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  • 月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」1月12日放送書き起こしダイジェスト! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.243 ☆

    2015-01-19 07:00  
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    ▼今月のおすすめ記事
    ・『Yu-No』『To Heart』『サクラ大戦』『キャプテン・ラヴ』――プラットフォームで分かたれた恋愛ゲームたちの対照発展(中川大地の現代ゲーム全史)・リクルートが儲かり続ける理由――強力な3つのループが生んだ「幸せの迷いの森」 (尾原和啓『プラットフォーム運営の思想』第6回)・1993年のニュータイプ──サブカルチャーの思春期とその終わりについて(宇野常寛)
    ・駒崎弘樹×荻上チキ「政治への想像力をいかに取り戻すか――2014年衆院選挙戦から考える」
    ・"つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)
    ・宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ




    月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」1月12日放送書き起こしダイジェスト!

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.19 vol.243
    http://wakusei2nd.com


    大好評放送中の、宇野常寛がナビゲーターをつとめるJ-WAVE「THE HANGOUT」月曜日。毎週月曜日は、前週分のオンエアの書き起こしダイジェストをお届けします!

    ▲前回放送はこちらでもお聴きいただけます!
    シェア・ザ・ミッション 今週のテーマ:「ハタチの頃」
    宇野 J-WAVE「THE HANGOUT」ここからは各曜日のナビゲーターが毎週共通のテーマを語る、非常に読みにくいタイトルのコーナーですね(笑)、「シェア・ザ・ミッション」のコーナーです! ちゃんと言えました! はい、今週のテーマは「ハタチの頃」。
    いやー、「ハタチの頃」ねえ。僕はね、結構普通のダメなやつでしたよ。ちょうど浪人していて、だいたい大学入るくらいの年ですね。あんまり世の中の事に興味が持てないし、頑張っても良い事があるようにも思えなかった時期っていう感じでしたね。で、そのことに特に疑問もなくて、わりかしテキトーに、「自分の趣味を追求していればいいや」って、そんなことくらいしか考えてなかったと思います。いわゆる「(一人)ぼっち」っていうタイプではなくて、テキトーに大学で見つけた仲間達とテキトーにつるんで、楽しくやっていましたね。一番の関心事といえば効率よく娯楽を消費することで、部屋でケーブルテレビを見ながらゴロゴロしている時とか、安くて美味しい定食屋を見つけた時が一番幸せでした。
    あの、僕本当に特に語るべきことのある学生ではなかったですよ(笑)。そんなに変わったこともやっていないし。でも、特に不全感はなかったんですよ。毎日が辛くてやりきれないとかそんなこともなくて、まあそれなりにコンプレックスみたいなものも抱えていたと思いますけど、そんなに悪くない生活だなってことも思っていましたね。というか、そもそもそこまで自己評価みたいなことを真剣に考えてもいなかったですね。わりと、どうでもいいと思っていました。以前も話しましたけど、僕が大学4年間で一番時間使ったのって、ゲームの『三国志7』なので。そういった人間が当時の思い出を語れと言われても、「意外と馬騰でプレイするのとか楽しいよ」とか、そういう話しか出てこないですよ。「みんな、劉備や曹操でプレイするのが好きだけど、馬騰とか袁紹とかでやるのも悪くないよ」とか、そういう話ですよね、学生の話で僕ができるのは。
    それで、そんな感じがなくなってきたのは就職してから、25,6歳の頃ですかね。
     
  • 『Yu-No』『To Heart』『サクラ大戦』『キャプテン・ラヴ』——プラットフォームで分かたれた恋愛ゲームたちの対照発展 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.242 ☆

    2015-01-16 10:40  
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    ・リクルートが儲かり続ける理由――強力な3つのループが生んだ「幸せの迷いの森」 (尾原和啓『プラットフォーム運営の思想』第6回)・1993年のニュータイプ──サブカルチャーの思春期とその終わりについて(宇野常寛)
    ・駒崎弘樹×荻上チキ「政治への想像力をいかに取り戻すか――2014年衆院選挙戦から考える」
    ・"つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)
    ・宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ


    『Yu-No』『To Heart』『サクラ大戦』『キャプテン・ラヴ』 ――プラットフォームで分かたれた 恋愛ゲームたちの対照発展(中川大地の現代ゲーム全史)

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.19 vol.265
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、月イチ連載『中川大地の現代ゲーム全史』をお届けします。今回は、いわゆる「葉鍵系」から『サクラ大戦』『キャプテン・ラヴ』まで、「恋愛ゲーム」という特異なジャンルが花開いた90年代後半の文化状況を概観し、これらの作品群が後のサブカルチャーに与えた影響を考えます。
     
    「中川大地の現代ゲーム全史」
    第8章 世紀末ゲームのカンブリア爆発/「次世代」機競争とライトコンテンツ化の諸相
    1990年代後半:〈仮想現実の時代〉盛期(6)
     
    前回までの連載はこちらのリンクから。
     
     
    ■サイコサスペンス系から「泣きゲー」へ〜パソコン美少女ゲームにおけるAVGの異常進化
     
     前章で述べたように、1994年に登場した『ときめきメモリアル』『アンジェリーク』を機に、「恋愛シミュレーションゲーム」と呼ばれるカテゴリーのゲームが家庭用ゲーム機に登場していた。これはセクシャルな魅力を誇張された複数の異性キャラクターの中から好みのタイプを選んで性愛の成就を目指すという趣向のストーリーゲームにあたるが、もともと男性向けの18禁パソコンゲームのフォーマットからポルノシーンを除去するかたちで成立したこのサブジャンルは、パソコンとコンシューマーの両プラットフォーム間で相互にクロスオーバーをしながらも、対照的な道を歩んでいくことになる。
     まず、ジャンルの派生元であるパソコン側では、基本的に美少女キャラの裸や性交シーンなどの18禁シーンを必須の要素として含みながらも、それを必ずしも主眼とはせず、むしろテキストAVGとしてのシステムやシナリオを洗練(あるいは奇形発展)させる傾向を持ったヒット作が続出する。
     システム面での大きな進化を見せたのが、推理アドベンチャー『EVE burst error』(シーズウェア 1995年)で頭角を表した菅野ひろゆき(当時の名義は剣乃ゆきひろ)の手による諸作であった。本作は、マルチサイトと名づけられた複数の主人公キャラクターの視点を切り替えていくザッピング式のシステムにより奥深い背景を持つ連続殺人事件の真相に迫っていくという仕組みで複雑なストーリー表現を成し遂げ、美少女ゲーム離れしたヒットを遂げる。これはちょうど、コンシューマー機で「サウンドノベル」シリーズを送り出してノベルゲームの始祖となったチュンソフトが、同シリーズの第3弾にあたる『街 〜運命の交差点〜』(1998年)で同様のザッピング・システムを採用することの先駆にあたる出来事だった。
     また、メーカーを移籍した菅野は次作『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(エルフ 1996年)にて、プレイヤーの選択によってストーリー展開が分岐していくAVGの構造をSF的な並列世界として捉え直し、その分岐の様子をA.D.M.S.(Auto Diverge Mapping System:オート分岐マッピング・システム)と名づけた図示によって可視化するシステムを導入。このA.D.M.S.の存在を主人公に与えられた並行世界の認識装置としてシナリオ内に位置付けることで、同じストーリーラインを何度も繰り返しながら結末を多様化させていくプロセス全体を1本の大きな物語として描くという手法を確立する。
     こうしたゲームならではのストーリーテリングの高度化が、のちに美少女ゲームを中心とするAVG全般や、それに影響を受けたアニメ、ライトノベルなどのジャンルに「ループもの」や「並行/多重世界もの」の作劇流行をもたらしていくことになる。
     一方、システム面では『弟切草』『かまいたちの夜』の形式を踏襲して背景画の上にテキストを全面に敷くインターフェースに特化しながら、ひたすらシナリオ面での洗練を追求する潮流を作ったのが、「ビジュアルノベル」を銘打ったLeafの『雫』『痕』(1996年)であった。両作は選択肢によるシナリオ分岐を、複数の美少女キャラクター別の濡れ場に至るルートに利用することでアダルトゲームとしての要請を満たしながらも、全体的にはポルノグラフィを目的としないサイコホラー調のシナリオを展開したことが話題を呼び、異彩を放つ。この方法論の延長線上に、ビジュアルノベル第3作『To Heart』(1997年)は路線をハートフルな学園純愛ものに切り替え、各キャラクターの内面性に繊細に寄り添っていくシナリオを展開したことで「エロゲーなのに感動できる作品」として一躍ブレイクを果たすことになる。
     

    ▲『To Heart』(Leaf、1997年)
     
     これに追随するかたちで、Tacticsから発売された『MOON.』(1997年)および『ONE 〜輝く季節へ〜』(1998年)もまた、サイコサスペンス系から学園純愛系へというLeafと同様の路線を、より寓話的かつ悲劇性の高い作風で展開。これで人気を博したスタッフ陣が独立して新レーベルKeyを設立し、その第1作として送り出した『Kanon』(1999年)が、『To Heart』にならぶヒットを果たす。
     この「葉鍵系」とも一括りにされるLeafとKeyの台頭により、もはや性的描写を必須としないプラトニックな心の交流がもたらす感動に耽溺させるタイプの「泣きゲー」が、以降のアダルトゲーム・シーンを席巻する。ここにきて、エロゲーの中心から1980年代以来の「ナンパ」の遊戯性の残滓が完全に払拭され、サイコサスペンスにせよ純愛ものにせよ、1990年代のテレビドラマなどの多くの日本コンテンツに通底していたトラウマ語りのような心理主義的な気分を、最も直截に反映したゲームジャンルとなったわけである。
     

    ▲『Kanon』(Key)※PSP版
     
     
  • 1993年のニュータイプ──サブカルチャーの思春期とその終わりについて(宇野常寛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.240 ☆

    2015-01-14 07:00  
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    駒崎弘樹×荻上チキ「政治への想像力をいかに取り戻すか――2014年衆院選挙戦から考える」
    "つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)
    宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ


    1993年のニュータイプ──サブカルチャーの思春期とその終わりについて(宇野常寛)

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.14 vol.240
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、「ダ・ヴィンチ」に掲載されている宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」のお蔵出しをお届けします。今回は『ニッポン戦後サブカルチャー史』『アオイホノオ』という2つの作品から、この国のサブカルチャーの〈思春期の終わり〉と〈向かうべき未来〉を、雑誌『Newtype』を手がかりに考えます。
    初出:『ダ・ヴィンチ』2015年1月号(KADOKAWA)
     先日、テレビをつけたら劇作家・宮沢章夫を講師に迎えた『ニッポン戦後サブカルチャー史』という番組がNHKで放送されていた。それは、よく考えると奇妙な光景だった。まだ関係者の大半が生存している、たかだが数十年前のことが「歴史」として語られているのだ。現代社会の爆発的な文化発信量の増大、情報そのものの肥大がこのような近過去の文化史の受容を生んでいるのは間違いない。そこには確実に必要性がある。だが、僕にはここにそれだけに留まらない意味があるように見えた。
     そしてほぼ同じ時期に、僕はテレビ東京系で放映されていたテレビドラマ『アオイホノオ』を毎週楽しみに観ていた。これは、漫画家の島本和彦の自伝的マンガを福田雄一が脚色、自ら監督を務めたテレビドラマで、島本が在籍した1980年代初頭の大阪芸術大学を舞台に、漫画家を目指す主人公(島本自身がモデル)の奮闘を、そして同時期に在学した庵野秀明、赤井孝美、山賀博之らが岡田斗司夫ら在阪のインディーズ作家たちと合流し、後のアニメ制作会社「ガイナックス」につながる活動(自主アニメ制作)で台頭していく過程を描いている。そして僕は、まるで戦国時代を扱った大河ドラマを見るような気持ちで、このドラマを毎週楽しんでいた。島本和彦や岡田斗司夫といった「歴史上の人物」たちがかかわる、かつて彼らの著作で知った「歴史上の事件」が、どう解釈されて描かれるのかをWikipediaを引きながら待ち構えていた。
     そう、同作は奇しくも『ニッポン戦後サブカルチャー史』の、いや、正確には同番組の下敷きになった宮沢の著書『80年代地下文化論講義』と同時代の大阪の、もうひとつのサブカルチャーが勃興していく時代を描いているのだ。そう、東京の渋谷でモンティ・パイソンのローカライズが行われていた時代、大阪の片隅ではやがて海をわたってファンの心をつかんでいく『エヴァンゲリオン』につながるアニメ作品が産声を上げつつあったのだ。

     《メインカルチャーとメジャーの権威をも文化資本は解体しつつあり、マイナーが分衆として資本に取り込まれるにはまだ間があった七六~八三年という転形期にあった、低成長下のサブカルチャーは奇妙な活性化をみせていたのだ。『すすめ!!パイレーツ』に『マカロニほうれん荘』。『LaLa』に『別マ』に『花とゆめ』。萩尾望都、大島弓子、山岸凉子。『JUNE』に『ALLAN』。諸星大二郎、ひさうちみちお。『ビックリハウス』『POPEYE』『写真時代』に『桃尻娘』に糸井重里。椎名誠。藤井新也。つかこうへいに野田秀樹。タモリとたけし。鈴木清順。異種格闘技戦に新日本プロレス。パンクにレゲエ、テクノ・ポップ、ニューウェーヴ、サザン、RCサクセション。YMO、『よい子の歌謡曲』『スター・ウォーズ』。ミニシアター。『ガンダム』に新井素子。世界幻想文学大系やラテンアメリカ文学。メジャー不在の大空位時代にあっては、あらゆる新しいものがマイナーのままメジャーであった。正義も真理も大芸術も滅び、世の中は、面白いもの、かっこいいもの、きれいなもの、笑えるもの、ヒョーキンなものを中心に回るしかない。この幸福な季節を、橋本治と中森明夫は八〇年安保と呼ぶ。》 浅羽通明『天使の王国 平成の精神史的起源』

     これらの番組で描かれていた80年代初頭は、後に「80年安保」と呼ばれるポップカルチャーの量的爆発が発生した時代だった。そして、宮沢の紹介する「サブカル」と、島本が描く「オタク」が明確に分離していく時代だった、と言える。
     紙幅の関係でものすごく大雑把な整理をすることを許してほしい。「一般的には」前者はインターナショナルなライブカルチャーで、後者はドメスティックなメディアカルチャーだとされている。前者は基本的に輸入文化であり欧米のユースカルチャーに対して敏感であり、その洗練されたローカライズを競うものだったと言えるだろう。ジャンル的にはその中心に音楽があり、そして演劇が独特の位置を占めていた。対して、マンガ、アニメ、ゲームなどを中心とする後者は「一般的」には国内の漫画雑誌とテレビアニメを基盤とする国内文化だったと言える。僕が思春期の頃は前者こそがサブカルチャーであり、後者は80年代末の幼女連続殺人事件の犯人がいわゆる「オタク」だったことの影響もあり、ほとんど犯罪者予備軍のようなイメージで見られることも多かった。それが、世紀の変わり目のあたりで逆転した。インターネットの普及を背景に、若者のサブカルチャーの中心は後者に移動し、国の掲げる「クールジャパン」は政策的に空回りしているが、日本のオタク系サブカルチャーがグローバルに支持を集めている現実が広く知られるようになり、ドメスティックだと思われていた後者の文化はむしろグローバルな輸出文化としての期待を帯びるようになった。
     このヘゲモニーの移動には様々な背景が想定されるが、ここでは特に前回論じた情報社会化による地理と文化の関係性の変化に注目してみたい。
     たとえばこの20年の原宿のあり方を考えてみよう。90年代に歩行者天国を中心にコミュニティが発生し、そこから育っていった少女文化(いまでいう原宿「カワイイ」系文化)は、歩行者天国の廃止や地価の高騰などにより一度衰退する。しかし現在においては、同文化のグローバルな拡散を背景に、まるでかつての原宿的なものを「コスプレ」するかのように登場したきゃりーぱみゅぱみゅがアイコンとなり、現在の原宿もまた同時にかつての原宿を「コスプレ」し始めている。同じような指摘が、2005年の『電車男』ブーム以降の観光地化していった秋葉原にも可能だろう。
     要するにかつては地理が文化を生んでいたのに対し、ここでは文化が地理を生んでいるのだ。このパワーバランスの変化はインターネットがもたらしたものだ。2008年に秋葉原連続殺傷事件が発生した際、秋葉原の一時的衰退はオタク系文化そのものの衰退につながる可能性はなくはなかった。しかし、そうはならなかった。理由は明確で、当時既にオタク系文化のコミュニティはインターネット上に移動していたからだ。当時の秋葉原は、むしろインターネット上のオタク系文化を「コスプレ」する観光地になりつつあった。そう、情報化はボトムアップの文化を生む場をストリートからソーシャルメディアに移動させたのだ。その結果、地理が文化を生むのではなく、文化が地理を決定するようになったのだ。
     こうして考えてみたとき、メディア上の表現に基盤を置くオタク系文化の量的な優位は当然発生することになる。その結果、前者(サブカル)の側は自分たちを正当と見做す「正史」を主張することでのヒーリング(『ニッポン戦後サブカルチャー史』)を求め、後者(オタク)はミーハーに歴史上の人物たちの偉業に目一杯「萌え」狂うこと(『アオイホノオ』)になったのが現代のサブカルチャー状況であるとひとまずは言えるだろう。
     以上が、非常に大雑把な僕流の戦後日本サブカルチャー史(のごくいち側面)だ。そしてこのサブカルチャーの「歴史化」を象徴する二つの番組の魅力、特に後者の福田雄一によるアプローチの素晴らしさについては語り尽くしても尽くせないものがあるが、僕がここで問題にしたいのはもう少し別のことだ。
     それは、これらの番組が支持される背景に存在するのは、はっきり言ってしまえば日本社会自体が中年に、いや「熟年」になろうとしているということなのではないかと僕は思うのだ。 
  • 【号外】PLANETSメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」ご意見・ご感想をお寄せください!

    2015-01-13 20:30  


    【号外】PLANETSメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」ご意見・ご感想をお寄せください!

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.13 号外
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    2014年2月に平日毎日配信を開始し、大好評をいただいているPLANETSのメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」。今回は1周年を記念し、ご愛顧いただいている読者の皆様から広くご意見・ご感想を募集します。
    ご記入いただいた方のなかから抽選で、1/31発売予定の新刊「PLANETS vol.9」(編集長・宇野常寛のサイン入り)をプレゼントいたします。ぜひ、ご応募ください! あなたのご意見で「ほぼ惑」が変わるかも!?
    ご意見・ご感想はこちらのフォームから。
    https://docs.google.com/forms/d/1TSg_istF6wu4IeF3CHbY0Yy5NHq9y3EbSs6spXH
  • 駒崎弘樹×荻上チキ「政治への想像力をいかに取り戻すか――2014年衆院選挙戦から考える」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.239 ☆

    2015-01-13 07:00  
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    駒崎弘樹×荻上チキ「政治への想像力をいかに取り戻すか――2014年衆院選挙戦から考える」

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.13 vol.239
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は昨年12月13日の「PLANETS Festival」にて行なわれた、NPO法人フローレンス代表の駒崎弘樹さん、そして評論家でTBSラジオ「Session-22」パーソナリティも務める荻上チキさんとの対談をお届けします。このトークの翌日、12/14(日)に衆議院総選挙が投開票され、自公が326議席を獲得し圧勝しました。しかし、直近の選挙結果だけでは決して可視化されることのない、この国の政治文化の本当の課題があるはず。その課題を解決するために一体、どんな「ポジ出し」が必要なのか――? 荻上さん、駒崎さんに加えて、途中から宇野常寛も参加して白熱した議論の全容を、一部加筆・修正なども加えた「完全版」でお届けします。
    ▼当日の動画はこちらから。(PLANETSチャンネル会員限定)

    ▼プロフィール

    駒崎弘樹(こまざき・ひろき)
    1979年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業後、「地域の力によって病児保育問題を解決し、子育てと仕事を両立できる社会をつくりたい」と考え、2004年にNPO法人フローレンスを設立。日本初の「共済型・訪問型」の病児保育サービスを首都圏で開始、共働きやひとり親の子育て家庭をサポートする。2010年からは待機児童問題の解決のため、空き住戸を使った「おうち保育園」を展開し、政府の待機児童対策政策に採用される。2012年、一般財団法人日本病児保育協会、NPO法人全国小規模保育協議会を設立、理事長に就任。2010年より内閣府政策調査員、内閣府「新しい公共」専門調査会推進委員、内閣官房「社会保障改革に関する集中検討会議」委員などを歴任。現在、厚生労働省「イクメンプロジェクト」推進委員会座長、内閣府「子ども・子育て会議」委員、東京都「子供・子育て会議」委員、横須賀市こども政策アドバイザーを務める。著書に『「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方』(英治出版)、『働き方革命』(ちくま新書)、『社会を変えるお金の使い方』(英治出版)等。一男一女の父であり、子どもの誕生時にはそれぞれ2か月の育児休暇を取得。

    荻上チキ(おぎうえ・ちき)
    1981年生まれ。シノドス編集長。評論家・編集者。著書に『ネットいじめ』(PHP新書)、『社会的な身体』(講談社現代新書)、『いじめの直し方』(共著、朝日新聞出版)、『ダメ情報の見分け方』(共著、生活人新書)、『セックスメディア30年史』(ちくま新書)、『検証 東日本大震災の流言・デマ』(光文社新書)、『彼女たちの売春』(扶桑社)、『夜の経済学』(扶桑社 飯田泰之との共著)、『未来をつくる権利』(NHK出版)、編著に『日本を変える「知」』『経済成長って何で必要なんだろう?』『日本思想という病』(以上、光文社SYNODOS READINGS)、『日本経済復活 一番かんたんな方法』(光文社新書)など。
    ◎構成:鈴木靖子
    「どこに投票すればいいのかわからない」ときに僕たちはどうすればいいのか?
    宇野 今日はですね、NPO法人フローレンス代表の駒崎弘樹さんと評論家の荻上チキさんをお招きして、「政治への想像力をいかに取り戻すか」をテーマに議論していきます。荻上さんはジャーナリズムで、一方の駒崎さんは病児保育という分野で社会起業をし、世の中を変えていくための活動を続けています。くしくも、明日は衆議院議員選挙投開票日。まずは、ぶっちゃけ、「今回の選挙戦どうよ?」という話からしていきたいと思っています。
    駒崎 僕は今回、全力を尽くしましたね。
    宇野 尽くしましたね。戦って燃えましたね(笑)。
    駒崎 僕は選挙が公示された12月2日にまず、『候補者イケメンランキング』(『これで貴女も、争点の無い選挙でも楽しめる☆衆院選イケメン候補者リスト』)をアップして、1週間後に、『落としちゃ、だめよ、だめだめ』っていうリスト(『【総選挙2014】落としちゃ「ダメよ?、ダメダメ」な衆院選候補者リスト』)を出したんです。
     「みんな、投票に行こう」というメッセージに加えて、もう一歩踏み込んだかたちで、党に関係なく「この人はいいよ」という考え方があるという言説を展開したんですが、その反応はいろいろでしたね。例えば『イケメンランキング』のほうは、「政治は顔じゃないだろ」「政策で選ばなければいけない」みたいなマジレスもいただきました。
    荻上 「女性をなめてるのか!」っていう反応もあったよ。
    駒崎 「子育て支援とかしてるくせに、フェミニストの敵だ」とも言われ、まあ、燃えました。
    荻上 すごいぶっこんだなと思いました。ジェンダーコードとか完全に無視するんだなって。
    駒崎 そうですね(笑)。でも、そこはある種、意図的だったりもします。「落としてはいけない人がいる」「党とは関係なくいい人がいる」という話をしたかったから、そこに対してはしっかり踏み込めたかなあというふうには思いました。
     でも、選挙結果はというと、投票日前日にもかかわらず自民圧勝が明らかですよね。そういう状況に対して僕らはどういう姿勢をとればいいのか、ということをチキさんと考えていけたらいいなと。
    荻上 「投票結果が出て、そこで政治参加が終わり」というのはとてももったいないですからね。でも、投票に行かないのはもっともったいない。なにせ、選挙に行く人と行かない人の間の「一票の格差」たるや大きいですよ。そういう事実を呼びかけていくことは物書きとして続けなきゃいけないといつも思っています。
     今回に限らずですが、選挙って常に難しい。自分にとってベストマッチな政党なんて存在しないわけですから。例えば、自民党は経済政策で評価するけど政治思想は評価しないっていう立場の人もいるだろうし、一方で自民党の経済政策は「NO!」と思う人がいたとしても、野党の政策に自らの「NO!」を託せるのかというと、やや物足りないと感じる人もいるでしょう。
     今回の選挙戦を見ていても、誰が何によって投票するのかという意志行動は、さらにバラけていくように思います。
    駒崎 僕自身、経済政策的にはアベノミクスを中心とした金融政策とかはまあまあ賛成という立場ですが、安倍首相の封建的な家族観や、育児休暇を3年に延長する「抱っこし放題3年」とかは止めてほしいと考えています。
     そんな僕は自民党に入れればいいのか、あるいは自民党じゃないところに入れればいいのか?というところがよくわからない。でも投票しないのはちょっとイヤだし「どうすりゃいいの?」というある種のジレンマがある。これはたぶん、みんな思い当たるところがあると思うんですね。
     僕らは「選挙」というものに対して、どのような姿勢をとっていくのか? さらに言えば、僕らにとって民主主義ってなんだっけ?ということを改めて考えていかないといけない。
    荻上 今回のように大きな流れが確定している選挙のときって、僕は常に第三極、あるいは「スパイス」を探すという投票行動をとっています。「自民党だから」「非自民だから」とか、「どの党に与党になって欲しいか」というだけではない観点もありますよね。
     例えば、所属政党と無関係に、あるジャンルにとても強く、国会質問を通して情報発信をしている議員がいます。国会議員は法律をつくるのがひとつの仕事だけれど、政府に対して質問をするのも仕事なわけです。「質問」は実は、ジャーナリズムと同じ役割を果たしている部分がある。国民の知る権利を満たすために「資料を出せ、考えを示せ」ということを問い続ける役割を政治家は担っている。だから、質問力がある人や特定の領域に共感できる人を見ていくと国会は面白くなるんです。
    駒崎 そうなんですよね。僕にも、自民党、公明党、民主党など、党とは関係なく知り合いがいます。僕は子育て支援の事業をする中で、政治家に「この法案のここの部分が問題であり、修正して欲しい」といったロビイングをしていますが、さっきチキさんもおっしゃったように、国会で質問をしてもらうことで政府の見解を引き出すのもひとつのテクニックなんですね。
     国会で答えたことは、絶対にやらなくてはならない。あるいは、国会で答えた解釈は曲げてはいけない、というルールがあります。だから例えば、子育て支援で、ある件について、「とても使い勝手が悪い運用をしてますけれど、これは、法律に書いてあるんですか?」ということを質問してもらい、答弁を書く厚生労働省の担当者、発言する政治家から、「そのつもりはありません」「改めていきたい」という一言を取れるということはとても重要です。
    荻上 言質(げんち)を引き出すわけですよね。
    駒崎 こうした草の根ロビイングから国会で質問をしてくれる議員って与野党関係なくいます。選挙となれば、多くの人が「与党選び」だと考えていると思いますし、確かにそうなんです。でも、いい野党を選ぶという考え方も重要ですよね。
    荻上 東京大学先端科学技術研究センターの菅原琢さんの研究室のサイトには『国会議員白書』が公開されています。こうしたデータを見ると、国会議員になったのにまったく質問をしていない人もいれば、そもそも国会に来てもいない議員もいる。これは職務放棄であり、明らかに無駄。選挙に関しては、そういう視点から考えるのもひとつのアプローチになると思いますね。

    マスメディアでの報道量が激減していた今回の選挙戦
    荻上 今回の選挙で、僕自身がメディアの中にいて、結構、これまでと違うなと思ったのは、やっぱりメディアの側の緊張感が大きかったところですね。
    駒崎 それはどんな風に?
    荻上 テレビの報道時間などのメタデータをログし続けている「エム・データ」という企業があって、そこのデータが話題になりましたね。前回の衆議院選挙、あるいはその前と比較しても、今回の選挙って、公示から1週間の選挙報道の総時間が激減していると。以前の選挙と比べると、だいたい3分の1だったかな。
    駒崎 めちゃくちゃ少ないですね。
    荻上 理由はいくつかあるだろうけど、政府が「公平中立にやってくれ」と言ったとき、特にワイドショー番組とかって「2歩くらい下がって安全をとる」という行動を取りがち。ワイドショーの多くは制作会社が作っていて、外注である制作会社にとっては、ただでさえ数字がとれない選挙報道でポカしてテレビ局から切られるのは避けたい。そういった自粛が働いた可能性がひとつあります。ただワイドショーって政策ではなくて候補者のキャラクターが立った場合に取り上げやすいですから、数が減ったイコール選挙報道から手を引いたと単純には言えないんだけど。
    駒崎 それにしても減りすぎじゃないですか。
    荻上 テレビから情報を得て、投票をする人もいるので、「情報のレパートリー」が少なくなっていることは問題だと言える気はしますね。
    駒崎 ちなみに、公正中立報道の要請という点では、今回チキさん自身が当事者になりましたよね。
    荻上 『朝生』の一件ですね。自民党が出した要望書が直接の理由かどうかはさておき、これまで『朝生』がやっていた「ゲストを招いて議員に質問をぶつける」という方式を、今回は「偏らないように」ということで配慮して、直前になってゲストの出演がなくなった。
     これは別に、荻上チキだからNGというわけではないし、たぶん僕はこれからも『朝生』には呼んでいただけるとは思います。だけど、そういうふうに「選挙期間中にゲストを呼ばずに議員だけを呼ぶのが公平」というかたちにしてしまうと、討論番組の枠が狭まってしまいますよね。知る権利とか議論の幅を拡張していくべき時代にある中で、今までできていたことを手放してしまうのはすごくもったいないな、と。
    駒崎 どんどん枠が小さく狭くなっているんですよね。なんというか、政治のことを語るのにそういうふうな手続きが必要になっていくと、逆に民主主義を根腐れさせるような状況になってしまわないか、ちょっと心配です。
    荻上 そもそも「特定の政党を集中して批判するな」ということは、どの法律にも書かれていません。こうした議論のときに必ず放送法が引用されますが、放送法をよく読むと、そこで謳われているのはまず「政治権力からの中立」。つまり政権が不当にメディアに対して介入しちゃいけないということが書かれている。
     一方で、メディアに対しては「公共の電波を使っている自覚をもて」ということが書いてある。「メディアは不偏不党で公平に努めろ」「そんなメディアに対して権力は不当に介入しちゃいけない」というのが、放送法に書かれていることなんです。
    駒崎 なるほど。
    荻上 だけど、なんとなく「政治権力を怒らせるような報道をしてはいけない」というのが「中立」の意味だという捉える人がいる。基本的な社会認識がズレているということは、要所要所で感じましたね。
     さらに一方で、放送法第4条に謳われているような、「メディアは公平性を担保しろ」という文章を削除すべきだという議論もある。例えば、アメリカなどでは放送メディアも、それぞれ支持する政治傾向がはっきりしてたりしますね。
    駒崎 FOXニュースとか見ていると、オバマ大統領に対してすごく批判的でビックリしますよね。
    荻上 FOXニュースでは、イラクの大量破壊兵器があったと信じる割合が高いとかね。そんなアメリカでは、約30年前に、フェアネスドクトリン、つまりメディアの公平原則に関する規則を削除しているんですね。そこまでやるかどうかは別にして「メディアの中立性」を考える上では、たとえば放送法を改正するとか、現行の「国が放送メディアに対して免許を与える」という形式を改めたほうがいいのではないかという議論もあります。
     例えば今回引き合いに出された「椿事件」って、1993年当時にテレビ朝日のトップだった椿貞良氏が民放連の会合で、政権打倒のために放送をしたというようなことを言ったと報じられ問題となり、証人喚問されたという一件です。一連の出来事が、ちょうど放送免許の更新時期に起こって、テレビ朝日の放送免許が発行されない可能性が出たわけですね。ただしその後、言われていたような放送が行われたかという点については調査報告が出ている。
     そもそも、政治権力が免許を与えて、「お前は報道していい、お前は報道しちゃいけない」と判断する制度そのものが、放送局が権力側の顔色を伺うということを温存する構造になっている。NHKの経営委員会を選ぶプロセスもそうですね。だとすれば、中立的な審議会のようなものを立ち上げて、そこが放送局に対して免許を与えるように、制度そのものを変えてメディアの中立性を議論し直そうという議論も、以前からあるんですよ。
    駒崎 それは絶対やったほうがいいですよね。
    荻上 一方で、今の「公平性」というのは、なぜか「中立性」つまり「色を出すな」という方向に行っています。中立性と公平性は厳密には違うんだけど、そんなことをしていて、どんな議論ができるんだよ、となる。極端な話、「経済政策のここがダメ」だと指摘したら与党批判になり、「フェア」ではなくなってしまう。そのコンセンサスが、メディア側にも弱かったですね。

    SNS上の言論空間は何がダメなのか?
    駒崎 テレビはそういうふうに制限されるかもしれないから仕方がない。ならばということで、「じゃあネットメディアで頑張ろう」「ネットで自由闊達な議論をしていこうよ」という議論も一方でありますよね。
     そして数年前くらいまで、「ネットの普及で自由な言説が互いにぶつかりあう議論の場ができる」みたいな話だったはずなのに、今のSNSはデマとディスり合いが繰り広げられる惨憺たる有様です。テレビもネットもどちらも、メディア空間としては問題を抱えてしまっているように思えます。 
  • 月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT延長戦」1月5日放送書き起こし! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.238 ☆

    2015-01-12 07:00  
    220pt


    月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT延長戦」1月5日放送書き起こし!

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.12 vol.238
    http://wakusei2nd.com


    大好評放送中の、宇野常寛がナビゲーターをつとめるJ-WAVE「THE HANGOUT」月曜日。毎週月曜日は、前週分のオンエアの書き起こしをお届けします! 今回はニコ生延長戦パートです。

    ▲前回放送はこちらでもお聴きいただけます!
    ハングアウト延長戦:メール復活のコーナー
    宇野 あらためましてみなさんこんばんは、評論家の宇野常寛です。PLANETSチャンネルの深夜の溜まり場「THE HANGOUT」延長戦のお時間がやってまいりました。この延長戦では引き続き、私宇野常寛がラジオ放送では読み切れなかったお便りを読んでいきます。今週もたくさんメールをもらっています。それでは読んでいきましょう。
    これはですね、ラジオネーム、千秋クリストファーさん。

    「年明けからくだらない質問で申し訳ありません。年末に、私が飾っているフィギュアが色移りで変色してしまい、ネットで検索したところ100円のMONO消しゴムが効果があると知ったので、それで解決したのですが、他のフィギュアの色移りもなんとかしようとして欲を出したのが間違いの始まりでした。分割パーツだと思ったのが一体成型で、塗装が剥げてしまい、受注生産モノの美少女フィギュアを一つダメにしてしまいました」

    宇野 わかるなー。俺もよくやるよ、そういうこと!

    「そこで、フィギュアオタクとしての宇野さんの判断を仰ぎたいです。工作力を磨くという意味でも、塗装のリタッチを試してみるべきなのか、下手なことをせずに、もう一体をヤフオクあたりで調達すべきなのか、どうすべきだと思いますか?」

    宇野 はい、結論から言います。後者です! あのね、なかなか人はDIYとかできるもんじゃないんですよ。僕はこれまで何度もやってきましたが、結局全部ダメにして悲しくなってしまって、安いものだったらもう一体買うか、高いものだったら泣く泣く修理に出すかの二通りでしたね。僕の場合はだいたい仮面ライダーの角が折れたり、塗装剥げしたりなんですけど、自分で修復しようとすると僕はことごとく失敗していて、この番組でも話したと思うんですけど、結局泣く泣く業者に出していて、結構な大枚をはたくハメになっていますね。何て言ったらいいのかな、これって、美の問題なんですよね。美、っていうのは簡単に触れられないから美しいっていう側面が絶対あるわけなんですよ。特にフィギュアのような動かないものに関してはそうですよね。なので、それはもう、僕ら俗人の手が届くものじゃないんですよ。もはや神の領域なんで、特殊な訓練を積んだ者以外は触れてはいけないんです。なので、おとなしくもう一体買うか、業者に出しましょう、ということですね。あと言えるのは、作っていること自体が楽しいと思えるもの以外は、人は作るべきじゃないですね。レゴとかプラモデルって、作ること自体が楽しいじゃないですか。でも、塗装剥げを直すっていうのは、直す作業自体はあんまり楽しくないわけですよ。こういうことは、時間の使い方の問題として、やるべきじゃないですね。人間は楽しいこと以外するべきじゃないです。はい。
    じゃあ次ですね。これはラジオネーム、品川のがんこちゃんです。

    「宇野さん、明けましておめでとうございます。早速ですが、悩んでいることについての相談です。私は3年続けてきた仕事を辞めて、前々からやりたいと思っていた人を助ける仕事をしようかと思っています。今の仕事は安定した仕事。でも、職場で求められていることと、私自身が今の職場でやりたいことに隔たりがありすぎて、とても違和感を感じて苦しんでいます。まさしく分岐点です。安定か挑戦か、宇野さんだったら何を基準にして仕事を選んでいきますか?」

    宇野 うーん、まず僕は、人はあんまり仕事で自己実現しようとは思わない方がいいと思います。なんというか、仕事で自己実現をしてしまう人間っていうのは、もうそれ以外の生き方では生きられないタイプの人間なんですよね。自分で選んだわけじゃなくて、気が付いたらこの仕事に流れ着いちゃったみたいな人間だけだと思うんですよ。そうじゃない人にとって、仕事は目的じゃなくて手段なんですよね。高い収入とか、社会的に安定した地位を得るための手段に過ぎないわけですよ。そういった人は、たとえば男性だったら、なんか二子玉川あたりにきれいな建て売り住宅とかを借りて、赤文字雑誌を読んでいる感じの相手と結婚して、そこでベビーカー引かせるような人生を歩むわけですよ。普通に考えて、人並みの繊細さがあったら超つまんない人生なんですけど、あいつらはそれが目的だからいいんですよ。自分以外に大事なものが無い連中なんだから。
    でも、なんか僕は、ちょっときついことを言ったかもしれないけど、世の中の人間ってほとんどそうだと思うんですよ。そのことを否定しても始まらないんです。仕事で自己実現をしていくのって、個人の経歴とか生まれ落ちた環境に起因する、拭い去れないようなものを与えられた、というか、受けてしまった人間が、それを解決するために、気が付いたらそれを仕事にしちゃってるっていうことなんですよね。それ以外の人たちは、あんまり仕事で自己実現をしようしない方が、僕はむしろいいと思うんですよ。
    世の中、その人じゃないとできない仕事っていうのはほとんどないんですよ。マジな話。例えば、『海猿』とかあるじゃないですか。僕は漫画はすごく好きなんですけど、実写のほうは佐藤秀峰さんの世界を、再現しきれていない気がしていて、あんまり好きじゃないんですけどね。まあ映画と漫画は別物なので、別の魅力を出せばいいんですけどね。それで、あの映画を見るたびに僕が思うのは、『海猿』の主人公ってものすごいプロフェッショナルじゃないですか。でも、もし『特警ウインスペクター』みたいなやつらが出てきたら、彼らのスキルって無駄になるんですよね。わかりますか? 『特警ウインスペクター』っていうのは、『ギャバン』とか『シャリバン』とか『シャイダー』とか『メタルダー』とか、あのメタルヒーローの系統の作品です。平成ライダーが始まるまで80年代から東映がずっとやっている、メタル系のスーツを着る特撮ヒーローみたいなシリーズですね。そのメタルヒーローシリーズで、バブルの頃に「レスキューポリスシリーズ」というのがあったんです。こいつらは悪の組織とかと戦うんじゃなくて、基本的に救助隊をやっているんですよ。海上保安庁とか警察とか消防のレスキュー隊の、超すごい強化服を持っている奴らみたいな。『特警ウインスペクター』は警察の特殊部隊で、パワードスーツとかを着て、災害救助とかをする奴らで、つまり1週間に1回すごい大事故とかが起きるっていう結構やばい世界観なんですけど(笑)。で、災害とか事故があったら主人公たちが行って、パワードスーツで転がっている車とかぐわーっと持ち上げて、「ありがとうお巡りさん」みたいな感じの話をずーっとやっているっていうシリーズだったんです。
    で、やつらが出てきた瞬間に、『海猿』の主人公たちが培ってきた技能って、無駄になっちゃうんですよね。なので、僕はいつも『海猿』のクライマックスでJ-POPとかが流れて、「感動をありがとう」みたいな展開になるたびに、「あー、ここからウインスペクター出動させてぇ!」と思うんですよ。主人公が必死にもがいて、あとちょっとで救助できるってなった瞬間に、宮内洋が演じている司令官が「ウインスペクター出動!」とか言って、そうすると「ラジャー!」「メイデー、メイデー、S・O・S!」とか主題歌が流れてきて、ウインスペクターがぶわーっと出てきて、『海猿』の主人公がもうほんとに決死の覚悟で崖とか登ろうとしているところを、ジェット噴射とかできるパワードスーツで登って易々と救助して、「ありがとう、ウインスペクター!」「ぶっちゃけ海上保安庁オワコンじゃね?」みたいな空気が漂って終わる、みたいなこととかをいつも想像してるんですよ。
    ちょっと話が逸れましたけど、結局、人がやりがいにしている仕事って、産業構造の変化とかテクノロジーの進化の問題で、一瞬で消えることがあんですよ。なので、趣味とかボランティアとかそういった領域で自己実現をしていく方が、本当は人にとっていいんですよね。なので、仕事で自己実現するっていうのは、それ以外に生きようがない人以外は、僕は、やらない方が合理的だという考えです。人を助けることっていうのはすごく素晴らしいことだと思いますけど、それが本当に生業としてじゃないとできないことなのかってことを考えて欲しいですね。趣味やボランティアの領域では、そういった人を助ける自己実現はできないのか、ということをちょっと考えて欲しいです。実際に僕なんかも、結果的に趣味を仕事にしてしまった人間なので、そのことが本当に個人として幸福なことだったのかどうかということはいつも考えています。実はね。今のところ僕は納得して、全力でやっていますけどね。
    じゃあ次行きます。これはですねラジオネーム、マイマイさん。

    「男の人って進化を好みますよね。本能なのでしょう。私は、全てのテクノロジーと優しさをつぎ込んで、東京オリンピックなんかより、震災で被害を受けた人たちを救ってほしいです。私はここ1年くらいずっと、最先端と呼ばれるものや、テクノロジーの進化、そして、その中で生きる人という存在について考えてきました。最先端って宇野さんたちが考えているものとは違う気がします。男性と女性の違いかもしれません。例えば職場で言うと、日本はいまだ男尊女卑ですが、もしそうでない職場があれば、ものすごく最先端だなぁと思います。実は、日本は現在のところ、テクノロジーについていけない人が大半で、ほとんどの女子もスマホの使い方を1割くらいしか理解していないでしょう。だから、もうちょっとそういう人たちにも優しい社会なら最先端だなぁと思います。でも、こういう社会ではできる人が引っ張るという考えもあります。まぁいろいろありますが、これからも宇野さんのことを応援していますね。いつも楽しい放送、ありがとうございます」

    宇野 いやー、マイマイさんにはぜひとも僕の本を読んでほしいです。僕と自民党幹部の石破茂さんとの共著『こんな日本を作りたい』とか、起業家たちとの対談集『静かなる革命へのブループリント』とか、このあたりの本をぜひとも読んでほしいです。僕はここで、テクノロジーというものについて、「なんかこれが最先端で新しいからすごい」っていうことじゃなくて、そのテクノロジーの登場で、まさにこの男尊女卑の社会を覆していく可能性を考えたり、いわゆる情弱といわれるようなスマホを使い切れない人や、パソコンに強くない高齢者の人たちの生活をいかに拡大していくかという話をしているんです。すごく誤解があると思うんですけど、インターネットとかIT企業とかっていうと、なんというか都会のアーリーアダプターのためのものという印象がものあるじゃないですか。でも、インターネットって本当は貧しい人とか、地方の人の武器なんですよ。
    実際に、僕は京都にいるすごく平凡なサラリーマンだったんですけど、そんな僕が世の中に出て来られたのは、やっぱりインターネットのおかげなんです。インターネットで自分のコンテンツを発信して、自費出版している雑誌のことを宣伝して世の中に出てきたんですよね。なので、いまインターネットが、普通に競争社会をやっていくと取り残されてしまう人とか、置いてけぼりになってしまう人の味方であるっていうことについて、すごく真剣に考えているんですよ。僕が実際に取材している人たちとか、仲間の人たちもそう思っていて、まさにこのお便りにあったオリンピックよりも東北をどうするんだかとかね。誤解されていると思いますけど、基本的に、僕は東京オリンピックには反対です。そんなことよりも東北の復興を急げっていうことを、たとえばNHKの番組でもガンガン言っている人間ですよ僕は。なので、そこに関しては、むしろITとかテクノロジーとかそういったものに関して、あまり偏見を持たないで欲しいな、ということは思いますね。
    資本主義とかテクノロジーによる技術革新っていうと、男社会の中心にいる都会のアーリーアダプターのもので、マイノリティを置き去りにするっていうふうに誤解する人って、すごく多いと思うんですよ。とくに昔の左翼の人とかに多いですよね。でも、そういった人たちこそ、僕の本を読んでほしいですね。次の「PLANETS vol.9」でも、パラリンピックっていうものを、どう社会に埋め込んでいくのかっていうことを考えています。つまり、パラリンピックを通して、多様な身体というものをいかに社会の中で認めさせていくのか? とかですね。社会自体の多様性っていうものをどうゲットしていくのか、っていう話を、僕らは扱っているので、お便りをくれたマイマイさんは、ぜひともこんど僕の著作を手にとってみてほしいです。あの、マイマイさんが思っているよりも、情報テクノロジーやイノベーティブなサービスっていうのは敵じゃないと思うし、むしろそれを武器に戦ってもらえるはずだし、僕らもそういうことを考えて送り出しているので、ちょっとね、立ち読みでもいいので読んでくれたらいいなあと思います。
    えーっとですね、次はこれはですね、ラジオネームなみさん。

    「こんばんは。毎週聞いています。テーマとは少しずれてしまいますが、宇野さんは、仕事とは別に趣味を持つことをどう思いますか? 僕は以前から作曲に興味があって、それを余暇にやろうかなと思っていますが、仕事とは全く関係ないものですし、それを仕事にしようとも思いません。それを世間的には趣味と呼ぶのでしょう。ただ、一方では気分転換のレベルを超えて、趣味や習い事に没頭することに、そんなことをやっているから仕事ができないんだよと一言言いたくなる気持ちも僕の中にあります。恐らく、自分の基本的な感覚に刷り込まれているものかもしれません。趣味に没頭することは抗えない魅力があります。しかし、それ以上に自分が守るべきもののために、仕事に身をささげる生き方が正しい気がします。なので、大人になってから習い事をすることに若干の抵抗感があります。人はどうあるべきかという考え方自体が古いのかもしれませんが、宇野さんはこういった葛藤についてどう思われますか?」

    宇野 僕の考えではですね、まずはゼロサムゲームで思考しない方がいいですね。たぶん、このお便りを送ってくれた方の世界観だと、人間の24時間をどう割り振るかということで、Aを強化するとBが弱体化するっていう発想になっていますよね。Aに時間を割くと、かわりにBが減ってしまうっていう、そういう発想ですよね。でも、24時間をきっちり使えている人ってほとんどいないんですよ。どんなに優秀な人でも、脳みそが全力で動いているのって一日に数時間だと思うんですよね。なので、僕の考えでは、むしろその数時間に発揮できる能力を最大化するにはどうしたらいいかっていうことを考えた方がよくて、なにかの時間を削って、なにかの時間に充てるっていう思考自体が、あんまり意味がないと思うんです。だから、遊んだり気持ちのいいことをしているとか、あとはだらけるとかそういった時間をちゃんと作っておいて、集中できる数時間の力を最大化するっていうのがたぶん正解ですね。
    グローバルにもだんだんそうなっていると思うんですよ。いわゆる自己管理とか、人間の脳をどう活性化させるかとか、そういったマインドセットの問題っていうのはわりかし学問としてもかなり研究されているはずなんです。そこでは、24時間をタイムテーブルできっちり割って、分刻みのスケジュールで動くことが、むしろ人の能力を殺していくっていう結論が出ていたりするんですよね。なので、この方に関しては、ガンガン趣味をやって下さい! 仕事と別に趣味を持つことによって、基本的に仕事の能力が上がります。ただ、世の中には困った人たちがいてですね、本当に仕事の全てを投げ打ってアイドルの投票イベントに1,000票くらい入れたりとか、大事な仕事の会合をサボって現場に行ったりとか、あとは、人間が普通に生活できる住空間の許容範囲を超えるレベルでおもちゃとかフィギュアをため込んだり、そういった困った人はいるので、そうなったときに初めてもう一回このメールを送ってください(笑)。僕の経験上の、具体的な対策をお教えします。
    次はですね。ラジオネームともちゃんさん。

    「2015年の目標は、おいしいラーメン屋さんに行くことです。宇野さんがつぶやくラーメンが、野方ホープや天下一品やラーメン二郎など、僕の住んでいる長崎には系列店がない店ばかりで、是非東京に行ったときは食べてみたいです。一店でも多く回ってみたいです。他に、宇野さんのおすすめのラーメンがあれば教えてください」

    宇野 東京はおいしいラーメン屋さんいっぱいありますからねー。っていうかですね、東京のラーメン屋、レベル高くて引く(笑)。僕は北海道生活が長かったし、今も実家は札幌にあるので、結構ラーメンではおいしいやつを食べている自信があったんですよ。でもね、東京のレベルの高さはマジで引きますね。ほんと、ハズレなラーメン屋探すのが難しいくらいじゃないですか。まあ、ラーメンってわりとマニュアル化されているところもあって、こう作ればそこそこの味ができるみたいな文法も確立されていて、ネットで検索するとレシピもいっぱい出てくるじゃないですか。なので、このレベルの高さはそういった情報共有の成果でもあるんでしょうけど、いやー、でも本当に参りましたね。
    そんな中でも、僕が好きなのは天下一品とか野方ホープとか、量産型のものなんだけどすごく性能がいい、みたいなものですね。これって、コンセプトで勝っていると思うんですよ。 
  • 『花子とアン』はなぜ「モダンガール」を描き切ることができなかったのか?(中町綾子×宇野常寛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.237 ☆

    2015-01-09 07:00  
    220pt


    『花子とアン』はなぜ「モダンガール」を描き切ることができなかったのか?(中町綾子×宇野常寛)

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.9 vol.237
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、好評のうちに終了した昨年の朝ドラ『花子とアン』をめぐる、中町綾子さんと宇野常寛の対談をお届けします。『やまとなでしこ』『ハケンの品格』で「強い女性」を描いてきた脚本家・中園ミホがぶつかった、「ハードボイルド」と「乙女ちっく」を両立させることの困難、そして「朝ドラ」というフォーマットの今後について考えます。

    初出:サイゾー2014年12月号(サイゾー)
    連続テレビ小説「花子とアン」完全版 Blu-ray-BOX -1
    ▼作品紹介
    『花子とアン』
    演出/柳川強ほか 脚本/中園ミホ 原案/村岡恵理(『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』) 出演/吉高由里子、鈴木亮平、伊原剛志、仲間由紀恵、窪田正孝ほか 放映/2014年3月31日〜9月27日(NHK/月〜土8:00〜8:15)
    『赤毛のアン』の翻訳者である村岡花子(吉高)の生涯を、幼少期から女学校時代、戦前戦後の混乱期とたどる一代記。女学校で出会った親友で歌人の白蓮こと蓮子(仲間)との友情がドラマを通じたひとつの軸となっており、白蓮が準主人公といえる。
    ▼対談者プロフィール
    中町綾子(なかまち・あやこ)
    1971年生まれ。新聞各紙にドラマ評を連載。放送関係各賞の審査委員を務める。著書に『なぜ取り調べにはカツ丼が出るのか?』(メディアファクトリー)ほか。
    ◎構成/金手健市
    脚本家・中園ミホが追求してきた「ハードボイルド」なヒロイン像
    宇野 世間では視聴率的にも内容的にも絶賛が多くて戸惑っているんですが、僕ははっきり言って『花子とアン』がそこまでよかったとは思っていません。確かに、2000年代半ばの本当に朝ドラが低迷していた時期の作品に比べれば数段上です。でも、『カーネーション』(11年後期)、『あまちゃん』(13年前期)、『ごちそうさん』(同年後期)があり、”朝ドラ第二の黄金期”といわれるような最近のアベレージからすれば、二段近く落ちる作品だったことは間違いない。これが名作扱いされるような状況には物申さないといけないだろう、という気持ちがある。
     いろいろ言いたいことはあるんですが、まず前提として触れないといけないのは視聴率問題です。いまの”朝ドラ黄金期”って、視聴率があまり意味をなしていないんですよね。ドラマファン以外も巻き込む力の強かった『あまちゃん』が、『梅ちゃん先生』というあまり見るべきところのなかった作品と大して変わらない視聴率しか取れていなかった。結局のところ、マイルド化された『おしん』とでもいうような「昭和の女の一代記」をやると、昭和の日本人がなんとなくいい気分になって視聴率が上がるという、それ以上のものではない。だから視聴率が20%を超えたからといって、それはなんの指標にもならないと思うんですよね、前提として。その上で、中身を吟味するところから始めたい。
    中町 正直、私もなかなか熱くはなれないドラマでした。先入観として、中園ミホ【1】さんの脚本のテイストと朝ドラ枠の世界観とは合わないだろうと思っていて、実際そうだったんです。中園さんは、最近の作品でいうと『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』(テレビ朝日/12年〜)や『ハケンの品格』(日本テレビ/07年〜)が有名ですが、どちらも決めゼリフがあってキャラ立ちしている人物が主人公。等身大の人物に共感させるのではなく、ヒーロー的な、観ている人をスカっとさせる爽快感のあるキャラ作りが持ち味です。達観しているというか、世を捨てているキャラクターであることも多い。
     一方で、朝ドラのキャラクターは、基本的に前向きですし、身近な存在というイメージが強い。感情移入できることも重要ですよね。その点で相容れないと思ったし、やっぱりうまくいっているようには見えなかった。それでも半年間の放送を通して、最後は多少強引にでもひとつのメッセージを伝えるという朝ドラのスタイルはやっぱりすごいな、と思わされました。
    【1】中園ミホ
    1959年生まれ。88年に脚本家デビュー。手がけた作品は、『やまとなでしこ』(フジ)、『anego』『ハケンの品格』(日テレ)、『はつ恋』(NHK)、ほか多数。女性を主人公にした作品が多い。
    宇野 中園さんは、世捨て人的なヒロインの造形を通じて、”女性のハードボイルド”の語り口を探求してきた人だと思うんですよね。そのことによって、地味な題材をリアルに描いてもドラマ全体は地味にならずに済んでいた。これによってある意味、80年代フェミニズムの批判力を通過した後の「強い女性」のイメージをいかに出すのかということを結果的に引き受けたとも言えるはずです。だから、中園さんが『花子とアン』をやるとなったら、絶対にジェンダー的なテーマが前面化してくると思った。村岡花子【2】と白蓮【3】は、当時としてはモダンガール中のモダンガールだったはずですからね。でもそんなテーマは微塵も現れることがなく、「理解ある夫やイケメンにかこまれて、幸せに過ごしました」みたいな話が延々と続いていて。ちょっと意外だったんですよね。
    【2】村岡花子
    1893年生まれ、1968年没。『花子とアン』の主人公のモデル。山梨県甲府市のさほど裕福でない家に生まれるが、利発だったため父が期待をかけて東洋英和女学校に入学させる。そこで英語を身につけ、同時に文学を学び、英語教師を務めた後に女性・子ども向け雑誌の編集者となる。1932年から41年までラジオ番組『子供の時間』に出演し、「ラジオのおばさん」として広く世に知られた。戦中は大政翼賛会後援団体に参加するなど戦争協力者としての立場を取る。終戦後の52年、『赤毛のアン』の訳書を刊行。
    【3】白蓮
    1885年生まれ、1967年没。フルネームは柳原白蓮(本名・宮崎燁子)。伯爵の妾の子として生まれ、育つ家庭を転々としたのち、望まぬ結婚をさせられる。離婚して実家に戻った後、東洋英和女学校に編入、そこで花子と出会い、互いを「腹心の友」と呼ぶようになる。卒業後、再び家の意向で年齢・身分共にかけ離れた筑紫の炭鉱王と結婚させられるが、不幸な生活から短歌を詠み始める。その活動の中で知り合った年下の社会活動家と出奔し、「白蓮事件」と称された。
    中町 中園さんの描くヒロインは、基本的に”乙女ちっく”なんです。ハードボイルドと乙女ちっくが、違う意味じゃない、というのがすごいところなんですが。『やまとなでしこ』(フジテレビ/00年)でいえば、「私は美貌も持っているしCAだし、ちょっとテクニック使えば合コンでも男性は私のものです。男性なんてそんなもんだとわかっている。だけどね、」っていう、この「だけどね」から始まるところが大事なんです。「私は男性なんてそんなもんだとわかっている」というのはハードボイルドなんですが、クールなだけではダメで、一抹の弱さや優しさ、人間味を持っているのが、乙女ちっくでもあり、真のハードボイルドなんじゃないかと……。
    宇野 なるほど(笑)。宇田川先生【4】なんかはまさに、ハードボイルド的な自己完結と乙女ちっくのハイブリッドを体現したキャラクターですよね。
    【4】宇田川先生
    『花子とアン』劇中に登場する女性作家。花子と白蓮のことを好ましく思っておらず、高慢な態度を取る。戦中は従軍記者として戦地に赴いた。モデルは諸説あるが、宇野千代や吉屋信子ら、原案に登場する当時の人気女性作家たちのイメージが複合されているものと思われる。
    中町 『花子とアン』にハードボイルドがあったとすれば、今回は仕事でも恋でもなくて、最後に語られていた「友情」がそうだったんだと思います。わかりやすい助け合いではなく、それぞれが個々の人生を女も男も生きているし、つながっているようなつながっていないような世の中を私たちは生きているけど、一緒の時代を生きるってこういうことなんじゃない?という。
    宇野 だとするとなおさら、戦時中にもっと花子と白蓮はやりあっていないといけないでしょう。時節柄、刺激したくないのもわかるけど、村岡花子を主人公にする以上、戦争との距離感についてはもっとシビアに描くべきだったんじゃないのかな。というか、中園さんが本当にやりたかったのは、花子じゃなくて白蓮のほうだったんじゃないか。 
  • ロンドンの日本人たち――「世界」に手が届く場所で(橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第4回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.236 ☆

    2015-01-08 07:00  
    220pt

    ロンドンの日本人たち――「世界」に手が届く場所で(橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第4回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.8 vol.236
    http://wakusei2nd.com



    今日の「ほぼ惑」は、橘宏樹による連載「現役官僚の滞英日記」の第4回目です。今回は「ロンドンに在住する日本人は、どのような活動をしているのか?」がテーマ。アジア圏と英語圏の知的交流の架け橋をつくる活動に従事する「不良官僚」、在野で「デザインドリブン」のものづくりを目指すアーティストという、2人の人物に焦点を当てて解説します。


    橘宏樹による『現役官僚の滞英日記』前回までの連載はこちらから。
    こんにちは。イギリスの橘です。
    日本のみなさまは年末年始いかがお過ごしでしょうか。こちらは冷え込みがだいぶ厳しくなり、僕はもうインナータイツを履いています。朝は8時くらいからようやく明るくなり、夕方4時くらいにはほぼ真っ暗になるなど、日照時間は驚くほど短く、晴天も少ないです。イギリス人が夏の間、あんなに陽射しを浴びたがるわけがわかってきました。
    こちらは12月15日の週から約1ヶ月間の冬休みに入りました。クラスメイトたちは、実家に戻ったり旅行に出かけたりと、どんどん旅立って、寮にいる人も少なくなってきました。ちなみに、我々官庁派遣の人間は、二親等以内に冠婚葬祭があるなど、よほどの場合でないと派遣期間中は日本には帰れない決まりになっています。

    ▲古い倉庫の壁にもクリスマスのイルミネーション。

    ▲クリスマスマーケットの様子。
    連載の第1回で、英国とは何なのか、肌で感じる機会を自ら手繰り寄せていかなくてはならない、と書きましたが、僕は、この約4ヶ月の間、勉強の合間を縫って、いろいろな集まりに顔を出すようにしてきました。そうして、ロンドンを中心とした在英日本人のネットワークやコミュニティに接し、いくつかの非常に重要な出会いをしました。今回は、2人の日本人と彼らの活動についてご紹介したいと思います。
    アジア圏と英語圏の知的交流の架け橋を
    友人に紹介された方の誘いで、日系企業の在英駐在員や各国企業に勤める日本人の方々が集まる定期勉強会に出席するようになりました。毎回会員から自分の専門分野についてプレゼンテーションがあり、それについてみんなで議論した後は懇親会というオーソドックスなスタイルです。
    紹介制のクローズドな会なので、率直な意見交換が行われますから、大変、刺激的です。なんとなく、ここは日本ではないというある種の解放感も闊達な議論の雰囲気を支えているようにも思えます。現時点で会員数は100名程度なのですが、既に、イギリスを離れたOBOGも含めるとネットワークとしてはかなりの規模になるのではないでしょうか。
    その勉強会で、僕は、チャタムハウス(王立国際問題研究所)に客員研究員として派遣されている御友重希(みともしげき)氏と知り合いました。

    ▲チャタムハウス正面。建物はいたって小規模。
    チャタムハウスとは
    このチャタムハウスというシンクタンクは、米国ペンシルベニア大学の世界シンクタンク調査『The Global ‘Go-To Think Tanks’』( James G. McGann, University of Pennsylvania, January 2014)によれば、シンクタンク世界ランキング第2位に位置づけられる、独立系研究機関です。
    王立とあるようにトップ(パトロン)は女王で、名誉会長は首相経験者という極めて格式の高い組織です。当然、どの政党や団体の影響下にもありません。しかし、他の一流シンクタンクのように豊富な資金で大勢の研究員や世界中に支部を抱えているわけではありません。
    かわりに、もっぱら権威や歴史的な人脈を活用しながら、少ない資金で外交・安保から地域研究、国際法、資源エネルギー・金融・経済まで、国際問題全般に成果を上げています。
    彼らはロンドンの中心地にあるウィリアム・ピット(大ピット、初代チャタム伯爵)の旧邸宅でセミナーやシンポジウムを開催しています。

    ▲チャタムハウス内でのシンポジウム。日本人も登壇中。撮影可能な回は稀少。
    そこでは、「会議の全体またはその一部がチャタムハウス・ルールで行われる場合、参加者はそこで得た情報を自由に使用することができるが、会議での発言者およびそれ以外の参加者の身元や所属団体は一切明かしてはならない」という通称「チャタムハウス・ルール」と呼ばれる独特の慣習が確立しています。
    これは、いわゆるオフレコの起源とされていて、もともと、第一次大戦後、誰が発言したか分かると暗殺される危険の下、自由な議論を守るための取り決めだったそうです。匿名性と透明性のバランスをとりながら、自由闊達で直裁的な意見交換を保護し促進するための苦心が生んだ名案と言えるでしょう。
    このような、現実を直視した科学的な立論や立場を超えた自由な意見交換の重要性に対する共通理解、対話が行える場を命懸けで守ろうとする努力、そしてそうした場を王立の名前で確保する点は、日本も見習うべきだと思います。
    それにしても、僕がいつも驚くのは、イギリスではこれらの業績が、必ずしも誰か個人の功績として語られていないということです。きっとリーダーはいたのでしょうが、コミュニティやネットワーク全体の意思として集団的に成し遂げられた側面が強いからではないか、というのが僕の仮説です。
    持ち前の権威と歴史のレバレッジ(テコ)を最大限に効かせて、なるべく自分の力(お金)を使わないで情報を集め、付加価値をつけて発信するというあたりは、英国的戦略の真骨頂として、まさに僕が感じているところです。世界最強を誇る現在のイギリスの金融業も、まさに情報戦とレバレッジの世界ですよね。
    チャタムハウス客員研究員・御友重希氏
    このチャタムハウスに、日本国財務省は2年任期で客員研究員のポストに職員を派遣しています。御友さんで11代目になります。日本ではあまり報道されなかったのかもしれませんが、2013年6月にチャタムハウス関連イベントで安倍首相が講演しました。これは日本の首相としては鈴木善幸氏以来30年ぶりです。そんなに間が開いていること自体が、日本が海外発信をしていないことの現れですが、御友さんはその講演を好機として、2014年の1~5月にチャタムハウスで、アベノミクスに関する5回連続の研究討論会を企画しました。

    ▲御友重希氏。
    さらに、チャタムハウス主催のシンポジウム(麻生財務大臣、内山田トヨタ自動車会長が基調講演)を名古屋大学に招致するなど、日本を代表する産官学のリーダーに世界に直接発信する企画を実現されました。その成果は『日本復活を本物に ――チャタムハウスから世界へ』(2014年、きんざい)にまとめられています。
    こうした成功は、戦略がすぐれていただけでなく、「私は『不良官僚』ですから」と笑う御友さんの温厚で陽気な人柄や、「ロンドンに来ましたらですね、やっぱりいろんなことができますでしょう。そうしたら、やってみたくなりましてですね」と仰るとおり、チャレンジを続けてこられた底なしの行動力と、ひたむきさの賜物だと思います。
    一般財団法人CIIE-asiaとは
    御友さんは、こうした経験から、アジア圏と英語圏の間の知的交流の架け橋を担う活動を始めました。2014年6月には、氏を中心に「アジア版チャタムハウスをつくろう」と、日本の発信力強化や日英の一層の知的交流を願う英国内で活躍する日本人、元外相、東大教授等の有識者が集まり、一般財団法人CIIE-asia(Anglo-Japanese Centre for International Intellectual Exchange Asia-Pacific)が設立されました。評議員には日本人で史上初イギリスの長者番付に入った有名ヘッジファンド創業者も入っています。
    今後はネットワーク型シンクタンクとして、アジア圏とアングロサクソン圏の知的交流を促進していく予定です。例えば、2015年3月15日には国連防災会議と関連した東北大での国際シンポジウムの主催、7月下旬には薩摩藩から19名の留学生が渡英してから150周年を記念する事業を、ガンジーや夏目漱石が留学したことでも知られるUCL(University College London)と共催で行います。そのほか日本国内でも、阪大、名古屋大等と国際的な学術交流を企画しています。
    また、日本語を含む地域言語で生産され、英語圏に発信されないまま消費されている、アジア圏の優良な言論を英訳し、CIIE-asia関係者がこれまでイギリスで培ってきたシンクタンク研究員、大学教授、企業人、金融機関、官僚、政治家等の、政財官学界にまたがる英国人有識者数千人に対して直接メールマガジンを配信するメディア事業も展開していく予定です。
    日本はじめアジア各国では、大手新聞も英語版WEBサイトを持っていますし、学者も一定数の英語論文を発表してもいます。しかし、少なくとも日本に関しては、それらの発信内容が国内の言論空間をどの程度代表していると言えるか、はなはだ疑問です。では、お隣の中国はどうかといえば、残念ながら未だに言論・学問の自由が制限されています。そういうわけで、東アジアの政治経済社会情勢をめぐる、より冷静で公平な俯瞰的視座に富む高水準のジャーナルに対する需要は、イギリスでは非常に高いのです。
    僕が御友さんのことを書くのは、別に身内贔屓をしたいからではありません。マスコミに報道されないところで、官僚が具体的にどういうことをしているかを知ってもらいたいからです。特に、御友さんの場合は、リスクもコストも個人で引き受け、自分から動いたわけです。官僚もこうした形で公益、国益に貢献していることは広く理解されていいと思います。
    さらに、こうした動き方をする官僚を国民が支持してくださると良いなと願います。公務員というと「命じられたまま職務を淡々とこなす」と思われがちですが、報酬を受け取らず、政治的に中立な活動であれば、公益活動に携わっても良いと規定されています。実際、NPO活動に関わる公務員の数は確実に増えています。
     
  • "つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.235 ☆

    2015-01-07 07:00  
    220pt

    "つながるのその先"は存在するか(稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』第4回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.7 vol.235
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、好評連載『ウェブカルチャーの系譜』第4回をお届けします。今回は「ウェブカルチャーの系譜」を辿っていくための補助線として、思想家・浅羽通明のメディア/コミュニケーション論を読み解きます。90年代前半の「ゴーマニズム宣言」にも強く影響を与えた浅羽通明という気鋭の論客は、なぜゼロ年代に迷走に陥ったのか――。「オナニスト」「職能の協働」をキーワードに、その限界と現代的意義を問い直します。
    稲葉ほたて『ウェブカルチャーの系譜』これまでの連載はこちらから。
     博報堂ケトルの嶋浩一郎氏が以前、(正確な言い方は忘れたが)BRUTUSで「ソーシャルメディアの登場以降、一般的なニュース記事が受けるようになってきた」ということを話していた。これは筆者にも実感がある。実際、現在でもポータルサイトのトピックス流入などでは、硬派な政治や経済のニュースにPVが集まることは少なく、そんな記事よりも「きのこたけのこ戦争」や「ノーバン始球式」の方が遥かに高いアクセスを叩き出す現状がある。しかし、そのくせFacebookのような場所では、妙に政治や経済のニュースが流れてくる。
     その記事で面白かったのは、確か嶋氏がその理由として「ソーシャルメディアでつぶやくから」と言っていたことである。そう、TwitterやFacebookで自分が見ているニュースをつぶやくことは、自分がどんな記事を読んでいるかの態度表明なのだ。そのとき、普段は「はちま起稿」だの「netgeek」だの「ロケットニュース」だのばかり読んでいる人間であっても、Facebookでは知的な仲間たちに向けて朝日新聞のピケティの書評記事でもつぶやいておくかと考える。まあ、ありそうな心理ではないだろうか。
     実際、筆者自身もタイトルをつける仕事をする際には、多少の釣り要素を考慮すると同時に、それをTwitterでつぶやいた人が周囲に良い顔が出来る文言になるように気をつけている。これは実感ベースではあるのだが、極端に不快であったり、内容からかけ離れた釣りタイトルの記事は、アクセス率は高くなるものの、やはりつぶやかれる確率は下がっているように思う。
     いずれにせよ、こういう話から見えてくるのは、単純にニュース記事を消費すると言っても、そこに他者の目があるか否かで、そのあり方や拡散の度合いは大きく違ってくるということだ。一方でそれを意識するかは、アーキテクチャの問題であると同時に、当人の自意識の問題でもある。それは、かつてリアルの満員電車において、おしゃれな表紙の雑誌を見せびらかす自意識過剰な若者がいた一方で、堂々とスポーツ新聞のエロ記事を他の乗客に向けて読んでいたオッサンもまた、いくらでも存在していたのと同じことである。
     前回から私が、電話という原始的な形態のコミュニケーション媒体に的を絞って、一種の他者論を展開している理由の一つは、まさにここにある。電話のアーキテクチャそれ自体に注目すれば、それは一対一で人間がコミュニケーションしあうメディアである。しかし、そこにおいてすらも電話の向こう側にいる他者をどのようにイメージするかは、究極的にはユーザーに委ねられていた。
     では今回、私たちが考えるのは、一体どうイメージされた他者なのか。私は前回、富田英典は他者と1対1の関係を取り結ぶ場合を考え、吉見俊哉は1対Nの関係を取り結ぶ場合を想定しているとした。その比喩で言えば、ここで考えるのは、言わば「1対ゼロ」の関係とでも言うべきものだ。そこでは、人間は自分とのみ関係を持つ。あるいは、この言い方が持って回って響くなら、単純に「孤独」なユーザーたちと言ってもよい。これが最後の電話ユーザーの類型である。
     この「孤独」にインターネットで活動するユーザー像というのは、かつてのネット論においてはむしろクリシェだった。例えば、パソコン通信、ホームページ、2ちゃんねるなどの匿名掲示板……そうした場所は事実、社会からも家族からも切り離された「個室」で孤独に展開されてきた趣味や自己イメージが、膨れ上がった自我そのままに表出したような空間だった。だが、そうしたパソ通やHPの思い出も、もはや「黒歴史」という言い方で回顧されることが増えた。この言葉の台頭がソーシャルメディアの流行に伴い、リアルグラフとネット上のバーチャルグラフが一致していく時期に当たっていたのは象徴的だ。
     その一方で、この「個室」における孤独な消費は、現在も静かに拡大を続けている。例えば時折、有名サービスのレコメンデーションやランキング機能に思わぬ商品が登場して話題になることがある。数年前には、Amazonで硫化水素入りのトイレ洗剤のページに、ポリ袋などの商品がレコメンドされることが話題になった。あるいは先日、筆者が体調を崩してAmazonで健康グッズを調べていたところ、ジャンル内の人気商品として巨大なバイブレーターが登場してきて、思わずのけぞった。もちろん、多くの日本人にとって肩こりは悩みの種であるが、さすがにこれを多くの人間が必要とするほど病が進行しているとは思えない。

    ▲Googleで「夫 こ」と打ち込むとこのように表示されます……。
     こんなふうに誰の目も気にせず孤独に使う類のサービスで集積されたデータが、ふいにランキングやレコメンデーションという形で「表象」の場に引きずり出されたとき、私たちはギョッとする。それは、「孤独」に利用するインターネットというあり方を、いかに私たちが意識の奥に追いやっているかを静かに告発する。だが、他者の視線に晒されてFacebookやLINEを使う時間と、一人Amazonやpixivで気の向くまま消費活動を行う時間―― 一体、本当のあなたはどっちにネットの時間を割いているのだろうか?
    「忘れられた思想家」浅羽通明
     さて、そろそろ本題に入ろう。私は今回、この「1対ゼロ」、すなわち「孤独」な電話ユーザーのことを考えた一人の思想家について考える。彼は、そんな電話ユーザーたちを「オナニスト」と呼び、激しく批判した。そして彼は、ほとんどその後の作家人生を賭けて、この問題を考え続けた。その人物の名を、浅羽通明という。 
     もしかしたら、PLANETSの読者には、この名前に懐かしい感情を抱く人は多いかもしれない。だが、多くの読者は聞いたこともないだろうし、もはやWikipediaに書かれていること以上に、手短に浅羽を説明するのも相当に難しい。
    浅羽通明 - Wikipedia
     例えば、彼がかつて小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』にブレーン的に関わっていたと言っても、いまやその後に『戦争論』を書いた小林が一周回ってネトウヨの敵になっているという、タイムマシンに乗って当時の読者に話したらキョトンとされそうな時代である(いや、意外とそうでもない……?)。同様に、当時の浅羽の「おたく」批判も、現代ではもはや文脈を違えてしまった。その矛先は大塚英志のような彼と同世代のインテリ趣味人としての「おたく」、後の言葉を使うならば「第一世代オタク」に向けられたものであって、そこにこそ彼の「おたく批判」と「知識人批判」が同一の地平で行われる理由もあった。しかし、既にオタクの世代も何度も入れ替わり、今や「ヲタ」は単なる趣味のカジュアルなカテゴライズ以上のものではなくなっている。
     しかも、浅羽はインターネットを嫌っていた。そのことは、後述するライブドア事件に寄せた識者コメントや、その認識の延長線上に書かれた『昭和三十年代主義』(幻冬舎・2008)を読めば分かるように、近年の彼の言論からアクチュアリティを奪っている。
     だが、それでもなお浅羽が問い続けたテーマを、私たちは考え直さねばならない。それは、こうして彼の問題意識が失効されていった過程に、現代を覆う消費社会の中でのインターネットの立ち位置もまた見えてくるからである。したがって今回は、この浅羽を通じてネットと「孤独」を考える。実のところこの話題、本連載における主題(※)からは些か脱線気味なので、サラッと片付けるべきだとも思ったのだが、重要な割にほとんど議論されていない問題でもあるので、むしろ一回分を割くことにした。おそらく、本メルマガが事業者に取材して回っているECサイト等の生活系サービスや検索エンジンの問題系、あるいは尾原和啓氏による連載「プラットフォーム運営の思想」を読者が考える補助線になるはずだと思う。
     
    (※)前回にも記したように、本連載はむしろ吉見俊哉の「1対N」のモデルに大きく寄せて、ユーザー文化論を展開していく予定である。
    浅羽とオナニスト――1.なぜそれは"おぞましい"のか
     まずは、浅羽の考えるオナニストとは何かを確認しよう。

    「他者は、それが一個の人格である以上、「私」と同じように、「私」を眺め、「私」を観察する。他者には視線があるのだ」(『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』p86)

     これは著作『澁澤龍彦の時代―幼年皇帝と昭和の精神史』(青弓社・1993)で浅羽が引用した、澁澤龍彦のエロティシズム論の一節である。浅羽は視覚とエロティシズムを結びつける視覚的な快楽の追求(「眼の欲望」)が、強引に対象を切り取り、対象をモノと化す行為であることを指摘する。そして、それが同時に「私」を観察する異性という他者への怯えと裏腹であることを指摘して、こう語る。

    「かくして「眼の欲望」の時代は、その裏面としての女性の視線におびえる童貞青年が増大する時代となる。彼らは「視線を意識しないで済む」「物(妄想のなかの死んだ相手)」が相手でなければ、性行為ができないオナニストたちなのである」(同書p86)

     ここで浅羽は「視線」を媒介にして、オナニストを説明している。せっかくなので、前回までの議論とこの浅羽の論を接続してしまおう。吉見にとっての「電話(伝言ダイヤル)の相手=他者」とは、演劇場の観客のような複数形の「他者」の眼差しとしてあった。しかも、それは未来から投射される故に、原理的に制御できない受動的なものだ。一方で、富田にとっての「電話(ツーショット)の相手=他者」とは一対一で向き合う、現在進行形で調整可能なものとしてあった。そこでは都市で登場するような見知らぬ他者を排除した、親密でほとんど自分と一体化した存在として他者をイメージできる。それは最終的に、互いに鏡写しに自らの視線の反射を確認しあうような姿になる。
     それに対して、オナニストにはそもそも自らを眼差す他者がいない。その代わりに、ただ徹底的に能動的に対象を眼差すのである。浅羽は、この眼差しの特徴について、「見るという関係性が優先してしまうと、もはや相手と溶け合うことができない」と表現する。その眼差しが人間に向けられたとき、それは極端に視覚に偏った、相手の内面に宿る個別性を徹底的に無視する、類型的で表層的な人間把握へと至る。そして浅羽は、その志向が一線を越えたときに、博物館の陳列ケースに過去の剥製を蒐集し続けるが如き、自立したデータベースを築く意思が生じるという。まさに"おたく"である。
     実は、このオナニストが浅羽の著作に現れたのは、このときが初めてではない。例えば、遡ること四年前のブックレット『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする』(JICC出版局・1989)所収の「伝言ダイヤル症候群 どこかの誰かが上手くやっている」において、それは主題として論じられた。これはまさに伝言ダイヤルについて、若き日の浅羽が論じた文章でもある。
     この中で浅羽は強い調子で、ほぼ全編にわたって伝言ダイヤルを批判した。それは激しく感情的なもので、例えば後に評論集『天使の王国―「おたく」の倫理のために』(JICC出版局・1991)で同時に収められたセブン-イレブンを巡る、ほとんど現在のコンビニ論としても通用する理知的かつ網羅的な論述とは、対照的でさえある。ここで興味深いのは、浅羽が吉見とは全く別の認識で「伝言ダイヤル」を捉えていることだ。例えば、冒頭で浅羽は、吉見が「間接話法」と呼んだ伝言ダイヤルの話法を、にべもなくこう切って捨てる。

    「彼らの話法が、とんねるずに代表されるTVのバラエティ番組の若い司会者もしくはラジオのパーソナリティの語り口のコピーであることはまず明らかだ。それは多少の訓練で即、口をついて流れ出してくるくらい、彼らの耳に親しい話法なのだろう」(『伝言ダイヤルの魔力 電話狂時代をレポートする』p32)

     
     日本のカルチュラル・スタディーズの第一人者・吉見俊哉が、後に「他者のまなざし」を観客とした即興劇として描いた伝言ダイヤルも、気鋭の若手おたくライター・浅羽の手にかかれば、単なる芸人口調の安易な劣化コピーでしかない。では、浅羽にとっての伝言ダイヤルとはどんなものか。浅羽は、見知らぬ他者のコミュニケーションが、本来は相互警戒のプレッシャーを解く場面から始まることを指摘する。しかし、伝言ダイヤルではそれを失わせるどころか、声と断片的情報しかないことから、むしろ手前勝手な妄想を相手に抱けるのである。

    「相手方の他者性は希薄となり、半ば己の妄想を相手とする相互オナニー的交流が始まることになる。部外者にはなんとも異様に聴こえる演技過剰な伝言メッセージの語りの定形は、自分の他者性を希薄化するためのルールに他ならない。それは相手も当方も、他者ではなく己の妄想を相手にすれば済むように、各自を声のオナペット化する技術であった」(同書p33)

     ここでも、吉見と浅羽の論はすれ違う。吉見においては、むしろ自己の声さえも他者性を帯びるのが、伝言ダイヤルにおける発話だったからだ。一方でこの認識は、吉見よりもむしろツーショットにおいて富田が指摘した「ナルシシズム」に近いようにも見える。だが、ここでは自らの欲望を動物的に満たす対象=オナペットとして、相手が利用されている。比喩的に言えば、富田において電話相手は自分自身だが、浅羽にとってはただの妄想にすぎない。そして、富田は実はこうした電話コミュニケーションを現代人が自己愛を調達する手段として必ずしも否定的に捉えてはいないが、浅羽の認識においてはもはや自己愛すらも存在しないのだろう。あるのは一方的な眼差しであり、ただコンビニでオニギリを買うように、即物的な欲望のはけ口として相手を消費する行為だ。若き浅羽はその醜悪さに唾棄する。

    「どことなく長電話に伴う後ろめたさ、いたずら電話やテレフォン・セックスの醜悪さも、おそらく他者である相手を、オナペットと化して、相互にオナニーを楽しんでいるというおぞましさに由来するのだろう。費やされる膨大な性的想像力によって電話の彼方の異性を、こちらの思うがままのオナペットと化す点において、ヌードや下着から性的欲望を喚起する視覚によるオナニズムの場合とはまた異なって、電話のオナニズムはおぞましい」(同書p33)

     浅羽の論はその後『メンズ・ノンノ』が創刊された1985年頃に、社会に"普遍的な"「オナニズム」が誕生したとして、消費社会論の視点からその成立の分析を展開させていく。その内容そのものも興味深いが、むしろ重要なのは、オナニズムに対する浅羽の興味が、消費社会論と強く結びついていたことそれ自体だろう。浅羽は消費社会そのものの達成には極めて肯定的な思想家だった。だが、そんな彼がここでは激しく動揺し、終始書きなぐるようにして憤り続ける。それはなぜなのか。
     先に挙げた著作『澁澤龍彦の時代』も、実はこの電話論で表明された「憤怒」の延長線上に位置づけられる。糸井重里の西武百貨店のコピー「ほしいものが、ほしいわ」に象徴される消費社会とは、まさに他者の目を気にしないまま「孤独」に欲望を満たす生き方が(都市の若者には)可能になった社会でもあった。その「オナニスト」の生き方こそが、浅羽もその一人であったおたくやニューアカに純粋な形で象徴される、消費社会に登場してくる新しい「生」のありようであった。
     だが、それは当時の浅羽の目には危機に瀕していた。本の冒頭で浅羽は、同世代のニューアカ周辺にいた物書きたちが、チェルノブイリ原発、湾岸戦争の光景、そして何よりも埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)に激しく動揺し、浮き足立ったことを苦渋とともに語る。その動揺の所以は、浅羽が語るところでは、自らの自閉的な生き方のもたらす末路を、そうした事件の陰惨に見出したからであった。とすれば、伝言ダイヤルにおける浅羽の動揺もまた、まさにその点にこそあったのではないか。例えば、浅羽は伝言ダイヤルにおけるオナニズムの、情報の交換と己の妄想によるイメージ補填に、一種のワナビー構造を見出している。互いに芸人口調を真似し合い、「上手くやってる」ナンパ師になった気分を味わい合う。その怠惰な遊戯に、当時の浅羽はほとんど国の危機すら憂う調子で筆を進める。だが、そこには後に、彼がニューアカ批判の文脈で反省的に語った、自身の似姿を見出してはいなかったか。
     そして、そんな最中に浅羽は「オナニスト」であることに堂々と居直るばかりか、それをモラルの糧とした澁澤の文章に出くわし、瞠目したという。浅羽にとって、人形やゴチックを愛好した異端の文学者・澁澤龍彦とは、まずはそんな「オナニスト」の青年たちの早すぎた先駆者としてあった。そして、1993年の浅羽がこの『澁澤龍彦の時代』で問うたのは、早すぎた「オナニスト」であるはずの澁澤が、何故に健康で、意外にもモラリストの相貌さえある精神性を保ち得たのかという問いだった。つまりは――なぜ澁澤龍彦は宮崎勤にはならなかったのか。その謎をひたすらに追求したこのとき、浅羽の「オナニスト」は克服さるべき消費社会の時代精神となった。そして、その最終的な解答は、小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』と並走した90年代の充実した成果を経て、「世間」「分際」「職能の協働」などの一連のキーワードからなる処方箋へと結実していくことになる。
    浅羽とオナニスト――2.処方箋としての「職能の協働」
     では、その最終的な解答とは何だったのか。それはある時期以降の浅羽が何度となく取り上げた劇作家・福田恆存の、この言葉に行き着くのではないか。

    「人間は生産を通じてでなければ附合へない。消費は人を孤獨に陥れる」(『消費ブームを論ず』福田恆存)

     
  • 宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.234 ☆

    2015-01-06 07:00  
    220pt

    宇野常寛書き下ろし『「母性のディストピア2.0」へのメモ書き』第1回:「リトル・ピープルの時代」から「母性のディストピア2.0」へ
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.6 vol.234
    http://wakusei2nd.com

    『ゼロ年代の想像力』から7年、『リトル・ピープルの時代』から3年――。2015年の「ほぼ惑」は、批評家・宇野常寛の次なる著作『母性のディストピア』単行本化に向けた連載を配信します。カルチャー批評や情報社会論にとどまらず、より長いスパンで「戦後日本の文化空間とはなにか」を問いなおしていきます。
    「母性のディストピア」を放置した理由
     こんにちは。これからしばらく、不定期で新著の準備のためのメモ書きというか、エッセイのようなものを連載していきたいと思います。新著と言っても、それはもう5年も近く前に文芸誌に連載していた「母性のディストピア」という評論を単行本にする企画なので、個人的にはむしろ懐かしい名前だったりします。
     既に十三回分の連載原稿があるのだから、さっさとそれをまとめて本にすればいい、と思う人も多いかもしれません。しかし、そうはなかなか問屋がおろさない。なぜかというと、まずは当時の連載で僕が扱っていた問題の何割かは4年前に出した僕の代表作「リトル・ピープルの時代」で扱ってしまったという事情があります。少なくとも、大幅なリライトをしないと内容的にセルフリメイク感の強いものになってしまうことは間違いありません。これはほとんど、僕と出版社の関係の問題というか、僕の仕事計画の問題でそちらの企画が先に出版されてしまったので、この企画は割りを食ってしまったという身も蓋もない話があります。そしてもうひとつ、「母性のディストピア」の単行本化に慎重になった理由は、この連載で僕が扱ったテーマのうち、「リトル・ピープルの時代」で扱わなかったものがいまの自分にとってあまり大切なものではなくなってしまった、ということが挙げられます。
    「リトル・ピープルの時代」回顧
     少し解説しましょう。「ゼロ年代の想像力」以降、僕が考えていたことは大きく分けて二つです。ひとつは、「大きな非物語」をどう記述するかという問題、もうひとつは「政治と文学(社会と個人)」の新しい関係をどう記述するか、という問題です。かんたんに言い換えると、かつてのように個人と社会が物語によって結ばれなくなったとき、社会をどうイメージするのかという問題と、人間は世界とどう関わるのか、という問題のふたつです。「リトル・ピープルの時代」はこの二つの問題について、震災と村上春樹と仮面ライダーを素材に考えた本だと言えます。
     2011年の3月、この国を襲ったあの震災は、大方の予測とは裏腹にかつての敗戦のようには機能しなかったはずです。個人がそれをどう評価するかはともかく、敗戦という物語は国民の大半が共有し、少なくとも文脈共有のレベルでは日本をひとつにしていたのに対して震災のそれはむしろこの社会が既にばらばらであることを露呈させたわけです。東北、関東、西日本といった地域差はもちろん、福島の原子力発電所事故への評価は無数の陰謀論を産んでもはや収拾がつかないレベルに達しています。
     あるいは、かつての敗戦が1945年8月の前と後ですっぱりとこの国を書き換えたのに対して、この震災は決定的な変化を社会にもたらすことはないが、しかしその前後では確実に変化が起こっている、といった奇妙な状態を僕たちにもたらしています。長く続く余震や、長期化する被災地復興、特にその処理に数十年を要する原発事故の性質もあり、日常の中に非日常的なものがランダムに現れるような感覚が常態化しています。
     要するに、横の広がり(空間)においても、縦の広がり(時間)においても、現代において僕たちは少なくとも70年前のようなかたちで大きなもの、国家や社会をとらえてはいない。では、それはどのようなかたちを取っているのか、そしてこうした世界で僕たちはどこに社会に関与していく根拠を得たらいいのかという問題を扱ったのが「リトル・ピープルの時代」です。
     ただ、今振り返ると――これはむしろ僕がこの本を自分の代表作だと思っている理由なのですが――この本の大半は後者に、つまり、「大きな非物語」が支配する世界の構造(を人間がどう捉えるか)を記述することではなく、むしろそうした新しい世界をどう生きるのかという問題を「正義」の問題として考えている部分の記述が圧倒的に多い。