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【特別寄稿】井上明人 それはどこにある「現実」なのか:作品について書くということ
2020-04-15 07:00550pt
ゲーム研究者の井上明人さんの特別寄稿をお届けします。10代の頃、岡崎京子の『リバーズエッジ』の「露悪的な現実」を賛美する批評界隈の風潮に、反感を抱いていたという井上さん。しかし年齢を経たあとで、批評に内在する、違う誰かの生き方への想像力に開かれた、コミュニケーションの可能性に気付いたといいます。
しばしば指摘されてきたことであるのにも関わらず、作品について論じること、すなわち「批評的な行為」がコミュニケーションとしての属性を持っているということを言うと、なかなか通じないと思うことが多い。学生にも通じないし、人文系の研究者にすら通じないことが多い。 作品というのは、作者と読者のそれぞれの「現実」の観察を映し出す鏡のような性質をもっている。そのため、作品について論じるということは、コミュニケーションとしての側面を持つ。そのことについて、私なりに簡単に整理しておきたい。
「この物語は、現実である」とみなすこと。:『リバーズエッジ』
十九歳のとき、岡崎京子の『リバーズエッジ』をはじめて読んだ。この作品を褒める批評家の言葉に従って、作品を手にとって、最後まで読んだ。 そのとき、私はこの作品を「露悪的」な作品だと、最初におもった。そして、この作品を褒める批評家達に、軽い嫌悪を覚えた。物語の技術的な質の高さという意味では、この作品を褒める文脈がありうることはそのときの私にも理解できた。だけれども、この作品を安易に褒める批評を軽蔑した。
十九歳の私は、批評家たちのあさましさを憎んでいた。 今思えば、その憎しみは、私が今よりも、若かったからだ、と思う。 *
当時の私が気に入らなかった批評は次のようなものだ。リバーズエッジが語られるとき、この作品は1990年台当時の「時代」とむすびつけて語られることが多かった。作者もまさにそのように書いている。この作品は、現代の日本を象徴的にうつしとった作品なのだ、と書いていた。 しかし、私にとって、この作品は私の生きる生活とは、ほとんど結びついていなかった。同性愛者の友人はさておくとしても、女性をレイプするような乱暴な友人もいなかったし、寂しさをまぎらわすためにセックスをしてまわるような女性もまわりにいなかった。あるいは、いたとしても、気づいていなかった。私の10代は、進学男子校の生徒として本を読んだりゲームをしたりして生活を送る日々であり、友人のほとんども文化系のおとなしい男の子たちだった。そういうリアリティの持ち主に、こういう作品を「現代という時代を反映した問題作」として語られても、私は同じ世界のリアリティを共有できない。私の生のリアリティは、なんだかんだで、おおむね穏やかな日常に彩られていたと思う。そういう人間にとっては、同時代のセンセーショナルで残虐な話をつきつけられても、そこに同時代性を見いだせるはずもない。まず、この点で、私はまったく岡崎の描いた物語が嘘くさいと思った。 それに、岡崎京子がしばしば、ある種の残酷さを、何かロマンティックなものとして描くことに、酔うような話が多くて辟易したということもある。
もっとも、岡崎は「現代性」を僭称することの「うそくささ」に単に鈍感であったわけではない。岡崎は、現代のメディア環境の「うそくささ」に気付かずにはいられない人々についてたくさん描いている。 それは、たとえば、チェルノブイリを語るメディアの風景やら、環境問題を語るメディアの風景やら、そしてCMをにぎやかにしているやらイメージたちなどの象徴的にあらわれている、という。 それはそうだ。 それはそうだろう。 あれは、テレビというメディアのもたらしたものに他ならない。 だけれども、岡崎がテレビの「うそくささ」を登場人物に喋らせる以上に、私にとっては岡崎が「うそくさいもの」に見えて仕方がなかった。 テレビの「うそくささ」を「ウソだ」と指摘することでしか、自身のリアリティを担保できていないように思えた。岡崎の作品は、マスメディアを「ウソだ!」と指摘することで、その真逆のリアリティを肯定しようとしているだけのように思えた。極端に善良できらびやかな風景を「うそだ」と攻撃してみせることが、その真逆に位置している極端に残酷でわけのわからない風景を「ほんとだ」と言うための方法になっているようにしか思えなかった。単に安易な敵を攻撃しているようにしか、見えなかった。
これが「現代」だなんて。 なんて、馬鹿げた悲壮感ただようロマンティズムに酔っているのだろう、と。 こんな、手軽な、ロマンティズムが、ある種の「文学性」だとして語られるのであれば、そんなもの、クソくらえだと思った。おそらく「文学」という言葉を語る人種の中でも、自分が最も軽蔑すべき種類の人間だろうと思っていた。
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しかし、今は十代の頃とは違う感想を持っている。 岡崎京子のロマンティズムが、岡崎京子の描く現実は、そこまで露悪的である、と断定できる気分ではなくなったことだ。私は、なんだかんだで、あまり極端に治安が悪い地域で生まれ育った友人は少ない。岡崎京子の描く現実は、「わからなかった」。こんな現実が描かれているということが、どの程度まで岡崎京子の判断によるもので、どの程度までが判断によらないものなのか――すなわち、一部の人々の「日常」にどの程度まで対応しているのか、いないのか――ということが、理解できなかった。 ただ、はじめて読んでからだいぶ経ってみてわかったのは、岡崎の描くよう世界に近いリアリティを生きている人たちは、同時代の日本に、どうやら、ほんとうにいるようだということ。少なくとも、「いない」とは言えない。 つまり、私が十代の時に感じていたこと――岡崎の描く現実は、岡崎によって都合良く露悪的に粉飾された「現実」であるという感覚――は、私という読者にとっての真実であっても、別の読者には別の真実があったということだ。リバーズエッジが過度に「露悪的」ではなく、それが実際の日常の感覚の延長に位置するものとして受け止められることは十分ありうるということは、否定できなくなった。やはり、一部の読者にとっては、これは、それほど、日常の風景と遠いわけではないはずだ。 実際に、岡崎の描く世界が自らの十代の日々のそれに近かった、という告白を人からうけたこともある。そういう人にとってみれば、岡崎の描く物語は、彼/彼女らの日常へと、極めて鋭く世界の再解釈を迫るような物語として機能したであろうことは想像に難くない。そして、さきほど少し記したような、十九歳の頃の私の岡崎への「嫌悪感」は、考えようによって、とても、乱暴で、粗い感想に聞こえて仕方ないものだろう。
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ハープを手に入れた|高佐一慈
2020-04-14 07:00550pt
お笑いコンビ、ザ・ギースの高佐一慈さんが日常で出会うふとしたおかしみを書き留めていく連載エッセイの第4回。ある日、「ハープを使ったコントがしたい」という欲望に取り憑かれ、本当にハープを手に入れた高佐さん。次第に高まっていくハープ愛のゆくえは……?
高佐一慈 誰にでもできる簡単なエッセイ第4回 ハープを手に入れた
ハープを弾いている。いきなりなんだと思うかもしれないが、僕は今人前でハープを弾いている。 ハープとは、あの人魚が水辺で奏でている、弦が何本も縦に張られた面白い形の楽器である。たまにオーケストラで演奏している人を見るくらいで、あまり身近では見かけないだろう。そのハープが今僕の自宅の玄関にデーンと置いてある。小六男子くらいの大きさだが、それはものすごい存在感だ。 普通ハープが置いてある家というのは、一軒家で、玄関は吹き抜けで、広い庭があって、リビングにはペルシャ絨毯が敷いてあり、その上には大きなシャンデリアが飾られている。グランドピアノもあるだろう。ガレージにはベンツやポルシェなどの外車が何台も停まっている。 しかし残念なことに僕の家に引き取られたハープは、いろんな世帯が入っている普通のマンション、庭は無し、リビングにはコタツが置いてあり、その上の蛍光灯は先日電気料金の未払いで明かりが点かなくなった。ガレージには外車など停まってるわけもなく、それどころかガレージすら無い。というか僕は免許を持っていない。そんな家の狭い玄関に置かれている。 ハープも「なぜ私はここにいるのだろう」と不思議がっているに違いない。
そもそもなぜハープを始めたのか。その理由はいたって簡単だ。
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アッシュ・リンクスは、それでも生き延びるべきだった『海街diary』宇野常寛コレクション vol.17【毎週月曜配信】
2020-04-13 07:00550pt
今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、漫画『海街diary』です。戦後日本的な「成熟と喪失」の問題を正しく引き受けた作家・吉田秋生。鎌倉を舞台にした本作では、初期作のような「成熟と喪失」をめぐる葛藤は昇華され、いかに「老いと死」に向き合うかが静謐な筆致で描かれます。そんな作家としての円熟の一方で、もし初期の可能性のまま描き続けていたらあり得たかもしれない、もうひとつの「鎌倉の海」とは? ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
吉田秋生の『海街diary』の最新刊(今年の7月に発売された『四月になれば彼女は』)を読んでまた鎌倉に行こうと思った。以前にもこの連載で取り上げたことがあるのだけど、僕は鎌倉が好きで年に何度も足を運ぶ。たいていはよく晴れた日に、思いつきで出かける。こういったことができるのが自営業の特権だ。半日かけて、由比ヶ浜から極楽寺にかけてのゾーンをぶらぶらして、途中、目についたお店に入って休憩する。そして必ずお土産に釜揚げのシラスを買って帰るのだ。 観光ガイドには一時期、このマンガの舞台になった場所を紹介する『すずちゃんの鎌倉さんぽ』を使っていた。映画やドラマのロケ地めぐりが趣味の僕がどこかの街を気に入るときはたいていこういったミーハーなきっかけだ。
そんなミーハーな人間が、こんなことを言うといわゆる「鎌倉通」の人たちに怒られるかもしれないが、僕は実際の鎌倉は吉田の描くそれよりも、つまり昔ながらの人情下町コミュニティが残っていて、都心部とは違った時間のゆっくり流れるスローフード的な空間よりも、もう少し猥雑でスノッブな街だと思う。一年中昭和の日本人が環境役として群れを成しているし、夏のビーチはファミリー、カップルそしてエグザイル系のお兄さんたちで溢れている。こういっては失礼だが彼らはスローフードのスの字もない人々だけれども、こうした人々がいるからこそこの街に僕のような人間にも居場所があるのだと思っている。
だから正直に告白すれば、僕はこの『海街diary』に出てくる鎌倉にはちょっと住めないな、と思っている。もちろん、それは否定的な意味ではない。この作品に出てくる鎌倉はそういった猥雑さを排したことで、とてつもなく優しく、そして強靭な磁場を備えた空間として成立している。そしてその淀みのなさに、自分はちょっと住めないな、と憧れるのだ。
吉田秋生という作家を語るときは、かつてこの作家が用いた「川」というモチーフを中心に考えるとその変遷がクリアに浮かび上がってくる。
かつての吉田秋生は当時のアメリカン・ポップカルチャーの絶大な影響のもと、戦後日本的「成熟と喪失」を正しく引き受けた作家だった、と言えるだろう。同時代の少年マンガが戦後日本的未成熟の肯定に開き直り(反復される強敵との戦いで成熟を隠蔽しながら、実は幼児的遊戯を継続し続けるバトルマンガと、終わりなき日常をてらいなく描き続けるラブコメマンガ)、先行する先鋭的な少女マンガ(24年組等)がむしろヨーロッパ的意匠とファンタジーへの傾倒で戦後少女文化ならではの深化を見せていったのとは対照的に、吉田は同時代の少女マンガ家としては珍しく戦後日本人男性の「成熟と喪失」の問題を正面から引き受けていたのだ。
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【インタビュー】AR三兄弟・川田十夢 〈芸能〉を拡張する――笑いの更新としての『テクノコント』(後編)(PLANETSアーカイブス)
2020-04-10 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、先週に続き、テクノロジーによってお笑いを拡張した舞台『テクノコント』を企画した、AR三兄弟の川田十夢さんへのインタビューをお届けします。後編では、初めて「死」というテーマを扱った意図や、舞台からのシングルカットとしての社会実装の可能性、他ジャンルの作家とのコラボから得ているものについて、お話を聞きました。(構成:米澤直史/菊池俊輔)※前編はこちら※この記事は2018年7月25日に配信した記事の再配信です。
捨てられた技術によって「死」を描く―『捨てスマートスピーカー』
――いまのお笑いは、テクノロジーの領域をネタとして上手く扱えていないと感じるのですが、『捨てスマートスピーカー』では、テクノロジーと人間との新しい距離感が描かれています。
『捨てスマートスピーカー』:スマートスピーカーをペットのように可愛がっていた少年だが、機種が古く勉強の邪魔になるという理由で、母親から捨てるように命じられる。道端に捨てられたスマートスピーカーは大人たちに改造されそうになるが、その状況を知った少年は、大人たちに立ち向かうことを決意する。スマートスピーカーが固有の人格を持つかのように描かれる独特の世界観が魅力的なコント。
川田 時代が進んでも、コントで使われる音の演出はあまり変わっていません。たとえば、どこかに入るときの効果音は、今でも「ウィーン」とか「カランコロンカラン」ですよね。だから全く新しい音の環境としてスマートスピーカーがある状況をやっておきたかったんです。 筒井康隆の短編で、オリンピックが廃れた後の世界でマラソンを走る選手を描いた『走る男』という作品があります(『佇むひとーリリカル短編集』収録)。その世界では、オリンピックでマラソン選手が走っていても、誰も気に留めない。そういった、すでにある価値が失われることによっても、ギャップは生まれる。 スマートスピーカーは、現時点で既に定価の半額以下の値段で売られていいます。最初は期待されていたのに、安売りされて、最後には捨てられる。この一連の消費行動には物語が潜んでいて、それを明確に出せた作品だと思います。日本人は、姥捨山や犬を捨てるといった、何かを捨てるときの感情をよく物語にします。また、八百万の神をはじめ、モノに何かが宿るというのも、神話や小説などでよく描かれる、日本人とは切っても切り離せない表現としてありますよね。 今回の『テクノコント』の公演は『Mellow Yellow Magic Orchestra』と題していますが、これはYMOのデビューアルバム『Yellow Magic Orchestra』になぞらえています。
▲YMO『Yellow Magic Orchestra』
このアルバムでは、最初と最後にゲームオーバーをモチーフにした曲(『COMPUTER GAME』)が収録されていて、それによって「死」と「テクノロジー」が結びつけられている。それと同じように、今回の公演でも最初と最後を「死」にまつわる作品にしたいと考えていました。 今はみんな新しいテクノロジーに簡単に飛びつきますが、新品を使うときは、誰も「死」のことを考えませんよね。キラキラしたものだけでなく、捨てられるものにも望みを託せるように、「老い」や「死」を作品にしたかった。 これまでAR三兄弟は「死」というテーマを扱ってこなかったんです。どちらかといえば80年代的なノリで「できたよ!」「面白いでしょ!」みたいなことをやってきたけど、物語として立体的な表現をするにあたって「死」を扱いたいと考えた。そして、「死」を扱いながらウケるのは実はすごく難しい。だからこそチャレンジしたかったんです。 いいSFには人間が描かれています。『テクノコント』でも、やはり人間を描かねば、というのはあって。だから『捨てスマートスピーカー』はスマートスピーカーを巡る人間の物語なんです。人生を共にしたスマートスピーカーに「カンタロウ」って名前をつけたりね。なんで「カンタロウ」なのかはわからないけど。これはラブレターズ塚本くんのセンスです(笑)。
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坂本崇博 (意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革 第5回 これが私の働き方改革道(中編)
2020-04-09 07:00550pt
周囲に合わせる「リア充」的なコミュニケーションについていけなかったために、学生時代からアニメや小説を頼りに、仕方なく自分独自のやる事・やり方・やる力の伸ばし方を工夫しなければならなかった坂本崇博さん。そんな「残念な」少年が社会人になるとき、どんなふうに「私の働き方改革」が生まれていったのでしょうか。
コクヨにおける私の働き方改革 黎明編
なんとも痛い動機で「人と違う道」を歩み続けた学生時代を終え、いよいよ私はコクヨに出会い、働くことになります。
なぜ私はコクヨの門を叩いたのか。これまた「残念な」理由でした。 「最初に内定をくれた会社に恩返しをしよう」という志も何もない動機で就職活動をしていた私ですが、就職先候補の選び方も適当でした。就活ネット上で、「地元関西に本社があって、自分自身がこれまでお世話になっていて、かつ親が知っていそうな大きいところ」を検索し、片っ端からエントリーしていったのです。
何とも意識の低い、ある意味新卒一括採用・終身雇用という日本独特のシステムにあぐらをかいた「普通の就活」です。まるで高校生が進学先を選ぶかのように「何を学ぶかではなく、どこに入るか(入れるか)」で会社を選び、入社後は与えられた仕事を粛々とこなして、次第に熟練して仕事を教えられるようになれば先輩になり、より多くの人の仕事を管理できるようになって上司になるものだと、信じて疑わなかった「就活生」でした。
実は、当初「コクヨ」は「これまでお世話になった会社リスト」からは外れていました。なぜなら、「人と違う道」にこだわりがあった私は、あえて購買部で売られているような筆記具は持たず、アニメショップで売られている少し尖ったデザインのルーズリーフファイルを購入して利用していましたし、筆記具も「そうそう学校には持って来られない」こだわりのデザインを好んで使っていたためです。文房具といえば、アニメイトでした。 そんなわけで当初は、もっと身近にお世話になっていた伊藤ハムさんやハウス食品さんなどにエントリーしたり、関西圏という条件からは外れるものの、せっかくなのでバンダイさんやバンプレストさんの会社説明を聞きにいったりしていました。
しかし、エントリーを重ね、履歴書を送るたびにふと目に留まった社名がありました。それがコクヨです。履歴書の右下に「コクヨ」と書かれていたのです。 「へえ、キャンパスノートのコクヨって、履歴書も作っているのか」と興味が出てきた私は、早速コクヨの所在地を検索し、大阪本社であることと一部上場企業であることを確認して、エントリーをしたのでした。 そして、コクヨの採用面接で「人と違う道」を見出すことになったのです。
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成馬零一 テレビドラマクロニクル1995→2010 最終回 2020年代の連続ドラマ(後編)
2020-04-08 07:00550pt
ドラマ評論家の成馬零一さんが、90年代から00年代のテレビドラマを論じる『テレビドラマクロニクル(1995→2010)』。最終回の後編では、2010年以降のテレビドラマの状況を総括します。NetflixやHuluにともなうグローバル化の進展や、作家主義の衰退、多文化主義の影響によって抜本的な変化を迫られている日本のテレビドラマ。その文化的遺産をいかに継承するかを考えます。
ここで改めて2010年のテレビドラマについて振り返っておきたい。 この年、朝ドラでは『ゲゲゲの女房』、大河ドラマでは『龍馬伝』というNHKを代表する二大コンテンツの方向性を大きく変える作品が登場した。 一方、深夜ドラマでは『モテキ』と『マジすか学園』(ともにテレビ東京系)が登場。 2010年代はNHKドラマと深夜ドラマの時代だったが、その先駆けとなる作品はこの年にすでに出揃っていたのだ。
大根仁が全話の脚本と演出を担当した『モテキ』は、作家性の強い連続ドラマとして高く評価され、福田雄一、山下敦弘、深田晃司といった力のある映画監督がテレビドラマの演出を全話手掛ける流れの先陣を切ったと言えるだろう。 一方、AKB48のメンバーが総出演した『マジすか学園』は、グループアイドルを売り出すためのショーケース的なドラマで、“たば(束)ドラマ”とでも言うようなドラマの走りとなった作品である。 この『マジすか学園』の手法をより発展させたのが、ダンス&ボーカルグループ・EXILEが所属する芸能事務所LDHが、テレビ・映画・ライブといった複数のメディアをまたいだ総合エンターテイメントプロジェクトとしてスタートした『HiGH&LOW』シリーズだ。 全員主役と銘打ち、複数の物語を同時進行していく『HiGH&LOW』シリーズは、芸能事務所主導の企画だからこそ生まれた作品だ。ファン向けのノベルティグッズであることを逆手にとった本作は、作り手がやりたいことをやり切った作品で、その結果として『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』のようなロボットアニメ、あるいは冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』(集英社)のようなバトル漫画に対する、実写ドラマからの返答となっていた。面白いのは、それが結果的に『ゲーム・オブ・スローンズ』のような、国内では作ることが難しい大規模な海外ドラマに拮抗した表現となっていたことだろう。 芸能事務所主導ゆえに、役者を魅力的に見せたり、派手なアクションを撮る意識が先行していて、既存のテレビドラマと比べたときに、脚本、演出の面においてチグハグだという欠点はあるものの、それを補って余りある華やかさがあり、貧乏くさい日本のドラマコンテンツの中で、ビジュアルとアクションにおいては突出している。 今後、AKBグループやジャニーズ事務所といった大手芸能事務所主導の企画から『HiGH&LOW』のような企画が生まれれば、また状況は活性化するのではないかと思う。
この全員主役(もしくは主役不在)の群像劇の“たばドラマ”の対となるのが、2012年にシーズン1が放送された『孤独のグルメ』(テレビ東京系)だ。 個人で輸入雑貨商を営む中年男性・井之頭五郎(松重豊)が仕事の合間に立ち寄った飲食店で、料理を食べながら料理の感想をモノローグで延々とつぶやく姿を描いた本作は、後に多くのフォロワーを生み出し、グルメドラマというジャンルを深夜ドラマに定着させた。 近年はその方法論を発展させた、サウナを舞台にした『サ道』や、キャンプを題材にした『ひとりキャンプで食って寝る』『ゆるキャン△』といった、グルメドラマの手法を使った他ジャンルの作品も生まれており、バラエティとドラマの中間のような作品を生み出している。印象としてはYouTubeなどに上がっている、一人で黙々と何かをやる姿を見せる実況動画に近い。 これらの作品が面白いのは、サウナやキャンプといった趣味の世界を覗き見できることもさることながら、「一人遊び」で自己充足することを肯定的に描いていることだろう。『孤独のグルメ』における“孤独”の部分に重点がおかれている、つまり、“たばドラマ”に対する“ぼっちドラマ”とでも言うような作品で、こういった今までにない斬新な手法のドラマを、力のある映像作家が手掛けることで、深夜ドラマは発展してきたのだ。
対して2010年の民放プライムタイムのドラマでは、宮藤官九郎脚本の『うぬぼれ刑事』(TBS系)、木皿泉脚本の『Q10』(日本テレビ系)といった、00年代を代表する脚本家の集大成的な作品が発表された。また、木村拓哉主演のドラマでありながら、平均視聴率が20%台を切った月9ドラマ『月の恋人~Moon Lovers~』(フジテレビ系)が放送される。 その一方で、坂元裕二の新境地となる『Mother』(ともに日本テレビ系)のような、2010年代を牽引する作家の方向性を決める意欲作も登場。 『逃げるは恥だが役に立つ』や『アンナチュラル』(ともにTBS系)といった作品で2010年代を代表することになる脚本家・野木亜紀子が、フジテレビのヤングシナリオ大賞受賞作『さよなら、ロビンソンクルーソー』で脚本家デビューを果たすのもこの年だ。
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山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法 第7回 京都アニメーションとオタクの12年②~パンドラの箱は開いた
2020-04-07 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第7回。昨年7月の京アニ放火事件の惨劇は、何によって引き起こされたのか。その悪意の根源に、自身が手がけた『涼宮ハルヒの憂鬱』が解き放った「闇」があることが、深い自戒のもとに告発されてゆきます。
この連載でも繰り返し取り上げているが、僕の2016年7月の講演「アニメ・イズ・デッド」で、いろんな作品のタイトルを槍玉に挙げ、アニメの「ポストモダン化」(連載第5回参照)を分析したのだが、その中に敢えて入れなかった作品がある。 『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006)である。
「俺のこの仕事だけは、時代の波に飲まれない、むしろそれに立ち向かうものだったんだ!」と、当時の僕は言いたかったのだろう。信じたかったのだろう。
しかし、それは惨めな欺瞞に過ぎなかった。
「京アニ事件」の直後、下の記事が出た時、僕は茫然となった。
「”アニメオタク差別”を変えた京都アニメーションの偉業と追悼と。」https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190720-00134932/ 京都アニメーションは、私たちアニメオタク(―あえて私たちと複数形で記するのは、筆者である私自身がアニメオタクのひとりであるからに他ならない)にとって、”アニメオタク差別”を変えた、つまり”アニメオタク差別”を超克する分水嶺を作った社として歴史に名を刻まれることになったアニメ製作会社である。その分水嶺とは、間違いなく2006年に京都アニメーションが製作した『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズである。 京都アニメーションは、端的に言えばこの『涼宮ハルヒの憂鬱』で大ブレイクし、日本はおろか世界に冠たるアニメ制作会社としての地位を築いた。そして『涼宮ハルヒの憂鬱』を基準として、「それ以前」「それ以後」で、アニメオタク全般に対する社会の許容度は劇的に変革されたのである。
僕はこの記事を読んだ時、今までの持論が明らかに間違っていたのだと確信した。 そう、僕は間違いなく「共犯者」、いや、「主犯」に近いのだと。
この連載の過去2回(第5回・第6回)を読んでいただいた方々には、もうお解りだろう。 「アニメオタク差別」を克服したオタクたちが、その後どうなったのか?
アニメを攻撃し始めたのだ。
この文章をしれっと書いた古谷経衡氏のような盲目的なオタク(同様のことを日野百草氏も著書『ルポ・京アニを燃やした男』で書いている)を世に放ち、京アニ事件が起きてもただひたすら被害者面して自己憐憫に勤しむような連中を増産したのは、彼らの言うところによると、『ハルヒ』だったのだ。
では『ハルヒ』で何が起こったのか? 何を起こしたのか?
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あたらしい駅のかたちについて、彼は想像することもできない『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』宇野常寛コレクション vol.16【毎週月曜配信】
2020-04-06 07:00550pt
今朝のメルマガは、『宇野常寛コレクション』をお届けします。今回取り上げるのは、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』です。ビッグ・ブラザーならぬ「リトル・ピープル」のモチーフで現代的な〈悪〉の問題を描きかけた前作『1Q84』に続き、大ベストセラーとなった本作。はたしてそこに、自らの問いに応える回答はあったのか? 国民作家・村上春樹の挑戦と挫折を通じて、戦後の文学的想像力の限界を考えます。 ※本記事は「楽器と武器だけが人を殺すことができる」(メディアファクトリー 2014年)に収録された内容の再録です。
〈文芸春秋は18日、村上春樹さんの新作小説「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」を20万部増刷することを決め、累計発行部数が100万部に達したと発表した。 12日に発売されてから7日目。文芸春秋は「文芸作品では最速でのミリオン到達では」としている。村上さんの作品では前作「1Q84 BOOK3」が発売から12日目に100万部に到達している。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はネット書店での予約などが多かったことを受け、発売前から増刷を重ね、計50万部で売り出された。発売初日にも異例の10万部の増刷を決めたが、売り切れ店が続出。15日にも20万部の増刷を決め、6刷80万部に達していた。〉(産経新聞2013年4月18日)
村上春樹の新作長編『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』が発売直後からベストセラーになっているという。 僕もまた、村上春樹の愛読者のひとりだ。僕の代表作『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)は村上春樹論でもある。「リトル・ピープル」とはこの本が刊行された当時の春樹の最新作『1Q84』に登場する超自然的な存在にして「悪」の象徴だ。この『1Q84』という小説に、僕は不満を覚えた。正確にはこれまでの村上春樹の長編小説に比べて、あまり想像力を刺激されなかった。そしてそのことが、僕がその本を書く動機になった。
春樹は2008年、おそらくは『1Q84』執筆初期に行われたインタビュー中の発言にてこう述べている。
〈「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」〉(毎日新聞 2008年5月12日 僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉)
リトル・ピープルとはまさに、人々を「精神的な囲い込み」にいざなう社会構造の象徴だ。このリトル・ピープルに対抗するために主人公とヒロインたちが行動を起こす──それが『1Q84』の物語の骨子だ。しかし『1Q84』は完結編であるBOOK3で、それまで中心にあったこの主題──リトル・ピープルの時代への「対抗」という主題──を大きく後退させて(事実上放棄して)しまう。前半に物語を牽引したリトル・ピープルとそれを奉じるカルト教団はほとんど姿を見せず、主人公の「父」との和解と、ヒロインの一人との再会がクローズアップされる。主人公=中年男性の自己回復と自分探しの物語が全面化し、時代へのコミットメントという主題は後退するのだ。僕はここに村上春樹の想像力の限界を感じて、そして前述したあの本(『リトル・ピープルの時代』)を書いた。現代=リトル・ピープルの時代へのコミットメントのかたちを模索する、という春樹から引き継いだ主題については、まったく別の作品群を用いて考え抜いた。
しかしその一方で、僕は春樹自身がいつか、それも近いうちにこの問題に彼なりの回答を示してくれるのではないかと期待していた。もちろん、これは僕の勝手な期待であり、作家が答える必要もなければ、答えないことで責められる必要もない。だから、僕は続く村上春樹の新作長編『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』を一読したとき、個人的に落胆はしたがこれを批判しなければならないとは思わなかった。だから発売当日にこの本を買って読み終えた僕は、その日の夜に放送するこの春から担当することになったラジオの深夜放送番組で、この本はそもそも肩慣らし投球のようなもので、『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』のような総合小説を期待してはいけないと釘を刺したうえで分析を始めた。
そう、『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』は発売されたことだけで「事件」となる社会的インパクトとは裏腹に、作品自体はいわゆる「小品」だ。 Wikipediaからあらすじを引用しよう。
〈多崎つくるは、木元沙羅と交際中だが、なかなか関係は進展しない。その原因として沙羅は、高校時代の友人から絶交されたことについてのわだかまりがあるのではいかと考えて、つくる自身が当時の友人たちに会って直接話をすることで、事態を打開するように勧める。そこでつくるは、名古屋とフィンランドに住む友人たちのもとを一人ずつ訪ね、絶交の真意を知る。そのうえで、あらたに沙羅との関係を進展させようと決意する。〉
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【インタビュー】AR三兄弟・川田十夢 〈芸能〉を拡張する――笑いの更新としての『テクノコント』(前編)(PLANETSアーカイブス)
2020-04-03 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、テクノロジーによってお笑いを拡張した舞台『テクノコント』を企画・開発した、AR三兄弟の川田十夢さんへのインタビューです。『テクノコント』で、メディアアート的な枠組みを超えて「芸能」を志向した理由や、各演目に込められた意図、テクノロジーを通じた「お笑い」の表現の可能性など、さまざまなお話をうかがいました(構成:米澤直史/菊池俊輔) ※この記事は2018年7月19日に配信した記事の再配信です。
【イベント情報】4月7日(火)のイベント「遅いインターネット会議」に川田十夢さんがご出演されます。 「仮想現実から拡張現実へ」の情報技術の応用トレンドの変化は世界をどう変えたのか。川田十夢さんと宇野がいま改めて彼のテーマである「拡張現実」という概念について議論します。(『遅いインターネット』第2章の拡張現実論を踏まえながら)。詳細・お申し込みはこちらまで!
『テクノコント vol.1 mellow Yellow Magic Orchestra』 原案・企画:川田十夢 構成・制作:おぐらりゅうじ 作・出演:ラブレターズ / 男性ブランコ / ワクサカソウヘイ 開発:AR三兄弟 実施:2018年5月25日・26日 渋谷ユーロライブ テクノロジーによる演出で「お笑い」の拡張を試みたコントライブ。舞台の小道具としてセルフィー、VRヘッドセット、スマートスピーカーなどのガジェットが登場するほか、芸人による寸劇とARを組み合わせることで、「お笑い」の新しい可能性を提示した。劇場の観客が手元のスマートフォンから公演に参加する新しい試みも行われている。演者には、ラブレターズ、男性ブランコ、ワクサカソウヘイら、コントに定評のあるお笑い芸人たちが出演している。
「メディアアート」から「芸能」へ
――『テクノコント vol.1 mellow Yellow Magic Orchestra』、大変面白く観させていただきました。まずは企画のきっかけからお聞かせください。
川田 AR三兄弟という開発ユニットで活動をはじめて、来年で10年目くらいになります。これまで一貫してくだらないことしかやってこなかったのですが、10年も続けると立場ができてきて、間違って「メディアアート」と言われることも増えてきた。僕らはあくまでお客さんにウケたり面白いと思われたくてやっているだけなんですけどね。 そこでよく引き合いに出されるのが、チームラボやライゾマティクスなのですが、彼らの表現はあくまでアートの方向にテクノロジーのクリエイティブを発揮するもの。対して、僕が興味があるのは「アート(芸術)」というよりも「芸能」で、10年の節目を迎える前に、彼らとは違う「芸能」の分野で作品をつくりたかったという思いがありました。 また、僕の小学校の同級生で、今でも仲がいい友人に、ピン芸人のマツモトクラブがいます。彼を見ていると、今の芸人の置かれている状況は、お笑い番組や賞レースといった活躍の場がたくさんあるようでいて、実はけっこう厳しいということを感じます。そこで、テクノロジーの要素を加えることで構造のレベルから更新を試みたお笑いの公演をやってみることが重要になるのではという考えもありました。
――たしかに、これまでのAR三兄弟の作品を見ても、「お笑い」と非常に親和性が高いという印象があります。
川田 Media Ambition Tokyoなど、お笑いの要素を求められていない場所で、笑いを取ろうとしてきましたからね(笑)。AR三兄弟として、ちゃんとお笑いの要素が求められる場所で、笑いを提供する作品をつくってみたかったという思いはずっとありました。
――その一方で、AR三兄弟の作品はメディア芸術祭をはじめ、メディアアートの領域で高い評価を得ていますが、「メディアアート」と「芸能」の違いはどのようなところにあると考えているのでしょうか?
川田 先日、中国の厦門で開かれた文化庁メディア芸術祭に出展したときに、ちょうどライゾマが隣りだったんです。そのときに真鍋大度くんと話をしたんですが、彼はアートにしか興味がないんですよね。商売には興味がないし、もちろん「お笑い」にも興味がない(笑)。 以前、真鍋くんと飲んだときに、「僕は〈点〉の人ですが、川田さんは〈物語〉の人ですね」と言われたんです。彼は技術を〈点〉で表現することだけを考えていて。たとえば、Perfumeとライゾマが組んだプロジェクトでは、真鍋くんが〈点〉としての技術を担当し、振り付けのMIKIKOさんがダンスによって〈物語〉をつくる。そういう関係性が真鍋くんは好きみたいです。 芸能と違って、アートはモヤモヤしたものでいい。鑑賞時間が1秒でも1分でも、観客の心に何か引っかるものがあればそれでいいんです。でも芸能、特にお笑いは観客にウケないといけないし、舞台であれば二時間、笑わせ続けなければならない。 アートは時代に対して「垂直に立つ」表現ですが、僕らは時代に対して「水平に寄り添う」ことを目指していて、それを舞台の上での笑いに変換したい、ということですね。 これまで僕らが手がけてきたメディアアート的な作品は、長くても5分程度だったのですが、2013年に、ヨーロッパ企画の上田誠くんと一緒に「プライマリースクール・ウォーズ」という約20分ほどの演劇を作ったことがひとつ大きな転換点になりました。学校の教室で、誰もいない黒板に、勝手にチョークで文字が書かれていくという作品です。
プライマリースクール・ウォーズ(動画)
種明かしをすると、掃除箱に仕込んだプロジェクターから黒板に向けて映像を投影し、チョークの音は黒板の後ろのスピーカーから出しています。 この作品の持ち時間は20分だったんですが、そのときに〈物語〉の力はすごいと思った。それで、自分たちで舞台を作ったりもしたんですが、舞台での表現は、運動選手と同じで演じる側に瞬発力が求められるんです。そこで今回のテクノコントでは、芸人さんの助けを借りながらネタからつくるというやり方を選んでいます。
――人間が演じるコントにARを実装する処理は、技術的にもハードルが高かったのではないでしょうか?
川田 難しかったです。芸人さんたちもテクノロジーを相手にコントするのは初めてですからね。ただ、彼らには、同じ舞台上の仲間をフォローするという素敵な文化があるんです。実際にARの演出が上手くいかない回があって、勢いよく飛ぶはずの元気玉がゆっくり飛んでしまった。そのときに「ゆっくり飛んできたからー、ゆっくり倒れるー」という対応を即興でやってくれた。テクノロジーを新人芸人のようにフォローしてくれて、凄くありがたかったですね。芸人はスポーツ選手みたいなところがあって、スプリンターのような瞬発力、反応と対応力が身体に叩き込まれているんです。 今回、芸人のお客さんから、陣内智則さんの映像を使ったコントを引き合いに出して、その進化系だということを言われたんですが、僕らからすると別物なんですよね。陣内さんのネタは、映像相手にあらかじめ決まった内容を演じている。それをアドリブのように演じている陣内さんが凄いんです。 それに対して『テクノコント』では、段取りを固めておく必要はなくて、お客さんのリアクションを見ながら、その場で呼吸を微妙に変えたり、アドリブを挟んだりする余地があります。この両者を同じように言われてしまうのは、ちょっと課題だと思っていて、次はもっと明確に違いが分かるような見せ方をしたいです。
点線としての想像力を「線」にするー『数学泥棒』
――ここからは具体的な演目についてお聞きしたいと思います。公演序盤の「数学泥棒」は、2人組のコンビによる正統的なコントをAR技術で拡張した、『テクノコント』を象徴するような作品でした。
『数学泥棒』:数学の授業中、先生が描いた三角形の中から、「点A」を取り出し、持ち去ろうとする生徒。そこから先生と生徒との、数学記号を駆使した追いかけっこがはじまる。生徒は「点X」をまきびしのように撒いて授業を邪魔し、先生は「√」を使って生徒を捕まえようとする。お笑いコンビ・男性ブランコの代表的なネタのひとつだが、今回、ARによって拡張されたことで、より視覚的に分かりやすい作品となった。■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。
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小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第7回 インタールード〜年表と人物相関図から
2020-04-02 07:00550pt
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第7回。 今回はインタールードとして、世界大戦期のオーストリア諸邦とドイツを中心に、中欧における科学と哲学の交錯を追ってきたこれまでの流れを図解で振り返ります。
前回をもって中欧圏を主舞台にした本連載の「第1部」も一区切りとなり、次回から新たに「第2部」に入ることになる。今回はインタールードとして、読者がこれまでの連載内容を整理する機会にさせていただきたい。本連載では、様々な人物や事件を時代や地域を行き来しつつ登場させているため、全体の流れをつかむのはいかにも大変である。そこで、本連載の全体像(といってもこれまでの回に登場したものに限られるが)を把握するために年表と人物相関図を用意するとともに、これまでの大きな流れを振り返ってみたい。
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