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日本アニメが3D化して完全に滅ぶ日 -『アーヤと魔女』|山本寛
2021-09-15 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載、いよいよ最終回となります。2年にわたって続いた連載で取り上げる最後の作品は、現在公開中の宮崎吾朗監督の劇場最新作『アーヤと魔女』です。スタジオジブリ初の3DCGへの挑戦を、どう足掻いても色眼鏡を外しては見てもらえない宿命を背負った「二世監督」が担わされたことの意味とは? そして日本アニメのゆく末は? 吾朗監督との意外な接点のあった山本さんが、真に「アニメを愛するための方法」を切に問いかけます。
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第24回 (最終回)日本アニメが3D化して完全に滅ぶ日 -『アーヤと魔女』
丸2年を迎えたこの連載だが、急な話で恐縮だが、今回をもって一旦休止しようと思う。 楽しんで読んでいただいていた方には申し訳ないが、最近になって編集部に泣きを入れたり、本文中で愚痴を言ったりして情けない姿を見せていたので、これでご勘弁いただくことにした。
アニメを観て、語るのが辛くなったのだ。 もはや悪態すら浮かばない。 アニメに知性を、批評性を、「モダニズム」を求めるのは、もう無理かも知れない。そう思い始めたのだ。
そんな絶望感を胸に、最後取り上げる作品には『アーヤと魔女』(2021)を選んだ。
また「会った自慢」になるが、宮崎吾朗監督(以下親愛を込めて「吾朗さん」と呼ぶ)とも1回だけお会いして、じっくり話をさせていただいた。 実は僕の実写作品『私の優しくない先輩』(2010)に父親役として吾朗さんをキャスティングできないか、とダメ元でオファーしてみたのだ。 結果NGは出たが、「そんなオファーを出す監督は面白いから会ってみたい」と、スタジオジブリにまで呼ばれた、というのが経緯だ。 まだ東小金井駅の高架化工事が終わっていなかった頃の話だ。
その時は「初ジブリ」の過度の緊張で何を話したかはほとんど覚えてないのだが、かの有名なプロデューサー室に通されて固まったように座り、少しして吾朗さんがやってきて開口一番「いやぁ……代わってほしいっすよ……」と泣き言を漏らしたのだけは覚えている。 それからランチをご馳走してくれることになり、近くのイタリア料理屋に吾朗さんの運転で連れていってもらった。 そこで何を話したかもまた覚えていない。 しかし帰りの車中、助手席に座っていた僕は、少しでも爪痕を残そうと思い切って訊いてみた。 「あの、一番好きな映画監督って、誰ですか?」 吾朗さんは少し考えて、 「そうだなぁ……(ヴィム・)ヴェンダースかな?」
僕はすぐ『ゲド戦記』(2006)を思い出していた。 ああ、この人はやっぱり、こういう作風だったんだ。
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読書のつづき [二〇二一年三月]人生に相渉るとは何の謂ぞ|大見崇晴
2021-09-14 07:00550pt
会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。今回は二〇二一年三月に綴られた日々の記録です。夏目漱石と同時代にイギリス近代小説に触れた徳田秋聲が、いかに漱石とは異なる日本近代文学の歴史を切り拓く可能性を持っていたかの気づきや、大河ドラマの時代考証を降板するに至った歴史学者の舌禍など、新旧の文壇・論壇のありようを読書を通じて等距離から随想します。
大見崇晴 読書のつづき[二〇二一年三月]人生に相渉るとは何の謂ぞ
三月ニ日(火)
昼食に日高屋、中華そば。ブックオフで以下を買う。
鈴木美潮『昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか』
岡本かの子『老妓抄』
大江健三郎が大江健三郎賞を受賞した作家たちと対談した本を買いたいが、新刊書店でも古書店でも見かけなくて困っている。ネット書店で買えば良いのかもしれないが。
岡本かの子の短編「鮨」を帰りの車中で読む。無駄な文章が少なく、それでいて都会人の生態を描くことについては目配せが効いている。日本近代小説の功徳を感じる一篇だ。そういえば寺田透か誰かが座談会で三島(由紀夫)君は岡本かの子が途中でやりきれなかったことを継ぐのだから、と発言していたことを思い出したが、こういう瑣事を通じて人間の機微を描くというのは三島由紀夫には不向きではないだろうか。露悪趣味的なところは相通じるところがあるにしても。
夜になり急に気温が下がり始めた。強風がシャッターを叩く音が響く。明日は今日に比して五度も下がるという。気温が変わりすぎて神経衰弱になりそうな気候だ。まともに付き合っていたら倒れてしまう。
インターネットで流れてきた「ゆるキャラ」の映像を見て、もう「ゆるい」キャラクターというのは希少種になってしまったのではないかと感じた。
三月三日(水)
昨夜の強風で東急東横線の架線に建設現場の足場がひっかかっていた。衝撃的な映像で朝ぼらけだったのも目が覚めてしまった。今朝になっても東横線は復旧していないそうだ。
よく考えると桃の節供だ。
ブックオフで以下を買う。
ケイト・ウィルヘルム『鳥の歌いまは絶え』
ユルゲン・コッカ『資本主義の歴史』
ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』
ナンシー・スノー『プロパガンダ株式会社』
魚住昭の講談社創業家研究書が気になる。
三月六日(土)
通院。すぐ診察が終わる。待合室は足の置き場がないほどの混雑。診察は五分。会計に三十分。
吉祥寺のよみた屋で以下を買った。
マクファーソン『自由民主主義は生き残れるか』
氷上英廣『ニーチェの顔』
長谷章久『東京の中の江戸』
岩波中国詩人選集『李賀』、『王士禎』
ダントレーヴ『自然法』
ヴィーコ『学問の方法』
ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』
H・カメン『寛容思想の系譜』
M・クランストン『自由』
シェイクスピア『リチャード三世』
森鷗外『諸國物語』上下
広津和郎『新編 同時代の作家たち』
西荻窪の盛林堂書房で以下を買った。
橋本勝雄編『19世紀イタリア怪奇幻想短篇集』
平野謙『作家論集 全一冊』
サマセット・モーム編『世界文学100選』第五巻
音羽館では牧野信一『ゼーロン・淡雪』を買った。荻窪の古書ワルツでは以下を買った。
金井美恵子『マダム・ジュジュの家』
講談社版日本現代文学全集28『徳田秋聲集』
岩波中国詩人選集『王維』
合評 金関寿夫・川崎寿彦・橋口稔『新しい詩を読む』
広津和郎の『新編 同時代の作家たち』は、平批評家(ヒラの批評家)と名乗ることもあった広津和郎ならではの回想録で、父親も作家であったことから若くして多くの作家を見知っていたこともあり、多くの作家の表には出ない顔が見え隠れする文章が集められている。正宗白鳥との交流では、一般に思われるニヒリストとしての白鳥ではなく、篤実な面を見せる白鳥が綴られている。
徳田秋聲は花柳小説を読んでから今までよりも読むようになったのだけれど、研究書や後進作家たちのエッセイを読むと、夏目漱石と同時代にイギリス近代小説に(原語で)触れて創作していたこともあり、漱石とは別の「ありえた日本近代小説」が秋聲に期待されて読まれている。そうしてみると、「ダイヤモンドに目がくれて/乗ってはならぬ玉の輿」といった七五調が綺麗な尾崎紅葉率いる硯友社に属した割には、読みにくい曲がりくねった文章で、それでいて東京人だった紅葉の門下にふさわしく都会の明るさも苦味も描くあたりは、漱石よりも市井の人間を描け、観念的でない近代日本が描けたのかもしれない。たとえば「新世帯」は江戸から続く丁稚奉公(少年時から使用人として働くこと)が当たり前の時代である明治でありながら、その上で登場人物「独立心」「個人主義」といった近代的な価値観に染まっているのが描かれている。
一体が、目に立つように晴れ晴れしいことや、華やかなことが、質素な新吉の性に適わなかった。人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風であった。どれだけ金を儲けて、どれだけ貯金がしてあるということを、人に気取られるのが、すでにいい心持ではなかった。独立心というような、個人主義というような、妙な偏った一種の考えが、丁稚奉公をしてからこのかた彼の頭脳に強く染み込んでいた。
(青空文庫版「新世帯」四)
引用した文章に二十一世紀を生きる私達が理解できないところはあまりない。私生活(プライバシー)にズカズカと踏み込んで結婚の世話をしようとする人物たちに戸惑いや嫌悪感を抱く新吉に、むしろ感情移入するのではないだろうか。その意味ではジェーン・オースティンの小説を読むのと変わらない面が秋聲の小説にはあって、それは漱石にはなかった(乏しかった)ものだろうなとは思う。なにしろ「新世帯」は一九〇八年に発表された作品で、漱石であれば「ストレイシープ」と連呼されていくうちに、どんどんと観念論の沼から出れなくなるような『三四郎』と同年の小説なのである(私はぐるぐると悩んでばかりの漱石の小説は退屈で、どうしても点が辛くなりがちである)。
三月七日(日)
注文した『福音主義神学概説』を受け取る。重い。嵩張る。もう読む気が失せる。
秋聲を読み進める。李賀も読む。解説によると「鬼才」という言葉は李賀を評するために生まれた言葉だという。李賀はそれほど破格の詩人だという。
R-1ぐらんぷり、今日が決勝戦の放送日であることを忘れており、見逃した。事前の報道で出場者を確認していたから、ZAZYに期待していたのだが、ゆりやんレトリィバァが優勝したそうだ。どんな内容だったのだろうと思ってネットを調べてみると、フジテレビの構成と演出が壊滅的で、出場者たちが可愛そうだったというコメントで溢れていた。
注文したジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』をざっと眺めていて気づいたのだが、今回の新版(二〇一五年改版)では徳岡孝夫と半藤一利の対談が収録されていた。掻い摘んで説明すると、トーランドが日本の支配層からも取材を勝ち取って成立した世に稀な第二次世界大戦に関する本書は、最初は半藤氏が目をつけ文藝春秋で出版しようと試みたが叶わず、毎日新聞社に勤務していた徳岡氏に持ち込んで出版社を変えて世に出たものだということだった。
良くも悪くも、むかしの日本の保守(オールド・リベラリスト)というのは、こういうもので、三島由紀夫に信頼されていた徳岡孝夫が、『日本のいちばん長い日』の著者で夏目漱石の親戚の半藤一利とが相通じている。かといって、それはあくまでも保守的な立場を崩すことはなく、徳岡孝夫は「諸君!」に長年匿名でコラム「紳士と淑女」を連載していたのである。
最近、日本のフランス現代思想界隈(なんとニッチな業界だろう!)で話題になりつつあるシモンドンだが、サルトルとの共著があるそうだ。なぜサルトルがシモンドンに関心を持ったのかはわからないが、可能性としてあるとすれば「日常性批判」で知られるルフェーブルがサイバネティックスに近づいたころが起因である気もするが、実際のところはどうなのかは確かめもしていない。
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働き方イノベーターは幻想が得意 ──(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革 第17回〈リニューアル配信〉
2021-09-13 07:00550pt
(ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。働き方改革が実行されたあとの環境を詳細に思い描くことができる、「幻想力」とも言うべき能力。その資質を持つ人の特徴や十分に力が発揮されうる環境について紹介します。
(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第17回 働き方イノベーターは幻想が得意
あらすじ
私の働き方改革を実践できる働き方イノベーターの素養の3つ目として、「周囲からすると突拍子もない、非現実的に思える改革アイデアを、あたかも当然できることのように語る」という点が挙げられます。 彼らイノベーターは、多くの人が「変えられない与件」として置いている前提から覆してしまいます。伝統や固定概念にとらわれず、異なる世界で得られた豊富な選択肢や知識をうまく組み合わせて自分の仕事に当てはめて、やる事・やり方・やる力を変えてしまいます。 この能力は単に「アイデア発想力がある」という表現に留まらず、「幻想力」の域に到達しているのではないかと考えます。 今回からは、働き方イノベーターの「幻想力」に着目し、なぜそれが重要かについて考えていきたいと思います。
改革には幻想することが欠かせない
働き方改革に限らないかもしれませんが、何かを改革し、新しいやる事・やり方・やる力にシフトするにあたっては、明確なやりたいこと(志事)を持つことや幅広い選択肢を知っていることに加えて、「具体的にどう変えればいいかイメージができる」ことも不可欠です。 たとえば、営業スタイルを改革する上で、「会いに行くのではなく、来てもらえないか」という新しい選択肢を閃くだけではなく、具体的にセミナー型での集客という手法やその実現方法、さらにそれを社内に説得して賛同を集め進めていくプロセスについてもイメージができることが必要です。そうしなければ、選択肢が浮かんだだけで、自分自身ですら説得することができず、その実現に向けて一歩踏み出すことができないでしょう。 もう一つ例を挙げると、以前私は組織内のメンバーが作成した資料をデータベース(DB)で共有化することで、新たな資料づくりの素材として活用することができて効率化につながると考えました。しかしさらに思考を進めてより具体的に自分がそのDBを利用しようとしているシーンをイメージしていった結果、「私だったら忙しいのにわざわざ人のために資料を投入することはしない」というとても残念な結論に至ったのです。 そこでさらに思考を進め「では自分はどういう状況なら自分で作成した資料を人に渡すのか?」と自問していろいろなシーンを想像してみたところ「自分が途中まで作った資料の仕上げを代わりに整えてくれる人がいれば、その人になら喜んで自分の資料を渡す」と気づいたのです。さらに、その人から笑顔で「この資料いいですね! 他の人にも是非紹介していいですか?」と聞かれれば、きっと自分の資料をほめられたことに嬉しくなってうなずくであろうこともイメージができました。 こうしたイメージの結果、新たな事業として、「ナレッジコンシェルジュ」というサービスが誕生しました。これは、コンシェルジュという「コミュニケーション上手」な人が社内に常駐して、資料の作成を代行したり、集まった資料を作成者の許可を得て公開・発信するサービスで、今でも多くの企業で働き方改革の手段の一つとして採用いただいています。
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Daily PLANETS 2021年9月第2週のハイライト
2021-09-10 07:00おはようございます、PLANETS編集部です。
9月に入ってから都内では急に涼しくなってきましたがいかがお過ごしでしょうか。
さて、今朝のメルマガは今週のDaily PLANETSで配信した4記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの概要をご紹介します。
今週のハイライト
9/6(月)【連載】文化系のための野球入門明治期日本のスポーツとエンターテインメント──「武道の誕生」とベースボール|中野慧
ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第13回「明治期日本のスポーツとエンターテインメント──「武道の誕生」とベースボール」をお届けしました。明治初期の日本で「ベースボール」はどのように受け止められたのでしょうか? 「作られた伝統」としての武道と「新奇なサブカルチャー」に過 -
空想都市の作り方と現実の都市の歩き方|今和泉隆行×白土晴一
2021-09-09 07:00550pt
今回のメルマガは、空想地図作家として知られる今和泉隆行さんと、「設定考証」としてフィクション作品の架空都市設計に携わる白土晴一さんとの特別対談をお届けします。Googleマップから目的地への最短経路を「検索」することが当たり前となった現代、あえて都市に潜む偶然性に目を向けることでみえてくるものとは何か? 空想都市と現実の都市を渡り歩くお二人から、都市観察の極意を伺いました。(聞き手:山口未来彦、構成:徳田要太)
空想都市の作り方と現実の都市の歩き方|今和泉隆行×白土晴一
空想都市設計者たちの、街を見る視点
──今回は空想地図作家として知られる今和泉隆行さんと、フィクション作品の設定考証に携わり、PLANETSが運営しているメールマガジンやWebマガジン 「遅いインターネット」でも「東京そぞろ歩き」を連載中の白土晴一さんに、「現実の都市をどのように見ているのか」「空想都市のリアリティを生むにはどうすればいいのか」というテーマでお話ししていただきます。まずはお二人がどのような活動をされているのか、簡単にご紹介していただいてもよろしいでしょうか。
今和泉 7歳の頃より、実在しない都市・中村市の地図を書いております。特に観光名所もなければ見どころもない、人口が150万人くらいいる何の変哲もない都市です。
白土 「設定考証」と言って、基本的にはアニメーションやゲーム、漫画などフィクションの世界観を作るための設定を考えるという仕事をしています。この仕事にステレオタイプ的なものはなく説明がしにくいのですが、僕の場合はその世界観に合う街並みや、キャラクターの立場に忠実なセリフを考えたり、美術の人に地形の発注をしたり、作品のディテールを構築していくというのがだいたいの仕事です。
僕は地理も地図もすごい好きなので、今和泉さんの空想地図を見たとき、これは褒め言葉ですが、極北の趣味を歩いていらっしゃるなと思いました(笑)。「タモリ倶楽部」などに出演されたときも「これはすごいな」と思って、うちの業界では地図を描く人が足りないので何か依頼しようかなと考えたくらいです。実際に地図を作るというのはかなり大変なんですよね。
今和泉 わかります。私はテレビドラマの小道具として空想地図を作ることもあり、そのたびに実感することですが、地図や地理に対して博識で緻密な方は逆に作れないと思っています。厳密になりすぎると実在するどこかの場所にものすごく似てしまう。そうすると空想地図ではなくなってしまうので、ある程度わからないまま作ってしまう、思い切りやある種の適当さがないと作れないんです。
一方でそのために修正点が多くなることもよくあって、実際ネットに上げたものでも時々「ちょっと違うな」と思ったときには修正をしています。たとえば都市の規模から考えると、地下鉄を描いてしまったことでつじつまが合わなくなってしまうことがありました。地下鉄があるということは人口が少なくとも100万人ぐらいはいるはずです。しかし中心市街から半径1~2kmの場所に農地ができてしまっていたので、それではつじつまが合わないということで、少しずつ都市郊外の住宅地を広げていったというような経緯があります。
インフラ構造に合わせて都市の規模を修正(今和泉さん作成)
白土 なるほど。そういうときフィクションの場合なら、地下鉄ができた理由は何だ、と考えます。たしかに地下鉄市街の人口は150万人クラスでも採算が取れるかどうかギリギリのレベルなので、農地の近くにあるとしたらそれは軍事的な理由なのか、政治的な意図か、それに伴う産業的な意図か、そういった理由がないと作れない。
今和泉 そうなんです。もちろん地下鉄を消すこともできたんですが、あえて広げてみたのが最初の修正です。
ちなみにこの後に、大学の建物の配置も直しました。地図の下絵を作ったのが高校生のときだったので大学の構造をよくわかっていなくて。
大学内の構造をより詳細に(今和泉さん作成)
白土 その大学は建てられて何年くらいというイメージですか?
今和泉 古いところは、大学になってから60〜70年、新しいところが20〜30年です。
白土 昭和のベビーブームに伴って大学の規模が広がった時期ですね。
今和泉 いわゆる団塊の世代が学生になったころに急増したような大学です。
白土 僕としてはこうやって建物やインフラの起源を探るのがすごい好きなんですよ。僕の友人に漫画家の速水螺旋人さんという人がいて、彼と旅行に行った時はその地域の普通の道路や街並みを撮影し続けました。観光地である必要がまったくない。「この街の商店街はこの形だからこんなところがあるんだろう」とか「道路の幅がこれくらいだから道路の都市計画は後から行われたんじゃないか」とか、何気ない街中でもそういう話をずっとしながら歩いている。
茨城県日立市にて(白土さん撮影)
今和泉 すごく自分と似た移動の仕方をしている気がするんですけど(笑)、私も観光地には行かないんです。行ったとして10分くらいで観光は終わりにして、観光ガイドに書いてあるような情報は誰かと一緒に行くときでないかぎりわざわざ確認しません。ただその観光地が、遠方の人が来るようなところなのか、海外の人が来るのか、それとも地元の人にとっての観光地になっているかというような導線の部分は気になるので、目の前までは行ってそれを確認したらすぐに引き返してしまいます。
白土 すごくわかります。県内レベルで人が集まるところなのか、国際レベルで集まるのかで明らかに観光インフラが違いますよね。
今和泉 そうなんですよ。それによってその土地の産品を名産品として売っていくのか、リーズナブルな価格で売っていくのかといった価格戦略も変わってきます。地元向けのものはそこまで高くなりませんが、観光客の出身がその土地から遠くになればなるほどどんどん価格がつり上がってくる。なので私の場合そういった観光地では食事をせず、あえて地元民向けの商店街に無雑作に入って飲食店を探すといったこともします。
白土 わかります。僕はその前に地元のスーパーに入ることから始まり……。
今和泉 私も地元のスーパーは大好きで、特に商店街、大型商業施設、百貨店、駅ビル、この辺りは必ず全フロア周りますよね。というのは、「街がどんな人をどのように集めているか」がよくわかるからです。たとえば百貨店というものは、40〜50代以上で品質の高い商品を求める層が集まる、と思って実際に入ってみると、意外とそうではない百貨店もあったりするんです。近隣でいえば柏の高島屋や二子玉川の高島屋などは客の年齢層が比較的若めです。
反対に、イメージ通り百貨店が年齢層が高めの人に向けて作られている地方に行けば、それと対になるかたちで建てられた駅ビルや大きめのスーパーなどが若者を集めているかと思いきや、こちらも若者向けの商業施設がスカスカだったりすることがあるんですよ。「おや?」と思うわけですよね。ここには首都圏と地方での年齢層の違いが現れていて、地方では大都市部より生産年齢人口のど真ん中、30~40代を見かけることが少なくて、バスに乗れば高齢者とと子供しか乗っていません。いったいどこに行っているのかと思って、試しに郊外のイオンモールに行ってみると、若年層から40代まで、ここにたくさんいたわけです。イオンモールと一口に言っても首都圏と地方ではまったく違うので、初めて訪れた土地ではショッピングモールをくまなく周らなければいけないんですよ。
白土 ショッピングモールの設計では、ポーカーゲームで切る手札を熟考するように、どのテナントをどのように出店させるかを戦略的に考えるのが経営の肝なんですよ。たとえばコーヒー店がスタバなのかそうでないのかはディベロッパーの選択によるわけです。また明らかに若者向けでないような高級お菓子店などが入っていると、「これは恐らく贈呈品目当てで来客する層を想定しているから、利率はよくなくても置いておくことに意味があるんだな」という分析ができるわけです。群馬など地方のショッピングモールを周ると、こういったデパート的な役割を担っているところがいくつかあって。
今和泉 前橋のけやきウォークには紀伊國屋書店が入っていますけど、あそこも少し百貨店的な役割を感じましたね。
白土 もともとショッピングモールを考えたのは、オーストリア出身のビクター・グルーエンという建築家です。ウィーンの城壁撤去後に作られた環状線、リングシュトラーゼにできた市民が自由に歩き回れる空間から着想を同じようなものがアメリカにも作れないかと考え、そうすれば郊外と中心部の人たちが交流しコミュニティができるはずだという理想があったんです。それをアメリカでどう実現するかと考えたときに、郊外と街中の人たちをつなぐには、巨大な駐車場を作って大量の車が集まれる場所を作ればいいということでショッピングモールが生まれました。日本でもモールはそのコンセプトで設計されてます。
埼玉県羽生市のイオンモール(白土さん撮影)
また彼の伝記『Mall Maker ;Victor Gruen, Architect of an American Dream』という本が非常に勉強になったのですが、ショッピングモールの内装をまっすぐにせず必ずカーブを描かせるのは、広くて見渡せる長いものは圧迫感が大きくなってしまうので、それを少し緩和させ、あらゆるものを融和させようという考え方からなんです。これをグルーエン・エフェクトと言います。
今和泉 あれはグルーエンのアイデアだったんですね。
白土 元々はそうですね。でもこれは街の中でも同じですよね。浅草のように見通しのいい露地などは観光地としての価値が高まっていると思います。逆に雑多な人が集まる商店街をみてみれば、東京都内だと暗渠に併設するようにしてできたところが多いですけれど、その暗渠通りの曲線が場所によってはわりと「グルーエン・エフェクトっぽいな」と思うようなこともあって。
今和泉 なるほど。商店街は設計されたものではなくて、偶発的にできたものではありますが、そんなこともあるんですね。
設計意図から外れたものの魅力
白土 今和泉さんは、ご自分で地図を描くときにたとえば「こういう商店街にしたい」というような考えはありますか?
今和泉 地図を描く際に自分がどの立場にいるのかということを考えるわけですが、結局私は「設計者」ではないんですよね。設計者の視点になってしまうと、「計画通りに事が進んでいるか」という視点で街を見ることになってしまいます。しかし都市計画がいつも理想通りに実装されるかといったらそんなことはほとんどないので、どちらかというと元々の計画がどのように変化し、どのように現実に着地していったかということの方に興味があって、それをただ観察していたいんです。
白土 それはわかります。意図と外れた部分は魅力的ですしね。
今和泉 そうなんですよね。たとえば那覇などに行けば、合理的な設計者の視点からすると外れていることだらけだというのがわかります。というのは、まず彼ら彼女らは土地や地形よりも、地縁的つながりを非常に重視する社会で生きていると思います。ここには少し悲しい歴史がありまして、戦後の占領期にとある集落が米軍に接収されると、集落ごと別の場所に移るわけですが、接収解除がされた後にその集落が元の土地に戻るかというと、戻らないんです。たとえば戦前の市街地は国道58号線というメインストリートより海側にあったのですが、ここが米軍に接収された際には内陸部に移動しました。そして接収解除がされてからは石川栄耀という人が都市計画をして再び市街地を整備したのですが、街がそこに戻ることはありませんでした。一応そこには門があって「ここからが街だよ」と知らせてくれるものはかろうじてあるのですが、どちらかというといまは、観光客も寄りつかないような少し危ない雰囲気の住宅地になってしまって、昔はそこが市街地だったという匂いはほぼ残っていません。どうやら、先祖代々の土地に住んでいるということよりも、いま誰と誰が繋がっているのかという人的コミュニティを大事にしているらしいということがわかります。
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『モロッコ、彼女たちの朝』── 密室劇が描いた「生きづらさ」とニューノーマルへの視線|加藤るみ
2021-09-08 07:00550pt
今朝のメルマガは、加藤るみさんの「映画館(シアター)の女神 3rd Stage」、第20回をお届けします。今回ご紹介するのは『モロッコ、彼女たちの朝』です。女性監督作品として初のアカデミー賞モロッコ代表に選ばれた本作。密室劇とイスラム社会に暮らす女性の閉塞感がリンクした演出から、加藤さんは何を考えたのでしょうか。
加藤るみの映画館(シアター)の女神 3rd Stage第20回 『モロッコ、彼女たちの朝』── 密室劇が描いた「生きづらさ」とニューノーマルへの視線|加藤るみ
おはようございます、加藤るみです。
この前、実家の掃除をするタイミングがありました。 現在の私の実家の部屋は、大阪に引っ越すタイミングでダンボールに詰めた、“いらないと思うけどなんだか捨てられない物”が大量に置いてあって、ほぼ物置き状態。 実家に帰るたびに父親に「片付けろ!」と口うるさく言われていたんですが、めんどくさいのもあってずーっと放置していたんですね。 しかし、ついにこの前「もう業者に頼むぞ!」と、なんだかヤバそうな言葉を放たれたので、重い腰を上げ物置き部屋を片付けることに。 といっても、物が大量にありすぎるので、捨てたり、リサイクルショップに持っていったり、メルカリで売ったり、少しずつ進めていくつもりなんですけど。 それで、こつこつと掃除をしていたら幼稚園のころ使っていたクーピーペンシルを発見して、「うわー、クーピーっていう言葉自体、何年ぶりに発したんだろう!」って感じで、懐かしさが込み上げて手が止まってしまいました。 これだから実家の掃除は進まないんですよね。
そのクーピーは、何本か折れてたりなくなっていたりしたんですが、金色と銀色は綺麗に健在していて、「そういや金色銀色はなんかカッコいいから、特別な時にしか使わないでおこう」と結局もったいなくてあまり使ってなかったのを思い出しました。 それと、もう一本綺麗に残っていたクーピーが、「はだいろ」と表記されていたクーピーでした。 思えば、「はだいろ」はとても使いづらい色でした。
あのころの私は、「人を描くときにしか使えないじゃん」って思っていたし、潜在的な意識で「はだいろ」は肌しか使いどころがないと思っていたから、あんなに綺麗に残っていたんだと思います。
あのころの私に声をかけれるのなら、もっといろんな色で肌を人を描いてほしいと言いたいです。
今は、うすだいだいやペールオレンジと表記されていますが、あのころは当たり前に表記されていた言葉だったし、私も最近になるまで当たり前に発していた言葉だったと思います。 この小さいころに植え付けられた固定概念みたいなものを、しっかり塗り替えていかなくちゃなと、思いました。 意識しないと消えないくらい、今まで当たり前に発していた言葉なので、それが苦しいです。 もし日々のなかで、うっかり発してしまったら、ひとつひとつ反省しなくちゃと思います。 その言葉で誰かが傷つく可能性があることを忘れてはいけない。 私たち大人がこれからの時代にちゃんと伝えていかなくちゃいけないことだと感じました。
「はだいろ」のクーピーは平成で時が止まったまま、完全に過去の遺物として私の部屋の片隅に眠っていました。
そんなことを思っていたところで、今回は本題に入る前に先に一本紹介したい映画があります。 8月27日に公開された『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』というドキュメンタリー映画です。
1969年にニューヨーク・ハーレムで開催された、ハーレム・カルチュラル・フェスティバルの映像が、50年の時を経て初公開。 スティーヴィー・ワンダー、B.B.キング、ニーナ・シモン、スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどのブラックミュージックのスターが出演し、伝説と呼ばれた音楽フェス。 ただ単にフェスの映像を流すのではなく、当時の参加者のインタビューも織り込まれていて、ドキュメンタリーとしての構成力も見事です。 この時代を知らなくても、出演しているアーティストたちを知らなくても、人種差別というものに向き合い、考えることができる、非常に胸を打たれる内容となっています。
キング牧師やロバート・ケネディが暗殺されるなど革命的な雰囲気が生まれていた時期で、映画『シカゴ7裁判』('20)で描かれる、警察と群衆の衝突が発生した翌年。 1969年7月20日、人類が初めて月に降り立った日に行われていたのがハーレム・カルチュラル・フェスティバルです。 この辺りのアメリカの歴史を見ると、いかに激動の時代だったかがわかります。 差別が横行し、ドラッグが蔓延し、希望を失っていた人々の心を救った音楽の力。 “アーティストはその時代の代弁者”と語る、ニーナ・シモンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「Everyday People」など、圧倒的パフォーマンスに自然と涙が溢れました。 そして、ここで起きている問題は、過去の問題ではなく、今現在の問題でもあるということ。 『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』は、過去の歴史をしっかり見直し、今を見つめるドキュメンタリー映画でした。 この夏のイチオシ。 一人でも多くの人に観てもらいたいです。
さて、次に紹介するのも、『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』と同じく、一人でも多くの方に観てもらいたいと思った作品です。
タイトルは、『モロッコ、彼女たちの朝』です。
こちらは、現在公開中の作品です。(7/23時点)
おそらく商業映画としては、本邦初公開の長編モロッコ映画です。 最近、日本でもアラブ圏の作品の上映が増えてきました。 レバノンの『判決、ふたつの希望』('17)は、パレスチナ難民や宗教、民族間の問題をテーマに、国民のささいな喧嘩が国中を巻き込む大喧嘩に発展するという極上の法廷エンターテイメントに仕上がっていましたし、イスラエルの『声優夫婦の甘くない生活』('19)は、ロシアのペレストロイカ後にイスラエルへ移民したユダヤ人老夫婦の関係性を描いた、実に秀逸なオフビートコメディで私のお気に入り。
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「西海岸のハーバード」を目指したスタンフォード大学の歩み |小山虎
2021-09-07 07:00550pt
分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第17回。東海岸のMITにならぶ存在として、第二次世界大戦後の西海岸にコンピューター・サイエンスの一大研究拠点を築き上げたスタンフォード大学。もともとは研究大学ですらなかった小さな私立大学がMITと同様に「アメリカン・ドリーム」を成し遂げ、シリコンバレーの礎を築いていく過程と、その波の中で科学哲学・分析哲学が果たした役割について光を当てていきます。
小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第17回 「西海岸のハーバード」を目指したスタンフォード大学の歩み
前回の連載で取り上げたのは、MITという特異な大学が成し遂げた「アメリカン・ドリーム」だった。じつは、MITの後を追って同様の「アメリカン・ドリーム」を成し遂げた大学がある。それは、人工知能が誕生したダートマス会議の中心人物だったジョン・マッカーシーがMITから移籍して自身の城とも言える人工知能を設立した、スタンフォード大学だ。 スタンフォード大学もまた、MITと同様にその名を聞いたことがない人はいないと言ってよい、世界トップクラスの知名度を誇る大学だろう。各種の大学世界ランキングでも1、2位を争い、マッカーシーのスタンフォード人工知能研究所だけでなく、シリコンバレーを誕生させるなど、コンピューター・サイエンスの歴史にとってスタンフォードの名前は輝かしいものがある。しかし、おそらくあまり知られていないことだが、スタンフォード大学は、第二次世界大戦終戦当時はまだ、西海岸の小さな私立大学にすぎず、研究大学ですらなかった。スタンフォードが現在のような巨大な研究大学へと変貌するのには、MITともまた異なった経緯があった。そして、あまり知られていないが、スタンフォード大学の変貌は、科学哲学や分析哲学のその後にも大きく影響するものだったのだ。
スタンフォード大学は息子を供養するために大富豪が農場跡に設立したものだった
スタンフォード大学の正式名称は、「リーランド・スタンフォード・ジュニア大学(Leland Stanford Junior University)」という。設立したのは、カリフォルニア州の実業家リーランド・スタンフォードとその妻ジェーン・スタンフォード。スタンフォード大学の正式名称は、若くして亡くなった彼らの息子リーランド・スタンフォード・ジュニアに因むものであり、大学自体もリーランド・スタンフォード・ジュニアを偲ぶために1891年に設立されたものだ。 ニューヨーク生まれのリーランド・スタンフォードは、ゴールド・ラッシュで財を成した大富豪であり、カリフォルニア州知事や連邦上院議員も務めたほどの大物だった。亡くなった息子のリーランド・スタンフォード・ジュニアは幼少期から好奇心旺盛で、文化や芸術にも親しんでいた。スタンフォード夫妻は、息子の名を冠した大学の設立こそが、息子の供養になると考えたのだ。しかし、当時のアメリカではドイツ式大学教育の導入が本格化していたものの(本連載第9回)、その波はまだ西海岸にまでは及んでおらず、東海岸のエリートたちにとっては、「カレッジ」ではなく「大学」を設立することは夢物語か、単なる無駄遣いでしかないように映っていた。 大学を設立すべきか悩んだスタンフォード夫妻は、ハーバード大学の学長だったチャールズ・エリオットに相談する。エリオットは、ハーバードを研究大学へと改革した伝説の学長だ(本連載第9回)。彼は夫妻に予定通り大学を設立することを勧め、必要な費用や土地、建物などについて助言した。こうしてスタンフォード大学は、リーランド・スタンフォードがカリフォルニア州パロアルトに所有していた農場があった場所をキャンパスとして開校するのである。「農場(Farm)」は現在でもスタンフォード大学の愛称となっている。 20世紀に入るとスタンフォードは大学院を整備し、研究大学としてのかたちを整える。夫のリーランド・スタンフォードは、スタンフォード大学開校からわずか2年後の1893年に死去してしまうが、妻のジェーンはエリオット・ハーバード学長の助言に従い、「西海岸のハーバード」となるべく大学に支援を続けていた。しかし、スタンフォードが我々の知るような世界トップクラスの大学となるのは、すでに述べたように、それから半世紀以上後になってからだった。
▲農場時代から現在まで残っている建物の一つ、「赤倉庫(Red Barn)」。現在では馬術センターとして用いられている。(出典)
シリコンバレーの父、フレデリック・ターマンによるスタンフォード大学改革
MITが大きく変貌を遂げたのは、元副学長のヴァネバー・ブッシュが第二次世界大戦開戦前夜に当時の大統領フランクリン・ルーズベルトとかけあって設立させた「全米防衛研究委員会」、およびその後身であり、マンハッタン・プロジェクトをはじめとする戦時巨大プロジェクトを実施していた「科学研究開発局」から、膨大な資金を獲得したからだった(本連載第16回)。一方、スタンフォードは、MITだけでなくハーバードやプリンストンをはじめとする当時アメリカの著名大学がこぞって参加していたこの流れからは完全に外れていた。軍から獲得できた資金も極めて僅かな額に過ぎず、マンハッタン・プロジェクトに関わった研究者は一人もいないというありさまだった。当時のスタンフォード大学は、設立当初のMITのような、予算不足でいつ吸収されてもおかしくないという状態でこそなかったが、あくまで地方の一私立大学に過ぎず、中堅クラスの大学だという評価を拭い去ることはできないままだったのだ。 そのような状況を変えたのは、もっぱら一人の人物の尽力による。彼の名はフレデリック・ターマン。「シリコンバレーの父」とも呼ばれるターマンこそ、スタンフォードを現在のような世界的な研究大学へと育て上げた中心人物である。 スタンフォード大学で教えていた心理学者を父に持つターマンは、自身もスタンフォード大学に入学するが、大学院はMITに移り、博士号を取得する。ターマンはMIT史上8番目の博士号取得者であり、指導したのは誰あろうヴァネバー・ブッシュだった。ブッシュの薫陶を受けて博士号を取得したターマンは、博士号取得後はスタンフォードに戻り、無線工学や真空管の研究に取り組む。そしてもっぱらターマンの活躍により、スタンフォードは西海岸では無線工学の中心地として知られるようになる。 ターマンはスタンフォードで数多くの学生を教えることになるが、その中にウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードがいる。コンピューター会社のヒューレット・パッカード──関数電卓に逆ポーランド記法を採用したことで、コンピューターの歴史にポーランドの論理学者ウカシェヴィチの名前を残すことになる(本連載第6回)──を設立する二人だ。 ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードは、どちらもターマンの電気工学の授業をとっており、そこで二人は知り合う。ヒューレット・パッカードの創業地は、当時パッカードが間借りしていたアパートのガレージ。ただ、創業当時のヒューレット・パッカードはコンピューター会社ではなかった。ヒューレット・パッカードの創業は1939年、ENIAC以前のことであり、まだ商用コンピューターは存在していなかった。創業当時のヒューレット・パッカードはオシロスコープなどの電気機器メーカーだったのだ。 ターマンの教え子がヒューレット・パッカードを創業したのは偶然ではなかった。むしろ逆だ。ターマンが彼らに起業を勧めたのだ。ターマンはMITでブッシュから多くを学んでいたが、産業界との連携の重要性もその一つだった。ブッシュが当時のMIT学長コンプトンと共に推進した産学協同は、大恐慌で経営危機に陥ったMITを救うためのものだった(本連載第16回)。スタンフォードは私立大学であり、MITのような経営危機にまでは陥らなかったものの、大恐慌による財政危機は深刻なものだった。そこでターマンはブッシュにならい、スタンフォードで産学協同に取り組むのだ。彼が特に力を入れたのが、産学協同が容易な大学発のベンチャー企業であり、ヒューレット・パッカードは最初の成功例だったのだ。ターマンにより、スタンフォードは「西海岸のMIT」のような存在になるのだった。
▲ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードがヒューレット・パッカードを創業したガレージ。「シリコンバレーの生誕地」とも言われている。(出典)
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明治期日本のスポーツとエンターテインメント ──「武道の誕生」とベースボール|中野慧
2021-09-06 07:00550pt
本日お届けするのは、ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第13回「明治期日本のスポーツとエンターテインメント──「武道の誕生」とベースボール」をお届けします。明治初期の日本で「ベースボール」はどのように受け止められたのでしょうか? 「作られた伝統」としての武道と「新奇なサブカルチャー」に過ぎなかったベースボールという位置づけから、当時の日本文化の情勢について考察します。
中野慧 文化系のための野球入門第13回 明治期日本のスポーツとエンターテインメント ──「武道の誕生」とベースボール
明治期日本が目指したのは「欧米」ではなかった
前回までは、19世紀後半のアメリカにおけるベースボールの定着を見てきたが、ではベースボールは日本にどのようにして入ってきたのだろうか。 明治維新は1868年であるが、ベースボールが日本に伝わったのはそのわずか4年後、1872年に東京で始められたとされている。だがその話に入っていく前に、この時期の「日米関係」について整理しておかねばならない。 そもそも近代以降の日本とアメリカの関係はやや複雑である。よく知られるように日本の開国の直接のきっかけは1853年のペリー来航であり、アメリカの強大な軍事力を背景にそれまで鎖国していた江戸幕府は開国を余儀なくされた。幕府の「弱腰」に対して、それまで冷遇されていた薩摩・長州という外様の藩の武士たちを中心に「攘夷(外国人を打ち払うこと)」を掲げた暴力の嵐が吹き荒れ、やがて倒幕運動へとつながっていった。 ところが1860年代の幕末維新期にはなぜか、日本史においてアメリカの影は薄い。アメリカはペリー来航の50年代には太平洋・東アジア地域に活発に進出していたが、60年代は小康状態となっている。原因は前回述べたように、1861〜65年にかけて戦われた南北戦争とその後の戦後収拾に追われていたからだ。アメリカは内戦の影響で、英仏をはじめとした西欧列強の東アジア進出、より直接的にいえば中国進出に遅れをとってしまった。 1867年11月の大政奉還後、1868年初めから始まった戊辰戦争は、幕府はフランスの、薩長同盟(新政府)側はイギリスの支援を受けて戦われた。この戦争はいわばフランス・イギリスの代理戦争の様相を呈していたのだが、アメリカはあくまでも「局外中立」の立場であった。 そのため、戊辰戦争が新政府軍の勝利に終わったあともアメリカは、日本国内に強い影響力を行使することはなかった。 戊辰戦争後、明治新政府はスローガンとして「富国強兵」を掲げたが、国家の重要課題である軍事に関して、陸軍はフランス(のちにドイツ)、海軍はイギリスを模範とした。また、近代国家に不可欠な法律の整備においては特にドイツを参照した。明治維新の3年後の1871年に普仏戦争でフランスを破ったプロイセンにより、それまで統一されていなかった「ドイツ」が国家として成立したが、明治新政府は日本と同じく君主を戴く権威主義国家としてドイツを模範としたのであった。 明治政府のリーダーたちから見たとき、日本と同じ君主制国家としてドイツやイギリスは模範だと認識していた一方で、アメリカは模範とすべき国ではなかったのだ。「文明開化」「脱亜入欧」とはいっても、日本が国家として目指すべき理想像のなかにアメリカが入っているわけではなかった。そもそもイギリスやフランス、ドイツ(プロイセン)は国家としても歴史が古く、王政・帝政の伝統を持っていた(フランスは1789年のフランス革命以降は共和制の時代もあったが、明治維新の時期はナポレオン三世の第二帝政とその崩壊の時期である)。 一方、アメリカのことは「日本に比べれば歴史の浅い国である」と軽視する向きも強かった。つまり明治期に近代国家への道を歩み始めた日本は、西洋の文物を取り入れる際に、オフィシャルな場所では「欧米」ではなく、あくまで「西欧」を参照していたのだ。これは実は、日本における野球の定着を見る上で極めて重要なポイントである。
イギリスからやってきたスポーツ、アメリカからやってきたベースボール
明治国家は、政府・民間レベルでさまざまな国から外国人を教師として招いた。なかでもイギリスからやってきたフレデリック・ウィリアム・ストレンジは、現在の東京大学の前身のひとつである「予備門」で、学生たちにホッケー、サッカー、クリケット、テニスや陸上競技、ボートなど、当時イギリスで学生たちの間で盛んに行われていたスポーツを伝えた。ストレンジは「部活動」や「運動会」など、日本における集団でおこなわれるスポーツ活動の土台となるコミュニティのあり方、催事の雛形をつくった人物である。 もともとストレンジの母国イギリスでは、貴族や有力者の息子たちが集まるパブリックスクール(寄宿舎制の学校)で、スポーツが「道徳心を備え、リーダーシップとフォロワーシップ、公平性(フェアプレイ精神)のある立派な青年を育てる」として教育プログラムに組み込まれていた。この背景には、キリスト教のプロテスタンティズムの考え方のひとつ、「スポーツで道徳的健全性が養われる」とする筋肉的キリスト教(Muscular Chiristianity)という思潮があった。逆に、スポーツに積極的に親しもうとしないパブリックスクールの生徒は、「勉強虫(aesthete)」「女々しい(effeminate)」としていじめられるありさまで、時には自殺にまで追いやられることもあったという[1]。日本における近代スポーツの父とされるストレンジの背景に、そういった英国パブリックスクールの文化があったことには注意が必要である。 さて、ベースボールを日本に最初に伝えたとされるのは、同じ時期にアメリカからやってきたホーレス・ウィルソンという人物である。ウィルソンはもともと南北戦争にも参加した軍人で、来日してからは英語や数学を教えるかたわら、1872年から東京大学の前身のひとつである第一番中学でベースボールを学生たちに教え始めた。第一番中学は翌年から「開成学校」となってグラウンドも作られ、そこでベースボールの試合も定期的に開催されるようになった。これにはイギリス人であるストレンジも興味を示して参加し、開成学校がさらに改組された「第一高等中学校」ではベースボールをプレイする学生有志団体が立ち上がった。 ニューヨークでニッカボッカーズがベースボールを始めたきっかけが「デスクワークで運動不足になりがちなホワイトカラーを戸外に連れ出す」ということであったのと同じように、ウィルソンがベースボールを日本の学生たちに教えようと考えたのは「学生たちが勉強ばかりで運動不足だから」であった。 明治期には外国からさまざまなスポーツが入ってきており、ベースボールとほぼ同じ時期にサッカーやラグビーなどのフットボールも入ってきている。外国からさまざまな文物が流入するなかで、西欧ではない「アメリカ」のものである野球は、あくまでも学生たちのあいだではサブカルチャーであった。 だがベースボールは、1870年代から1890年代にかけてしだいに日本に普及していった。その際には「野球」という名称はまだなく、「打球鬼ごっこ」と呼称されて、子どもたちのあいだにも広まった。なお「野球」という名称が誕生するのは明治維新のずっと後、1894年のことである。 余談だが、この草創期の野球には木戸孝正、牧野伸顕という二人の人物が参加していた。明治維新では西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通が「維新三傑」とされているが、木戸孝允の養子が木戸孝正で、大久保利通の次男が牧野伸顕である。この二人が、アメリカ留学の手土産としてバットやボールを持ち込んだという話が残っているのだ[2]。木戸孝正の長男・木戸幸一、そして牧野伸顕は、のちに昭和天皇の側近となった。二人は昭和戦前期には「君側の奸(天皇のそばにいながら自分たちの利益のために間違った情報を天皇に吹き込む輩)」として陸軍青年将校たちから敵視され、命までをも狙われながら、太平洋戦争末期には終戦工作に貢献している。これも「野球」と「軍部」の関係として面白いひとつのエピソードかもしれない。
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【特別配信】あたらしい雑誌を(かなり変わったやり方で)出すことにしました
2021-09-03 12:00
2021年秋、PLANETSより宇野常寛 責任編集の「紙の」雑誌『モノノメ』が新創刊することとなりました。現在、公式オンラインストアでは、9/6(月)24時までの期間限定で『モノノメ 創刊号』の第1次販売を行っています。 本誌のみの通常版に加え、創刊に向けて実施したクラウドファンディングのために書き下ろした47,000字を超える「『モノノメ 創刊号』が100倍おもしろくなる全ページ解説集 」つきの特別版も販売中です。本日は、本誌創刊に寄せて書き下ろされた宇野常寛の寄稿を特別配信します!
タイムラインの潮目を読まない発信の中心地をつくりたい
なぜ、いま「紙の雑誌」なのか。時代に逆行する行為なのは僕も理解しています。しかし、それがいま必要だと僕は考えました。いま、世界は相互評価のネットワークの中に閉じ込められています。誰もが受信者であると同時に発信者でもある現在、そして誰もが自分の影響力 -
Daily PLANETS 2021年9月第1週のハイライト
2021-09-03 07:00おはようございます、PLANETS編集部です。
今週から9月になりましたね。編集部ではいよいよ新雑誌『モノノメ』の発売に向け、次のステップに進もうとしています。今月もPLANETSをよろしくお願いします!
さて、今朝のメルマガは今週のDaily PLANETSで配信した4記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの概要をご紹介します。
今週のハイライト
8/30(月)【連載】(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉選択肢拡張術 ②偶然を計画する|坂本崇博
(ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。働き方について複数の選択肢を得ようと情報収集するためには、
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