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本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2017.10.18
2017-10-18 07:30
本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
今月から水曜日にお引越し!21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★テーマ「本の話」今週の1本「身体のリアル」and more…
今夜の放送もお見逃しなく!
▼放送情報放送日時:本日10月18日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
▼出演者
ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:井本光俊(編集者)
▼ハッシュタグ
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議員資格剥奪・収監・反権威主義運動|周庭
2017-10-18 07:00
香港の社会運動家・周庭(アグネス・チョウ)さんの連載『御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記』。香港では民主派議員の議員資格が剥奪され、著名な若手活動家たちに禁固刑が言い渡されるなど、大きな変化が起こっています。民主を目指し活動する周庭さんが、改めて香港の未来について考えます。(翻訳:伯川星矢)
御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記第11回 議員資格剥奪・収監・反権威主義運動
わたしが書いた文章を掲載するのはとても久しぶりとなってしまいました。前回はブラック・バウヒニア行動と返還記念日デモのお話をしました。7月1日の返還記念日から今日までの間で、香港の政治情勢はまた大きく変わってしまいました(恐らく日本でも同じですが)。今回は、この変化についてお話をしたいと思います。
民主派議員の議員資格剥奪
まず7月14日、香港の最高裁判所は香港衆 -
★号外★ 10/24(火)根津孝太×岩佐琢磨「自動車の世紀はあと100年続く」(『カーデザインは未来を描く』刊行記念イベント)のお知らせ
2017-10-17 07:30
10月7日(土)発売の根津孝太さん著『カーデザインは未来を描く』の刊行を記念し、刊行記念イベントを実施することになりました! 「自動車の世紀はあと100年続く」と題し、気鋭のカーデザイナーである根津さんと、株式会社Cerevo代表取締役であり、自動車へも高い関心をお持ちの岩佐琢磨さんをお招きして、自動車と自動車社会の未来について語っていただきます。トークイベント終了後は、根津孝太さんのサイン会を予定しています。ぜひ会場に足をお運びください。
▼スケジュール
2017年10月24日(火) 18:30 open / 19:00 start
▼会場
DMM.make AKIBA 東京都千代田区神田練塀町3富士ソフト秋葉原ビル JR線 秋葉原駅 中央改札口より徒歩2分 つくばエクスプレス線 秋葉原駅 A3改札口より徒歩2分 東京メトロ日比谷線 秋葉原駅 2番出口より徒歩4分
▼出演プロフィール
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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第四章 風景と怪獣 2 ウルトラマンの風景(2)【毎月配信】
2017-10-17 07:00550pt
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は時代の転換点となった大阪万博的な風景と結びつけながら、鬼才として知られる実相寺昭雄監督の目線に迫ります。
子供のメタフィクション
思えば『ウルトラQ』の第一話では、高速道路というインフラの工事が太古の恐竜を呼び覚ました。「怪獣殿下」のエピソードはこの「工事中の日本」というモチーフを、万博前夜の日本の団地のなかに呼び出しつつ、中流の子供と共犯関係を結んだ。『ウルトラマン』は産業社会の環境を養分とする怪獣たちを浮上させる一方、郊外の未完成のインフラにも目配りしていたという意味で、六〇年代後半の過渡的な「風景」をよく示している。 この共犯関係は、ジェロニモンやレッドキングをはじめ多くの怪獣が登場する『ウルトラマン』の第三七話「小さな英雄」にも認められる。この物語はピグモンが銀座の松屋のおもちゃ売り場に出現し、人間に警告を発する場面で始まるが、面白いことにそこにはウルトラ怪獣のおもちゃが陳列されていた。これは現代ふうに言えば、アニメの主人公が自分の二次創作の売られているコミケを散策するような、ひどく奇妙な演出である。そこでは、作品世界(虚構)と作品を消費する世界(現実)が地続きになっていた。そもそも、この「小さな英雄」というエピソードそのものが、人気怪獣たちを復活させ、いわば巨大な「おもちゃ」のように闘わせるサービス心旺盛な物語であった。 作り手側が『ウルトラマン』の消費される現実世界を作中に取り込んでしまうこと――、これは一見するとメタフィクション的な実験に見えるが、脚本を担当した金城も含めて、作り手は恐らくそこまで凝った考え方はしていなかっただろう。『ウルトラマン』が複製可能な「商品」(ウルトラマンのお面や怪獣の人形)であるということは、彼らにとってごく自然な認識であったのではないか。通常のメタフィクションが現実と虚構の境界線を意識しつつ、虚構の虚構性を暴き立てるものだとすれば、『ウルトラマン』は現実と虚構を気軽に繋げてしまう「子供のメタフィクション」だと言えるかもしれない。
逆に、続く『セブン』では子供の出番そのものが少なくなり、「怪獣殿下」や「小さな英雄」に見られた無防備なメタフィクション的性格も希薄になる。『セブン』は総じて現実(作品外)と虚構(作品内)をきっちりと分けて、物語を自律させようとした。だが、その後のウルトラシリーズは再び、自らが子供のおもちゃとして消費されているという状況に回帰する。なかでも、市川森一脚本の『A』の最終話は、ウルトラマンごっこをして遊ぶ子供の信頼を獲得するために、主人公の北斗星司が兄貴分として自らの正体を明かすという象徴的なエピソードであった。繰り返せば、このメタ的な演出は表現上の実験というよりは、むしろ作品の向こう側にある子供の消費者共同体との絆の再確認と考えるべきだろう。
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猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第25回「森と一体化したい!」
2017-10-16 07:00550pt
チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は、佐賀・武雄の御船山楽園で10月29日まで開催中の展覧会について、現地で作品を鑑賞した宇野と語り合いました。「森と一体化するまで魂を込めた」というその展示で、猪子さんはどのように「デジタイズドネイチャー」の作品たちを進化させたのか? そして、「行けば価値観が変わる」というヨーロッパの魅力とは?(構成:稲葉ほたて)
デジタイズドネイチャーと「書」の意外な共通点とは
宇野 佐賀・武雄で開催中の「資生堂 presents チームラボ かみさまがすまう森のアート展」に行ってきたので、今日はその話からしたいな。まず良いなと思ったのが『岩割もみじと円相』(以下、『岩割もみじ』)。猪子さんから聞いていた構想よりも、実物がめちゃくちゃ良くてびっくりした。
▲『岩割もみじと円相』 猪子 これは、円を一筆で空間に描く『円相』を、岩にプロジェクションしたものだね。木が生きる力でできた岩の裂け目の影と、黒い書の区別がつかず、一体化していくのが良いでしょ。
宇野 これは、「デジタイズドネイチャー」シリーズの「普段我々には見えていないものを情報技術の力で見えるものにする」というコンセプトを思いっきり直接的に、それもシンプルな構造なのに圧倒的な情報量で表現できていると思う。たとえば、今回の展示にあった『増殖する生命の巨石』にしても、花の映像を投影して時間軸を加えてあげることによって、僕らは岩肌の質感や起伏とかの魅力を初めて理解できる。そしてこの『岩割もみじ』はそこからもう一歩踏み込んでいると思うんだ。
▲『増殖する生命の巨石』 宇野 まず木というものは、当然だけど地面より上の部分しか僕らは目にすることができない。ところがこの『岩割もみじ』はまるで巨岩の上に木が生えているように見える。その結果、岩の部分に普段は目にすることができない、隠された自然のメカニズムを表現しているように見える。岩の部分に投影される「書」のアニメーション、そして光線を当てられることで鮮明に浮かび上がる岩肌のテクスチャーが、そのメカニズムを表現している部分だね。
猪子 なるほど。
宇野 しかも、これは「書」という作品のモチーフとうまく重なり合っていると思う。「書」ってそもそも平面と立体の中間物だと思うんだよね。僕らが普段見ている書って、トメハネなどの痕跡から、見えない立体的な動きを想像させるものでもあるけど、このシリーズでは、そうした立体が平面に焼き付くという中間性を、具体的にその痕跡の再現で表現してきたわけだよね。
そう考えてみると、「本来は見えなかったものを情報技術で可視化している」という点において、「書」のアニメーションとデジタイズドネイチャーは似てるんだよ。昼間に行ったときは見えなかったから、より一層、作品の持つコンセプトが非常にうまくいってると感じた。
「かみさま」がすまう展覧会
宇野 ちなみに、個人的に1番良かったのは『かみさまの御前なる岩に憑依する滝』(以下、『滝』)。
▲『かみさまの御前なる岩に憑依する滝』 猪子 これは光の滝が、稲荷大明神にある巨岩に降り注いで、巨岩の形にそって滝の軌跡ができていく作品だね。
宇野 まず見せ方が良かったと思う。御船山楽園の中心点まで行って、さらに階段を登っていったゴール地点としてこの作品が登場してくる。まさに「神」感があった。デジタルアニメーションの「滝」と出会うことで、「神」の岩の圧倒的な情報量と質感が夜の闇の中に浮かび上がる。『岩割もみじ』のような複雑な構造があるのではなく、ものすごくシンプルな作品なのだけど、御船山楽園のあの敷地の、あの位置に鎮座していることで、ぜんぜん見え方が違うよね。
猪子 まるで天空から森の天井を突き抜けて滝が降ってきているように見えるし、神感があるよね。
宇野 ただ、ここでの神って、決して何かを超越したものではないと思うんだよね。あくまで「実は我々が生活空間の中でも日常的に触れてるんだけど、普段は見えないもの」が、チームラボのアートの力で可視化され、「神」性を宿しているんだよ。まさにこれは僕らの世界と地続きの場所に住んでいる「神」。今回は「かみさまがすまう森のアート展」という名前だけど、この展覧会はまさに、チームラボの考える「かみさま」のありようがすごくよく出ていると思う。実はチームラボって、作品タイトルには「かみさま」とつくものがいくつかあるけど、「神」というテーマ自体はあまり扱ってこなかったと思う。今回の『滝』は、その中でも、チームラボの考える神が最も前面化してる作品になっているんじゃないかな。それも作品単体で完結するのではなく、展示方法と有機的に繋がったロケーションと配置があるからこそ機能するものになってるのが面白い。
だからこそ、『岩壁の空書 連続する生命 - 五百羅漢』(以下、『五百羅漢』)の付近にあった、近代的な装飾やお供え物は、余計だと思ったかな。あの観光客を対象にしたセンス丸出しの、適当に印刷したような垂れ幕みたいなものは、絶対に無い方がいい。これを作った仏師たちも、絶対こういう飾られ方されたくないと思うよ。それに、ドーンと垂れ幕の正面に「五百羅漢」って書いてあったけどさ、パルテノン神殿に「パルテノン神殿」とか書かれた看板なんてないでしょ(笑)。いまどきの感覚で言えば、京都のローソンでさえ外観は茶色なわけだし、ああいうのはやめたほうがいいと思うな。
▲『岩壁の空書 連続する生命 - 五百羅漢』 猪子 確かにそうだね……垂れ幕をとってもらうことをお願いして、今夜からとってみよう。
ちなみに、あの場所はもちろん庭ができる前からのもので、だから御船山楽園の管理ではなかったんだ。でも、五百羅漢を彫った行基の宗派はもうとっくの昔になくなっていて、今回の展覧会を創っていく中で調べていくと、最近、いつの間にか御船山楽園の管理に移っていたみたいなんだよね。御船山楽園のオーナーも気が付いてなかったけど(笑)。
宇野 鎌倉以降の仏教の影響が世俗的には決定的になってるからね。じゃあ、あそこは誰が管理してきたのかよく分からないんだね(笑)。
僕は、もしあの近代ツーリズムの産物みたいなものを取り除くことができたら、この『五百羅漢』を、さっきの『滝』と対置させたら面白いと思うよ。「人間が作った仏」である『五百羅漢』と、「自然の神」である『滝』が、それぞれの鑑賞ルートのゴールになっている、とかね。
「光の窓」を越えてたどり着く世界
宇野 今回、全体を通じて印象に残ってるのは作品の配置や導線の上手さだね。庭が広くて、かなりのスケール感の中で、どういう順番で見えていったらいいかが考えこまれているなと思った。
猪子 配置については、1300年くらい前から続く、人と自然との長い長い営みが生んだ歴史の恩恵ですね。
宇野 その意味では、『切り取られた連続する生命 - 森の道』は可能性を感じたよ。この作品を会場のあちこちに配置して、これで道案内するくらいでいいと思ったんだけど、なんで一つしか展示されていなかったの?
▲『切り取られた連続する生命 - 森の道』 猪子 これは人が立ち入れる範囲で、森の密度がある場所があまりなくて……探しまくってようやく見つけたんだよ。ここも、とても暗いから、放っておくと道を踏み外してしまうかもと思って、今回の展覧会に合わせて道を整備したもん。ちゃんとした森と、道って、もはや矛盾した概念だから、どうしても危険なところになっちゃうんだよね。
宇野 へたなところに作ると危ないんだね……。森の天井に穴が空いてる『切り取られた連続する生命 - 森の天井』も良かったよ。
▲『切り取られた連続する生命 - 森の天井』
猪子 これは、上を見上げないと作品に気づくことができないから、たぶん、9割くらいの人が気づいてないかもしれないね(笑)。
宇野 この作品は、夜にしか、そして人間の智慧、つまりデジタルアートの光があってはじめて見える自然があるんだっていう大本のコンセプトを、これまでとは違うかたちで、しかもコロンブスの卵的なシンプルな見せ方で表現しているじゃない? この手があったか、と思ったよ。
猪子 嬉しいな。作ってるときは、週に2千回くらい「本当にやるんですか?」って周囲から言われてたよ(笑)。
宇野 「単に森を照らしただけ」だと思われるのかもしれないけど、これはある種の「越境」なんだと思うんだよね。この作品自体が、展示全体に込めた「普段の自分の世界とは違うところに行くんだ」というメッセージになってるじゃない? だから、本来はこの作品で描かれた光の窓をくぐって御船山楽園に入るくらいがちょうど良いと思ったんだよ。
導線の話で言えば、あとは『生命は連続する光 - ツツジ谷』が、庭の上から眺められるようになっていたのも良かったね。上に行けば行くほど、リッチな展示が置いてあって、そして最後に上から、まるで呼吸するように明滅している光が見える――という導線がすごく上手い効果を発揮していると思った。
▲『生命は連続する光 - ツツジ谷』 猪子 庭自体の敷地が広いから、広さを生かした展覧会をしたかったんですよ。
宇野 それに、下鴨神社の『呼応する木々 – 下鴨神社 糺の森』のときは人が混み過ぎて全く分からなかったけれど、御船山楽園の『夏桜と夏もみじの呼応する森』では、敷地が広くてみんな道に迷いそうになりながら歩いているから、休日の夜で人が来ていても、ちゃんと作品が呼応してるのが分かって良かった。
ちなみに、そうした導線の最後に『WASO Tea House - 小さきものの中にある無限の宇宙に咲く花々』という、お茶の作品があったのも良かったね。僕はひととおり回ってきた後に、最後に休憩がてら寄ったんだけど、それまでずっとアートの介入で浮かび上がる自然の本質を味わっていたら、あそこで一気にそれまでの体験がお茶という人工物に凝縮され、抽象化されて味わうわけでしょう? 肉体的にも、精神的にも森での体験を反芻する時間になっているのがよかったね。
猪子 池のほとりにある茶室の方は、江戸時代に、お庭ができたときのものなんです。昔から、庭の中で茶を飲んでたんだね。やっぱり、配置や導線が上手いとしたら長い長い人と自然の間に積み重ねられた叡智のおかげだよ。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第一回 中間のものについて(6)【金曜日配信】
2017-10-13 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。「他人の物語」から、「自分の物語」へと文化の中心が変容する中、虚構であるがゆえにウサギのジュディの演説は「境界を再生産」することを運命付けられていた。話題はいよいよ、本連載のテーマである「中間のもの」へと移っていきます。 (初出:『小説トリッパー』2017夏号)
6 中間のものについて
情報技術の発展は、劇映画を終着点とする「他人の物語」から、自分自身の体験そのものを提供する「自分の物語」に文化の中心を移動させている。その結果、レコード産業は衰退する一方でフェスの動員は伸びる。「他人の物語」を代表する二〇世紀的な劇映画は、現役世代の共通体験の記憶をリブートする産業として最適化しながら徐々にその批判力を失っていく段階に入っている。その一方でイベント参加、観光、ライフスタイル、スポーツといった「自分の物語」たちが世界的な支持を広めていく。 こうした背景のもとで、ディズニーは二〇一六年〈ズートピア〉を送り出した。あらゆる事物と出来事が作家の意図なくして存在し得ないという一点において、アニメーションとは究極の虚構だ。ハリウッドの興行収入ランキングがアニメと特撮に占拠されて久しいが、これは純粋な虚構であるこれらの劇映画だけが、まだ現実に代替されていないから――YouTubeで五秒検索すれば出会える刺激的な現実に対抗し得るからだ。だからこそあの夏、ディズニーはウサギのジュディに、危機に瀕していた「境界のない世界」の理想を語らせることで、現実にはまだ完全には実現されていない多文化主義の理想郷と、その実現のための強い意志を描くことで現実に抗おうとした。しかし、〈ズートピア〉という虚構はトランプという現実の前に敗北したのだ。 それは比喩的に述べれば、虚構をもって現実に対峙するという思想そのものの敗北だった。そして「他人の物語」に感情移入させることで、人々の理性と能動性を養うという二〇世紀的なアプローチの敗北だった。ドナルド・トランプがアメリカ大統領に当選したあの日、私の友人たち――グローバルな情報産業のプレイヤーたる世界市民(としての自意識をもつ人)たち――がFacebookに饒舌に投稿した「境界のない世界」の擁護としてのトランプ批判の「語り口」が、逆に境界を再生産していたように、〈ズートピア〉におけるウサギのジュディの演説は、それがアニメーションという虚構であり、劇映画という旧世紀の制度を用いたアプローチであり、「他人の物語」である時点で、すでに敗北を、境界を再生産することを運命づけられていたのではないか。
虚構=他人の物語への感情移入によって人々を動機付け、統合していた時代はいま、終わりを告げつつある。現実=自分の物語(を獲得し得るゲーム)こそが人々を動機付け、動員する時代がすでに訪れているのだ。〈ズートピア〉で説かれたウサギのジュディが虚構の理想郷の素晴らしさを語る言葉よりも、〈Ingress〉〈ポケモンGO〉が人々の好奇心と快楽に働きかけて現実を、日々の生活空間を再発見するように促すことのほうが、世界を「境界のない」状態に近づけていくことだろう。 ここでつまりGoogleは、ナイアンティックは、ハンケは日常世界(私的な領域)の中に、非日常世界(公的な領域)を侵入させようとしている、と言える。小林秀雄的に言えば「政治と文学」の境界を融解させている。「政治と文学」とは、かつてこの国の「戦後」と呼ばれた時代にマルクス主義からの文学の自立をめぐる論争で使用された言葉だが、やがてそこから転じて公的なものと私的なものとの関係を意味する言葉として使用されるようになったものだ。近代社会とは、世界と個人、公と私が、政治と文学(文化)として表現される社会だということもできるだろう。
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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第20回 ゲームから物語へ(1)【毎月第2木曜配信】
2017-10-12 07:00550pt
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。多くの人にとっては「ゲーム」は終わりを迎えるものです。しかし、羽生善治氏や梅原大吾氏などのゲームを生業とするプロプレイヤーは異なる感覚を持っているようです。「ゲーム/物語」の区分から、井上さんが概念の整理を試みます。
■第20回:ゲームから物語へ(1)
3-5-6.ゲームであり、物語である
*続くもの、繰り返すもの たとえば、『スーパーマリオブラザーズ』を遊ぶとき、我々はゲーム機を立ち上げて一通り遊んだらゲーム機の電源を切る。そうすれば、ゲームの世界はそこで一端終わってしまう。多くのアナログゲームの経験も似たようなものだ。親戚の子供と一緒に正月に『ババ抜き』を遊ぶとき、数ゲームほど遊んだら『ババ抜き』というゲームはそれでいったんおしまいだ。半年後まで親戚の子どもが、そのババ抜きの結果について考え続け、その続きを挑んでくるということは、ほとんどないといっていいだろう。このようなとき、ゲームとは「終わり」を明確に持つものだ。 しかし、そうではないケースもある。「ゲーム」が日常のなかに埋め込んで生きている人々もいる。プロ棋士、プロボクサー、プロゲーマーなどと呼ばれる人々がそれにあたる。ゲームプレイというのは彼/彼女らの日常のなかにがっちりと組み込まれ、それは一回ごとのゲームを終えても、ある意味では続いているものだ。 たとえば、羽生善治はゲームというものについて一般人とは異なる視点をもっている。羽生本人のテクストから引用しよう[1]。
私はよく、タイトル戦などの重要な対局で、相手の得意な戦型で戦うことがあります。それはその人の得意な戦型を打ち破って優位に立とうということよりも、どんなに研究しても、最後は実戦でその戦型のスペシャリストの人と対戦しないことには、その戦型が本当の意味で自分の身につかないと思っているからなのです。 基本的な部分は、棋譜を見たり本を読んだり、練習将棋をすることである程度は把握できますが、そこからもう一歩前進しようと思ったら、その形のスペシャリストと実戦で実際に指してみるのが最も効果的だと思います。 相手の土俵で戦うことになるわけですから、確かにそのときの勝負の面においては損をする部分もありますが、長い目で見ればそれほど損ではないのではないかと私は思っています。 仮にその一局は負けたとしても、その形を着実にマスターできたならば、自分にとってかなり大きなプラスになります。だから長期的な視野に立てば、それは間違ったやり方ではないと思うのです。 しかも、タイトル戦であれば特に持ち時間が長いので、それまでまったく理解できていなかった形でも、時間を使いながら何とか理解していくことができるのです。
この羽生の発言は、我々のゲームプレイに対する一般的なイメージと比べるとかなり特殊だ。名人戦や、竜王戦、棋王戦といったタイトル戦は将棋マンガであれば、物語のヤマ場に置かれ「絶対負けられない戦い」として描写され、勝利にかける棋士同士の強烈な執念が描かれるような対象になるべきもののはずだ。 しかしあの羽生善治が、それは違うと書いている。そして、興味深いことに、これは羽生善治という人の特殊性を表しているかというとそういうことでもないということだ。「ゲーム」を生業とするプロフェッショナルで似たような発言をしている人物を探すことはそう難しくない。たとえば、日本のプロゲーマーとして最も有名な梅原大吾も似たようなことを書いている。
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2017-10-11 07:30
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池田明季哉 "kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第一章 トランスフォーマー(1)「1984年:ヒトではなくモノが導く成熟のイメージ」【不定期配信】
2017-10-11 07:00550pt
デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。序章で紹介したG.I.ジョーと変身サイボーグが描いた理想の男性性にまつわる想像力を引き継いで、トランスフォーマー誕生の経緯とそこに描かれた新しい成熟のイメージについて語ります。
序章では、アメリカにおける理想の男性像はG.I.ジョーというおもちゃが描いた「軍人」であり、その先に現れた「スーパーヒーロー」と共にマッチョイズムが基調となったこと、そしてG.I.ジョーの仕様変更として生まれた変身サイボーグが強化パーツを身にまとうことで丸ごとバイクになった「サイボーグライダー」が、乗り手と乗り物がコミュニケーションを取りながら主体と客体を往復する「魂を持つ乗り物」というユニークな想像力を提案したことを整理した。
今回からは、実際の20世紀末のボーイズトイのデザインに触れながら、この想像力の発展と、それによって導かれる「kakkoii」という美学の可能性について考えていく。今回からの第一章では、変身サイボーグの直系の後継者であり、「魂を持った乗り物」の中でも最もグローバルに活躍するに至った洗練されたおもちゃシリーズ「トランスフォーマー」について論じていきたい。
前編にあたる今回は、変身サイボーグがどのようにしてトランスフォーマーというかたちへと辿り着いたのか、その成立の経緯を分析しながら、20世紀末に誕生したトランスフォーマーというおもちゃの本質と、そのユニークな想像力について論じていく。トランスフォーマーは長い歴史の中で実にさまざまなバリエーションを生んできた。それぞれが興味深いため、本来であればそのデザインと想像力の関係をつぶさに追っていきたいところだが、今回はあえてその歴史を丁寧に振り返ることはせず、トランスフォーマーというコンセプトが最もピュアな状態だった誕生の瞬間に焦点を絞ることによって、その本質に迫りたい。
その上で次回の後編では、21世紀に入ってから制作され現在に至るまで続いているハリウッドによる映画シリーズについて考えていく。結論からいえば、トランスフォーマーの映画シリーズは男性性、特にアメリカン・マスキュリニティを主題にしていながらも、その可能性を捉えているというよりはむしろ限界を露呈してしまっているというのが本連載の立場だ。20世紀のトランスフォーマーを論じた上で21世紀のトランスフォーマーの陥った状況について考えることで、トランスフォーマーが20世紀に置いてきてしまったものがなんなのかが明らかになるだろう。
トランスフォーマーという「グッドデザイン」
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高須正和×落合陽一 〈カオス近代〉からコンピューテーショナルな生態系へ・前編(魔法使いの研究室)
2017-10-10 07:00550pt
メディアアーティストにして研究者の落合陽一さんが、来るべきコンピューテーショナルな社会に向けた思想を考える「魔法使いの研究室」。今回はチームラボMake部の発起人にしてMakerFaire深圳・シンガポールで実行委員を務める高須正和さんとの対談をお届けします。前編では、〈近代〉というパラダイムの超克をキーワードに、「100年後のキャズムを超えられない男」であるエジソンの業績を振り返りながら、今、中国で進みつつあるテクノロジーによる社会の変容について議論します。 ※この内容は2017年4月27日に行われたイベントの内容を記事化したものです。
人類にとっての〈近代〉をいかに終わらせるか
落合 今回のテーマは一見、難しい話に見えるかもしれませんが、ある種の生態系を成り立たせるイメージ、自分たちのモチベーションやそこから生まれた表現をチームで走らせるために必要な妄想というものがある。今日はそういう話を高須さんと話していけたらと思います。僕は「日本のイケてない部長さんがいなくなる会」を作りたいと思っているんですよね。
高須 そうそう。そこでは「超合理的」がキーワードになるよね。
落合 超合理的に考えて、「うちの会社はメーカーなんだけど、イノベーションないんだよね……」ってときに「いや、そんなことはしなくていいんです」「Kickstarterになる必要はないんです」というような話を、中国の深圳から来た高須さんと……深圳でいいんですよね?
高須 シンガポールですね(笑)。
落合 シンガポールから来た高須さんと話していきたいと思います。最初に僕から自己紹介を簡単にしていきます。
落合 僕がやろうとしているのは「人類にとっての〈近代〉を終わらせる」ということです。皆さんは今は〈現代〉だと思ってるかもしれませんが、〈近代〉です。「国民国家」や「法律」といった概念は、近代的な枠組みの一部で、それをどうやって終わらせるか、ということを考えています。そのために人間や環境を拡張・補完する。コンピューテーショナルに操作された光や音、波動によって「新しい自然」を構築し、〈近代〉というスタイルを更新するのが、僕の目指しているところです。
この〈近代〉を象徴する人物が、エジソンとフォードです。米国の巨大企業、ゼネラル・エレクトリック社とフォード社の創業者ですね。彼らは〈近代〉を規定することによって、20世紀という時代を作りました。たとえば、「T型フォード」は史上2番目に多く生産された四輪車ですが、そのために開発された工場による大量生産方式は、人間の労働単位を「時間」に定義しました。研究開発によってイノベーションを生み出し、大量生産によって低コスト化した製品を一般大衆に普及させる。このフォード方式の体制下では、人間の画一化が求められます。そこで要請されたのが、現在まで続いている集団教育と、「問い」と「答え」を前提とした学習方式です。この方式の教育を大学まで続けて、最終的にサラリーマンになることが、最も幸せに生きる方法であるという社会様式。その最大到達点が現在のトヨタでありAppleのiPhoneです。確かに、このやり方は21世紀初頭までは正しかったかもしれません。しかし、今後訪れる新しい社会では、エジソン・フォードの作った〈近代〉は更新されなければならない、というのが僕の考えです。たとえば、健常者と障害者という区分は、〈近代〉が規定した枠組みです。そもそも「標準的な人間」という発想がなければ、人間に障害なんてないんですよ。それはパラメーターの一部にしか過ぎない。たとえば身長が低い人がいたとします。重力が500倍くらいある環境で棚に手が届かないとなれば、それは圧倒的な障害です。でも、地球の1Gの重力下では、そんなことはないですよね。本来はパラメーターの問題でしかないことを、「障害」と規定したのは〈近代〉の枠組みです。それをどうやって破壊するか。そんなことばかり考えながら、僕はものを作っています。
高須 単純な一つの回答じゃなくて、いくつも答えがあるということがキーワードになる気がします。今はすごくたくさんの答えがある時代です。いろいろな仕事があるから、いろんなことができる。答えがひとつではない、というのが脱近代だと思う。
未来の製品をコミュニティベースで生み出す
高須 では、僕の自己紹介をします。「MakerFaire」という世界的なDIYの祭典があって、僕は「MakerFaire 深圳」と「MakerFaire シンガポール」の運営をしているグループの一員です。アジアのMakerFaireに世界で一番多く参加して、プレゼンしたり出展したりしています。
さきほどのお話でも〈近代〉と〈現代〉の対比がありましたが、ここでは「従来の発明家」と「メイカー」をの2つを、ぱきっと切り分けて語ってみたいと思います。 伝統的な発明家は大学や大企業の研究所にいますが、発明以外のことはほかの人がやっています。企業であれば、企画部が企画して、技術部が研究して、広告代理店が宣伝して、セールスマンが売ります。それに対して、メイカーと呼ばれる人たちは、仲間と一緒に学んで作りながら、お互いに評価しあうことで、イケてるものとイケてないものを決め、お金を出して仲間たちから買うという形で、イノベーションを生み出しています。
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