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  • 【新連載】『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』第1回 消極性デザインとは何か(西田健志・消極性研究会 SIGSHY)

    2018-04-17 07:00  
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    今回から消極性研究会(SIGSHY)の新連載『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』が始まります。「もっと積極的になりなさい」と言われる機会は多いものですが、人の性格を変えるように促すことは果たして合理性があることなのでしょうか。それよりも、消極的な性格のままでも人と交流しやすくする環境や道具をデザインすることが大切なのではないか。消極性研究会から西田健志さんに、消極性デザインと研究会の取り組みについて紹介していただきます。
    みなさんは「もっと積極的になりなさい」と親や学校の先生にたしなめられたことはありませんか。今でもそんな風に会社の上司に怒られてます、なんていう人もいるかもしれません。心の中で「もっと積極的にならなきゃ」とよく自分に言い聞かせてます、なんていう人もいるかもしれません。ちょうど、入学・入社して環境が変わったり、就職活動が本格化したりするこの時期、そういう悩みに自覚的になる人も多いのではないでしょうか。
    しかし、そもそも人の性格というものはそう簡単に変わるものでしょうか。簡単でないとしてもやるべきことはやるべきですが、そもそも性格を変えるように促すことには正しさや合理性があるのでしょうか。
    人の性格を変えるのは難しく、消極的な性格のままでも人と交流しやすい、あるいは行動を起こしやすいようにハードルを下げた環境や道具をデザインすることが大切だと私は考えます。
    この連載ではそのようなデザイン「消極性デザイン」にまつわる様々なトピックについて「消極性研究会」のメンバーが交代でそれぞれの得意とする切り口から考えていきたいと思っています。「消極性デザイン」ってどんなものだろう。「消極性研究会」って何者だろう。ほとんどの人はそう思うのではないかと思います。初回ですので、まずはその当然の疑問に答えながら、次回以降につなげていきましょう。
    第1回は、西田健志が担当させていただきます。情報理工学の博士を取得後、神戸大学で准教授をしているものです。学生時代からずっとコンピュータに向き合う人生を送ってきたのですが、人間への興味がだんだんと自分の中で大きくなって今ではコミュニケーションシステムの研究を主にしております。国際人間科学部グローバル文化学科というこの国でも「積極的になりなさい」圧がもっとも高そうなところで消極性を叫ぶ日々です。
    消極性デザイン?
    私は大学教員をしておりまして、冒頭のような悩みを抱えがちな学生たちを身近に見守る立場にあります。しかし、自分だってそう積極的なわけでもないのにそれを棚に上げて「もっと積極的に」とはなかなか口にできません。新入生歓迎のオリエンテーション行事では隅で会話の輪に入れないでいる人の存在に目を奪われてしまいます(それが教員だったりもすることもあるわけですが…)。授業中に学生をあてるときにはあてられる側の気持ちを想像してしまうのでこちらがひどく緊張してしまいます。
    一方で、授業中にはおとなしく、意見や質問をすることも稀だったような学生が、就職活動で突如として積極的に振る舞い始めるのも少なからず目にしてきました。これは一体何なのでしょうか。やはり、人は簡単に積極的に変わることができるものであって、「もっと積極的になりなさい」と叱責することには合理性があると思われるかもしれません。
    私は、その人自身の性格の変化よりも周囲の環境の変化の方が大きいのではないかと思っています。周りの学生が積極的に振る舞っている中、自分だけおとなしくしていたのでは逆に目立ってしまいます。目立たない程度に積極的に見えるように振る舞った方がまだましだということがあるということです。実際、そういう学生は大学では変わらずおとなしくしていますし、就活を通じてみるみる疲弊していっているようにも見受けられます。
    留学帰りの学生にも同じようなパターンが少なからず見られます。「留学先ではだんだんと積極的に振る舞えるようになったんです。でも日本に帰国して気が付けばあっという間に元通りでした。でもまた向こうに行ったら積極的になれるような気がします。」と話してくれることがありました。
    もちろん、どんなときでも積極的に振る舞ってよく目立つ人もいますし、就活に追い込まれても消極的なままという人もいます。しかし、大多数の人はその中間のどこかの性格を持っていて、周囲の環境によって振る舞い方が変わってくると考えるのが自然に思われます。消極的寄りである人が周囲の環境に合わせて積極的に行動することはあるけれども、それは性格が変わっているのではなく少なからず無理をしている結果であり、環境が戻れば振る舞い方もまた戻ってしまうのです。
    表に現れる行動と比べて性格の根っこにある部分は変化しにくいものだとして、消極的な人たちの振る舞いを引き出すには環境的に追い込んで無理をさせるしかないのでしょうか。建物をバリアフリー化することで車椅子生活をしている人の行動範囲が広がっていくのと同じように、心理的な障壁を取り除いて消極的な人の参加できる範囲を広げていくようなこともできるのではないでしょうか。もしそういったことが大きな負担なしに実現可能なのであれば、合理的な配慮であると言えるはずです。
    デザインを生業とする人たちにとっては、モノや環境に人が合わせるのではなく、人が快適に利用できるモノや環境を作るべきという発想はごく自然で当たり前のものといっても良いでしょう。ユニバーサルデザイン、ユーザエクスペリエンスデザインといった言葉の広がりとともに多くの人にその考え方は浸透し始めているようにも思います。しかし、こと消極性に関しては本人の努力によって乗り越えるべき問題とされ続けています。「もっと積極的になりなさい」という言葉の棘が呪いのように心に突き刺さったまま置き去りにされ、多くの人たちに少しずつの無理を強いているのです。
    消極性もデザインが対象とするべき領域なのではないでしょうか。このメッセージを象徴する意味も込めて、人の消極性を対象としたデザインのことを私たちは「消極性デザイン」と呼んでいます。(英語ではshyhackという語を用いています。「ハック」というと自分のためにちょっとした工夫を行うという印象で微妙にニュアンスは異なりますが、あまりそこは深く区別せず、響きやなじみやすさを重視しています。)
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  • 【対談】三宅陽一郎×中川大地 ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(後編) (PLANETSアーカイブス)

    2018-04-16 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんと、評論家・編集者の中川大地さんの対談の後編をお届けします。日本のゲームとゲーム批評は、なぜダメになってしまったのか。圧倒的な技術力と資金力で成長を続ける欧米のゲームに、日本のゲームが対抗しうる方策とは? 『人工知能のための哲学塾』の三宅さんと『現代ゲーム全史』の中川さんが、日本のゲームと人工知能に秘められたポテンシャルについて語ります。(構成:高橋ミレイ)※この記事は2016年11月1日に配信した記事の再配信です。 ※この記事の前編はこちら。

    【イベント情報】
    中川大地さん出演 日本型スポーツの過去・現在・未来
    日時:2018年4日24日(火) 19:00~21:30
    会場:専門学校東京ネットウエイブ ガオ君シアター(東京都渋谷区千駄ヶ谷1-8-17)
    料金:前売2,500 円/当日3,000 円(東京ネットウエイブの学生は無料)
    詳細はこちら。
    【書籍情報】

    ▲中川大地『現代ゲーム全史――文明の遊戯史観から』 

    ▲三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』
    ゲーム論壇の衰退とゲーム実況の登場
    三宅 近年、日本のゲームが衰退していると言われています。その責任はもちろん開発者自身にありますが、ゲームを批評する言論の力の弱さも、原因の一端にあると思います。ゲーム産業が盛り上がった時期には、ゲームを語る文化も同時に盛り上がるのが常で、そうした時代には、ゲーム批評を担うスターが現れます。当時、『ゲーム批評』という雑誌がありましたが、今の時代にもそういうメディアや批評家の存在は必要です。
    その点、中川さんの『現代ゲーム全史』は、コンピューターの黎明期から現代の『Pokemon GO』までを網羅した、ゲームの歴史を俯瞰するマップとして使うことができる。僕はこのマップを足がかりに、ゲーム批評を再興できるのではないかと期待しています。批評が盛り上がって言論が面白くなると、ゲーム開発の現場もエキサイティングになります。そうしてユーザーとゲーム開発者が高いレベルで応答できるようになれば、もう一度、「文化としてのゲーム」を取り戻せるかもしれません。今のメディアは売り上げばかりを報じていて、商業色が濃すぎますからね。
    中川 ありがとうございます。ゲームがコンテンツカルチャーとして伸びていった2000年前後は、批評の文脈でゲームを語る人たちが、テキストサイト界隈で記事を書いていました。ところが、ちょうど三宅さんがゲーム業界に入った頃から、そういった論壇がどんどん弱くなっていった。日本のゲーム産業の停滞と共に、ゲームを批評的に語るモチベーションも衰退していって、2000年代後半に、その隙間を埋めるものとして現れたのが「ゲーム実況」でした。ニコニコ動画内で、ゲームをプレイしている動画を実況付きで放送する。このゲーム実況の登場によって、かつて批評の対象だったゲームが、ネット上のおしゃべりのネタとして共有されていきました。
    ゲーム実況でプレイされるゲームは、すでに多くの人が共通体験を持っているレトロゲームとか、あるいは『青鬼』や『ゆめにっき』といった「RPGツクール」などで制作されたフリーゲームです。あの辺の作品は、スーパーファミコン時代のゲームシステムを踏襲しながら、ストーリーテリングの部分に工夫を加えたものです。基本的にファンコミュニティが有する共通のコミュニケーションコードに即したかたちでプレイヤーの心情を揺さぶる手法で、ゲームそのものの本質としては新しい体験が生み出されていないし、求められてもいないように見えます。
    三宅 批評の役割のひとつは、その分野を他の分野とつなぐことです。例えば、ゲームと16世紀頃の絵画、あるいはゲームと別の産業のプロダクト、といったように、開発者が気付いていないような、他分野の事柄と関連づけることで新しい可能性を開拓します。確かに、ゲーム実況もこれはこれで興味深い文化なのですが、内輪の盛り上がりだけで終わってしまうのが難点です。
    なぜ日本のゲームは衰退したのか
    三宅 日本のゲームの衰退の背景には、コンピューターサイエンティストの少なさがあるように思います。ゲームプログラマーとして一流の人はたくさんいますが、ハイパフォーマンスのマシンに向けたゲームを制作する際に、コンピューターサイエンスの土壌の弱さが露呈してしまいます。その結果、相対的に欧米のゲームが伸びて、国内のゲームとその批評が衰退してしまうという連鎖が起きています。
    中川 日本のゲーム文化がピークに達した2000年代初頭ぐらいまでは、それまで蓄積したシステムを使って、いかに先進的な表現ができるかを突き詰めていくような試みがありました。ところが本格的な3Dエンジンを使う時代に入ると、技術力の不足も相まって、日本のゲーム業界全体が目的や発想力を失ってしまい、語るべき新しさを持ったゲームが現れなくなってしまったように思います。
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  • 宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』最終回 三次元化する想像力(2)

    2018-04-13 07:00  
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    2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。映像の世紀が終焉したいまもなお、虚構を通してしか描けない現実がある。最終回の今回は、研究者でメディアアーティストの落合陽一さん、チームラボ代表・猪子寿之さんの取り組みへ期待を寄せながら、現代版にアップデートされた〈ゴジラの命題〉について論じます。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
    ニュータイプと〈魔法の世紀〉
     富野由悠季にも、2015年秋に久しぶりに連絡を取った。私が自分の事務所から出版した、若い科学者の本に推薦文をもらおうと考えたからだ。もちろん、それは口実で私の狙いは富野を挑発することだった。〈Gのレコンギスタ〉について対談したときに伝えきれなかったことを、自分の企画した本を読んでもらうことで伝えようとしたのだ。
     メディアアーティストでもある筑波大学の落合陽一はコンピュータプログラムによる光波/音波の制御によって、触感をもったレーザー、音波による空中の物体固定などを実現し、これらの研究開発で内外からの注目を集めている。
     そして落合はいう。このネットワークの世紀は同時に「魔法の世紀」なのだと。20世紀は映像という発明が、具体的には広義の劇映画的な映像が、人々をつなぐ最大の媒介として機能し、かつてない規模の社会(文脈の共有)を実現した。そしてそれゆえにモニターの中の映像こそが、もっとも批判力のある視覚体験として共有されていた。しかし、その映像の世紀は技術的に乗り越えられようとしている。ネットワーク技術の発達はいま、人間と人間、人間と事物、事物と事物と直接続しつつある。そしてコンピュータの処理能力の向上によって、もはや人々にモニターの中で何が起こっても本質的に驚かすことはできなくなっている。
     そんな映像の世紀の後に訪れた世界――本稿ではネットワークの世紀と呼んだ既に訪れつつある未来――を、落合は自らの研究で〈魔法の世紀〉にするという。実際に映像に代替する次世代の視覚体験の研究開発を手掛ける落合はこう主張する。
     エジソンからリュミエール兄弟までの時代――生まれたばかりの映像はまさに「魔法」そのものだった。しかし、その魔法は驚くほど短い時間で、覚めた。瞬く間に人々に浸透し、当たり前のものとなり、もはや魔法ではなくなってしまった映像は物語の器となることでその社会的な機能(媒介者)を得、そしてそれゆえに前世紀の社会の構造を規定する装置になっていった(映像の世紀)。しかしそれは同時に劇映画とは魔法を失った映像の屍(しかばね)にすぎないことを意味するのだ、と。そして媒介者としての、文脈の共有装置としての映像がその役割を終えようとする今、全盛期における劇映画のように人々の心を動かすものは何か。それが編集者としての私が作家としての落合に投げかけた問い、だった。
     落合の回答はこうだ。
     映像の世紀が終焉したいま、魔法的な技術こそが人々の心を動かすだろう、と。映像の、特に劇映画的なものによる他者との文脈共有がその威力を決定的に低下させたとき、それに代わるもの――人の心を決定的に動かすもの――は劇映画以前の映像がそうであったように魔法的な技術そのものだ、と落合は言うのだ。そして自分の研究はその最先端であり、新時代のアートそのものである、と。さらに、遅れてきた富野由悠季のファンを自称する落合は言う。富野自身とは異なり、自分はニュータイプの理想を信じているのだ、と。幼いころに見た富野のアニメーションから得たイマジネーションを、自分は社会に実装するのだと。〈魔法の世紀〉とは人類をニュータイプに導くものだ、と。
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  • 【新連載】『たかまつななの新米ディレクター月報』 第1回 三足のわらじを履いて頑張ります!

    2018-04-12 07:00  
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    今回から新連載『たかまつななの新米ディレクター月報』が始まります。PLANETSでは〈水曜解放区〉でもお馴染み、政治をお笑いでわかりやすく伝えるお笑いジャーナリストとして活動しているたかまつさんは、今月からテレビ局のディレクターとして新しい一歩を踏み出しています。今回は、たかまつさんがお笑いジャーナリストを目指すことになったきっかけやこれまでの活動、そして入局後の活動の抱負について語っていただきます。
     皆さま、ごきげんよう。お笑い芸人の「たかまつなな」です。4月からは、NHKの職員になります。これから社会人として、奮闘する様子を素直な自分の言葉で述べていきたいと思いますので、温かい目で見守っていただけますと嬉しいです。
     今回は、そもそも私は何を目指しているのか、なんでNHKに入ろうと思ったのかお話させていただきます。
     知らない方もいらっしゃると思いますので、自己紹介いたします。私は、お嬢様芸人として、テレビにちょくちょく出させていただいております。先日、上沼恵美子さんの番組では、「朝ごはん何食べてるの?」と聞かれ、「千疋屋のフルーツサンドが好きです」と答えました。「普通、朝は、納豆とご飯でしょ」と上沼さんに言われ、「戦後ですか!」と言う。このように庶民を見下すことによって、お金をいただいております。これが、私のお仕事です。お嬢様が、お笑い芸人というかけ離れた世界にやってきた。そのギャップがいいと、プロデューサーに言われます。

     でも、私が本当にやりたいこととは、ちょっと違います。私は「お笑い」を使って、社会問題を伝えたいんです。「政治とか無理〜!」「安倍さんやばい〜」という渋谷の若者に、政治に対して当事者意識を持ってもらうために、お笑いで敷居を下げる。これが私の目標です。
     社会問題に興味を抱いたのは、小学校4年生の時です。アルピニストの野口健さんの環境学校に参加したのがきっかけです。環境学校は、4泊5日で、富士山の自然を体験するプログラムでした。1日目、「富士山に登ろう!」ということで、初めての富士山に興奮しました。辺り一面に苔が生い茂る様子、「幻想的だなぁ」と感動しました。次の日、健さんが「今日はゴミ拾いに行こう!」と言い出しました。最初、何をこの人は言っているだんろう、冗談を言っているのかなと思いました。こんな綺麗な富士山にゴミなんか、落ちているわけないわ。そう心の中で思いながら、班ごとにゴミ拾いをすることに。なんと……青木ヶ原樹海の中に、ナンバープレートを外されたバスが! 隣の班の子に、自慢げに「バス見つけたよ!」と自慢する私。すると、「俺、トラックみつけたー!」と言い返され、「負けたー!!」なんて無邪気にはしゃいでいました。でも、土壌の汚染度を調査すると、かなり悪い数値で、これを人間がわざとやったのかと思うと悲しくて、悲しくて。いろいろ調べてみると、ゴミの処理費用を浮かせるための不法投棄だということが分かりました。「ごめんね」という気持ちが沸き起こりました。そして、健さんが「残念なことに、大人は見て見ぬふりをする。だから、君たち子供が伝えて欲しい」とおっしゃいました。そこから、私は「環境保護について伝える、環境メッセンジャーになるんだ!!!」と意気込みます。

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  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.4.11

    2018-04-11 08:00  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「クラブ活動」今週の1本「ブラックパンサー」アシナビコーナー「井本光俊、世界を語る」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日4月11日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:井本光俊(編集者)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご感想、宇野に聞いてみたいこと、お
  • 本日21:00〜第6期募集開始!「PLANETS CLUB」宇野常寛と「価値」をつくるコミュニティ

    2018-04-11 07:30  

    3月20日に始動した宇野常寛とPLANETSのオンラインサロン「PLANETS CLUB」は、ご好評につき第5期までの募集の受付が終了いたしました。更なる追加を望むたくさんの声にお応えして本日4月11日(水)21:00より、第6期のメンバーの募集を開始することになりました! PLANETS CLUBに参加したい方は、このチャンスをお見逃しなく!
    PLANETS CLUBでできること
    ・限定Facebookグループへ参加できます・月1回の宇野常寛による生講義へ参加できます(オンラインサロンメンバー限定生放送あり)・月1回の定例会(交流会)へ参加できます(オンラインサロンメンバー限定生放送あり)・PLANETSの雑誌/書籍刊行時に、どこよりも早く会員限定価格で購入できます・PLANETS主催のイベント等に割引価格で参加できます・【初回入会特典】PLANETS刊行の書籍を1冊プレゼント!(書籍
  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第23回 駆け引き(学習説の他説との整合性④)【毎月第2木曜配信】

    2018-04-11 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は「ゲーム性」において欠かせない要素である「駆け引き」と学習プロセスの関係についてまとめます。
    3.6 駆け引き(学習説の他説との整合性④)(学習説の他説との整合性④)
    3.6.1 「駆け引き」とは何だろうか

    「第三ラウンドが始まった。ディーラーが再びディスカードし、四枚目のコミュニティカードを場に並べてオープンした。ターンと呼ばれる共有カードだ。印はでJ。
    思わず、どきりとした。
    これで、J、10、8、7が揃い、9が来ればストレートである。
    次に来るカードを、ウフコックは何かの手段で読んでいるのだろうか。もしそうではなく、ただ強引にコールし続けているのなら、いかにも素人くさい。それともそれを演じようとしているのだろうか。バロットには何もわからなかった。
    ブラインドベッターのカウボーイが三十ドルのベットをし、ドクターがコール。『レイズ、六十ドル』
    と手のひらに文字が浮かび、バロットは思わず何度も確認してしまった。
    《──三十ドルのコールに、レイズ六十ドルです》
    信じがたい思いで最高賭金の額を置いた。これで二百十ドルが手元から消えた。この調子だとスロットで稼いだ分が、あっという間に消えてなくなるのがわかって怖くなった。」

    これは、冲方丁『マルドゥック・スクランブル』で描かれたポーカーの一節だ。[1] ゲームを扱う物語描写において、その見せ場はしばしば、駆け引きを行う心理戦の描写であることが多い。
    筆者は昔、「ゲーム」の骨格をなす中心的な概念として論じられやすい「ゲーム性」という概念が、どのような文脈で、どのような言葉とともに用いられることが多いのか。これを雑誌『ゲーム批評』のバックナンバーをもとに調べたことがある。とくに言い換え表現として頻繁に使われていた表現は「駆け引き」という要素だった[2] 。当時は、結局この概念がなぜ頻繁に使われるのか、という点についてあまり細かな議論をすることができなかった。ただ、多くの人が中心的な要素だと位置づけるこの要素は、重要な論点のひとつであることは明らかだった。ときには『ゲーム』と題した本の中身がまるまる駆け引きについての議論であるというケースすらある。[3]
    今回は、この「駆け引き」という概念と学習プロセスの関係について述べたいと思う。まずは、駆け引きと、学習プロセスの関係を考えるうえで、押さえておくべく基本的な概念を整理するところからはじめよう。
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  • 成馬零一 テレビドラマクロニクル(1995→2010)第2回 野島伸司とぼくたちの失敗(後編)

    2018-04-10 07:00  
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    ドラマ評論家の成馬零一さんの連載『テレビドラマクロニクル(1995→2010)』。TBS三部作において〈無垢なるものを守るための共同体と暴力〉という主題に向き合った野島伸司。1995年にその臨界点となる『未成年』が放送されますが、その結末が示した限界は、キャラクタードラマの時代への転換を促すことになります。

    野島三部作が切り開いたものと、その限界
     90年代前半の野島伸司のフジテレビ系の作品は、当時の空気を知る上での歴史的資料としては面白いのだが、現在のテレビドラマの水準と比較すると映像や演出の面で、どうしても見劣りする部分がある。
     対してTBS系の金曜ドラマで放送された『高校教師』以降の野島三部作と言われる作品群は、今の視点で見ても、一つの映像作品として鑑賞に耐えうるクオリティを保っている。
     中でも圧倒的な完成度を誇るのが1993年の『高校教師』である。

    ▲『高校教師』
     物語の舞台は、とある女子校。大学の研究室から生物の教師として赴任した羽村(真田広之)は二宮繭(桜井幸子)という女子生徒と知り合い、やがて教師と生徒という立場を超えた恋愛関係へとなっていくのだが、実は繭は芸術家の父親との近親相姦の関係にあった。
     物語は羽村だけでなく、繭の友人の相沢友子(持田真樹)と体育教師の新藤徹(赤井英和)、そして相沢をレイプして自分のものにしようとした藤村知樹(京本正樹)の関係も同時に描いていく。
     教師と生徒の恋愛にレイプや近親相姦といったショッキングな描写が盛り込まれた本作は、過去の野島作品と比べても過剰に性的な物語だった。
     本作と同時期に女子高生がブルセラショップでパンツを売ったり、テレクラで売春(援助交際)を行うといったゴシップ記事が話題となり、やがて90年代後半の女子高生がマーケティングの対象となるコギャルブームへとつながっていった。
     そう考えると本作もまた、女子高生を性的に消費することに対する過剰な盛り上がりを見越したトレンディな作品だったと言うこともできるのだが、桜井幸子が演じる繭の異様な存在感(当時、桜井幸子は19歳で年齢的には高校生ではなかった。元々大人びた雰囲気を持つ女優だったが、彼女だけが一人浮き上がって見えるような大人びた存在感は年齢の問題もあるのではないかと思う)もあってか、今見返しても色あせていない。野島ドラマの中では数少ない時代を超えた古典的傑作となっている。白を基調とした映像も素晴らしく、テレビドラマとしてのルックも格段に美しい。
     本作は、はじめて野島伸司がTBSの金曜ドラマという名作ドラマ枠で執筆した作品だ。
     金曜ドラマは古くは『岸辺のアルバム』や『ふぞろいの林檎たち』といったテレビドラマの巨匠である脚本家・山田太一がドラマを発表していた場所で、ドラマファンからすると特別なドラマ枠だ。90年代の野島伸司作品以降も堤幸彦演出の『ケイゾク』や宮藤官九郎・脚本の『木更津キャッツアイ』などが放送され、テレビドラマ史に残る作家性の強いドラマの多くはここから生まれてきた。
     今までフジテレビで書いてきた野島にとって、金曜ドラマで書けるということはそれだけ名誉なことで、ここで作家として認知されたという面は大きいだろう。
     岡田惠和、北川悦吏子、三谷幸喜といったこの時期に頭角を表した脚本家たちは、山田太一や倉本聰、市川森一、向田邦子といった脚本家の作品を見て影響を受けた書き手が多い。彼らのドラマは作家性が高く評価されており、シナリオ文学と一部で呼ばれていた。
     彼らのシナリオ集は書籍として販売され、脚本家志望の若者に大きな影響を与えた。
     そして、1980年に向田邦子が直木賞を受賞したことでドラマ脚本家が作家として評価される機運が高まった後で、彼らのシナリオを読んで世に出てきたのが90年代に活躍した脚本家だ。
     野島も無論、その一人だ。彼の群像劇の中に社会性のあるショッキングなテーマを盛り込んでいくというアプローチは、山田太一の『岸辺のアルバム』や『ふぞろいの林檎たち』の方法論をよりスピーディーかつショッキングなものとして、キャッチーに見せていると言えよう。
     しかし、そんなスピード感が、一つ一つのエピソードやモチーフを軽く扱っているように見えてしまう。当時から野島の作風を山田太一や倉本聰といったシナリオ文学以降の流れとして捉える向きはあったが、山田太一のドラマのドラマを熱心に見ていた視聴者ほど、野島に対する評価は厳しかったと記憶している。野島ドラマは高尚な文学として読まれるには、下世話で面白すぎたのだ。
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  • 日本アニメの歴史に高畑勲をどう位置づけるか――井上伸一郎×宇野常寛『かぐや姫の物語』(PLANETSアーカイブス)

    2018-04-09 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、高畑勲監督の訃報を受け、『かぐや姫の物語』をめぐる対談をお届けします。
    8年の製作期間を経て公開された同作。KADOKAWA代表取締役専務執行役員の井上伸一郎さんをお迎えし、高畑勲作品の日本アニメーション史における位置づけに迫りました。
    (初出:サイゾー14年3月号/構成:稲葉ほたて) 

     
    ▼作品紹介
     『かぐや姫の物語』
     監督/高畑勲 脚本/高畑勲・坂口理子 製作/氏家齊一郎 製作会社/スタジオジブリ 配給/東宝 公開/13年11月23日
     何不自由ない月世界に住みながら、地上の世界に憧れる姫は、ある日地上に落とされる。竹から育った〝タケノコ〟は優しい翁と媼に育てられ、幼なじみの少年・捨丸らと楽しく自然の中で遊び暮らすが、ある日京都に移り住むことになる。そこでの窮屈な生活や帝含む男たちの求婚に疲れた姫が、「ここから消えたい」と願ってしまったとき、月から迎えが来てしまうことを思い出す。 
    宇野 実は、そもそも僕が高畑勲作品に興味を持ったきっかけは、高校の頃、古本屋で偶然手に取った「アニメック」【1】で井上さんが書いた『赤毛のアン』【2】特集なんですよ。なので高畑勲について語る時は、ぜひ井上さんを呼びたいと思っていました。今日だけアニメライターに戻って、お話を聞かせていただきたいと思います。
    井上 緊張しますね(笑)。私が編集アルバイトで最初に担当した特集です。
     『かぐや姫の物語』の感想を話すと、すでにいろいろな人が言ってることですが、竹取物語の話から基本的に全く変えてなかったのがびっくりしました。キャッチコピーが「姫の犯した罪と罰。」でしょう。これまでの解釈にないものをいっぱい入れてくるのかと思ったら、5人の貴公子に課題を与える有名なエピソードも含め、そのまま素直にやってきた。だけど物語的にはちっとも古びた感じがしなかったのが、さらに驚きました。
    宇野 僕は実は、高畑さんの映画作品はリアルタイムで観た中では、そんなに好きなのがないんです。毎回出落ち感がある(笑)。もちろん、『火垂るの墓』【3】なんかは長崎で小学生の頃に反戦教育を受けた自分から見ても、どんな反戦ビデオの生映像よりも恐ろしさを訴える力があった。「アニメだからこそ描くことができる現実がある」という確信が高畑演出の本質だと僕はずっと思っています。
     でも、『おもひでぽろぽろ』【4】も『ホーホケキョ となりの山田くん』【5】も、作画演出的には最先端なことはよくわかるけど、表現力が高すぎるせいで演出コンセプトがすぐわかってしまい、「ああ、これがやりたかったのね」と思ってしまう。話も単に戦後市民派のテンプレートみたいな内容だし。本当は細かいところですごいことをやっているのだろうけど、なかなか伝わらないのがもったいない。
     でも、今回の『かぐや姫の物語』は、観てしまうとその圧倒的なすごさが細部まで伝わると思いました。井上さんがおっしゃるように完全に知ってる「竹取物語」なのに、絵だけでも飽きないし2時間ストーリーとして追える。ただ、最後の場面で、姫がなぜここに来たかを自分でセリフで言ってしまったのは、若干もったいなかったですね。世界の美しさとは何かという話は、作画演出力で十分に表現できているはずなんです。
    井上 この最後のシーンについて宇野さんに質問してみたいのですが、天界の、雲の上から来る人たちの恐ろしさというのは、見方によってはユートピアとはディストピアでもあり、心というか感受性をなくしたほうが人間は幸せになれると受け取れるでしょう。でも、猥雑で罪はいっぱいあるけれど、現世のほうが魅力的だよという話を高畑さんは作られたのかなと、私は大雑把な解釈をしたんですが。
    宇野 あのシーンで面白いのは、姫をあれだけ全力で描き滔々と演説もしてるのに、もしかしたら捨丸も含め誰一人として彼女の理解者がいないことだと思います。「何でそんなに地球にこだわるの?」と。
    井上 その孤独さはありますね。かつて地上に落ちた天人【6】だけがわずかにシンクロできるような感じなんでしょう。
    宇野 高畑さんには、表面には出さないけど抱えている「無常観」があると思うんです。例えば、宮崎駿さんのそういう毒の部分は言ってみればムスカ【7】で、彼には宮崎さんが抱える大衆憎悪や残酷性が出ている。高畑さんの場合、人間の心の機微や人の目から見た世界の美しさとかを丁寧に追うんだけど、その一方でものすごく突き放してる。今回の姫と捨丸のエピソードも、再会時に彼に家族がいるのは明らかに意図的ですよね。成就の可能性を完璧に潰した上で、あの飛行のシーンを描いている。
    井上 人間に対する見方が厳しい人ですよね。『火垂るの墓』でも、清太が死ぬのは結局、誰にも頼らなかったから。普通のアニメ作家は彼の行為を英雄的に称えるだろうけれど、それは間違いだ、罪だよと示す。そういう冷徹な現実の突きつけ方を常にしてくるのが高畑作品の怖さです。『平成狸合戦ぽんぽこ』【8】の狸も、ギャグ的に描かれてるのに死んじゃうしね。
    宇野 あのキャラクターであんなに普通に死ぬんだ、と思いますね。
    井上 あと絵の話をすると、鉛筆の描線をうまく取り込んで、なおかつ背景と一体化したことですね。こんな面倒なことは高畑さんしかやらない(笑)。絵的なチャレンジは、実は宮崎さんより高畑さんのほうがたくさんしているんです。宮崎さんはやっぱり自分の絵が動くのが好きなんですね。自分の絵の最高の動きを常に求めている人で、だから皆安心して観に行ける。
     『ぽんぽこ』は、ものすごくリアルな狸、マンガ・アニメ的ないわゆる半擬人化されたキャラクターの狸、さらにマンガっぽくなった谷岡ヤスジみたいな狸、と描き方が一瞬で変わっていくけど、それがちゃんと同じキャラに見える。ああいうことをわざわざやるのは、絵描き出身じゃない故のアニメに対する突き詰め方なんでしょうね。
    宇野 その「絵が違うのに同じキャラクターに見える」というのは、高畑さんを考える上で大きい問題だと思うんですよ。
     今回の「かぐや姫」でも皆が最初に驚くのは、タケノコがいつの間にか同じカットの中で成長してしまっている場面でしょう。僕はあれを観たときに、『赤毛のアン』の第37章「15歳の春」を思い出した。この回でアンの等身が変わるのだけど、観ている人にはまるでいつの間にか成長していたかのように見える演出の力があって、マリラと一緒に泣きたくなるんです。
     それは、大塚英志の言う「アトムの命題」問題を逆手にとったんだと思う。つまり、絵の記号性で同一性を担保しているマンガやアニメのキャラクターの身体は成長しないんだという観る側の無意識に訴えかけて、成長に伴う喪失感を描いた。そこには最初に言った、高畑演出の本質が現れていると思います。そういう点で、今作は高畑さんの自己解説的な部分があって、最後の集大成的な作品のような気がしてしまうんですよね。
    井上 いや、それは違うと思いますよ。過去のインタビュー等を読んでの推測ですが、高畑さんが最後に作りたいのは多分『平家物語』なんです。今回の作品も含め、それに向けた習作なんじゃないかな。
    宇野 なるほど、それは観てみたいですね。高畑さんは間違いなく永遠なんてないと思っている、まさに「無常観」の人ですから。
    『けいおん!』の源流もここに 高畑勲という孤高の存在
    宇野 これは伺ってみたかったのですが、高畑さんはアニメ史的にどう位置付けられるのでしょうか?■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
     
  • ネットはV系の何を変えたのか?バンギャル漫画家と語るファンとバンドの変化・後編(市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第13回)【不定期連載】

    2018-04-06 07:00  
    550pt



    80年代以降の日本の音楽を「V系」という切り口から問い直す、市川哲史さんと藤谷千明さんの対談連載『すべての道はV系に通ず』。後編では、TwitterなどのSNSの普及が、ヴィジュアル系カルチャーにもたらした変化について、ゲストの蟹めんまさんと一緒に考えます。(構成:藤谷千明)


    今のバンギャルは解散を恐れてお布施する
    市川 めんまさんがいま中高生だったとしたら、バンギャルになっていたと思う?
    めんま なっているとは思うんですけど、現代のバンギャルって私が中高生の頃のそれより、ずっと大変だと思うんですよ。
    市川 あ、そっか。現代の子たちは〈商品を買うこと〉をまず、要求されてるもんね。
    めんま そうなんですよ。「買わなきゃいけない」なんて義務はもちろん無いし、みんな好きで買ってるんですけど、「買わないと解散しちゃうんじゃないか」みたいな〈圧〉は私たちの頃よりずっとあると思うんですよ。「バンギャルはこういう気持ちでCDを買ってます!」ってひとくくりにするのは良くないんですけど、明らかに90年代とは空気が違います。
    市川 圧かぁ。V系黄金時代だった90年代と較べれば、明らかにバンギャル一人ひとりに対するバンドの依存度は増したと思うよ。たしかに。
    藤谷 分母が減ってるんで、それは仕方ないとは思うんですが。だってジャンル問わず、ミュージシャン自身が「活動を続けたいからCDを買って欲しい」「チケットを買ってライヴに来て欲しい」ということを公言する機会も増えましたし。
    めんま 私が中高生の頃は、自分の好きなバンドが「(売れなくて)解散するかも」って考えたことなかったのに。現代で中高生バンギャルでいるということは、思春期に好きなバンドの解散をたくさん経験するってことなので、きっと辛いだろうなぁ。
    藤谷 たとえば90年代のブーム期の解散の理由って、〈売れないから〉というより〈売れ過ぎて〉解散みたいなケースの方が印象に残っています。人気が出て急激に環境が変わって、いろいろなものが狂ってしまった上での空中分解ってパターン。
    めんま 私は「人気過ぎるとミーハーなファンがつくから嫌だ」とか、「売れると誰かがソロ活動始めてバンド活動に支障が出るし嫌だ」とか本気で思ってた世代ですね。いまそういうバンギャルさんは、年齢問わず見なくなりました。
    藤谷 インディーズならともかく、メジャー・デビューしている人たちが「CDを買わないと活動が立ち行かなくなりますよ」なんて言う状況、当時は考えたこともなかったんです。メジャー・デビュー後のインタヴュー記事で、皆が「外車買った」って話をしていた時代……(←遠い目)。
    市川 V系に限った話じゃないよ。もうバンドブーム以前から続く、日本人のいじましい伝統だから。売れるとまず、収入が増えます。収入が増えると、バンドに大した貢献をしてない奴に限って外車買ったりするんだよ。大体、ドラマーとかベーシストに多い現象なんだけども(失笑)。するとそいつはさらに仕事をしなくなり、にもかかわらず「(印税が欲しいから)俺にも曲を書かせろ」だの「バンドは全員平等だから(曲を書いてようが書いてなかろうが)印税は均等割りだ」だの「表紙は全員写真、インタヴューは全員同じページ数で」だのと権利ばかり主張し始めて、あとはモメるだけとくらぁチョイナチョイナ。
    藤谷 それはそれで大変でしょうけど! でもそれがゼロ年代以降、「もっと売れてたら解散しなかった」みたいなことを公言するバンドが増え始めるようになったんです。
    市川 鉄道の廃線とか飲食店の閉店とか動物園や遊園地の閉園とか、営業終了をアナウンスしたらバーっと群がる身勝手な客を見て、「普段から来てくれていれば、もっと続けられたのに」みたいなね。
    藤谷 そういう声がステージの上の人から聞こえるようになったのは、CDバブルが終わったゼロ年代からかなって思いますね。
    SNSの普及でバンドマンは弱くなった?
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