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記事 28件
  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』終章 「エフェクトの美学」の時代に【毎月配信】

    2018-03-20 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。技術が「ジャンル」として確立されるには、そこに精神が宿らなければならない。最終回となる今回は、特撮を文化史として見つめ直してきた本連載の意義を改めて振り返ります。
    終章 「エフェクトの美学」の時代に
    技術に宿る精神
     特撮(特殊撮影)であれ、アニメーションであれ、もとは技術の名前である。この技術が「ジャンル」として確立されるには、そこに精神が宿らなければならない。そして、ジャンルの精神は一つの魂の独白からではなく、複数の魂の対話から生み出される。とりわけ特撮の「精神」は、円谷英二からその息子世代への伝達を抜きにして語ることはできない。
     ふつう世代論はもっぱらその世代に固有の体験を問題にする。それが書き手の私的体験と接続されると、しばしば他の世代にとっては退屈極まりない平板なノスタルジーに陥る(例えば、小谷野敦の『ウルトラマンがいた時代』はその典型である)。それに対して、私はむしろ世代と世代のあいだ、すなわち先行世代から後続世代への文化的な相続=コミュニケーションこそが重要だという立場から論を進めてきた。第三章で述べたように、もともと玩具作家であった円谷英二は、『ハワイ・マレー沖海戦』という「模型で作った戦争映画」において、ミニチュアの戦艦を戦時下の宣伝技術として利用した(その意味で、おもちゃの政治性は馬鹿にできない)。そして、ウルトラシリーズの作り手たちはこの「父」の遺産を改変しながら「子供を育てる子供」として巨大ヒーローと怪獣のドラマを作り出したのだ。
     もとより、二〇世紀の総力戦体制とはエンターテインメントを含むあらゆる領域を戦争に関わらせ、戦争の外部を抹消するシステムであり、円谷英二の特撮も結果的にその一翼を担った。ただ、ここで重要なのは、映像のモダニズム的実験としての特撮に挑戦した円谷の仕事が、大人のプロパガンダだけではなく子供のエンターテインメント(おもちゃや模型)とも接していたことである。アメリカのレイ・ハリーハウゼンやジョージ・パルの仕事が示すように、本来ならば特撮が子供向けのエンターテインメントに傾斜する必然性はない。にもかかわらず、日本の特撮の「精神」は子供を触媒として成長し、やがてウルトラマンという不思議な巨人を生み出した。この子供への傾斜にこそ戦後サブカルチャーの特性がある。
     私はここまで、戦前と戦後のあいだのメッセージ的不連続性とメディア的連続性に注目してきたが、それはウルトラシリーズという「子供の文化」に照準したことと切り離せない。大人の世界においては、戦後の日本は戦前の日本を反省し、それとは別の人格に生まれ変わらなければならなかった。しかし、円谷以来の子供向けのサブカルチャーは、戦前と戦後の溝を飛び越えて、軍事技術を映像のパフォーマンスとして娯楽化し、戦争の快楽を享受し続けた。特にウルトラシリーズの作り手たちはメッセージの次元では「戦後」の民主主義を左翼的に擁護しつつも、メディアの次元では「戦時下」のプロパガンダを右翼的に再現した。この種のイデオロギー的混乱は、特撮だけではなくアニメにも及ぶだろう(第四章参照)。子供という宛先は、大人向けの文化とは別のアイデンティティの回路を作り出した。しかも、その原点はやはり戦時下にまで遡ることができる。
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  • 【書籍化記念・無料公開】宇野常寛「若い読者のためのサブカルチャー論講義録」第3回 震災後の想像力とアニメの未来

    2018-03-19 07:00  

    本メールマガジンで連載していた宇野常寛の『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 』が、3月13日(火)に『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』として発売されました! 刊行を記念して毎週月曜日に全4回にわたり、書籍の一部を公開します。第3回のテーマは「震災後の想像力とアニメの未来」です。オタクがメジャー化し、国内アニメのトレンドがセカイ系から日常系へと移り変わるなかで起きた震災。「終わりなき日常」の破壊がもたらされ、「世界の終わり」が終わった後にアニメーションは何を描くべきなのでしょうか。※配信記事一覧はこちら。
    【書籍情報】宇野常寛『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』発売決定!紙 (朝日新聞出版) 3月13日(火)発売/電子(PLANETS)近日発売Amazonでのご購入はこちらから。
    オタクのカジュアル化と『電車男』のヒット
     ここまでは、いわゆるセカイ系から日常系への国内
  • 【セール情報】本日限定! 『母性のディストピア』Kindle版がほぼ半額の1,499円です

    2018-03-16 07:30  


    昨秋刊行された宇野常寛の『母性のディストピア』Kindle版が、本日限定でセール価格になりました! 通常2,999円の本書が、本日2018年3月16日(金)23時59分まで、ほぼ半額の1,499円でお求めいただけます。お得な機会をお見逃しなく!
    【書籍情報】 

    宮崎駿、富野由悠季、押井守――戦後アニメーションの巨人たちの可能性と限界はどこにあったのか?
    宮崎駿論4万字、富野由悠季論10万字、押井守論10万字の作家論を中核に、アニメから戦後という時代の精神をいま、総括する。
    そして『シン・ゴジラ』『君の名は』『この世界の片隅に』――現代のアニメ・特撮が象徴するさまよえるこの国の想像力はどこにあるのか?
    『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』とその射程を拡大してきた著者の新たな代表作にして、戦後サブカルチャー論の決定版。
    限定価格 1,499円(通常の50%オフ! 本日23時59
  • 宇野常寛『母性のディストピア EXTRA』第4回「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション(1)

    2018-03-16 07:00  
    550pt

    2017年に刊行された『母性のディストピア』に収録されなかった未収録原稿をメールマガジン限定で配信する、本誌編集長・宇野常寛の連載 『母性のディストピア EXTRA』。今回からのテーマは「空気系」です。物語から「目的」の排除とホモソーシャリティの導入した『ウォーターボーイズ』を中心に、その後の作品群について論じていきます。 (初出:集英社文芸単行本公式サイト「RENZABURO[レンザブロー]」)
    【お知らせ】
    本日限定で『母性のディストピア』Kindle版がセール中です!通常価格より50%オフの1,499円になりました。期間は本日2018年3月16日(金)23時59分まで。お見逃しなく!
    「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション
    1 「空気系」と萌え四コマ漫画
    「空気系」とはインターネットの漫画、アニメなどのファンコミュニティ上で用いられる、特定の物語形式を指す造語である。インターネット発の造語ということで、まずはWikipediaを参照してみよう。

    空気系(くうきけい)とは、主にゼロ年代以降の日本のオタク系コンテンツにおいてみられる、美少女キャラクターのたわいもない会話や日常生活を延々と描くことを主眼とした作品群。日常系(にちじょうけい)ともいう。これらは2006年頃からインターネット上で使われ始めた用語である。(2011年3月7日参照)

     漫画ジャンルは今や日本の出版産業を事実上支える巨大産業に成長している。その産業としての肥大はコンテンツの多様化とシーンの拡散をもたらし、ゼロ年代と呼ばれた先の十年は「漫画」というジャンル全体を視野に入れた状況論が難しいという認識が共有されていた。そんな中で、数少ない明確な変化が、「萌え四コマ漫画」というジャンルの勃興だったと言える。
     90年代以前から性的な魅力をアピールしたいわゆる「萌え」系のキャラクターデザインを用いた四コマ漫画は散見されたが、ジャンルとしての勃興とその後の定着の端緒となったのは1999年の『あずまんが大王』のヒットだろう。あずまきよひこによる同作は、ある高校に通う美少女キャラクター数名のグループの、他愛もない日常生活をコメディタッチで描きオタク系文化の男性消費者たちの大きな支持を受けた。この『あずまんが大王』のヒットを契機に、オタク系の男性消費者をターゲットにした類作=萌え四コマ漫画は大きく隆盛した。2003年の『まんがタイムきらら』創刊を契機に専門誌も複数刊行されるようになった。専門誌については漫画雑誌という制度自体の斜陽もあって休刊するものも散見されたが、単行本市場における萌え四コマ漫画は先の十年を通じて完全にジャンルとして定着したと言ってよいだろう。

    ▲『あずまんが大王』
     もちろん、萌え四コマ漫画=空気系という等式が成立しているわけではない。しかし、この十年主にテレビアニメ化などのメディアミックスを経て、オタク系男性消費者に強く支持された萌え四コマ漫画を列挙すると、萌え四コマブームと「空気系」ブームが限りなくイコールであることが分かるだろう。美水かがみ『らき☆すた』、蒼樹うめ『ひだまりスケッチ』、かきふらい『けいおん!』――これらの漫画作品はいずれも先の十年において新房昭之、山本寛といった若手演出家、あるいはシャフト、京都アニメーションなど有力スタジオによって映像化され、国内のテレビアニメシーンを牽引した作品となっている。そして、これらの作品はいずれも前述の――あくまでインターネット上のファンコミュニティから自然発生した造語なのでその定義は曖昧なのだが――「空気系」の特徴を有している。
     そこで描かれるのは男性の登場人物が(ある程度)排除された女性だけの共同体であり、そしてそこで展開する物語は達成すべき目的や、倒すべき敵の存在しない日常生活上のエピソードだ。そして、これらの作品はその状態を幸福なものとして描き、読者の共感を誘引している。
     萌え系と呼ばれるオタク系作品が広義のポルノグラフィとして機能している側面に注目したとき、この「空気系」の隆盛は非常に興味深い論点を孕んでいる。90年代末の美少女(ポルノ)ゲームブームを参照すると明らかなように、従来の「萌え」は消費者の感情移入の対象となる男性主人公が設定されており、この男性主人公がヒロイン(たち)に愛されることで疑似恋愛的な快楽をもたらすという回路が採用されてきた。そのため、この種の作品における男性主人公は中肉中背で無個性的な人物に設定され、消費者が自身のステータスと照合して感情移入に失敗してしまうことを事前に回避する方法が頻繁に採用されていた。しかし、空気系作品には美少女(ポルノ)ゲームにおける男性主人公のような「視点」を担うキャラクターが存在していないのだ。
     もちろん、空気系作品はそれ以前の「萌え」作品と同等に、あるいはそれ以上にポルノグラフィとして消費されており、制作者の多くがそのことに自覚的であり積極的にその快楽を追求していると言ってよい。つまり、空気系作品は「萌え」=ここではキャラクターを介した女性所有の快楽を追求した結果、視点を担う男性主人公を消去してしまっているのだ。そして空気系におけるこの視点=男性主人公の消去は、物語における目的の消去と必然的に重なり合っている。
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  • 池田明季哉 "kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第二章 ミニ四駆(1)「皇帝(エンペラー)は地平(ホライゾン)に辿り着いたか」

    2018-03-15 07:00  
    550pt

    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。トランスフォーマーを扱った第一章に続き、第二章ではミニ四駆を取り上げます。黎明期から第一次ブームを振り返り、漫画『ダッシュ!四駆郎』とその登場マシン「皇帝(エンペラー)」に託された成熟のイメージを読み解きます。
     おもちゃ、特に理想のイメージを象ったフィギュアの歴史には、子供が目指すべき理想の成熟のイメージが色濃く表れている。この連載ではその中でも、80年代〜90年代、20世紀末に日本で流行したいわゆる「ボーイズトイ」と呼ばれるおもちゃ群のデザインをヒントに、新しい男性的な美学「kakkoii」について考えてきた。
     ここまで、84年にスタートし、おもちゃ主導で展開したボーイズトイの金字塔とも言えるトランスフォーマーについて、日本のプロダクトをアメリカ向けに展開する際のブランドであったというその出自に注目し、それゆえに日本的でもアメリカ的でもある新しい主体のあり方についての想像力を宿したことを指摘した。
     トランスフォーマーは、自動車であるときには乗り物でありながら、変形すれば異星の機械生命体として乗り込むことができない存在になる。これによって、乗り手という主体に従う身体の延長であった自動車は、乗り手とコミュニケーションを行うことで乗り手を成熟に導く新しい想像力へと変化した。いわばトランスフォーマーとは、「乗り込めない乗り物」という矛盾をはらんだ存在であり、さらに言えばコミュニケーションを通じて主体が乗り手と入れ替わる「魂を持った乗り物」であったのである。
     今回は、トランスフォーマーとほぼ同じ時代に展開しながら、「自動車」というモチーフを別の形で発展させたおもちゃについて論じることで、この「魂を持った乗り物」という概念とその美学について掘り下げていきたい。
     そのおもちゃとは、タミヤ社のミニ四駆である。
    35年続くミニ四駆という「模型」
     ミニ四駆は、タミヤ社から発売されている、走行機能を持った模型の一種だ。モーターとバッテリーを搭載して四輪駆動で自走する。ステアリング機能は持たず、バンパーに取り付けられたローラーを利用して、専用サーキットの壁に沿って走行する。サーキットを走行させて速度を競うレーシングホビーとして楽しむのが基本的な遊び方となる。マシンを一旦スタートさせれば操作することができないので、事前のカスタムやコースに合わせたセッティングが、比重という意味では実際のモータースポーツ以上に重要になる。
    ミニ四駆は80年代初期にはじまり、35年以上支持されている長寿ブランドである。そのためその歴史とデザインの流れを整理しながら、個別のデザインとそこに宿った成熟にまつわる想像力について掘り下げていきたい。
     ミニ四駆はその歴史の中で、三度のブームを迎えたと言われている。区分についてはいくつか議論もあるのだが、この連載では1982年からの「黎明期(ミニ四駆誕生〜レーサーミニ四駆)」、1986年代からの「第一次ブーム(ダッシュ!四駆郎)」、1994年からの「第二次ブーム(爆走兄弟レッツ&ゴー)」、そして2012年からの「第三次ブーム(ジャパンカップ復活以降)」に分けて扱っていく。
    「実車の模型」から「RCの模型」へ
     ミニ四駆を開発しているタミヤ社は、もともと戦後に設立された建築材の加工会社であったが、60年代からはその技術を活かした精密なプラスチック製のスケールモデルメーカーとして知られるようになった。自動車や戦車といった実在の工業製品を、徹底的な取材に基づき一定の縮尺で精密に再現したタミヤ社の商品は、世界的にも高く評価されている。

    ▲タミヤ 1/12 ビッグスケールシリーズ No.32 ホンダ RA273。1967年に発売されて以来、幾度となく再販されている。大きなスケールを活かして、徹底的な取材に基づいて実車を精緻に再現した傑作キット。
     70年代からは動力模型にも力を入れており、無線操縦による模型自動車、いわゆる「RC」「ラジコン」のメーカーとして、こちらも世界中で人気を博している。
     80年代に登場したミニ四駆は、タミヤ社の製品の中では比較的新しいカテゴリーということになる。現在のタミヤ公式ウェブサイトのメインナビゲーションの項目は最も左にある「新製品」から「スケール」「RC」「ミニ四駆」の順番で並んでおり、これは時系列であると同時に、タミヤというメーカーが持つアイデンティティのプライオリティをも示していると見ることもできるだろう。

    ▲2018年現在のタミヤ公式ウェブサイト。
     現在でこそメインナビゲーションの一角を占めてさえいるミニ四駆だが、発売された当初はあくまでRCの廉価版という位置付けだった。「ミニ」四駆という名称は、当時人気を博していた四輪駆動のオフロード用RCモデルが実際の自動車に近い本格的な構造を持った比較的高価な商品であったことに対して、樹脂成形のパーツを中心とした簡素な構造を持った安価な商品であることを印象付けるために選ばれたものだった。
     最初期のミニ四駆は、基本的には実車をモチーフとした「走る模型」であった。1982年に発売された最初の「ミニ四駆」は、「フォード・レインジャー」と「シボレー・ピックアップ」の2台だったが、この頃のミニ四駆は安価な模型として相応のディフォルメがされてはいるものの、基本的に実車を精密に再現しようという方向性でデザインされていた。その後1984年には、「コミカルミニ四駆」という名称で、実車をモチーフにしながらも強いディフォルメを加えたモデルが続く。この段階では、まだサーキットを用いた本格的なレースは想定されていなかった。
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  • 長谷川リョー『考えるを考える』 第5回 美学者・伊藤亜紗の身体論にみる、「分かる」と「分からない」の地平

    2018-03-14 13:10  
    550pt
    ※本日(3月14日)7:00に配信した記事に誤りがありました。 ご購読者の皆様には心よりお詫び申し上げます。 訂正した記事を再度配信いたします。
    編集者・ライターの僕・長谷川リョーが(ある情報を持っている)専門家ではなく深く思考をしている人々に話を伺っていくシリーズ『考えるを考える』。前回は株式会社コモンセンス代表・望月優大さんに、なぜ一貫して社会問題にコミットし続けるのかをお伺いしました。今回は、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』などの著書で知られる東工大の美学者・伊藤亜紗さんにお話をお聞きします。視覚障害・吃音・四肢切断など、障がい者へのインタビューを中心に新たな身体論の地平を拓く研究をされています。昆虫学者を目指していた少女時代からなぜ、美学者になることになったのか。究極的には完全には分かり得ない、他者の身体にいかにアプローチしているのか。「“身体のままならさ”と付き合っていくためのエネルギーを与えたい」と語る伊藤さんの身体論から、「分かる」と「分からない」の地平が浮かび上がってきました。
    「複雑で分からないから信用できる」生物学から美学へ研究対象が移った理由
    長谷川 伊藤さんは美学を専門に研究されているとのことですが、もともとは生物学者を志されていたとお伺いしました。両学問の間には少なからぬ距離があると感じるのですが、どういった経緯でいまの研究にたどり着かれたのでしょうか?
    伊藤 八王子出身だったこともあり、自然に囲まれながら育ったんです。子供の頃は、山を遊び場にしていました。自然のなかで過ごすうち、他の子供たちと遊ぶのと同じくらい、昆虫と遊んでいるような環境だったんです。昆虫をつつくと、リアクションが返ってくる。物理的なインタラクションがあるなかで、虫と共存しているような気もするのですが、「実は虫は自分とまったく違う世界に生きているのではないか」。ふとしたときに、そう気づいたんです。その気づきにはゾクゾクしたというか、怖いんだけど、とても惹かれました。
    長谷川 当然それは、ユクスキュルが『生物から見た世界』で説いた「環世界」の概念を知る前ですよね?
    伊藤 はい。それは、子供がよく持つ“変身願望”に近いかもしれません。自分自身の輪郭が曖昧だからこそ変身しやすいというか、まったく別のものに感情移入しやすい。でもあるとき、ふと引いた目でみたら、まったく違うことに気づいたんです。そこから生き物の仕組みを知っていくなかで、人間像を含めた自分のイメージが変わっていくことに面白さを感じていました。
    長谷川 中高生の頃にはすでに専門書を読まれてたんですか?
    伊藤 高校生のとき、「二重らせん構造」を提唱したジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックという人が来日したんです。その講演に行ったときには、サインを貰おうとまでしていました(笑)。あとは、科学雑誌の『Newton(ニュートン)』も購読してましたね。理系に進学した理由としては、数学がとても得意だったということもあります。
    長谷川 大学の授業はどんな感じでしたか?
    伊藤 最近の授業は双方向性を取り入れていますが、当時はまだ古典的なプロフェッサータイプの授業でした。質問をしても、いまいち答えが痒いところには届かないというか。たとえば、ある講義で、「酵素がこういう条件だと、こう反応する」といった物理的かつ具体的な説明がなされます。そうしたときに、「生命と物質はどう違うんですか?」といったやや抽象的な質問をしても、答えを持っている先生がいなかった。
    長谷川 自分が面白いと思える授業や先生に出会えなかったということですか?
    伊藤 一つだけ今でも覚えている講義があります。先生が週末に釣ってきたカツオを教壇の上に乗せて、いきなりさばき始めたんです。切った瞬間に、真っ白いもやしのような、さまざまな寄生虫が出てきました。最終的には、「さあ、みなさん召し上がれ」って醤油を渡されました。あの先生だけは、「生命とは」といった質問にも答えてくれていたと思います。
    長谷川 なんの授業だったんですか?
    伊藤 生物学基礎とか、いわゆる教養の授業だったと思います。その先生も普段は、「酵素がどう」といった授業をされていたんです。それでも私は、カツオをさばいた講義から「生命は複雑である」といったメッセージを受け取りました。カツオ単体にも複雑性があるし、それ自体が一つの生態系としてある。そうした感覚を学びたいと思ったのは、今でもよく覚えています。
    長谷川 その講義が、後の文転につながる原体験になった?
    伊藤 そこまでではなかったですが、数年自分の問いが着陸しない状態だったので、ホッとする感覚はありました。理系の実験なんかも完全に順番が決まった作業なので、バイトみたいな感じなんです(笑)。「こんなことやりたくない。嫌だ」と思い、違う本を読み始めて、結果的に文転することにしました。
    長谷川 そのときに読んでいたのは、具体的には哲学書とかですか?
    伊藤 哲学書もですね。まず、「分からない」ことが面白かったんです。身体を説明するのがとても複雑なように、哲学書にも複雑さを感じました。簡単に分からない感覚だからこそ、逆に信じられるというか。
    なぜ「難しい」と感じるのか?「分かる」と「分からない」の境界にあるもの
    長谷川 よく人は「難しくて分からない」といいますよね。たとえば、本にしても難しく感じる理由は単語レベルで分からないのか、概念を知らないのか。なぜ「難しい」は生じるのでしょうか?
    伊藤 おそらく自分のなかで対応する現実がイメージできないというか、本のなかで言われる具体例が自分のなかにないことが大きいのではないでしょうか。自分の頭の中に持っていることや、ネットワークさせる差込口が少ないと、新しい哲学書を読んでも引っかかるところがない。それでも読み進めていくと口が増えるので、そこに差し込めば分かっていく、といったことかもしれません。
    長谷川 最近、『ハイデガーの根本洞察―「時間と存在」の挫折と超克』(仲原孝著、昭和堂)という本を3ヶ月かけて読んだのですが、全く分からないんですよ(笑)。その分からなさが気持ちよくて、分からないと考えるじゃないですか。なので最近はよく分からない本を読むことにハマっているんです。ビジネス書は明快で分かりやすいから、「なるほどね」と理解できるのですが、分からない本は立ち止まって思考を強制される感覚があります。
    伊藤 いま子供が小学校2年生なのですが、小学校に入った瞬間に「分からない」という言葉を使い始めたんです。客観的にみたら幼稚園児の方が「分からないこと」の絶対量は多いはずなのに、それ以前は使っていなかった。おそらく幼稚園児の頃は、すべてが分からないんだけど、自分なりに解釈していたんですよね。
    私の子供には足に先天的な痣のようなものがあるのですが、3歳のときに「これどうしたの?」と聞いたら、「コウノトリが僕をお母さんのお腹に運ぶ途中、ガードレールにぶつけた」と言ったんです。「生まれつき」とか「先天的」といった概念を持たないなりに、自分のなかにイメージや神話を作り上げていたんですね。幼稚園児は自分が作ったストーリーに疑いを持たないので、完全に信じ切っているわけです。
    そうして自分と世界の間にあるギャップを埋めていくことは、分かっていないけど、分かっている状態というか。そもそも、分かる/分からないの境界は面白い。分からないけど自分なりにネットワークを張っているときは、「分かる」と「分からない」が共存している状態で、それがとても大事な気がします。
    それでも小学校に入ったことで、正解があることを知ってしまったわけですね。問題集の最後には正解がついていることを知り、「分からない」といえば教えてもらえることに気づいた。小学校に入った瞬間、そうしたマインドに変わっていることがショックでした。
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  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.3.14

    2018-03-14 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「卒業」今週の1本「シェイプ・オブ・ウォーター」アシナビコーナー「井本光俊、世界を語る」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日3月14日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:井本光俊(編集者)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご感想、宇野に聞いてみたいこと
  • 本日発売!宇野常寛『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』

    2018-03-13 07:30  

    本メールマガジンで連載していた宇野常寛の『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 』が、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版)として書籍化し、いよいよ本日発売となりました!
    電子版はPLANETSより、近日発売予定です。 初めて宇野の著書を読む方や、『母性のディストピア』はちょっと難しいなと感じた方の入門書としてもおすすめです。 発売を記念して3月の毎週月曜日に書籍の一部を無料で配信中。(配信記事一覧) 内容が面白いと思った方はぜひ書籍でお読みください。
    【書籍情報】
    フィクションとは、まだ存在していないけれど、未来に存在しうる現実の可能性を探り出すものだフューチャリズム=未来志向を再起動するために、著者が若い世代に向けて論じたサブカルチャーによる世界認識の方法
    目次
    はじめに
    【第一回】〈サブカルチャーの季節〉とその終わり●〈オタク〉から考える日本社会●サブカルチャ
  • 丸若裕俊『ボーダレス&タイムレスーー日本的なものたちの手触りについて』 第2回 形式美が張った結界を破り、茶をアップデートする

    2018-03-13 07:00  
    550pt

    工芸品や茶のプロデュースを通して、日本の伝統的な文化や技術を現代にアップデートする取り組みをしている丸若裕俊さんの連載『ボーダレス&タイムレスーー日本的なものたちの手触りについて』。今回は、丸若さんが茶師の松尾俊一さんとともに作る茶と、タイムレスという概念を象徴する日本茶の可能性について話し合いました。(構成 高橋ミレイ)
    茶には五感を刺激するパワーがある
    宇野 丸若さんは現在、茶畑からのものづくり、つまり茶のプロデュースに注力されていますが、どのようなきっかけで茶に関心を持たれたのでしょうか?
    丸若 もともと本質的なものを伝えたいということがあったんです。前回お話したように、工芸が日常を日本文化でハックする手段として、ある程度適しているのは間違いありません。僕はそれを、表層的なものに留めず、たとえ難しくても文化の本質を探求したいという気持ちで形にしてきました。実はそういう意味で茶は、僕の伝えたいものをより細かく伝え、隅々まで行き渡らせて共有するツールになりうると感じています。しかも最終的には茶を飲むツールを通して工芸の存在も肯定することにつながり、同時に工芸の魅力を最大化することで、茶の価値もそれに準じてアップグレードできるという相乗効果も生みます。
    宇野 これまでやってきた工芸のアップデートの延長線上に、茶を見つけたということですね。それも、より適した回路として。
    丸若 自動販売機やカフェだけでなく、オフィスや自宅でも飲む場面が多い茶は、世の中にタッチポイントが無数にあることが、工芸との大きな差です。茶の可能性は本当に高いと感じています。工芸はやっぱり質が良くなればなるほどタッチポイントがすごく少ないんですよ。オンラインで売っていくことも大変難しい。個体差もあるし。手触りとか重みのような触覚も情報として重要なので。
    宇野 なるほど、工芸よりも茶のほうが現代の都市生活によりたくさんの場面から深く浸透することができる、と考えたわけですね。たしかに茶はちょっと特殊な文化ですよね。食事とも全然違う、我々の働き方や余暇の形、都市文化といったものに密接に結びついている、とても身近で、そしてソーシャルなものだと思うんですよ。
    丸若 茶は再現性をきっちり担保してあげればそれ自体がすごく雄弁に語ってくれるし、一人歩きしてくれるものだと思うんです。特に日本人は味に対しては全世界の中でもうるさい民族だと思うんですよ。そこらへんのお兄ちゃんが美味しい、不味いと言っているわけじゃないですか。海外なんて行ったら、基本的に不味いわけで、そこをいちいち論じないと思うんですよ。
    だから、美味しい、不味いといった話からはじめられたらいいなと考えたんです。茶は本来は飲んでいて単純に美味しいと言いやすい。けれど、その「美味しい」「不味い」を通じて、僕の中で工芸を通じては伝えきれなかったところまで伝えられるフォーマットとして、茶というものはスゴく優れているなと感じているんです。
    多くの場合、工芸というかプロダクトの良さを共有するには前提となる知識や経験則が必要ですが、茶はそういった前提を共有していなくとも、味覚を通して受け取れるので共有しやすいんですよね。
    宇野 丸若さんは必然的に「茶」に出会ったのかもしれないですね。
    丸若 そして、茶も工芸も同じ悩みがあります。どちらも同じようにおかしい状態になっている。工芸が、雑貨になる、あるいはアートになることで本質を見失っているように、茶はペットボトルで飲まれることが主流になり過ぎた為、茶の本質的な楽しみから離れてしまいがちです。
    宇野 だからこそ、丸若さんが工芸にしたように茶もその本質を継承するためにこそアップデートされるべきだ、ということですね。
    丸若 あとは僕自身、茶を手がけることで気持ちが前向きになった面も大きいんです。工芸は売れるものを作ろうと努力するほど、廃棄物を生み出してしまうというジレンマがあります。工芸の人たちの一部は残念ながら「自然を愛している」と言う一方で、廃棄物を作っているんですよ。特に焼き物はタチが悪くて、一度焼いてしまったら、今の技術では絶対に土に還せません。1000〜2000年経てば小さくはなるけど、自然には戻らない。人間の手によって作られたキティちゃんのマグカップが1000年後も残るんですよ。
    宇野 もともと焼き物は大量生産するものではなく、壊れたものを補填しながら使っていくことによって、二次創作的な深みを与えていく文化だったはずですよね。ところが現代は物を作る技術が高度になりすぎているので、物を作っているうちは工芸が本来的に持っている精神を貫徹できないという、身も蓋もない壁にぶち当たるわけですよね。変な話だけど、壊れない、欠けないお茶碗はもうその時点で「工芸」の本質を失っている。
    そうなるともうハードをつくるのは諦めて、工芸の精神をどう活かすか、つまりソフトのほうの継承を考えるしかない。そんな中、工芸の内包していた精神をより直接的に今日の形に発展させることができるジャンルとして、茶と出会ったんですね。
    丸若 そんなことを考えていたときに同世代の茶師の松尾俊一と出会ったっていうのが自分の転機なんです。 だから工芸をやめたってわけじゃなくって。 工芸の精度を上げたかった。 焼き物が大量生産のモデルになってしまうと、産業としては僕が関われる余白は小さいんです。職人の一家や数人の工房で作り続ける分にはいいけれど、無理に僕やその周りの人たちを養える経済規模にするためには、どうしても大量に廃棄物を生み出すしかなくなります。
    でも、茶はちゃんとしたものを作れば作るほど、物質的にも経済的にも良い循環が生まれてサステイナブルになっていきます。そういうこともあって、茶に出会ったとき、めちゃくちゃ興奮したんです。
    ▲茶師・松尾俊一さん
    宇野 茶はハードでもあり、ソフトでもある。モノでもありコトでもある。そこが面白いですね。
    丸若 そうです。茶は、飲むことで自分たちのコンセプトを体内に取り入れてもらうことも魅力でした。まさにインストールって感じがしますよね。さらに、茶には中毒性もあって、それも原点回帰の要素の一つです。なぜ仏教と共に茶が輸入されてきたのかと言えば、五感のすべてを中毒にする作用があるからだと思ってます。初期の仏教は音を非常に大事にしているんですね。念仏には脳の状態を良好にする効果があると言われていますが、それと共に、味覚を刺激するものとして茶が選ばれた。それくらいパワーがあるものだと思います。僕は松尾と一緒に、一年近く茶を開発して、いろんな人に茶を飲んでもらったんですが、その時の反応から、茶が人を惹きつける力は半端じゃないなと思ったんです。
    「茶が好き」というのは、あえて人に言うほどのことでもないんですが、そういう人は実はたくさんいると思うんです。でも、会話の中で「コーヒーが好きなんだよね」 と言うとポジティブな印象になりますが、「茶が好きなんだよね」と言うと「こいつ、めんどくせっ」と取られかねないイメージが世の中にある気がします。その一因は茶の一部で起きたことにあると思うんですよ。本来なら日本文化の最高峰だったはずの茶が、一部の形骸化された所作によって、閉鎖的なものになってしまった。その一例が、茶の淹れ方がアップデートされてこなかったことだと思います。急須は400年くらい前からあって、当時は最先端で便利なものだったかもしれないけれど、いまだに当時の形から多様化してないんですよね。草鞋だってスニーカーに置き換わっているにもかかわらず。
    宇野 たしかに急須はかなりしっかり洗わないとすぐ詰まってしまうので、現代人が使うには不便なんですよね。
    丸若 よく考えてみると変なんですよね。お湯を沸かすのはポットを使う。だけれど急須だけはほぼそのまま。時々茶がアップデートされた姿を見かけますが、それらの多くは便利さを追求するためのものなんです。他にもティーバッグも手抜きなイメージが強く、良いイメージがない。だけど、僕はティーバッグってすごく可能性があると気付いています。だからうちのティーバックは茶の美味しさが一番出るようにと、めちゃくちゃ作り直していて、本来のアップデートとはそうあるべきだと思っています。これが自然の行為だと思うし、今の当たり前が本質的でないことというのは良くあることなんです。
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  • 【書籍化記念・無料公開】宇野常寛「若い読者のためのサブカルチャー論講義録」第2回〈サブカルチャーの季節〉とその終わり(2)

    2018-03-12 07:00  

    本メールマガジンで連載していた宇野常寛の『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 』が、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』として発売されました! 刊行を記念して毎週月曜日に全4回にわたり、書籍の一部を公開します。第2回のテーマは前回に引き続き、「〈オタク〉から考える日本社会」です。終焉を迎えようとしているサブカルチャーの世界には、これからの新しい世界を考える上でも応用できる思考が眠っている。カリフォルニアン・イデオロギーの台頭するなか、今あえて古いものを経由する意義を宇野常寛が語ります。※配信記事一覧はこちら。
    【書籍情報】宇野常寛『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』発売決定!紙 (朝日新聞出版) 3月13日(火)発売/電子(PLANETS)近日発売Amazonでのご購入はこちらから。
    いま、サブカルチャー的な思考を経由する意味
     これまで一九六〇年代の「政治の季節」の終わ