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三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉第二章 キャラクターに命を吹き込むもの(1)
2020-07-17 07:00
(ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第二章「キャラクターに命を吹き込むもの(1)」をお届けします。現在、学問的に研究されている実際のAIと、エンターテインメントで描かれるような理想の人工知能。遠く離れて見える両者の橋渡しと相互補完を、東西哲学の融合によって試みます。
(1)機械論の果て
サイエンスは常に機能を問い、哲学と宗教は存在の在り方を問います。サイエンスはあるところから存在云々の議論に拘泥するのをやめました。物が四大要素からできているとか、世界にエーテルが満ちているとか、そういう存在論をやめて、物事の性質と関係性を定量的・定性的に見出すことに専念することによって成功しました。それはちょうど十九世紀から二十世紀へ向けて起こった自然哲学から自然科学への完全な変化です。たとえば量子力学の黎明期には「物は波動か粒子か?」という議論がありました。この問いには現在においても答えがありません。ある場合には、たとえば電子がガイガー管などの実験機器に捕まえられる場合には「粒子」と捉えた方が便利ですし、トンネル効果など物質が物質を透過する現象の場合には「波」と考えます。物質(ここでは量子)とは、粒子としての性質と、波としての性質を持つ、と捉えるのです。これを「波と粒子の二重性」と言いますが、そこにあるのは解釈のモデルであって物事の本質に対する哲学的な思索ではないのです。そうやって物理学はソリッドな学問になり、まさにそれゆえに成功を続けてきました。 「自然界を最も単純に説明できるモデルを採用する」というのが自然科学の原理です。これを「オッカムの剃刀の原理」と言います。サイエンスは現象を説明するモデルの中で最も簡単なモデルを採用する、という原理です。 一方、エンジニアリング(工学)は本来「なんでもあり」の分野ではありますが、サイエンスの影響を受けて、物や、物と物との関係性の中から人間に有用な機能を見つけ出す、新しい物質を見つけ出す方向に発展しました。人工知能もまた、このようなエンジニアリングの流れの中にあります。 エンジニアリングは常に機能を追い求めます。「人工知能というエンジニアリングはいかなる知的能力を機械の上に実現できるか」を探求します。人工知能の能は「能う(あたう)」、つまり能力の能であり、そこでは機能的(ファンクショナル)なものが志向されます。例えば、自動翻訳、自動運転、自動リコメンドなど、社会で実装される知能とは常に機能的なものです。ところが、そこに欠けているものは、人工知能という存在の根、あるいは主体(サブジェクティブ)です。 では、機能ではなく、存在としての人工知能とは何なのでしょうか?
人工知能の存在論をもとめて
人工知能は「知能を作る」という大それた、工学としてはいささか突飛な角度から来たために、多くの批判と蔑視を受けてきました。そこで学問としての人工知能は、「きちんとした学問」と認知されるまでに、特に日本においては30年以上の年月を費やしました。ただ、その間に、人工知能が本来的に持っていた「学問らしくない部分」、知能の存在論は削ぎ落とされ、スタイリッシュで、アルゴリズムを基本とする「情報処理としての人工知能」へと変貌していきました。それは人工知能を誰もが学問として受け入れられるものにするために行われてきた、長い時間にわたる研究者の意識的・無意識的な努力の賜物と言えるでしょう。 たとえば、自然言語処理という分野は、自然言語の記号的側面から研究します。発話者の人格、立場、状態、生理といった発話の起源に踏み込むことなく、発話された結果、書かれた結果のみを対象とすることで、工学的な発展を遂げています。しかしその結果、背後にある知能の発露の起源である混沌は隠されてしまうのです。
我々人間は、自分たちがこの世界に根を下ろしているように、人工知能にもまたこの世界に根を下ろしていることを期待してしまいます。しかし通常のエンジニアリングに表れる人工知能は知能の機能的側面であり、存在から見ると一番表層的な部分です。しかし、存在がなければ機能はなく、また機能のない存在というものも考えられません。機能を追い求める人工知能と、さらに存在を奥深く探求しようとする、いわば東洋的な人工知性は、人工知能という分野に横たわる時間に沿った横糸と、時間を超えようとする縦糸なのです(図1)。
図1 人工知能の二つの軸、時間に沿った機能と時間を超えた構造
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オンライン時代のコミュニケーション支援情報技術|栗原一貴・消極性研究会 SIGSHY
2020-07-16 17:00
消極性研究会(SIGSHY)による連載『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』。今回は情報科学者・栗原一貴さんの寄稿です。新型コロナウイルスの感染拡大により、私たちの生活様式はがらりと変わり、オンラインでのコミュニケーションが拡大しました。自分にとって心地よいペースでコミュニケーションが取れたりと快適になった一方、相手の反応が見えなかったり、雑談が生まれにくくなったりと、オンラインコミュニケーションならではの悩みも生じています。栗原さん自身による大学でのオンライン講義の実践から、やりにくいと考えてしまう原因と、オンラインでのコミュニケーションを促進する方法を考察します。※本記事に一部、誤記があったため修正し再配信いたしました。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。【7月16日17:00訂正】
消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。第17回 オンライン時代のコミュニケーション支援情報技術
はじめに
コロナウイルス災害により外出自粛、リモートワーク、オンライン講義など、少し前までは想像もできなかった生活様式が始まりました。 「とりあえず会おうぜ! 語ろうぜ! 呑もうぜ!」というような陽気なマインドの人には、さぞや辛い時代になったことと思います。 一方でもともと内向的な性格、穏やかな性格の方からは、人と会わなくてよい生活、自分のペースで過ごせる生活に対して喜びの声も聞こえてきます。
私はと言えば……大学教員として、オンライン講義の運営で難儀しています。 小規模から大人数まで、講義を運営するうえでは何らかの「コミュニケーションの強制」を学生にさせねばなりません。私は消極性研究者を標榜しておりますので、どの程度の負荷を学生にかけるかは、常に苦心しておりましたが、講義がオンライン化して、「適度なコミュニケーションをとること」がさらに難しくなりました。目下、学生とともに手探りで最適解を模索しておりますが、まだ満足のいくものにはなっていません。
今後世界がどうなっていくのか、まだまだ不透明です。もしかしたら、じわじわともとの社会に戻るだけなのかもしれません。しかし少なくとも、コロナ後の世界を知ってしまった我々は、以前よりも柔軟にコミュニケーションについて考えられるようになったはずです。2020年前半の激動を総括して、今後のコミュニケーション支援技術のありかたについて、考えてみましょう。
逃げ道のある道具、ない道具
私は情報技術を用いたコミュニケーションの研究を好んで行ってきました。博士論文は、プレゼンテーションツールをテーマに書きました。プレゼンテーションというコミュニケーション様式は、そのあり方が使う道具(コンピュータ)によってかなり制約されます。それが面白くて、情報技術がどのような制約を人に与え、それがどのようにコミュニケーションに影響を与えるか興味を持ったのです。
私が最初に研究したものは、小中高校生の先生が授業中に使える電子黒板ツールです。特に小中高校の先生にとって、授業とは生徒・児童とのやりとりを通じて作り上げていく、インタラクティブ性と即興性の高い営みです。彼らにとって、一方通行的な情報伝達になりやすいパワーポイントを授業で使うことはとても納得がいかないものでした。そこで私は、より黒板に近い使い勝手を保ちながら、コンピュータならではの魔法的機能を加えられるよう、教育現場の先生方と何年もかけてツールを練り上げていきました。
その際に意識したことの一つは、「使いたい、あるいは使うことが効果的であると思われる局面で使えばよく、それ以外の時には無理に使わなくてよい」という性質を付与することでした。この性質を「逃避可能性」と呼びましょうか。人間、慣れている方法を捨てて全く新しいことをやれ、と言われると困惑し、拒否反応が出るものです。特に現場の先生方は、自分たちの「黒板とチョーク」に絶対の信頼と自信を持っています。それをまるまる置き換えようものなら、全面戦争になりかねません。一方でICT機器を用いることで、教育が実現できる可能性、それに対する期待も、先生方は持っています。上からの指示で学校にICT機器が導入されてきて、どう使っていいかわからない。使うと良さそうな局面は想像できるが、ほどよいタイミングで局所的に利用し、それ以外の時間は慣れ親しんだ黒板とチョークでやりたい。そういう都合の良さを実現すべく、「逃避可能性」を考えながらツールの設計を行いました。おかげさまで、無料公開したそのツールは1万ダウンロードを超える程度には活用されました。それなりに教育のICT化の黎明期に貢献できたかなという思いがございます。
今、コロナウイルス災害でリモートワーク、オンライン作業が席巻している状態は、まさにこの「逃避可能性」が失われた状態です。これまでのリモートワーク支援技術は対面型作業を補完する位置づけで、「便利に思うなら」「気が向けば」という条件付きで、選択肢を広げる意味合いで活用が進んできたのですが、今般、社会の多くの領域が「強制完全オンライン化」されてしまいました。オンラインコミュニケーションにはオンラインコミュニケーションならではの特長や制約があり、人々のコミュニケーションをかなりの部分で変質させます。便利さも確実にある反面、コミュニケーションというのは人間の個性や尊厳に深く関わっているので、そのあり方を特定の方法に強制されるのは、時に耐え難い苦痛となり得ます。
初等教育現場の授業のオンライン化の取り組みの状況については、皆さんも日々のニュースでお聞きのことと思います。先端的な教育を行っている地域では、いち早く授業をオンライン化しました。一方、従来の対面型の授業に対するこだわりと、変化を拒絶する性質から、だましだましオンライン化を先延ばしし、復旧を伺っている地域も数多くあります。どちらがよいのか一概には言えません。エンジニアの観点からは、「逃避可能性」の乏しい新規技術の導入は、たとえこのような国家の緊急事態にあっても拒否反応が強く、大変な混乱を生むのだという壮大な社会実験の結果を見せつけられたように感じています。
Point: ・「いまよりすこし便利な面もある」くらいのコミュニケーション支援新規技術は、逃避可能性のデザインを検討したほうがよい。ヒトは国家の一大事でも、ヒトとの関わり方の変化を拒絶する生き物なのだ。
大学のオンライン講義にみる、コミュニケーションの変容
舞台を大学に移しましょう。教員および学生全員に環境を整備し、かつ覚悟させることが初等教育現場に比べて容易であったからでしょうか、多くの大学は、早々に講義を完全オンライン化しました。私も大学教員として、この動乱の当事者となりました。純粋にほぼゼロからの教材準備となったので、忙しい日々となりました。一方でオンライン講義をめぐる教員と学生の間、あるいは学生と学生の間のコミュニケーションのあり方の変化は、消極性研究者である私にもかなりの衝撃を与えました。これからいくつかの立場の方々のオンライン講義に関する感想を列挙して考察してみます。
「必殺技」を奪われたカリスマ
夜回り先生こと水谷修氏は、オンライン講義について、学生の顔が見えず肉声が聞けない状況を憂い、「これが授業なのか」と完全否定します。彼のことを私はよく知りませんが、熱血教師として不良少年少女と向き合い、更生させてきた活動に敬意を表します。おそらく彼は、「面と向かって全身全霊で人とぶつかり合うこと」に重きを置く、例えるならコミュニケーションにおける、インファイター(ガンガン相手に近寄って殴り合う戦術を得とするボクサー)タイプのカリスマなのだと思います。
複数の人間の呼吸、顔色、姿勢、動きといった非言語情報を瞬時に把握し、判断する。 自分の目つき、表情、声量、ボディーランゲージ、発話するタイミングをコントロールする。 これらによってコミュニケーションのイニシアチブをとっていく能力に優れている人たちが、教員・学生を問わずインファイタータイプだと言えます。
オンライン講義では、zoomなどのビデオチャットでリアルタイムにコミュニケーションを取っていきます。しかしどうでしょう。相手はカメラ映像をオフにし、マイクをミュートし、自分のカメラ映像は見ていないかもしれないし、それがバレない。そして相手の発話ボリュームはお好みの値に調整。
これではインファイタータイプの能力が、壊滅的に無効化されてしまいます。なんとも大変やりにくい状況に置かれていることと推察します。 しかし、実世界での対面講義が復旧するまで、これはどうすることもできません。自身がこの環境に適合し、新しいコミュニケーションの様式を確立するしかないのです。 いうなれば現状は、全員がアウトボクシング(相手と距離を取りながら戦う戦術)することを強制される社会です。
Point: ・コロナで一番困っているのは、対面コミュニケーション至上主義のインファイタータイプ。
オンライン化を福音と感じるコミュニケーション弱者
では逆に、生粋のアウトボクサーの話をしましょう。世の中には、インファイタータイプが苦手な方がいらっしゃいます。コミュニケーションのタイミング、距離感、イニシアチブ。こういったものは、対面コミュニケーションにおいては弱肉強食で、インファイタータイプのような積極的な人がいると、その人にその場を支配されがちです。
そのような方々は、医学的に治療が必要な方から、そこまでではないものの外界からの刺激に敏感なHSP(highly sensitive person)の方、もう少しカジュアルに、ネットスラングで「陰キャ」とか「コミュ障」とか言われており、それを自称している人まで、その程度は人それぞれです。総合して、「コミュニケーション弱者」と呼ぶことにします。
「コミュニケーション弱者」にとって、社会活動のオンライン化はまさに福音です。 彼らは、決してコミュニケーションを否定しているわけではありません。自分にとって心地よいペースと強度でコミュニケーションを取りたいものの、人と交わればそのような自分の希望がいつも叶えられるとは限らないため、消極的選択として仕方なく人づきあいとは距離をおき、コミュニケーションの機会を控えめに調整することで社会に関わってきました。それでも、決していつでもうまくいくものではなかったはずです。 それがどうでしょう。オンライン化したコミュニケーションでは、コミュニケーションへの関わり方を、個々人が自由に選べるようになり、また関わり方にそのような個人ごとの多様性があることを、皆が認識し、許容し、配慮しているではありませんか!
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デザインによる富山県と伝統産業のプロデュース | 桐山登士樹
2020-07-15 07:00
NPO法人ZESDAによる、様々な分野のカタリスト(媒介者)たちが活躍する事例を元に、日本経済に新時代型のイノベーションを起こすための「プロデューサーシップ®」を提唱するシリーズ連載。第6回目は、富山県総合デザインセンターなどで活躍する桐山登士樹さんです。 首都圏でのデザインやメディア業界での経験と人脈を基に、富山県の地場産業とデザイナーを持続的にマッチングしていくエコシステムの構築で大きな成果を上げた、テクノロジー×デザイン×アートの力を活用していくプロデュース手法とは?
プロデューサーシップのススメ#06 デザインによる富山県と伝統産業のプロデュース
本連載では、イノベーションを引き起こす諸分野のカタリスト(媒介者)のタイプを、価値の流通経路のマネジメント手法に応じて、「inspire型」「introduce型」「produce型」の3類型に分けて解説しています。(詳しくは第1回「序論:プロデューサーシップを発揮するカタリストの3類型」をご参照ください。)
今回はカタリストの第3類型、すなわち、イノベーターに「コネ」や「チエ」を注ぐ座組を整える「produce型カタリスト」の事例の第1弾として、富山県総合デザインセンター所長等を務める桐山登士樹氏をご紹介します。
これまでご紹介してきたinspire型、introduce型のカタリストは、それぞれ、チエとコネをイノベーターに注ぐという、いわば局地戦における個別の価値供給によってイノベーション促進に貢献してきました。これに対して、produce型カタリスト(いわゆる、プロデューサー)は、チエとコネがイノベーターに大量かつ持続的に注がれていくエコシステム全体、すなわち戦場全体を包括的にマネジメントする存在です。
プロデューサーのミッションや活動内容は、プロデュースに関わる時点の状況によって大きく異なってきます。コミットした時点で既に多数のアクターが複雑に関係していれば、調整力や、果断なリーダーシップが求められたりするでしょうし、誰も居なければ、まずアクターを集めることから始めなくてはなりません。
桐山さんのプロデュースは、後者の事例です。富山県の伝統産業をデザインで活性化するというミッションを帯びて富山県総合デザインセンターにやってきた当時、県内にデザイナーは数名しかいないというのが出発点でした。注目すべきは、その人集めの手法です。桐山さんは、コンペという手法を取りました。結果、今では300人の日本トップクラスのフリーのデザイナーが富山県内で活躍しています。
そして、危機回避能力も見事です。行政からセンター存続の条件として短期的な売り上げを求められた際には、「お土産プロジェクト」によって応じ、県のサポートを維持することに成功しました。センターのみならず芽吹きつつあったエコシステム自体も守ったのです。
また、富山県総合デザインセンター所長以外にも、ミラノ・サローネの日本館のプロデューサー、富山県美術館副館長をはじめ、非常に多くの肩書をお持ちで活躍されています。
「テクノロジー、デザイン、アート」が自分の基本的なツールだと述べつつ、デザイン、インフラ、メディアの業界に長く関わり、海外と地方、ブランディングやマーケティングまでを一人で射程に収めてビジネス成果を出し続けてきた稀有な経歴をお持ちです。まさしく「マルチ・リテラシー」の権化とも言うべき典型的プロデューサーです。その上、足をマメに運び、目的達成に必要なコネやチエやカネを、方々から集めてくるチカラも兼ね備えておられます。そうして、デザイン、アート、ブランディング、資金などなどのあらゆる価値が、富山県の中小企業に総合的に注ぎ込まれ、より優れたプロダクトが国内外のマーケットに展開され、新たなコネやチエやカネを生み出していく、というエコシステムを創育しています。
今号では、富山県の、いや、日本の伝統産業の明日を切り拓くため、今日も最前線で戦っている桐山プロデューサーから、新しいエコシステムの創育手法を学びたいと思います。(ZESDA)
「オーケストラの指揮者」としてのプロデューサー
桐山です。私は富山県に1993年に呼ばれて、約25年間富山に毎週通いながら、富山県の価値をどう上げるかということにこれまで携わってきました。本稿では、特にデザインの力による地方創生というテーマに焦点を当てて、私のこれまでのプロデュース活動をご紹介させていただければと思います。 私がTRUNKというデザイン会社を作ったのが、今から30年ほど前になります。当時は出版社に勤めてましたが辞めました。なぜ出版社を辞めたかと言うと、いわゆる業界に閉じたシゴトではなく、もう少し横断的なことがやりたいなと思ったからでした。そこでちょうど私のイニシャルがTKだったので、私が走るという意味のTRUNKという名前の会社を作ったのですが、今日まで全然休みなく走ってるという、とんでもない目に遭ってるわけでございます。
それでは、私がこれまで関わってきたことを簡単にご紹介します。私はミラノとの縁が非常に長く、32年間通っています。出版社時代に知り合ったイタリア人の方と仲良くなったのがきっかけです。去年、おととしにミラノ万博がありました。そこで日本館のプロデューサーをやってましたので、通算して年に10回以上行くこともありました。
それから私は専門がデザインですから、デザインとインフラを整備する、いわゆる中核支援施設の仕事にも携わってきました。20年近く横浜市のYCSデザインライブラリーに関わっております。世田谷区では永井多惠子さん(せたがや文化財団理事長)に誘われて、彼女の下で6年間お仕事をしていました。富山県では知事の下でデザインセンターや県立美術館に携わってきました。このような形で、いわゆる地域のインフラに関わるようなこともずっとやってきたわけです。 さらにデザインのメディアというものにも関心を持ちました。私もメディア出身の人間なものですから、それをベースにどう伝えられるかというコミュニケーションを考えておりました。業界内の話で終わるのではなく、いかに周辺の人、またこれから関わっていく人に伝えていくかということも長く私の一つの仕事としてやっています。 このように、私は、デザイン、インフラ、メディアにまたがったビジネスを創る経験をしてまいりました。
プロデューサーとは、わかりやすく言うと「オーケストラの指揮者」だと思っています。私はクラシックが大好きでして、特にモーツァルトやバッハでは、彼らの譜面をいかに解釈するかというのが指揮者の重要な役目であり、そこに一緒になって演奏する人たちは一流でなければいけないわけですね。そして当然そこにはオーディエンスがいるわけです。だからその中でいかに感動的な演奏をするかっていうのは、その指揮者の解釈と、その場を読む力とか、盛り上げる指導力が問われることになろうかと思うんです。
そして私は、テクノロジーとデザインとアートを用いてプロデュースを行っています、現代におけるものづくりでは、テクノロジーはどうしても外せませんが、テクノロジーをより現代的で新しい価値創造に向かわせていくのがデザインのチカラであり、役目だと思っています。さらに、これだけ世の中が流動化してボーダーレスになってくると、自分たちの価値観を超えてどこまで飛躍できるか、という部分が非常に重要になってきます。ですから、アートという、束縛から自由になる、何者にも捉われないある種の創造性、表現性の要素もないと、人を惹きつけられない、違いを生み出せないと確信しています。
したがって、テクノロジーもデザインもアートも、全て含めて取り入れて、統合的な価値を作っていくというのが、プロデュースというものだろうと私は思ってます。
富山県総合デザインセンターの理念と成果
私がプロデュースしている例として富山県のケース、特に私が所長を務めている、富山県総合デザインセンター(以下、「センター」)のことをお話ししたいと思います。
センターは、デザイナーと企業が集まって、商品開発支援や異業種交流の場の提供やコンテストなどを通じた多彩な富山デザインの発信を行う施設です。今から約25年前にその前身となるものができたわけなんですけど、県直営になったのは約15年前です。その時の所長が、SONYのロゴマークをデザインしたりソニーのウォークマンを開発した著名な工業デザイナーの黒木靖夫さんでした。なぜか黒木さんと私は呼吸が合って仲が良かったんです。私は特別なことはしなかったんですけど、黒木さんがよく「ちょっと来れない?」といろんな機会にお呼びくださるなかで、次第に仲良くなりました。毎月酒を飲みながらいろいろお話をしまして、黒木さんとの付き合いは彼が亡くなるまで続きました。影響を大なり小なり受けていますから、私は今、色々な面で黒木さんに少し似てきているかもしれません。
黒木さんとセンターを作る際には、3つのポイントを掲げました。それは大まかには「開かれたセンターにしよう」、「支援するセンターにしよう」、「考えるセンターにしよう」の3つです。ほかにも色々ありますが、この3つを基本の設立理念として打ち出そうと決めました。
現在は、ソフト、ハード両面で整備を進めています。ハードに関しては、おそらく世界最先端の機材と、それから富山県が持つ400年にわたる、もの作りの町工場を上手く活用しながら、あらゆる機械を整備しようとしております。目標としては、ここに来れば、面白い人と出会え、最新鋭の機械と、そしてそれらの使い方をきちんと支援できる研究員がいるという環境を整備しようとしてます。
一方ソフト面ですが、ものづくりというものは、価値を作っていかなければいけません。特に最近はコミュニケーションも含めて考えなくてはいけませんし、いかに海を渡って物を売っていくかということを考えなくてはいけません。販路の開拓などはまだまだこれからなんですが、マーケティングも含めて整備を進めています。
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青春時代の捻れた爆発|高佐一慈
2020-07-14 07:00
お笑いコンビ、ザ・ギースの高佐一慈さんが日常で出会うふとしたおかしみを書き留めていく連載「誰にでもできる簡単なエッセイ」。今回は「勉強」がテーマです。勉強が大好きだった高佐少年。青春真っ只中、高校進学を前に起こした一世一代の反撃とは……。
高佐一慈 誰にでもできる簡単なエッセイ第7回 青春時代の捻れた爆発
僕は勉強が好きだ。何を唐突にと思うかもしれないが、こうやってはっきり「勉強が好き」と言うことができるようになったのはここ最近の話だ。それまでは勉強が好きと言うことに抵抗があった。ほら、何かカッコよくない感じがあるじゃないか。それに人としてとっつきづらい感じもある。あと女子にモテなさそうだ。 でも僕はここではっきりと断言する。勉強が好きだ。 「勉強が好きだーーーーー!」 目の前に海があったら、こう叫びたいくらいだ。 勉強することで、知識と言う栄養を吸収し、自分と言う人間が成長していく感じが好きなのだ。 しかしその割に知らないことがめちゃくちゃ多い。飛行機が雲の上を飛んでる時ってなんでいつも晴れているんだろうとか本気で思っていたし、四国がぷかぷかどこか流れていってしまわないのは、本州と瀬戸大橋・明石海峡大橋・しまなみ海道(この3つの名前は勉強したので知っている)で繋がっているおかげだと思っていた。 つまり誰もが常識として知っていることはすっぽりと抜け落ち、教科書や参考書で勉強したことは知っているという、社会で生きていくことにおいて、なんというか融通の利かない人間なのだ。 よくラ・サール卒業して早稲田に入るなんて頭がいいんだねと言われたりするが、俯瞰で見ても僕は頭のいい人間ではないと思う。いわゆる学校の勉強は出来るけどそれ以外は応用が利かないという頭の悪い人間だ。学校の勉強は出来なかったけど、話が上手かったり、機転が利いたり、物事の理解力が早い人間に憧れる。
そんな僕の中学時代。学歴社会真っ只中。学校の勉強に真面目に取り組んでいた僕の青春が爆発した。
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予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと|石川善樹
2020-07-13 07:00
今朝のメルマガは、イベント「遅いインターネット会議」の冒頭60分間の書き起こしをお届けします。今朝は、予防医学研究者の石川善樹さんをゲストにお迎えした「予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと」です。世界的に拡大した新型コロナウイルス危機。予防医学の観点から、どのような対策が必要だったのでしょうか。そして、このパンデミックから私たちは何を学び、どう活かしていけばよいのでしょうか?(放送日:2020年6月9日)※本イベントのアーカイブ動画の前半30分はこちらから。後半30分はこちらから。
【明日開催!】 7月14日(火)19:30〜「三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか(遅いインターネット会議)」(ゲスト:倉持麟太郎・玉木雄一郎) 著名人を含む多くの人々を巻き込み、SNS上で展開された「#検察庁法案改正案に抗議します」。今国会での成立は断念することになりましたが(5/19時点)、今後も改正のための議論は続けると政府は発表をしています。 そこで、今回の改正案の問題点はどこにあるのか、また、私たちはこの国の三権分立のあり方についてどう向き合うべきなのか、ゲストのお二人とともに議論します。 生放送のご視聴はこちらから!
遅いインターネット会議 2020.6.9予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと|石川善樹
得能 こんばんは。本日ファシリテーターを務めます、得能絵理子です。
宇野 こんばんは。評論家の宇野常寛です。
得能 「遅いインターネット会議」。この企画では政治からサブカルチャーまで、そしてビジネスからアートまで、様々な分野のプロフェッショナルをお招きしてお届けしております。本日は有楽町にある三菱地所さんのコワーキングスペース、SAAIから放送しています。本来ですとトークイベントとしてこの場を皆さんと共有したかったんですけれども、当面の間は新型コロナ感染防止のため動画配信に形式を変更しております。
宇野 いやー、この圧倒的なソーシャルディスタンス感、やばいっすね(笑)。
得能 そうですね(笑)。やっぱりこのくらい離れるもんなんですね。
石川 やりづらいっすね(笑)。
得能 そうですね。このソーシャルディスタンスで議論盛り上がるのか、ちょっと心配ですね。
宇野 でも恐るべきことに何回もやってると、慣れてくるんですよ。こんなことに慣れている自分がなんか疑問な感じすらありますけどね。まぁ、慣れてきます。
得能 人間の適応力はすごいですね(笑)。では、本日のゲストをご紹介したいと思います。本日のゲストは予防医学研究者の石川善樹さんです。よろしくお願いします。
石川 はい。よろしくお願いします。
得能 本日のテーマは「予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと」です。石川さんは予防医学研究者でありながら、組織論や幸福論であったり、広く社会に対して提言されていらっしゃると思います。その石川さんと共に現在のコロナ危機から人類全般が、人類社会が学んでいくことについて議論していきたいなと思っております。
石川 でかいテーマでいいですね(笑)。
宇野 やっぱり石川さんをお呼びするならでかいテーマじゃないとダメだと思ったんですよ。「具体的にどうウイルスを抑え込むのか」とか「具体的にどうすれば自粛解除できるか」とかそういった話も聞きたいけれど、それだけで終わるのはもったいないと思っていて。だから「コロナについて考える」ではなくて「コロナから考えること」について話し合うのがいいかなと思って今日はお呼びしました! よろしくお願いします!
石川 いいっすね! よろしくお願いします。
得能 はい。よろしくお願いします。それでは早速、議論に入っていきたいと思います。今日は大きく二部構成でお届けできればと思っております。前半は、予防医学研究者としての石川さんが今回のコロナ禍をどう分析されているのかをお伺いしたいと思っています。後半は、前半の議論を踏まえたうえで、これから訪れるウィズ・コロナの時代について考えていきたいと思います。「コロナから」というテーマのところですね。
宇野 最初は、石川さんに今回のコロナ禍をどう分析しているか、お話を聞いたうえで、後半でコロナから考えたことについて深堀りしていこうかと思っています。
予防医学史からみた新型コロナウイルス
得能 最初の議題は「予防医学史からみた新型コロナウイルス」です。人類社会の歴史自体が、多くの疫病と闘ってきた歴史でもあると思うのですが、予防医学史において今回の新型コロナウイルスはどういう位置づけになるのか。この辺り、石川さんいかがでしょうか。
石川 僕も、よく考えたらまだ言葉としてまとめたことはないんですけど、こういう感染症のパンデミックで印象に残っているのは、HIVエイズの時なんですよね。他にも鳥インフルとかエボラ出血熱とかいろいろありましたが、実は、HIVエイズの時に人類は重要な学びをしていて。「HIVエイズをなんとかするぞ」って、人も物も金も、多くのリソースを使い、結果としてHIVエイズの対策は進みました。でもHIVエイズ以外の対策が非常に遅れてしまったんですね。例えば、世界で今、一番人が亡くなっている原因って心臓病なんですけど、物流にしろ医療スタッフにしろ、HIVエイズ対策に行き過ぎてしまって、心臓病対策がアフリカで遅れてしまった。
今回もそうですね。新型コロナウイルスのパンデミックがある一方で、隠れたパンデミックって言われるものがあって。生活習慣病の方々が医療機関受診を差し控えるってことが起きているんです。これは日本だけじゃなくて世界中で起こっていて、その結果、糖尿病とか高血圧が悪化している。どういうことかというと、パンデミックが起きた時ってその疾病対策にみんなすごいエネルギーを注ぐんですけど、ついつい、システム全体としてものごとを見る視点を失いがちになるってことなんですよね。
HIVエイズの時に「疾病中心アプローチはもうやめよう」ってなったんです。もっとヘルスシステム全体でものごとを考えないと、局所最適になって、全体最適になっていかない。今回のコロナウイルスもそうだと思うんです。目の前の問題が起きた時は、そこに向けてみんな全力でリソースを集中させるんですけれども、そうするとシステム全体のほうが機能しなくなってしまう。こういった、システム全体で見たときにどうなってるのかという視点は、まだあまり議論されていないし、これから議論が起こっていくのかなと思いますけどね。
予防医学史の観点から見ると、もともと予防医学は、病気と貧困と不衛生っていう、この悪のサイクルをどう断ち切るのかってところから始まってます。病気の人は貧困になるし、貧困の人は不衛生な状態になって病気になっていく、みたいな。
得能 確かに循環してますね。
石川 これが最初に目撃されたのが19世紀のロンドンなんです。人の上に人が住み、人の下に人が住むっていう。それまではこういう状態はなかったわけなんですけれども、「都市」という現象ですよね。そこで不衛生という問題が発生して、病気になり、また貧困に陥っていく。これを、どうシステムとして解決していくかというところから予防医学とか公衆衛生っていうのが始まっていきました。
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三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉 第一章 西洋的な人工知能の構築と東洋的な人工知性の持つ混沌
2020-07-10 07:00
(ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第一章「西洋的な人工知能の構築と東洋的な人工知性の持つ混沌」をお届けします。今日の人工知能を生み出すに至った、機械論的な知能の構築を試みる西洋の思想。混沌から知性を「削り出す」東洋の発想との相互補完によって開かれる、人工知能の次の可能性について提案します。
1. 東洋的な人工知性の在り方
荘子の名言の一つに、
斉人之井飲者相守也。(列御冠篇 二) (斉人の井に飲む者の相いまもるがごときなり。) ちょうど凡人が井戸の水を飲むのに、自分の水だからお互い飲ませないと言って、お互い守りあっているようなものだ
という一節があります。「井戸の水は井戸を掘ったものが自分で作ったものと思い込んでしまうが、自然から湧いているものだということを忘れている」、という意味です。同じように、人工知能を作ることは、作ったものが設計に基づいて実現したと思っています。しかし、東洋的な考えではそうではない。最初からそこにあったものを掘り出している、と考えるのです。オーギュスト・ロダン(1840-1971)が、石の中に眠っているものを掘り出す、と言ったごとく、電子の海から人工知能を掘り出すのです。 しかし、東洋から人工知能は生まれませんでした。東洋でもおそらく時間が経てば、自然発生的な存在として人工知能を生み出すことができたでしょう。おそらく、まずは人工生命があり、その次に人工知能を生み出す、ということになっていたでしょう。しかし急速な西洋の人工知能の発展がそれを許しませんでした。東洋において自然発生的な人工知能が育つ前に、西洋的な人工知能が世界を席巻してしまった。歴史に「もし」はないにせよ、もし東洋から人工知能が生まれる可能性があったとすれば、西洋的な構築による人工知能ではなく、プログラムと電子回路とノイズの混沌とした空間から、知能の形をしたものを抜き出す、という方法に依ったことでしょう。あるいは、混沌をそのままに、そこからエレガントな思考を引き出す仕組み、として人工知能を作ったことでしょう。歴史がそうならなかったのは、そのような混沌を作り出すまでの計算パワーと手法がそれまでに生まれなかったことによります。 逆に考えれば、これからそういった創造と研究が推進されることで、西洋のカウンターとしての「人工知性」が生まれることでしょう。日本や中国のコンテンツには、ネットの海から人工知能が自動的に生成するというストーリーがよく見受けられます。そこには、東洋においては人工知能ですら、自然発生的なものであるはずだ、という強い八百万的思想が潜んでいるのです。
2. 構築と混沌(I)思考とノイズ
人間は脳も身体も同じニューロン(神経細胞)から構成されています。身体のニューロンにはほとんどノイズがありません。だからこそ身体を正確に動かすことができます。一方、脳のニューロンはノイズだらけです。アクティブに活動していないニューロンでさえ、さまざまなノイズの中で活動しています。脳の活動の90%は「無駄な」活動をしていると言われています。おそらくノイズによって、至るところで微弱なニューロンが発火しているのでしょう。 脳は決して、一つの問題に対してたった一つのエレガントな解答を実現する器官ではありません。さまざまな可能性の思考を同時に走らせたり、あるいは次に来るべき思考を準備してバックグラウンドで走らせたりしています。複数の思考が、顕在的にも潜在的にも走っていて、それぞれが競争と共創の中にあり、主導権を取ろうとしています。正確には、環境の多様な変化に最もマッチした思考が勝者となり、主導権を握ります。その柔軟性の高さの代償として、ほとんどの思考は戦いに敗れて無駄な思考として終えることになります。あるいは果たせなかった役割を夢の中で実現しようとします。夢は現実に適さず用いられてなかった思考が現れる場です。 一つの勝ち残った思考が意識に上っていると、それ以外の思考は無駄になったように見えます。しかし、雷が雲から生まれるように、混沌という母体がなければ、一筋の思考は生まれません。我々は困難な場面や問題に直面し、考え続け、己を混沌そのものにし、己の中の混沌を活性化させ、そこからエレガントな思考を生み出します。それは思考のドラマなのです。 しかし、現在の人工知能に与えられているのは、そうした混沌から立ち上げるドラマチックな思考ではなく、筋道のついた出来上がった後の思考を、うまく工学的に再現する思考です。現代の人工知能では、問題がなければ思考はない。そして、現在の人工知能には問題を自ら作り出す力も必要もない。人間が、考えるべき要素とそれに対する操作を教えて、設定したゴールへ向かって計算させるのが、現代の人工知能の姿です。「考えるべき要素、それに対する操作、設定されたゴール」のセットはフレームと呼ばれ、これに関して人工知能は3つの制限を受けます。
1. 人工知能は自らフレームを作り出すことはできない。 2. 人工知能はフレームの外に出ることはできない。 3. 人工知能は与えられたフレームだけしか解くことはできない。
人工知能が得意なのは「閉じられた問題」です。それは未知の要素がない、という意味です。「閉じられた問題」としてフレームが与えられる時、人工知能は問題を解くことが出来、また人間よりも圧倒的に優秀な答えを出すことができます。将棋、囲碁、自動翻訳、リコメンドシステム等、データの世界の閉じた問題に対しては、人工知能は遅かれ早かれ、人間より圧倒的に優秀になります。 ところが、フレームの外へ一歩出ると、人工知能はまるで無力になります。たとえば、コンビニの店員のロボットを作ったとして、その人工知能を搭載しても、想定外の出来事に対しては何もできません。犬がコンビニに入って来た時の対処法がもしプログラムされていなければ、動きようがなく、完璧なお料理ロボットも鍋の取手がいきなり壊れたらストップするしかない。お掃除ロボットが動く前に部屋を片付けておく必要があるように、人工知能ができることは想定したフレームの中の課題です。ディープラーニングによる強化学習では、学習の仕方には自由度がありますが、囲碁AIが囲碁以外の何かを出来るようになることはありません。人工知能がフレームの外に出ることができない。これが「フレーム問題」です。
人工知能はフレームの中で動作します。そして、その問題をできるだけエレガントな思考で、できるだけコンパクトな計算とメモリで実現することが人工知能でもあります。そこには無駄があってはならない。それは通常のプログラムの宿命です。プログラムの完成には、できる限り無駄をそぎ落とそうとする力が働きます。それは先に指摘したようにオートメーションの延長としての流れの中に人工知能があるからでもあります。 そうやって西洋の人工知能は、徐々に閉じられた問題の中に限定されていくことになります。閉じられた狭いサーキットの中で、無駄のない、隙のない、高速なプログラムとしてやせ細っていくことになる。それを解放できるのは東洋的な人工知性の考え方です。この章では、西洋的な人工知能と東洋的な人工知性がいかなる対立をなし、お互いを解放できる力を秘めているかを示していきます。
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「聖地巡礼」とは~アニメは地域に何をもたらしたか? | 山本寛
2020-07-09 07:00
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第10回。今回取り上げるのは、いまやアニメビジネスの定番の手法となった「聖地巡礼」ムーブメントについてです。エポックとなった『らき☆すた』から13年、地域に様々な恩恵と軋轢をもたらしてきたアニメ発のコンテンツツーリズムの成り立ちと現状、そして功罪について、仕掛け人の立場から振り返ります。
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第10回 「聖地巡礼」とは~アニメは地域に何をもたらしたか?
「聖地巡礼」という言葉は、今やもう当たり前のように使われているように思える。 僕はこのテーマで既に10回近く講演をさせてもらっているが、しかし地方の一般市民に「聖地巡礼って宗教のことだと思ってる人?」と訊くと、お年寄りを中心にまだ手が上がる。
今回は数多い講演の経験から、改めてこの「聖地巡礼」の意義を問いたいと思う。 ただし、「聖地巡礼」の定義については、講演ならば最初に説明するところだが、この稿では省略させていただく。
2016年、「アニメツーリズム協会」が設立され、いよいよアニメ業界総出で「コンテンツツーリズム」=「聖地巡礼」を盛り上げようとしている、かのように思える。 『君の名は。』(2016)では、舞台とした岐阜県飛騨市で1年間だけで185億円もの経済効果をもたらしたのだから、ビッグビジネスのチャンスを狙うのも無理はない。
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[特別寄稿]世界中が繋がり続けるアフターコロナ時代の新しい共創の形(後編) ──次世代組織開発から展望する未来の3つのシナリオ 田原真人
2020-07-08 07:00
新型コロナ危機によって、多くの人々が半強制的にワークスタイルやライフスタイルの変容を求められている2020年現在。その潮流は、マクロには20世紀型の均質な大衆社会の崩壊を加速し、ビッグデータ+AIの結託が人々の統制に向かう「監視社会シナリオ」や、真偽不明の情報のインフォデミックが反知性主義的なカオスを蔓延させる「暗黒社会シナリオ」の到来リスクを高めています。そんな望ましからぬ未来を避けながら、なるべく多くの人々が多様で生産的な繋がりを創発してゆく「統合シナリオ」へ向かうための羽ばたき方とは?「オンライン社会変革ファシリテーター」として、コロナ危機のずっと以前からリモート教育や「Zoom革命」を主導してきた田原真人さんが、その理論と実践を架橋しながら問う論考の後編です。
前編はこちらから
「監視社会シナリオ」の構造を『1984』から読み解く
まず、監視社会シナリオから検討していこう。 ジョージ・オーウェルが1948年に発表した風刺SF小説『1984』には、監視社会シナリオを理解するための重要なヒントがある。この小説では、オセアニアと呼ばれる全体主義国家を統治する独裁者、ビッグブラザーが巨大ポスターやテレスクリーンに登場し、「ビッグブラザーがあなたを見ている」というメッセージを伝え続ける。これは、国民が心の中に超自我として抑圧者の視点を取り込む効果がある。 内面化された超自我は、自分自身から創発する物語を抑圧し、抑圧者の語る物語を生きるよう強制し続ける。「過去の歴史の改竄」を担当する小役人のスミスは、過去の新聞記事を見つけたことから党に対して疑問を抱く。これは、独裁者のプロパガンダ物語と個人から創発する物語との対立であり、全体主義を維持する側からすると抑え込まねばならないゆらぎである。 このようなゆらぎを抑え込むための機能として、思想警察による取り締まり、ニュースピークと呼ばれるボキャブラリーを減らした言語、論理矛盾が気にならない二重思考などの仕組みが、オセアニアには準備されている。思想警察は、疑問を抱くことに対する怖れを生み出してゆらぎの発生を予防するのと同時に、精神的拷問や洗脳によってゆらぎを矯正する。ニュースピークは、複雑な思考ができないようにボキャブラリーを制限し、自らの物語を語れないようにするためのものである。二重思考は、心の中に論理矛盾が生まれたとしても、それを違和感として感じないようにするためのものである。
深尾葉子は、『魂の脱植民地化とは何か』において、「人間の魂が、何者かによって呪縛され、そのまっとうな存在が失われ、損なわれているとき、その魂は植民地状態にある」と定義し、「魂の自律性が失われているとは、自らへの感覚のフィードバックが絶たれているかどうか」であり、「自分自身の感覚との接続を部分的に断ち切り、あるいは、長期にわたって知覚できないように抑え込む装置ないし機構を、「蓋」と呼ぶ。」と述べた。 魂の上に蓋をし、自分の本来の感覚へのフィードバックが絶たれた状態で、内部に取り込んだ抑圧者が提示する「正しさ」を頼りに、社会に適合するためのインターフェースとしての外部人格を形成する場合、環境に応じて複数の外部人格が蓋の上に形成され、それらが、矛盾したまま共存する。深尾は、このような外部人格のことを「箱」と呼ぶ。箱によって区切られた外部人格が互いに矛盾していても、それらは感覚と切り離されており、その場に応じて外部に適応するために切り替えられるため問題にならない。これは、『1984』の二重思考に対応するものである。
▲図10 魂、蓋、箱
現在、監視社会シナリオに最も近いのが中国であろう。街中に監視カメラが設置され、顔認証によって個体識別される。個人の行動データはクラウド上に蓄えられ、ビッグデータをAIが解析して行動データから意味を生み出すアルゴリズムの研究が進められている。扱えるビッグデータの量が膨大なため、AIアルゴリズムを成熟させていく環境が整っており、この分野で世界最先端に躍り出ている。 Covid-19の感染拡大防止のため、国民には緑(健康)、黄(注意)、赤(危険)の3色の健康コードが付与され、感染者が出た場合、クラウド上に蓄えられたデータから濃厚接触者が割り出されて健康コードが変更になる。黄や赤になるとバスやレストランの使用が制限される。この仕組みは、Covid-19の感染拡大防止に効果を上げているが、同時に、あらゆる行動が常に国家によって監視されている状態がすでに実現していることを表している。このような状況の中、中国本土の人々や、香港の人々の創発的な語りは蓋をされて封じ込められていくのか、または、蓋を押し上げていくのか、予断を許さない状況が続いている。監視社会シナリオは、テクノロジーによって実現する現在の全体主義である。
学問が崩壊して反知性主義が広がる「暗黒社会シナリオ」
続いて、「暗黒社会シナリオ」へ向かうメカニズムを考えてみよう。 インターネットの発展により情報格差が無くなることは、知の開放をもたらす一方で、玉石混合の情報が溢れるということも起こる。その結果、出所が不明な情報を組み合わせてストーリー化した陰謀論や、世紀末の恐怖を煽るカルトの情報などにも簡単にアクセスできるようになる。あらゆる世界観が並列し、相対化されてくる。人々が自分にとって都合のよい世界観に閉じこもった結果、世界観の違いによって考え方が細かく分断し、建設的な議論や対話ができなくなって知性が減退し、陰謀論やカルトが台頭しやすくなるというシナリオが、暗黒社会シナリオである。
コンゴの子ども兵をテーマにした映画『Ninja & Soldier』の映画プロデューサー袋康雄は、子ども兵になっていく過程を以下のように説明する。
「子どもを脅して、友達や親を傷つけたり殺させたりさせて罪悪感を植え付けると、子どもを支配できるようになって子ども兵になる。」
これと同様の構造は、多くのカルトでも見ることができる。
社会的暴力や抑圧によって心が傷つき、その傷から発生する怒りが他人へ向かうと「殺したい」という衝動になり、自分に向かうと「死にたい」という衝動になる。この仕組みを極端な形で利用して支配しているのが子ども兵やカルトであるが、同様の仕組みは、学校や企業組織などにおける管理体制の中でも作動している。この仕組みを、より一般化した形で語ると、次のようになる。
「社会的暴力や抑圧によって罪悪感を植え付けられると、自己嫌悪によって自分自身と対峙することが難しくなり、自己欺瞞が発生しやすくなる。その結果、自己欺瞞を維持できる世界観に惹かれるようになる。そこで、相手の支配を受ける代わりに自己欺瞞を維持するという共依存関係が生まれる。」
安冨歩は、『生きるための経済学』の中で、この思考連鎖を次のように表現している。
自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化
自己嫌悪によって自分の生命ダイナミクスとの繋がりを断ち切ると、自己欺瞞が発生し、それを維持するための共依存関係を外部と結ぶ選択肢が立ち上がる。自分の中の流動性を否定した人は合理的思考が優位となり、全体主義の秩序の一部となることに惹かれやすくなる。一方で、合理的思考を否定した人は、身体性、精神性が優位となり、自分の感覚と通じ合うコンテンツやコミュニティに惹かれやすくなる。ビッグデータとAIによって多様化する消費者の好みを分析し、それに応じた多様なコンテンツを豊富に提供するプラットフォームは、個別最適化された多様な顔を見せる現代のビッグブラザーである。自分にとって居心地のよいコンテンツ世界への依存が進むと、異なる世界観の人同士での建設的なコミュニケーションが取れなくなり、視座を上げた抽象的な思考ができなくなってプラットフォームに飼いならされていく。監視社会シナリオも暗黒社会シナリオも、自己嫌悪からの逃避による闘争/闘争エネルギーによって生まれる活動の行きつく先という点で同根である。
社会に設定される画一的な主流派の価値観と、そのアンチテーゼとして生まれる反主流派の価値観とは、表裏一体であり、ちょうど対極にある部分を否定し、その部分を抑圧するため、戦いが終わらない。アメリカで発生している白人警官と黒人との対立構造も、このメカニズムなのではないだろうか。
▲図11 主流派と反主流派の終わらない戦いの構図
画一的な子どもを育てる工業社会の教育システムは、正解主義によって子どもがありのままの自分を受容することを阻害してきた。正解がすでに無くなっている時代に、正解を教える教育システムが機能不全に陥っていることの現れの一つは、不登校児童生徒の数が16万人を超えていることだろう。自己疎外から発生する闘争/逃走のエネルギーは受験という競争に勝ち抜くための行動として活用されている。受験勉強で問われるのは、合理的思考である。そのため、受験勉強と就職活動という競争の勝者が辿り着く官僚的な大企業の多くでは、ありのままの自分の持つ性質である、個人の自由や流動性が否定され、それらは「自分勝手」「わがまま」として忌避される傾向がある。そのため、それらが表現されると、そこに、攻撃のエネルギーが向かいやすい。攻撃のエネルギーが組織外部に向いているときは、企業の競争力として活用できるが、何かのきっかけで組織内の他人に向かうとパワハラとなり、自分自身に向くと自己否定が起こってメンタルダウンを引き起こす。
私たちの社会は、そのような火種を発生させ、暴発のリスクを内側に抱え込んでいる。
このような闘争/逃走のエネルギーは、Covid-19が感染拡大する状況の中で、世界中で発動している。
たとえば、
「自分勝手に外出する奴のおかげでロックダウンが台無しだ! 警察や軍は、あいつらをちゃんと取り締まれ!」
という言葉がSNSで肯定的に語られている。それは、全体主義を推し進める口実を与える。中国では、Covid-19をきっかけに管理体制が強まり、監視社会シナリオへと向かう制度や設備が急激に整ってきている。
多様性を自己受容に活用する「統合シナリオ」
以上のような監視社会シナリオ・暗黒社会シナリオへの道筋は、きっと多くの人々が避けたいと望む未来像であろう。では、ビッグデータやAI、Web会議といった情報化社会を司るテクノロジーを、ありのままの自分が受容され、暴力の火種が生まれにくくすることに活用できないだろうか。 その可能性を探るのが、「統合シナリオ」である。
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[特別寄稿]世界中が繋がり続けるアフターコロナ時代の新しい共創の形(前編) ──次世代組織開発から展望する未来の3つのシナリオ 田原真人
2020-07-07 07:00
Covid-19のパンデミックを機に、いま世界中で既存の秩序の矛盾や綻びが露わになり、想像を絶する勢いで、社会は先の見えない混迷の時代に突入しているように感じられます。一方で、個々人の働き方や暮らし方には様々な選択肢が生まれ、新たな可能性が拓けつつあることも確かです。この変容の本質をどのように捉えれば、創造的なチャンスに転じていけるのか。「オンライン社会変革ファシリテーター」として、コロナ危機のずっと以前からリモート教育や「Zoom革命」を主導し、イノベーティブな組織開発の取り組みを表彰するODNJエクセレントアワード組織賞を受賞したトオラス主催の田原真人さんが、その理論と実践の架橋をつづった刺激的な論考を、前後編でお届けします。
Covid-19危機によるオンライン化が生み出した二極化
2020年は、後から振り返れば、Covid-19の年として記憶されるだろう。 感染症の世界的大流行を表すパンデミックは、人類史上、何度も起こっている。14世紀にヨーロッパに広まった黒死病、16世紀に南北アメリカに広まった天然痘、近年では、1918年のスペイン風邪など、パンデミックの歴史を辿れば、数十年に一度の頻度で起こっていることがわかる。 しかし、Covid-19には、過去のパンデミックとは明確に異なる特徴がある。それは、グローバライゼーションによって一体化した世界が初めて体験するパンデミックだということである。人間が地球規模で移動するようになった影響で、Covid-19は、わずか数週間で世界中に広まってしまった。これは、かつて人類が経験したことがない事態である。私たちは、地球規模で同じ問題に取り組むという体験をしている。その体験によって、Covid-19は、私たちの記憶に刻まれるだろう。
世界中で行われているのは、感染拡大を防ぐために「Stay at home(家にいろ)」である。私たちは、世界中でほぼ同時に、仕事場やカフェで人と会うことが大きく制限されるという状況を体験している。感染拡大と医療崩壊を防ぐためには、お互いの接触をできるだけ減らすしかないのである。1918年のスペイン風邪のときにも、同様の対策が取られたはずだ。 だが、今回のCovid-19には、もう1つ大きな特徴がある。それは、インターネット時代のはじめてのパンデミックであるということだ。私たちは、世界中の人たちが自宅に籠り、インターネットで繋がりあっているという共通体験をしているところである。 その結果、なかなか進まなかった教育のオンライン化と仕事のリモートワーク化が急激に進むことになった。学校を再開できない状況の中で多くの教師がオンライン授業に挑戦をし始めたし、在宅ワークをせざるを得ない状況の中で、Web会議に初めて取り組んだ人が大量発生した。それを端的に表しているのが、Web会議システムZoomのユーザーの急増である。Covid-19以前は1千万人程度だったのが、わずか1カ月後には30倍の3億人へと急増したのである。
私は、2005年からオンライン教育に取り組み始めた。2011年にマレーシアに移住してから現在までの9年間、すべての仕事をオンラインで行っている。2012年には「反転授業の研究」というFacebookグループを立ち上げ、オンラインの参加型ワークショップのノウハウを集合知によって作り、2017年にはオンラインで繋がる自律分散型の組織「与贈工房(現在は、トオラスに改名)を立ち上げて、そのノウハウを個人や企業に向けて提供している。同じ年に出版した『Zoomオンライン革命』は、日本で最初に出版されたZoomに関する書籍である。 15年間、オンライン化というものが社会に何をもたらすのかということを考えてきた。本稿では、Covid-19が社会の変化のプロセスをどちらの方向に進めたのかを考察したいと思う。
Covid-19以前にオンラインに関心がなかった層は、「オンラインはリアルの劣化版である」と認知していることが多い。例えば、図1のように、リアルでできることを100とすると、オンラインでできることは50であると捉えていたりする。
▲図1 オンラインはリアルの劣化版か?
しかし、「オンラインだからこそできることはないだろうか?」という問いを立てて探究を始めた人は、図2の水色の領域が存在することに気づく。ひとたび、その領域の存在に気づくと、様々な新しい使い方を工夫できるようになる。それと同時に、テクノロジーの進化によってできることが増えていく。
▲図2 オンラインだからこそできること
それが、さらに進むと、リアルだからできることの領域よりも、オンラインだからできることの領域のほうが大きいと感じるようになってくる。そのとき、自分の意識の中心が、リアル世界(黄色い円)から、オンライン世界(青い円)へと移行し、世界の捉え方に変化が生まれる。
▲図3 リアルからオンラインへ視座の中心が移る
その結果、リアル基準でオンラインを捉える人と、オンライン基準でリアルを捉える人との二極化が起こる。Covid-19による自粛が空けると、前者はCovid-19以前の生活に戻り、何事もなかったかのように生活するだろう。しかし、今回をきっかけに後者の可能性に気づいた人は、Covid-19以前の生活に戻ることはない。リアルとオンラインを両方選べる状態で、オンラインを選択する機会が多くなるからだ。すでに発生している前者と後者の意識の乖離は、今後、さらに大きくなっていくだろう。
リアル基準の意識で見ると、リモートワークは、リアルの劣化版の仕事環境である。指示命令系統が混乱したり、マネージャーが姿の見えない部下の管理に苦労したりする。コミュニケーションのすれ違いから人間関係のトラブルが発生したり、メンタル不調を訴える人も増えてくる。 一方で、オンライン基準の意識で見ると、別の可能性が見えてくる。管理を手放して、自律分散型で動ける組織へと転換すると、各自がマイペースで仕事ができ、柔軟にオンラインで集まって話せるオンライン環境の生産性の高さに気づく。グループウェアで情報を共有し、多対多・双方向コミュニケーションを日常的に行う環境を構築して、必要に応じて対面やオンラインでミーティングを行う働き方は、一人一人に意志決定を行うために必要な環境を与えるということである。日常的に議論や対話が行われる組織文化を育てることができれば、知的生産性を飛躍的に高めることができる可能性を持つ。
▲図4 リモートワークの二極化
トップダウンで管理する組織がリモートワークへ移行すると、にらみを効かせるマネジメントが機能しなくなり、劣化版の一方向コミュニケーションによってチームが崩壊しやすくなる。このようなチームは、Covid-19騒動が収束するのをじっと我慢して耐え、収束後は、元のやり方へ戻るだろう。その一方で、自律分散型の組織がリモートワークへ移行すると、拡張版の多対多・双方向コミュニケーションがリアルを超えた価値創造の可能性を持つことに気づき、生産性がむしろ上がっていく。 新たな可能性に気づいた組織は、Covid-19騒動が収束した後も、元のやり方には戻らずに、見出した可能性を発展させていくだろう。私は、Covid-19におけるオンライン化によって、このような二極化が起こることを予想している。
会話ネットワークのWeb化が進み、アイディア創発やナラティブ創出が起こる
Covid-19によって、多くの人が在宅勤務になり、1日に何時間もオンライン会議をする人が増えた。オンライン会議が当たり前になったことで、社交もオンラインへと移行しつつある。SNSで繋がっていた古い友人と何十年ぶりかでZoomで話したり、遠隔地に住む仲の良い友人たちを誘い合ってオンライン飲み会をしたり、オンラインが当たり前になったことで、話し相手の顔ぶれが変わった人も多いのではないだろうか。 9年前からマレーシアに住んでいる私にとっては、イベントの多くがオンライン化することによって、参加できるイベントの選択肢が爆発的に増えた。かつては、東京や大坂で実施されているイベントを海外からうらやましい気持ちで眺めていたが、2020年になり、それらの多くがオンラインで参加可能になった。イベントがオンライン化したことで、地方や海外に住んでいる人の知的活動の範囲は急激に広がっている。それは、今後、集団としての知的生産性の向上に結びつくだろう。
世界中で、様々な組み合わせのグループで会話がなされている様子は、地球規模でワールドカフェが行われているかのようである。ワールドカフェとは、グループのメンバーをシャッフルしながらグループ対話を行っていくワークショップ手法である。ワールドカフェでは、参加者のアイディアがWeb状に相互に繋がり合って新しいアイディアを生み出し、未来を創造する自己組織化が起こるようにデザインされている。
私は、毎日のように、Zoomを使って様々に異なるメンバーとオンライン対話を続けているが、朝の対話で思いついたアイディアが、午後の別のグループの対話で発展し、夜にはアイディアが大きく育っているということがよくある。また、今までうまく表現できなかったことが、ふっと耳にした言葉によって「それが言いたかったんだ!」と思い、その言葉を借りて表現できるようになることもある。そんなとき、私は、毎日、ワールドカフェをし続けているような錯覚に陥る。 アイディアの創発やナラティブの創出は、直線的に起こるものではない。蜘蛛の巣(Web)のように複雑に張り巡らされたコミュニケーションのネットワークを、様々な言葉が増殖しながら飛び交い、アイディア同士が結びついてアイディアが創発したり、言葉と言葉が様々な形で結びついて物語化することによってナラティブが創出したりする。それらは、生き生きとしたグループ対話を、様々なメンバーとし続けることで、必然的に起こってくるものである。
Covid-19以前には都市部に偏っていた文化的イベントへのアクセスが、オンライン化によって世界中へと広がり、それらに触発された人たちが、毎日、毎日、様々な組み合わせで語り合いながら、複雑な会話のWebを作っている。その中で生まれたアイディアやナラティブがアフターコロナの進む先を示すヒントになるのではないだろうか。
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1年延期になったオリンピックについて、もう一度だけ考え直す | 乙武洋匡
2020-07-06 07:00
今月より、イベント「遅いインターネット会議」の冒頭60分間の書き起こしをお届けします。今朝は、乙武洋匡さんをゲストにお迎えした「1年延期になったオリンピックについて、もう一度だけ考え直す」です。新型コロナウイルスの感染拡大により、1年延期となった東京五輪。withコロナ時代だからこそできる、開催の仕方とは。そして、今こそ議論されるべき、オリパラの本質とは何なのでしょうか。(放送日:2020年6月2日)※本イベントのアーカイブ動画の前半30分はこちらから。後半30分はこちらから。
【明日開催!】7月7日(火)19:30〜「YouTubeとNetflixは世界をどう変えるのか(遅いインターネット会議)」(ゲスト:明石ガクト)YouTubeやNetflixなどの映像配信プラットフォームの台頭により、エンターテイメントの世界は大きな変容を迎えています。今後求められる映像コンテンツとはなにか。私たちはそれをどのように受容し、楽しむことができるのか。それらのコンテンツは、文化の地図をどう牽引していくのか。 映像制作のプロフェッショナルである明石ガクトさんと、お話しします。生放送のご視聴はこちらから!
遅いインターネット会議 2020.6.2 1年延期になったオリンピックについて、もう一度だけ考え直す | 乙武洋匡
たかまつ ごきげんよう。本日ファシリテーターを務めます、たかまつななです。
宇野 評論家の宇野常寛です。
たかまつ 「遅いインターネット会議」、この企画では政治からサブカルチャーまで、そしてビジネスからアートまで、様々な分野の講師をお招きしてお届けします。本日は有楽町にある三菱地所さんのコワーキングスペースSAAIから放送しています。本来ですとトークイベントとしてみなさんとこの場を共有したかったのですが、当面の間は新型コロナウイルスの感染防止の為、動画配信と形式を変更しております。今日もよろしくお願いします。
宇野 もう2ヶ月ぶりのSAAIですよ。
たかまつ めちゃくちゃ綺麗な会場ですね。
宇野 このイベント「遅いインターネット会議」は3月から始まったのですが、まだ一度もお客さんを入れていません。本来ならここに100人くらいお客さんを入れてやろうかなと思っていたんですけど。ここ2ヶ月に至ってはリモートだったので、僕たちですらこの施設には入らずに実施していたんです。徐々に回復していって、夏ぐらいにはここにお客さんを入れてやれるかなという希望を持って再開してますので、皆さんよろしくお願いします。
たかまつ ここで開催できるようになるのが楽しみですね。
宇野 コロナウイルスが画期的な新薬とか宇宙からのメッセージで瞬間的に撲滅されたら来週からお客さんがバーッと来れますよ。だから皆さん、人類の勝利を楽しみにお待ち下さい。
たかまつ それでは本日のゲストの方をご紹介いたします。本日のゲストは作家の乙武洋匡さんです。
乙武 はい、よろしくお願いします。
たかまつ よろしくお願いします。
宇野 よろしくお願いします。
乙武 これ気づいたんだけど、(上の照明を見て)これって炊飯器の中身なんだよね。
宇野 そう、これ東京R不動産というサイトを運営しているOpen Aの馬場正尊さんがめっちゃいろんなところを凝ってやっていて。こういう細かいところも全部、リサイクル品がすごく多いんですよ。
たかまつ 電球のカバーが炊飯器になっているという。
宇野 このビル自体も有楽町の古いビルなんだけど、そこにある有り物を使っておしゃれにリノベしていくってコンセプトで作られてるんです。
乙武 へぇ〜、素敵。
たかまつ ちょっと興奮しますよね。
宇野 本当だったらここをお客さんで埋め尽くす予定だったんです。
たかまつ これはおしゃれですよね。勤務後にここに来て勉強するとか。
宇野 ただ、コロナで本来やれるはずのものがやれなかったということは僕らも一緒なんだけど、今日は僕らの100倍くらいダメージを負っているものの話をしましょう、ということで。
たかまつ さて、本日のテーマは「1年延期になったオリンピックについて、もう一度だけ考え直す」です。新型コロナウイルスによるパンデミックで2021年夏への延期が決まった東京オリンピック・パラリンピック。果たしてこの決定は正解なのか? 延期決定のプロセスで見えてきた問題とは何か? 21世紀のオリンピック・パラリンピックはどうあるべきなのか? 改めて議論していきたいと思います。ということで宇野さん、本日のこのテーマについてはいかがでしょうか?
宇野 今日のゲストの乙武さんにも参加していただいたんですが、5年前に僕らが作っている雑誌『PLANETS vol.9』では「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」といって、単にオリンピックに反対と言うのではなく、建設的な対案をぶつけることで現状のプランニングをポジティブに批判しようとしたんです。そこで、開会式のプランや、パラリンピックの新たな位置づけ、東京という街の開発計画など「僕らだったらオリンピックをこうやりたい」という夢の企画書を作りました。あれから5年経って、「さぁオリンピックはどんなものか」と待ち構えていたらまさかの延期だったんです。僕は、このタイミングがオリンピックを日本人がどう迎えていくのかを考える最後のチャンスだと思うんです。なので、もう一度乙武さんをお呼びして、じっくりオリンピックについて考えてみたいと思い、今日の会を企画しました。
開催延期までの決定プロセスを振り返る
たかまつ それでは早速議論に入っていきたいと思います。まず最初の議題はこちらです。「開催延期までの決定プロセスを振り返る」。今年3月下旬、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受けて、東京オリパラの開催延期が決定しました。乙武さんはこの延期決定をどのようにご覧になっているでしょうか?
乙武 3月末の3連休(編集部註:3月20日〜22日。オリンピック中止の発表は24日)でコロナウイルスの感染が一気に拡大したんですよね。ただ、このときには、オリンピックがどうなるのかがまだ決まっていなかった。
本来ならあの3連休の前に国も緊急事態宣言を出すべきだったし、東京都としても、ちゃんと危機を叫ぶようなアクションを取るべきだったけれど、やっぱりオリンピックのことがあったから後手に回ったんじゃないか、という声もあります。単純に政治判断のミスで後手に回ってしまったのか、きちんと考えた結果として遅らせようという判断だったのか、こればかりは真相がわからないのでちょっと批評のしようがないなというのが正直なところです。
これは結構いろんな人から批判をいただきそうな意見ですが、たとえ、後者の政治的判断によって感染拡大防止の為の一手が若干遅れたのだとしても、一旦、オリンピック・パラリンピックをどうするかをちゃんと決めようという判断をしたことは、僕としては結果的によかったんじゃないかなと思ってるんです。なぜなら政治って、結局は結果なので。
結果として中止ではなく、なんとか1年延期ということでまとめられたし、東京でもそこまでの医療崩壊を起こさずに、何とか感染者数は減少を辿れた。そういう意味では、僕としては、もし政治判断によるものだったとしたら評価しても良いんじゃないかなと思っているんです。
ただ1点、あまり納得がいっていないのが、IOCとの交渉の窓口です。今回のオリパラの主催都市は東京で、開催主体は組織委員会なわけですよね。でも、開催可否や延期するかどうかの交渉の過程で、IOCとの交渉窓口が安倍首相になっていたんです。それで「あれ? 国ってなんだっけ?」と思って。これまでのオリンピックって、東京都とオリパラの組織委員会が主体で、国はあくまでサポート役という立ち位置だったはずなのに、なぜこの決断には急に首相が入ってきたんだろう、というのは僕の中ではあまり整理しきれていない部分ですかね。
IOCが安倍首相とこんな話をした、とかコメントを出すことが多くなってきて、「あれ? 今の日本の窓口って安倍さんになってるの?」と。それは批判という意味ではなく、ただ不思議でしたね。
たかまつ わかりました、ありがとうございます。宇野さんはどのようにお考えですか?
宇野 今回のコロナ禍は基本的には国家の反撃フェーズだったわけです。この10年は例えば、GAFAのような巨大なプラットフォームのような国家以外のプレーヤーの力が相対的には強くなってきていたところだった。ところが今回のコロナ禍によって、「やはり政治じゃないと決められないことってあるじゃん」という当たり前のことにみんなが気づいたんだと思うんです。なので、このタイミングで世界中の国家権力が、もう1回自分のターンが来たと思ったはず。だから、今回のオリンピックの官邸の対応もその一環だと僕は思っています。
その上で今回のオリパラ延期について僕が何を思っているかというと、オリパラのことが問題になること自体が問題で、議論の順番を間違えてしまっているということです。単にパンデミックの抑制に対して最適な手を打てばよかったし、その上でどうすれば一番ダメージが少なくオリンピックを開催できるのか、感染拡大を防ぐためにはやめた方が良いんじゃないか、とか、何が最適かという議論をすればよかったと思うわけです。にもかかわらず、実際にはオリパラとコロナ対策、どちらを優先すれば支持率が維持できるかが天秤にかけられていた。
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