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池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第三章 ビーダマン(1)スナイパーが殺し屋にならなかった理由
2019-04-11 07:00550pt
デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は1993年にタカラ社より発売された「ビーダマン」を取り上げます。ボンバーマンのデザインをベースに、〈銃器〉を暗喩するような機能的進化を遂げた同玩具は、コミックス版において、ある種の倫理性を提示するに至ります。
本稿では、1984年のトランスフォーマーが、アメリカ市場を睨んだ再ブランディングに際して「自動車」と「銃」の対立を軸に据えたことを指摘した。その後「魂を持った乗り物」という想像力はミニ四駆に引き継がれ、90年代をかけて機械に導かれる美学を描いてきたことを確認してきた。
実はミニ四駆が「自動車」にまつわる想像力を発達させたのとほぼ同時期に、「銃」をテーマにして発展したもうひとつのおもちゃシリーズがある。それが「ビーダマン」だ。
ボンバーマンというデザインに宿った両義性
「ビーダマン」は1993年にタカラ社から発売された玩具である。初期のビーダマンの構造そのものはいたってシンプルで、背中のトリガーを押すことによって、腹部のホールドパーツに固定されたビー玉を撃ち出す(転がす)ことができるつくりとなっている。
ビーダマンとしてもっともよく知られているのは、ゲームメーカーであるハドソンのキャラクター「ボンバーマン」をかたどったものだ。当初は「ドンキーコング」や「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」をはじめとして、変わったところでは衛藤ヒロユキのマンガ『魔法陣グルグル』のニケとククリなど、他のキャラクターを用いた商品も発売されていたが、最終的に発展していったのは、このボンバーマンをベースにしたデザインであった。
初期のボンバーマンビーダマン(リンク先参照)
ビーダマンのデザインについて考えるために、まずはボンバーマンのデザインが成立した経緯についてかんたんに整理し、そこにどのような要素が含まれていたのかから確認していきたい。
ボンバーマンのデザインの起源について紐解く上で、1983年にアメリカのブローダーバンド社から発売された『ロードランナー』というゲームに触れる必要がある。このゲームはいわゆる棒人間的なシンプルなグラフィックで構成されていたのだが、日本では1984年にハドソンがファミリーコンピュータへの移植を行うことになる。ここでハドソンは、主人公の「ランナーくん」と、爆弾をあやつる敵ロボット(この時点では名前はまだない)のデザインを作り起こした。このロボットのドット絵が、ボンバーマンのデザインの起源となる。
▲左に3体見えるのが爆弾ロボット。右がランナーくん(引用元)
ファミコン版のパッケージでは、ロボットはディフォルメされながらもSF色の強い、ややレトロなテイストのあるデザインになっている。このパッケージとドット絵のどちらが先にあったのかは不明だが、ともかくロボットであるというアイデンティティは明確だといってよいだろう。
▲ファミコン版『ロードランナー』のパッケージ。画面左側から迫るロボットがのちのボンバーマン(引用元)
『ボンバーマン』と題された最初のゲームはファミリーコンピュータ向けに1985年に発売された。これは1983年にハドソンが開発したパソコン用ゲーム『爆弾男』のシステムに、『ロードランナー』の物語とキャラクターを組み合わせたものとされている。そのためドット絵そのものは流用で変更されていないのだが、パッケージのデザインは大きく変わっている。
▲『ボンバーマン』のパッケージ(引用元)
『ロードランナー』と比較すると、全体的にデザインの解像度が上がり、やや「リアル」なものになっている点は興味深い。ヘルメットを被りバイザーから目が覗くという要素は共通であるものの、顔の造形には当時ヒットしていた『機動戦士ガンダム』の影響を見ることもできるだろう。
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“kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第二章 ミニ四駆(5)「マグナムに叫ぶようにアレクサを呼ぶ」
2019-02-27 07:00550pt
デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。自動運転車は、なぜ「カッコいいもの」として社会に受け入れられないのか。マシンを手動で操作したい欲望と、AIによる自動運転技術。未来の自動車が抱える矛盾と、それを乗り越える想像力を、ミニ四駆に宿る物語性から考えます。
「かっこいい」自動運転車は可能か?
工業技術によって身体を拡張することで、主体と社会を短絡させる「乗り物」──その代表たる自動車こそが、20世紀における成熟の象徴として、男性的な美学の器として機能してきたことを、ミニ四駆のデザインを通じて確認してきた。
だとすれば、情報化した21世紀における理想の男性的な成熟のイメージを考える上で、自動車の情報的なアップデートである自動運転車、および完全自動運転の分割的実装であるところの各種の運転支援技術について論じることは、避けて通れないだろう。
自動運転技術は、それがごく近い将来かやや遠い未来であるかに議論はあるものの、やがてレベル5と呼ばれる完全自動運転を実現させることはほぼ確実と見られている。しかし自動運転車は、20世紀的な自動車の進化の形として期待されているにもかかわらず、美学を宿す器として、少なくとも「手動運転車」であるところの20世紀的な自動車と同等に「かっこいい」存在としては認められていない節がある。
これはある意味では当然のことといえなくもない。たとえば20世紀初頭において、個人が所有できる乗り物の主流は馬車であった。この時代に登場した新しい乗り物であるところの自動車に対しても、同様の戸惑いと抵抗があったことは想像に難くない。手動運転車が20世紀の100年をかけて蓄積した美学に比肩するためには、ごく素朴に考えて21世紀の100年という厚みが必要になるはずだ。
しかし同時に、20世紀初頭における「未来の乗り物」としての自動車への期待と美学が、その後100年の自動車文化を育んだこともまた確かだ。ゆえに21世紀初頭の本連載では、来るべき自動運転車にどのようなかっこよさを見出すことができるかを考えてみたい。
もちろん、そのヒントになるのは、20世紀末にG.I.ジョーから変身サイボーグとトランスフォーマーを経てミニ四駆に宿った「魂を持った乗り物」という想像力だ。
文化的に相容れない「自動車」と「自動運転」
そもそもなぜ、自動運転車は20世紀的な自動車文化の文脈において「かっこいい」と思われていないのだろうか。そこには単純な嗜好の保守性やテクノフォビア以上の、自動車文化の美学に深く関わる問題がある。
自動車の美学の中心に主体の拡張があると考えるとき、自動車が「直接操作できる」という感覚は極めて重要だ。たとえば20世紀でも、いわゆるATとMTを比較したとき、一般的に言ってMTの方が格が高い──「かっこいい」と考えられているのは、こうした自動車の位置づけを背景にしているといっていいだろう。
こうした美学の上では、情報技術による運転支援技術は、たとえ機能として事故を防ぐ効果があるとしても、むしろ邪魔なものになってしまう。あらゆる判断を正確に行う完璧な主体であることを確認することでナルシシズムを記述する自動車文化と、ドライバーが不完全なことを前提に支援を行う自動運転技術は、美学の上で相性が悪いのだ。
叫んでも加速しないから、ミニ四駆をやめる
手動運転自動車の美学と自動運転技術、そしてミニ四駆の関係をわかりやすくするために、少しだけ個人的なエピソードを紹介したい。
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“kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第二章 ミニ四駆(4)「もうひとりのディカプリオ、もうひとつのプリウス」
2018-11-06 07:00550pt
デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。『レッツ&ゴー』における〈成熟〉の失敗は、乗り物を通じた暴力の否定であり、ひいては自動車にまつわる〈男性性〉の拒否を意味します。90年代末に描かれたその想像力は、トヨタ・プリウスに象徴される、00年代の世界的な自動車のパラダイム転換を予見していました。
バトルレースと『レッツ&ゴー』の倫理
『レッツ&ゴー』におけるミニ四駆の美学は、成熟を拒否している──この結論は、20世紀末ボーイズトイを通じて新しい成熟のイメージを発見しようとする本連載の趣旨からすると、奇妙に思えるだろう。しかしここで考えたいのは、こしたてつひろが、なぜ理想的な成熟を描けなかったのか──いや、描かなかったのか、ということだ。
その理由は、『レッツ&ゴー』シリーズにおける敵の描写によく表れている。シリーズを通じて烈や豪(あるいは烈矢や豪樹)の前に立ちはだかる敵は交代していくのだが、勝利のためならばマシンを破壊しても構わないという思想を持っている点では執拗なまでに一貫している。
こうした思想、およびこれに基づくマシンへの直接攻撃を容認するレギュレーションには、アニメ化された際に「バトルレース」という名前が与えられている。通常のレースにバトルレースを持ち込む、あるいはバトルレースそのものを主流のレギュレーションとして推進しようとする敵との緊張がドラマの軸に据えられている。敵が勝利という結果にこだわることは、重要なレース結果の不自然なまでに軽い描写と表裏一体である。『レッツ&ゴー』において、レースにおける勝利という社会的価値を通じて男性性を追求し自己を実現しようとすること──ミニ四駆と社会を接続することで「大人」を目指す営みは、暴力や破壊と深く結びついている。
▲「WGP編」に登場するイタリア代表のマシン、ディオスパーダ。刃物が仕込まれており、レース相手を切り裂く(むろん反則である)。 『爆走兄弟!!レッツ&ゴー(12)』p36
▲「MAX編」に登場する敵、ボルゾイ。バトルレースを是とするボルゾイレーシングスクールを主宰する。 『爆走兄弟レッツ&ゴーMAX(1)』p96
だから『リターンレーサーズ』において、F1レーサーとなった豪が危険なドライビングを繰り返していることは、解決されるべき重大な問題として描かれる。これはレースを扱った物語作品において、むしろ例外的な価値観といっていいだろう。勇気を持ってリスクを取り、勝利を掴もうとする精神は、それが意図的に事故を引き起こそうとする悪意あるものでない限り、肯定的に描かれることの方が多いからだ。たとえば先代の『四駆郎』だけを見ても、四駆郎たちは命がけのレースに自ら身を投じていったし、その源流たる自動車文化を象徴する源駆郎が参加していたのは、死のレースといわれる「地獄ラリー」だった。成長した四駆郎もまた、こうした過酷なレースに身を投じていったことが示唆されていた。いうなれば四駆郎たちや豪は、成熟を目指した結果、バトルレースに身を投じてしまっているのだ。
▲クラッシュしたときのパーツは、武勇伝を語るものとしてではなく「いましめに」飾られている。 『爆走兄弟レッツ&ゴー!!ReturnRacers!!(1)』p16
『レッツ&ゴー』は、確かに成熟を拒否している。しかしこしたてつひろがバトルレースを徹底して悪として描き、自らの生命を危険にさらし続ける豪の成熟のあり方を露悪的に描いたことは、乗り物を通じて社会と短絡した主体が引き起こす暴力を容認しないという倫理的な態度だったといっていい。ここでこしたてつひろが拒否したものは成熟そのものではなく、『四駆郎』までは引き継がれていた、20世紀の自動車文化における男性性のイメージなのだ。
ミニ四駆が「魂を持った乗り物」という中間的な存在として描かれた理由も、そこにある。自動車は、工業技術によって身体を拡張し、主体にレバレッジをかけて社会に接続する。その拡張感は、自動車を直接操作しているという感覚に支えられたものだ。こしたてつひろはミニ四駆が操作できないことを肯定的に捉え、ここに「魂」という想像力を介在させて操作を間接化することでいったん主体から切断した。そしてさらにミニ四駆をスポーツとして社会からも切断することで、主体と社会の間で機能する緩衝としての役割を与えた。
こしたてつひろの慧眼は、比喩的にいうなら、ミニ四駆が「交通事故を起こさない自動車」であることを発見した点にある。言い換えれば、進歩を目指しながらも暴力と結びつかない形で、政治的に正しく男性性を追求する可能性を、ミニ四駆という「おもちゃ」の中に見いだしたのだ。
もうひとつのトヨタ・プリウス
20世紀的な男性文化・自動車文化の批判的継承として、こしたてつひろが『レッツ&ゴー』で描いた想像力は先見的かつ重要だ。
実は自動車の文化史においてこれとちょうど相似形を描いている出来事がある。それはレオナルド・ディカプリオによるトヨタ・プリウスの再発見だ。
▲レオナルド・ディカプリオ主演『ウルフ・オブ・ウォールストリート』
▲トヨタ・プリウス。写真は2003年から2011年にかけて生産された二代目。
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“kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第二章 ミニ四駆(3)「ここに戻ってきた少年たち、どこにも行かない少年たち」
2018-10-17 07:00550pt
デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。「魂を持った乗り物」という新しいミニ四駆観に基づき、走る目的そのものとしてのミニ四駆の価値を確立するに至った『爆走兄弟!!レッツ&ゴー』。しかし、その続編では主人公たちの〈成熟〉の困難が露骨に描き出されます。
ミニ四駆第一次ブームにおいて『ダッシュ!四駆郎』(以下『四駆郎』)の中心になっていたのは、父を目指す「親子」の物語と、現実に肉薄しようとする「ホビー」の美学が結びついた、垂直的な構造だった。しかし、皮肉にも四駆郎が大人になった姿は描かれることはなかった。
連載の前回(参照)で、第二次ブームを支えた『爆走兄弟!!レッツ&ゴー』(以下『レッツ&ゴー』)およびその続編『爆走兄弟!!レッツ&ゴーMAX』(以下『レッツ&ゴーMAX』)において、ミニ四駆が「魂を持った乗り物」という想像力を宿したことを確認した。
それでは「魂を持った乗り物」から、果たしてどのような成熟のイメージを引き出すことができるのだろうか。引き続き、『レッツ&ゴー』シリーズの展開を追いながら、レーサーたちの成熟がどのように扱われていたのかを確認していきたい。
地平線の彼方から、今ここにあるミニ四駆へ
結論から言えば、『レッツ&ゴー』の登場人物たちが成熟した姿は、基本的に描かれない。それどころか、『四駆郎』と比較するとラストシーンは極めて淡白なものだ。
『レッツ&ゴー』最終巻では、烈と豪の所属する日本代表チーム「TRFビクトリーズ」の世界グランプリ(WGP)における戦いが描かれる。TRFビクトリーズは、そこでライバルであるイタリア代表チームやドイツ代表チームを破って勝利する。しかし物語における描写は決勝レースの一部分の決着のみにとどまり、果たしてTRFビクトリーズが優勝できたかどうかはわからないまま終結してしまう。TRFビクトリーズが最終的に優勝したことがわかるのは、続く『レッツ&ゴーMAX』1巻の冒頭においてだ。ただしここでも驚くほど描写は簡潔で、総ポイント数最多で優勝した旨が、台詞で説明されるのみである。
▲第一回世界GP、終了の瞬間。 『爆走兄弟レッツ&ゴーMAX(1)』8-9p
おそらくは『レッツ&ゴー』の連載終了時点では、既に『レッツ&ゴーMAX』という続編の企画は固まっていたと思われる。アニメや模型の展開など、さまざまなメディアに横断的に展開した本作にとって、連載時期などの関係上不本意なラストになってしまったのではないか、と想像することもできるかもしれない。
しかし満を持して描かれたはずの『レッツ&ゴーMAX』のラストでも、やはりレースの決着は白熱したものにならない。物語における最終レースは、世界王座に輝いたTRFビクトリーズに、烈矢と豪樹たちルーキーチームが挑戦するという構図になっている。ルーキーチームは健闘するのだが、当初強敵として現れながらやがてルーキーチームに加わったネロのマシンが、それまでの攻撃的なスタイルが祟って走行不能になってしまう。このトラブルによって、ルーキーチームはあっさり敗北してしまうのである。
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【インタビュー】稲見昌彦「ヒトと超人の境界面――身体拡張のアクチュアリティ」(PLANETSアーカイブス)
2018-09-03 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、東京大学先端科学技術研究センター教授の稲見昌彦さんのインタビューをお届けします。「身体拡張」や「超人スポーツ」で知られる稲見先生が、自身の関心領域についての議論を縦横無尽に展開。哲学的な領域を包括しつつある昨今の工学的知見を元に、テクノロジーによって拡大化・細分化される人間の「自己」あるいは「身体」の新たな定義について考えます。(構成:神吉弘邦) ※この記事は2016年8月17日に配信した記事の再配信です。
稲見昌彦『スーパーヒューマン誕生!人間はSFを超える』 ■3層のレイヤーから見える世界
宇野 2月に刊行された稲見先生のご著書『スーパーヒューマン誕生!人間はSFを超える』、拝読いたしました。この本の中で扱っている話題と、今の稲見先生の研究領域とは、どのくらいつながっているのでしょうか?
稲見 これまで主にやっていたテーマは「人間拡張」でしたが、現在の研究テーマは「人体の再設計や再定義」や「心の身体の問題」です。今回の書籍では、前者の方が今の時代に多くの人に伝わる話題だという判断で、そちらをメインに書いています。
今の研究分野に名前を付けるなら「身体情報学分野」でしょうか。今年春に、東京大学先端科学技術研究センターに異動したときに、研究分野名を自由につけて良いというので、そう名乗っています。今は興味の対象がそちらに向かっているので「人間拡張工学分野」とは付けませんでした。
宇野 この本では、ヴァーチャルリアリティとロボットの話題が一冊にまとめられていますが、この分野を包括的に表すような言葉はないんでしょうか?
稲見 私はVR、ロボットを包含する学問領域名として、「身体情報学」と名付け、身体を情報システムとして理解、設計することを目指しています。身体拡張はその第一段階と考えています。旧来的には「ヒューマン-マシン インタフェース」や「コンピュータ-ヒューマン インタラクション」になるんでしょうが、こういった伝統的なヴァーチャルリアリティの分野が研究していたのは、情報世界と物理世界、つまりデジタル-フィジカルの関係をどう設計していくかでした。
情報技術はニコラス・ネグロポンティの著書『ビーイングデジタル』で語ったように、すべてがデジタルに移行しようとしています。その両者の中間的なところに「タンジブル」があったりして、物理-情報界面領域はいま落合陽一先生も取り組んでいるところですね。
この物理世界と情報世界を対比する考え方に対し、私は最近サイバネティクスの始祖であるノーバート・ウィーナーに倣って、世界を「自分が直接制御できるもの」と「自分が直接制御できないもの」に分けて捉えることを提案しています。そして自らの可制御領域を押し広げて行こうというのが「人間拡張」の考え方です。
その考え方を基本とし、”We”という概念を考えます。「自分が直接制御できるもの」と「自分が直接制御できないもの」は、「自己」と「それ以外」と言い換えることができます。ここで主語を「自己」ではなく「我々」に転換する、つまり"I"から"We"へと考え方を広げることで、これはまさに我々人類が制御可能な領域を広げるというエンジニアリングによって目指すべき目標となります。
このエンジニアリングの世界にも界面があって、それは「可制御界面」と捉えられます。その外側に広がっているのは「観察できるもの」と「観察できないもの」の世界で、ここでも主語を"We"に置き換えることによって、新たな技術により観察可能な世界つまり「可観測界面」を広げるという、サイエンスの目標と捉えることができます。そして、学問全般が目指す目標は人類にとっての「理解界面」を押し広げることかもしれません。
まとめると「制御できる世界」「観察できる世界」そして「理解できる世界」。この3層のレイヤーが、テクノロジーによってどう変わっていくかに興味があります。
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もはやサブカルチャーは「本音」を描く場所ではなくなった――『バケモノの子』に見る戦後アニメ文化の落日(宇野常寛×中川大地)(PLANETSアーカイブス)
2018-07-09 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは『バケモノの子』をめぐる評論家の中川大地さんと宇野常寛の対談をお届けします。『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』などでヒットを飛ばし、ポストジブリの最右翼と目される細田守監督とスタジオ地図。その最新作が逆説的に示してしまった戦後アニメ文化の限界とは? 初出:「サイゾー」2015年9月号(サイゾー) ※この記事は2015年10月7日に配信した記事の再配信です。
Amazon.co.jp:バケモノの子
大作化で発揮されなくなった細田守の批評性
中川 どうしても面白いとは思えない作品でした。「“夏休み映画”を作らなければ」という形骸的要請ばかりが先だって、ワクワク感が全然なくて。異世界ファンタジーとしての体裁が、ほとんど機能してなかった気がします。
宇野 僕はちょっと評価が複雑で、観ている間はそんなに気にならないんですよ。でも、観終わったあとに何か言おうと思うとまぁ、誰も傷つけずによくできていたな、ということしか浮かばない。
中川 基本的には、シングルマザーの子育てを描いた前作『おおかみこどもの雨と雪』【1】と対の構造になっている。つまり、親が一方的に子を導くのではなく、親の側が子から教えられる相互性とか、熊徹【2】だけではなく、友人の多々良と百秋坊【3】らにも子育てのタスクを分散させるとかで、細田守監督なりの新たな父性や家族像を追求しようとしたわけですね。そのメッセージ性自体にはなんら異論はないのだけれど、『おおかみこども』とセットだと「母にはあれだけ苛酷な運命を押しつけといて、父はここまでユルユルに免責すんのかよ!」という見え方になってしまう(笑)。
【1】『おおかみこどもの雨と雪』
公開/12年7月
細田守のオリジナル長編2作目。
“おおかみおとこ”と結婚し子どもを産んだ女性と、その娘と息子の“おおかみこども”の物語。シングルマザーとなった主人公の花を通じて描かれる母性信仰の強さが、一部から批判を集めた。
【2】熊徹
熊の容姿をした半獣人で、武道家。バケモノの世界で次期宗師の座を猪王山と争っている。人望が厚い猪王山に比べ、荒くれ者で我が強い。蓮を拾い、名前を名乗らなかった9歳の彼を「九太」と名づける。
【3】多々良と百秋坊
どちらも熊徹の幼なじみで、多々良はヒヒの半獣人、百秋坊は豚の半獣人で僧侶。多々良は大泉洋、百秋坊はリリー・フランキーが声を当てている。
宇野 『おおかみこども』では「女性賛美の形をとった女性差別」の典型例みたいなことをやってしまって、ちょっと過剰に叩かれすぎた面もあるけど、まあ、さすがにあれは今の40代男性の自信のなさと、屈折した男根主義が悪い形で全面化して作品を狭くしていた側面は否めない。その反省か、今回、現代的な家族観・コミュニティ観を最小公倍数的にきれいに描いていて、こういう関係が美しいという美学はわからなくもないけれど、今度はその分、批判力のあるファンタジーではなくなってしまった。
中川 まぁ『おおかみこども』での批判に誠実に対応した結果、たまたま男性側の免責に見えてしまっただけかもしれないからジェンダー論的な批判は留保するとして。もっと問題なのは、「渋天街」のイメージの弱さでしょう。『千と千尋の神隠し』的な、この世とは違う理で動く摩訶不思議な異界としての設定も映像的快楽も希薄で、ただステレオタイプな都会としての渋谷に対比させるためだけの、素朴な共同体社会でしかなかった。
宇野 あそこで描かれているものって、完璧に正しくてそこそこ美しいと思うんですよ。でも、いま期待をかけられているスタジオ地図【4】の新作アニメーションで、夏休みの最大のごちそうとしてみんなが観に行って、この作品が出てきた時の物足りなさは否めないと思う。ポスターから想像できるストーリーの半歩もはみ出ていない。
結局細田さんって、美少年というモチーフに一番興味があると思うんですよ。『サマーウォーズ』【5】を観ると明らかじゃないですか。一番思い入れがあるのはカズマだったでしょう。カズマは脇役だったのが『おおかみこども』で“雨”を経て、『バケモノの子』では完全に少年が主役になっている。モチーフレベルでは正直になってきているんだけど、その間に細田守の社会的地位が上がって、表現レベルではどんどん丸くなってしまって、とうとう誰も傷つけない代わりに何もない作品になってしまった。
特に九太が青年になって以降、後半のシナリオが完全に“段取り”になってしまっている。一郎彦【6】が実は人間の子どもだというのは観ていればすぐにわかるし、クライマックスのアクションシーンが必要だからという理由だけで渋谷に出るのも……。あと、九太の社会復帰が、勉強して高認をとって大学に行くことを決意する【7】って展開に到っては、だったらなんのためにファンタジーが存在するのかよくわからなくなってしまう。異世界で修行をすることで、大学では学べないような世界の豊かさを学んできたんじゃなかったのか、と(笑)。この映画の中でいちばん豊かに描けているのって、少年期の修行時代の擬似親子+2人の傍観者(多々良・百秋坊)というあのコミュニティですよね。
【4】スタジオ地図
『時をかける少女』『サマーウォーズ』を手がけたプロデューサーが、細田守と共にマッドハウスから独立して設立したアニメ制作会社。
【5】『サマーウォーズ』
公開/09年8月
17歳の健二が、ふとしたことから憧れの先輩の田舎に共に帰省し、
大家族の仲間入りをする。同時進行でインターネット上の仮想世界「OZ」ではサイバーテロが発生。田舎の大家族とネット上の仮想世界での出来事がリンクしながら進んでゆく。
【6】一郎彦
熊徹と宗師の座を争う猪王山の長男。実は拾われてきた人間の子ども。少年期はさわやかで聡明な子どもだったが、成長するにつれて心に闇を宿し、最後に暴走する。
【7】勉強して高認をとって~
17歳になってから人間社会に再び足を踏み入れた九太は、図書館で出会った楓(後述)の存在をきっかけに勉強を始め、楓の勧めもあって大学受験を考えるようになる。結果、熊徹とぶつかり、渋天街を飛び出してしまう。
中川 映像的には、細田さんが自分の本当に得意な表現を純粋抽出して組み合わせることで構築されてますよね。要は『サマーウォーズ』でも好評だった対戦格闘アクションを核に、『おおかみこども』での人獣のメタモルフォーゼの要素を盛り込むなどの手法で、ドラマの軸線を作った。熊徹からの見取り稽古をアニメーションのシンクロで示した修行時代や、猪王山とのバトルなどは、すごく良かった。
渋天街のイメージの弱さも、肯定的に捉えるなら、これまでの細田作品における現実社会と異世界──『デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!』【8】や『サマーウォーズ』ならデジタル空間だったり、『おおかみこども』なら狼たちの自然世界だったり──とを等価に描く表現の延長線上に発想されたがゆえの帰結ともいえる。渋天街って、設定上は人間界の渋谷の地形と対応している〈拡張現実〉的な世界ということなので。そういう感じで、異世界を人間社会とフラットに捉えて特別視しない点が、自然/空想賛美的なジブリ作品に対する、細田守の現代的な作家性だったわけです。
しかし今作については、画面を見ていても2つの世界の対応が全然伝わらないし、作劇上も活かされていない。結局、世界観構築に際しての批評性が弱いので、前半と後半でファンタジー世界と現代社会を対置するプロットが作劇意図ほどには機能していないんですよ。それが“段取り”感につながっているのだと思う。
【8】『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』
公開/00年3月
細田守監督作品。ネットに出現した新種のデジモンの暴走を止めるべく、少年たちが戦いに乗り出すストーリーで、『サマーウォーズ』公開当初から類似性が指摘されていた。
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ディズニー/ピクサー的CGアニメは「宮崎駿的手法」を取り込むことができるか?――落合陽一、宇野常寛の語る『ベイマックス』(PLANETSアーカイブス)
2018-04-23 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは『ベイマックス』をめぐる落合陽一さんと宇野常寛の対談です。『アナ雪』大ヒット以降のディズニー/ピクサーが、「CGテクノロジーの進化」と〈宮崎駿的なもの〉という2つの課題にどう向き合ってくのかを考えます。(初出:『サイゾー』2015年3月号(サイゾー)/構成:有田シュン) ※この記事は2015年3月24日に配信した記事の再配信です。
▼作品紹介
『ベイマックス』
監督/ドン・ホール、クリス・ウィリアムズ 脚本/ジョーダン・ロバーツ、ドン・ホール 原作/『ビッグ・ヒーロー6』 製作総指揮/ジョン・ラセター 配給/ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ 公開/14年12月20日
“サンフランソウキョウ”に住む天才少年ヒロ・ハマダは、兄タダシに見せられた工科大学のラボや、彼が作ったケアロボット「ベイマックス」に衝撃を受け、飛び級入学のための研究発表会に参加する。見事合格を勝ちとるが、直後に会場で火災事故が発生。残されたキャラハン指導教授を助けるべく、タダシは火の中に飛び込んでいった。兄を亡くした失意からヒロは心を閉ざしてひきこもるが、タダシが残したベイマックスと再会し、さらに自身が研究発表会のために製作したマイクロボットが何者かに悪用されていることを知り、タダシの死に隠された真相があるのではないかと疑問を抱く。ベイマックスのバージョンアップと、兄のラボの友人たちにパワードスーツや武器等を製作し、共に敵の陣へと乗り込んでゆく。
東京とサンフランシスコを合わせたような都市が舞台だったり、主人公たちが日本人とのハーフだったり、設定からして日本の要素が多く取り入れられた、ディズニーアニメ。
落合 『ベイマックス』は予告編の印象と全然違って【1】、『アイアンマン』(08年)万歳! と思っているような理系男子の話をアニメで作るとこんな感じかな、と思っておもしろく観ました。ヒロがキーボードを叩いて、3Dプリンタとレーザーカッターでなんでもつくれる万能キャラという非常にコンティニュアスに成功したナードとして描かれているのは新しいし、研究と開発が一体化していることに誰も疑問を抱かないところを見ると、観る人の科学に対する意識がアップデートされているのかなとも思えた。頭のいい奴が手を動かせば、そのままモノをつくれるというイメージがつくようになったのはすごくいいなと思う。登場人物たちが、極めてナチュラルにモノをつくっているんですよね。ディズニー映画の製作期間はだいたい4~5年くらいと聞くから、『ベイマックス』はちょうど2010年代前半につくられたとすると、ちょうどプログラマーという人が簡単に社会変革を起こすものをアウトプットできるようになった時期なんですよね。だから、このタイミングでこういう作品というのは必然なのかもしれない。
【1】予告編の印象と全然違って:日本で公開されていた予告編では「少年とロボットのハートフルストーリー」のように見せられていたが、実際のところはアメコミ原作だけあってヒーローものになっている。
宇野 ゼロ年代のディズニー/ピクサーだったら、兄貴がラスボスになっていたと思うんだよね。対象喪失のドラマという要素をもっと前面に出して、科学のつくる未来に絶望した兄貴と、科学の明るい未来を信じるヒロ君が対決する。単純に考えたらそっちのほうが盛り上がったと思うけど、今回のスタッフはその方向を取らなかった。個人的な動機に取りつかれた教授が暴走【2】する話になっていて、ヒロと科学をめぐる思想的な対立をしていないんだけど、そこは意図的にそうしたんじゃないかな、と。ピクサーの合議制のシナリオ作り【3】の中で兄弟対決が挙がらなかったわけはないんだよね。そういうあえて選択された思想的な淡白さが、今回のひとつのポイントだと思う。
【2】教授が暴走:事故で兄タダシと一緒に死んだと思われていたラボの指導教官。ロボット工学の天才博士が、ある個人的な動機に基づいてヒロの発明品を悪用しようとしていた。
【3】合議制のシナリオ作り:ディズニー/ピクサー作品においては、複数のスタッフがストーリー会議を行って脚本をつくり上げているのが有名。
落合 もういまや科学技術批判が意味を持たない、ということが重要なんだと思う。科学技術批判、コンピューター批判してられないだろうっていうのは、『ベイマックス』のひとつの重要なファクター。今までの流れだったら、ヒロ君が作ったナノボットが知恵を持って暴走して人間に攻めてくる、みたいなシナリオもありだったと思うんですよ。でもそっちにはもういけないよね、と。
宇野 ピクサーは、特にジョン・ラセター【4】は『トイ・ストーリー』(95年)から一貫してイノセントなもの、たいていそれは古き良きアメリカン・マッチョイズムに由来する何かの喪失を描いてきた。アニメでわざわざ現実社会に実在する喪失感を、それも一度過剰に取り込んで見せて、そして作中で限定的にそれを回復してみせることで大人を感動させてきたのがその手口。『バグズ・ライフ』(98年)も『ファインディング・ニモ』(03年)も『Mr.イングレディブル』(04年)も『カーズ』(06年)も全部そう。そして『トイ・ストーリー3』(10年)は、そんなラセターのドラマツルギーの集大成で、あれは要するに観客=アンディにウッディとの別れを告げさせることで、ピクサーが反復して描いてきたものが映画館を出たあとの現実社会には二度と戻ってこないことを、もっとも効果的なやり口で思い知らされる。
しかし、その後のディズニー/ピクサーはこの達成を超えられないでいると思う。『シュガー・ラッシュ』(12年)はガジェット的にはともかく内容的にはほとんどセルフパロディみたいなもので、『アナと雪の女王』(14年)は、保守帝国ディズニーでやったから現代的なジェンダー観への対応が騒がれたけど、要は思い切って非物語的なミュージカルに舵を切ったものだと言える。そしてこの流れの中で出てきた『ベイマックス』は、ラセターが持っていた強烈なテーマや思想を全部捨ててしまって、ほとんど無思想になっている。単にこれまで培ってきた「泣かせ」のテクニックがあるだけで、これまで対象喪失のドラマに込められてきた「思想」がない。そこで足りないものを補うために、今回はアニメや特撮といった日本的なガジェットをカット割りのレベルで借りてきている。言ってしまえば、定式化された脚本術と海外サブカルチャーの輸入だけで、ピクサー/ディズニーの第三の方向性としてこれくらいウェルメイドなものがつくれてしまったということにも妙な衝撃を受けたんだよね。
【4】ジョン・ラセター:ピクサー設立当初からのアニメーターであり社内のカリスマ。06年にディズニーがピクサーを買収し、完全子会社化したことでディズニーのCCOに就任。ディズニー映画にも多大な影響を及ぼしている。
3つに分岐したCG表現の矛先
落合 『モンスターズ・インク』(01年)の頃までのピクサー映画は、いかに新しいレンダリング技術を取り入れて映画を作るかがサブテーマだったんです。『トイ・ストーリー』の頃はツルツルしたものしかレンダリングできなかったけど、『モンスターズ・インク』はモッサリした毛の表現ができるようになった。そこからしばらくはそうした技術の進化を楽しむ作品がなかったんだけど、『アナ雪』では雪のリアルな表現ができるようになった。あの雪の表現をつくるために書かれた論文があって、それなんか本当にすごい。雪をサンプリングして一個一個の分子間力を分析することで自然のパウダースノーをレンダリングするっていう。またこれで技術を見せる作品が続くのかな、と思ったら『ベイマックス』には何もなかった。だから、またそういう時代が数年続いて、その後にまったく新しいものが出てくるんだろうと思っています。
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ネットはV系の何を変えたのか?バンギャル漫画家と語るファンとバンドの変化・前編(市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第12回)【不定期連載】
2018-04-05 07:00550pt
※本記事は2018年4月5日7時に公開されましたが、弊社の設定間違いにより、ご購読者の皆さまへメールでの配信ができておりませんでした。ご購読者の皆さまへご迷惑をおかけし、メールでの配信が大変遅くなってしまいましたことを深くお詫び申し上げます。【2018年4月6日20時追記】80年代以降の日本の音楽を「V系」という切り口から問い直す、市川哲史さんと藤谷千明さんの対談連載『すべての道はV系に通ず』。今回は、バンギャル漫画家の蟹めんまさんをゲストに、ヴィジュアル系ブームのピークでありネット黎明期でもある90年代後半のファンコミュニティについて語ります。(構成:藤谷千明)
1999年のメジャーデビューラッシュ
藤谷 今回はゲストに『バンギャルちゃんの日常』シリーズで知られる、バンギャル漫画家の蟹めんまさんをお呼びして、「90年代からゼロ年代にかけてのV系シーン・バンギャルの変化」について伺いたいと思います。 要するに、90年代以前は情報がいわゆるトップダウン型でバンドが発した情報をメディアを通してファンに届けていた。もちろんファン同士のミニコミ活動や私設ファンクラブ活動もありましたが、それを広める手段は限られていました。 それがゼロ年代以降、iモードに代表されるモバイルインターネットの浸透から、ファン、バンギャル側も積極的に発信できるようになりました。バンド側もバンギャルのネタを取り入れるようになって……。例を挙げると人格ラヂオの“バンギャル症候群”、つまりファンの動きが創作にも影響を与えるようになったじゃないですか。ゴールデンボンバーの“†ザ・V系っぽい曲†”などです。そういう時代の境目だったのかなと思います。
市川 はいはいはいはい(←遠い目)。
藤谷 なんですかその〈心ここにあらず〉感は。
市川 だってV系最前線の現場からは撤退してた時期だもん♡
藤谷 (無視)そういうとてもとても重要な過渡期である1999年から2003年の間、私は自衛隊にいたので現世の出来事は雑誌とネットでしか知らないんですね。
市川 〈現世〉って何?
藤谷 いったん入隊したら届け出無しでは外に出られませんから、もう世間から隔絶されてるんです。なので、その時期に既にバリバリにバンギャルをやっていた蟹めんまさんをお呼びしたというわけです。めんまさんは98年前後のヴィジュアル系ブーム直撃世代ですよね。 蟹めんま(以下・めんま):はい。ヴィジュアル系に目覚めたのがまさにそのへんです。お呼びいただけて嬉しいです。
市川 めんまさんは藤谷さんが彼岸に幽閉されてたころ、いくつだったの?
めんま 99年に14歳、中学2年生でした。99年ってすごい年なんですよ。1月から7月くらいまでヴィジュアル系バンドのメジャー・デビューが続いたから、怒濤のリリースラッシュで。まず1月20日にDir en greyがメジャー・デビューして……。
市川 ちょっと待ちなさい。日付まで憶えてるのかあんたは。
めんま 普通憶えてません?
藤谷 (黙って頷く)。
市川 ひーっ。
めんま 5月にはJanne Da ArcとLAREINEが、7月にRaphaelがメジャーデビューしたんです。当時はまだお小遣い世代だから、やりくりするのが大変でした。一度に全部買う財力は無いので、CDショップの店員さんに取り置きをお願いしたり(苦笑)。1999年は《ノストラダムスの大予言》ってあったじゃないですか。私はそれ1月から7月までのリリースラッシュのことだと思ってたんです、本当にお財布が破滅したんで。
市川 ばははは。大丈夫かこのひと。
▲『バンギャルちゃんの日常』4巻©KADOKAWA
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香港の未来のため、岐路に立つ民主派|周庭
2018-04-03 07:00
香港の社会運動家・周庭(アグネス・チョウ)さんの連載『御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記』。3月11日の補欠選挙出馬無効を言い渡された周庭さんでしたが、急遽民主派の代表として立候補した区諾軒(アウ・ノックヒン)氏の応援活動をすることになりました。同氏の当選、楽観視できない香港の政治状況について、選挙戦を振り返りながら解説します。(翻訳:伯川星矢)
御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記第15回 香港の未来のため、岐路に立つ民主派
数日前に立法会の補欠選挙が終了しました。4つの議席のうち、民主派が勝ち取ることができたのはわずか2席でした。「悪くない結果ではないか」と思われる方もいるかもしれません。そこで、今回の補欠選挙の背景について改めてご説明したいと思います。
1年前、民主派議員6人が全人代の基本法解釈と政府の司法審査により、議員資格剥 -
鷹鳥屋明『中東で一番有名な日本人』第9回 グローバルビレッジに見る中東の勢力図
2018-03-29 07:00550pt
鷹鳥屋明さんの連載『中東で一番有名な日本人』、今回はドバイで万博のような雰囲気を味わえる「グローバルビレッジ」はご紹介します。中東での勢力の縮図を表すかのように世界中の国のブースがひしめき合うなか、日本のブースはというと……?
ミニ万博、グローバルビレッジとは?
日本では2020年に東京オリンピックが行われることが話題になっていますが、中東で2020年というとドバイ万博の話題が取り上げられます。2018年を迎えた今年から徐々に万博に向けてのドバイ政府や企業も具体的な動きが出てきており、それに連動して日本の企業も徐々に動きが出てきているのを現地に感じます。この2020年に行われるドバイ万博はアラブ首長国連邦初の国際万博であり、同国としては東京オリンピックより力を注いでいると言えます。そんな2年後のドバイ万博前に万博の雰囲気を楽しめる空間がドバイにあります。
その名も「グローバルビレッジ」というテーマパークです。簡単に言いますとこのテーマパークは開催期間中に毎日万博の雰囲気を味わうことができる空間と言えます。(野外テーマパークのため夏季は閉園する)
▲グローバルビレッジ入り口
このテーマパークについては今まで現地にいる方などによる簡単に紹介記事がたくさんありますが、今回は密度高めに行っても行かなくても楽しめるように詳しく紹介をすることと合わせて、このグローバルビレッジ内での日本のプレゼンスの現状を感じていただければと思います。
このグローバルビレッジはドバイランドというドバイの中心部からバスもしくはタクシーでおおよそ30分ほどの距離にある巨大なテーマパークになります。その歴史は実はかなり古く、1995年企画され1996年にドバイ中心部のクリークサイドに小規模な国別のキオスクが集まった簡単なものから参加国が次々と増え、ワフィ・シティの近くに移転してさらに規模を拡大し、現在の住所に移転しました。現在の規模は160万m2という膨大な敷地に、ある程度作られたブースに、ある程度のデコレーションを行い、それぞれの国別のパビリオンとして機能させています。開催年度により参加国に毎年変動がありますが、ここ最近は毎年コンスタントに60〜70カ国のパビリオンが作られています。
入場料はわずか15ディルハム(450円)ほどですので実に安いと言えます。会場は夕方の4時から夜の11時くらいまでと日が沈んでから賑わうという中東の活動時間の特徴を顕著に捉えていると言えます。
このグローバルビレッジ内にてそれぞれの国別パビリオンに見るだけで、それぞれの国がドバイの中でどのような立ち位置なのか、どういうものを売り込もうとしているのかを学ぶことができるだけではなく、現地企業の実験場やマーケティングの場として機能している側面もあることから、テストマーケティングの場としては大変面白い空間と言えます。このグローバルビレッジの内情についてレポートしますと、まずドバイの周辺諸国のアラブ諸国のブースは実はそこまで盛況とは言えません。なぜならドバイで日常買えるものはだいたい周辺国で手に入るものと同じものばかりであり、パビリオン内で売っているものは日常買っているもの、見ているものとあまり代わり映えのないものだから、という事情があります。ただ日本人からするとなかなか行くことのできないサウジアラビアやクウェート、バーレーンの国々のブースは魅力的であると言えます。
▲日本人には見慣れない女性用のニカーブ、ヒジャブの販売店
今なかなか行けない地域の物産の数々
行けない国、という点ですと例えば今内戦で入国がほぼ不可能なイエメンブースではイエメンの伝統的な民族衣装や銀細工などの販売に合わせて多数の蜂蜜屋さんが鎬を削っておりシドルハニー、マウンテンハニーなど様々な蜂蜜を販売しております。ただ残念ながらイエメンの蜂蜜は砂糖添加された水増しされたものが多く、本物の天然の蜂蜜を手に入れるのはイエメン人でも難しいと言われています。また、コムハニーと言われる巣蜜そのものも販売されていますが、その多くは実はトルコやハンガリー産だったりします。ご存知の方もいるかもしれませんが砂糖添加の蜂蜜は簡単な分析ではわからないほど年々加工の手段が巧妙になっており真贋を見分けることは相当難しいですが、舌に自信がある方はぜひお試しいただければと思います。
▲蜂蜜を瓶詰めするイエメン人とポリタンクに積まれているイエメン蜂蜜
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