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大作シリーズの間隙で到達したゲームデザイン進化の極相〜『ガンパレ』『ICO』『塊魂』(中川大地の現代ゲーム全史) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.323 ☆
2015-05-15 07:00220pt※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
大作シリーズの間隙で到達したゲームデザイン進化の極相〜『ガンパレ』『ICO』『塊魂』(中川大地の現代ゲーム全史)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.5.15 vol.323
http://wakusei2nd.com
本日は、月2回連載となった『中川大地の現代ゲーム全史』最新回をお届けします。今回のテーマは、PS2発売前後の端境期に登場した『ガンパレ』『ICO』『塊魂』といった異形の佳作たち。そのゲーム史的なインパクトを改めて振り返ります。
「中川大地の現代ゲーム全史」
第9章 和ゲー成長期の終わり/二極化してゆくゲーム産業
2000年代前半:〈仮想現実の時代〉終期(5)
前回までの連載はこちらのリンクから。
■『ガンパレ』現象で爆発した「汎ゲーム」的な事件性
プレステ2の登場前後でゲーム開発が大規模化し、すでに確立された定番シリーズ以外のヒットが出づらくなる中、まったく新たなゲームジャンルが勃興して多くの追随を生むような頻度は、顕著に衰えを見せ始めていた。1990年代後半の玉石混淆の試行錯誤の時代に、ポリゴン表現やマルチメディア媒体を活かしてなしうる新たなゲームデザインのレパートリーはあらかた出尽くし、もはや画期的な開拓を行える余地が限られてきてしまったためだ。
しかしながら、業界全体の大きな潮流となることはなくとも、中小規模のディベロッパーやクリエイターたちが手がけるタイプの作品の中には、イノベーションのハードルが大きく高まったことを受けて、きわめてアイディア的に研ぎ澄まされたタイトルもまた少数ながら誕生していた。おそらくこの時期は、据え置き型ゲーム機でプレイできるスタンドアローン型のゲームという枠組みでは、「ゲームでしかなしえない体験とは何か」という問いを徹底して追求する斬新な傑作が登場した、最後の歴史的タイミングであった。それはちょうど、文学や美術、音楽といった先行芸術ジャンルが、20世紀後半以降は自らが芸術として成立しうる条件を自己言及的に追求していく段階に突入したのと、同様の史的変遷だったと言えるのかもしれない。
『FFⅨ』や『ドラクエⅦ』が発売された初代プレステの末期、ひっそりと発売された『高機動幻想ガンパレード・マーチ』(SCE 2000年)は、そうした前衛的な作品群の中でも、とりわけ特異なムーブメントを引き起こしたタイトルであった。熊本に本社を置くディベロッパーであるアルファ・システムの制作による本作は、第二次世界大戦後に突如として人類を襲った「幻獣」との戦争が続く世界で、人類の最終防衛線となった熊本にある実在の高校をモデルにした戦車学校を舞台に、人型戦車「士魂号」の小隊に配属された学兵たちの日々の訓練や交流といった学園生活と、襲来する敵との局地戦とを有機的に結びつけて構成された学園・戦争SLGである。
▲『高機動幻想ガンパレード・マーチ』(SCE 2000年)
このゲームの大部分は、実在のモデルを元に描かれた学園と周辺スポットの小さな空間内で、小隊を構成する22人のクラスメイトや教師たちNPC(ノンプレイヤーキャラクター)たちと日常的にコミュニケーションをとりながら訓練や整備などの行動を共にすることで、互いの戦闘能力値や技能、発言力といったパラメーターを高め合いつつ、恋や友情を育んだりできる育成・恋愛シミュレーション的な「学園モード」で過ごされる。AIの制御で自律的に行動するNPCたちはそれぞれプレイヤーと同等のコマンド選択肢をもち、あたかも誰か自分以外の他人が操作しているかのように振る舞う。いわば「擬似オンラインRPG」とでも言うべき仕様だ。
そうした「自由」な日常を寸断する非日常として来襲する「戦闘モード」には、ターン制の戦術級シミュレーションRPG(SRPG)的なシステムが採用されている。が、従来のSRPGとは異なり、操れるのは自分のキャラのユニットのみ。戦場にあってもAIの制御する戦友たちは、あくまで意思を持った他者として行動する。つまり、戦友たちとともにままならない状況の下に置かれるという限定的な視点を提示した。これは、ミクロなキャラの立場や心情に即した日本ゲームらしい思いの馳せ方を、マクロな視点から冷徹に戦況をモデル化する欧米のウォーゲーム的な原理に埋めこみ、レベルの異なる認識を接続する、新たな戦争表現の方法でもあった。
ゲームはこうした「日常」と「戦場」の繰り返しで進められるわけだが、両モードが緊密に連関し、自分の行動がほかのキャラクターとの関係や戦いを通じてマクロな状況を変え、そして自分にも跳ね返ってくるという生々しい手触りは、擬似オンラインRPG的な見立てをさらに超え、あたかもプレイヤーがプレステで稼働する『ガンパレ』という端末を通じて、別世界の〝もうひとつの現実〟にアクセスしているかのような錯覚さえもたらしたのだ。
グラフィックやサウンドなどの演出は、いかにも低予算のマイナーゲームといった体裁ながら、本作が実現した体験の圧倒的なコンティンジェンシー(偶然性)の高さと奥深さは、筋書きの定まった大作ゲームに倦んでいたコアなゲームファン層からの熱狂的な支持を獲得する。宣伝費がほぼゼロに近く、ほとんどの大手ゲームマスコミに存在を認知されない中、むしろその逆境がファン心理に火をつけ、口コミやネットでのボランタリーな〝布教〟を焚き付ける結果になったからだ。ちょうどインターネット上では、パソコン通信の会員制フォーラムなどで培われた文化がスライドするかたちで、より多くの人々が目にするテキストサイトやBBS(電子掲示板)にて口コミが広がる土壌が広がっていたため、既成のメディアによらないムーブメントに拍車をかけたのである。
つまりはゲームの内容と同様、大手メーカーやマスコミの定める意外性のないヒットの傾向に抗い、自分たち自身が発掘して育てたというプリミティブな高揚感を、期せずしてファンたちに提供することができた点が、本作のスマッシュヒットの特徴であった。
そして本作が際立っていたのは、こうしたゲームの内外で起こったプレイヤー主導型のムーブメントをさらにまなざし返すかたちで、開発者サイドが自社の公式サイトを利用して、常識的な広報宣伝サービスの範疇を超えた〝もうひとつのゲーム〟を仕掛けた点にある。
『ガンパレ』のゲーム中には、NPCたちの台詞やインターフェースの演出を通じて、ゲーム上で各キャラクターや世界観上の設定にまつわる「世界の謎」が、断片的にのみ示されるという仕込みがなされていた。これに対応して、公式サイト上にはファンの交流用などのBBSに加えて「世界の謎」専用の掲示板が設置され、本作のゲームデザイナーである芝村裕吏がユーザーからの質問にこまめに応答してゆく。「幻獣はなぜ人類を襲うのか?」「謎めいた台詞でプレイヤーに対して直接語りかけてくるあのキャラクターは何者か?」「この世界はループしているようだが、その真相は?」
日夜寄せられるそんな問いに対して、芝村は単純に回答するのではなく、巧みなヒント出しやはぐらかしによって、プレイヤーに自ら真相を考えさせる方向へと徐々に誘導。これに応答した一部プレイヤーたちとの間で、最終的には期日までに『ガンパレ』に仕掛けられた「七つの論理トラップ」なるお題への正解を言い当てさせる、ウェブ上でのライブ推論ゲームが展開されたのである。
この顛末で特筆すべきは、一見すると『ガンパレ』というゲームの外でユーザーコミュニケーション主導で起きた自然発生的なムーブメントに見えるこの「謎」ゲーム自体が、実はアーキテクトたる芝村が周到に仕掛けた「GPM23」なる儀式魔術であったというフィクショナルな見立てが施され、本作の世界観体系に組み入れられてしまったことである。すなわち「GPM23」とは、「現実世界と並行する〝実在の〟ガンパレード世界の仲間たちを救うために世界を渡ってきた男が、向こうの世界での出来事をモデルにしたゲーム『ガンパレ』を制作・発売。それを呼び水にプレイヤーたちの集合知をネット上で結集することで、その同一存在としてガンパレード世界に〝23人目のクラスメイト〟を発生させ、世界間干渉を行おうとした儀式魔術であった」というのが、「七つの論理トラップ」を突破した果てに小説形式で公式サイト上に公開されて明らかにされた、最終的な〝真相〟であった。まさにゲームで描かれる虚構とネット上でリアルタイムに進行した現実の出来事との垣根を取り払い、プレイヤーたち自身が「何をさせられていたのか」を自ら探求するという、他のメディアではなしえない究極のメタフィクションが実現していたわけである。
前章でみたように『moon』や『serial experiments lain』など、前世紀末にはゲーム機のインタラクティブなメディア特性を活かして虚実を曖昧化し、プレイヤーの存在自身を劇中に引きずりこむ自己言及的なメタフィクション構造をもったジャンル批評的なタイトルは、すでに複数登場していた。本作のケースが特異だったのは、その体験をパッケージゲーム内だけで完結させず、それをめぐるインターネット上での現実のユーザーコミュニケーションに拡張したことによって、よりメタフィクション表現としての徹底性が高まったことにある。
つまり、『moon』ならば「主人公の男の子がゲーム内ゲームの世界に落ちていく」という『はてしない物語』式の古典的な異世界ファンタジー様式のシナリオという、『lain』ならばプレイ中のゲーム機を劇中世界のネット端末に見立てるという、制作者側の用意した嘘をプレイヤーが受け入れる心理的な手心が加わることで、メタフィクションが成立していた。しかしながら「GPM23」における〝真相〟設定では、そうしたフィクショナルな見立てすら排し、「プレイヤーは(あたかも劇中世界に『lain』式にアクセスしているかのような諸々の演出的フェイクがあったのとは裏腹に)あくまでも『ガンパレ』というただのプレステ用のゲームソフトをプレイしていたに過ぎない」という、身も蓋もないリアリズムが貫徹されている。BBS上での「世界の謎」をめぐる議論自体も、同様にただのウェブ上でのコミュニケーション行為に過ぎない。
しかしそうでありながらも、原理的には存在するともしないとも言い切れない感知不可能な〝もうひとつの現実〟の世界で生きる、劇中キャラのモデルになった〝本物〟の仲間たちについては、彼らを実在の人間のように愛した『ガンパレ』ファンたちによる熱狂的ムーブメントのおかげで助けられたかもしれない。そんなプレイヤー個々の心理には依存しない手心抜きの「論理的可能性」を、きわめて展開自由度の高いスタンドアローンゲームと集合的なネットコミュニケーションの併せ技によって、芝村は(入り組んだ世界法則の議論についてこれた人々に対しては)納得的に示してみせたのである。
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もう〈出版社〉はいらない(宇野常寛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.321 ☆
2015-05-13 07:00220pt※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
もう〈出版社〉はいらない(宇野常寛)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.5.13 vol.321
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本日は、宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」最終回をお届けします。宇野常寛自身が、今後どのような仕事を進めようと思っているのか――その考えを改めてまとめた”マニフェスト”です。
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英国総選挙2015――イギリスが日本に学ぶ日(橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第8回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.320 ☆
2015-05-12 19:00220pt※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
英国総選挙2015――イギリスが日本に学ぶ日(橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第8回)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.5.12 vol.320
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先日5月7日に投開票が行われたイギリス議会総選挙。事前予測では保守党・自由民主党の連立政権と最大野党の労働党の二大勢力に、スコットランド民族党や英国独立党といった新興勢力が食い込み、英国議会の最大の特徴であった「二大政党制」が揺らぐのではないかと言われていました。しかし蓋を開けてみると、現政権の保守党が過半数を獲得したことが明らかになりました。なぜ選挙予測は外れたのか? その大きな「誤差」を生んだイギリス独特の選挙制度とは――?
今回の連載では、移民政策の違い、スコットランド独立運動やEU離脱問題の解説を交えつつ、議会制民主主義発祥の地・イギリスの今後を考えていきます。
橘宏樹『現役官僚の滞英日記』前回までの連載はこちらのリンクから。
みなさんこんにちは。ロンドンの橘です。GWはいかがお過ごしになられたでしょうか。どこに行っても混雑していて、どこに行く気も失せてしまう、真ん中あたりの日くらいに学生時代の友達と会う程度に終わる、という過ごし方が多かったあの感覚が少し懐かしく感じられてきております。
現在私が通う大学では、イースター休暇明けの4月末に期末試験の範囲や過去問について解説される補講が数日あったのを最後に、全授業・演習が終了しました。そして、5月半ば締切の各種小論文課題や6月に待ち受ける期末試験の準備に突入しています。私はさらに今秋からの2年目に通う大学院の受験も重なっていて、なかなかしんどい日々を送っております。
▲春の陽光を楽しむ人々。バッキンガム宮殿近くの公園。
最近のロンドンは、陽光もますます眩しく、芝生の緑も鮮やかに麗らかな日和が続いています。皇太子夫妻のシャーロット姫の出産のニュースで祝福ムードに包まれていました。ロンドンマラソンも賑やかに開催されました。そして、5月7日は5年ぶりの英国下院総選挙が実施されました。
▲支持者の前で演説するキャメロン首相(保守党)
画像出典:David Cameron: Let's finish what we've begun
選挙期間中の街中は大変静かでした。日本のような名前を連呼する選挙カー、街頭演説、は皆無です。何らのキャンペーンも見かけませんでした。旗が立っていたりもしません。選挙運動は戸別訪問と公開討論会が主です。私もせっかくなので地元の選挙区の候補者の集会があったら行ってみたいなと思っていたのですが、ぱっと探した範囲では探しきれず、残念ながら課題の締切に追われていたこともあり、体験できませんでした。残念ですがこれもまた留学生のリアルです。
投票率は結局66.1%であったとのことで、(ちなみに、昨年末の日本の衆議院総選挙の投票率は52.66%)市民革命の発祥地の割に、だいぶ低めです。他のEU諸国には投票が義務化されている国などもあってそれらは90%前後にもなります。イギリスの選挙管理委員会もこれを憂いているようで、テレビで見たのですが、簡易便所やキャンピングカーを改造して投票所にするなどの涙ぐましい努力がなされているとのことでした。
今回はこの総選挙を取り上げたいと思います。とはいえ、日本にも既にたくさんの報道が伝えられていますよね。それらによって、下馬評では、2大政党の支持率がどの党も30%程度で拮抗していたこと。したがって、どの党も過半数をとれないから3党以上の連立がないと政権がとれない、すなわち2大政党政治が崩れ多党間調整がすごいめんどくさい時代に入る、という予想がなされていたこと。しかし、それらの予想に反して、保守党が単独で過半数を獲り政権を維持するという結果となったこと、スコットランド民族党(SNP)が大躍進したこと、特にその女性党首の存在感にずいぶんスポットが当てられていたこと…などのことは既にご存知の方も多いのかなと想像します。
【BBC】選挙結果。キレイでわかりやすいです。
http://www.bbc.co.uk/news/election/2015/results
(抜粋)
しかし他方で、私が日本語の主なWEBニュースサイトで報道をぱっとみた限りでは、どの党はどのような公約を掲げ、どこが勝ちそうか、EU離脱はどうなりそうか、結果はどうであったかといった断片的な情報が多かったような気がしました。もちろん、これらのほかにも、有識者の方々のブログやレポートなど詳しい分析もまた発信されていました。そこで、私からは、それらの橋渡しになるようなお話、すなわち、今、イギリスはどういうストーリーの中にあるのか、ざっくりとした全体像を掴むためには、どこから考えればよいのか、をまずお伝えしたいと思います。次に、そうしたストーリーを背景に展開した、ゲームとしての選挙にはどのような特徴があったのか、そして最後に、選挙結果に関する私なりの暫定総括、について述べたいと思います。
▲SNP躍進著しいスコットランドの首都エジンバラの象徴エジンバラ城。側面から。静かで美しい街です。
■「移民」との付き合い方
まず、イギリスが置かれているストーリーですが、誤解を恐れずに言ってしまえば「移民が大幅増加している」ということを出発点にして考えれば、だいたいの重要論点は説明がつくのではないかと思います。
《財政:移民増→NHS出費増→財政赤字増→国の借金増→どうする?》
イギリスはこのところ財政赤字に苦しんできました。理由は、移民の増加によって、NHS(国民医療保険サービス。原則無料)の支出が増大したからです。2010年からのキャメロン政権はこの改善に取り組んできました。歳出削減によって財政収支はある程度改善しているのですが、政府債務残高はどんどん積み重なっているのが実情です。この危機感から、政権を取る可能性のある保守党と労働党は、両方とも今回のマニフェストでは歳出削減を掲げていました。
しかしスコットランド独立を掲げるSNPは、簡単に言えば、保守党とイングランドに支配されることが嫌いなので、「締めつけは嫌だ」「あいつらから金を引っ張ろう」ということなのか、歳出拡大を訴えています。こうしたことからSNPは責任政党だとは思われておらず、またスコットランドが本気で独立するのは(少なくとも原油の安い今は)経済的に得策ではないと思われていることもあって、結局のところSNPは、保守党または労働党から何かにつけてスコットランドへの分権、利益誘導を引き出す「ゆすり」政党だと一般的に思われているようです。ゆえにスコットランド以外の地域で支持が広がるようにはあまり思われていません。
▲「パーティー・バイク」で遊ぶ人々。漕いでる人はお酒を飲んでますが、ハンドルを握ってる人はおそらく不可なのかな。それでも公道を走れるのがすごい。
《経済:移民増→住宅不足→不動産価値増加→消費堅調》
また、イギリスの経済はこの5年間、EU全体が不況に陥っているのに対し、堅調でした。理由は主に、住宅価格が上昇しているので、資産価値が上がったことから、その分の余裕が出来た人々の個人消費が増大していたからとされています。なぜ住宅価格が上昇したかというと、移民がたくさん入ってきて、住宅不足になっているからです。ロンドンは非常に酷い有様で、私たちも高い家賃に辟易としています。だいたい今の東京で月7、8万円で住めるような部屋がロンドンでは15万円かかるというようなイメージです。
これに対処するべく、保守党も労働党もいつまでに何万戸の住宅を建設するというような計画を発表しています。他方で輸出は相変わらず弱く、キャメロン政権は中国市場の開拓を頑張っています。スコットランド経済は北海油田の原油輸出が主軸なのですが、現在原油の値段が安いため、経済的自立が難しいことから、少なくとも今は本気の独立はできないだろうと思われています。
《EU政策:移民増→失業者増→移民追い出したい→EU離脱!?》
それから、増えた移民に仕事を取られた失業者が増えています。こうした不満から、移民を追い出そう、EUに入っているから移民が簡単に流れ込んで来るのだ、だからEUから離脱しよう、ということで、EU離脱を掲げる英国独立党(UKIP:ゆーきっぷ)という排外的右翼政党の存在感が高まっています。今回の総選挙でもUKIPの政党支持率は12.6%にも及んでおり、保守党36.9%、労働党30.4%に次ぐ第3位です。しかし全国に薄く広く散らばっているので、小選挙区制での選挙ではたったの1議席しかとっていません。(対して、今回56議席をとり第3党となったSNPの政党支持率はたったの4.7%です。これらの人々がみなスコットランドに固まっているため小選挙区制度ではこのような結果になるわけなのです。この違和感についても後で述べます。)
UKIPに支持基盤を侵食されていた保守党は、これを防ぐための妥協案として、2017年にEU離脱に関する国民投票を実施することをマニフェストに掲げています。しかし、EUから離脱すると経済に悪影響が出るということで、労働党とSNPは国民投票の実施からして反対しています。キャメロン首相も個人の本音ではEU離脱に反対で、なんとか運動して国民投票で離脱否決に持ち込もうと考えていると言われています。ある種の真っ向勝負というか、「賭け」に出ているわけです。しかし、この手法は、まさに昨年9月のスコットランド独立を決める住民投票を実施して、あまりの僅差に冷や汗をかいた状況と酷似しています。独立は阻止されたものの、なぜ住民投票の実施を約束してしまったのだ、とかなり批判を浴びていました。
このように、財政、経済、EUという3大論点は移民という観点から考えると、ぼちぼち説明がつくのかなと思います。各党のマニフェストの違いは、移民の増加によって生じる各種のデメリットに対してどのように向かい合うかという違いが最も大きい点であったのではないかと思います。移民を拒絶しようというのがUKIP、移民の受け入れは維持したままデメリットへの対症療法のメニューはこちらです、とずらり並べるのが責任政党である保守党と労働党、移民歓迎または無関心がSNPという違いが最大の相違点であったように思います。
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【お詫び】今日の「ほぼ惑」配信が遅れます
2015-05-12 07:00220pt本日配信予定の「ほぼ日刊惑星開発委員会」ですが、現在、編集作業に時間がかかっているため、今朝の午前7時配信を中止といたしました。楽しみにしていただいていた読者の皆様、大変に申し訳ございません。
準備が完了し次第、配信となりますので、今しばらくお待ちいただければ幸いです。何卒、よろしくお願いいたします。
PLANETS編集部 -
月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」5月4日放送書き起こし! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.319 ☆
2015-05-11 07:00220pt※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)
月曜ナビゲーター・宇野常寛J-WAVE「THE HANGOUT」5月4日放送書き起こし!
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.5.11 vol.319
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大好評放送中! 宇野常寛がナビゲーターをつとめるJ-WAVE「THE HANGOUT」月曜日。ほぼ惑月曜日は、前週分のラジオ書き起こしダイジェストをお届けします!
▲先週の放送は、こちらからお聴きいただけます!
■オープニングトーク
宇野 時刻は午後11時30分を回りました。こんばんは、評論家の宇野常寛です。いやー、運命の出会いってやっぱりあるんですね。つい一昨日の5月2日の土曜日、J-WAVEのフリーマーケットに、この「THE HANGOUT」の月曜日のチームで出店させていただきました。もう本当にたくさんの方が来ていただいて、ありがとうございました。売っていたのは、主に僕の私物です。フリマっていったら古着とかスニーカーとか、ああいったものが基本だと思うんですけど、なんせ僕の出店するフリーマーケットですからね。間違えて2冊買ってしまった本とか、ミニカーとか、要らなくなったガンダムや仮面ライダーのオモチャとかを並べていました。他には、「PLANETS」という僕の作っている雑誌のバックナンバーも置いていたんですけれど、これがすごく売れてびっくりしましたね。このラジオを通じて僕の仕事に興味を持ってくれたという人が、予想よりもたくさん買いに来てくれて、途中で1回品切れになっちゃって、慌ててうちのアルバイトの大学生が事務所に戻って持ってきてくれたんですけれど、もし事前にもっとたくさん持ってきていたら100冊くらい売れたんじゃないかな。いい意味での裏切りっていうんですかね。とにかくあれは嬉しかったですね。
そんなわけで、僕はずっとブースにいて、ずっとしゃべっていました。この番組で僕が話してくれたことを進路選択の参考にしてくれた大学生の人とか、わざわざ広島とか九州から来て「YouTube Liveで聴いています!」って言ってくれた人とか、いろんなリスナーさんとたくさん話すことができました。こういう仕事をしていると、読者やリスナーさんの反応を直接聞けた時が一番モチベーションが上がるんですよね。僕はいろいろな仕事をしているのだけれど、そういった意味でラジオが一番好きです。ラジオって、いろんなメディアのなかでも、一番メッセージを届けた相手となにかを共有できているような気がするんですよね。なので、またリスナーの皆さんと直接しゃべれるようなイベントをやりたいなって思っています。僕は職業柄、イベントというとどうしてもトークイベントを考えちゃうんだけれど、こういうフリーマーケットみたいに、別の目的で集まってやってきた人とひたすらダラダラ話すというのも面白いなと思いました。これは新しい発見でしたね。
あと、けっこう僕の知り合いが陣中見舞いも兼ねて来てくれました。特にびっくりしたのは、この4月から僕が毎週木曜日にコメンテーターをやっている「スッキリ!!」という日テレの情報番組で一緒にコメンテーターをやっている、流通の専門家の坂口孝則さんが来てくれたことです。
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サイボーグ化する身体と社会――〈人間〉はいかに拡張し得るのか(前編)/井上明人×稲見昌彦×山浦博志×小笠原治×宇野常寛 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.318 ☆
2015-05-08 07:00220pt
サイボーグ化する身体と社会――〈人間〉はいかに拡張し得るのか(前編)井上明人×稲見昌彦×山浦博志×小笠原治×宇野常寛
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.5.8 vol.318
http://wakusei2nd.com
本日のメルマガは、『PLANETS vol.9』(以下、P9)刊行を記念しDMM.make AKIBAで行われたイベント「サイボーグ化する身体と社会」の内容をお届けします。
『P9』ではパラリンピックで進む義肢のサイボーグ化にヒントを得て、人間の身体をより拡張的に使用することの可能性を議論しました。一方で、そのためのルール設計はこれからの社会にとっての課題でもあります。
そこで今回は、実際にテクノロジーの開発に従事する研究者、そしてアカデミックなゲーム設計を考える専門家が集い、サイボーグ化で社会の在り方がどう変わっていくのかを考えました。
※今回は前半部分を配信します。後半は近日中に公開予定です!
▼出演者プロフィール
稲見昌彦(いなみ・まさひこ)
バーチャルリアリティ、ロボット工学を背景とし、拡張現実感(AR)や強化人間(AH)など、コンピュータや最先端の技術を誰もが自在に利用するための「自在化技術」を研究。人の「生理」に根ざして生じる「現実感」に着目し、五感をはじめとする感覚・知覚、および筋肉による運動という人間の入出力機能の特性に根ざしたシステム研究開発を手掛ける。現在まで光学迷彩、触覚拡張装置、吸飲感覚提示装置、動体視力増強装置など、人の感覚・知覚に関わるデバイスを各種開発。情報処理学会EC研究会主査、日本VR学会理事、コンピュータエンターテインメント協会理事、CEDEC運営委員等を歴任。米「TIME」誌Coolest Inventions、文化庁メディア芸術祭優秀賞、文部科学大臣表彰若手科学者賞など各賞受賞。
山浦博志(やまうら・ひろし)
1984年、千葉県生まれ。東京大学大学院工学系研究科修士課程修了。パナソニック株式会社でデジタルカメラの設計開発に従事し独立。exiiiの共同創業者として筋電義手「handiii」の開発にあたる。おもな受賞歴に東京大学大学院工学系研究科長賞、James Dyson Award 2013 国際準優勝、Gugen2013 大賞、第18回文化庁メディア芸術祭優秀賞など。
井上明人(いのうえ・あきと)
1980年生まれ。関西大学特任准教授。専門はゲーム研究。2005年慶應義塾大学院政策・メディア研究科修士課程修了。2010年に日本デジタルゲーム学会第一回学会賞(若手奨励賞)受賞。2012年CEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞を受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。2011年より#denkimeterプロジェクトを提唱。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。
宇野常寛(うの・つねひろ)
1978年、青森県生まれ。評論家として活動する傍ら、文化批評誌『PLANETS』を発行。主な著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、ほか多数。
【コメンテーター】
小笠原治(おがさはら・おさむ)
1990年、京都市の建築設計事務所に入社。データセンター及びホスティング事業のさくらインターネット株式会社の共同ファウンダーを経て、モバイルコンテンツ及び決済事業を行なう株式会社ネプロアイティにて代表取締役を努め、インターネット・インフラとモバイルサービスにそれぞれ黎明期から取り組む。以降、「Open x Share x Join =∞」をキーワードにスタートアップ向けシード投資やシェアスペースの運営などスタートアップ支援事業を軸に活動。2013年より投資プログラムを法人化し株式会社ABBALabとしてIoTプロダクトのプロトタイピングへの投資を開始。同年、DMM.makeのプロデューサーとしてDMM.make 3D PRINTの立ち上げ、2014年にはDMM.make AKIBAを立ち上げている。他、経済産業省 新ものづくり研究会 委員、福岡市スタートアップ・サポーターズ等。1971年京都府京都市生まれ。
◎構成:大井正太郎
■ SF的思考実験の「サイボーグ化」を、社会的身体の再定義という観点から問い直す
宇野 本日は、昨年11月にオープンしたばかりの「DMM.make AKIBA」(以下make)に場をお借り致しまして、PLANETS初となるトークイベントを開催させていただいきたいと思います。テーマはこの場にふさわしく『サイボーグ化する身体と社会――〈人間〉はいかに拡張し得るのか』です。
簡単に、このイベントに至る経緯をお話ししたいと思います。ここmakeのプロデューサーである小笠原さんには、日本版のメーカーズムーブメントとインターネット文化の関係を解説する役として、PLANETSにもよく出ていただいています。
▼参考記事
・過剰を抱えた人間のためのフロンティア――DMM.make AKIBAが目指す次のインターネット(プロデューサー・小笠原治インタビュー)
小笠原さんには、僕が毎週月曜日に担当しているJ-WAVEのラジオにゲストに来ていただいたり、たびたびこのmakeを中心に何が起こっているのか話してもらっています。日本人の大半はこのmakeを中心にして何が起こっているのかにまだピンと来ていないので、その解説をお願いしているわけです。
しかし、今回のイベントは趣旨が違います。今回のテーマは「サイボーグ化」です。これから情報技術の進化の恩恵を最も強く受けるジャンルの一つと言われており、これまではSF的想像力を媒体とした思考実験としてしか捉えられなかったこの問題を、どちらかというと「社会的身体の再定義」という観点から問い直そうと考えています。要するにサイボーグ化というのは、身体の多様性を前提とした社会設計の問題であるというところまで、今日は話していけたらいいなと思っています。今日はそのことを議論するために最適なメンバーを集めました。まずは真ん中に座っていらっしゃる、慶應義塾大学の稲見昌彦先生です。
稲見 よろしくお願いします。
▲左から井上明人さん(Skype参加)、稲見昌彦さん、山浦博志さん、小笠原治さん、宇野常寛
宇野 稲見さんは光学迷彩やバーチャルリアリティの研究で知られている方ですね。僕の知る限り、社会的身体としてのサイボーグ化という問題に最もアクチュアルに取り組んでいる研究家の一人だという風に思っております。稲見先生にはこの問題の見取り図の提示を定義してもらいたいと個人的には考えています。
お隣が株式会社exiiiの山浦博志さん。このDMM.make AKIBAのCMにも登場する「筋電義手handiii」の開発スタッフの一人です。どちらかというと、エンジニアとしての実践から見える課題について今日はお話ししていただいきたいと思っております。
最後にSkype参加になっている、ゲーム開発者の井上明人さんです。今は京都にある立命館大学のオフィスにいらっしゃいます。本業はゲーム研究者です。PLANETS vol.9ではその知見を活かしてオリンピックをサイボーグ化した身体を前提として、多様な身体を持つプレイヤーが同じルールで競い合うことが出来る新しいゲームにスポーツをアップデートするということを提案しています。なので今日は、そんなゲーム研究者の立場からサイボーグ的身体の社会へのアダプテーションの問題を主にお話ししていただいきたいと思っております。
井上 よろしくお願いします。
宇野 そしてコメンテーターを、小笠原治さんにお願いしています。
小笠原 よろしくお願いします。
宇野 本日のイベントはニコニコ生放送でも放送されています。コメントをいただいたら、僕の方で議論の途中に取り上げると思いますので、ばしばし投稿してください。Twitterハッシュタグ「#PLANETS9」の方も同時にチェックしております。
■ 拡張スポーツの先に、「身体と魂が一対一対応ではない未来」がある
宇野 ということで、まずはゲストの皆さんに簡単な自己紹介とプレゼンをお三方にしていただいきたいと思います。それではまず稲見先生からお願い致します。
稲見 ご紹介いただきました稲見でございます。慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科という所で研究しております。私の比較的有名な研究としましては、光学迷彩があります。再帰性反射材と言う特殊な反射材で出来たスーツを着ているんですけれども、それとプロジェクター技術をうまく組み合わせることで透明になったかの様な効果を出すことができます。
なぜこれを作ったかと申しますと、博士課程の研究室に入ったときに当時助手(現阪大教授)の前田太郎先生から、必読書として『攻殻機動隊』という本を出されたんです。普通は論文とかが出されますよね? なので「これが教科書ですか?」という感じで、最初はすごい苦労しながら読んだんですけど、そのうちいつか、自分の研究に繋がることがわかって作らせていただいた。『攻殻機動隊』にはだいぶインスパイアされているんですけど、今恩返しもしてまして『攻殻機動隊』のリアライズプロジェクトに関わっております。例えばロジコマの熱光学迷彩をリアルにしていくなど、『攻殻機動隊』の世界をどう現実化していくかという研究を行っております。
▲士郎正宗『攻殻機動隊』講談社、1991年
今日、まさに秋葉原でこういう話ができるのは非常に意義深いことだと思っています。私も高校の頃からだいぶ通ってはいるんですけど、やはり秋葉原というとテクノロジーとサブカルチャー、その二つの日本における中心地と言えると思います。その二つがうまく混じり合うことによって、日本は世界の中でも非常にユニークな研究をリードできていると、日頃から感じております。
最近の研究としては、メガネ屋さんのJINと一緒に「JINS MEME(ミーム)」というメガネ型のウェアラブルデバイスをつくっています。これ、何か映像が出るというわけではないです。その代わりに、電極がメガネの鼻の所についておりまして、眼の動きや頭の動きをリアルタイムに計測できます。生活の中で、皆さんが今集中しているのか、そろそろ眠いのか、ということが、例えば瞬きのパターンでクリアにわかるんです。それらをうまく計測しながら我々の普段気が付いていない自分を見守ったりとか、もしくはそろそろ眠くなったから休んだ方がいいんじゃないかということを行おうとしております。
▲JINS MEME
https://www.jins-jp.com/jinsmeme/
これは私が学部一年生の頃からの一貫したテーマなんですけど、「人機一体」ということをなんとか実現したい。「人馬一体」という言葉がございますよね。人と馬が一緒になる。我々がやりたくないことを機械にやらせるのは自動化ですが、人間が馬ではなくコンピューターやロボットと一体になることによって、我々がやりたいことを自由自在にやることができる自在化ともいえる物を実現していきたいと思っております。こういう考え方というのは、決して私がオリジナルではなくて、1945年にヴァネヴァー・ブッシュ(Vannevar Bush)という元MITの副学長の方が、「私たちが考えるように(As We May Think)」というエッセイの中で、頭の上にカメラがついている絵を紹介しています。これは1945年の絵で、この頃にもうコンセプトは出ていたんです。「Google Glass」とかもう古い感じですよね。
戦争が終わったとき、彼は「科学者たちは軍事技術だけじゃなくて我々の能力を拡張するためにテクノロジーを使うべきだ」と主張しました。そのプロトタイプとして、GEが1960年代に「ハーディマン(Hardiman)」というエクソスケルトン型のスーツを作り始めました。私自身も1990年頃から、家電やアームロボットにパッと指さすとと動いたりする「データグローブ」というものを自作していました。人には橈骨神経という指を動かしている神経があるんですが、ここを電気刺激してあげることによって自在な手の形、握った感覚を出したりと、一種の人間の身体をハックする――そういうことを継続的にやってきて今に至ります。
今私のやっていることは、今回のPLANETSでも紹介していただいているように、2020年がアジェンダになっています。最初、2020年の東京オリンピックが決まったのを見たとき、私も「自分には関係のないことだな」と思ってました。小学生の頃から運動は苦手で、どちらかというとのび太みたいな生活をずっとしていて、ドラえもんを待っていた。そして、待ちきれないから道具を作り始めたんです。
ですが、もしかすると自分がやってきた人機一体の技術が、2020年に活かせるかもしれないと思い至りました。それが「超人スポーツ」というコンセプトです。身体とテクノロジーを融合することにより、誰もが身体的制約や空間的制約を越えて楽しむことができる。そんな新しいスポーツを日本発で出せないかと考えています。
これまでのスポーツは、一つルールが決まってしまうとそれがすべてでした。ルールのなかでがんばって業績を出していく、レコードを出していくんですけど、そうではなくテクノロジーと共に進化し続けるということができるかもしれない。それを誰もがオリンピックとパラリンピックの区別が意味不明になるくらいまでにして、しかもみんなが見るときも非常に楽しめるものにできるのではないか。それをテクノロジーが支える、というのが私の目標です。
私もプレイしてみて非常に面白かったんですが、聴覚でプレイする「ブラインドサッカー」というスポーツがあります。これもテクノロジーの力で、もっと鋭敏にコウモリの耳を持ったかのようにできるかもしれない。あるいは車いすを拡張したチームスポーツもあるかもしれない。身体を拡張したり、道具を拡張したり、フィールドを拡張したり、トレーニングを拡張したり、そしてプレーヤー層を拡張したり、観戦を拡張したりと、拡張スポーツにはさまざまな方向性が考えられます。そういうことを行うための組織として、超人スポーツ協会を6月に立ち上げます。
また、似たような試みとして、スイスのETH(スイス連邦工科大学チューリッヒ校)でロバート・ライナー先生が「Cybathlon(サイバスロン)」というのを2016年に開催しようとがんばっておられます。そういったところとも2020年にうまく連携できたらと思っています。ポイントとなるのが、スポーツを発明するということ。我々が小学生の頃は自分たちで遊びをさんざん発明してきたはずなのに、いつの間にか部活になってからいいレコードを出すことだけに集中することになってしまっています。でも、もう一回ルールごと発明することがあってもいいんじゃないか。つまりスポーツ工学というものがこのチャンスにできるかもしれない。そういう意味で超人スポーツを盛り上げていきたいと思います。
プレゼンの最後に、「身体がどうなっていくか」という私の考えのロードマップをお話しします。実はここまでお話ししてきた取り組みは身体を再定義していく第一歩にしかすぎないと思っております。いわゆる人機一体化、超人化というのは、今ある身体を超身体に拡張していくという話です。私は平行しながら、もしくはその次の段階として脱身体という時代が来ると思います。これはSFとして言っているわけじゃなく、例えばテレイグジスタンス、テレプレゼンスといわれている技術は、自分がいる場所をロボットにして飛ばすことができるということです。もしくは、バーチャルリアリティは自分の身体像をサーバー空間に飛ばすことができるということ。そういった技術をきちんと進めていくと、脱身体、肉体と魂の分離が可能になるはずです。最終的に何がやりたいかというと、分身体、融身体、つまり「人類補完計画」みたいなことです。
我々の身体と魂は一対一対応であるか? 決してそうではない。1人が複数の義体を操作したり、複数の人が一つのロボットを操作したりという時代もあるかもしれない。そうしたときに、今我々が想像した身体像が変わるかもしれない。そんな議論が出来たらなといいつつ、私の紹介を終わらせていただいきます。
宇野 ありがとうございました。短い間にエッセンスがぎゅっと詰まっていましたが、今の身体拡張の問題やどのあたりまで射程に入っているのかについて、非常にコンパクトにまとめていただいたと思います。
■ 筋電義手「handiii」は安くてデザインも選べる「気軽な選択肢」
宇野 続きまして、山浦さんにプレゼンをお願いします。
山浦 はじめまして。exiiiという会社で義手の開発しております、山浦と申します。元々、大学でこうした義手やパワーアシストの研究をしておりましたが、その後はメーカーに就職をして、デジタルカメラの機械設計をしておりました。
その時期に家庭用の3Dプリンターが出始めて、早速買ってみたら、1人でもいろいろ出来そうだなということで、昔の研究の義手を試しに作ってみようと2013年頃からスタートしました。そのときは本業の片手間というかたちだったんですけど、やっていくうちにだんだんのめり込んでいって、会社を辞めてこっちをメインにしようと、2014年10月にexiiiという会社を仲間と一緒に起こして、今は義手の開発をメインに行っているところです。
僕たちが開発している筋電義手というのは、人間の筋肉の動きを読み取って、それを手先のメカの動きに伝える義手です。実際に手がない方でも筋肉は残っていますので筋肉に力を入れると手が動く。これをはめてしまえば、自分の手のように扱うことができるようになります。
筋電義手はすでに世の中にあるんですが、非常に高価で、買おうとすると150万円以上します。実際に普及率が1%しかありません。デザイン面でも、人の手を模したものしかない。そういう事情があり、欲しい人が買えない状況が今の問題になっています。それに対し、欲しいなと思っている人が気軽に買えてデザインも選べるものを私たちは作ろうとしています。開発のコンセプトは「気軽な選択肢」です。
▲handiiの動作を実演する山浦さん
私たちのつくっている「handiii」という筋電義手は、筋肉からの信号を電気信号にしてBluetoothでスマートフォンに送信し、スマートフォンがそれを解析してどんな動きをしたいのかを見て動かす仕組みです。なぜスマートフォンでやるかというと、スマートフォンで置き換えることができて、他の既存のシステムはいらなって価格を安く抑えられるという考えからです。
そして次に中のメカも工夫して、少ないモーターでもいろんな物を握れるようにしています。これも、モーターが少ないことが低価格化に繋がるからですね。
あとは3Dプリンターを活用して製造します。一個一個デザインの違ったものを安くするために3Dプリンターはすごく有利です。製造方法を見直して、部品を付け替えられるようにしてしまおうというわけです。そして現在のところは、ユーザーの方と協力しながら実用化を目指しながら開発を行っています。というところで、私の自己紹介を終わらせていただいきたいと思います。
宇野 ありがとうございました。ニコ生のコメントを見ていたら、このサイボーグの手だとスマートフォンが操作できないんじゃないかという、ぬるいツッコミがあったんですけど、これは答えるべきじゃない(笑)?
山浦 そうですね(笑)。ツッコミに答えさせていただいくと、義手ではないほうの手でいろいろ出来ることは多いんですね。ただ、二本ないと、例えば傘や買い物袋を持ってしまうと出来ることが少なくなってしまう。そういう最低限の状況をカバーしたいと思っているので、「スマホは反対の手で動かしてください。買い物袋は義手で持てるようにしましょう」というイメージです。
宇野 最初に稲見先生と山浦さんのプレゼンを見ていただいたんですが、小笠原さんはこのお二人の発表を見ていただいて産業側の人間の立場からどう思われましたか?
小笠原 僕はexiiiを最初の頃から見ているんですが、みんな同時に同じ様なことを考え始めているので、この5年10年くらいにアイデアを実現していくための動きがどんどん起こっていくんだろうなと想像しております。
宇野 最初に僕と小笠原さんとでこのイベントを企画したときには、こんなに人が来ると思わなかったんですよね。実際には僕らの予想の2倍くらいの人がやってきていて、これも何かが動き始めている証明なのかなという気はしますね。
▲当日は100人以上もの方にご来場いただきました…!
■ ルールを見直すことで老人も障害者も混ぜこぜの新しいスポーツイベントが生まれる
宇野 プレゼンの最後は、『PLANETS vol.9』でサイボーグ技術を使ったスポーツのアップデート、パラリンピックのアップデートのアイディアを考えてくれたゲーム研究者の井上明人さんです。
井上 はい、よろしくお願いします。ちなみに稲見先生と山浦さんのプレゼンを聞いていて、人機一体と魂と身体の分離の話があったんですが、Skypeで参加している僕は今一番魂と身体が分離した状態だと思います(笑)。
▲Skype経由でプレゼンを行う井上明人さん(左のディスプレイ内)
いま皆さんのお話を聞いていて確かに、人機一体ではないなと感じていました。というのも、Skypeだと自分で首を動かして視点を変えられないのが辛いですね。会場の方を見てしまうと、Skypeだとどうしてもプロジェクタで投影されている画面の方が見えないので、スタッフさんにLINEで「俺の首を動かしてください!」とお願いしながらパワポをなんとか見ているんですけど。これが終わったら、スタッフさんに僕の首になってもらって、逆側が見えるようにしてもらわないといけないですね。
Skypeは素晴らしいですけど、まだまだこういうときに距離が感じられるなと改めて感じます。前置きはさておき、改めましてゲーム研究者の井上です。よろしくお願いします。
PLANETSはvol.7の頃から5年くらい関わらせてもらっています。基本的に僕はゲームばっかりやっている人間なんですけど、「ゲームのデザインや何がゲームの面白さなんだろう?」ということだったり、あるいはゲームの面白さを突き詰めて「ゲームとして多くの人が楽しむ」ためにはいろいろなルールの調整をやらなければならない――そういったことを考えてきました。
それが4年前にゲーミフィケーションというブームが国内で起こった時に、たまたま節電のゲームをつくったりして遊んでいて、それ以降ゲームの社会応用に関わるようになりました。
今回の『PLANETS vol.9』では宇野さんがオリンピック、パラリンピックの話をやりたいということで、ぜひ、パラリンピックのルールの話をきっちりやってみたいということで、今回パラリンピックの拡張について書きました。
僕がどういった原稿を書いたかを簡単に説明したいと思います。
話はシンプルで、パラリンピックの基本ルール変えませんかということですね。パラリンピックで今、いろいろな問題が起こっています。パラリンピックのルールってけっこう複雑で、障害が重い人、軽い人というのが、競技によって5クラスとか10クラスに分かれています。その一番障害が重いクラスと障害がちょっと軽いクラスと、ボーダーラインのあたりにいる人が妙に不利になってしまう現象がたくさんあります。
実際に、水泳で金メダルをたくさん取った選手がいるんですけど、選手が一つ級を変えられたとたんにメダルに絡むことが難しくなったことがありました。この単純な解決策は、級を細かくしていくことですね。パラリンピックの公平性はそうすれば増します。ただ、そこを細かくしようとすると、今度はパラリンピックの開催期間を延ばしたり、場所を増やしたりとさまざまな問題などが絡んできて、トレードオフの問題がある。なので、今はパラリンピックの級をそこまで増やさないようになってきています。
ただ、この問題は実は「パラリンピックとオリンピックの間の行き来をどうするか」というさらに大きな問題にも絡んでいて現状のあり方でよいのかどうかが問われています。
例えばオスカー・ピストリウスという義足の選手で、オリンピックに出場した方がいます。彼がオリンピックに出ることになったときに、義足の性能が問題になって一旦ストップがかかりました。というのも「義足の性能が普通の身体を持っている人よりも20〜30%いいんじゃないか?」ということが問題になったんです。これでオリンピックに出てしまうと、オリンピックの選手にとって不公平になり、ピストリウスが有利になるだろうということで揉めに揉めました。結局ピストリウスは最終的に出場できましたが、同じような話は他にもたくさん出てきています。
ルール設計を「クラス分け」という発想でやっていると、サイボーグ的な身体を持った人、あるいは障害者の人を、一緒の場所に混ぜてなにかをやることは難しくなります。
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思想としての予防医学を考える(予防医学研究者・石川善樹連載「〈思想〉としての予防医学」第1回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.317 ☆
2015-05-07 07:00220pt
PLANETSメルマガでは今月より新たな連載がスタートします!
テーマは、これまでPLANETSがまったく扱ってこなかった「医学」と「健康」。予防医学研究者の石川善樹さんが、今にわかに注目を浴びている「予防医学」を〈思想〉という観点から解説していきます。
▼執筆者プロフィール
石川善樹(いしかわ・よしき)
(株)Campus for H共同創業者。広島県生まれ。医学博士。東京大学医学部卒業後、ハーバード大学公衆衛生大学院修了。「人がより良く生きるとは何か」をテーマとして研究し、常に「最新」かつ「最善」の健康情報を提供している。専門分野は、行動科学、ヘルスコミュニケーション、統計解析等。ビジネスパーソン対象の講演や、雑誌、テレビへの出演も多数。NHK「NEWS WEB」第3期ネットナビゲーター。
6月4日に『最後のダイエット』(マガジンハウス刊)を発売予定。その他の著書に『友だちの数で寿命はきまる(マガジンハウス)』など。
はじめまして。予防医学という分野の研究をしている、石川善樹です。
いきなりですが、この連載のタイトルにも入っている「予防医学」という言葉ですが、馴染みのある人はどのくらいいるのでしょうか――「予防医学が21世紀の医学の主流になるだろう」なんて言われているのを、聞いたことがある人もいそうです。しかし、そういう人であっても、予防医学について具体的な話を聞いたことは少なそうです。
そこで、まずはイメージをつかむところから始めたいと思います。
■ かつて「運動は健康に悪い」と言われていた
例えば、予防医学による発見の一つが、「運動は健康に良い」ということです。
――え、それって常識じゃないの? と思う人もいそうです。
確かに、今となっては、あまりこの話を疑う人はいなさそうです。しかし、19世紀までの人類は、むしろ「運動こそが健康に悪い」と思っていたのです。ですから、例えば郵便局の内勤の人と外勤の配達員とでは、あくせく外歩きをする配達員の方が「早死するんだな、かわいそうに」というくらいに思われていたのでした。
この常識を最初に覆したのは、英国の疫学研究者ジェリー・モーリスでした。彼は1953年に発表した論文で、2階建てバスの乗務員を調べて、運転手と、1階と2階を行き来する乗務員のどちらが健康的なのかを比較したのでした。すると、1階と2階のあいだをせわしなく動きまわる仕事をしている方が健康的で、座り仕事の運転手の方こそが不健康であるというデータが出てしまったのです。
余談ですが、このモーリスは後に、ロンドンで健康のためのジョギングをした初めての人間となりました。当時の人々は、彼のことを"頭のおかしい人"を見るような目で見ていたそうです。彼の業績は長らく、予防医学の世界でのみ、ささやかに讃えられてきましたが、ついに先日のロンドン・オリンピックで彼の功績が大々的に讃えられることになりました。それは、彼がスポーツ文化に新しい価値を付け加えたことを賞賛してのものでした。
予防医学では、このような統計的手法によって、人間の健康に影響する要因が何かを調べあげてきました。他の予防医学の有名な成果としては、タバコの健康への悪影響の証明があります。今となっては驚くような話ですが、それまではタバコを「健康に良いから吸った方がいい」と主張する医者まで存在したそうです。
実は結構な数の健康についての常識を、僕たち予防医学の研究者は見つけてきたのです。
こういう手法を、予防医学の世界では「疫学」と呼んでいます。簡単にいえば、英国のモーリス博士がやったように、沢山の人を集めてきて、病気になった人と病気になっていない人を比較して、何が原因だったのかを探り当てていく手法です。
これは、いわば医学における最初の"ビッグデータ解析"だったと言えるかもしれません。その意味で、現代のIT分野で話題になっているようなトピックについても、いろいろな示唆が与えられるように思います。
この連載のタイトルになっている『〈思想〉としての予防医学』というのは、こういう話題を本誌主宰の宇野常寛さんにお話ししたときに、宇野さんから連載のタイトルとして提案されたものです。IT分野でのビッグデータ解析の成果と同様に、予防医学のこういう話題には、従来の人文的な思想に対してインパクトの強い話題が含まれているということで、こういう名前を思いついたとのことです。
■ カナダが80年代に発表した研究結果の"衝撃"
最初にも述べたように、近年は日本でも予防医学について「21世紀の医学の主流になるだろう」という意見を耳にすることが増えてきました。
そんなふうに予防医学が注目されるキッカケになったのは、アメリカが1980年代に提示した衝撃的なデータです。彼らは、当時の国家的な財政危機の中で、本当に「医療制度」が社会全体での健康維持に効果があるのかを調査したのでした。
その結果はというと――なんと、ほとんど効果がないというものでした。
ここでは具体的な算出の過程は省きますが、彼らは健康に影響を与える要因をリストアップして、医療制度・遺伝・環境・生活習慣の4つに絞り込みました。そして、それぞれの病気との相関関係を調べあげて、各々が健康な生活に寄与する度合いを算出したのです。その結果わかったのは、医療制度はなんと1割程度しか寄与しておらず、むしろ病気の大きな要因は、単なる「生活習慣」の問題であるということでした。
そこで、アメリカは「治療から予防へ」という方向に舵を切り替えて、医療制度の改善よりも生活習慣の改善に注力するようになりました。その後すぐに、他の先進国も続いていくことになります。よくアメリカについて、健康に悪いファストフードばかりを食べているというイメージが語られますが、既にそれは過去の話です。喫煙率についても、この20年ほどで米国は劇的に低下しています。
ひるがえって、日本にこの考え方が入り込んできたのは2000年に入ってからのことです。「分煙」などの言葉が、この頃から使われるようになったのを覚えている人もいるでしょう。
そんな感じの状態ですから、いまやホワイトカラー同士の比較でいえば、日本人はアメリカ人よりもずっと運動量が少なく、コレステロール摂取量も多いというのが実情です。先進国のホワイトカラーとして見ると、もう日本人は決して健康的な部類の生活をしているとは言えないのです。この差は、まさに予防医学の浸透した時期が遅かったことから来ています。
▲男女別喫煙率の国際比較。日本は女性は8.4%なものの男性に限っては32%と、男女ともに10%台の米国よりかなり高い。(出典:社会実情データ図録▽男女別喫煙率の国際比較 )
■ 「心」が脚光を浴びる、予防医学の現在
さて、そんな予防医学の世界で、最近になって注目されているのが、人間の「心」にまつわる問題です。
そもそも、予防医学の歴史は、19世紀に「下水道を整備して、コレラの対策をしよう」だとか、「きちんと靴を履かせて、傷口から寄生虫が入るのを予防しよう」だとかというように、感染症対策を研究したことから始まりました。その後、感染症をめぐるアプローチが一段落すると、今度は先ほど述べたように、生活習慣からくる心臓病のような病への対策に移りました。
しかし、20世紀の人類は素晴らしい発展を遂げて、経済も医療も大きく進歩させました。その結果、平均寿命は右肩上がりになり、先進国の人々はかつてない長寿の時代を迎えています。そういう中で、健康についての予防医学的なアプローチは、ある意味で転換点を迎えているのです。
▲石川善樹『友だちの数で寿命はきまる 人との「つながり」が最高の健康法』マガジンハウス、2014年
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【GW特別再配信!】現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』 第2回「グーテンベルクの銀河系からアリスが歩いた世界へ」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外☆
2015-05-06 16:00220pt
現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』
第2回「グーテンベルクの銀河系からアリスが歩いた世界へ」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.5.6 号外
http://wakusei2nd.com
この春に東京大学大学院で博士号を取得、さらには20代にして筑波大学の助教にも就任し、ますます注目が高まっている「現代の魔術師」ことメディアアーティストの落合陽一さん。このたびPLANETSチャンネルでは、落合さんの最新の研究・関心事を追いかけるべく、連続講義ニコ生「魔法使いの研究室」をスタートしました!
(初回の放送はこちら ※PLANETSチャンネル会員+ニコニコプレミアム会員の方は、5月8日 23:59までタイムシフトでご覧いただけます)
本ニコ生講義が大好評につき、このGWでは過去にPLANETSチャンネルで配信した落合さんの書き下ろし連載「魔法の世紀」の初回と第2回を再配信していきます。
第2回の今回は、アラン・ケイに始まるメディア装置としてのコンピュータの「その先」、そして21世紀の「魔法」が呼び起こす美的感動とはなにかについて解説していきます。(2014.8.20公開の記事を再配信)
落合陽一『魔法の世紀』これまでに配信した記事一覧はこちらから。
こんにちは、落合陽一です。僕は相も変わらず、深夜の研究室で執筆をしています。
いきなりですが、僕はよくカップ麺を食べます。それはお金や時間がないからで、仕方なく毎日自販機で買っているのだと思っていたのですが、どうも最近、自分はそうやって言い訳しているだけで、実はカップ麺そのものが大好きなのだと気づきました。
というのも、カップ麺はある種のメディア装置だからです。
メディアとコンテンツの関係に対応させるならば、カップ麺のカップはメディア、コンテンツは麺とお湯。しかも、カップに入った麺は世に広く普及したメディア装置ですが、お湯を注いで調理するという点では、とてもインタラクティブです。
そもそも食べるという行為の中で、カップ麺と僕の間にはいろいろな関係性を考えることが出来るわけなのですが、僕にとってのカップ麺の「インタラクティブ性」は、お湯の量で麺が様々な食感に変化することです。ちなみに僕が好きなのは、日清のカップヌードルを麺ぎりぎりのライン程度にお湯を注ぎ、濃いスープでふやけた麺を絡ませながら食べることです。ふやけるタイミングも含めて、演劇や映画のようなひとつの時間芸術なのだと思っています。
食べながら、「これは実に興味深いな」と思います。食事のささやかな楽しみです。
さて、前回から始まったこの連載ですが、今回からは具体的な話に入ります。まずは、僕の作品や、他の方の作品を紹介しながら、コンピュータやメディアアートについて書くことから始めようと思います。
■メディア装置は電気羊の夢を見るか?:芸術表現としてのメディア装置、メディアアート
最近、メディアアートという言葉をよく聞くようになってきたのではないでしょうか。たとえば、テレビやネットで「プロジェクションマッピング」が特集されたり、3Dプリンターや電子工作で作ったインタラクティブ作品の呼び名としてメディアアートが使われたり、その用法も様々、捉え方も様々です。
もちろん様々な使い方をされるだけあって、このメディアアートの定義はなかなかに難しいです。一般には現代芸術の一派で「メディアに対して意識的であり、コンピュータや情報技術、電子、電気機器を用いた芸術」などと言われていて、僕もこの定義で考えています。
前回、映像から魔法への転換ポイントとして、「非メディアコンシャス」「物象化」「虚構の消失」という三つのポイントを挙げましたが、おそらく最もわかりにくかったのは「非メディアコンシャス」という言葉だったのではないでしょうか。つまり、メディア装置への意識そのものを芸術表現にしたのがメディアアートです。実際、先の定義の中にも「メディアに対して意識的」とありますが、これがまさに「メディアコンシャス」です。一般に馴染みのない概念をつかって定義されている芸術なので、使い方も捉え方も様々なのはある意味で仕方のないことかなと思います。
現在に至るまで、人類は様々なメディア(媒体)を用いて表現を行ってきました。
油絵ならば、絵の具とカンバスです。この場合、描かれた絵がコンテンツで、メディアがカンバスと絵の具です。本ならば、中の文章がコンテンツで、本がメディアです。つまり、表現をするための媒体がメディアで、表現自体がコンテンツだと思えばいいでしょう。カップ麺ならば、カップがメディアで、麺がコンテンツです……あ、これはしつこいか。
そして重要なのは、実は近代まで芸術家は「メディア上でのみ表現を行ってきた」ことです。それに対して20世紀半ばに誕生したメディアアートが重要なのは「メディアコンシャス」であり、メディア装置を対象とした芸術であること――つまり、「メディアそのもの」を創る試みを芸術表現としたことなのです。そのとき、「メディアとは何か」「何がメディアとなるのか」というメディアアートの問いは、メディアコンシャスそのものになります。
ちなみに、このメディアアートの誕生は、映像表現と切っても切れない関係があります。例えば、ビデオアートの大成者であり「メディアアートの父」と呼ばれる、ナム・ジュン・パイクの作品はわかりやすいでしょう。彼は、映像装置、カメラ、インタラクティブなど現代のあらゆるメディア装置の特徴を備えた作品を残しています。Electronic Superhighway : Nam June Paik / ナム・ジュン・パイク 作品まとめ - NAVER まとめhttp://matome.naver.jp/odai/2135339177356767701/2135412062838268603
映像装置を積み上げた彼の作品たちは、常にメディアと人との関わりを私たちに意識させるものばかりでした。こうしたメディア装置についての思考を意識させる芸術が、まさに古典的なメディアアートでしょう。
僕自身も作品をいくつか作っています。例えば、『Looking-glass timeアリスの時間』という作品では、映像メディアそのものを批評するために装置を作りました。そこには、「もし記録メディアがこの世界に存在しなかったら、どうやって映像を作り出すのだろう?」という問い、あるいは、「いま世界でリアルに加えて、メディア上で同時多発的に流れている複数の時間軸」などに思いを寄せて、作品装置をくみ上げました。これは映像装置への古典回帰でもあります。
https://www.youtube.com/watch?v=c3orYwyuRz4
(Looking-glass time)
実物投影機の方式で、実物の時計からレンズで変換される光学像のみを用いてアニメーションを作っています。つまり、「フィルムを使わない」アニメーション装置です。
また、『Human Breadboard』という作品では、この世界にあるコンピュータと人間、有機物、生命をマクロ的に支配する構造を写し取りました。
https://www.youtube.com/watch?v=7gmJGH54lIo
(Human Breadboard)
1Hzで動くたくさんのコンピュータを相互通信させ、そこに生物的な部品(生の植物、昆虫など)を繋げ、人間をクロックに動作させています。
他にも、映像や写真では少々わかりにくいのですが、『モナドロジー』という作品もあります。ここでは、不思議な三次元的なアニメーションを作り出しました。物体の存在消失、三次元的な動きを実際に用いて実体のアニメーションを作ると、まるで自分が宇宙に浮いているような不思議な感覚がします。
https://www.youtube.com/watch?v=WRnLJsyeQCU
(Monadology)
シャボン玉を消失・出現するメディア装置として捉えて、真っ暗な部屋で非常に弱い点光源のストロボを人間の暗順応に対応させ調節して制作しました。
しかし、これまで非常にたくさんのメディアアートを作ってきた僕ですが、ここ半年ほどは作品を一つも作っていません。なぜだかメディア装置の研究ばかりしています。それは、あることに気づいたのが理由です。どうやら、メディア装置の制作による表現という試みと、メディア装置の研究を行うことは、非常によく似た特徴を持っているのです。というのも、現代における「メディア・アート」の意味の拡大には、どうやらメディアアートとコンピュータ研究の間にある奇妙な相関関係が関わっている気がするからです。
■グーテンベルクの銀河系、星降る前夜――メディア装置としてのコンピュータ
その説明をするために、ここからは少し遠回りをしてコンピュータとは何かを考える旅に出ましょう。今や、この地上に星の数ほどあるコンピュータの在り方を探る旅です。
実は現在、我々が能動的に使うコンピュータは、デスクトップやラップトップなどの「メディア装置としてのコンピュータ」です。例えば仕事ではデスクトップ型、家ではラップトップ型、ちょっとした用事はタブレットで済まし、電車の中ではスマホ……そんな使い方をする人は多いはずです。コンピュータを使って仕事の書類を作ったり、ウェブにアクセスして情報のやり取りをしたり、映画を見たり、誰かにメッセージを送ったり、はたまた生中継に至るまで、さまざまなメディア装置としての使い方があって、みなさんも思い思いに使っているのではないでしょうか。
もちろん、それ以外にも、コンピュータはディスプレイのついたものには限らないわけで、改札やエアコンなどの家電に至るまで、僕たちの身の回りには溢れているのですが、今の世の中が興味津々なのもやはり「メディア装置としてのコンピュータ」なのです。なぜなら、やはりそれこそがエンドユーザーの市場に最も購買されてきたのですし、そこではそのメディア装置としての特徴が駆使されることで「お金稼ぎ」が出来ていたからです。
そんな中、2010年代も半ばを迎えた現在、「スマホの次は何が来るのか?」という記事があちらこちらで話題になり、次の担い手としてグラスウェアや腕時計型のデバイスに注目が集まり、「これからはウェアラブルの時代が来る」なんて言われているわけです。しかし、そのようにしてコンピュータと人が関わるような文脈はどこから創られたのでしょうか。その辺の言葉の歴史や文脈の整理から始めましょう。
さて、前回の連載で、僕はマークワイザーのユビキタスコンピューティングについて触れましたが、消費者サイドで我々の生活とコンピュータを見たときに、二つの欠かせない出来事があります。一つは、ゼロックス・パロアルト研究所での1973年のAltoの発明(暫定DynaBook)、もう一つは1984年のマッキントッシュの発売です。
マッキントッシュとスティーブ・ジョブズについてはもう語るまでもないでしょうから、ここではパーソナルコンピューティングを経て、コンピュータがメディア化していく中で、そのバックグラウンドで大きな影響力を持っていた、二人の「偉人」の話から始めることにします。それは、アラン・ケイとジェフ・ラスキンです。
アラン・ケイは、最初のオブジェクト指向言語「Small Talk」(今でも広く使われるようなプログラミング言語の原型スタイル)と現代型のGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)を持つ最初のコンピュータ「Alto」の生みの親で、DynaBook構想を作り出したコンピュータ史における偉人の一人です。巷では、「未来を予測する最善の方法はそれを発明することだ」という言葉が有名です。
彼のDynaBook構想とは、ひと言で言えば「未来の本(Book)に代わるようなコンピュータを作ろう」という思想でした。ちなみに、彼はDynaBookの構想時にマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』を読み込んだというのは有名な話です。彼の考えたDynaBookとは、以下の様なものでした。
・安価で低電力動作する持ち運び可能なコンピュータ
・マルチメディア(音声・画)が扱える。
・ディスプレイと直感的なユーザーインターフェースを持ち、子どもが紙とペンの代わりに使える
・コンピュータのOS自体が簡単なプログラムで動いていて、エンドユーザーが簡単にプログラミングできる
この思想は1972年の著作『Personal Computer For Children of All ages』の中に書かれたものですが、今から40年以上も前に書かれたとは思えない先見性があります。現在でいうところのタブレットやスマートフォンに近い思想であり、子どもがiPadやiPhoneで遊んでいる光景をみると、着実にそのときは迫っているなと感じるほどです(ただし、最後のプログラミングについての条件が満たされたOSはまだ存在しません。iOSやAndroidは自身をプログラミングしたり、そのソフトウェアの構造が一瞬で見て取れるようなものではないからです)。
そんな彼がXeroxのパロアルト研究所で、そのDynaBook思想を体現する「暫定DynaBook」として開発したのが、現代型のGUIを搭載したデスクトップ型コンピュータのAltoでした。
その時代に、今のiPadのようなコンピュータを想定してモノを作るのがいかに大変なことか――僕には想像もできないです。何しろ、それまでのコンピュータはそもそもマルチウインドウやマウスカーソルなどを備えておらず、コマンドラインインターフェース(よく映画などで、ハッカーが文字だけの画面で打ってますね。あれです)で動かすのが常だったのです。それが、Altoは今見てもなお現代型のデスクトップコンピュータと大枠では差がありません。また、DynaBook構想の元となった1972年の文献には、子どもが板状のディスプレイとキーボードを備えたコンピュータで遊ぶスケッチが描かれており、まさに今の世界を予見しているとさえ思えます。
彼はそのようにして、その先験的なビジョン、実装としてのGUIとオブジェクト思考言語によって、コンピュータの歴史を大きく進めたのです。そして、これを見て影響を受けたスティーブ・ジョブズがAppleで作ったのが、マッキントッシュなのです。
ここからは、近年よくある「スマホの次」を論じるような話に見られる、一つの勘違いがわかります。パーソナルコンピューティングは1984年のマッキントッシュ発売で民主化して、21世紀にスマホに進化したわけではありません。むしろ、スマホを含むパーソナルコンピューティングに関わるメディア装置の形は、1972年にDynaBook構想の形で定義されており、以来基本的には変わっていないのです。
その後、コンピュータカルチャーは2010年代に至るまで、子どもであろうとも誰もが簡単に使えるマルチメディア端末――最終到達点としてのDynaBookを追いかけ続けています。Alto以後、コンピュータはメディア装置としての進歩を続け、パーソナルコンピューティングの時代(パソコン)、Webバブル(ネットワークパソコン)を超えて、今のようなモバイル/ユビキタスの時代(スマホ)になりました。
しかし、私たちの思想的なバックグラウンドは、いまだ一人の偉人が定義した道順をなぞり続けているに過ぎないのです。我々はグーテンベルクの銀河系の中で、ケイの奏でる音楽でダンスをし続けているようなものです。
そしてまた、コンピュータが広くメディア装置になったのが、1973年のこのときと言えるでしょう。
今ではもう当たり前のようにコンピュータはメディア装置として機能していますが、コンピュータがメディアになったのは、実はあらかじめ決まっていた未来ではないと僕は思います。
そもそも最初、コンピュータは戦争用の計算機として、非常に時間のかかる弾道計算をすぐに処理するために生まれました。別に、いつでもどこでもマルチメディアを使うために進歩して来たのは必然ではなく、またエンドユーザーが使うために生まれたものでもないのです。実際、現在も電卓や炊飯器には、そんなディスプレイやカメラ入力のような機能はありません。マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で語ったメディア論とコンピュータコンテクストが交わるようになったのは、このようにコンピュータがメディア装置としての可能性を明らかにして、そして、その方向へ発展してきたからに過ぎないのです。
ただし、ここで一つ忘れてはいけないのは、コンピュータにはメディアというよりも家電製品に近いような、「道具的側面」もあることです。「紙とペン」だけではなく、生活に役立つ道具としての側面も確かにあるのです。
ここで重要なのが、ジェフ・ラスキンという「ヒューマンインターフェース」の大家です。彼はそもそも1984年のマッキントッシュの開発に関わったことで非常に有名なのですが、その思想の一つに「モーフィングコンピュータ」があります。
それは、ひと言で言えば「コンピュータが機能に応じてその姿を変えて、違う道具になる」という思想です。これは、つまりは形が自由に変わるドラえもんの道具のようなものです。例えば、あるときはハサミになり、あるときはペンになり、あるときは栓抜きになるような道具をイメージしてください。十徳ナイフのような感じですが、そのコンピュータ版だと思って頂ければわかりやすいでしょう。コンピュータの機能は単機能で提供されるが、用途に合わせてその都度インターフェースは変化していくという発想なのです。
もちろん、現状では自由に姿を変化させられるのはディスプレイの中の映像でしかないのですが、皆さんもお気づきのように、これは今のスマートフォンのインターフェースそのものになっています。
つまり、「DynaBook的なマルチメディア装置+2次元モーフィングコンピュータ」の暫定的な実装こそが、現在のスマートフォンやタブレットなのです。しかし、それは1984年にマッキントッシュの登場でパーソナルコンピュータが民主化される以前に、その思想的なバックグラウンドは完成されています。この30年、コンピュータはそれを追いかけて進歩してきたのです。
そこから分かるのは、「パソコンからスマホ」と「スマホからその次」の間には、ものすごく大きな隔たりがあることです。スマホまでは予想された未来でした。しかし、その後はどうなっていくのでしょうか?
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【GW特別再配信!】現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』 第1回「映像の世紀から、魔法の世紀へ」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆
2015-05-05 16:00220pt
メディアアーティスト・落合陽一連載『魔法の世紀』 第1回「映像の世紀から、魔法の世紀へ」
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.5.5 号外
http://wakusei2nd.com
この春に東京大学大学院で博士号を取得、さらには20代にして筑波大学の助教にも就任し、ますます注目が高まっている「現代の魔術師」ことメディアアーティストの落合陽一さん。このたびPLANETSチャンネルでは、落合さんの最新の研究・関心事を追いかけるべく、連続講義ニコ生「魔法使いの研究室」をスタートしました!
(初回の放送はこちら ※PLANETSチャンネル会員+ニコニコプレミアム会員の方は、5月8日 23:59までタイムシフトでご覧いただけます)
本ニコ生講義が大好評につき、このGWでは過去にPLANETSチャンネルで配信した落合さんの書き下ろし連載「魔法の世紀」の初回と第2回を再配信していきます。初回は、テクノロジーでもアートでもない「魔法」の時代とはなにか?を解説しています。(2014.7.17公開の記事を再配信)
落合陽一『魔法の世紀』これまでに配信した記事一覧はこちらから。
■ 前書き――技術でも芸術でもなく
おはようございます、落合陽一です。
僕はコンピュータ研究者とメディア芸術家の、二足のわらじを履いて生きています。人とコンピュータとの関わりをどうやって変えていくかを日々研究しながらも、かたや文化の面からもどのような表現が可能になっていくかを日夜探求しています。コンピュータという知的装置の前で人間はどう関わるのか、そして、それを取り入れてどう生きるべきなのかを、モノを作りながら考え続けて今の年齢になりました。
宇野さんから連載のお話をもらったとき、連載のテーマについてすごく悩みました。コンピュータやテクノロジーの話なのか、これからの文化の話なのか、それとも僕自身の興味ある未来世界のシナリオなのか――。
それは、僕という人間が語るための基軸はどこにあるのかという問題についての悩みでもありました。単に自分の関わるプロジェクトを説明するだけなら、その文脈はいくつも持ち合わせているので困りません。しかし、自分自身について語るときには、やや困難があります。なぜなら僕は、コンピュータ技術と芸術の間で生きている人間で、自分のやっていることを人に説明するとき、自分のモチベーションや意義を、技術と芸術を俯瞰するある種のモノ作りの思想のようなメタの視点から語らないと、なかなか他人に理解されないし、伝わらないからです。
だから、僕の視点から見える世界を語るには、アートでもテクノロジーでもない何か象徴的な言葉が必要だなと常々思っていました。それも、二つの領域を行き来するようなものではなく、そのどちらとも異質で俯瞰的な言葉です。技術でも芸術でもない言葉であり、しかもある種包括的で、世代のキーワードになるような言葉でなくてはならない。そう考えたとき、宇野さんとの対談で出て来た、「魔法の世紀」という言葉が一番しっくりくることに気がついたのでした。
【参考】YouTube270万再生の"空中浮遊"動画で話題――アーティスト落合陽一氏にインタビューしてみた ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.013 ☆
http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar463252
20世紀は「映像の世紀」でした。文化の面でも、社会の面でも、テクノロジーの面でも、そうです。
映像技術は、20世紀初頭にアニメーションテクノロジーを発端として生まれました。芸術と技術の両面で世界を変えてきた「映像文化」は、アートとテクノロジーこそが文化を織りなすという観点では、まさにその典型です。その発展は、まさにいくつもの領域にまたがり、映画産業を作り出し、テレビジョンはマスメディアの概念を拡大させ、コンピュータ領域も取り込み、映像をインタラクティブ技術に変えました。
そして、フィルム技術、映写技術、通信技術という分野横断的なテクノロジーの進歩と、それに伴う様々な作家の表現。映像技術は時代のコンテクストとともに発展していったのです。
『映像の世紀』という同名のNHKのドキュメンタリーもありましたが、そんな20世紀を振り返るのに「映像」というキーワードは欠かせません。つまり、映像は一つのパラダイムだったのです。そこには、時間と空間、人間同士のコミュニケーション、イメージの伝達ツール、インタラクティブなコンピュータ、虚構と現実などの多くのコンテクストが内包されています。
しかし、それに対して、僕はここで「映像の世紀から魔法の世紀へ」という変革点を語りたいと思っています。僕にとって「魔法」とは、そんな20世紀に映像が持ったようなコンテクストを内包するような、次なる21世紀のパラダイムを表現した言葉なのです。
■「魔法の世紀」
『充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない』――「映像の世紀」まっただ中の1973年に、SF作家アーサー・C・クラークは、こんな有名な言葉を残しています。魔法とテクノロジーについて考えたときに皆さんが最初に思い浮かべるのは、この言葉ではないでしょうか。
研究者やエンジニアなど、科学やテクノロジー好きの人間は、この世界に文字通りの「魔法」なんて実現しないと端から信じているので、魔法をあり得ないものとして捉えています。だから、彼らはこの表現に巧妙さを見いだすのだと思います。しかし、この言葉には、有り得ないほどの超技術は文字通りの魔法になりえるのではないかという希望を見いだすことも出来るのです。
実際、アーサー・C・クラークは、20世紀の映画を代表するS.キューブリックの名作『2001年宇宙の旅』の原作者として有名ですが、あの虚構に我々が垣間みた表現は、おそらく21世紀にはこの現実世界でも実現するようになるでしょう。映像で語られるような宇宙の旅の世界を、この地球上に実現するのはやや難しいですが、物体浮遊に関しては研究が進んでいますし、実は僕もそこに関わる一人です。また、政府主導や民間主導での宇宙の開発も進んでいます。
つまり、クラークが描いた「魔法と区別がつかない超技術」の実現は、既に始まっているのです。
ここで重要なのは、なぜそのような技術が実現したのかです。それを可能にしたものこそが、前世紀に戦争の道具として発明され、人類の知的生産からコミュニケーション、映像の中に魔法のような表現などあらゆる場所に革命を実現した「魔法の箱」――コンピュータです。
これらの「超技術」を押し進めるテクノロジー文脈の一つは、間違いなくコンピュータの発展によるデジタルカルチャーです。現在、かつてSFを見て育った子ども達が、このデジタルカルチャーを引っ下げて、コンピュータというツールを多かれ少なかれ巧妙に使い、まさにSFをこの世界に実現しようとしているのです。そう、「魔法の世紀」において、その魔法の素(マナ)となるのは、まさしくコンピュータだと思います。
この連載の目的は、そんなコンピュータとその周囲の文化が織りなすデジタルカルチャーの文脈とその基本的な原理から、コンピュータの特徴を「魔法の世紀」として捉え直すことで見えてくるものについて書いていくことです。
それは、魔法をキーワードにして、デジタルカルチャーを主体に置いたテクノロジーの文脈、メディアアートやインタラクティブアートなどの表現活動、SNSやUGCを始めとしたインターネット文化などが向かう先を理解するために、前世紀的な「映像文化」との対比で読み解いていくということでもあります。
■「魔法」とはなにか
しかし、魔法という言葉に聞き慣れなさを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。実際、魔法という言葉は、どの辞書をたどってみても定義がなかなかに一致をみません。強いていえば「常人には不可能な手法や結果を実現する力のこと」と言ったところであると思います。
では、僕たちが考える魔法のイメージはどこから来ているのでしょうか。
例えば、「ハリーポッター」シリーズを思い浮かべてみてください。あの物語において、魔法使いたちは、ホグワーツで修練した魔法技術を用いて、この世界に奇跡を起こす存在として描かれます。
そこでの魔法の描かれ方で僕が注目したいポイントは、魔法のイメージというものが、魔法によって具現化する実際に体感可能な現象として、ストーリーの中で描かれるところです。そして、その魔法の機序原理についてはあまり多くは語られず、そしてそれ自体は別の現実を描いたファンタジー作品ではあれども、その作品内では世界が完結していることです。これらの特徴は、他のファンタジー作品でも同じではないでしょうか。 以下に、それを定式化します。
1.「現実性」:魔法使いの使う魔法は物理世界(現実)に影響をもたらす
2.「非メディアコンシャス」:完全な動作機序(メディア)は明らかではないが使える。
3.「虚構の消失」:魔法ファンタジーの中にもう一つのファンタジーは存在しない。
もちろん、この連載が目的とするのは、そのようなファンタジーの中で魔法使いが駆使するようなものを語ることではありません。しかし、僕はテクノロジーがまるで魔法のように生活の隅々にまで行き渡った現代と、ファンタジーの魔法のそれには多数の共通点があると考えています。
ここからは、そのことを上記3つの定式化に即して、説明していきます。前章で指摘したのがまさに「現実性」に当たりますから、ここからは「非メディアコンシャス」と「虚構の消失」を説明していきましょう。
■ 非メディアコンシャス――「何が充分なら魔法になり得るのか?」
再び、先に挙げたアーサー・C・クラークの言葉に戻りましょう。充分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない(Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic)という言葉には、”sufficiently advanced(充分に発達した)”という表現があります。
一体、何が十分に発達したもので、何が魔法を作るのでしょうか。それは、そこにある科学技術を人が意識しなくなったときです。テクノロジーに関する理屈は理解できても、高度に細分化され発達したテクノロジーが、そこにある技術についてユーザーが気に留めないほど高度に振る舞い、そこに技術があることを秘匿すれば、それは実質的に魔法となるわけです。
テクノロジー自体の存在を意識しないほどテクノロジーが発達する。そして、テクノロジー自体は超常的な何かとして意識されなくなる――そのようなビジョンとして、例えば1993年に、Xeroxパロアルト研究所のマークワイザー博士が「21世紀のコンピュータ(The Computer for the 21st century)」の中で提唱した、ユビキタスコンピューティングがあります。
「ユビキタスコンピュータ(世界にあまねく存在するコンピュータ)」は、まさしくそのような概念です。いつでもどこでも互いに接続されたコンピュータが、人間をサポートすることで、人間はテクノロジーを意識しなくなるというビジョンです。
マーク・ワイザー博士の意に反して、この概念は「いつでもどこでも」が強調され、モバイル通信が盛んに行われる社会のことだと曲解されてしまっているように見えます。みなさんもユビキタスコンピューティングと聞くと、コンピュータの見えない世界というよりは、むしろコンピュータに対して意識的な、スマホなどのモバイル端末がたくさんある世界を想像するのではないでしょうか? それは、当初のマーク・ワイザー博士の意と正反対の世界です。
空気みたいな、植物みたいな、そんなアンビエントなコンピュータを実現する。そうすればコンピュータの存在を意識することはなくなります。ハードウェア的にはまだ遠い世界かもしれません。しかし、我々の意識レベルではそれは遠い未来の話ではないと思います。それどころか、今ここで僕らの中で静かに進行中のことだと考えています。
例えば、Twitterを「喫煙所みたいなもの」と表現したり、ネット回線がない場所で「息がしづらい」と言ってみたりしことはありませんでしょうか?
SNSにどっぷりはまったような人たちにとっては、そのメディアそれ自身は、普段からは意識されない状態になっているので、逆にネットから切断されたときに急にその存在を意識するようになるのです。
僕は、これは既に空気みたいなメディアが実現されつつあるのではないかと思っています。
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■オープニングトーク
宇野 時刻は午後11時30分を回りました。こんばんは、評論家の宇野常寛です。今日は冒頭から、全国のアイドルファンのみなさんに悲しいお知らせがあります。私、宇野常寛は断言します。「レス」とは、妄想です。すべてのレスは、脳内の幻想に過ぎません。そもそもレスとは何か? 専門用語なので解説した方がいいかもしれませんね。レスとは、ステージ上のアイドルが、パフォーマンス中に客席にいる僕らに目線や指差しをくれることなんですよ。僕らオタクは、例えば「超絶かわいい、ゆいちゃん!」とかって歌の隙間に叫ぶんですけれど、その瞬間にアイドル側からビシッと目線をくれたりとか指差しをくれたりすることがあるんですよ。その瞬間を僕らはレスと呼んでいるんですね。僕らの「コール」に対して「レスポンス」があるという意味です。これ、アイドルファンにとってはいちばん気持が高まる瞬間なんですよね。もちろん、ステージ上のアイドルと目が合ったかどうかなんて、確かめることはできないです。それでも僕たちファンは、憧れのアイドルと自分が「一瞬だけでも時間を共有した」と信じるわけですよ。だからこそ、レスというのは、一種の宗教的な恍惚感を得られる瞬間なんですよね。ただ、残念なことに先週、僕はそれが完全に幻想であることを思い知りました。
僕は先週、新宿のバルト9というシネコンで行われたAKB48の新曲『僕たちは戦わない』という曲のミュージックビデオの完成披露会に行ってきたんですよ。監督は、実写版『るろうに剣心』の大友啓史さん。この人は元NHKのディレクターで、『龍馬伝』とか『ハゲタカ』を撮った人ですね。僕もNHK時代から面識がある人なんです。僕は彼のファンで、僕の雑誌で取材とかしたこともあるんですけれど、「大友監督だし、行こうかな」と思って急遽開かれたそのイベントに行ました。そしたらすごく良かったんですよ。『僕たちは戦わない』というタイトルがよく示しているんですけれど、歌詞の内容は、明らかにテロとその報復戦争、もっというと現在の中東の状況とかを風刺したものでした。ミュージックビデオもその歌詞のコンセプトと連動していたんです。
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