• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 26件
  • いま再編されつつある「フィクションと人間の関係」とは?――成馬零一、宇野常寛の語る『ど根性ガエル』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.457 ☆

    2015-11-24 07:00  
    チャンネル会員の皆様へお知らせ
    PLANETSチャンネルを快適にお使いいただくための情報を、下記ページにて公開しています。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar848098
    (1)メルマガを写真付きのレイアウトで読む方法について
    (2)Gmail使用者の方へ、メルマガが届かない場合の対処法
    (3)ニコ生放送のメール通知を停止する方法について
    を解説していますので、新たに入会された方はぜひご覧ください。

    いま再編されつつある「フィクションと人間の関係」とは?――成馬零一、宇野常寛の語る『ど根性ガエル』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.11.24 vol.457
    http://wakusei2nd.com


    ▲ど根性ガエル DVD-BOXより


    今朝のメルマガはドラマ『ど根性ガエル』をめぐる成馬零一さんと宇野常寛の対談をお届けします。現代におけるファンタジーの機能・役割とは? 過去作『銭ゲバ』『最後から二番目の恋』『泣くな、はらちゃん』を経て、脚本の岡田惠和がこの『ど根性ガエル』の劇中で出した「結論」について語りました。

    初出:『サイゾー』2015年11月号
    ▼作品紹介
    『ど根性ガエル』
    脚本/岡田惠和 演出/河野英裕 出演/松山ケンイチ、満島ひかり(声)、新井浩文、前田敦子ほか 放映/7月11日~9月19日毎週土曜21:00~(日テレ)
    原作マンガから16年後の世界を舞台に、ニートになって無為な日々を送るひろしといまだ張り付いているピョン吉、バツイチ出戻りの京子、パン屋の若社長になったゴリライモなど周囲の人々の生活を描く。しかしぴょん吉も平面ガエルとなって16年、その身に異変が起き始め、それが彼らにも影響を及ぼしていく。
    ▼対談者プロフィール
    成馬零一 (なりま・れいいち)
    1976年生まれ。ドラマ評論家。著書に、『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社)、『キャラクタードラマの誕生 テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)ほか。
    (関連記事)【対談】河野英裕×岡田惠和「テレビドラマ『ど根性ガエル』をめぐって:ピョン吉という想像力を取り戻すために――「共感できない」テレビドラマの可能性」(2015-10-13 配信)
    成馬 まずは何をおいても、脚本・岡田惠和【1】×河野英裕【2】プロデューサー(日本テレビ)というコンビについて語らないわけにはいかないですよね。この2人は2009年に『銭ゲバ』【3】を、13年に『泣くな、はらちゃん』【4】を作っている。そして、最新作がこの『ど根性ガエル』です。
     技術的な評価から触れると、なんといってもピョン吉の描写が秀逸でした。VFXによる合成でアニメの動きを再現していたのはもちろんですが、実際に役者が現場で演技をしているときはピョン吉は存在しないわけで、そんな中で、さもいるかのように皆が信じないと成立しないわけです。役者が作り上げた“ピョン吉のいる日常”をどう映像に落とし込むのか、その手腕に感心しました。同時に、葛飾区の実在の風景の取り入れ方も面白かった。例えばピョン吉が干してある屋上からは、背景にスカイツリーやタワーマンションが見える。それが寂れつつある下町の風景と対比されていて、これから日本がどこに向かっていくんだろうか、という不穏さを醸し出していた。そういう風景の使い方はすごく見事だったと思います。こういった描写のひとつひとつは『Q10』【5】や『妖怪人間ベム』【6】の頃から河野プロデューサーを中心とするドラマスタッフが積み上げてきたひとつの成果だと思います。

    【1】 岡田惠和:1959年生まれ。脚本家。90年代前半から活躍し、『イグアナの娘』、『ビーチボーイズ』、『彼女たちの時代』ほか代表作多数。
    【2】 河野英裕:1968年生まれ。日本テレビプロデューサー。『すいか』『野ブタ。をプロデュース』『マイ☆ボスマイ☆ヒーロー』『妖怪人間ベム』『Q10』など。
    【3】『銭ゲバ』放映/日テレ(09年1~3月):河野P×岡田惠和タッグの1作目。ジョージ秋山のマンガ『銭ゲバ』を現代に舞台を移してドラマ化。
    【4】『泣くな、はらちゃん』放映/日テレ(13年1~3月):三崎のかまぼこ工場で働く地味で薄幸な女性・越前さんが、心の叫びを自作のマンガに描きつける生活と、そのマンガの中で生きるキャラクターたちの動きが同時に進行し、やがてその2つの世界が交わるようになったことから始まる現実と虚構の狭間を描く。
    【5】『Q10』放映/日テレ(10年10~12月):『野ブタ。』等でコンビを組んだ河野P+木皿泉脚本作品。佐藤健演じる男子高校生とロボットQ10(前田敦子)と周囲の人々の物語。
    【6】『妖怪人間ベム』放映/日テレ(11年10~12月):河野プロデューサー×脚本・西田征史で、往年のアニメを実写ドラマ化。『ど根性ガエル』同様当初は危ぶまれたが、結果として主演の亀梨和也の評価も高めた。

    宇野 脚本の岡田惠和さんはここ数年、テレビドラマの中で横綱相撲とでもいうべき仕事をしてきた人だよね。テレビ自体が斜陽であることは間違いないけど、実はここ数年はドラマファン的には素晴らしい作品が目白押しだった。それを代表するプレイヤーが岡田さんで、この時期の代表作が『最後から二番目の恋』【7】と『はらちゃん』の2つだといっていいと思う。
     岡田さんは一度、09年の『銭ゲバ』で“壊れて”いる。それまでの代表作だった『ちゅらさん』【8】のような、戦後的な日常性をユートピアとして描くために、それを掘り下げてその成立条件を問うということを彼はずっとやってきた。それを『銭ゲバ』では自分でぶち壊してしまった。松山ケンイチ演じる、孤独で共同体を持たない主人公が、そういうものをお金の力で壊していって、最後は自殺する。あるいは、その後に書いた『小公女セイラ』【9】はその裏面というべき作品で、そういうヌルい共同体を必要としない高貴な少女がいかに生きるか、を描いていた。この2つは岡田さんにとって自己否定だったと言っていいはずで、だからそこからしばらくは代表作といわれるものが生まれなかった。それが『最後から二番目の恋』で、華麗に復活を遂げるわけです。
     あの作品は、登場人物のほとんどが中年以上でそれも難病だったり引きこもりだったり、半分死んでいるような人ばかりが出てくる。主人公と相手役のどちらも50代で、子どもを作るどころかセックスもしない中距離の関係を保っている。かつての岡田作品のようなユートピアを描いているんだけど、死の匂いが色濃く漂っている奇妙さがあった。終わりが見えているのに気持ちのいいユートピア像というものを、鎌倉を舞台に再獲得していく。そこからは快進撃が続いて、次にドラマファンをうならせたのが『泣くな、はらちゃん』だった。
     『はらちゃん』は、岡田惠和が描いてきたユートピア論をフィクション論に置き換えることで、また世界が拡大していったんだと思うんですよ。ヒロインの越前さん(麻生久美子)は、友達もいなくて寂しく暮らす工場勤務の女性で、自分でノートに描いていたマンガのキャラクターと交流を持って生きていくようになる。つまり『銭ゲバ』の風太郎や『小公女』のセイラのようには激しく生きられない人のために物語がどうしても必要なんだという、自己言及的というかメタフィクショナルな展開になっていた。ユートピアものを得意としていた岡田惠和が、『最後から二番目の恋』を経由することで人間と物語の関係を描くというところに変わっていった時期があって、その中で傑作が生み出されていた。
     そして今回の『ど根性ガエル』は、そのストレートな続編になっている。平面ガエルがいる世界で人々は暮らしていて、でもピョン吉は消えかかっている=その物語が成立しなくなりつつある。フィクションというものが世界から消滅しかかっている状態を描いているのが本作だった。まず最初に思ったのは、舞台になっている立石が、どう見てもゆっくり終わっていく世界なんだよね。この先、この世界がすごく発展したり、いきいきとした活力を取り戻すことは絶対なくて、むしろ不吉な予感すら漂っている。だけどそこには非常に温かい共同体がある。『最後から二番目の恋』の鎌倉のアップデート版というか、アレンジバージョンだと思うんだけど、その世界にまずはアテられた。そして主要キャラクターは、ひろし(松山ケンイチ)はニート、京子ちゃん(前田敦子)はバツイチ、ゴリライモ(新井浩文)は社会的には成功しているけどコミュニティの中心に入っていけなくてコンプレックスを抱えて鬱屈している。あの微妙さみたいなものがすごく魅力的で、「これはとんでもないものが始まったな」と思わされた。

    【7】『最後から二番目の恋』放映/フジテレビ(12年1~3月):古都・鎌倉の街を舞台にした、アラフィフ男女の恋愛劇。小泉今日子と中井貴一のダブル主演。
    【8】『ちゅらさん』放映/NHK(01年4~9月):NHK連続テレビ小説枠。沖縄と東京の2つの土地を舞台に、国仲涼子演じるヒロインの成長を描く。
    【9】『小公女セイラ』放映/TBS(09年10~12月):フランシス・バーネットの『小公女』を原作に、全寮制女子高校での生活を描く。主演は志田未来。



    【ここから先はチャンネル会員限定!】
    PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は今月も厳選された記事を多数配信します! すでに配信済みの記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201511
     
  • 【対談】河野英裕×岡田惠和「テレビドラマ『ど根性ガエル』をめぐって:ピョン吉という想像力を取り戻すために――「共感できない」テレビドラマの可能性」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.428 ☆

    2015-10-13 07:00  
    チャンネル会員の皆様へお知らせ
    PLANETSチャンネルを快適にお使いいただくための情報を、下記ページにて公開しています。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar848098
    (1)メルマガを写真付きのレイアウトで読む方法について
    (2)Gmail使用者の方へ、メルマガが届かない場合の対処法
    (3)ニコ生放送のメール通知を停止する方法について
    を解説していますので、新たに入会された方はぜひご覧ください。

    【対談】河野英裕×岡田惠和「テレビドラマ『ど根性ガエル』をめぐってピョン吉という想像力を取り戻すために――「共感できない」テレビドラマの可能性」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.10.13 vol.428
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは、9月に最終回を迎えたテレビドラマ『ど根性ガエル』のプロデューサー・河野英裕さんと、脚本家・岡田惠和さんによる対談です。『銭ゲバ』や『泣くなはらちゃん』を世に送り出したコンビが今作で取り組んだテーマとは。制作裏話からテレビドラマにおけるフィクションの可能性についてまで、徹底的に語ってもらいました。
    ◎聞き手:成馬零一、宇野常寛
    ◎構成:成馬零一
    ■  ピョン吉がTシャツからはがれたその先を描きたい
    ――今日は『ど根性ガエル』の完結記念ということで、プロデューサーの河野英裕さんと脚本家の岡田惠和さんにお話を伺っていきたいと思います。お二人には以前、『銭ゲバ』の時に対談していただいたのですが、また同じ組み合わせでお話を聞けて非常に嬉しいです。
    河野 2012年のNHK大河ドラマ『平清盛』が終わった後、また松山くんと一緒に仕事をやってみたいと思ったんですよね。それで、連ドラで原作モノということだけは決まったのですが、なかなか作品が決まらなくて。やっと決まりかけたと思ったらストップがかかったりして、結局2015年の7月までかかりました。
    ――『ど根性ガエル』に、強い思い入れはありましたか?
    河野 アニメの再放送は観ていました。ただ、岡田さんとは『泣くな、はらちゃん』をやった後だったので、もう一度ファンタジーテイストの作品を提案することには抵抗があったんです。同時に『はらちゃん』の後で、どういうファンタジーを作っていいか分からないこともあって。ただ、状況が状況だし、「えいやっ!」って気持ちで決めました。
    岡田 河野くんと次の企画について話していた時に、「かぶりもの」をテーマにした作品をやりたいって言ってたんですよね。何かをかぶっていないと主人公は生きられない、みたいな話をしていて。だから自分の中ではそんなに違和感はなかったです。
    ――原作から16年後という設定が、かなりビターなテイストになっていますが、あの世界観はどういう風に作られていったんですか?
    岡田 最初に一番重要だと思ったのはゴリライモでした。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のビフみたいに、相変わらずの番長っぷりを見せつけるってやり方もあったけど、大人になったひろしにとって一番嫌なのは、圧倒的に「正しい人」だろうと考えたんですよ。しかも、それが昔ちょっと悪かった奴だったりすると余計に厄介だろうなぁと思って、ひろしの対極にいる存在として配置しました。
    下町の共同体で、平面カエルの存在も普通に許容されている、そんなユルい世界から、一度、外の現実世界に出て戻ってきたのが京子ちゃん。その中で頑張っているのがゴリライモという位置付けです。
    ゴリライモを描くのは楽しかったですね。非の打ち所がない男なんだけど、密かにひろしにコンプレックスを抱いている感じがすごく新鮮でした。
    河野 ドラマ10話分の脚本を書いてもらうには、物語の縦筋が必要になるんですよ。ひろしとピョン吉が探偵役となって商店街に転がり込んでくる問題を解決する事件モノとか、ひろしが先生になっている教師もの、みたいなわかりやすい設定ものじゃなくて、普通の人間ドラマにすることを考えると、連続ドラマとしての縦筋が何もないというわけにはいかない。 
    結局、物語の中心にピョン吉という異形の存在がいる以上、縦筋はピョン吉の正体の話になる。Tシャツに張り付いている理由がちゃんとあって、後半はピョン吉自身さえも知らない秘密が明らかになり、ひろしと別れるんだけれども最後はまだ戻って来る。最初はそんな話を想定していたのですが、それだと作り込み過ぎとも感じていて。そしたら岡田さんから来たプロットに一言「はがれる」って書いてあったんですよ。「なんだそれでいいじゃん!」って思いました。
    ――ピョン吉の死をストレートに描くことに対して迷いはなかったんですか?
    岡田 死を描くというよりは、原作の先に行きたいという思いがありました。第9話のラストでピョン吉がTシャツから完全にはがれることは決まっていて、最終回はその先を描くつもりでいました。
    ――登場人物の親がほとんど死んでいるという設定も意図的なものでしょうか?
    河野 元々ひろしは片親で、京子ちゃんも親がいない。そこまでは話し合って決めました。その後で第4話の初稿を見たら、ゴリライモと五郎も親を亡くしていることになっていて。そこで初めて、これは喪失した若者たちの物語なんだということに気付きました。作品の方向性に確信が持てたのはそのときですね。
    ■ 松山ケンイチの身体性と満島ひかりの熱意
    ――撮影の現場はどんな感じだったんですか? 見えないピョン吉の存在を想定しての演技はかなり難易度が高いですよね。
    河野 最初はものすごくギクシャクしていました。ただ、松山くんの身体能力には助けられましたね。第1話の冒頭のアクションやパントマイムからもうすごくて。
    『ど根性ガエル』を実写化する上で、どうしても見せたかったのがピョン吉のアクション性、具体的には泳力とジャンプ力だったんです。だから泳ぐシーンは一番最初にやって、ジャンプのアクションも必ず毎回入ってるんですが、松山くんの身体能力、特に体幹の良さが素晴らしくて、毎回撮影が終わるたびに岡田さんに「松山ケンイチくんの体幹を見て下さい!」って言ってましたね。
    彼が文句ひとつ言わずに一人ですべてをこなしていくので、松山くんの身体性を信用してやっていけば、かなりハードなアクションもいけると最初の3日間で確信しました。

    【ここから先はチャンネル会員限定!】
    PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は今月も厳選された記事を多数配信します! すでに配信済みの記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201510
     
  • 『山田孝之の東京都北区赤羽』が明らかにした〈映像表現〉の臨界点(松谷創一郎×宇野常寛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.350 ☆

    2015-06-23 07:00  

    『山田孝之の東京都北区赤羽』が明らかにした〈映像表現〉の臨界点(松谷創一郎×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.23 vol.350
    http://wakusei2nd.com


    本日は、前クール話題のドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』をめぐる、松谷創一郎さんと宇野常寛の対談をお届けします。虚実ないまぜのフェイクドキュメンタリー的手法で話題となったこの作品の意義を、同時期にアメリカで話題となった映画『バードマン』などと比較しながら考えます。

    初出:「サイゾー」2015年6月号(サイゾー)
     
    ▼作品紹介
    『山田孝之の東京都北区赤羽』(Blu-ray BOX)
    原作/清野とおる 監督/山下敦弘、松江哲明 構成/竹村武司 出演/山田孝之、清野とおるほか 放映/テレビ東京にて毎週金曜24:52~25:23(15年1~3月)
    原作は、作者自身が生活する東京都北区赤羽で見聞きする出来事や、そこに住むクセの強い人々らを描いたコミックエッセイ。スランプに陥った山田孝之が、原作マンガを読んで感銘を受け、知人である山下敦弘に「赤羽に暮らす自分を撮影してほしい」と依頼する形で物語が始まる。
     
    ▼対談者プロフィール
    松谷創一郎(まつたに・そういちろう)
    1974年生まれ。著書に『ギャルと不思議ちゃん論』(原書房)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(共著/恒星社厚生閣)など。
     
     
    宇野 朝日新聞の連載コラムで、この作品について「フェイクドキュメンタリー最後の傑作」と書いたんですよ。それに対して、映像ディレクターの大根仁さんがテレビブロスの連載で「あれは果たしてフェイクだったのか?」と書いていた。それは「撮影に参加したら、山田孝之の様子がおかしかったから」ということだったんだけど、なんだか話が噛み合っていないと思った。ある程度まで作り込んで、ある程度はガチンコで生の反応を撮るのはフェイクドキュメンタリーの常套手段でしょう?
    松谷 大根さんは「フェイク」という言葉に引っかかったんじゃないかな。『東京都北区赤羽』(以下『赤羽』)と同じく役者が主演しているフェイクドキュメンタリーで、『容疑者、ホアキン・フェニックス』【1】という映画がある。作中で主演のホアキンはぶくぶく太ってヒゲを生やして奇行に走ったりしているんだけど、演出があったにせよ、太ったことや奇行に走ったことは、事実として残る。山田孝之で言えば、現実にある北区赤羽に放り込まれ、そこで生きている生身の人たちと交流したのは紛れもない事実。そこはいくら山田孝之が芝居をしようとしても、ほころぶ瞬間が必ずあって、それこそが面白い。つまり、この手の作品を語るときに、嘘と本当がきっぱり分けられるようなイメージを持ってしまうこと自体がおかしい。ただそんなこと、大根さんは百も承知だと思うので、あえて内側の人間として番組のコンセプトに乗っかったのかもしれませんけどね。
    【1】『容疑者、ホアキン・フェニックス』
    監督/ケイシー・アフレック 出演/ホアキン・フェニックス 公開/2012年
    『グラディエーター』などで知られる俳優ホアキン・フェニックスが、義弟と共に製作したフェイクドキュメンタリー作品。08年に突如歌手転向を宣言するところから始まり、ヒップホップに傾倒して髭面で奇行に走る姿を映し出す。
    宇野 まぁ、とにかく僕が指摘したかったのはYouTubeで少し検索すれば世界中のリアルで面白い映像を無料で観賞できて、そしてその映像がどこまで真実かもわからない今にあって、作家が一生懸命どこまで“嘘”でどこまで“本当”かわからないものを作り上げて、そのグレーゾーンに面白さを見出すフェイクドキュメンタリー的な「映像」は明らかにその存在意義を後退させているってこと。そんな厳しい状況下で、山下・松江両監督はまだフェイクドキュメンタリーだからこそできるものを必死に探し当てようとしているわけなのだけど、要するにその答えとは、存在意義を失いつつある映像を撮ることの自意識を訴えることだったのだというのが僕の見解ですね。そしてこの作家たちの自意識は、作中で描かれる山田孝之の「演じる」ことをめぐる自意識の迷走と、その結果としての自分探しに重ね合わされている。「映像」というものが20世紀に持っていた魔力が解体されつつある時代に生きる、映像作家と映画俳優の迷いだけがリアルだという(笑)。
    松谷 その点で、公開中の映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』【2】と『赤羽』は比較することができると思う。『バードマン』にはふたつの自己言及があって、ひとつはハリウッド文脈に対する俳優の自己言及。もうひとつは映画表現史への自己言及。僕は後者のほうが重要だと思う。この2年で、映画界には『ゼロ・グラビティ』と『インターステラー』という宇宙ものが2つあった。つまり、“現実”じゃないものを見せようと思うと、もう宇宙に行くしかなかった。もちろん宇宙は現実にあるんだけど、人が簡単には見られない究極として。さらに、ハリウッドではアメコミ大作やアニメが量産され、実際にディズニーは結果を出している。
    【2】『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
    監督/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演/マイケル・キートンほか 公開中
    かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡したが、現在は落ちぶれている俳優リーガン。自身が脚色した舞台で再起を図ろうとするが、そこに現れた才能ある男の存在や、家族との不仲に苦しみ、やがて彼は舞台の役柄に自己を投影し始める。アカデミー作品賞受賞。
     映画表現にはリアリズムと非リアリズム(あるいは超リアリズム)のふたつの流れがあって、それが近寄ったり離れたりしながら進んできた。ここ最近は離れていたんだけど、今これを急速に結びつけようとする動きがあって、そのひとつが『ゼロ・グラビティ』の前半13分の長回し映像であり、同じ撮影監督のエマニュエル・ルベツキが撮った『バードマン』の、ワンカットで全部を撮り切る表現。非現実をリアリズムで表現しようとしていて、これは批評的だった。4K・8Kテレビの普及やそれに対応したカメラの低価格化で、映像の解像度の高さという映画の優位性すら崩れるときが近づいている。その中で映画は果たしてどうあるべきなのか、というときに、ハリウッドが出したひとつの回答が『バードマン』だとするなら、日本の回答は『赤羽』だったんじゃないか、と言ったら大げさすぎるかな。
    宇野 そう、『バードマン』と『赤羽』はほぼ同じ問題意識に基づいていると思う。20世紀における「映像」は、リアリティの大規模共有装置だったわけじゃないですか。現実の、つまり三次元の体験は、特定の狭い共同体の中のコンテクストをわかっていないと共有できないけれど、映像という二次元に置き直した現実、リアルではなくリアリティであれば広い人間が共有できる。だからこそ映像は社会統合に利用されてきたし、劇映画はずっと自然主義的なリアリズムに基づいた作品を中心に展開されてきた。だけど現代の情報環境はこの前提を崩しつつある。インターネットの登場は、誰もが同じ映像を見ることで大規模な社会が文脈を共有する時代を終わらせつつあるし、作家が作り込んだ映像よりも、中学生がスマホで撮影してネットに上げた映像のほうがよっぽどリアルに感じることができる現実がある。だからこそ劇映画に対する大衆の欲望は現実には撮れないもの・存在しないものを映した表現に向かい、ハリウッドではアニメと特撮ばかりが作られるようになった。そしてアニメや特撮の持つファンタジー的なリアリティのほうが、国家や地域の壁を超えて広く共有されやすい現実が出現している。
     

    【ここから先はPLANETSチャンネル会員限定!】
    PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は6月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201506

     
  • 「男と女」を描くことで〈社会〉が描ける――『問題のあるレストラン』が示した画期(成馬零一×宇野常寛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.330 ☆

    2015-05-26 07:00  
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    「男と女」を描くことで〈社会〉が描ける――『問題のあるレストラン』が示した画期(成馬零一×宇野常寛)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.5.26 vol.330
    http://wakusei2nd.com


    本日は、前クールで話題となったドラマ『問題のあるレストラン』をめぐる、ドラマ評論家・成馬零一さんと宇野の対談をお届けします。ドラマ界で「男と女の対立」というフレームを描く作品が重なったなか、なぜ本作は突出できたのか? 脚本家・坂元裕二の作品歴をヒントに考えていきます。

    初出:「サイゾー」2015年5月号(サイゾー)
    画像出典:問題のあるレストラン Blu-ray BOX
    ▼作品紹介
    『問題のあるレストラン』
    脚本/坂元裕二 演出/並木道子、加藤裕将 出演/真木よう子、YOU、東出昌大、松岡茉優ほか 放送/1月15日~3月19日、毎週木曜22:00~22:54(フジテレビ系)
     
    大手飲食チェーン企業に務めていた田中たま子(真木)は、同僚が受けたセクハラ事件をきっかけに会社を退職、裏原宿のビル屋上で「ビストロ フー」を開く。集まったのは、ゲイのパティシエと、対人恐怖症のシェフ、離婚したてのシングルマザーほか女性スタッフ。ビストロ フーの裏手には元勤務先が経営するレストランもあり、そこにはたま子の元恋人で同僚でもあるシェフらが在籍している。この店に戦いを挑むつもりで、彼女たちは店を軌道に乗せるべく奮闘する。脚本は、『東京ラブストーリー』、『それでも、生きてゆく』『最高の離婚』『Mother』『Woman』等々を手がけてきた坂元裕二。
     
    ▼対談者プロフィール
    成馬零一(なりま・れいいち)
    1976年生まれ。著書に、『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社)、『キャラクタードラマの誕生 テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)ほか。
     
    ◎文:橋本倫史
     
    成馬 今期のドラマは豊作でしたけど、『問題のあるレストラン』は群を抜いて面白かった。脚本は坂元裕二さんで、彼がこれまで積み重ねてきた総合力で勝った、という感じがしました。セクハラや男女の働き方といった、ジェンダー問題が中心のハードなテーマなので、テーマにドラマが負けてしまうかな、と最初は思ったんです。でもフタを開けてみたら、テレビドラマとしてちゃんと面白かった。
     放映当初、ネット上では批判も結構あったんですよ。「男性の描写がキツすぎる」とか、逆にフェミニズム的な意識がある人からは「描写が甘い」というダメ出しだとか。確かに最初は、男は内面がない人のように描かれていたところがあった。だから、男が圧倒的に悪くて、セクハラ被害者やシングルマザーといった、女性差別に傷ついた人たちがチームを組んでレストランを作って戦っていく、みたいな内容になるのかと思っていたら、どんどん話が展開していく。今までのドラマだと、女性たちがレストランを作って癒されて終わり、という話になっていたと思うんです。でもそうはならなくて、前半で受けた批判を、後半にいくにつれてドラマが打ち返して盛り上げていった。
    宇野 僕も最初は「カリカチュアライズしすぎじゃないか」と思ったけれど、まったくの杞憂だったね。最初はわかりやすい極端な例を出して視聴者を引き込むんだけど、そのわかりやすさにあぐらをかいて安直な描写に走るのではなく、そこから細かい人物描写や背景をフォローしていく構図になっていて、実によく考えられていた。だから、このドラマに対してジェンダー的な観点から批判しているのは、ちゃんと観ていない人が多かったんじゃないかというのが単純な感想です。
     坂元裕二という作家は基本的に、耳目を集める現代的な社会問題を扱って、それによって発生するユニークな状況や奇妙な人間関係を使って芝居のニュアンスや人間関係の面白さを見せていくのだけど、今回の『問題のあるレストラン』ではそういう社会的なテーマを、作者にとって面白い状況設定を生むための道具に使っているのではなくて、最初から最後までメッセージ性で強烈に貫くということを本気でやっていた。だから結果的に、裁判をやって相手のレストランを潰すという、ある種のちょっとした後味の悪さにまでつながる結末になっていたと思う。
    成馬 第6話が転換点でしたね。YOU演じる烏森さん【1】が実は弁護士だと告げ、セクハラを受けてライクダイニングサービス【2】を辞めた五月(菊池亜希子)の裁判を始める。セクハラ事件の話は第1話以降姿を消していて、そのまま終わるのかとも思っていたので、この問題を最後までやるんだというのは驚きでした。
     
    【1】烏森さん
    YOUが演じた「ビストロ フー」のソムリエール。たま子とは前職の仕出し会社で同僚だった。
    【2】ライクダイニングサービス
    物語当初、たま子が勤めていた大手飲食チェーン企業。ビストロ フーの裏手に位置し、門司らが勤務する「シンフォニック表参道」を経営している。
     
    宇野 『問題のあるレストラン』を全話観ると、結局坂元裕二が何を信じているのかが透けて見えて、それがよりこの作品を面白くしていたと思う。つまり、最終回でたま子(真木よう子)が、理想のレストランを夢見るシーンがあるじゃない? 理解ある社長のもとに男女が和気あいあいと働くレストランを夢想するんだけど、現実には女だけの「ビストロ フー」を再興させることを選ぶし、男たちは男たちで別のレストランで働いていて、どうやらまた闘う関係になりそうだ、と。つまり、本当にすべての問題が解決することよりも、男と女がそれぞれのレストランをつくって、一種スポーツのように競い合って潰し合う空間のほうが魅力的だと、実は坂元裕二は思っているんだと思う。『問題のあるレストラン』の魅力って、現実をよりわかりやすくデフォルメしたハードな状況があって、やるかやられるかのシビアなところで男女が闘っているからこそ、その中で発生するホモソーシャルな気持ち良さにあるんだと思う。結局、「ビストロ フー」で仕事が終わった後にみんなでだらだらアイスクリームを食べているシーンや、スタッフ間の隠語を冗談みたいに言いながら楽しく働いているシーンが、いちばん生き生きと描写されていたしね。
    成馬 坂元ドラマの最終回は、基本的に“断絶”で終わります。絶対に相容れないもの同士がぶつかり合う瞬間──『それでも、生きてゆく』【3】の殺人犯との対話もそうだし、今回のたま子と雨木社長(杉本哲太)【4】もそうで、その瞬間に生まれる何かにドラマ性を託している。ただ、そこから先はわからない。もしかしたら人と人が理解し合うということを信じていないのかもしれない。たま子にとっての理想は男と女が一緒に働ける社会だけど、結果的に出来上がったのは男を排除したレストランだった。だから、明るい終わり方だけど、たま子にとっては挫折の話なんですよね。
     
    【3】『それでも、生きてゆく』
    放映/フジテレビ(11年)
    瑛太に満島ひかり、柄本明、安藤サクラ、大竹しのぶらが出演し、少年による幼女殺人事件の加害者家族と被害者家族を描いた話題作。
    【4】雨木社長(杉本哲太)
    ライクダイニングサービスのトップ。飲食に対して愛はなく、家庭も顧みない金儲け至上主義の前時代的な男性経営者として描かれる。
     
    宇野 あと、坂元裕二は今回、意図的にマンガ的な描写を入れていたと思う。例えば、松岡茉優演じる雨木千佳【5】が天才シェフになれた理由が、ひきこもりのお母さんのために幼い頃から毎日料理を作っていたから、という設定なんてかなり少年マンガ的でしょう。烏森さんが実は弁護士だったというのもそう。今までの坂元裕二のリアリズムにはなかった、超展開といってもいいような描写が相当入っている。そういうある種のご都合主義的な、もしかしたら自分の世界観を壊してしまうかもしれないような冒険をやっていたのは間違いない。敵側の、男社会レストランとの対決も、どこかゲーム的というかスポーツ的だしね。
     根底にあるジェンダー後進国・日本への怒りは本物だと思うけれど、そこから出発してたどり着いたホモソーシャル・ユートピアはどこかマンガ的で、そこが物語の中で「救い」として機能していた。
     
    【5】雨木千佳
    ビストロ フーの天才シェフで、ライクダイニングサービス雨木社長の実娘。
     

    【ここから先はPLANETSチャンネル会員限定!】
    PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は5月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201505

     
  • テレビドラマ定点観測室 2015 Spring〜『問題のあるレストラン』『デート』『ゴーストライター』から『心がポキっとね』『医師たちの恋愛事情』まで〜/岡室美奈子×古崎康成×成馬零一×宇野常寛 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.327 ☆

    2015-05-21 07:00  
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    テレビドラマ定点観測室 2015 Spring〜『問題のあるレストラン』『デート』『ゴーストライター』から『心がポキっとね』『医師たちの恋愛事情』まで〜岡室美奈子×古崎康成×成馬零一×宇野常寛
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.5.20 vol.327
    http://wakusei2nd.com


    テレビドラマファンの皆様、お待たせいたしました――。1クールに一度、ドラマシーンを振り返る好評連載「テレビドラマ定点観測室」。前クールの話題作『問題のあるレストラン』や『デート』『ゴーストライター』『山田孝之の東京都北区赤羽』の総括から、今クールの注目作『心がポキっとね』『医師たちの恋愛事情』への期待、そして『まれ』『花燃ゆ』の展望まで、3万字の大ボリュームでお届けします!
    これまでの「テレビドラマ定点観測室」記事はこちらのリンクから。
     
    ▼座談会出席者プロフィール
    岡室美奈子(おかむろ・みなこ)
    早稲田大学演劇博物館館長、早稲田大学文学学術院教授。芸術学博士。専門は、テレビドラマ論、現代演劇論、サミュエル・ベケット論。共著書に『ドラマと方言の新しい関係――「カーネーション」から「八重の桜」、そして「あまちゃん」へ』(2014年)、『サミュエル・ベケット!――これからの批評』(2012年)、『六〇年代演劇再考』(2012年)など。
     
    古崎康成(ふるさき・やすなり)
    テレビドラマ研究家。1997年からWEB上でサイト「テレビドラマデータベース」(http://www.tvdrama-db.com)を主宰。編著に『テレビドラマ原作事典』(日外アソシエーツ)など。「月刊ドラマ」「週刊ザテレビジョン」「週刊TVガイド」などに寄稿多数。2011年~13年度文化庁芸術祭テレビドラマ部門審査委員。
     
    成馬零一(なりま・れいいち)
    ライター・ドラマ評論家。主な著作は『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)。週刊朝日、サイゾーウーマンでドラマ評を連載。
     
    ◎構成:飯田樹
     
     
    ■ 4人全員が評価、早くも今年ベストとなるか?ーー『問題のあるレストラン』
     
    宇野 ではさっそく、前のクールの総括からはじめていきましょう。この座談会では毎回、僕を含めたこの4人が、前のクールで面白かったドラマを3つ挙げています。準備はいいですか?
    せーの、ドン!
     僕が『問題のあるレストラン』『山田孝之の東京都北区赤羽』『〇〇妻』。
     岡室さんが『問題のあるレストラン』『デート~恋とはどんなものかしら~』『怪奇恋愛作戦』。
     成馬さんが『問題のあるレストラン』『お兄ちゃん、ガチャ』『LIVE! LOVE! SING!』。
     古崎さんが『デート~恋とはどんなものかしら~』『ゴーストライター』『問題のあるレストラン』ですね。
     それでは、4人全員が挙げている『問題のあるレストラン』からいきましょう。
    古崎 第2話が終わった段階で前回の「テレビドラマ定点観測室」がありましたよね。そのときはちょっと導入部に極端なエピソードがあり、それがどう消化されていくか、まったく見えていない段階でした。したがって、その冒頭の衝撃的なエピソードを作品がどう消化してくのかを含め先を見ていかないとわからないという状況だったと記憶しています。
     その後、この冒頭の衝撃的なエピソードはしばらくまったく手つかずのままに展開していく。レストランの面々の癖のある連中が最初、バラバラに個性を主張している中でほんのわずかなことから心が接近していく。そのプロセスがいつもの坂元裕二らしい、ぎこちない展開で進んでいく。そこまで冒頭の衝撃的な話は放ったらかし状態です。
     それが中盤、そのメンバーの一人、YOUが弁護士だったことが明らかになる。すると、それまでのぎこちなかった展開が嘘のように急に話がなめらかに進んでいきました。この中盤から終盤にかけての展開は流麗そのもの。この部分の坂元裕二の筆致はかつての90年代のトレンディドラマで慣らした時分の作風の復活を感じさせたほど、するすると話が展開して一瞬、ドラマを見ているということを忘れて展開に引き寄せられてしまったほどで「これはすごいな」と思ったものでした。で、最後までそれで行くのかと思いきや、坂元裕二はそれで終わらなかった。最後には予想外の辛口の結末が用意されてまったく突き放した終わり方で締めくくった。坂元さんとしては、ひょっとすると中盤のなめらかな部分は視聴者サービスのようなもので、本当に見てほしいのは、最初と最後であり、その部分を見せるがための中盤だったのもしれませんが、私はそのなめらかな中間部の展開が、坂元裕二の健在ぶりをむしろ実感させられてしまった。いつでもこういう面白い展開はできるのだと。だけど敢えてしないのだと。私はこの真ん中の流麗な部分が好きなのだなと実感してしまった。見る側がどこに価値を置いているか、問い詰められるような気がしました。
    岡室 『Mother』『Woman』と書いてきた坂元裕二さんが、男性脚本家でありながら、正面切って働く女性が直面する問題を描いたことが、私が選んだ理由の一つです。東出昌大くんのセリフに「今は負けてる。だけど最終的に勝つのは、負けながら前に進むやつなんだ」というのがあって、「今は負けている人への応援メッセージ」という感じですごく心に響きました。
     あとはレストランの描写で、みんなでリズムを作っていく感じが身体的に表現されているところが良かったですね。3人娘の松岡茉優、二階堂ふみ、高畑充希も素晴らしかっし、東出くんも今までで一番ぐらいの演技で、周りを固める安田顕さんたちも良かった。
     坂元さんはセリフがとてもうまいですよね。初回はエキセントリックな描写でしたが、ああいう風に描かないとこのテーマができなかった気もします。
    宇野 さて、最初に成馬さんに聞かなかったのは、すでに『サイゾー』(2015年5月号)で対談しているからなんですよね。あらためて振り返ってどうですか?
    成馬 『問題のあるレストラン』放送中は、書ける媒体全部で書きましたね。正直、客観視ができないくらい面白かったです。あえて言っておくと、僕自身はもともと坂元裕二はそこまで好きな作家ではなくて、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』という本でも厳しく書いていたんですよ。でも、昨年の『モザイクジャパン』と本作でグイッときて、今は僕の中で暫定1位になりつつあるくらいです。
    宇野 僕も第1話を観たときは「極端なカリカチュアライズがプラスに出るかマイナスに出るかは微妙だな」と思っていたんですが、すごく上手に処理がされていたと思う。話の後半では、男性キャラクターも救いすぎないように救いつつ、ジェンダー後進性への怒りを最後まで持続しながら進めていくバランスも良かったです。
     この作品って、ここ数年における坂元裕二の集大成にして新境地ではないかと思うんですよ。理由は2つあって、ひとつは社会的背景の使い方が完成されていたこと。おそらく坂元裕二にとって社会問題というのは微妙な人間関係や気まずい空気を生むためのフックでしかなかったんだけど、今回初めて、作品を通して問題に怒っているのが伝わってきました。人の心を動かすために自分のメッセージを本気で発して、そこで心中しようとしている。それがビターエンドにも繋がっていくし、「人の手を殴ると自分の手も痛い」というようなことが、裁判をやったり、マスコミに情報戦を仕掛けて相手を潰そうとする展開にもよく現れている。作品をメッセージ性によって強烈に彩りながらも、それをコントロールする腕を彼は身につけたということでしょう。
     もうひとつは、坂元裕二はずっと「本来の”家族”を失ってしまった人間が心の行き場をなくして、現代社会で問題を起こしていく」という90年代の野島伸司のような世界観を反復しているところがあったんですが、今まではそれに対して答えを出せていなかった。このドラマで初めて、人間が本来持っているべき”家族”というものを失っても生きていく方法を見つけていて――それはホモソーシャル同士が戦いながら切磋琢磨してイキイキしているという方向なんですが――それまでの停滞した世界観からようやく離陸できたのではないかと思えました。
    岡室 私も坂元裕二さんの脚本は大好きなんですけど、彼がずっと描いてるのはコミニュケーションの問題だと思うんです。たとえば『それでも、生きてゆく』なら、風間くんが演じた犯人のように絶対に分かりあえない人物がいて、そういう人に対して愚直にコミュニケーションを仕掛ける瑛太のようなキャラクターがいる。そのコミュニケーションが最終的に成立していくのを描いたのが『最高の離婚』のようなドラマです。
     最近の坂元さんの作品は、困難なコミュニケーションが最終的に成立していく話が多かったんですが、今回は最後まで見ても成立したかどうかわからないけど、それでも前に進む人たちを誠実に描いているんですよね。そこにある種の集大成を見て取れる気がします。
    古崎 坂元さんは最近、人間の葛藤や激突をぐいぐい描くことが中心で、かつて90年代に『東京ラブストーリー』などのトレンディドラマで視聴者をぐいぐいひきつけていたエンターテイメント的な動かし方を忘れてしまったのかなと思っていたんですよ。しかしこの作品では、先に触れたように中盤部にその良さが導入されていた。おそらくエンターテイメント性の強い作家がこのドラマを作ろうとすると、冒頭の衝撃的な話はあったとしてもすぐに弁護士が現れて話がある程度、見る側が不満を募らせることなく、理想的に進行させていくのです。でも坂元裕二はそうはしない。『それでも生きていく』や『Woman』などで描いた人間の葛藤や激突のどうしても解決しない部分を描く補足としてこういうエンタ的手法を使いはじめたということでしょう。これまでも諸作品の持ち味の良さを融合してきているのではないかと思っています。
    成馬 『わたしたちの教科書』といういじめを題材にしたドラマがありましたよね。菅野美穂演じる主人公の名前がたま子、敵側の副校長が雨木という苗字で、『問題のあるレストラン』はその反復なんですよね。坂元さんにとって『わたしたちの教科書』は向田邦子賞をとって作家として評価された転換点にある作品です。そこで構成力で見せる手法をやった後に、それを一回捨ててコミュニケーションの微妙なニュアンスで見せていく『Mother』を作り、そして「構成で見せつつ、会話も面白い」という合わせ技でこのドラマを作った。今まで培ってきた技を全部持ち込んできたんですよ。
    宇野 会話の面白さと役者の力を引き出すためのアプローチは成功してるけど、物語的には失敗していて、部分の強さに全体が耐えきれていないというのが、僕の『Woman』の感想です。それが『問題のあるレストラン』では、力強い演出を下支えする強力な物語のフォーマットを手に入れたなと思っています。
     ひとつは、坂元さんがずっと隠れテーマにしてきたジェンダー的な問題に対しての、社会問題の真摯かつクレバーな使い方。もうひとつは、少年漫画的な手法です。たとえば、千佳ちゃんが引きこもりのお母さんのために料理を作っていたら料理の達人になっていたとか、YOUが本当は弁護士だったとかですね。今まで自分の中になかった物語の要素を入れて、それをすごく上手に料理したことによって、部分が全体に負けることがなかったのが大きいと思います。
    古崎 流麗な展開が最終回で「無名の人からのクレームで店が潰れる」というあっけない結末があって、それが導入部のエキセントリックな話と比べると恐ろしいほどリアルでしたね。ネットでは「あんなことで潰れるのか」という意見が出てたりするんですが、実際に企業をやっていると、ああいうわけの分からない批判で潰れちゃうことがあるんです。その恐ろしさが最後にさらっと描かれてたのはちょっと怖かったですね。
    成馬 あれは、たま子たちがゴシップ記事で雨木の会社を潰そうとしたこととの対比になっているんですよね。たま子たちがやっていたことも、名もないクレーマーがやっていたことも、ネットの炎上的な暴力と同じじゃないかというのを最後の最後に突きつけてくる。だから社長も「世の中にはひどい奴らがいっぱいいるだろ、お父さんの敵をとってくれよ」とか息子に言うじゃないですか。あのシーンの絶望感はすごいですよね。
    宇野 あの後の千佳ちゃんのセリフ、「私はあなたに何もしてあげられません」というのも良かったですよね。
    成馬 呪いを解いてあげる魔法になるのか、雨木社長の呪いが子供にも続いていくのかが分からないところがあのドラマの怖さで、社長も二世というところで「きっと父親になにかされてたんだろうな」というのが少しだけわかるじゃないですか。
    宇野 『問題のあるレストラン』で僕が良いと思うのは、本気で怒ってるんだけど楽しいところだと思うんですよ。
    成馬 烏森弁護士役のYOUが言っていた「お花畑と泥棒の仲の対比」ですよね。復讐だけじゃ生きられない、楽しく生きることも復讐になるという。
    宇野 坂元さんってその「お花畑」を持っていなかったと思うんですよ。たとえば『それでも、生きてゆく』で瑛太と満島ひかりが漫画喫茶で気まずいやりとりをしているシーンを、設定を知らずに切り取ったら、付き合う3歩手前のカップルがイチャついているものとして、微笑ましく見られるじゃないですか。ああいう部分がだんだん拡大されていったんだろうけど、今回は坂元さんの作品で一番お花畑の要素が肯定されてる作品ですよね。しかもそれが、本来あるべき「男女が仲良く家族的に会社をやっていく」というビジョンではなくて、同世代の女の子同士が集まってお店をやっているというホモソーシャル的な共同体にお花畑が結びついてる。それも今までの坂元さんにはなかった要素で新しいなと思っています。
    成馬 役者はみんな微妙にイメージをずらしていますよね。ツンツン怒っている役ばかりやってた真木よう子が、明るいニコニコした役をやっていたり、松岡茉優も本来なら高畑充希が演じていた藍里を、二階堂ふみが天才シェフを、高畑充希が優等生の新田さんを演じていてもおかしくない。
     あと、敵側に全員朝ドラに出演した男性俳優を置いていましたよね。みんな役者の話をする時に演技の上手い下手だけで語りがちだけれど、実は「どこに誰を置くか」という文脈や配置の面白さというのもあって、そこをこのドラマではきちんとやっていた。
    古崎 坂元さんの脚本は今まで対象に寄りすぎた描写が多くて、そのために作り手自身が作品を進める中で葛藤していたような部分があったんですけど、今回はディープに入りつつもある程度突き放した部分があって、ようやく対象との適切な距離感がつかめてきたようにも見えますね。
    宇野 3人娘の女優全員が、今までで一番良いと思います。二階堂ふみは、僕はそんなに好きな役者ではなかったんだけど、今回で好きになりました。
    岡室 『Woman』のときも良かったですよ。
    宇野 良かったけど、要求されてるものを忠実にこなしてる感じがしていて。優秀なのは分かるけど……と思っていたので。
    成馬 二階堂ふみがいつものエキセントリックな演技が封じられている中で、必死にあがいてるのが面白いんですよね。
    宇野 あと真木よう子も、これまで大きな役柄ではたま子のようなタイプを演じていなかったじゃないですか。仏頂面して「私いい女よ」って顔してる真木よう子よりも、今回のたま子のほうが良いと思った人はいっぱいいると思ういます。
    岡室 最初の方はいつもと違う感じで良かったんだけど、最後の社長に詰め寄っていくあたりではいつもの真木よう子に戻っていて、ちょっとお説教くさい感じがしたんですよね。あそこはもうちょっとたま子ちゃん風に方の力を抜いてやってほしかったです。
    成馬 そこまで温存したかったんじゃないのかなとは思いますけどね。怖い真木よう子を見せるためにたま子があった感じがします。
    古崎 以前の作品と比べると後半はドラマの予定調和に流れてしまった部分はあるかもしれないですね。
     
     
    ■ 古沢良太が描くべき「恋」とはなんだったのか? 『デート〜恋とはどんなものかしら〜』
     
    宇野 次にかぶってるのは『デート~恋とはどんなものかしら~』(以下『デート』)ですね。今度は岡室さんからいきますか。
    岡室 月9での恋愛ドラマが難しくなっている中で、「恋愛できません」という人たちの恋愛ドラマを描いたのが新鮮だったのと、古沢良太さんの脚本ということで挙げました。私、第一話ではちょっと引いたんですよ、お化粧があんまりで(笑)。でも、恋愛できない人たちがいかに恋愛をしていくかという脚本が本当にうまかったです。あと最終回にいきなり出てきた白石加代子がすごかったですね。ワンポイントで出てきて、謎の余韻を残して去っていく。天使様だったのかなんなのか分からないですけど、そういったところも含めて面白く見ました。
    古崎 冒頭に主人公が自己の生き方を漱石の「高等遊民」の生き方に擬せるセリフが出てきて、登場人物も理屈っぽい話をしていて、およそ感情が支配すべき恋愛の要素が皆無で「一体全体ここからどうやって着地させていくのか」と気になってしまいましたね。でもそれが作り手の狙いでもあったのですね。「高等遊民」というセリフ自体、本来描きたいものを隠すための装置だったのでしょうね。このドラマは、結局、そんな理屈っぽいことでカモフラージュしていますけど、中年童貞と処女が恋してしまう話なんですよね。かつて『電車男』がこういう恋愛べたな男性とそれに苦しむ女性という、恋愛難民の話を描いて共感を呼んだわけなんですけど、これまでゴールデンタイムの恋愛ドラマでは、美男美女の恋愛話が中心だったがゆえ、なかなかこういう方面を赤裸々に描くことに慎重で企画としても通りにくい部分があるのでしょう。そこで古沢さんは「高等遊民」の恋愛劇と見せておいて、実は現代で問題になっている中年童貞の人物を描き出したのではないでしょうか。
     だからといって月9の枠組みを壊すことはしていない。ちゃんと恋愛の不思議さも描かれているのですよね。これまでの古沢さんの作品を眺めていると「恋愛というのは生命を継続させるためにDNAに仕組まれただけのものに過ぎない」という、宮藤官九郎が『マンハッタン・ラブストーリー』で「恋愛なんか思い込みですよ」と言っていた部分に通じる考え方の人だと思っていたのですが、「恋愛とは非常に不思議なもので、嫌い嫌いだと思っていることが実は恋愛」というのが導きだされていて、案外、それは当たり前のことなのだけど、改めてそういう結論に届くことが新鮮でもありました。そういう部分が描かれていて、ちゃんと「月9の恋愛劇」になっていました。
     あとこれは表現技法の部分で、杏のあの独特の軽い声でキャピキャピと喋る話しぶり。最初は耳障りに思えたものがだんだんと滑稽さが漂っていく。この面白さは昔、どこかであったなと思っていたのですが、1970年代の『おくさまは18歳』というドラマで岡崎友紀さんと石立鉄男さんが丁々発止していたやり取りのテンポなのですね。古沢さんは過去のドラマや映画に詳しい人なのでこういう過去の成功例をさりげなく意識しているように思えますね。そういう忘れられた古き良き時代の良さを温故知新して恋愛劇をアップデートした作品に映りました。
    成馬 僕は第1話が一番面白かったです。恋愛よりも理屈が勝つ話を見たかったんですよ。『リーガル・ハイ』のように理屈を並べていきたいのが本音だけど、それでも『ALWAYS 三丁目の夕日』も書けてしまえる、というのが古沢さんの作家性だと思っているんです。だけど今回は「月9=恋愛ドラマ」に合わせすぎていて、屁理屈力が落ちてしまったのではないかな、と。
    岡室 「嘘を肯定していく」というところが古沢さんのドラマのエッセンスとしてありますよね。このドラマでも、全然好きではないけど、お互いの都合だけで結婚したい2人がいて、そういう中から恋愛が成り立っていくという点では、古沢さんの文法に則っている感じがしましたけどね。
    成馬 契約だけで成り立つ人間関係の美しさを描けていたら「俺はもう負けました」と言っていたと思うんですけど、結局「恋って不思議ですね」というみんなが知っている回答に合わせてしまったところが気になるんです。完成度が高くて良くできたドラマなんだけど、個人的にはピンときませんでした。
     
    【ここから先はPLANETSチャンネル会員限定!】
    PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は5月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201505

     
  • 世界が「木更津」化したあとに――『ごめんね青春!』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.281 ☆

    2015-03-13 07:00  
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)


    世界が「木更津」化したあとに――『ごめんね青春!』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.3.13 vol.281
    http://wakusei2nd.com



    本日のメルマガは、宇野常寛による『ごめんね青春!』批評です。『木更津キャッツアイ』『あまちゃん』などで時代の空気を絶妙に掴んできたクドカンは、今作ではなぜこれまでのような切れ味を発揮できなかったのか? この10年余りの社会状況・情報環境の変化から考えます。
    初出:『ダ・ヴィンチ』2015年3月号(KADOKAWA)
     
     クドカンこと宮藤官九朗の最新作『ごめんね青春!』は、主にその低視聴率による「苦戦」で世間に知られる結果になってしまった。しかし、そもそも彼の作品が視聴率的にヒットしたのは東野圭吾原作の『流星の絆』くらいの話で他は良くてもスマッシュヒット、といったところだろう。二度も映画化されたロングセラー『木更津キャッツアイ』も本放送の視聴率はぱっとしなかったし、あの『あまちゃん』でさえも、内容的には凡作としか言いようがない『梅ちゃん先生』に平均視聴率では負けていた。クドカン作品の魅力とは、端的に述べれば広く浅く拡散していくものではなく、深く刺さるタイプのものなのだ。
     だから僕は本作をその視聴率的苦戦をもって何か言おうとは思わない。現に僕自身、このドラマを毎週楽しみにしていて、最後まで面白く観ていたのは間違いない。
     しかし残念ながらその一方で、僕はこのただ楽しく、面白いドラマに物足りなさを感じていたことも正直に告白しようと思う。もちろん、テレビドラマに楽しく面白い以上の価値は必要ない、という考えもあるだろう。しかし、少なくとも僕はクドカンドラマにそれだけではないものを感じてこれまで追いかけてきたのだ。
     
     今思えば『池袋ウエストゲートパーク』はモラトリアムの「終わりの始まり」の物語だった。長瀬智也演じるマコトが思春期の終わりに、それまで足場にしていた「ジモト」のホモソーシャルの限界に直面する。そして同じ長瀬智也が主演を務めた『タイガー&ドラゴン』はいわゆる「アラサー」になった主人公が、若者のホモソーシャルとは一線を画した大家族的な共同体に軟着陸していく過程を描いていた。そして長瀬が32歳で主演を務めた『うぬぼれ刑事』は、完全に「おじさん」になった主人公がもう一度、大人のホモソーシャルに回帰していくさまを描いていった。要するに、クドカンは自分よりも8つ年下の長瀬智也の肉体を借りて男性の成熟を、歳の取り方を描いてきた作家でもあるのだ。同世代の同性たちからなる若者のホモソーシャルが加齢とともにゆるやかに解体し、やがて(擬似)家族的なものに回収されていく。しかしクドカンの想像力は教科書的な成熟と喪失の物語を選ぶことはなく、やがて男の魂は新しい、大人のホモソーシャルに回収されていったのだ。
     クドカンのドラマから僕がいつも感じるのは、部活動的なホモソーシャルだけが人間を、特に男性を支えうるという確信と、その一方でこうしたホモソーシャルの脆弱さに対する悲しみだ。この確信と悲しみの往復運動が、クドカン作品における長瀬智也の演じるキャラクターの変遷をかたちづくり、あるいは『木更津キャッツアイ』シリーズでクドカンが描いてきた儚いユートピアのビジョンに結実していった。
     
     この視点から『木更津キャッツアイ』について振り返るのならば、人間がこうした部活動的なホモソーシャル、同世代の、同性からなる非家族的な友愛の、「仲間」的なコミュニティに支えられたまま(「まっとうな近代人」の感覚からすればモラトリアムを継続したまま)歳をとって死んでいくという人生観を提示し、しかもそれを幸福なものとして描き出したところが衝撃的だったと言える。そして『タイガー&ドラゴン』以降の作品は、クドカン自身がこの『木更津キャッツアイ』で提示したものを自己批評的に展開していったものに他ならない。
     
     思えばクドカンが台頭したゼロ年代は、「仲間主義」と「ホモソーシャル」の台頭した時代だった。90年代的な恋愛至上主義文化の反動から、恋愛やファミリーロマンスでは人間の欠落は埋められないという世界観が支持を集め、まず『ONE PIECE』的な仲間主義が台頭し、そして「日常系」アニメ(『けいおん!』『らき☆すた』)からAKB48、EXILEまでホモソーシャル(では正確にはない。これらのコミュニティには紅/緑一点の異性すらいない。ミソジニー傾向の代わりに、ボーイズ・ラブ的な友愛の関係性が支配している)の中での非生殖的、反家族的な関係性がジャンル越境的に国内ポップカルチャーにおいて支配的になっていった。そう、今思えば『木更津キャッツアイ』はその後10年に起こることを先取りしていた作品だった。
     
     あれから10年余り、世界はある意味すっかり「木更津」化した。
     若者向けのポップカルチャーはすっかり木更津キャッツアイ的な「ホモソーシャル2.0」の原理が支配的になった。『木更津キャッツアイ』は企画当初『柏キャッツアイ』であったことが象徴的だが、彼らがジモトを愛する理由は、そこに地縁と血縁があるからではなく、自分たちの「仲間」の思い出が、歴史があるからだ。だから同作に登場した青年たちは自分たちの内輪ネタとサブカルチャーの「小ネタ」で凡庸な郊外都市である木更津を、自分たちにとっての「聖地」に変えていった。
     そして今、こうしたコンテンツ依存のジモト愛の喚起、町おこしはむしろ地方自治体の常套手段と言っても過言ではなくなった。2013年に社会現象的ブームを巻き起こし、後世にはおそらくクドカンの代表作として語り継がれるであろう『あまちゃん』の放映時に、舞台となった岩手県三陸地方がこうした「聖地」化によって大きくクローズアップされたことは記憶に新しい。
     そう、この10年余りのあいだに、世界はすっかり「木更津」化したのだ。
     
     クドカンの話に戻そう。クドカンの一連の試行錯誤の集大成が『あまちゃん』だったことは間違いない。クドカンはここで、戦後の消費社会史をアイドルというアイテムを用いて総括した。ここでは前述のクドカンがそれまで培ってきた「ジモト」への視線が、戦後社会の精神史を描く上で大きく寄与していたのだが、本作『ごめんね青春!』では『あまちゃん』では扱われなかった男性の成熟とモラトリアムの問題が再浮上することになった。本作のプロデューサーはTBSの磯山晶、『池袋ウエストゲートパーク』にはじまる一連の長瀬智也主演作品や『木更津キャッツアイ』を担当した人物だ。主役を務めるのは長瀬よりも6歳若い錦戸亮。彼が演じる高校教師が、勤務先の男子校と近所の女子校の合併のために尽力しながら、30歳になっても引きずっている青春の日のトラウマに決着をつける、という物語が展開した。
     これは言い換えれば、『木更津キャッツアイ』で一度男女を分離した、少なくともロマンチック・ラブ・イデオロギーやファミリー・ロマンス信仰とは異なるかたちの救済を提示したクドカンが、もう一度男女を出会わせようとしたもの、とひとまずは言えるだろう。しかし、残念ながらこのコンセプトは物語前半で空中分解してしまった。
     本作では当初激しかった主人公の属する男子校と、合併先の女子校との対立は物語の序盤(第三話)であっさりと解決する。男子生徒嫌いの急先鋒だった黒島結菜演じる女子校側の生徒会長が、自分たちはこれから「男子」と書いて「アリ」と読む、と宣言する。あまり気の利いたセリフ回しではないが、それはまあ、いいだろう。しかし、その後同作はホモソーシャル同士の衝突を正面から描くことはなくなり、端的に言ってただの学園ラブコメになってしまう。もちろん、ただの学園ラブコメであることが悪いわけではない。ただ、この瞬間にどうしてこの複雑な設定が存在するのか、その意味はなくなってしまった。
     こうして「再び〈男女〉を出会わせる」というコンセプトを失ってしまった同作は、最終回へ向けて主人公の教師・平助のトラウマの解消、高校時代に犯した罪の告白と清算(彼なりの「青春」への決別)に焦点を移すことになる。そして、最終回で平助は自分が担任していた学年の卒業式に学生服で乱入し、自分の「卒業」を宣言して青春に別れを告げる。思春期の恋が生んだ葛藤にケリをつけて、次のステージに進む。教師をやめ、満島ひかり演じる女子校の教師と結婚し、自分は学校をやめて地元FM局のDJになる。大いに結構だが、ここで提示された「成熟」モデルが、僕にはどうにも魅力的なものには見えなかった。


     
    【ここから先はチャンネル会員限定!】
    ▼PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は3月も厳選された記事を多数配信予定! 配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201503

     
  • いま、「もう一度、男女を出会わせる」ことは可能か? ――『ごめんね青春!』でのクドカンの挑戦と挫折を考える(宇野常寛×中川大地) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.269 ☆

    2015-02-25 07:00  
    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)



    いま、「もう一度、男女を出会わせる」ことは可能か?――『ごめんね青春!』での
    クドカンの挑戦と挫折を考える(宇野常寛×中川大地)

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.2.25 vol.269
    http://wakusei2nd.com



    本日のメルマガは、昨年話題となった宮藤官九郎の新作『ごめんね青春!』をめぐる、宇野常寛と中川大地の対談です。『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』など初期作からクドカンを見守ってきた二人が、『あまちゃん』大ヒット以降の新たな挑戦を考えます。

    初出:『サイゾー』2015年2月号(サイゾー)
     

    宮藤官九郎『ごめんね青春!』シナリオ集(KADOKAWA/角川マガジンズ、2014年)
     

    ごめんね青春! Blu-ray BOX(製作著作・発売元:TBS 販売元:TCエンタテインメント)
     
    ▼作品紹介
     『ごめんね青春!』
    プロデューサー/磯山晶 脚本/宮藤官九郎 演出/山室大輔、金子文紀 出演/錦戸亮、満島ひかり、永山絢斗、斎藤由貴ほか 放映/TBS系にて毎週土曜21:00〜21:54(14年10月〜12月)
    TBS「日曜劇場」枠にて放映された、クドカン脚本作品。経営難を理由に合併話が持ち上がった、駒形大学付属三島高校(通称「東高」トンコー)と、カトリック系の聖三島女学院という不仲の別学校を舞台に、その教師であり高校時代に後ろめたい過去を持つ原平助(錦戸)と、シスターでもある蜂矢りさ(満島)ら教師、そして学園の生徒たちの恋愛と青春を描く。
     
    ▼対談者プロフィール
    中川大地(なかがわ・だいち)
    1974年生まれ。文筆家/編集者。著書に『東京スカイツリー論』(光文社新書)ほか。
     
     
    宇野 「つまらないわけじゃないんだよなぁ」という感想ですね。宮藤官九郎(以下、クドカン)&磯山プロデューサー【1】コンビのドラマは、長瀬智也くんと一緒に年を取ってきたところがあるわけじゃないですか。思春期の終わりに直面している『池袋ウエストゲートパーク』(00年〜)、大人になって地に足をつけた共同体や家族的なものと向き合わないとやっていけないというのが『タイガー&ドラゴン』(05年)で、大人になりきった後にホモソーシャル空間でどう生きていくかというのが『うぬぼれ刑事』(10年)だった。その流れの中で一番重要な作品がやはり『木更津キャッツアイ』(02〜06年)ですよね。これはまさに男の子のモラトリアムとその終わりの話で、今でいう「マイルドヤンキー」的な、部活動の延長線上にあるような同世代のホモソーシャルに依存したまま年を取って死んでいく、というモデルを提示したわけで、これはやはり決定的に新しかった。その後のクドカンはむしろ、『木更津キャッツアイ』的なものを自分で信じられなくて試行錯誤していったところもあると思うんですよね。
    【1】磯山プロデューサー
    TBSのドラマプロデューサー・磯山晶。『IWGP』以降のクドカンTBS作品をすべて手がけた、クドカンを育てたゴッドマザー。
     磯山ドラマで培ったものを、80年代以降の消費社会の総括に応用して大成功を収めたのが『あまちゃん』(13年)だったと思うんです。そして今回クドカンがTBSに帰ってきたわけだけど、今度は長瀬くんより5歳若い30歳の錦戸くんを主人公にして、もう一回青春との決別の話をやった。『木更津〜』シリーズでケリをつけたはずだったところに、戻ってきてしまった。もちろん、あれから10年くらい経っていて、相応のアップデートは随所に見え隠れしていたんだけど、全体的には単ににぎやかな楽しい話を無難に描いて終わってしまったように思うんです。もちろん、それはそれでいいんだけど、なぜ今この作品を描く必要があったのか、よくわからないんですよね。
    中川 「先に進めなかったな」という感想は、僕も同感。はじめは、すごく期待感があった。基本的にクドカンが得意としていたのは、『木更津〜』以降の、ホモソーシャル的なコミュニティで異性愛を絶対視しない幸福像を描くことだったわけだけど、だんだん世の中がそこに追いついてきて、2014年に至っては『アナと雪の女王』で「ソフト百合な女子バディもの最強!」になりましたよね。で、これに対して男女共にホモソーシャルな世界観が広がってきた中で、今度は女子高と男子校の合併話を通じて2つのホモソーシャリティがぶつかると、どのように軋轢を起こし融和するかのプロセスを描くという、そのコンセプト性はすごく刺激的でした。実際、最初の2〜3話くらいまではそれがいきいきと描かれていてワクワク観てました。最近ネットで神経質になりがちな性愛にまつわるジェンダー問題も相当先回りして取り込んだ上で、「そうはいっても一緒にやっていかないといけないよね」という描き方は非常に巧みだった。だけど、その葛藤が解消されてからドラマがなくなってしまった。
    宇野 90年代の日本のポップカルチャー全体は、Jポップに代表されるように、恋愛至上主義的だったわけですよね。ゼロ年代はその反動で、脱恋愛の流れがやってきた。というか、恋愛やファミリーロマンスでは人間の欠落は埋められない、という世界観が支持を集めていって、まず『ONE PIECE』的な仲間主義が台頭し、さらに先鋭化したものはだんだん「ホモソーシャリティ最高!」となっていった。クドカンはその先鋭化を担っていた中心的な作家ですよね。そのクドカンが、人間はホモソーシャル抜きでは生きていけないことを前提にした上で、もう一回男女をどう出会わせるか、ということを今回やったわけだけど、コンセプトが途中で空中分解してしまったところがあると思う。
     中川さんが言う通りそのモチーフは、第3話で生徒会長(黒島結菜)が「男子」と書いて「アリ」と読んだ瞬間に終わってしまった。でも、それを「アリ」としてしまったら、ただの共学青春ものになってしまう。
     『木更津〜』って「人は死なないと青春を卒業できない」という話だったと思うんですよ。「青春」や「卒業」といった概念自体を崩していった作品だともいえる。だって木更津にいる大人も、キャッツの連中とやっていることはあまり変わらない。「そういうところから究極的に離脱する唯一の方法が死なんだ」として、モラトリアムが終わって意識の高い大人になっていくという従来の青春観を打ち破っていくところが斬新だった。なのに『ごめんね青春!』では、最後に平助が「卒業」してしまう。
    中川 「遅れてきた卒業」モチーフって、日テレ土曜9時枠の『マイ☆ボス☆マイ☆ヒーロー』(06年)や『35歳の高校生』(13年)で、さらに赤裸々なシチュエーション設定でやられちゃったからね。
    宇野 そう、まさに00年代クドカン磯山ドラマのライバルだった河野英裕プロデューサー【2】が立脚していた、オーソドックスな成熟観に寄り添ってしまって、しかもそれをクドカン自身が信じきれていない。

     
    【ここから先はチャンネル会員限定!】
    ▼PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は2月も厳選された記事を多数配信予定!
    配信記事一覧は下記リンクから更新されていきます。
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201502

     
  • 『花子とアン』はなぜ「モダンガール」を描き切ることができなかったのか?(中町綾子×宇野常寛) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.237 ☆

    2015-01-09 07:00  


    『花子とアン』はなぜ「モダンガール」を描き切ることができなかったのか?(中町綾子×宇野常寛)

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.1.9 vol.237
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、好評のうちに終了した昨年の朝ドラ『花子とアン』をめぐる、中町綾子さんと宇野常寛の対談をお届けします。『やまとなでしこ』『ハケンの品格』で「強い女性」を描いてきた脚本家・中園ミホがぶつかった、「ハードボイルド」と「乙女ちっく」を両立させることの困難、そして「朝ドラ」というフォーマットの今後について考えます。

    初出:サイゾー2014年12月号(サイゾー)
    連続テレビ小説「花子とアン」完全版 Blu-ray-BOX -1
    ▼作品紹介
    『花子とアン』
    演出/柳川強ほか 脚本/中園ミホ 原案/村岡恵理(『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』) 出演/吉高由里子、鈴木亮平、伊原剛志、仲間由紀恵、窪田正孝ほか 放映/2014年3月31日〜9月27日(NHK/月〜土8:00〜8:15)
    『赤毛のアン』の翻訳者である村岡花子(吉高)の生涯を、幼少期から女学校時代、戦前戦後の混乱期とたどる一代記。女学校で出会った親友で歌人の白蓮こと蓮子(仲間)との友情がドラマを通じたひとつの軸となっており、白蓮が準主人公といえる。
    ▼対談者プロフィール
    中町綾子(なかまち・あやこ)
    1971年生まれ。新聞各紙にドラマ評を連載。放送関係各賞の審査委員を務める。著書に『なぜ取り調べにはカツ丼が出るのか?』(メディアファクトリー)ほか。
    ◎構成/金手健市
    脚本家・中園ミホが追求してきた「ハードボイルド」なヒロイン像
    宇野 世間では視聴率的にも内容的にも絶賛が多くて戸惑っているんですが、僕ははっきり言って『花子とアン』がそこまでよかったとは思っていません。確かに、2000年代半ばの本当に朝ドラが低迷していた時期の作品に比べれば数段上です。でも、『カーネーション』(11年後期)、『あまちゃん』(13年前期)、『ごちそうさん』(同年後期)があり、”朝ドラ第二の黄金期”といわれるような最近のアベレージからすれば、二段近く落ちる作品だったことは間違いない。これが名作扱いされるような状況には物申さないといけないだろう、という気持ちがある。
     いろいろ言いたいことはあるんですが、まず前提として触れないといけないのは視聴率問題です。いまの”朝ドラ黄金期”って、視聴率があまり意味をなしていないんですよね。ドラマファン以外も巻き込む力の強かった『あまちゃん』が、『梅ちゃん先生』というあまり見るべきところのなかった作品と大して変わらない視聴率しか取れていなかった。結局のところ、マイルド化された『おしん』とでもいうような「昭和の女の一代記」をやると、昭和の日本人がなんとなくいい気分になって視聴率が上がるという、それ以上のものではない。だから視聴率が20%を超えたからといって、それはなんの指標にもならないと思うんですよね、前提として。その上で、中身を吟味するところから始めたい。
    中町 正直、私もなかなか熱くはなれないドラマでした。先入観として、中園ミホ【1】さんの脚本のテイストと朝ドラ枠の世界観とは合わないだろうと思っていて、実際そうだったんです。中園さんは、最近の作品でいうと『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』(テレビ朝日/12年〜)や『ハケンの品格』(日本テレビ/07年〜)が有名ですが、どちらも決めゼリフがあってキャラ立ちしている人物が主人公。等身大の人物に共感させるのではなく、ヒーロー的な、観ている人をスカっとさせる爽快感のあるキャラ作りが持ち味です。達観しているというか、世を捨てているキャラクターであることも多い。
     一方で、朝ドラのキャラクターは、基本的に前向きですし、身近な存在というイメージが強い。感情移入できることも重要ですよね。その点で相容れないと思ったし、やっぱりうまくいっているようには見えなかった。それでも半年間の放送を通して、最後は多少強引にでもひとつのメッセージを伝えるという朝ドラのスタイルはやっぱりすごいな、と思わされました。
    【1】中園ミホ
    1959年生まれ。88年に脚本家デビュー。手がけた作品は、『やまとなでしこ』(フジ)、『anego』『ハケンの品格』(日テレ)、『はつ恋』(NHK)、ほか多数。女性を主人公にした作品が多い。
    宇野 中園さんは、世捨て人的なヒロインの造形を通じて、”女性のハードボイルド”の語り口を探求してきた人だと思うんですよね。そのことによって、地味な題材をリアルに描いてもドラマ全体は地味にならずに済んでいた。これによってある意味、80年代フェミニズムの批判力を通過した後の「強い女性」のイメージをいかに出すのかということを結果的に引き受けたとも言えるはずです。だから、中園さんが『花子とアン』をやるとなったら、絶対にジェンダー的なテーマが前面化してくると思った。村岡花子【2】と白蓮【3】は、当時としてはモダンガール中のモダンガールだったはずですからね。でもそんなテーマは微塵も現れることがなく、「理解ある夫やイケメンにかこまれて、幸せに過ごしました」みたいな話が延々と続いていて。ちょっと意外だったんですよね。
    【2】村岡花子
    1893年生まれ、1968年没。『花子とアン』の主人公のモデル。山梨県甲府市のさほど裕福でない家に生まれるが、利発だったため父が期待をかけて東洋英和女学校に入学させる。そこで英語を身につけ、同時に文学を学び、英語教師を務めた後に女性・子ども向け雑誌の編集者となる。1932年から41年までラジオ番組『子供の時間』に出演し、「ラジオのおばさん」として広く世に知られた。戦中は大政翼賛会後援団体に参加するなど戦争協力者としての立場を取る。終戦後の52年、『赤毛のアン』の訳書を刊行。
    【3】白蓮
    1885年生まれ、1967年没。フルネームは柳原白蓮(本名・宮崎燁子)。伯爵の妾の子として生まれ、育つ家庭を転々としたのち、望まぬ結婚をさせられる。離婚して実家に戻った後、東洋英和女学校に編入、そこで花子と出会い、互いを「腹心の友」と呼ぶようになる。卒業後、再び家の意向で年齢・身分共にかけ離れた筑紫の炭鉱王と結婚させられるが、不幸な生活から短歌を詠み始める。その活動の中で知り合った年下の社会活動家と出奔し、「白蓮事件」と称された。
    中町 中園さんの描くヒロインは、基本的に”乙女ちっく”なんです。ハードボイルドと乙女ちっくが、違う意味じゃない、というのがすごいところなんですが。『やまとなでしこ』(フジテレビ/00年)でいえば、「私は美貌も持っているしCAだし、ちょっとテクニック使えば合コンでも男性は私のものです。男性なんてそんなもんだとわかっている。だけどね、」っていう、この「だけどね」から始まるところが大事なんです。「私は男性なんてそんなもんだとわかっている」というのはハードボイルドなんですが、クールなだけではダメで、一抹の弱さや優しさ、人間味を持っているのが、乙女ちっくでもあり、真のハードボイルドなんじゃないかと……。
    宇野 なるほど(笑)。宇田川先生【4】なんかはまさに、ハードボイルド的な自己完結と乙女ちっくのハイブリッドを体現したキャラクターですよね。
    【4】宇田川先生
    『花子とアン』劇中に登場する女性作家。花子と白蓮のことを好ましく思っておらず、高慢な態度を取る。戦中は従軍記者として戦地に赴いた。モデルは諸説あるが、宇野千代や吉屋信子ら、原案に登場する当時の人気女性作家たちのイメージが複合されているものと思われる。
    中町 『花子とアン』にハードボイルドがあったとすれば、今回は仕事でも恋でもなくて、最後に語られていた「友情」がそうだったんだと思います。わかりやすい助け合いではなく、それぞれが個々の人生を女も男も生きているし、つながっているようなつながっていないような世の中を私たちは生きているけど、一緒の時代を生きるってこういうことなんじゃない?という。
    宇野 だとするとなおさら、戦時中にもっと花子と白蓮はやりあっていないといけないでしょう。時節柄、刺激したくないのもわかるけど、村岡花子を主人公にする以上、戦争との距離感についてはもっとシビアに描くべきだったんじゃないのかな。というか、中園さんが本当にやりたかったのは、花子じゃなくて白蓮のほうだったんじゃないか。 
  • 『アオイホノオ』『おやじの背中』『昼顔』からクドカン新作まで ―― 岡室美奈子×成馬零一×古崎康成×宇野常寛による夏ドラマ総括と秋の注目作 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.206 ☆

    2014-11-21 07:00  

    『アオイホノオ』『おやじの背中』『昼顔』からクドカン新作まで―― 岡室美奈子×成馬零一×古崎康成×宇野常寛による夏ドラマ総括と秋の注目作
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.11.21 vol.206
    http://wakusei2nd.com



    テレビドラマファンの皆様、今回もお待たせしました! 3ヵ月に1度、日本屈指のドラマフリークたちが、前クールのドラマと次クールの注目作を語り尽くす「テレビドラマ定点観測室」。様々なドラマを見尽くしてきた目利きたちのコメントで、毎週の楽しみが倍増することをお約束します。


    ▶これまでの「テレビドラマ定点観測室」記事はこちらから。
     
    ▼プロフィール

    岡室美奈子(おかむろ・みなこ)

    早稲田大学演劇博物館館長、早稲田大学文学学術院教授。早稲田大学大学院博士課程を経て、アイルランド国立大学ダブリン校にて博士号取得。専門は、テレビドラマ論、現代演劇論、サミュエル・ベケット論。共著書に『ドラマと方言の新しい関係――「カーネーション」から「八重の桜」、そして「あまちゃん」へ』(2014年)、『サミュエル・ベケット!――これからの批評』(2012年)、『六〇年代演劇再考』(2012年)など、論考に「時間の国のアリス――逆回転の物語としての『あまちゃん』」、「不穏な身体からはにかむ身体へ――タモリと『テレビファソラシド』」、「ゾンビと『はけん』――メタ歌舞伎としての宮藤官九郎作『大江戸りびんぐでっど』」などがある。

     
    古崎康成(ふるさき・やすなり)
    テレビドラマ研究家。WEBサイト「テレビドラマデータベース」
    (http://www.tvdrama-db.com)
    主宰。1966年生まれ。編著に『テレビドラマ原作事典』(日外アソシエーツ)など。2011年〜13年度文化庁芸術祭テレビドラマ部門審査委員。
     
    成馬零一(なりま・れいいち)
    ライター・ドラマ評論家。主な著作は『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)。週刊朝日、サイゾーウーマンでドラマ評を連載。
     
    ◎構成:大山くまお
     
     
    宇野 それでは「テレビドラマ定点観測2014 autumn」を始めていきたいと思います。この番組では、三か月に一回、ドラマフリークが集まって前クールの総括と今クールの注目作に関して、皆さんと一緒に語っていきます。前回に引き続き、テレビドラマ研究家の古崎康成さん、ドラマ評論家の成馬零一さん、早稲田大学教授で演劇博物館館長の岡室美奈子さんをお招きしています。僕も含めてこの4人で熱く語っていきたいと思います。さっそく前クールの総括から入っていきましょう。みなさんにはいつも通り、夏ドラマのベスト3を選んでいただきました。
    古崎 『アオイホノオ』『昼顔』『聖女』です。
    成馬 『東京スカーレット』『アオイホノオ』『テラスハウス』です。
    岡室 『おやじの背中』『アオイホノオ』『ペテロの葬列』です。
    宇野 僕が『アオイホノオ』『ペテロの葬列』『昼顔』ですね。では、4人全員が挙げた『アオイホノオ』から取り上げましょう。
     
     
    ■オタク文化が歴史化したから描けた『アオイホノオ』
     
    古崎 『アオイホノオ』は、庵野さんなども実名で出てきたりして80年代はじめの様々な事象が雑多に出て来る原作をどうやって映像としてみせるのか、正直、見る前はなかなか難しい素材じゃないかと思っていたんですが、蓋を開けてみたら、見事に映像化されていてちょっと驚きました。むしろ原作を超えているのではないかとさえ思えました。スラップスティックでシュールな誇張描写でひきつけつつ、マンガを描くことの苦しみや葛藤、このうえない喜びと快感、といった心情が素直な心情でリリカルに描かれ、その両者の行ったり来たりする振幅の幅が大きくて画面に引き付けられました。ギリギリ、スレスレのところをうまく最後まで渡っていく。そのさじ加減が絶妙です。
    成馬 みなさんがTwitterなどで褒めているのは、原作をちゃんと映像化している部分じゃないですか。固有名や再現フィルムを使っているとか。僕の評価はちょっと違っていて、むしろ原作を変えた部分がすごく良かったです。もっと言うと、一番すごいのは(話を)終わらせたことだと思います。福田雄一さんは(原作者・島本和彦の)弟子だと自称するぐらいですから、原作の弱点をちゃんとわかっていて、いろいろなところを変えたんですね。しかも、その変え方がうまかった。それでいて原作者にも原作ファンにも嫌われないやり方ができていいる。あと、やっぱり俺にとっては黒島結菜が演じた津田さんですよね。
    宇野 俺も圧倒的に津田さん派。トンコ先輩にいくやつの気持ちがマジでわからない(笑)。
    成馬 原作漫画のミューズはトンコさんなんだけど、実はテレビドラマのミューズは津田さんになっているんですよ。だから、津田さんが消えた瞬間にこのドラマがガラガラガラっと崩れて、最後はきれいに終わるという構成になっているんだけど、その構造についてオタクの人たちが意外とわかってなかったのが、すごく面白かった。
    宇野 これ、アンケート採りたいよね。「あなたはトンコさん派ですか、それとも津田さん派ですか?」って。
    スタッフ じゃあトンコ派と津田さん派で、二択アンケートやりましょう。
    宇野 さあ、みなさんどっちでしょうか? 僕、この結果を写メって福田雄一さんにLINEしますよ。
    スタッフ 津田さん派が7割です。
    宇野 やっぱり津田さん派が7割だよねえ。
    成馬 焔くんの津田さんに対する半分馬鹿にしたぞんざいな扱いがすごくリアルですよね。オタクって、普通のミーハーな女の子をすごくぞんざいに扱っちゃう時期があるんです。本当は、ああいう子を一番大事にしなくちゃいけないのに。学生はみんな津田さんを大事にしなさいと言いたい。
    宇野 そう、まさに若さゆえの過ちだよね。
    成馬 いろいろ思い出して……「津田さんごめん!」って思いながら見てました(笑)。
    岡室 私は80年代にサブカルがどうやって出来てきたかがリアルにわかって、しかもドラマのつくり自体もすごくサブカル的で、自己言及的なところが良かったです。個人的には濱田岳の岡田斗司夫が大好きで(笑)。また岡田斗司夫本人が手塚治虫役で出てきたりするじゃないですか。そういう遊びもありつつ、安田顕とかムロツヨシなどのおっさんが大学生役をやっているのが妙にハマっていて(笑)。でも、何か切ない感じもあったり、絶妙な感じが面白かったですね。すごくハマりました。
    宇野 僕は挙げないでおこうかと思ったけど、やっぱり前のクールで一番楽しみに見ていたのは『アオイホノオ』なんです。言いたいことはいっぱいあるんですよ。ひとつは、仕事の先輩とかからさんざん聞かされてきた80年代のサブカルチャー史がもう歴史になっているという感動がありますよね。一方で、宮沢章夫的なサブカル史観がある。NHKの『ニッポン戦後サブカルチャー史』という本当にクズみたいな番組があって。まあ、それは置いておきますが。
    岡室 いや、それはちょっと置いておきたくない。私は素晴らしい番組だったと思っています。
    宇野 その話は後でまたしましょう(笑)。まず、『逆境ナイン』(映画)はそんなに好きじゃなかったんですよ。島本和彦のどこまで照れていてどこまで本気かわからないけど、やっぱり本気だというテイストを福田雄一さんはあまり処理できていなかった。8割はギャグだけど2割が本気で、その2割の方に本音があるのが島本和彦の見栄の切り方ですよね。当時はあまりうまく処理できていなかった。そんな福田雄一さんが、『THE3名様』と『33分探偵』と『勇者ヨシヒコ』を経て『アオイホノオ』をやった時に、もう完璧にマスターしているどころか乗り越えていた。福田雄一がずっと持っていた、堂本剛や山田孝之のようなナルシストっぽい役者を、愛をもって弄るテクニックで、島本和彦のテイストを映像の中で表現することに完璧に成功している。あれはもうヤバイぐらい高いレベルだと思うし、僕はそれが何よりすごかったと思う。
    成馬 少しフォローすると、福田さんは『逆境ナイン』では脚本だけですよね。笑いって、テンポや見せ方のさじ加減一つで大きく変わるので、福田監督のドラマは、脚本だけの場合は、どうしてもニュアンスが伝わらない場合が多い。そんな中、『勇者ヨシヒコ』シリーズと『アオイホノオ』が突出しているのは、福田監督が全話監督したことが大きくて、監督の良さが100%出ている。
    宇野 本質的に演出家だと思う。脚本家であると同時に。
    古崎 脚本の段階で、映像化されることの計算が入っているんですね。『なぞの転校生』の時も思いましたが、「ドラマ24」は映像としてどう見せるのかを先に考えて脚本を組み立てていく色彩が強い枠です。テレビドラマと映画との違いとして、昔からテレビドラマは脚本家のもの、映画は監督のもの、と長年言われてきました。これはテレビドラマがラジオドラマや生ドラマから生まれた存在であるがゆえ、映像より先に言葉(脚本)を優先する傾向が強いのです。80年代前半にはそれが行きつくところまで行って、テレビドラマの脚本が独立した文学作品であるかのように「シナリオ文学」とまで称され、倉本聰や山田太一、向田邦子などの脚本家のテレビシナリオが書籍として販売されていた時代があったほどです。しかし、4:3の小さな画面から今は16:9の大きな画面サイズになり、「ことば=シナリオ優先」のままでいいのか? 言葉の力よりもう少し映像側、演出側の力を生かしたほうがドラマが活性化するんじゃないの? という思いが多くの映像の作り手側の意識にはあり、そこをこの枠は制約も少ないがゆえに実現し、刺激を与えてくれている。今回はとりわけ福田さん自身が脚本だけでなく演出も担当されているのでそれが徹底して実現できています。『なぞの転校生』もそれを実践して成功していたけどまだ演出と脚本が別人だったのでここまではできなかった。それゆえ、脚本だけみると「隙」だらけなんですよね。「ここは映像化するとき考えよう」というような部分をあらかじめ用意している。あるいは「長さの関係から番組内には収まらないかも知れないが入れておこう」というようなこともなされていてそこはテレビドラマ放映版ではボツになってもDVDになったときに復活させている。したがって独立したシナリオ文学というものとはまったく異質の作りです。ですがむしろ映像とシナリオとが渾然一体として機能するにはこの方法のほうが優れているのではないかという、以前からフツフツとあった仮説が正しいと思わせてくれました。
    成馬 ただ、福田さんは基本的にめちゃくちゃ脚本はうまい人ですよ。仕事の関係で、放送が始まる前に全話読ませてもらったんですけど、やっぱり原作のいいところをちゃんと抜き出しつつ、弱点を補っている。
    宇野 原作より面白いというのは僕も同感です。原作は出たばかりの頃に読んでいたけど、ちょっとたるいと思っていたんです。普通に「へー、当時、大阪芸術大学ってこんなだったんだ」という伝記物としての面白さがほとんどで、表現として面白いとは全然思ってなかった。
    成馬 島本さんって基本的に自分に甘いですよね。それが作品の弱点になっていて、心地よいモラトリアム空間をなかなか先に進めることが出来なかった。でも、ドラマの脚本は、焔くんの女性に対する対応も含めて、「お前のここがダメなんだよ」と指摘している。そこから一気に中央突破した感じがします。
    岡室 私、さっきから柳楽くんのことを語りたくてしょうがないんですけど(笑)。ちょっと異様な存在感ですよね。
    宇野 もう瞬きしないし鼻の穴広げるしもう……福田雄一が三人目の逸材を見つけたって感じでしょう。あと、福田さんは今回、細かい武器の使い方がうまかった。たとえば小嶋陽菜が演じた凩マスミって、ちょっと美人なんだけど、見ようによっては微妙な感じですよね。あて書きで小嶋陽菜を使っているのに、地方の美大で主役をやっちゃいそうな女の子の感じが完璧に再現されている。あれってテレビ的なノウハウなんですよね。
    一同 うんうん。
    宇野 演出に凝れない分、キャスティングのうまさとか、あるある感によって、演出していくというノウハウを使っている。福田さんのテレビバラエティ作家としての能力がすごく活かされていたと思います。昔のフジテレビ的な、楽屋落ちやタレントいじりを基板としたテレビバラエティはこの10年で崩壊していると僕は思うんですけど、その中から細かいテクニックを抽出して、うまくドラマの中に散りばめている。あれは、みんな出来ているようで出来ていないテクニックですよね。
    あと、これはさんざん言われていることだろうけど、テレビドラマがなんちゃってだと、原作へのリスペクトとか背景となるジャンルへのリスペクトが全然ないんだけど、『アオイホノオ』は徹底的に調べ尽くして、関係者を巻き込んで版権も全部許可とっている。あれは地味に偉いと思う。なかなかできないよ、やろうと思っても。
    成馬 NHKの『あまちゃん』とか、TBSのクドカンドラマで磯山晶さんがやった権利関係の処理とか、そういうレベルの仕事ですよね。
    宇野 ただ、僕は『アオイホノオ』を見たとき、もうオタク文化は一段落ついたと思ったんです。オタク文化って戦後後半の一つの結晶なんだよね。戦後民主主義プラス消費社会の産物の一つがオタク文化。でも、今時のオタクって、ああいう屈折は抱えてないでしょう。二次元のキャラクターもカジュアルな趣味の一つになっている。勃興期だからこそ、ああいった才能が煌びやかに地方から出てくる状況があったわけで、そういう季節は終わっていく。だからこそ『アオイホノオ』のような歴史ものが作られるわけで、なんか寂しさを感じたな。まさに最終回に島本和彦本人が気のいい親父役で出てくるけど、あれはオタク文化の思春期が終わった瞬間だと僕は思うんですよ。みんな気づいていたんだけど、『アオイホノオ』であらためて思い知らされたんじゃないかな。福田雄一さんという、必ずしもオタクではない人間が、あそこまですごいものを作ってしまうということは、もう歴史だからなんだよね。フランス人でもなければフランス革命を生きていない池田理代子が『ベルばら』を描けるのは、フランス革命が歴史化されているからで、それと全く同じだと思うんです。
    岡室 すごい例え(笑)。
     
     
    ■最終話で火遊びをやめた? 『昼顔』古崎 『昼顔』は放送がすすむにつれて、マスコミや巷で話題にのぼっていきましたが、もともと井上由美子さんらしい緻密な構成が発揮され作品の質が高かった。これは前回の定点観測でも言いましたが、演出が『白い巨塔』の西谷弘さんで、黄金コンビの復活ということになるので最初から期待していたんですよ。ただ、井上さんも最近、中園ミホさんや大石静さんなどの華々しい女性脚本家の台頭の中でちょっと地味な扱いが続いていたのです。今回ようやく不倫ドラマというセンセーショナリズムで勝負に出て、再び注目が集まってきた形になっています。もともと井上ドラマは理詰めな構成が評価される人なんですけど今回はそこに登場人物の「情動」的な動きまでを計算に入れたことが新境地でしょう。中園さんや大石さんはどちらかといえば「情動」中心で人物を動かす傾向があるのですが、そういう他の作家の良い部分も自分の作風の中にとりこめた。しかも、単なる不倫ドラマじゃなく、社会の閉塞感からドロップアウトする人たちの姿を描いているという井上さんらしいクールな社会批評にもなっている。特に前半は「もう、こんな社会やめてみましょうよ」というような誘惑を視聴者向けにも発信していたところがすごかったですね。最後はテレビドラマとしてよくある無難な結末に収束させてしまってそこは賛否両論あるのでしょうけど。
    宇野 なるほど。『昼顔』は、ひたすらうまいってのが僕の感想です。井上さんはものすごくテクニックのレベルが高い人だし、西谷さんより映画が撮れない同世代の映画監督なんていっぱいいる。『容疑者Xの献身』はもちろん、『真夏の方程式』は原作が面白くないからあの程度のヒットだったけど、もう絵作りも芝居の見せ方も隙がないでしょう? 原作次第では傑作になっていた可能性がある。そういうメンツを筆頭に、美術もロケも含めて、すごく丁寧なつくりでをしていた。
    岡室 私は、あの最後が許せないんですよ。最後に上戸彩と吉瀬美智子が両方とも、なんで家庭に戻るのかがさっぱりわかんなかったですね。私は『金曜日の妻たちへ』で育ってきた世代ですが、『金妻』だと元に戻るにしても、やむにやまれぬ切なさがあって、切なさの中でみんな泣いたんですよね。でも、『昼顔』にはそういうのがない。
    成馬 僕、結婚していないんでわからないんですけど、なんで不倫ものってみんな好きなんですか?(笑) 「好きな人いるんだったらとっとと別れろよ、お前ら」って思いながら見ていました(笑)。
    岡室 そうなんです。最終話は「別れろよ、お前ら」という話なんですよ。どうしてあそこで家庭に戻れるのか。上戸彩夫婦なんて元サヤに収まろうとしても結局は別れるわけだし、一緒にいる根拠が何もない。子供もいないわけだし、今、結婚、離婚に関しては社会的な倫理って強くないじゃないですか。
    成馬 大石静さんの『クレオパトラな女たち』を見た時も、社会的なモラルに反することを何でも肯定しているのに最終話で「不倫だけは絶対だめ」みたいな部分が強烈に出てくるから、そのあたりがよくわからなかった。
    宇野 僕、『昼顔』の不倫はもっと大きなものの比喩だと思っているんです。上戸彩の旦那はいまどきの草食系男子で、超常識人で、結局不倫もしない。斎藤工の奥さんも、キャリアウーマンという言葉も馬鹿馬鹿しいくらいの普通に働いている女性で。すごく正しい人たちが描かれている。僕、『昼顔』が描きたかったのはそこだと思うんですよね。「政治的にも正しいし、倫理的にも正しいんだけれど、そんな連中の作る社会は超つまんねえよ」という。木下ほうかの編集長もそう。正論を言う程つまらない方向に向かっていく今の日本みたいなものを『昼顔』から僕は感じていた。
    古崎 書き手は、もっとすごいものを描いているつもりだったと思うんですよ。それは不倫じゃなくて、例えばこの世の中を変えてしまいましょう、もっと人間が気持ちよく生きていくような社会にしましょう、というぐらいのことを書いていたつもりなんですよ。テレビという誰でも見られる媒体を通じてそれを語ることの影響を重く感じて、ある種の気負いすらあったのですよ。だからこそ最後は異様に自粛しちゃったんだと思います。作り手にとっては物語がどこに帰着しようが究極のところはどうでも良かったぐらいなのかも知れない。かつて山田太一さんもドラマの結末というものは所詮は予定調和的なものになるもので、何を最終回に至るまでに描いてきたかが重要なのだ、と言っていましたがそれを地で行くような考え方だったのではないでしょうか。
    宇野 でも、『昼顔』はそれで良かったのか、という話なんですよ。
    成馬 冒頭と最後で火をつけることが象徴的に描かれているんだけど、むしろその放火で何かをぶっ壊したかったってことですかね。
    宇野 社会に火をつけたかったはずですよ。でも、「放火? 火遊びってよくないよね」みたいな感じで終わったから、ちょっとがっかりで。普通に考えたら上戸彩が焼身自殺して終わりでしょ? という。
     
     
    ■小泉孝太郎が才能を開花させた『ペテロの葬列』
     
    宇野 あと、みなさんが挙げているのが『ペテロの葬列』ですね。
    岡室 私、これまで小泉孝太郎をいいと思ったことがあまりなかったんだけど、あれを見ちゃうと原作を読んでも、小泉孝太郎の顔でしか出てこなくなる。それくらいハマりました。もちろん宮部みゆきの原作が面白いんですけど、それをドラマ化するにあたって全然失敗していない。構成もうまくいっていたし、リズムとかテンポとか、いろいろな意味で良かったですね。
    宇野 小泉孝太郎が気の弱い入り婿の役をやるということで出オチのキャストかと思いきや、すごい役者に成長したことをみんなに思い知らせたシリーズですね。
    古崎 『ペテロ』は良かったと私も思いますが、小泉孝太郎のキャラの造形は『名もなき毒』の時に既にできあがっていたものだと思うのです。そこはやはり続編ドラマ的な良さだと。0から1を創りだしていないということで私は3本のセレクトからは外したんですけどね。むしろ前作『名もなき毒』が「原石」のおもしろさがありました。平幹二朗の存在感が今作以上に立っていて作品の総括がしっくりしていました。またお話も数話ごとに転換する仕組みでこれはトータルとしてのまとまりという点では難点かも知れませんが、飽きさせなかった。
    岡室 『名もなき毒』と違った点として、井出さん役の千葉哲也がすごかったと思うんです。あれだけ嫌な人をやれるってちょっとすごい。
    宇野 あんな奴が職場にいたら、出社拒否になりますよね。
    岡室 小泉孝太郎演じる主人公の良いところに触れても、絶対更正しないところがすごい。そこがドラマの強度になっている。
    成馬 あの人もあの人で会社人間として生きてきた人生があって、上司に対しては泣いたり、家族を大事にしたりしている。そのあたりが嫌ですよね(笑)。
    宇野 『名もなき毒』になくて『ペテロ』にあるのは女優の良さだと思う。ハセキョー(長谷川京子)と清水富美加は両方ともすごく良かった。ハセキョーは基本的に演技が出来ないんです。特にちょっと漫画っぽいキャラをやると、照れちゃって全然演技にならない印象がある。でも、『ペテロ』では本人のイヤらしいところと結びついているのかわからないけど、すごくハマり役でしたね。
    成馬 でも、最終話はいらなくないですか? 最終話1話前で、細田善彦がバスジャックを起こして「御厨を連れてこい」と言うところが最高だった。存在しない謎のカリスマみたいな存在を「連れてこい」と言うわけですからね。それが、宮部みゆきが描きたかった宗教や自己啓発セミナーと企業が結託している恐さだと思うので、そこで俺の中では終わっているんです。最終話は正直、蛇足だと思った。
    宇野 でも、あのシリーズ自体が「凄みを帯びない悪」というか「凡庸な悪」みたいなものに対して、どう人が向き合っていくのかというテーマなので、一般市民である小泉孝太郎が結局、身の丈に合わない生活を捨てていく部分は、ストーリー的には必要だと思うんだよね。あとは構成とか配分の問題でしかない。僕はあのエピソード自体はあったほうがいいと思う。
     
     
    ■時代を嗅ぎ取れる作家の明暗がはっきり分かれた『おやじの背中』
     
    岡室 実は前回、『おやじの背中』をみなさんが評価していた中で、私だけあまり推していなかったんですけど、最終的には応援したいという気持ちになりました。視聴率が取れなかったがために、応援したいという気持ちになったところもありまして。とにかく今すごく活躍している脚本家を集めてドリームチームを作ったのに、脚本家の名前ではもはや視聴率が取れないことが素朴にショックでした。
    宇野 めちゃめちゃおもしろかった回とクソだった回が、はっきりしましたよね。
    岡室 私は山田太一の回がすごいと思いました。一話完結で親子の関係を描こうとするとファンタジーになってしまうんですけど、山田太一はそのことに自覚的で、逆手にとって力技でもっていくような脚本を書いていたんです。この回だけ、実の親子じゃないんですよね。親子を描くシリーズの主人公に独身の中年男性をもってきたというアイデアもすごい。
     
  • 『プラトニック』『ファースト・クラス』から『昼顔』『ペテロの葬列』まで ―― 岡室美奈子×成馬零一×古崎康成×宇野常寛による春ドラマ総括と夏ドラマ ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.136 ☆

    2014-08-15 07:00  

    『プラトニック』『ファースト・クラス』から
    『昼顔』『ペテロの葬列』まで
    岡室美奈子×成馬零一×古崎康成×宇野常寛による
    春ドラマ総括と夏ドラマ
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.8.15 vol.136
    http://wakusei2nd.com


    テレビドラマファンの皆様、今回もお待たせしました! 3ヵ月に1度、日本屈指ドラマフリークたちが、前クールのドラマと次クールの注目作を語り尽くす「テレビドラマ定点観測室」。様々なドラマを見尽くしてきた目利きたちのコメントで、毎週の楽しみが倍増するのをお約束します。


     
    ▼ 生放送の内容はこちらから試聴できます。
    前編
    http://www.nicovideo.jp/watch/1406271134
    後編
    http://www.nicovideo.jp/watch/1406271256
     
    ◎構成:西森路代
     

    宇野 皆さんこんにちは、評論家の宇野常寛です。「テレビドラマ定点観測室 2014 summer」のお時間がやってまいりました。この番組は、3カ月に1回、前クールのドラマの総括と今クールのドラマの期待株についてみんなで話し合う趣旨の番組です。前回に引き続き、ドラマを語るならこの人という御三方に来ていただきました。早稲田大学教授で演劇博物館館長の岡室美奈子先生、ドラマ評論家の成馬零一さん、そしてテレビドラマ研究家の古崎康成さんです。それではさっそく、前クールの総括から入っていきたいと思います。皆さんには「前クールこれが良かったベスト3」を考えてきてらっていますので、さっそく発表してください!
     
    ▼2014年春ドラマベスト3
    宇野:『続・最後から二番目の恋』『プラトニック』『セーラーゾンビ』
    岡室:『BORDER』『55歳からのハローライフ』『ファーストクラス』
    成馬:『続・最後から二番目の恋』『モザイクジャパン』『ファーストクラス』
    古崎:『55歳からのハローライフ』『BORDER』『プラトニック』
     
     
    ■淡々とした中の凄み『55歳からのハローライフ』
     
    宇野 では、『55歳からのハローライフ』からいきましょうか。古崎さん、総評をお願いします。
    古崎 このドラマは55歳周辺の人たちが何らかの人生の転機を迎え、その先をどう生きていくかを決断するプロセスを描くドラマで毎回、違う人物が主人公に据えられているのですね。第1回を見た印象は、音楽もほとんどなく、淡々と展開していて、でもそのわりに画面にすっと引き寄せられる、妙に力のある作品でまぁ、それなりに歯ごたえもあるな、というざくっとした印象を受けていたのですが、2回目以降、次第に描かれる人物の環境が過酷さを増していきます。最後はかなり壮絶になっていく。最終回のイッセー尾形が扮した55歳の人物になると金銭的な蓄積もない人物で体が悪いのに無理をして肉体労働をしている。そんなところに少年時代に慕っていた友人と再会するけど彼も同じように貧困で、その友人はラストに悲しい末路を迎えてしまう。このドラマが物凄いのは、そういう過酷さを増す題材を第1回と同じく淡々としたトーンで一貫して描かれているところにあります。最近はなるべく先入観を持たないよう、スタッフ情報などをなるべく仕入れず視聴するようにしているので制作統括を務めているのが『ハゲタカ』『外事警察』『あまちゃん』の訓覇圭(くるべ・けい)さんで、やっぱりこういう実績ある作り手の作品だったのだと後付けで知りました。
    岡室 私もこの作品はとてもクオリティが高かったと思うんです。とくに最後のイッセー尾形、火野正平の演技はすごかったですね。全体的な配役についても、リリー・フランキーのふわっとした、現実と虚構の区別のつかない感じも面白かったし、小林薫、松尾スズキ、岩松了、奈良岡朋子といった名優、怪優が散りばめられていて、やはり訓覇さんのドラマは配役が素晴らしいと思いました。内容はというと、人生の転機をいろんな形で捉えていって、回を追うごとに現実の残酷さ、苛酷さが増していくんだけど、その中で主人公が他者との結びつきを見出していくんです。非常にきめ細やかに演出が行き届いている、いいドラマだったと思います。
    宇野 なるほどね。いまニコ生で「NHKドラマしか収穫ないの?」ってコメントがありましたけど、NHKのドラマはレベルが高いんですよ。この状況はもうここ5、6年動いてないですよね。
    成馬 もちろん見ていましたし、面白かったんですけど、ベスト3に入れたらちょっと負けかなと(笑)。凄すぎて隙がないんですよね。それに、基本的に下り坂のドラマなので、未来がないなと感じて、あまり好きになれなかったです。僕は、松尾スズキさんがペットロス症候群の人の役で出ていた話はすごく面白く見ていました。あとは第1回でリリー・フランキーがピエール瀧と会談するところは、映画『凶悪』を連想して、同じ高齢化社会つながりとして面白かったです。
    宇野 現代の日本って、もはや高齢化社会じゃなくて高齢社会になっているんですよね。これまでは主人公が40代なだけで大人ドラマと言われていたのが、もう主人公が55歳になっている。民放のドラマだと、まだテレビが若者たちのものだという嘘をつかなきゃいけないから、ここまで大胆な主人公の年齢設定ができないけど、NHKはそんな嘘をつかなくていいから、こういう試みができるんですよね。
     
     
    ■ホームドラマをどうアップデートするか『続・最後から二番目の恋』
     
    宇野 次は、僕と成馬さんがベストに挙げている『続・最後から二番目の恋』はどうでしょう。
    成馬 今季のドラマは、テレビドラマという枠組みの中でいろんな実験がされたと思うんです。たとえば、『BORADER』や『MOZU』という二つの刑事ドラマを比較しても、全然方法論が違うし、いろんな手法が試されていたと思います。そんな中で、一番面白かったのは、テレビドラマというものの良さは何か? ということを一番突き詰めていた『続・最後から二番目の恋』だったと思います。ただ、『続』になって以降は、『最後から二番目の恋』という作品の世界観をどう広げていくかっていう、長いスパンの物語の入り口として見ていたので、一本の作品として評価するのは、けっこう難しいんですよね。
    宇野 僕も『続』を見て、これでもうこのシリーズを何作も続けられるなっていう感じがしました。『最後から二番目の恋』を見たときに誰しもが思うのは、”最後の恋”は中井貴一とキョンキョンの恋なんだろうな、ということですよね。その”最後の恋”を前に、もうちょっと若い年下の加瀬亮や長谷川京子と”最後から二番目の恋”を繰り返す、っていうことをずっと続けていくモチーフだったんですよね。ところが、想定されていたのか制作の都合なのかはよくわからないんですけれども、『続』で加瀬亮さんが途中でいなくなっちゃうんですよ。でも、僕はこのことは結果的にプラスに作用したと思っています。加瀬亮君が途中退場したおかげで、恋愛というテーマから逃れることができて、変に縛られずに済んだなと。
    「セフレ」っていうキーワードがあったように、はじめは、熟年にとってのセックスとは、恋愛とは、みたいな部分にフォーカスした内容をやるつもりだったと思うんです。それがもうちょっと普遍的な、ホームドラマをどうアップデートしていくかという内容に変わっていったのかなと。ホームドラマというジャンルは、若者がどんどん増えていって、若者の価値観に年を取った世代がどう向き合っていくのかっていうことで作られてきたわけですが、『続』は出来上がってみるとぜんぜんそうではなくて、全員30代なかば以上で、人生の下り坂、後半戦を迎えて、どう死に向かい合っていくのかという話になっている。加瀬君の途中退場もあって、ドラマのテーマを、人生の残り時間をどう受け入れていくのかっていう方にスイッチして、ホームドラマ2.0をどう作るのか、っていう問題に集約していっているように見えました。そのホームドラマの新しいビジョンが、毎回意図的に食卓のシーンを入れるシーンから見えてきたかなあ、というのが僕の評価です。
    成馬 加瀬亮の演じた高山涼太は、フジテレビのヤングシナリオ大賞の第一回を受賞した坂元裕二がモデルだと思ったんですよ。新人ドラマコンテストの第一回を受賞して、そのあとちょっとスランプになるとか、繊細そうなところがめんどくさそうな感じとか、坂元さんっぽいじゃないですか(笑)。だから僕は、テレビドラマ版『まんが道』じゃないけど、岡田惠和さんと宮本理江子さんが、テレビドラマを作ってきた自分たちの世代の物語を、神話化しだしたのかのように見えて、ゾクゾクしたんですよ。一方で、鎌倉の方はどんどん都市伝説化していって、箱庭感がどんどん高まっていて、ドラマ自体が吉野千明サーガみたいになっていくわけじゃないですか。まぁ、これは裏読み的な面白さですが、おそらく吉野千明には、宮本理江子さんの今までの人生がかなり投影されていると思うんです。だから、なんで高山涼太が突然いなくなっちゃったんだろうというところが、すごく気になりますよね。果たして、再登場はあるのか。
    岡室 そういうシフトチェンジがあったというのは分かるんですけど、やっぱり私は、最初のシリーズみたいなときめきが足りなかったな、という気がするんです。大人の恋愛が見られると期待しちゃうんですよね。『続』では、中井貴一と小泉今日子の会話もなんかもう、芸風になっちゃっていて。
    宇野 僕は一作目と『続』は半分くらい別物として見ているんです。一作目の舞台になった鎌倉って、東京と沖縄の間にあるわけですよね。要するに『ちゅらさん』で描いた二つの世界の中間にある。『ちゅらさん』には東京が現実で沖縄がファンタジーという対比があった。この現実とファンタジーはそのまま生者の世界と死者の世界。そして本作の一作目は、中間地点としての鎌倉で、いわば半分死んでいるような、死に向かっていくような人たちの日常をどうとらえるか? ということを、すごく高いレベルで表現していた。それに対して『続』は、もう「若者」が存在感を示さない今の日本で、ホームドラマをどうアップデートするかというところに主題が移ったんだと思う。
    成馬 ホームドラマのアップデートという試みは、おそらく10年くらい続けてみて、はじめて意味が出てくるんじゃないかなと思っています。だから『渡る世間は鬼ばかり』みたいに、できるだけ長く続けてほしいですよね。
    岡室 テレビづくりの現場を描く、みたいなことは、面白かったですよね。
    古崎 ここ数年の岡田惠和さんは実にあぶらが乗り切っている感じが漂っていますよね。あくまで想像ですけど、ご自身でも怖いくらい、何を書いても面白いものができちゃうって時期じゃないかと思います。『最後から二番目の恋』も、一作目ではいろんな伏線がラストにググッと収束していくという、普通の連ドラなら当然考慮されるべき全体ドラマ構造のうねりを考慮した作りをきちんと用意して作られていて見事だったんですけど、今回の『続』になってくるともうそんなことは考えていないのではないかとすら思わせられます。持ち合わせの力だけでその場その場をグイッと楽しませて、それでいてちゃんとそれなりにラストで見終わった感を持たせてしまった。この設定でいくらでも転がしていけるよ、という余裕すら感じました。
    宇野 まさに横綱相撲って感じですよね。
    古崎 今後、連作として続く可能性があらかじめ報じられてましたし、それは要するにラストに大きな結末が用意されないことを公にしてしまっていたということであるわけで、それならばそんな「ラストに向けた収束」なんてはじめから意識しないで多少好きなことを盛り込んでやっちゃおうという考えがあったとも言えそうです。一作目と比べると、『続』は主人公の仕事であるテレビドラマ制作の舞台裏を描くことに比重が置かれているじゃないですか。そこは、岡田さんの手持ちの、自分の知っている、見えている世界なわけで、もともと普段からあまり取材をせずに執筆される岡田さんがまったく改めて取材もせずに書いてしまった世界なんですね。知っている世界の中を好きに転がしてしまっているところがあるのかなと思ったんです。なので、あえてベスト3からは外したんですけど、面白かったのは面白かったですよね。
     
     
    ■新しい切り口の『BORDER』、作りこんだがパーツの古い『MOZU』
     
    宇野 じゃあ、刑事ものについていきましょうか。岡室さんと古崎さんは、『MOZU』じゃなくて『BORDER』を挙げているんですね。
    岡室 私、『BORDER』は毎週とても楽しみに見ていたんです。テレ朝なのに、これまでの安定路線刑事ドラマとは毛色が違っていて、まずそこが嬉しかったんですね。小栗旬の演技もすごくよかったですし。東日本大震災の前って、刑事がものすごく多い時期がありましたよね。『BORDER』は刑事ドラマなんだけれども、死者と対話できるという、新しい切り口を持ってきたんですよ。1回目は、死んじゃった被害者から犯人を教えてもらう安易なドラマかなとも思ったんですけど、2回目、3回目と、毎回いろんな工夫がありました。
    宇野 この設定だとすぐマンネリ化するだろうなと思って見ていたら、いろんなパターンを出してきていて、手数が多いなという印象でした。
    岡室 そうですね、ラストでもちょっと思いがけない展開があったりして。『BORDER』(境界線)が、生と死の境界線でもあるし、善と悪の境界線でもある。どちらの境界線を超えるところを描くのかなと思ったら、善と悪の方を超えちゃったみたいな話ですよね。主人公の小栗旬が最初からまさに境界線上の危ういところにいて、なかなか面白いなあと思いました。
    古崎 私も第1回の時に当然『MOZU』との比較で見たわけですけど、導入部から複雑な展開の『MOZU』とは対照的な、いかにもテレ朝らしい、誰でも分かりやすい間口を広くとった手堅い刑事ドラマの導入部でそこにちょっと死者と対話が出来る能力を持った設定を加えてみたのだなと思いました。毎回、死者と対話するなかで犯人を捕まえていくというある意味、娯楽的な面白さを追求していくパターンが続くのかと思っていたらそうじゃなかった。確かに途中までは殺された者の声を聞き犯人を捕まえるカタルシスを味わうという分かりやすい展開だったものが、ある回で突然、犯人がつかまらないまま逃げきってしまう回が出て来た。見ている側はギョッと驚くわけでものすごくストレスがたまった。このあたりから徐々に勧善懲悪的な作りから脱落していきました。死者と対話していくと、事件の本当の真犯人を知ってしまうわけで、普通の刑事ドラマなら犯人が捕まらなくても「ひょっとしたらあいつは犯人じゃなかったかもしれない。まあ仕方ないか」とあきらめがつくがあるのですが、このドラマはもう絶対に殺していると分かっているのに真犯人が易々と逃げおおせてしまう。この不条理、不快感が視聴者も共有されて主人公の憤りと共有されていくんですよね。
    再びその次の回は、通常どおりラストで犯人が捕まる展開になるわけなんですけど一度、捕まらない回があった効果は大きくてどこか満たされないのです。そしてあの最終回ですよ。またとんでもない、もう絶対的な悪が出てくる。ところがこれが捕まらない。そのときもう主人公も正義感が強いだけに精神構造がおかしくなっている。視聴者も同じように「なぜ、この男が捕まらないのだ」と憤っている。だったら、こうするしかないというラストなのですね。まさにボーダーを超えていって瞬間を描いてしまった衝撃の私刑のラストをさらっと描いてしまった。でも、少し時間を経て、改めてこのドラマを思い返すと、実は全然違うのではないかと、ちょっとぞっとさせられてくる。それは本当に主人公は死者と対話できていたのか? ということなんです。実は主人公はケガのせいで最初から精神が少し歪んでしまっているだけで、死者と対話できると勝手に思い込んでいただけだったのではないか、とも思えてしまうのです。だとすると、最後に人を突き落して殺してしまうというのはまさに私刑でしかないわけです。このドラマはじつは精神異常の人物が主人公で、勝手に死者と対話できていると思い込んでいるだけで、無関係の人を追いこんでいるという風にも読めてしまう面白さがあるわけです。お茶の間でふだん漫然と娯楽として刑事ものをのんびり見ている視聴者を、間口を広くすることで取り込んで、いつのまにかとんでもない領域までいざなってしまった。ラストまでみて愕然としている声がネットでも多数ありました。これは目的を持って足を運ぶ人だけを対象としている映画や演劇ではできない、なにげなく見ている人の多いテレビドラマだからこそ出来る所業なのですよ。それをこのドラマは実現してしまっているのです。
    宇野 たとえば、『MOZU』が海外ドラマ的なリアリズム路線で、いわゆる自然主義のリアリズムではないんだけども映像で語っていくっていう路線なのに対して、『BORDER』っていうのは漫画的なキャラクターものの路線でやっていて、そういったファンタジー要素を入れることによって善悪のテーマとか、通常の刑事ものでは扱えないようなものを持ってきている。ここはすごくよくできていたと思うんです。でも、僕の立場からすると、これは平成仮面ライダーシリーズが順にたどった道だよな、と思っちゃうところがあって(笑)、さすがにベスト3に入れなかったんですよ。
    成馬 多分、一番念頭にあったのは『ダークナイト』だと思うけど、刑事ドラマをやる時は、いい加減『ダークナイト』のことは忘れようよ、っていう感じはありますね。
    岡室 映像的にはやはり『MOZU』が一番、しっかり作り込んでいました。
    宇野 僕も、『MOZU』は映像的にすごく作り込んであって、スタッフの志が高くて、演出が凝っているところにはリスペクトしています。でも、日本のドラマでこういうことをやらなくてもいいんじゃないかなと思ってしまう。というのも、じゃあ海外のメガヒットシリーズとガチでやり合って勝てるの? っていうことなんですよ。もし、あそこまでやるんだったら、脚本とか描写のレベルでも完全にリミッターを解除して、本気で『24』を抜くつもりでやらないと、申し訳ないけれどもイミテーション感がどこか抜けないんじゃないかなと思うんです。
    成馬 物語のパーツがことごとく古いですよね。浦沢直樹の『MONSTER』だったり、『ダークナイト』だったり。それがしんどかった。
    宇野 『ダークナイト』って、90年代に盛り上がったサイコサスペンスを僕らが終わらせますっていう話なんですよね。ジョーカーが作中で登場するたびにニセのトラウマを語る。その一方で、本当にトラウマに縛られている人間はみんな心が弱くてジョーカーに太刀打ちできない。『ダークナイト』の公開が2008年で、いまテレビドラマでこれを見せられるのは結構つらいなという感じがありました。
    成馬 『ダークナイト』って、触れるのが今は一番恥ずかしい時期だと思うんですよね。だから、しばらくはネタとして使うのはやめた方がいいよって気がする。
     
     
    ■酷いのに迫力があって毎週見ちゃう『ファーストクラス』宇野 あとベスト3に挙がっているものだと『ファーストクラス』ですか。僕も最後までベストに入れようか迷ったのが、実はこの作品です。
    成馬 ドラマの冒頭にあるLiLiCoのナレーションがすごいんですよ。「さあ、これからエリカの素敵な冒険が始まるわよ♪」みたいなことを言うんですけど、このときのエリカって、沢尻エリカの事で、登場人物の名前じゃないんですよね(笑)。登場人物の名前は吉成ちなみっていうんですけど、最後までナレーションではちなみって名前を言わないんですよ。ある意味、フィクションとしてのドラマ空間を捨てていて、これは沢尻エリカのドラマですっていうことをナレーションで宣言しちゃっているんです。脚本は『泣かないと決めた日』と『名前をなくした女神』の渡辺千穂さんが書いていて、『ライフ〜壮絶なイジメと闘う少女の物語〜』から延々と続くフジテレビのいじめドラマの系譜にあるドラマなんですが、これまでさんざん書いてきた、人間関係の力学が生み出す暴力みたいなテーマを、全部「マウンティング」っていう概念であっさり処理している。だから、いじめのドロドロとした雰囲気が全部なくなって、あっさりしたバラエティ番組みたいになっていて、かなりいろんなものを捨てているんですよね。
    他にも、LiLiCo本人が途中で、外資系の社長役として出てきたり、菜々緒の変なモノローグとか、細かいディテールが、ことごとくひどいんだけど、その酷さが何か面白いんですよね。
    宇野 菜々緒のモノローグでびっくりしたのは、途中で「ゲラゲラポー」とか言っていたことですね。こいつ妖怪ウォッチまでやっているのか! アンテナ高いな、って(笑)。
    成馬 あれ、頭の中で喋っているんですよね。細かいパーツは褒めようがないんだけど、なんか見ちゃう雑な迫力があるんですよね。途中から副音声を入れているんだけど、あれは多分、『テラスハウス』に対抗しようと思っているんだと思うんです。その時点でなんか素敵じゃないですか。『テラスハウス』とちゃんと戦おうと思っているドラマが、まだこの世にあるんだっていう(笑)。
    宇野 『ライフ』が放送された2007年ごろは、ソーシャルメディアでそれまで「空気」としか言われてこなかった人間関係が具体的に可視化されることによって、みんなが何となく感じていたいじめの問題とかが言及され始めたばかりだったんですよね。それ7年立って社会に完全に定着してきて、ほぼ定番の「あるあるネタ」になってしまった時代のドラマがこの『ファーストクラス』ですよね。『ライフ』の頃は、マウンティングという現象を指摘するだけで作品になったんだけど、『ファーストクラス』は冒頭からマウンティングっていうものが社会にはあるという前提で、そのどぎついところの面白さをドラマにしますよっていうところから始まっていくっていう。
    岡室 最初はただのネタドラマかと思っていたんですけど、男子は要らないこととか、女子の野心だとかを正面から描いてしまう潔さが面白いと思いました。最終的には、単に上り詰めて終わりなんじゃなくて、沢尻エリカが一番最下位のところからまた始めるというのがよかったですね。それが、すごく今の女子の気分を捕まえている感じがしました。
    古崎 いま皆さんがおっしゃっているのを聞いて、なるほどそういう面白さがあるんだと思ったんですけど、昔からテレビドラマを愛して見ているものとしては、ちょっとこういうのはあんまり好きじゃないかなと。「時代の空気」というものを記録するという意味では意味のあるドラマだとは思うのですけど。みなさんキャパシティ広いなと思って、私は心が狭いのかなと(笑)。
    宇野 僕はむしろ『ファーストクラス』を一番楽しみにしていたかな。今回は菜々緒さんがどんなヤバいことをするんだろう、みたいなところがとくに楽しみでしたね。これは余談ですが、最後の「I’ll
    be back!」って台詞はアドリブらしいですよ。
    成馬 個人的な興味でいうと、沢尻エリカはこれからどうすんだろうって思いますね。こんなドラマをやってしまった後は、もう、まともな役はできないですよね。『へルタースケルタ―』の時点で、かなり危うかったけど、沢尻エリカの役者人生が気になっています。
     
     
    ■『プラトニック』で野島伸司は若返りをあきらめた
     
    宇野 『プラトニック』は僕と古崎さんが挙げていますが、古崎さんは『プラトニック』いかがでした?
    古崎 4月の「テレビドラマ定点観測室」のとき、
    (参考:http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar524910)
    地上波の連ドラでもないのに期待ドラマ3本の中に入れさせてもらったのですが、すごくよかったですね。これまで野島伸司さんは高視聴率が話題になる方でいらしたわけですけど、今回はBSという、視聴率を第一義に考えなくてもいい放送形態だった。これまで課せられていた高視聴率という枷が取っ払われたら、野島さんは何をするのかなという興味を持って見ていたんです。
    野島伸司さんのうまさはドラマ展開の各段階で視聴者がどういう心理でそのシーンを見ているのか、視聴者心理の抑揚を的確につかむ、そのトレース能力の高さにあると思うのです。それが視聴率という結果につながっていたのですけどそういう能力というものはただ数字を追うだけでなく、純粋に面白い物語を作ることに生かせるのだということを改めて示してくれた気がしています。また台詞が相変わらずうまい。一つ一つの台詞が真に迫ってくるのですね。残り少ない命しかない主人公がどうやって生きていくか、その立場になった者だからこそ見える世界というものが、それなりのリアリティをもってこちらの身に迫ってきたように感じられました。それはやはり元来のトレース能力の高さも寄与している。しかも、あのラストの全くそれまでと何の脈絡もない突拍子もない終わり方がドラマ作りの常識から一つ突き抜けたものになっている。
    テレビドラマにしろ、映画にしろ、物語を扱うとどうしても起承転結といった伝統的な手法に良くも悪くも縛られて、ともすればいかに伏線を張って巧妙に見せていくか、みたいなところを一つの勝負どころみたいに考える向きがあって、ドラマ好きの人もそういうところを重視しがちです。脚本家の中にもその巧妙さを売りにしている意識の人もいらっしゃる。でも、『プラトニック』を見ると、伏線を張って収束するということが現実からいかに乖離しているかを示してくれてもいるわけです。現実の死ってたぶんこんなもんなんだろうなって感じがしました。
    宇野 野島さんはこの10年あまりずっと、若返ろうとしていたと思うんですよ。なんとか時代にくらいついて、若返ろう若返ろうとしていた。その無理がたたって逆ギレしてしまったのが『ラブシャッフル』。最後に主人公の玉木宏が国会議員に立候補して「時代を80年代に戻せ」って演説して終わる(笑)。
    でも、そんな野島さんのあがきも『49』ぐらいが限界で、それから『明日、ママがいない』を経て、完全にあきらめていますよね。それで、今はむしろ、昔の野島ドラマの世界観に戻ってきていると思うんです。時代にくっついていこうということもやめているし、ドラマのプロットを過剰にすることによって話題を引っ張っていこうという作り方も完全に捨てていて、自分が90年代から温めていた世界観を、いかに昇華するかということを、おそらく彼にとってはある程度特別な役者であろう堂本剛を通してやっている。
    実際、堂本剛も吉田栄作も、過剰にやさしい男と過剰に強い男と、という対比で描かれているわけなのだけど、これは野島さんがずっと描いてきた男性像ですよね。そこに今回、中山美穂が演じる、心臓病の娘のためなら体も売るし、なんでもやるってしまうような、ちょっと頭のおかしいヒロインを置いている。野島さんは、ここで彼女のようなキャラクターを置くことによって、むしろ周囲の男たちを描きたかったんじゃないかと僕は思うんです。自分の感性をアップデートするのをやめて、自分の考えるかっこいい男はどうすれば成立するのか、生き残っていけるのかを、ひたすら追求したのがこの「プラトニック」だったんじゃないか。
    成馬 途中で、堂本剛の脳腫瘍が治ってしまうのも驚きましたね。
    宇野 そう、フラグをベキッと折っちゃった。
    成馬 あれも、男らしさをいかに剥奪していくかという話なんですかね?
    宇野 結局、堂本剛も吉田栄作も、野島さんの考える強さとか優しさっていうものを現代で説明することはできなくて、基本的には成立しないんだけど俺は好きだよ、みたいなところで描いていて、結構いさぎよいんですよね。5年前の野島さんだったら、彼の考える男らしさが世の中に成立するために、もう一回バブルを起こせと演説するわけですよ。それも完全にあきらめてしまっていて、個人的な領域というか、ファンタジーの中に完全に退避していったっていう感じがします。
    成馬 この自己完結性は、本来の意味でのハードボイルドですよね。
    古崎 難病とか不治の病という設定は所詮は描きたいものを描くためのドラマ上のツールでしかないという野島伸司の認識を感じますね。『ひとつ屋根の下2』でもラスト、酒井法子がケロッと直ってしまって愕然としたのを思い出しました。
     
     
    ■期待値が高まり過ぎた『ロンググットバイ』
     
    宇野 ちょうどハードボイルドの話が出たので、全員が挙げていない、あのドラマの話をちょっとしますかね。『ロンググットバイ』!
    成馬 ダメな作品だとは思ってないです。ただ、ベスト3に入れるほどではないかな。
    岡室 ハードボイルドってこうだよねって、ちょっと突き放している感じがして、メタ的に見ると面白かったですよ。モデル体形の超美人ばっかり出てきたりして、ハードボイルドでは女はお飾りだよね!みたいな。
    古崎 シンプルな話をわざと難しくしているようなところがありましたね。演出の堀切園健太郎さんは、『外事警察』のときは難しい話をうまく分かりやすく回しているなと思って見ていましたけど、今回は分かりやすく出来る話を無理に難しくしてしまっている。深刻そうに持って回った台詞が続いているので、小雪が「財前と聞いてお医者さんだと思いましたよ」と言っても、そこで笑っていいのかどうかわからないネタがあったりして。
    宇野 僕も古崎さんの感想に近くて、喋りすぎと書き込みすぎ、要は盛り込みすぎですよね。特に最終回では、あんな風に原子力のポスターを出したりだとか、柄本明演じる原田平蔵が演説をしなくても、『ロンググットバイ』を最終回まで見るような人だったら言いたいことは伝わると思うんですよ。つまり、言ってしまえば、戦後社会批判でありテレビ社会批判ですよね。テレビ社会が象徴する戦後日本の虚偽、欺瞞を原田平蔵に象徴させていて、実現しなかった戦後日本のもう一つの可能性として、主人公の増沢磐二を描いているっていうのは誰の目にも明らかですよね。だからあんなしつこい描写はする必要はないんですよ。なんというか、ムックの解説記事みたいなことを本編に盛り込むのは、やめてくれないかなと。
    それよりも、言葉とか露骨な描写に頼らないで、もっとあの世界を成立させる努力をするべきだと思いますよ。特に、僕は個人的に好きな役者だからあえて言うけど、最後の綾野剛の演技ですよね。有名原作なんだから、第1回の時点で、最後にああなることはみんな分かるわけですよね。あの再会のシーンがどれだけ悲しいものになるかっていうことが分かっているからあらかじめ視聴者のハードルが上がっているのに、綾野剛の演技が演出をふくめて応えられていない、っていうのが僕の感想ですね。
    岡室 丁寧に作ってはいたし、言いたいこともわかるんですが、やっぱり『カーネーション』の制作チームでしたから、こちらの期待値が高すぎたのもありますね。
     
     
    ■企業もの、性の問題、疲弊した地方都市の話としても面白い『モザイクジャパン』
     
    宇野 では、成馬さんが挙げている『モザイクジャパン』いきましょうか。
    成馬 『モザイクジャパン』はWOWOWで、しかもR15指定だから見てない方が、多いと思うんですよ。これからDVDが出ると思うので、是非、そのタイミングで見てほしいです。個人的には上半期ベスト1の、すごく刺激を受けた作品です。
    ドラマの内容は、ある地方の田舎町が、巨大AVメーカーに乗っ取られて、企業城下町みたいになっているという話で、あらゆる場所でAVの撮影が行われているという凄い状況になっている。主人公は、瑛太の弟の永山絢斗ですが、彼が実家に帰ってきたら、昔の友達とか、学校の先生も全員AVの撮影をやっているわけですよ。それで、そんなのおかしいんじゃないか、って言うんですけど、「あんたなんかにイオンもない町で生きてる私たちの気持ちがわかってたまるか」みたいに言われちゃうわけです。
    AVをモチーフにしているため、男女の性意識の問題や、体を売ることの是非みたいなテーマもあるし、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』みたいな異法スレスレのベンチャー企業モノの要素もあって、物語は二転三転するんですけど、最終的には坂元裕二さんらしい男女の話になっていくんですよ。だから、企業ものとしても、性の問題としても、疲弊した地方都市の町おこしの話としても面白い。いろんな切り口があるので、これは皆さんに見てほしいと思って、ベスト3に入れました。
    岡室 私も『モザイクジャパン』をベスト3に入れようか迷ったんですよ。初回のつくりがすごく好きで、永山絢人が普通に会社で働いていたら、いきなりそこがエロい場所になっちゃって、実は撮影現場でしたっていう仕掛けがあって、そこからちょっと引き込まれた感じがありましたね。
    成馬 世界が全部テレビのセットになっちゃったみたいな感覚ですよね。
    岡室 そうそう。それで、永山絢人がどんどんその世界の中に取り込まれていく。台詞がいちいち坂本さんらしいんですよね。演出の水田さんからちょっとお話を伺ったんですけど、WOWOWから坂本さんにオファーがあったときに、「何やってもいいですよ」って言われたらしいんです。それで、坂本さんが「だったら一番冒険的なことは何か?」っていうことでこういうドラマになったらしくて、やっぱりすごいなと思いました。
     
     
    ■『花咲舞が黙っていない』と『ルーズヴェルト・ゲーム』井戸潤対決
     
    宇野 池井戸潤対決ということで、『花咲舞が黙っていない』と『ルーズヴェルト・ゲーム』はどうでしょうか。
    僕は、どっちもよくできていると思うんだけど、『花咲舞』は水戸黄門すぎた(笑)。見ていて気持ちもほっこりするし、B級グルメとかも食べたくなるんだけど、毎週見なくてもいいかなっていう感じがしちゃうんです。
    逆に『ルーズヴェルト・ゲーム』は物語の起伏が過剰で、しかしその過剰さのために何をやっても予定調和に見えていた。たとえば、見たらすぐに、江口洋介がいい人だってわかっちゃう。わかっちゃうのに、後半まで彼が善玉か悪玉かでじわじわ引っ張るでしょう?
    あの冒険しないために冒険している感じがちょっと辛かったですね。それこそ『ルーズヴェルト・ゲーム』というタイトル通りに、最終的に8対7で勝つことがあらかじめ分かっているんですよね。そこらへんが池井戸潤物の限界なんだと思います。
    池井戸潤さんの世界観は『半沢直樹』の頃からそうなんだけど、既存のシステムの中でいかにごまかしてやってくかっていう話でなんですよね。でも、たとえばITベンチャーの人間だったらあれを見て「その仕事辞めろよ」って、ひとこと言うんじゃないかなって思うんです。だから良くないっていう話ではなくて、『ルーズヴェルト・ゲーム』っていうタイトルが象徴するような緊張感を出したいんだったら、もう少し予定調和感を崩すような仕掛けが欲しかったですね。
    成馬 俺はあんまり真面目に見ていなかったんですよ。良くも悪くも時代劇というか、ディズニーランドに行くみたいな感じで、池井戸潤ワールドに遊びに行くかー、みたいな。やっぱベタな上司がいるんだな、ってゲラゲラ笑って終わりというか。逆に言うと『半沢直樹』って、作り手の意図を超えた気持ち悪さみたいなものがあってだからあんなにヒットしたんだと思うんですけど、そういうグロテスクな迫力が、今回の2作には足りなかったのかな。
    古崎 『ルーズヴェルト・ゲーム』は、ゴールデンタイムで多数のスターが出てきて、タイトルバックも顔写真が浮かんでは消えるような出し方だったし、まあ王道を行く伝統的なテレビドラマを出してきたのかなと。久々にそこをうまくバランスよく作ってまとめあげた作品だなと思って見ていました。『半沢直樹』よりそのへんは上をいっていたのではないかとすら思います。
    『花咲舞が黙ってない』も、同じ池井戸潤が原作とはいえ、これはまた違う。杏という役者は、そんなに複雑な芝居はできない人だと思うですが、それがかえって持ち味になっている。複雑な芝居をしないがゆえに分りやすく、単純明快なドラマになって楽しめる。どこか篠原涼子のような雰囲気が漂っていてた。『ハケンの品格』とか、あの頃の好調だった水曜22時の日テレドラマがちょっと戻ってきたような感じを受けましたね。ここからもう少し弾けて日テレドラマが再び浮揚していくきっかけとなってほしいという期待を寄せているというところです。
    宇野 工藤公康の息子が役者をやっていたということが、個人的には最大の驚きでした(笑)。
    岡室 私は『半沢直樹』ってスカッとするだけのドラマだと思っていて、あんまり好きじゃなかったんですよ。倍返しっていうのも品がないって思っていたし。
    成馬 たぶん、その不快感が面白かったんじゃないかな。
    岡室 そうですよね。だから『ルーズヴェルト・ゲーム』はもっと頑張って作っているぶん、何を見ていいのかわからなかったという感じはありましたね。そんなにスカッともしないし。
     
     
    ■ゾンビものの常識を覆した隠れた傑作『セーラーゾンビ』宇野 僕は『セーラーゾンビ』を挙げようかな、これは僕しか挙げない気がするので。あれは非常によくできていて、たぶんAKBが出てなくても僕はベストに挙げたんじゃないかな。ゾンビっていうモチーフは、分りやすく言えば現代人の比喩なんですよね。夢とか将来的な自己実現とかをガツガツ追いかけるんじゃなくて、なんとなく個人的な欲望に根差して、だらだら生きている人が大半で、世の中は大した問題もなく回っちゃっていると。
    その中で、アイドルになりたいとか、夢を見ている人たちがちょっと特別な視線で見られている。要するにアイドルというのは現代に生きていてもゾンビにならない稀有な存在なんだってことですよね。これは今の時代におけるアイドルブームの機能というか、位置づけを上手く取り込んでいると思った。
    成馬 最終話のひとつ前で、夢のなかで女の子たちがゾンビになっちゃう話がありましたよね。あれが面白いのは、あいつらから見たら私たちがゾンビで、私たちから見たらあいつらがゾンビに見えるっていう風に描かれていたところで。その反転を描いたのは、良心的だなあと思って見ていました。
    宇野 このドラマの中のゾンビって、あるリズムの歌がかかった時だけ体が勝手に踊っちゃって人を襲わなくなるんです。最終回で、主人公たちがゾンビたちに追い詰められるんですけど、主人公がアイドル志望だから開き直ってゾンビの前で歌を歌うんですね。歌っている間はゾンビに襲われないで生きていける。歌い疲れて体力が切れた瞬間に、たぶん襲われて死んじゃうんですよ。でも主人公は、「私は、いつまでたっても歌っていられるから大丈夫」って笑って終わる。
    成馬 AKBのドラマって、『マジすか学園』のころから、基本的にAKBのことを描いてる寓話だったと思うんですよ。そう考えると、最初、ゾンビってファンの比喩なのかなと思ったんですよね。すごくえぐいことやっているなと思って見ていたんだけど、だんだんそれが社会とかそういうとこまで拡大していた。
    宇野 僕も最初、ゾンビはファンのことかと思って見ていたんだけど、この作品ではもうゾンビって現代人全員のことなんですよね。AKBの自己批評っていう意味では『マジすか学園』には絶対に勝てないところを、今のアイドルブームが象徴する現代社会全般にうまく拡大することができていたと思うんです。演技も主役の大和田南那以外は良かったですよね。とくに、高橋朱里と川栄李奈はすごく良かった。
     
     
    ■どうしてこうなった? 『弱くても勝てます』
     
    宇野 『弱くても勝てます』問題についてもちょっと触れておきましょうか。どうですか、岡室さん。
    岡室 前回、期待のドラマとして挙げました。1話目見てちょっとヤバいなって思いつつ、それでもやっぱり応援したいという気持ちで挙げたんですけども、なかなか……。
    宇野 思い入れが空回りしている感じがありますよね。
    岡室 そうですね。それと、脚本家がちょっとまだ慣れてないのかなと。だから、ドラマの中盤からどんどん慣れてくるといいなって思ったんですけど、慣れないまま終わっちゃったという感じもありましたね。
    宇野 この作品については、ドラマ界の宝であるプロデューサーの河野英裕さんのためにも、愛のあるツッコミをしなければいけないと思うのですが、