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記事 47件
  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第8回 富野由悠季とリアルロボットアニメの時代(前編)

    2017-08-14 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛の連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』、今回は富野由悠季(当時は富野喜幸名義)の初期作品が登場します。衝撃的な結末を迎えた『無敵超人ザンボット3』、そして、リアリズムを持ち込むことでロボットアニメに革命を起こした『機動戦士ガンダム』について語ります。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです /2016年9月2日に配信した記事の再配信です)。
    ロボットアニメにリアリズムを持ち込んだ『無敵超人ザンボット3』
     『マジンガーZ』で男子児童文化の主役に踊り出たロボットアニメは、様々なかたちで発展を遂げていきます。たとえば1974年放映開始の『ゲッターロボ』では合体ロボが登場します。合体ロボットの初出はおそらくは『ウルトラセブン』(1967年放映開始)に登場したキングジョーという宇宙人の合体ロボットだと思うのですが、『ゲッターロボ』は同じ永井豪を原作とする(作画を担当した石川賢のカラーが強い作品ですが)『マジンガーZ』の「乗り物としてのロボット」というコンセプトにこの「合体」という要素を取り入れたわけです。3機のマシンが合体し、空戦用には「ゲッター1」、陸戦用には「ゲッター2」、海戦用には「ゲッター3」というかたちで3種類の形態に変形するんですね。『ゲッターロボ』は、この変形がカッコいいということで人気を博したんですが、同時に「おもちゃできちんと再現できない」という壁にもぶつかりました。
     ここを突破したのが1976年放映開始の『超電磁ロボ コン・バトラーV』で、劇中のイメージに近い変形合体が再現できるおもちゃを作ることに成功して、これが大ヒットします。ちょっとオープニングの映像を見てみましょうね。はい、『コン・バトラーV』は5体の戦闘メカ、戦闘機や戦車が合体してひとつのロボットになります。『マジンガーZ』と同じ水木一郎さんが主題歌を謳っています。そしてやっぱり、内蔵している武器の名前をずっと叫んでいます(笑)。
     70年代半ばから後半にかけてのロボットアニメブームはおもちゃの進化とともに拡大して、ジャンルとして完全に定着します。基本的には30分の玩具コマーシャル的なロボットプロレスが反復されるのですが、ジャンルの拡大の中でその制約を逆手にとってアニメの表現の可能性を広げよう、という動きも出てきます。
     『コン・バトラーV』の翌年、1977年に『無敵超人ザンボット3』というアニメが登場します。この少し前に、手塚治虫の設立したアニメ制作会社「虫プロダクション(通称:虫プロ)」が倒産してしまい、その残党たちが設立したのが「サンライズ(当時は日本サンライズ)」という制作会社です。そのサンライズが初めての自社企画として制作したのがこの『ザンボット3』でした。さっそくオープニングを見てみましょう。

    ▲『無敵超人ザンボット3』
     『ザンボット3』はいとこ同士3人が合体ロボットに乗って戦うアニメです。ザンボットに乗る神勝平(じんかっぺい)・神江宇宙太(かみえうちゅうた)・神北恵子(かみきたけいこ)の3人とその家族を「神ファミリー」と呼ぶんですが、彼らは江戸時代に地球に逃げてきた宇宙人「ビアル星人」の子孫であるという設定です。なぜ逃げてきたかというと、ガイゾックという別の宇宙人に自分の星が攻め滅ぼされてしまったからです。逃げてきたはいいけど、そのうち地球もガイゾックに襲われる可能性が高いから、ビアル星人たちは300年のあいだに戦闘用ロボットを開発しながら戦いに備えていた。そんななかで、ついにガイゾックが地球侵略を開始します。そこで神ファミリーの3人は地球を守るために、ロボット「ザンボット3」に乗って戦います。
     ここまではいいでしょう。これまで見てきた作品に比べて多少複雑な設定かな、と思う程度だと思います。
     しかしここからが面白い。なんと、地球人たちは自分たちのために戦ってくれている神ファミリーを「お前たちが地球に逃げ込んできたせいで俺達が襲われるんだ」と言ってとことん迫害するんですね。
     神ファミリーからすると「地球を守るために戦っているのに、なんでいじめられなきゃいけないんだ」と思いますよね。もともと友達だった奴らからもいじめられて、石投げられるどころか家代わりの移動要塞に爆弾を仕掛けられたりするんです。ザンボット3が地球を守るために敵のロボットと戦っていると、お巡りさんがやってきて道路交通法違反で取り締まられたりもします。全23話の話ですが、15話くらいまでずっとそういう話で、非常に陰湿な印象を受けると思います。
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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 最終回 三次元化する想像力――情報化のなかで再起動するフューチャリズム【金曜日配信】

    2017-08-04 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛の連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』は今回が最終回です。これまでの講義のまとめとして、情報化がもたらした〈体験〉優位の時代に〈サブカルチャー=虚構〉に何ができるのかを考えます。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月22日の講義を再構成したものです)
    コンピュータによって「世界を変える」ことが再び可能になった
     こういった変化をもたらしているのはもちろん情報化です。そして皮肉なことに、情報化によって人々は、〈情報〉ではなく生の〈体験〉のほうに価値を置くようになっていった。この現状を象徴するのが、これまでの講義でもたびたび触れてきた「アニメからアイドルへ」というサブカルチャーの中心の移動です。
     今は映像や音声といった情報は溢れかえっている。だからこそ、直接会いに行って話しかけるとか、自分の一票でアイドルの人生が変わるとか、そういうことのほうに関心が移ってしまっているわけです。〈二次元〉から〈三次元〉への移行は、同時に〈情報〉から〈体験〉へということでもある。もうモニターのなかで何が起こっても人間は驚かないし、リアルな体験にしか人は価値を感じなくなっているんですね。モニターの中の他人の物語に感情移入するのではなく、自分が主役の自分の物語を味わうほうに人々の関心は移行している。技術の進化が、人間の欲望を変えてしまったわけです。
     そうなると、もうサブカルチャーに価値なんて無くなるんじゃないか、と思えてきます。それは残念ながら、半分は正解です。
     逆に言うと、この数十年が例外的にサブカルチャーの時代だったんです。60年代に革命を掲げたマルクス主義や学生運動が敗北していくと、「世の中を変えるのではなく自分の意識を変えよう」という考え方が世界的にも主流になっていく。「どうせ世界が変わらないのであれば、世界の見え方を変えればいい」――そのための手段としてサブカルチャーが浮上していったわけです。
     アメリカ西海岸であれば60年代後半以降にヒッピーやドラッグなどのカウンターカルチャーが流行し、その中の一ジャンルとして注目されたコンピューターカルチャーが伸びていった。これらの文化はやはり「世界を変えるのではなく、自分の意識を変える」という思想を持っています。日本であれば、この講義でお話ししたオカルト文化もそのひとつですね。
     しかし、この「自分の意識を変える」という思想が西海岸でカウンターカルチャーからコンピューターカルチャーへと受け継がれていくなかで、「サイバースペース」という新たなフロンティアが発見されます。ヒッピーの流れを汲む西海岸のギークたちは、サイバースペースを通じて資本主義をハックする力を得てしまった。それがGoogleやAppleといったシリコンバレーのグローバル企業なわけです。
     サイバースペースによって、「自分の意識を変える」ことをしなくても、世界そのものを変えることができるようになった。そうなったとき、サブカルチャーはその役割を終えつつある、ということだと思います。
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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第26回 ノスタルジー化する音楽・映像産業――〈情報〉よりも〈体験〉が優位になった時代に【金曜日配信】

    2017-07-28 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回はこれまでの講義のまとめとして、音楽・映像産業の現在を取り上げます。情報環境の変化は、人々のコンテンツ消費にどのような変化をもたらしたのでしょうか。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月22日の講義を再構成したものです)
    〈情報〉から〈体験〉〈コミュニケーション〉へ
     この講義ではこれまで、マンガやアニメ、アイドルを中心に取り上げてきましたが、ここからは最後のまとめとして「二次元から三次元へ」という話をしてみたいと思います。ひとつの鍵になるのは、これまで中心的には取り上げてこなかった「音楽」というジャンルの現在の姿です。
     今の音楽市場では、CDの売上がどんどん下がっています。これは音楽だけでなく、DVDや本もそうなのですが、人間はもう情報をパッケージしたソフトというものと手を切ろうとしています。テキストや音声や映像はすべてネットワーク上でクラウド化されて、スマホなどの端末からいつでもアクセスできる状態になっている。そうなると人間が物理的なパッケージに記録した情報を所有することに意味がなくなっていくわけで、当然レコードも売れなくなっていく。
     この変化は当然のことですが、これからの音楽産業を考える上では、「人々が音楽に求めるものが変わってきている」という認識を持つことも大事です。90年代後半をピークにCDの売上は右肩下がりなのですが、逆にゼロ年代以降に増えているものがあります。それは、音楽フェスの動員数です。
     人間って希少なものに価値を感じるんですね。僕が中学生〜高校生だった90年代までは、好きな音楽をいつでも好きなときに聴けるとか、好きな映画をいつでも観れるっていうのはすごく贅沢なことだったんです。CDはアルバムだと3000円以上するし、ビデオソフトは当時VHSという規格で高いものだと1万円以上しました。CDもビデオも高くて買えないからレンタルソフト屋がこれだけ普及したんですね。パッケージを買っていつでも好きなときに観れるようにするなんて、すごく贅沢なことだった。
     でも、今やテキストも音声も映像も、どこでも無料で鑑賞できる一番手軽なものになっていますよね。「蛇口をひねれば水が出てくる」というのとほとんど似たような価値しかない。砂漠のど真ん中のミネラルウォーターって無限の価値があるけれど、東京のど真ん中ではミネラルウォーターって100円ぐらいじゃないですか。音声や映像って昔は本当に「砂漠の中のミネラルウォーター」で、数千円払うのが当たり前だった。でも、今は蛇口をひねれば出てくるものでしかない。
     今はそれよりも生の〈体験〉のほうに希少価値を感じるようになっている。「あの日、彼氏と一緒にフジロック行ったな」「友達と一緒にアイドルの握手会に行って、◯◯ちゃんといい話ができたな」とか、そういう自分だけの〈体験〉を求めるようになっていて、それにしかお金の価値につかなくなっているわけです。
     〈体験〉のなかでも一番強いのは「人とのコミュニケーション」です。その点、アイドルって自分の憧れの存在と直接コミュニケーションできるし、「推す」ことによってその人の人生に貢献できる。アイドルってコミュニケーションとやりがいが結びついたものを売っているわけですが、「推す」という体験を盛り上げるために、ある種の蝶番として音楽が使われている。この形式は非常に強力で、だからアイドルがレコード市場の大部分を占めるようになったんです。
     その次に〈コミュニケーション〉の力が強いジャンルが、アニソンやボーカロイドです。こちらも単に音声データそのもの売るのではなく、キャラクターをコミュニケーションの対象にしてCDを売っているわけです。

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  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第7回 〈鉄人28号〉から〈マジンガーZ〉へ――戦後ロボットアニメは何を描いてきたか

    2017-07-24 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。 今回からはロボットアニメがテーマです。日本独特の「乗り物としてのロボット」が生まれた経緯を『鉄人28号』『マジンガーZ』という草創期のヒット作から紐解きます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年5月13日の講義を再構成したものです/2016年8月5日に配信した記事の再配信です)。

    戦後日本で奇形的な進化を遂げた「乗り物としてのロボット」
     今日はロボットアニメについて講義をしていきたいと思います。
     日本の戦後アニメーションにおいて、ロボットは中心的なモチーフでした。ロボットアニメの歴史を追うことによって、戦後アニメーションが何を描こうとしてきたのかが見えてくると言っても過言ではありません。ところが、日本の戦後アニメーションが描いてきたこの「ロボット」はちょっと変わっている。今日はそこから話していきたいと思います。

     ここに日本のアニメーションを代表する「ロボット」たちが並んでいます。
     鉄腕アトム、鉄人28号、マジンガーZ、ガンダム、そしてエヴァンゲリオン――みなさん、どうですか? 実はこの中に厳密には「ロボット」とはいえないものが混じっています。どれかわかりますか?
     正解は、鉄腕アトム以外全部「ロボット」ではありません。ほかは全部、「ロボット」ではなく人型の道具で、マジンガーZ、ガンダム、エヴァンゲリオンは「乗り物」です。実は戦後アニメーションは厳密な意味では「ロボット」をほとんど描いてこなかったんです。
     そもそも「ロボット」とは何でしょうか。実はロボットの定義とは、「人工知能をもち、自律的に動くもの」です。だから鉄腕アトムはロボットだけれど、リモコンで動く機械である鉄人28号はロボットではないし、ガンダムに至っては「人型の乗り物」にすぎません。逆に、現代では人型をしていなくても人工知能で制御されていればロボットだと分類されていますね。
     特にこの「乗り物としてのロボット」は日本アニメーションの発明です。要するに、戦後アニメーションは間違ったロボット観を普及させてしまって、その結果日本人のほとんどが「ロボット」とは何か、そもそも分からない状態になってしまっていると言っていいでしょう。ただこの「乗り物としてのロボット」が20世紀の映像文化やその周辺のサブカルチャーに与えた影響は絶大で、たとえば2013年に公開され話題になった『パシフィック・リム』というハリウッド映画では「乗り物としてのロボット」が出てきますが、これは監督のギレルモ・デル・トロが日本のアニメや特撮に強く影響を受けているからですね。
     本来は人工知能の夢の結晶だったロボットに対して、「乗り物としてのロボット」というまったく別の文脈を与え、奇形的な進化を遂げたのが日本のロボットアニメなんです。今日はその歴史を考えていきたいと思います。
     みなさんは「ロボット工学三原則」を知っていますか? アイザック・アシモフという20世紀のSF作家の『われはロボット』(早川書房、2004年)という有名な小説に出てくる、科学者がロボットを作る上で守るべき三つの原則で、こういう内容です。

    第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
    第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
    第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

     この原則は、人工知能が暴走して人類や社会に害をなしたり事故を起こすことのないように考え出されたものです。科学技術が飛躍的に進歩し、人類がコンピュータを生み出した1950、60年代には「科学の力で疑似生命を生み出すことができるんじゃないか?」という期待が膨れ上がっていました。そういう状況のなかで、SF小説でロボットがテーマとして扱われるようになります。そうなると必然的に「擬似生命を生み出せるというのは、人間が神になるってことじゃないか?」「ロボットが自由意志を持ったとき、本当に社会に有用なものになるのか?」「本当に人間にとって友好的な存在になるのか?」という問いも生まれていくんですね。人工知能の正の可能性、負の可能性の両方を検討するなかでSF小説が発展していったんです。
     ところが、ロボット工学三原則が代表する20世紀的な人工知能の夢というテーマは、少なくとも戦後のロボットアニメというムーブメントの中では主流になることはありませんでした。初の国産アニメーションである『鉄腕アトム』は、人工知能の夢を正面から扱った作品です。そこには、人間が人工知能を生むことによって生命を創りだすことができるのか、つまり「人間は神になることができるのか?」という問いや、ロボットの人権や政治参加といったテーマ、あるいは人工知能が独自の意志で人類に反乱を起こすといったエピソードが頻出します。少なくともその誕生時において、日本のアニメーションは正しく「ロボット」と向き合っていた。しかし、そんな時代はすぐに終わってしまいます。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第25回 〈近さ〉から〈遠さ〉へ――48Gの停滞と坂道シリーズの台頭【金曜日配信】

    2017-07-21 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、10年代半ば以降の48Gの停滞、坂道シリーズの台頭で見えてきた、今後のアイドルカルチャーの課題を語ります。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    ブレイク後のAKBに立ちはだかる「戦後日本の芸能界」という壁
     AKB48が停滞してしまった理由のもうひとつは、やはり「慣れ」でしょう。昔は多くの人が「人気投票でアイドルを選抜し、それにファンが盛り上がるなんて常軌を逸している」と思っていた。ところが、もうみんな慣れてしまったし、後発のアイドルたちもみな似たようなことをやるようになって、珍しさが薄れてしまった。アイドルの選抜総選挙という特異なシステムによってAKB48は注目を集めることができたけれど、今はそうではなくなっているわけです。
     それと、実は地方展開もあまりうまくいっていません。もちろんSKEもNMBもHKTも、他のアイドルよりははるかに売れているし動員力もある。でも結局のところ、指原莉乃が象徴するように、芸能界で生き残っていくには東京のメディアに出て、〈テレビタレント〉になるしかないわけです。昔ながらの戦後日本の芸能界の構造を、48グループは結局は崩すことができていない。地方グループの人気メンバーになるより、東京のAKBの不人気メンバーでいるほうが有利なんです。SKEなんかは、いつ崩壊してもおかしくない状態です。
     それと、規模の問題も大きくなっています。僕が好きになった頃は推しメンに100票入れるだけでも順位が変動するような状況だったんです。ところが今では総得票数が何百万票になっていて、1位の指原なんて24万票ですから、1人の人間が投じられる票数で状況を変えることが難しくなっている。そのことも停滞の原因になっています。まあ、これはゲーム設計の問題だから仕組みで対応できると思うのですが。
     総じて言えるのは、テレビの問題が大きいということです。たとえば最近の総選挙では中継の演出ひとつとっても仕掛けがすべてテレビバラエティ的になってきています。「にゃんにゃん仮面」とかね(笑)。
     〈ライブアイドル〉というジャンルを作ったのはAKBなんだけれど、ある程度の規模を維持しようと思ったら指原=〈テレビタレント〉にならざるをえず、結局は昔のテレビカルチャーに回帰していくしかない――だとしたら、これまでAKBがやってきたことは何だったのか、ということになります。
     さらに、秋元康も自信を失っていると思いますね。AKBはもともと高校野球とかと同じで、若い子たちが過酷なゲームを戦わされて、喜んだり傷ついする姿を僕らが見て楽しむというリアルドキュメントだった。でも、今のAKBは自然発生するドラマだけではもう人々の関心を引きつけることはできないのではないか、という認識がある。だからテレビバラエティ的な「仕掛け」が多くなっているのだと思います。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第24回 AKB48は〈戦後日本〉を乗り越えられたか【金曜日配信】

    2017-07-14 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、ゼロ年代末に社会現象となっていったAKB48の軌跡を振り返ります。〈ライブアイドル〉として出発したAKBが、やがてぶつかることとなった「壁」とは?(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    ブレイク期のAKBを象徴する「大声ダイヤモンド」「RIVER」
     AKBは大手レコード会社「キングレコード」に移籍し、やがてメジャーな存在になっていくのですが、同時に地方展開も始めています。その時期を象徴する曲が、2008年の「大声ダイヤモンド」です。
    (AKB48「大声ダイヤモンド」映像上映開始)


    (画像出典)
     MVの最初のシーンで階段を駆け上がっているのが、新しく名古屋にできた「SKE48」のセンター、当時小学5年生の松井珠理奈ですね。「これからAKBはマスメディアに打って出ていくぞ」「地方展開もしていくぞ」ということが象徴的に表現されています。MVの内容は、普通の女子高校生たちが様々な障害を乗り越えて学園祭での出し物を成功させていくというストーリーで、まさにAKBの売りである「親しみやすさ」という立ち位置が表現されています。
     このあたりから、秋元康の書くAKB48のシングル曲の歌詞には「僕」という一人称が増えていきます。アイドルソングとしては「私」という女の子の目線から相手の男の子のことを想う歌詞が王道なのですが、これはその逆になっている。これはどういうことかというと、要するに参加型のアイドルであるAKB48では、アイドルは疑似恋愛の対象であると同時に自己同一化の対象なんですね。アイドルとファンが一丸になってこの社会をのし上がっていく、そんな構造を歌詞で表現しているわけです。
     そしてこの時期AKB48は現場+インターネットで培った勢いをベースに、2009年くらいからテレビに出ていき、一気にメジャー化していきます。そのときに秋元康が勝負曲として彼女たちに与えたのが、「RIVER」という曲です。
    (AKB48「RIVER」映像上映開始)


    (画像出典)
     かつて1989年に秋元康は、美空ひばりの生前最後の曲である「川の流れのように」を作詞しています。ここでいう「川」は戦後日本の比喩なんです。美空ひばりは「昭和」を象徴する歌姫で、この曲の歌詞には「戦後っていろいろあったけれど、トータルに見れば経済発展したし平和になったし、良かったよね」という感慨が込められている。戦後日本という「川」に、「おだやかに身をまかせ」ることを肯定する曲なんですね。
     そして「RIVER」は、20年前の「川の流れのように」へのアンサーソングなんです。川=戦後日本を若者たちに立ちはだかる障壁に見立て、その古い時代を乗り越えていこう、という歌詞になっています。秋元康は、そういう歌詞の曲を、自分の勝負企画であるAKBに歌わせた。「この先、AKBは古いものを終わらせてどんどん拡大していくぞ」と宣言しているわけです。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第23回 〈メディアアイドル〉から〈ライブアイドル〉へ――情報環境の変化とAKB48のブレイク【金曜日配信】

    2017-07-07 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は90年代末〜ゼロ年代半ばのアイドルシーンを扱います。モー娘。やPerfume、AKB48のブレイクを、世相や情報環境の変化と絡めて論じます。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    歌謡曲的なアプローチを復活させたモーニング娘。
     しかしそんななかで、90年代後半に出てきて時代を席巻したのが、つんく♂がプロデュースするモーニング娘。とハロー!プロジェクトでした。モーニング娘。はテレビ東京の「ASAYAN」というバラエティ番組から出てきたのですが、やっていることは「夕やけニャンニャン」とほぼ同じで、オーディションの過程からすべてテレビで放映していく、〈楽屋〉を意図的に半分だけ見せるというものでした。半分虚構、半分現実みたいなもので、ある程度作っているところも当然あります。
     今って新しいアイドルが出てくると、みんながその人のTwitterをフォローしてどういう人間かを見ますよね。そういうものが、この当時はまだない。カメラがオーディションに入っていって、アイドル(候補)の表情だけを見せて、親近感を演出したわけです。モーニング娘。はそういった〈楽屋〉を半分だけ見せるという手法を使って人気を得ていったという意味では、ネット以前の最後のアイドルだといえます。
     それと、モーニング娘。は歌番組ではなくミュージック・ビデオ(MV)を重視していました。当時すでに歌番組の衰退が始まっていて、プロモーションツールとしてMVが重要になっているんです。
     もうひとつ特徴的だったのは、つんく♂が明確に「70年代、80年代の歌謡曲を今風にアレンジして復活させたい」と言っていたこと。代表曲である「LOVEマシーン」の歌詞を見るとそれがすぐにわかります。
    (モーニング娘「LOVEマシーン」映像上映開始)

    (画像出典)
     これは、当時日本が右肩下がりになり始めていて「このままズルズルいくとヤバいよね」という空気がある中で、もう一回社会を勇気づけようというコンセプトの曲でした。〈自分の物語〉ではなく〈社会の物語〉を歌うというのは非常に歌謡曲的なアプローチですね。だから「LOVEマシーン」は若者だけでなく中高年男性などの幅広い世代に受け、大ヒットになりました。僕より少し上の40歳くらいの人は、会社の忘年会の出し物で無理やりこれを踊らされた人がすごく多いと思います。
     僕は「スッキリ!」という朝のワイドショー番組にコメンテーターとして出ていますが、毎回、芸能人の内輪ネタクイズをやっていて、まったく興味が持てないんです。ああいったものは「世界の人間はすべてテレビを見ていて、テレビ芸能人が好きなはずだ」という謎の前提をもとに作られています。僕はそもそもバラエティ番組を見ないから基本的に芸人やタレントを知らないですし、ドラマは好きだし役者の演技に興味はあるけど、プライベートには興味がない。普段からテレビをつけっぱなしにしていて、バラエティをだらだら見る習慣のない人にとって、芸能人の芸はわかるけれどもキャラクターはわからない。だからああいう芸能界内輪トークみたいなものばかり見せられると冷めますよね。今のテレビの製作者はそういうことをまったくわかっていません。
     80年代のテレビバラエティが芸能界のタレントたちの内輪話、楽屋ネタばかりをやっていたのは視聴者に親近感を与えるためで、しかもそういう手法は当時としてはトリッキーで斬新だったんです。しかし、今のテレビ製作者は、「テレビ=芸能界の内輪話をするもの」だと思いこんでしまった。80年代のテレビバラエティがどういうロジックで作られているものだったのかという前提を知らないまま、製作者になってしまったんですね。今ではテレビは新しいお客さんを作ることに失敗していて、最初からテレビが好きなお客さん以外は楽しめないものになってしまっている。これは非常に悲しいことですね。

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  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第6回 坊屋春道はなぜ「卒業」できなかったか――「最高の男」とあたらしい「カッコよさ」のゆくえ

    2017-07-03 07:00  
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    ご好評をいただいている特別再配信、今回は本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』です。『クローズ』『頭文字D』を題材に、男性向けマンガが切り拓いた新境地とその限界について論じます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年4月29日の講義を再構成したものです/この記事は2016年7月22日に配信した記事の再配信です)。
    宇野常寛が出演したニコニコ公式生放送、【「攻殻」実写版公開】今こそ語ろう、「押井守」と「GHOST IN THE SHELL」の視聴はこちらから。
    延長戦はPLANETSチャンネルで!

    『クローズ』とヤンキーマンガのカッコよさ
     さて、前回までは「週刊少年ジャンプ」を中心に少年マンガと戦後日本人の「成熟」感、とりわけ消費社会下の男性性の問題について考えてきました。
     そしてここからは少し角度を変えてこの問題を掘り下げていきたいと考えています。その上で僕がとても重要だと考える作品があります。それは高橋ヒロシの『クローズ』です。いわゆる「ヤンキーもの」のマンガですね。1990年から1998年まで「月刊少年チャンピオン」で連載されていた全26巻のちょっと長い作品です。最近は『クローズZERO』(2007年)で小栗旬、『クローズEXPLODE』(2014年)で東出昌大の主演で話題になったので、知っている人も多いと思います。
     やたらめったらヤンキー高校生が出てきて、延々と派閥抗争を繰り広げる例のアレですね。舞台は鈴蘭高校という、とある地方都市の底辺校です。この鈴蘭高校は「カラスの学校」と呼ばれる不良たちの掃き溜めで、ここでは生徒の大半を占める不良少年たちがいくつかの派閥に別れて、高校の支配者の座をめぐって十年以上ものあいだ抗争を繰り返しています。そして鈴蘭周辺の高校の不良少年グループもこの抗争に外側から干渉し、ほとんど戦国時代のような様相を呈しています。しかも抗争が激しすぎて、この鈴蘭高校は史上まだひとりも校内の派閥を統一した「番長」が生まれていない。こうやって改めて紹介するとなんだか笑ってしまいますが、僕はこのマンガこそが、これまで議論してきた少年マンガと戦後の男性性の成熟の問題を、決定的なかたちでえぐり出してしまっていると考えています。そしてこの『クローズ』はヤンキーマンガに革命を起こしたと言われています。
     では、この『クローズ』のどこがすごいのか。
     まず、このマンガには「大人」がまったく出てきません。それまでの70、80年代のヤンキーマンガは「大人社会へ反抗する」ということを中心的なモチーフにしていました。不良は大人社会に対するカウンター的な存在だったわけです。
     ところが90年代の『クローズ』になると、「大人への反抗」というモチーフがなくなってしまうんです。第1話で主人公が転入手続きをするシーン以外、先生が出てこない。ほかに働いてる普通の大人の人も、OBのおじさんがひとり、たまに顔を出すだけでほとんど出てこないんです。そして次に「女子」がまったく出てこない。
     このふたつはとんでもないことです。要するに『クローズ』の世界には「超えるべき父」も「守るべき女」もない。かつてのように目指すべき大人や、超えるべき「父」は、もうこの世界には存在していない。かといって「女の子をゲットする」ことで男の証を手に入れようとしても、この世界には「女の子」がいないのでそれも不可能です。
     つまり『クローズ』では、昔のような「強くたくましくなり、父を超えて女を守る」という従来のマチズモが信じられなくなった時代のヤンキーもののマンガだったと言えます。その結果、大人社会へ反抗するのではなく不良少年同士の抗争だけが描かれることになった。
     さて、その『クローズ』の物語は主人公の坊屋春道が鈴蘭高校に転校してくるところからはじまります。この主人公の坊屋春道のもつ「カッコよさ」こそが、この作品のメッセージそのものだと言えるでしょう。
     その春道が第1話で「お前は何者だ?」と尋ねられます。そこで春道はこう返すんですね。「オレはグレてもいねーしひねくれてもいねぇ! オレは不良なんかじゃねーし悪党でもねえ!!」と。ヤンキーマンガの主人公がこれを言っちゃうのはすごいですね。大人社会への反抗としての不良、ヤンキーというものがこの時点で全否定されている。
     この時点で作者の高橋ヒロシが、かつてのヤンキーマンガを捨て去り、新しいヤンキーマンガを始めようとしていることが明確にわかります。不良でもなければ悪党でもない、この少年をヤンキーマンガの主人公にしたのは、当時としては画期的でした。では坊屋春道というあたらしいヤンキーがどんな男の「カッコよさ」を示していったのか、見ていきましょう。

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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第22回 〈テレビアイドル〉の最終兵器としてのおニャン子クラブ【金曜日配信】

    2017-06-23 07:00  
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    本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、80年代半ばのおニャン子クラブの登場から、「歌謡曲からJ-POPへ」移り変わるなかで拡散していく90年代のアイドルシーンを振り返ります。 (この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)

    おニャン子クラブの衝撃とアイドルブームの終焉
     角川三人娘が活躍したのとほぼ同時期、80年代半ばに大ブームを起こしたのが、秋元康プロデュースのアイドルグループ「おニャン子クラブ」でした。
    (おニャン子クラブ「セーラー服を脱がさないで」映像上映開始)

    (画像出典)
     知っている人も多いと思いますが、AKB48の原型となったのがおニャン子クラブです。ほとんど素人に近いような女の子が何十人もいるという形態ですね。まあ、身も蓋もないことを言えば人の好みは様々ですが、何十人か揃えておけば、好みのタイプの女の子が一人ぐらい見つかるでしょ、ということで大人数になっているんですが、それ以上に重要なのはこの「普通さ」「素人っぽさ」です。それが「作り込まれていない本物」感として人々を惹きつけたわけです。
     おニャン子クラブは、「夕やけニャンニャン」というフジテレビのバラエティ番組から生まれています。歌番組ではなく「バラエティ番組」、というところがひとつの特徴ですね。当時フジテレビは非常に勢いがあって、「オレたちひょうきん族」があって「笑っていいとも!」があって、そしてこの「夕やけニャンニャン」がある。これらの番組の共通点は、「内輪感」です。楽屋でタレントかアイドルがしている芸能界の内輪話があえてそのまま放送されていた、というところが画期的でした。
     普通に考えたら「お前たちの内輪話なんて知らないよ」ということになりそうですが、そうではないんですね。東京の芸能界で楽しそうにやっている人たちの内輪話を眺めることで、視聴者は一見遠くにある東京の芸能界を身近に感じることができる。自分もテレビ番組のなかに入っているような錯覚が感じられるわけです。これは当時大流行した手法でした。「笑っていいとも!」とかを毎日見ていると、自分もその一員になったような気がしてきますよね。いまのテレビのバラエティ番組って、当たり前のように芸能人同士がキャラいじりとか内輪話をたくさんしていますが、あれはこの頃生まれた手法なんです。
     80年代当時、まだそれほどグローバル化も進んでいないなかで、一番かっこいい世界は東京のメディアの「ギョーカイ」でした。出版、放送、広告ですね。比喩的に言えば「東京でテレビの仕事をしている」というのが一番かっこいい時代だったから、テレビ業界人たちが楽しく集まって内輪トークをしているのがすごく輝いて見えたわけです。たとえば当時の「ギョーカイ」のスターとして糸井重里がいますが、彼が作っている雑誌の投稿欄に、一般読者と同じ感じで糸井重里が自分の意見を載せたりするんです。糸井重里は編集する側なのに、ですね。そういった手法によって、「糸井さんと僕たちは友達なんだ」という感覚を一般読者にも感じてもらうような仕掛けになっていた。
     「夕やけニャンニャン」は、アイドルをオーディションで選んでいく段階すらもテレビで放映してしまっていた。素人に近いような、どこにでもいそうな女の子たちがアイドルデビューしていく様子を見守るわけです。彼女たちはとんねるずとかと一緒に、なんでもない他愛のない内輪話をしているんですが、その楽しそうな様子を観ることでみんながアイドルたちのことを好きになっていく。あえて〈楽屋〉を半分見せることによって、視聴者の親近感を得る。これが80年代のフジテレビ的な演出手法の特徴で、その後のテレビバラエティの演出のひとつの大きな流れになっていきます。

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  • 【特別再配信】京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第5回 補論:少年マンガの諸問題

    2017-06-19 07:00  
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    「特別再配信」の第10弾は『京都精華大学〈サブカルチャー〉論講義録』をお送りします。今回は、前回までの少年マンガ論の補論です。部数的なピークを過ぎた「週刊少年ジャンプ」が、自身を題材にすることで、ある種の限界を露呈してしまった『バクマン。』。そして、高橋留美子の『うる星やつら』の世界、ラブコメの母胎的な箱庭を相対化した、押井守の映画『 ビューティフル・ドリーマー』について取り上げます(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年4月29日の講義を再構成したものです)。
    宇野常寛が出演したニコニコ公式生放送、【「攻殻」実写版公開】今こそ語ろう、「押井守」と「GHOST IN THE SHELL」の視聴はこちらから。
    延長戦はPLANETSチャンネルで!

    『バクマン。』の七峰くんは本当に「悪」なのか?
     さて、ここまで「週刊少年ジャンプ」を中心に少年マンガについて考えてきました。「少年ジャンプ」の歴史はこの国の消費社会の歴史でもあり、とくにその中で「成熟」や「老い」という問題が作家や編集者の意図を超えたところで現れてしまっているところがあります。
     ただ、僕が最近強く感じるのは現在のジャンプは、この授業で取り上げたようなかつてのものからはかなり変わりつつあるように思います。たとえば最近『バクマン。』の映画版がヒットしていましたよね。この作品は『DEATH NOTE』を送り出した大場つぐみと小畑健の原作、作画コンビが自分たちの体験を素材にしたマンガで、主人公はマンガ家を目指す二人組の少年です。舞台はそのものずばり集英社の少年ジャンプ編集部で、彼らは次々と交代する担当編集者と格闘し、そして毎週の読者アンケートの結果に一喜一憂しながら作家として一本立ちしていく。なかなかよく出来た作品で、二人の少年がプロデビューしていく過程がそれこそ「少年ジャンプ」のバトルマンガのようにスピーディーでメリハリの効いた展開で描かれています。マンガ家の世界も分かりやすく紹介されていて、知識欲も程よく満たしてくれる。しかし、端的に言ってこれって「ジャンプ礼賛マンガ」になってしまっている感は否めない。
     たとえば、主人公たちの最大の「敵」に設定されるのは、「七峰くん」という同世代の少年マンガ家です。彼は外部スタッフを活用して組織的に、そして集合知的に作品を作り上げていくスタイルを採用しているのだけど、なぜか『バクマン。』では彼のスタイルは「卑怯なこと」であるかのように描かれてしまっている。
     でも、僕には考えれば考えるほど、七峰くんのどこが悪なのかさっぱり分からない。っていうか七峰くんのやっていることって、「マガジン」の手法ですよね。もっと言ってしまえば樹林伸の手法です。彼は外部のスタッフを含めた集団によるマンガ制作のノウハウを確立しようとした。しかしジャンプは作家主義を貫いてきたことにプライドを持っている。だから七峰くん=マガジン的な手法はすごく嫌いなんですね。要するにライバル雑誌のノウハウを「悪」として描くことでこの作品は成立している。これはちょっとかっこ悪いんじゃないか、というのが僕の正直な感想です。「自分たちの歴史最高!」とか「僕らが今まで積み上げてきたものをリスペクトしなさい」って自分で言うのってカッコ悪くないですか?

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