのがすごく増えています。でもそれらのインテリアのデザインは、躯体を残して仕上げを剥がし、足場板をどこかに貼って、手描きの金文字のサインをガラスに書き、最後に工場で使われていたようなアンティークのスチールのペンダントライトをぶら下げて終わり、みたいなものばかりです。結局これらは全て、「輝いていた50年代のアメリカを取り戻そう」というパロディで、本当にパッケージが保守化しているんです。そういうことがブティックやカフェで同時に起きている。これは価値観自体が新しくないし、さすがに不毛だと思います。
門脇 日本の今の流れも長引く不況や東日本大震災から来る保守化の流れに位置付けられるのでしょうか。
浅子 この先10年くらいこれが続くと思うと、デザイナーとしては正直うんざりしますね。
宇野 荻上直子監督の『かもめ食堂』の世界ですね。言わば「北欧おばちゃんニューエイジ」というか……。なんだろうなあ、僕自身はスローフード的な暮らしはすごく憧れる。でもあの映画を支配する強烈なイデオロギーというか、無言の排他性がどうしても苦手で……。ライダーキックで破壊したい(笑)。
浅子 でもあれが中目黒とかでは強いんですよ。まさにああいうカフェが山ほどありますから。
門脇 カフェ風というか、ああいった自然素材や古びたものを適当にパッチワークしていくものって、すごくまずいと思うんですよ。
あるとき赤坂の草月会館であった建築界の重鎮たちのパーティに呼んでもらったことがあったんですが、それがすごく80年代的な空気だったんですよ。天井はミラー張りだし、カウンターにはシャンパンが注がれたシャンパングラスがきれいに並んでいるし、「ああ、バブルってこういうことだったのか」みたいな感じ(笑)。
でもそのスタイルが、すごくかっこいいなと思ったんです。もちろん今の時代とは感覚がズレています。でも、そこには彼らの世代が何をカッコイイと思っているのかがしっかりと表象されている。それは空間のデザインばかりでなく、来ている人のファッションや、パーティでの振る舞いなども含めて、あるトータリティを持っていて、「人はこうやって生きるのがカッコイイ」という人生観というか、哲学のようなものを感じさせるものでした。だからああいう空間を含めたトータルなカッコよさを、僕たちの世代が残せないと負けだなと思いました。そう考えたときに、古びたもので安心してしまうのはまずいだろうと。
浅子 そう、だから今こそ「これがカッコいいんだ!」というものが必要なんですよね。
僕がいますごく重要だと思っているのが、80年代に活躍したフランス人のフィリップ・スタルクというデザイナーです。彼はホテルのインテリアデザインなどを手がけたのですが、僕は彼のやったことの本質って「デザインの民主化」だったと思うんです。
スタルクの手がけたインテリアデザインがどのようなものだったかというと、ものすごく大きい4mくらいあるようなわざとらしいぐらい豪華な鏡を立てかけるとか、必要ないくらい大きなドレープのカーテンをぶら下げてみるとか、あるいはそれまでは同じ椅子を並べるのがセオリーだったホテルのロビーに、全て違うデザインの椅子を並べる、というようなものだったんです。そこでは世界各国の有名デザイナーの椅子と、土産物屋で買ってきたような椅子が等しく並べられていた。
インテリアデザインというのは、突き詰めると、どうしてもどこかで権威的になってしまうものです。でもスタルクはその価値を転倒させて、民主化しようとした。そういった意味で、すごく重要な役割を果たしたデザイナーです。
これを踏まえた上で今後のことを考えると、デザイナーの役割が見えてくると思うんです。今、レーザーカッターや3Dプリンターの普及によって、FABと言われるようなムーブメントが流行していて、デザイナーでない一般の人たちが、自分でモノを作れるようになっている。これはスタルク以降のデザインの民主化の流れにある運動だと言える。この流れは止められないし、今後の大きな流れのひとつになるのは間違いない。でも、一般の人たちというのは、ともすると「これがカッコいい」という思想がないまま、例えば雑誌で見たものをそのまま作ってしまうので、価値観の転倒どころか逆に保守回帰してしまう。これは非常に問題です。だから今こそ「一般の人たちがカッコいいと思えるようなもの」を、デザイナーは作らないといけないんじゃないかと思うのです。
▲スタルクによるインテリアデザイン
出典:Stark.com
■「もしデザイナーズブランドとユニクロの服が同じ価格だったら、ユニクロを買う人のほうが多いのではないか?」
宇野 さっきも言ったけれど、僕はユニクロや無印良品、H&Mをなぜいいと思うかというと、そこに美学を感じるからなんです。ファストファッションは効率化と最適化の産物だと思われているけど、当然そこに実は美的なイデオロギーが存在する。ファストファッションをデフレカルチャーの一端として切り捨てるのではなく、その明確な思想に基づいたデザイン自体をしっかりと分析することが必要なんじゃないかと思うんですが。
門脇 まず無印良品に関して僕の雑感を言うと、男子のファッションはきれいめなお父さんスタイルという感じで、まったく惹かれません。でも女子は意外といい。ファッション雑誌でいうと90年代のオリーブ・anan系の価値観を色濃く受け継いだような感じがして、ある種のコスプレとして成立している。無印好きそうな女子のスタイルって想像できますよね? ちゃんとスタイルになっているんです。
宇野 無印良品には、高度消費社会に対してこれくらいの中距離で行きましょう、という明確なメッセージがありますよね。あの白と黒とネイビーしか使わないデザインが、そうした強力なイデオロギーに基づいていることは誰の目にも明らかです。あれは非常に分かりやすいでしょう?
無印良品だけではなく、ユニクロにもそういったイデオロギーがあると思うんですよ。だからデザイナーの固有名詞で語るようにユニクロを語ることだってできるはずなんです。そういった視点を持てずに、デザイナーズブランド対ファストファッションみたいな問題の立て方をしてしまうところに弱さがあるのではないか。
浅子 ただ、一応言っておくと、ファストファションについては剽窃、パクリの問題がありますよね。あるファストファションはコレクションでめぼしいものをピックアップして彼らが売る前に店頭に出してしまうというのも言われています。これは流石に問題です。
また、ユニクロはTシャツとかフリースとか、どちらかというと生活必需品に近い、生活に必要な洋服で売り上げを伸ばしたブランドというイメージはありますけどね。だからカラーバリエーションがあるということ自体が圧倒的に重要で、必要なものしか買わない人たちにも色を選ぶという意味でファッションに必要な喜びを与えたからすごく成功した。
宇野 色の問題一つとっても、ユニクロにせよH&Mにせよ、日本だとそれまでスポーツウェアとかアウトドアウェアでしか使わないようなのような蛍光色や派手な色を取り入れているわけでしょう? 単に安いからではなくて、僕はユニクロにしかないものを求めているつもりなんですよね。色合いだけじゃなくて、デザインや着心地にも同じことが言えるんじゃないかと思う。要するに固有名詞のデザイナーが、ユニクロのデザインに、単に勝てていないだけなのではないでしょうか。実は同じ価格でもユニクロを買う人が結構いるんじゃないかというのが僕の仮説です。ユニクロのデザインも、単にデフレジャパンのスカスカのものとしてではなく、イデオロギーとして支持されているんですよ。
門脇 僕は服を見るとき発色とかをけっこう気にする方なんですが、ユニクロはよく見るとかなり独特の色使いをしているせいだからなのか、そんなに気にならないんですよね。
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【ほぼ惑ベストセレクション2014:第5位】無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性 ーー浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆
2014-12-29 11:10
【ほぼ惑ベストセレクション2014:第5位】無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性 ――浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.12.29 号外
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2014年2月より約1年にわたってお送りしてきたメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」。この年末は、200本以上の記事の中から編集長・宇野常寛が選んだ記事10本を、5日間に分けてカウントダウン形式で再配信していきます。第5位は、建築学者・門脇耕三さんとデザイナー・浅子佳英さんによる連続鼎談企画「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾、「無印良品・ユニクロ論」です!(2014年10月14日配信)これまでのベストセレクションはコチラ!
▼編集長・宇野常寛のコメント
この鼎談シリーズ自体はもともと、「ノームコア」(編註:ノーマル+ハードコアという意味の造語。極めてシンプルなファッションのこと)の持つある種の「五体満足主義」に対しての反発から始まった企画です。で、この無印やユニクロの思想を考えた回はスピンオフ的な内容だけれど、結果的にすごく盛り上がった。次回以降は再びデザインの話に戻っていくので、そちらも楽しみにしていてほしいと思っています。
これから世の中が変わっていくために一番必要なのは、無印良品やユニクロのような「総合的なライフスタイルを提案しているプレイヤー」が、ECサイトのようなところから新たに出てくることではないかと思っています。こういったPB(編註:プライベートブランドのこと。独自のブランドとして企画し、小売も行う無印良品やユニクロのような業態のこと)から消費文化やライフスタイルを考えるというシリーズは別の企画として進めていきたいと思っていて、とりあえずいま僕が考えているのはセブン-イレブンですね。そちらも来年ぜひ楽しみにしていてほしいと思っています。
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・これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
▼プロフィール
門脇耕三(かどわき・こうぞう)
1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社 、2013年)ほか。
浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
◎構成:中野慧
ファストファッション、IKEAやニトリ、アップル製品など、ゼロ年代以降の私たちの生活に欠かせなくなった様々な「モノ」と「デザイン」について考えた前回の鼎談企画「これからの『カッコよさ』の話をしよう」。第2弾となる今回は、鼎談の収録前に、まず実際に門脇・浅子・宇野の3氏で、銀座の街にある様々なお店を廻ることにしました。
3氏がまず足を運んだのは、世界一巨大な規模を誇るユニクロ銀座店。
▲銀座の中央通沿いにある、ユニクロ店舗でも世界最大のグローバル旗艦店「ユニクロ 銀座店」。12階建てだそうです。
▲床から天井まで隙間なく服が並んでいます。
▲Tシャツフロア。フロア全体に多種多様なデザインのTシャツがひしめいていました。ぶらぶらと見ていたら、浅子さんが当日着ていたスヌーピーTシャツと似たようなデザインのものを発見。「このTシャツけっこう高かったのにw!」(浅子さん)
▲女性ものの丈長のスウェットシャツが気になるという門脇さん。このあと「XLサイズなら僕でもダボッと着れそう」とのことで、お買い上げになっていました。
ユニクロ銀座店の次に3人は、ユニクロ銀座店と渡り廊下でつながっているお隣のドーバーストリートマーケット(コム・デ・ギャルソンの川久保玲氏がトータルプロデュースするセレクトショップ)へと向かいました。
▲ドーバーストリートマーケット ギンザ。
渡り廊下を渡るとそこには、ユニクロとはまるで別世界が広がっていました。好対照だったのはお店のレイアウト。通路は広く取りつつも縦にぎっしりと服を並べるユニクロと違い、様々なアイテムがゆったりと店内に配置されていました。
ドーバーストリートマーケットを出た一行は、「無印良品 有楽町店」へ向かいました。
▲無印良品有楽町店。ここもかなりの大型店舗です。
▲無印良品の家。
無印らしいアースカラーの服が並ぶ店内を分け入っていくと、目に入ってきたのはスチールの外壁(「金属系サイディング」というものだそう)の、「家」でしたーー。そう、最近、無印では「無印良品の家」を販売しているとのこと。コンパクトなサイズながら、吹き抜けと、ガラス張り(でも断熱性も高いそうです)による採光のよさもあって、見た目以上にゆったりとした住空間。「暮らしに合わせて間取りが変えられる」とのことです。(出典:「無印良品の家」ホームページ )
その後、一行はクロムハーツ、ミュウミュウ(MiuMiu)、Aesop(イソップ)、フライターグなどを回ってこの日の街歩きを終えました。
■ユニクロとコム・デ・ギャルソン、何が明暗を分けたのか?宇野 まず簡単に前回のおさらいをすると、今の時代のファッションは、ノームコア(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと。最近のファストファッションの隆盛を受けたトレンドでもある)的なものが優位になっている。そしてその潮流は一部で「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」という五体満足主義的な思想に回収されつつある。それはファッションが本来持っていた「やせっぽちでも太っていても、工夫しだいでカッコよく、気持ちよくなれる」という、文化としての豊かさがやせ細ってしまっているということでもある。こういう現状に対する違和感は共有されていますよね。
そこに対して例えばデザイナーである浅子さんは、ノームコア的なものを批判して「新しいラグジュアリー」のような価値を提示していくことが必要なのではないかという立場でした。
また、鼎談のなかで見えてきたのは、ファッションだけでなく、インテリアや建築のような「デザイン」と言われる世界ではどこでも、90年代以降に似たようなことが起こっているのではないか、ということでした。
今日は第二弾ということで、ファストファッションからデザイナーズブランドまで、銀座のいろいろなお店を実際に回ってきたわけですが、みなさんは改めてどう感じましたか?
浅子 やっぱりユニクロが今強いのは、面白いデザインの服を揃えているわけではないけれど、カラーバリエーションやちょっとしたデザインの違いの製品を大量に揃えていて、その「多くのものから一つを選ぶ」という体験自体に楽しさがあるからなんだと思いましたね。
宇野 ショッピングにゲーム的な楽しさがあるということですよね。
浅子 そうです。銀座店は特に、12階建てなのにもかかわらず、フロアのレイアウトがほとんど同じだったりして、あの感じは僕自身はそんなに好きじゃないんだけど、実際に上から下まで全部見て回ると本当にゲーム空間にいるようで面白かったです。
門脇 ユニクロの店内のレイアウトは「とにかく下から上まで整然と服を並べる」という思想ですよね。対照的だったのはそのあとに行ったドーバーストリートマーケットで、店内に余白をたくさん取っていました。あれは「アート的に見せる」というテクニックなんだけど、物量としてはユニクロよりも全然少ないですよね。そうすると服の一点一点が高くならざるをえない。置いているモノはカッコいいんだけど、トータルで見るとどうしても元気がないように見えてしまった。
浅子 僕は立場的にコム・デ・ギャルソンを擁護するしかないんだけど、たしかに銀座店は少しゆったりしすぎているかもしれないですね。ただ、最初にできたロンドンのドーバーストリートマーケットはとてもエキサイティングな空間です。もともとオフィスか何かだった建物に、川久保玲やセットデザイナーなどが介入して百貨店にしてしまっている。たとえばエスカレーターでなく階段で登らないといけなかったりとか、フロアの使い方もわけのわからないことになっていて。
そもそもドーバーストリートマーケットの面白さって、コム・デ・ギャルソンというブランドが、自分たちの服を売るだけではなく様々なブランドの服を売ったり、アーティストの作品を展示するスペースをつくったり、ある種のプラットフォームとしてお店を構えたところにあると思うんですよ。
ただ銀座のお店はやっぱり、「ギンザコマツ」という百貨店の建て替えで用意された空間に出店しているから、そういう面白い化学反応が起こらなかったんだと思います。だからそこを責めるのはちょっと気の毒な感じがするんですよね。
門脇さんは店内のレイアウトのことを指摘されたけど、インテリアのデザイナーとして言うとやっぱり余白というか、そもそも白い壁が良くないと思う。確かに白い壁にするとニュートラルであるかのようにふるまいながらも簡単に綺麗に見せることができるんだけど、それは何も考えていないということの裏返しでもあるんですよね。
門脇 結局現代アートもそうだけど、白いところにポツーンと何かゴミが置いてあるだけでアートに見えたりするんですよ。それ以外の見せ方を開発できてないのはちょっと残念だった。そういう意味ではユニクロの見せ方のほうが面白かったですよね。
宇野 ユニクロって、ある時期まではフリースだったり、インナーや寝間着を買うお店というイメージで捉えられていましたよね。で、誰が着てもそこそこ似合うものを、豊富なカラーバリエーションで提供していたのがフリース時代だとすると、今は第2段階、いわばUT(=ユニクロのTシャツ)以降の時代に入っていると思うんですよ。
UTって色々な企業のロゴだったり、スヌーピーやディズニーなどのキャラクターイラストに、多種多様なカラーバリエーションを掛け合わせるという発想でつくられていますよね。あれってインターネット以降の感覚だと思っていて、要するに統一されたフォーマットに多様なコンテンツを流し込むことで無限にバリエーションを生成できるということだと思うんです。そういう思想が商品ラインナップだったり、レイアウトの方法とも結びついていて、UTという独特のジャンルを生んでいるんじゃないか、と。
門脇 フォーマットが決まっているからこそ多様な表現が生まれてくる、ということですよね。僕には商品そのものとしてあれが良いのかどうかピンと来ないところがあるけど、でもあれだけのバリエーションがあるなかで選ぶという体験はたしかに楽しかった。さっきもスウェットを買ったけれど、たぶんドーバーストリートマーケットに並んでても買わないんじゃないかな。たくさんのバリエーションが並んでいるなかで気に入ったものを見つけて、買ってしまう。そういう体験を含めて買っている気がしますね。
■「バブルの鬼子」としての無印良品
宇野 これは都市部に限った話かもしれないけど、ユニクロと無印良品ってもうインフラみたいになっているじゃないですか。「あ、この街って駅前にユニクロと無印あるんだ、便利だね」とみんな思ったりする。だからこの2つの企業って、日本の生活文化においては非常に強いと思うんだけど、でも今日見ていて改めて思ったのは、ユニクロはまだ無印を倒せていないということなんですよ。要するに今の無印良品はライフスタイルそのものを提案できているけど、ユニクロはまだそこまで行けていない。
たとえばユニクロの主力製品であるヒートテックひとつとっても、「冬のファッションで重ね着させない」ということを目標にしたもののはずです。厚着させないということは、つまり「こういう身体が美しい」とか「こういう屋内ライフスタイルが気持ちいい」という提案であるはずで、それを延長していくと僕たちの身体観やライフスタイルの変革へと結びついていくはず。でも、今のユニクロのラインナップからはまだ「新しいライフスタイルの提案」まで読み取ることはできない。アイテム1個1個の持っている快楽やゲーム性に留まっていて、総合的なビジョンがまだないんだなあ、と思ってしまいました。
一方で無印は、僕の考えでは言わばディフェンディング・チャンピオンだと思うんですよ。あそこに行くと衣食住全部ある――というか、今は家具だけでなく家まで売っているわけですからね。総合的なライフスタイルを提案できているわけです。たとえば僕はあの透明の衣装ケースも使っているし、食べ物にしても僕はMUJIカフェによく行くし、無印カレーも大好きなんですよ。
そもそも、無印良品のコンセプトって基本的に「アンチバブル」だったわけですよね。80年代の消費社会=バブル的な価値観に対して距離をとりつつ、かといってニューエイジや昔のヒッピーのように消費社会を全面的に批判するわけでもなく、要するに「消費社会に対してはこれぐらいの中距離で付き合いましょう」というライフスタイルを提案している。
浅子 いや、それもあるけれど、その前にみんな忘れているのは、僕らが子どもの頃の昭和の時代って、ともかくダサイもので溢れていたんですよ。布団がなぜか花柄だったり、家具も変な色に塗られていたり、ほとんどの家庭にはわけのわからないデザインのものがいっぱいあって、子ども心にあれがすごく嫌だったわけですよね。そこに対して無印は、「柄のない布団のほうがいい」というようなニュートラルでフラットでシンプルなデザインを提案し、支持を受けた結果、今やそれがスタンダードにまでなったと。
宇野 無印だけが、モノだけでなく「こういうライフスタイルがいい」という世界観を提示するに至っているんじゃないかなと思うんです。そしてそれは90年代以降の世界的な潮流ともマッチしていた。たとえば宮台真司さんがよく言っているけど、スローフードが好きな奴って、エアコンの効いた部屋でスターバックスのコーヒーを飲みながら環境問題の本を読んで悩んだふりをしている人なんですよ。要するにスローフードとはグローバル資本主義下におけるアッパーミドル向けの優秀な商品にすぎないわけです。でも、それでいいと思う。だから無印良品は強い。僕も大好きです。あの「素材を大切にした」シリーズのカレーやスープのレトルトパウチは家に常備している。あれは、「レトルトのスローフード」という矛盾するコンセプトが同居しているわけなんですが、そこが素晴らしい。
門脇 レトルト食品を排除するのではなく、レトルトをいかに美味しくて栄養バランスもいいものにしていくかという発想ですよね。ただ、無印の提案しているライフスタイルって、今ではちょっと古くなってしまっている気もするんです。「家族で郊外に住み、お父さんは電車で都心に通勤する」という昭和的モデルのバージョンアップで、まだその先に突き抜けられていないというか。
宇野 無印はやはりバブルの落とし子なので、どうしてもそうなってしまうところはありますよね。それに、当初のコンセプトである「アンチバブル」が実はすごく狭いイデオロギーなので、その価値観が押し付けがましいと感じる人も多いと思うんですよ。たとえばこれだけ無印大好きな僕でさえも、ほぼアースカラーオンリーの衣料や、家具類の「柔らかい木目」のゴリ押しはちょっとしんどく感じることがある。
浅子 正直、僕もそう思っていますよ。
門脇 無印良品ってすごく哲学がしっかりしていて、「文明は共通化して文化は差異化する」という未来予測を展開しています。つまりグローバル化のなかで「感じのよい暮らしをリーズナブルに」という方向性はぶれずに追求していきつつ、それだとほかの国や地方、あるいは「無印的価値観にドンピシャな世代」以外には展開できないから、地域性や時代性に紐付いた文化で彩っていくということになるんだと思いますが、それだとどうしても既成の価値観を無印的にセレクトすることになってしまうから、まったく新しいものを生み出すことが難しくなってしまう。
無印も本当は「新しいラグジュアリー」のようなものを追求すべきなんだけど、そもそものコンセプトが「オルタナティブなスタンダード」なので、クリエイションに根拠を与えるものが既にあるものにしかならない。無印のインパクトって確かに大きいし、それがいよいよ浸透してきた勢いも感じますが、次の時代を考えるとそこが弱いところだと思うんですよね。
浅子 無印のデザインって文化の多様化と言うにはちょっと一本調子すぎますよね。たとえばヤンキーが作るわけのわからないバイクのようなものって、文化の多様化そのものだと思うけれど、そういうデザインのものは絶対に製品ラインナップに入ってこない。だからすごく偽善的な感じがするわけです。これは無印だけでなく、アップルのデザインにも言えることだと思うんですけど。 -
無印良品、ユニクロから考える「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性 ーー浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.178 ☆
2014-10-14 07:00
無印良品、ユニクロから考える
「ライフデザイン・プラットフォーム」の可能性
――浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛
「これからの『カッコよさ』の話をしよう」第2弾
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.10.14 vol.178
http://wakusei2nd.com
本日のほぼ惑は、8月に配信し大好評だった建築学者の門脇耕三さん、インテリアデザイナーの浅子佳英さんと本誌編集長宇野常寛との鼎談記事「これからのカッコよさの話をしよう」の第2弾をお届けします。今回は実際に銀座のファッションストリートにある様々なお店を周り、そこで三人が感じたこと、考えたことをもとに、「ライフデザインのプラットフォーム」としての無印良品、そしてユニクロの位置付けを考えます。
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・これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来
▼プロフィール
門脇耕三(かどわき・こうぞう)
1977年生。建築学者・明治大学専任講師。専門は建築構法、建築設計、設計方法論。効率的にデザインされた近代都市と近代建築が、人口減少期を迎えて変わりゆく姿を、建築思想の領域から考察。著書に『シェアをデザインする』〔共編著〕(学芸出版社 、2013年)ほか。
浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
◎構成:中野慧
ファストファッション、IKEAやニトリ、アップル製品など、ゼロ年代以降の私たちの生活に欠かせなくなった様々な「モノ」と「デザイン」について考えた前回の鼎談企画「これからの『カッコよさ』の話をしよう」。第2弾となる今回は、鼎談の収録前に、まず実際に門脇・浅子・宇野の3氏で、銀座の街にある様々なお店を廻ることにしました。
3氏がまず足を運んだのは、世界一巨大な規模を誇るユニクロ銀座店。
▲銀座の中央通沿いにある、ユニクロ店舗でも世界最大のグローバル旗艦店「ユニクロ 銀座店」。12階建てだそうです。
▲床から天井まで隙間なく服が並んでいます。
▲Tシャツフロア。フロア全体に多種多様なデザインのTシャツがひしめいていました。ぶらぶらと見ていたら、浅子さんが当日着ていたスヌーピーTシャツと似たようなデザインのものを発見。「このTシャツけっこう高かったのにw!」(浅子さん)
▲女性ものの丈長のスウェットシャツが気になるという門脇さん。このあと「XLサイズなら僕でもダボッと着れそう」とのことで、お買い上げになっていました。
ユニクロ銀座店の次に3人は、ユニクロ銀座店と渡り廊下でつながっているお隣のドーバーストリートマーケット(コム・デ・ギャルソンの川久保玲氏がトータルプロデュースするセレクトショップ)へと向かいました。
▲ドーバーストリートマーケット ギンザ。
渡り廊下を渡るとそこには、ユニクロとはまるで別世界が広がっていました。好対照だったのはお店のレイアウト。通路は広く取りつつも縦にぎっしりと服を並べるユニクロと違い、様々なアイテムがゆったりと店内に配置されていました。
ドーバーストリートマーケットを出た一行は、「無印良品 有楽町店」へ向かいました。
▲無印良品有楽町店。ここもかなりの大型店舗です。
▲無印良品の家。
無印らしいアースカラーの服が並ぶ店内を分け入っていくと、目に入ってきたのはスチールの外壁(「金属系サイディング」というものだそう)の、「家」でしたーー。そう、最近、無印では「無印良品の家」を販売しているとのこと。コンパクトなサイズながら、吹き抜けと、ガラス張り(でも断熱性も高いそうです)による採光のよさもあって、見た目以上にゆったりとした住空間。「暮らしに合わせて間取りが変えられる」とのことです。(出典:「無印良品の家」ホームページ )
その後、一行はクロムハーツ、ミュウミュウ(MiuMiu)、Aesop(イソップ)、フライターグなどを回ってこの日の街歩きを終えました。
■ユニクロとコム・デ・ギャルソン、何が明暗を分けたのか?宇野 まず簡単に前回のおさらいをすると、今の時代のファッションは、ノームコア(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと。最近のファストファッションの隆盛を受けたトレンドでもある)的なものが優位になっている。そしてその潮流は一部で「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」という五体満足主義的な思想に回収されつつある。それはファッションが本来持っていた「やせっぽちでも太っていても、工夫しだいでカッコよく、気持ちよくなれる」という、文化としての豊かさがやせ細ってしまっているということでもある。こういう現状に対する違和感は共有されていますよね。
そこに対して例えばデザイナーである浅子さんは、ノームコア的なものを批判して「新しいラグジュアリー」のような価値を提示していくことが必要なのではないかという立場でした。
また、鼎談のなかで見えてきたのは、ファッションだけでなく、インテリアや建築のような「デザイン」と言われる世界ではどこでも、90年代以降に似たようなことが起こっているのではないか、ということでした。
今日は第二弾ということで、ファストファッションからデザイナーズブランドまで、銀座のいろいろなお店を実際に回ってきたわけですが、みなさんは改めてどう感じましたか?
浅子 やっぱりユニクロが今強いのは、面白いデザインの服を揃えているわけではないけれど、カラーバリエーションやちょっとしたデザインの違いの製品を大量に揃えていて、その「多くのものから一つを選ぶ」という体験自体に楽しさがあるからなんだと思いましたね。
宇野 ショッピングにゲーム的な楽しさがあるということですよね。
浅子 そうです。銀座店は特に、12階建てなのにもかかわらず、フロアのレイアウトがほとんど同じだったりして、あの感じは僕自身はそんなに好きじゃないんだけど、実際に上から下まで全部見て回ると本当にゲーム空間にいるようで面白かったです。
門脇 ユニクロの店内のレイアウトは「とにかく下から上まで整然と服を並べる」という思想ですよね。対照的だったのはそのあとに行ったドーバーストリートマーケットで、店内に余白をたくさん取っていました。あれは「アート的に見せる」というテクニックなんだけど、物量としてはユニクロよりも全然少ないですよね。そうすると服の一点一点が高くならざるをえない。置いているモノはカッコいいんだけど、トータルで見るとどうしても元気がないように見えてしまった。
浅子 僕は立場的にコム・デ・ギャルソンを擁護するしかないんだけど、たしかに銀座店は少しゆったりしすぎているかもしれないですね。ただ、最初にできたロンドンのドーバーストリートマーケットはとてもエキサイティングな空間です。もともとオフィスか何かだった建物に、川久保玲やセットデザイナーなどが介入して百貨店にしてしまっている。たとえばエスカレーターでなく階段で登らないといけなかったりとか、フロアの使い方もわけのわからないことになっていて。
そもそもドーバーストリートマーケットの面白さって、コム・デ・ギャルソンというブランドが、自分たちの服を売るだけではなく様々なブランドの服を売ったり、アーティストの作品を展示するスペースをつくったり、ある種のプラットフォームとしてお店を構えたところにあると思うんですよ。
ただ銀座のお店はやっぱり、「ギンザコマツ」という百貨店の建て替えで用意された空間に出店しているから、そういう面白い化学反応が起こらなかったんだと思います。だからそこを責めるのはちょっと気の毒な感じがするんですよね。
門脇さんは店内のレイアウトのことを指摘されたけど、インテリアのデザイナーとして言うとやっぱり余白というか、そもそも白い壁が良くないと思う。確かに白い壁にするとニュートラルであるかのようにふるまいながらも簡単に綺麗に見せることができるんだけど、それは何も考えていないということの裏返しでもあるんですよね。
門脇 結局現代アートもそうだけど、白いところにポツーンと何かゴミが置いてあるだけでアートに見えたりするんですよ。それ以外の見せ方を開発できてないのはちょっと残念だった。そういう意味ではユニクロの見せ方のほうが面白かったですよね。
宇野 ユニクロって、ある時期まではフリースだったり、インナーや寝間着を買うお店というイメージで捉えられていましたよね。で、誰が着てもそこそこ似合うものを、豊富なカラーバリエーションで提供していたのがフリース時代だとすると、今は第2段階、いわばUT(=ユニクロのTシャツ)以降の時代に入っていると思うんですよ。
UTって色々な企業のロゴだったり、スヌーピーやディズニーなどのキャラクターイラストに、多種多様なカラーバリエーションを掛け合わせるという発想でつくられていますよね。あれってインターネット以降の感覚だと思っていて、要するに統一されたフォーマットに多様なコンテンツを流し込むことで無限にバリエーションを生成できるということだと思うんです。そういう思想が商品ラインナップだったり、レイアウトの方法とも結びついていて、UTという独特のジャンルを生んでいるんじゃないか、と。
門脇 フォーマットが決まっているからこそ多様な表現が生まれてくる、ということですよね。僕には商品そのものとしてあれが良いのかどうかピンと来ないところがあるけど、でもあれだけのバリエーションがあるなかで選ぶという体験はたしかに楽しかった。さっきもスウェットを買ったけれど、たぶんドーバーストリートマーケットに並んでても買わないんじゃないかな。たくさんのバリエーションが並んでいるなかで気に入ったものを見つけて、買ってしまう。そういう体験を含めて買っている気がしますね。
■「バブルの鬼子」としての無印良品
宇野 これは都市部に限った話かもしれないけど、ユニクロと無印良品ってもうインフラみたいになっているじゃないですか。「あ、この街って駅前にユニクロと無印あるんだ、便利だね」とみんな思ったりする。だからこの2つの企業って、日本の生活文化においては非常に強いと思うんだけど、でも今日見ていて改めて思ったのは、ユニクロはまだ無印を倒せていないということなんですよ。要するに今の無印良品はライフスタイルそのものを提案できているけど、ユニクロはまだそこまで行けていない。
たとえばユニクロの主力製品であるヒートテックひとつとっても、「冬のファッションで重ね着させない」ということを目標にしたもののはずです。厚着させないということは、つまり「こういう身体が美しい」とか「こういう屋内ライフスタイルが気持ちいい」という提案であるはずで、それを延長していくと僕たちの身体観やライフスタイルの変革へと結びついていくはず。でも、今のユニクロのラインナップからはまだ「新しいライフスタイルの提案」まで読み取ることはできない。アイテム1個1個の持っている快楽やゲーム性に留まっていて、総合的なビジョンがまだないんだなあ、と思ってしまいました。
一方で無印は、僕の考えでは言わばディフェンディング・チャンピオンだと思うんですよ。あそこに行くと衣食住全部ある――というか、今は家具だけでなく家まで売っているわけですからね。総合的なライフスタイルを提案できているわけです。たとえば僕はあの透明の衣装ケースも使っているし、食べ物にしても僕はMUJIカフェによく行くし、無印カレーも大好きなんですよ。
そもそも、無印良品のコンセプトって基本的に「アンチバブル」だったわけですよね。80年代の消費社会=バブル的な価値観に対して距離をとりつつ、かといってニューエイジや昔のヒッピーのように消費社会を全面的に批判するわけでもなく、要するに「消費社会に対してはこれぐらいの中距離で付き合いましょう」というライフスタイルを提案している。
浅子 いや、それもあるけれど、その前にみんな忘れているのは、僕らが子どもの頃の昭和の時代って、ともかくダサイもので溢れていたんですよ。布団がなぜか花柄だったり、家具も変な色に塗られていたり、ほとんどの家庭にはわけのわからないデザインのものがいっぱいあって、子ども心にあれがすごく嫌だったわけですよね。そこに対して無印は、「柄のない布団のほうがいい」というようなニュートラルでフラットでシンプルなデザインを提案し、支持を受けた結果、今やそれがスタンダードにまでなったと。
宇野 無印だけが、モノだけでなく「こういうライフスタイルがいい」という世界観を提示するに至っているんじゃないかなと思うんです。そしてそれは90年代以降の世界的な潮流ともマッチしていた。たとえば宮台真司さんがよく言っているけど、スローフードが好きな奴って、エアコンの効いた部屋でスターバックスのコーヒーを飲みながら環境問題の本を読んで悩んだふりをしている人なんですよ。要するにスローフードとはグローバル資本主義下におけるアッパーミドル向けの優秀な商品にすぎないわけです。でも、それでいいと思う。だから無印良品は強い。僕も大好きです。あの「素材を大切にした」シリーズのカレーやスープのレトルトパウチは家に常備している。あれは、「レトルトのスローフード」という矛盾するコンセプトが同居しているわけなんですが、そこが素晴らしい。
門脇 レトルト食品を排除するのではなく、レトルトをいかに美味しくて栄養バランスもいいものにしていくかという発想ですよね。ただ、無印の提案しているライフスタイルって、今ではちょっと古くなってしまっている気もするんです。「家族で郊外に住み、お父さんは電車で都心に通勤する」という昭和的モデルのバージョンアップで、まだその先に突き抜けられていないというか。
宇野 無印はやはりバブルの落とし子なので、どうしてもそうなってしまうところはありますよね。それに、当初のコンセプトである「アンチバブル」が実はすごく狭いイデオロギーなので、その価値観が押し付けがましいと感じる人も多いと思うんですよ。たとえばこれだけ無印大好きな僕でさえも、ほぼアースカラーオンリーの衣料や、家具類の「柔らかい木目」のゴリ押しはちょっとしんどく感じることがある。
浅子 正直、僕もそう思っていますよ。
門脇 無印良品ってすごく哲学がしっかりしていて、「文明は共通化して文化は差異化する」という未来予測を展開しています。つまりグローバル化のなかで「感じのよい暮らしをリーズナブルに」という方向性はぶれずに追求していきつつ、それだとほかの国や地方、あるいは「無印的価値観にドンピシャな世代」以外には展開できないから、地域性や時代性に紐付いた文化で彩っていくということになるんだと思いますが、それだとどうしても既成の価値観を無印的にセレクトすることになってしまうから、まったく新しいものを生み出すことが難しくなってしまう。
無印も本当は「新しいラグジュアリー」のようなものを追求すべきなんだけど、そもそものコンセプトが「オルタナティブなスタンダード」なので、クリエイションに根拠を与えるものが既にあるものにしかならない。無印のインパクトって確かに大きいし、それがいよいよ浸透してきた勢いも感じますが、次の時代を考えるとそこが弱いところだと思うんですよね。
浅子 無印のデザインって文化の多様化と言うにはちょっと一本調子すぎますよね。たとえばヤンキーが作るわけのわからないバイクのようなものって、文化の多様化そのものだと思うけれど、そういうデザインのものは絶対に製品ラインナップに入ってこない。だからすごく偽善的な感じがするわけです。これは無印だけでなく、アップルのデザインにも言えることだと思うんですけど。 -
これからの「カッコよさ」の話をしよう ——ファッション、インテリア、プロダクト、そしてカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.128 ☆
2014-08-05 07:00※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
これからの「カッコよさ」の話をしよう――ファッション、インテリア、 プロダクト、そしてカルチャーの未来(浅子佳英×門脇耕三×宇野常寛)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.8.5 vol.128
http://wakusei2nd.com
本日のメルマガは、建築家の門脇耕三さん、インテリアデザイナーの浅子佳英さん、そして宇野常寛を交えた鼎談を掲載します。テーマはこれからの「カッコよさ」について。ユニクロを代表とするファストファッションに隠されたイデオロギーとは? そして、男子のカッコよさが向かう未来とは――?▼プロフィール
門脇耕三(かどわき・こうぞう)
1977年生。建築学者・明治大学専任講師。建築構法、建築設計、設計方法論を専門とし、公共住宅の再生プロジェクトにアドバイザー/ディレクターとして多数携わる。
浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生。インテリアデザイン、建築設計、ブックデザインを手がける。論文に『コム デ ギャルソンのインテリアデザイン』など。
◎構成:池田明季哉、中野慧
■六本木には「カッコよさ」が必要だ――文化を更新するために
宇野 今日は「これからのカッコよさの話をしよう」ということで、ごく私的に声をかけてお二人に集まってもらいました。なんでいきなりこんなことをはじめたかという話からしたいのですが、きっかけは先日僕が登壇したイベントのあるパネラーの発言です。それはどんな発言かというと、「身体自体を鍛えるのが真のオシャレであり、自分の身体さえしっかり鍛えていれば着るものはなんでもいい」というものなんですよね。
僕はこの発言を耳にしたとき、正直愕然としたんですよ。その人は「痩せっぽちな人間や太った人間がどんな服を着ても似合わない」とか言うわけですが、それってほとんどナチスの五体満足主義と変わらない。自分が障害をもっていたり、健常者でも60代や70代になって筋力が落ちてきたら絶対にそんなことは言えないと思うんですよね。こんな発言が「リベラル」を自称する知識人から出てしまったことに、軽いめまいがした。
そしてもうひとつ。この五体満足主義的なナルシシズムは文化的にあまりにも貧しい発想なんですよね。だってどんな体形の人間でも工夫次第でカッコよく、かわいく、あるいは気持ちよく過ごせるということがファッションの本質だし、それがなければファッションというか、文化自体が無意味なはずでしょう。でも、その場ではみんな「なんていいことを言うんだろう」みたいに頷いていた。それを見て、これは本当にどうにかしないといけないと思ったんです。
最近、僕は自分のお客さんが、比喩的に表現して中央沿線や代官山、中目黒といった東京西部と六本木が代表する都心のど真ん中、どちらにいるのかをすごく考えているんです。中央沿線や代官山というのは、戦後的な中流文化の、とくに90年代以降の「文化系」の象徴ですね。こうした東京西部の「いい街」には戦後的な文化が残っているけれど形骸化して久しい。仕事ができない編集者ほどゴールデン街で飲みたがる。「本や映画が好き」なんじゃなくて、「本や映画が好きな自分が好き」なだけな人たちですね。
対して六本木側に集まっているのはITや外資など、この二十年優秀な人たちがどっと流れ込んでいったジャンルが強い。彼らは、地頭が良くてポジティブで学習意欲も高くいけれど、壊滅的に話がつまらない(笑)。学習意欲も高くて、セミナーや勉強会が大好き。とにかく「自分のパフォーマンスを引き上げる」ことには一生懸命だけど、引き上げたパフォーマンスで何をやっていいかわからない。なんでそうなるかというと、彼らは効率化が得意だけれど、文化がないからですよ。
そしてあの日、例のイベントで例の五体満足主義発言にうんうん肯いていたのは、見事にこの六本木クラスタだった。要するに、自分の外側に大事なものがない空疎なナルシシストは、あっさりと五体満足主義的な差別者になってしまうってことなんですよね。
実は僕が東京で7-8年活動して出した結論は、自分の読者層としてはとりあえず後者に賭けようということなんです。前者は底に穴の開いた洗面器のようなものなので、いくら水を注いでも意味がない。だから今は文化的に貧しくても、後者の高い学習意欲に応えようと思って、そのイベントも意図的に六本木系が集まる場所とパッケージングで開催したのだけど、彼らが単に文化的にスカスカなだけじゃなくて、諸手を挙げて、先述したような排他的なナルシシズムに結びついてしまうことがわかって、正直ぞっとしたんですよね。
少し解説を加えると、六本木的な、あるいはその参照元のアメリカ西海岸的な文化というのは、計算で設計主義的に「良い生き方」や「正しいあり方」を規定できると考えているところがある。でもそんなことは本当はありえなくて、究極的にはオカルトと結びついてしまい、五体満足主義や優生思想と結びついた危険なイデオロギーに至ってしまう。これは彼らのルーツにニューエイジ思想があるから。ニューエイジというのは要するに疑似科学で複雑化して拡散した社会の全体性を記述できる、という発想ですからね。それがテクノロジーを根拠に「よい生き方」を規定できるという発想に結びついている。先日のイベントでの五体満足主義への支持も、これに近いものがある。
ただ、こういったものに対抗する言論として「文化というのは計算不可能なものだ」「計算不可能な他者に出会うためにリアルに回帰せよ」という東京西部的なアナログ懐古主義は頭が悪すぎる。どう考えても、この10年余りのデジタル文化はアナログな人間のコミュニケーションや自然環境を究極の乱数供給源としてむしろ積極的に利用することで、文化的多様性を育んで発展しているわけでしょう? アナログとデジタルがむしろ結託している今、東京西側的な考え方に戻っても意味がない。
問題はむしろ、現代のデジタル文化がもつ文化的な多様性を、西海岸カルチャーを歪めて受け取った六本木の意識高い系たちがきちんと消化できずに、五体満足主義に傾いて文化を否定する方向に傾いていることだと思うんですよね。
浅子 僕は「効率を求めること」自体は間違っていないと思うんです。実際にそれで豊かになるということもある。でも計算可能であるというスタンスのどこかに、自分はこれが好きだとか、カッコいいと思えるものがないと、結局は保守的なものに回帰してしまう。すごく古い肉体的な価値というか、たとえば「顔が男前なやつがかっこいい」といった観念に囚われてしまう。僕は宇野さんの言うニューエイジ的な考え方が、保守回帰に繋がるのが怖いんですよね。そうなると文化的にも面白くなくなってしまうから。
宇野 一応、断っておくと僕は六本木系のスタイル、つまりシンプルで効率的なライフスタイルの美学というのはよくわかるんです。僕自身、いつも夏はTシャツと短パンで過ごしているし、その服も基本的には無印良品とユニクロとH&Mでしか買わない。それも安いからではなくて、飾り気のない、シンプルなデザインのものが好きだからですしね。交通事故にあってやめてしまったけれど自転車ももともと好きだし、生で食べてもおいしい野菜を取り寄せて食べるのも大好きで、そういった生活を気持ちがいいと思っている。ただその美学を肯定するロジックが、身体論というマジックワードを盲目的に振りかざす五体満足主義や優生思想しかないというのは、非常に問題だと思うんです。もっとそういったシンプルライフを、カッコよさとか、気持ち良さの次元で肯定する言葉が必要なんですよ。つまり「(身体を鍛えることこそが究極のおしゃれなので)ユニクロでもいいんだ」というのではなく、「(シンプルな)ユニクロのデザインがカッコイイんだ」という論理じゃないといけないと思う。実際に、僕はそう思っているし。
門脇 いまの話は時代的な位置付けも踏まえて理解した方が良いんでしょうね。いまのカジュアルとかつてのカジュアルはだいぶ違った状況に置かれていると感じます。かつては「フォーマル」というものが厳然として成立していたからこそ、敢えてカジュアルな格好をすることがカッコ良かった。でも今は、「絶対にフォーマルな格好をしなくてはならない」という場面がどんどん少なくなっています。現在のユニクロ的なるものの隆盛は、「フォーマルが瓦解している」という状況とも関係しているのではないでしょうか。
浅子さんは、スーツはあと十年以内に滅びるってよく言っていますよね。「滅びる」というのは比喩的な表現だとは思いますが、スーツを着なくてはならない場面が極端に少なくなるだろうことは間違いない。スーツはある意味での様式であって、「クールビズ」といった考え方に代表されるように、それを着ることが必ずしも合理的ではないからです。シンプルライフ的な志向は、スーツのような封建的でフォーマルな形式から「より合理的に、自由に生きよう」というマインドへとシフトしたことによって起こっている側面があるのは間違いないと思います。「ノームコア」(※ノーマル+ハードコアという意味の造語。スティーブ・ジョブズの「いつも黒のタートルニットにジーンズ」というスタイルに代表されるような、極めてシンプルなファッションのこと)のような、シンプル・イズ・ベストを極端に進めたトレンドの存在もそうした流れの上にあるのでしょう。でも、それは宇野さんが指摘するように、優生学的な流れに合流しかねない危険も孕んでいる。一方でモード・ファッションでは、「ありのままの身体」を肯定する動きが主流で、「理想的な身体」を仮定することに警鐘を鳴らすような試みが常にありましたよね。
浅子 有名な話ですが、コム・デ・ギャルソンの服に、瘤(こぶ)のついたドレスがあったんです。囚人服みたいで背中や腰に瘤がついているんだけど、ドレスになっているというもの。あとは背の低い人やおじいちゃんのモデルを使ったりもしていました。それ以外にも当時アヴァンギャルドと呼ばれていたファッションブランドは、普通だったらファッションの俎上に上がらないような肉体に対して美を見出す方法論を構築していた。でも今は、そういった流れがスコーンと全部抜けてしまっていますよね。
▲コム・デ・ギャルソンの「こぶドレス」
出典
http://munstylisti.jugem.jp/?month=201101
門脇 今はモードの影響力が小さくなっているように感じますね。
浅子 売れなくなってしまったんですよね……。だから結構いろんなことが重なってこういう状況になっている、というのはあるかもしれません。
僕は最近、インテリアツアーというのをやっているんですよ。そこでいろんなお店を一年間くらい見て回りました。高級なアパレルブランドや、高級な家具屋さんも見に行ったのですが……90年代やゼロ年代の初頭に比べると、全然お客さんがいないんです。こういった場所も、それこそスーツと同じように、20年くらいでほとんどが市場から退場してしまうんだろうなと肌で感じました。
宇野 昔だったらボーコンセプトで買わなければいけなかったものが、全部イケアとニトリで買えるようになってしまいましたからね。
浅子 しかもイケアとニトリの商品がそれほど粗悪なものかというと、そうではない。確かに比べればモノとしては高級な家具屋さんの方がいいけれど……。
宇野 価格が1/6とか1/8ですからね。
浅子 そう、だからそれはそれで構わないのではないか、というのも一方ではあります。でも自分の好きな文化ですからね。以前はそういうお店のダメな所を見ても「こいつらダメだな」と言っていられたんですが、今はこのままだと本当に滅んでしまうという危機感が強くて、どう守るかという方に考えが反転しています。
▲ニトリの家具
出典:公式サイトより
■空虚なパロディとしてのカフェ風デザイン――FABが作るべき未来
浅子 あと、つい最近、「インテリア特集」という小さな冊子を作ったんです。その序文に、90年代以降のインテリアデザイン、特にブティックのデザインについて書いたんですが、インテリアデザインの流れを90年代から整理してみたんです。
まず90年代の最初は、80年代のバブルやポストモダンへの反動からミニマルが流行りました。今も建築家として活躍しているジョン・ポーソンの作品や、カルバン・クライン、ジル・サンダーのような、線が少なくてシンプルなデザインが流行したんです。
それが90年代の半ばから大きな変化があるんです。ミレニアムという世紀の変わり目であることから近未来的でフューチャリスティックなデザインが求められたことに加えて、90年代の不況がITバブルなどの影響で回復したこと、さらにそこに大流行したミニマルの反動で少し面白いデザインが欲しいという流れが合流して、90年代半ばから2000年代の半ばにかけて、すごく多種多様な面白いデザインのブティックが一気に出てくるんです。フューチャー・システムズが手がけたコム・デ・ギャルソンのインテリアもそうだし、ルイ・ヴィトンもそうだし、ヘルムート・ラングもそうです。
なぜ急にブティックのインテリアデザインが多様化したかというと、やはりインターネットの登場が大きかった。それまでブティックというのは、実際に足を運べる人だけが見られるものでした。でもインターネット以降は、ブティックを作るとそれがプレスリリースや雑誌やオンラインの記事になって、写真がその日のうちに世界中で見られるようになった。だから空間を作ることそのものが、そこに行ける人だけでなく、そこに行けない人たちへの広告にもなるようになったんです。だから各メゾンはこぞって大きな投資をして、自分のブランドの価値を上げるためにいろんな実験を行った。
でも悲しいことに、2001年に9.11が起きてしまった。非常に社会が不安定になり、旧来の価値が破壊された結果、反動で価値観自体が保守化してしまうんです。さらにリーマンショックなどで景気が悪くなったこともあって、雑多な多種多様なデザインというものを、だんだん許容することができなくなっていく。だから2003年くらいまではすごく面白いのに、ゼロ年代後半にかけてインテリアデザインは不毛の時期を迎えて、すごくつまらなくなっていくんですよ。
門脇 それはファッションそのものの流れとも連動しているんでしょうね。同時多発テロ以降のファッションは、「安心感を求める人々の心を反映するように、天然繊維、手仕事への傾倒、あるいはTシャツを代表とする合理的な定番服など、人々の見慣れたファッションを提示し、ファスト・ファッションと呼ばれる合理性に基づいた安価なコピー服を世界規模で広げた」という指摘もあるようです(※新居理絵「ヘルムート・ラングとその創造的世界」(『ドレスタディ』Vol.56)参照)。
浅子 そうなんです。ではその流れで今のインテリアデザインを見るとどうか。街を見て貰えればわかると思うのですが、Tシャツやチノパンと共に食器を売るような、「ライフスタイルショップ」というのがすごく増えています。でもそれらのインテリアのデザインは、躯体を残して仕上げを剥がし、足場板をどこかに貼って、手描きの金文字のサインをガラスに書き、最後に工場で使われていたようなアンティークのスチールのペンダントライトをぶら下げて終わり、みたいなものばかりです。結局これらは全て、「輝いていた50年代のアメリカを取り戻そう」というパロディで、本当にパッケージが保守化しているんです。そういうことがブティックやカフェで同時に起きている。これは価値観自体が新しくないし、さすがに不毛だと思います。
門脇 日本の今の流れも長引く不況や東日本大震災から来る保守化の流れに位置付けられるのでしょうか。
浅子 この先10年くらいこれが続くと思うと、デザイナーとしては正直うんざりしますね。
宇野 荻上直子監督の『かもめ食堂』の世界ですね。言わば「北欧おばちゃんニューエイジ」というか……。なんだろうなあ、僕自身はスローフード的な暮らしはすごく憧れる。でもあの映画を支配する強烈なイデオロギーというか、無言の排他性がどうしても苦手で……。ライダーキックで破壊したい(笑)。
浅子 でもあれが中目黒とかでは強いんですよ。まさにああいうカフェが山ほどありますから。
門脇 カフェ風というか、ああいった自然素材や古びたものを適当にパッチワークしていくものって、すごくまずいと思うんですよ。
あるとき赤坂の草月会館であった建築界の重鎮たちのパーティに呼んでもらったことがあったんですが、それがすごく80年代的な空気だったんですよ。天井はミラー張りだし、カウンターにはシャンパンが注がれたシャンパングラスがきれいに並んでいるし、「ああ、バブルってこういうことだったのか」みたいな感じ(笑)。
でもそのスタイルが、すごくかっこいいなと思ったんです。もちろん今の時代とは感覚がズレています。でも、そこには彼らの世代が何をカッコイイと思っているのかがしっかりと表象されている。それは空間のデザインばかりでなく、来ている人のファッションや、パーティでの振る舞いなども含めて、あるトータリティを持っていて、「人はこうやって生きるのがカッコイイ」という人生観というか、哲学のようなものを感じさせるものでした。だからああいう空間を含めたトータルなカッコよさを、僕たちの世代が残せないと負けだなと思いました。そう考えたときに、古びたもので安心してしまうのはまずいだろうと。
浅子 そう、だから今こそ「これがカッコいいんだ!」というものが必要なんですよね。
僕がいますごく重要だと思っているのが、80年代に活躍したフランス人のフィリップ・スタルクというデザイナーです。彼はホテルのインテリアデザインなどを手がけたのですが、僕は彼のやったことの本質って「デザインの民主化」だったと思うんです。
スタルクの手がけたインテリアデザインがどのようなものだったかというと、ものすごく大きい4mくらいあるようなわざとらしいぐらい豪華な鏡を立てかけるとか、必要ないくらい大きなドレープのカーテンをぶら下げてみるとか、あるいはそれまでは同じ椅子を並べるのがセオリーだったホテルのロビーに、全て違うデザインの椅子を並べる、というようなものだったんです。そこでは世界各国の有名デザイナーの椅子と、土産物屋で買ってきたような椅子が等しく並べられていた。
インテリアデザインというのは、突き詰めると、どうしてもどこかで権威的になってしまうものです。でもスタルクはその価値を転倒させて、民主化しようとした。そういった意味で、すごく重要な役割を果たしたデザイナーです。
これを踏まえた上で今後のことを考えると、デザイナーの役割が見えてくると思うんです。今、レーザーカッターや3Dプリンターの普及によって、FABと言われるようなムーブメントが流行していて、デザイナーでない一般の人たちが、自分でモノを作れるようになっている。これはスタルク以降のデザインの民主化の流れにある運動だと言える。この流れは止められないし、今後の大きな流れのひとつになるのは間違いない。でも、一般の人たちというのは、ともすると「これがカッコいい」という思想がないまま、例えば雑誌で見たものをそのまま作ってしまうので、価値観の転倒どころか逆に保守回帰してしまう。これは非常に問題です。だから今こそ「一般の人たちがカッコいいと思えるようなもの」を、デザイナーは作らないといけないんじゃないかと思うのです。
▲スタルクによるインテリアデザイン
出典:Stark.com
■「もしデザイナーズブランドとユニクロの服が同じ価格だったら、ユニクロを買う人のほうが多いのではないか?」
宇野 さっきも言ったけれど、僕はユニクロや無印良品、H&Mをなぜいいと思うかというと、そこに美学を感じるからなんです。ファストファッションは効率化と最適化の産物だと思われているけど、当然そこに実は美的なイデオロギーが存在する。ファストファッションをデフレカルチャーの一端として切り捨てるのではなく、その明確な思想に基づいたデザイン自体をしっかりと分析することが必要なんじゃないかと思うんですが。
門脇 まず無印良品に関して僕の雑感を言うと、男子のファッションはきれいめなお父さんスタイルという感じで、まったく惹かれません。でも女子は意外といい。ファッション雑誌でいうと90年代のオリーブ・anan系の価値観を色濃く受け継いだような感じがして、ある種のコスプレとして成立している。無印好きそうな女子のスタイルって想像できますよね? ちゃんとスタイルになっているんです。
宇野 無印良品には、高度消費社会に対してこれくらいの中距離で行きましょう、という明確なメッセージがありますよね。あの白と黒とネイビーしか使わないデザインが、そうした強力なイデオロギーに基づいていることは誰の目にも明らかです。あれは非常に分かりやすいでしょう?
無印良品だけではなく、ユニクロにもそういったイデオロギーがあると思うんですよ。だからデザイナーの固有名詞で語るようにユニクロを語ることだってできるはずなんです。そういった視点を持てずに、デザイナーズブランド対ファストファッションみたいな問題の立て方をしてしまうところに弱さがあるのではないか。
浅子 ただ、一応言っておくと、ファストファションについては剽窃、パクリの問題がありますよね。あるファストファションはコレクションでめぼしいものをピックアップして彼らが売る前に店頭に出してしまうというのも言われています。これは流石に問題です。
また、ユニクロはTシャツとかフリースとか、どちらかというと生活必需品に近い、生活に必要な洋服で売り上げを伸ばしたブランドというイメージはありますけどね。だからカラーバリエーションがあるということ自体が圧倒的に重要で、必要なものしか買わない人たちにも色を選ぶという意味でファッションに必要な喜びを与えたからすごく成功した。
宇野 色の問題一つとっても、ユニクロにせよH&Mにせよ、日本だとそれまでスポーツウェアとかアウトドアウェアでしか使わないようなのような蛍光色や派手な色を取り入れているわけでしょう? 単に安いからではなくて、僕はユニクロにしかないものを求めているつもりなんですよね。色合いだけじゃなくて、デザインや着心地にも同じことが言えるんじゃないかと思う。要するに固有名詞のデザイナーが、ユニクロのデザインに、単に勝てていないだけなのではないでしょうか。実は同じ価格でもユニクロを買う人が結構いるんじゃないかというのが僕の仮説です。ユニクロのデザインも、単にデフレジャパンのスカスカのものとしてではなく、イデオロギーとして支持されているんですよ。
門脇 僕は服を見るとき発色とかをけっこう気にする方なんですが、ユニクロはよく見るとかなり独特の色使いをしているせいだからなのか、そんなに気にならないんですよね。
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「未来の跡地を歩く――2020年オリンピック施設探訪」山梨知彦×門脇耕三×宇野常寛 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.104 ☆
2014-07-01 07:00
「未来の跡地を歩く――2020年オリンピック施設探訪」山梨知彦×門脇耕三×宇野常寛
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.7.1 104 vol.104
http://wakusei2nd.com
本日のほぼ惑は、『建築ノート』の第10号(2014年4月1日発行)に掲載された、山梨知彦×門脇耕三×宇野常寛による2020年オリンピック施設の探訪記です。3人がそれぞれの立場から思い描く、未来の東京のビジョンとは――?
建築界は2020年のオリンピックの話題に揺れている。しかしトピックといえば新国立競技場のコンペをめぐる堂々巡りが続いているのみ。1施設のダメ出しに終始するばかりじゃなく、まずビジョンだろ!
……と、2014年も明けたばかりのある日、大手建築設計事務所の山梨知彦とサブカルの論客・宇野常寛、建築学者・門脇耕三の3人が、2020年のオリンピック開催予定地をフィルドワーク。
ネットワークの進化にともない、都市に求められる機能はどう変わるのか。インフラからライフスタイルまで、東京の都市の将来像を語り合った。
※本記事は抜粋です。写真付きの全文は、『建築ノート』本誌で読むことができます。
▲『建築ノート』No.10(2014年)誠文堂新光社
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U40的オリンピックのデザインを提案!
ケンチクのメイキングマガジン『建築ノート』NO.10
東京五輪から考える 2020 NEXT TOKYO NEXT JAPAN
誠文堂新光社 1,800 円+税
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▼プロフィール
山梨知彦〈やまなし・ともひこ〉
1960年東京生まれ。東京藝術大学、東京大学大学院を経て日建設計。同社執行役員、設計部門代表。主要作に「木材会館」、「ホキ美術館」、「ソニーシティ大崎」など。オリンピック関連施設の設計にも関わる。
門脇耕三〈かどわき・こうぞう〉
1977年生神奈川県生まれ。東京都立大学(現・首都大学東京)大学院修士課程修了。同助手、首都大学東京助教を経て2012年より明治大学専任講師。建築に関する研究・設計・技術開発に関わる。博士(工学)。
◎企画・構成:ぽむ企画
│10:00│
■国立競技場前:都市の課題を解決せよ!
宇野 今日は結構人が集まってますね。バレーボールの大会でしょうか。僕、ここに来るのはじめてです。まったく縁がないですね、スポーツに興味ないから。
山梨 僕もオリンピック施設の設計に関わってはいるけど、実はスポーツには無関心。
門脇 このメンバーの共通点は、オリンピック競技自体には興味がないけど、オリンピックには関心があることですね。でもこの場所で僕たちは異質で、いま集まっているのはスポーツに興味がある人だけ。都心で駅にも近くて便利な場所なのに、周辺と縁が切れている。
宇野 僕がこういう場所に来るのって、AKBの握手会くらいですよ。でも握手会って普通に7、8万人が集まるから、都心の大箱って貴重。
山梨 え、そんなに来るんだ? でもスポーツ界でも大箱を求める声はある。たとえば東京には8万人規模のサッカースタジアムがないけど、ロンドンなんかは3つある。だからサッカーファンの間では大きいスタジアムがひとつぐらい東京にあってよいという意見がある。
宇野 握手会に参加するのって大変なんですよ。半年前から予約しないとならない。ちょうどいい箱がないというのも要因のひとつで都内の大箱が少ないから、握手会の日程がどんどん先送りになっている。
山梨 オリンピックとか握手会のような人が集まる場所では、チケットのもぎりを設けるのがこれまでのセオリー。でも今さらもぎりじゃないでしょう。たとえばPASMOみたいなプリペイドカードを使うのかもしれない。サンフランシスコは「Clipper」という交通機関でも文化施設でも使えるカードができ、旅行客にとっても劇的に便利な街になった。PASMOを使えばインセンティブを使って、特定マストラへの人員誘導すらできる。そういうところを意識して施設計画をしないと。
門脇 以前、宇野さんに新国立競技場に関する建築界の議論を紹介して、なぜ施設単体の是非ばかり論じているの? という話になりましたね。
宇野 僕は新しい競技場ができて代々木というまちがどうなるのか、都市計画や文化がどうなるのかという話をしないといけないと思うんです。なのにマンションの日照権レベルの話しかしていない。
山梨 オリンピックという機会を都市の課題の解決に使うべきなのに、コンペの責任論やデザイン論にのみ陥っているね。たとえば、デザインオリエンテッドなコンペでは、予算超過はよくある話ですよ。予算1300億円と示してコンペしたら、2600億円のものが出てくる可能性を想定しておくべき。選定後は社会情勢に従い、賛同の声が大きければ予算を増額し、小さければ案を軌道修正をして予算に落着させる。むしろそれがコンペかもしれない。
│11:00│
■代々木→湾岸:二周目のオリンピック
門脇 こんなに表参道や原宿に近いのに、ぜんぜん代々木競技場側に人が流れていない。
宇野 スポーツ観戦の後に表参道へ、みたいなコースが確立されていないんですかね。
山梨 人の動きのきっかけを生み出すものとして、SNSやPASMOなどが存在感を増している。ITとつなげないとオリンピックのグラウンドデザインは上手くいかないと思う。
宇野 もう都市空間から文化が出てきていないんですよね。裏原宿が最後です。その後は、魔法のiらんどからケータイ小説、ニコニコ動画からボーカロイドというふうに、ネットコミュニティから出てきている。秋葉原も、実はメディアで広がったブームに都市が後から合わせた感じです。AKB劇場が誕生したのも『電車男』の後です。都市や地理が文化を生むのではなく文化が都市を決定している。オリンピックに向けて都市を設計するなら、ネット以前の感覚では意味があるものはつくれない。
山梨 カルチャーが先行し、都市が追従する現象を踏まえるのは重要ですね。オリンピックもロス五輪以降はメディア先行で施設が追いかけるやり方になっている。
宇野 ロンドン・オリンピックでもほとんどの人は競技場には行かず、スポーツバーで盛り上がっていたそうです。メディアが文化消費の回路を変えて、それに対応して都市が変わる流れが自然発生している。都市開発はそこを織り込んで考えないと。
山梨 僕は64年の東京オリンピックのようなものを一周目のオリンピック、2020年のようなものを二周目のオリンピックと名付けている。ハードウェアをつくって高度経済成長に乗せるのが一周目。テーマが明確で力強く、国民も同じ方向を向く。で、二周目なんですが、それに近い性格のロス五輪は、既存の施設の再利用を謳い金銭的な負担をあまりかけないコンパクトなオリンピックをやろうなどと言っていたんです。それが不思議な方向に先鋭化し、金権オリンピックという悪しきレッテルが貼られてしまった。ロンドンも大成功だったと言われているけど、何がテーマなのか今ひとつ見えないものになってしまった。今度の東京では、成熟した都市としての新しいテーマを標榜しないとまずいと思う。
宇野 去年ロスに行ったけど、まったくオリンピックの爪跡を感じさせない都市でしたね。北京は一周目だから開き直って演劇的なオリンピックで、ロンドンはおそらく映像演出に主眼を置いた。東京は、やるなら情報社会化のオリンピックですよ。映像もただ観客受けを狙うのではなく、いかにインタラクティブに参加できるものにするか。
山梨 建築側はついハードウェアですべてを解決しようとする。でも僕らはネットワークというフローを手に入れたのだから、それを踏まえた施設計画をしないと意味がない。
宇野 誰もが今より精度の高いグーグルマップを持っている前提では、ハードウェアでやれることはかなり減る。たとえばおいしいものを食べに行きたいときは、食べログ見てピンポイントでタクシーで乗り付けますよね。「人形町にあるすき焼き屋とその文化的背景」とか、お客を呼ぶ方はアピールしたいんだろうけど、ユーザーには関係ない。まち並みや都市空間の意味は薄くなっています。その状況で仮に代々木をスポーツ文化の街につくり変えようとするなら今の発想ではだめ。立地を生かし、都市空間に雑多な人種が集まった状態を再生するなら、バレーマニアがバレー観て帰っていくという現在の状態は非常にまずい。
山梨 今、経路選択をコンピュータが自動的にスイッチングし、一番空いているところに人々を誘導するとかできるわけです。同じようにPASMOのようなカードを使えば、既存のインフラを最大限に効率的に使った人員誘導をすることだってできる。ICTと連動した人間のフローを踏まえた都市やインフラの構築は、可能性があると思う。
門脇 コミックマーケットの時にビッグサイトに向かう人々の列はさながら現代の巡礼のようで、そんな光景を捉えた荘厳な写真をSNSで見たことがあります。
山梨 人々の行動を現代的な巡礼に見立てるとすると、施設がディスクリートに置かれていても、ICTによるネットワークで適切につなげば、人はそこを起点に動くはず。次の東京オリンピックの都市計画では、このくらい状況を見越したビジョンを描けないと面白いものにならない。
宇野 (丸の内、皇居のお堀端近くの建物を見て)あれ、ニッポン放送です。毎週金曜日、こんなところまで来ているんですよ。オールナイトニッポン0という、昔の「2部」にあたる枠でやってるんです。
山梨 僕が10代の頃にあった枠と同じだ。へえ、ここから発信しているんだ。
門脇 宇野さんのイメージと全然違う街。
宇野 でも渋谷や中目黒より許せる。人間は10歳年上のお兄さんがしていることが苦手だからちょっと昔のポップカルチャーは嫌なんだけど、ここまで枯れた場所だとニュートラルに感じられる。
門脇 この前、ラジオでオリンピックの話をしたそうですね。
宇野 放っておくとオリンピックはオールドタイプの人の思い出を温めなおすだけに終わってしまう。だからオリンピックをいかにハッキングするかが大事だと話したんです。メディア関係の人たちは、オリンピックが来たから2020年まで生き伸びられると胸をなでおろしている。でもそんな単純な話ではないと思う。
山梨 下り坂の日本を象徴しかねないね。
門脇 僕は問題の先送りが一番怖い。震災と原発の問題を決着させるべきオリンピックのはずなのに、逆に目くらましに使われそうで。
宇野 都市部のインテリの若い人たちは冷ややかですよ。ネットでも冷ややかな反応が多い。けど、それでいいと思う。重要なのはそういったバラバラな、成熟社会下のオリンピックをどう描くかだと思う。
山梨 成熟した都市のオリンピックのあり方って、ロンドンもロスも描けなかったことですよね。
宇野 実は僕、ロンドンオリンピックの競技は一秒もみてないんですけどね。
山梨 実は僕も。
宇野 ある程度成熟した社会では、オリンピックだからといって国民全員が関心を持つとかありえないし、それで今の日本で社会を統合する必要もない。それよりもどう利用して面白いことができるかを考えないといけない。で、僕は文化祭をやりたいんですよ。たとえばパラリンピックって規模が小さめだから、オリンピック期間は使えない施設も使えたりするんじゃないかと思う。オリンピックが東京ビッグサイトを使う影響で変則開催にせざるをえないコミックマーケットは、超ビッグコミケにして5日間くらいやるとか、パリで盛り上がっているジャパン・エクスポを東京開催してみるとか、普段春にやるアニメショーやゲームショーを夏にしてみるとか。で、日本に2週間いたらサブカルチャーが全部わかるようにすると。
山梨 面白い! 現在は価値観が多様化し、それぞれのネットワークが多元的に存在するわけですよね。はじめてそれらを重ねてみる機会になると。
宇野 同じ会場でも、昼は陸上競技をしているけど、夜はアイドルのコンサートをしているとか。情報テクノロジーを利用したら多少複雑なプログラムも実現できると思う。そうしたら2020年なんてケッて思っている僕みたいなやつも熱くなれる。
門脇 宇野さんと一緒に、オリンピック裏文化祭のシミュレーションをしようという話をしているんです。目的的にできている都市構造をどのように読み替えられるかと。最終的には2020年にひとつでも実践に移せればと思っています。
│12:00│
■有明:文化の中心は「東側」に
山梨 このあたりは、なんというか地の果て感がある場所だね。64年の頃にはできていた埋立地なんだけど。
宇野 こういうところをスポーツエリアとして開発して外国人を呼ぶとか、全然ピンと来ないです。海外向けの観光開発を考える上で、なぜあえてスポーツなのか。
門脇 競技施設を大箱と捉えれば、この地区の希望になる部分もありそうです。
宇野 現代の大箱イベント化の傾向にハードが対応できていないから、そこは大きい。
山梨 僕、今日の話を聞くまで新国立競技場はスポーツ施設として使えばいいと思ってたの。でも握手会に7、8万人が集まると知って、新しい世界が開けた。
宇野 少ないと言われる規模で5万人とか集めるんですよ。冬の寒い日でも。
門脇 箱の内部はよいとしても、街路には魅力が薄いですね。学生時代、デートでこのへんにテニスを見に来てまったく盛り上がらなかったんですが、あれは街のせいだったのではないかと。
山梨 確かにここは会話は弾まなさそう。
門脇 90年代の有明はそういう寒い場所になっていたんですが、次のオリンピック開発が二の舞にならないように、箱の中の祝祭性が外部に表出するような街のあり方が課題でしょうね。
山梨 2016年の誘致の時も湾岸開発がひとつの焦点で、さっきの選手村のあたりがメインスタジアムの予定地。その時は木造にする、緑を入れるといった建築っぽいコンセプトがあったけど、今回はゾーニングしかない。ヘリテッジゾーンと東京ベイゾーンの役割分担もない。
門脇 グローバルシティとしての競争力を増すための湾岸開発は東京都の積年の夢。だから何度も取り沙汰される場所ですね。
山梨 でも都市とネットワークとの連携を描くには今回はすごくいいタイミングだと思う。PASMOのようなシステムがここまで普及している国ってあるの?
門脇 日本は早いし、普及率も高いです。
山梨 コンビニでものが買えて何にでも乗れるカードなんてほぼないですよね。オリンピックのチケットは、カードへのチャージがなされるような状況になると思う。
門脇 記名PASMOのような形式にすればセキュリティもOKになりますね。
山梨 PASMOを使えば、都市計画で行うOD調査がリアルタイムでできるわけでしょ。これまでとは全然違う人員誘導計画ができるし、そこで得られる情報は世界的にもすごい価値をもつ。
宇野 政府はこのあたりを観光地として開発して外国人にお金を落としてもらいたいのか、郊外の21世紀版として人に住まわせたいのか、どちらなんでしょうね。
山梨 曖昧なんじゃないですか。ビジョンがないからお金の使い方が無駄に見える。
宇野 ヘリテッジゾーンとベイゾーン、つまり旧市街と新市街に中途半端に分けているのはどういう意図なんだろう。それなら湾岸を独立させた方がいいでしょうね。羽田と成田が直結されて千葉と神奈川のヤンキー文化圏が結びつき、アイドルのコンサートもやる、超高層にはアッパーな人も住むというめちゃくちゃハイテンションなバランスの都市が実現すると。
山梨 そうか、サブカルチャーシティなんだ。それに比べると今のオリンピック計画は健全すぎて面白くないね。
門脇 東京には長らくハイテンションなアーバニズムが生まれていないので、あってもいいし、あるべきだと思うんですよ。
山梨 歌舞伎町、渋谷、原宿と、各時代にあったマッドネスな場所が今はないよね。
門脇 いま東京で、新しい場所で人を呼べるものって何?
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「2020年に東京は旧市街と新市街に分裂する」 ――五輪の生むデュアルシティをハッキングせよ! 建築学者・門脇耕三インタビュー☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.026 ☆
2014-03-10 07:00
「2020年に東京は旧市街と新市街に分裂する」
――五輪の生むデュアルシティをハッキングせよ!
建築学者・門脇耕三インタビュー
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.3.10 vol.026
http://wakusei2nd.com
「東京都は新旧文化の対立の時代へと向かう」今回のP9プロジェクトチームインタビューは気鋭の建築学者・門脇耕三さんです。招致委員会が提出した2020年『オリンピック計画』を読み解き、東京と建築の未来像を語ってもらいました。
【PLANETS vol.9(P9)プロジェクトチーム連続インタビュー第3回】
この連載では、評論家/PLANETS編集長の宇野常寛が各界の「この人は!」と思って集めた、『PLANETS vol.9 特集:東京2020(仮)』(略称:P9)制作のためのドリームチームのメンバーに連続インタビューしていきます。2020年のオリンピックと
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